フランス語の勉強?

août 2015

サドドクが???/仮想化ソフト/東京の部落

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150808_定禅寺_夏の思い出

Le Japon s’indigne de la présence de Ban Ki-moon à un défilé militaire chinois
Le gouvernement japonais s’est ému, lundi 31 août, de la présence annoncée du secrétaire général des Nations unies, Ban Ki-moon, à la parade militaire organisée jeudi par la Chine pour célébrer le 70e anniversaire de la capitulation du Japon lors de la seconde guerre mondiale.
L’important défilé, le premier depuis 2009, va permettre à Pékin d’afficher au grand jour sa puissance militaire. Au total, environ 12 000 soldats défileront sur la place Tiananmen, qui sera survolée par près de 200 avions.
En réaction, le porte-parole du gouvernement japonais a appelé l’ONU à faire preuve de ≪ neutralité ≫.
≪ Nous voulons encourager les Etats membres à regarder vers l’avenir et à ne pas se focaliser inutilement sur des événements particuliers du passé. ≫
Outre Ban Ki-moon, une vingtaine de chefs d’Etat et de gouvernement sont attendus, parmi lesquels le président russe, Vladimir Poutine, la présidente sud-coréenne, Park Geun-hye, ou encore le président sud-africain, Jacob Zuma. De nombreux dirigeants étrangers ont cependant décliné l’invitation.
La France, de son coté, a décidé d’envoyer son ministre des affaires étrangères, Laurent Fabius, tout comme l’Italie. Mais les Etats-Unis, l’Allemagne et le Canada ne seront représentés que par leurs ambassadeurs.
≪ Etroitesse d’esprit ≫
Le premier ministre japonais, Shinzo Abe, a pour sa part reporté une visite envisagée cette semaine en Chine. M. Abe serait, selon les médias, préoccupé par le caractère antijaponais de la parade. Dans un éditorial publié lundi, le China Daily a fustigé ≪ l’étroitesse d’esprit ≫ du gouvernement japonais, en fustigeant des préoccupations ≪ aussi infondées qu’excessives ≫.
≪ Les inquiétudes du gouvernement japonais concernant la visite du secrétaire général de l’ONU à Pékin témoignent de l’étroitesse d’esprit de l’administration de Shinzo Abe et de son obstination à s’arc-bouter sur des perceptions erronées de l’histoire. (…) Faire preuve aussi ouvertement de son mécontentement est contraire à la bienséance diplomatique. ≫
Le Japon a occupé une partie de la Chine des années 1930 à la fin de la seconde guerre mondiale. Pékin reproche toujours à Tokyo de ne pas reconnaître suffisamment l’ampleur des crimes de guerre commis durant l’occupation, et associe volontiers ce contentieux historique aux différends territoriaux qui opposent les deux pays.
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マンガでヴィシソワーズVichyssoiseが出てきました.
朝メールを見るとサドドクの依頼があって面倒だなぁ・・・と思っていました.土曜日のメールだったようですが,その日は仕事のメールは見ていませんでした.よく見ると日曜日に別のメールがあって丁寧な感じで「やっぱりいいです」.うーん.メールは毎日チェックしないといけないね.
セムムをした後仮想化ソフトのインストールと登録を行いました.
夜に東京の被差別部落に関して調べていました.ある有名人が部落出身者だと書いてありました.たぶん本人はカミングアウトしていないと思うので,なんか嫌な感じです.

<これから>父を思い曳家を決断
◎第24部・意志を継ぐ(2)宮城県亘理町 宍戸一男さん
 宮城県亘理町荒浜の雑貨店宍栄商店は、東日本大震災の被災を乗り越え、3月に再スタートを切った。
 現地再建だが、震災前とは違い、店の入り口は通りから20メートルも離れている。県道復旧の拡幅工事に伴い、修繕した自宅兼店舗を以前あった場所から後方に曳家(ひきや)したためだ。
 荒浜に店を残すため、4代目店主の宍戸一男さん(50)が曳家による再建を決断した。「地元の顧客の皆さんが喜んでくれた。ここに戻って良かった」と柔和な笑顔で振り返る。
 津波の犠牲になった先代の父啓二さん=当時(76)=に思いをはせた。「父だったら、どんな選択をしただろうか」。
 創業は1946年。店を構える阿武隈川河口近くの堤防沿いの通りには多くの商店が軒を連ね、買い物をする住民らでにぎわった。
 啓二さんは「顧客第一」をモットーに、約60年にわたって店を切り盛りした。プロパンガスの配送やサッシの納入などに走り回り、月2回の定休日でも客の求めに応じて店を開けた。
 一男さんは跡継ぎとして24歳から一緒に働いた。「父は『お客さまの要望にはすぐ応えろ』といつも言っていた。何でもこなす頼もしい大黒柱だった」
 父が自ら建材を探し96年に建てた店は、津波に耐えた。しかし堤防と通りの拡幅のため立ち退きの対象となった。震災後、一男さんは内陸の仮設商店街に店を構え、仮設住宅住民からの引き合いも多く、経営は順調だった。
 「内陸での再建も考えた」が、荒浜に戻った被災者からの地元での再開を求める声に応えた。父が残した「顧客第一」の教えを忠実に守った。母とし子さん(76)の「主人の思いがこもった店を壊したくない」との願いもかなえたかった。
 大工が店を油圧ジャッキで引き上げ、ローラーで後方に移動した。曳家には1年かかった。
 震災前に通り沿いにあった他の約20店は全て荒浜を離れた。母は「息子は真面目に再建に取り組んでくれた。私一人では何もできなかった」と感謝する。
 荒浜に再建した後の経営は厳しい。震災前に約4500人いた荒浜の人口は半減。以前の3分の1の広さになった店を訪れる客は「1日1人いるかいないか」(一男さん)というような状況が続く。プロパンガスの配送先も約100軒と半分に減った。
 それでも決断に悔いはない。店先にはいずれ、新たな通りが開通する。「人通りが戻り、以前のようににぎわってくれるといい」と一男さん。亡き父に代わり、復興が進む川沿いの通りに残した店を守り続ける。(原口靖志)


<原発再稼動>核のごみ抑制策なく無責任
◎日本学術会議が異議
 原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分のめどが立たない中、九州電力川内原発(鹿児島県)が再稼働したことに、科学者団体の日本学術会議が異議を唱えている。学術会議は最終処分への国民理解を得るため、核のごみの暫定保管計画の策定などを再稼働の条件とするよう提言したが、国や電力会社は応じていない。学術会議は10月に東京で公開フォーラムを実施し、提言に耳を傾けるよう訴えかける方針だ。(東京支社・小沢邦嘉)
 再稼働に反発するのは、学術会議の「高レベル放射性廃棄物の処分に関するフォローアップ検討委員会」のメンバー。委員長の今田高俊東工大名誉教授(社会システム論)は「再稼働は核のごみの増大につながる。この先、どれだけ発生するのか不確定なままでは国民は納得せず、将来世代にも無責任だ」と指摘する。
 4月に公表した提言は、核のごみを原則50年暫定保管する間、国民の合意形成を図りながら最終処分地を選び、処分場を建設する内容。国民の原発不信を背景に処分地選定に30年、処分場建設に20年を要すると見込んだ。電力会社には再稼働の前に、暫定保管計画作りと、核のごみ発生を抑制する総量管理を求めた。
 国は5月、最終処分地について、自治体の応募を待つ手法を改め、国が前面に立って選定する方式に切り替えた。ただ、「暫定保管は、現世代で解決すべき問題の先送りになる」(資源エネルギー庁)として提言を採用していない。
 国の姿勢に対し、今田氏は「『再稼働とごみ処理の話は別』と逃げている。国民の信頼が回復しなければ処分地は選べないはずで、暫定保管計画を作り、時間をかけて問題解決を図るべきだ」と訴える。同じく検討委メンバーで東北大大学院の長谷川公一教授(環境社会学)も、国が2030年時点の原発比率を全発電量の20〜22%と決めた経緯に触れ「核のごみを無制限に増やさぬよう歯止めをかけるべきなのに、総量管理の考えを採用していない」と批判する。
 学術会議は10月10日、提言の実現に向けたフォーラムを東京都内で開く。策定に携わった科学者らによるパネル討論などを予定しており、今田氏は「多くの市民に関心を持ってもらい、政府や電力会社との不協和音を徐々に解消していきたい」と話している。


<安保法案>震災救援の隊員を戦場に送るな
 安全保障関連法案に反対する市民らが国会前を埋め尽くした30日、東日本大震災の被災地など東北各地でも法案に反対する集会やデモ行進があった。「震災で助けてくれた自衛隊員を戦場に送るな」。街頭では悲痛な声がこだました。
 「平和な日本守れ」「強行採決するな」。震災で壊滅的被害を受け、復興半ばの宮城県気仙沼市で市民50人が市中心部を1.2キロにわたってデモ行進した。参加した会社役員小野寺晶さん(69)は「法案は憲法違反なのに安倍政権は黒を白と言いくるめている。国民をばかにしている」と語った。
 仙台市青葉区のアーケード街では午前11時〜午後7時、約10団体がリレーでマイクを取り街頭演説した。塩釜市の医療事務今野拓自さん(35)は「東日本大震災の時、自衛隊員は津波でずぶぬれになりながら、被災者を病院に送り届けてくれた。人を殺し、殺される戦場に彼らを行かせたくない」と声を張り上げた。
 友人と市内に遊びに来ていた宮城県南三陸町の会社員女性(24)は「普段は政治に興味がないけど、戦争に巻き込まれるかもしれない法案には反対」と語り、廃案を求める署名簿に名前を書いた。
 宮城県内では29、30の両日、津波で被災した石巻、名取、岩沼の各市など県内10カ所で反対集会が開かれた。
 宮城県大河原町のJR大河原駅前ビルであった仙南地区の集会には、前白石市長で「憲法9条を守る首長の会」の川井貞一会長(82)が登壇。「現行憲法の本質は不戦の誓いにある。草の根運動を広げて憲法を守ろう」と呼び掛けた。
 秋田、山形の両県でも反対の声が挙がった。山形県弁護士会は山形市で緊急市民集会を開き、弁護士や市民ら約1000人が市中心部をデモ行進した。


安保関連法案、慎重に審議を
 超党派の大崎市議でつくる「国民合意なしの安保関連法案をストップさせる大崎市議会議員の会」(佐藤仁一代表)は30日、自民党の小野寺五典衆院議員に対し、法案の慎重審議を求める要請書を手渡した。
 佐藤代表ら「市議の会」メンバーと賛同する栗原、登米両市、涌谷町の各議員の計12人が、大崎市古川駅前大通にある小野寺氏の大崎事務所を訪れて本人と面会。「強行採決などせずに、誠実な審議が参議院で行われるよう力を尽くしてほしい」と要請した。
 小野寺氏は「皆さんの声を重く受け止め、谷垣禎一幹事長にも伝えたい」と述べる一方、「法案は国を守るために必要であり、自衛隊を無関係な戦場に送ろうとするものではない」と語った。
 大崎市議会は6月定例会で「安全保障関連法案の十分な審議を求める意見書」を可決した。有志が7月末に市議の会を結成。意見書可決で終わりにせず市民の声を国会に届けようと、県北部をはじめとする県選出の与党国会議員6人に面会を申し入れていた。


南三陸・阪神「震災遺構未来志向で」
 1995年の阪神大震災を引き起こした活断層を展示する「野島断層保存館」(兵庫県淡路市)の関係者が27日、南三陸町を訪れ、地元の語り部との意見交換会に臨んだ。命を守るための教訓を伝える手段として、遺構の必要性を強調した。
 保存館は98年に開館した。阪神大震災で約10キロにわたってずれ、国の天然記念物に指定された断層の一部をそのまま屋内に残す。南三陸ホテル観洋で開かれた意見交換会には、語り部ら約15人が参加した。
 保存館の総支配人、宮本肇さん(60)は、断層の保存を震災直後に決めた経緯を説明。「『震災を見せ物にするな』という批判もあったが、命の大切さを伝えるためには不可欠だった」と話した。
 前館長の中谷欽輔さん(78)は「遺構展示で、いかに被害が大きかったかを伝えられる。二度と同じ被害を出さないという未来志向の考え方が保存の前提になる」と振り返った。
 南三陸町の語り部からは「被災した建物が次々に解体され、かさ上げが進む。以前より来訪者の反応が悪くなった」といった悩みが挙がった。
 副支配人の米山正幸さん(49)は阪神大震災の体験談を話した。「災害を防ぐことはできないが、住宅の耐震化や家具の転倒防止といった努力で減災は可能だ」と訴えた。


大仏グラブの縫製終わる 奈良・東大寺奉納へ、東北支援の一環
 東日本大震災の復興支援として、奈良県大和郡山市の野球用グラブ製造販売会社「BBAアカデミー」の代表梅原伸宏さん(50)が全国の子どもたちと製作していた奈良・東大寺の大仏の手にはめられるサイズの巨大なグラブが縫い終わり、31日に同寺で披露された。
 グラブの大きさは約3・6メートル。製作には東北を中心に延べ約2200人の子どもたちが参加した。この日は筒井寛昭別当や地元の野球少年ら約70人が梅原さんの手ほどきを受け、縫い合わせるためのグラブの穴に革ひもを通していた。
 「東北に協力するきっかけになればうれしい」と筒井別当。グラブは形崩れを防ぐため、中に詰め物をして12月下旬に東大寺に奉納される。
 グラブは世界最大の革製グラブとしてギネス世界記録に申請する。震災発生から5年の来年3月11日に福島県いわき市で披露し、その後は仙台市のプロ野球楽天の本拠地「コボスタ宮城」にも期間限定で展示される。


<最終処分場>住民猛抗議 再び調査中断
 東京電力福島第1原発事故で発生した放射性物質を含む指定廃棄物の最終処分場建設をめぐり、宮城県内の3候補地で昨年秋から現地調査を中断している環境省は31日午前、28日に引き続き現地を訪れた。しかし加美町で住民らの猛抗議に遭い、作業着手をいったん見合わせた。環境省は同日午後にも着手を試みた。
 3候補地のうち、加美町田代岳には住民ら約350人の住民が集まった。環境省職員と作業員12人が午前10時に現地入りしようとすると、町道をふさいだ住民らが「処分場建設反対」などと書かれたのぼりを掲げ激しく抗議した。
 環境省東北地方環境事務所の東利博保全統括官が28日と同様に「道を開けてほしい」と協力を求めたが、住民は拒否。10分ほどで環境省側は引き返した。
 栗原市深山嶽には住民ら約30人、大和町下原にも約60人が集まった。加美町での調査見合わせの知らせを受け、両地区を担当する環境省職員もいったん撤収した。
 環境省は昨年10月に3候補地の現地調査を開始。候補地を1カ所に絞り込むためボーリング調査の準備作業を始めたところ、加美町で住民の抗議を受け3カ所とも中断した。ことし初めて28日午前、午後に1回ずつ現地を訪れたが、いずれも作業着手を見合わせた。


安保抗議行動  民主主義の「質」を問う
 参院特別委員会で審議中の安全保障関連法案に異を唱える抗議行動がきのう、京都、滋賀など全国200カ所以上で一斉に展開された。国会周辺では、主催者発表で約12万人が参加したという。
 与党は衆院の「60日ルール」が適用可能となる9月14日よりも前の採決時期を探っている。だが、共同通信が衆院通過直後に行った世論調査では、法案に反対が6割を超え、3割弱にとどまる賛成を大きく上回ったほか、戦後70年の安倍談話発表後の世論調査でも、6割以上が今国会での成立に反対している。
 憲法が禁じる集団的自衛権の行使容認に踏み込み、多くの憲法学者が「違憲」と指摘する法案である。抗議行動の高まりは、世論を無視し、数の力で押し切ろうとする強引な政治への危機感の表れでもあろう。政府・与党には、民意を重く受け止め、廃案にして出直すようあらためて求めたい。
 安倍晋三首相は、今回の法案が成立すれば抑止力が高まり、日本の安全保障がより強化されると説明する。だが自衛隊と米軍との一体化が進み、活動範囲が地球規模に広がることで米国の戦争に巻き込まれ、テロを誘発する危険も高まるのではないかという国民の懸念は何ら解消されていない。
 集団的自衛権を使う際の前提条件「存立危機事態」の判断についても、首相は「総合的に」と繰り返し、時の政権によって恣意的(しいてき)に解釈できる危うさが浮き彫りになった。政府の説明は曖昧な点があまりにも多く、誰が見ても明らかな自衛隊のリスク増大さえ認めようとしない。これでは国民は納得できない。
 国民に広がっているのは、憲法9条が政府の解釈変更で骨抜きにされ、悲惨な戦争への反省から出発した戦後日本の平和主義が変質していくことへの不安である。
 自民党の高村正彦副総裁は、衆院通過後にNHKの番組で、1960年の日米安保条約改定などについて触れ、反対する「刹那的な世論」に頼っていたらできなかったと強調した。だが、米軍の日本防衛義務を明記した60年の改定と、海外での武力行使に道を開く今回の法案とでは次元が違う。平和国家の基軸を変えかねない内容だ。
 政府・与党は学生を中心に始まった自由なデモを「刹那的な世論」と軽く見てはならない。世代を超えて広がりをみせる抗議行動は、この国の民主主義の質そのものを問いかけている。


新国立競技場:都営霞ケ丘アパート住民ら存続求める要望書
 2020年東京五輪・パラリンピックのメインスタジアムとなる新国立競技場(東京都新宿区)の建設で、立ち退きを求められている都営霞ケ丘(かすみがおか)アパートの住民らが31日、国にアパート存続を求める要望書を提出した。
 遠藤利明五輪担当相や下村博文文部科学相らに宛てたもので「競技場建設計画の見直しを決めた以上、アパートもゼロベースで見直しを求める。アパートは都の所有でも、廃止決定には国も大きく関わっている」とした。
 住民らによると、アパートには早期移転に応じた人もおり、現在は約130世帯が居住。高齢者が多く、環境を変えることは精神的、肉体的負担があると訴えている。
 提出後、住民の女性(88)は「半世紀以上住んで、ついのすみかと思っていた。この年で引っ越しはできない」と語った。
 住民らは同日付で、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長にも、国や都に働き掛けるよう求める書簡を送った。

戦争法案を廃案に!!扇町に2万5千人

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150830戦争法案反対扇町

Manifestation pacifiste contre la réforme de la Défense au Japon
OKYO (Reuters) - Des dizaines de milliers de manifestants se sont réunis dimanche près du Parlement japonais pour protester contre un projet de loi visant à permettre à l'armée japonaise d'intervenir à l'étranger et de ne plus se cantonner à un simple rôle défensif.
Selon les organisateurs, 120.000 personnes de tous les âges on bravé la pluie, scandant des slogans contre le projet de Shinzo Abe et brandissant des pancartes hostiles à la guerre et réclamant la démission du Premier ministre.
Ce rassemblement est l'un des 300 prévus aujourd'hui dans l'archipel pour contester la doctrine promue par le gouvernement qui veut renoncer à la constitution pacifiste japonaise.
"Rester assis devant la télévision et se plaindre ne sert à rien", a déclaré Naoko Hiramatsu, une enseignante de 44 ans qui participait à la manifestation.
"Si je ne fais rien et que je ne tente pas d'empêcher cela, je ne sais pas comment je serai en mesure de l'expliquer à mon enfant", a-t-elle dit, tenant son fils de quatre ans dans ses bras.
Shinzo Abe a présenté à la chambre basse son projet de loi autorisant l'armée japonaise à intervenir à l'étranger pour défendre un allié attaqué, un revirement complet de la politique de défense japonaise d'après-guerre.
Le projet doit encore être débattu à la chambre haute, contrôlée elle aussi par le bloc politique de Shinzo Abe et il devrait être adopté avant la fin de la session parlementaire, prévue le 27 septembre.
Selon des sondages, une majorité de japonais sont opposés au projet de réforme de la Défense.
(Kiyoshi Takenaka,; Nicolas Delame pour le service français)
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明日へ−支えあおう− 証言記録 東日本大震災 第44回「宮城県石巻市」
今回の震災で、石巻市では6万人もの人々が自宅の二階に避難、在宅避難者となった。ところが市の防災計画では、在宅避難は想定されておらず、支援のあり方も決まっていなかった。震災から数日後、避難所への物的支援が始まると、在宅避難者への分配が大きな問題になる。同じ被災者として支援を望む在宅避難者と、家を失い避難所にいるものが優先と考える人。支援をめぐる葛藤を湊小学校避難所避難者と在宅避難者の証言でつづる。
畠山智之

広瀬アリス×広瀬すず エシカルの贈りもの 〜ハピネスをつくるデザイン〜
フィリピンを訪れた広瀬アリス。妹すずへの世界に一つの誕生日プレゼントを探す旅。初めて見る途上国の現場。フェアトレードとは何か?彼女はひとつの答えを手にする…
ガリレオX「和食を育てた“Umami" 第5の味の存在を信じた日本人研究者」
味覚は、5つの基本味から構成されている。「甘味」、「酸味」、「塩味」、「苦味」、そして「うま味」である。5番目の「うま味」は、私たちになじみの深い食材から1908年に日本人によって発見され命名されたものだ。しかし、それが基本味として世界的に認識されるまでには長い年月が必要であった。今では、"Umami"として認知されるまでになったこの味は、そもそもいかにして発見されたのか?そして現在では、この「うま味」に端を発した様々な味覚研究も活発に進められている。「うま味」が"Umami"へと跳躍していくまでの歴史と、現在行われている味覚研究の最前線に迫る。
栗原堅三 三坂巧 大越慎一 川岸郁朗

終わらざる戦後 日の丸・君が代のいま
戦後70年を迎えた今年、私たちのなかで処理できていない狎鏝絖瓩ある。
それは日の丸・君が代――ニッポンの誇りという人もいれば、軍国主義の象徴という人も。
何故ここまで意見が分かれるのか? 相反する思想の根源にあるものは?
曖昧なイメージの国旗・国歌、その謎を探る。

BS日本のうた セレクション - 茨城県龍ヶ崎市 -
名曲の数々をお聴きいただく「BS日本のうた」。今回は、茨城県龍ヶ崎市から。名曲イレブンでは、「愛しき日々」「夜霧よ今夜も有難う」、「イミテーション・ゴールド」「シクラメンのかほり」「時代おくれ」「狙いうち」「恋の季節」を紹介。スペシャルステージは、錦野旦とジェロ。そのほかの出演は、石原詢子、岡ゆう子、音羽しのぶ、門倉有希、今陽子、堀内孝雄、松原健之、水田竜子、山本譲二、山本リンダ。
錦野旦,ジェロ,石原詢子,岡ゆう子,音羽しのぶ,門倉有希,今陽子,堀内孝雄,松原健之,水田竜子,山本譲二,山本リンダ,茨城県立竜ヶ崎第一高等学校応援団チアガール,吹奏楽部
青井実

NHKスペシャル 老人漂流社会「親子共倒れを防げ」
今、中高年の子どもがリストラや親の介護をきっかけに、高齢の親を頼って同居するケースが急増している。こうした親子は、子の失業や親の病気などをきっかけに「親子共倒れ」に追いつめられていくケースが少なくない。密着取材とアンケート調査によって「親子共倒れ」が広がっている実態を明らかにし、どうすれば未然に防ぐことができるのか、専門家を交えて考えていく。
柴田祐規子


雨が降るというので出かけるのをためらっていたのですが,やはり行かねばなりません.アベの好き勝手にさせてはいけません.戦争法案を通してしまったら,本当に戦争への道だと感じています.そう感じる人が多いから各地で多くのデモや集会が開催されていると思います.昨日は神戸東遊園地での集会でしたが,今日は扇町公園に出かけることにしました.会場近くになるとものすごいひとがみな同じ方向に向かっています.肩を叩かれました.誰かな?と思ってよく見るとIwさんでした.他にもNaさんとか知り合いが来ているはずですが,これだけ多いと探すことができません.集会はまず民主党の辻元清美のあいさつ.アベの天敵と名乗っていたのがおかしかったです.次は共産党のたつみコータロー.最後は社民党の又市征治.その後で創価学会有志の米本さん.色々な団体の旗があります.大阪府内だけでなく兵庫や滋賀そして奈良などありました.部落解放同盟兵庫県連と大阪府連の荊冠旗が見えました.荒本支部と野崎支部のゼッケンもありました.洛南労組連の旗を見て懐かしいなぁ・・・.参加者は2万5千人♪東京の国会前では12万人の参加だったそうです.こういう人々の意思表示を無視しないで国会での論戦をすすめてほしいと思います.というか,憲法違反はいくら議論しても憲法違反なので廃案しかないのですが,それをより明らかにして反対の意思表示を大きくなってほしいものです.私もおともだちにできることから行動しようとメールしました.

東日本大震災:気仙沼FM局に支援のCD寄贈 日本レコード協会 /宮城
 日本レコード協会(東京都港区)は、東日本大震災直後から放送を続ける「けせんぬまさいがいエフエム」(気仙沼市松崎萱)にCD200枚を寄贈した。同協会は、音楽を通じた復興支援の一環として、被災地の臨時災害放送局や図書館などに計2万1000枚以上を贈ってきた。
 市役所を訪れた協会の高杉健二常務理事は「このCDが被災地の人の安らぎになれば」とあいさつ。地元出身の歌手、熊谷育美さんが「さいがいエフエムは、被災者への情報提供とともにリスナーの心に寄り添う音楽を発信してくれた」と述べ、歌謡曲やクラシックなどさまざまなジャンルを含むCD目録を贈った。【井田純】


<準備宿泊>津波被災地、遠い帰還 住民に焦り
 東京電力福島第1原発事故からの復興に向け、南相馬市小高区などで31日、避難住民の準備宿泊が始まる。失った日常生活を取り戻す動きが加速する一方、津波被災地は一時帰還さえままならないのが実情だ。先行きの不透明感に、沿岸住民は焦りを募らせている。
 「こんな文書、意味がないよ」。小高区村上地区の佐藤信之さん(67)が、準備宿泊の案内文書を前にぶぜんとした表情を見せる。今は相馬市内の仮設住宅で暮らしている。
 約70戸あった村上地区は津波で壊滅的な被害を受けた。濁流を免れたのはわずかに3戸。うち1戸は既に撤去され、もう1戸も解体予定という。事実上、佐藤さんの自宅が地区内唯一の民家となっている。
 家屋のダメージは比較的軽微だったが、津波の影響で水道が使えなくなった。施設復旧を求めているが、市から色よい返事は返ってこない。「帰還を促すなら、最低限のインフラは整えてほしい」と語気を強める。
 週に1度は庭の手入れなどで自宅を訪れる。トイレが使えないため、滞在は1時間程度。その間、ラジオを大音量で流し続ける。「何となく気味が悪くてね」。地区内では60人以上が亡くなった。周囲の静けさに今も慣れない。
 地区の大半は災害危険区域に指定された。家屋の新築は許されず、避難先に住居を構えた地区民も少なくない。地域コミュニティーの再生は困難だ。
 佐藤さんは8月、地区民の葬儀を手伝う機会があった。弔問に訪れたのは、もともと住んでいた全住民の3分の1程度。「以前は義理を欠く人はいなかったのにな」。長い避難生活の中で、人々の結びつきが弱まりつつあるのを実感する。
 将来的に自宅に戻ったにせよ、頼れる近隣住民はいない。「たった1軒で暮らしていけるのだろうか」。生まれ育った土地への愛着は強い。が、災害など非常時への不安は尽きない。
 南相馬市は来春の避難指示解除を目標に据える。移るか、戻るか。望郷の思いと厳しい現実のはざまで、佐藤さんの迷いが深まる。


デスク日誌 「たかが」「されど」
 今月の全国高校野球選手権大会決勝。敗れた仙台育英の主戦・佐藤世那投手は試合後、「東北の皆さんに申し訳ない」とコメントした。それまで抱えていたものの重さを感じさせるその言葉に、複雑な気持ちにもなった。
 夏春合わせて今回で11回目となった甲子園制覇への挑戦は、今回もわずかな差ではね返されてしまった。100年かかっても果たせていない悲願。だからこそ、毎回、東北の高校への期待は大きい。
 東日本大震災の後、東北楽天の嶋基宏捕手は「誰かのために戦う人間は強い」と力強く話した。高校球児にとっても、多くの人の期待を受け、「東北のため」という思いが戦う支えとなり、一層力を発揮できるのだろうと思う。
 ただ逆に、それが見えない呪縛になっているから、あと一歩の壁を越えられないのかもしれない、とも感じる。果たして、どちらの要素が大きいのだろう。
 「たかが野球、されど野球」
 強打の「山びこ打線」を鍛え上げ、高校野球に一時代を築いた池田(徳島)の故蔦文也監督の言葉が、ふと頭に浮かんだ。(整理部副部長 高橋俊也)


<準備宿泊>あす開始 避難解除時期探る
 東京電力福島第1原発事故に伴い福島県で避難区域に指定されている南相馬市、川俣町、葛尾村で31日、長期滞在が可能となる準備宿泊が始まる。期間は11月末までの3カ月間。政府は今後、地元側と避難指示の解除時期、宿泊期間の延長などを検討する。
 日中立ち入りが可能な「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」の住民が対象。3市町村合わせて4647世帯1万4255人のうち、28日現在で457世帯1245人が宿泊を登録した。家屋が荒廃するなど生活環境が整っていないこともあり、大部分は登録を見送るとみられる。
 各市町村の帰還目標時期は南相馬市(小高区など)が2016年4月、葛尾村が16年春。川俣町(山木屋地区)は16年3月までに時期を提示するとしている。3市町村はそれぞれ医療機関や福祉施設の再開準備を進めている。
 準備宿泊は、家屋修繕などを進めてもらうのが目的。避難指示が昨年解除された田村市都路地区東部や川内村東部などで実施されており、今回で計6例目となる。


<準備宿泊>医療・商業の早期復旧が鍵
 東京電力福島第1原発事故に伴う住民避難が続く福島県の南相馬市、川俣町、葛尾村で31日に始まる準備宿泊。地域再生の一歩とはいえ、自宅に戻る人は全体の1割に満たない。医療や買い物といった生活基盤の早期整備が、今後の住民の動向を左右しそうだ。
<入院はできず>
 「いずれ車の運転も難しくなる。何より地元に病院がほしい」。南相馬市小高区で準備宿泊に臨む都谷啓さん(79)が訴える。
 区内に七つあった医療機関のうち、再開しているのは市立小高病院だけ。それも週4日の外来診療に限られ、入院はできない。帰還住民は高齢者が中心になるとみられ、医療体制の行方に関心が高い。
 川俣町で準備宿泊が行われる山木屋地区内には町立の診療所がある。町は来年4月の再開を目指しているが、肝心の医師は確保できていない。町の担当者は「県と連携して探しているが、なかなか見つからない」と焦りの色を見せる。
 葛尾村も村の診療所を来春復旧させるが、生活圏となっていた浪江町などの復興が遅れているのが気掛かりだ。三春町に避難する女性(68)は「浜通りの医療機関に頼れないのは不便」と漏らす。
 住民定着には、日用品をそろえられる商業施設の存在も欠かせない。多くの経営者は仮設での営業、休業を強いられており、帰還状況によっては廃業が相次ぐ可能性がある。
 南相馬市小高区では、再開にこぎつけた商工会加盟事業者は30程度。全体の1割ほどにとどまる上、小売業界の動きは鈍い。川俣町山木屋地区中心部の3商店のうち、営業を予定するのは1店しかない。
<拠点整備計画>
 福島市に近い川俣町を除き、南相馬市、葛尾村は一体的な商圏を構成していた。小高区から南相馬市原町区に避難している女性(66)は「自治体や地域単位ではなく、圏域全体が再生しなければ元の暮らしには戻れない」と指摘する。
 帰還住民の暮らしを支えようと、各自治体は知恵を絞る。南相馬市は現在、小高区中心部に仮設店舗をオープンさせる準備を進める。川俣町は山木屋地区に商業、福祉などの機能を集約した復興拠点の整備を計画中。避難指示解除から1年後の開業を目指す。
 地域経済の再生は、定住人口に直結する重要テーマになる。川俣町企画財政課は「今後、復興拠点での再開を呼び掛けていきたい」と話した。


高田松原 生き残った松発見
陸前高田市の高田松原で震災の津波から免れた2本の松が生き残っていたことがわかり、30日復興への新たな希望になると市民グループが畑に植えました。
震災前から生きていた松が見つかるのは、「奇跡の一本松」以外、初めてだということです。
この2本の松は、震災の前の年、高田松原を旅行で訪れた栃木県の68歳の男性が、根っこが浮き上がって落ちていた小さな松の苗を見つけて育てていたもので、8月18日、松原の再生に取り組む市民グループに手渡されました。
30日は市民グループとボランティアおよそ50人が畑に集まり、丈夫に育てるための植え替えが行われました。
2本の松はおよそ30センチまで成長し、市民グループの人たちはシャベルなどを使って丁寧に植え付けていました。
市民グループによりますと、震災前から生きていた松が見つかるのは、「奇跡の一本松」以外、初めてだということです。
高田松原の跡地では、再来年から松原の再生が始まる予定で、市民グループは今回、里帰りした2本の松が復興への新たな希望になると、特別な松として植えることにしています。
市民グループの小山芳弘副理事長は、「貴重なもので非常にうれしい。この松の遺伝子が後生までつながるように大切に育てていきたい」と話していました。


揺れる創価学会員 安保法案で自民と協調「おかしい」
 公明党の支持母体・創価学会の会員が安全保障関連法案をめぐり揺れている。自民党と共に法案を推し進める姿勢に疑問を抱き、学会の旗を持ってデモに参加したり、法案の撤回を求めて署名を集めたりする会員も。学会に詳しい専門家は「学会が求めてきた庶民感覚に基づく平和主義と、右傾化する自公連立政権の政策が離れてきたため」とみる。 (安藤恭子)
 今月二十三日、東京・表参道であった安保法案反対のデモに、青、黄、赤の三色の学会旗がはためいた。入信三十年という埼玉県の介護職員の男性(49)は「公明は平和の党と思っていたが、変わってきた。解釈改憲を認めるなんておかしい」と小旗を振った。
 大阪市ではその前日、憲法学者の木村草太・首都大学東京准教授を講師に、会員有志が「法案への賛成・反対にかかわらず、会員で迷いを共有する場に」と「日本国憲法を勉強する創価学会員の集い」を開催。子供二人を連れた主婦(35)は「公明が法案に歯止めをかけたと信じているが、不安も出てきた。もっと自民に物を言って」と求めた。
 父母の代から会員の農業天野達志さん(51)=愛知県安城市=は七月末、ツイッターで「ひとりの学会員」と名乗り、公明に法案撤回を求める署名集めを始めた。「武力で抑止力を高める発想は学会の平和哲学に反する」と訴える。創価大と創価女子短大の教員ら有志の会も法案に反対する声明を発表、千六百人超が賛同の署名をした。
 法案への不安が広がる一方、「学会では声を上げづらい」と明かす人たちも。関西地方の七十代女性は「法案に反対したら、他の会員に『反逆者』と言われた。対話も拒まれ、孤独で悔しい」と嘆く。
 近代日本宗教史が専門の島薗(しまぞの)進・上智大教授は「九条の平和主義を重んじる学会の教えを考えれば、法案に対して多様な意見が出て当然」と理解を示す。「自民との協調で従来の学会の教えと党の政策との距離は広がるとしても、個々の会員の思いは抑圧されることなく、尊重されるべきだ」と語る。
◆政治的な利用遺憾
 創価学会広報室の話 九条の平和主義と専守防衛を踏まえ、それに基づく法案の審議が国会で進められていると認識しています。法案をめぐる会員の集会や動きは関知せず、公認したものでもありません。当会の名前と三色旗が政治的に利用されることは大変遺憾です。
 <創価学会> 日蓮の仏法を信奉する宗教団体で、会員数は公称827万世帯。1930年に創価教育学会として創立。太平洋戦争中、国家神道の強制に抵抗して多くの幹部が検挙された。戦後再建され、現名誉会長の池田大作氏が第3代会長に就いた60年代以降、組織を拡大させた。学会の三色旗は赤が勝利、黄が栄光、青が平和を表す。公明党は61年に創価学会を支持母体に発足した公明政治連盟が前身。
◆公明「歯止め」説明に腐心
 公明党の支持母体・創価学会の関係者に法案への反発が強まっていることに対し、党幹部は説明に苦心している。
 山口那津男代表は二十六日のBS番組で「私たちの説明が届いていない。反省しないといけない」と現状を率直に認めた。
 公明党は法案提出前の自民党との与党協議で、集団的自衛権の行使を日本を守る場合に限定したことなどを挙げ「公明党が歯止めをかける部分を吟味した」(山口氏)と自負していた。だが国会審議では、どんな状況なら集団的自衛権を行使できるのか政府の説明は曖昧なままで、野党に連日追及されている。
 政府が集団的自衛権の行使を合憲とする根拠に挙げる砂川事件の最高裁判決をめぐっても、公明党はもともとは「論理に飛躍がある」と否定的だったのに、政府・自民党に押し切られて容認した。
 こうした対応が、海外での武力行使が際限なく広がるとの不安や違憲立法批判を招く一因になり、創価学会を中心とした支持者の反発につながっている。だが法案に疑問を抱く支持者には「現場に行って説明するしか手はない」(漆原良夫中央幹事会会長)のが実情だ。 (新開浩)


野党4党首 国会前集会で安保法案成立阻止を訴え
民主党、共産党、社民党、生活の党と山本太郎となかまたちの、野党4党の党首が、国会前で開かれた安全保障関連法案に反対する集会であいさつし、法案に反対する世論と連携しながら、法案の成立阻止に全力を挙げる考えをそれぞれ示しました。
この中で、民主党の岡田代表は安全保障関連法案について、「憲法違反の法案であり、国会を通すわけにはいかない。国民が危機感を持って怒っていることを、安倍政権に分からせなければならず、一緒になって法案を廃案にしよう。10年、20年がたってあの時、あなたたちは、何をしていたのかと言われないように、われわれも徹底的に頑張る」と述べました。
共産党の志位委員長は、「審議をすればするほど安倍政権が追い詰められ、まっとうな答弁ができなくなっている。ここまでぼろぼろになった『戦争法案』は廃案にするしかない。安倍政権を羽交い締めにして採決させず、必ず廃案に追い込もう」と述べました。
社民党の吉田党首は、「国会審議では大臣の発言がころころ変わっていて、まさに憲法違反の欠陥法案だ。平和憲法の理念を生かした安全保障政策こそが、今、求められており、政党の立場を越えて、『戦争法案』の廃案に全力を挙げていく」と述べました。
生活の党と山本太郎となかまたちの小沢代表は、「いい加減で馬鹿げた危険な法案を阻止するために、みんなで力を合わせないといけない。法案の成立を阻止して、安倍内閣を退陣に追い込むため最後の最後まで戦い抜く」と述べました。


安保法案 国会周辺で最大規模の反対集会
安全保障関連法案に反対する、これまでで最も規模の大きな集会が国会周辺で開かれ、参加した人たちは「戦争法案を今すぐ廃案に」などと訴えました。
集会は30日午後2時ごろから国会周辺で開かれ、主催者の発表でおよそ12万人、警視庁の調べで3万人余りが集まり、これまでで最も規模の大きなものとなりました。
このうち、国会の正門前では参加者が歩道だけでなく車道にも広がり、プラカードを掲げて、「憲法9条を壊すな」とか、「戦争法案を今すぐ廃案に」などと訴えました。
集会には音楽家の坂本龍一さんも参加し、「憲法の精神、9条の精神がここまで根づいていることを皆さんが示してくれ、勇気づけられている。憲法や民主主義を取り戻すためのとても大事な時期で、僕も一緒に行動していきます」と述べました。
続いて若者の代表として大学生の寺田ともかさんが発言し、「私の払った税金が弾薬の提供のために使われ、遠い国の子どもたちが傷つくのだけは絶対に止めたい。『やられたらやるぞ』と威嚇するのではなく、そもそも敵を作らない努力を諦めない国でいたい。戦争法案は絶対に止めることができると信じています」と訴えました。
看護師を目指す学生は
集会に参加した東京の佐竹美紀さん(23)はボランティア活動で、戦争で傷ついたアフガニスタンの子どもたちの医療支援をした経験から、「正しい戦争などない」と考えるようになったといいます。自衛隊員が誰かを傷つけたり、傷つけられたりする事態を招くべきではないと、法案に強く反対していて、看護師を目指す勉強の合間を縫って集会に駆けつけました。
佐竹さんは、「これまでの海外派遣で、自衛隊が武力を行使しないことで築いてきた信頼を、法案が崩してしまうのではないかと危機感を抱いています。一度、武力を行使する方向にむかうと歯止めがきかないと思うし、日本は人道支援や技術の提供で各国からの信頼を地道に得ていくべきだ」と話しています。
著名人も法案撤回求める
集会には安全保障関連法案に反対する著名人も参加し、ステージから法案の撤回を求めました。
作家の森村誠一さんは「戦争で最初に犠牲になるのは若者たちです。私はかつて戦時中に女性が竹やりを持たされ、訓練させられる光景を見てきました。だからこそ、絶対に戦争可能な国家にしてはいけない」などと訴えました。
このほか、宇宙物理学者で総合研究大学院大学の池内了名誉教授は「科学の軍事利用が具体的に始まり、海外に出かける兵士たちに武器を与える研究を科学者にさせるという状況が生まれつつある。今の段階でこうした芽を取り去るべきだ」などと主張しました。
全国各地で反対集会
30日は国会周辺だけでなく、全国各地で安全保障関連法案に反対する集会やデモが行われ、名古屋市では、母親らのグループの呼びかけで名古屋駅前でデモ行進が行われ、参加者は「子どもを守れ」などと声を上げていました。
また、北九州市では参加者たちがサッカーの「レッドカード」をイメージしたという赤い服などを身に着けて中心市街地を歩きました。
広島市でも市民グループの呼びかけで集会が開かれ、参加者は街頭でチラシを配ったり、「戦争反対」などと声を上げたりして法案への反対を訴えました。
国会周辺での集会を主催した団体によりますと、30日は把握しているだけで全国のおよそ300か所で法案に反対する集会やデモが行われたということです。


安保法案抗議集会:国会議事堂取り囲み「戦争法案反対!」
 参院で審議中の安全保障関連法案に反対する市民らの大規模な抗議集会が30日、東京・永田町の国会議事堂周辺であった。学生や子連れの親、戦争を知る高齢者など、世代や立場を超え危機感を持つ人々が正午過ぎから国会を取り囲み、「戦争法案反対」を訴えた。
 市民団体「戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の主催する「国会10万人・全国100万人大行動」の一環。同団体の呼び掛けで29、30の両日、抗議の集会やデモが全国47都道府県の計300カ所以上で開かれた。同法案を巡る抗議集会としては過去最大規模とみられる。【樋岡徹也】


女性の活躍 変化の速度が遅すぎる
 遅れの大きさに対し、あまりに小幅な前進ではないか。やっと成立した女性活躍推進法のことだ。「すべての女性が輝く社会」を繰り返し強調する安倍政権が昨年の臨時国会に法案を提出したが、首相が衆院を解散したため一度廃案になっていた。
 国や自治体、大企業に対し、新規採用や管理職に占める女性の比率など、数値目標を公表させ、努力を義務付けるものだ。女性の起用に積極的な企業とそうでない企業が外から分かり、企業間で良い競争が起きることを期待している。
 前進ではあるが、世界的にみて日本の遅れは著しい。各種の国際ランキングで、日本は大抵、100位圏外である。例えば、「ダボス会議」で知られる世界経済フォーラムの調査(2014年)によると、日本の男女平等度は104位だった。
 政府は「改善」をアピールするが、昨年、国家公務員の管理職に占める女性比率は3・3%、上場企業の女性役員の比率も2・1%(内閣府調べ)にとどまった。劇的な改革を即座に実行しない限り、政府が掲げる「20年までに社会のあらゆる分野で指導的地位に占める女性の比率を30%」とする目標達成は絶望的だ。
 人口減少や経済の停滞といった観点からも、今の日本で女性の力をフル活用することは待ったなしだ。それなのに、新法が国や企業などに設定を課す目標に、拘束力はない。守れなくても罰則はなく、目標自体、自由に決められる。
 海外で画期的な改善があったのは、厳しい罰則を伴う割当制度(クオータ制)を採用した国であることが多い。女性役員の比率が4割未満を続けた上場企業を、最終的に清算処分とするノルウェーは先駆的だ。周回遅れの日本が、組織の自主性任せでは、変化が目に見えるまで、相当な時間を費やすだろう。
 政権の本気度を疑わざるを得ない理由がある。男性に関する改革の努力が見えないことだ。女性だけに育児や家事の負担が集中するようでは、もたない。男性も積極的に育児休業を取得し、柔軟な働き方ができるよう制度を変える必要がある。
 男性国家公務員の育児休業取得比率は13年度、過去最高になったというが、わずか2・8%だ。民間企業を刺激する大胆な範を示してほしい時、これでは話にならない。
 政府は昨年に続き、国内外の各界で活躍する女性らを集め29日まで東京都内でシンポジウムを開催した。変革のための知恵を交換したり、励まし合ったりするのも結構だが、もはや議論の段階ではない。まずは政府自らが、女性の起用や男性の育児休業取得などで劇的変化をもたらす対策を始めることである。


週のはじめに考える デモの民主主義が来た
 きょうも国会周辺などで行われる「デモ」が力を増しています。民衆の声をのせた風が政治に吹き込む時、日本の民主主義はどう変わるのでしょうか。
 いま、安全保障法制で政治が国民世論から離れていくのを目の当たりにして「居ても立ってもいられずに」「子や孫たちのため私たちの手で何とかしなければ」。全国各地で繰り広げられるデモの渦中で、多くの市民が口にする、政治への強い参加意欲です。
 日本の政治空間にデモの存在感が増しています。東日本大震災後の「脱原発」以降、ここ数年で定着した大規模デモは、個別の利害が絡む従来の組織動員型デモと区別して、「草の根デモ」と呼ばれることがあります。
◆シアトルの教え
 ほとんどはインターネットを介し、さまざまな生活感や価値観をもつ不特定の、つまり「草の根」の一般市民が自由につながり自発的に参加するデモの形です。
 デモといえば思い浮かぶ光景があります。一九九九年十二月、米シアトルでの出来事です。
 ちょうどインターネットが爆発的に普及したころ。世界貿易機関(WTO)閣僚会議の周辺に世界から約五万人が集結した「反グローバリズム」運動は、草の根型デモのはしりでした。このデモが今に残した教えが二つあります。
 一つ目は、ネットがもたらす連帯力の効果です。会議の専門的な議論を、ネットの交流で一般市民向けにかみ砕き、デモ参加の敷居を低くしたことでしょう。
 二つ目は、暴力の逆効果。草の根デモの自由さゆえに統制が利かず一部が暴徒化し、民主主義的なデモの効果を自らそいでしまったことです。
 さて日本のデモがここまで大がかりに定着してきたのはなぜか。シアトルの教えをなぞれば見えてきます。
◆参加の敷居を下げる
 一つ目。市民レベルの議論が広まった背景には、原発政策をはじめ特定秘密保護法、安保法制と矢継ぎ早の国論を二分する大問題に対し、国民の関心がおのずと高まったことがあります。
 さしずめ憲法や国民の命に関わる重大事では「選挙で全権一切を政権に預けたわけではない」との思いが、人々の政治参加意欲をかき立て、デモに向かわせたのでしょう。その過程で例えば安保法制では、自衛権の「集団的か個別的か」という政治家の議論が、ネットで「戦争か平和か」の選択に変換され、敷居を下げた議論の輪が広がっていったのです。
 二つ目の暴力性は、当初の脱原発デモが暴力とは無縁の3・11追悼ムードから始まり、非暴力の流れが後のデモに根付いたことで、これも市民参加の敷居を下げデモの拡大を促しました。
 日本の草の根デモはこうして、選挙とは別に、国民が求めた第二の参政権の使い方として定着しました。しかし、ここで問題となるのは、選挙を通じた議会制民主主義とデモとの関係です。
 一二年春の脱原発デモ直後に、『「デモ」とは何か』(NHK出版)を著した五野井郁夫・高千穂大准教授がそこに引用した古い論文に興味深い考察があります。
 いわゆる六〇年安保に際して、戦後を代表する政治学者、丸山真男氏が残した『議会政治をきずくには』の一節です。
 要約すれば、議会内の「院内」政治と、デモなど社会運動による「院外」政治とを切り分けて、双方のずれをなくし、風通しをよくしていくことが、健全な議会政治には肝要なのだ、と。五野井氏はこれを踏まえ、議会制とは別の、デモによる直接民主主義への期待を記しています。
◆政治家の意識の中に
 そして今日、安保法制に挑むデモは高、中、若年の各層に広がり規模拡大の勢いは止まりません。 昨年は騒音を理由に国会前のデモ規制まで示唆して強気だった政権も、その勢いに押されてか、今年七月の安保法案の衆議院通過はその週末に企画された大規模デモの前に急ぎ足ですり抜けた印象です。安倍晋三首相も法案通過後、国民の理解が進んでいないことを認めざるを得ませんでした。
 世論調査の結果もあるでしょうが、政治家たちの意識の中にデモが大きな地位を占めてもいるはずです。これはもはや、デモが議会制と並ぶ第二の民主主義に成長した姿なのかもしれません。
 ともかくも「院外」の市民たちは、デモの民主主義を日本の政治に打ち立てつつあります。
 あとは「院内」政治が窓を開けて風を通すことです。健全な議会政治を築くため、デモの声に耳を傾けることです。さもなければ、デモで巻き上がった風は次の「院内」をつくる選挙に、何らかの形で吹き込んでいくはずです。


安保法案:反対の波 全国300カ所でデモ
 参院で審議中の安全保障関連法案に反対する市民らの抗議集会が30日、東京・永田町の国会議事堂前であった。雨の中、学生や子供連れの親、戦争を体験した高齢者などさまざまな世代や立場の人々が正午過ぎから国会一帯を埋め尽くし、法案を廃案にすべきだと訴えた。参加者は警察当局によると3万人、主催者発表では12万人で、同法案に対する抗議活動としては最大規模とみられる。
 市民団体「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」主催の「国会10万人・全国100万人大行動」の一環。同団体の呼び掛けで29、30両日、抗議の集会やデモが全国47都道府県の計300カ所以上で開かれた。
 国会前で午後2時に始まった集会には野党4党のトップも駆けつけ、成立阻止に意欲を見せた。民主の岡田克也代表は「参議院での議論で法案の問題点がますます明らかになった。こんな憲法違反の法案を通すわけにはいかない。これから3週間、さらに力を貸してほしい」と呼びかけた。
 生活の小沢一郎共同代表は「今までこういう集会に顔を出したことはほとんどない。今回は何としても、いいかげんでバカげた、そして危険な法律案を阻止するためにみんなで力を合わせないといけない」と声を張り上げた。共産の志位和夫委員長は「ここまでボロボロになった『戦争法案』は廃案にするしかない」、社民の吉田忠智党首は「政党の立場を超え廃案に全力を挙げる」と訴えた。
 また、壇上でマイクを握った音楽家の坂本龍一さんは「憲法の精神、9条の精神がここまで根付いていることをみなさんが示し、勇気づけられている。憲法や民主主義を取り戻すための大事な時期で、僕も一緒に行動していく」と語った。学生団体「シールズ」のメンバーで明治学院大4年の奥田愛基さんは「憲法を守った方がいいって、変なことですかね。おかしな主張ですかね。利己的ですかね」と訴えた。
 政府・与党は来月11日までに法案を参院で採決し、数の力で成立させることを目指してきた。だが、審議は中断続きで採決は困難との見方も広がり、与野党の水面下での攻防は激化している。【樋岡徹也】
 ◇大阪でも「戦争アカン!」
 大阪市北区の扇町公園であった集会にも約2万5000人(主催者発表)が集まった。集会の呼びかけ人となった大学教授らが安保法案の廃案を求めるスピーチをした後、参加者らは「戦争アカン!」と書かれたプラカードを掲げ、市内を三つのコースに分かれてデモ行進した。大阪府箕面市の大学教員の女性(56)は「米国に追随して戦争ができる態勢をつくる法案。近隣諸国との亀裂を生むような政権の動きに危機感を覚える」と話した。【遠藤孝康】


「戦争する国、絶対反対」 京都でも安保法案デモ
 安全保障関連法案に反対する全国一斉の街頭活動の一環で30日、京都市内でも有志主催のデモ行進があった。参加者は「戦争する国、絶対反対」「世論を無視する政治家は要らない」などとリズムに合わせて叫び、東山区の円山公園から中京区の市役所前まで約4キロを歩いた。
 主催者発表で約千人が集まり、休日の観光客でにぎわう祇園地域や河原町通の繁華街を行進した。
 宇治市の男性(79)は「憲法9条を解釈改憲で押し通そうとする政府、与党は許せない。政治権力の暴走だ」と憤り、北区の大学院生の女性(29)は「政府は国会審議で国民が聞きたいことに答えていない」と話した。
 一方、デモを見ていた人たちからは「軍備を増強する北朝鮮や中国を考えたら法案は必要だ」「『戦争法案』などとレッテルを貼るな」といった批判の声も上がった。


Japan military legislation changes draw protests
Thousands of people have protested outside of Japan's parliament against new legislation that would allow the military to deploy overseas.
The changes would allow Japanese troops to fight abroad for the first time since World War Two.
The legislation has already been passed by Japan's lower house and is expected to be endorsed by the upper chamber.
Under its constitution, Japan is barred from using force to resolve conflicts except in cases of self-defence.
But a reinterpretation of the law will now allow "collective self-defence" - using force to defend allies under attack.
Police are lining the streets and telling protesters to move along in an attempt to minimise disruption in the capital's centre.
Despite the wet weather conditions, tens of thousands of protesters poured out onto the streets demanding that their pacifist constitution be protected and calling for the prime minister to step down.
The streets were lined with police vans but given how unprecedented it is for the Japanese to be so vocal, there was never any fear that things would get out of hand.
These demonstrations have been taking place all summer, mainly led by students and young people who say they wish to protect Japan's pacifist constitution.
They are often accused of being apolitical and apathetic but it appears they have woken up and are refusing to be silenced.
Prime Minister Shinzo Abe says the changes are necessary to protect Japan, but polls show many Japanese oppose them.
The plan was criticised at a recent memorial ceremony commemorating the dropping of a US atomic bomb in August 1945 on the city of Nagasaki, which killed 70,000 people.
One survivor of the attack, 86-year-old Sumiteru Taniguchi, said he could not accept Mr Abe's new legislation.
Mr Abe has previously said that the change would not lead to involvement in foreign wars.
What is collective self-defence?
Japan's post-World War Two constitution bars it from using force to resolve conflicts except in cases of self-defence.
Mr Abe's government has pushed for a change that would revise the laws such that Japan's military would be able to mobilise overseas when these three conditions are met:
・when Japan is attacked, or when a close ally is attacked, and the result threatens Japan's survival and poses a clear danger to people
・when there is no other appropriate means available to repel the attack and ensure Japan's survival and protect its people
・use of force is restricted to a necessary minimum

ぼっかけそば/東遊園地で『安保法制関連法案』&『特定秘密保護法』反対

ブログネタ
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150829戦争法案反対_兵庫

La justice est humaine, tout humaine, rien qu'humaine.

--Pierre-Joseph Proudhon
Justice is human, all human, only human.
Il ne se rend pas compte de sa force.
He does not realize his strength.
Vite fait, mal fait.
Haste makes waste.
Dans la vie, il faut savoir compter, mais pas sur les autres.
--Jean-Paul Toulet
In life, one needs to know how to count, but not on others.
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LIFE〜夢のカタチ〜/「天才高校生ジャグラーが新技に挑戦」語り佐々木蔵之介
滋賀県で活躍する天才高校生ジャグラー木下洸希くん。数々の大道芸コンテストで並み居るプロを押しのけて優勝するほどの実力を発揮し、追っかけが出るほどの人気ぶり。そんな木下くんが大道芸にハマるきっかけは父の難病。喜ぶ父の顔が見たいという思いが彼を突き動かしている。新技に挑む姿を追う。
佐々木蔵之介


阪急阪神1dayパスを買いました.兵庫県の阪急阪神沿線をいろいろ歩いてみたいと思ったんです.
梅田まで出て阪神に乗り換えて,尼崎で下車.寺町のあたりを散策してから,尼崎中央商店街を歩きます.阪神タイガースの応援商店街という感じです.
出屋敷商店街はつぶれてしまったのかよくわかりませんでした.
その後甲子園で降りて球場に行ってみました.試合開始まで2時間以上あるのに,意外に応援しに来ている人がいました.商店街ではマジック27とあったから,そのうち試合を見に来たいと思います.メガホンもハッピもあったはずですし・・・
お腹がすいてきたので神戸に向かいます.とりあえず高速神戸で降りましたが,何がある???ってな感じだったので新開地まで歩きました.商店街を歩くとぼっかけがあるお店発見.ぼっかけそばをいただきました.食べた後で気がついたのですが,ぼっかけはトッピングで別にかすうどんもあったので,ぼっかけかすうどん?が可能だったのかな???なんて思いました.新開地の地下でピロシキを食べて長田に向かいました.
長田は震災で大変だったところだそうですが20年後の今どうなっているのかな?と思ったのですが,さすがにそれだけの時間が経つとその跡はよくわかりませんでした.高層住宅にある地図を見たら部落解放同盟のある支部の事務所が記されていました.
さて東遊園地で『安保法制関連法案』&『特定秘密保護法』反対の集会があるので三宮に向かいました.弁護士会の人が案内していました.新左翼系のグループがビラをまいていましたが,部落解放同盟兵庫県連の人が黄色いゼッケンをしているのが目に入りました.頑張ってください,と言いに行こうと思ったのですが知っている人でもなし,遠くから見ているだけでした.
三宮から東に旧西国街道を歩いて大安亭市場に到着.徳用の桃を買って,阪急春日野道から芦屋に向かいます.でもこの駅ちょっとシンプルすぎる.
芦屋川からJR芦屋に向かいます.やはりちょっとお金持ちエリア?JRの南はそうでもなくて安心.
次は西宮北口.ここでも南に向かってJR西宮を経て阪神西宮.
出屋敷で降りると盆踊りの音楽が聞こえます.平和盆踊りです.昼は普通の街だったかんなみ街を通って尼崎駅から帰りました.
要するに疲れました.

震災「ファイト新聞」翻訳しネパールにお届け
 東日本大震災後に気仙沼市の避難所で子どもたちが手作りした壁新聞「ファイト新聞」が、ことし4月にマグニチュード(M)7.8の大地震が起きたネパールの子どもたちに、翻訳されて届けられることになった。28日、翻訳を担う同国駐日大使館の関係者が気仙沼市を訪れ、ファイト新聞のメンバー4人と交流した。
 訪れたのは駐日大使館の公式通訳者ジギャン・クマル・タパさん(36)。
 同市上田中の反松公園仮設住宅の集会所で、ファイト新聞のメンバーが1〜19号のコピーを贈った。気仙沼中2年の小山里子さん(13)は「体験をそのまま書けば、いい記事になる」、面瀬小6年の吉田理紗さん(12)は「ネガティブなことより前向きになれることを書いて」と伝えた。
 タパさんは母国の首都カトマンズ郊外にある実家が倒壊。地震後、支援に入った学校で気仙沼のファイト新聞のことを伝えたところ「自分たちもぜひ書きたい」と言われ、その手本として翻訳することを思い立った。
 タパさんによると、ネパールでは災害や出来事などを記録せず、記憶だけにとどめる傾向があるという。
 タパさんは「震災後の日々の変化を書き残すことが社会にとって貴重な財産だと、母国の子どもたちに伝えたい」と感謝した。
 翻訳後の9月下旬に帰国し、ファイト新聞のメンバーが制作中の「ネパール特別号」とともに、母国の小学生らに届ける予定だ。


<原発事故>妻帰国で分断 東電謝罪し和解
 東京電力福島第1原発事故で欧州出身の妻が子ども2人を連れて帰国し、家族が離れて暮らさざるを得なくなったとして、仙台市の50代の男性ら一家4人が東電に660万円の慰謝料を求めた訴訟は28日までに、東電が一家に和解金を支払うことなどで仙台地裁で和解が成立した。
 一家側、東電側ともに和解金額を明らかにしていない。原発事故により男性の妻が帰国を余儀なくされ、家族が分離した生活を強いられたことについて、東電は代理人を通じて謝罪したという。
 東電側は当初「原発事故と帰国に十分な因果関係がない」と請求の棄却を求めていた。東電広報部は「訴訟に関する内容は回答できないが、請求内容や主張を精査した上で誠実に対応した」と話した。
 訴えによると、男性の妻の出身国が原発事故後の2011年3月15日ごろ、日本在留の自国民に退避を勧告したため、妻は子ども2人を連れて一時帰国。約1年後に日本に戻った。妻は日本の永住権を得ていたが、出入国許可の更新時期が退避期間と重なったことから更新手続きができず、永住権を失った。


「収益確保困難」仙台駅西口の再開発を断念
 東急不動産(東京)が仙台市青葉区のさくら野百貨店仙台店を含むJR仙台駅西口で計画していた再開発事業を断念していたことが28日、分かった。計画対象の不動産の取得時期はいずれも、土地が高騰していた2008年のリーマン・ショック前で、再開発しても収益の確保が難しいと判断したとみられる。
 同社はさくら野仙台店の土地の約8割を所有していたが、14年12月にファンドに売却。今月31日には、北隣の仙台東洋ビルの土地と旧朝日屋ビル跡地の計1095平方メートルを別のファンドに売却する。いずれも売買金額は非公表。
 閉館した仙台東洋ビルと旧朝日屋ビル跡地については、さくら野仙台店の土地売却後も自社で開発する道を模索していた。
 全ての開発を断念した理由について、同社の担当者は「建築費の高騰などから事業の採算性が見込めなくなった」と話した。
 同社は06年9月、仙台東洋ビルを取得したのを皮切りに、07年4月に隣接する旧朝日屋ビルの土地を、同年3〜9月に、さくら野仙台店の土地の一部を入手。一帯を開発して大型商業施設の誘致などを目指したが、リーマン・ショック後に計画が頓挫していた。
 さくら野仙台店は、地権者らとの賃貸借契約が20年まで残っており、一部地権者が変わっても営業に影響はない。


<最終処分場>3市町猛抗議 調査再開できず
 東京電力福島第1原発事故で発生した放射性物質を含む指定廃棄物の最終処分場建設をめぐり、環境省は28日、宮城県内3候補地の現地調査のため栗原市、大和町、加美町を訪れた。環境省職員が午前、午後の2回にわたり現地入りを試みたが、加美町で住民らの激しい抗議に遭い、作業着手を見合わせた。
 環境省は同日、資材搬入や看板設置など調査の準備をする予定だった。29、30日は作業せず、31日午前に3候補地を再度訪れ着手の機会を探る。
 候補地の一つ、加美町田代岳には早朝から猪股洋文町長をはじめ住民ら約200人が集まった。建設反対を訴えるのぼりを掲げ、現地につながる町道を人垣でふさいだ。環境省職員と作業員16人が現地に入ると、住民らは反発を強め「帰れ」などと声を上げた。
 環境省東北地方環境事務所の東利博保全統括官が「道を開けてもらいたい」と説明したが、猪股町長は「断固反対が住民の声」と反論。互いの主張は平行線をたどった。午後も同様のやりとりがあり、最終的に同日の着手は見送られた。
 栗原市深山嶽では住民ら約60人、大和町下原でも住民ら約50人が抗議活動を展開した。加美町の着手見合わせの知らせを受け、両地区とも環境省職員が現地を引き揚げた。2市町で大きな混乱はなかった。
 環境省は昨年10月、候補地を1カ所に絞り込むための現地調査を開始。ボーリング調査の準備作業を始めたところ、加美町で住民の抗議を受け3カ所とも中断した。11月に降雪で現地入りできなくなり、その後調査再開を先送りしてきた。
 村井嘉浩知事は指定廃棄物を一時保管する住民の負担などを理由に早期再開を要望してきた。栗原市の佐藤勇市長は調査が8月中に再開されない場合、候補地を返上する可能性を示唆していた。

<指定廃棄物>放射性セシウムの濃度が1キログラム当たり8千ベクレルを超える廃棄物で、ごみの焼却灰や下水汚泥、稲わらなどがある。東京電力福島第1原発事故で出た放射性物質が付着して12都県で計約16万トン(3月末時点)が発生し、そのうち福島県が約13万トンを占める。各地で一時保管されており、国は発生した各県で処理する方針。量が多く、既存の最終処分場では足りない5県(宮城、茨城、栃木、群馬、千葉)では、国が1カ所ずつ処分場を新設する予定。


<最終処分場>「反対貫く」住民絶叫
 静かな山里に再び抗議の声が響き渡った。環境省が指定廃棄物最終処分場建設に向けた現地調査再開を試みた28日、県内3候補地の住民らは一斉に反発姿勢を強めた。同日中の調査再開を見合わせた環境省は、週明けの31日に再度着手を試みる方針。住民らは「何度来ても反対を貫く」と力を込めた。
<町長ら200人撤退迫る/加美>
 現地調査の受け入れ自体に反対の加美町では、環境省が調査中断を余儀なくされた昨年10月と同様、候補地の田代岳で住民が激しい抗議活動を展開した。
 約200人の住民が「調査は認めない」「候補地撤回」とシュプレヒコールを繰り返す中、猪股洋文町長と、地元50団体による「放射性廃棄物最終処分場建設に断固反対する会」の高橋福継会長が環境省職員に強く撤退を迫った。
 猪股町長はこの中で、21日に町を訪れた小里泰弘環境副大臣が「専門家を交えて町と意見交換をしたかった」と述べたことを指摘。「望むならやりましょう」と開催に応じる考えを示したが、環境省側は明言を避けた。
 一方、環境省は反対する会に対し「住民に説明不足の点もある」と説明会開催を提案したが、高橋会長は「環境省の都合の良い説明会は受ける必要がない」と拒否し、物別れに終わった。
<のぼり旗掲げて抗議/栗原>
 栗原市深山嶽には午前7時ごろから、調査に反対する住民グループの約60人が集まり、のぼり旗を掲げるなどして抗議活動を展開した。
 3候補地同時着手の原則から、午前、午後ともに調査実施を見合わせた環境省職員2人は、市の担当者に「再開するときは事前に連絡します」と話して引き揚げた。
 深山嶽に近い栗駒文字地区の住民団体代表、菅原敏允さんは「後世のためにも処分場を栗原に建設させてはいけない。これからも強く反対活動を続けていく」と口元を引き締めた。
 佐藤勇市長は「環境省が動きを示したことには一定の評価をする。調査がこれで終わるのか、今後の動向を注視する」との談話を出した。
<拳突き上げアピール/大和>
 大和町下原には午前に住民ら約50人、午後は約30人が集まり、のぼり旗や横断幕を掲げて建設反対の姿勢をアピールした。草刈りやフェンス設置などを予定していた環境省職員の撤収を見届けた住民らは「断固反対で今後も頑張ろう」と拳を突き上げた。
 駆け付けた「建設に断固反対する会」の佐々木久夫会長は「妨害はしないまでも地元の真剣さを国に示そう」、地元行政区の若生英光区長は「子孫の代まで影響する問題。仕事を放って駆け付けるのは大変だが、何度でも来て反対を訴える」と語気を強めた。
 浅野元・町長は報道各社の取材に応じ、環境省の撤収を「調査は3市町同時が条件、という約束の中で進めてくれている」と評価した。


安保法案:各地で反対集会 札幌では3500人
 脚本家の倉本聰さんらが呼びかけ人となって設立された市民団体「戦争をさせない北海道委員会」は29日、札幌市中央区の大通公園などで抗議集会とデモを行い、主催者発表で約3500人が安全保障関連法案の廃案を訴えた。参加した上田文雄・前札幌市長は「戦争をしないという誓いは、アジアなどへの侵略に対して日本国民が反省し、70年間守り続けてきた大約束だ。その根源を失おうとしている」と呼びかけた。
 名古屋大では教員や職員、学生らの有志が集会を開き、法案に反対する声明を採択した。呼びかけ人の一人の安藤隆穂名誉教授が声明文案を読み上げ、約200人が賛同を示すカードを掲げた。
 声明は「大学はかつて兵器をつくった」などと過去を反省し、言論の自由、学問の自律性などを制限する動きに対抗してきた戦後に言及。「『名古屋大学平和憲章』で不戦を誓った知性は、学びの日々が戦火につながることを許さない。この灯を決して消さない」と決意を示した。
 30日は「国会10万人・全国100万人大行動」と題し、国会周辺を中心に全国各地で一斉に反対集会が予定されている。実行委員会は「廃案を目指すすべての人々と団体が結集する取り組みとして、全力で頑張る」としている。【高野玲央奈、清藤天、樋岡徹也】


「違憲の法案反対!」安保審議大詰めで反対デモ 兵庫4カ所
 参院で審議が進む安全保障関連法案に反対する市民らが29日、神戸など兵庫県内の4カ所でデモ行進し、「政権の暴走にストップを」などと訴えた。参加者は主催者発表で計約6千人。国会会期は残り1カ月を切ったが、この国の安保政策を大転換させる法案に不安や疑念を抱く市民は依然として多い。
 兵庫県弁護士会が「兵庫パレード」と銘打って実施。神戸、姫路、豊岡、尼崎市で参加を呼び掛けた。
 神戸・三宮には約4千人が集結。長さ約1キロにわたる列となって週末の繁華街を歩き、「違憲の法案反対!」と声を上げた。
 中学生の孫と歩いた神戸市北区の女性(60)は「国民の反対の声を聞かず、法案成立を押し切ろうとする安倍政権に不満を持って参加した」。
 東日本大震災による原発事故の影響で福島県から淡路市に避難中の男性(64)は妻、子ども2人と会場へ。国が強調する原発の安全性に不信感を持ち続けており、安保法案成立に向けた動きを「同じように権力者の暴走だと感じる」と語気を強めた。
 約400人が集まった豊岡。同市竹野町の女性(77)は、自宅で食事を振る舞って特攻隊員を送り出した祖父が終戦後、隊員らの後を追うように自決したことが忘れられないという。「戦争ほど恐ろしいことはない。法案が成立すれば戦争の危険が迫り、将来の平和が脅かされる」と懸念を口にした。
 姫路では、約700人が、世界文化遺産・国宝姫路城前の大手前公園からJR姫路駅までの約1キロを歩いた。
 明石市の男性会社員(33)は「親が『憲法のような立派な人間になるように』と名付けてくれた」といい、「憲法の解釈を変えて、集団的自衛権を部分的に容認するやり方が問題。憲法改正は手続きを踏めばできるのに、なぜ国民と議論を深めようとしないのか」と嘆いた。

ヒザが痛い/マイマイ頑張る

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150805_水平社設立

Au Japon, "trois millions de femmes restent à la maison alors qu'elles aspirent à travailler"
Les mères japonaises qui souhaitent reprendre leur poste se heurtent encore au manque de solutions de garde et au machisme ambiant. Le Premier ministre Shinzo Abe a promis de s'attaquer au problème pour redresser une natalité en berne.
Le Japon réunit vendredi et samedi à Tokyo une conférence internationale sur les femmes, sous l'égide du Premier ministre Shinzo Abe, qui leur promet une meilleure place au travail, une politique volontariste mais aux effets encore limités. Avec une question centrale: comment promouvoir le rôle des femmes au travail? Dans l'archipel nippon, très mal classé en la matière - 104e sur 142 pays dans le palmarès 2014 du Forum économique mondial -, c'est un impératif économique alors que décline la main-d'oeuvre. Le gouvernement en a d'ailleurs fait un pilier de sa stratégie de relance "abenomics".
"Trois millions de femmes restent à la maison alors qu'elles aspirent à travailler", déplore une responsable chargée de ces questions au ministère des Affaires étrangères. Nombreuses en effet sont celles qui interrompent leur carrière une fois devenues mères. Alors que faire pour leur permettre de mener de front vie familiale et vie professionnelle?
Heures supp' et mentalités rétrogrades
Tout d'abord augmenter les capacités des crèches: 200 000 places ont été créées depuis le retour au pouvoir de Shinzo Abe fin 2012, pour un objectif total de 400 000 d'ici à 2018. Le gouvernement a également pris des mesures pour inciter les pères à prendre un vrai congé parental. Mais quand bien même les jeunes parents trouveraient-ils un mode de garde, "deux obstacles demeurent: les heures supplémentaires, et les mentalités" encore rétrogrades, souligne la fonctionnaire japonaise.
Pour tenter de provoquer un sursaut, les entreprises de plus de 300 employés vont désormais devoir mettre en place "un plan d'action pour améliorer l'égalité, accompagné d'objectifs concrets". A travers cette loi, en passe d'être adoptée par le Parlement, les autorités espèrent faire pression sur les mauvais élèves et conduire à un environnement de travail plus favorable aux mères de famille.
Des mères "harcelées" en entreprise
Le gouvernement fait déjà valoir des progrès: le taux d'emploi des femmes âgées de 25 à 44 ans est ainsi passé de 68% en 2012 à 70,8% en 2014 - 73% sont visés en 2020 -, et la gent féminine est un peu mieux représentée au sein des postes à responsabilité - de 6,9% à 8,3%. Autant les mesures que les progrès constatés restent modestes, estiment néanmoins des observateurs, appelant à revoir - comme promis et malgré les réticences - les dissuasifs systèmes d'impôts et de sécurité sociale.
On couvre de louanges les gens prêts à se tuer au labeur, et les femmes, entre congés maternité et contraintes de garde, sont "traitées comme des travailleurs de second ordre", témoigne auprès de l'AFP Sayaka Osakabe, 38 ans, à la tête du groupe de soutien Matahara Net destiné à lutter contre le harcèlement des mères dans les entreprises. "Le Premier ministre Abe a probablement été le premier dirigeant japonais" à aborder le problème de la sorte, reconnaît-elle, "mais sur le terrain, l'attitude des employeurs n'a pas encore changé radicalement".
Une période de transition
Rika Yajima, une jeune entrepreneuse de 27 ans qui conçoit des objets pour les enfants inspirés de l'artisanat traditionnel, juge elle aussi que les salariées demeurent confrontées à un environnement machiste. En revanche, "il est beaucoup plus facile qu'il y a dix ans pour une femme de fonder son entreprise, à condition d'être très motivée", via notamment des prêts bancaires ou des concours réservés aux femmes. Elle-même a reçu le Prix de la Banque de développement du Japon.
"Nous sommes dans une période de transition", résume la responsable du ministère selon qui le Japon va, par la force des choses, rattraper son retard sur les autres pays développés. Et d'espérer qu'il pourra répondre ainsi au défi d'une natalité en berne, qui plafonne à 1,4 enfant par femme. Car paradoxalement, l'indice de fécondité tend à augmenter avec le taux d'activité des mères.
フランス語
フランス語の勉強?
さいごの色街 飛田
井上 理津子
筑摩書房
2011-10-22


納得できないことが2つある。  shimo
大阪に生まれ暮らして40年になる私ですら、名前は知っていても足を踏み入れたことのない飛田を10年以上にわたって女性が取材した意欲作である。その地道な努力、ジャーナリスト魂には敬服するが、どうも納得できないことが2つある。
1つは嘘をついての取材方法を明かしていることだ。取材にあたって嘘をつくことは、私はある程度仕方がないと思っている。そうでないと聞き出せないことがあるのは事実だからだ。しかし、その嘘をばらしてどうするつもりか。それをばらすことで、著者は取材対象者とこれから付き合っていくことはできなくなるだろう。そう、著者は自分の興味のまま取材し、取材が終わったらその対象者との関係はどうでもよいと考えているように感じるのだが、いかがだろうか。もしそうだとしたら、それは高慢な態度ではないのか。
もう1つはあとがきで、「飛田に行ってみたいと思う読者がいたとしたら、「おやめください」と申し上げたい。客として、お金を落としにいくならいい。そうでなく、物見にならば、行ってほしくない。そこで生きざるを得ない人たちが、ある意味、一生懸命に暮らしている町だから、邪魔をしてはいけない。」とあるところだ。それは自分でしょう。なぜ、自分はよくて、読者が物見に行くのはダメなのか。自分はジャーナリストだから許されるというのであれば、それもいかがなものかと感じる。
それにしても、ここに登場する人たちの境遇には驚き、ため息が出る。きれいごとではない、こんな現実が未だにあるのだ。

阪急電車
有川 浩
幻冬舎
2008-01


書きたいものを書く潔さ  sorin
関西の私鉄「阪急電鉄」を舞台にした全16編の連作短編集。
本屋で見かけた時には思わず「おぉ!」と声を上げてしまった。
まさか関西を離れて阪急電車の文字を見るとは思わなかった。しかも有川浩の小説。
阪急電車と言えば、普通は神戸・三宮と大阪・梅田をつなぐ神戸線が最もメジャーとなる。
私が神戸に居たころ最も使っていた神戸線はほとんど出てこないが、舞台となる阪急今津線には懐かしい思い出がいっぱい。
作中で紡がれる自然な関西弁も情景が思い浮かびます。
見事なつながりを見せる連作短編は、電車という限られた空間の中で輝きを放っていた。
他のレビュアの方が素晴らしいレビューを書いてくれているので、私は少し違う目線で。
可愛らしい表紙デザインも非常に好感を持てるが、個人的に嬉しかったのはカバーを外した時に見える本体カバーの色。
阪急のカラー、マルーンですよね!懐かしいなあ。
カバー最初と最後は作中のスケッチと思われる絵。
遊び心が利いた、非常に魅力的な一冊です。
恐らく、阪急電車に、しかも今津線に惹かれて本書を手に取る人は少ないように思える。
しかし、ひとたび読み進めれば、たとえ阪急電車に馴染みがなくとも物語に引き込まれるはず。
愛する地元の風景を魅力的に描ききってくれたその筆致に感嘆を覚えるとともに、書きたいものを書く。その潔さに敬意を表したい。
今年も早速素晴らしい小説に出会えました。
「下らない男ね。やめておけば?苦労するわよ。―はい、別れるだけでも一苦労でした。でも、頑張って別れてよかったです。ありがとう、おばあさん。 もし、もう一度あの老婦人に会えるならそう言いたかった。中学のときに叱られたあの老人にも、今会えるならきっと今度はお礼が言えるだろう」本文127ページより


昨日はあまり仕事しなかったので,今日頑張ることにしました.でもあまり気が乗りません.
図書館に行った後とりあえずマイマイです.でも途中から膝が痛くなってきてつらかったです.

解体仮設で定住促進住宅 Iターン入居者募集
 南三陸町は東日本大震災で整備した仮設住宅を再利用し、定住促進住宅を建設した。地元の木材を使った建物で、若者のIターン移住者の入居を想定。9月9日まで町外の40歳以下を対象に入居者を募集している。
 同町歌津にできた町峰畑定住促進住宅は木造平屋で5戸。地元森林組合と協力し建設した歌津館浜地区の応急仮設住宅(15戸)のうち、土地所有者の要望で撤去した5戸を解体。約1キロ離れた歌津中近くの高台の町有地に建て直した。
 4戸が2Kタイプで、1戸が3Kタイプ。家賃は2Kが月額2万4000円、3Kが3万2000円で、2018年3月末までは特例で半額になる。
 町には震災後、ボランティア活動を通じて若者から移住希望が寄せられた。中心部が津波で失われアパートがなく、隣接の自治体から通う人もいるという。
 町は館浜地区仮設住宅の残る10戸も同様に移築して活用する方針。建設課は「町を好きになってもらった若い人にはぜひ町に住んで復興に携わってほしい」と期待する。
 連絡先は町建設課0226(46)1377。


被災者視点で生活支援 仮設経験者が団体設立
 東日本大震災で被災し、仮設住宅に入居経験がある亘理町の住民ら15人が、被災者の生活支援に取り組む民間団体「グループふれあいの会」を設立した。仮設住宅から転居した高齢者らの身の回りの世話や交流を促す活動を進め、同じ被災者の視点で生活をサポートしていく。
 ふれあいの会は4月に活動を開始。主に高齢者や1人暮らし世帯を対象に、有料で家事や買い物の代行をするほか、食料品の移動販売、語り合いや見守りなどの活動に従事する。
 26〜28日は、初の取り組みとして町内5カ所で懇話会を開催している。初日の荒浜地区の災害公営住宅集会所には住民ら約10人が参加した。行政側から復興の現状を学び、お茶を飲みながら対話を深めた。
 行政への不満や要望の声が上がった懇話会。参加した住民の無職菊地富美子さん(63)は「集会所で住民の交流を深めたいけど手段が分からない。こうした機会を設けてくれてありがたい」と喜んだ。
 ふれあいの会は、同町の公共ゾーン仮設住宅の自治組織が前身。夏祭りの開催や夜間の見回りなどを担ってきた。町の集団移転団地や災害公営住宅の整備が完了したことを受け、活動の場を町内全域に広げた。
 今も仮設住宅で暮らす代表の木村一行さん(67)は「イベントが多かった仮設住宅に比べ、移転先では見回りや交流の機会が少ない。同じ立場で必要と感じたことをサービスとして提供したかった」と設立の理由を語る。
 被災していない内陸の住民の利用も歓迎する。将来的には市民農園での野菜の共同栽培や販売、NPO法人と連携した介護事業への協力も検討している。木村さんは「始めたばかりだが、被災者同士で助け合う場に育てていきたい」と意気込む。


<プリプリ>仙台PIT来年3月こけら落とし
 エンターテインメントを通して東日本大震災からの復興を支援する一般社団法人チームスマイル(東京)は27日、仙台市内で計画を進めていたライブハウス「仙台PIT(ピット)」を来年3月11日にオープンすると発表した。PITは仙台をしんがりに被災3県と東京に計4カ所設けられ、連携して「心の復興支援」の拠点を目指す。
◎被災地支援3億円 いつも一緒にいたかった…
 仙台PITは、太白区あすと長町2丁目のショッピングセンター「ヨークタウンあすと長町」の隣接地に建設する。8月に着工し、来年2月の完成予定。鉄骨平屋で、総事業費は約12億5000万円を見込む。
 収容人数は立ち見で1200人。コンサートやライブを中心に、演劇やミュージカルなどの利用を想定している。各PITに映像と音を中継し、同時に公演を楽しめる「ライブビューイング」も開く。
 仙台市役所で記者会見した、ぴあ社長でチームスマイル代表理事の矢内広さん(福島県いわき市出身)は「復興をどうやって支援していけるのか考えてきた。東京で上げた収益を東北に回し、活動を継続したい」と述べた。
 事業費のうち約3億1000万円は、復興支援を目的に期間限定で再結成したロックバンド「プリンセス プリンセス」に、ファンが寄せた義援金を充てる。
 会見にはメンバー全5人が同席。ボーカルの岸谷香さんは「音楽を通して集まった寄付金だから、音楽にまつわる何かで支援したかった。一回きりではない、理想的な形になった」と話した。同バンドはこけら落としでライブを行う。
 PITは「東北を元気にする」を意味する「Power Into Tohoku!」の略称。東京・豊洲(立ち見3100人)、いわき市(200席)で開業し、来年1月には岩手県釜石市(150席)にも開設する。


鹿児島知事:「女子に三角関数教えて何になるのか」
 鹿児島県の伊藤祐一郎知事は、県教育委員らが参加した会議で「高校教育で女子に(三角関数の)サイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」と発言したことが分かった。28日の定例記者会見で、発言について「自分自身も使ったことがないよねという意味。口が滑った」と述べ、訂正した。
 発言は、全国学力・学習状況調査の結果が25日に公表されたことを受け、27日の県総合教育会議で知事としての目標設定について問われた際にあった。伊藤知事は「サイン、コサイン、タンジェントを社会で使ったことがあるか女性に問うと、10分の9は使ったことがないと答える」とも述べた。


維新の党 党の体をなしていない
 野党第2党、維新の党で混乱が拡大している。党運営をめぐり橋下徹最高顧問(大阪市長)、松井一郎顧問(大阪府知事)が離党を表明、党は分裂含みとなった。
 国の針路を左右する安全保障関連法案が参院で審議されるさなかの内紛は、責任放棄に等しい。これでは政党としての体すらなしていない。同党が抱える二重構造の矛盾は極めて深刻である。
 「大阪の地方政治にしっかり軸足を移す」。首長として中央政界に関与し続けた橋下氏の唐突な離党宣言である。
 今回、離党劇を生んだのは柿沢未途幹事長の進退問題だ。ことの発端は与野党対決型となる山形市長選(来月13日投開票)で、柿沢氏が民主、共産などが支援する候補の応援に駆けつけたことだった。
 維新の党は事実上自主投票の方針で、松井氏は柿沢氏に応援を自粛するよう求めていた。松井氏は「お子ちゃまで、わがままやり放題だ」と柿沢氏を批判し、辞任要求にエスカレートした。
 合点がいかないのは松井氏の行動だ。柿沢氏は応援について謝罪している。それでも明確な党議違反でない行為に幹事長辞任まで求め、結局は離党する。歩調をそろえ離党する橋下氏の反応も過剰である。
 橋下、松井両氏は11月に予定される大阪府知事選、大阪市長選対策や、地方政治への専念を離党の理由に挙げた。だが、中央政界と距離を置くことは、役職に就かず党にとどまることでも可能だろう。
 橋下氏は大阪都構想が否決され、「政治家引退」を表明している。今後どこまで大阪府知事選、大阪市長選に関わっていくのか。
 混乱の背景には、党のいびつな二重構造がある。維新の党はもともと自公政権と距離を置く「旧結いの党」系と、橋下、松井氏ら安倍晋三首相と親和的な「旧日本維新の会」系の間で路線対立を抱える。
 旧結いの党出身の柿沢氏が党の要職に就いていることに、旧維新の会系で松井氏に近い大阪系議員は不満を募らせていたとされる。山形市長選の応援をきっかけに路線対立や主導権争いが火を噴き、泥沼化したのが実態だろう。
 維新の党が安保法案をめぐり提出している対案は、終盤国会のポイントとも目されている。それだけに混乱を収められなかった松野頼久代表の責任は重い。とりあえず柿沢氏の留任にこぎ着けたものの、対立の根は深い。終盤国会の対応に万全を期す必要がある。
 11月に予定する代表選で、党の路線を整理すべきだ。そこで合意が得られないのであれば、今度こそ、たもとを分かつのもやむを得ない。


無戸籍の人 埋もれた存在の人にするな
 戸籍は自分の存在を社会で証明する基礎となる登録だ。だが、親の事情で出生届が出されず、戸籍がない生活をおくる人たちがいる。
 法務省が初めて行った実態調査では、6月時点で全国に626人確認された。その数字は氷山の一角との指摘がある。
 戸籍がなくても親の申し入れで、学校に通ったり、児童手当を受け取ったりといった一定の公的サービスは受けられる。だが、親が放置すればサービスの枠外に置かれる。
 無戸籍のまま成人する人もいる。選挙には行けず、携帯電話や銀行口座を持つといった契約行為も難しい。結婚や就職でも大きな壁になる。
 超党派の国会議員連盟が先月、その救済を法相に申し入れた。同じ社会に生きる人の人権を守るため、政府と国会は対応を急ぐべきだ。
 この問題の背景には、離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子と推定する民法の規定がある。
 夫の暴力などから逃れ、推定期間内に別の男性との間で子供ができた場合、出生届の提出をためらう母親が多い。家裁での手続きで父子関係は断てるが、そうした場での接触さえ嫌う場合も少なくないという。
 そもそも無戸籍は子供の責任ではない。離婚や再婚、家庭内暴力の増加といった今日的な事情に照らせば、法やその運用の見直しが必要なのは明らかだ。父親未定のまま出生届を受け付けることを提言する専門家もいる。真剣に検討すべきだろう。
 法の壁だけではない。貧困もこの問題の背景には横たわる。
 ある30代の女性は、両親が産婦人科に出産費用を払えず、出生証明書がもらえずに無戸籍になったという。両親が役所に相談しても高圧的な対応をされ、小学校や中学校にも通わなかった。
 文部科学省が調べたところ、全国142人の無戸籍の小中学生のうち約3分の1が就学援助を受ける経済困窮の家庭だった。未就学期間が7年半に及ぶ子供の存在も明らかになった。そうした子供はまだ埋もれているのではないか。そんな懸念を抱かざるを得ない。
 住民の生活と密接に関わる自治体の役割は大きい。無戸籍者に対して柔軟に住民票を作成するなど公的サービスの提供と救済に尽くしてほしい。教育や厚生など関係部門の連携を強め、子供をはじめとした無戸籍の人の掘り起こしも進めるべきだ。
 住民票のある人を共通番号で管理するマイナンバー制度が始まっても、無戸籍の人ははじかれる可能性がある。納税、年金など国民生活の重要事項が対象になるだけに心配だ。政府、自治体はこの問題の解決を最優先課題と位置づけてほしい。


電源交付金 原発回帰の追い風か
 九州電力川内原発(鹿児島県)の制御棒を引き抜いて、脱原発依存のたがを外したとでもいうのだろうか。政府の方針に思惑がにじんでいるようにも見える。国民の多くは、それを望んでいない。
 川内原発の再稼働をきっかけに、原発回帰への地ならしが始まったとでもいうのだろうか。
 経済産業省は、停止中の原発に対する交付金の額を引き下げることにしたという。
 原発施設を受け入れる自治体には、電源三法に基づく交付金が支払われることになっている。一九七三年の第一次石油危機のあと、火力発電への依存を抜け出すためにできた制度である。
 水力や地熱などにも支払われるが、事実上、原発立地を後押しするための仕組みになっている。
 そのうち最も多額な電源立地地域対策交付金は、例えば原発の稼働率に応じて交付額が増える。
 ところが、3・11後の特例として、安全のために運転を停止させた原発は、すべて稼働率81%、すなわち定期点検期間を除いてフルに稼働できたと見なされた。
 経産省はこれを改め、3・11前の稼働実績を踏まえて、各原発それぞれに、みなしの稼働率を定めることにするという。
 一見、公平なようにも見える。だが、81%は上限だ。原発を稼働させない限り、交付額は今より必ず下がる。従って立地自治体は、再稼働を急がざるを得なくなる。
 立地自治体の中には、歳入の八割を原発に頼る村もある。
 原発依存の根っこには、交付金への依存がある。老朽化した原発の延命を望む声も高まるだろう。
 しかし政府は、昨年四月に閣議決定した第四次エネルギー基本計画に、原発依存を「省エネルギー・再生可能エネルギーの導入や火力発電所の効率化などにより、低減させる」と明記した。
 原発依存を本気で見直すつもりなら、再生エネへの転換が加速するように、交付金制度を見直すのが筋ではないか。
 また、温室効果ガス削減の新たなルールを決めるパリの国際会議(COP21)を年末に控え、多量の排出源として石炭火力に逆風が吹いている。排出削減に知恵を絞るのは当然だ。
 だがそれを、発電段階では二酸化炭素(CO2)を出さないという原発回帰の口実にしてはならない。原発も地球環境に対する巨大な脅威をはらむ。
 再生エネの普及は、CO2削減の王道でもあるのだし。


「マイナンバー制度は違憲」一斉提訴へ
来年1月から運用が始まるマイナンバー制度について、弁護士や市民で作るグループが「プライバシーを保障した憲法に違反する」などと主張して、マイナンバーの使用の差し止めを求める訴えを全国で一斉に起こす方針を固めました。
マイナンバー制度は、日本に住む1人1人に割りふる12桁の番号に、納税や社会保障などの個人情報を結びつける制度で、ことし10月以降、番号が通知され、来年1月から運用が始まります。この制度について弁護士や市民で作るグループが「プライバシー権を保障した憲法に違反する」などと主張して、マイナンバーの使用の差し止めを求める訴えを、ことし12月をめどに東京や大阪など全国7か所の裁判所で一斉に起こす方針を固めました。
グループは、制度の利用範囲には個人のプライバシーに深く関わる情報が多く含まれているうえ、番号を行政機関だけでなく民間企業なども扱うため、情報漏えいの危険性が高いなどと訴えていくということで、マイナンバー制度が憲法に違反しないかどうか司法の場で審理される見通しになりました。
グループの中心メンバーの水永誠二弁護士は「年金情報が漏えいした問題が起きたように、情報が絶対に守られるとは言い切れない。いったん止めて考え直すべきで、問題提起していきたい」と話しています。


中国 新華社通信 天皇陛下に謝罪求める記事
中国国営の新華社通信は、このほど、「昭和天皇が侵略戦争の張本人だった」と主張し、皇位を継承した天皇陛下が謝罪すべきとする記事を配信しました。
この記事は、新華社通信が「抗日戦争に関するいくつかの難題についての解釈」という解説シリーズの1つとして、今月25日に配信しました。
記事では「日本が発動した侵略戦争は、軍国主義を育てて支えた天皇、政府、軍、財閥などが力を合わせた結果であり、彼らは責任を逃れられない」としています。
そのうえで、「日本の天皇の権力は明治維新から第2次世界大戦までの間に頂点に達した。昭和天皇が侵略戦争の張本人だった」と主張しています。
さらに、「昭和天皇は死去するまで、被害国とその国民に謝罪の意を示したことがなく、皇位継承者が謝罪で氷をとかし、ざんげで信頼を手に入れるべきだ」としています。
中国の国営メディアが先の戦争について天皇陛下が謝罪すべきだと論じるのは珍しいことです。
岸田外相「中国側に強く抗議」
岸田外務大臣は閣議のあと記者団に対し、「中国国内の報道とはいえ、天皇陛下に対する礼を著しく失しており、これまで表明されてきた中国側の立場と相いれないものだ。外交ルートを通じて中国側に強く抗議した」と述べました。


天皇は戦争責任を認め,謝罪せよ‼‼‼

デカンショ節/スペッツェレ/左ひざに切り傷

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Rugby : le Japon sommé de revoir sa Coupe du monde 2019
La première Coupe du monde de rugby organisée en Asie aura-t-elle lieu comme prévu au Japon en 2019 ? Le pays organisateur va devoir revoir sa copie. Le World Rugby, organisme international qui gère et organise les principaux tournois de l’Ovalie, vient en effet de demander au gouvernement nippon une nouvelle liste des stades et un budget révisé pour le Mondial 2019.
Ces demandes font suite à la décision du premier ministre japonais, Shinzo Abe, en juillet d’abandonner le projet de stade prévu à Tokyo pour les Jeux olympiques de 2020 et qui devait accueillir également la Coupe du monde de rugby un an plus tot – dont la finale. M. Abe a fait valoir que le cout prévisionnel du stade de 1,8 milliard d’euros était trop élevé et qu’il souhaitait que le projet soit repris à zéro, avec une conception entièrement revue. Mais à présent, toute nouvelle construction à l’endroit prévu en plein cœur de Tokyo sera achevée trop tard pour 2019.
≪ A la suite de […] la décision décevante du gouvernement japonais de retirer le nouveau stade de la liste des sites de la Coupe du monde de rugby 2019, [le] World Rugby a remis une nouvelle feuille de route au comité d’organisation au Japon afin qu’il donne des assurances quant à la réussite du tournoi ≫, a déclaré l’organisation internationale dans son communiqué. Elle donne jusqu’à la fin de septembre au Japon pour lui remettre une liste ≪ révisée et détaillée des sites capables d’offrir aux supporteurs et aux équipes une expérience sportive exceptionnelle ≫.
L’organisation internationale n’a visiblement pas apprécié la prise de position du premier ministre nippon, qui demande également un budget révisé du tournoi pour assurer ≪ une sécurité financière suffisante ≫.
≪ Le nouveau stade national devait être au centre d’un ensemble de douze sites et devait accueillir le match d’ouverture, la finale et des rencontres phare, et sa perte a des répercussions générales sur la capacité d’accueil et le budget de la Coupe ≫, poursuit le World Rugby dans son communiqué, exigeant ≪ des assurances officielles ≫ sur le budget et les sites.
≪ [Le] World Rugby reste convaincu que les critères requis peuvent être respectés par le comité japonais d’organisation de la Coupe de rugby 2019 et que la première Coupe du monde de rugby en Asie sera un succès retentissant ≫, ajoute néanmoins l’organe du rugby mondial.
La réponse du comité olympique japonais ne s’est pas fait attendre. Le comité d’organisation japonais a indiqué qu’il préparait un nouveau programme et un nouveau budget. En effet, les éventuels stades de remplacement ne pourront pas accueillir autant de spectateurs que le stade olympique prévu initialement, d’où une baisse des recettes de vente de billets.
≪ Le World Rugby et le comité d’organisation de la Coupe du monde 2019 ont entamé des discussions sur un nouveau programme et un nouveau budget, sachant que le nouveau stade ne serait pas prêt à temps ≫, a déclaré Akira Shimazu, son directeur général. Et d’ajouter : ≪ Nous travaillons dur pour trouver un accord avant la fin de septembre au plus tard. ≫ Le Japon dispose de plusieurs stades capables d’accueillir la Coupe du monde, dont celui de la finale du Mondial 2002 de football, situé à Yokohama, à une trentaine de kilomètres au sud de Tokyo.
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現代日本の闇を動かす「在日人脈」 (宝島SUGOI文庫)
野村 旗守
宝島社
2014-03-15


安倍晋三首相の知られざる在日ウラ人脈、山口組組長の人事につきまとう在日不文律、朝鮮総連本部売却にからむ奇怪人脈、在日の「聖地」京都の財界パチンコ人脈、副首相・麻生一族の「北朝鮮利権」、長州力・前田日明「在日格闘王」の秘められた系譜、「孫正義」日本のインフラ掌握の野望…もうひとつの「国家」、日本の闇に浸透してきた権力とカネの裏コネクションをえぐる禁忌を超えたルポ集!

南御堂の盆踊りに行きました.江州音頭や河内音頭だけでなく,東京音頭や炭坑節が聞けてよかったです.ドンパン節を聞きのがしたのは残念でしたが・・・それにデカンショ節が丹波の曲というのをはじめて知りました.「デカンショ」は哲学者の「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略だと思うのですが,どうして丹波の曲なのでしょう❓❓❓ビールを飲みながら過ごしたのですがあっという間に時間が過ぎた感じです.供養になったのでしょうか❓
御堂筋から新御堂と移動してドイツ料理のお店に行ってみました.ビールはPaulanerでうどんのようなスペッツェレspätzleを食べました.よくわからない味でしたが・・・
気が付くと左のひざが痛いです.よく見たら切り傷がありました.いつの間に❓❓❓という感じですが,どうしようもありません.老松通りが雰囲気いいなぁと思いつつ帰路についたのでした.

<災害公営住宅>カビ大量発生 健康被害も
 東日本大震災の被災者が暮らす宮城県南三陸町と同県気仙沼市の一部の災害公営住宅で、畳にカビが大量発生し、苦情が寄せられている。市町と施工業者は緊急点検を行い、対策に乗りだしたが、健康被害を訴える入居者もいる。カビは一部の仮設住宅で発生。「ついのすみか」となる災害公営住宅でも起き、生活不安が広がっている。
 カビが発生したのは、南三陸町歌津の町営枡沢復興住宅(20戸、鉄骨造3階)と気仙沼市の市営赤岩五駄鱈住宅(21戸、同3階)。南三陸は高台、気仙沼は山すその造成地に建設された。1階の少なくとも南三陸が6戸、気仙沼が2戸の居室の畳にカビが発生した。
 1月に完成した南三陸の住宅1階に住む後藤美智子さん(36)は、夫と2月に入居。6月下旬、6畳和室の畳一面に青いカビが生えているのを見つけた。雨の日に畳を外し、床下をのぞくと、雨どいの水がベランダにある排水溝からあふれ、床下に流れ込んでいた。
 後藤さんは「まるで川の上に住んでいるようだ」と訴える。畳を拭いても、カビは消えず繰り返し生え、現在も続くという。気管支炎を患う後藤さんは「呼吸が苦しくなり、せきも増えた。仮設住宅の方が環境が良かった」と肩を落とす。
 気仙沼では7月22日の入居開始直後、カビが発生したという。
 1階の菅原キヨコさん(84)は畳の下に新聞紙を敷いて応急対策を試みたが、和室中心部の床下点検口付近から再びカビが出た。畳の下の床板の裏には結露した水滴がびっしり。「2、3年したら板が腐る」と心配する。別の1階入居者も「畳のへりのカビで雑巾が青くなる」と嘆いた。
 両住宅は大和ハウス工業(大阪市)が建設し、市町が「公募買い取り事業」で取得した。同社は今月22日、南三陸の住宅の排水や通気口の対策工事を開始。気仙沼では近く1階全7戸を総点検する。
 同社の担当者は「両住宅とも構造上の問題はない。建物の気密性が高いため、換気が十分でない場合、空気が滞留してカビが発生する可能性がある」と説明。南三陸町と気仙沼市は「まずは原因を突き止めたい。新生活を始めたばかりの入居者が不安にならないよう丁寧に対応する」と話す。


<BRT>沿線5首長 本格復旧どうみる
 東日本大震災で被災したJR気仙沼線と大船渡線をめぐり、JR東日本は先月、宮城、岩手両県の沿線5市町(宮城県気仙沼市、登米市、南三陸町、岩手県大船渡市、陸前高田市)に対し、代替運行しているバス高速輸送システム(BRT)の継続による本格復旧を提案した。各首長に提案への賛否やJRに求める対策などを聞いた。
◆観光振興機能の回復を 菅原茂気仙沼市長
 JRが民間企業である以上、提案は重く受け止めている。しかし、BRT継続だけでは了承できない。鉄路が持っていた機能がよりよい形で回復するような提案を求め、近くJRと事務レベル協議に入る。
 要望の一つは、大量輸送できる鉄路が担っていた地域振興や観光振興機能の回復だ。JRには新たな施設などハード、ソフト両面の取り組みを求めている。もう一つは仙台へのアクセス。BRTは鉄路に比べ速達性に劣る。三陸沿岸道路での高速バス運行を確約してほしい。大船渡線と東北新幹線を乗り継ぐ場合の料金軽減などの配慮もお願いしている。
 鉄路復旧を望む市民は少なくない。ただ、利用客が減少し、サービス向上が望めなかった震災前の気仙沼線にどれほど希望があっただろうか。より大きな希望をつかみ取るため、JRと真剣に協議していく。
 被災した鉄路沿線では、復興まちづくりが着々と進んでおり、市民の意見をJRとの協議に反映させながら年内には決着させたい。
◆きめ細かいルート可能 布施孝尚登米市長
 気仙沼線沿線の住民の不安は、公共交通機関がなくなってしまうことだ。線路が走っていれば、そう簡単には交通機関はなくならないだろうが、バスは鉄路より撤退しやすいのではないかという懸念がある。
 とはいえ、鉄路での復旧は現実的ではない。経費が掛かるという面に加え、既にまちづくりが進んでしまった土地に後からレールを敷くのは難しいだろう。
 その点で、BRTは評価している。ルート設定などで鉄道よりも細かいニーズに応えやすい面もあり、路線バスに比べて定時性を確保できるからだ。
 登米市の場合、気仙沼線前谷地(石巻市)−柳津(登米市)間は鉄路が残る。その途中の陸前豊里駅周辺は、石巻など沿岸部出身者が多い。仙台や石巻へのアクセスが良いという理由で住んでいるようだ。JRにはその辺の事情をしっかり考慮してもらいたい。
 地域の足としてBRTにするのであれば、将来的な運行本数の減少あるいは廃止とならないよう強く求めていきたい。
◆復興推進鉄路待てない 佐藤仁南三陸町長
 JR側の提案を受け入れる。かさ上げ工事が進み現行ルートでの復旧は不可能で、気仙沼線を移設する場合は400億円足りない。国の財政支援はかなわず、町は到底負担できない。
 鉄路復旧にかかる時間も問題だ。新ルートの調査設計、用地買収を経ると、十数年必要になる。復興まちづくりをこれ以上遅らせるわけにはいかない。
 観光客の多くは自家用車や高速バスを使う。本年度は三陸沿岸道路が町内に延び、仙台市まで1時間で結ばれる。レールが残る柳津(登米市)−陸前戸倉(宮城県南三陸町)間の鉄路復旧を求めてきたが、鉄路にこだわれば乗り換えが増え、利用者には不便だ。
 BRTは地域の要望に沿って新駅や便数を決められる。今月5日には地域の産業団体との意見交換会を開いた。継続的に話し合い陸前戸倉駅の在り方をできるだけ早く結論付けたい。
 観光客は昨年、13%減った。2カ所の復興商店街が苦戦している。JRの協力を得て、観光資源の掘り起こしに力を注ぎたい。
◆高齢者の足確保が大切 戸田公明大船渡市長
 JRは勇気を持って今回の提案をしてきたと思う。責任ある公共交通の事業者としてベストな提案と評価している。
 市内の経済団体などとの懇談会を11月までに計4回開き、JRに対する市の要望をまとめたい。その上で(JRと沿線自治体が協議する次回の)首長会議に臨みたい。
 地域の公共交通の在り方として、まず配慮しなければいけないのは高齢者だ。JR、路線バス、長距離バスなどさまざまな交通体系があるが、車を運転できない高齢者の足をどう確保するか。これから高齢化社会が進んでいくのは確実で、そこを無視した議論はできない。
 地元の実情としては、今のBRTの終着は盛駅(大船渡市)だが、利用者の多い大船渡東高前まで路線を延ばすことは必要だと考えている。
 BRT専用道の割合も高めてほしい。現在の各駅停車の形ではなく、特急や急行の運行もあっていい。時間を短縮できるので、利便性が非常に高まる。
◆通学用に路線延ばして 戸羽太陸前高田市長
 JRが「BRTしかない」と断言した以上、こちらに選択肢はない。持続可能な公共交通を、どのような形で実現するかに議論は移った。
 地方の公共交通事情は厳しい。BRTが地域交通の基幹部分を担い、BRTの駅を起点に、離れた地域をコミュニティーバスなどでつなぐべきだ。公共交通の在り方を示す新たなケースになると思う。住民から意見を聞き始めており、9月末までに市内の全地区を回る予定だ。
 JRに求めたいのは、地元の高校生が使いやすい路線だ。大船渡市内の高校に通う生徒は盛駅(大船渡市)までのBRTしかなく、そこから別のバスに乗り換えるなど非常に不便だ。鉄路なら無理でも、BRTであれば拡充ができる。もう一つは、一関市までのアクセスをどう確保するかだ。
 BRTによる復旧で、陸前高田が鉄道のない街になってしまうことが気掛かりの一つだ。「この地域にJRは根を張っているぞ」と、その存在が分かるようなものがほしい。


<LGBT>悩み共有 仙台で大規模イベント
 同性愛者や性同一性障害者ら性的少数者(LGBT)のグループ「Anego」(アネゴ)が、仙台を拠点に、多様なセクシュアリティー(性的指向)が尊重される社会を目指して活動の輪を広げている。
 「同性の友人に自分が同性愛者と打ち明けた途端、距離を取られてしまった」
 青葉区の市市民活動サポートセンターで2日にあった「東北レインボーSUMMERフェスティバル」で、LGBTの当事者たちが悩みを打ち明けた。
 初めて企画した大規模イベント。約100人が市内外から集まり、トークショーやステージ、パネル展示を通じて互いの活動に理解を深めた。
 自身の性的指向と葛藤した両性愛者らの体験談やエイズウイルス(HIV)感染者の手記が紹介されたほか、女装によるダンスパフォーマンスがあった。硬軟取り混ぜたプログラムで日頃抱く思いを共有し、ネットワークを広げた。
 同性婚を合法化する動きが世界で広がり、東京都渋谷区は同性カップルを結婚に相当する関係と認めて証明書を出すなど、多様な性への注目が高まり、今回のイベントは過去の交流会にない盛況を呈したという。
 Anegoは2007年設立。セクシュアリティーを問わずに当事者や一般市民が年4回語り合うティーパーティーを活動の柱とする一方、LGBTへの理解を促すための講演会も開いてきた。東日本大震災の影響で一時活動を休止したが、昨年4月に再開した。
 「考えの違いを尊重し、一人一人の生き方を認め合って暮らせることが大切」と目標を描くのはメンバーの太田ふとしさん(40)。代表のキャシーさんは「垣根なく交流できる場を今後も積極的につくりたい」と意気込みを示す。


【マニアック街道】 遊郭・飛田新地でも中国人“爆買い” 大阪観光ついでにゾロゾロ…賑わいの裏で色町は“サービス”改善模索
 遊郭の名残をとどめる大阪・西成区の飛田新地に、中国人観光客が押し寄せている。ツアーで都心のホテルなどに泊まり、夜は男同士で示し合わせ、女性や子供と別行動で“お楽しみ”の時間を過ごしているようだ。お得意の“爆買い”でお金をたくさん使ってくれ、街は繁盛してホクホクかと思いきや、料亭を束ねる飛田新地料理組合からは意外な反応が返ってきた。いわく「一過性の外国人客だけを相手にする商売は“先”がない」。3年後の平成30(2018)年は新地が誕生して100年。それに向け、組合はサービスを含め大胆な改革を検討している。
 8月のある夜、飛田新地で中国語で話しながら歩く男性3人組を見つけた。いずれも30歳前後。Tシャツやポロシャツに半パン、ジーパンというラフな格好で、ホステスの女の子や客引きの年配女性が座る店の玄関口をのぞきながら通りを行ったり来たりしていた。
 そのうちある店の前で立ち止まり、身ぶりを交え中国語で交渉を始めた。間もなく1人が中に入り、女の子と階段を上がっていき、残る2人は店の外でたばこを吸うなどして待機。約15分後、中に入った男性が出てくると、また3人で楽しそうに話しながら通りを歩き出した。どうやら、気に入った女の子を見つけた者がその店に入り、残った者は外で待つと決めて街をめぐっているらしい。
 近くの通りには中国語で会話する別の男性グループもおり、やはりどの店に入ろうかと行きつ戻りつしていた。彼らは情報にも詳しいようで、歩いていたのはいずれも、若くてかわいい女の子が多いと評判の一角だった。
妻子をホテルに残して…
 地元関係者によると、飛田新地には数年前から中国人や韓国人ら外国人客が増え始めた。中でも目立つのは中国人で、観光で来阪し、夜は妻や子供をホテルなどに残し、男同士でやって来るという。車でやって来る団体客も多いようだ。
 今はネットやクチコミで海外の観光客に日本の風俗情報も伝わりやすいが、特に飛田新地が好まれるのは店の特色にある。「海外でその手の店といえば“できる”のが一般的。だから日本独特のヘルスなどはサービス内容も違い、システムも分かりにくく敬遠される。その点、飛田は女性を見て選べるし、値段も手頃で、彼らの感覚にピッタリくる」(地元関係者)
 しかし、そんなにぎわいにも、街の関係者の表情はさえない。ある関係者は言う。「確かにお金を落としてくれるが、言葉が分からず、やりにくいという店もある。(営業終了の)午前0時を回っても、とどまろうとする客がいたり…。どうも感覚が違う」
 別の関係者も話しにくそうにこう言う。「彼らの中にはマナーが悪かったり、女性を“モノ”のように見たりする客がおり、店側もいい客とは思っていない」
 飛田新地は現在、こうした外国人客に加え、大阪府外から観光ついでや遊びでやって来る客も多く、回転を速くするため、15分や20分という短い時間制をとる店もある。
 しかし飛田新地料理組合の関係者はこうした傾向は歓迎できないという。「今は一過性のお客さんでにぎわっている状態で、週末はともかく、全体的にはそんなに人は来ていない」。地元の客が減り、むしろ活気が薄れているというのだ。
3年後の飛田新地100周年に向け改革模索
 別の組合幹部も言う。「外国人客や遠方の客だけを相手にしていてはだめ。地元を大切にしない商売は先がない。“一発屋”のイメージでは風情もない」
 実際、遊郭の形態をとる他地域の街が、そうした“外”からの客に頼って衰退した例も見てきたという。飛田でも過去、花の万博(平成2年)やバブルのころは外からの客でにぎわったが、その後に客足が衰えるなど反動を経験した。
 そこで組合は「一日勤労した人が明日も意欲がわき楽しめる街」というキャッチフレーズのもと、街のカラーや料金・時間を含めたサービス内容などの改革を検討している。
 先の組合関係者は「昔は“やって帰る”だけでなく、一杯飲みながら三味線の芸を楽しむなど情緒があった。今はそういう形での営業は無理としても、もう少しゆっくり遊んでもらえるようにしたい。例えばお客さんが1万円払ったら、10分、15分程度で追い出すのでなく、せめて20〜30分は滞在してもらい、納得して帰ってもらおうということ」と話す。
 大正7(1918)年に誕生した飛田新地は3年後の平成30(2018)年に100周年を迎える。改革はそれを見据えたもので、今後、各店とも話し合って具体化していくという。

右足指を突き指?体しんどくてジムをパス

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Le typhon Goni frappe le Japon, plusieurs milliers de personnes prêtes à l'évacuation
L'alerte cyclonique est décrétée mardi 25 août sur plusieurs préfectures au Japon, et des centaines de milliers de personnes pourraient être évacués. Quelque 280 000 habitants de la préfecture de Yamaguchi sont invités à évacuer les zones les plus exposées aux glissements de terrain face au typhon Goni, qui balaye le sud et l'ouest de l'archipel.
Le typhon Goni se déplace vers le nord du pays, générant des vents de 180 km/h et des précipitations diluviennes atteignant 200 mm à l'heure, selon la météo nationale japonaise. Le pays comptait déjà 70 blessés dans la matinée (heure du Japon). Les transports ferroviaires et aériens sont fortement perturbés. Les compagnies Japan Airlines et ANA ont respectivement suspendu 110 et 78 vols intérieurs, mais les liaisons internationales ne sont pas affectées.
Au moins 26 morts lors de son passage aux Philippines
Ce 15e typhon de la saison en Asie a fait au moins 26 morts lors de son passage aux Philippines. Il a frappé la préfecture japonaise de Kumamoto, sur l'ile de Kyushu, au sud du pays, puis celles de Kagoshima et Fukuoka, selon l'Agence météorologique japonaise. Goni est attendu, jeudi, dans le nord-est de la Chine, selon l'agence de presse Chine Nouvelle.

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きらり!えん旅〜山内惠介 宮城・東松島市へ〜
山内惠介さんは5月に全線で運行を再開した仙石線に乗って東松島市を訪れた。農家の女性たちが「スコップ三味線」の演奏で歓迎!スコップを三味線に見立てて楽しんでいるという。果たしてどのような演奏なのでしょう!? 津波で大きな被害を受けた野蒜(のびる)地区で再開した食堂で絶品の海の幸ラーメンを味わった。市内の仮設住宅で生まれた人気キャラクター・おのくんに新しい活動拠点が生まれた。
山内惠介, 冨永みーな

路地の教室―― 部落差別を考える (ちくまプリマー新書)
上原 善広
筑摩書房
2014-01-07


現代的な意見でわかりやすい nissie

同和問題(被差別部落の問題)について,現代的な感覚と視点でわかりやすく語っている,エッセイ的な作品でした。著者は,自身のルーツが被差別部落であることをカミングアウトしています。全体を通じて感じられた印象は,「立場を超えて,フェアに書こう」としている著者の態度でした。私の場合,人権論との関係よりも,民俗学的な興味でこの本を手に取ったのですが,わかりやすくて良い本だと思いました。


阪神・淡路大震災は被差別部落にどのような被害をもたらしたのか。救援活動はどのように展開されたのか。本書は、被災二年を前に、被差別部落における被災の状況、救援活動、復旧・復興の過程を振り返り、現状と課題の検討材料として編集された。また、部落の被災・復旧状況をマスコミがほとんど報じなかったことを踏まえ、あらためて一冊にまとめ、被災体験の風化に警告を発することも本書の目的である。
もう一度学ぶ日本語
長尾昭子
アスコム
2015-05-23


あいさつ、敬語、大和言葉、季節の言葉…外国人に美しい日本語を教える専門家だからわかる日本語の再発見。日本人は日本語のことを意外に知らない。おもてなし、相手への気づかい、四季のうつろい…日本語には日本のこころがあらわれています。
とことん!部落問題
角岡 伸彦
講談社
2009-04-23


当事者として、部落の依存体質と、それを助長するメディアや行政を斬った良書。  ぽるじはど
 2002年の国による同和対策予算措置が切れる迄、3LDK+駐車場で約¥1万の破格の家賃や、運転免許取得・就学費用の補助、エアコン完備の学校等、他地区と比べての優遇は続けられてきた。
 勿論現在も各自治体によって個別措置は続けられ、(表ざたにはならないが)自治体への就職・昇進に圧力をかけている事例もある。
 そのような身近な部分に触れられていないのは不満だが、飛鳥事件の故小西氏への取材や自身の記事広告の例から、部落の住民のみならず行政・銀行・メディア等周囲が一体となっての依存や阿りを斬っている。
 そして『黒い憂鬱』の優遇措置を受ける黒人と同様に、肌の色や部落出身である事をパスポートに「優遇=平等」と思い込ませ、被害者意識を刷り込み、依存体質化させ、無力感を助長し、自尊心を弱めてきたとも。
 飛鳥事件にしても、長老を中心とする村社会を思わせるが、議員・行政への“お任せ民主主義”から脱却できていない社会はそれを嗤えまい。
 共産党のように差別した者を擁護し囲い込むのは論外だが、妬みで優遇を逆差別と言い足を引っ張るのも得策とは言えまい。
 良か飯を食う者を引っ張りたい気持ちは理解するものの、公務員叩きが巡り巡って多くの民間労働者としての自分の労働環境を更に落とす事に繋がっているように、部落の足を引っ張る事が、他国と比べて決して恵まれているとは言えないセーフティネットを更に削減する事の遠因とはならないか、と考えてみることも必要だろう。
 そうであれば、部落外も部落も含めて行うべきは、「部落にもあるものを部落外へ」との著者の指摘は正論であり、メディアの「臭いものに蓋」に負けず、本書のような指摘がより多くに知られ行動が起こされてこそ部落差別は解消へと向かうのではないか。


なんだか右足の指が痛いです.突き指してしまったかなぁ・・・
夕方ジムに行くつもりでしたが,体しんどくてパス.本を読んで過ごしました.
 
子ども・被災者支援法 改定方針を閣議決定
 政府は25日、東京電力福島第1原発事故による被災者を支援する「子ども・被災者支援法」の改定基本方針を閣議決定した。福島県内の空間放射線量の低減などを理由に「避難指示区域以外の地域から、新たに避難する状況にない」との方針を明示。自主避難に関する支援を縮小する一方、古里への帰還や避難先などでの定住支援に軸足を移す。
 2013年に閣議決定した方針の改定は初めて。復興庁は9月中にも、16年度から展開する被災者支援の具体案を示す予定だ。
 改定では放射線量の低減を受け、福島県内33市町村を指定した支援対象地域について「縮小または撤廃が適当」とした。ただ、避難者が帰還や定住を判断するには一定の期間を要するため、当面は対象地域を縮小しない方針を盛り込んだ。
 復興庁は7月、改定案を提示。その後、避難者らから寄せられた約1500件の意見も踏まえ、放射線の健康影響に関する国際的知見を丁寧に説明する方針を盛り込むなど微修正した。
 竹下亘復興相は閣議後の記者会見で「避難している人にも、地元に住み続けている人にも、引き続き必要な支援を行っていく」と強調した。
 福島県内外に自主避難する被災者と支援団体「FoEジャパン」などは25日午後、東京都内で記者会見し「新たに避難する状況にはないというのは国による決めつけで、撤回してほしい。国による被災者切り捨ては許せない」と抗議した。


<ツール・ド・東北>救護員 協力の輪広がる
◎進化に挑む(5完)縁の下の思い
 第2回ツール・ド・東北のスタートを翌日に控えた昨年9月13日午後10時ごろ、石巻赤十字病院(宮城県石巻市)の災害救護係長、高橋邦治さん(44)は発着点の石巻専修大に入った。救護チームのテントを設け、医療用資機材を準備するためだった。
 最長で200キロを超えるツール・ド・東北のコースは一般道で交通規制がなく、交通量の多い所や狭い道を含む。高橋さんは「出場者の安全を守るのがわれわれの務め」と語る。
<いち早く対応>
 赤十字病院は大会が始まった2013年から運営に協力し、医師や看護師、職員らが救護チームの中核を担う。昨年は前回の2倍に当たる約40人が参加し、チームの6割を占めた。
 チーム員の当日の活動は早朝から半日に及んだ。約10台の車で主なエイドステーション(休憩所)に詰め、同時にオートバイや自転車でコースを走り、アクシデントに備えた。当日の救急出動は十数件で、うち約10件は赤十字病院のドクターカーなどが対応した。
 救護統括を務めた石巻赤十字病院救命救急センター副センター長の小林道生さん(38)は「病院に搬送するまで、いち早く負傷者に医療的なアプローチができた」と振り返る。
<広域災害 想定>
 震災で石巻地域のほとんどの医療機関が機能停止に陥る中、内陸部に移転新築していた赤十字病院は被災を免れ、「地域医療のとりで」と呼ばれた。
 震災後は、それまでの2倍となる約200人を救護班員に登録。病院外で開かれるイベントの救護員として積極的に派遣し、実践を積む。
 14年度は計25のイベントで延べ179人が救護に当たった。回数、人数とも周辺の他病院より多い。ボランティアとして携わるが、スタッフは業務の一環と捉え、緊張感を持って活動する。
 石巻、気仙沼、女川、南三陸の宮城県内2市2町で開かれるツール・ド・東北での救護活動は広域災害への対応を想定した実践の機会とも言える。昨年は近隣の病院の看護師や気仙沼市の消防関係者らも救護チームに加わり、協力の輪が徐々に広がっている。
 医療や多くの関係者に支えられるツール・ド・東北は9月13日、スタートの号砲が鳴る。小林さんと高橋さんは縁の下の人たちの心境を代弁する。
 「出場者に安心して走ってもらい、また参加したいと思ってほしい。復興への願いを一つにしたい」(ツール・ド・東北取材チーム)


<その先へ>かっこいい水産業に/新3K掲げ東奔西走
◎漁師 阿部勝太さん(石巻市)
 かっこいい、稼げる、革新的だ。これを水産業の「新3K」にしたい−。宮城県石巻市北上町十三浜の大指地区でワカメ養殖を営む阿部勝太さん(29)は夢を抱く。
 漁師の長男に生まれ、市内の高校卒業後は仙台市や東京などで働いた。外の世界を見るため5年間だけの約束。2009年1月に地元に戻り、漁師になった。抵抗はなかった。
 仕事は子どものころから知っていたが、実際は想像以上に過酷だ。「休めない上、繁忙期は朝から晩まで労働時間が極端に長い」。会社勤めとのギャップに悩み、不満が募った。
 一般的に漁師にはマイナスイメージが付きまとう。きつい、汚い、稼げない。家業でなければ、仕事にしなかったかもしれない。
 11年3月11日、東日本大震災で約40世帯の小さな集落は壊滅し、自宅と工場も流失。阿部さんは高台に逃げて命だけは助かった。
 何もかもなくなった。まだ25歳だった。「今なら再就職もできる」。大指地区を出ることも考えた。しかし、漁師を続けると言う父親を残して離れられない、と地元にとどまった。
 震災で親友2人を亡くした。「いつ死ぬか分からないなら、せめて生きた証しを残したい。震災前にあった漁業への不満を解消できるような商売をしよう」
 父親を含む地元の5世帯が11年11月、漁業生産組合「浜人」を設立。コンブとワカメの種付けを始めた。理事になった阿部さんは販路開拓に取り組んだ。
 「漁師の収入の不安定さを改善する必要があった」。市場に左右されず、生産物を一定の価格で買ってくれる取引先を見付けるため、飛び込み営業や商談会で各地を回った。
 「もうける仕組みをつくって若い人を雇用する。増えた人員でシフトを整え、交代で休める態勢にする。自分が嫌なことは、次世代に引き継ぎたくない」
 成果が次第に表れ、売り上げは震災前を上回った。現在は30歳以下の男女6人が浜人に加わり、仕事が落ち着く7〜11月は週休2日、繁忙期でも週に1日は休める。
 13年の漁業就業者は全国で約18万人。うち30代以下は約17%、20代以下は3%にすぎない。危機感を抱いて14年5月、宮城県内の若手の漁師や水産加工業者らで「フィッシャーマン・ジャパン」を設立した。
 新3Kを掲げ、インターネットショッピングへの出品や漁業体験ツアー、シェアハウスを活用した若手漁師育成などに取り組む。水産業に関わるフィッシャーマンを10年で1000人増やすのが目標だ。
 阿部さんには子どもが3人いる。好きな仕事に就いてほしい、と思いながらも「漁師をやりたいと言われたら、きっとうれしい」。(高橋公彦)


米軍施設爆発 地位協定の改定求めよ
 相模原市の米軍施設で起きた爆発事故。原因究明が急がれるが、日米地位協定が壁となり、日本の警察や消防は捜査権を持たないのが現実だ。政府は地位協定の改定を、米国側に求めるべきである。
 日米地位協定は、日米安全保障条約に基づいて在日米軍の法的地位などを定めたものだ。在日米軍の軍人らに特権的な法的立場を認め、米軍絡みの事件・事故が起こるたびに、問題点が指摘されながら、一九六〇年の締結以来、一度も改定されていない。
 二十四日未明に倉庫が爆発した相模原市中央区の米陸軍「相模総合補給廠(しょう)」の周辺には住宅街が広がる。なぜ爆発が起きたのか、再発を防ぐにはどうすべきなのか。近隣に住む人たちや、住民の暮らしを守る立場の関係自治体にとっては重大な関心事である。
 しかし、地位協定は、米軍専用施設・区域内では、米国がその設定、運営、警護、管理など必要なすべての措置をとることができ、米軍が警察権を有すると定める。
 日本の警察は米軍施設・区域内で、米軍の同意があれば捜索や検証ができるが、そもそも捜査権がないため、強制力はない。
 相模原市の加山俊夫市長は記者会見で、原因調査に消防や警察が関われるよう、地位協定の見直しを政府に要請する考えを示した。
 今回爆発事故のあった神奈川をはじめ茨城、埼玉、千葉、東京、静岡、沖縄など米軍基地が所在する十四都道県の知事でつくる渉外知事会も、地位協定の見直しや改定を繰り返し求めてきた。
 地域住民の安全を預かる市長や知事としては当然だが、日本政府は地位協定の運用改善にとどめ、改定を提起したことはない。
 日本でありながら、日本が捜査権や裁判権などの主権を行使できないのが米軍基地内であり、それを定めるのが地位協定だ。
 国家主権を重視するはずの安倍晋三内閣がなぜ、地位協定の改定には目もくれず、米軍を支援する安全保障法制関連法案の成立をはやるのか、不思議でならない。
 在日米軍専用施設の約74%が集中し、米兵らによる事件・事故が多発する沖縄県では、かつての米軍統治や治外法権を想起させる地位協定の改定は、基地縮小とともに県民の切実な願いだ。
 地位協定の現状を放置すれば、米軍基地が住民の敵意に囲まれ、日米安保条約体制の円滑な運用にも支障が出かねない。日本政府は地位協定の改定を要する切迫した現実を理解すべきであろう。


安保法案:学生の街、反対の動き拡大 府内10大学で組織的運動 /京都
 安全保障関連法案の廃案を求める動きが、大学関係者の間でも広がっている。関西の学生有志でつくる「シールズ関西」が6月に京都市で大規模なデモ行動をして以降、各大学では廃案を求める声明を提出するなどした。現在少なくとも10大学で組織的に運動。「大学の街京都」の特性を生かし、大学数に占める組織の比率は全国で一番高い。【川瀬慎一朗】
 取り組んでいるのは18日現在、京都▽京都教育▽京都工芸繊維▽同志社▽立命館▽龍谷▽佛教▽京都橘▽京都府立▽花園−−の10大学。8月5日には、京都市南区で安保法案反対に取り組む京都の大学が一堂に会する集会が開かれた。代表者がそれぞれの取り組みや考えを述べ「各大学の運動をつなげよう」などと訴えた。
 いち早く声明文を出したのが龍谷大。6月24日に作成し首相官邸にも送付している。同志社大では7月13日に村田晃嗣学長(政治学)が国会で法案に肯定的な発言をしたことから、教職員有志など複数の関係団体が声明を発表。勉強会も開いた。京都大の「自由と平和のための京大有志の会」は声明への賛同者を大学に限らず集め、2000人以上に達した。8月にも京都教育大や京都工芸繊維大の教職員有志らが会を結成し、公私立問わず運動が広がっている。
 全国的な学者有志の組織「安全保障関連法案に反対する学者の会」によると、反対運動に取り組む全国の大学は90校以上。都道府県別では東京(全大学139校)の28校が最多で、次いで京都(同34校)の10校。大学数あたりでは京都が最も多い。
 京大有志の会の発起人の一人で、京都大の藤原辰史准教授(農業史)は「大学と暮らしが接近している京都だからこそここまで広がる。大学間も近く、情報を交換しやすい」と分析。また「会に関係なく反対運動をしている人はおり、実際はもっと多く活動している」と話す。
 学生と教職員が一緒に活動する場面も多い。シールズ関西は、毎週金曜日に関西各地の街頭でスピーチ活動をし、毎回学者をゲストスピーカーとして迎えている。14日には立命館大の君島東彦教授(平和学)が「シールズは誰かに言われてやっているのではない。彼らは自分の頭で考え、自分の言葉で話している。それが一番重要なことだ」と強調した。
 シールズ関西の塩田潤さん(24)=神戸大大学院2年=は「反対のためにはただ叫ぶだけでなく知識が必要。学者の皆さんと連携し、知識を共有しながら行動することですごく力をもらえる。相乗効果を生んでいる」と話す。こうした動きに藤原准教授は「学生が教員をつるし上げていた時代の頃から隔世の感がある。一緒に行動しなければならないほど、危機的な状況という表れだ」と指摘する。
 一方、これまで90以上の大学で反対声明が出ているが、学長名義のものはほとんど無い。立命館大の野沢啓准教授(数学)は「大学の持つ社会的使命から大学として活動することが望ましい」と語る。14日に開かれた学者の会とシールズ関西との意見交換会で「各大学で連携して学長に(活動に参加するよう)アプローチすべきだ」と提案した。立命館大では、吉田美喜夫学長が公的な場で「法案を巡る状況はきわめて深刻な問題を我々に問いかけている。幸いに全国の大学人、若者が問題提起しており大きく励まされる」と発言しているが、公式に反対表明はしていない。
 シールズ関西は、全国若者一斉行動が行われた23日に呼び掛け、約1800人(主催者発表)が東山区の円山公園から市中心街まで約1・5キロをデモ行動した。9月1日午後6時からは、京大有志の会が京都大西部講堂(左京区)で大規模集会を予定している。
 藤原准教授は「京大だけでなく多くの大学関係者が集まる。京都には国会も官邸もないが学問、文化の中心地で声を上げる事は大きな意味を持つ」と話している。

雨でびしょびしょ→下着も濡れて/民団の地方参政権

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Le typhon Goni et ses vents à 198 km/h arrivent au Japon
Le puissant typhon Goni a frappé le sud-ouest du Japon mardi 25 août au matin, perturbant les transports ferroviaires et aériens. Accompagné de vents soufflant en pointe à 198 km/h, ce quinzième typhon de la saison en Asie, qui a fait au moins vingt-six morts aux Philippines, se déplace vers le nord, longeant l’île principale de Honshu.
L’agence météorologique japonaise a averti des risques de très fortes précipitations et vagues géantes. Au moins treize personnes ont été légèrement blessées sur l’île de Kyushu, la plupart à cause de vitres brisées, selon un responsable local. Des véhicules ont été renversés et quelques toits ou pans de mur emportés, d’après les images montrées par la chaîne publique NHK.
Coupures d’électricité importantes
Les autorités locales ont émis au total des conseils d’évacuation pour quelque quatre cent mille habitants par crainte de possibles glissements de terrain et inondations, selon les données compilées par NHK. Plus de quatre cent vingt-cinq mille foyers étaient par ailleurs privés d’électricité dans la matinée.
La compagnie régionale Kyushu Railway a dû interrompre de nombreuses liaisons ferroviaires. Plusieurs lignes de train à grande vitesse Shinkansen ont aussi été suspendues en attendant que le calme revienne. Dans les airs, quelque trois cents vols au départ et à l’arrivée d’aéroports de la zone ont été annulés principalement le matin, y compris des liaisons internationales entre Fukuoka et Séoul ou Shanghaï.
Le typhon devrait ensuite prendre la direction du nord-ouest au-dessus de la mer du Japon. Il avait auparavant dévasté le nord des Philippines, où il avait déclenché des coulées de boue et des inondations, tuant au moins vingt-six personnes, dont treize mineurs ensevelis par un glissement de terrain et une fillette de 5 ans emportée par une rivière en crue, selon le dernier bilan des secouristes.
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ゆめいらんかね やしきたかじん伝
角岡 伸彦
小学館
2014-09-11


“素顔”のたかじん ma-08s
 ファンの方々には申し訳ないが、やしきたかじんが嫌いだった。正確に言えば、“あの番組”以降、嫌いになった。
 たかじんは、いかにも大阪的な“突破者”だった。番組中でゲストに酒を飲ませる無茶をしでかし、納得いかない商品には、生放送で公然とメーカーにクレームを付ける。一方で眼力鋭く、「これは」と思う品は、強烈にプッシュした。毒気も強いが、なぜか憎めない、愛すべき“やんちゃくれ”だった。
 けれど、“あの番組”の辺りから、たかじんは変わってしまった。本人からも番組からも“笑い”が消え、止めどなく吐き出した毒気は、番組に収まらず、世間の空気までトゲトゲしく変えていったように思えた。最後までお笑い路線を守っていた『胸いっぱい』からも、良い意味で「しょーもない」ゲームコーナーが消え、他の番組と似たり寄ったりの評論番組に変貌してしまった。
 そんなたかじんが世を去って8ヶ月後。本書で一つの隠されていた事実が明かされる。
「たかじんの実父は、在日韓国人」
 最初に話を聞いた時には、そんなんアリか?と思った。卑怯だとも思った。
“あのような番組”のMCを務めておきながら、自分は投げ返されない物陰に隠れて、一方的に石を投げつけていたというのか? ふざけるなと思った。
 いったいどの面下げて、と、半ば怒りを覚えながら、本書を手に取った。
 しかし、本当に意外だったのだけど、読後感は非常にさわやかだった。
 たかじんの最大のタブーを暴きながらも、本書はいわゆる“在日認定”的な、本人の弱みを暴き立て、あげつらう、陰湿なゴシップ本ではない。むしろ、たかじんの生涯を追体験する、“自伝以上の伝記”と思えた(あくまでも“個人の感想”ではあるけれど)。
 本書は、やしきたかじんという歌手、タレントを、私に再認識、再評価させてくれた。
 筆者の角岡氏は、いわゆる“部落”出身であることを明かしているライターだそうだが、本書においては、むしろ“関西人”のスタンスだ。
『晴れ時々たかじん』、『たかじんnoばぁ〜』。ビールを片手に「(あきまへん)開けまっせー!」「これやがな!」。関西人なら誰もが記憶にとどめる。懐かしい番組やCMの名前が飛び出し、フラッシュバックするたび、思わず笑みがこぼれた。 
「そうや。たかじんって、こんな奴やったよなぁ」
 テレビという“箱”をいかに壊すか、創意工夫と模索を重ね、新しい試みを次々と成功させていった。今では帯番組の定番となった“フリップ”を編み出したのも、実はたかじんだった。
 大阪で生まれ、育ち、ブレイクしたやしきたかじんという歌手、タレントを、リアルタイムで目にしてきた人間でしか描けない文章だ。出自の件も、“追体験”の過程の一つに過ぎず、ルーツを隠し続けた行為に疑問を挟みながらも、その視線には棘は感じない。
 同時に、“あの番組”と前後しての、たかじんの変貌も(容赦なく)描かれている。
 年齢による衰えから、歌手、コンサート活動から遠のき、タレント活動に軸足を移すうち、独善が増していく。理解者を遠ざけ、ファンクラブは一方的に解散。夫人からは三行半を突きつけられ、車の前後席の間にはパーティションが設けられて、マネージャーとの会話すら減少していった。
 代わりにたかじんの周囲に群がりだしたのは、“政治屋”を筆頭とする“大物”たち。タレントとしては全国的なブレイクを果たしたかに見えても、実情は煽てられ、持ち上げられ、名前を利用される存在だった。
(現役の総理大臣が弔辞を述べるなど、たかじんはある意味“絶頂”のまま逝ったのだけど、私には“転落”、あるいは“堕落”にしか思えない。90年代までのたかじんは、政治家、特に倫理的に“潔癖症”な東京型の政治家からは、間違ってももてはやされるタレントではなかった)
 たかじんが“広義の在日2世”だという事実は、身近な人々、あるいは在日社会の間では、広く知られていたらしい(注;たかじんは在日の血を引いているが、自身は生涯日本国籍だった。差別を恐れた実父の配慮、との話)。
 しかし、出自を隠したたかじんに対する非難の声は、少なくとも本書の登場人物からは聞かれない。聞こえるのは、同じ「どうして打ち明けなかったのか」でも、むしろ(期待の裏返しとしての)失望の声だ。
「たかじんならきっと乗り越えられた」、「打ち明けていれば、もっと株が上がっただろうに」。
 もっともだと思った。あれだけ大阪で愛された男だ。
 どこかで「実を言うと、ワシな……」と、ぽろりと漏らしてくれていたなら。
「あんた、そんなん気にしとったんかいな? アッホやなぁ〜!」。大阪は、そう言って、笑いながら受け入れていただろう。
 けれど、たかじんは最後まで打ち明けられなかった。“最後の一皮”を脱ぎ捨てられず、逆に虚栄のベールを次々被っていったようにも思える。
 出自の件だけではない。最後の闘病についてもまた然り。漏れ伝わってくるわずかな情報からでも、“治る病気”ではないと、分かる人間には分かっていたのに、芸能ニュースで流されるのは「順調に回復」、「復帰間近」の、空々しい近況報告ばかり。
 テレビのタブーを破り、乗り越え、本音で生きてきたはずの男が、いつの間にかタブーだらけの存在になってしまっていた。最期の時、“3番目の夫人”の意向で、マネージャーさえ死に顔を拝めなかった、あるいは、総理大臣が発起人となった“偲ぶ会”から、危うく夫人以外の親族が閉め出されそうになったなど、たかじんが悪い意味で“雲の上の人”になってしまっている現状が記されている。
 著者も、“3番目の夫人”をはじめ、多くの関係者から取材拒否を受け、「あたかも箝口令が引かれているようだった」と述べている。死後も、たかじんの“タブー”は、“腫れ物に触るがごとし”の扱いらしい。
 本書を称して「掘り下げが浅い」という評価が聞かれるのも、止むを得ないところだろう(最近、百田尚樹氏の執筆で“夫人側”から闘病生活が描かれた書が世に出たが、立ち位置の違いでどう景色が変わっているか、興味の湧くところではある)。
 だが、“救い”もある。
 本書の最後で、元マネージャーが発起人となり、一周忌に『やしきたかじん被害者の会』を開催するプランが紹介されている。
 思わず噴き出した。さすが、分かってらっしゃると思った。ご立派でわざとらしい『偲ぶ会』よりも、よっぽど“らしい”と思った。
 その一周忌も、もう間近となった。実現の暁には、どんな“被害届”が披露されるのだろう?
 その時こそ、本当に素顔のたかじんが“降りてきて”くれるような気がする。もしも本書に“増補改訂”があるならば、どんな光景が描かれるだろうか。



日本中を沸かせるサッカープレーヤー、プロ野球界屈指の名選手、プロレス「最強伝説」の男、カリスマアクションスター、昭和最後の銀幕美女、国民的演歌歌手――現代日本の芸能、スポーツ界を支えるコリアンパワーの真実
在日コリアン3世、舌鋒鋭い論客・朴一が、戦後復興期の英雄・力道山からアジアカップ優勝を決めたストライカー・李忠成まで、隣の国からやってきた日本の興行界の花形スターたちの生き様、パワーの源、知られざる苦悩を赤裸々に描く――。

日本共産党vs.部落解放同盟 (モナド新書)
筆坂 秀世
にんげん出版
2010-10


負の歴史を乗り越えられるか、一つの試み Rob Jameson
 究極的には差別からの解放を希求する名うての二人の著者に加えて哲学研究者としても知られている大窪一志氏が絡んで戦前戦後を通じて日本の政治・社会に強い影響を与えた二つの組織の過去と現在に切り込む。本来は新書には収まりきらない内容である。
 1920年代初頭に生まれ手をたずさえてきた両者の関係に1965年頃から亀裂が入り、今日ではともに組織自体衰退し存在意義をも失いつつある。「革命」から「議会」へ転じた共産党、差別「糾弾」から「利権」追求に変わった同盟の、一般には知られていない多数の事実、事件が明らかにされ、正と負の両面からそれぞれの理論、政策、方針、社会運動について論述されている。意図したとおりかは不明だが、忘れられた現代日本の深層の一面を鋭く突く好著である。
 筆坂・宮崎両氏の対談が軸になっているが、発言の間に挿入された説明文がものによっては1頁に及んで、談話の流れとリズムが切断されるのは、何とかしてほしかった。


妙に出かけるのに雨が降ってきました.行きは堂山町のあたりでパラパラと降って大したことはなかったんですが,帰り大東町あたりから土砂降りでびしょびしょになりました.rain cats and dogsです.下着も濡れて気持ち悪いです.
中崎町のあたりで民団の建物がありました.地域住民である在日韓国人に地方参政権を!というスローガンは正しいと思いました.

<ツール・ド・東北>被災地の今 海外に発信
◎進化に挑む(4)増やせ訪日客
 「サイクリングが人気の台湾から観光客を獲得したい」
 訪日外国人旅行客の拡大を図る宮城県はツール・ド・東北に期待を寄せる。台湾の自転車専門誌と旅行会社の関係者を大会に招くツアーを初めて企画した。
 「まずはメディアを通してサイクリングコースの知名度を上げる。それが浸透すれば旅行客が増える」。県観光課の伊藤崇宏さん(34)が熱っぽく語る。
 思い描く将来像は、愛媛、広島両県をつなぐ「瀬戸内しまなみ海道」だ。
<四国での成功>
 海峡の六つの島々を自転車道が整備された橋を渡りながら駆ける全長約70キロのサイクリングコース。2012年に訪れた台湾の大手自転車メーカー「ジャイアント」の会長が絶賛するなど、海外の自転車ファンからも注目を集める。
 四国側の起点となる今治市によると、市内に宿泊した外国人旅行者の推計値は10〜12年の8万人台に対し、13年は10万6384人に増えた。昨年は14万1275人と順調に来日客を取り込んでいる。
 国籍別で多いのはやはり台湾。昨年10月に初めて開催された国際サイクリング大会で、外国人の参加者525人のうち台湾はトップの145人を占めた。
 しまなみ海道の強みは海上を駆け抜けるような体験ができる点や、風光明媚(めいび)な景観が挙げられる。
<支援が懸け橋>
 東北に外国人ライダーを増やすには何を売りにするか。ツール・ド・東北では被災地の「今」をキーワードの一つに掲げる。
 震災後、被災地支援を通じて台湾との関係は深まる。コースの宮城県南三陸町は病院建設で台湾赤十字から多額の支援を受けた経緯があり、とりわけ台湾との交流促進には前向きだ。
 ことし2月には台湾の高校関係者が教育旅行の視察で同町を訪れた。ガイドを務めた台湾出身の町国際交流協会理事、佐藤金枝さん(48)は「台湾も日本と同じように災害が多い。命を守る大切さを伝えたい」と意欲を見せる。
 「日本と台湾の懸け橋になれたらうれしい」と佐藤さん。県の取り組みが実を結び、ツール・ド・東北が三陸沿岸と台湾の距離を縮める起爆剤となるか期待されている。


夏の思い出 教室に笑顔 小中校で授業再開
 仙台市立の全小中学校で25日、夏休みが明け、1学期後半の授業が始まった。秋を感じさせる涼しい空気の中、子どもたちは元気に登校し、久しぶりに会った友達との会話に花を咲かせた。
 太白区の長町南小(児童771人)では午前8時25分から約10分間、体育館に全校児童を集めて朝会を実施。高橋不二夫校長は「大きなけがや事故がなくて良かった。まとめの時期に入るので、しっかり勉強してください」と語り掛けた。
 高橋校長は、市立中1年の男子生徒=当時(12)=がいじめを受け昨年秋に自殺した問題に触れ、再発防止を訴える大越裕光教育長名の緊急アピール文を読み上げた。
 朝会後、2年生の教室では児童たちが宿題を提出。絵日記を見せ合い、「バーベキューをした」「水族館に行ったよ」と夏の思い出を語り合った。関絢香さん(7)は「学校のプールに通って泳げるようになった。クロールをもっと練習したい」と笑顔で語った。
 市教委によると、25日は市立の小学校123校と中学校63校の計186校に特別支援学校、中等教育学校各1校を加えた全188校で授業を再開した。1学期は10月9日まで。


デコトラ集結 「トラック野郎」が石巻応援
 東日本大震災の被災者を支援する「東日本大震災復興チャリティー大会in石巻」(全日本アートトラック連盟など主催)が15日、石巻市雲雀野埠頭(ひばりのふとう)で開かれ、県内外からの来場者でにぎわった。
 トラック運転手らが企画した。震災犠牲者に黙とうし、映画「トラック野郎」に出演した俳優の故菅原文太さん、タレントの故愛川欽也さんを追悼した後、地元演歌歌手西夕子さんらの歌謡ショーなどがあった。
 映画「トラック野郎」に出演し、震災後は支援で石巻地方を訪れている俳優の原田大二郎さんはトークショーで「仙台に親戚がいて、震災は人ごとではなかった」と振り返った。
 会場には、電飾を施したトラック「デコトラ」がずらりと並び、大会を盛り上げた。菅原さんが乗った「一番星」への乗車体験もあり、人気を集めた。


<防災庁舎県有化>南三陸町、9月1日県と協定
 佐藤仁南三陸町長(宮城県)は24日の定例記者会見で、東日本大震災で被災した町防災対策庁舎の県有化に関する協定を9月1日に県と締結すると発表した。2031年3月までとする県有化期間や建物の無償譲渡など6項目を盛り込む。
 締結式は県庁で行う。締結後、10月中に庁舎を県に譲渡し、敷地を無償貸与する契約を結ぶ。佐藤町長は「正式な県有化は先になるが、初めて文書で明確な意思表示ができる」と意義を語った。
 町によると、協定書には県が補修経費や安全上の責任を負うことに加え、町が提案した町による献花台の維持管理などが明記される見通し。
 県は防災対策庁舎の調査設計費約1850万円を盛り込んだ15年度一般会計補正予算案を、9月3日開会の県議会9月定例会に提出する方針。


<仙台育英準V>主将「忘れられない経験」
 全国高校野球選手権大会で準優勝を果たした仙台育英の選手らが24日、仙台市青葉区の河北新報社を訪れ、準優勝の報告をした。
 訪れたのは佐々木順一朗監督と、野球のU−18(18歳以下)ワールドカップの高校日本代表に選ばれた3選手を除くベンチメンバーら18人。佐々木柊野主将は決勝の東海大相模(神奈川)戦を振り返り、「中盤以降、球場全体が味方してくれたのは一生忘れない経験になった」と話した。
 佐々木監督は「勝ち上がるにつれて歴史が変わるなという雰囲気やうねりを感じた。この経験を忘れず、次のステップに向けて新たなチームづくりをしていきたい」と述べた。
 新チームは26日、秋季東北地区高校野球県大会中部地区予選の2回戦で仙台一と対戦する。


<甲子園>東北勢なぜ優勝できない?
 宮城・仙台育英は第97回全国高校野球選手権大会の決勝で敗れ、東北勢初優勝を逃した。東北勢は春の選抜大会を含めて11回決勝に進んだが、いずれも敗退し、優勝旗の「白河越え」を果たせないでいる。なぜ優勝できない? 高校野球に詳しい各界の5人に聞いた。
●正しい練習重ねて
 <田尾安志さん(61)=東北楽天初代監督>
 決勝はどっちに転んでもおかしくない好試合で、勝敗は少しの運の差が出ただけだ。仙台育英は決勝まで進み、むしろ運があったとも言える。決勝相手との比較では投手の選手層が薄かったぐらい。東北の人はこれまで優勝できていないから意識するのかもしれないが、全国的に見て実力はひけを取らないし、誰も弱小とは思っていない。高校3年間と言っても競技期間は2年半に満たない。運を信じ、この限られた期間正しい練習を重ねるしかない。
●最後のピース不足
 <芳賀崇さん(32)=01年仙台育英選抜準優勝投手>
 正直分からない。雪国のハンディは指導者の工夫と練習環境の充実化で克服できた。私が仙台育英の主戦として決勝に進んだ時は、対戦相手が関西の高校と聞いただけで気後れしたメンタルの弱さがあったが、それも乗り越えた。中学野球のレベルも上がり、中学時代に全国大会を経験し、高校入学時から日本一を目指す選手も増えた。優勝旗が手の届くところにあるのは間違いない。今年、宮城・村田高の監督となり、最後のピースを探し続ける努力を続ける。
●組み合わせが不運
 <高橋克彦さん(68)=作家>
 東北勢でつぶし合う組み合わせの不運があった。4強に2校が残れば優勝の可能性は十分あった。東北は6県の強豪校がしのぎを削り、全体的にレベルアップしている。初戦突破は当たり前。運が良くて勝ち上がった15〜20年前とは違う。他地方は1強2強は出るが、ブロック全体では粒がそろっていない。震災で東北の選手は「自分たちが頑張れば被災者を勇気づけられる」との思いが強くなり、頼もしい。近いうちに優勝旗を持ち帰ると確信する。
●優勝未経験で重圧
 <北村勝朗さん(53)=東北大院教授(スポーツ心理学)>
 東北勢は先行を許すとずるずる行く傾向があったが、仙台育英は決勝で一時追い付き従来にないメンタルの強さを見せた。準決勝でも観客の多くがスター選手のいる早稲田実業を応援する中、完勝しタフな精神力を示した。実現可能性の高い自信を「自己効力感」と言うが、これは厳しくて合理的な練習の蓄積が支える。育英はその点は十分だったと思うが、優勝未経験のプレッシャーが最後に不安や集中力の欠如を招いた遠因になったかもしれない。
●好投手が3人必要
 <本間秋彦さん(53)=ローカルタレント>
 仙台育英の主戦佐藤世那君は連投で疲れていた。東海大相模は2人の実力派投手を使い分け、余裕があった。東北勢もハイレベルでタイプの違う投手を1チーム3人そろえないと難しい。宮城は全県1学区で戦力が分散した。おらが代表の色は強まったが、真に優勝を狙うチームは出にくい。軟式野球上がりの選手に対し指導者が「硬式に慣れるまで時間がかかる」と偏見を持って即戦力として認めず、結果的に裾野の広がりを損ねている印象も抱く。


奨学金と保護費 教育の機会は平等に
 貧しい家庭の子どもにも等しく教育の機会は与えられるべきだ。厚生労働省が生活保護世帯の子どもの教育費に関する運用を見直した。「貧困の連鎖」解消に向け一歩前進だが、十分とはいえない。
 厚労省は六日付で、生活保護を受給している福島市の母子家庭の訴えに応じ、同市による保護費の減額処分を取り消すとともに、全国の自治体にある通知を出した。
 母親はうつ病を患い、数年前から生活保護を受けていた。長女は経済的な理由で高校に進学できるか不安に思っていたが、中学生のときに奨学金制度があることを知った。長女は努力を重ね、優秀な成績をおさめた。高校進学後、市や民間団体から返済不要の奨学金が年計十七万円支給されることが決まった。修学旅行費や塾代などに充てる予定だった。
 しかし、市は昨年四月と五月に支給された奨学金九万円を「収入」と認定し、保護費から同額を差し引いた。母親らは福島県に収入認定取り消しを求め、審査請求したが棄却。国に再審査を請求し、福島地裁に提訴していた。
 厚労省は処分取り消しを決定。加えて、学習塾代などに充てる場合は奨学金でも収入とみなしていた運用ルールを改め、収入から除外するよう各自治体に通知した。新ルールは高校生のアルバイト収入にも適用される。
 ただ、大学の受験料や入学金などは引き続き収入とされる。子どもの成長を後押しするため、奨学金は全額、収入から除外するべきではないか。
 子どもの貧困対策推進法は「子どもの将来が生まれ育った環境に左右されることのないよう教育の機会均等を図る」ことをうたう。
 低所得の世帯に生まれた子どもが十分な教育を受けられずに、低賃金の職業を選択せざるを得ないという「貧困の連鎖」を食い止めるのは、国家的な重要課題だ。
 大卒者と高卒者の賃金格差は小さくない。一九九〇年代初めには百七十万人近くあった新規高卒者への求人も近年は二十万〜三十万人と激減している。
 二〇一三年三月卒業生で、生活保護世帯の高校生の大学進学率は19%で、全体の五割超と比べ低い。
 生活保護受給者数は二百十六万人に上るが、うち一割超は十七歳以下の子どもといわれる。
 貧困からの脱出の鍵は教育にある。親が亡くなる、病気で働けなくなるなどし、生活保護を受給している家庭に育つ子どもたちにこそ機会は必要だ。


大阪遺棄の容疑者従事「住民に不安」除染の中止を
 大阪府寝屋川市の死体遺棄事件で逮捕された契約社員山田浩二容疑者(45)が、福島県川俣町山木屋地区で東京電力福島第1原発事故に伴う除染作業に従事していたことが明らかになったことを受け、同町議会は24日、除染作業の中止と避難区域の解除に向けた準備宿泊の延期を求める要望書を国に提出した。
 要望書は「除染作業は作業員と住民の信頼関係が不可欠で、今回の事件は住民に大きな不安と恐怖を与えた」などと指摘。24日の町議会全員協議会で、国の担当者に手渡した。
 山木屋地区は原発事故で避難区域となり、国直轄で除染が進められている。準備宿泊は31日から3カ月間予定されている。
 町も24日までに、環境省に対し、作業員の管理徹底と法令順守を求める抗議文を提出した。
 山田容疑者は昨年11月から、山木屋地区などで除染作業に携わったという。


「離党で済まない」武藤議員の辞職要求 滋賀の20団体
 「真宗大谷派9条の会・長浜」や県労連など県内の20団体が25日、自民党を離党した武藤貴也衆院議員(滋賀4区)の辞職を求める文書を武藤氏の事務所に提出した。自民党県連に対しても辞職を勧告するよう要請する文書を再度、提出した。
 武藤氏が安全保障関連法案に反対する若者のデモをツイッターで批判したことを受け、同会などは10日に同県連に辞職を勧告するよう求めていた。その後、未公開株をめぐる金銭トラブルも報じられ、今回の文書ではそれぞれ「国会議員としての資質、適格性が全く欠けている」「離党しても、武藤議員の言動に対する県連の責任はなくならない」としている。


【国旗国歌要請】政府は大学の判断尊重を
 国立大学の苦しい立場がにじみ出ているといえよう。
 下村文部科学相が6月、国立大に入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を求めたことに対し、半数以上の大学が「対応を検討するが未定」としていることが、共同通信のアンケートで分かった。2校は従来方式を変更し、両方を実施すると答えた。
 要請は安倍首相の意向を受けるかたちで行われた。下村文科相は「あくまでお願い」であり、「圧力」を否定したが、国立大の判断に影響を与えているのは明らかだ。
 アンケートは全86校のうち、77校が回答した。今年の入学式で国旗掲揚、国歌斉唱を完全実施したのは7校で、双方とも未実施は11校、国旗掲揚のみが54校、国旗は掲揚し、国歌は伴奏のみが5校だった。
 注目すべきは、双方未実施の11校を含む47校が「対応を検討するが未定」と回答し、変更の可能性に含みを持たせたことだろう。
 大学の自治を侵しかねない状況といえる。大学の自治は、憲法が保障する学問の自由に不可欠な制度である。法的根拠もないまま、政府が大学の式典の中身にまで注文を付けることがあっていいのか。
 ただ、国立大のこうした反応は6月段階から一定予想された。
 各国立大は、独立した法人経営のかたちを取っているものの、自主財源が少なく、運営費は国に大きく依存しているからだ。
 しかも、国からの運営費交付金は年々減少しており、6、7月は来年度予算の概算要求に向けた重要な時期でもある。大学にとっては、「お願い」も強く意識せざるを得ない。
 アンケートからは多くの大学の疑問や戸惑いが見て取れる。「大学の自治を尊重すべきだ」「政権中枢が、とりたてて要請することに違和感を禁じ得ない」などの回答があった。
 一方で、既に完全実施している大学などからは「国費で運営するので当然」などと理解を示す声もあった。
 重要なのは各大学が自主的に判断し、それに基づいて式典を執り行うことだ。政府には各大学の判断の尊重が求められる。
 大学は純粋な学問探求の場である。時の政権の意向を押し付けたり、政治の介入を想像させたりする対応は許されない。

会議で落ち込む/bcの引き継ぎ・・・エネルギー?

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Le typhon Goni balaye le sud-ouest du Japon
Le typhon Goni, qui a déjà fait au moins 26 morts aux Philippines, se trouvait lundi au sud du Japon où de fortes rafales ont déjà renversé des véhicules et arraché des poteaux électriques.
Plus de 100 vols ont été annulés par les compagnies aériennes nippones, et des milliers de foyers étaient privés d’électricité dans les îles de l’extrême-sud de l’archipel.
Selon l’Agence météorologique japonaise, ce 15e typhon de la saison en Asie se trouvait à 13H00 (04H00 GMT) à 140 km au nord-ouest de l’île principale d’Okinawa, à l’extrême sud-ouest du Japon.
Se déplaçant en direction du nord-est à la vitesse de 35 km/h, il est accompagné de vents soufflant en pointe à 252 km/h, a précisé l’agence.
Cinq blessés légers ont déjà été déplorés dans l’île japonaise d’Ishigakijima (extrême-sud), selon l’Agence nippone de gestion des catastrophes naturelles.
Quelque 21.400 maisons de l’archipel d’Okinawa ont été victimes de coupures de courant selon la compagnie régionale.
Goni devrait accoster sur l’île méridionale de Kyushu mardi et la traverser en direction du nord, prévoient les météorologues qui appellent les habitants à prendre des précautions.
Ce typhon est déjà passé non loin de Taiwan apres avoir dévasté le nord des Philippines. Dans l’archipel, il a déclenché des coulées de boue et des inondations, tuant au moins 26 personnes, dont 13 mineurs ensevelis par un glissement de terrain et une fillette de cinq ans emportée par une riviere en crue, selon le dernier bilan des secouristes.
Entre vingt et trente typhons balayent chaque année l’Asie, la moitié environ affectant le Japon.
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午前中に会議がありました.遅れることもなく,また寝たりしなかった点はまあよかったですが,あまり期待されていないと思うと落ち込んできました.
お昼からはbcの引き継ぎです.なるほど,わかった気がします.でもエネルギーが??です.

【被災地を歩く】 JR野蒜駅(東松島市) 復興支える玄関口と遺構
 ところどころコンクリートがむき出しになった駅のホーム、ねじ曲がった看板…。東日本大震災の津波で被災した宮城県東松島市のJR仙石線・旧野蒜(のびる)駅。線路は一部が残されているものの、ほとんどが流失している。
 約800メートル先には野蒜海岸がある。かつては県内有数の海水浴場としてにぎわいをみせたが、現在はかさ上げ工事が進み、いまだに閉鎖されたままだ。
 海岸の最寄り駅だった旧野蒜駅を、東松島市は4日、プラットホームを震災遺構として保存する方針を決めた。
 5月30日にはJR仙石線全線開通に合わせて、約500メートル、海抜約22メートルの内陸の高台に移設された新たな野蒜駅の利用が始まった。新野蒜駅は野蒜地区の玄関口として、旧野蒜駅は遺構として、復興を担う施設として期待が高まる。
 ◆市が買い取りへ
 「野蒜・宮戸地区復興復旧を考える会」の坂本雅信会長(66)は、定年退職前は旧野蒜駅に勤めたこともある元JR職員。「震災の爪痕として後世に津波の猛威を伝える施設になる。残してもらえてうれしい」と話す。
 県震災遺構有識者会議は昨年12月、同駅プラットホームを「保存する意義は認められる」と結論づけた。市は今後、プラットホームをJR東日本から買い取る方針という。
 津波で被災した駅舎は改修され、現在は観光拠点として活用されている。平成23年8月にボランティアで野蒜地区を訪れたことがある千葉県印西市の大学生、吉沢歩(あゆみ)さん(19)は「東松島市は被災地で初めて訪れた印象の強い場所。野蒜駅が遺構になることで、多くの人に知ってもらう、訪れてもらうきっかけにもなるはず」と期待を込めた。
 両駅周辺には地元住民の利便性、駅周辺のまちづくりなど、今後への課題も残されている。5月30日から両駅へのアクセス道路の通行が始まったが、旧野蒜駅付近の住宅地から新野蒜駅へ直通の道路は用地買収や工事が終わらず、約1キロの遠回りが必要だ。市によると、開通は来年4月の予定という。
 坂本会長は「新しい駅へは坂道で、迂回(うかい)ルートのため距離も長い。旧駅付近から高齢者が歩くには不便だ。観光客が周辺を見て回るための足もまだまだ不十分」と課題を指摘する。
 ◆巡回バス試運転開始
 実際に記者が、旧駅付近の住宅街から新駅までの道のりを歩いてみると、坂道がきつく、想像以上に汗をかいた。
 市は新たな駅の利便性向上のため仙石線の開通当日から、地元の高齢者を対象に、無料タクシーの運行を始めた。会員登録が必要で、事前に予約し、旧両駅付近の乗り場から新両駅に行ける。しかし、無料タクシーの運行期間は来年3月末までの予定だ。
 県は7月18日から、観光客らが周辺をみてまわる交通手段として、新野蒜駅と周辺の観光スポットを結ぶ巡回バスの試運転を始めた。しかし、現在は1日に6本、土日祝日のみと限定的な運行になっている。
 それでも、不通となっていたJR仙石線が開通し、新たな震災遺構が生まれた意味は大きい。観光拠点となっている旧野蒜駅の改修した駅舎には7月、市の委託を受けたスタッフが常駐し、観光案内を行うようになった。
 吉沢さんもJR仙石線で野蒜地区を4年ぶりに訪れ、旧野蒜駅を見ることができた。坂本会長は「住民からも意見を出し、市と協力して旧野蒜駅の有効活用の手段を考えていきたい」と力を込める。2つの駅が、野蒜地区の復興を支えていくだろう。(上田直輝)


気仙沼漁港 サンマの初水揚げ
サンマの、本州一の水揚げ量を誇る気仙沼漁港で、ことし初めての水揚げが行われました。
気仙沼漁港では、北海道の沖合での漁を終えた長崎県の漁船「第3太喜丸」が午前6時すぎからサンマおよそ38トンを水揚げしました。
漁船から港の岸壁に網で水揚げされたサンマは重さごとに分けられ、仲買人たちが大きさや脂の乗り具合を確かめてから入札に参加しました。
ことしのサンマは、大きいものが多く脂ののりもいいということです。
初日の24日は、去年より水揚げ量が多く、1キロあたり600円前後と400円ほど安く取り引きされました。
ことしのサンマの水揚げは県内では初めてで、気仙沼漁港の初水揚げは去年より6日早いということです。
気仙沼漁港の去年のサンマの水揚げ量は2万7000トンあまりで、漁港の復旧が進んだことなどから、震災後初めて本州一に返り咲いています。
「第3太喜丸」の船頭の井上太喜さんは、「1番最初に水揚げできてうれしいです。気仙沼漁港は復旧が進み、船も接岸しやすくなったので、これからもたくさん水揚げをしたい」と話していました。
気仙沼漁業協同組合の佐藤亮輔組合長は、「サンマの水揚げが始まると、『秋が来たな』と感じる。
ことしも去年に引き続き、本州一の水揚げ量を目指したい」と話していました。
気仙沼漁港でのサンマの水揚げは、10月ごろにピークを迎えるということです。


<避難区域>福島に希望の花「咲かせる」
 東京電力福島第1原発事故に伴う避難が続く福島県双葉郡で、花卉(かき)栽培に活路を見いだそうと新たな挑戦が芽吹いている。観賞用の花は、コメや野菜と比べ放射性物質に対する消費者の抵抗感が少ない利点に着目。関係者は営農再開の足掛かりと位置付け、やがては多彩な花の一大産地に育てようと夢を広げている。
<手応え>
 「花卉を産地化できれば雇用が生まれる。住民帰還につながるはずだ」
 福島県浪江町の避難指示解除準備区域。7月中旬、福祉関連のNPO法人理事長の川村博さん(60)はトルコキキョウの出荷準備に追われる中、手応えを感じていた。
 昨年初めて、NPO法人として県の実証研究に参加した。研究員の指導を受け、生長を促す植物ホルモンの散布や温度管理を学んで生産に成功した。
 トルコキキョウの花言葉は「希望」。「きれいな花が咲く風景の中に町民が帰って来られれば」と川村さんは古里への思いを重ねる。ことしはリンドウの初出荷にもこぎ着けた。
<10倍増>
 花の値段は市場の競りで決まる。買い取り価格が設定されるコメとは異なる。消費地はどう評価するのか。浪江は避難区域だ。先立つのは心配ばかりだった。
 リンドウは東京・大田市場で相場の1本10〜30円を上回る最高36円の高値が付いた。これを弾みに、トルコキキョウなどを含めた出荷量はことし、計2万3000本と昨年の10倍に増やす予定。「花をきっかけに福島の農産物に対する風評被害を少しずつ克服し、野菜類なども復活させたい」と意気込む。
<産地化>
 福島県川内村の農産物販売会社「緑里(みどり)」社長の河原修一さん(54)も新規参入組で、ことし初めてリンドウを出荷した。
 畑は原発20キロ圏の旧避難指示区域にある。原発事故前から作るコメは価格が低迷している。「コメは当てにならない。花卉は市場も応援ムードだ」
 県園芸課などによると、双葉郡8町村で花を扱っていたのは60戸ほど。原発事故で中止後、浪江、川内、楢葉、広野、葛尾の5町村で10戸以上が栽培に取り組む。大半が新しく始めた農家などだという。
 県は2013年度から、食料品より風評の影響を受けない花の産地化を目指す実証研究に取り組んでいる。双葉郡は比較的温暖でハウスの温度管理費を抑えられ、栽培が拡大する可能性を秘める。
 ふたば農協指導販売課の栗田文宏主任は「花の価格は品質が全て。避難区域かどうかは関係ない。気候に合った品種を提案し、出荷量を増やしていきたい」と話す。


<処暑>和らぐ暑さ 宿題総仕上げ
 二十四節気の一つで残暑が和らぐとされる「処暑」の23日、東北地方は太平洋側を中心に雨となった。最高気温は仙台で22.7度と平年を4.9度下回るなど9月中旬から下旬並みとなった。
 宮城県内の大半の小中学校は夏休み最後の日曜となり、仙台市青葉区の市科学館は自由研究の宿題に取り組む児童らでにぎわった。八木山小5年の松本遥輝君(10)は「長野や愛知に旅行した。早く学校で友達と遊びたい」と話した。
 仙台管区気象台によると東北地方は今後1週間、湿った気流の影響で曇りや雨が多く、気温は平年より低めで推移する見通し。


<ツール・ド・東北>メダリストも積極参加
◎進化に挑む(3)障害を越えて
 2008年北京、12年ロンドン両パラリンピック自転車メダリスト、藤田征樹(まさき)さん(30)=茨城県土浦市=は昨年に続き、9月13日のツール・ド・東北に出る。
 障害者自転車競技「パラサイクリング」のエースとして成長を続ける。スイスで今月1日にあった世界選手権男子ロードレースで金メダルに輝いた。ロードレースでは自身初の頂点だ。
 ツール・ド・東北との縁は前回大会で特別協賛のサントリーが実施した「パラサイクリングプロジェクト」で生まれた。
 藤田さんは障害があっても参加しやすい大会を目指すプロジェクトの趣旨に共鳴。日本パラサイクリング連盟の強化指定選手らと石巻市、宮城県女川、南三陸両町を走る100キロコース「北上フォンド」に出場した。
 東北の被災地を目の当たりにしたのは初めてだった。建物だけがぽつりと残り、震災の惨状を伝える風景が忘れられない。
<一体感に浸る>
 走行中には朝早くから熱心な声援を受けた。エイドステーション(休憩所)で地元住民との交流を満喫した。魚好きの藤田さんにとって地場産サンマのすり身汁「女川汁」は格別のごちそうだった。
 「参加者、サポートする人、応援する人が一体となった様子に感激した」
 トライアスロンに打ち込んでいた藤田さんは東海大2年の04年8月、交通事故に遭って両脚の膝から下を切断した。22歳で日本障害者自転車競技大会に参加し、関係者に誘われて本格的に取り組んだ。自転車専用の義足を履き、その先端とペダルを固定して走る。
<楽しさは共通>
 「パラサイクリングを障害者スポーツというよりは自転車のカテゴリーの一つと捉えてほしい」と藤田さん。「障害の有無にかかわらず自転車を楽しめる点もアピールしたい」と言う。
 次の目標は16年のリオデジャネイロ・パラリンピックに出場し、優勝することだ。「普段の練習をより分厚くして各大会で勝利のステップを一つずつ踏みたい」と誓う。
 トップ選手を含めてさまざまな立場の人々が沿岸部を駆けるツール・ド・東北。藤田さんは「被災地への思いと自転車の素晴らしさを共有する場。出場が待ち遠しい」と意気込む。


徳山国交次官「復興の先 見据える時期」
 東日本大震災発生時の東北地方整備局長で、沿岸部へのルート確保などの陣頭指揮を執った徳山日出男氏(58)が、7月31日付で国土交通事務次官に就任した。被災地の復興支援などについて聞いた。(聞き手は東京支社・門田一徳)
◎「震災と観光」結ぶ視点を
 −震災から4年半を迎える。
 「震災前よりも良い街づくりを目指すなど『復興の先』を見据える時期。震災直後に衛星電話で話した知事や首長の声は今も覚えており、『戦友』のような存在だ。しっかり支援する」
 −被災地では技術系土木職の人材不足や資材高騰が深刻化している。
 「地域や職種によって不足感があるが、全国的にみるとピークはこの夏に過ぎると思う。秋からは余剰感が出てくるだろう」
 −集中復興期間が終わる2016年度以降の復興関連道路の整備は。
 「命を救ってくれた道路をつなげたいとの思いから、官民共同で復興道路や復興支援道路事業が進んでいる。政府支援が続く5年間はグランドデザインをしっかり描き整備を進めたい」
 −震災復興のシンボルとして、仙台空港の民営化に対する地元の期待は高い。
 「ビルの売り上げから着陸料までトータルでみられるようになるが、それだけ地元には知恵が求められる。震災の影響で東北を訪れる外国人旅行者は増えていないが、東北には食や自然など十分な潜在力がある。震災を観光と結び付ける視点も大切。国交省としても出先機関と連携し東北の観光需要を掘り起こしたい」


<トリコローレ音楽祭>被災地包むバンドの音
 宮城県内外のアマチュアバンドなどが街中で演奏を繰り広げる「トリコローレ音楽祭2015」(実行委員会主催)が23日、石巻市の中心市街地であり、多彩なジャンルの音色が街を包み込んだ。
 ジャズやロック、ポップスのバンドなど過去最多の148組、約720人が、中瀬公園をメーン会場に仮設商店街や空き店舗など14カ所の特設会場でライブを繰り広げた。
 旅行で大阪市から石巻を訪れた会社員佐古隆志さん(49)は「東日本大震災からの復興へ向け、街が活気づいてほしい。音楽祭は素晴らしく、また来たい」と話した。
 今野雅彦実行委員長は「震災で弱った石巻を元気にしたいと取り組んでいる。音楽祭が広く伝わればうれしい」と期待した。
 音楽祭はことしで12回目。トリコローレはイタリア語で三色旗を意味する。「海」に象徴される石巻に「人」が集まり、「音楽」で地域を盛り上げるという願いが込められている。


<安保法案>若者一斉にNO 500人行進
 安全保障関連法案の廃案を目指す宮城県の大学生ネットワーク「SEALDs TOHOKU」(シールズ東北)は23日、仙台市中心部で反対運動を実施した。学生や市民ら約500人が集会やデモ行進をした。
 参加者は「戦争法案やばいっしょ」「東北だって黙ってないさ」などと声を張り上げて繁華街を歩いた。仙台弁護士会や被災3県の大学教員、母親らの各反対グループや民主、共産両党の国会議員らも加わった。
 シールズ東北メンバーの学生は街宣車の上に立って訴えた。大学2年の女子学生(20)は「不安を抱えながらも多くの人が勇気を出して声を挙げている。国民を無視した政治はもはや許されない。今からでも遅くはなく、新しい民主主義をつくろう」と呼び掛けた。
 シールズ東北は宮城県内の学生約20人で発足し、抗議行動は8月上旬に続き2回目。東北大法学部2年の久道瑛未さん(19)は「自分の問題として考える人が増えてきた。参院で強行採決させないため、東北から反対の声がどんどん高まるよう工夫したい」と話した。


堀北真希「嵐・櫻井翔と交際報道」、山本耕史「共演者キラーの女好き」電撃婚夫婦の異性遍歴
 8月22日、電撃結婚を発表した堀北真希と山本耕史。今年5月に舞台『嵐が丘』で共演し、8月から同居をスタートさせた2人は、22日に婚姻届を提出。清純派のイメージが強い堀北と“共演者キラー”と呼ばれる山本の突然の結婚発表に、ネット上も驚きに包まれた。
 2人は2009年放送の堀北主演ドラマ『アタシんちの男子』(フジテレビ系)で初共演し、10年にも『わが家の歴史』(同)で夫婦役として共演。今年の『嵐が丘』で再び共演を果たし、6月から交際をスタートさせてわずか2カ月での電撃婚と伝えられた。
 堀北といえば、昨年7月には嵐・櫻井翔との“隠密交際”を東京スポーツが報道。同3月に、ジャニーズの後輩も出席するパーティーで、櫻井が堀北を「俺のカノジョだ」と紹介し、8月には都内の寿司屋で堀北の母親と3人で食事していたとの目撃情報を報じていた。
「櫻井と堀北は、10年放送の『特上カバチ!!』(TBS系)で共演し、ネット上ではにわかに熱愛疑惑が浮上していました。しかし、堀北が今年1月放送の『櫻井有吉アブナイ夜会』(同)にゲスト出演した際、櫻井は交際について『なんもない』と、完全否定。堀北はほかの男性スキャンダルはウワサレベルのものがあるのみで、“優等生”キャラのイメージを守り続けてきました」(芸能ライター)
 一方の山本は、これまで数々の女性タレントと浮き名を流してきた色男だ。
「03〜06年頃に、舞台で共演した松たか子、牧瀬里穂と熱愛がうわさされ、元SPEED・上原多香子とは熱愛報道がされました。07年には市川海老蔵と破局後の佐藤江梨子と東京・西麻布でデートしていたと『女性セブン』(小学館)に報じられ、また同年末には、当時『クイズ!ヘキサゴンII』(フジテレビ系)に出演し、“おバカキャラ”で大ブレークしていたスザンヌとの“お泊まり密会”を『フライデー』(講談社)にキャッチされたことも。その後は中越典子を口説いている場面が『女性セブン』に掲載されました。そのほとんどが共演をきっかけに親密になったといわれるため、業界内では“共演者キラー”“女好き”として有名でした」(同)
 そして24日放送の『情報プレゼンター とくダネ!』(フジテレビ系)の独占インタビューに応じた山本は、6年前の共演時から堀北に好意を寄せていたことを告白。今回の舞台『嵐が丘』での稽古後半から、「今日の調子はいかがですか?」といった言葉を書いた手紙を40通渡し続けるも、堀北からの反応はなし。しかし、千秋楽に「オレの番号を教えさせてくれ」と、一方的に連絡先を渡したところ、LINEにメッセージが届いたという。
 その後は「自分の人生に対する思いもちらほら話してくれるようになって、これはやっぱり会わなきゃダメだな」と思いながらも、「僕とは違ってスキャンダルもまったくなかった女優さんですから、それも守りたかったし……」と、葛藤を吐露。そんなとき、堀北から「京都に行く」と聞いた山本は、「思いの詰まった指輪」を持って“勘”で新幹線のチケットを取って乗車すると、堀北も同じ新幹線に乗っており、「交際じゃなくて、もう結婚しましょう」と、求婚したという。「今のタイミングの彼女にとって、とっても(結婚が)大きなものだったらしく、そこに僕がパッとその言葉を言ったら、なにかそれがとっても思いが刺さったようで。交際していないですよね、ある意味」と、猛アタックの末、結婚に至ったことを明かしていた。
 「交際期間ゼロ」で電撃婚となった12歳差の山本&堀北。果たして夫婦の今後は――?


「歴史教科書採択やり直しを」
来年度から宮城県の県立中学校で使われる歴史の教科書について、弁護士でつくる団体が県庁を訪れて、教科書が不適切だとして採択のやり直しを求める申し入れ書を手渡しました。
教科書採択のやり直しを求め申し入れをしたのは、仙台市内で活動する弁護士3人で、3人は、24日午後、県庁を訪れ、申し入れ書を県の職員に提出しました。
県教育委員会は、今月20日に開かれた臨時会で、県立の中高一貫校の、大崎市の古川黎明中学校と仙台市の仙台ニ華中学校の2校で、来年度から4年間使用する教科書を採択しました。
このうち、歴史の教科書については、「新しい歴史教科書をつくる会」の元メンバーなども参加して執筆された、東京の「育鵬社」の教科書を県内で初めて採択しています。
申し入れ書では、採択された教科書について、『太平洋戦争がアジア諸国の独立につながった』と教え、日本の加害責任はあいまいな記述にとどまっているとした上で、明治憲法を賛美する一方で日本国憲法は連合国から押しつけられたものであるかのように明記しているとし不適切だと指摘しています。
申し入れを終えた、小野寺義象弁護士は、「このような教科書を子どもたちが学ぶのは大きな問題がある。やり直しをしてもらえない場合は、県民の人たちと一緒に問題提起していきたい」と述べていました。

出町柳→比叡山延暦寺→坂本→三条→寝屋川

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Ambiance amoureuse
Complice de vos amours, Vénus vous rendra irrésistible. Votre vie sentimentale reprendra des couleurs romantiques. En couple, votre sensualité enflammera votre partenaire. Tel un aimant, il vous couvrira de ses câlins. Célibataire, lors d'une sortie un inconnu vous témoignera son admiration. Sa sincérité vous touchera au point de vous revoir.
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Votre célibat connaîtra un agréable rebondissement. Une rencontre imprévue bouleversera votre quotidien. Sans rien connaître de cette personne, vous tomberez amoureux. La passion sera réciproque. L'élu de votre cœur vous assaillira de messages langoureux et de déclarations érotiques. Bercé par vos pulsions, vous passerez une nuit inoubliable.
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朝8時前に部屋を出て京阪に乗ります.阪急沿線なので京阪までは自転車で25分くらいです.比叡山横断チケットを3300円で買いました.枚方市で特急に乗り換えですが,トイレに行きたくなりました.出町柳までガマンです.トイレを済ませて叡山電鉄の方にいくとShさんが待っていてくれました.さて八瀬比叡山口まで移動して,今度は叡山ケーブルでロープ比叡まで.さらに比叡山頂目指して叡山ロープウェイに乗りました.下を見ると琵琶湖・浜大津あたりが見えます.でもまだ移動です.京阪バスで延暦寺バスセンターまで行って,やっと着きました.東堂エリアです.根本中堂は以前見たことがあるはずですが,全然覚えていません.Shさんもそうだというのですが,ちょっとよくないね.ぐるっと見てお昼になったので 鶴喜そばというのれんがあるお店.比叡山そば730円を食べました.近くでフランス人家族がいました.夫婦はフランス語を話していましたが,子どもは「370えん」と日本語で答えていました.370円はかき氷で,レモン味.食事後は横川の元三大師堂.おみくじ発祥の地らしいです.Shさんは角大師のお札を買っていました.最後に西塔.にない堂があります.しかしもうだいぶ疲れてきました.再び東堂エリアに戻って歩いてケーブル延暦寺まで.駅がレトロでいい感じです.ケーブル坂本から江若(こうじゃく)バスで坂本まで.でもバス乗らなくてもいいくらいの距離でした.浜大津まで京阪石山線でそこから京津線に乗り換えです.浜大津のあたりは路面電車で気持ちいいです.あっという間に三条京阪です.Shさんがお店をさがしてくれて,そこで飲みます.醤油が甘い,と2人とも思いました.遅くならないうちに京阪で大阪に帰ります.寝屋川市駅で下車して駅前を歩きました.悲しい思いを共有できたでしょうか?部屋に帰ると10時半くらいでした.疲れました.

被災地支え5年 こども☆ひかりプロジェクト
 東日本大震災の被災地の子どもたちをミュージアムに宿る楽しく育む力で支える「こども☆ひかりプロジェクト」が、5年目を迎える。兵庫県のミュージアムで活動する女性の発案で2011年秋にスタート。各地の学芸員や在仙の大学生に共鳴の輪が広がり、知的で趣向を凝らした草の根のイベントを、仙台市など被災地で続けている。
 仙台市太白区の縄文の森広場で6月半ば、「こども☆ひかりフェスティバル」があった。プロジェクトのメーンとなる取り組みの一つだ。「織りの世界をのぞいてみよう」「化石のレプリカをつくろう」など11の体験コーナーを設けた。
 九州国立博物館(福岡)、川崎市市民ミュージアム(神奈川)など各地から駆け付けた学芸員らが各コーナーのまとめ役を務めた。
 プロジェクトの「ユース」に参加する主に仙台の大学生三十数人が、担当コーナーを受け持った。学芸員らと協力し来場した子どもたちと楽しく遊び学んだ。
 ユースのリーダーで東北大4年の三上響さん(21)は「面白いプログラムばかり。学芸員さんとメールなどで打ち合わせを重ねて本番を迎えた」と語った。
 こども☆ひかりプロジェクトは、兵庫県立人と自然の博物館でボランティアをしている清水文美さん(58)が思い立った。
 震災から間もない時期に仙台に来て、被災した子どもと接した清水さん。ミュージアムでつながる仲間が連携して行う息の長い支援が、自分にできる再生の後押しではないかと感じた。11年秋に呼び掛けたところ、各地から賛同者が相次いだ。
 以来、仙台をはじめ被災した岩手県や福島県でもイベントを企画。手弁当で集まり、子どもたちに夢のあるひとときを届けている。
 「被災して傷ついた子たちに寄り添い、東北の未来につなげていきたい。ユースの学生さんたちに輪が広がっていることもありがたい」と清水さんは言う。
 ユースのメンバーの宮城学院女子大3年征矢(そや)彩香さん(20)は「子どもたちが楽しんでくれる姿がうれしい。全国の学芸員さんの心意気や姿勢にも大いに学んでいる」と話す。


消えゆく学びや 思い出胸に刻む 名取・閖上
 消えゆく学びやを記憶に刻んだ。東日本大震災で被災した名取市の閖上小と閖上中が、土地区画整理事業に伴い今秋から解体される。卒業生の一人として、小学・中学時代を共に過ごした仲間と、思い出が詰まった校舎に入った。
 お盆休み中の14日、閖上中を1985年度に卒業した有志42人が集まった。二つの校舎は普段、立ち入りが制限されている。市の許可を受け、久しぶりに足を踏み入れた。
 震災から4年以上がたつ。津波が襲来した校舎は床に土砂が残ったり、天井が壊れたりしていた。多くの教室は防犯上の理由で施錠され、出入りできた教室は机や椅子がない。黒板だけがそのままだった。
 会社員千葉由英さん(45)は押し寄せる津波から必死に逃れ、避難した閖上小で一夜を過ごした。自宅は流失し、仙台市に居を移した。「あの日のことを思い出すと心が詰まる。一緒に避難していた方々が今、どうなっているのか心配だ」と表情を硬くした。
 津波の被害で教室の窓ガラスも割れている。そこから、閖上らしい浜風が吹き込んできた。廃虚のようになった校舎で、懐かしさと寂しさが入り交じった。(写真部・小林一成)


被災農地再生 若い力で挑戦・山元
 全国の大学生120人が、東日本大震災で大きな被害が出た山元町沿岸部の耕作放棄地を再生させるプロジェクトを始めた。がれきを撤去した畑に作物を植えて商品化し、住民の雇用創出による地域コミュニティーづくりを図る。若い力の復興支援を住民も歓迎している。
 学生たちはNPO法人国際ボランティア学生協会(イビューサ、東京)のメンバー。21〜25日に同町花釜地区の約1000平方メートルで、除草や土中に埋まったがれき撤去、公園や井戸の整備などを行う。初日の21日はあいにくの雨の中、カッパを着て作業に当たった。
 本年度は耕作面積を2000平方メートル以上にまで広げる予定。来年はハーブの作付けを計画し、住民に栽培を委託する。収穫した作物は全国の生産者団体と共に商品開発や販売を行い、最終的に住民らを雇用する安定した農場運営を目指す。
 町内には震災後、住民の転出などで耕作放棄地が広がり、雑草が生い茂る。今回のプロジェクトリーダーで龍谷大3年の森優太さん(20)は「震災から4年以上たち、がれき撤去や被災寺院の再興など従来の支援活動を続けるだけでは困難だと思った。雇用の創出で町外に流出した住民が戻ればいい。コミュニティーを盛んにしたい」と語る。
 学生らを受け入れた地元の普門寺の坂野文俊住職(52)は「多くの若者が滞在することで地域が元気になる。学生に住民も協力することで活動が広がってほしい」と感謝している。


異色アイドル「青森ナイチンゲール」降臨
 青森市中心部の活性化を目的に今月、ご当地アイドルユニット「青森ナイチンゲール」が結成された。市中心商店街を活動拠点とし、「元気と笑顔で地域を癒やす」をテーマに県内各地の公的イベントに出演したり、ライブを開催したりして愛着のある地域づくりに貢献する。
 メンバーは、市昭和通り商店街のアイドル「Marble(マーブル)」こと須郷有香さん(35)をリーダーに、大学2年の尾崎美樹さん(19)、高校1年の斉藤妃菜さん(16)と中平日菜多さん(15)、小学6年の高橋優さん(11)の5人。
 尾崎さんは八戸市、他の4人は青森市生まれ。青森県深浦町出身のミュージシャン近藤金吾さんのプロデュースで誕生した。ユニット名は、ナイチンゲールの「治療」や「癒やし」「人のため」「優しさ」といった要素をイメージして採用した。
 「地域活性化PR協力アイドル」の位置付けのため、イベント出演は原則として無報酬。ご当地アイドルの創出によって、地元の若者に地域の良さを再認識してもらう狙いもある。
 青森県庁に20日、三村申吾知事を訪ねた5人は、青森全体の活性化に向けて活動する意気込みを表明し、知事室内で新曲を披露した。三村知事からエールを送られた須郷さんは「元気な街になるよう精いっぱい協力していきたい」と話した。


ホーリーバジルで復興支援 大学生ら植栽と収穫 東松島
 東日本大震災で大きな被害を受けた東松島市野蒜地区で先日、大学生らがハーブの一種「ホーリーバジル」の植栽と収穫をした。今後、ホーリーバジルを使った商品を模索し、被災地復興への貢献を目指す。
 大崎市のNPO法人「LEAF26」の主催。関東学院六浦高(横浜市)の生徒、関東学院大(同)と宮城学院女子大(仙台市)の学生、市民ら計約40人が参加した。
 参加者は、被災したアパート跡地を活用した約200平方メートルの畑で苗約120本を植え、4〜6月に植栽し育てていた苗から花を切り取った。ホーリーバジルは花や葉の清涼感ある味と香りが特徴で、参加者は収穫後、サイダーに花を入れ楽しんだ。
 今後は花を使った加工食品の開発や、被災農地での転作作物としての可能性を探るという。
 LEAF26の村上昌芳理事長は「ホーリーバジルを媒体として、被災地で貢献できる若者を育てる機会を設けることができた」と語った。
 関東学院大4年の松井崚拳さん(23)は「ホーリーバジルを植えたのは初めて。学生同士が協力し、新しい商品を生み出したい」と話した。

梅田でバイキング/中崎町・堂山町・兎我野町・中津・上新庄

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150805_大和高田

Ambiance amoureuse
D'humeur mélancolique, votre sensibilité sera à fleur de peau. Devant les doutes qui envahiront vos pensées, vous vous remettrez en question. En couple, votre partenaire vous offrira un week-end en amoureux. Un dépaysement qui renforcera votre confiance. Célibataire, un ami vous entraînera pour un relooking. Le résultat sera au-delà de vos espoirs.
En couple
Grâce à votre partenaire, votre couple connaîtra un apaisement. Devant votre morosité, il décidera de vous offrir une escapade surprise. Heureux de l'initiative, vous vous en remettrez à ses décisions. Ce séjour en amoureux vous permettra de faire le bilan de votre couple qui s'avérera positif. Profitez-en, votre conjoint sera aux petits soins !
En solo
Devant votre tristesse d'esprit, un ami viendra à votre rescousse. Pour vous regonfler le moral, il vous emmènera dans un institut de remise en beauté. Réfractaire à cette idée, ses arguments vous convaincront. Le résultat sera surprenant. Il remotivera votre confiance en votre potentiel de séduction. Votre récompense viendra par une rencontre.
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「同対審」答申を読む
奥田 均
解放出版社
2015-06-29




かがくdeムチャミタス!あの生き物はどんな音?聴診器で大調査!
ナマケモノは心臓もなまけている? へびの心臓ってどこにあるのー? カンガルーやうさぎ、鳥・・・ 聴診器を使って、色んな動物の心臓の音を彩木咲良が大調査! 心臓の鼓動の速さでわかる生き物のあることとは? お楽しみに〜
石田靖(ドク) たこやきレインボー 堀くるみ 彩木咲良

至宝化石が大集合!探検ナイトミュージアム
上野・国立科学博物館で開催中の「生命大躍進展」が今大人気!奇怪な古代モンスターから恐竜、知られざる人間の遠い祖先たちに至るまで、40億年の生命進化をたどる超お宝化石が世界から大集結しているのだ。閉館後の会場をナイトミュージアム支配人の案内で大冒険!化石に秘められた驚きの秘話や進化研究の最前線に迫る。古代生物がまさかの復活?恐竜人間と古代人の決闘?ミステリアスな夜の博物館はハラハラドキドキの大騒ぎ!
劇団ひとり,中村慶子, 飯尾和樹,伊集院光,春香クリスティーン,加瀬友喜,山田格,河野礼子

池上彰のニュースそうだったのか!! 2時間スペシャル
(1)集中豪雨という言葉が初めて使われたのはいつ?コンクリートの堤防が作られるきっかけとなった台風は?日本の安全を変えてきた事件・事故を池上彰が解説します(2)この50年の間、良くなったり、悪くなったりを繰り返してきた、日韓関係。そのきっかけとなった出来事とは?!この機会に日韓関係をまとめておさらいしましょう!(3)今国会で議論されている、安保法案。そもそも日本の安全はこれまでどう守られてきたのか、そしてこれまでも安全保障をめぐりどんな議論がされてきたのか、戦後の動きをわかりやすくまとめて解説します!
池上彰 宇賀なつみ 前田吟・吉川美代子・六角精児・遠藤章造(ココリコ)・坂下千里子・ホラン千秋・岡本玲

池上さんの日韓関係の説明はいただけません.「反日」を韓国の政治家のせいにしていましたが,歴史に誠実に向き合わないの日本の政治家のせいで,少なからぬ韓国人が「反日」にならざるを得ない実情を無視しています.
梅田のホテル阪急インターナショナルでバイキングです.先日のレ・ミゼラブルのときについてきたチケットです.いくらするのかなぁ???と思ってみると4000円!!!高いです.でもおいしい.Boule de Neige(ブール・ドゥ・ネージュ)やRissotte of Lobster & Asparagus with Sauce Américaine(トリュフとミニアスパラガスのリゾット オマール海老添え アメリケーヌソース)それにSirloin steak with Foie gras pain perdu(サーロインステーキ フォワグラのパンペルデュとともに).Ragu of Beef achilles tendon & Aubergine topped with cheese(茄子と牛すじのラグーのチーズ焼き)やCream gratin of Salmon & Spinach(サーモンとホウレン草のクリームグラタン)などたくさんあって満足.当然食べ過ぎました.
中崎町に自転車を取りに戻って,そのあたりをふらふら.何となく観光地っぽい感じもあります.
堂山町と兎我野町はなんというか,夜来たら大変な街かな?と思いました.
新梅田から中津を経て帰りました.疲れました.
夕方,「ストップ戦争法案東淀川パレード」というイベントがあるというので上新庄の公園に行きました.蚊にかまれてかゆいです.パレードは遠くから見ているだけでした.
ふと気になって,又吉直樹の火花,大阪市立図書館で借りることできるかな???予約が3426件で所蔵は81冊.借りるのはちょっと無理っぽい??

震災がれきでモニュメント「記憶を後世に」
 東日本大震災で発生したがれきを活用したモニュメントが、大船渡市赤崎町大立地区で製作されている。震災の記憶を後世に伝えたいと住民らが取り組む。
 モニュメントは高さ5メートル、最大幅12メートルで、らせん回廊の造り。津波で壊れた家の基礎、ブロック塀などのがれきをコンクリートで固め、タイルを張り付ける。海など自然への畏敬の念を込め、外観を青、赤などで彩っている。
 発案したのは、同地区の自営業志田秀一さん(57)。被災して避難所にいた際につらい境遇を住民たちで支え合って乗り越えた経験を踏まえ、地域のシンボルのようなものを行政に頼らず自分たちで手掛けられないかと考え、津波で被災した自宅の敷地で始めた。
 知人で北海道江別市の彫刻家原田ミドーさん(52)の協力を得て製作の構想が具体化した。2012年3月から、ボランティアの手も借りてこつこつと作業を続けている。震災から5年となる来年3月までの完成が目標だ。
 「明日へのラブレター」。津波への警戒を怠らず、希望を持って未来を歩んでほしいとの願いから、モニュメントにそう名付けた。
 本格的な住宅や仕事場の再建など今後を思うと、志田さんの不安は尽きない。それでも「モニュメント造りを通して小さな力も結集すれば形になると自信がついた。多くの人が集う場所になったらいい」と話す。


<復興祈念公園>石巻など21年3月完成
 復興庁と宮城、岩手両県などは21日、石巻市と陸前高田市に建設する東日本大震災の復興祈念公園の基本計画を発表した。いずれも公園の中心部に国営の追悼・祈念施設を設置して鎮魂の場とし、周囲に震災の伝承施設を整備する。完成は2021年3月の予定。
 石巻市の公園は南浜地区の約40ヘクタール。震災の記憶を後世に伝えるため、津波の被害に遭った街路網の骨格を各所に残し、中心部には追悼式典や復興イベントの会場となるスペースを整備する。市民活動やレクリエーションに対応する多目的広場を造り、海側には松林や湿地を復元する。災害時に備え、一時避難場所として築山も建設し、日和山までの避難路も設ける。
 陸前高田市の公園は再生する高田松原と気仙川河口一帯の約130ヘクタール。追悼・祈念施設は「奇跡の一本松」の隣接地を造成した築山で、広田湾や新市街地を見渡し祈りをささげる空間となる。国道45号沿いの震災遺構「タピック45」周辺には、津波伝承や物産販売の施設を建設する。
 福島県の復興祈念公園は浪江、双葉両町にまたがる沿岸部に建設されることが決まったが、完成時期は未定。今後、基本構想を策定する。
 竹下亘復興相は閣議後の記者会見で「犠牲者への追悼や震災の記憶の伝承、復興への強い意志を発信する場にしたい。地域の人が日常的に利用する施設とすることも大切だ」と話した。


<ツール・ド・東北>気仙沼「復興の出発地」
◎進化に挑む(1)新たな拠点に
 東日本大震災の復興支援サイクリングイベント「ツール・ド・東北2015」(河北新報社、ヤフー主催)は9月13日に本番を迎える。ことしで3回目。被災地再生の思いを分かち合い、進化を目指す大会に集う人々を追った。(ツール・ド・東北取材チーム)=5回続き
 千葉県鎌ケ谷市の会社員菊地大輔さん(40)は、気仙沼市をスタートし石巻専修大(石巻市)をゴールとする片道型の「気仙沼ワンウェイフォンド」(95キロ)が新設されると知り、迷わず参加を申し込んだ。
<忘れ得ぬ街へ>
 休日に愛車のロードバイクで江戸川河川敷を走り込んでいる。準備に余念がないのは、菊地さんにとって気仙沼が「生涯忘れることのできない街」だからだ。
 菊地さんは2009年春、札幌市から気仙沼市の大型商業施設に転勤した。
 11年3月11日、社宅や車、店が津波をかぶり、知人も亡くした。小学校で避難所暮らしをしながら臨時販売を再開させた4月、千葉県の店舗への異動を告げられた。
 つらさを抱えたままの転勤で、心にあったのが気仙沼の思い出だった。夏の気仙沼みなとまつりに2年連続で参加し、街中に広がる熱気に魅了された。人々は温かく、顔見知りになった客が「これ食べて」と畑で採れた野菜を店に届けてくれたこともあった。
 「あの日からきっと、みんな一歩ずつ前に進んできたと思う」。大会前日は気仙沼市に宿泊する予定の菊地さん。「知人や店の人に会える。気仙沼の復興や風景を目に焼き付け、帰ってから周囲に伝えたい」と心待ちにしている。
<回復のイチゴ>
 気仙沼ワンウェイフォンドの新設で、気仙沼市は石巻市に続くツール・ド・東北の出発地となる。関係者は離島・大島の民宿など宿泊先をあっせんしている。
 大島の宿泊客数は震災前の半分以下。それでも地元は復興の歩みを止めていない。気仙沼大島観光協会長の白幡昇一さん(64)は「地元の人たちや風景の魅力に触れ、リピーターになってほしい」と願う。
 大会当日、市内3カ所にエイドステーション(休憩所)が設けられる。このうち階上小と道の駅「大谷海岸」では、イチゴシャーベットが振る舞われる。
 ことし6月に階上地区特産のイチゴ5000粒を収穫し、砂糖をまぶして冷凍してきた。地元のイチゴ農家は津波でビニールハウスが軒並み流され、震災の年は生産できなかった。
 「生産量を回復させようと皆が頑張っている。甘いイチゴを頬張って疲れを癒やしてほしい」とイチゴ農家の小野寺郁朗さん(71)。おもてなしと復興の思いがこもったツール・ド・東北ならではの味は、参加者の力になりそうだ。


津波で流失2駐在所再建「安心安全に貢献」
 東日本大震災の津波で全壊した気仙沼署の唐桑駐在所と大谷駐在所がいずれも移転新築されて業務を開始し、21日、唐桑駐在所で開所式があった。震災後、津波で使用不能となった県警の被災施設が本格再建するのは初めて。
 唐桑駐在所は、気仙沼市唐桑町の旧駐在所から約200メートル内陸に建設された。木造平屋で延べ床面積106平方メートル。屋根の造りは「唐桑御殿」と呼ばれる地元の豪華な家をイメージしている。所員は2人。
 開所式には地元住民ら約40人が出席。これまで唐桑体育館を仮設事務所としてきた駐在所長の梅津博行警部補(45)は「気持ちも新たに地域の絆をはぐくみ、安心安全な地域づくりに貢献したい」と話した。
 大谷駐在所は、同市本吉町の国道45号沿いの旧駐在所から約1キロ西の高台に移設された。木造平屋で延べ床面積104平方メートル。所員は1人で、執務室には、震災で避難誘導中に殉職した当時の駐在所長、千田浩二さん=当時(30)=の遺影が掲げられている。開所式は24日に予定されている。
 県警によると、津波で使用不能となった施設は気仙沼署や南三陸署、交番、駐在所など26施設。県警は各地の復興状況をにらみながら再建を検討していく。


<仙台育英準V>ナイン「最高の夏」母校で報告
 兵庫県西宮市の甲子園球場を舞台に20日まで開かれた第97回全国高校野球選手権大会で、1989年以来、26年ぶりの準優勝を果たした仙台育英ナインが21日、仙台市宮城野区の同校宮城野校舎であった準優勝報告会に出席した。大会創設100年の節目に聖地を沸かせた戦いぶりを学校関係者らがたたえた。
 選手たちは新幹線で移動し、午後6時ごろJR仙台駅に到着。大勢の市民から「おめでとう」などと声を掛けられた。その後、生徒、保護者ら約500人が待つ報告会会場の体育実習室に到着。準優勝盾を持って入場すると、大きな拍手が上がった。
 佐々木柊野主将は「自分たちの力だけではここまで来られなかった。本音を言えば優勝したかったが、声援のおかげで最高の夏になった」と感謝した。
 佐々木順一朗監督は「準優勝で『よくやった』といってもらい、きのうに増して、何で優勝できなかったんだろうと思う。決意を新たに、またあすから挑戦を始める」と述べた。


<仙台育英準V>冬の先に 梅花がある
◎スポーツライタ一 生島淳さん
 1976年の夏。気仙沼小学校の3年生だった私に、甲子園最初のアイドルが誕生した。東北高校(宮城)の2年生投手、名字を「佐々木」といった。長身痩躯(そうく)の投手に率いられた東北は準々決勝まで勝ち上がり、長崎海星に敗れた。
 時は流れて、あれから39年。佐々木青年は仙台育英の監督として、甲子園の決勝に駒を進めた。
 決勝は素晴らしい試合だった。序盤にはナイーブさが顔をのぞかせ、六回に同点に追いついた場面では高校生が「化ける」瞬間を見た。終盤に入って佐藤世那投手が甦り、鍛えられた守備は日ごろの鍛錬の成果を発揮した。しかし、最終回に待っていたのは失意−。
 八回裏2死、仙台育英の攻撃でデッドボール出塁と思われながら、結局ストライク三振となった判定が、もしも違っていたら、また別の結末が用意されていたのではないか−という恨み節もある。しかし、それも含めて「高校野球」なのだと思う。
 感情を離れ、冷静にトレンドを分析するならば、仙台育英には宮城県の野球の「力」が凝縮されていた。
 エース、佐藤世那は仙台育英学園が運営する秀光中等の出身。中高一貫教育の成果が出た。野手に目を転じれば、甲子園で本塁打3本の平沢大河は七ケ浜シニア(宮城県)のОB。宮城全体のジュニアレベルでの育成が準優勝につながった。関係者は胸を張っていい。
 ただし、これから心配なのは沿岸部では震災の影響でグラウンドが少なくなっており、未来の高校球児たちに影響が出ることだ。小中9年間にどれだけボールに触れられるかは、将来を左右する。東日本大震災の影響は、すでに出始めており、岩手大会でベスト8に残った学校は沿岸部で久慈のみ、その意味で、宮城県で準決勝まで進んだ石巻の躍進は特筆に値する。
 これから、高校野球の新しい100年が始まる。佐々木監督は敗戦後、「お立ち台で高校野球の歴史が変わった瞬間でした、というつもりでした」と語った。目の前の果実が手から滑り落ちる心境とは、どんなものなのか。
 これから秋がやってきて、また冬が来る。西郷隆盛の言葉に「耐雪梅花麗」(雪に耐えて梅花麗し)というものがある。100年という長い冬を耐えた末ならば、いったいどんな美しい梅が咲くのだろう。そしてそれはいつのことになのだろう。信じて待つ他にない。
[いくしま・じゅん]67年、気仙沼市生まれ。著書に「エディー・ジョーンズとの対話」「箱根駅伝」「気仙沼に消えた姉を追って」など。早大卒。


鶴瓶やSMAP中居も 芸能人「安保反対」大合唱のインパクト
 ひょっとしたら、これがトドメになるのではないか。芸能界から公然と安保法案反対の声が上がり始めている。
 衝撃を与えているのは、4人組「SPEED」の今井絵理子(31)が終戦記念日にツイッターで発したこの発言だ。
「今の日本の流れを拝見すると、どこかプチ戦争なら賛成!みたいに見えるのはわたしだけでしょうか?」
 SPEEDは90年代後半にミリオンセラーを連発した人気グループだ。今井の発言を受けて、30〜40代のファンを中心に「安保法案NO」の声が急速に広まりつつある。
 笑福亭鶴瓶(63)の発言も強烈だ。今月、フジテレビ系列の東海テレビの番組に出演した際、安保法案について「絶対あかん」と一刀両断。「だいぶアメリカに乗せられて、後方支援、後方支援と言っているけれど、せんでええねん。したらあかん」「今の政府がああいう方向に行ってしまうのを、止めなくてはダメ」と主張した。
 さらに、SMAPの中居正広(43)である。今月2日に高校生ら5000人が渋谷で安保法案反対のデモを行ったことについて、フジの番組で「若い子が声を上げるのは、ぼくはいいことだと思う」と評価し、「この70年間、日本人って戦地で死んでいないんですよ。これってやっぱり、すごいことだと思う」と語った。
 3人のほかにも、長渕剛、タレントのSHELLY、女優の渡辺えり、演出家の鴻上尚史らが「安保法案反対」を表明している。芸能評論家の肥留間正明氏が言う。
「人気商売である歌手やタレントにとって、ファンを失うリスクがある政治的発言は“タブー”とされています。だから、よほどの“大御所”かベテランでもない限り、芸能人は政権批判はもちろん、冗談でさえ政治的な話題を口にしません。ところが、鶴瓶やSPEEDの今井は、安保法案に毅然と反対しました。彼らなりに覚悟を決めて言葉を発したのでしょう。老若男女に幅広い人気があるタレントだけに与えるインパクトは計り知れません」
 不利益を被ることを承知の上で発した“覚悟の発言”だけに重みがある。若者たちの反対デモはますます盛り上がり、「安保法案NO」の動きはどんどん強まりそうだ。

寝屋川中1殺害事件で45歳男性逮捕/はなわの大阪府

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Au Japon, Uniqlo offre une semaine de quatre jours à ses salariés
Les commerces du pays peinent à trouver de la main-d'oeuvre. Pour séduire les futurs salariés potentiels, la chaîne d'habillement veut proposer à partir du mois d'octobre un nouveau rythme de travail : quatre jours de travail par semaine et trois jours de repos, sans aucun impact sur les salaires.
Uniqlo a entendu l'appel du gouvernement japonais. Le 27 mars dernier, Yoshihide Suga, porte-parole du gouvernement de Shinzō Abe, avait affirmé vouloir ≪inciter les gens à modifier leurs habitudes≫ pour ne plus faire d'heures supplémentaires le soir -pour avoir davantage le temps de consommer et donc relancer l'économie. Jeudi, la chaîne nipponne a annoncé vouloir proposer à ses salariés de ne ≪travailler que quatre jours par semaine pour pouvoir notamment consacrer les trois autres à leurs jeunes enfants ou parents agés≫.
Ce nouveau rythme de travail hebdomadaire devrait être proposé par le groupe à partir du mois d'octobre prochain, faisant passer la durée journalière de 8 à 10 heures de travail. Jusqu'ici, les salariés avaient droit à deux jours de repos par semaine. Ils travailleraient donc toujours 40 heures chaque semaine mais à un rythme différent. Pour un salaire équivalent, ils auraient un jour libre de plus.
Une pénurie de main-d'œuvre
L'objectif visé est clair: attirer du personnel et le conserver dans un pays où les offres d'emploi sont toujours plus importantes que le nombre de personnes en recherche de poste. Selon le ministère du Travail, il y avait en juin un ratio de 119 offres pour 100 demandes, soit l'écart le plus important depuis vingt ans dans un pays où le taux de chômage oscille autour de 3,4%.
Uniqlo fait aujourd'hui face, comme de nombreux groupes dans le secteur du commerce au Japon, à une pénurie de main-d'oeuvre. Uniqlo cherche donc à attirer de potentiels candidats avec un rythme atypique, tout en assurant un roulement au sein du personnel. Les jours de congés seront essentiellement pris en semaine pour permettre un service maximum le samedi et le dimanche, jours d'affluence dans les magasins. Le porte-parole du groupe, toujours sous la coupe de Fast Retailing, a expliqué que ce schéma serait appliqué, dans un premier temps, à 10.000 salariés des 840 enseignes japonaises de Uniqlo.
Assurer un minimum de personnel pour le week-end
Premier ministre du Japon depuis fin 2012, Shinzō Abe avait, dès sa prise de fonction, affirmé vouloir s'attaquer au marché du travail et au rythme des salariés, jugé très intense et néfaste pour la consommation des ménages. Cette donnée clé du PIB japonais, environ 60%, a fléchi de 0,8% entre avril et juin 2015 (contre 0,4% au premier trimestre). Les Japonais consomment moins car, selon le premier ministre, ils travaillent trop. Le gouvernement souhaite donc que ses citoyens puissent ≪passer leurs soirées avec leur famille et amis≫, dans l'idée de relancer les dépenses des ménages.
Le nombre de jours de repos hebdomadaires fait régulièrement débat au Japon, notamment depuis la catastrophe de Fukushima en mars 2011. Après l'accident nucléaire, face à l'obligation de faire des économies d'électricité, plusieurs entreprises avaient déjà opté pour une augmentation des journées de congé hebdomadaire avant de revenir progressivement au rythme initial de deux jours par semaine. Reste que pour beaucoup, ces évolutions restent encore trop lentes et le système trop pénalisant pour les femmes. Selon les statistiques publiées par l'OCDE, les Japonais ont travaillé 1735 heures en 2013, soit bien plus que les Français (1489) et les Allemands (1388) quand les Américains tournent autour de 1788 heures par an.
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大阪で生まれた人は
信号の赤青黄色の意味を知らない
青は進め 黄色は進め
赤は気をつけて進め

大阪の常識といえば
エリートは一流大学より吉本
レコード大賞より上方お笑い大賞
ベッカムよりもやしきたかじん

東京なんかに負けないくらい
大阪は日本一やで
二十年間守り続けてる
日本一の引ったくりの件数

芸人選挙に出れば絶対当選
嬉しいことがあれば川に飛び込め
特技といえば路駐
カラオケの最後の曲はもちろん六甲おろし
しかもオマリーバージョン

なんでやねん どないやねん やっぱ好きやねん
お好み焼き定食 僕ら炭水カブティズム
なんでやねん どないやねん
たこ焼き好きやから つまようじの消費率がなんと世界一

なんでやねん どないやねん
みんなで一緒についてこい

一家に一台たこ焼き機
二時間ドラマが大好き
百円値切るの八時間
納豆食うなら虫を食え
上沼恵美子はカリスマ
円広志は飛びすぎ
さらには廻りすぎ
ツッコミしないと非国民

なんでやねん どないやねん
そんな大阪が意外と好きやねん


寝屋川で中学1年生の男女が殺害・行方不明になった事件で,寝屋川市の45歳男性が逮捕され,また行方不明だった男子が遺体で発見されました.とても悲しいことです.

見えますか?空の上から 広瀬川で灯籠流し
 先祖や故人をしのぶ「広瀬川灯ろう流し」(実行委員会主催)が20日、仙台市若林区の宮沢橋近くの広瀬川河川敷であり、赤や青など色とりどりの灯籠約2300個が淡い光で川面を彩った。
 26回目となることしは、約4万2千人が訪れた。「東日本大震災で犠牲になった姉を供養したい」「亡くなった両親に感謝の気持ちを伝えたい」。来場者は静かに手を合わせ、清流に揺れる灯籠を見送った。
 数年前に曽祖父を亡くした長町南小4年の佐々木晃成君(10)=太白区=は「いつも見守ってくれてありがとうと気持ちを込めた」と話した。
 ステージでは仙台南、常盤木学園両高による吹奏楽の演奏や仙台三桜高の合唱が披露され、約1000発の花火が打ち上げられた。
 広瀬川灯ろう流しは江戸時代に始まり、一時途絶えた。伝統を守りたいと地元商店会や町内会が1990年に復活させ、毎年8月20日に開いている。


河北春秋
 最終回を迎えるまで同点で並び、あと一歩だっただけに、惜しいの一言に尽きる。やはり気負いがあったのか。頂点を狙う直前までチームを包んでいた大きなうねり。またするりと逃げられてしまった▼東北にとって、夏の甲子園で8度目の優勝旗取りに挑んだ仙台育英(宮城)。六回の同点劇は見事だったが、振り切られた。ここぞというところで期待に応える打線、エースの風格漂う佐藤世那投手、安定した守りと、レベルの高さを見せてくれた。最後の最後に隙が生じたとして誰が責められよう▼優勝旗が津軽海峡を越えて北海道に渡ったとき、白河の関越えの意味は薄れたと言う人もいた。4年前の東日本大震災で被災者の献身的な行動と粘り、負けない心が称賛され、東北勢の試合に全国から声援が寄せられた▼地元の人々も、栄冠輝く旗を持ち帰る意味をあらためてかみしめるようになった。東北勢の実力は今大会の示す通り。いまや対戦相手を決める組み合わせ抽選で、東北のチームを引いた他校の主将が仲間に「すまない」という顔をするまでに▼悲願達成は持ち越しとなった。でも、手元をするりと抜けていく正体をつかまえる楽しみが、少し先に延びたと思えばいい。仙台育英の選手に伝えたい。堂々の戦いぶり、本当にありがとう。

仙台育英準優勝/頂点は近い、さらに精進を
 悲願は達成が先に延びれば延びるほど、手にしたときの感動は大きい。そう思うしかあるまい。
 第97回全国高校野球選手権大会できのう、宮城代表の仙台育英は東海大相模(神奈川)に、わずかに及ばず、またしても優勝旗の「白河の関越え」はならなかった。
 第1回(1915年)の秋田中以来、高校野球100年で頂点に挑むこと、春夏合わせ11度目。球運には恵まれなかったが、横綱相手に互角の試合を展開した選手の頑張りに大きな拍手を送ろう。ごく近い将来の優勝を確信させる健闘でもあったのだから。
 ことしの仙台育英は攻守のバランスがよく、優勝候補の一角に目されていた。昨年秋の明治神宮大会で優勝、春の選抜大会は2回戦で優勝校に惜敗したものの、戦力は充実していた。
 プロも注目の投打の軸が安定し、前評判通りの実力で順当に勝ち進んだ。
 故障上がりで心配された大黒柱、佐藤世那投手は徐々に復調。決勝戦は連投の疲れもあってか、痛打を浴びたが、粘りの投球を見せた。
 内外野は堅実な守備でエースをもり立て、打の中心、平沢大河遊撃手をはじめ持ち前の強力打線も力を発揮。ベテラン、佐々木順一朗監督の采配もさえ、伸び伸びプレーを引き出した。
 東北勢は最近、着実に力を付けてきた。ことしは昨年に続いてベスト16に4校、ベスト8には3年連続して2校が勝ち残った。
 決勝戦に駒を進めたチームも平成以降、今回を含めて春夏合わせて8度に上る。ここ5年でみると実に4度目で、実力は間違いなく全国レベルにある。
 決勝戦は独特の緊張感があり、優勝を逃し続けてきた悲運の歴史も重圧となってナインにのしかかる。「見えない敵」との戦いを強いられた側面もあっただろう。
 「1世紀の本願」はつかみ損ねたが、落胆することはない。堂々たる戦いぶりは間違いなく「優勝はすぐそこにある」ことを多くの野球ファンに見せつけた。
 「精進を重ねれば早晩、願いはかなう」。そうした確かな手応えは、復興に取り組む被災地など、東北で踏ん張る人々に励ましと大いなる勇気を与えてくれたに違いない。
 北海道の駒大苫小牧が2004年と05年の夏連覇、沖縄の沖縄尚学が1999年と2008年春に、興南が10年に春夏連覇を達成。今年春には北陸勢初の敦賀気比(福井)が頂点を極めた。
 記念すべき年に東北が空白地を返上できなかったのは残念だが、来年にも吉報をもたらしてくれよう。
 東北の高校野球界は心を一つに、切磋琢磨(せっさたくま)を重ねている。3回戦、仙台育英との東北対決で競り敗れた花巻東の佐々木洋監督は試合後、ライバル校に東北の夢を託す談話を出している。
 東北が一丸となって大旗を目指す。各県の強豪校などが完全に視界に入っている優勝に向けてしのぎを削っていけば、結果はついてくる。悔しくも弾みになる甲子園100年のゲームセットだった。


<仙台育英準V>被災地「諦めぬ気持ち学んだ」
 全国高校野球選手権大会決勝で、東海大相模(神奈川)に6−10で惜しくも敗れた宮城代表の仙台育英。劣勢にくじけない戦いぶりに、東日本大震災の被災者たちは自らの姿を重ね、同級生たちは「日本一暑い夏」を贈ってくれた選手たちをたたえた。悲願の「大旗」へあと一歩届かなかったが、仙台育英ナインの勇姿が被災地復興の推進力になる。
 石巻市開成の福祉仮設住宅では、地域住民ら約20人がテレビを見ながら応援した。近くの仮設住宅に住む無職及川節子さん(77)は「選手たちは立派に戦った。胸を張って帰って来てほしい」とエールを送った。
 来年、津波で自宅が全壊した湊地区に整備される災害公営住宅に引っ越す予定の及川さん。「強敵を倒して勝ち進む仙台育英の選手たちから元気をもらった。新たな暮らしに希望を持って頑張ろうと思えた」と語った。
 宮城県南三陸町の仮設商店街「南三陸さんさん商店街」ではパブリックビューイング(PV)が企画され、町民や観光客約100人が集まった。
 仙台育英が3点を追う六回裏、6−6と追い付くと、観客は「やった」「すごい」と立ち上がって拍手。同町の志津川高3年の阿部一樹君(18)は「仙台育英は県予選で負けた相手。同世代が頑張っている姿は刺激になる。なんとか優勝を」と試合を見守った。
 気仙沼市の災害公営住宅に暮らす無職熊谷かたさん(78)は、同市のコミュニティセンターで観戦。仙台育英の敗戦が決まると、「最後は残念だったけれど、ひたむきにプレーする姿が素晴らしかった」とたたえた。
 震災で被災し、昨年建て替えられた宮城県亘理町の荒浜中では、部活動中の生徒約40人が熱戦に見入った。野球部主将の2年、塚辺穏(やすき)君(14)は「最後まで諦めない気持ちの大切さを学んだ。僕も甲子園の舞台に立ちたい」と、夢の舞台へ思いをはせた。


<仙台育英準V>心揺さぶる100年の決勝
 東北に初めて優勝旗を持ち帰るという夢は果たせなかったが、仙台育英は高校野球100年の決勝にふさわしい戦いぶりを見せた。序盤に0−4とリードされても3点を返して懸命に食い下がり、中盤には追い付く粘り。そのひたむきなナインの姿は、東北の人々だけでなく、甲子園の大観衆の心を揺さぶった。
 仙台育英が3−6で迎えた六回、佐々木監督が「身震いした」と振り返る会場の雰囲気があった。2死満塁の場面で、甲子園のネット裏や内野スタンドなどの一般観客が手にしたタオルを振り回す。「仙台育英コール」が銀傘(ぎんさん)にこだました。
 そして、佐藤将が「球場全体の声援を力に変えて打つしかないと思った」と、中越えに走者一掃の三塁打を放ち、ついに6−6の同点とした。
 三塁コーチの佐々木啓太からは、急な追い風に乗って打球が伸びたように見えた。右腕を思い切り何度も振り回して走者3人を勢いづけ、本塁へと走らせた。「神懸かり的な場面だと思った。天国にいる憧れの先輩が風を吹かせ、外野の頭を越えさせてくれたんだと」
 先輩とは、2006年の大会で、佐藤由規投手(現ヤクルト)とバッテリーを組み、11年の東日本大震災で亡くなった斎藤泉さん=当時(22)=。佐々木啓は同じ石巻市出身の先輩の背中を追い、甲子園で決勝の土を踏んだ。「あんな形で追い付けたし、被災地に笑顔を届けられた」と胸を張った。
 観客の声援に加えて、本調子でなかったエースの佐藤世を何とかもり立てようと奮起するナイン。参加3906校のうち2校しか味わうことのできない濃厚な時間に最後まで魅了された。佐藤世は「負けたのは残念だが、この雰囲気の中で野球ができたことがうれしかった」と振り返った。(薄葉茂)
<6回よく追い付いた/仙台育英・佐々木順一朗監督の話>
 東北、宮城の初優勝が懸かっていたので、悔しいのと、(応援してくれた方々に)申し訳ないのと、(選手が)良くやったとの気持ちが混ざり合っている。相手の一方的な試合になるかと思ったが、六回によく追い付いた。


<仙台育英準V>監督、全国制覇の意欲衰えず
 仙台育英の夢は目前でついえた。就任20年の節目で優勝を逃した佐々木順一朗監督(55)は悔しさをにじませながらも「大会100年の節目に、こういう(決勝の)舞台に立てた」と選手たちの健闘をたたえた。
 決勝は、選手が指揮官の予想を上回る粘りを見せた。主戦の右腕佐藤世那投手が打ち込まれて0−4とされながら、三回に3点を返し、さらに六回は3点を奪って追い付いた。佐々木監督は「奇跡の三塁打だった」と同点打を放った佐藤将太選手の打撃を振り返った。
 優勝できなかった要因は「分からない。分かっていたら勝っている」。ただ、今大会は常に先行逃げ切りで勝ち上がり、決勝前も「先制して相手を慌てさせたかった」だけに、劣勢を強いられた決勝は心残りだったようだ。
 自主性を重んじ、チームは成長した。管理型の指導ではなく、勝つための工夫を選手たちに考えさせてきた。その結果、「選手たちが次の対戦相手のビデオを見て、自主的に対策を練るようになった」と目を細める。
 準決勝の早実(西東京)戦。3−0で迎えた三回2死満塁のピンチで内野手と捕手のサインプレーが起点となり、リードが大きかった二走を佐藤世投手がけん制アウトにした場面は選手自身が機転を利かせた好例だ。
 東北高時代の恩師で、1989年夏に準優勝に導いた竹田利秋氏(国学院大総監督)の後を継いで監督に。東北、仙台育英で計27度甲子園出場させた竹田氏を追い、2001年の選抜は準優勝まで勝ち上がった。
 指揮官として甲子園で夏に19勝12敗と東北勢の監督でトップの実績を誇る。OBから「こういう打線が(現役時代に)欲しかった」とうらやましがられる現チームでも果たせなかった甲子園制覇。「力があるうちに狙いたい」と意欲は衰えていない。(加藤伸一)


武藤氏自民離党 デモ批判幕引き許さぬ
 武藤貴也衆院議員が自民党を離党したのは金銭トラブルの発覚が理由だが、安全保障法制関連法案に反対する学生デモを「利己的考え」と批判したことこそ聞き逃せない。離党で幕引きは許さない。
 安保法案の今国会成立のためには、野党側に攻撃材料は極力与えたくなかったのだろう。
 武藤氏は「プライベートに関する件で党にこれ以上迷惑をかけられない」として離党届を提出し、自民党はきのう離党を了承した。
 プライベートに関する件とは、週刊文春が報じた未公開株をめぐる金銭トラブルだ。同誌によると武藤氏は昨年、知人らに「値上がり確実な新規公開株を国会議員枠で買える」と持ち掛け、二十三人から約四千百万円を集めたが、実際には株は購入されず、出資金の一部も返済されていないという。
 事実だとすれば、かつてのリクルート事件を想起させる醜聞だ。罪に問われる可能性もある。武藤氏は「一方的かつ事実と異なる」と反論するが、何が事実で何が事実でないのか、武藤氏には進んで国民に説明する責任があろう。
 国会も本人任せにせず、自浄機能を示す必要がある。当面は、国会に参考人招致したり、原則非公開で偽証罪に問われない政治倫理審査会(政倫審)で説明させるのが、現実的な方法だ。
 もっとも、プライベートに関する件とは別に、武藤氏には国会議員の適格性が疑われるツイッターでの発言があり、不問に付すことはできない。安保法案反対の学生デモを「『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく」などと批判したことだ。
 学生たちの「戦争に行きたくない」という思いのどこが、利己的だというのか。武藤氏は安保法案に基づいて参戦する戦争に進んで行きたいとでもいうのか。
 武藤氏の発言は安保法案を「戦争法案」と認めたことにもなる。政権幹部は苦々しく感じていたに違いないが、武藤氏は発言を撤回しておらず、自民党執行部も苦言を呈しただけで、撤回させたわけでもない。
 離党さえすれば、武藤氏とは無関係になるから安保法案の審議には影響ない、これで幕引きができるとでも、安倍政権は考えているのだろうか。勘違いも甚だしい。
 武藤氏の言動で迷惑をこうむっているのは自民党でなく国民だ。離党だけでは何の問題解決にならないと、忠告しておきたい。


高齢者の再犯 社会的負担も考えよう
 お金がなくて無銭飲食をする、店でお握りや果物を万引きする、放置してある他人の自転車に乗る……。そうした罪で実刑判決を受け刑務所に送られる高齢者や障害者が増えている。比較的軽微とはいえ詐欺罪や窃盗罪が適用される。許されることではない。
 ただ、こうした高齢者や障害者の再犯率は高く、刑務所に入れることが矯正になっていない面がある。お握り一つの万引きでも、刑務所に収容すれば1人年間300万円以上の公費がかかる。社会の安全に必ずしもつながらないばかりか、予算も無駄になっているのではないか。
 戦後、受刑者数は一貫して減ってきたが、1995年の地下鉄サリン事件をきっかけに刑事政策が変わり、軽微な罪でも捜査当局が積極的に立件するようになった。
 特に高齢の受刑者の増加は際立っている。2012年には全受刑者のうち65歳以上は8.8%を占め、20年前に比べて5倍以上に増えている。女子刑務所は特に顕著で、高齢受刑者は12.8%を占め、10倍以上の増え方を示している。また、知能指数(IQ)69以下で知的障害があると思われる人が全受刑者の2割を超えるという法務省の統計もある。
 一般的に、軽微な罪を犯した人が実刑にならないためには(1)被害弁済(2)身元引受人(3)謝罪と反省、が必要と言われる。仕事もお金もないために被害を弁済できず、身寄りがないので引受人もいない、認知症や知的障害のため謝罪できるコミュニケーション能力も乏しい−−という累犯高齢・障害者が刑務所を埋めているのだ。
 イギリスでは受刑者に障害があることがわかると保安病院へ移して矯正プログラムを受けさせる。ノルウェーでは55歳以上の人が軽微な罪を犯した場合は警察から社会福祉の担当機関に対応が移る。オーストラリア・ビクトリア州でも認知症や何らかの障害がある人の場合は刑事裁判から切り離して、関係者が再犯防止のための処遇を協議する。
 日本でも各地の検察庁に社会福祉士が配置され、裁判では検察側が保護観察付き執行猶予を求刑する例が増えてきた。弁護側が福祉関係者の協力を得て更生保護計画を作成し、それによって執行猶予付き判決が出ることも目立つようになった。刑務所職員が地域の福祉機関や弁護士と勉強会を重ね、出所後の再犯防止に努める動きもある。
 ただ、いずれも試行段階であり、予算の裏付けも乏しい。執行猶予中に触法行為をしたとみなされると、ほとんどが実刑になる現実も変わらない。恒常的な制度化に向けた取り組みが必要だ。

広島土砂災害から1年/仙台育英準優勝/北御堂で河内屋菊水丸

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Japon: des cadeaux moins coûteux pour les centenaires, trop nombreux
Le gouvernement japonais réfléchit à un cadeau moins onéreux pour les citoyens qui fêtent leurs 100 printemps, car ces centenaires sont désormais légion et coûtent trop cher.
Selon les médias, le présent dont sont gratifiés chaque année ceux qui soufflent leurs 100 bougies pourrait se limiter à une lettre de félicitations en lieu et place d’un plat en argent qui coûte 8.000 yens pièce (60 euros).
≪Nous y réfléchissons, mais nous n’avons pas pris de décision≫ pour l’heure, a indiqué jeudi à l’AFP un fonctionnaire du ministère de la Santé et des Affaires sociales.
En 1963, première année où a été instaurée cette tradition du 15 septembre (journée des personnes âgées), seulement 153 centenaires étaient éligibles.
Mais depuis, le nombre de prétendants gonfle d’année en année, pour atteindre près de 30.000 en 2014, soit un budget total de près de 2 millions d’euros.
Le Japon comptait en septembre dernier quelque 59.000 personnes de 100 ans et plus, selon les statistiques officielles du ministère de la Santé. Parmi eux, 87% sont des femmes.
Environ un quart de la population du Japon est âgé de 65 ans et plus, une proportion qui devrait atteindre 40% d’ici à 2060.
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広島土砂災害から1年です.直接被災しているわけでないのと,少し遠い広島ということもあって今一つ思い出せなかったですが,ネットでのニュースなどを見てやはり悲しくなってきました.
仙台育英は残念ながら優勝できませんでした.それでも準優勝.頑張った選手たちを称えたいと思います.
夜御堂筋の北御堂に行きました.河内屋菊水丸の河内音頭です.1曲目は谷風・雷電らのお相撲の歌でなんと35分も歌っていたそうです.2曲目は乃木希典が名古屋の旅館に泊まるというもの.なぜかアンコールがあったけど3曲目はよくわかりませんでした.どうでもいいけど石田雄一のCMも面白かったです.菊水丸は京都の南山城村に住んでいるとのこと.また「えんやこらせ どっこいせ」が聞きたい感じです.
中崎町経由で帰りました.

広島の土砂災害から1年 被災地で祈り
75人が犠牲になった去年8月の広島市の土砂災害から20日で1年です。未明から遺族などが被災地を訪れ、亡くなった人への鎮魂の祈りをささげています。
去年8月20日に広島市で起きた土砂災害では午前2時からの2時間で200ミリを超える集中豪雨に見舞われ、166か所で土石流やがけ崩れが発生して土砂災害としては平成に入ってから最悪の75人が犠牲になりました。
20日は未明から遺族などが被災地を訪れ、鎮魂の祈りをささげています。このうち、新婚生活を始めたばかりで亡くなった、湯浅康弘さん(当時29)とみなみさん(当時28)夫妻の両親やきょうだいは、2人が住んでいたアパートがあった場所にビールなどを供えたあと、2人の写真に線香を手向け静かに手を合わせていました。
湯浅康弘さんの父親の湯浅吉彦さん(62)は「1年がたったといっても時間は止まったままで気持ちは変わっていません。東京から広島に帰ってきたばかりの息子で希望もあったと思うと悔しい気持ちになります。おなかの中にいた赤ちゃんと3人で一緒に天国で頑張ってほしい」と話していました。
また、みなみさんの母親の若松直美さん(53)は「ここに来るのは自分の気持ちを整理するためで、できることなら2人と赤ちゃんに会いたいです。2人にはこの世でできなかったことを向こうで頑張ってほしいし自分たちのことを見守っていてほしいです」と話していました。
広島市によりますと、被災した人は4357世帯1万638人で、このうち、市が無償で提供する公営住宅やアパートなど元の家を離れて暮らす人は19日の時点で830世帯1794人に上っています。
国と広島県は今年度中に緊急に被災地の47か所で砂防ダムや治山ダムを完成させる計画ですが、このうち6か所は用地取得の交渉などのため、いまだに着工に至っておらず、被災地では今も土のうやシートで応急処置をしただけの斜面や住宅も残っています。
NHKが被災者100人を対象に行ったアンケートで、すでに自宅に戻った人も含めて、もともと住んでいた場所に戻りたいか聞いたところ、27%が「戻りたい」と答え、半年前の調査より11ポイント減ったのに対し、「戻りたくない」は26%で、9ポイント増えました。アンケートでは戻りたくない理由として「再び土砂災害が起きないか恐怖心がある」、「砂防ダムができていない」などと安全面での不安を訴える声が多く上がっています。
被災地は、まちの復興と被災者の生活再建という課題を抱えたまま、災害の発生から1年を迎えました。20日は広島県と広島市が主催して犠牲者追悼式が開かれるほか、被災地では住民やボランティアが竹灯籠に火をともすなどして犠牲になった人たちを悼む1日になります。


土砂災害から1年 鎮魂の祈り
75人が犠牲になり平成に入って最悪となった広島市の土砂災害から20日で1年です。
被災地には遺族などが次々に訪れ亡くなった人への鎮魂の祈りが捧げられました。
去年8月20日に広島市で起きた土砂災害では、集中豪雨によって166か所で土石流やがけ崩れが発生し都市部近郊のベッドタウンを襲いました。
その結果、土砂災害としては平成に入って最悪の75人が犠牲になりました。
災害から1年となった20日、被災地には未明から遺族などが次々に訪れ各地で亡くなった人への鎮魂の祈りが捧げられました。
このうち安佐北区可部東6丁目では3歳の男の子と男の子を救助しようとした消防隊員の男性が犠牲になった場所に献花台が設けられました。
住民などおよそ100人が黙とうをしたあと花を手向けました。
隣の家に住んでいたという67歳の女性は、「土砂に巻き込まれる瞬間を見ていたので今でも2人のことが忘れられません」と涙をこらえながら話していました。
広島市中区で開かれた犠牲者を追悼する式典には遺族などおよそ1100人が参列しました。
式では広島市の松井市長が「かけがえのない人生を突然奪われた無念を思うと痛恨の極みです。この災害を尊い教訓として胸に刻み、誰もが安全安心に暮らせるまちの実現に向けてまい進します」と述べました。
このあと遺族を代表して、夫を亡くしみずからも左足を切断して車いすで生活する宮本孝子さん(75)が、「止まってしまった夫との時間と変わりすぎてしまった生活に気持ちの整理がつかない日々が続いています。2度とこのような災害が起きず犠牲者が出ないことを切に望みます」と述べました。
災害後、およそ3か月間にわたって避難所となった広島市安佐南区の公民館では、避難生活を送ったおよそ40人の住民がキャンドルを並べて亡くなった人たちを追悼しました。
自宅が全壊した出口美奈子さん(76)が、「1年がたち不安が少しずつ和らいできました。犠牲になった方々にがんばっているよと伝える気持ちで祈りました」と話していました。
広島市によりますと被災した人は4357世帯1万638人に上り、このうち広島市が無償で提供する公営住宅やアパートなど、元の家を離れて暮らす人は19日の時点で830世帯1794人にのぼっています。
国と広島県は今年度中に被災地の47か所で緊急に砂防ダムや治山ダムを完成させる計画です。
しかし、このうち6か所は用地取得の交渉などのためいまだに着工にいたっておらず、今も土のうやシートで応急処置をしただけの斜面や住宅も残っています。
NHKが被災者100人を対象に行ったアンケートで、すでに自宅に戻った人も含めてもともと住んでいた場所に戻りたいか聞いたところ、無回答を除いて27%が「戻りたい」と答え、半年前の調査より11ポイント減りました。
これに対して、「戻りたくない」は26%で9ポイント増加しました。
アンケートでは戻りたくない理由として「再び土砂災害が起きないか恐怖心がある」とか、「砂防ダムが出来ていない」などと安全面での不安を訴える声が多くあがっています。
まちの復興と被災者の生活再建という課題を残したまま災害の発生から1年をむかえた被災地では、亡くなった人たちに鎮魂の祈りをささげるとともに復興への誓いを新たにする1日が続いています。


広島の土砂災害から1年 被災地は追悼の祈り
平成に入ってから最悪の75人が犠牲になった広島市の土砂災害から20日で1年がたち、被災地には遺族などが次々に訪れ、亡くなった人たちに祈りをささげています。
1年前の8月20日、広島市では午前2時からの2時間で200ミリを超える集中豪雨に見舞われ、166か所で土石流や崖崩れが発生し、土砂災害としては平成に入ってから最悪の75人が犠牲になりました。
20日は遺族などが未明から次々に被災地を訪れて祈りをささげていて、このうち安佐南区八木3丁目で兄夫婦を亡くした立川新三さん(78)は、土砂に流された兄夫婦の自宅の跡地に作った祭壇に妻と一緒に花を手向けて2人の死を悼みました。近所に住む立川さんは、ほぼ毎日この跡地を訪れ手を合わせてきたということで、「1年間ずっと時間が止まったままでしたが、きょうを区切りに前を向いていきたい」と話していました。
また八木4丁目では、およそ80人がこの地区で亡くなった10人の住宅の跡地を1軒ずつ回り、花を供えて静かに手を合わせていました。妹を亡くした奈良市の古田美恵子さん(62)は「今でも妹が生きているような気がして死を受け入れられません。どうしていなくなってしまったのかと悔やむばかりです」と話していました。
広島市によりますと、土砂災害で被災した人は4357世帯、1万638人に上り、このうち公営住宅やアパートなど元の家を離れて暮らす人は、19日の時点で830世帯、1794人に上っています。
国と広島県は、今年度中に被災地の47か所で、緊急に砂防ダムなどを完成させる計画ですが、6か所はいまだ着工に至らず、今も土のうやシートで応急処置をしただけの斜面や住宅も残っていて、住民からは安全面での不安を訴える声も聞かれます。
被災地では、午後から広島県と広島市が主催する追悼式典が開かれるほか、夜には住民たちが竹灯籠に火をともして、犠牲になった人たちを悼むとともに1日も早い復興を誓います。
一方、3歳の男の子や消防隊員などが犠牲になった広島市安佐北区の地区では献花台が設けられ、地元の住民などが花を手向けました。
広島市安佐北区可部東6丁目では、3歳の畑中和希ちゃんや、和希ちゃんの救助に当たっていた安佐北消防署の消防隊員、政岡則義さん(当時53)など3人が亡くなりました。
20日は、地元の住民などおよそ100人が犠牲になった人たちの住宅の跡地を回りました。このうち、和希ちゃんと政岡さんが亡くなった住宅の跡地には献花台が設けられ、参列者は黙とうしたあと、順番に菊の花をささげました。
隣の家に住んでいたという67歳の女性は「和希ちゃんは会うたびにあいさつをしてくれました。また、消防隊員の政岡さんは土砂に巻き込まれる瞬間を見ていましたので、1年たった今でも2人のことが忘れられません」と涙をこらえながら話していました。
地元の自治会の今田勝馬会長(70)は「今後、慰霊碑を建立するなどして犠牲者を追悼していきたい」と話していました。
警察が情報共有の図上訓練
また、広島県警察本部では大規模な土砂災害の発生を想定して、警察署と本部で素早く現地の情報を共有する図上訓練を行いました。
訓練は、大雨によって広島市内で大規模な土砂災害が起きたことを想定して行われ、機動隊員や市内の警察署の署員などおよそ130人が参加しました。
はじめに、去年の土砂災害で犠牲となった75人に全員で黙とうをささげたあと、広島県警察本部の宮園司史本部長が「改めて去年の教訓を振り返り、迅速な対応ができるよう今後に生かしてほしい」と訓示しました。
訓練は、刻一刻と変わる大雨や災害の状況に合わせて初動の対応を適切に取れるよう、現場の状況を警察署と災害警備対策本部の間で素早く共有することを中心に行われました。現場の警察官から警察本部に、土砂崩れの場所やけが人の状況などが電話で報告されると、本部の担当者は時刻と報告内容をメモに記して地図に貼り付け、幹部に報告していました。
広島県警察本部の山下幸康災害対策官は「大規模な災害が発生した場合の対応は、ノウハウを伝承しにくい。危機感を持って防災訓練などを重ねていきたい」と話していました。
消防 組織全体で救助活動の技術習得へ
広島市消防局は消防隊員を集めた会議を開き、安全を確保したうえで、救助活動に当たるための技術の習得などに組織全体で取り組んでいくことを確認しました。
広島市中区の広島市消防局で開かれた会議には、消防隊員およそ180人が出席し、はじめに、3歳の男の子を救助しようとして亡くなった安佐北消防署の政岡則義さん(当時53)に全員で黙とうをささげました。続いて、滝澤宏二局長が「消防の使命達成と職員の安全管理は相反するものではない。安全に対する意識の向上の重要性をこれまで以上に強く認識してほしい」と訓示し、安全を確保したうえで救助活動に当たるための技術の習得などに、組織全体で取り組んでいくことを確認しました。
広島市消防局では去年の土砂災害を受けて、現場で活動するときには二次災害を防ぐために、待避する場所を決めることや危険な兆候がないかどうかを確認する要員を配置すること、それに2人以上で必ず活動することなど、災害時のマニュアルを見直しました。
消防局では、8月20日を「安全を誓う日」と定めていて、今後も土砂災害が起きた日に会議を開くことにしています。


【広島土砂災害1年】 「前向く姿を見せる」両親失ったカフェ店主
 未明にまた雨が降った。暗い空が、あの日の記憶を呼び起こす。「いろんなことがあり過ぎた」と、広島市中区の広兼学さん(35)は1年がたつ早さを実感する。昨年8月20日の土砂災害で父親の龍(たつ)典(のり)さん=当時(62)=と母、真理子さん=同(60)=を失った。
 「家が流されたらしい」。両親と離れて暮らす妹から唐突にメールが来た。何のことか、すぐには分からなかった。
 当時滞在していた広島県尾道市のゲストハウスから電車に飛び乗った。スマートフォンでニュース映像を見た。実家は広島市安佐南区八木3丁目。山を切り開いた斜面の一番高い場所に建つ。画面にいくら目をこらしても、見慣れたわが家はどこにもなかった。
 両親は無事なのか。小学校の避難所で寝泊まりし、消息を尋ね歩く日々。6日後に龍典さん、9日後に真理子さんの遺体が見つかった。損傷が激しく、対面することすらできなかった。
息子の目には、ときに神経質に映ったおやじ。保育士として働きながら、家事もてきぱきとこなす母−。何事もきっちりとした2人とはどこか距離があった。
 学さんが28歳のとき、バイク事故で大けがをしたことがあった。入院してから毎日のように両親が見舞いに来た。当時は煩わしくて仕方がなかった。今はそれほどまでに自分を気にかけてくれた存在がいないことが、ただ寂しい。
 災害を機に、家族の大切さを改めて思った。昨年12月に結婚。今の学さんには妻の清香さん(37)、そして6月に生まれたばかりの長男、波(は)音(る)ちゃんがいる。
 今月初旬。市中心部から少し離れた路地の一角で学さんは自ら経営するカフェの開店準備に汗を流した。書店を併設し、9月にオープンの予定だ。
 「もし店をやるって知ったら、両親は反対したかもしれない」と学さんは苦笑する。「もっと安定した職に就きなさい」とそんなことを言われたような気がする。当初は県外での開業を考えていたが「広島にいるべきだと感じたんです」。
 斜面を猛烈なスピードで駆け下りた土石流の、最初の直撃を受けた八木3丁目。学さんの実家の前にあったアパートも建物ごと押し流され、住人8人が犠牲になった。市街地を眺望できる絶好のロケーション。学さんが幼いころから慣れ親しんだこの区画に今、住む人はいない。
 埋められない悲しさがある。ただ、残された人は前を向いて生きていくしかない。「僕たち家族が楽しく笑って過ごし、息子が真っすぐに育つこと。そうあることで両親も喜んでくれると思う」


広島土砂災害1年 「1年だよ」祈る雨の朝 八木3丁目、残る爪痕
 家屋が取り壊され、更地のまま手つかずの土地。その隣では公営住宅の防護壁がそびえ、コントラストを成す。昨年8月20日の土砂災害で75人が犠牲になった広島市の被災地。いったんは追われたこの地で日常を取り戻そうとする人がいる一方、故郷を去った住民も少なくない。山肌にはなお土石流の爪痕が生々しく、復興は道半ば。そんな街を遺族らが訪れ、この1年の移ろいに思いをはせた。
 午前2時半、被害が最も大きかった同市安佐南区八木3丁目。アパートが丸ごと流失した跡地に、娘夫婦を亡くした若松順二さん(52)の姿があった。
 妊娠7カ月だった次女の湯浅みなみさん=当時(28)=と夫の康弘さん=同(29)=はアパートの1階で暮らしていた。
 康弘さんが身につけていた腕時計は午前2時半を指して止まっていた。だからこの時刻に黙祷(もくとう)した。若松さんは「同じ時間帯に来ると、タイムスリップしてまた会えるのでは、と思ってしまう」と話した。
 アパートの近くには、広島県営緑丘(みどりがおか)住宅がある。敷地の一角に建てられた慰霊碑の前には20日早朝から住民が集まり、小雨の中、亡き人に花を手向けた。
 住人の西田一代さん(70)は夫の末男さん=当時(63)=が好きだった酒を碑の前に供えた。「あれから1年たったね。明るく元気に生きていくよ」と語りかけた。
 県営住宅はあの日、土砂の海に埋まった。特に被害が大きかったのは山側にある5号棟と9号棟。5号棟の外階段の踊り場には、巨岩が乗り上げた。災害関連死の1人を除く74人の死者のうち、最後に遺体が見つかった女性はその岩の下で犠牲になっていた。
 消防団の一員として捜索に加わった広島市東区の石戸隆行さん(44)は当時の無力感を忘れていない。「ようやく遺体が見つかったとき、もっと早く(家族のもとへ)戻してあげたかったという気持ちがあった。きょうも改めて『申し訳なかったです』と伝えた」
 現在、土砂はすべて取り除かれ、住宅の前には高さ2メートルの鉄筋コンクリートの壁がそびえ立つ。今月完成したばかりの土砂流入防止壁だ。別の県営住宅に転居した丸山淑子さん(72)は「大きな壁ができて安心感がある」。いずれ、緑丘住宅に戻りたいという。
 同住宅には災害前、計9棟に114世帯244人が暮らしていた。今は22世帯42人が戻ったが、21世帯は退去届を出した。残りの世帯は仮住まいのまま。住人の大野昌直さん(74)は「子供の声が聞こえなくなった」と寂しさをにじませる。
 地域のコミュニティーを取り戻そうとする動きもある。自治会長の村岡平吉さん(76)は6月から、住宅の空き部屋でお茶をしながら会話を楽しむ交流会を始めた。「雑談をすれば日頃のストレスやさみしさもまぎれる。いつも笑いが絶えない」とうれしそうだ。
 災害や生活への不安は尽きない。「だからこそ、住民同士のつながりを大切にしていきたい」と村岡さんは言った。


仮設商店街に新たな店
気仙沼市の仮設商店街に、21日から、全国各地の食べ物や雑貨などを販売する店がオープンすることになり、19日、内覧会が行われました。
復興屋台村気仙沼横丁は、気仙沼市内に、4年前に開業した仮設商店街で、現在、飲食店など17の店が出店しています。
しかし、このところ、来客数の減少傾向が続き、いかに賑わいを取り戻すかが課題となっています。
こうした中で、地元の人たちを呼び込もうと、21日から、全国各地のこだわりの食べ物や雑貨などを集めた店、けせんぬま百貨店がオープンすることになり、19日、内覧会が行われました。
店内には、沖縄の島とうがらしなど特色ある食べ物や、東京の江戸切子といった名産品など、全国各地から集められた150種類ほどの商品が並べられています。
また、店の隣には、気軽に立ち寄ってもらおうと、カフェが併設され、気仙沼港で水揚げされたかつおを使ったスナック菓子が食べられるようになっています。
店を運営する小野寺亮子さんは、「この土地がにぎわうために何が必要か、みなさんが何を望んでいるのか、意見を聞きながらやっていきたい」と話していました。
けせんぬま百貨店は、21日午前11時にオープンします。


<仙台育英決勝>悲願の初優勝逃す
 兵庫県西宮市の甲子園球場で開かれている第97回全国高校野球選手権大会最終日の20日、2年ぶり25度目出場の仙台育英は決勝で2年連続10度目出場の東海大相模(神奈川)に6―10で敗れ、悲願の初優勝はならなかった。東海大相模は45年ぶり2度目の夏の全国制覇。
 仙台育英は先発右腕佐藤世那が東海大相模打線につかまり、一回に連続適時打で2点を先取され、三回と四回にもそれぞれ2点を失った。だが、打線が佐藤世を援護。三回に青木玲磨、平沢大河、郡司裕也、百目木優貴の4連打と敵失を絡めて3点を返した。六回は2死満塁から佐藤将太が中越えの三塁打を放ち、一気に追い付いた。
 佐藤世は五回以降立ち直ったが、九回に先頭小笠原慎之介の右越えソロ本塁打を浴びた。さらに3連打などで3点を奪われた。
 仙台市中心部に設けられたパブリックビューイング(PV)の前では東北勢の初優勝を願う多くの市民が詰め掛け、熱戦を見守った。
 1915年の第1回大会で準優勝した秋田中から、東北勢は過去7度の決勝で全て敗れた。仙台育英は大越基投手を擁して準優勝した89年以来2度目の決勝に臨んだが、またも深紅の優勝旗を東北に持ち帰れなかった。
 ▽決勝
東海大相模(神奈川) 202200004=10
仙台育英 (宮 城) 003003000= 6


<仙台育英決勝>最後まで声援…温かい拍手
 あと一歩、及ばなかった。兵庫県西宮市の甲子園球場で20日にあった第97回全国高校野球選手権大会の決勝。仙台育英は東海大相模(神奈川)に敗れ、東北勢初の全国制覇はならなかった。仙台市青葉区一番町の藤崎前であったパブリックビューイング(PV)に詰め掛けた市民は、息詰まる熱戦を最後まで見守った。
 藤崎前には試合開始の午後1時前に60インチの大型テレビが設置され、家族連れなどが集まった。試合開始のサイレンが鳴り響くと一気に熱気に包まれ、回が進むごとに観衆は増えて200人以上に膨らんだ。
 4試合全てで2桁安打を記録した強力打線が武器の東海大相模。これまで541球を投げ抜き、早実(西東京)との準決勝で完封した仙台育英の主戦佐藤世那投手が初回のマウンドに上がると、市民が拍手でエールを送った。
 仙台育英は序盤に大量得点を許し劣勢が続いたが、六回に同点に追いつくと、観衆のボルテージは最高潮に。観衆から「やったー」という大歓声が上がり、抱き合って喜びを表現する市民もいて、会場は興奮のるつぼと化した。
 仙台市宮城野区の大学生横山航也さん(19)は同点打が放たれた瞬間を振り返り、「打った瞬間、『行け−』と心の中で叫んだ。同点に追いついてうれしい。鳥肌が立った。流れは仙台育英にあるので、このまま逆転してほしい」と力を込めた。
 宮城野区の嘱託職員稲葉高士さん(66)は「打線の調子がいいので、きっと逆転できる」と祈った。


夏の甲子園 仙台育英は準優勝
夏の全国高校野球大会は決勝が行われ、宮城の仙台育英高校は神奈川の東海大相模高校に6対10で敗れ、準優勝、東北勢悲願の初優勝はなりませんでした。
仙台育英は平成元年以来、26年ぶりに夏の大会で決勝に進みました。
準決勝に続いて先発した仙台育英のエース佐藤世那投手は序盤から強打の東海大相模打線につかまり、1回に2点、3回にも2点を奪われ4対0とリードされました。
それでも仙台育英は3回にワンアウトから2番青木玲磨選手のタイムリーヒットを含む4本のヒットで3点をかえし、1点差に迫りました。
このあと東海大相模に2点を奪われ再びリードをひろげられましたが、仙台育英は6回にツーアウト満塁の場面で1番の佐藤翔太選手が走者一掃のタイムリースリーベースヒットを打って6対6の同点に追いつきました。
先発の佐藤投手は、徐々に調子をあげ5回から8回までは東海大相模に1本のヒットも許しませんでしたが、9回、先頭バッターで、相手エースの小笠原慎之介選手にソロホームランを打たれ勝ち越されました。
このあと東海大相模に9回に4点を奪われた仙台育英は6対10で敗れ、東北勢悲願の初優勝には届きませんでした。


仙台育英 監督・選手の談話
仙台育英高校の佐々木順一朗監督は「残念だし非常に悔しい。ただ、先制され追加点も取られて一方的な試合になりかけたところをしっかり追いついてくれた。選手たちはよくやってくれたと思う」と試合を振り返りました。
東北勢初の優勝を逃したことについては「同点に追いついた後は球場が『うちを勝たせたい』という雰囲気になっていたのを感じた。
東北に明るい話題を届けたかったし、県民の皆さんから『頼むよ』という思いが伝わってきていたが、期待に応えられずに申し訳ない」と悔しそうな表情で話していました。
佐藤世那投手は、完封した19日に続く連投となった決勝も3試合連続で完投しましたが初優勝はなりませんでした。
試合後、佐藤投手は「なかなか力の入ったボールがいかなくて気持ちでカバーしようと思いましたが、相手打線の勢いを止めることができませんでした」と話していました。
9回に相手のエース、小笠原慎之介投手に決勝ホームランを打たれた場面について「ストライクを取りにいったフォークボールを運ばれました。打たれた瞬間にしまったと思いましたが、相手が上でした」と振り返っていました。
また東北勢初の優勝を逃したことについては「本当に悔しいし、期待してくださった人の思いを裏切ってしまって申し訳なく思いますが、全力でやりつくしたので悔いはありません。優勝は後輩たちに託したいと思います」とすがすがしい表情で話していました。
6回に同点に追いつく走者一掃のタイムリースリーベースを打った佐藤将太選手は「先発の佐藤世那が本当に頑張ってくれていたのでなんとか楽にしたかった。小笠原投手は自分よりも力はずっと上だったが、『絶対に負けない』という強い気持ちだけで打ちました」と振り返りました。
その上で「勝ちたかったので悔しいの一言です。東北勢が優勝するためのあとひと踏ん張りが長くて険しいものだと実感しました」と話していました。


県内各地で仙台育英を応援
仙台育英の初優勝を願って、宮城県内では、各地で選手たちの奮闘に声援が送られました。
このうち、仙台市中心部では、仙台駅前の商業ビル、「AER」の中や、デパートの「藤崎」の前にテレビが設置され、集まった買い物客などが試合の様子を見守りました。
仙台育英が同点に追いついた場面では、それぞれの場所で歓声が上がっていましたが、仙台育英の最後の打者が打ち取られ、仙台育英の準優勝が決まると選手たちに温かい拍手が送られていました。
商業ビルで観戦していた70代の女性は「同点に追いついた場面が一番印象に残りました。選手たちには『感動をありがとう』と言いたいです」と話していました。
また、仙台市宮城野区にある仙台育英高校では、校舎のホールにある大型スクリーンの前に職員や運動部の生徒などおよそ230人が集まり、選手がヒットや得点を重ねるたびに拍手をして声援を送っていました。
2年生の男子生徒は「ここまで感動する試合は久しぶりなので、準優勝の選手たちに『おめでとう』と言いたい」と話していました。
一方、被災地・南三陸町の仮設商店街「南三陸さんさん商店街」では、一角に50インチの大型テレビが設けられ、商店街の人や地元の高校生などが集まりました。
テレビの前で観戦していた被災者の男性は「決勝まで夢を運んでくれた選手たちにありがとうと言いたい。選手には、最後まであきらめない力をもらったので私たちも頑張りたい」と話していました。
また、石巻市の仮設開成団地でも多くの被災者たちが試合をテレビで観戦し仙台育英の選手たちに声援を送りました。
観戦していた66歳の女性は「一致団結して頑張る姿は仮設での私たちと重なりとても励まされました。これからの生活も先が見えませんが頑張っていきたいです」と話していました。
仙台育英の準優勝を受けて、仙台駅前では新聞の号外が配られました。
号外を受け取った30代の男性は「敗れたのは残念ですが、すばらしい試合でした。次は東北魂で東北勢が優勝することを期待します」と話していました。


<野党5党首>安保廃案へ連携 盛岡に結集
 民主、維新、共産、社民、生活の野党5党首は19日、盛岡市で共同記者会見し、20日告示の岩手県知事選で無投票3選が濃厚となっている現職の達増拓也氏(51)への支援をあらためて表明した。安全保障関連法案の参院審議で安倍政権を追い込む姿勢も示し、野党結束を演出した。
 岡田克也民主党代表、松野頼久維新の党代表、志位和夫共産党委員長、吉田忠智社民党党首、小沢一郎生活の党代表が出席した。
 岡田氏は「結集を起爆剤に安保法案を廃案に追い込む。来夏は参院選があり、野党がばらばらでは自民に対抗できない」と協力の必要性を強調した。松野氏は法案の修正案に触れ「一つでも多くの党に賛同を頂きたい」と共同提出に前向きな姿勢を示した。
 志位氏は「安保法案は廃案にと主張する達増知事が圧勝すれば、岩手から平和の声を全国、世界に発信することになる」と述べた。
 小沢氏は今後の野党連携に関し「まずは安保法案の廃案に集中する。その後、互いに協力体制ができればいい」と期待感を示した。吉田氏は「安倍政権の暴走を止めるには連携が不可欠」と強調した。
 知事選では、自民党が支援した平野達男参院議員(61)=岩手選挙区=が安保法案が争点に浮上したことで立候補を取りやめた。小沢氏は「不可解で大変残念」と語った。
 達増氏は「大変心強い。安保法案が廃案となるよう岩手の底力を結集する。県民党的立場を共有する中から国政選挙の候補者が立てば、応援することもある」と述べた。


性的少数者 人権守る法整備検討を
 同性愛者や性同一性障害者などの性的少数者(LGBT)が社会の中でさまざまな困難に直面している。職場での差別的な扱いや学校でのいじめ、性的指向を身近な人に相談できず自殺率が高いとされることなどが課題として挙げられる。
 こうした事態を政府が積極的に解決する一歩として、差別解消などを目的とした法律の制定を求める声が当事者から出ている。
 国連は近年、性的指向を理由とした差別や暴力を解消するよう各国に働きかけている。性的少数者の権利擁護は、国際的な要請でもある。
 国会では今年、性的少数者の権利を考える超党派の国会議員連盟が発足した。政府、国会で議論を進め、前向きに法整備を検討してほしい。
 恋愛相手が同性だったり、体の性と心の性が異なったりする性的少数者は決して珍しい存在ではない。
 電通が約7万人を対象に今年実施した調査では、性的少数者に該当する人は7.6%に上った。13人に1人の計算になる。こうした人たちが、差別や偏見にさらされ、十分に活躍する機会が与えられないとすれば、社会にとっても損失だ。
 だが、実際には「性の多様性」に対する社会の理解は十分ではない。NPOなどが運営する電話相談には多くの悩みや訴えが寄せられる。
 内閣府の3年前の世論調査では、「性的指向に関し、どのような人権問題が起きていると思いますか」の問いに、4割近くの人が「差別的な言動をされること」と答えた。
 性的少数者の差別を禁止する法律ができれば、国の基本方針を作成し、啓発活動に取り組むことになる。職場や学校で差別是正を促す行政指導にも乗り出しやすくなるはずだ。
 地縁や血縁に頼りにくい性的少数者のために、相談や支援の体制を整えることもできる。司法による救済もより得やすくなるだろう。
 だが、国としての対応は進まず、地方自治体に先進的な取り組みが出てきた。東京都渋谷区が同性のカップルを「結婚に相当する関係」と認める証明書の発行を今秋にも始める。世田谷区も検討中だ。条例で「性的指向による差別の禁止」を明文化する自治体もある。働きやすい職場作りや、同性カップルへの結婚手当支給など、多様で積極的な取り組みをみせる企業も出てきた。
 米国の連邦最高裁判決により今年、全米で同性婚が合法化された。英仏など約20カ国も同性婚を法律で認める。こうした国では、差別と闘う長年の運動によって世論を変えてきた歴史がある。
 基本法の制定で、まずは身近にいるはずの性的少数者への差別をなくす一歩を踏み出したい。


自衛隊内部資料 活動拡大先走りを憂う
 国民多数の反対にもかかわらず、安全保障法制関連法案の八月成立を前提に、自衛隊の活動範囲拡大まで検討するのは行き過ぎだ。実力組織の「暴走」が許されないのは先の大戦の教訓ではないか。
 きのう再開された参院特別委で野党側が追及したのが、陸海空三自衛隊を束ねる統合幕僚監部が五月下旬、安保法案の内容を部内に周知させるテレビ会議用に作成した資料だ。八月の成立を前提に、法改正後の変更点などを記している。
 特に問題視されたのは、南シナ海での「情報収集、警戒監視および偵察」への関与の在り方を検討するとしていることと、南スーダンで国連平和維持活動(PKO)に当たっている自衛隊の業務に、離れた場所で襲撃された他国部隊などを助ける「駆け付け警護」を追加する可能性に言及したことだ。
 一般論としては、所管省庁が法案成立後の対応を検討するのは当然だが、自衛隊は防衛力を有する実力組織である。活動範囲や内容の拡大には慎重を期すべきで、国権の最高機関たる国会のシビリアンコントロール(文民統制)に厳格に従わなければならない。
 憲法違反と指摘され、共同通信の最新全国電話世論調査でも、62・4%が今国会成立に反対する法案だ。安倍晋三首相は四月、米連邦議会で「夏までの成立」を明言し、国会軽視との批判も浴びた。
 法案提出直後の五月下旬段階では今国会成立は確定しておらず、国会が八月まで延長されるかどうかも決まっていなかった。法案修正の可能性は今でも十分にある。
 南シナ海での活動は中国との新たな摩擦を招きかねず、外交的に妥当か否かは自衛隊自身でなく、政治が決める問題だ。南スーダンでの「駆け付け警護」も、日本が国際紛争の当事者になり、専守防衛を逸脱する危険性をはらむ。
 中谷元・防衛相は資料は自らの指示の範囲内だと説明したが、具体的な内容までは把握していなかったようだ。統合幕僚監部が国会の議決より先走って自衛隊の活動拡大を検討していたとしたら、文民統制上の問題は大だ。
 折しも、今年六月に成立した改正防衛省設置法では、各幕僚長が官房長ら官僚と対等な立場で防衛相を補佐することになった。実力部隊を擁する制服組の政治に対する発言力が増すことを意味する。
 実力組織の「暴走」と受け取られるようなことがあれば、平和国家の土台は崩れ去る。一点の曇りもあってはならない。

仙台育英決勝へ/マイマイでクタクタ/次のプロジェクト

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Au Japon, le combat de taureau se passe de matador
Fixant l’adversaire de leur gros oeil injecté de sang, reniflant puissamment, deux énormes bovins se jettent l’un contre l’autre avec une violence inouïe: nul besoin de matador dans les combats de taureaux japonais.
Trempés de sueur, front contre front, les cornes entremêlées, la langue pendante, leur bave mouillant le sable, les colosses de plus d’une tonne se repoussent, font de brusques écarts. Des dresseurs pieds nus aux costumes colorés, la tête sertie d’un bandeau, courent en tous sens autour d’eux et bravent le danger pour leur donner d’énergiques tapes et leur crier des encouragements.
Alors que la corrida est en Europe vivement critiquée par les défenseurs des animaux et interdite depuis 2012 en Catalogne, ces combats sans effusion de sang attirent toujours dans l’île méridionale d’Okinawa au Japon des familles entières, des grands-parents aux enfants en bas âge.
Ce sport est comparé au sumo et les champions parmi les taureaux sont surnommés ≪yokozuna≫ comme les lutteurs du rang le plus élevé.
≪En Espagne, la lutte s’achève par la mise à mort du taureau par le matador≫, fait remarquer un historien des combats de taureaux, Kuniharu Miyagi. ≪Ici, si un des taureaux prend peur et perd courage, le spectacle est interrompu et les animaux peuvent rentrer à la maison≫, a-t-il expliqué à l’AFP lors d’un combat organisé dans la ville d’Uruma à Okinawa.
≪Nous ne pensons pas que les combats de taureaux soient cruels à Okinawa≫, plaide-t-il, affirmant qu’il faut cinq ans pour former un animal, qui se bat ensuite pendant au moins cinq à six ans, après quoi les ≪yokozuna≫ ont droit à une paisible retraite.
- Dommages psychologiques -
≪Les vaches qui nous donnent des steaks juteux sont abattues quand elles ont environ deux ans. Les taureaux de combat vivent eux beaucoup plus longtemps, et dans le luxe. Leurs propriétaires veulent qu’ils gagnent et ils les gâtent, avec une alimentation riche et un environnement agréable où ils peuvent s’ébattre≫, ajoute M. Miyagi.
On retrouve trace de ce divertissement dans l’archipel nippon 800 ans en amont, lorsqu’il servait à distraire l’empereur Gotoba, exilé dans les îles Oki (ouest), où cette discipline est toujours pratiquée. Elle existe aussi dans les régions d’Iwate (nord-est) et de Niigata (nord).
Des spectacles similaires se donnent en Corée du Sud, en Turquie, dans les Balkans, le golfe Persique et en Amérique du Sud.
Appelée ≪ushi orase≫ dans le dialecte d’Okinawa, cette tradition est profondément ancrée dans la culture japonaise: du sel et de l’alcool de riz sont répandus sur l’arène de sable pour la purifier et chasser les mauvais esprits.
Les géants au poil ras brun ou noir sont copieusement arrosés d’eau froide et beuglent furieusement avant la bataille. Il leur faut parfois plus d’une demi-heure pour l’emporter en acculant leur opposant à la balustrade ou en le faisant fuir. Les ≪seko≫, ces dresseurs qui sautent agilement pour éviter de se faire encorner, ne tarissent pas de mots tendres sur leurs animaux.
≪Ils font partie de la famille≫, dit Yuji Tamanaha, dresseur de troisième génération. ≪Ils sont mignons, vous ne trouvez pas ?≫, demande-t-il sans sourciller. ≪A force de les nourrir à la main quotidiennement vous créez un lien d’affection avec eux. Le nôtre est très amical: il aime bien lécher nos visiteurs≫.
Mignons ou pas, sur l’arène, ils entrent dans un monde de brutes et certains ne se remettent jamais d’une lourde défaite. Ce jour-là, un seul regard sombre de son adversaire de 1.100 kg suffit à un yokozuna appelé Samurai pour battre en retraite, si terrifié qu’il essaye de sauter par dessus la barrière.
≪Ils peuvent subir des dommages psychologiques≫, assure Moriaki Iha, caressant tendrement son bovin. ≪Il faut prendre soin de leur santé mentale aussi, comme pour des athlètes humains, et leur donner des preuves d’amour dès leur enfance. Le mien est assez timide mais il n’a peur de rien≫, dit-il fièrement.
フランス語
フランス語の勉強?
在日魂 (講談社文庫)
金村 義明
講談社
2004-12


一人の在日の半生 小僧
近鉄、中日、西武に在籍した元プロ野球選手で現在は解説者として活躍している金村義明の半生を綴った自伝。在日三世として生まれ育ち、「野球でも勉強でも日本人と同じことをやってたら、絶対目だたへん。一番でなくてはダメなんや。」という「在日の心得」を説き続けた母親の薫陶の下、様々な差別を経験するもそれを豪快に跳ねのけ、また、在日だからこそできる人脈、経験を重んじるなど在日であることを肯定的に捉える。在日一世の祖母、二世の両親にまつわる話など在日朝鮮・韓国人を巡る日本社会の闇がちらほら語られるも、著者やその母親らの明るさと破天荒でパワフルな生きざまは読んでいて心地よく、一気に読めてしまう爽快な一冊。

仙台育英が早稲田に勝ちました♪決勝進出です.
久しぶりのマイマイ.クタクタです.それにひざがいたくなったりして大変.
Koさんから次のプロジェクトについてのお話がありました.前向きな方向で考えます,と返事しました.

津波の教訓を紙芝居で伝える 4点制作
 岩手県大船渡市の大船渡津波伝承館は、小学校低学年向けに津波の恐ろしさや避難の大切さを伝える紙芝居4点を制作した。市内の小学校に無料配布する。
 1896年に発生した明治三陸大津波の後に集落を高台に移した同市三陸町吉浜の史実や、小学校入学を目前に被災してランドセルを流された女の子の話など、実話を基に作った。
 伝承館は映像や講演で教訓を伝えている。小さい子どもも理解しやすいように、盛岡市や大船渡市のイラストレーターたちが協力して紙芝居を仕上げた。
 年内にさらに6点を手掛け、希望する学校や幼稚園などで上演する。英語版も作り、ことし6月に連携の覚書を交わした米ハワイ州の太平洋津波博物館に贈る。
 子どものころに両親から津波の恐ろしさを教えられた斉藤賢治館長(67)は「幼少期からきちんと伝えることが大事。末代まで教訓を伝えたい」と話している。


<原発事故>秋田避難者「定住したい」最多に
 秋田県は18日、東日本大震災や福島第1原発事故により県内で避難生活を送る世帯を対象に、6月に実施したアンケートの結果を発表した。今後の予定を尋ねたところ、回答のトップは「秋田に定住したい・定住を決めている」の29.9%で、前年度よりも1.1ポイント増えて過去最多となった。
 「いずれは帰県したい」は20.1%で、前年度の20.6%から微減した。「既に定住している」は18.7%で、前年度から5.8ポイント増加した。
 現在の住居は「借り上げ民間賃貸住宅」の57.5%が最も多かったが、前年度よりも1.3ポイント減った。「避難後に取得した自宅」は13.4%となり、前年度より8.1ポイント増えた。
 定住を決めた理由(複数回答)は「親類や知人がいる」が最多の30.8%。「家族の中に秋田出身者がいる」29.2%、「放射能汚染の心配がない」23.1%、「教育環境や子どもの学校関係」18.5%と続いた。
 体調を尋ねる設問もあった。「心身の不調を訴える家族がいる」と答えた世帯は38.8%。前年度の43.5%から4.7ポイント減り、初めて40%を下回った。
 県被災者受入支援室は、福島県が自主避難者への住宅提供を2017年3月末で終了すると決めたことを踏まえて「避難生活の長期化で、来年度の調査ではさらに定住を希望する声は増えるのではないか」とみている。
 アンケートは12年度から、年1回実施している。今回は6月22日時点で県内に暮らす354世帯が対象。福島102、宮城25、岩手7の計134世帯から回答があった。回答率は37.9%。


津波で流出 ハワイから和船プレート帰還
 宮城県石巻市雄勝町波板地区の船乗りが愛用し、ことし4月に米ハワイ・オアフ島の海岸で見つかった和船「第2勝丸」(約0.5トン)の登録プレートが17日、波板地区の住民ら有志でつくる「第2勝丸保存会」に届いた。船は東日本大震災の津波で流されたとみられ、古里での展示・保存を望む会員たちはプレートの帰還を喜ぶ。
 ハワイ在住のホテル経営周藤宏樹さん(53)=東京都出身=が来日に合わせ、船を発見した知人が保管していたプレートを持参した。
 波板地区を訪れた周藤さんは「保存会の皆さんが船の保存に向け、積極的に活動していることを知り、自分ができることをしたかった」と説明。地域交流センターで、保存会の伊藤武一会長(68)に手渡した。
 プレートはプラスチック製で横75センチ、縦17センチ。「雄勝 遊 939」の文字がくっきりと残る。
 保存会は第2勝丸を地元で保存し、震災の教訓を後世に伝えようと6月に発足した。伊藤会長は「雄勝には震災遺構がない。船を生かそうとしていただけにありがたい」と感謝し、プレートは交流センターで保管することにした。
 船の元の持ち主で、2003年4月に病気で亡くなった伊藤恭一さん=当時(66)=の次女早苗さん(43)=東松島市=は「うれしい。早速、父の墓前に報告する。周藤さんには心から感謝したい」と喜んだ。
 船は4月22日にオアフ島の女性が発見。恭一さんが釣り船として使用していた。恭一さんの妻たけのさん=当時(68)=は震災で津波にのまれ、行方がいまも分からない。
 保存会はハワイ州政府に保管されている船を地元に戻して展示しようと、関係機関に働き掛けている。


首都圏向け送電倍増 東北から「連系線」新設
 経済産業省が、東北電力管内から首都圏向けの送電能力を倍増させる検討をしていることが18日分かった。「連系線」と呼ばれる送電線を新設し、現在500万キロワットの送電可能容量を将来的に1120万キロワット規模に増やす方向だ。東京電力管内の電力需要は最大5000万キロワット前後で、約5分の1を賄えることになる。
 地域をまたいだ電力販売を活発にして事業者間の競争を促し、電気料金の引き下げにつなげたい考えだ。
 全国規模での電力融通を指揮する電力広域的運営推進機関(広域機関)が基本計画を9月にまとめ、連系線を建設する電力会社を募集する。工期は10年程度で、連系線の長さは計約145キロを想定している。総工費は少なくとも1390億円に上るとしている。
 東北では、関西電力系のグループが秋田港(秋田県)に出力約130万キロワット、仙台港(宮城県)に出力11万2000キロワットの石炭火力発電所の建設を計画している。オリックスも福島県相馬市で石炭とバイオマスを使った火力発電所やメガソーラーを建設する予定だ。
 広域機関などによると、これらを含む15社が東北で計約507万キロワットを発電し、連系線を利用する計画。新電力の発電量が増える2018年度以降にも現在の連系線は空き容量が不足する見込みのため、送電容量を拡大する。
 来年4月に電力小売りの全面自由化を控え、新規業者が電力事業に参入しやすい環境づくりの一環。地域独占してきた大手電力会社にとっては、事業環境が大きく変わる可能性がある。
 東北電力は「広域機関で、連系線の増強に関する計画、策定プロセスの検討が進められていると承知している。連系線に接続する電線などを維持、運用する事業者として、技術検討に協力していきたい」とコメントした。


<甲子園>津波の苦難越え笑顔で支える
 「被災地を元気にするために、甲子園から勝利を届けたい」。仙台育英高3年で、宮城県石巻市北上町出身の佐々木啓太選手が準決勝の勝利を誓う。東日本大震災は北上中1年の時で、大川小から約800メートル離れた橋浦地区の自宅が津波で大規模半壊。苦難を乗り越え、ムードメーカーとして同校の快進撃を支えている。
 背番号14の二塁手。今大会、選手としての出場はないが、三塁コーチや伝令で存在感を発揮している。
 応援団からの「三塁コーチ」のコールを受けると、手足を上下に振る独特のダンスを披露。これで応援が一気に勢いづく。ピンチの時に佐々木順一朗監督の指示を届ける伝令役としても、マウンドで少しだけ踊るようなそぶりを見せ、守備陣を和ませている。
 単にふざけているわけではない。震災を機に周囲を和ませる役割に目覚めた。
 中学の野球仲間と津波で傷んだカセットテープを聞いた時、ゆっくりとして変になった音声を物まねしたら、笑いが起きた。「こんなことで楽しくなれるんだと思った。それから自分も笑顔を心掛けるようにした」
 7月の宮城大会が始まる直前、2006年夏に佐藤由規投手(ヤクルト)とバッテリーを組んで夏の甲子園に出場し、震災で亡くなった斎藤泉さんの石巻市内の自宅を訪れて仏前に手を合わせた。当時2回戦で敗退した先輩たちを上回る快進撃をチームは続けている。
 「笑顔でチームをさらに勢いづけたい」。その思いは変わらない。


安保転換を問う・公明党 歯止め役を果たす時だ
 安全保障関連法案の参院特別委員会での審議がきょう再開する。論戦で法案の矛盾点が浮かぶ中、与党・公明党の対応が注目されている。
 集団的自衛権行使を容認する憲法解釈の変更を認めて以来、同党は自民党と共同歩調を保ち続けている。だが、法案審議が進んでも今国会成立に国民の理解は得られていない。状況を冷静に受け止め、ブレーキ役を果たすべきだ。
 参院特別委ではこれまで約40時間の法案審議が行われた。与党は必要な審議時間を最低80時間程度とみて、積み上げを図る。一方、民主党など野党は礒崎陽輔首相補佐官の発言問題や、防衛省統合幕僚監部が成立を前提とする資料を作成していたことなどをめぐり、対決姿勢を強めている。
 審議を深めるほど問題点が浮かび、各種世論調査では今国会成立に反対と答える人が賛成派を大きく上回っている。だが、与党は成立を目指す姿勢を崩していない。公明党の山口那津男代表は終戦記念日の演説で改めて法整備に理解を求めた。
 安保法制をめぐり、公明党がこれまでまったく、歯止め役を果たさなかったわけではない。
 もともと同党は集団的自衛権の行使容認に慎重だった。行使の新3要件は自民党との協議で当初案よりハードルを上げ、国民の権利が根底から覆される「明白な危険」がある場合とした。国際平和支援法案では自衛隊による他国軍の後方支援に国会の例外なき事前承認が必要とした。
 だが歯止めは不十分なうえ、集団的自衛権行使を認めていない1972年の政府見解の一部を基に憲法解釈を変更した根幹部分に国民の疑問が深まっている。支持団体の創価学会員からも法案に反対する動きが起きている。このまま成立に協力することへの強い違和感の表れだろう。
 安保関連法案をめぐってはたとえ仮に参院で議決できなくとも憲法が定める「60日ルール」を用いて衆院で再可決、成立させる可能性も取りざたされている。参院審議のみならず、衆院で3分の2以上の賛成が必要な再可決の場合も公明党の協力が欠かせない構図は変わらない。
 安倍晋三首相の戦後70年談話があいまいな表現ながら「侵略」や「おわび」に言及したのも公明党の一定の影響力の結果だろう。
 山口代表は18日の記者会見で民主党や維新の党の出方にふれ「合意の余地があるか、努力したい」と法案見直しにも含みを持たせた。このまま法案が成立してしまえば「平和の党」の党是にもとる。与党の歯止め役として、影響力を用いる時だ。


軍民両用研究 国民を豊かにするのか
 防衛省が初めて軍民両用技術につながる基礎研究の公募をした。日本の科学者、技術者は民生用の技術開発に力を注ぎ、政府は後押しした。それが戦後の復興につながったことを忘れてはいけない。
 民生用に開発したものが軍事用に利用されることは珍しくない。砂漠が戦場となった二〇〇三年のイラク戦争では、防じん性に優れた日本製ノートパソコンが米軍に採用された。もともとは英国のガス会社の作業員用に、ほこりまみれの現場でも壊れない頑丈なパソコンとして開発されたものだった。
 先端技術は結果的に軍民両用となることが多い。パソコンはともかく、軍民両用技術ならはじめから軍事に傾くおそれもある。
 安倍政権は一昨年末策定した国家安全保障戦略で「産学官の力を結集させ、安全保障分野においても有効活用に努める」と「学」を取り込む方針を示した。武器輸出も視野に入れているとされる。
 今度、公募したのは「安全保障技術研究推進制度」といい、大学、高専、独立行政法人、民間企業などの研究者が対象だ。狙いは、防衛省にとって関心のある分野の研究促進だという。
 研究内容は防衛装備品そのものではなく、将来の装備品に適用できる可能性がある基礎研究。二十八件の研究テーマを挙げている。たとえば、音や電波、光、赤外線の反射を低減したり、制御したりできる技術などがある。敵に発見されにくいステルス技術の向上に応用できる。
 条件は、研究期間三年以内で、助成金は年間最大三千万円。本年度は総額で約三億円だ。研究者は学会などで成果を発表でき、商品化も可能。「特定秘密」にはならない、としている。
 戦後、日本の大学と研究者は軍事研究と一線を画してきた。日本学術会議は一九五〇年の総会で「戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する」との声明を発表した。
 新制度は幅広い研究者を巻き込んで、効率的に技術開発を進めるのが狙いだが、米ソが軍拡と宇宙競争に予算と人材を注ぎ込んだため、産業分野で日本に敗れたという歴史に学んでいない。奨励すべきは民生用技術だ。軍需産業は国民を豊かにはしない。
 公募は、研究者自身も問われていると考えるべきだ。誰のために、何のために研究者の道を選んだのか、と。


原発被災者支援 避難に国の責任果たせ
 福島原発事故の避難者のための「子ども・被災者支援法」で国が示した基本方針の見直しは、被災者の悲しみや苦境にむち打つものだ。原子力災害に対する国の責任を放免してはならない。
 復興庁が提示した基本方針の改定案は、原発被災者への賠償を縮小し、地元帰還を進める国の政策に連動させている。県が自主避難者への応急仮設住宅の無償提供を二〇一七年三月で終える方針を示したのを踏まえた見直しだという。
 支援地域は、避難指示区域を除く福島県の浜通りと中通りの三十三市町村を当面維持するとしながらも、将来的には縮小や撤廃するのがよいとする。
 これでは被災者は納得できない。今でも、支援法の対象地域は福島県内に限られ、放射能被害を受けて支援を受けるべき栃木や宮城、茨城などの地域は含まれていない。避難指示区域が解除されるのに従い、自主避難者が増えていくのは確実だ。支援の枠を広げておくことこそが必要ではないか。
 原発事故の翌年に施行された支援法は、公的な賠償や支援がなかった避難指示区域外の人々や自主避難者の生活を支えるために、全会派の国会議員の手でつくられた。
 その基本は、原子力災害に対する国の社会的責任にある。だが、政府はその責任を果たさず、法は骨抜きにされようとしている。
 広島や長崎の原爆被害の歴史が証明するように、核汚染の実態を過小に見積もり、必要な支援を早々に打ち切れば、将来に禍根を残す。
 さらに改定案には「避難指示区域以外から避難する状況にない」と、自主避難者の避難を不要とする方針が明記された。被災地の年間の空間放射線量が避難指示基準の二〇ミリシーベルト以下となり、原子力規制庁が「避難指示を解除できるレベル」との見方を示しての判断というが、被ばくの問題を矮小(わいしょう)化した考え方ではないか。
 被災地が避難指示を解除できるレベルにあることと、放射能の不安を感じた人々の避難を不要だということは次元が違う。避難指示が解除されても放射能汚染が残る場所は無数にある。
 支援法は、被災者が地元にとどまるか、地元から逃れるか、地元に帰るか、いずれを選んでも支援を受けられるように求めている。
 改定案は被災者の選択をむげにする。事故・災害の責任の原点に立ち返るなら「自主避難者」を支援から切り離すことはできない。

ダラダラ仕事/缶詰食べて気持ち悪く・・・

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Laure Manaudou et ses photos nue : "Ma famille a eu honte"
Invitée ce matin sur RTL, Laure Manaudou est revenue sur la douloureuse affaire des photos nue. Huit ans après les faits, l'ex-nageuse est toujours marquée au fer rouge...
2007 restera une année noire pour Laure Manaudou. Professionnellement d'abord, la nageuse, alors âgée de 21 ans, décide en mai de se séparer de son entraîneur Philippe Lucas pour s'entraîner en Italie afin de se rapprocher de son petit ami, Luca Marin. Un choix qu'elle dira par la suite regretter. Personnellement ensuite, puisque quelques mois tard, Laure Manaudou va vivre une expérience qui changera à jamais sa vie : des photos de la championne olympique sur lesquelles elle apparait totalement nue se retrouvent soudainement sur internet. Des clichés qui, comme elle le révèlerait bien plus tard dans son live Entre les lignes (paru en octobre 2014 chez Michel Lafon), ont été pris et diffusés par Pierre Henri, son compagnon de l'époque.
"J'étais une moins que rien"
Près de huit ans après cet épisode douloureux, Laure Manaudou est toujours marquée au fer rouge. "Ça a été très compliqué à gérer, que ce soit pour moi ou pour ma famille parce qu'ils avaient honte", a confié la nageuse à la retraite, invitée ce matin de Cyprien Cini sur RTL. "J'ai eu beaucoup de mal à sortir et à faire comme s'il n'y avait rien eu (...) Tout le monde a vu ces photos, la France entière les a vues et j'étais une moins que rien", a-t-elle ajouté.
Si la jeune femme, âgée de 28 ans aujourd'hui, dit avoir été "détruite" par ce qu'il lui est arrivée, elle n'espère à présent qu'une seule chose : "Que cela ne détruira (sa) fille", la petite Manon, née en 2010 de sa relation avec Frédérick Bousquet. "Il ne reste plus qu'à croiser les doigts", a-t-elle soupiré.
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非凡な男の足跡を追った非凡なルポルタージュ
飛鳥会事件で有罪となった部落解放同盟飛鳥支部の名物支部長・小西邦彦の一代記。
『g2』vol.8(2011年)に載った初稿と比べると、ずいぶんトーンが違うのでびっくりした。
初稿の段階では、もっと強引に小西邦彦や部落解放同盟をかばう書き方をしており、読んでいて鼻白んだ記憶があるからだ。
もともと角岡伸彦は、寺園敦史から「わたしの文章ってそんなに共産党的文章ですかね」と訊かれたとき「自分では違うと思ってはるでしょ。しかし実際は共産党的ですよ」と批判していた経緯がある。
それだけに、『g2』vol.8の初稿を読んだ時は「おやおや、角岡だって自分では解放同盟的じゃないと思っている(らしい)わりにはずいぶん解放同盟的だな。身内びいき丸出しじゃないか」と思ったものだ。
しかしこの単行本を読むと、そういった見苦しい我田引水ぶりはだいぶ薄まっている。
事件後、部落解放運動大阪府連が毎日新聞の見出し「解放同盟支部長を逮捕」について「駐車場の委託管理を受けている『(財)飛鳥会理事長を逮捕』であるべき」と抗議し、
「事件に関係のない部落解放同盟員や被差別部落住民に対する差別意識が拡大され、部落出身者の心理面においてどれだけマイナス思考になるのかなど検討されなかったのでしょうか」とイチャモンをつけたことに対しても
角岡は「被害妄想の域に達していると言わざるを得ない」と斬り捨てている。
あとがきで「小西と同じ立場の部落出身者である私は、基本的に出身者の不祥事は取材・執筆したくなかった。いってみれば"身内の恥"である。できれば目をそむけたかった」
「また、よく誤解されるのだが、私は好きで書いているわけではない。不祥事は言うまでもなく、それをテーマにした記事・書籍は、ない方がいい。
これは私にとって、ほろ苦い部落解放運動と同和行政の総括の書である」と書いているのは偽らざる本音だろう。
結局、本音をあからさまに出しすぎたのが初稿だった、ということか。
しかし著者は、内心は抵抗があったかもしれないが、本書を単行本にするにあたって徹底的に手を入れた。
結果として、小西邦彦や部落解放同盟に対して批判すべき点は手厳しく批判し、是々非々で評価すべき点は積極的に評価し、多面的で深みのある内容になった。
これは、小西邦彦という良くも悪くも非凡な男の足跡を追った非凡なルポルタージュである。
誤植を一つ見つけた。p.189の「論旨免職」は「諭旨免職」だろう。

部落問題と向きあう若者たち
内田 龍史
解放出版社
2014-02-13


部落問題と向きあっている若者たちが、どのように部落問題と出合い、どのような経験をし、今どのようなことを考えているのか、
そしてどのように未来を展望しているのか。部落の若者たちのインタビュー集。
部落出身者といっても多様性があり、ひとりとして同じ人はいない。
しかし、社会のなかでは「部落の人」というカテゴリーのみでとらえられてしまい、しかも否定的に評価されてしまうことがある。
他方でマイノリティによる社会運動は、社会に自分たちの要求を認めさせるために団結・連帯を必要とする。
それゆえに一枚岩の団結が優先され、個々の多様性を表出させることが困難になる傾向がある。
それは、部落解放運動においても例外ではない。
こうした傾向に対して、一人ひとりに自分の人生があり、さまざまな課題と向きあいながら生きているという若者たちのすがたを提示する。


お盆明けでお仕事.冷房が入っていないので扇風機でしのぎます.でもなんかだるい.そういうわけでダラダラ仕事しました.図書館に行って11冊本を返して,8冊借りました.
中崎町のCALIENTEで黄色い建物の壁のゲバラを見てから,妙にいきました.でも集中できませんでした.お菓子は日向夏.
晩ご飯は準備がなかったので缶詰を2つ食べました.そうしたら何だか気持ち悪くなってしまいました.仕方ないので幸水梨でお腹を落ち着かせました.

<5度目の盆>震災と水難事故の犠牲者供養
 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県東松島市大曲浜地区で16日、震災と水難事故の犠牲者を供養する合同慰霊祭があった。
 住民互助組織の大曲浜区委員会と県漁協矢本支所が主催し、遺族ら約100人が参列。慰霊碑に焼香し、318人の震災犠牲者と207人の水難犠牲者の冥福を祈った。
 大曲浜地区周辺には震災当時、高さ6メートルの津波が襲来した。相沢勝利委員長(71)は「あの時の状況は地獄そのものだった。震災から5度目のお盆を迎えた。悲惨な震災を風化させることなく、後世に語り継ぐことがわれわれの義務だ」と述べた。
 阿部秀保市長は、JR仙石線の全線再開や一部の災害公営住宅完成を引き合いに出し「徐々にではあるが、復興が実感できるようになった。今後の海上安全や水産業の隆盛を願い、復興に一層の努力を傾注する」と誓った。


被災地でハーブ植栽、収穫 学生ら復興支援
 東日本大震災で大きな被害を受けた東松島市野蒜地区で5日、大学生らがハーブの一種「ホーリーバジル」を植栽、収穫した。今後、ホーリーバジルを使った商品開発を模索し、被災地復興への貢献を目指す。
 大崎市のNPO法人「LEAF26」の主催。関東学院六浦高(横浜市)の生徒、関東学院大(同)と宮城学院女子大(仙台市)の学生、市民ら計約40人が参加した。
 参加者は、被災したアパート跡地を活用した畑約200平方メートルで、苗約120本を植えた後、4〜6月に植栽し育てていた苗から花を切り取った。
 ホーリーバジルは花や葉の清涼感ある味と香りが特徴で、飲み物などに入れて楽しめる。今後は花を使った加工食品の開発や被災農地での転作作物としての可能性を探る。
 関東学院大4年の松井崚拳さん(23)は「ホーリーバジルを植えたのは初めて。学生同士が協力し、新しい商品を生み出したい」と話した。


<サンマ船>被災地活気取り戻す「出船送り」
 気仙沼港(宮城県気仙沼市)を母港にする大型サンマ船が17日、一斉に出漁した。大漁と航海の安全を祈って船を見送る「出船送り」が気仙沼市魚市場南側桟橋であり、漁船員の家族や水産関係者が駆け付けた。漁は20日に解禁される。
 家族らは「福来旗(ふらいき)」と呼ばれる鮮やかな旗を手に、11隻の出港を見守った。「行ってらっしゃーい!」と叫ぶ子どもの声に、漁船員は大きく手を振って応えていた。
 気仙沼市の菅原茂市長らが激励すると、各船を代表し第81豊清丸の中舘捷夫漁労長(74)は「東日本大震災の爪跡が残るが、にぎやかで活気ある気仙沼を取り戻すためにも、新鮮なサンマを水揚げしたい」とあいさつした。


きずな新聞 
 東日本大震災で被災した石巻市で、プレハブの仮設住宅に月2回、無料で届けられる情報紙がある。「仮設きずな新聞」だ。地域の催しや支援情報、仮設住宅のカビの除去方法など身近な話題を掲載してきた。
 2011年10月に創刊、8月10日発行号で100号の節目となった。先日開かれた記念感謝パーティーで、編集長の岩元暁子さん(32)があいさつした。「多くの人の支えで心が折れずに続けられました」
 岩元さんは何度か、大きな壁にぶつかった。資金面などの問題で、きずな新聞は13年3月にいったん休刊。そのことで精神的に追い詰められて倒れ、病院に運ばれたこともある。
 彼女を救ったのが住民の声だった。「毎回楽しみだ」「一般の新聞を購読していないので頼りにしてきた」「不安を解消してくれる。続けてほしい」…。
 13年6月に復刊し、奮闘してきた。「一つの情報で被災者の生活が変わる。趣味ができる。人とのつながりが生まれる。それがうれしい」と岩元さん。
 情報を求めている人に、ニーズに応えた情報を届ける。メディアの原点を見る思いがした。
(石巻総局長 古関良行)


「復興教育」事例を報告 仙台で教研全国集会
 全日本教職員組合などでつくる実行委員会が主催する教育研究全国集会が16日から3日間の日程で、仙台市内で開かれている。全国の教職員ら延べ約6000人が参加し、道徳教科化やいじめなどの全国的なテーマに加え、東日本大震災の被災地が抱える教育課題を話し合う。
 初日は全体集会が宮城野区の仙台サンプラザであり、約1400人が出席した。実行委の梅原利夫代表は「震災後の教育実践に多くを学びたい」とあいさつした。
 震災で被災した石巻市雄勝小の元教員徳水博志さんは、版画表現を取り入れた「復興教育」の実践を報告。県内の若者たちが戦争を描いた演劇「祖父の記憶」を披露したほか、TBSキャスター金平茂紀さんの講演もあった。
 期間中、市内3カ所で29の分科会が開かれる。


<大相撲仙台場所>7年ぶり開催 満員御礼
 大相撲夏巡業の仙台場所(河北新報社、仙台場所実行委員会など主催)が16日、仙台市太白区の市体育館で開かれた。仙台場所は東日本大震災の復興支援として震災後初めて、7年ぶりの開催となった。会場には満員御礼の7000人の相撲ファンが詰めかけ迫力あるぶつかり合いに沸いた。
 幕内の土俵入りが行われ、人気力士の遠藤や逸ノ城が登場すると、ひときわ大きな歓声が上がった。白鵬、鶴竜の両横綱の土俵入りでは、力強い四股を踏む度に会場から「よいしょー」と掛け声が上がった。
 幕内の取組では、青森県中泊町出身の宝富士が佐田の海を寄り切りで下すと、大きな拍手が送られた。遠藤は青狼を寄り切りで下し、逸ノ城は栃煌山に敗れた。白鵬が豪快なつり出しで鶴竜を破ると、会場が沸いた。横綱日馬富士はけがのため出場しなかった。
 鶴竜の綱締めの実演や禁じ手をユーモラスに紹介する初切(しょっきり)も観客を楽しませた。
 親戚と観戦した宮城県美里町の無職中川七郎さん(71)は「大相撲は初めて観戦したが、上位陣のぶつかり合いは迫力がある。来場した多くの人が元気をもらえたと思う」と話した。


<甲子園>仙台育英 打ち崩す
 第12日は17日、4試合が行われ、仙台育英、東海大相模(神奈川)早実(西東京)関東第一(東東京)が19日の準決勝に進出した。準決勝は仙台育英−早実、東海大相模−関東第一の組み合わせとなった。
 仙台育英は秋田商との東北対決を6−3で制し、準優勝した89年以来26年ぶりの4強入り。
 東海大相模は花咲徳栄(埼玉)に4−3でサヨナラ勝ちし、準優勝した2010年以来の4強を決めた。神奈川勢は夏120勝目。
 早実は8−1で九州国際大付(福岡)に快勝。富田の2打席連続2ランや清宮の2号ソロなどで圧倒し、初優勝した06年以来の4強入りを果たした。関東第一は九回にオコエが勝ち越し2ランを放ち、興南(沖縄)を5−4で破った。夏は初めてのベスト4。東京2校が準決勝に進むのは1987年の第69回大会(帝京、東亜学園)以来。
 18日は休養日。
 ▽準々決勝(第3試合)
仙台育英(宮城)000131001−6
秋田商(秋田) 000010002−3
 【評】仙台育英が効果的に得点し、逃げ切った。四回2死から平沢のソロ本塁打で先制し、五回は無死満塁から谷津、佐藤世の連続適時打で3得点。4−1の六回は百目木の中前適時打で1点を挙げてリードを広げ、九回にはダメ押しの1点を奪った。
 秋田商は先発成田翔が四回2死まで走者を許さなかったが、中盤につかまった。打線は九回に2点を返したものの、反撃が遅かった。
<主戦佐藤世、苦心の完投>
 仙台育英の主戦佐藤世は、4戦連投の疲労もあって本調子でない中、苦心の組み立てで133球完投。チームを準決勝進出に導いた。
 軸となる直球が本来の球筋でないと途中で気付くと「力まずに投げ、直球でも球速差を出した」。大会屈指の好投手らしく、高い修正能力で不調なりの投球をし、八回まで1失点と粘った。九回に2死から2失点したが、後続を断った。
 不調だった宮城大会とは一変し、甲子園では試合を重ねるごとに頼もしさを増している。「ボールは何も変わらない。ただ気持ちの入り方が違う」と、内面の成長をうかがわせた。
<一発で動揺させた/仙台育英・佐々木順一朗監督の話>
 いつも練習試合をする相手でやりにくかった。成田(翔)君は平沢の一発で動揺したのではないか、最初の安打だから。どんな相手でも打てると思って準決勝に臨みたい。
<足絡め揺さぶれず/秋田商・太田直監督の話>
 (3点を取られた)五回は無死一、二塁から四球でピンチを広げたのが痛かった。攻撃は走者を出しても後の打者がすぐに追い込まれ、足を絡めて揺さぶることができなかった。
<平沢一振り流れ呼ぶ>
 仙台育英が2戦連続の東北勢対決を制し、準優勝した1989年以来、26年ぶりの4強入り。中盤の四〜六回、秋田商の好左腕・成田翔を打ち崩し、計5得点と畳み掛けた。
 四回2死まで走者を1人も出せない嫌な雰囲気を、平沢の一発が振り払った。「うまく体が反応した」と内角高めの直球を振り抜くと、打球は逆風を突いて右翼席に飛び込んだ。1回戦に続く今大会自身2本目の先制弾に「いい投手から先制できて、試合の流れが変わってくれた」と喜んだ。
 五回は連打と四球で無死満塁と攻め立て、谷津が初球の直球を捉えて2点中前打。「前の打者が四球だったので、ストライクを取りにくると思った」と読み勝ちだった。さらに佐藤世も適時打で続き、この回3得点と優位を確実にした。
 花巻東(岩手)との3回戦で4安打と活躍した控え投手の百目木も、この日は今大会初めて野手で先発起用され、結果を出した。六回に内角の直球を詰まりながら中前に運ぶ適時打を放ち、「期待に応えられてうれしい」とはにかんだ。
 準決勝は、今大会注目の1年生スラッガー清宮がけん引する早実(西東京)と当たる。百目木は「ゴールデンルーキーと戦ってみたかったので、楽しみ」と、対戦を心待ちにしていた。(佐藤夏樹)


<甲子園>仙台育英、26年ぶり4強
 兵庫県西宮市の甲子園球場で開かれている第97回全国高校野球選手権大会第12日の17日、仙台育英は準々決勝で秋田商との東北勢対決を6−3で制し、準優勝した1989年以来、26年ぶりの4強入りを果たした。宮城勢の準決勝進出は、2003年に主戦ダルビッシュ有(米大リーグ・レンジャーズ)を擁して準優勝した東北以来、12年ぶり。
 仙台育英は四回、平沢大河が右越えに今大会自身2本目の本塁打となる先制ソロを放った。五回は無死満塁から谷津航大と佐藤世那の連続適時打で3点を追加し、主導権を握った。
 先発の主戦佐藤世は前日の3回戦で2番手として5回2/3を投げたのに続く登板となったが、力のある直球に変化球を交えて好投。九回の相手の反撃を2点にとどめ、3失点完投した。
 18日は休養日。仙台育英は大会第13日の19日、準決勝で早実(西東京)と対戦する。


フィリピン「あまちゃん」吹き替えで初放送へ
アニメやマンガなど日本の文化への関心が高まっているフィリピンで、おととしNHKで放送された連続テレビ小説「あまちゃん」が初めて現地のことばに吹き替えられてことし10月から放送されることになりました。
NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」が、ことし10月からフィリピンの民間テレビ局で放送されることが決まり、17日夜、首都マニラで発表の記者会見が行われました。
この中で、ヒロインの天野アキ役を演じた能年玲奈さんのビデオメッセージが紹介され、能年さんは、現地のことばのタガログ語で「あまちゃんを通じてアキの冒険を一緒に楽しんでください」とフィリピンの視聴者にアピールしました。
あまちゃんは、これまでインドネシアやミャンマーなど10の国と地域でいずれも日本語のせりふに現地のことばの字幕を付けて放送されましたが、登場人物の軽妙なかけあいを楽しんでもらおうと今回初めて全編を現地語に吹き替えています。
ただ、話題になった「じぇじぇじぇ」という驚きを表す方言は、そのまま使われています。
あまちゃんの放送は、アニメやマンガなど日本の文化への関心が高まるフィリピンで、ドラマの世界を通じて日本への理解をより深めてもらうのがねらいで、NHKの連続テレビ小説がフィリピンで放送されるのは、1990年の「おしん」以来、25年ぶりです。


<原発事故>南相馬・原町130人、東電を提訴へ
 東京電力福島第1原発事故で、一部が避難指示区域に指定された福島県南相馬市原町区の住民ら約130人が東電に慰謝料を求め、近く福島地裁いわき支部に提訴することが17日、分かった。
 原告側によると、原発事故で避難を強いられ、地域コミュニティーが失われるなどの精神的苦痛を受けたとして、避難期間に応じて月35万円の慰謝料を請求する。現在も避難を続けている住民は、2011年3月から提訴時までを対象とする。
 このほか、福島第1原発20キロ圏内は古里を喪失したことに伴い1人2000万円、30キロ圏内は古里が変容したとして1人1000万円の慰謝料をそれぞれ支払うよう求める。
 これまで避難区域の住民189世帯586人が地裁いわき支部に提訴した避難者訴訟は、財物賠償の算定が難航しているため、迅速な解決を目指し、今回は請求を慰謝料に絞った。
 原告代理人の広田次男弁護士は「4年5カ月以上たっても被災者の救済が進まず、住民の怒りは収まっていない」と話した。東電は「提訴されれば、裁判の場で真摯(しんし)に対応したい」とコメントした。
 同市原町区は福島第1原発20キロ圏内の南部などが避難指示区域となった。同区域では今月31日から避難指示解除に向けた3カ月間の準備宿泊が始まる。


<避難解除問う>家屋の裏は別世界
 「この現状で帰れと言うのか?」。東京電力福島第1原発事故の被災地の避難指示を2017年3月に解除する−との政府方針に、全村避難中の福島県飯舘村から疑問の声が上がっている。地元の要望に沿わない除染と下がらぬ放射線量、集落消滅の危機にある共同体の再生、撤去時期未定のまま農地を占める仮々置き場。問題山積の中で帰村を迫られる住民の問いを、同村比曽地区から伝える。(編集委員・寺島英弥)
◎飯舘村比曽から(上)下がらぬ線量
<行政区が検証>
 「比曽行政区 放射線測定中」。こんな紙を貼ったバイクが、雑草が伸びた牧草地の道を戻ってきた。
 荷台の箱には放射線測定器。遠くに見える民家まで往復し、家の周りを徒歩で一巡し、線量を測った。
 飯舘村比曽の前区長、菅野啓一さん(60)がバイクを降り、相棒の岩瀬広さん(40)に測定器を渡した。
 3年前から地元の住民活動を支援する、つくば市の放射線専門家だ。測定経路のデータはその場でパソコンに入力され、画面に浮かぶ地区の地図上に載った。
 7月17日午後3時半。「これで比曽の約90軒の測定が全部終わった」と、菅野さんが一息ついた。測定は5月下旬から延べ5日間にわたった。昨年春から環境省が行った地区内の家屋除染の効果を、行政区が独自に検証する活動だった。
<「傾向は明白」>
 比曽は飯舘村南部、村唯一の帰還困難区域である長泥に隣接する。村内に15地区ある居住制限区域の一つだが「ここは高線量地区なんだ」と菅野さん。
 村の定点測定(宅地)の空間線量は、原発事故後の2011年4月の8.45マイクロシーベルト毎時から、ことし4月に2.54マイクロシーベルトに減った。が、政府の避難指示解除要件の年間20ミリシーベルト(毎時単純換算で2.28マイクロシーベルト)をなお超える。
 菅野さんはこの日の測定後、岩瀬さんと自宅に戻って、初めてそろった地区全体の数値をパソコンで見渡した。「傾向は一目瞭然だな」。家屋除染を終えた大半の家で、玄関側の線量は1マイクロシーベルト前後に下がったが、居久根(屋敷林)や山林に面した裏手を見ると、3〜4マイクロシーベルト強の数値が並ぶ。同じ家でも別世界の様相だ。
<実情に対応を>
 「原発事故から4年たった今も、木立に付いた放射性物質の影響が強い」と岩瀬さんは話す。環境省の除染では、家の居久根や裏山について林床の落ち葉など堆積物を除去するのみで、はぎ取りを行っていない。
 防風林を研究し、比曽で居久根を調査する辻修帯広畜産大教授は「落ち葉が林床で分解すると、放射性物質が葉から離れ、雨水で腐葉土層の下まで浸透する。表面の堆積物除去だけでは足りない」と分析した。
 比曽行政区は昨春、役員や元区長らの除染協議会を設け「高線量地区の実情に応じ、はぎ取りを」と環境省福島再生事務所に要望を重ねる。「比曽は農家が大半。家にこもっては生きられない。居久根も生活圏なんだ」と、除染協議会メンバーの菅野さんは言う。
 12年9月、自宅の居久根の除染実験を自ら行った。農閑期の土木工事で重機を操った腕で、林床を深さ十数センチはぎ取り、高さ約10メートルまで枝を切り、線量を9マイクロシーベルトから2マイクロシーベルトまで下げた。「俺たちが確かめたやり方で、再除染をしてほしい。17年3月の期限と住民の安全、どちらが大事なのか」
[メ モ]政府の避難指示解除要件の一つは、空間被ばく線量が年間積算で20ミリシーベルト以下になるのが確実なこと。福島第1原発事故後に採った暫定基準。長期的に「年間1ミリシーベルト(毎時0.23マイクロシーベルト)以下を目指す」とする。チェルノブイリ原発事故の5年後にできたチェルノブイリ法は、年間5ミリシーベルトを移住義務の一線とする。


GDPマイナス アベノミクスは破綻か
 個人消費の大幅な落ち込みにより四〜六月期の国内総生産(GDP)がマイナスに転落したことは、景気の先行きが予断ならないことを意味する。行き詰まりを見せるアベノミクスを修正すべきだ。
 何より消費の低迷である。根本にあるのは、生活必需品の値上げなど家計の逼迫(ひっぱく)や雇用劣化、格差拡大などアベノミクスの弊害であることは明らかだ。実体経済の改善よりも、まず物価を上げようとするアベノミクスの「実験的政策」は間違いで、ただちに軌道修正してほしい。
 四〜六月期のGDP速報値は、物価変動の影響を除いた実質で前期比0・4%減、三・四半期ぶりのマイナスである。GDPの約六割を占める個人消費が大きく落ち込み、米国や中国の景気減速で輸出も低迷した。設備投資もマイナスに転じ、日本経済は正念場だ。
 なぜ消費が低迷し続けているのか。政府は天候不順など一時的要因と説明するが、そうではないだろう。アベノミクスは人為的に物価を上昇させ、デフレ脱却を目指す。しかし、物価が先行して上がり、賃金の上昇が追いつかないのだから消費が減るのは当然だ。
 政府は二年連続で春闘に介入し、官製ベアで大幅な賃上げを実現したと言うが、これも欺瞞(ぎまん)だ。企業は総額人件費を増やさないために、正社員で賃上げを実施すれば、非正規を増やしたり非正規の待遇引き下げ、再雇用者の賃金抑制など、どこかへしわ寄せがいくことになる。
 厚生労働省の「毎月勤労統計調査」で現金給与総額はリーマン・ショック前より一段と低迷し、実質賃金も横ばいの五月を除き前年割れが続くのは、その証左だ。年金生活者らは働く人以上に物価上昇にあえぎ、生活防衛から消費を手控えるのは言うまでもない。
 アベノミクスは株価を上げ、資産効果から消費が伸びるとも政府は主張した。金融資産に占める株保有率が35%近くある米国と違い、日本は10%強だ。一部の富裕層優遇で消費は伸びないのである。富める者はますます富み、そうでない人は切り捨てられるようなアベノミクスは限界である。マイナス成長が二・四半期続けば、景気後退と認定される可能性がある。
 消費が伸びないかぎり経済の好循環は生まれない。消費を持続的に回復させるには雇用や所得環境を改善して格差を縮小し、安定した中間層を復活させることだ。アベノミクスと真逆の政策である。


磐越道上り:夜行バスから出火、全焼 乗客1人煙吸い搬送
 18日午前5時15分ごろ、新潟県阿賀町小出の磐越道上り線で、近鉄バス(本社・東大阪市)の大阪発仙台行き夜行バスのエンジンルーム付近から出火し、バス1台を全焼した。バスには乗員2人と乗客33人が乗車。いずれも避難し無事だったが、40代の女性客1人が煙を吸い込み、気分が悪くなったとして福島県内の病院に搬送された。命に別条はないという。
 新潟県警高速隊によると、運転手が走行中、後方のエンジンルーム付近から煙が出たことに気付いたといい、原因を調べている。この事故で新潟県の津川インターチェンジ(IC)と福島県の西会津ICの間が約4時間通行止めとなった。【浅見茂晴】


「檸檬」舞台の丸善、21日に復活 レモン設置コーナーも
 梶井基次郎(1901〜1932年)の小説「檸檬(れもん)」に描かれた書店の丸善が21日、10年ぶりに復活する。京都市中京区河原町通三条下ルの専門店ビル「京都BAL」の地下1・2階に開店する「丸善 京都本店」。18日の記念セレモニーで京都最大級の約3300平方メートルの店内やレモン設置コーナーが披露された。
 小説の主人公がレモンを置いて立ち去る丸善は三条通にあった「京都支店」。40年に河原町通蛸薬師上ルに移転し、2005年に閉店した。式典で丸善ジュンク堂書店の工藤恭孝社長は「10年間のブランクを取り戻し、愛される書店にしたい」とあいさつした。
 和書100万冊、洋書7万冊に加え、高級文具の品ぞろえも充実。主人公にとって憧れであり、気詰まりの対象だった大正期の丸善の香りが漂ってくる。

豊中・同対審答申から50年/仙台育英4強/A la volonte du peuple

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150729_神代_食虫植物1

À la volonté du peuple
Et à la santé du progrès,
Remplis ton cœur d'un vin rebelle
Et à demain, ami fidèle.
Nous voulons faire la lumière
Malgré le masque de la nuit
Pour illuminer notre terre
Et changer la vie.

Il faut gagner à la guerre
Notre sillon à labourer,
Déblayer la misère
Pour les blonds épis de la paix
Qui danseront de joie
Au grand vent de la liberté.

À la volonté du peuple
Et à la santé du progrès,
Remplis ton cœur d'un vin rebelle
Et à demain, ami fidèle.

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鶴瓶の家族に乾杯 海外スペシャル〜松下奈緒 フィンランド〜
松下奈緒をゲストにフィンランド・ヘルシンキを旅する海外スペシャル。教会で待ち合わせた鶴瓶と松下。早速、ラブラブなカップルと出会い、お宅を訪ねる。その後、一人旅になり松下は、アーティストが集まる村で出会った紙職人さんと日本の不思議な縁に驚く。一方、鶴瓶は、ヨットハーバーで出会った夫婦から、夏休みの過ごし方を伺い、夫婦円満の秘けつも教わる事に。雨の中歩き続ける松下は、この後思わぬ出会いに驚くことに。
松下奈緒, 笑福亭鶴瓶,小野文惠, 久米明

世にも不思議なランキング なんで?なんで?なんで?★問題!この謎を解けSP
ナゾ:やる気のない自販機
なぜか?ジュースの自動販売機がありえないところに設置 それはお客さんの手が届かない高い場所 買うのに、わざわざ長い棒がないと買えない・・・不思議
新企画:実録!なんでなストーリー
実際に起こった凶悪事件・・・取材を元に完全再現
今日本の問題…幼児誘拐事件
番組は広島県で起こった[女児誘拐事件]を取材 女児が助かった驚きの方法とは?
タカアンドトシ(タカ、トシ) 綾野剛 松嶋尚美(オセロ) 向井理 小倉弘子


豊中市役所に行きました.桜塚商店街や岡町商店街に近いところです.同対審答申50年ということで展示会があるからです.なかなかいい展示だったと思います.豊中水平社から始まって最近の飛鳥会事件という不祥事まで展示でありました.結婚差別に関しての展示がよかったと思います.もう一つ豊中空襲展も開催されていました.わたしがいた時間では空襲展のほうは結構見ている人がいましたが,同対審のほうは誰も見ていなかったです.
江坂で長崎ちゃんぽんを食べて,帰りました.
それに仙台育英がまた勝ちました.ベスト4です.
山下力さんの本を読みました.学生の頃講演を聞きに行った記憶があります.南都銀行の就職差別事件だったかな?わかりやすく心にしみるお話でした.この本もまたじいんとさせてくれます.
夜ネットでA la volonté du peupleを聞きました.英語だとDo you hear the people sing?です.

「同対審答申」から50年、部落問題は今・・・
 1965年に出された「答申」は、部落問題の存在を公認し、国の責任および国民的課題であることを明記した画期的なものでした。それは1969年の「特別措置法」の制定につながり、官民様々なレベルでの取り組みを生み出し、部落差別は社会悪であるとの社会的合意を広げました。
 貧困・悲惨と言われた被差別部落の姿は大きく変わり、教育・仕事・福祉をはじめとする生活実態における部落外との「格差」是正もすすみ、被差別の「しるし」は解消の過程をたどってきました。その点では、部落問題が解決に向かってきたと言えますが、なお残された課題や新たな問題があることも事実です。
 「答申」から50年、部落問題の何が変わり、何が変わらなかったのか?変えることができたものは何で、変えることができなかったものは何か?という視点からの問い返しと検証とが不可欠ということになります。
 部落問題解決に向けたとりくみはおおよそ1世紀になりますが、未だにその根を断つには至っておらず、差別意識が根強く生きています。大事なことは、部落問題の今を、部落差別の現実をしっかりとらえ、それをどう伝え、理解・共感の輪を広げていくのかということだと思います。
 本パネル展がその一助になれば幸いです。
内容
1.「答申」が出るまで 
 解放令、水平社、オールロマンス事件、そして、豊中で起きた「水のしずめ」など、「答申」に至る歩みをふりかえります。
2.「答申」を読む
 部落問題の定義、誤解と偏見の是正、問題の本質とその解決策など、多岐にわたる論のポイントを解説します。 
3.「答申」の光と影
 「答申」とそれから導かれた「特別措置法」は、部落問題の現実をどう変えたのか?成果と問題点を検証します。
4.部落問題は今・・・
 田辺事件、部落地名総鑑事件、解放会館名称問題、地区問い合わせ事件など、「答申」以後も絶えない事件と、市民意識調査の結果をふまえ、部落問題の今に迫ります。

「豊中空襲展 〜わすれない 豊中空襲〜」を開催します
戦後から70年、戦争体験の風化が懸念されるなか、戦時の豊中での市民生活や豊中空襲のすさまじさを収めた写真パネル、発掘調査や遺跡調査で出土した焼夷弾・米軍機の部品などを展示し、平和の大切さを考えます。

性愛空間の文化史
金 益見
ミネルヴァ書房
2012-09-30


詳細な事実。しかし、社会学の本としては。  toska
若手女性社会学研究者によるラブホテルの歴史。
同時代の雑誌、新聞の記事や広告や、文学における扱い、当事者(ラブホテル創生期の経営者)のインタビュー等を丹念に集めて、ラブホテル(「連れ込み」「モーテル」等々)の歴史と進化を丁寧ににたどっている。
テーマ自体が物珍しくしかも若い女性が書いたせいか、いくつかの新聞が取り上げていた。
著者は、既に2008年に「ラブホテル進化論」(文春新書)を上梓しており、これも以前話題になって読んだが、内容がかなり重複している感がある。
また、ラブホテルの進化と社会意識の変遷の相互関係に関する考察は、まさに社会学者としての最も大切な「肝」となる部分であろうが、この本のそれは前著の考察をほぼそのまま踏襲しており、あまり新味がない。
同様にラブホテルを扱った研究書としては、建築史の井上章一教授の名著(「愛の空間」)が有名。この本は意匠論、デザイン論という切り口からラブホテルの歴史を読み解いており、むしろこの視点の方が戦後史における社会意識、風俗の変化がよく見えてくる。
率直に言って、この本とは学問としての桁というか格が違う。
著者は、井上教授のこの本をこの分野における重要な先行研究として多くを負っているとしおり、資料まで借りているようであるが、先行研究を批判的に考察しなくて学問と言えるのであろうか?(これは他のレビュワーの方も指摘しています)
「風俗」といわれる世界の実態を興味本位ではなく真面目に客観的に記述しようとしたジャーナリストによる名著としては、例えば古くは広岡敬一の「トルコロジー」(1979年)とか、永沢光雄の「AV女優」(1996年)とかある。しかし、その捨身ともいえる取材から生まれる読み物としての迫力においても、残念ながらこの本は及ばない。
せっかく読んだので、けなしてばかりいても仕方がない。
これだけ一生懸命調べたことは、それはそれで大きな意味があると思うが。

被差別部落のわが半生 (平凡社新書)
山下 力
平凡社
2004-11


解同幹部の試行錯誤  モチヅキ
 被差別部落の問題に関しては、根拠のない都市伝説の類の差別発言やセクト主義的な諸見解が入り乱れ、何が真実なのかがよく分からない。したがって、とにかく具体的な個人の体験から考えようと思い、とりあえず本書を選んだ。本書は1941年に生まれ、1969年に部落解放同盟上但馬支部を創設し、奈良県議会議員、民主党奈良県総支部連合会常任幹事である著者が、運動方針の大転換を機に、自分の半生を振り返る形で次世代にこれまでの運動の経験を伝えようとして、2004年に刊行した新書本である。著者は革製スポーツ用品生産で知られた比較的裕福な被差別部落で育ち、身元を隠しながら東京工業大学に進学したが、やがて差別糾弾闘争に感銘を受け、「糾弾屋」と呼ばれる解同の運動家となる。しかし、1970年代における部落産業の衰退(海外への生産拠点移動)、特別措置法による部落生活の物質的向上、また年々増加する部落外への転居といった社会変化の中で、著者は自分達の従来の運動方針に疑問を持ち始める。差別は貧困に由来する目に見える差別から、経済とは直接関係のないより目に見えにくい散発的な差別へと変化し、部落民の中でも世代間のギャップが大きくなった。解同の中には糾弾を濫用する者(「同和利権亡者」)が出始め、路線対立も深刻化した(1993年山川戦争へ)。著者はこうした状況の中で試行錯誤し、1980年頃までの糾弾や特措法の有効性を認めつつも、動揺する「事実」や差別者としての自己の再検討、「糾弾請負業」からの原則的な撤退、多様な被差別者(障害者、女性、在日朝鮮・韓国人、アイヌ人等々)との連帯、口の堅い「いい相談相手」であること、「帰る場所」としてのぬくもりのある村づくり、自己規制・行き過ぎた糾弾の双方への反対等を提案する。解同幹部であることや山川戦争の一方の指導者であることに由来する叙述の偏りは当然あると思うが、有益な本ではあると思う。

豊中空襲展 同対審答申から50年
江坂を少し
関東第一 オコエ瑠偉 黒人への差別意識 

<甲子園>仙台育英、26年ぶり4強
 甲子園で開かれている第97回全国高校野球選手権大会第12日の17日、宮城代表の仙台育英は準々決勝の第3試合で、秋田商との東北勢対決を6―3で制し、準優勝した1989年以来、26年ぶりの4強入りを果たした。
 仙台育英は0―0の四回、2死から平沢大河が右越えに今大会自身2本目の本塁打となる先制ソロを放った。五回は2安打と四球で無死満塁とし、谷津航大と佐藤世那の連続適時打で3点を追加。4―1の六回は百目木優貴の適時打で1点を加えて突き放した。
 前日の花巻東(岩手)との3回戦で2番手として5回2/3を1失点と好投した先発の佐藤世は、この日も力のある直球と切れのある変化球で打たせて取る投球がさえた。九回の相手の反撃を2点にとどめて完投した。
 18日は休養日。仙台育英は大会第13日の19日、準決勝の第1試合で、早実(西東京)と対戦する。


<にじいろノート>3.8%の私たち
 「あなたが名字を変えてくれない?」
 妻にそう言われたのは5年前。私たちは結婚後の姓をどちらにするか話し合っていました。以前から、「結婚しても自分の姓を名乗り続けたい」と彼女が言うたび、私は深く考えることなく「自分が変えてもいい」と答えていたのです。しかしいざ本当に自分の姓が変わるとなると、漠然とした不安を感じ始め、即答はできませんでした。
 現在の法律では、婚姻届を出す時に夫婦どちらかの姓を選択しなくてはなりません。2013年の調査では夫の姓が96.2%で、妻の方はわずか3.8%です(厚生労働省「人口動態統計」)。
 世の中の大多数と違う選択をすることへの恐れがあったのかもしれません。けれどもあらためて2人で気持ちを話してみると、姓を変えることへの抵抗感が小さかったのは私の方でした。結婚するためにどちらかを選択しなければならないのなら、妻の姓にしようと素直に思えたのです。
 2人の間では納得して決めたことでしたが、周囲からの反応はさまざまで、困惑気味なもの、中には好意的ではないものもありました。両親からは「反対はしないが、どうしてお前が変える必要があるのか分からない」と言われました。親子のつながりが切れてしまうような寂しさを感じていたらしいのです。
 また、妻の姓になる=婿養子というイメージが強いようで、親戚や友人から「お婿さんなの?」とよく聞かれました。毎回「婿養子ではなく、妻の名字になっただけ」と説明するのに苦慮しました。
 単純に結婚を喜んでもらいたかったのに、男性の私が姓を変えた珍しさから、違和感や疑問を投げ掛けられることが続くと、祝福されていないように感じてしまい、さすがに落ち込みました。妻も自分のわがままと思われているのではと、悩んだようです。
 そのたびに2人で話をし、これが私たちの自然な選択だったと確認し合いました。周囲には丁寧に気持ちを伝え続けることで、少しずつ受け入れてもらえたように思います。
 結婚する時に「夫婦の姓」をめぐって繰り返し話し合ったこの経験は、何でも率直に言い合える関係の土台となり、お互いにパートナーとしてやっていく自信にもつながっていると感じます。
(公益財団法人せんだい男女共同参画財団・鈴木政徳)

五山の送り火/戦後部落解放論争史読了/部落出身の芸能人

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天皇制廃絶

Japon : la déclaration de l'empereur Akihito sur la Seconde Guerre mondiale ressemble à un subtil désaveu d'Abe
L'empereur du Japon Akihito a prononcé samedi un discours à l'occasion du 70e anniversaire de la fin de la Seconde Guerre mondiale, exprimant à cette occasion ses "profonds remords". Pour certains, son choix des mots semble indiquer un subtil désaveu du Premier ministre nationaliste Shinzo Abe.
"En réfléchissant à notre passé et en gardant à l'esprit les sentiments de profonds remords au sujet de la dernière guerre, j'espère sincèrement que les ravages de la guerre ne se renouvelleront jamais", a affirmé l'empereur agé de 81 ans au palais omnisports de Budokan à Tokyo lors de la cérémonie annuelle commémorant la capitulation du pays le 15 août 1945.
De sa voix douce, l'empereur, dont le père avait annoncé la capitulation de l'archipel il y a 70 ans, a appelé le Japon à ne pas oublier les souffrances de la guerre et à promouvoir la réconciliation avec ses voisins asiatiques.
Si l'empereur Akihito a déjà tenu des propos similaires en d'autres occasions, c'est la première fois qu'il emploie ces termes dans le cadre de la cérémonie officielle du 15 août.
L'utilisation de l'expression "profonds remords" dans sa déclaration annuelle est considérée par des analystes comme un désaveu subtil de Shinzo Abe.
Takashi Hara, expert sur la famille impériale nippone, constate d'ailleurs que "depuis le début de l'administration Abe, on a pu déceler un peu plus de messages politiques dans les propos et les actes de l'empereur et de l'impératrice". Pour lui, la famille impériale affiche une discrète opposition envers la politique de M. Abe.
La déclaration de l'empereur Akihito est survenue au lendemain de la déclaration très attendue du Premier ministre japonais, qui a évoqué les "excuses" de ses prédécesseurs, évitant toutefois d'en prononcer en son nom propre.
M. Abe a par ailleurs affirmé que les générations futures du Japon ne devraient pas "etre prédestinées à s'excuser" pour les actes commis par leurs ancetres pendant la Seconde Guerre mondiale.
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テレメンタリー2015 レベル5 全島避難
あの日、わずか24分で島民のほとんどが安全な場所まで避難できたのは事前にしっかりとした対策が立てられていたからだ。1人1人が「自分たちの問題」として捉え直した1年前のきっかけから、帰島の見通しが立たない現在まで、火山と向き合い、奮闘を続ける島民たちの姿を追った。
鹿児島放送

NNNドキュメント15シリーズ 戦後70年 極秘裏に中絶すべし 〜不法妊娠させられて〜 
湯浅真由美 福岡放送
日本が“植民地”を拡大した歴史の裏返しとも言える、戦後の“引き揚げ”。祖国の敗戦という現実の中で、外国人から性被害にあって妊娠し、当時法律で禁じられていた中絶手術を受けた日本人女性がいました。被害者本人からは決して語られることのない悲劇―中絶手術を行う“二日市保養所”は、引き揚げ港の1つだった博多港から車で約40分の温泉地に、1年半だけ存在した。また、長崎・佐世保港を経由して、佐賀県内の国立療養所でも、同様の中絶手術が行われた。性被害の女性を救う目的に加え、外国人との間に生まれる“混血児”が、社会の混乱を招くおそれがあると考えた国の指示のもと、中絶手術が行われた実態―国家が始めた戦争が、最も弱い立場の国民を苦しめた現実を見つめ、あやまちを繰り返さないためのメッセージを発信する。

ガリレオX 「マダガスカル医療協力活動 昭和大学医療チーム奮闘記」
インド洋に浮かぶ島、マダガスカル共和国。貧困が色濃く残るこの国では、医療技術のレベルもいまだ乏しい状態にある。そうした中、この国で昭和大学の医療チームが、2011年から医療支援を行っている。彼らが治療するのは、口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)と呼ばれる先天性異常患者。口唇口蓋裂患者は、日本の場合ほぼ幼児の段階で治療されることがほとんどなのだが、マダガスカルでは、治療や手術を受ける機会も設備も整わず、様々な差別や偏見をこうむっているのが現状だ。 日本からおよそ1万2000キロ離れたマダガスカルにおいて、医師たちはどのような思いで治療にあたっているのか、その姿を追った。
土佐泰祥 ニリーナ・A・マンジャーノ 曽野綾子山本晋也

五山送り火2015
京都の夏の夜空を染める五山の送り火。今年も、大文字・如意ヶ嶽山上の点火の様子から妙法、船形、左大文字、鳥居形と次々に灯っていく炎を、佛教大学歴史学部教授・八木透さんの解説を交え、生中継でじっくりとお届けします。今回は戦後70年の企画として「禁じられた送り火」をテーマに、戦時中など、自治体や国によって禁止された送り火をピックアップ。そして、昨年好評だったマルチ画面での中継を今年も実施。五山六つの送り火の前にカメラを置き、メイン画面の他に小さなサブ画面で、全山の状況がひと目でわかるような映像でお届けします。また、昨年紹介しました「消えた送り火」について調査を継続、皆さんから「消えた送り火」についての情報も募集していきます。
遠藤奈美 :八木透 :木村寿伸 海平和


今日は送り火の日です.ということは京都で五山の送り火があります.KBS京都で放送があります.
迎え火をしたのもつかの間,あっという間に送り火の日になったのことは悲しいですが,仕方ありません.
テレビを見た後ベランダで送り火をしました.風が強いです.
さて師岡さんの戦後部落解放論争史4,5巻を読み終えました.
第4巻の内容は以下の通りで,日本共産党との対立と同対審答申以降の行政闘争を中心とした運動に関して説明されています.日本共産党は「前衛」党らしいのですが,自らを絶対化して異なる動きを認めないことと,大衆的運動よりも自らの政治勢力拡大が優先されているところがよくないと思います.もちろん評価できるところもあります.残念ながら日本共産党の誤りはその後の新左翼にも引き継がれてしまっているように思います.
また師岡さんの個人的なお話として記されていますが,笑子さんの影なる献身的な努力があったことを知りました.
第I章 部落解放同盟と日本共産党との公然たる対立・抗争の始まり
第II章 第二十回全国大会における部落解放運動と解放理論の分岐
第III章 「同対審答申」完全実施要求国民運動の展開と同和対策事業特別措置法
第IV章 朝田理論の完成--解放同盟と共産党の論争を通じて

第5巻は現代の部落解放運動というべきでしょうか.この本が書かれたのが80年代前半ですが,その言わんとすることは20年以上たった今でも認められるものです.
第I章 狭山事件と部落解放運動
第II章 同和行政をめぐる攻防
第III章 裁判における矢田教育差別事件
第IV章 国民的融合論の登場と批判
第V章 部落解放理論の再構築をめざして

著者の師岡さんは2006年に沖縄で亡くなられましたが,まだまだ頑張ってほしかったです.
夕方,何気なくある地名で検索したら,とある女性芸人の親戚に解放同盟関係者がいる,ということがでていました.つまりその芸人は部落出身ということになります.Wikipediaにもそのことが記されていますが,本人がカミングアウトしたというよりも,隠していたのがばれてしまった・・・というのではないかな???と思ってちょっと嫌な感じになりました.彼女が胸張って自分は部落出身と言える日が来ればいいと思うのですが・・・
気になるので他の有名人に関してもネットで見てみました.韓国籍だったのが帰化した,とか結構あります.事情は分かりませんが,本人が望んで告白しているのではなく,有名人なので隠し切れなかったということではないのかなぁ・・・と思いました.中には自ら在日である,と言っている人もいますが,それでも日本風の名前を使うことを余儀なくされているのをどう考えたらいいのか悩んでしまいます.

復興商店街で盆踊り 帰省中の若者ら参加
 東日本大震災で被災した南三陸町志津川の南三陸さんさん商店街で14日、住民による手作りの盆踊り大会があり、浴衣を着た帰省中の若者やボランティアでにぎわった。
 参加者はやぐらを囲み、「相馬盆唄」や地元の創作踊り「トコヤッサイ」、子どもに人気のアニメソング「ようかい体操第一」を踊った。会場にはかき氷や射的の屋台が並び、縁日ムードを盛り上げた。
 県外からボランティアで訪れた大学1年の森原彩子さん(19)は「被災地を励ますつもりが、逆にたくさん元気をもらい、自分の古里のように感じられた」と笑顔で話した。
 イベントは地元のまちづくり団体「南三陸ふっこう青年会」がお盆期間中に里帰りした人々が集まる場所をつくろうと主催。2012年に始まり、今回は「大大大(テラ)盆踊り大会」と銘打った。代表の工藤大樹さん(33)は「回を重ねるごとに期待感が増している。今後も町民が楽しめる企画を考えていきたい」と話した。


帰る場所照らす灯 七十七銀女川遺族ら灯籠
 東日本大震災の津波で死亡・行方不明になった七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の行員らの家族が15日、支店跡近くの高台に建てられた慰霊花壇前で、手作りの灯籠をともした。
 約10人が参加。鉄製のガーデニング用品に障子紙を貼り付けた灯籠約20個を花壇の周りに並べた。「守れた命」「夢でもいい あいたいね」「ただいまと言ってほしい」といったメッセージと共に絵を描くなどした。
 石巻市の丹野長子さん(84)は長女美智子さん=当時(54)=を亡くした。夏の女川で一緒に花火を見たこと、銀行を定年後の海外旅行を待ち望んでいたことを思い起こし「もっと人生を楽しんでほしかった」と涙をぬぐった。
 行方不明の成田絵美さん=当時(26)=の祖母千代子さん(82)=石巻市=はこの日、かわいい孫のためにお弁当を用意した。小豆の団子、サケをほぐしてご飯と交ぜたおにぎり…。「まだ帰って来ないのが信じられない。お弁当を食べさせてあげたい」と声を詰まらせた。


アーケード街を大道芸舞台に 仙台8商店街
 仙台市中心部の8商店街振興組合でつくる市中心部商店街活性化パートナーシップ準備協議会は今月、日曜日にアーケード街の路上を大道芸人らに活動場所として提供する社会実験を行っている。市地下鉄東西線の12月開業後には大道芸や音楽の路上パフォーマンスを本格展開させ、にぎわいの創出につなげたい考えだ。
 実験はクリスロード商店街の常陽銀行仙台支店前で午後3〜7時、一番町一番街商店街(ぶらんど〜む)のフォーラス前など4カ所で午前11時〜午後7時に実施。市内外の大道芸人15人がジャグリングなどの曲芸を披露している。
 協議会事務局によると、路上パフォーマンスは警察など複数の関係機関から許可や同意をもらう必要があり、手続き面のハードルが高い。実験では、協議会が芸人らから事前に登録を受け付け、許可などの手続きをまとめて代行している。事務局の担当者は「路上パフォーマンスをしやすい環境は、商店街ににぎわいを生み出す。来年度には実験を本格実施に移行させたい」と話す。
 今後はクリスロード商店街で16、23日に、ぶらんど〜むで16、23、30日に大道芸が披露される。


被災寺で無料カフェ 「住民のよりどころに」
 東日本大震災で被害が出た山元町花釜地区にある普門寺が月1回、無料のカフェを開いている。被災し散り散りになった住民が集まる場所をつくろうと、住職が津波被災後に修繕した本堂を開放。ボランティアの男性が手作りする洋菓子を味わいながら、来店者は心豊かなひとときを過ごす。
 カフェは「てら茶房」の名称で昨年9月にスタートした。コーヒーやお茶、タルトやババロアなどの季節の洋菓子が無料で味わえる。被災女性が主宰する陶芸教室や小物類の展示があり、月によってはコンサートも開かれる。
 来店者は平均約80人。当初は寺の檀家(だんか)が主体だったが、現在は被災の有無に関係なく人々が集う。3回来店している森きよさん(80)は「被災地は多くの住民が離れ、お茶を楽しむ場所も減った。お菓子を味わいながら知人と会話ができて楽しい」と喜ぶ。
 菓子類は、埼玉県川越市の会社員奈良信彦さん(48)が手作りする。震災直後から災害ボランティアとして同寺を拠点に活動してきた。離散した檀家(だんか)らが集まる場の開設を目指す坂野文俊住職(52)の思いに賛同。青森県内のホテルでパンを製造した経験を生かし、パティシエを買って出た。
 7月25日に11回目を催し、一番人気のクルミのタルトや桃のムースなどを振る舞った。奈良さんは「生活の一部としてやっている。食べてみんなが笑顔になってくれれば、それだけでいい」と語る。
 普門寺は県道相馬亘理線沿いにある。次回は8月29日に開店予定。坂野住職は「奈良さんの熱意があってこそ続けてこられた。地域住民の心のよりどころになればうれしい」と話す。


被災弁当店に小さな応援団
 東日本大震災の津波で被災した山元町花釜地区の弁当店店主が、東京都東久留米市の4きょうだいと交流を続けている。毎年夏休みに訪れ、4人が「大好き」という弁当を買って帰る。ことしは8日に再会。店主は遠方の「常連さん」を復興への励みにしている。
 弁当店は県道相馬亘理線沿いの「きく邑(むら)」。震災1年後の2012年3月に開業した。栄養士の資格を持つ店主の菊地博子さん(59)が、主に復興事業の作業員やボランティア向けに販売している。
 4人は開業から2日後、両親と一緒に来店した。橋本繭菜さん(14)、湖乃美さん(12)、美乃里さん(9)、龍馬君(8)。車で被災地を見て回った際、通り掛かったのが縁だった。母あき子さん(44)は「その時に食べたサケのおにぎりがおいしく、子どもたちも『また食べたい』とせがんだ」と振り返る。
 その後、夏休みのたびに訪れ、菊地さんの弁当を味わう。ことしの弁当はオムライスにカレーをかけたオリジナルのオムカレー。美乃里さんと龍馬君は「おいしい」と大喜びで食べ、受験勉強で来られなかった繭菜さんの分も持ち帰った。
 4人と菊地さんは手紙のやりとりも続ける。湖乃美さんは「被災しても頑張る菊地さんはすごい。田舎のお母さんのような存在」と話し、あき子さんも「長く交流を続けたい」と願う。
 菊地さんは「毎年会うのが楽しみ。子どもたちから私も力をもらっている」と感謝している。


城咲仁さんら仮設住民と交流「んめぇもん祭」
 東日本大震災の被災者が暮らす石巻市開成の仮設住宅団地で、飲食物を無料で振る舞い、歌やダンスを楽しむ「んめぇもん祭」(実行委員会主催)があった。
 焼きそばやかき氷など「うまい物」に加え、ネイルやマッサージのサービスを提供するブースが並んだ。
 お笑い芸人の芋洗坂係長が音楽に合わせて踊る芸を披露したほか、タレントの城咲仁さんや俳優の忍成修吾さんらも駆け付け、住民と笑顔で交流した。
 被災地支援を続ける東京のボランティア団体などが昨年に続き企画。趣旨に賛同する仲間を募り、芸能事務所に出演依頼するなどして実現にこぎ着けた。
 近くの仮設住宅に暮らす無職西條栄子さん(75)は「おいしい料理を食べたり出し物を見たりして幸せな気持ちになった。来年も来てほしい」と話した。


<5度目の盆>供養の火ともすプロジェクト
 東日本大震災で被害が大きかった宮城県女川町で15日、「盆火プロジェクト」があった。震災から5度目のお盆。まちの復興が進む被災地に、犠牲者らの魂を供養する明かりがともった。
 町民有志でつくる町復興連絡協議会と町観光協会が主催し、被災した観光施設「マリンパル女川」の跡地で行った。家族連れなど約100人が参加。日暮れ時から、バーベキュー用の火おこし器などを利用して火をたいた。それぞれ炎を囲みながら犠牲者をしのんだり、思い出を語り合ったりした。
 女川町の会社役員持田耕明さん(44)は町中心部にあった自宅を津波で流失。家族の一員としてかわいがっていた猫や多くの友人を失った。「イベントを通じて人々が集まり、時間を共有するのはすごく良いこと。これからも頑張ろうと決意を新たにした」と語る。
 プロジェクトは2012年8月に始まった。町観光協会の遠藤琢磨事務局長は「震災を忘れない日にする伝統行事として定着すればうれしい」と願う。


<甲子園>仙台育英8強 花巻東下す
 第97回全国高校野球選手権大会第11日は16日、甲子園球場で3回戦が行われ、第3試合は仙台育英が花巻東(岩手)を4―3で下し、1994年以来21年ぶりの8強進出を決めた。
 仙台育英は一回に郡司裕也と佐々木良介の連続適時打で2点を先取。二回に百目木優貴の左翼線二塁打、六回には青木玲磨の左越え二塁打で加点。百目木、佐藤世那の継投で逃げ切った。花巻東は七回に菊地真弥の右犠飛で1点差まで詰め寄ったが、及ばなかった。
 秋田商は八回に同点とされたが、延長十回2死三塁から草なぎ輝也が左前打を放ち、4―3で高崎健康福祉大高崎(群馬)を破った。1935年の第21回大会以来80年ぶりのベスト8。
 関東第一は九回、長嶋亮磨の左翼ポール際への本塁打で中京大中京(愛知)に1―0でサヨナラ勝ちし、5年ぶりに8強入した。


戦没者の追悼 真摯に議論を深めたい
 終戦記念日は、戦没者の追悼のあり方が問われる時でもある。
 戦後70年にあたり、首相談話をめぐる議論が注目される一方で、この問題はあまり顧みられていない。真摯(しんし)な議論を求めたい。
 全国戦没者追悼式では天皇陛下がおことばで「さきの大戦に対する深い反省」に、この式典では初めて言及された。そのうえで「戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意」を表明された。
 戦没者の追悼を考える際に、避けて通れないのは政治と靖国神社の関係をめぐる問題である。
 安倍晋三首相は今年も靖国神社への終戦記念日の参拝を見送った。自民党の萩生田光一総裁特別補佐を通じて私費で玉串料を奉納し、安倍内閣の3閣僚が参拝した。
 靖国神社には戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で戦争を指導した「平和に対する罪」で有罪となったA級戦犯が合祀(ごうし)されている。
 首相は就任1年にあたる2013年12月に参拝し、中国、韓国など近隣諸国の反発に加え、米国の失望を招いた。首相参拝は「東京裁判を否定し、戦後の国際秩序に挑戦するのではないか」との疑念を生むだけに、外交的に損失だ。これまでと同様、「8・15参拝」を見送ったのは当然である。
 だが、首相に近いとされる閣僚や議員らは参拝を続けている。首相が再度の参拝を図れば外交問題化する構図は温存されている。
 それだけに、追悼施設の議論を続ける必要がある。これまで自民党には靖国神社と別の国立の追悼施設を建設することや、靖国神社からA級戦犯を分祀することなどで問題を解決しようとする動きもあった。だが、安倍政権の発足以来、こうした声はあまり聞かれなくなった。
 気になる動きもある。自民党は、東京裁判や連合国軍総司令部(GHQ)による占領政策などを検証するための党内機関を近く発足させる予定だという。
 稲田朋美政調会長は「反省すべきことを反省する」組織だと説明している。歴史修正主義にくみしたり、ひいては靖国神社への首相参拝の正当化に利用したりするような疑念を国際社会に広げてはなるまい。
 首相は戦後70年談話で「国内外にたおれたすべての人々の命の前に、深くこうべを垂れ、哀悼の誠をささげます」と語った。海外の戦没者、国内の空襲などによる犠牲者の追悼という課題もあるはずだ。
 終戦から70年経ても追悼のあり方をめぐり、共通認識が得られないような状況は残念だ。国民がわだかまりなく戦没者を追悼できる環境を整えることこそ、政治の責務である。

天皇の戦没者追悼式典参加反対/ずんだもち

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Japon : l’empereur Akihito exprime de ≪ profonds remords ≫ pour la guerre
L’empereur du Japon Akihito a exprimé, samedi 15 août, de ≪ profonds remords ≫ pour la seconde guerre mondiale, au 70e anniversaire de la fin du conflit.
Selon certains médias japonais, dont l’agence de presse Jiji et le quotidien Mainichi, l’empereur, âgé de 81 ans, prononcait ces paroles pour la première fois, lors d’une cérémonie d’anniversaire de la capitulation du pays le 15 août 1945.
≪ Me rappelant le passé avec de profonds remords pour la dernière guerre, j’espère sincèrement que les tragédies de la guerre ne se reproduiront jamais. J’exprime, avec le pays tout entier, ma sincère peine pour ceux qui sont tombés sur le champ de bataille, et je prie pour le développement à venir du pays et de la paix mondiale. ≫
Des ministres au sanctuaire controversé Yasukuni
L’empereur prononcait ces paroles alors que les voisins du Japon, la Chine et les deux Corées, ont fait part de leur mécontentement quant à la déclaration officielle de Shinzo Abe, le premier ministre du Japon, vendredi, qu’ils jugent insuffisante au regard des exactions commises par l’armée impériale en Asie au cours de la première moitié du XXe siècle.
Le ministè;;re des affaires étrangè;;res de la Chine a par ailleurs exprimé samedi le ≪ vif mécontentement ≫ de Pékin concernant la visite de trois ministres japonais au sanctuaire patriotique Yasukuni à Tokyo, le jour de la commémoration de la capitulation du Japon en 1945. Ce sanctuaire honore un très grand nombre de soldats morts au combat, mais également 14 criminels de guerre. L’empereur Akihito ne s’est lui jamais rendu dans ce sanctuaire.
M. Abe lui-même ne se rendra pas samedi dans ce lieu de culte shintoïste, percu par la Chine et la Corée du Sud comme le symbole du passé colonialiste de l’Archipel, mais il y a fait parvenir une offrande rituelle, ont rapporté les médias japonais. Sa visite à la fin de 2013 avait déclenché la colère de Pékin et de Séoul et lui avait valu des remontrances de Washington.
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100分de名著 ダーウィン“種の起源”第1回▽“種”とは何か?
長谷川眞理子 水島裕(声優) 墨屋那津子
生物の分類をくっきりと分ける「種」は、神が天地創世の際に創造したものであり、その創造以来、一切変化していないというのが19世紀当時のキリスト教的な世界観だった。だがその世界観では、同一の地層から「今は絶滅した生物の化石」と「現在もみられる生物の化石」が一緒に見つかるという事実がどうしても説明できない。ダーウィンは、人間が飼育栽培する動植物が、人為的な選択によって世代を追うごとに変異を累積し、同じ「種」とは思えないような変化を遂げていく事実に注目する。同じようなことが自然界でも起こっているのではないか? そうだとすると、「種」とは人間が便宜的に作った概念にすぎないのではないか? ダーウィンの疑問はやがて「進化論」という巨大な理論へと向かっていく。第一回は、ダーウィンが既存の世界観にどう挑んでいったかを明らかにしながら、「種の起源」で説かれる進化論の発想の原点に迫っていく。

チョイス@病気になったとき「認知症予防スペシャル」
アルツハイマー病などの認知症の予防に大切なのは「ある生活習慣」。萎縮していく脳の部分を大きくできるのが判明!他に認知症に近づく生活習慣や病気を紹介。さらに認知症の危険を下げる食事も登場。認知症予防の最新情報スペシャル! 
浦上克哉,小原知之, 星田英利,浜島直子, 徳田章,小山径, 佐藤真由美,江越彬紀

ろうを生きる 難聴を生きる シリーズ 「働く」を見に行こう!
夢に向かって突き進め −弁護士 若林亮さん(1)−
先輩社会人を訪ねるシリーズ、今回は、昨年からろう弁護士として活躍する若林亮さん(38歳)を紹介する。若林さんは、98年に大学卒業後、新聞社で校閲の仕事をしていたが、ハンセン病の元患者たちに寄り添って裁判で争った弁護士の活動に強く影響を受け、仕事を辞めて法科大学院に入学、司法試験に挑戦し弁護士となった。現在は四谷にある法テラスで働く。法テラスは、経済的理由などで弁護士を頼めない弱い立場にある人たちを法律の立場から支援する。すでに成年後見申立てや、自己破産などの事件を扱っている。手話通訳者を介しながら、弱い人たちのためにと活躍する若林さんの仕事をおう。

ろうを生きる 難聴を生きる シリーズ 「働く」を見に行こう!
足で現場を駆けめぐれ −弁護士 若林亮さん(2)−
ろう弁護士・若林亮さんを紹介する第2回は、若林さんが働く現場に、法律を学ぶ大学生が同行する。若林さんは、経済的に弱い立場にある人が法的トラブルに巻き込まれたときの相談窓口として国が設置した法テラスで働く。
病気で働けなくなって消費者金融の借金が返せなくなった男性、裁判で争ったケースなど、現場を大事にしながら弱い立場の人のために奔走する若林さん。あとに続く若い人たちへ、その思いを語る。

■天皇出席の全国戦没者追悼式反対8・15大阪集会
―天皇と共にする全国一斉黙とう反対―
◇日時 8月15日(土)午前10時〜11時15分    
◇場所 エルおおさか南館(大阪地下鉄谷町線・京阪「天満橋」下車徒歩7分)
◇発題 
天皇出席の全国戦没者追悼式になぜ反対するか
吉田 宗弘さん(参戦と天皇制に反対する連続行動)
戦後70年、戦争法案・安倍談話・改憲を許さない
松村素子さん(反戦反天皇制労働者ネットワーク)
◇参加費(資料代含む) 500円(経済的に厳しい方は受付まで)
◇主催 参戦と天皇制に反対する連続行動
「詔書(ヒロヒト曰ク)国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」
これは、敗戦による食糧難が極限に達していた1946年5月19日の食糧メーデー(「飯米獲得人民大会」、人民広場=皇居前広場に25万人結集)で、デモ行進中の松島松太郎さんが持っていたプラカードの文言である(松島さんは「不敬罪」で起訴さる。東京高裁、大赦令により免訴と判決。上告するも最高裁、上告棄却)
 この年の5月1日メーデー。敗戦後初めてのメーデーである。取材したアメリカ人記者、マーク・ゲインは『ニッポン日記』(筑摩書房63年)で、次のようにレポートしている。
「徳田〔日本共産党書記長・徳田球一〕は最後に演壇に上がった。……彼も主食配給の不足、金持ちや投機師の隠匿米、労働者の困窮を語った。群衆は同感の声をあげた。だが、いちばん大きなそしていちばん長い歓呼がおこったのは、徳田が両手を高く上げて『天皇を打倒しろ!』をどなったときだった。……/演説が終わると、群集は四列縦隊を組んで流れ出し始めた。……熱狂(ママ)はいっかなおさまらなかった。……」
 「空は曇っていたが、日本ではじめてみる熱狂(ママ)と確信にみちた喜びの大会であった」。
          ◆      ◆
 戦後70年に当たり宮内庁は、昭和天皇ヒロヒトが8月15日のラジオで戦争終結宣言した「玉音放送」のレコード音盤を、また、5月19日の食糧メーデーの5日後の24日にラジオ放送した「食糧問題の重要性に関する御言葉」の音盤を8月1日に公表すると明らかにした。この公表は天皇、皇后、皇太子、秋篠宮の意向を受けてのものだという。
 安倍晋三極右政権が、世界の利権と覇権を求めて、新たな帝国主義列強となるべく、米国とともに侵略戦争・解放闘争圧殺に大きく踏み出す戦後史の歴史的転換のいま、なぜ、天皇ヒロヒトの「玉音放送」と「食糧問題」放送の音盤の公開なのか。
 戦争法案と南中国海危機への「軍事介入」、辺野古新基地建設、原発再稼働と核武装の準備、労働者派遣法改悪や労働時間法制の破壊、解雇の自由の全面化、医療保険や年金制度の全面改悪、人民管理・脅迫の国民総背番号制(マイナンバー制度)の全面化、報道と学校教育の国家統制など、独占資本・国家官僚・自民党などの支配階級と労働者・人民の対立が非和解的にまで大きくなるなかでのことなのだ。それは、戦争の時代に入るいま、人民を国家に統合する最強のシステムとして天皇制が必要ということではないか。元首天皇にして「国民の天皇」が必要なのである。
          ◆      ◆
 国家最大の危機は、いうまでもなく敗戦である。天皇ヒロヒトと支配階級は、戦争終結の最大の条件を「国体の護持」においた。「国体の護持」こそ天皇と支配階級(人民ではない!)が生き延びる唯一の道だったのである。だから、「終戦の詔書」(玉音放送)は、ヒロヒトの『聖断』によって「終戦」が実現したことを報告し、戦後復興も「国体の精華の発揚」によるべし、としている。また、「(窮迫する食糧事情に)ふかく心をいたましめるものがある」とするヒロヒトのラジオを通じた「お言葉」は、国民に向けた「訓話」であり、「国民の天皇」の見え透いた演出である。食糧メーデーの5日後というところにも邪(よこしま)な意図がみえる。
こうした攻撃の日本人民の答えが戦後初めてのメーデーでの「天皇を打倒しろ!」であり松島松太郎さんのプラカード事件であった。 
          ◆      ◆
 しかし、私たち日本の人民は、戦争直後の心意気を持ち続けなかった。「一億総ざんげ」、「敗戦」ではなく戦争責任を不問に付す「終戦」イデオロギー、朝鮮戦争への加担とサンフランシスコ講和条約・日米安保体制(「戦後の『国体』)による再軍備(武装国家への転換)と新たな天皇制の復活(軍人恩給の復活、天皇の「靖国」参拝、全国戦没者追悼式など)などに敗北してきたからではないか。
 私たちは、この敗北としての戦後民主主義を問い直すことが戦争の時代に入ろうとしている今、必要なのだと思う。8月15日、戦争時代の国民統合儀礼、天皇出席の全国戦没者追悼式の弾劾は、日本の人民にとって欠くことできない一つである。 集会への参加を。

差別語・不快語 (ウェブ連動式管理職検定)
小林 健治
にんげん出版
2011-06


言葉は何を伝えるのか――ことばの指南書  祖父江よしゆき
ひと頃うるさく言われた差別語タブーを羅列した本かと思って、ひやかしに読んだら全然違っていました。「差別語を使っても差別表現にあたるか、どうかは別」という著者の説明には眼からウロコ。マスコミ相手に抗議・糾弾していた恐い人なのに、「抗議団体に謝罪すればいいわけじゃない」「理屈と肚(ハラ)をもて」と言うのです。でも大多数のマスコミは「抗議さえされなきゃいい」というのが本音です。それに対して著者は、いたずらに言葉を封じ込めるより、平生から言葉に対する意識を明確にもって使えと指南している。仕事柄、私も「これはちょっと差別的かな」と迷う文章に出くわしますが、この本に書かれている、差別表現かどうかを考えるための判断基準、さらに我々が知りたい本音――抗議を受けるかどうかの基準、そして、受けたらまずどうすればよいのかが、非常に参考になります。事例も豊富でした。

天皇の戦争責任を問うべきだと思います.アキヒトが戦争責任を棚に上げて「深い反省」を言ってもまったく意味はないと思います.天皇出席の全国戦没者追悼式反対8・15大阪集会に参加しました.
キムチチゲを食べながら戦後部落解放論争史第3巻を読みました.同和対策審議会答申は部落解放同盟の運動の成果だと感じました.目次は以下の通り.
第I章 勤評・安保闘争と部落解放運動
第II章 部落解放同盟綱領の改定
第III章 奈良本・井上論争
第IV章 綱領にもとづく部落解放運動の展開と批判
第V章 同和対策審議会答申と各党および部落解放同盟の動向
第VI章 文学作品を中心とする論争の展開・氷結と部落史研究の一段階の終了

新大阪の近くでずんだもちを買いました.600円です.
君の名はの第一部と第二部のはじめを見ました.真知子は流産し,春樹は北海道へ.

被災地買い取り8割完了 残りは相談、抵当権に問題 気仙沼市
 気仙沼市が災害危険区域内で行っている被災宅地の買い取り事業は、年内が期限となっている。7月末現在、買い取り希望の宅地のうち82・84%まで進んだ。残りは相続未了や抵当権が設定されているなど、問題を抱える土地。このまま解決できずに期限を迎えてしまうケースも出てきそうだ。
 買い取りの全対象4961筆(187・5ヘクタール)のうち、3090筆(109・9ヘクタール)が売却を希望している土地。このうち2560筆(90・2ヘクタール)を、市が7月末までに買い取った。買い取り額は総額93億8千万円。
 530筆が残っており、このうち約350筆が防潮堤建設など他事業に一部かかることによる買収待ちや、盛り土材のストックヤードなどとして貸している土地。市用地課によると、これらは期限内に買い取り可能という。残る約180筆が、何世代も前から相続登記されていないため、相続する権利のある子孫が多数いたり、抵当権の抹消に多額な資金が必要だったりする土地という。


女川にお帰り くつろいで 再建の町営温泉
 東日本大震災の津波で全壊し、女川町中心部に今春再建された町営「女川温泉ゆぽっぽ」が、お盆で帰省した家族連れらでにぎわっている。
 14日に訪れた仙台市宮城野区の会社員佐藤信行さん(46)は、妻や小学生の息子2人と墓参りをした後、温泉でくつろいだ。
 JR女川駅近くで食堂を営んでいた実家は被災し、母親の行方は今も分からない。「毎年3月11日は町の追悼式に参列している。商店ができ、駅前の造成が進んでいると感じる」と話した。
 ゆぽっぽは3月、女川駅に併設して移転オープンした。3階の展望デッキからは復興が進む中心部を一望できる。


移転進み空き家増 仮設の夜間巡回始まる
 仙台市は今月、市内18カ所にある東日本大震災の仮設住宅団地で、警備業者による夜間巡回を始めた。市内の仮設住宅は災害公営住宅などへの移転が進んで空き家が目立っており、防犯活動の強化で入居者の不安を軽減するのが狙い。
 市の復興計画は最終年度に入り、仮設住宅からの転居が本格化している。7月末現在の仮設住宅の入居率は表の通り。空き家は全体の半数以上を占め、7団地では6〜8割に達する。
 市によると、阪神大震災の仮設住宅の空き家では放火などの被害を受けた例があるという。「何か起きてからでは遅い」(生活再建推進室)として、入居者の目が届きにくい夜間に巡回し、防犯対策を強化することにした。
 日中常駐する職員が不在となる毎日午後5時から翌日午前8時まで、市が委託した警備業者が18団地を2日間で3巡する。電気のついていない空き家や留守宅を中心に建物や設備の破損、不審物、不審者の有無などを確認する。
 12日夜は若林区日辺の仮設住宅などを巡回した。住民の男性(74)は「入居者がめっきり減り、特に高齢者が不安を感じている。夜に巡回してくれるのは心強い」と話した。


津波被災のタイムカプセル 工事中発見開封ヘ
 岩手県岩泉町小本小の校庭に1999年に埋められ、東日本大震災の津波で流されたとみられたタイムカプセルが、学校敷地内で見つかった。自分宛ての手紙などを詰め込んだお菓子の缶はさびだらけだったが、中身は失われていなかった。当時、小学2年生だったクラスメートが15日に集まって開封し、16年前の思い出と再会する。
 タイムカプセルは14人で作った。手紙やビー玉、練り消しゴムなどを入れて校庭の桜の根元に埋めた。全員が20歳になる2011年に掘り出す計画だった。
 震災の津波が小学校を襲い、校庭には土砂が流れ込んだ。敷地は立ち入りできなくなり、タイムカプセルがどうなったのか確認できなかった。学校も現在は仮設校舎に移っている。
 旧校舎が残る敷地には町がため池の建設を計画。造成工事中のことし6月、土の中から缶が出てきた。町が中身を調べたところ、99年のタイムカプセルと判明した。
 町は当時の小学2年生で、後に児童会長を務めた自営業大場彬央さん(24)にカプセルを引き渡した。大場さんは「津波に耐えて残ったことに驚いている。自分への手紙は恥ずかしいと思うが、皆でカプセルのことを語り合いたい」と話す。
 開封式は旧小学校前で行い、同級生5人ほどと当時の担任教諭が集まる。


大川小児童追悼の花火
震災の津波で74人の児童が犠牲になった石巻市の大川小学校の地元で、お盆の夏祭りが14日夜開かれ、追悼の花火が打ち上げられました。
夏祭りが開かれたのは石巻市の旧北上川沿いにある福地地区です。
会場の集会場の敷地には震災後から地区で子どもの教育支援に取り組むボランティアのメンバーによる出店が並び、子どもたちが楽しそうに遊んでいました。
この地区は津波の被害を免れましたが、大川小学校に通っていた児童8人のうち6人が犠牲になり、町内会は震災の後毎年、恒例のお盆の夏祭りに合わせて追悼の花火を打ち上げています。
会場では犠牲になった子どもたちの迎え火として、6年生と3年生の男子児童3人がキャンプファイヤーの火を灯しました。
そして、およそ300発の追悼の花火が田んぼの中から打ち上げられ、訪れた人たちは色とりどりの花の輪を見守り、犠牲になった子どもたちに思いをはせていました。
小学5年生だった次女を亡くした紫桃隆洋さんは「震災前に娘が浴衣を着てお祭りを楽しんでいる様子が思い浮かびました。きょうも、亡くなったほかの子どもたちと一緒に浴衣を着て、花火を楽しんでいると思います」と話していました。


戦後70年談話 歴史の修正から決別を
 日本を滅亡の際に追いやり、アジア諸国でおびただしい数の人命を奪った戦争の終結から70年を迎えた。
 安倍晋三首相はきのう、戦後70年談話を閣議決定し、発表した。
 歴史の節目にあたって、国政の最高責任者の発する言葉が担う責務とは何であろうか。私たちは、近現代史について国民の共通理解を促し、かつ、いまだに道半ばである近隣国との和解に資することだと考える。
 安倍首相は「深い悔悟の念」や「断腸の念」を談話に盛り込んだ。だが、その歴史認識や和解への意欲は、必ずしも十分だとは言えない。
 ◇曖昧さ残した「侵略」
 談話は、満州事変と国際連盟からの脱退を挙げ、日本が「進むべき針路を誤った」との認識を示した。記述の有無が焦点になっていた「侵略」については「事変、侵略、戦争」と単語を羅列したものの、日本の行為かどうかの特定は避けた。
 戦後50年時に出された村山富市首相談話が「わが国は過去の一時期、国策を誤り」「植民地支配と侵略」によってアジアに損害を与えたと明確に記したのとは対照的だ。
 先にまとめられた有識者会議の報告書が「満州事変以後、大陸への侵略を拡大」したと認定したのと比べても、表現が緩められている。
 もう一つの焦点だった「痛切な反省と心からのおわび」は、過去に日本が行ってきた事実として言及された。そのうえで首相は「歴代内閣の立場」を継承すると約束した。
 全体に村山談話の骨格をオブラートに包んだような表現になっているのは、首相が自らの支持基盤である右派勢力に配慮しつつ、米国や中国などの批判を招かないよう修辞に工夫を凝らしたためであろう。
 しかし、その結果として、安倍談話は、誰に向けて、何を目指して出されたのか、その性格が不明確になった。歴代内閣の取り組みを引用しての「半身の言葉」では、メッセージ力も乏しい。
 村山談話は、日本が担うべき道義的責任を包括的に表明したものだ。歴史認識の振れを抑える目的と同時に、近隣諸国との長期的な和解政策の一つと位置づけられた。
 当時、談話の作成にかかわった田中均元外務審議官は「私たちが最も大事だと考えたのは、言葉のごまかしをしてはならないという点であった」と書き残している。
 村山談話の論理は、1998年10月の日韓共同宣言、11月の日中共同宣言、2002年9月の日朝平壌宣言などに受け継がれた。談話は日本外交の資産であるとともに、日本外交を拘束する力も持ってきた。
 この村山談話に否定的な態度を示してきたのが安倍首相である。
 村山談話に先立つ95年6月、衆院本会議で戦後50年決議が採択された際、当選1回の若手だった安倍氏は内容に反発して欠席している。
 また05年8月、当時の小泉純一郎首相が村山談話を踏襲して戦後60年談話を出した際、自民党幹事長代理だった安倍氏は「村山談話のコピペ(複写と貼り付け)ではないか」と周囲に不満を漏らしたという。
 その後、首相に返り咲いてからも「全体として引き継ぐ」と曖昧な態度をとり続けた。「侵略」「反省」「おわび」などの文言を引き継ぐかどうかを、必要以上に政治問題化させた責任は首相自身にある。
 ◇プラスに転化させよ
 ただし、消極的ながらも安倍首相は村山談話の核心的なキーワードを自らの談話にちりばめた。「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を与えた」と加害性も認めた。その事実を戦後70年の日本はプラスに転化させる必要がある。
 すなわち、すでに定着した歴史の解釈に異を唱え、ストーリーを組み替えようとする歴史修正主義からきっぱりと決別することだ。
 歴史にはひだがあり、正邪の二分論で完全には割り切れないこともある。しかし、政治指導者が痛切な反省を口にしても、政権党内部からそれを覆す発言が飛び出す、不毛な事態には終止符を打つべきだ。
 審議中の安全保障関連法案に国民が厳しく反応する要因の一つに、安倍首相を支える勢力の戦前を肯定するかのような態度がある。大戦を侵略と認め、真摯(しんし)に反省するのをためらってきた姿を見て、国民が法案に不安を抱くのは理解できる。
 通商国家である日本にとって、中国や韓国をはじめアジアとの友好的な関係は存立に必須の条件だ。70年談話も安保法制も、日本がアジアでどう生きていくのかという問いへの回答でなければならない。
 戦後日本の骨格を作った吉田茂は「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」との言葉を残した。与えられた条件で国益を守ろうとした吉田のプラグマティズムだ。国家のメンツにこだわって大局を見失わないようにという戒めでもある。
 節目を過ぎても、日本は引き続き和解への努力を続けなければならない。外交上のたしなみを保ち、道義的な責任から目を背けないことが、いずれはアジアの平和に寄与する。
 歴史をめぐって、とげとげしい言葉が飛び交うような環境から脱却することは、とりもなおさず日本の利益になる。


村山元首相が安倍談話を問題視 「引き継がれた印象ない」
 村山富市元首相は14日、戦後70年の安倍晋三首相談話発表を受けて大分市で記者会見し、戦後50年の村山談話との整合性について「だいぶ中身が違うという印象を与える。引き継がれた印象はない」と問題視した。「新たな談話を出すことで国際的に持たれた疑念に答えるために、もっと明確な表現をすべきだった」と首相を批判した。
 村山氏は「美辞麗句を並べたが、何をおわびし、これからどうするのか説明していない。これからの日本が進む方向を明確に打ち出すべきだった」と主張した。
 焦点のキーワードに関しては、「植民地支配などの言葉をできるだけ普遍化した」と指摘した。


戦後70年談話/戦略的意図を読み取れぬ
 似て非なる物。そんな印象を拭えず、多くの国民はもとより国際社会、わけても先の戦争で大きな被害を与えたアジア諸国の十分な理解と共感を得られるかどうか危ういと言わざるを得ない。
 安倍晋三首相がきのう、発表した「戦後70年談話(安倍談話)」である。
 政府の公式見解とするため、閣議決定の手続きが取られた。一時傾いたとされる「個人の見解」では首相談話たり得ず、当然の対応だ。
 安倍首相がいかなる歴史認識を示すのか。大方、その一点を注視した。途上にある中国、韓国との和解の動向を左右する、つまり東アジアの安定に深く関わるからである。
 談話で安倍首相は、戦後50年の村山富市首相談話、60年の小泉純一郎首相談話を受け入れて「痛切な反省」を盛り込み、「植民地支配と侵略」「おわび」にも言及した。
 自身が設置した有識者懇談会の報告を踏まえ、強く談話の継承を求める公明党の意向にも留意。安全保障関連法案の参院審議への影響も意識して、個人の歴史観を抑制気味に調整を図った形だ。
 避けてきた「侵略」「おわび」に触れ、先の談話のキーワードを全て盛ったものの、国際的原則や過去の談話に沿わせるなど、自らの真意を覆い隠すかのようだ。
 侵略やおわびの主体の不透明さも否めず、姑息(こそく)と受け取られかねない。説明は回りくどく、自身の認識を回避した格好で、歴史修正主義者との疑念を払拭(ふっしょく)できまい。
 共同通信社の戦後70年に関する世論調査で、アジアの植民地支配と侵略への「おわび」の言葉を入れるべきだとの回答が67%を占めた。
 近隣国との関係改善への悪影響も懸念し、村山談話を明確に引き継ぐよう求めたと言え、不満の残った国民も少なくないだろう。
 首相談話は国民と国際社会に向けた宣言であり約束である。どう受け止められるか、反応を計算し尽くさねばならない。その点、国益を踏まえ中国、韓国との信頼関係再構築に向けて、絶好の機会を最大限生かしたとは言えまい。
 安倍首相は「歴代内閣の立場を全体として引き継ぐ」とする一方、村山、小泉両談話との違いにこだわり、過去を振り返るよりも「未来志向」の強い内容を目指した。
 戦後、平和主義を貫き、国の繁栄と国際貢献に努めた流れをアピールし、未来への希望と新たな使命を国内外に示す、というものだ。
 確かに歩みは誇っていい。ただ、自画自賛的な表明は、どれほど称賛を得られよう。
 女性の名誉、尊厳に言及、慰安婦問題を抱える韓国への配慮をにじませるが、談話は直接的な表現による反省と謝罪の明示を基本に据えるべきだった。そうした歴史観と慎み深い戦後評価で、和解の道筋をたぐり寄せ平和の基盤を強固にしてこそ、心に響く確かな未来を語れたろう。
 分量が多い割に内容は薄く、安倍談話は「個人の見解」を完全には超えられず、戦略性の乏しい内容にとどまった。よりよい形で「上書き」されるには至らず、あえて発表した意義が問われよう。


戦後70年首相談話 真の和解とするために
 戦後日本の平和と繁栄は、国内外での膨大な尊い犠牲の上に、先人たちの努力で勝ち得てきたものだ。戦後七十年の節目に、あらためて胸に刻みたい。
 安倍晋三首相はきのう戦後七十年の首相談話を閣議決定し、自ら記者会見で発表した。
 戦後五十年の一九九五年の終戦記念日には村山富市首相が、六十年の二〇〇五年には小泉純一郎首相が談話を発表している。
 その根幹部分は「植民地支配と侵略」により、とりわけアジア諸国の人々に多くの損害と苦痛を与えた歴史の事実を謙虚に受け止め「痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ち」を表明したことにある。
◆村山、小泉談話は継承
 安倍首相はこれまで、歴代内閣の立場を「全体として引き継ぐ」とは言いながらも、「今まで重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍政権としてどう考えているのかという観点で出したい」と述べるなど、そのまま盛り込むことには否定的だった。
 戦後七十年の「安倍談話」で、「村山談話」「小泉談話」の立場はどこまで引き継がれたのか。
 安倍談話は「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきた」として村山、小泉談話に言及し、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものだ」と受け継ぐことを言明した。
 この部分は評価するが、気になるのは個々の文言の使い方だ。
 首相が、七十年談話を出すに当たって参考となる意見を求めた有識者会議「二十一世紀構想懇談会」の報告書は「満州事変以後、大陸への侵略を拡大」と具体的に言及したが、安倍談話では「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」という部分だけだ。
◆侵略主体、明確でなく
 この表現だと、侵略の主体が日本なのか、国際社会一般のことなのか、明確にはなるまい。
 一九三一年の満州事変以降の日本の行為は明らかに侵略である。自衛以外の戦争を禁止した二八年の不戦条約にも違反する。アジア解放のための戦争だったという主張も受け入れがたい。
 安倍首相が、有識者による報告書のようにかつての日本の行為を「侵略」と考えているのなら、一般化したと受け取られるような表現は避け、日本の行為と明確に位置付けるべきではなかったか。
 「植民地」という文言も、談話には六カ所出てくるが、いずれも欧州列強による広大な植民地が広がっていたという歴史的事実を述べる文脈だ。
 「植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」との決意は当然としても、日本による植民地支配に対する反省とお詫びを表明したとは、受け取りがたい。
 特に、日韓併合の契機となった日露戦争について「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」と意義を強調したのは、朝鮮半島の人々への配慮を欠くのではないか。
 いわゆる従軍慰安婦については「二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続ける」と言及し、「二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしていく」と述べた。
 その決意は妥当だが、日韓関係改善を妨げている従軍慰安婦問題の解決に向けて問われるのは、今後の具体的な取り組みだろう。
 安倍談話は「七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります」と表明した。
 その決意に異議はない。
 戦後日本は新憲法の下、平和国家として歩み続け、非軍事面での国際貢献で国際的な信頼を勝ち得てきた。先人たちの先見の明と努力は今を生きる私たちの誇りだ。
◆負の歴史に向き合う
 将来にわたって、過去と同じ轍(てつ)を踏まないためには、侵略や植民地支配という「負の歴史」とも謙虚に向き合って反省し、詫びるべきは詫びる勇気である。
 戦争とは何ら関わりのない将来世代に謝罪を続ける宿命を負わせないためには、聞く者の心に響くような言葉で語る必要がある。それが戦後七十年を生きる私たち世代の責任ではないのか。
 安倍談話が国内外で評価され、近隣諸国との真の和解に資するのか否か、引き続き見守る必要はあろうが、負の歴史とも謙虚に向き合い、平和国家としての歩みを止めないのは、私たち自身の決意である。戦後七十年の節目に、あらためて誓いたい。

仙台育英3回戦進出/アベ談話は心がこもっていない!!

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Japon : Shinzo Abe évoque les ≪ souffrances ≫ de la guerre, mais évite les excuses personnelles
Le premier ministre japonais, Shinzo Abe, ne veut pas s’excuser. Lors d’une conférence de presse vendredi 14 août, il a lu l’allocution préparée pour le 70e anniversaire, le 15 août, de la fin de la seconde guerre mondiale, et de la capitulation, en 1945, du Japon impérial. Dans cette déclaration, M. Abe évite soigneusement de présenter ses propres excuses pour les actions du Japon militariste, ce qui marque une rupture avec les dernières commémorations.
≪ Le Japon a exprimé à plusieurs reprises ses sentiments de regrets profonds et d’excuses du fond du cœur pour ses actions pendant la guerre ≫, rappelle simplement M. Abe, évoquant ainsi les déclarations de ses prédécesseurs Tomiichi Murayama, en 1995, et Junichiro Koizumi, en 2005. Un ligne dénoncée par la Chine qui aurait aimé des ≪ excuses sincères ≫.
≪ Eternelles condoléances ≫
Le chef de gouvernement exprime toutefois sa ≪ profonde douleur ≫ pour toutes les victimes de la guerre, auxquelles il adresse ses ≪ éternelles condoléances ≫. Il souligne aussi que le Japon a infligé des ≪ dégâts et des souffrances incommensurables ≫ pendant ce conflit, et condamne le recours à la force et à l’oppression coloniale.
La déclaration insiste en outre sur l’engagement pacifiste du Japon après la guerre et inclut des remerciements pour les pays ayant permis à l’Archipel de réintégrer la communauté internationale. Parmi eux, la Chine et les nations ayant affronté le Japon, qui ont su faire preuve de ≪ tolérance ≫ pour autoriser cette réintégration.
Ayant refusé de s’excuser, M. Abe affirme son souhait de ne pas transmettre le fardeau de la guerre aux générations futures. ≪ Nous ne devons pas laisser nos enfants, petits-enfants et les générations suivantes, qui n’ont rien à voir avec la guerre, être prédestinés à s’excuser ≫, ajoute son texte, tout en insistant sur la nécessité de ne pas oublier. La déclaration souligne la volonté nippone de contribuer à la paix et à la prospérité dans le monde.
Critiques de Pékin et de Séoul
L’absence d’excuses suscite déjà des critiques, notamment en Chine et en Corée du Sud, principales victimes du Japon impérial. L’agence de presse sud-coréenne Yonhap a déploré que M. Abe n’ait pas ≪ présenté clairement ses propres excuses ≫. L’agence d’information officielle Chine nouvelle regrette que M. Abe ≪ considère que les générations futures n’auront pas besoin de continuer de s’excuser ≫.
L’annonce de la déclaration clôt un marathon de débats engagé il y a plusieurs mois. M. Abe avait créé en février une commission chargée de réfléchir à son contenu. Elle a rendu ses travaux au début d’août, et le texte a été rédigé. L’affaire était si importante pour M. Abe que le stress engendré aurait, selon certains hebdomadaires nippons, réveillé sa rectocolite hémorragique, une maladie incurable dont il souffre depuis l’âge de 17 ans et qui l’avait contraint à mettre fin en 2007 à son premier mandat à la tête du gouvernement.
≪ Un cycle humiliant d’excuses ≫
Dans le passé, des regrets avaient été exprimés. Cependant, les visites au controversé sanctuaire Yasukuni, qui honore les soldats tués pour la nation japonaise, dont des criminels de guerre, ont alimenté des doutes sur leur sincérité. L’attitude de M. Abe, qui s’est rendu à Yasukuni en 2013 et qui a refusé en mai de répondre à la question de savoir s’il était juste ou non de s’engager dans la guerre contre la Chine, a contribué à nourrir la suspicion.
Proche de la Nihon Kaigi, une organisation révisionniste qui réfute les accusations de crimes formulées contre le Japon militariste, Shinzo Abe est connu pour ses positions nationalistes. Ses principaux soutiens souhaitaient mettre fin à ce qu’ils considèrent comme ≪ un cycle humiliant d’excuses ≫.
De fait, la présentation d’une première version du texte le 9 août aux dirigeants des formations au pouvoir, le Parti libéral démocrate et le Parti Komei, n’en mentionnait aucune. Etaient évoqués de simples ≪ regrets ≫ pour les actes passés, sans évoquer une quelconque ≪ agression ≫ ou ≪ régime colonial ≫. Sans en reprendre la formulation, il signalait l’adhésion, ≪ dans l’ensemble ≫, aux déclarations deTomiichi Murayama et de Junichiro Koizumi.
Ménager ses soutiens nationalistes
Le Komei avait alors appelé M. Abe à modifier son texte pour qu’il ≪ reflète les excuses pour les autres pays ≫. La remarque reprenait les points de vue exprimés dans la presse, d’opposition ou proche de la majorité. Le Mainichi, journal de centre gauche, plaidait le 7 août pour une déclaration ≪ contribuant à la réconciliation du Japon avec ses voisins ≫. Le quotidien conservateur Yomiuri, pourtant soutien de M. Abe, appelait dans un éditorial le même jour à ≪ reconnaitre clairement qu’il y a eu agression ≫ de la part du Japon. ≪ S’il omet cette mention, ajoutait le journal, M. Abe sera immédiatement considéré comme quelqu’un qui ne veut pas admettre que l’Archipel a commis de tels actes. ≫
Finalement, soucieux de ménager ses soutiens nationalistes, voire de suivre ses propres inclinations, M. Abe prend le risque d’une nouvelle dégradation des relations avec Pékin et Séoul, déjà au plus bas. Et ce même s’il souhaite un sommet en septembre avec le président chinois, Xi Jinping. Il prend également le risque de mécontenter Washington, qui espérait une déclaration à même d’apaiser les tensions en Asie de l’Est.
De plus, sur le plan intérieur, la cote de popularité de Shinzo Abe baisse. Il est critiqué pour son projet de législation sécuritaire, percue comme une menace pour l’engagement pacifiste du Japon. Sa déclaration pourrait à nouveau réduire ses soutiens.
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NNNドキュメント15 シリーズ 戦後70年 平和宣言 〜ヒロシマは語る〜
永田亮子  広島テレビ
時代を映す鏡―平和宣言。毎年8月6日の原爆の日に広島から世界に発信するメッセージだ。犠牲者の慰霊、核兵器の廃絶、そして平和の実現。歴代市長や職員が思いを込めてきた。その平和宣言から戦後70年を紐解く。初めての宣言は被爆2年後、進駐軍の前で絶対平和の創造を訴えた。アメリカが原子力平和利用を訴えた時は宣言も呼応。しかし死の灰の恐怖にさらされたビキニ水爆実験以降の世論の高まりで、放射能を出す核実験への抗議から核兵器廃絶に軸足を移す。起草中に倒れながら命を懸けた職員もいた。今年被爆2世の市長が起草を続ける。被爆者の平均年齢は80歳を超え、継承が課題となる中、安保法制の議論も渦巻く。二度と繰り返してはならない…平和宣言に託す思いとは。

テレメンタリー2015「シリーズ戦後70年(9) 爆心地から世界へ」
被爆から約半年後の谷口稜曄さん(当時17) 16歳の時、爆心地から約1.8kmで被爆し背中などを熱線で焼かれた長崎原爆の被爆者・谷口稜曄さん(86)。体調が優れない中、2015年4〜5月、米・ニューヨーク国連本部で開催されたNPT核拡散防止条約再検討会議に合わせて渡米、原爆投下国アメリカ市民らに核兵器廃絶を訴えた。被爆から70年、日本は何故戦争に走り原爆が落とされたのか?被爆者はどのような被害を受けたのか?そして今被爆者が世界に伝えたい言葉は…。最後の力を振り絞って臨んだ決死の渡米を取材。
長崎文化放送

老人たちの裏社会
新郷 由起
宝島社
2015-02-10


老人へのイメージが変わった  たか
これまで「老人」というと、模範的で性的には枯れているイメージを漠然と持っていたが、本書を読んでそうしたイメージが払拭された。
私自身、通勤電車で痴漢を行っている高齢者をみかけたことがあるが、老人の中でも極一部だと思っていたがそうでもないらしい。
スリルを求めて万引きを繰り返す老人、寂しさも手伝って異性との出会いからストーカーとなる老人、売春する老人等本書を読むまではこうした老人は全く想像できなかったこともあり、とても驚いた。
こうした中、最近の起きた大きな事件をみると、高齢者の遺産や保険金を目当てに青酸カリで殺害したものがあり、どうしてあんな女性に騙されるのか、と不思議に思っていたが、独りで生きる(あるいは家族がいても全く相手にされない)老人の寂しさなどから、そういった事件に巻き込まれることも納得できる。
世界でも希有な超高齢化社会が到来し、今後さらにこの傾向が進んでいく中で、家族や行政、地域者会、ボランティアなどがどういった点に留意してケアができるかを考える一助となる内容だった。


昨日ワインを飲んだせいもあって目が覚めたら11時.テレビをつけると仙台育英が試合中.相手は兵庫の滝川第二.ぼんやりしているうちに仙台育英が7-1で勝っていました.心は宮城県民なので,嬉しいです.3回戦進出です.でも大阪代表はどこの高校かもしらないという状況ですが・・・
釜ヶ崎の夏祭りがあるようですが,ちょっと遠いのでパス.その代り部屋で師岡さんの戦後部落解放論争史第3巻を読みます.
夕方気がつくとアベがテレビに.戦後70年談話です.「侵略」とか「おわび」は文字として入っていますが,心がこもっていないのが丸わかりです.これでは大きな批判を浴びると思います.



<5度目の盆>「安らかに」龍の灯に願い
 東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町歌津の仮設住宅で13日、手作りの灯籠を並べて犠牲者を追悼する行事があった。
 平成の森野球場を会場に約30人が参加。雨の中、牛乳パックで作った灯籠約2000個を並べて火を付けると、夕闇に「龍(りゅう)」の字が浮かび上がった。
 龍の文字を選んだ志津川高1年渡辺飛龍君(16)は「あの世とこの世を行き来する龍に鎮魂の意味を込め、昇り龍もイメージした。被災した皆さんには前を向いてほしい」と話した。
 平成の森団地の畠山扶美夫自治会長(66)は「お盆が終わると移転が本格化する。龍の勢いで次の目標に向かいたい」と話した。
 灯籠は山形県庄内地方の有志団体「チームはちまき」(菅原千佳代表)が地元の小中学生らに製作を呼び掛け、持ち込んだ。追悼行事は歌津地区で2012年に始まり、4回目。


震災で途絶え…5年ぶり「夕市」大盛況
 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市北上町で12日、5年ぶりに「夕市」が開かれた。お盆に家庭で振る舞われる品をそろえ毎夏開かれていたが、震災で2010年を最後に途絶えていた。久しぶりの復活に多くの住民が訪れ、地場の海産物を買い求めた。
 水産加工業者らでつくる市北上地域物産振興協会が主催。会場になった北上中の駐車場には、地元の水産業者7社が出店を並べ、旬のウニやホタテ、ホヤなどを市価の2〜3割引きで販売した。
 近くの仮設住宅から訪れた無職女性(75)は「子どもたちが仙台市から来るのでお土産に塩ウニを買った。にぎわいのある雰囲気が楽しかった」と笑顔を見せた。
 夕市は、会場だった市北上総合支所が津波で全壊した上、水産業者の生産体制が整わなかったため休止していた。震災から4年が経過し、会員事業者の復旧が少しずつ進み、再開を求める声が上がったことあって振興協会が復活を決めた。
 以前の夕市は出店が10以上あり、まだ、震災前の規模には戻っていない。「小規模だったがやっと再開できた。楽しみにしてくれていた人もいてうれしかった」と振興協会の遠藤貴彦副会長(40)。「かつてのように定着させ、北上を盛り上げていきたい」と今後も継続していく考えだ。


<5度目の盆>遺骨なき墓地 全町避難のまち
 お盆を迎えた13日、東京電力福島第1原発事故で避難が続く福島県浪江町請戸地区の共同墓地に、町民らが供養に訪れた。地区の墓地は津波で流され、3月に高台で再建された。町民らは「ようやく落ち着いて眠れるね」と真新しい墓に語り掛けた。
 いわき市の仮設住宅で暮らす無職桜本海子さん(87)は請戸にあった自宅も、先祖代々の墓も流された。遺骨は見つかっていない。
 この日、納骨の代わりに、遺骨の周りにあった土を墓石の下に入れ、先祖の魂を新しい墓に宿す魂入れの儀式を行った。
 夫の定衛さんは1977年、79歳で亡くなった。海子さんは「遺骨はないが大切な主人が眠っている。これで私も同じお墓に入れる」と静かに手を合わせた。
 茨城県北茨城市の農業滑川ツナ子さん(71)は墓地を訪れ「やっぱり請戸が一番」と感慨深げだった。
 請戸に自宅があった兄の敬記さん=当時(77)=と功記さん=同(74)=は津波にのまれた。嫁いだ後も毎年秋、請戸に戻って兄たちとコメを収穫したことが忘れられない。
 浪江町は原発事故後1カ月間、不明者を捜索できなかった。「事故がなければ、兄たちは助かったかもしれない」と無念さを捨てきれない。
 二本松市の寺に預けていた遺骨は7月、墓地に納めた。「これでいつでも会いに来られる」と安心した表情を浮かべた。


<5度目の盆>「元気だよ」竹灯籠に祈り
 東日本大震災から5度目のお盆を迎えた13日、93人の犠牲者が出た宮城県気仙沼市波路上杉ノ下地区で、遺族たちがお盆の迎え火となる竹灯籠をともした。
 遺族が建てた地区の慰霊碑の前には、犠牲者の名前を記した93本の竹灯籠が並べられた。午後6時、遺族約40人が小雨が降る中でほのかにともる火を見つめながら、慰霊碑に手を合わせた。
 慰霊碑がある高台は震災時、市の指定避難場所になっており、多くの住民が避難していたところに津波が押し寄せた。現在も19人の行方が分かっていない。
 同市階上地区の公務員小野寺将隆さん(54)は津波で義父を亡くした。昨年12月に自宅を再建し、仮設住宅から家族4人で引っ越した。「家族みんな元気で過ごしている。新しい生活も義父に見守っていってほしい」と祈った。


<原発事故>新盆供養は古里の家で
 東京電力福島第1原発事故に伴う避難指示が9月5日に解除される福島県楢葉町では13日、避難先で亡くなった故人の霊を古里に迎えようと、町内の自宅で初盆の供養をする家が見られた。
 いわき市に避難する松本哲雄さん(67)は、昨年10月に父英雄さんを93歳で亡くした。自宅前には新盆を表す木の灯籠が立てられ、知人らが避難先などから次々と弔問に訪れた。
 松本さんは、避難中に車いす生活になった英雄さんのために昨年6月、自宅のバリアフリー工事を始めたが、完成前に英雄さんは他界。新盆に間に合うよう改修を急いでもらった。
 英雄さんは生前、「いつ楢葉に帰れるんだい」と言っていたという。松本さんは「母が高齢なこともあり、解除後すぐに帰町はできないが、生まれ育った場所で父を迎えることができてよかった」と話した。
 楢葉町では原発事故前、「じゃんがら念仏踊り」が新盆の家々を回っていた。全町避難の現在はできない状態という。


友情の山車届いた!被災地夏まつりで巡行へ
 東日本大震災で被災した宮城県亘理町に13日、姉妹都市を結ぶ北海道伊達市の有志から復興支援で贈られた山車2基が到着した。荒浜漁港で15日、震災後5年ぶりに復活する「わたりふるさと夏まつり」のパレードで巡行する。
 山車は角柱型で高さ4メートル、長さ3.4メートルの1基と、高さが1メートルほど低い子ども山車。伊達市の市民有志で結成した「亘理・伊達きずなプロジェクト」が450万円かけて製作した。子ども山車の側面には、伊達市の小中高校生約40人が伊達政宗や亘理伊達家初代当主の伊達成実の姿を描いた。
 プロジェクトのメンバーら9人が伊達市からフェリーと陸路で荒浜漁港に運び込んだ。部品や飾りなどを組み立てて本番に臨む。
 副実行委員長の西條晴彦さん(46)は「届けることができてホッとした。本番では元気よく祭りを盛り上げたい」と話した。
 震災前の夏まつりでは山車20基ほどが巡行したが、津波でほとんどが流失した。今回は修繕した山車を含めて4基で巡行する。
 地元のまちづくり団体「あらはま塾」の菊地芳晴塾長(57)は「頼もしい姿の山車を作ってもらえてありがたい。パレードが盛り上がりそう」と喜んだ。


<寛平マラソン>走って被災地の住民激励
 東日本大震災の被災地を励まそうと、タレントの間寛平さん(66)らが駅伝形式でたすきをつなぐ「みちのくマラソン」が13日、宮城県気仙沼市に入り、仮設住宅の住民らとスイカ割りなどで触れ合った。
 11日に岩手県宮古市をスタートし3日目。この日は同県大船渡市を出発し、間さんは最終走者として気仙沼公園住宅に到着した。雨の中、住民は手を振って歓迎した。
 集会所では宮川大助・花子さんらとトークを披露。若手芸人のライブの後、住民と一緒に記念撮影した。
 同住宅の主婦(78)は「楽しい時間を過ごせた。引越し先が決まらないなど苦労はあるが、元気が出てきた」と笑顔。間さんは「被災地も少しずつ変化している。会う人たちがみんな明るく、日本人の強さを感じる」と話した。
 みちのくマラソンは、よしもとクリエイティブ・エージェンシーの主催で4回目。岩手、宮城、福島の被災3県計533キロの走破を目指す。21日に福島県いわき市でゴールの予定。


93人犠牲地区 灯ろうで供養
東日本大震災の被災地では5回目のお盆を迎えています。
震災の津波で93人が犠牲になった気仙沼市杉ノ下地区では13日夜、遺族たちが灯ろうを並べ亡くなった家族を供養しました。
気仙沼市の杉ノ下地区では地震のあと多くの住民が集まっていた市の「指定避難場所」の高台が津波に襲われ地区の住民の3分の1近い93人が犠牲になりました。
昨夜は雨が降る中、地区の高台に建てられた慰霊碑の前におよそ30人の遺族が集まり、犠牲になった93人全員の名前が書かれた竹筒の灯ろうを並べました。
そして寺の住職がお経をとなえたあと遺族たちは花や線香を供えて静かに手を合わせ犠牲になった家族を供養していました。
親族7人が犠牲になった50代の女性は「並べた灯ろうが家族が戻ってくる目印になってくれればいいと思いながら手をあわせました」と話していました。
遺族会の代表で自身も母を亡くし、妻の行方がわかっていない佐藤信行さんは「震災から5回目のお盆になりますが、遺族の思いは何年たっても変わらないものだと思います。妻の行方はまだわかっていませんが魂だけでも戻ってきて欲しいです」と話していました。


<ティーダの下で>思いっきり海楽しんで
◎被災地の子どもと沖縄(中)招待
<70年前 父が自決>
 東日本大震災の被災地から来た小中学生を沖縄県伊江村伊江島の住民は温かく迎え入れた。戦争を体験した「おじい」「おばあ」にとっては「震災は人ごとではない」との思いが強いからだ。
 伊江村の農業宮里初枝さん(84)は震災後、テレビ報道で雪に凍える被災地の子どもたちを見た。家族を亡くした悲しみを必死にこらえ、避難所や仮設住宅を転々としていた。その映像から、70年前の自分たちの姿を思い起こした。
 1945年4月、伊江島に米軍が上陸。島の防衛隊員だった父銀蔵さん=当時(37)=は、米軍が爆破した防空壕(ごう)から奇跡的に抜け出したものの、その後ため池で集団自決した。
 宮里さんは戦火が激しくなる前、本島に疎開。海辺の洞穴や山の防空壕で空襲をしのいだ。終戦後は捕虜収容所などで生活し、島に帰れたのは2年後だった。
 米軍が占領しショベルカーでならされていた畑は土が固まっていた。
 「弟や妹のためにも落ち込んではいられなかった」。自分を奮い立たせ、一日中つるはしを荒土に突き立て、やっとのことで2畳分を耕した。
<郷土料理を提供>
 「なんくるないさ(心配ないよ)」
 宮里さんはそんな沖縄言葉を被災地の子どもたちに贈る。「自分の運命を恨まず、焦らず、前を向いていれば、きっと道は開ける」と激励する。
 宮里さんら島民の思いをくんで設立された市民団体「ティーダキッズプロジェクト」は2011年から4回、宮城や福島で被災した子ども計150人を招待してきた。
 プロジェクトが始まった当時、伊江島観光協会の専務理事だった小浜豊光さん(66)は「1日でもいいから、温暖な島でゆっくりしてほしかった」と招待した思いを語る。
 浜が被災した上、東京電力福島第1原発事故の影響で、古里の海で泳げない子どもたちもいた。子どもたちはエメラルドグリーンの海を思いっきり楽しみ、民泊先で郷土料理を作った。
 小浜さんが4年前に民泊を受け入れた仙台市の小学生は、その後、長期休みを使って家族や友人を島に連れてきた。高校生となったいまも3日と置かず、電話がかかってくる。
 「一度受け入れたら、本当の孫になる。お父さんやお母さんに言えない悩みも話してくれる」と小浜さん。「今度はこちらから東北に会いに行く番だ」とうれしそうに笑う。


<防災庁舎県有化>未来の命守るため決断
◎南三陸町長 佐藤仁さんに聞く
 東日本大震災で被災し、43人が犠牲となった宮城県南三陸町の防災対策庁舎の県有化に向け、県と町は9月初め、協定を締結する。庁舎をめぐる意見は、保存と解体で交錯した。県有化受け入れを選択した佐藤仁町長にあらためて聞いた。(聞き手は報道部・中島剛、南三陸支局・古賀佑美)
<凄惨な経験 後世に>
 −解体を選択しなかった理由は。
 「1960年のチリ地震津波以来、津波防災に力を入れてきた。今回の震災では町内だけで800人を超す人が亡くなった。訓練と言葉だけでは津波被害を防げない現実に直面した」
 「町民の遺体が町総合体育館に次々と運ばれる修羅場は二度とあってはならない。そのために講じるあらゆる手段の一つが住宅の高台移転であり、震災遺構による教訓の伝承でもある」
 −防災庁舎は、自らが被災し多くの部下や町民を失った忌まわしい記憶の象徴、消したい過去なのでは。
 「庁舎を見るのはつらい。屋上で波をかぶった後、多くの仲間が消えた。雪が降る中、低体温死の恐怖と闘い、翌朝まで過ごした。思い出したくない。震災前の私なら嫌な記憶が残る場所はすぐ解体しただろう。しかし震災以降、命とずっと向き合ってきた。佐藤仁個人の感情を超越し、凄惨(せいさん)な経験は後世にきちんと伝えなければいけない」
<犠牲者と思い共有>
 −2031年までの県有化終了後、庁舎をどうするべきか。
 「異なる意見を受け止め合い、町全体でゆっくり話し合って結論を出せばいい。個人としては、未来の命を守るため保存の方向でまとまればとは願う」
 「残すのであれば、震災を知らない世代に教訓が受け継がれるよう、半永久的な保存が望ましい。町民の機運次第だが、津波防災を訴える遺構として将来、原爆ドームのように国史跡、世界遺産となる価値は十分あると思う」
 −自身が庁舎で被災したことは県有化受け入れの判断に影響したか。
 「犠牲になった43人は最期の瞬間どんな思いだったか。庁舎が無くなったらどう思うか。ずっと考えてきた。当時あの場で犠牲者と一緒に波を受けた者として考え抜いた結論が県有化受け入れだった」
 「財政面、復興事業への影響を考えて一度は解体を決めた。一方で、未来の命を守るため、庁舎が必要ではないかという思いをずっと持っていた。犠牲者が出た施設について、震災遺構の是非を検討するのは非常に難しい。犠牲者と思いを共有し修羅場を体験した当事者だから、県有化による議論の継続という方向性を打ち出すことができたのかもしれない」


津波で壊滅…復活のアカガイ漁 写真で見る
 東日本大震災で被災した宮城県名取市閖上地区で復活した特産のアカガイ漁をテーマにした写真展が、仙台市青葉区の広瀬市民センターで開かれている。市民団体「広瀬川の水質と景観を守る会」の主催で、18日まで。
 アカガイ漁の写真は同会の別府明裕代表が3月、漁船に同乗して撮影した。津波で自宅や船を失った漁師が漁を再開し、真剣な表情で海と向き合う光景などが収められている。別府代表は「困難を乗り越えて、再び海に立ち向かう立派な姿を見てほしい」と話す。
 約150枚を展示。閖上地区のハマナスや広瀬川上流といった美しい自然の写真も含まれている。
 午前9時〜午後9時。月曜休館。入場無料。連絡先は別府代表090(9745)9681。


<荒浜ロックフェス>歌声熱く被災地応援
 東日本大震災で大きな被害が出た宮城県亘理町荒浜地区を音楽で盛り上げようと初めて企画された「荒浜ロックフェス2015」が9日、同地区の復興商店街周辺で開かれた。
 2カ所のステージに仙台市出身のシンガー・ソングライター伊東洋平さん、男性アコースティックデュオ「ひまり」らアーティスト23組が出演。丸森町在住のポップスユニット「Tae−chu」のTaeさん(26)は「荒浜を盛り上げたくて出演した。聴いている方が少しでも笑顔で幸せになってほしい」と願った。
 会場では、地元の鮮魚店から仕入れたタコやイカなどの海鮮バーベキューやイチゴ加工品など地場産品の販売などもあり、にぎわいを見せた。
 フェスは町内の活性化を目指す若者グループ「スタンドアップ亘理」が企画し、ボランティアら120人が運営に当たった。加藤正純代表(33)は「被災地に人を集めることができて感激した。荒浜の名物イベントになるよう、今後も続けたい」と話した。


<戦後70年>艦砲射撃 震災復興に影
 東日本大震災の津波で被災した岩手県釜石市の東部地区でかさ上げ工事が本格化するのを前に、太平洋戦争末期にあった艦砲射撃の不発弾調査が8月下旬に始まる。2度の砲撃で撃ち込まれた砲弾は5000発以上あり、工事の安全を確保する。70年前の戦災の爪痕が、震災復興に影を落としている。
◎かさ上げ工事前に不発弾調査
 1945年の7月14日と8月9日、製鉄所を狙った艦砲射撃は市街地の広範囲に被害を与え、東部地区にも着弾した。震災の復興工事では、国道45号から東側地域で実施する最大6.6メートルのかさ上げの際、くい打ちなどで不発弾が爆発する恐れがある。
 不発弾を探す作業は、磁気センサーを最深14メートルの地中に差し込んで行う。センサーの探査範囲は直径3メートルに限られる。少しずつ場所を変えながら約1400地点を調べる。探査深度は、艦船からの発射角度や最高時速約400キロの着弾速度、臨海部特有の軟らかい地質を考慮して割り出す。
 戦後、市内ではたびたび不発弾が姿を現した。2005年6月に採石場で長さ160センチ、直径40センチの砲弾が発見され、陸上自衛隊が爆破処理した。12年6月には甲子川の河川敷で長さ28センチ、直径7センチの爆発の恐れがない砲弾が見つかった。
 市の復興まちづくりに伴う不発弾調査は本年度までの2カ年事業。近くの嬉石松原地区は既に調べ終え、不発弾は見つからなかった。関連事業費は計約14億円に上る。
 市都市整備推進室は「被災地でこれだけ不発弾の脅威が潜むのは釜石しかない。調査は復興に欠かせず、安全が確認できた場所からかさ上げ工事に入る」と説明する。


<岩隈ノーヒッター>被災地思い勇気運ぶ
 【シアトル共同】米大リーグで12日、無安打無得点試合を達成した岩隈久志投手(34)=マリナーズ=は、故障に苦しんだ時期もあった。プロ野球東北楽天のエースとして奮闘した時期もあった。山あり谷ありの野球人生を歩んできた同投手が大事にするのが、人との「絆」だ。東日本大震災からの復興のキーワードとして用いられる以前から、この言葉を胸に刻んできた。
 20代前半の近鉄時代に2年連続15勝を挙げて頭角を現したが、球界再編問題を経て誕生した東北楽天に移籍してからは苦しんだ。2007年には右肘を手術。再起を懸けた08年、「チームメートとの絆、ファンとの絆をつくるところから頑張りたい」と心に刻み、21勝を挙げて鮮やかに復活した。
 社会貢献にも積極的だ。東北楽天時代は1勝ごとに10万円を発展途上国の子どもたちのために寄付する活動を続けた。ことし4月には自らが発起人になり、貧困に苦しむ日本の子どもにコメを贈るプロジェクトを立ち上げた。震災から4年を迎えた3月11日には「どの場所にいても家族みんなで東北を思い、復興の役に立っていきたい」とブログにつづった。
 試合後には東北楽天OBとして「一歩一歩前進している東北の皆さんに勇気を与えることができたかなと思う」と震災の被災地に思いをはせた。
 もちろん、何よりもファンとの絆を育むのはマウンドでの活躍だ。ノーヒットノーランは日本選手としては野茂英雄投手以来、14年ぶりの偉業。「岩隈が投げれば大丈夫と思ってもらえれば」という願いを、この上ない形で体現する快投だった。


<甲子園>仙台育英快勝 花巻東と東北対決へ
 甲子園で開かれている第97回全国高校野球選手権大会第9日の14日、宮城代表の仙台育英は2回戦の第1試合で滝川二(兵庫)を投打に圧倒し、7―1で快勝した。宮城勢の3回戦進出は第94回大会の同校以来、3大会ぶり。
 仙台育英は二回に佐藤世那の適時打で1点を先取すると、四回に佐々木良介、紀伊海秀の連続長短打などで2―0。五回には郡司裕也の左越えソロ本塁打など5長短打を集める打者一巡の猛攻で4点を加え、試合を決定付けた。
 投げても先発の主戦佐藤世が140キロ台の直球やフォークボールなど多彩な変化球で打たせて取り、滝川二打線を6安打1得点に抑えて完投した。
 仙台育英は1回戦で大会新記録の10二塁打を含む20安打を放って明豊(大分)に12―1で圧勝。打線はこの日も12安打と、相手に力の差を見せつけた。
 仙台育英は大会第11日の16日、3回戦の第3試合で花巻東(岩手)と、宮城勢として第87回大会の東北以来、10大会ぶりの8強入りを懸けて対戦する。


戦後70年:益川敏英さん「憲法9条を守ろう、どんな小さな声でも集まれば大きな声になる」
 ◇国家は巧みに国民すべてを取り込み、精神動員をする
 戦争に対し、一人一人の市民はどのように向き合うべきなのか。国家権力の巨大な意志に対し、どのように相対していけばいいのか。ノーベル物理学賞を受賞し、記念講演では反戦演説を行った理論物理学者、益川敏英さん(75)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】
 「不謹慎だ。アカデミックな場にふさわしくない」。箱根峠の向こうから、ある学者が批判しているとのうわさが聞こえてきたんです。ストックホルムでのノーベル賞の授賞式(2008年12月)に出発する前です。世界中の人々が集まる記念講演で、太平洋戦争での実体験を話すつもりでした。それを「晴れの舞台で、話すようなことではない」と苦言を呈しているらしい。何を言ってやがるのだと憤激しました。
 アルフレッド・ノーベルは自身が発明したダイナマイトが戦争に利用され、「死の商人」とののしられました。だからこそ、巨万の富を人類の発展に役立てたいと願ったのです。まさに記念講演の場こそ、反戦を訴えるにふさわしいではないですか。総理大臣に批判されたとしても、一言一句内容を書き換えるつもりはありませんでした。
 1945年3月12日夜の名古屋空襲です。わずかに5歳。それでも、戦争の唯一の記憶として残っています。屋根瓦を突き破って、焼夷(しょうい)弾がコロコロと目の前に転がり落ちてきたのです。しかし、幸運にも不発弾だった。両親の驚愕(きょうがく)と安堵(あんど)はいかほどのものだったか。リヤカーに家財道具と共に載せられ、名古屋の街を逃げ惑いました。火災でオレンジ色に染まった空の色はあせることなく、心に刻み込まれています。
 おやじは電気技師になりたかったそうですが、学がなかった。尋常小学校出で、sin(サイン)、cos(コサイン)が分からなかった。それでも、大阪の家具工場にでっち奉公し、名古屋に小さな家具工場を設立するまで頑張りました。ところが、太平洋戦争の開戦と共に軍に工作機械を供出させられてしまった。軍需生産に必要だからです。代わりに航空機工場に徴用され、ベニヤ板をにかわでつないだ燃料タンクを造らされた。生産効率は1週間に1個ほど。アメリカならばジュラルミンを機械的に加工し、あっという間に組み上げてしまうでしょう。「これは負けるな」。そのように感じたと言います。
 「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」と、ルイ・パスツール(フランスの生化学・細菌学者)は言いました。日本には理論物理学の大先輩である武谷三男先生のように反ファシズムを標榜(ひょうぼう)し、特高(特別高等警察)に検挙された信念の人もいました。朝永(ともなが)振一郎先生(1965年にノーベル物理学賞)の電波兵器に関する戦時中の論文を読むと、どうも核心部分で巧妙に手抜きをしている。無言の抵抗をしている。科学者の知恵と言えるでしょう。
 しかし、そうした行動を戦時に見習うことは非常に難しい。国家は巧みに国民すべてを取り込み、精神動員します。個人は弱いものです。せいぜい、心の中でのサボタージュぐらいが関の山となる。「非国民」「刑務所にぶち込むぞ」と脅かされて、恐れを抱かずにすむ人はいないでしょう。そして、戦争に協力させられる。戦場の兵士だけが戦争をするのではありません。手塩にかけた工場を取り上げられたおやじは被害者ではありますが、兵器生産に従事することで加害者にもさせられたのです。戦争が始まってしまえば、誰もが戦争と無関係ではいられなくなるのです。
 「勉強だけでなく、社会的な問題も考えられるようにならないと、一人前の科学者ではない」。名古屋大学での師匠である坂田昌一先生の持論です。先生は「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」をした日本学術会議(1949年創立)にも参加しました。「物理の問題が解けるなら、世界平和に向けた難題も解ける」「科学者には現象の背後に潜む本質を見抜く英知がなければならない」「科学者である前に人間たれ」。いずれも先生の言葉です。
 学生時代から、反戦・平和運動に取り組んできました。60年安保闘争では署名集めをし、米原子力潜水艦の国内初入港(長崎県佐世保市、1964年11月)では抗議行動に加わりました。京大に移った70年代には関西電力の原子力発電所計画(旧京都府久美浜町)に反対した。今年11月には被爆70年となる長崎市で、「パグウォッシュ会議」(核兵器と戦争の廃絶を目指す国際組織、1995年にノーベル平和賞受賞)の第61回世界大会を開催します。もっとも、専門の科学者らが集う会議は「貴族的な雰囲気」が性に合っているとは言えなくて。久美浜では町民に原子力の仕組みを話したりしたのですが、そうした地に着いた活動が好きなんです。
 自分の子供や孫の将来を考え、これでいいのだろうかと。単純ですが、その疑問が大切だと思います。次世代にどのような日本を残すのか。あの戦争は終わったが、おやじの工作機械は返ってきませんでした。それでも、食っていかなくてはならない。おやじは結局、畑違いの砂糖の販売業に就き、家族の生活を支えてくれました。恨み節は聞きませんでした。
 戦争のできる国になってからでは、戦争が始まってしまってからでは遅いのです。そのためには憲法9条を守らなければならない。どのように解釈しようと、戦争を禁止している。平和憲法の根幹です。憲法9条にノーベル平和賞が贈られる日をぜひ見てみたいものです。その記念講演で、日本の首相がどのような演説をするのか。ぜひ聞いてみたいものです。
 職業人としての面、生活人としての面。そうした二つの顔を人間は持たなければならないと思います。何らかの形で、社会との接点を常に持たなければならない。二足のわらじを履けなきゃ、男じゃねえ−−。それが自分の心意気です。社会運動は1かゼロかではありません。どんな小さな声でも、集まれば大きな声になるのです。一緒にデモに加わりませんか。勉強会に来ませんか。議論をしませんか。待っていますよ。
 ◇ますかわ・としひで
 1940年、愛知県生まれ。名古屋大理学部卒。現在は名古屋大素粒子宇宙起源研究機構長、京大名誉教授、京都産業大学益川塾塾頭などを務める。「九条科学者の会」呼びかけ人。近著に「科学者は戦争で何をしたか」(集英社新書)。


戦後70年の安倍首相談話について(談話)
社会民主党幹事長 又市征治
1.安倍首相は、本日の臨時閣議で、戦後70年の首相談話を決定し、発表した。戦後50年の村山首相談話では、日本の「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たことを認め、「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」を表明し、戦後60年の小泉首相談話も同様の表現を踏襲していた。「歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継ぐ」として「部分的には引き継がない」ことを示唆してきた安倍首相は、先の大戦への「反省」の意は公然と明らかにしたが、「侵略」と「お詫び」という表現については、内心拒否感を示してきたことから、「痛切な反省」、「植民地支配」、「侵略」、「お詫び」の4つのキーワードにどう言及するかが焦点となっていた。今回の談話でこれらの文言が一応明記されたことは、日本による違法な侵略戦争によってアジア諸国の人々に多大な犠牲と苦痛を与えたことが歴史的事実であり、加害国として謙虚に向き合い謝罪するべきであることから、当然のことである。しかし、これらのキーワードは、先の大戦をめぐる歴史的経緯の一方的な説明や、歴代政権の取り組みに触れるくだりで触れられたにすぎない。いずれも第三者的な触れ方であり、日本による「植民地支配」や「侵略」自体に直接言及し謝罪したわけではないことは、日本の加害責任を曖昧にすることになる。また、「お詫び」も首相が直接「お詫び」を表明したわけではなく、いやいやの「お詫び」ではむなしく響く。「先の大戦への深い悔悟」も、大戦の何に対しての悔悟なのか不明確である。言っていることと現実の安倍政権がやっていることが違うのであれば、過去の談話より後退しているといわざるをえない。
2.もともとナショナリストとして知られ、歴史修正主義的視点を持っている安倍首相は、第2次政権発足直後に、「安倍内閣として村山談話をそのまま継承している訳ではない」と発言するとともに、「21世紀にふさわしい未来志向の談話を発出したい」と表明していた。侵略の定義についても、「学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」、「歴史認識については歴史家が決めるものだ」などと発言していた。70年談話を出す最大の狙いは、謝罪や「お詫び」の繰り返しを終わりにする談話にすべきだとの考えがあり、歴代の首相談話を更新・上書きすることによって換骨奪胎することにあった。しかし、アジア諸国からの強い警戒心に加え、アメリカやドイツなどからも自省を求められ、一時は談話を閣議決定せずに安倍首相「個人」の見解にして、自分の歴史認識を反映しようとする姑息な手段も考えられていた。結局、21世紀構想懇談会報告書でさえ「侵略」に言及したことに加え、市民の側からの70年談話をつくる動きや世論の高まりなどに抗しきれず、自縄自縛に陥り、キーワードを盛り込むという妥協を余儀なくされることになった。しかも先の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とこれで区切りをつけようとしているが、キーワードをちりばめただけでは、本当の意味での謝罪になっていない。
3.安倍首相は、「歴史認識では(過去の談話の)基本的な考えを引き継ぐと言っている以上、もう一度書く必要はない」としていたが、村山談話と小泉談話を同一の表現で継承するだけなら、わざわざ安倍談話を出す必要自体がなかった。また、かりに責任逃れや自己弁護に終始したり、戦前復古的な内容になったり、「侵略」や「植民地支配」に対する「反省」・「お詫び」への言及がなかったりするような、独りよがりで「勇ましい」内容のものであったならば、外交問題に発展し日本の国際的な孤立を招くことから、そういう談話もいらなかったといえる。沖縄基地問題や原爆被爆者問題、空襲被害など民間の戦争被害、戦没者の遺骨収集など、70年たっても解決しない問題がいくつもあり、未解決の課題の解決に向けた談話なら意味があったが、安倍首相にはこれらへの問題意識は乏しい。
4.談話は、21世紀構想懇談会報告書と同様、1931年に始まる満州事変以来の戦争が大きな誤りであるとする認識に立っている感がする。しかし、柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業として軍事行動を開始した満州事変は、1928年の張作霖爆殺事件以来の関東軍の陰謀によって引き起こされたものであり、満州事変以前の中国侵略や、1930年代以前に朝鮮半島や台湾を植民地支配したことへの日本自身の反省と謝罪が談話に見られないのは問題である。中国支配を巡ってロシアと戦った日露戦争を、植民地解放戦争であったかのように評価しようとしていることにも疑問が残る。
5.談話は、敵として熾烈に戦ったアメリカなどの支援のおかげで未来をつないできたのだから、これからはアメリカなどに貢献するといわんばかりに、「自由で、公正で、開かれた経済システム」の発展や、「積極的平和主義」に基づく「世界の平和と繁栄」への決意を示し、規制緩和やTPPなどの「世界で一番企業が活動しやすい国」づくりや、立憲主義に反する戦争法案などの「戦争ができる国」づくりを推し進めていることを強調している。「いかなる戦争も、法の支配を尊重し、武力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである」といいながら、自衛隊をいつでもどこでも派遣できるようにする「武力に基づく平和」を目指す政策を次々と推し進めているのは、大きな矛盾である。大事なのは、戦後70年の平和国家としての歩みをこれからも続けることであり、憲法9条が指し示す「武力によらない平和」を目指すことである。また、靖国神社参拝やA級戦犯合祀など、日本側が近隣諸国との友好的な未来を閉ざしてきたことも反省する必要がある。
6.村山談話は、「内外すべての犠牲者」に深い哀悼の念を捧げるとし、多くの国々、特にアジア諸国の人々に対してだけでなく、「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ」たことへの反省は、憲法前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」したことに通じるメッセージでもあった。戦後70年のこの年を、「新たな戦前」としないよう、過去と正面から向き合い、その事実を若い世代にも語り伝え、武力によらない平和な未来を切り拓いていかなければならない。平和の理念と民主主義を押し広めるとともに、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を率先して積極的に推進していくことこそが過去への償いであり、そして未来に誤ち無からしめんとするとしたこれまでの決意を改めて確認すべきである。


戦後70年にあたって――「安倍談話」と日本共産党の立場
日本共産党幹部会委員長 志位和夫
(1)
 戦後70年の終戦記念日にあたって、日本共産党は、日本軍国主義の引き起こした侵略戦争と植民地支配の犠牲となった内外の人びとに、深い哀悼の意を表明します。
 いま、日本の政治は、戦争か平和かの歴史的岐路に立っています。戦争の惨禍と反省を踏まえて日本国民が得た世界に誇る宝――憲法9条を守り抜き、この条項を生かした平和日本を築くために、思想・信条の違い、政治的立場の違いを超えて、平和を願うすべての国民が力をあわせることを、心から呼びかけるものです。
(2)
 本日、発表された「安倍談話」は、「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫(わ)び」などの文言がちりばめられていますが、日本が「国策を誤り」、「植民地支配と侵略」を行ったという「村山談話」に示された歴史認識はまったく語られず、「反省」と「お詫び」も過去の歴代政権が表明したという事実に言及しただけで、首相自らの言葉としては語らないという欺瞞(ぎまん)に満ちたものとなりました。
 暴力と強圧をもって韓国の植民地化をすすめた日露戦争を、「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」とのべていることは、乱暴きわまりない歴史の歪曲(わいきょく)にほかなりません。
 全体として「安倍談話」は、戦後50年にあたって「村山談話」が表明した立場を、事実上、投げ捨てるにひとしいものであり、国内外のきびしい批判を招くことは避けられません。
 戦後70年の首相談話が、このような有害な内容となった根底には、安倍政権が、侵略戦争を肯定・美化し、歴史を偽造する極右勢力によって構成され、支えられているという問題があります。
 戦後の世界秩序は、日独伊3国による戦争は侵略戦争だったという判定の上に成り立っており、それを否定するものは国際政治に参加する資格がないことを、きびしく指摘しなくてはなりません。
(3)
 日本共産党は、戦後70年という節目の年が、日本とアジア諸国との「和解と友好」に向かう年となることを強く願い、そのために、日本の政治がとるべき次の五つの基本姿勢を提唱しています。
 第一は、「村山談話」「河野談話」の核心的内容を継承し、談話の精神にふさわしい行動をとり、談話を否定する動きに対してきっぱりと反論することです。
 第二は、日本軍「慰安婦」問題について、被害者への謝罪と賠償など、人間としての尊厳が回復される解決に踏み出すことです。
 第三に、国政の場にある政治家が靖国神社を参拝することは、侵略戦争肯定の意思表示を意味するものであり、少なくとも首相や閣僚による靖国参拝はおこなわないことを日本の政治のルールとして確立することです。
 第四は、民族差別をあおるヘイトスピーチを根絶するために、立法措置を含めて、政治が断固たる立場にたつことです。
 第五は、「村山談話」「河野談話」で政府が表明してきた過去の誤りへの反省の立場を、学校の教科書に誠実かつ真剣に反映させる努力をつくすことです。
 北東アジアの平和と安定を築く基礎となるのは信頼です。そして信頼は、歴史の真実に正面から向き合い、誠実かつ真摯(しんし)に誤りを認め、未来への教訓とする態度をとってこそ、得ることができる――これが私たちの確信です。
 日本共産党は、侵略戦争と植民地支配に命がけで反対を貫いた党として、歴史を偽造する逆流を大本から断ち切り、日本とアジア諸国との「和解と友好」を実現するために全力をつくします。
(4)
 日本は、戦後70年間、他国と直接の戦火を交えることはなく、自衛隊は、半世紀余にわたって、一人の外国人も殺さず、一人の戦死者も出していません。
 こうした平和の歩みを支えてきたのは、何よりも、憲法9条が存在し、平和を希求する国民の世論と運動が脈々と続いてきたことによるものです。この力が、歴代内閣をも縛り、「自衛隊は軍隊ではない」「海外での武力行使は許されない」「集団的自衛権行使は許されない」という憲法解釈をとらせてきたのです。
 いま、安倍政権は、戦後70年の平和の歩みを断ち切り、歴代内閣の憲法解釈を根底から覆して、戦争法案を強行し、日本をアメリカとともに「海外で戦争をする国」につくりかえようとしています。しかし、この憲法破壊の暴走に対して、これまでにない広大な人々が抗議の声をあげ、立ち上がっています。いま発揮されている国民のたたかいのエネルギーは、その広がりにおいても、その深さにおいても、空前のものとなっています。それは、戦後70年を経てつくりだされた日本国民の平和と民主主義を希求するエネルギーがいかに巨大なものであるかを示しています。
 「殺し、殺される」日本への逆行を絶対に許してはなりません。
 日本共産党は、「戦争法案を許さない」という一点で、国会内外の共同を広げに広げ、圧倒的な国民世論で安倍政権を包囲し、戦争法案を必ず廃案に追い込むために、全力をあげて奮闘するものです。
 わが党は、北東アジアに平和と安定を築くために、「北東アジア平和協力構想」を提唱し、その実現のために関係各国との対話を続けてきました。この「構想」こそ、安倍政権の戦争法案に対する真の平和的対案であると確信しています。その実現のために、引き続き知恵と力をつくす決意です。

梅田でレ・ミゼラブル/迎え火が火遊び?

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1965_仙台七夕ポスター

Un Sud-Coréen s’immole par le feu
Un Sud-Coréen de 81 ans s’est immolé par le feu mercredi, devant l’ambassade japonaise à Séoul. Il réclame les excuses de Tokyo pour l’esclavagisme sexuel imposé durant la Seconde guerre mondiale.
Une action du désespoir. Mercredi, en marge d’une manifestation anticipant les célébrations du 70ème anniversaire de la fin du règne colonial japonais, un octogénaire s’est immolé par le feu non loin de l’ambassade japonaise à Séoul. Une femme s’est rapidement portée à ses côtés, elle a été rejointe par un homme. A deux, ils ont réussi à éteindre les flammes, peu avant que les pompiers ne couvrent l’octogénaire d’une couverture bleue pour le transporter à l’hôpital. Ses jours ne sont pas en danger, mais il a subi des brûlures au troisième degré sur la quasi totalité du corps, a affirmé l’agence de presse sud-coréenne Yonhap.
Un débat houleux entre les deux pays
La question des ≪femmes de réconfort≫, environ 200.000 Sud-Coréennes, Chinoises et Indonésiennes forcées de se prostituer pour assouvir les envies des soldats de l’armée impériale japonaise durant la Seconde guerre mondiale, empoisonne les relations entre les deux pays. La Corée du Sud exige de nouvelles excuses de la part du Japon, qui estime de son côté que la question a été réglée en 1965, lors de la normalisation des relations entre les deux pays: 800 millions de dollars de compensations avaient été versés par le Japon à son ancienne colonie.
≪Quand je pense à ces personnes, qui ont été victimes d’un trafic humain et ont souffert au-delà de ce que l’on peut imaginer, mon cœur se brise. Et sur ce point, ma pensée ne diffère pas des précédents Premiers ministres≫, avait déclaré en mars dernier le Premier ministre japonais Shinzo Abe au ≪Washington Post≫. ≪Dans ce contexte, les droits humains des femmes ont été bafoués. Mon espoir est que le XXIème siècle sera le premier ou il n’y aura pas de violation des droits humains, et pour cela, le Japon fera de son mieux≫, avait-il poursuivi.
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お休みなので朝から本を読んで過ごします.意外に?充実している感じ.
お昼ご飯を食べてから買い物です.麻ガラやほおずき,それに精霊馬のためのなすびにきゅうり,その他いろいろ.
夜は梅田芸術劇場でミュージカルのレ・ミゼラブル.チケットを買ったのは5月なので3か月前.忘れてしまわなくてよかった.もちろんストーリーは知っていますが,音楽とともに話が進んでいくのはなかなかいいです.途中休憩がありましたが,約3時間.とても短く感じました.もっと長くてもというか,内容を詳しくと思ったけど,やはり3時間が精いっぱいでしょうか.高い買い物だったけど,よかった.
部屋に帰ってベランダで迎え火です.暑い夜に熱い火で大変でした.でも傍から見たらただの火遊びのように見えたかもしれないなぁ・・・なんて思いました.

墓地の復旧道半ば 仮の場所で5度目のお盆
 東日本大震災から5度目のお盆を迎えた被災地では、供養の場となる寺の本堂や墓地の復旧が今も道半ばだ。ことしも自宅や本堂以外の仮の場所で盆行事が営まれ、墓参りができずに仮設の納骨堂で手を合わせる光景が見られる。復旧が進まない寺の住職は「あと5年はかかる」と嘆く。(「祈りと震災」取材班=報道部・鈴木拓也)
<「来年はどこで」>
 南相馬市小高区の金性寺は11日、本堂から北に約10キロ離れた原町区の葬祭会館で盆行事をした。
 「来年のお盆はどこでやることになるでしょうか」。原啓寿住職(57)は集まった檀家(だんか)約300人に語り掛けた。
 寺は東京電力福島第1原発事故の避難指示解除準備区域にある。境内の除染は18日にようやく始まる予定で、本堂や庫裏の修繕はこれからだ。
 小高区の避難指示は来春にも解除される見通しだが、原住職は「解除されても戻るのは高齢者ばかり。これからの小高がどうなるか心配だ」と表情を曇らす。
 名取市閖上の東禅寺はことし、墓地と本堂を取り壊した。被災した土地では昨年10月、区画整理事業が始まった。かさ上げ後の現地再建を目指している。
 掘り起こした遺骨は知り合いの寺の敷地に設けた仮納骨堂に納めた。震災で犠牲になった約200人の骨箱は、仙台市の寺の別院を借りて安置する。
 お盆の時期はこの2カ所に加え、閖上の墓の跡地を訪れる檀家もいる。三宅俊乗住職(56)は「墓地の整備が完了するのは早くて再来年の春。お墓を建てれば檀家も安心すると思う」と話す。
<気力追い付かず>
 津波で本堂と庫裏が全壊した陸前高田市の龍泉寺は、山の斜面に並ぶ墓地の前でかさ上げの着工が控える。墓地の低い場所は土盛りの対象となり、墓を移設しなければいけない。
 ところが、市から示されていた対象範囲が4月、急に変更になり、移設が必要な墓が増えた。
 江刺秀一住職(61)が変更を聞いたのは、ストレスの影響による2週間の入院を終えた直後だった。「もう踏んだり蹴ったり。話が二転三転して復興の時期が見えてこない」と嘆く。
 震災前は初盆の檀家の自宅を回って丁寧にお勤めできたが、今は気力も体力も追い付かない。プレハブの仮本堂でまとめて法要をする予定で、もう数年はこの状態が続くという。


気仙沼の仮設計画 転居時期2団地1年延期
 気仙沼市は11日、仮設住宅の集約化計画の一部を見直すと発表した。集約対象の19団地のうち、市総合体育館住宅と天ケ沢住宅の2団地の転居時期を1年延期し、いずれも2017年9月末とする。
 延期措置で市総合体育館住宅の転居対象戸数はなくなり、天ケ沢住宅は1戸となる見込み。市全体で転居を迫られる戸数は162戸から72戸に減少する。対象世帯などからの要望を受け、市が計画を修正した。


仏に被災地の現状伝えたい 南三陸で就業体験
 フランスの大学院に通う亀山まりさん(21)が、1カ月半にわたる南三陸町役場でのインターンシップ(就業体験)を終えた。町が長期研修を受け入れたのは初めて。パリで生まれ育った亀山さんは「被災地の現状をフランスでも伝えたい」と成果を胸に帰国した。
 両親が日本人で、日本とフランスの国籍を持つ亀山さんは、ナント市のオデンシア経営大学院の1年生。長期研修先を選ぶ際、「日本人として被災地の役に立ちたい」と母の知人を通じて南三陸町に申し込んだ。
 研修は6月15日に始まり、七つの課を1週間ずつ回った。住宅再建が進む工事現場や高齢者の栄養教室、被災した小中学校などを見学した。
 「町じゅうが工事現場という状態に驚いた」と亀山さん。「フランスでは原発事故の関心は高いが、津波被災地は人ごと」と感じていたため、研修期間中に町の様子を英語や仏語でつづる「7WEEKS IN TOHOKU」と題するブログを立ち上げ、被災地の様子を伝えた。
 研修を通じて、男女協働でのフランスと日本の意識の違いにも気付かされた。災害公営住宅の資料にある世帯収入モデルは全て夫の収入が妻を上回っていた。「フランスだったら抗議されるケース」と亀山さん。「共働きが当たり前の社会が実現できるといい」と地域の将来の形を思い描く。
 受け入れ窓口となった三浦清隆総務課長は「最初は不安だったが、持ち前の明るさで役場を和ませてくれた。町を世界に発信してほしい」と期待する。
 7月末で研修を終え、帰国の途に就いた亀山さんには「復興の完成形を見届けたい」との思いがある。いつか、第二の古里となった南三陸に「里帰り」を果たすつもりだ。


<安保法案>廃案各地でアピール 仙台弁護士会
 仙台弁護士会は21日、石巻市で安全保障関連法案の廃案を求める街頭活動を行う。法案をめぐる街頭活動は仙台市を軸としてきたが、宮城県内各地で広く県民にアピールする。
 仙台弁護士会憲法委員会の委員らが21日午後4〜5時、石巻市大橋1丁目のみやぎ生協石巻大橋店付近で、演説や署名集めを実施する。31日には気仙沼市、9月には大崎市や大河原町で街頭に立つ予定。
 憲法委員会は「街頭活動をじかに見聞きし、法案の問題点や、法案に関する国会審議が重大な局面を迎えている情勢を肌で感じてほしい」と呼び掛ける。
 仙台弁護士会は7月、衆院での法案の強行採決に抗議し廃案を求める声明を発表。法案に関する街頭活動は昨年5月に始まり、60回以上実施。集まった署名は約1万人分に上る。


安保法案、創価大関係者も反対表明 「建学精神に反する」
 政権与党の公明党の支持母体である創価学会の池田大作名誉会長が創立した創価大(東京)と創価女子短大(同)の関係者有志が、参院で審議中の安全保障関連法案に反対する声明をインターネット上で発表した。
 関係者が公開したホームページでは、池田氏の「自衛権をもって他国の民衆の生命を侵すことができないのは、自明の理です」といった言葉を紹介。声明は「(池田氏の理念を)人生の根幹に据え、安保法案への『反対』を表明します」と明言し、「(創価で)培った人権意識を持つ者なら、声を上げるべき時は、今です」と呼び掛けている。
 創価大と女子短大の教職員や卒業生、在学生計11人が11日に呼び掛けたところ、12日中に賛同する関係者が500人を超えた。
 呼び掛け人の一人で同大教員の佐野潤一郎さん(50)=檜山管内上ノ国町出身=は「集団的自衛権の行使を伴う安保法案は、憲法に反するだけでなく、創価大建学の精神にも反する。公明党の国会議員を輩出する大学の関係者として反対の姿勢を明確にした」と話している。
 声明はhttp://sokauniv-nowar.strikingly.com/

日航機墜落事故から30年/PHS忘れた/社共両党の部落問題への態度

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150804大阪市役所2

Femmes de ≪réconfort≫: un octogénaire tente de s’immoler devant l’ambassade du Japon à Séoul
Un octogénaire a tenté de s’immoler par le feu mercredi devant l’ambassade du Japon à Séoul au cours d’une manifestation destinée à réclamer les excuses de Tokyo pour l’esclavagisme sexuel imposé par l’armée impériale japonaise pendant la Seconde Guerre mondiale.
Un millier de manifestants s’étaient rassemblés devant l’ambassade du Japon en prévision du 70e anniversaire samedi de la fin du règne colonial (1010-1945) sur la péninsule coréenne lorsque l’incident est survenu.
L’homme, identifié par les médias comme un militant de 81 ans, a tenté de s’immoler par le feu mais les autres manifestants ont été prompts à réagir. Plusieurs d’entre eux l’ont aspergé d’eau et ont éteint les flammes à l’aide d’une couverture avant l’arrivée des secouristes, selon les images de la télévision.
D’après l’agence Yonhap qui cite des sources médicales, la victime a subi des brulures au troisième degré sur la quasi totalité du corps mais ses jours ne sont pas en danger.
Selon de nombreux historiens, jusqu’à 200.000 femmes, pour la plupart des Coréennes mais aussi des Chinoises, des Indonésiennes et des ressortissantes d’autres pays asiatiques, ont été enrôlées de force dans les bordels de l’armée impériale nippone.
Pour Séoul, le Japon n’a pas vraiment fait amende honorable.
Le Japon dit que la question a été réglée en 1965 lors de la normalisation de ses relations avec la Corée du Sud. Tokyo considère que les quelque 800 millions de dollars versés alors à son ancienne colonie à titre de compensations, sous forme de dons ou de prêts, ont résolu le différend, qui continue toutefois d’empoisonner les relations bilatérales.
Des manifestations sur le sujet des ≪femmes de réconfort≫ ont lieu tous les mois devant l’ambassade du Japon à Séoul mais les manifestants étaient beaucoup plus nombreux qu’habituellement mercredi en raison de l’imminence de l’anniversaire. Trois des 47 Sud-Coréennes survivantes ayant subi un tel sort pendant la guerre étaient présentes.
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今日もお仕事.でもPHS忘れてしまいました.
朝から歯医者です.虫歯があるわけではないのですが,定期検査みたいなものです.衛生士のTaさんは19日で退職だそうで,次回から別の人が担当になります.
お昼ご飯の前に近くの部落に行ってみました.小さい部落なのでしょうか?改良住宅はあまり目立ちません.ちょっと歩いていて「部落解放同盟◎◎支部」と表札がある建物がありました.なんだか安心しました.
日航機墜落事故から30年です.30年前事故をどう感じたかは覚えていないのですが,悲しみを忘れてはいけないと思うし,悲しくなってきました.
でも2012年甲子園の石巻工の阿部主将の素晴らしい宣誓をネットで見て頑張ろうと思いました.どこかのアベしゅしょうのお話は聞いてもまったく意味なしどころか腹立たしいことばかりですし.

師岡佑行氏の戦後部落解放論争史第2巻を読み終えました.目次は以下の通りです.
第I章 部落解放運動の大衆的展開と第九回大会運動方針
第II章 部落解放全国委員会から部落解放同盟へ
第III章 部落解放運動と文化,とくに『破戒』の評価をめぐって
第IV章 部落史研究の本格化と部落の起源をめぐる対立
第V章 同和教育をめぐる批判と反批判,社会調査についての論争
第VI章 継続討議によって作成された「部落解放闘争方針」--第十二回大会
第VII章 社共両党の部落に対する最初の政策とジャーナリズムの動向

師岡さんはこの当時部落解放運動の内部にいたのでしょうか?実際に見てきたかのようないきいきとした記述です.それよりも部落解放運動・部落史研究に関して生き生きとした議論がなされているのが素晴らしいです.ジャーナリズムの側から部落解放同盟の運動方針に関して批判があるのは当然のことですが,とても建設的に批判が行われているように思います.でも現状はそうなっていないと思います.批判を許さないという空気があり,部落問題はタブーになってしまっています.当時の状況でいいなぁと思ったのは日本社会党の部落問題に関する政策作りがとてもオープンな形で行われたということです.共産党に所属するものやその影響を強く受けた人たちも協力を惜しまなかった,と記してあります.当たり前のことなのですが,それができない現状ではとても素晴らしいことだと思います.一方で部落解放運動のじっさいからも,その歴史からも何一つ学ぶことなく前衛という日本共産党の雑誌に掲載された論文に対しては無残の一言.共産党は評価できるところも多々ありますが,部落解放運動という観点からみると残念なことがおおいと思います.

選手宣誓 石巻工業・阿部翔人主将(第84回選抜高等学校野球大会)

宣誓。東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。
被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、今も、当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、悲しみに暮れている方がたくさんいます。
人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。
 しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。
だからこそ、日本中に届けましょう。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう、日本の底力、絆を。
我々、高校球児ができること、それは、全力で戦い抜き、最後まで諦めないことです。
今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。
 平成24年3月21日、選手代表、宮城県石巻工業高等学校野球部主将、阿部翔人


日航機墜落事故 悲しみの記録を次代に
 五百二十人が犠牲になった一九八五年の日航ジャンボ機墜落事故で、遺体の身元確認作業の責任者だった元県警警察官の飯塚訓(さとし)さん(78)=前橋市=は退官後、作家に転身し、事故にまつわる三冊の本を出版した。愛する人を突然失い、悲しみに暮れる遺族たちと向き合い、生を全うすることの重みを痛感。「永遠に風化させてはならない」と講演活動を続け、命の尊さを訴えている。 (川田篤志)
 事故当時、高崎署の刑事官だった飯塚さんは、遺体の身元を特定して遺族に引き渡す「身元確認班」の班長を務めた。
 墜落現場の上野村の「御巣鷹の尾根」から、ヘリコプターで収容された遺体が運ばれた藤岡市の体育館。真夏で四〇度に達した館内は、警察官や、検視に協力する医師、歯科医師、看護師らでごった返した。墜落の衝撃で遺体の損傷は激しく、身元の特定は困難を極めた。
 片側だけ残ったわが子の頭部に頬ずりする母。炭化した遺体と対面して気を失ったり、なかなか進まない特定にいら立って怒号を飛ばしたりする遺族もいた。生と死をめぐる人間模様が浮かぶ極限の日々。飯塚さんも一日の作業が終わった後、身元が確定できずに遺族の元に返せなかった頭部だけの女児の遺体に自らの額を寄せて「早く家に帰りたいよね」と謝った。
 事故二日後の八月十四日から始まった確認作業は百二十七日間に及んだ。最後まで身元が特定できなかった遺体の合同荼毘(だび)の後、遺族から「確認班はよくやった」と言われ、涙がこぼれた。
 「警察官を何人動員したかといった単なる記録では風化して意味がなくなる。悲惨な現場に関わった人たちの汗や涙、怒りの記録を残さなければ」。飯塚さんは退官二年後の九八年、関係者を取材し、自身の体験を加えて「墜落遺体」を出版した。
 さらに二〇一二年までに、遺族や生存者らの事故後の人生や、慰霊に尽力する上野村民に焦点を当てた二冊を出した。「墜落遺体」は版を重ね、今年は新装版が出版されるなど、長年読み継がれている。
 「墜落遺体」を中学生の時に読んだ男性が群馬県警機動隊員になるなど、反響は大きい。本をきっかけに慰霊登山をした若者からも便りがあった。飯塚さんは「若い世代に伝えられ、作家冥利(みょうり)に尽きる」と喜ぶ。近年は体調を崩したため、講演活動は県内に限るが、命の尊さを訴え続けている。
 事故から三十年。世界で多発するテロや、国内で起きた無差別殺人事件の報に触れ、あらためて奮い立つ。「命は大事なんだと、どうしても伝えたい」
 <身元確認班> 県警の警察官計168人で編成した。墜落の衝撃で遺体は損傷が激しく、検視した総数は2000を超えた。犠牲者の指紋や毛髪、歯科治療のカルテなどを収集して、身元特定に役立てた。最終的に犠牲者520人のうち、518人の身元が確認された。


日航機墜落事故からきょうで30年
520人が犠牲になった日航ジャンボ機の墜落事故から12日で30年です。墜落現場の群馬県上野村では、遺族などが慰霊の登山をして犠牲者をしのびます。
昭和60年8月12日、お盆の帰省客などを乗せた日本航空のジャンボ機が群馬県上野村の山中に墜落し、国内の航空機事故としては最も多い520人が犠牲になりました。
事故から12日で30年となり、朝早くから遺族などが墜落現場となった「御巣鷹の尾根」を目指して慰霊の登山を行います。そして、墜落現場にある慰霊碑、「昇魂の碑」の前で祈りをささげ、犠牲者をしのびます。
夕方には、ふもとにある「慰霊の園」で、遺族や地元の人たちが参列して追悼慰霊式が行われます。式では、参列者が墜落時刻の午後6時56分に合わせて黙とうをして、悲惨な事故が繰り返されることがないよう、空の安全を祈ることにしています。
「ことしが最後かも」
大阪・堺市から来た山岡武志さん(78)と、妻の清子さん(69)、長男の直樹さん(48)一家は、今回7年ぶりに上野村を訪れました。
山岡さんは、事故で高校2年生だった長女の知美さん(当時16)と、中学2年生だった次女の薫さん(当時14)の娘2人を亡くしました。7年前までは毎年、家族で慰霊登山に来ていたということですが、武志さんと清子さんは年をとるにつれて、体力的にも山に登るのが厳しくなり、訪れることも控えていたということです。
しかし、ことしは30年という節目の年でもあることから、無理をしてでも慰霊登山をしようと直樹さんが運転する車で大阪から駆けつけました。
11日夜は、家族3人で灯籠に「天国で見守っていて」とか「2人で仲よくしていて」などとメッセージを書いて、亡くなった2人を悼みました。
山岡清子さんは「しばらく来ることができなくてごめんなさいと娘に伝えました。体力的にことしが最後になるかもしれないのであすはいろんなことを娘に語りかけたいです」と話していました。
亡くなった2人の兄の直樹さんは「30年の時は絶対に行こうと家族で話していました。私にとって妹がいたときのことはきのうのように思い出します。最後と言っても、来年もまた来たいと思っています」と話していました。
山岡さんたちは12日、御巣鷹山に登り、亡くなった2人の墓標に当時2人が使っていたバッグを供えることにしています。
日航ジャンボ機墜落事故とは
昭和60年8月12日、日本航空のジャンボ機123便は羽田から大阪に向かう途中、機体の損傷によるトラブルで操縦不能に陥り、長野県との県境に近い群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落しました。
お盆の帰省客やビジネスマンなどでほぼ満席の状態で、4人の生存者を除く乗客乗員520人が死亡しました。単独機としては、史上最悪の事故となり大量輸送時代の空の安全が厳しく問われることになりました。
事故原因について当時の航空事故調査委員会は、事故の7年前、昭和53年に起きたしりもち事故の修理ミスで強度が不足していた機体後部の「圧力隔壁」が上空で壊れ、垂直尾翼や操縦系統が破壊されたとする事故調査報告書を公表しました。
警察や検察は、日本航空とメーカーのボーイング社、それに当時の運輸省の関係者を業務上過失致死などの疑いで捜査しましたが、いずれも不起訴処分になりました。
事故後、遺族は連絡会を結成し、再発防止や被害者の支援の活動を積極的に行ってきました。事故現場となった「御巣鷹の尾根」には慰霊碑がたてられ、事故から30年たった今も遺族や関係者による慰霊登山が続いています。


日航機墜落30年:乗員だった姉を忘れない 無念さ思い
 日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者520人には、高浜雅己機長(当時49歳)ら乗員15人が含まれる。客室乗務員の白拍子(しらびょうし)由美子さん(当時25歳)はその一人で、新婚生活を送っていた。事故から12日で30年。妹の野々村万里子さん(45)=川崎市=は「やりたいことが、まだまだいっぱいあったはず」としのぶ。
 事故当時、高校1年だった万里子さんは長女(14)と長男(9)の2児の母になった。「ママのお姉ちゃん、スチュワーデスだったんだよね」。子供たちは事故のニュースに接すると尋ねてくる。万里子さんはその度に「忘れないでいてあげてね」との願いを込め、思い出話を聞かせる。
 「姉が日航に就職したのは、客室乗務員に対する憧れと、短大時代に専攻した英語を生かせる仕事に魅力を感じたから」。万里子さんにとって自慢の姉だった。フライトで海外から帰ると、ぬいぐるみやアクセサリーなどを買ってきてくれた。1984年夏に結婚し、新婚旅行はイギリスへ。長期休暇をとって一緒にハワイにでかけるなど、夫婦とも旅行好きだった。
 30年前。万里子さんはテレビのテロップで日航機の墜落を知った。群馬県藤岡市の遺体安置所に向かい、歯型で本人と分かるまで、ひつぎを一つ一つ開けて捜した。そして「事故を起こした側の遺族」の立場になった。15年後、操縦室内の音声が公開され、日航の遺族への世間の見方が変わった。ボイスレコーダーは墜落するまで迷走した32分間、機体を立て直そうとする高浜機長らの姿を伝えていた。客室乗務員らがシートベルト着用や酸素マスク装着を呼びかけるアナウンスも録音されていた。「あの時、姉はどんな思いで乗客の対応にあたっていたのだろう」と今も思いを巡らせる。
 一方、万里子さんと同居する母の加藤芳子さん(88)は「生きていたら楽しい結婚生活を送っていただろうに」と話す。8月12日が近づくと、由美子さんのことを思い、仏壇の前で涙を流す。【田ノ上達也】


日常生きる大切さ伝え続ける 坂本九さんの長女、父の曲に思い重ね きょう日航機事故30年
 日常の輝きを歌に乗せて−。520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故は12日で30年。事故で犠牲になった坂本九さん=当時(43)=の長女で歌手の大島花子さん(41)は、日々を生きる大切さを歌で伝え続けている。二度と過ごせない父との日常は「何でもない瞬間」にこそきらめきがあったからだ。昨年末に発表した初アルバムでは父のカバー曲を収録し、父の曲に30年間の思いを重ねて歌った。
 11歳の夏。今も忘れられない光景がある。事故前日のことだった。
 セミの鳴き声と高校野球の中継が聞こえる中、父と庭掃除をした。父は「お、見ろ見ろ、暑いけど汗がぽたぽた垂れてくるのが面白いよね」と笑顔。いつも子供を楽しませようとする父らしい言葉だった。
 ありふれた日常の一コマだが、「どんな瞬間でも、それが輝きを放つことがある。父の命から教えてもらった」。それを伝えるのが歌を歌い続ける理由だ。
 歌手デビューから10年以上がたち、初めて制作したアルバムには、父が作詞作曲を手がけた「親父」を収録した。事故前年のコンサートで、みんなが知っている「九ちゃんスマイル」を見せず、真剣な顔で歌う父の姿を見て、子供ながらに涙が止まらなかった。
 厳しかった父との日々を息子が遺影の前で懐かしむ内容。自分は娘ながらも、歌うことで歌詞の中の父を思う息子、すなわち坂本さん本人に感情移入できる「不思議な歌」という。
 「もう直接は対話できないけど、歌いながら父と会話をしている気がする」
 現在も心の傷は癒えておらず、御巣鷹の尾根に行くのは怖い。8月12日も特別な日ではなく、いつか日常として「普通」に過ぎていくようになることを望む。
 ただ、それでも父に伝えたい。「自分は今、歌を歌えて幸せです」


日航機墜落30年 風化させてなるものか
 単独機事故として過去最多の犠牲者を出した日航ジャンボ機墜落から三十年。当時、悲劇を繰り返すまいと誓った関係者の思いは、実を結んでいるだろうか。事故の教訓を風化させてはならない。
 稜線(りょうせん)が一部欠け落ちたような通称U字溝は、傾いて飛んできたジャンボ機の右主翼が尾根の樹木をなぎ倒し、山肌を深くえぐり取った痕跡。御巣鷹の尾根から谷を挟んで五百メートルほど南方に望む稜線の乱れは、深い緑に覆われて周囲に溶け込み、三十年という時間の経過を物語っている。
 悲劇の教訓は、生かされてきただろうか。
 エンジンやシステムを四系統備え、うち一系統でも残っていれば飛び続けられる設計のジャンボ機は、当時、それまでの飛行機に比べて格段に安全性が高いとされていた。それでも、四系統の油圧システムがすべて使えなくなる想定外の状態で墜落事故は起きた。
 五百二十人もの命を奪った大惨事は空の安全対策を考え直す出発点となった。確かにその後、定期便を運航する国内航空会社の乗客の死亡事故は起きていないが、安全意識の欠如を疑いたくなるトラブルは後を絶たない。
 ジャンボ機墜落から二十年後の二〇〇五年、日本航空は重大トラブルが続いて国土交通省から業務改善命令を受けた。教訓の風化を憂う御巣鷹の遺族たちが望んでいた研修施設「安全啓発センター」を開設したのは翌〇六年。事故機の残骸や犠牲者の遺品を保存、展示し“安全の礎”をうたう。
 三十年がたち、日航は事故後に入社した社員が九割を超えた。海外勤務も含め、日航グループの全新入社員が御巣鷹の尾根に登り、安全啓発センターで学び、墜落事故に向き合うことにしている。
 墜落現場となった群馬県上野村にある追悼慰霊施設「慰霊の園」は今夏、展示棟を改修。事故を知らない世代のために、救助や捜索に携わった村の消防団員や猟友会員に体験を語ってもらったインタビュー映像の紹介も始めた。
 事故を見詰め、安全への決意を新たにする努力と工夫は、何よりも大切に続けたい。
 格安航空会社(LCC)が台頭する時代を迎え、運航効率向上のために規制緩和が進む。落とし穴はないか。言うまでもないが、コストカットのために安全対策を後回しにすることは許されない。
 悲劇を繰り返さぬよう、教訓はいつまでも語り継がなくては。事故を風化させてなるものか。


<震災4年5カ月>帰るべく場所へ早く
 東日本大震災で被災した宮城県名取市閖上地区などで回収された津波流失物について、市は13〜19日、閲覧・返却会を開く。ランドセルなどの学用品をはじめ、遺影、位牌(いはい)なども多く、市はできるだけ所有者の元に返したい考えだ。
 市沿岸部の津波流失物は自衛隊やボランティアが集め、閖上小旧校舎に保管してきた。引き取る住民は時間とともに減り、写真が約26万枚、それ以外が約2000点残る。ランドセルだけで100点以上あり、額装写真や卒業アルバム、トロフィーなど、持ち主にとって思い入れが強いと思われる物品も目立つ。
 写真について、市は昨年8月からことし3月末まで市内で返却する機会を設けた。しかし、その間に所有者に戻ったのは1割以下の約2万枚にとどまった。
 市の担当者は拾得物が数多く残る理由について「所有者が判然としない物品がある上、震災の記憶から引き取りをためらう人もいるのかもしれない」と話す。
 閖上地区では土地区画整理事業が進行し、拾得物を保管する閖上小旧校舎は今秋から解体が始まる予定。残った物品はいずれ処分せざるを得ないという。写真の返却は市文化会館で午前10時〜午後4時(18日は休館)、写真以外の返却は閖上小旧校舎で午前9時〜午後4時に行う。連絡先は市総務課022(384)2111。


<震災4年5カ月>絶縁の父、憎しみ消えた
 東京都町田市のバス運転手横山健さん(46)は、30年余り絶縁していた宮城県東松島市の父親を東日本大震災の津波で亡くした。自分と母親を捨て、家を出た父。悩んだ末に遺骨を引き取り、弔いを続ける。11日で震災から4年5カ月。13日には、震災後5度目の盆の入りを迎える。さまざまな供養の形がある。
 町田市の小高い丘にある公園墓地に父の栄広さん=当時(73)=は眠る。墓石には「絆 ありがとう」の文字が刻まれている。自宅から車で5分。横山さんは月に1度訪れて手を合わせる。
 「おやじには憎しみの感情しかなかった。遺骨の引き取りも初めは断った」
 神奈川県小田原市で暮らしていた小学4年の時、両親が離婚した。父が帰ってこないと思っていたら、母に「別れた」と告げられた。墓石清掃の事業に失敗し、生活が荒れたと聞いた。
 2人暮らしとなり、母は競輪場の切符売りやビル掃除の仕事を掛け持ちして家計を支えた。横山さんは19歳で結婚し、2男1女に恵まれた。
 「おやじに会いたいとは一度も思わなかった」
 2012年夏、宮城県警から連絡が入った。津波の犠牲になり、東松島市野蒜で見つかった遺体が父親の可能性があるという。DNAの提供を求められた。
 鑑定の結果、父と分かった。30年以上の空白。「なぜ今更」と憤った。
 妻の恵美さん(44)は違った。「お義父さんの会いたいという気持ちが強いから連絡が来たんじゃないの」。遺骨すら戻ってこない遺族がいる中で何かの縁を感じた。
 妻の言葉で思い直し、同年9月、東松島市に遺骨を受け取りに行った。父が住んでいたという自宅跡に立ち寄り、線香を上げて花を手向けた。
 父は横浜市の運送会社で定年まで勤め上げ、その縁で野蒜にあった会社関係の住宅の管理を任された。1人暮らしだった。津波被害の悲惨さに思いをはせると、わだかまりが消えた。
 遺骨は13年4月に墓を建てるまで自宅の居間に置き、共に過ごした。「長い間、離れていても自分の事を気に掛けていたはずだ」。親となったわが身に置き換えると、かつてと違う父の姿が見えてきた。
 父との「再会」から3度目のお盆が巡る。盆棚に飾る精霊馬(しょうりょううま)をナスとキュウリで作り、おがらをたいて魂を自宅に迎える。


仮設住民の心つなぐ「きずな新聞」100号
 東日本大震災で被災した宮城県石巻市で月2回、仮設住宅に無料配布される「仮設きずな新聞」が8月10日発行号で100号となった。被災者に役立つ情報を掲載。配布するボランティアと住民に交流が生まれ、名称通り、人と人との絆を強める懸け橋となっている。
 被災者支援に取り組む団体「ピースボート災害ボランティアセンター」が発行。A4判4ページの新聞を約6000部印刷し、市内133カ所の仮設団地で約5000世帯に配布する。
 スタッフは2人。他に石巻で支援活動をする団体のメンバーが、記事を書くなど協力している。
 編集長の岩元暁子さん(32)は「見知らぬ地での仮設住宅暮らしで、情報が周囲から入らない人も多い」と話す。新聞には支援情報や仮設団地の話題、住民らの活動などを載せてきた。
 配布はボランティアが担い、原則一軒一軒を訪ねて住民に手渡す。孤立しがちな住民との会話を心掛けている。配布担当スタッフ田上琢磨さん(32)は「住民と接する機会が多く、新聞が必要とされていると手応えを感じる」と言う。
 創刊は2011年10月。資金面の問題とボランティアの減少により、13年3月にいったん休刊。住民から「毎回楽しみ」「若い人と話ができて励みだった」などの声が多く寄せられ、助成金などを受けて13年6月に復刊した。
 9日、市内で記念感謝パーティーを開き、100号の節目を祝った。これまで支えてくれた人々を招き、岩元さんは一人一人に感謝状を手渡した。
 石巻市の仮設追波川河川団地で妻(75)と2人暮らしの阿部泰蔵さん(77)は、津波で長女と小4女子の孫を亡くした。「生きるのが苦しいときに岩元さんが話をじっくり聞いてくれた。きずな新聞が心のよりどころだ」と語った。
 「100号まで続いたと思う半面、これほど仮設生活が長引いていて複雑な気持ち」と語る岩元さん。「反響も大きく、当分は発行を続ける」と前を向く。


<震災4年5カ月>被災3県 追悼の大輪
 東日本大震災の犠牲者の追悼と復興への願いを込めた花火大会「ライトアップニッポン」(実行委主催)が11日、岩手、宮城、福島の被災3県の10カ所であった。震災から4年5カ月。お盆の入りを前に約1万5000発の大輪が夜空を彩った。
 10カ所のうち宮城県石巻市雄勝町大須では大須浜祭りの一環として行った。午後7時に打ち上げを開始。音楽家の坂本龍一さんが手掛けた公式テーマ曲「赤とんぼ」などに合わせ赤や緑、オレンジ色などの花火約1000発が夜空を染めた。
 会場では家族連れや帰省者ら約500人が花火を見上げ、「きれい」「すごい」などと歓声を上げた。
 大須に住む無職阿部きく子さん(86)は震災の津波で妹を亡くした。花火の打ち上げに先立ち、地元の女性約10人と共に灯籠を流し、御詠歌を披露した。「妹も天国で花火を見ていたと思う。震災で亡くなった方々やご先祖様に安らかに眠ってほしい」と祈った。


<震災4年5カ月>夏休みの学生らと集中捜索
 東日本大震災から4年5カ月となった11日、気仙沼署(宮城県)は気仙沼市波路上明戸の海岸で、震災による行方不明者の集中捜索をボランティアと合同で実施した。
 署員12人をはじめ、夏休みを利用して訪れたボランティアの会社員や学生ら計約90人が参加。砂や石をかき分けながら不明者の手掛かりを捜し、人骨の可能性がある長さ約20センチの骨1本と骨片6個を見つけた。
 茨城県つくば市の会社員〓川雅勇さん(39)は初めて捜索に参加した。「まだ多数の不明者がいると知って驚いた。少しでも被災者のためになれば」と汗だくになって海岸を探った。
 「最近は被災地のニュースを意識しなくなっていた」と言うのは千葉県野田市の会社員逆井誠人さん(25)。「捜索に参加し、復興途上の被災地を思い続けるきっかけになった。また訪れたい」と話した。波路上地区では45人が行方不明で、気仙沼市全体では220人の行方が依然分かっていない。
(注)〓は魚ヘンに生


<川内再稼働>学識者「被災地の心情逆なで」
 九州電力の川内原発1号機が再稼働した11日、岩手県の大学関係者や医師、弁護士らでつくる「原発からの早期撤退を求める岩手県学識者の会」が県庁で記者会見し、抗議を表明した。
 報道各社の世論調査で6割近くが原発再稼働に反対している現状を踏まえ、「世論を踏みにじり、(東京電力)福島第1原発事故の被災地の心情を逆なでする行為。即時停止を求める」と訴えた。
 事務局長の高塚龍之岩手大名誉教授は「原子力規制委員会の審査に合格すれば安全という新たな安全神話をつくろうとしているが、原発ゼロこそが本当の安全。今回の暴挙に憤りを込めて抗議する」と語った。


<川内再稼働>避難者ら訴える福島の教訓
 九州電力川内原発1号機が再稼働した11日、福島県の住民や東京電力福島第1原発事故の避難者たちは、複雑な思いでこの日を迎えた。福島の教訓は生かされたのか。さまざまな立場の人の声を聞いた。 
◎事故対応が検討不足
<福島原発作業員・ハッピーさん=「福島第一原発収束作業日記」の著者=>
 原発を再稼働させる状況ではない。安全審査は技術面から事故が起きにくくしただけで、事故時の対応が十分に検討されていない。福島事故の時、救急車すら現場に来られなかった。自衛隊も頼りにならなかった。事故対応の特別対策部隊が必要になる。新規制基準で、配管が強く固定され、配線も被覆された。故障箇所を修理しにくくなり、事故が起きた場合のリスクは逆に上がっている。
◎奪われた明るい未来
<自営業・大沼勇治さん(39)=福島県双葉町から茨城県古河市に避難=>
 再稼働は福島の事故を忘れることにつながる。私が小学生の時に考案した双葉町の「原子力明るい未来のエネルギー」のPR看板を町は撤去しようとしているが、事故で無人になった町の象徴であり、むしろ負の遺産として残すべきだ。原発事故が起きて恥ずかしい思いをするのは立地地域。事故が起きた時のことを想像してほしい。原子力は、明るい未来を奪うエネルギーだと。
◎再生エネに力入れよ
<会津電力社長・佐藤弥右衛門さん(64)=福島県喜多方市=>
 莫大(ばくだい)なエネルギーを必要としているのは都市部だけだ。地方は地域の水や食料、自然を使ってエネルギーも含めて自給自足できる。原発はごみの処理さえできない。都市のために地域が犠牲になるシステムだ。会津の電力を地元の自然で賄うため、会津電力を立ち上げた。福島の事故を経験しても再生可能エネルギーに力を入れずに、原発にこだわる国の施策は間違っている。
◎避難計画はずさんだ
<自主避難者の会代表・宍戸隆子さん(42)=福島県伊達市から札幌市に避難=>
 福島の避難者のことすら決着できていないのに再稼働する神経が分からない。福島の事故で避難区域の線引きに、被災者が納得できたか検証されていない。避難区域から漏れた自主避難者は、避難が権利として認められていないかのような扱いを受けている。川内原発の避難計画はずさんで、福島から何も学んでいない。再稼働して事故が起きれば、私たちと同じ避難難民を生むことになる。
◎地元住民よく考えて
<元国会事故調査委員会委員・蜂須賀礼子さん(63)=福島県大熊町から同県郡山市に避難=>
 福島の事故で絶対安全はあり得ないことが証明された。事故が起きた場合は、福島のようになってしまうことを地元が受け入れる覚悟がなければ、再稼働するべきではない。実際の事故を想定しない避難訓練は意味がなく、避難計画の検証も不十分だ。ただ立地地域の人たちに「生活が」と言われれば、何も言えない。決めるのは地元の住民。地元がよく考えた上で声を上げていかなければならない。
◎子どもの心配永遠に
<子育て支援団体代表・野口時子さん(50)=福島県郡山市=>
 原発事故直後は学校の教室の窓を閉め切ったり、プールに入ることを心配したりした。当事者にならないと分からないことばかり。自分の身に置き換えて考えてみてほしい。最近は県外避難から戻ってくる人が増えている一方で、放射能への不安を自由に言えない雰囲気になっている。親はこれからもずっと、子どもの体を心配し、何かできなかったかと傷つき引きずっていくことになる。


<川内再稼働>事故未収束「福島切り捨てだ」
 九州電力川内原発1号機の再稼働に反対するデモ行進が11日夜、福島市中心部で行われた。東京電力福島第1原発事故が収束していない中での再稼働に、参加者は怒りの声を上げた。
 住民団体「ふくしま復興共同センター」が主催し、約60人が参加した。大雨の中、「福島の切り捨てを許すな」「命と生活を守れ」などと、拳を突き上げシュプレヒコールを繰り返した。
 福島市の農業団体職員佐々木健洋さん(39)は「事故は収束していないのに国は現実から目を背けている」と話した。
 相馬市の小売業中島孝さん(59)は「再稼働は国民の声を踏みにじる行為。怒りで震える思いだ」と語気を強めた。


川内再稼働 原発依存社会に戻すな
 人々の暮らしを一変させた東京電力福島第1原発の過酷事故から4年5カ月。九州電力が鹿児島県の川内原発1号機を再稼働させた。
 事故後に策定した新規制基準のもとでの初の稼働である。政府も電力会社もこれをモデルケースに既存の原発を順次再稼働していく心づもりだろう。しかし、あれだけの事故を経てなお原発と向き合う政府の本質的な姿勢は変わらず、事故の教訓を生かし切っていない。この再稼働を3.11前の安全神話に逆戻りする第一歩にしてはならない。
 ◇ゼロへの道筋が先決だ
 3.11の教訓は、「対策をとっても原発事故は起きうる」「原発事故が人、環境、社会に与える被害は質も範囲も他の事故と大きく異なる」ということだった。しかも、日本は世界有数の地震・火山国である。日本で原発を動かし続ける危険性はあまりに大きい。核のゴミの処分問題を考えても原発は持続可能なエネルギーとは言いがたい。だからこそ、できるだけ早く原発をやめようと私たちは主張してきた。
 一方で、原発即ゼロがもたらす経済的、社会的リスクを考えれば、一定の条件を満たした上で最小限の稼働を認めざるをえない場合もあるだろう。そんな考えも示してきた。
 しかし、この再稼働は条件を満たさず、認めることはできない。
 まず、原発を減らしていく過程での再稼働との位置付けが欠けている。政府が昨年閣議決定したエネルギー基本計画には、「原発依存度を可能な限り低減させる」との方針が盛り込まれた。これに従えば、確実に原発を減らしていくための工程表を描くことが政府の責務だ。
 ところが、7月に経済産業省が決定した2030年の電源構成は原発比率を20〜22%とした。これを実現するには40年廃炉の原則を超えた老朽原発の延命、建て替え・新増設が必要となる。ここに見え隠れするのは、なし崩しに原発依存社会に戻そうとする政権の意図だ。
 事故が起きた場合に住民への被害を最小限にとどめる、という必須条件も満たされていない。確かに新規制基準では以前は想定していなかった過酷事故も考慮し、求められる安全対策は厳しくなった。基準適合を審査する原子力規制委員会も独立性を高めハードルは高くなった。しかし、ハード面の対策強化は再稼働の必要条件であっても、十分条件ではない。
 福島の事故では指揮命令系統の混乱が事態を悪化させた。拡散する放射能の情報が住民に届かず、線量の高い場所へ逃げた人もいる。入院患者や介護施設の入所者の避難は大混乱し、避難途中や避難先で亡くなった人も多い。事故後、避難計画が必要な自治体は原発から30キロ圏に拡大され、川内原発の周辺でも計画自体は策定された。
 ところが、その計画の実効性を担保する住民の避難訓練が実施されていない。政府もそれを容認している。住民の安全確保に十分な備えがないまま再稼働を急ぐ姿勢は、「事故は起きない」と高をくくってきたかつての安全神話と根が同じではないか。住民の安全を守るためにもただちに避難訓練を行って問題点を抽出し、場合によっては原発再停止も考えるべきだ。
 ◇国民の意思反映させよ
 誰の責任で再稼働するのかが明確でない点も3.11前と変わらない。
 原発は民間ビジネスである以上、一義的には再稼働も安全確保も電力会社の責任だ。ただし、原発は政府の国策でもある。その政府は、「規制基準への適合」を再稼働の唯一のよりどころとし、一方の規制委は「基準への適合=安全」ではないとの認識を示している。これでは、福島の事故と同様、再び事故が起きた時に誰も責任を問われない不条理がまかり通ってしまう。
 さらに根本的な問題もある。原発・エネルギー政策を国民の納得のもとに進めようとする意思が政府にみられないことだ。
 各種の世論調査によれば、事故以降、ほぼ一貫して原発再稼働への反対が賛成を上回っている。毎日新聞が8、9日に実施した世論調査でも川内原発再稼働に「反対」との回答が57%を占めた。
 しかし、住民にこれほどの影響を与えた事故を経ても、国のエネルギー政策に国民の強い意思を反映させる手段は用意されていない。経産省の審議会を使って政策の方向性を決める手法は事故前のままだ。民主党政権時代には討論型世論調査など、曲がりなりにも国民の意思を反映させようとする努力はあった。現政権にはその姿勢すらない。
 原発を動かし続ける限り核のゴミがたまり続けるという問題も大きい。10万年後まで見越して最終処分する必要性があるのに、日本ではまったくめどが立っていない。たとえ事故が起きなくてもこの問題に解決の糸口がない以上、原発を長期的に維持するわけにはいかない。
 政府はまず原発ゼロに向けた具体的道筋を描くべきだ。避難計画や訓練を規制委が事前評価する体制作りも早急に進める必要がある。川内原発再稼働を原発回帰の踏み台にしてはならない。

東日本大震災から4年5ヶ月/同和対策審議会答申から50年

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Le Japon relance le nucléaire plus de quatre ans après Fukushima
Un premier réacteur nucléaire a été relancé mardi matin dans le pays où toutes les centrales étaient à l'arrêt depuis septembre 2013.
≪Le réacteur numéro 1 de la centrale de Sendai a redémarré à 10h30≫, a annoncé un porte-parole de la compagnie Kyushu Electric Power. Cette localité de Sendai, à 1 000 km au sud-ouest de Tokyo, sur l’île méridionale de Kyushu, ne doit pas être confondue avec la ville de Sendai dans le nord-est meurtrie par le tsunami de mars 2011.
Le cœur du réacteur devrait entrer en réaction en chaîne auto-entretenue à compter de 23 heures. Il commencera à générer vendredi de l’électricité qui sera exploitée commercialement à partir de début septembre, selon la compagnie. ≪Je souhaite que le redémarrage soit effectué en garantissant toute la sécurité qui doit être la première priorité≫, avait déclaré lundi soir le Premier ministre pro-nucléaire Shinzo Abe.
Voulue par le gouvernement conservateur, cette remise en service d’installations nucléaires est d’abord motivée par des raisons économiques: le Japon a enduré depuis 2011 d’importants déficits commerciaux, en grande partie dus à la flambée de la facture d’hydrocarbures pour alimenter les centrales thermiques.
L’équipe de Shinzo Abe argue en outre que les entreprises freinent leur activité à cause de la cherté de l’électricité et que les ambitions de réduction de gaz à effet de serre sont bridées par l’usage extensifs de centrales au gaz, au pétrole ou au charbon.
≪C’est une étape nécessaire≫, a renchéri le ministre de l’Industrie, Yoichi Miyazawa, cité par les médias. ≪Cela va contribuer à une alimentation stable≫, s’est réjoui le patron de la Chambre du Commerce et de l’Industrie du Japon, Akio Mimura.
Le traumatisme de Fukushima
Le Japon comptait 54 réacteurs exploitables avant la destruction des six réacteurs de la centrale de Fukushima. Sur les 48 restants, cinq au moins doivent être démantelés.
Face au gouvernement, une majorité des Japonais s’interroge sur la pertinence d’un redémarrage qualifié ≪d’erreur≫ par Naoto Kan, Premier ministre au moment de l’accident de Fukushima et devenu depuis un des plus virulents militants antinucléaires, à l’instar de plusieurs autres de ses prédécesseurs, dont Junichiro Koizumi (2001-2006), mentor de Shinzo Abe.
Au cri de ≪saikado hantai≫ (≪contre le redémarrage≫), quelque 200 personnes, selon la chaîne publique NHK, venues des diverses régions du Japon hébergeant des installations nucléaires, protestaient aux portes de la centrale. Naoto Kan était parmi les manifestants, selon des images diffusées par la presse. Une manifestation était également prévue mardi soir devant la résidence du Premier ministre à Tokyo. Les opposants invoquent pour principale raison des inquiétudes sur la sûreté et l’absence de clarification précise de l’enchaînement des événements qui ont abouti au désastre de mars 2011.
Plus de 150 000 habitants ont dû partir précipitamment, sans perspectives de retour pour une partie d’entre eux. ≪L’accident de Fukushima n’est toujours pas résolu et toutes les causes ne sont pas même élucidées, alors pourquoi relance-t-on aujourd’hui un réacteur ?≫, s’agaçait devant les caméras une habitante de la préfecture de Fukushima venue spécialement à Sendai. ≪La vie des personnes et l’environnement sont plus importants que l’économie, plus précieux que tout≫, a ajouté une autre.
Le réacteur, initialement entré en service en juillet 1984, avait été éteint le 10 mai 2011 pour son 21e cycle de maintenance régulière, respectant alors le calendrier habituel qui prévoit 3 à 4 mois d’arrêt de routine après 12 à 13 mois de fonctionnement.
Toutefois, il n’avait pas pu être réactivé en raison de la décision des autorités d’instaurer des normes de sûreté plus sévères à l’aune du désastre de Fukushima dont l’ampleur a dépassé toutes les dispositions techniques de sûreté.
Il s’agit du premier réacteur remis en service en conformité avec la nouvelle réglementation entrée en vigueur en juillet 2013 afin de rendre les centrales nucléaires plus aptes à faire face à une catastrophe naturelle, un attentat terroriste ou un crash d’avion.
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利権で太ってきた者に光をあてる 海苔巻き
いわゆる被差別者が江戸時代から続く差別に苦労し、それを解消しようと努力する。
それ自体は正しいことで問題はありません。しかしそれに乗じて不当に私服を肥やし、
それを明るみにしようとすると差別だ差別だと言って言論を封じ込める事は
腐っています。ある意味利権政治家よりあくどいぞ。
全ての同和団体がこうであるとは信じたくないが、例え一部の者でもこんなことを
やっていれば余計に軽蔑されることに気付いてほしい。
これまでのタブーを破って一石を投じてくれた編集者に感謝します。

東京最後の異界 鶯谷
本橋 信宏
宝島社
2013-12-13


鶯谷! ピラミッド
切り口がラブホテル街からなので仕方ない面もあるが、性風俗ルポだけが目立つ。(性風俗ルポとしても中途半端になるのだろう)。
林家三平、左翼活動家、豆富料理、乱歩「陰獣」、正岡子規等々、歴史文化や時事の紹介がとって付けたようで、居心地の悪い印象を与える。
鶯谷の地域性について著すなら、性風俗についても韓デリの女性や人妻の視点だけでなく、ラブホテル経営者や管轄の警察の取材くらいは欲しかった。
地元商店街や町内会や鶯谷駅員の声もあった方がよい。
さらに、JRの向こう、聖と俗の俗(鶯谷)に対する聖(寛永寺)からの視点もあれば良かった。
著者は鶯谷を性風俗の町として位置づけ、その特異性を評価していく意図だったと思われるが・・・・・・ラブホテル街ということに囚われすぎて、かえって鶯谷の魅力を矮小化・類型化してしまったように思う。
この本は粗削りな面白さはあるが、それを生かしきれていない感じで残念。


寺園 敦史さんの本を読みました.いままで共産党ということが同じで部落解放同盟がキライなんだ,という程度にしか思っていませんでしたが,少なくとも部落解放同盟・部落解放運動が信頼を大きく失っている点を思うとき,同和利権と呼ばれている事柄に関して無視してはいけないと思いました.
東日本大震災から4年5ヵ月になります.やはりいまだ悲しいです.
お昼は京橋のイタリアンの予定でしたが,今日はお休みなのでネパール料理.ネパール地震から約3か月.忘れてはいけないと思います.少しだけですがカンパしました.
同和対策審議会答申から50年です.中之島公会堂は満員です。行政からのメッセージでこの集会に対して「おめでとうございます」,というのがあったけれど,おめでたいことなのでしょうか?また主催者つまり部落解放同盟はじめとした部落解放運動をしている人たちに「人権確立のための活動に敬意を表する」ということがあったけど,本当にそう思っているの??という感じがぬぐいきれません.
大賀正行さんは当時の運動を語り,確かにその当時には答申の意義はあったのだと感じました.ただ思い出話のようになっていて,今振り返ってどうなのか?という話が聞けなかったのは残念です.特に部落解放運動が著しく信頼を失っているという現実に対して何かあるべきだと思いました.また答申の前文にある「いうまでもなく同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり,日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である。したがって,審議会はこれを未解決に放置することは断じて許されないことであり,その早急な解決こそ国の責務であり,同時に国民的課題であるとの認識に立って対策の探求に努力した。」ことの意義は高いと思いますが,建前だけで「国民的課題」になっていない現実をどう考えるべきかという問題を考えていかねばならないと思いました.

仮設で最後の夏祭り 住民、笑みこぼれる
 東日本大震災の被災者が暮らす仙台市若林区の卸町5丁目公園仮設住宅で8日、最後の夏祭りがあり、住民やボランティアらが親睦を深めた。
 住民でつくる卸町5丁目公園町内会が東京経済大などの協力を得て実施。同大の学生らが会場を盛り上げ、子どもらがスイカ割りを楽しんだ。来場者にはジュースやたこ焼きなどが振る舞われた。
 仮設住宅は95戸整備されたが、今は約半数が空き部屋。原則として来年5月には残る住民も退去しなければならず、2012年から毎年開かれてきた夏祭りは今回で最後になるという。
 町内会の渡辺政志会長(76)は「住民が少なくなり、われわれだけでは開催できなかった。最後という言葉は使いたくないが、集まる機会を設けることができて良かった」と話した。


人口減、復興費負担…被災地、頭痛い財政運営
 東日本大震災からの復興を目指す宮城県石巻市が、今後の財政運営に頭を痛めている。合併から11年の2016年度からは、普通交付税の上乗せ分が段階的に縮減される上、震災後の人口減で減額も予想される。政府が決めた16〜20年度の復興事業の枠組みでは、市は約5億4000万円の負担を求められる見込み。復興後を見据えた市の財政状況は厳しさを増している。
 市の財政運営には、復旧・復興事業で整備する公共施設の維持管理費が重くのしかかる。震災で地盤沈下した中心部は冠水しやすく、排水機能の強化が急務だ。市は雨水排水事業を実施しているが、ポンプ場などの整備が進む18年度には試算で年3〜4億円の維持管理費が必要になる。
 市の震災前の一般会計予算は約600億円。昨年度の市税収入は震災前の約93%と回復しつつあるが、復興需要で好調な建設業などの法人税に支えられた面がある。家屋が被災して減少した固定資産税は8割にとどまる。
 国から昨年配分された普通交付税は190億7000万円。本年度実施される国勢調査の結果によっては、人口減による減額が危惧される。人口は5月末で約14万9000で、前回の国勢調査(10年)から1万1000以上減った。
 さらに、平成の大合併で誕生した自治体で地方交付税を上乗せする特例措置「合併算定替え」が16年度から、段階的に削減される見通しだ。
 市はいずれも億単位の影響を受けると想定する。市幹部は「独自収入の増加が見込めず、国頼みの状況だ。普通交付税算定を震災前の数値で実施するよう求めるなど救済措置を要望しなくてはならない」と話す。
 復興事業の新たな枠組みでは、基幹的事業は全額国負担とし、国が使途を決めない一括配分は限度額(250億円)を撤廃。基幹事業を補完する効果促進事業について、災害公営住宅建設など市内の主要な6基幹事業の2割とする一括配分は、単純計算すると現段階で443億円と増える。
 市復興政策課は「事業費が多い自治体ほどメリットがある。被災規模が大きい石巻や気仙沼市への配慮があった」と解説する。
 ただ、効果促進事業は1%の地元負担が生じる。市は被災した中瀬公園整備や新設する東内海橋などで活用する見込みで、今後、事業費が確定する度に負担額が増える可能性がある。亀山紘市長は「(国の)交付税算入が見込まれる有利な地方債を活用するなど、負担縮減に努める」と語る。


震災から4年5か月 行方不明者を捜索
東日本大震災と原発事故から11日で4年5か月となり、福島県の沿岸部では警察などが今も行方の分からない200人の一斉捜索を行いました。
東京電力福島第一原子力発電所から北におよそ6キロ離れた福島県浪江町の請戸地区では警察官や地元の消防団員、それに避難先から訪れた住民など200人余りが捜索に当たりました。
福島県では震災と原発事故から4年5か月がたった今も200人の行方が分からず、このうち浪江町では31人が行方不明となっています。11日は、津波の際に浸水した沿岸部の水田で警察官などが棒状の道具などを使って雑草をかき分けたり、土を掘り返したりしながら行方不明者の発見につながる手がかりがないか、黙々と探していました。
捜索に当たった浪江町消防団の佐々木保彦団長は「町の消防団員も津波の避難誘導をしていて3人が亡くなりましたが、すべての町民が避難してなかなか捜索もできませんでした。お盆も近いので、まだ見つかってない団員が見つかってほしいと思います」と話していました。
岩手でも捜索
岩手県内では今も1129人が行方不明になっていいます。このうち山田町では148人の行方が分からないままとなっていて、11日は警察官17人が山ノ内海岸に集まり、海に向かって黙とうをささげたあと捜索を行いました。警察官は壊れた防潮堤の付近を棒で掘ったり、ゴムボートに乗って箱めがねと呼ばれる道具で海の中の様子を確認したりしながら行方不明者の手がかりがないか探していました。
宮古警察署の高橋篤志巡査部長は「震災から4年5か月がたちましたがまだ行方不明者がいるので、遺族の強い思いを受け止めながら手がかりになるものを必ず見つけ出すという思いで捜索を続けていきたい」と話していました。
宮城でも捜索
宮城県気仙沼市内では今も220人の行方が分からないままです。
気仙沼市波路上明戸の海岸に警察官のほか、夏休みを利用して訪れた会社員や学生など合わせて100人ほどが集まりました。参加者した人たち初めに犠牲者を悼んで海に向かって黙とうをささげたあと、海岸に打ち上げられた漂着物や石を手で一つ一つ仕分けたり、スコップでかき分けたりしながら手がかりを探していました。
お盆休みを利用して東京から訪れた会社員の女性は、「気仙沼には初めて来ました。少しでも被災地の役に立ちたいという思いで作業をしています」と話していました。気仙沼警察署生活安全課の市川義則課長は「かさ上げ工事などによって捜索の場所は限られてきていますが、少しでも多くの手がかりを見つけて遺族のもとに返したい」と話していました。


浪江町長「福島の事故を教訓にしていない」
川内原発1号機が再稼働したことについて、福島第一原発事故により町の全域が避難区域となっている福島県浪江町の馬場有町長は、役場の避難先の福島県二本松市で報道関係者の取材に応じました。
この中で馬場町長は「福島の事故を教訓にしておらず、非常に残念だ。原発事故では想定以上のことが起きるのに、再稼働するのはどうかと思う。稼働する原発がゼロでも電力はまかなえていたのだから、動かす必要はない」と訴えました。そのうえで馬場町長は、「私たちは着の身着のままで避難したが、これだけ長期間、しかも全国に避難するようなことがあってはならない。川内原発で万が一のことが起きた際に、速やかに大規模な避難ができるのか疑問だし、避難のための道路が整備されているのかという問題もある。こうしたことを踏まえないまま再稼働して、万が一、福島のような事象が起きたら目も当てられない」と話しました。さらに馬場町長は再稼働が震災と原発事故から4年5か月の月命日と重なったことについて、「悲しい出来事だ。月命日に再稼働するのは悔しい」と話しました。


東日本大震災 月命日で遺族が墓参り
東日本大震災の発生から4年5か月の11日、津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市の寺には犠牲になった人の遺族などが墓参りに訪れました。
陸前高田市竹駒町にある浄土寺には午前中から震災で犠牲になった人の遺族や知り合いが墓参りに訪れ、花を手向けました。
陸前高田市の出身で現在は静岡県に住む会社員の高橋直人さん(31)は祖母のモトさん(当時85)、母親の節子さん(当時58)、それに弟の洋基さん(当時25)の3人を津波で亡くしました。3人は避難場所に指定されていた市民会館に避難しましたが、建物が大津波にのみ込まれて亡くなったということです。直人さんは毎年、お盆の時期に帰省して墓参りをしているということで、11日は弟が好きだったビールを供えて静かに手を合わせていました。
直人さんは「4年5か月がたっても悔しい気持ちは変わらないです。残された家族を大切にして前向きに暮らしていきたいです」とことばを詰まらせながら話していました。


震災から4年5か月 原発避難区域で家族を捜索
東日本大震災の発生から4年5か月となる月命日の11日、原発事故で町の全域が避難区域となっている福島県双葉町では、今も行方不明となっている家族を捜すため、自宅があった場所に戻って捜索に当たる人の姿が見られました。
東京電力福島第一原子力発電所がある双葉町で暮らしていた志賀一郎さん(68)は、震災による津波で自宅が流され、今も妻のさち子さん(当時63)と生後4か月だった孫の仁美ちゃんの行方が分かっていません。
2人を捜し続けている志賀さんは、11日も宮城県名取市の避難先から1人で自宅の跡地周辺を訪れ、捜索にあたる警察官と一緒にスコップを握って、手がかりが残ってないか、土を掘り返していました。
原発事故による避難区域は放射線の影響で立ち入りが制限され、行方不明者の捜索の大きな妨げになっています。
11日も2人の発見につながる手がかりは見つからず、志賀さんは、自宅近くで花を手向け、祈りを捧ささげていました。
志賀さんは、「原発事故の影響で2人の捜索を毎日できないことが情けない。『早く帰って来い』、それだけです」と話していました。
一方、月命日の11日、鹿児島県にある川内原子力発電所1号機が再稼働したことについて、志賀さんは「私みたいな運命を鹿児島の人たちに経験してほしくない。予想外のことは起きる。『必ず安全』ということはないと、分かってもらいたい」と話していました。


震災 関連死含めた死者不明者2万1000人超
東日本大震災の発生から4年5か月になり、警察がこれまでに確認した死者と行方不明者は1万8465人となっています。また、避難生活などで亡くなったいわゆる「震災関連死」は国のまとめで3000人以上と、「関連死」を含めた震災による死者と行方不明者は2万1000人を超えています。
警察庁によりますと、警察によって死亡が確認された人は、宮城県が9540人、岩手県が4673人、福島県が1612人、茨城県が24人、千葉県が21人、東京都が7人、栃木県と神奈川県がそれぞれ4人、青森県が3人、山形県が2人、群馬県と北海道がそれぞれ1人で、合わせて1万5892人となっています。
死亡した人の99%は身元が確認されましたが、依然として81人の身元が分かっていません。
また、警察に届け出があった行方不明者は、宮城県が1240人、岩手県が1129人、福島県が200人、千葉県が2人、茨城県と青森県がそれぞれ1人で、6つの県で合わせて2573人となっています。
一方、復興庁によりますと、避難生活による体調の悪化などで亡くなったいわゆる「震災関連死」は、ことし3月末現在で、福島県で1914人、宮城県で910人、岩手県で452人、茨城県で41人、千葉県で4人、長野県と神奈川県でそれぞれ3人、山形県で2人、東京都と埼玉県でそれぞれ1人の、少なくとも合わせて3331人となっています。
福島県では、「震災関連死」で亡くなった人が、津波など震災の直接の影響で死亡した人の数を上回っています。
これで東日本大震災による死者と行方不明者は、「震災関連死」を含めて少なくとも2万1000人を超えています。


震災語り継ぐ大学生 “ありがとう”を伝えて
東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県南三陸町出身の大学生がみずからの経験を語る「語り部の会」が7日、東京都内で開かれ、家族や大切な人に常に感謝の気持ちを伝えることの大切さを訴えました。
南三陸町出身で現在は静岡県内の大学に通う田畑祐梨さんは、東日本大震災が発生した当時、中学3年生で、卒業式の前日に津波に遭い、自宅を流されました。田畑さんは、震災のあと、高校生の仲間などとともに団体を立ち上げ、若い世代を中心に震災の経験を語り継いでいく活動を行っていて、現在も各地でその活動を続けています。
田畑さんは7日、東京都内で開かれた「語り部の会」で、当時の様子や被災地への思いなどについて語りました。
この中で、田畑さんは、避難所で支援物資の仕分け作業を担当していたときに世界各地から届けられる支援物資を見て、「いつか恩返しをしなければ」と思ったことや、震災直後から支え合ってきた友人が町を出て行くことに大きなショックを受けたことなど、震災後の被災地の様子を振り返りました。
また、恩師と慕っていた塾の女性講師が津波で亡くなったことに触れ、「震災の前日に先生と会いしました。先生にはたくさんのことを教えてもらい、お世話になった大好きな先生なのに、『ありがとう』を言えませんでした」と話し、時間がたつにつれ、後悔の思いが大きくなっていく苦しい胸のうちを紹介しました。
そして、「家族や大切な人はいついなくなるか分かりません。震災のように、1日であっという間にいなくなってしまうかもしれません。大切な人には常に『ありがとう』ということばを伝えてほしい」と、感謝の気持ちを伝えることの大切さを訴えました。


東日本大震災 月命日の法要 岩手
東日本大震災の発生から4年5か月の11日、岩手県山田町の寺では、犠牲者のための法要が行われました。
山田町の龍昌寺には震災で亡くなった合わせて258人の遺骨が埋葬されたり、安置されたりしていて月命日の毎月11日に法要を行っています。
震災の発生から4年5か月の11日は、遺族13人が本堂に集まり法要が営まれました。住職がお経を唱えたあと、遺族が焼香し、亡くなった家族に祈りをささげていました。龍昌寺の清水誠勝住職は「お盆が近い月命日は遺族にとって特別な思いがあると思います。今を大事に生きる大切さを感じながら供養をしてもらいたいです」と話していました。


その日、震災4年5カ月の集中捜索 東北3県、なお不明2500人余
 東日本大震災から四年五カ月となる十一日、岩手、宮城、福島各県の警察が行方不明者の手掛かりを求め、沿岸部を集中捜索した。
 宮城県石巻市長面(ながつら)地区の河口付近では、河北署員ら約十人が遺留品を見つけようと、手作業で捜索。同地区は津波で水没したため、六月から市が海水の抜き取り作業をし、今月四日に人の手による作業が始まったばかりだった。
 河北署の板橋淳一署長は「(不明者の)家族からも期待を寄せられている。誠心誠意作業し、一つでも多くの手掛かりを見つけたい」と話した。
 福島県は県警や消防などの関係機関計約四百七十人態勢で捜索。浪江町請戸(うけど)地区では、東北大東北アジア研究センターの佐藤源之(もとゆき)教授(電波応用工学)の協力を得て、レーダーを利用した機器で地中を調べた。
 福島県警察学校からも初任科生八十一人が参加し、県警の菅野(かんの)年幸警備部長が「震災時に警察官がどんな思いで住民に寄り添い、仕事したかを確認してもらいたい」と訓示を述べた。
 初任科生の井戸川寛也巡査(18)は同県富岡町で被災し、警察官の姿に憧れ同じ道を志した。「捜索に参加し、住民の代表として誇りと責任を持って未来に成果を残せるよう全力を尽くしたい」と話し、生い茂った雑草を力強く抜き続けた。
 警察庁によると、十日現在、被災三県で計二千五百六十九人の行方が分かっていない。


大震災から4年5カ月、不明者を集中捜索
 東日本大震災から4年5カ月となる11日、大きな被害が出た岩手、宮城、福島各県の警察が行方不明者の手掛かりを求めて、沿岸部を集中捜索する。
 宮城県石巻市長面地区の河口付近では、河北署員ら約10人が遺留品を見つけようと、手作業で捜索。同地区は震災の津波で水没したため、6月から市が海水の抜き取り作業を行い、今月4日に人の手による作業が始まったばかり。
 河北署の板橋淳一署長は「誠心誠意作業し、一つでも多くの手掛かりを見つけたい」と話した。
 福島県は県警や地元消防などの関係機関合わせ約470人態勢で沿岸部を捜索。浪江町請戸地区では、東北大東北アジア研究センターの佐藤源之教授(電波応用工学)の協力を得て、レーダーを利用した機器で地中を調査。
 警察庁によると、10日現在、被災3県で計2569人の行方が分かっていない。


自宅跡地かさ上げ前「最後」の祈り 11日、震災4年5カ月
 11日で東日本大震災から4年5カ月。大船渡市猪川町の仮設住宅で暮らす自営業上野政寛さん(55)は10日、行方不明の父=当時(76)、妹=同(46)=を思い、同市大船渡町の自宅跡地に花を手向けた。復興工事のかさ上げで、この場所で手を合わせられる盆は「今年で最後だろう」。時がたとうとも、最愛の家族がいない現実を納得することはできない。追慕の念、歯がゆさ。かみしめるように、祈りをささげた。
 「成仏してくれよ。見つけられなくてごめんな」。土が高く盛られ、草が生い茂るかさ上げ地。上野さんは、父がいつも過ごした居間だった場所に近い斜面に花を供え、静かに手を合わせた。温厚で慕われ、人に迷惑をかけるなと教えてくれた父。しっかり者で責任感が強い、たった一人の妹。親戚に促され、2011年の暮れに父の死亡を届けはしたが「いまだに受け入れられないし、骨のない墓はつらい」。父の墓には、車から見つけた免許証だけを入れている。
 震災直後は、とにかく2人を捜し続けた。毎日8時間並んでガソリンを確保し、遺体安置所を回った。仙台市までの各地を巡り、自分にできることはすべてやった。
 彼岸、盆、3月11日。祈りの場であり続けた自宅跡地前の県道は、年度内にもかさ上げを終え、家族の歴史を刻んだ土地は、いずれ換地される。立ち入ることができる限り、人々の目に入るように花を供え続ける。「震災直後のつらさを忘れちゃいけない」。そして「何とか2人が見つかってほしい」。何よりの願いだ。


[川内原発再稼働]疑問多く認められない
 鹿児島県薩摩川内市にある九州電力の川内原発1号機が再稼働する。
 福島第1原発事故から4年5カ月。経済界の意向を背景に、国民の6割近い反対を押し切っての極めて強引な決定だ。必要な保安規定の変更を原子力規制委員会が認可したのはわずか6日前のことで、スケジュールありきの感も拭えない。
 九電は11日に原子炉を起動し、14日にも発電を開始する。新規制基準に合格した原発としては初の稼働である。
 この新規制基準は福島の事故の反省を踏まえて、規制委によって策定された。炉心溶融や放射性物質の大量放出といった過酷事故対策を義務付けたほか、地震、津波など自然災害への備えを厳格化した。
 規制が従来より厳しくなったのは確かだが、安倍政権が錦の御旗とする「世界最高水準の規制基準」は信用できるのか。
 例えば、川内原発周辺には大規模噴火の可能性が指摘される火山がある。
 九電は巨大噴火があっても火砕流などの影響を受ける可能性は十分小さいと評価し、規制委も妥当と追認。噴火の前兆を捉えるための監視を条件とする。
 しかしこの決定には、噴火予知の限界への理解が欠けている。日本火山学会や火山研究者の指摘するところである。
 過去に巨大噴火を起こした火山が集中する地域であることを考えれば、立地条件を根本から問うべきだ。
    ■    ■
 再稼働で住民が最も不安に思っているのは、福島第1原発事故のような過酷事故が起きた際、どのように被ばくを防ぎ、どのように逃げるかといった避難計画だ。
 国は原発から半径30キロ圏内の自治体に避難計画の策定を義務付けている。川内原発の30キロ圏には鹿児島県の9市町が含まれ、約21万人が暮らす。圏外にある市町に避難する計画だが、受け入れ体制の整備は具体的には進んでいない。
 本来なら再稼働の前に実施すべき住民の避難訓練も先送りされたまま。病院や老人介護施設など災害弱者の避難計画策定も遅れている。
 そもそも再稼働にお墨付きを与えた規制委は、避難計画を審査の対象にしておらず、実際に事故が起きた場合の責任の所在が不明確となっている。住民の命を守る最後の砦(とりで)となる避難計画の実効性にはたくさんの疑問符が付く。
    ■    ■
 政府や電力会社が再稼働を急ぐのには、電力コストを重視した景気対策、経営改善といった側面がある。
 しかし忘れてはならないのは、「核のごみ」(高レベル放射性廃棄物)の最終処分が宙に浮いたままという現実だ。原発が稼働すれば廃棄物は生まれ続ける。
 福島県では今なお約11万人が避難生活を余儀なくされている。「いったん事故が起きると、住民の命、なりわい、歴史が奪われる」という悲痛な叫びが胸を打つ。
 事故の収束が見えないままの再稼働を認めるわけにはいかない。


原発ゼロが終わる日に 誰が責任を負うのか
 誰も安全とは言わず、責任を負える人もない。なのに、九州電力川内原発1号機(鹿児島県)がきょう、再稼働する。3・11の災禍が消えぬこの国で。
 この朝、中央制御室からの操作で核分裂を抑えていた三十二本の制御棒が引き抜かれ、原子炉が起動する。
 関西電力大飯原発4号機(福井県)が定期点検のため停止して以来、一年十一カ月ぶりに、日本の原発ゼロ状態が終わる。
 このようなかたちの原発回帰に異論を唱えたい。
 今なぜ、再稼働できるのか。なぜ再稼働させねばならないのか、という多くの国民の素朴な問いに、政府も電力会社も、答えていないからである。
◆「あなた任せ」の連鎖
 原子力規制委員会が、3・11後の新規制基準に「適合」と判断した−。「安全」だという根拠は、ほぼこれだけだと言っていい。
 ところが規制委の田中俊一委員長は「(新規制基準は)原子力施設の設置や運転等可否を判断するためのもので、絶対的な安全性を確保するものではない」という趣旨の発言を繰り返す。
 田中委員長は「安全目標というのは、決してわれわれと国民が合意してつくったものではない」とも、言っている。
 規制委自身が、安全を保証する機関でも、再稼働の是非を論じる場所でもないと、表明し続けているのである。
 政府はどうか。
 安倍首相は「規制委の再稼働に適合すると認められた原発は、再稼働を進めたい」と、こちらも繰り返す。つまり「あなた任せ」なのである。
 「あなた任せ」と言えば、規制委も、例外ではないだろう。
 3・11を教訓に、原発から半径三十キロ圏の自治体に避難計画の策定が義務付けられた。
 川内原発の場合、圏内九市町に約二十一万人が暮らしている。
 都市から離れた場所に立地される原発の周辺は、ただでさえ交通事情に難がある場合が多い。
 原発事故の非常事態に、机上の避難計画に果たして効果があるのかどうか。規制委は審査の対象とせず、自治体にお任せだ。
 では、自治体は。
 鹿児島県の伊藤祐一郎知事は、原発の必要性を明示した文書を出すよう政府に要求し、経済産業大臣名のそれを受け取ったあと、住民説明会などを経て、再稼働に同意した。
 政府の要請に従ったという形式を整えたように見えないか。
◆火山学者は警告する
 事故が起こった場合の責任は、役所の中では堂々巡り。結局、電力会社の自己責任ということになるのだろう。法律でもそうなっている。
 だが私たちは、もう知っている。原発事故の責任は、一企業に負いきれるものではないのだと。
 あの日からやがて四年半。現に十一万もの人々が、いまだ故郷を追われたままで、十分な補償も受けられず、あるいは中途半端に打ち切られ、放射能による将来の健康不安を押し殺して暮らしているではないか。
 原発には、それぞれ個別の不安もある。
 川内原発は、姶良(あいら)カルデラ(火山性のくぼ地)の西、四十五キロという位置にある。鹿児島湾の奥にある巨大噴火の痕跡だ。桜島も、その上にのっている。
 鹿児島湾を中心に、小林、阿多、加久藤(かくとう)といったカルデラが南北一直線に並んでおり、過去の巨大噴火の際には、原発がある川内川の河口にも火砕流が届いていたことは、九電も規制委も認めている。
 規制委は、九電の主張そのままに、巨大噴火の予知は可能で、万一の際にも核燃料を安全に運び出す余裕はあると言う。
 しかし、ほとんどの火山学者がそれを否定する。規制委の判断は、科学的にも、あいまいなままなのだ。
 このような状態で再稼働を推し進めるということは、3・11の犠牲に対する侮辱であり、安全神話への回帰にほかならない。
◆安全な未来は描ける
 3・11は世界の流れを変えた。特に欧米は、安全対策に膨大な費用がかかる原発への依存を徐々に脱して、再生可能エネルギーの比重を高め、地域振興を進めつつ、経済的にも利益を得ようと、それを機に未来図を描きはじめた。
 福島のある日本はなぜ、描こうとしないのか。
 川内のあとには、規制委からすでに適合と判断された関西電力高浜原発(福井県)、四国電力伊方原発(愛媛県)が続いている。
 再稼働に踏み込むということは、回避も全うも不可能な、重過ぎる責任を背負うということだ。
 国民の多くは納得していない。


川内原発再稼働:飯舘電力社長「福島の今知ってるのに…」
 ◇再生エネ普及に取り組む人たちからも疑問の声
 東京電力福島第1原発事故を受け、原発に頼らない社会を目指して太陽光発電など再生可能エネルギー普及に取り組む人たちからも川内原発の再稼働に疑問の声が上がった。
 「福島で何が起きているか誰もが知っているはず。それでも原発を再稼働させるのか。経済優先の現状を福島から変えていきたい」。全村避難が続く福島県飯舘村で昨年9月、村民の出資で設立した「飯舘電力」社長の小林稔さん(63)はこう決意を語る。
 村の丘陵地に太陽光パネル約200枚が並ぶ。帰村がかなった時に村民の暮らしの支えになることを目指す飯舘電力の太陽光発電所だ。今年2月に完成した。出力49.5キロワット。20年にわたり1キロワット時当たり32円で東北電力に売電し、年約160万円の利益を見込む。
 小林さんは震災前、村の牧場で和牛約30頭を育て、11ヘクタールの水田で米作もしていた。震災直後、宮城県蔵王町の知人の牧場に牛を避難させた。今も避難先の福島県喜多方市から通って世話をする。元の牛舎は昨年、雪の重みでつぶれた。
 喜多方市で酒米作りに携わったことが縁で、震災を機に再生エネルギーの普及を目指す「会津電力」を起こした酒造会社社長、佐藤弥右衛門さん(64)と出会い、自らも電力会社を設立することを決意した。「原発事故は飯舘村民から日常を奪った。もう原発はいらない」。佐藤さんからアドバイスを受け、村民や地元企業などから1000万円を超える出資金を集めた。
 川内原発再稼働について小林さんは「地元で暮らす人たちが判断したこと。簡単に批判できない」と話す。原発関連の企業で多くの人が働き、生活してきた事故前の福島の姿を重ねるからだ。「だが、福島の現実を見なかったことにして再稼働したのであれば悲し過ぎる」と肩を落とす。「すぐにとはいかなくても再生エネルギーで村を復興させる。その姿を全国の人に見てもらい、原発が本当に必要なのか考えてもらうしかない」【喜浦遊】
 ◇飯田哲也さん「ご当地エネルギー」全国に広まる
 NPO法人環境エネルギー政策研究所(東京都)などによると、大規模な設備が必要な水力発電を除く再生可能エネルギーの割合は、2011年度が1.4%だったのに対し14年度は4.4%で、福島原発事故後に大きく伸びた。研究所の飯田哲也所長は「事故を機に安全でクリーンなエネルギーへの関心が高まった。地域の電力を地域で生み出す『ご当地エネルギー』の取り組みも全国に広まった」と話す。
 国は今年7月、15年後の総発電量に占める電源ごとの割合(電源構成)について、原発を20〜22%とする方針を決定した。新設・増設や運転期間(原則40年)延長をしなければ達成できない数字とされる。一方、再生可能エネルギーの割合は現在の2倍の22〜24%としている。飯田所長は「再生エネの割合はもっと伸ばせるはず。原発ありきの方針がブレーキをかけている」と指摘する。【喜浦遊】


川内原発再稼働:時計の針を「福島前」に戻すな
 ◇政府の「原発回帰路線」が本格的に動き出す
 九州電力が11日、川内(せんだい)原発1号機(鹿児島県薩摩川内市)を再稼働させたことで、政府の「原発回帰路線」が本格的に動き出した。川内1号機は、東京電力福島第1原発事故の教訓を盛り込んだ新規制基準に基づく「再稼働第1号」となったが、事故リスクがゼロになったわけではない。事故から4年半が経過するが、時計の針を事故前に戻すことはあってはならない。
 新規制基準で地震や津波対策などのハード面は強化された。しかしソフト面はどうか。事故後、原子力防災の対象範囲は半径30キロ圏に拡大され、住民避難の対象も大幅に広がったにもかかわらず、川内原発では新しい避難計画に基づいた訓練は未実施だ。
 防災範囲の拡大に伴って、その対象となる住民は全国480万人になると推定される。全国民の4%が原発の「地元」に属する時代となり、もはや原発事故は「対岸の火事」ではない。
 にもかかわらず、住民避難は再稼働要件には含まれていない。原子力規制委員会は新規制基準について「世界最高レベルの厳しさ」と表現するが、新規制基準と原子力防災は「安全の車の両輪」(田中俊一委員長)だったはずだ。
 原発はいったん事故を起こせば国全体が崩壊しかねないことを、私たちは福島事故の教訓として学んだ。同時に「絶対安全な原発はない」ことも身をもって知った。福島事故によっていまだに十数万人が避難を余儀なくされている。4年半経過するが、あの事故を「なかったこと」「終わったこと」にすることは許されない。同じ過ちを繰り返さないため、国と自治体、そして電力会社は住民避難や原発の安全対策の研さんを怠ってはならない。【鳥井真平】


<川内再稼働>青森の反核団体が抗議集会
 青森県反核実行委員会(三上武志委員長)は10日、青森市の青森県庁前で、九州電力川内原発1号機の再稼働に抗議する緊急集会を開いた。
 青森県平和労組会議や反核市民団体のメンバーなど約50人が参加。川内原発1号機と東北電力東通原発(青森県東通村)の再稼働や電源開発の進める大間原発(青森県大間町)の建設阻止、日本原燃の使用済み核燃料再処理工場(青森県六ケ所村)の即時撤廃などを求めるアピールを採択した。
 参加した核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団の山田清彦事務局長は「青森県に高レベル放射性廃棄物が入ってきて30年がたった。300年すれば低レベルとなるから大丈夫だと言われてきたが、ごまかされてはいけない。青森から声を上げ、日本から核をなくす戦いを進めていく」と訴えた。


日航機墜落30年 8・12を安全の原点に
 御巣鷹の尾根には犠牲者の名が刻まれた墓標が立ち並び、きのうのことのように事故の記憶を呼び覚ます。それを見守るように植えられた木々は歳月を経て、空に向かって大きく育った。
 520人の尊い命が失われた日航機墜落からあすで30年になる。社会は安全を守る不断の努力をしているか、御巣鷹は今も問い続けている。
 事故から教訓を得るために、遺族でつくる「8・12連絡会」が尽くしてきた力は計り知れない。
 2010年、国土交通省の運輸安全委員会に対し、事故調査報告書の疑問点を示した。両者が議論を重ね、難解な報告書をわかりやすくした解説書の作成につながる。事故調査のあり方を変え、教訓を社会で共有する先駆けになった。
 遺族が長年、結束して真相究明を求め、行動してきた成果だ。
 一つのミスを大事故につなげない多重防護のシステムをどう構築していくのか。日航機事故が突きつけた重い課題だ。
 日航は、米ボーイング社による圧力隔壁のずさんな修理を機体検査で発見できなかった。ボ社がミスを犯すという前提に立てなかったからだ。日航は事故後、修理ミスを見逃さないよう、機体メーカー任せにしない検査態勢を整えた。
 墜落事故以降、日本の大手航空会社で乗客の死亡事故は起きていない。しかし「あわや」が繰り返される。安全と向き合う企業風土に問題はないか。ミスから学び、組織やシステムを絶えず見直す姿勢がなければ、教訓はやがて風化する。
 航空業界に限らない。05年、JR西日本福知山線の脱線事故では運転士のブレーキ使用が遅れた。同様のミスはたびたび起きていたが、同社は事故が起きるまで対策を取っていなかった。
 安全への投資を惜しまないことが人命を預かる企業の責務だ。利益や効率を優先していないか、公共交通を担う企業の経営者はいま一度省みてほしい。
 「8・12連絡会」が事故から30年を機に出版した文集「茜雲(あかねぐも)」にこうある。「日本の『安全文化』は被害者が発信する悲痛な声、事故を起こした側の真摯(しんし)な反省の姿勢、それらを受け入れ、支えていく社会の動きが合わさって高まっていく」
 その思いに私たちは応えなければならない。
 御巣鷹には今年も遺族らが慰霊の登山をする。これまでJR福知山線事故などの被害者も同じ尾根に立った。8・12は、多くの犠牲者を生んだ事故を忘れない原点である。
 鎮魂と安全を祈る鐘がこの夏も御巣鷹に響き渡る。


九州電力川内原発1号機の再稼働に断固抗議する(談話)
社会民主党幹事長
又市征治
1.本日午前10時半、九州電力は川内原発1号機を再稼働した。2013年7月施行の新規制基準に基づく初の運転再開であり、これにより2013年9月以降続いていた「原発稼働ゼロ」が1年11か月ぶりに終わる。「日本一危険」な川内原発の再稼働を強行した九州電力、政府、原子力規制委員会に対し、強い憤りを持って断固抗議する。
2.2011年3月11日の福島第一原子力発電所事故から4年余り経ったにもかかわらず、事故原因すら解明されないまま、原発労働者の被曝の増大や累積する汚染水の処理など困難な問題が山積し、事故の収束の見通しは立っていない。今なお11万人を超える住民が避難生活を強いられている。放射能の影響や避難生活のストレスなどから、子どもたちをはじめ多くの住民の健康被害も懸念されている。しかも避難指示解除の名の下に、加害者責任の放棄と賠償打ち切りなどの被災者切り捨てが始まっている。こうした中の再稼働は断じて認められない。
3.田中俊一原子力規制委員長は、新しい規制基準の適合審査は「安全性を保証するものではない」と発言し、菅官房長官は「原発の安全性は、規制委員会の判断にゆだねている」、「個々の再稼働は事業者の判断で決める」などと互いに責任転嫁している。川内原発で万が一事故が起きた場合の損害賠償に充てる相当額の担保もないままである。福島原発事故が起きても誰も責任を問われない無責任体制を続けて再稼働するのは許されない。
4.原子力規制委員会は、川内原発を新規制基準に適合するとしたが、事故の可能性は否定していない。耐震設計の目安となる地震の揺れ(基準地震動)の根拠も不十分で、大地震には対応できない可能性がある。桜島を含む姶良カルデラをはじめとしたカルデラと巨大噴火の危険性には、火山学会など専門家からも異論が出ている。巨大噴火時の核燃料の緊急避難の約束も実効性のない「空手形」にすぎない。県民の生命を守る避難計画もずさんな絵に描いた餅である。特に、病院や福祉施設の患者・入所者をはじめとする要援護者については手つかずである。台風などとの複合災害対策も不十分である。3県にまたがる10の周辺自治体議会が求めている住民説明会も開かれていない。国民から規制委員会に寄せられた1万7000件を超える意見もほとんど顧みられることがなかった。
5.川内原発は、運転開始から30年経過していることから、保守管理体制が懸念される。設備の劣化具合を評価し、保守管理方針を記す「保安規定」も長らく不備が放置されてきた。廃炉を選択する方が賢明である。
6.政府は、国民世論を無視し、目先の再稼働に固執するのではなく、「脱原発」の方針を明確にし、自然エネルギーの拡大に向けて全力を尽くすべきである。社民党は、脱原発基本法の提出を目指すとともに、「命より大事なもんがあってよかですか!」との思いで反対する多くの皆さんとともに、国会での追及、政府交渉、院外の反対闘争、法廷闘争に全力をあげる。


川内原発の再稼働に断固抗議し、停止を求める
日本共産党幹部会委員長 志位和夫
一、本日、安倍政権の原発推進政策に従って、九州電力が川内原発1号機を再稼働させたことに断固抗議するとともに、ただちに停止措置をとることを強く要求する。
 東京電力・福島原発事故後、国民の多数は、原発再稼働にいっかんして反対しており、最近の世論調査でも6割近くが反対を表明している。福島原発事故の原因究明さえ行われないまま、国民多数の民意を真っ向から踏みにじって、川内原発再稼働を強行したことは、断じて許されない。
一、安倍政権が、川内原発周辺の住民にも、自治体にも、まともな説明をすることさえ拒絶したまま再稼働を強行したことも重大である。事故が起きれば深刻な被害が及ぶことが予想される九州3県の5市5町の議会が、住民説明会を開くことを要求しているが、これもまったく無視して再稼働を強行した。住民の声を「聞く耳」さえ持たないという、およそ民主政治とは相いれない政治姿勢である。
一、安倍首相は、「新規制基準に適合した原発の再稼働をすすめる」というが、原子力規制委員会の「新規制基準」は、アメリカ、ヨーロッパの基準よりも劣っており、「世界で最も厳しい水準」という政府の主張が事実に反することは国会で何度も指摘されていることである。田中規制委員長自身、この基準に適合しても「重大事故が起きないとは言えない」と明言しているにもかかわらず、「新規制基準に適合」をもって再稼働をすすめることは、無責任のきわみである。
 火山学会が「予知できない」という大規模噴火を九州電力が「数十年前に予知できる」と強弁し政府もこれを追認したこと、医療・介護施設をはじめ住民避難のまともな計画と態勢がとられていないことも重大である。
 これらは最悪の「安全神話」の復活であり、到底容認できるものではない。
一、日本中の原発が停止した“原発稼働ゼロ”の期間は700日になろうとしている。原発がなくても電力が足りていることは、この月日が証明している。
 ひとたび大事故を起こしたら、その被害が空間的にも時間的にも制限なく広がる「異質の危険」を持つ原発と人類は共存できない。使用済み核燃料の処分方法が存在しないことも、原発の根本的かつ致命的な大問題である。
 福島原発事故を経験した日本が今とりくむべきことは、省エネの徹底と再生可能エネルギーの計画的かつ大量の導入に精力的に取り組み、「原発ゼロの日本」を実現することである。ここにこそ、日本社会と経済の持続可能な発展とともに、新しい科学技術と産業をつくりだす道がある。
一、安倍政権は、その暴走によって、自らの墓穴を掘りつつある。民意無視の強権政治は、国民の大きな怒りと批判によって包囲されつつある。原発再稼働、戦争法案、沖縄新基地建設、雇用破壊、TPPなど、あらゆる分野で「民意無視の安倍政治ノー」の運動を大きく前進させ、合流させて、安倍政権打倒の国民的大運動をさらに大きく発展させることを心から呼びかける。日本共産党は、国民のたたかいとしっかりとスクラムをくんでいっそう奮闘する決意である。

生命大躍進/都立図書館で解放新聞・東京

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Anniversaire de Nagasaki : Disney s'excuse pour un tweet "inapproprié"
Les services de Disney au Japon ont présenté leurs excuses après un tweet jugé offensant publié le jour de l'anniversaire du bombardement atomique de Nagasaki.
Le géant américain des médias et du divertissement Disney a dû présenter des excuses pour un de ses tweets en langue japonaise jugé blessant le jour des commémorations dimanche de l'attaque nucléaire américaine sur la ville de Nagasaki.
Les services de Disney au Japon, en référence au dessin animé "Alice au pays des merveilles", avaient affiché sur les réseaux sociaux un message sur les célèbres "non anniversaires" d'Alice. Le message d'origine en anglais disait "a very merry unbirthday" (un très joyeux non anniversaire). Dans le film de Disney, les personnages fêtent un "non anniversaire" tous les jours de l'année sauf celui de leur anniversaire.
"Un jour de rien" le jour du 70e anniversaire du bombardement de Nagasaki
Le tweet japonais traduisait ces mots par "un jour de rien" et était diffusé le 9 août. Le même jour, les Japonais marquaient le 70e anniversaire du bombardement atomique de Nagasaki par un avion américain, qui a provoqué la mort de quelque 74.000 personnes sur le coup puis sous l'effet de l'irradiation.
Disney s'est empressé d'effacer le tweet dimanche après avoir reçu une volée de critiques sur l'internet. "Nous présentons de profondes excuses pour cette expression inappropriée qui pourrait importuner des gens", a tweeté le géant américain dimanche. Aucun responsable de la compagnie n'a pu être contacté lundi.
Trois jours avant Nagasaki en 1945, une première bombe atomique, "Little Boy", avait frappé Hiroshima (ouest), tuant environ 140.000 personnes au moment de l'impact et plus tard de maladie. Ces deux bombardements américains allaient précipiter la capitulation du Japon le 15 août 1945 et la fin de la Guerre du Pacifique.
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上野の国立科学博物館で開催される「生命大躍進」を見に行きました.もちろんNHKの番組を見て,興味を持っているからです.予想外に子どもたちが多いです.子どもたちはアノマロカリスに夢中です.私もそうです.三葉虫の化石もありました.
鶯谷を散歩して南千住に行った後,小伝馬町を経て銀座でスペイン料理をいただきました.初めてかも.
ネットカフェで一服した後,新大久保のイスラム横丁に行ってみました.すごいって感じです.
都立図書館に行くのに麻布十番でおりて仙台坂を上っていきます.汗ダラダラです.解放新聞を読みに来たんです.中央版なら大阪市立中央図書館で読むことができると思いますが,東京版を見たいと思ってきました.差別がまだあるんだなぁ,と残念な感じです.
夜は門前仲町で東松島のカキをいただきました.

<防潮堤>地盤一転隆起 計画に反映されず
 東日本大震災で広範囲に地盤沈下が生じた東北の太平洋沿岸部で、震災から4年が過ぎて地盤が一転して隆起しているのに、防潮堤の高さ設定に反映されていない。国が震災直後に観測した基準点がその後は見直されていないことが一因。建設が進む地元の住民は「防潮堤が必要以上の高さになる」と疑問視している。
 国土地理院の衛星利用測位システム(GPS)による観測で、震災時からことし3月までの主な地点の地盤高の変動量は表の通り。宮城県内の上昇幅は石巻市寄磯浜の38センチ(震災時沈下幅107センチ)、東松島市矢本32センチ(同50センチ)など県内15地点全てで上昇した。
 地盤が65センチ沈下した気仙沼市でも、これまでに21センチ上昇した。地元住民は県が整備する防潮堤に「地盤隆起を堤防高に反映させてほしい」と要望する。これに対して県は「防潮堤の盛りすぎを避けたいのは当然だが、国の基準が変わっていないので堤防高を下げることは難しい」との見解だ。
 国の基準とは、国土地理院が管理している標高の基準「水準点」のこと。震災で東北の太平洋沿岸は東方向への地盤の移動と沈下が起きた。そこで同院は現地測量をし直し、2011年10月〜12年12月に震災の影響を受けた約2800地点で新しい水準点を示した。
 しかし、その後は見直していない。同院計画課は「見直しの必要性は認識しているが、地震が引き起こした地殻変動の余波が長期間続いており、タイミングが難しい」と釈明する。
 防潮堤の高さは、数十年〜百数十年に1度の発生が予想される津波を防げるように設定され、国や県、沿岸自治体が建設している。
 宮城県河川課は「GPS観測結果はあくまで速報値。防潮堤は重要構造物なのできちんと水準点に基づき建設する」と説明。国土地理院に水準点見直しの要望もしていないのが実情だ。
 ただ、防潮堤以外では地盤隆起に対応する例もある。宮城県は隆起が大きい20カ所の管理漁港で、当初計画より岸壁の高さを引き下げるなど対策を進める。
 「隆起で岸壁が海面から高くなり、船の乗り降りが大変になった。使い勝手を良くしたい」と県漁港復興推進室。柔軟な対応が防潮堤との違いを際立たせる結果となっている。


<川内再稼働>福島から避難者やりきれぬ思い
 鹿児島県薩摩川内市の九州電力川内原発1号機が11日にも再稼働する。4年5カ月前の東京電力福島第1原発事故で、鹿児島には福島から106人が避難した。放射能から逃れ、新天地で一歩を踏み出した避難者は着々と進む再稼働の動きをやりきれない思いで見詰めている。
<周囲は肯定的>
 あれだけの事故だったのに、もう忘れられたのだろうか−。再稼働が近づくにつれ、不信感は高まる。
 白河市に住んでいた山崎テイ子さん(63)は夫博一さん(66)の故郷である薩摩川内市で暮らす。
 事故当時、体調を崩していた。落ち着いて過ごせるようにと2カ月後に引っ越した。市に紹介された市営住宅は原発から10キロほど。あまりの近さに抵抗感があったが、自主避難で家計は苦しい。
 原発作業員の宿舎で食事を作るパートをしている。原発関連の仕事に就くことに葛藤はあるが、他に働き口は見つからない。背に腹は代えられなかった。
 「原発が再稼働すれば仕事が増えるね」「作業員の人たちが戻ってきたね」。周囲は皆、再稼働に肯定的だ。「目先の損得感情では幸せになんてなれない。福島に行ってみればいい…」。同僚たちの会話に無言でつっこみを入れる。
 福島県双葉町に住んでいた遠藤浩幸さん(49)、緒美(ちよみ)さん(43)夫妻は子ども3人と鹿児島市に避難した。縁もゆかりもなかったが、子どもたちの被ばくを恐れ、1000キロ以上離れた地を選んだ。
<新基準に疑問>
 浩幸さんは東電の下請け会社に勤め、事故直後も2011年6月まで廃炉作業に当たった。現在は太陽光パネル設置などを手掛ける事業を営む。「新基準が本当に信用できるのだろうか。国はもう一度、安全神話をつくろうとしているように見える」
 報道を通して、鹿児島県知事や薩摩川内市長は当初から再稼働に「前のめり」な印象を受けた。その背中を押したのは住民らの「無関心」だと思っている。「福島の事故はテレビの中の出来事という感覚。結局は地元のことは地元の人が決めるんだ」
 双葉町の自宅は中間貯蔵施設の予定地になった。緒美さんは語気を強める。「放射能の不安におびえ、大切な場所を失う覚悟があるならいい。『賠償金もらっているんだろう』と非難されても耐えられるなら再稼働すればいい」
 鹿児島県内の福島県出身者は11年4月、避難者を支援しようと「うつくしま福島の会」を設立した。発起人の一人、霧島市で印刷会社を営む斉藤武夫さん(61)=双葉町出身=は、定期的に交流会を開き、避難者の悩みに耳を傾けてきた。
 「避難者は何度、原発に翻弄(ほんろう)されなければならないのか。落ち着いて生活できる環境を整えてあげてほしい」と切に願っている。(福島総局・桐生薫子)


<安保法案>大学生ら仙台で反対デモ
 参院で審議中の安全保障関連法案に反対する宮城県の大学生ネットワーク「SEALDs TOHOKU(シールズ東北)」が9日、仙台市中心部で、「戦争法案ヤバいっしょ!」と銘打ったデモ行進を実施し、法案の成立阻止を呼び掛けた。
 東北の学生や一般市民ら約600人(主催者発表)が参加。「NO! 戦争法案」と書かれた横断幕を掲げ、「東北だって黙ってないさ」「戦争法案止めっぺし」と叫びながら、市中心部の約2キロを約1時間かけて歩いた。
 メンバーの一人、東北大法学部2年の久道瑛未さん(19)は「東北でも学生が政治におかしいと言っていい雰囲気をつくり出していきたい」と話した。
 シールズ東北は東北大などの学生約20人が7月、国会周辺で抗議活動を続ける関東の学生グループ「SEALDs」に賛同して発足させた。


91歳、節目の夏 日航機事故30年 娘の残した詩を心の支えに
 一九八五年の日航ジャンボ機墜落事故で、婚約中の次女愛子さん=当時(26)=を失った兵庫県西脇市の田中蔚(しげる)さん(91)は、事故から三十年と、自らがシベリアに抑留されて七十年という二つの節目を八月に迎える。事故後は愛子さんの思い出や婚約者、彼女が残した詩に支えられて生きてきた。「娘の死はあまりに若すぎた。自分はシベリア死線をさまよったが、なぜか生き永らえた」と命の尊さをかみしめている。 (菅原洋)
 花で飾られたひつぎ。ウエディングドレス姿で胸には花束の愛子さん。田中さんが「人の心をすぐに察する優しい子だった」という彼女を愛した婚約者の青年が見つめていた。
 その青年が愛子さんとの結婚の許しを得ようと来訪したのは事故の約一カ月前。田中さんは「うちは同和地区ですよ」と重い口を開いた。青年は「愛子さんから聞いています。両親も承知していて何の抵抗もありません」と迷わず答えた。「今でも結婚差別が根深く残る」(田中さん)という。しかし、幸せな時はあまりに短かった。
 愛子さんは兵庫県内の私立中学・高校で体育教師をしていた。山梨県内で体育の講習会を受けた帰り、事故機に乗り合わせた。
 青年は悲嘆に暮れる田中さん家族を気遣った。田中さんの妻の肩をもみ、電話の対応や買い物などに奔走した。田中さんが兵庫県に戻るように勧めると、青年は「愛子さんのそばにいさせてほしい」と涙を流しながら訴えた。
 田中さんは、そんな青年の思いを断ち切らせたいと思い、青年が新たな人生を歩みだすように諭したという。
 青年はしばらくして結婚したが、その後も妻や子どもを連れて田中さん宅を訪れ続ける。
 四十九日がすぎ、田中さんが遺品を整理していた時だった。ノートから舞い落ちた便箋に、一編の詩がしたためられていた。
 悲しみ、苦しみ、涙、命−。航空機を連想させる翼という文字もあった。まるで、自らの運命を悟っていたかのような詩だった。
 田中さんは「光っていたい」という愛子さんの願いに寄り添おうと、この三十年間、仏間の電灯を消したことがない。田中さんはこの詩も自分の後半生を支えてくれたと思う。
 この八月で四年にわたったシベリア抑留が始まって七十年。思い立ってその間の日記やメモを見返し、五十五ページの小冊子にまとめた。極寒の中、弾丸が耳元をかすめたり、荷台から落下して足に障害を負ったり、戦友が相次いで亡くなったりした経験をつづった。
 「よくぞ生き残ったと思う。この命ある限り、娘が記してくれた遺言のような詩と共に、命の尊さを伝え続けたい」
   ◇
 時間(とき)は
 悲しみや苦しみを和らげ
 涙をため息に変えてくれる そう信じます
 人の心は翼を持っていて
 人の命には限りがある
 だからこそ自分の思うように生きたい
 そのときを大切にしなければ……
 今、光っていたい


4年3か月ぶり全線開通仙石線 最短52分で仙台石巻結ぶ
 夏休みにどこに行こう? もしまだ迷っていらっしゃるようでしたら、宮城県石巻市はいかがでしょう。今春、石巻は東京からグンと近くなりました。コラムニスト木村和久さんが高校卒業までを過ごした石巻を歩く「石巻なう」特別編の今回は、その感動の軌跡を綴ります。
 * * *
 この日がやってくるのを、どれだけ待ちわびたでしょうか。仙台と石巻を結ぶ、JR仙石線が5月30日、4年3か月ぶりに全線開通となりました。いや長かった、これほど待たされるとは。実は津波の影響で、線路を移設して新しく造ったため、工事が延びていたのです。
 もちろん開通当日、東京から新幹線に乗って、お祝いに駆けつけました。朝からなぜか、東京駅で豪華駅弁を奮発して買います。すこぶるハイテンションで、宮城路へ向かったのでした。
 仙台から、新しくできた「仙石東北ライン」に乗ってみます。仙台と石巻を結ぶのが仙石線ですが、実は途中の松島まで東北本線が並行して走っています。そもそも仙石線はその昔、宮城電鉄という私鉄で、駅と駅との間隔が短いのです。だから駅が少なくスピードの出せる東北本線で、松島近辺まで来て、それから列車は仙石線を走るようにして、乗客の利便性を図ったのです。
 この仙石東北ラインのために、JR東日本はハイブリッド車両なる新型車を導入しました。気合が入ってますね。始発の仙台から、結構な数のお客さんが乗車しています。なかには宮城ローカルのテレビクルーもいて、早くもテンションは高くなります。
 石巻へ向かうとき、ちょうど松島あたりから、海が見え始めます。やがて、新しく移築した野蒜駅へさしかかろうとしたとき、隣にいたおばさんが、すっくと立ち上がり、遠くの海を見だしたのです。
「どうしたんですか?」とぼくが聞くと、
大震災のとき、野蒜の病院にいて、家族から死んだと思われたのよ。診察が早く終わったので無事だったけど、お互い連絡が取れるまで、生きた心地しなかったわ」
 おばさんはそう言うや、涙ぐみながら「あ〜、こうなっているのね〜。まだ震災のままだわ」と感慨深げに、旧野蒜駅とその先に広がる海を見ていました。こちらも思わず涙ぐみ、お互いの震災苦労話を語りあいました。
 いろんな思い、悲しみ、そして喜びを乗せて一路石巻へ。途中沿線からは、たくさんのかたがたが手を振ってくれています。終点石巻では、ちょうどアニソン歌手の水木一郎さんが、仙石線のホームで開業イベント中。水木さんが電車の発車の合図をかけたそうですが、かなりの人だかりができていて、もう何がなんだかわからない状態になっていました。
 というわけで、めでたく開通となり、仙台と石巻間は、最短52分で結ばれました。以前は小牛田という駅を経由して乗り継ぎ、2時間弱ぐらいかかったでしょうか。当時は「東京〜仙台より遠い、仙台〜石巻」といわれていましたから。これでまた頻繁に石巻に顔を出せそうです。


【空のあなたへ 日航機墜落30年(下)】 先妻を失った男性 空からバトンタッチを受けた妻と一緒に安心な街づくりに尽力 
 「30年前の事故は悲惨だった。だけど今、その経験は自分の中で前向きに生かされている」
 東京都足立区の工藤康浩さん(55)は、妻の理佳子さん(53)とともに、地元で安心や安全が根付いた街づくりに取り組み始めている。精神的な安心と物理的な安全が保たれた社会を目指して、地域住民とともに悩み考えるワークショップを開催し、行政に提言もするという。
 30年前の夏、安心安全がないがしろにされた日航機墜落事故で、先妻の由美さん=当時(24)=を失った。わずか結婚半年。神戸市の実家に初めて里帰りする途中だった。
 「墜落までの32分間を一人で苦しませたことが、かわいそうでならない」
 事故3日目に対面した遺体はきれいで、ほぼ生前のまま。「早く救助が来ていれば…」。顔を覆う布の上から、そっと口づけをして、最後のお別れをした。
 約1年後、由美さんの母に「心のよりどころ」にしてもらおうと、遺骨を返した。義父母から「君はまだ若いから」と言われた。しばらくすると、便りを出しても返事が来なくなった。
縁を切った義父母の愛情「再起を後押し」
 「自分にはやりたいことがある」。その後は悲しみを振り払うかのように建築設計の仕事に没頭した。一人の自宅に帰るのが嫌で、夜は繁華街をさまよっては酒を飲んだ。由美さんと話したくて霊媒師に口寄せを頼んだこともあった。
 立ち直ろうとする気持ちと消えない喪失感。そのはざまで揺れ動いた。事故後5年、そんな自分に寄り添ってくれる女性に出会った。理佳子さんだ。
 自分が背負う運命の重さを見極めてほしい−。結婚を意識するようになり、事故現場の御巣鷹の尾根を一緒に登った。号泣しながら山を登り続ける理佳子さんを見て再婚を決意した。
 理佳子さんは事故当日、伊豆半島の上空を飛ぶ事故機を見ていたという。「あのとき由美さんからバトンタッチされたんだと思う」
 時がたつに連れ、康浩さんには気付いたことがあった。縁を絶つように連絡しなくなった由美さんの両親のことだ。若かった頃は「どうして」「解せない」と感じていた。
 だが、しっかり前に進み始めると、「僕が再起して次のステージに旅立てるようにしたんだろう。究極的な愛情だった」と理解できた。
事故がなければ…「フィールドは先妻からもらった」
 この30年間、飛行機や車などは技術の進歩に伴い、安全化も進んだ。だが、康浩さんは「それは安心とは言えない。最後はそこに関わる人間の資質」と話す。
 現在、ボランティアとして取り組む街づくりも同様に、行政や企業任せではなく、住民が街やその中心となる駅に愛着を持てる仕組みをつくり、安心安全を文化として根付かせたいと考える。
 「もし御巣鷹の事故がなければ、ここまで深く考えてなかったかもしれない」
 地元の東武伊勢崎線竹ノ塚駅では10年前に4人が死傷する踏切事故があった。そうした悲惨な事故を風化させず、逆に住民が安心安全の重要性を考えるきっかけにつなげていくという。
 この事故で母を亡くし、全国の踏切事故の遺族でつくる会を設立した夫妻とも連携。この夫妻とは日航機事故の遺族でつくる「8・12連絡会」の会合を通じ、偶然にも縁があった。
 遺族としての経験と人のつながりが現在の活動に生きている。
 「ある意味、フィールドを与えてくれたのは由美。あの世で会うときに恥ずかしい生活はしたくない」(福田涼太郎)

仙石東北ライン/父の命日/お墓参り/海鮮丼定食/仙台育英勝ちました

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Il y a 70 ans, la bombe ≪ Fat man ≫ était larguée sur Nagasaki
Trois jours après Hiroshima, Nagasaki commémore dimanche 9 août l’attaque nucléaire qui a anéanti cette ville de l’ouest du Japon et tué quelque 74 000 personnes, il y a 70 ans.
Le 9 août 1945, à 11 h 02, la bombe atomique larguée par les Etats-Unis détruit 80 % des bâtiments de Nagasaki, dont sa célèbre cathédrale d’Urakami, située à 500 mètres du point d’impact. A la même heure exactement dimanche (4 h 02, heure française), la population a observé une minute de silence tandis que cloches et sirènes retentissaient dans toute la ville, ancien comptoir d’échanges commerciaux entre le Japon et l’étranger et connue pour son importante communauté chrétienne.
≪ Je lance un appel aux jeunes : écoutez la parole des anciens et réfléchissez à ce que vous-mêmes pouvez faire pour la paix ≫, a déclaré le maire de Nagasaki, Tomihisa Taue, devant une foule de 6 700 personnes, dont le premier ministre japonais, Shinzo Abe, et l’ambassadrice des Etats-Unis au Japon, Caroline Kennedy, parmi les représentants de 75 pays. Et le maire d’inviter ≪ le président américain [Barack] Obama et les représentants de tous les pays possédant l’arme nucléaire ≫ à venir à Nagasaki.
Alors que l’âge moyen des hibakusha (victimes ayant survécu aux bombes atomiques) a dépassé 80 ans, l’un d’eux, Sumiteru Taniguchi, 86 ans, a prié pour un Japon préservant à jamais le principe de renoncement à la guerre inscrit dans la Constitution pacifiste du pays.
Changement de cap de dernière minute
Baptisé ≪ Fat Man ≫, l’engin destructeur au plutonium était initialement destiné à être largué sur la ville de Kokura (nord de Nagasaki), où se trouvait une importante usine d’armement. Mais des conditions météorologiques défavorables ont forcé le bombardier américain B-29 à changer de cap.
Trois jours plus tôt, une première bombe atomique, ≪ Little Boy ≫, larguée sur Hiroshima, avait fait 140 000 morts. Ces deux bombardements allaient précipiter la capitulation du Japon le 15 août 1945 et la fin de la Guerre du Pacifique.
En décembre 1967, le gouvernement japonais s’est solennellement engagé à ne pas fabriquer, posséder ou laisser entrer sur le territoire nippon d’armes nucléaires. Les cités meurtries de Hiroshima et Nagasaki s’efforcent à travers ces cérémonies et des campagnes récurrentes contre les armes nucléaires de perpétuer le souvenir de ces désastres, même si les survivants de ces deux attaques disparaissent au fil des ans.
Comme à Hiroshima jeudi, Shinzo Abe a réaffirmé militer en faveur de l’abolition des armes nucléaires et de la non-prolifération. ≪ Je renouvelle la volonté du Japon, en tant que seul pays frappé par la bombe atomique, d’être un meneur du mouvement mondial contre les armes nucléaires ≫, a-t-il déclaré, énumérant les rendez-vous internationaux au cours desquels il promet de s’employer à transmettre ce message.
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仙石東北ラインでお墓のある駅まで移動です.仙石線が開通したのは確か5月30日なので,まだ2ヵ月しかたっていないことになります.仙石東北ラインの列車にはHYBRIDを書いてあって要するに特殊な車両です.塩釜駅までは東北線で,高城町駅からは仙石線です.震災前までは列車から海が見えていたのですが,仙石線は山の中を走っている感じです.駅は高台にあって周りにはまだ何もありません.駅の近くには住宅が建てられようとしているかのようですが・・・
さてここから車でお寺に移動です.父が亡くなって13年になります.昨年13回忌をしたばかりです.いつまでたっても悲しいですね.
お墓参りの後は松島のレストランで海鮮丼定食をいただきました.美味しい♪
夕方は高校野球です.そんなに好きなわけでもないですが,宮城県民になったつもりで仙台育英を応援します.ピッチャーは佐藤世那君です.ちなみに弟の佐藤令央君もピッチャーだそうです.大分の明豊高校に圧勝しました.さらに大会新記録の10二塁打です.
番組の途中で2012年石巻工業高校阿部主将の選手宣誓を見ました.じいんときました.
 宣誓。東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、今も、当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、悲しみに暮れている方がたくさんいます。
 人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。
 しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。
 だからこそ、日本中に届けましょう。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう、日本の底力、絆を。
 我々、高校球児ができること、それは、全力で戦い抜き、最後まで諦めないことです。今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。


被災地の児童、元五輪選手らと楽しく汗
 東日本大震災の被災地の子どもたちと元五輪選手が交流する「オリンピックデー・フェスタinいしのまき」が8日、石巻市総合体育館で開かれた。
 日本オリンピック委員会の主催。アテネ五輪バレーボール出場の大山加奈さんや、ロンドン五輪体操に出場した新竹優子さんら選手5人が参加し、石巻地方の子どもなど約100人と汗を流した。
 参加者は5チームに分かれ、大玉転がしやボール運びなどで白熱した対抗戦を繰り広げた。東松島市赤井南小2年の佐々木修平君(7)は「大玉転がしが楽しかった。また参加したい」と話した。
 アルベールビル五輪スピードスケートで銀メダルを獲得した黒岩敏幸さんは「2020年の東京五輪では被災地の石巻が聖火リレーの出発点になってほしい」と語った。元五輪選手らからスポーツを学ぶ「いしのまき市民スポーツフェスタ」(石巻市体育協会主催)も同時開催された。


御巣鷹・東日本大震災 慰霊共に
 東日本大震災の津波で命を落とした七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の元行員田村健太さん=当時(25)=の両親が8日、1985年の日航ジャンボ機墜落事故の遺族と初対面した。「失われた命を生かし安全な社会にしたい」。墜落現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)を一歩一歩踏みしめ、心を通わせた。
 田村さんの父孝行さん(54)と母弘美さん(52)が尾根を訪問。墜落事故で小学3年だった次男健君=当時(9)=が犠牲になった美谷島邦子さん(68)と共に慰霊登山をした。
 墜落現場に立つ慰霊碑「昇魂之碑」に献花し、健君の墓標にたどり着いた。孝行さんが野球ボールを美谷島さんに手渡す。高校球児だった長男健太さんの形見だ。弘美さんは願った。
 「天国で健ちゃんとつながってほしい」
 健君はジャンボ機で大阪へ行って、甲子園で高校野球を見るのを楽しみにしていた。美谷島さんは感謝し、野球ボールを墓標に供えた。
 田村さん夫妻は2013年3月ごろ、女川町で語り部を始めた。多くの企業関係者らに悲劇を伝え、並行して銀行を相手に訴訟に臨んでいる。
 ことし7月、美谷島さんに手紙を送った。「苦しい精神状態の中で30年になろうという年月に向き合われているお姿に大変勇気を頂いております」。墜落事故後の心境や原因究明を求める活動などをつづった美谷島さんの著書を読み、共感する部分が多かった。
 事故は12日で30年となる。この間、日航は羽田空港に安全啓発センターを新設し、事故原因とされる圧力隔壁や遺品などを展示。美谷島さんは遺族らでつくる「8.12連絡会」の事務局長を務め、日航の関係者らと御巣鷹に登った。
 美谷島さんは「被害者、加害者が関係なく登ってくる。そこが30年の月日なのだと思う。失われた命を生かすことが私たちの目標。一日一日を大切にしてほしい」とエールを送る。
 震災は発生から4年5カ月。孝行さんは「同じことを繰り返さないよう社会に発信し続けていく」、弘美さんは「これからも真実を追求していく」と誓った。
(石巻総局・水野良将)


<あなたに伝えたい>避難場所で犠牲 余計悔しい
菊池通幸さん(釜石市)から琴美さん、涼斗君へ
 通幸さん 涼斗、誕生日おめでとう!。
 7月27日、いつものように家で誕生会をしたよ。鵜住居の(母方の)じいさんたちも集まり、ハッピーバースデイを歌った。ショートケーキのろうそくは風音が代わりに消してくれた。
 生きていれば、11歳の小学5年生。1人でトイレにも行けない怖がりな性格はどうなっていただろう。じいちゃんもやっていた野球を、やらせたかった。
 盆踊りで自分からマイクを握りたがるような、明るくていい男の子だった。保育園に好きな子がいて「結婚するんだ」とよく言っていたな。
 優しい琴美さんは、あの日も保育園にいた風音を心配していたと思う。明るく育っているよ。たまに家族のDVDを見て笑っている。成長とともに俺も年を取るけれど、元気でいたい。
 かわいい孫と嫁。毎日にぎやかで本当に楽しかった。もっともっと遊びたかった。成長が楽しみだった。ものすごく悔しい。助かるために避難訓練した場所で亡くなり、余計に悔しい。
 涼斗は小学校に入学直前だった。2人の写真を入れたキーホルダーを携帯電話に付けて、持ち歩いている。写真の涼斗は、かなわなかったランドセルを背負っている。お母さんと離れず、天国の学校さ通ってね。
 (世間では)復興復興と言っているけれど、いるべき人がいない家庭の復興は、そう簡単にはいかない。家族がまだ見つからない人たちからすれば、いい方だと思うんだけど。(日曜日掲載)
◎防災センターで津波に遭った孫と嫁
 菊池琴美さん=当時(34)=、涼斗(すずと)君=同(6)= 釜石市定内町で夫辰弥さん(39)、長女風音ちゃん(7)と家族4人で暮らし、向かいに住む義父通幸さん(68)宅で毎日食卓を囲んでいた。保育園を休んだ長男の涼斗君と琴美さんは、同市鵜住居町の琴美さんの実家で地震に遭い、避難した近くの鵜住居地区防災センターで津波にのまれた。


<あすと長町>仮設入居者の3割、行き先未定
 仙台市太白区のあすと長町仮設住宅で8日、入居者の支援団体が集う交流会があり、転居の見通しが立たない入居者が3割に上るとの調査結果が報告された。
 同仮設住宅には、最大約230戸が入居したが、約60戸まで減っている。調査は7月上旬、コミュニティーづくりに関わる東北工大の新井信幸准教授の研究室などが実施した。
 見通しが立たない理由は、(1)災害公営住宅の抽選での落選や入居資格がない(2)民間賃貸住宅の家賃負担や保証人確保の問題−など。災害公営住宅の入居が優先されるはずの障害者が、抽選で外れた例もあった。
 残った入居者の半数以上は単身世帯で、近所付き合いが減少している傾向もうかがえた。ことし3月に自治会が解散し、雑草除去や防犯といった生活環境の荒廃への不安感も目立った。
 同研究室は「格差を感じてストレスをためている人が多くいると分かった。民間賃貸希望者への支援や災害公営住宅落選者のフォローなどが必要で、入居者の状況に応じた方法を考えることが重要」と指摘した。
 交流会は、退去者も含めた仮設住宅入居者らでつくる「あすと長町コミュニティ構築を考える会」が主催。支援団体関係者ら約40人が参加し、仮設住宅や災害公営住宅での今後のサポートの在り方を考えた。
 仮設住宅は原則2年が入居期間。現行制度の下、自治体ごとに一律に1年ずつ延長してきた。仙台市は来年3月以降、仮設住宅の入居期限を原則として延長しない。


被災地の声再び 「りんごラジオ」局長復帰
 病気療養中だった宮城県山元町の臨時災害FM局「りんごラジオ」の高橋厚局長(72)が7カ月ぶりに復帰を果たし、7月下旬から元気な声を電波に乗せている。脳内出血の治療に前向きに取り組み、日常会話ができるまで回復した。東日本大震災から4年5カ月を迎える被災地の現状を、再び意欲的に伝えていくつもりだ。
 復帰は7月24日。現在は基本的に平日のトーク番組の冒頭に出演し、ゲストと会話を交わす。
 今月6日には、地域の夏祭りの告知に来た行政区長とマイク越しに対話した。「楽しいお祭りの話をよろしくお願いします」と、以前と同じ張りのある声で語り掛けた。
 FM局は震災から10日後の2011年3月21日に開局。元東北放送アナウンサーの高橋局長は、先頭に立って情報提供や取材、編集などに取り組んだ。昨年12月17日に自宅で倒れ、町内の病院で手術を受けた。
 妻真理子さん(65)は「手術の2、3日後には『やり残したことがある』と話していた。何が何でも復帰したかったのだと思う」と明かす。不在となった夫に代わって局長代行として放送を続け、帰りを待った。
 5月に退院したが、言葉が出にくくなるなど後遺症をかかえた。ウオーキングに汗を流し、幼児用の教材で再び単語を覚え直すなど、積極的にリハビリを続けている。高橋局長は「少しずつ話せるようになり始めている」と手応えを語る。
 当面の目標は、10月25日投開票の町議選の開票速報を番組で読み上げること。「多くの方にインタビューを続けることで、さらに回復していきたい」と話す。夫を支え続けた真理子さんも「住民の方々の復帰を願う思いが通じたのだと思う。ここまでよくなってホッとした」と喜んだ。


<甲子園>仙台育英大勝 二塁打10本新記録
 甲子園で開かれている第97回全国高校野球選手権大会第4日の9日、宮城代表の仙台育英は1回戦の第4試合で明豊(大分)と対戦し、大会新記録となる1試合10本の二塁打を含む20安打を放ち、12―1で圧勝した。
 仙台育英は一回から打線が爆発。1死無走者から青木玲磨が左中間二塁打で出塁すると、続く平沢大河の中越え本塁打で2点を先取した。さらに郡司裕也らの3連続二塁打などで3点を加え、5―0。その後も三回に5短長打で3点を奪うなど相手投手陣を打ち込み、着実に得点を重ねた。
 先発の主戦右腕佐藤世那は味方の大量点に守られ、140キロ台の直球や鋭い変化球を武器に8回を投げ、7奪三振の4安打1失点。九回は2番手の百目木優貴が無得点に抑えた。
 仙台育英は昨秋の明治神宮大会を制したが、今春の選抜大会は2回戦で優勝した敦賀気比(福井)に惜敗。選抜大会の雪辱を期し、2年ぶり25度目の出場を果たした今大会は、優勝候補の一角に挙げられている。


紙ランタン 被災地照らす
 紙袋と発光ダイオード(LED)電球で作った「紙ランタン」をともす催しが8日夜、女川町のJR女川駅前広場で開かれた。
 東日本大震災で被災し、夜は明かりの少ない復興途上の町中心部を約1100個のランタンが照らした。参加者は幻想的な光景に犠牲者の鎮魂、早期復興への思いを重ねた。
 「紙ランタンとささやかな女川夏物語」と称し、実行委員会が初めて開催。紙ランタンは、2重にした紙袋の外側の1枚を言葉や絵の形に切り抜いた。電球で光と言葉などが浮かび上がる。
 住民が6月から町内の福祉施設などで手作りした。「ゆめにむかって」「一歩」「きずな」「がんばっぺ」「祈り」。ランタンには住民それぞれの思いが刻まれた。
 加納純一郎実行委員長(64)は「震災から5年目。町民が次第に前を向き始め、手作りのイベントを開きたかった」と話した。


週のはじめに考える 「福島」が伝わらない
 九州電力の川内原発が再稼働の見込みです。電力が足りている今、経済が理由のようです。「同じ思いをしないで」と福島の人は願っています。
 「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟(生業訴訟)原告団のメンバーが、九日から川内原発のある鹿児島県薩摩川内市を訪れ、集会などに参加する。原発は経済的なメリットと引き換えに「ふるさと、生業」を失い、未来を描けなくなるという現実を伝えるために。
◆原発さえなかったら
 原発がある福島県沿岸部の浜通りでも、経済効果はありました。「県内でも貧しい地域で、出稼ぎが一般的だった。原発の建設工事が始まると、地元で仕事ができ、子どもを高校にやれるようになった」と話す人もいます。
 東京電力福島第一原発事故で、放射性物質は県境を越えて東日本に広がりました。原発のある大熊町と双葉町、北隣の浪江町の広い地域は、三十年間は戻れない帰還困難区域になりました。
 あれから四年五カ月。福島県内では今も新聞やテレビが大量の関連ニュースを伝えています。しかし、県外には届きません。
 生業訴訟原告団は今年から原発立地自治体を訪ね、自らの経験を伝えるキャラバンを始めました。
 先月、佐賀地裁で開かれている玄海原発差し止め訴訟では、福島県二本松市の農業根本敬さんが意見陳述をしました。自宅は原発から六十キロ離れていますが、「(事故直後)水田の土は一キロあたり五〇二〇ベクレルでした。風評ではありません。実害です」と広域な被害状況を説明。
 「相馬市の酪農家は、フィリピンから嫁いだ妻をフィリピンに戻して、黒板に『原発さえなかったら』と書き付けて命を絶ちました」と語りました。
◆記者も知らない、なぜ
 酪農家の自殺は、福島県ではよく知られた悲劇です。全国ニュースにもなりました。弁護団事務局長の馬奈木厳太郎(まなぎいずたろう)弁護士は昨年秋、鹿児島県の地元紙記者から取材を受けたとき、この話を記者が知らないのに驚きました。この記者だけか、それとも…。これがキャラバンを始めるきっかけになりました。
 「今まで福島以外の人に伝える努力が足りなかった。あらゆる機会をとらえて被害実態などを伝えたい」と言います。 
 避難計画では、原発から三十キロ圏内を避難などが迅速に行われるよう準備しておく地域「緊急時防護措置準備区域」と定めています。川内原発では、ここに多くの医療機関があります。
 福島では、第一原発から二十二キロ南にある高野病院(広野町)が、高野英男院長の判断で、避難をしませんでした。停電、断水にもめげず、約百人の入院患者の命を守りました。
 しかし、それは簡単なことではありませんでした。たとえば、給食や清掃は外部委託でした。派遣元の会社は原発に近いので派遣をやめました。子どもと一緒に避難しなければいけないスタッフもいました。残った看護師らスタッフと入院患者の家族までが手伝って乗り切ったのです。同病院は今、避難用のバスを所有し、緊急用の食料や水を積み込んでいます。
 高野己保(みお)事務長は、その記録「高野病院奮戦記」(東京新聞出版部)を川内原発から三十キロ圏内の十八病院に送りました。一通の礼状には「うちではできません」と書かれていたそうです。
 なぜ、福島の情報が県外に届かないのでしょうか。
 災害ジャーナリズム論が専門の近藤誠司・関西大准教授は「原発事故に関する(全国紙の)記事は、二〇一一年に比べて二年目は半分、三年目は三分の一、四年目は四分の一に減った。これは大きな自然災害の報道に共通する傾向だ。量だけでなく、質(内容)も変わる。暮らしなどの現状をきめ細かく伝えなくなっていると思う」と話します。
◆同じ思いをしないで
 原発は地域を豊かにする、というのは本当でしょうか。
 経済学の観点から原発を研究している清水修二・福島大特任教授は「建設から半世紀の間に福島県に来たお金は、全部ひっくるめて二千八百億円ぐらい」と見積もっています。巨額に見えますが、東電の二〇一〇年度の営業利益は単独で三千五百六十六億円。一年分のもうけよりも少ないのです。
 清水さんは、よく講演を依頼されます。どこにでも行って話すことにしているそうです。
 「私と同じ思いをしてほしくない、と言って経験を語る人がいるでしょ。以前はそういうのをテレビで見て、ちょっとうそっぽいなあ、と思っていたんですよ。自分が被害者になって、あれは本当の気持ちだと分かりました」


ストーリー:日航機墜落 遺族たちの歩み(その1) 御巣鷹、30年目の桜
 5月初め、群馬県上野村の山並みは新緑に包まれていた。1985年8月12日に起きた日本航空ジャンボ機墜落事故。現場となった御巣鷹の尾根に建つ「昇魂之碑」(標高1539メートル)の傍らで、満開の山桜がピンクの彩りを添えている。
 「とても、いい山になったわね」。美谷島(みやじま)邦子さん(68)=東京都大田区=が薫風に舞う花びらをめでていた。次男の健ちゃん(当時9歳)を亡くした母として、遺族会「8・12連絡会」の事務局長を務めてきた。
 惨劇の翌年、都心の桜は灰色に見えたという。折しも時代はバブル前夜。迅速な大量輸送を実現し、最新鋭の技術が幾重にも施されたボーイング747(ジャンボ機)の墜落は、時代の光と影を映していた。
 乗客乗員520人が犠牲となり、東京と大阪を中心に401世帯の遺族を生んだ事故。「何が起きたのか知りたくても報道に頼るしかなく、孤立感の中でもがいていました」。邦子さんは搭乗者名簿を手に、黒電話のダイヤルを回し続けた。
 東京都内に31人が集まり、連絡会が発足したのは年の瀬だった。手作りの文集を発行し、乗客が最期に見たであろう夕焼け空に思いをはせて「茜雲(あかねぐも)」と名付けた。会員の輪は広がり続け、翌年には280人を数えた。
 一家全員死亡が22世帯。189世帯が母子家庭になり、50人を超える子供が亡くなった。「互いに悲しみを分かち合ってきました。涙にはいろんな色がありました。悲しみ、怒り、絶望。そんな涙を紡ぐように共に歩いてきたら、荒れた山に緑が再生したように、私たちの心も色彩を帯びてきたように思います」
 事故の5年後に墓標の脇に植えたもみの木は今春、8メートルまで丈を伸ばした。登山道では夫の善昭さん(68)が日航の社員らと山道整備に汗を流していた。邦子さんは連絡会の仲間に山桜の写真を添えてメールした。
 <こんなに美しい桜は初めて。520人から頂いた贈り物だと思います>
 美谷島家と仲間たちの30年の歩みを記す。


ストーリー:日航機墜落 遺族たちの歩み(その2止) 一緒だよ、健ちゃんと
◆日航機墜落 遺族の30年
 ◇悲しみ、分かちあい
 1985年夏。山肌がむき出しとなった御巣鷹の尾根(群馬県上野村)は、たたきつけるような日差しに焼け付いていた。墜落現場に野宿して取材を続けていた私は、事故の3日後、急斜面をはうように登って来る乗客の家族を目にした。
 自衛隊や機動隊の足跡をたどり、峡谷を登り続けて4時間。現場にたどり着いた最初の家族が美谷島夫妻だった。
 木々がなぎ倒された尾根には、機体の残骸や乗客の荷物が延々と散乱していた。へたり込んだ邦子さん(68)が、くすぶり続ける機体にジュースを注ぐと、音を立てて蒸発した。「健ちゃん、ごめんね、ごめんね」。おえつする邦子さんの傍らで、善昭さん(68)がぼうぜんと立ち尽くしていた。
 8月12日夕、帰省客らでにぎわう羽田空港のロビーに健ちゃん(当時9歳)と美谷島夫妻の姿があった。プールで25メートルを泳ぎ切ったご褒美に、両親が次男へ贈った初めての一人旅。飛行機に乗って大阪の伯父を訪ね、甲子園の高校野球観戦とお気に入りの阪神電車に乗ることを心待ちにしていた。お菓子やジュースを詰め込んだリュックサックを背に、胸に付けた一人旅用の「ちびっこVIP」のワッペンがほほ笑ましかった。
 離着陸する飛行機に歓声を上げていた健ちゃんは、搭乗口で女性スタッフに預けられた時、一瞬不安そうな表情を見せたという。別れ際に握った小さな手のぬくもりを、邦子さんは忘れない。
 「JAL123便の機影が消えた」。テレビの画面にテロップが流れたのは帰宅直後だった。手元の搭乗案内に「123便」の文字。夫妻は取るものも取りあえず空港に引き返し、日本航空が手配したバスに乗った。13日昼、墜落現場から約50キロ離れ、待機場所とされた群馬県藤岡市の中学校の体育館に入った。食事はのどを通らず、奇跡を祈り続けた。
 「山に迎えに行こう」。詳しい情報が入らず、夫妻が周囲の制止を振り切るように尾根へ向かったのは15日朝。靴底に穴を開け、泥まみれになって、たどり着いた現場には遺体の収容袋が並び、自衛隊員の手に部分遺体が握られていた。
 藤岡に戻った邦子さんは、翌16日に夢を見ている。健ちゃんが花畑を歩いて来て、「ママ、ここだよ」と笑っていた。日付が変わり、遺体を確認した。焼け焦げた「ちびっこVIP」のワッペンが付いた胴体と、小さなイボのある右手。善昭さんはその手を握りしめて声をふりしぼった。「もう一人じゃないよ。いつまでも一緒だよ」
 尾根が秋色を帯びた9月30日、私は東京都内で営まれた健ちゃんの追悼式の会場の片隅にいた。夫妻の傍らには長男真(しん)君(当時13歳)と長女久江ちゃん(同12歳)。祭壇に新潟の小学校3年生から届いた41本の缶ジュースが供えられていた。<天国で野球をしたあとで飲んでください>。同学年の健ちゃんに宛てた子供たちの手紙が張ってあった。
 あの頃の邦子さんは、一人になると泣いてばかりいた。健ちゃんの服に顔を埋めてにおいを探し、街で見かけた同じ年格好の男の子を追いかけたこともあった。小さな背中で揺れていたランドセル、日記帳の幼い文字、家族で散歩した川の岸辺。失われた日常の風景が涙とともによみがえった。
 「ママ、私たちは学校に行ったら泣けないのよ!」。ある日、久江ちゃんに言われ、邦子さんは我に返ったという。「私は周りが見えなくなっていた。真も久江も苦しんでいました。パパが『健の好きな電車を今日も見たよ』と言って、仏壇の前で肩を震わせていた。同居していた私の両親も孫を失った悲しみを胸にしまって、私たちを支えてくれていました」
 一筋の光が見えたのは神無月の夜だった。徳島に住む能仁(のうにん)怜子さん(当時55歳)からかかってきた一本の電話。帰省中に事故に遭った三女千延子(ちえこ)さん(同22歳)の席は、健ちゃんの隣だった。「子供が大好きな優しい娘でした。きっと健ちゃんの手を握っていたと思います」。その声のぬくもりに、「健は一人じゃない」との思いが芽吹き、救われた。
 他の遺族の胸中に思いをはせ、11月半ばから連絡を取り始めた。「この電話を待っていたの!」。そう言ったきり泣き続ける女性がいた。「誰も私の苦しみを分かってくれない」「後を追って死んでしまいたい」。当時はまだ、心的外傷後ストレス障害(PTSD)という言葉は世間で認知されていない。せきを切ったようにみんなが思いの丈を言葉にした。
 同じ飛行機に偶然乗り合わせた犠牲者の家族が一人また一人とつながり、悲しみは一つになって、年の瀬に「8・12連絡会」が発足した。「いつまでも遺族と呼ばれたくない」という声が上がり、会の名前から「遺族」の文字を外した。発足のアピール文にこう記している。
 <私たちが手を取り合うことができるのは、最愛の人たちがあの死の前の無念と苦痛の時間を一つの空間で共有したという事実と、残された者同士が悲しみ、怒り、悔しさを共感できるという認識があるからです。その強い絆で支え合いながら、私たちはこの事故の示唆するところを世に広く問いかけていきたい>
 連絡会のメンバーは事務局の美谷島家に度々集い、語り合った。会報「おすたか」で活動報告や事故原因に関する情報を発信し、文集「茜雲(あかねぐも)」で痛みを分かち合った。
 「悲しみを表に出すことがはばかられる時代でした。でも、一人一人の悲しみは違っていても、受け止めてくれる仲間の存在を感じると、人の心は少しずつ動き出すのだと思いました」。邦子さんの気付きは、会の仲間の思いでもあった。
 ◇私の中で、生きている
 不条理な事件や事故、災害で最愛の人を突然失った時、残された者はいかに生きていくのか? 日航機の事故以来、私の心にすみついた問いである。折々の胸中を、時に色に例えて語ってくれた邦子さんには多くの示唆を頂いた。
 事故直後、彼女の心は「漆黒の闇に沈んでいた」そうだ。連絡会で他者の痛みやぬくもりに触れて、闇に差し込む光を感じた。翌年5月、手作りの白い鯉(こい)のぼりを竹ざおに結び、夫婦で御巣鷹に登り、健ちゃんの墓標に供えた。当時の心象を詩につづっている。
 <どこからか 蝶(ちょう)が 飛んできて 白い鯉のぼりに止まった 白い鯉のぼりは 小さく揺れ 白い鯉のぼりに かすかに色がついていた 「みえなくても いるんだね ここに みえないだけだね」 白い鯉のぼりに 私は そう 語りかけていた>
 「不思議な体験」をしたのは事故から5年後のことだった。群馬に向かう新幹線に乗る時だ。いつもなら乗り物が大好きだった健ちゃんを思い出して涙ぐむのに、その日は違った。「新型の2階建て新幹線を目にして、健ちゃんに語りかけるように『ママと一緒に乗ろう』とささやいている自分がいたの。あの時かな、心の中に健ちゃんがストンと入ってきたのは。健は私の心に生きていると思えるようになったの」。健ちゃんと「同化」した瞬間だった。
 2006年夏、邦子さんは3歳の孫と手をつないで御巣鷹に登っていた。長女久江さんの家に生まれた長男の健斗君。「健という字は絶対に入れようと、主人と話して名付けました。私たちはいつでも健と一緒にいたかった」。山道を行く母親と息子の後ろ姿を見詰めていた久江さんの述懐だ。その時の邦子さんの言葉が取材帳に残っている。
 「人の心って不思議。最初は山を登っても景色は見えなかった。でも、少しずつまなざしを上げて歩くようになって、御巣鷹の四季の風景や鳥の歌声を感じるようになったの。今の心境? 御巣鷹の空に広がる夕焼けの色かな。悲しみは変わらないけれど、ぬくもりを帯びた茜色」。悲報から21年の夏だった。
 遺族の高齢化が進む中、尾根に集う人々の心に希望の灯をともしたのは、美谷島家に誕生した新しいいのちだ。事故の17年後に久江さんの家に健斗君が生まれ、それから2年おきに3人のニューフェースが加わった。昨夏は、長男真さんの胸に抱かれて1歳の長女芽生ちゃんが「御巣鷹デビュー」。総勢11人の美谷島ファミリーは尾根に笑顔を運んだ。
 連絡会に賛同する仲間もできた。中華航空機事故(1994年)、明石歩道橋事故(01年)、JR西日本福知山線脱線事故(05年)、関越道高速ツアーバス事故(12年)……。それぞれの遺族らが御巣鷹登山に加わり、多くの気付きを得た。「遺族もこうやってつながりながら生きていけるのだと学びました。御巣鷹は私たちにとって、安全を祈る聖地のような存在です」。4人が死傷した05年の竹ノ塚駅(東京都足立区)踏切事故で、75歳の母親を亡くした加山圭子さん(60)の言葉は、残された家族の思いを代弁している。
 こうして生まれた絆は、社会も動かした。日航が不起訴となり、刑事責任を問う道が断たれた後も、連絡会は他の事件事故の遺族らと手を携えて活動を続けた。精神的なサポートを含む遺族支援や、事件事故の検証作業に被害者や遺族が参加する仕組み作りを求め、国や企業の重い腰を上げさせた。荒廃した山に芽吹いた草木が少しずつ花開くように、みんなの思いが「安全への礎」を築いていった。
 事故から30年。梅雨雲が途切れた6月中旬、43歳になった兄の真さんは「父や母の意思を継ぎ、僕にもできることから始めたい」と宣言し、胸の奥にしまい込んでいた思いを聞かせてくれた。
 「お前なんか帰って来るな」。健ちゃんとカードゲームをして負けた真さんは、健ちゃんが羽田へ向かう直前、捨てゼリフを吐いてしまった。「思い出すのがつらくて封印しようとしてきたけど、できなかった。子供が生まれて自分も父親になり、母の書いた文章を読み返しながら事故と正面から向き合っていこうと思うようになりました。ずいぶん回り道をしてしまいました」。居酒屋で杯を交わしながら、真さんは言った。
 姉の久江さんは4児の母親、そして障害児教育に携わる教員としての日々を送る。「あの夏のことはいまだに記憶から飛んでいる」と話す。08年、障害をもって次女が生まれた時、久江さんは邦子さんに言った。「子供は親を選んで生まれてくるの。健はママの子でよかったね。娘も私たちのところを選んで生まれてきてくれたんだもの。私、頑張る」。その言葉は邦子さんの宝物となっている。
 邦子さんは06年にNPO法人「沙らの木」を設立した。理事長として心を病んだ人々と向き合い、事件や事故の被害者支援のため全国を飛び回っている。「私たちにできることがあればお手伝いしたい。それが健ちゃんが私にくれたプレゼントだと思う」。昨年9月に起きた御嶽山噴火の犠牲者の遺族も、今夏、御巣鷹登山の輪に加わるそうだ。
 夫の善昭さんはNPOのメンバーと共に公園清掃の仕事などに汗を流している。慰霊登山を前にした7月半ばには登山道を整備した。「体力が続く限り、続けたい」と、腹筋や腕立て伏せ、ジョギングを欠かさない。自治会長や消防団の役員も買って出るなど、夫婦ともに多忙な毎日だ。
 そして、健ちゃんの隣に座っていた千延子さんの母、能仁怜子さんも御巣鷹にやって来る。徳島の自宅にうかがうと、85歳になった怜子さんはこう言った。「娘や健ちゃんや連絡会の皆さんに、残された者が生き続ける意味を教えられたように思います」
 今週の12日、美谷島家と仲間たちは御巣鷹の尾根に登る。30年前の羽田空港で、善昭さんが一足先に自宅へ戻り、健ちゃんは一人残って見送り続けた邦子さんを気遣い、「ママ、一人で帰れる?」と声を掛けてきたという。
 「ママもパパも元気よ。あなたのお陰で、30年間一度も欠かさず山に登ることができたわ」。邦子さんは尾根でそんな言葉を贈るつもりだ。


【空のあなたへ 日航機墜落30年(中)】 夢の仕事、最後まで頑張った…客室乗務員の夫 息子と胸張り生きる
 12人の客室乗務員が犠牲になった30年前の日航機墜落事故。遺族の中には「家族が事故を起こした日航の社員」という意識から、今も世間に負い目を感じて生きている人は多い。
 「自分はそんなふうに思えない。悪いことをやっていたわけじゃない。そのことで自分が弱っては、まりちゃんに顔向けできない」
 率直な思いを語るのは、客室乗務員12人のうちの一人だった赤田真理子さん=当時(31)=の夫、雄一さん(60)=東京都港区=だ。
 「あの夏」から今まで、残された一人息子の力(りき)さん(32)とともに胸を張って生きてきた。
 事故の12年前、真理子さんは初めて出会ったときから「スチュワーデスになりたい」と熱望していた。当初は就職活動がうまくいかず、旅行会社に就職したが、諦めずに再挑戦して夢をつかんだ。
 「決めたことは何と言おうと曲げない性格だった」
 結婚後も忙しく国内を飛び回る中、力さんを授かった。産休はわずか産後2カ月までだったが、不思議なことに復帰前日にぴたりと母乳が止まったという。
 「仕事に戻りたくて仕方がなかったんだろう」
 真理子さんは、生まれた力さんのために「(フライト中に)何かあったら乗客を置いて一番に逃げるね」と冗談も言っていた。
 その「何か」は力さんが3歳になる直前に起こり、真理子さんの命を奪った。
「母の声を聞きたい」息子の初めての本音
 物心もついていない力さんに、母が亡くなったことを説明できず、ようやく小学校入学の直前になってから伝えた。力さんは淡々と「知ってるよ」と答えた。
 「まさに『ふびん』という感じ。泣きわめいてくれた方が逆に良かった」
 事故後は雄一さんの母とともに3人暮らし。雄一さんは息子に寂しい思いをさせないよう、仕事に子育てに父と母の一人二役を懸命にこなしてきた。
 ある日のこと。真理子さんの話題になったとき、高校生の力さんが「お母さんの声を聞いたことがない」と漏らした。ほぼ語ることのなかった力さんの母に関する「初めての本音」だった。
 その直後、偶然にもテレビ局から日航を通じて「ボイスレコーダーに残っている乗務員の声が真理子さんのものかもしれない」と連絡があった。
 「息子が『声を聞いていない』って言ったから、出てきてくれたのかな」。2人で急いでテレビ局へ確認しに行ったが、声の主は真理子さんではなかった。
 しかし、生存者の証言やボイスレコーダーの音声からは、真理子さんら客室乗務員たちが最後まで職務を全うする情景が浮かんだ。
 「一番初めに逃げるって言ってたのに…」
 極限状態の中で頑張っていた妻に心を動かされた。
「力がいたおかげ」…妻への感謝の思い
 事故から22年後に力さんは結婚し、孫も生まれた。今では「よくここまで、いろいろ乗り越えてきた」と振り返る。
 そんな中、ふと思い出すのは真理子さんの母が過去に言っていたことだ。
 「まりちゃんは幸せだった。好きな人と一緒になって、好きな仕事をして、子供をもうけて、あんなことになったけど駆け抜けていった。唯一の心残りは孫の顔を見られなかったことね」
 真理子さんを失って30年がたち、心に染み入る。
 「力がいなかったら、ふさぎこんで生きていたかもしれない。ここまで来られたのは力がいたおかげ」。自分も息子を残してくれた妻に感謝を伝えたいと思う。
 ただ、雄一さんにも一つだけ心残りがある。
 「まりちゃんが乗務している姿を一度見たかった。お願いしても恥ずかしかったのか、便名を絶対に教えてくれなかった。やっぱりまだ見せてほしい」
 妻からの乗務サービスは天国に行くまでお預けだ。
 ◇ 
生存者ら今も心に傷
 絶望的な状況だった事故現場から奇跡的に救助された4人は現在、いずれも取材に応じることはなく、それぞれ静かに“普通の生活”を送っている。
 救助のヘリコプターにつり上げられる姿が知られる川上慶子さん(42)。兄の千春さん(44)によると、現在は看護師を辞め、息子2人と幼い娘の子育てに奮闘しているという。
 昨年10月に千春さんが高齢になった伯母らと御巣鷹の尾根に登った際、慶子さんも誘ったが、「気分が悪くなるから」と断ったという。30年たった今も心に残る傷痕は深いようだ。
 事故当時は日航の客室乗務員で、事故機に客として乗り合わせていた落合由美さん(56)は、現在も大阪府内で暮らす。近くに住む家族は「自分たちも取材は受けないよう頼まれているから…」と困惑気味だったが、その表情や話しぶりからは落合さんが元気でいることをうかがわせる。
 関係者によると、3年前に落合さんは日航社員らが対象の安全教育セミナーで講演し、事故前後の状況や自身の近況などを語った。何年にもわたる日航側の講演要請に対し、「社員も安全意識を持ってほしい」と初めて応じたという。
 母娘で助かった吉崎博子さん(64)と美紀子さん(38)は、今も東京都内の母方の実家で一緒に暮らしている。インターホン越しの取材に、博子さんは事故について語らなかったが、「2人とも元気ですよ」と答えた。
(福田涼太郎)

仙台七夕戦後復活70回/東日本放送が40周年/ホヤと日本酒

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Bombardement de Nagasaki: ≪Je pensais être dans un autre monde≫, témoigne un survivant
De notre envoyé spécial à Nagasaki,
≪ Voici Nagasaki, deux jours avant l’explosion de la bombe atomique. ≫ Sur la photographie aérienne de la ville, Yoshitoshi Fukahori montre écoles, églises et hôpitaux. Ce survivant du bombardement ou ≪ hibakusha ≫ (≪ exposé à la bombe ≫ en japonais), avait 16 ans le 9 août 1945 à 11h02, quand la bombe atomique, larguée sur sa ville de Nagasaki, a tout anéanti dans un rayon de plusieurs kilomètres, tuant 40.000 personnes sur le coup.
70 ans après, le Japon paie encore le prix de Hiroshima et Nagasaki
Au moment de l’explosion, il se trouve à environ 3,5 kilomètres de là, mobilisé comme tous les écoliers pour travailler, de l’autre côté d’une colline. Il se réfugie alors sous une table. ≪ Le soir venu, alors que je gravissais les marches qui menaient au sommet pour revenir vers la ville, j’ai croisé beaucoup de gens blessés qui venaient en sens inverse, fuyant la zone de l’explosion. Ils me disaient : "Il n’y a plus rien là-bas, tout a brûlé, fais demi-tour !" ≫.
≪ J’ai vu la peau se décoller de leurs mains ≫
Yoshitoshi Fukahori, aujourd’hui âgé de 86 ans, poursuit, la voix claire, un récit maintes fois répété. ≪ Les gens me suppliaient : "De l’eau, de l’eau !". Certains s’accrochaient à ma jambe. J’ai tenté de me dégager, et c’est là que j’ai vu la peau se décoller de leurs mains. ≫ Effrayé, il fait demi-tour. Le lendemain matin, il reprend le chemin de la ville et découvre finalement l’inimaginable, le champ de ruines fumantes laissé par la bombe. Il avait bien entendu l’explosion mais ne pouvait imaginer qu’une seule bombe ait pu provoquer un tel carnage. Les maisons construites en bois, l'hôpital, la gare, jusqu’à la cathédrale sont détruits : ≪ Je pensais être dans un autre monde ≫, dit-il. Yoshitoshi Fukahori se met alors à la recherche de sa famille. De sa fratrie de neuf, seule sa sœur aînée, âgée de 18 ans, a trouvé la mort dans le bombardement. ≪ Incinérer son corps a été la chose la plus douloureuse de ma vie. ≫
Bombe atomique : Le Japon entre commémoration de la paix et renforcement de son armée
Après la guerre, la bombe est un sujet tabou jusqu’en 1952, date du départ de l’occupant américain. Par la suite, Yoshitoshi Fukahori tente de partager son expérience, mais peu à peu réalise que le récit seul ne suffira pas. Il se met alors en quête d’un support visuel. ≪ Les survivants vont disparaître, mais les photos restent. Alors, j’ai mis toute mon énergie dans la collection de photos. ≫
Plus de 6.000 photographies pour témoigner du bombardement
En 1979, il crée un groupe pour partager les photos du bombardement, l’Association de recherche de photos de la bombe atomique. Il se rend à plusieurs reprises aux Etats-Unis pour rassembler ce matériau. Aujourd’hui, plus de 6.000 clichés ont été rassemblés, pris pour la plupart par des photographes américains. ≪ A l’époque, il était très difficile de prendre des photos. Même si l’on possédait un appareil photo, les pellicules étaient introuvables. Et l’armée impériale surveillait de très près les photos pour ne pas dévoiler des informations stratégiques. ≫ Il faut attendre l’arrivée des alliés, en septembre 1945. Des journalistes qui accompagnent l’armée américaine photographient alors la ville en ruines.
Yoshitoshi Fukahori, qui s’est marié en 1954 et a eu deux filles, continue aujourd’hui à rassembler des photos et à témoigner de son expérience. Aux écoliers qui lui demandent pourquoi une bombe atomique a été lancée sur Nagasaki, il répond : ≪ A cause de la guerre. Ne faites jamais la guerre. ≫
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仙台七夕を見に来ました.というのは明日父の墓参りがあるのでそのついでです.子どもの頃見に来た記憶がぼんやりあるくらいです.戦後復活70回記念だそうです.西宮の人たちから応援メッセージが届けられていました.KHB東日本放送が開局40年だそうです.一番丁には餃子の王将や沖縄のお店があってビックリ.
クリスロードでお酒を飲んでみます.大崎市の伯楽星,栗原市の萩の鶴そして石巻市の墨廼江です.その後おまつり広場で一ノ蔵と浦霞をいただきました.飲みすぎかな?魔法少女まどかマギカショップは行くのやめました.駅でかき揚げそばを食べて移動です.
晩ご飯はホヤと日本酒でいい気持になりました.

仙台と神戸の生徒たち 復興願い共同宣言
 ともに震災被災地にある中高一貫校の神戸大付属中等教育学校(神戸市)と仙台青陵中等教育学校(仙台市)の生徒計35人が3〜5日、青葉区の同校などで初めての交流会に臨んだ。
 仙台の2〜5年の18人と神戸の4〜5年の17人が参加。東日本大震災後、災害医療に当たった医師の講演を聞いたり、震災で甚大な被害を受けた石巻市を訪問したりして意見交換した。
 最終日には共同宣言を採択。住民と共に防災意識の向上に貢献することや大規模災害時に相互協力することを誓い合った。
 仙台青陵中等教育学校5年の有光央行さん(16)=泉区=は「震災を忘れないようにと被害のことばかりを考えてきたが、神戸の人から『頑張っている姿を知りたい』と言われた。貴重な経験になった」と話した。


<仙台七夕>恋愛成就や幸せ 織姫に願う
 織り姫とひこ星の七夕伝説にちなんで恋愛成就や幸せを祈願する「ORIHIME短冊コーナー」が仙台七夕まつりの期間中、青葉区の勾当台公園市民広場の織姫(おりひめ)像前に設けられている。
 短冊は木製の絵馬型。ひもを通す部分がハート形にくりぬかれている。来場者は「すてきなご縁がありますように」「ずっと仲良しでいられますように」など、思い思いの願い事を書き入れた。まつり終了後、青葉区大手町の藤坂織姫神社に奉納される。
 富谷町東向陽台小2年の佐藤ゆり乃さん(7)は「家族の健康をお願いした」とはにかんで話した。
 短冊は1枚200円。購入者には、縁結びの神様として知られる野中神社(青葉区一番町2丁目)の縁結びストラップ引換証が渡される。


翁長・安倍会談 辺野古断念こそ解決策
 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)は返還による危険性除去が急務だが、政府が名護市辺野古への県内移設を「唯一の解決策」とする限り、進展は望めない。辺野古移設断念こそ唯一の解決策だ。
 沖縄県の翁長雄志知事と安倍晋三首相がきのう会談した。昨年十二月の翁長氏の知事就任後、今年四月十七日に次いで二度目の会談だ。最大の懸案は普天間飛行場の辺野古への県内移設問題である。
 政府は、辺野古移設の本体工事に向けて行っている海底掘削調査を、十日から一カ月間、中断することを決めた。
 この間、政府と沖縄県は五回程度、辺野古移設をめぐり集中的に協議する。十一日に予定する初会合に出席するため、菅義偉官房長官が沖縄県を訪れる、という。
 仲井真弘多前知事による辺野古沿岸部の埋め立て承認に「法律的な瑕疵(かし)があった」とする第三者委員会の報告を受けて、翁長氏は近く承認を取り消す方針を示唆していた。政府の作業中断には、県側との決定的な対立を当面、避ける狙いがあるのだろう。
 この一カ月間は、国民の反発が強まっている安全保障法制関連法案の参院審議や、賛否が割れる鹿児島県・川内原発の再稼働とも時期が重なる。政府が沖縄の米軍基地問題でも強硬姿勢を続ければ、内閣支持率のさらなる低下を招くとの危惧もあったに違いない。
 ただ、これは一時的な「政治休戦」にすぎない。翁長氏が拒否する辺野古移設を、政府が推進する対立構図に変わりはないからだ。
 辺野古容認に転じた仲井真氏に「ノー」を突き付け、翁長氏を県知事に当選させた辺野古移設を拒む民意は、昨年の名護市長選、県知事選、衆院選で繰り返し示されている。
 政府がこうした民意に反して、沖縄県民の抜本的な基地負担軽減につながらない、米軍基地の県内「たらい回し」を強行するのは、民主主義に反する。
 政府がかたくなな態度を改め、辺野古移設計画を断念しなければ、県側との接点は見えてこまい。沖縄振興予算の確保で県側に翻意を促すような手法も、もはや通用しないだろう。
 政府は県との集中協議を、政府の取り組みを説明し、辺野古移設への県側の理解を得る場と考えているようだ。安保法案を成立させた後、辺野古移設を強行するつもりなのだろうか。県側との協議がそのための時間稼ぎだとしたら、あまりにも不誠実である。


原発再稼働 安全とは言わぬまま
 四国電力伊方原発が原子力規制委員会の規制基準に適合し、九州電力川内原発の再稼働は迫る。多くの不安をのこしたままで、適合すなわち再稼働という短絡を、定着させてもいいのだろうか。
 川内原発(鹿児島県)、関西電力高浜原発(福井県)に続いて伊方(愛媛県)は「適合」三件目。ここでもやはり、避難計画の実効性や、地震に対する備えの甘さが不安視されている。
 にもかかわらず、政府や電力事業者は、それで再稼働の“お墨付き”を得たという。
 規制委の「適合」判断は、再稼働の必要条件ではあるだろう。だが、十分条件とは言いがたい。
 多くの原発は半島に立地する。特に伊方原発は、日本一細長いという佐田岬半島の付け根にあり、その西の海側には約五千人が暮らしている。
 愛媛県が策定した事故時の広域避難計画では、原発前の国道を通って松山市などに向かう陸路と、フェリーに乗って大分などに逃れる海路が想定されている。
 だが、南海トラフ地震と原発事故の複合災害が発生すれば、道路は寸断、港が荒れて船も使えず、孤立化する恐れは強い。
 共同通信が六月中旬に実施した調査では、伊方原発から半径三十キロ圏内十二万三千人の避難先になる六県十九市町のうち、受け入れ態勢が「整っている」「どちらかというと整っている」と答えた自治体は一県七市町にとどまった。
 大分県と愛媛県は、愛媛県側住民を船に乗せ、大分県側に運ぶ避難訓練を、秋に実施するという。
 順序が逆だ。こんな大事な訓練をする前に、再稼働の“許可”が出されて、いいのだろうか。
 福島第一原発事故をめぐる検察審査会の起訴議決にも「原発に関する責任者は『万が一』の災害にも備えなければならない義務を負う」とあるではないか。
 そもそも数千人が船で海上に逃れなければならないような大事故は、万が一にもあってはならないことではないか。
 「適合」判定第一号の川内原発は、十一日にも再稼働第一号になるという。だが、規制委も政府も自治体も、誰も「安全」を保証していない。
 事故発生時の責任を、誰が、どう取るのかも、あいまいなままではないか。
 このような状態で、規制基準「適合」=「再稼働」という図式を定着させてしまってもいいものか。もう一度よく考えたい。


戦後70年:あす長崎原爆の日 奪われた母と夢 洋裁学校設立の直後 「継いであげたい」戦後に洋裁教室
 長崎は9日、米軍による原爆投下から70回目の「原爆の日」を迎える。午前10時35分から長崎市の平和公園で平和祈念式典があり、原爆が投下された午前11時2分、遺族や被爆者代表、安倍晋三首相ら約5600人が黙とうする。
 今年の式典には過去最多となる76カ国(7日時点)の代表が参列予定。ガテマラー国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)が、米政府高官として初参列する。
 田上富久市長は平和宣言で、安全保障関連法案について日本政府と国会に慎重審議を要請する。また、各国首脳の被爆地訪問を呼びかけるほか、日本政府に核抑止力に頼らない安全保障の検討や、被爆者援護の充実、被爆者健康手帳が取得できる被爆地域の拡大などを求める。式典はインターネットで中継される。【樋口岳大】
 広島に続く長崎への原爆投下から9日で70年。大阪市阿倍野区の小西登喜子さん(91)は当時、長崎で暮らしていて、母(当時41歳)を原爆で失った。念願だった洋裁の学校を設立したばかりだったのに、5日後に息を引き取った。小西さんは母が亡くなる前、一筋の涙を流したことが今も心に残る。「母は最期に何を思ったのだろうか」
 小西さんが幼い頃、母の立石美加さんは長崎県佐世保市で洋服店を営んでいた。「長崎から洋服を全国に広めたい」が口癖で、洋裁学校を開くことを夢見ていた。小西さんが高等女学校に上がると、母は東京に出て洋裁を学んだ。母が長崎市内に「長崎洋裁女学校」を開いたのは、原爆投下の約2年前。小西さんも高等女学校を卒業し、母を手伝った。
 あの日、小西さんは母より先に自宅を出て、洋裁学校近くの市場で配給の列に並んでいた。閃光(せんこう)が走り、天井のガラスが粉々に割れて降り注いだ。「広島と同じ爆弾らしい」「浦上の方がやられたようだ」。避難した防空壕(ぼうくうごう)で耳にした。胸が騒いだ。自宅は「浦上の方」にあった。
 当日は周囲の人に止められ母を捜しに行けなかった。翌朝、一人で自宅に向かった。道いっぱいに真っ黒に焼けた遺体が転がっていた。もんぺの裾をつかんで「水」と求めてくる女性もいた。「ごめんね」と言って女性の手を握るしかなかった。やっとの思いで長崎市岡町の自宅があった場所に着いたが、家は消えていた。
 母に再会できたのは投下3日後。遠くから「登喜子さん」と呼ぶ声がして、近付くと母が防空壕の入り口でうずくまっていた。母は被爆時、自宅にいた。火の手が迫る中、爆風で壊れた家の下からはい出したという。「右脚の太ももに五寸くぎが刺さって、自分で抜いたのよ」
 母は日に日に衰弱していった。右脚は腫れ上がり、茶色く変色した。救護所に連れていったが、患部に赤チンを塗られただけ。8月14日、自宅近くの防空壕で小西さんは川で湿らせたハンカチで母の顔をふいた。「ありがとう」。母はつぶやき、小西さんの顔に手をやった。母の頬を涙がつたった。目を閉じ、息を引き取った。
 母の遺体は自分で焼いた。「早く火葬した方がいい」。通りがかりの兵士がそう言って、トタン板や木で焼き場を作ってくれた。「決心がついたら、火を付けなさい」とマッチを残して去っていった。
 「お母さん、もういいね」「まだ嫌?」。何度も話しかけた末、決心して、頭の下に敷いたちり紙に火を付けた。「髪に火が移って、それからは見ていられなかった」。きれいな夕焼けの日だった。母の体から上がる煙が紫色に見えた。翌朝、骨を拾って、市外の母の実家へ帰った。その日、戦争は終わった。
 小西さんは戦後、結婚して大阪に移り住み、小さな洋裁教室を開いた。「ミカ洋裁」。母の名前を付け約50年間教えた。「本当は学校を継いであげたかった。それができなかったのは悔しいけど、母は満足してくれるんじゃないかな」
 母が死ぬ前に流した涙が、道半ばで倒れた悔しさだったのか、最期を娘と過ごせたうれしさだったのかは分からない。あの日、多くの人が母と同じように人生と夢を奪われた。「あんなひどい、残酷な殺人兵器はもう使わないでください」と静かに語った。【遠藤孝康】


【空のあなたへ 日航機墜落30年(上)】 「死ぬまで帰り待っている」 娘3人を失った両親、止まった時間
 「私、まだ待つからね。死ぬまで帰ってくるのを待ってるからね」
 娘3人を一度に失った「あの日」から30年がたとうとする今もなお、兵庫県西宮市の田淵輝子さん(81)は現実を受け入れられない。
 これまで体調を崩したときを除いて、春、夏、秋と年3回は必ず事故現場の御巣鷹の尾根に登り、娘たちに“会いに行く”。
 「年3回も登ることで気持ちの目標ができる。毎年の繰り返し。けど、そのスケジュールに今日も私たちは生かされている」
 行動をともにする夫の親吾さん(86)は、慰霊登山が2人の生きる支えになっていることを明かす。
 長女の陽子さん=当時(24)、次女の満(みつる)さん=同(19)、三女の純子さん=同(14)=は、つくば科学万博や東京ディズニーランドを姉妹でめぐった帰りに事故に遭った。
 昔から夫婦ともに仕事が忙しかった中、陽子さんは小さいころから妹たちの面倒をよく見ていた。妹2人も「何をするにも姉ちゃんの後をついて行った」(輝子さん)という仲の良さ。当時の旅行も、陽子さんが自分の給料で妹たちを連れて行くという毎年の恒例行事だった。
 事故現場では3人とも、ほぼ同じ位置で見つかった。輝子さんは「みっちゃんも、じゅんちゃんも、怖くて姉ちゃんにしがみついていたんだろう」と話す。
酒で紛らわせた日々…「3年記憶ない」
 事故後、輝子さんは悲しさや寂しさを酒で紛らわせるようになった。「3年くらい記憶がない」
 当時は3姉妹が帰るはずだった大阪(伊丹)空港の直近に住んでおり、毎日決まって事故機の着陸予定時刻が近づくと、2階のベランダに出ては着陸機を眺めて「あれに乗って帰ってくる」とつぶやいていた。
 ウイスキーを片手に仏壇の前に座っては「電話してこい」「何してるの」と遺影に語りかける日々。街中に陽子さんと同じ髪の長い女性を見かけ、しばらく後をついて行ってしまうこともあった。
 近所からは「日航から3人分も賠償金をもらえるからいいね」などと、心ない言葉もかけられた。
 そんなときに遺族でつくる「8・12連絡会」の発足を知り、親吾さんが輝子さんを会合に連れて行った。親吾さんは「同じ悲しみを背負う遺族同士で話すことで、気持ちのはけ口になったと思う」と振り返る。
姉ちゃんに「ええ加減にせんかい」
 平成元年、夫婦2人暮らしには手広くなった大阪の自宅から、現在の自宅に引っ越した。
 近所の人には遺族であることを隠したが、10年ほど前に報道を通じて知られると、花を持って訪ねてきたり、「よう辛抱したね」と声を掛けてきたりする人がいた。今度は優しさに触れた。
 輝子さんが酒を飲む日々は続いていたが、約5年前に体調を崩し、体が酒を受け付けなくなった。輝子さんは「姉ちゃんに『ええかげんにせんかい』って叱られたのだと思う」と話す。
 それでも娘たちが亡くなったことは信じられない。「姉ちゃんは『私が家を継ぐからお父さんが気に入った男の人を連れてきてくれれば一緒になるよ』と話していた。ずっと一緒に暮らせるって…」
 慰霊登山は年齢的に厳しさを増し、今では親族に抱えられて登ることもある。
 「私が待っててやらないと、姉ちゃんたち困るでしょ? だから待ってるよ」
 それでも輝子さんは、この言葉を伝えに御巣鷹の尾根に向かう。
 親吾さんも「元気なうちはというより、生きているうちは登る」と執念を見せる。30年だから特別に何かを伝えるというわけではない。「今年も2人して元気にお参りにきた」と言う。それだけで十分だ。
 親吾さんは娘たちの死を受け入れているはずなのに「子供が呼んでいる」と感じている。2人の時間は今も止まったままだ。
 ◇ 
 520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故は、12日で発生から30年を迎える。時が止まったままの両親、前に向かって歩む夫…。遺族はそれぞれの今を生きるが、空の上にいる「あなた」に伝えたいことがあるのは一緒だ。その30年間の思いをつづった。
 ◇ 
520人死亡 史上最悪の単独航空機事故
 東京(羽田)発大阪(伊丹)行きの日本航空123便ボーイング747型機は昭和60年8月12日午後6時56分、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、乗員乗客524人のうち520人が死亡した。現在も単独の航空機事故としては史上最悪の惨事だ。
 事故機は約32分間の上下蛇行の末に墜落。運輸省航空事故調査委員会(当時)は、機体後部の圧力隔壁が破壊され、漏れ出した客室内の大量の空気が垂直尾翼や油圧系統を破壊し、操縦不能となったことが事故原因とした。その7年前に大阪空港で起きた尻もち事故で、米ボーイング社による修理が不適切だったため、圧力隔壁に金属疲労の亀裂が広がったとみられる。
 60年12月、遺族でつくる「8・12連絡会」が結成された。支え合い、事故原因を究明し、空の安全を追求していくことが目的。日航に事故を語り継ぐための施設整備を働きかけ、事故後22年目に遺品や事故機の残骸などを展示した「日航安全啓発センター」がつくられた。現在は日航内でも社員の9割以上が事故後の入社となっており、風化防止が課題となっている。(福田涼太郎)

門真でアヒポキ/夜間中学の案内/大丸梅田でずんだ?

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La Corée du Nord se remet à l’heure
La Corée du Nord vient d’annoncer l’adoption de son fuseau horaire d’origine, GMT + huit heures. Il sera mis en place le 15 août et retardera toutes les horloges du pays de 30 minutes.
A partir du 15 août 2015, la Corée du Nord sera à l’≪heure de Pyongyang≫. Le pays a annoncé, ce vendredi, qu’il allait changer d’heure, mettant fin à la mesure du temps imposée par les ≪impérialistes japonais cruels≫, il y a plus d’un siècle. Toutes les pendules seront alors retardées de 30 minutes pour donner au pays le fuseau horaire ≪GMT + huit heures et demie≫, soit une demi-heure de moins qu’en Corée du Sud et au Japon, qui sont à GMT + 9.
Ce changement d'heure, qui a obtenu le feu vert mercredi du Parlement nord-coréen, marquera le 70e anniversaire de la libération de la péninsule coréenne du règne colonial japonais (1910-1945). ≪Les cruels impérialistes japonais ont commis tant de crimes impardonnables, allant jusqu'à priver la Corée de son heure standard tout en piétinant ses terres, sans aucune merci≫, a rapporté l'agence officielle KCNA. A l'ère précoloniale, il était en effet GMT + huit heures en Corée mais le Japon avait imposé son heure standard en 1912.
D’après la KCNA, le décret parlementaire traduit la ≪foi inébranlable et la volonté du peuple et de l'armée à l'occasion du 70e anniversaire de la libération de la Corée≫.
La Corée du Sud contrariée
En Corée du Sud, cette nouvelle a été plutôt mal perçue par l’exécutif. Le ministère sud-coréen de l'Unification, qui est chargé des affaires intercoréennes, a estimé que ce changement pourrait compliquer la situation, en particulier dans la zone industrielle intercoréenne de Kaesong, située en territoire nord-coréen. ≪A plus long terme, il pourrait y avoir des conséquences sur les efforts pour unifier les normes et réduire les différences entre les deux pays≫, a ajouté un porte-parole.
La Corée du Sud avait elle-même changé d'heure en 1954, également pour marquer sa rupture avec le Japon, avant de revenir en arrière en 1961, après l'arrivée au pouvoir de Park Chung-Hee à l'occasion d'un coup d'Etat militaire. Le nouvel homme fort avait alors expliqué que les deux principaux alliés des Etats-Unis dans la région, Séoul et Tokyo, se devaient d'être au diapason.
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橋下徹現象と部落差別 (モナド新書 6)
宮崎 学
にんげん出版
2012-12-11


『週刊朝日』のどこが悪いかを解説してくれた 南野
橋下さんは弱いものいじめをするから嫌いだけど、『週刊朝日』のことでテレビに向かって話している姿は、すごく冷静で淡々と話していて、いつもとちょっと違って見えた。
でも、コメンテーターが話す『週刊朝日』の問題点は、なんだか奥歯に物が挟まったような言い方で、なにを問題にしているのか、よくわからなかった。正直、橋下さんが正しく見えてしまったことが、なんだか悔しかった。
そんなふうに思っていたけど、この本を読んで、「マスコミのタブー」とか「地名が載っているから悪いんだ」という意見が、いかに的外れかがわかって、すっきりした。
タブーがどうこうではなくて、どんな嫌いな人間でも、本人にどうにもできないことで貶めることこそ、差別なんだと書いてあった。
 『週刊朝日』一〇月二六日号の記事は、人を貶しめる意図を持って、特定の人物の「本性」
 を暴くという名のもとに、当該者をふくむすべての被差別部落出身者を、その抗弁できない
 「出自」を根拠に、「侮辱の意志を表示した」部落差別表現であるということ。(本文より)
『週刊朝日』の記事が、なぜ悪いのかということをちゃんと言ってくれた人は、ほとんどいなかった。
それをきちんと説明してくれたこの本は、とても貴重だと思う。


門真までお出かけ.暑いですが,ハワイアンのお店に行きます.先月も門真のハワイアンですが,別のお店です.よくわからないけど,アヒポキボウルというのをたのみました.アボカドとマグロが美味しいです.
食事の後門真の街を少し散策.狭い路地なんかがあったりで,面白い感じもします.ふと見ると夜間中学の生徒ぼしゅうのチラシが貼ってありました.ちょっとびっくりしました.でもいろいろな理由で学ぶことができなかった人にその機会は与えられるべきだと思います.
夜大丸梅田.ずんだが売っていました♪あれれれ???って感じです.

女川の海の幸、都内で発信 アンテナ店開店
 宮城県女川町公認のアンテナショップ居酒屋「宮城県女川町 産直鮮魚とマグロの明神丸」が6日、東京都江東区の地下鉄門前仲町駅近くにオープンした。店内には近く、地場産品の販売コーナーも設けられる。
 32席ある店内は海の家をイメージ。ロープやガラスの浮き玉など実際の漁具や大漁旗を飾っている。ホタテやホヤなど女川産海産物を使った料理を提供する。
 開店前日の内覧会では関係者が料理を試食。店名にした女川船籍のマグロ漁船が水揚げしたメバチマグロやビンチョウマグロの刺し身も振る舞われた。
 宮城県内などで飲食店を経営するスタイルスグループ(仙台市)の佐々木浩史社長が、東日本大震災の復興に向けた女川町の町づくりに感銘を受け、都内のPR拠点にしようと開店を計画。町は復興や観光関連の情報発信などで協力する。
 内覧会に駆け付けた須田善明町長は「首都圏の人に女川を知ってもらえる。海の食材を通し、町全体に関心を持ってほしい」と期待した。営業時間は午後5時〜午前0時で無休。


<災害公営住宅>太陽光で災害時3日電力供給
 東日本大震災で、東松島市が同市赤井地区に整備した災害公営住宅「柳の目東住宅」が完成し、入居者に6日、鍵が引き渡された。太陽光発電システムを導入するとともに、市が送電設備を整備。団地内で発電した電力を、住宅と周辺の医療機関など公共施設に供給する仕組みを構築する。災害時に強く、環境に配慮した住宅団地を目指す。
 電力供給システムの構築に当たる積水ハウスによると、自治体が電力事業者となって自前の電柱、電線で住宅に電力を供給する全国初のケースとなる。
 柳の目東住宅は一戸建て70戸と集合型15戸の計85戸で、調整池と集合住宅、集会所の屋根に太陽光パネル(最大出力約470キロワット)を整備する。
 通常は太陽光発電と電力会社からの供給を併用し、市が電力会社から一括で購入し各戸に売る。蓄電設備も整備中で、災害などによる停電時には、3日間は団地と周辺施設の全電力を賄える。供給先を絞るとさらに長期間の電力供給が可能だという。
 市が環境省の補助を受け「東松島スマート防災エコタウン」事業として進めてきた。送電設備は本年度内に完成し、来年夏ごろに電力供給を始める予定。阿部秀保市長は「震災時は病院の電源確保に苦労した。システムは次世代のエコタウン構築にもつながる」と話した。
 現地であった住民への鍵引き渡し式では、阿部市長から住民代表の相沢正勝さん(64)に鍵のレプリカが贈呈された。
 相沢さんは同市大曲浜地区の自宅を津波で流失。妻香代子さん=当時(60)=を亡くし、市内の仮設住宅で暮らす。新居には三女一家と住む予定で「広く、家族が足を伸ばして暮らせるのがうれしい。電力システムはこれからの時代に合っていると思う」と喜んだ。


<不登校>震災後に深刻さ増す
◎宮城県子ども総合センター 本間博彰所長
 宮城県内では中学生の不登校割合が全国に比べ高く、東日本大震災後はさらに深刻さを増している。被災地で子どもが学校に行かなくなる要因や講じるべき対策について、県子ども総合センターの本間博彰所長に聞いた。(聞き手は報道部・相沢みづき)
 −震災は子どもたちにどう影響しているのか。
 「復興の遅れから先を見通せない現状がある。大人の不安や喪失感は子どもに伝わるものだ。中学生になると将来について考える機会が増え、それだけ不安も強く表れるようになる」
 「もう一つは心の傷。子どもたちの周囲は震災を思い出させ、心の傷を刺激する風景や人間関係であふれている。自分を守るために刺激を避けようとし、学校に行かなくなってしまう」
 −中1から不登校になる生徒が半数を占めるという県教委のデータがある。不登校の理由に「無気力」を挙げる生徒が多い。
 「中1より中2、中3で学校に行かなくなる生徒が多い地域もある。環境の大きな変化による『中1ギャップ』は当たり前で、そればかりが不登校の要因とは言えない。思春期はエネルギーをたくさん使う。無気力はエネルギー不足ということ。周りの支えがあってエネルギーはたまる」
 −県内では震災前から不登校が多い。教育現場や行政に求められる対策は。
 「宮城で不登校が多い理由ははっきりしないが、その割合は学校が役割を果たしているかどうかのバロメーターとも言える。被災が甚大で、一時的に教師が多く配置されたような学校では不登校の子どもはあまり見られない」
 「教師は子どもたちの心の傷に寄り添い、一人一人が抱える問題に個々に向き合っていくしかない。行政は、教師や学校の取り組みを後押しすべきだ」


<仙台七夕>巡る夏 復興と平和連なる祈り
 戦後復活70回目を迎えた仙台七夕まつりが6日、開幕した。仙台市中心部や周辺の商店街には色鮮やかな竹飾り約3000本が並んだ。東日本大震災から5度目の夏、風に揺れる吹き流しや短冊には、復興や平和への願いが込められた。
 初日は仙台の最高気温が36.1度に達する猛暑となり、人出は約65万8000人で昨年より3万4000人少なかった。それでも青葉区中心部の中央通や東一番丁通には、大勢の観光客や市民が詰め掛けた。
 神戸市の主婦平野次代さん(67)は石巻市に住む次女の家族と訪れた。「初めて見たが、とてもきれい。折り鶴をつないだ飾りも良かった」と笑顔で話した。
 仙台管区気象台によると、7日も日中は晴れ間が広がり、最高気温は仙台で34度まで上がりそう。
 主催するまつり協賛会は8日までの期間中、210万人の人出を見込む。


<仙台七夕>核廃絶願い40年目の平和七夕
 仙台七夕まつりとともに40年、「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」を訴えてきた人がいる。市民グループ「平和を祈る七夕市民のつどい」代表の油谷重雄さん(72)=仙台市泉区=だ。「次世代に平和の大切さを伝えなければならない」。広島への原爆投下から70年のことしも、商店街に掲げた「平和七夕」の下、核廃絶と恒久平和を呼び掛ける。
◎折り鶴吹き流し 全国から90万羽
 仙台市青葉区中央のクリスロード商店街で6日、折り鶴をつないだ5本の吹き流しが揺れた。見物客に配る首飾りの分を加えると、全国から集まった折り鶴の数は計90万羽近く。一つ一つに平和の思いが宿る。
 「人類と原爆は共存できない。再びこのような惨禍を起こしてはならない」
 拡声器で平和七夕の趣旨を説明する油谷さんの手に、自然と力が入った。
 平和七夕が始まったのは1976年。油谷さんが原爆の惨状を伝える写真を見たり、広島でも風化が進んでいることを聞いたりしたことがきっかけだった。
 「仙台で市民に訴える方法はないか」。広島の原爆の日と仙台七夕まつりの開幕日が同じ点に着目した。
 1回目は約20人が集まって2000羽の折り鶴を作った。飾ったのは仙台市役所ホール。広島の被爆者から届いた4万羽の折り鶴と一緒に掲げた。
 被爆地以外では珍しい取り組みに翌年以降、各地から折り鶴が届くようになった。東日本大震災後は復興への思いも込められている。「ここまで続くと思わなかった」。1回目から代表を務める油谷さんは言う。
 安全保障関連法案をめぐる動きが注目される中、「政治色は持ち込まない」という基本姿勢は崩さない。次代を担う若い世代に参加してもらうためだ。
 6日は午後2時から30分間、約70人が展示場所近くで首飾りを配った。高校生らも手伝った。
 油谷さんは「子どもからお年寄りまで誰でも参加できることが大切。これからも続けたい」と決意を新たにした。


ピースナイターで平和への願い
原爆投下から70年の「原爆の日」の6日、カープは、平和を願うこの日だけのユニフォームを着て本拠地での試合に臨み、3万人を超える満員のファンが平和への思いを新たにしていました。
「原爆の日」の6日夜、広島市のマツダスタジアムで行われた阪神との試合で広島の選手は全員がこの日だけの同じユニフォームで試合に臨みました。
ユニフォームは、背中に8月6日を意味する「86」の背番号と、「HIROSHIMA」の文字、それに、胸には平和を意味する「PEACE」が縫い付けられています。
球場には半旗が掲げられ試合前に両チームの選手や監督をはじめ3万人を超えるファンが黙とうをささげたあと、両チームとも鳴り物を使った応援を自粛して試合が行われました。
球場を埋めた満員のファンは拍手をしたりこの日にあわせて用意した「PEACE」と書かれたボードを掲げたりして試合を楽しむとともに平和への思いを新たにしていました。
息子や幼い孫と3世代で試合を観戦した広島市の75歳の男性は、「8月6日に野球を見ることが出来る平和に感謝しながら観戦しました。原爆で多くの友人を亡くしましたが、70年という節目を機に広島から平和の輪を広げていきたいです」と話していました。


原爆の日 被爆者と政権とのずれ
 原爆投下から70年を迎え、二度と悲劇を繰り返してはならないと誓う広島・長崎の被爆者の思いと、安全保障政策の転換を進める政権の姿勢とのずれがあらわになっている。
 広島市の平和記念式典のあいさつで安倍晋三首相は、1994年以降に出席した歴代首相で初めて「非核三原則」に触れなかった。被爆者たちの間には「なぜ盛り込まないのか」と戸惑いが広がった。
 式後、被爆者団体代表は安倍首相との面会で、政権が今国会での成立を目指す安全保障関連法案について「最近の政府の施策には被爆者の願いに反するものがあり、危惧と懸念を禁じ得ない。その最たるものが安保法案だ」と撤回を要求した。安倍首相は「戦争を未然に防ぐために必要不可欠だ」とかわした。
 閣僚からは被爆者たちの思いを逆なでするような発言も出ている。
 中谷元・防衛相は安保関連法案で拡大する他国軍への後方支援に関し、自衛隊が核ミサイルなど核兵器を輸送する可能性について「法文上は排除していない」と述べた。たとえ法律上の解釈の話だとしても、機械的に説明するのは無神経ではないか。こうした政権の姿勢に被爆者たちは不信感を強めている。
 広島市の平和宣言は直接には安保関連法案には触れなかったものの、「武力に依存しない安全保障の仕組みを創り出していかなければならない」と述べ、日本国憲法の平和主義の精神を世界へ広める努力の必要性を唱えた。
 9日の長崎市の平和祈念式典で読み上げられる平和宣言は、安保関連法案について、国民に広がる不安や懸念の声に耳を傾け、慎重に審議するよう政府や国会に求める。
 広島の平和記念式典への参列国は過去最多の100カ国となった。両市が呼びかけて2020年までの核兵器廃絶を目指す平和首長会議への加盟は世界6779都市に上っている。広島と長崎が発する核廃絶の訴えは、ゆっくりとではあっても世界に広がっていると信じたい。
 こうした流れを核軍縮・核廃絶につなげていくことが被爆国である日本の使命である。
 長崎の平和祈念式典では、原爆の熱線で背中を焼かれ、瀕死(ひんし)の重傷を負った谷口稜曄(すみてる)さん(86)が被爆者を代表し、2度目の「平和への誓い」を読む。長崎原爆被災者協議会会長を務める谷口さんは国内外で「核と人類は共存できない」「未来に生きる者たちのために、核兵器は一発も残してはならない」と繰り返してきた。
 被爆者たちの言葉は、すべての人類に向けた教訓である。被爆70年という節目にそれをかみしめ、核廃絶の誓いを新たにしたい。


戦後70年談話に望む 侵略への猛省を起点に
 有識者会議が報告書に「植民地支配と侵略」を明記した意味は重い。安倍晋三首相は「反省とお詫(わ)び」を表明した村山、小泉両首相談話を受け継ぐべきだ。
 安倍首相は戦後七十年の節目にどんなメッセージを発するのか。自身の談話を出すに当たり、参考となる意見を求めた私的諮問機関「二十一世紀構想懇談会」がきのう、報告書を首相に提出した。
 「安倍談話」は終戦記念日前日の十四日にも発表される。政府の公式見解とするため、閣議決定する方向で検討しているという。
◆負の史実と向き合う
 戦後五十年の節目に当たる一九九五年の終戦記念日に村山富市首相が、六十年の二〇〇五年には小泉純一郎首相がそれぞれ首相談話を閣議決定し、発表している。
 その根幹は「植民地支配と侵略」により、とりわけアジア諸国の人々に多くの損害と苦痛を与えた歴史の事実を謙虚に受け止め、「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」を表明したことにある。
 歴史には、立場や経験によってさまざまな見方があることは否定しないが、「負の歴史」とも向き合う勇気と誠実さが必要だ。
 朝鮮半島や台湾などに対する植民地支配や、満州事変以降、大陸への侵略を拡大したことは、否定し得ない史実である。その行為を反省するなら、お詫びするのも、自然に発する心情ではないのか。
 安倍首相はこの二つの首相談話を「全体として受け継ぐ」とは言いながらも、「植民地支配」「侵略」「反省」「お詫び」という文言を、自身の談話に盛り込むかどうかは明言していない。
 むしろ「今まで重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍政権としてどう考えているのかという観点で出したい」と、そのまま盛り込むことには否定的だ。
◆歴史認識を受け継げ
 首相はかつて国会で「侵略という定義については、学界的にも国際的にも定まっていない」と答弁したことがある。
 首相が昨年来、オーストラリアや米国の議会で行った演説を振り返ると、先の大戦を「反省」はしても、それを侵略とは認めず、お詫びもしないという態度を貫いているように見える。
 有識者の報告書は「満州事変以後、大陸への侵略を拡大」したことや「一九三〇年代後半から、植民地支配が過酷化」したことを明記した。複数の委員から「侵略」という文言を使うことに異議があったと脚注に記しながらも、侵略だったと断定した意味は大きい。
 村山、小泉両首相談話が日本と国際社会との和解に大きな役割を果たしたことは報告書が認める事実だ。首相は自身の談話にも「植民地支配」「侵略」「反省」「お詫び」を盛り込むべきである。
 根幹部分の文言を盛り込まなければ、歴代内閣の歴史認識を受け継いだことにならず、国際社会にも誤ったメッセージを与える。
 共同通信社が七月十七、十八両日に実施した全国緊急電話世論調査でも、安倍首相の談話に「植民地支配と侵略」への「反省とお詫び」を盛り込むべきだと答えた人は50・8%と半数を超えている。
 首相談話が、国民の思いと懸け離れたものでいいはずがない。
 安倍首相談話が村山、小泉両首相談話の根幹部分を盛り込まないなら、発表を中止するか、閣議決定せず、私的な談話にとどめるべきだ。閣議決定によって両首相談話を「上書き」し、歴史認識を改変することが許されるはずはない。
 有識者の報告書が、「侵略」を史実として認めたことは評価するが、中国や韓国との和解に関する記述が妥当とは思えない。
 例えば両国との和解が進まないのは「中国側が愛国主義教育を強化」し、「朴槿恵(パククネ)政権が日本と理性的に付き合うことに意義を見出(みいだ)していない」ためとの指摘だ。
 そうした一面は否定し切れないとしても、靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)など日本側に起因する事情にほとんど触れず、自己正当化するような記述はとても誠実と言えまい。首相の考えに近い人を多く集めた私的懇談会の限界だろうか。
◆深甚なる反省と謝罪
 戦後日本は七十年間、平和国家として歩み続け、非軍事面での国際貢献を重ねてきた。先人たちの努力は、今を生きる私たちの誇りであり、その歩みを今後も引き継ぐと、国際社会に誓いたい。
 未来志向は否定しないが、その起点は、侵略の拡大と植民地支配の過酷化で、特にアジアの人々に多大の損害と苦痛を与えた歴史に対する猛省にあるべきだ。他国への配慮ではなく、日本国民の誠意の表現として、深甚なる反省と謝罪の気持ちを表したい。
 首相談話は、そうした国民の率直な思いを大切にすべきである。さもなければ、いずれ戦後百年を迎える日本の将来に禍根を残す。


有識者懇:英訳、村山談話踏襲…「痛切な反省」など表現で
 安倍晋三首相の戦後70年談話に関する「21世紀構想懇談会」が6日に発表した報告書は、英訳版も作成され、公表された。先の大戦に対する「痛切な反省」について「deep remorse」と表現するなど、1995年の村山富市首相談話で使われた歴史認識に関する単語を引き継いだ。懇談会の北岡伸一座長代理は同日の記者会見で、英訳の狙いについて「我々の考えを世界に発信したい」と語った。
 村山談話で使われた単語ではこのほか、「侵略」を「aggression」、「植民地支配」を「colonial rule」と英訳。さらに、村山談話が「国策を誤り」とした部分は、報告書では「国策上致命的な過ちを犯し」と踏み込み、英訳は「made a fatal mistake in its national policy」と記述した。
 ただ、「反省」については、文脈によって訳し方が分かれた。20世紀の教訓について述べた部分では「深い悔恨」を意味する「remorse」を使ったが、戦後の国際貢献の部分で「30年代から40年代前半の行動に対する全面的な反省の上に成り立っている」といった記述に対しては「内省」といった意味合いが強い「reflection」を使用した。
 安倍首相が掲げる「積極的平和主義」は、これまでも対外的に使用してきた「proactive contribution(積極的な貢献)」を採用した。平和主義は直訳すれば「pacifism」だが「無抵抗の平和思想」という意味合いが強い。
 日韓の歴史認識に詳しい新潟県立大大学院国際地域学研究科の浅羽祐樹教授は「中国、韓国語への翻訳は日本語からの翻訳が主になるだろう」と指摘。村山談話にならった単語の選択は「無難な選択をしている」と評価した。【前田洋平】


特集ワイド:「忘災」の原発列島 本当に再稼働でいいのか
 「安全神話」は虚構だったのを忘れたのだろうか。新規制基準下では初めて、九州電力は11日にも川内原発1号機(鹿児島県薩摩川内市)を再稼働させる。東京電力福島第1原発事故から4年5カ月の年月を重ねても、課題は山積したままだ。それでも、この国は、原子炉に再び火をともそうとしている。
 ◇責任所在、曖昧なまま 避難計画「自治体任せ」
 「原発稼働の一義的な責任者は事業者。一方、政府は原子力規制委員会において安全性が確認された原発は再稼働を進める判断をしている」
 菅義偉官房長官は4日午前の記者会見で、川内原発の再稼働を判断するのは誰かと質問されると、こう答えた。
 では、規制委はどのような認識なのか。九電が策定した地震や津波対策などは、東日本大震災後の新規制基準に適合する、と発表した昨年7月の記者会見を振り返ろう。田中俊一委員長の発言だ。「基準への適合はみているが、安全とは私は言わない」
 つまり、政府は規制委に安全性の担保を求めているが、その規制委は「絶対に安全」とは口にしない−−。過酷事故を経験したのに、国の責任の所在は曖昧なままなのだ。
 とはいっても、政府は昨年4月に閣議決定したエネルギー基本計画で原発を「重要なベースロード電源」と位置づけた。当然、再稼働に慎重な意見も多い地元では「政府のしかるべき人が説明すべきだ」との声が根強い。でも、原発政策を所管する宮沢洋一経済産業相は7月28日の記者会見でこう言い切った。「再稼働のタイミングで鹿児島に入る予定はない」
 原子力資料情報室の伴英幸共同代表はあきれ顔だ。「政府は住民の合意を得て再稼働を進めたいと説明していたはず。それなのに、基準に合格といって原発を動かすのはおかしい。それに誰が責任者なのかを曖昧にしておくのは、もし事故が起きても責任追及をかわすためではないか」
 再稼働に不可欠な住民の避難計画も心もとない。
 そもそも新規制基準の要件には、過酷事故が起きた際の避難計画の策定が入っていない。「所管の原子炉等規制法の対象外なので」というのが原子力規制庁の言い分だ。避難計画は、災害対策基本法に基づいて「自治体任せ」になっているのが実情だ。
 海外は違う。国際原子力機関(IAEA)は原子力事故対策で「5層の防護」を定めている。その内訳は、3層目までが過酷事故の防止▽4層目が過酷事故が起きた時の対策▽5層目が放射性物質が敷地外に漏れ出た場合の防災対策−−となっている。例えば、米国では、原子力規制委員会(NRC)が防災対策について認可をしないと原発は動かせない。
 原子力行政に詳しい吉岡斉・九州大教授は「米国ではNRCと、米連邦緊急事態管理局(FEMA)が住民の避難計画をダブルチェックする。それに引き換え日本は無責任です。事故が起きた時に住民の安全を確保するために一つの自治体で対応するなどあり得ない。法改正をして避難計画の妥当性を新基準で審査すべきだ。国は怠けているのです」と厳しく批判する。
 では、鹿児島県が策定した川内原発の避難計画の実効性に問題はないのか。県は、福島原発事故で避難中の入院患者ら要援護者が犠牲になった事例を念頭に対応策をまとめている。原発から半径10キロ圏の施設は避難先を確保し、10〜30キロ圏の施設は事故後に調整するなどとした。
 対応策は国から了承されたが、住民には不安が残る。原発から約17キロ離れた同県いちき串木野市で、高齢者デイケアサービスを運営する江藤卓朗さん(58)は「通所施設なので、1人暮らしや老老介護の利用者も多い。避難するといっても、排せつの処理など日ごろの世話を誰がするのでしょうか。現場のことを考えていない机上の空論です」。
 また、県は今年6月、原発5キロ圏に暮らす住民約4900人のうち、自家用車で避難できない約3000人を避難させるため、バス事業者33社と緊急輸送協定を結んだ。運転手の被ばくは、一般人の限度(年間1ミリシーベルト)を下回るという条件を設定した。
 これに対して、国際環境NGO「FoE Japan」の満田夏花理事は「風向きや事故の程度など最新の情報を、どうやって運転手に伝えるのでしょう。最新の避難計画に基づく訓練もしていないのはおかしい」と批判する。
 実際、九電は7月下旬、重大事故の発生を想定した大規模な訓練を実施した。施設内の訓練で、住民の避難訓練は行われていない。望月義夫環境相は7月末の記者会見でこう述べている。「避難訓練は再稼働の条件としては考えていません」。要は、再稼働と住民の避難訓練はセットではないということなのだ。
 ◇山ほどある未解決の課題
 そもそも福島の事故が収束しないままの再稼働は許されるのか。
 今も福島県民11万人が避難を続け、事故原因も不明な点が多い。「原子炉を冷やすのに必要な交流電源がなぜ喪失したのか。東電や規制委員会は電源設備が津波で被水したためとしていますが、特に1号機の場合、津波襲来前に電源喪失が起きた可能性があります」。こう語るのは、元原発技術者で国会事故調委員を務めた田中三彦さん。「私が参加する東電の柏崎刈羽原発再稼働問題を議論している新潟県の技術委員会でも、電源喪失に加え重要な配管や設備が地震の揺れで破損しなかったかなど、福島原発事故について今も東電と議論しているところです」
 さらに政府や福島県は、被災者支援に区切りをつける動きを強め、「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」の避難指示を2017年3月までに解除する目標を閣議決定した。これに伴い、事故前は両区域で暮らしてきた住民の精神的損害賠償は18年に一律終了。また、避難指示が出ていない地域から避難した自主避難者についても、県は避難先の住宅の無償提供を17年3月で打ち切る方針だ。
 住民の怒りは収まらない。被災者約4000人が国と東電を相手取り、除染による原状回復と慰謝料などを求めている「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟」の原告団長の中島孝さん(59)は憤る。「支援を打ち切れば、被災者はいなくなったように見える。原発を再稼働させていくには、俺たちの存在がきっと邪魔なんだよ」。中島さんは地元の福島県相馬市で約30年前からミニスーパーを経営している。「あらゆる人が仕事を失ったり、避難したりするなどつらい思いをしている。自分たちのような思いを二度と味わわせたくない。これだけの事故を起こしても、国や東電の誰も責任を取っていない」と怒りを爆発させるのだ。
 課題はそれだけではない。前出の伴さんは「川内原発の場合、火山の巨大噴火が起きるリスクもある。テロ対策も十分とは言えません。また、除染で出た指定廃棄物の処分場や、原発運転時に発生する高レベル放射性廃棄物の最終処分場の問題なども解決していません」と指摘する。
 主な課題をまとめた表を見てほしい。例えば、原子力施設で事故が起きた時の損害賠償制度の見直し。事業者に無限責任を課している現行制度を改め、国の責任を明確にするよう原子力委員会の専門部会で検討中だが、結論は出ていない。
 何といっても最大の課題は国民の理解を得られていないことだ。毎日新聞が1月に実施した世論調査では、川内原発再稼働に反対が54%、賛成が36%と大きな差が付いた。報道各社の世論調査も反対が賛成を上回る。こうした状況での再稼働について、菅官房長官は4日の記者会見でこう述べた。「それについては地元の議会が判断しているのではないでしょうか」
 確かに鹿児島県議会は再稼働に同意した。でも前出の田中三彦さんは危惧する。「新規制基準は重大事故の発生を防ぐためのものではなく、『重大事故は起きる』ことを前提としたもの。再稼働を地元が認めることは、重大事故が起きてもやむなしという地元の意思表明でもあるわけです」
 改めて表を見てほしい。原発を動かすのなら解決すべき課題は山ほどあるのだ。それを無視して、この国は再稼働に突き進もうとしている。本当に、もう一度、立ち止まらなくてもいいのだろうか。【石塚孝志】

広島被爆から70年/アベにヤジ

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Hiroshima : le Japon se souvient de la première bombe nucléaire
Les cloches ont sonné et plusieurs dizaines de milliers de personnes se sont recueillies, jeudi 6 août à 8 h 15 (1 h 15 du matin en France métropolitaine), à Hiroshima.
Soixante-dix ans plus tôt, le 6 août 1945, un B-29 baptisé Enola Gay, volant à haute altitude au-dessus de la ville, largua une bombe à uranium dotée d’une force destructrice équivalente à 16 kilotonnes de TNT, portant la température à 4 000 degrés au sol.
On estime à 140 000 le nombre de morts, au moment de l’impact puis ultérieurement, sous l’effet de l’irradiation. Trois jours plus tard, celle larguée à Nagasaki, le 9 août 1945, a tué quelque 74 000 personnes. Ces deux bombes ont mené à la capitulation sans condition du Japon impérial, le 15 août 1945, marquant le fin de la seconde guerre mondiale.
≪ Créer un monde sans nucléaire ≫
Une foule de plus de 50 000 personnes s’est recueillie dans le parc mémorial de la paix de cette ville de 1,2 million d’habitants devenue un symbole du pacifisme. Son maire, Kazumi Matsui, a demandé la suppression des armes nucléaires, ≪ le mal absolu ≫, et la création de systèmes de sécurité qui ne dépendent pas de la puissance militaire. Il s’est adressé directement ≪ aux leaders du monde ≫, leur demandant ≪ de venir dans les villes qui ont été bombardées, d’écouter les histoires des hibakusha et de connaître la réalité d’un bombardement nucléaire ≫.
Entouré des représentants de 100 pays, le premier ministre japonais, Shinzo Abe, a également prononcé un plaidoyer contre l’arme nucléaire :
≪ En tant que seul pays frappé par l’arme atomique (…) nous avons pour mission de créer un monde sans arme nucléaire. Nous avons la responsabilité de faire comprendre l’inhumanité des armes nucléaires, à travers les générations et les frontières. ≫
Le chef du gouvernement a précisé que le Japon présenterait une nouvelle résolution destinée à abolir l’arme nucléaire à l’Assemblée générale de l’ONU cette année. Mais le meme premier ministre veut faire voter des lois autorisant l’armée à participer à des conflits, pour la première fois depuis la seconde Guerre mondiale, ce qui lui vaut une hostilité croissante dans le pays.
Pendant les commémorations, des survivants du bombardement l’ont pris à partie au cours d’une rencontre organisée à l’issue de la cérémonie. ≪ Ces lois vont faire renaître la tragédie de la guerre dans notre pays ≫, a notamment déclaré Yukio Yoshioka, aujourd’hui âgé de 86 ans, cité par Reuters. ≪ Elles doivent etre retirées ≫.
≪ Notre engagement contre la guerre, le chemin pacifiste pris par notre pays ne changeront jamais ≫, lui a répondu M. Abe. Des paroles qui n’ont pas apaisé les inquiétudes de M. Yoshioka qui a conclu :
≪ Je ne peux pas supporter ça. Il ne fait que prononcer pour les gens des paroles enrobées de douceur. L’attitude du gouvernement actuel piétine les sentiments et les prières des victimes ≫.
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所さん!大変ですよ「世にも不思議な珍事件SP」
世にも不思議な事件を2本送る。前半はアメリカで人気になっている日本軍の拳銃6万丁の謎を追う。日本軍の武器を愛するマニアが続々登場。彼らが持つ一丁の拳銃。その元々の所有者を探し求めて、ディレクターが世界中を飛び回る。後半は、幻のオオサンショウウオ料理を探し求める中国の旅。衝撃の展開に所さんも仰天です。
所ジョージ,久保田祐佳,徳永圭一, 吉田鋼太郎,澤口俊之,牛窪恵,モーリー・ロバートソン

高校野球100年 レジェンドが語る名勝負の秘密「第1回 激闘の延長戦」
高校野球全国大会が始まって100年。伝説となった名勝負の知られざる秘密を当事者に聞く4回シリーズ。ナビゲーターは野球少年だった亀梨和也(KAT−TUN)。第1回のテーマは「激闘の延長戦」。昭和44年夏、史上初の決勝引き分け再試合となった松山商と三沢の闘いの舞台裏について、三沢のエースだった太田幸司さんに聞く。さらに、星稜対箕島、横浜対PL学園など、まさに死闘となった延長戦も振り返る。
太田幸司, 亀梨和也,伊集院光, 高山みなみ


広島に原爆が落とされて70年.広島に行こうと思ったけれど,忙しくて時間が取れません.
アベにヤジがあったそうです.平和を願う広島の人々にとってみれば,戦争ができる国づくりを進めるアベは許し難く,もっともなことだとも思いました.

被爆70年の日本 核廃絶へ世界を動かせ
 米国で生まれ広島市で育った据石和(すえいし・かず)さん(88)=米カリフォルニア州在住=は70年前のきょう、B29が飛び去った後の青い空に白い点を見た。近くにいた人に「何だろうね」と言いかけた時、閃光(せんこう)が18歳の彼女を包んだ。白い点は原子爆弾だった。3日後には長崎に原爆が落とされた。
 据石さんは一命を取りとめたものの、寝たきりの生活が約7カ月続いた。腰の骨が折れていて、歯茎からの血が止まらない。呼吸が苦しく体が冷えて、朝になると「今日は私が死ぬ番だ」と考えた。
 ◇核軍拡が止まらない
 奇跡的に回復した彼女は1957年、日系2世の男性と結婚するため米ロサンゼルスへ渡る。被爆による体調不良で医者に行っても当時は医療保険が適用されなかった。「敵国人(日本人)に州の金を使うな」と言う米議員もいたという。夫の正行さんも戦時下で米国による日系人強制収容を体験していた。
 だが、据石さんは米国を恨んだことはない。「米国広島・長崎原爆被爆者協会」の会長を務めながら、ママ、グランマ(おばあちゃん)として米国人に被爆体験を語ってきた。
 「私の体験を熱心に聞いて『申し訳ない。許してください』と言う人もいる。話せば分かるんです、米国人は。オバマさん(米大統領)の『核兵器のない世界』の呼びかけはなかなか浸透しないし、私の話もその場限りかもしれないけど、愛をもって語り続けるしかないんです」
 だが、世界を見渡せば殺伐たる状況だ。米露の核軍縮交渉は宙に浮き、クリミアを強引に編入したプーチン露大統領は核戦力の使用をちらつかせて「腕力で来い」と言いたげだ。中国やパキスタン、インドの大幅な核軍拡も伝えられる。
 北朝鮮は米国を攻撃しうる核ミサイルを開発中といわれ、まさに「核軍拡ドミノ」の趣だ。米国のシンクタンクは北朝鮮が2020年までに100発の核ミサイルを配備すると予測する。その脅威をまともに受けるのは日本だろう。
 核拡散防止条約(NPT)の空洞化も進んだ。インドとパキスタンはNPTに参加せず、北朝鮮は03年に条約脱退を宣言した。イランの核開発には米欧など6カ国が一定の歯止めをかけたとはいえ、NPT未参加のイスラエルが持つとされる核兵器が中東の不安要因になっている。
 しかも5年に1度、NPTの達成状況を検証するために開かれる再検討会議は今年5月、最終文書を採択できないまま決裂した。NPTにより核兵器を合法的に持てる国(米英仏露中)とそれ以外の国の温度差が、これほど開いた会議もあるまい。
 この会議では、最終文書で「各国首脳の広島・長崎訪問」を呼びかけようとした日本に中国が待ったをかけ、核軍縮に歴史認識を絡める展開となった。中国の強引さが目立つとはいえ、日本の根回しと詰めの甘さが露呈したともいえる。
 これが被爆70年のお寒い現実だ。謙虚に考えてみたい。核廃絶を訴えてきた日本の声が世界に正しく届いているか。「唯一の被爆国」と言いつつ米国の「核の傘」に頼る日本の立場を、各国は理解しているか。そして、終わりの見えない核拡散と核軍拡で世界が自滅しないために、日本は何をすればいいのか。
 ◇米大統領は被爆地へ
 これらの問いかけへの答えとして、日本政府はより真剣に、より積極的に核廃絶に取り組むべきだろう。第3の被爆を防ぐべく米国の「傘」に寄るのは、核抑止の上で間違いとは言えない。だが、米国の核戦略に遠慮して、言いたいことを言わないなら論外だ。日本はむしろ米国を説得し、世界を動かすことを真剣に考えるべきである。
 オバマ大統領にも言いたい。広島と長崎の式典に、駐日米大使に加え米高官も参列するのは朗報だが、大統領が「核なき世界」をめざすなら、恐ろしい兵器に倒れた市民への鎮魂は欠かせない。日本における来年の主要国首脳会議などの機会を生かし、大統領自身が被爆地を訪問してほしい。原爆をめぐる日米のミゾを越えての首脳訪問は、停滞する核軍縮、核廃絶の動きに弾みを与える機会にもなるはずだ。
 被爆者の平均年齢は今や80歳を超えた。70年の歳月は被爆の記憶をいや応なく風化させる。長崎市で市民団体「ピースバトン・ナガサキ」を主宰する調仁美(しらべ・ひとみ)さん(53)は、被爆体験を若い世代に引き継ぐ活動を続けている。被爆者がいなくなった時、核廃絶の声をどう上げていくか。それが問題だと彼女は言う。
 「被爆にまつわる生々しい、恐ろしい話を聞きたがらない人も増えています。若い人だけではありません。だから原爆に関する科学的な知識やエピソードを交えて、知ることへの興味を引き出し、基本的な知識を得る手助けをする。言葉では時に限界があるので紙芝居も使います」
 悲惨な現実を突きつければいいというわけではない。被爆直後の惨状を表現した「被爆再現人形」について、広島市の原爆資料館が常設展示から外す方針を示したのも時代の流れだろうか。被爆体験をどう語り継ぐか。これも「唯一の被爆国」だけが直面する大きな課題である。


<間寛平>たすきつなぎ被災3県を激励へ
 タレントの間寛平さん(66)が5日、仙台市役所で記者会見し、東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島3県を縦断する「みちのくマラソン」を11〜21日に実施すると発表した。よしもとクリエイティブ・エージェンシーの主催で4回目。
 コースは522キロ。間さんや芸人約35人が駅伝形式でたすきをつなぐ。岩手県宮古市役所を11日に出発、仙台市を経由し、福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズを目指す。期間中毎日、ゴール地点を設け、お笑いやスイカ割りなど子どもと触れ合うイベントを開く。
 間さんは1995年の阪神大震災で被災した経験に触れ「復興には時間がかかるが、被災地が忘れられてはいけない。仮設住宅にも行って盛り上げたい」と意欲を語った。
 間さんは会見に先立ち、奥山恵美子仙台市長を表敬訪問。奥山市長は「復興を応援し、ずっと続けていることに感謝したい」と述べた。
 主催者は11〜20日、各地で芸人と一緒にゴール手前の1〜9キロを走る市民を募集している。マラソンのウェブサイトから申し込む。


ロックで被災地の今伝える 野外フェス開催へ
 宮城県亘理町の若者グループが9日、東日本大震災で大きな被害が出た同町荒浜地区で初の野外ロックフェスティバルを催す。23組が出演し、音楽を通じて被災地への誘客を図るとともに、復興の現状を広く発信する。午前10時開始で、入場無料。
 「荒浜ロックフェス2015」に出演を予定するのは、仙台市出身のシンガー・ソングライター伊東洋平さん、男性アコースティックデュオ「ひまり」、丸森町在住のポップスユニット「Tae−chu」、県内のご当地アイドルユニット「フレグランス」ら。開催趣旨に賛同し、いずれも無償で出演する。
 被災した8店が3月に開業した亘理町荒浜にぎわい回廊商店街と周辺を会場に、2カ所のステージでライブを行う。各店の出店のほか、炭火焼きのスペースも置き、バーベキューと音楽を楽しむことができる。プロによるライブペインティングも予定する。
 ロックフェスは、町の活性化に向けて活動する団体「スタンドアップ亘理」の加藤正純代表(33)が企画。加藤さんの呼び掛けで集まった30代以下の10人ほどが実行委員会を組織して準備を進めている。
 荒浜地区は震災の津波被害の影響で、多くの客でにぎわった海水浴場も休止が続く。実行委員長を担う加藤さんは「震災前の海水浴場は、家族や友人との夏のレジャーに欠かせない場所だった。復活するまでの間、少しでも海水浴の気分を演出し、被災地への誘客につなげたい」と語る。
 「復興をアピールするため今後もフェスを継続したい。ビーチで開くのが夢」と、加藤さんらは運営資金も募っている。連絡先は加藤さん080(6044)0296。


原爆の日  被爆国の責務果たしてこそ
 原爆文学作品の基になった資料3点のユネスコ記憶遺産登録に向け、広島市などが6月に国内委員会に申請した。うち1点は峠三吉の「原爆詩集」の最終草稿だ。
 「ちちをかえせ ははをかえせ」で始まる序は「にんげんをかえせ」「へいわをかえせ」と訴える。平仮名ばかり、わずか8行で、これほど峻烈(しゅんれつ)に戦禍への憎しみを表す作品がほかにあるだろうか。
 広島はきょう、長崎は9日に、被爆から70年の「原爆の日」を迎える。
 広島の平和記念式典には、過去最多の100カ国の代表が参列する。非人道的な核兵器の恐ろしさを胸に刻み、その廃絶と不戦を世界と共に誓う日としたい。
 峠は広島で被爆し、直後の惨状を多くの詩に写し取っている。
 「ビルディングは裂け、橋は崩れ/満員電車はそのまま焦げ」「つながれた筏(いかだ)へ這(は)いより折り重なった河岸の群も/灼(や)けつく日ざしの下でしだいに屍体(したい)とかわり」
 その光景を知る被爆者は、70年の時を経ても悲しみが癒えることはない。それでも、体験を伝えることが核兵器廃絶につながると信じ、国内外で語り続けている。
 ニューヨークの国連本部で4〜5月に開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳(てるみ)事務局長が「あの日から、残された被爆者の魂は叫び続けている。二度と繰り返されてはいけない、と」と訴えた。聴衆は長く大きな拍手で応えたという。
 被爆者の声は世界の人の心に響き、核廃絶の輪を広げてきた。だが、平均年齢は80歳を超える。高齢を押しての訴えに頼り続けるわけにはいかないだろう。
 記憶の風化を防げ
 被爆体験を継承し、記憶の風化を防ぐことは大きな課題だ。
 被爆者自身も「記憶は薄れ、あんなにひどかったことをショックなしに受け入れるようになる」と危機感を募らせている。
 どのように惨禍を伝えるかも問われている。広島平和記念資料館(広島市)は被爆直後を再現した人形の展示を撤去する。京都でも原爆展で残酷な写真への配慮を求められることがあったという。強い印象を与える展示には訴える力があるが、怖がって見てもらえなければ意味がない。人形撤去は被爆者も賛否が分かれるという。
 次代を担う全国の子どもたちに被爆の実態をしっかりと教えたい。授業だけでなく、広島や長崎を実際に訪れ、自分の目と耳で確かめることも大事だろう。
 戦争を知らない世代だけでなく、世界の人に惨禍を伝えることも被爆国の大切な使命だ。そのためには伝承者を育て、被爆について語る原爆展などの機会を広げる必要がある。被爆地任せではなく、国を挙げて取り組むべきだろう。
 同時に、日本の戦争責任も伝えないと、被爆に理解や共感が得られないことも忘れてはなるまい。
 核廃絶を鮮明にせよ
 気になるのは、政府の核廃絶への動きの鈍さだ。唯一の戦争被爆国としての自覚はあるのか、疑問符を付けたくなる。
 地球上には約1万6千個の核弾頭がある。ロシアのプーチン大統領がウクライナ政変時に核兵器使用の準備を軍に指示したことを明かし、5年に1度のNPT会議で合意文書を採択できないなど核軍縮は進んでいない。イラン核協議の合意といった明るい兆しも見えるが、核兵器削減をめぐる保有国と非保有国の溝は依然深い。
 核廃絶の先頭に立つべき立場の日本は、核兵器禁止条約の制定にも、核兵器禁止への努力を誓う文書にも賛同せず、NPT会議では主導的な役割を果たせなかった。
 米国の「核の傘」に依存する配慮からだが、核抑止力の呪縛から脱し、もっと核廃絶の姿勢を鮮明にすべきではないか。それこそが被爆国として「核なき世界」の実現に果たす責務だろう。
 9条の「堅持」7割
 政府には、原爆症認定と向き合う姿勢も求めたい。基準の見直しで条件の一部が緩和されても、申請却下は後を絶たない。集団訴訟では国の敗訴が続いている。
 柔軟な救済を促す司法判断や「国の責任で総合的対策を講じる」とうたう被爆者援護法の趣旨を尊重し、政治決断で高齢化する被爆者に全面救済の道を開きたい。
 共同通信の調査では、被爆者の7割近くが憲法9条の「堅持」を望んでいる。最大の理由は「二度と戦争をしないため」と明快だ。
 多くの国民が憲法に違反すると考え、戦争に巻き込まれる不安を拭えない中で、政府・与党は安全保障関連法案の衆院採決を強行した。参院審議では、中谷元防衛相が法案に基づく後方支援に絡み、「核兵器の運搬も法文上は排除していない」と述べた。「非核三原則があるので、あり得ない」と補足したものの、被爆者らの思いを逆なでする見解で看過できない。
 峠の詩の1編に、こんなくだりがある。「また戦争へ追いこまれようとする民衆の/その母その子その妹のもう耐えきれぬ力が/平和をのぞむ民族の怒りとなって/爆発する日がくる。」
 国民無視で安保法案の成立を急ぐ政権への警鐘と言えまいか。


生活保護世帯 5月最多更新 厚労省調査
 厚生労働省は五日、全国で生活保護を受けている世帯は五月末時点で百六十二万二千五百二十五世帯となり、過去最多を更新したと発表した。前月比千六百一世帯増で、これまで最多だったことし三月を超えた。受給者数は前月比千九百七十二人減の二百十六万一千四百四十二人だった。
 世帯別(一時的な保護停止を除く)では、六十五歳以上の高齢者世帯が増え続けており、七十九万三千六百五十八世帯と一年前と比べて5・6%伸びた。全体の約49%で、厚労省によると単身が約九割を占めるという。
 働ける世帯を含む「その他の世帯」は一年前と比べて3・2%減の二十七万四千三百九十八世帯だった。厚労省は受給世帯が増える一方、人数が減った原因について「増加している高齢者世帯の単身化が進み、それ以外の世帯が雇用状況の改善などで減少傾向にあることが影響している」と分析。生活保護に至る手前の新たなセーフティーネットとして生活困窮者自立支援制度が四月から始まったが、影響は分からないとしている。


被災地に祈りの道構築を 教訓継承の場に
 東北の寺院を巡り、東日本大震災の犠牲者に手を合わせる。2014年1月に発足した仙台市の一般社団法人「みちのく巡礼」が、祈りの場を結ぶ巡礼の道を被災地につくろうと、手弁当での活動を続けている。「被災した人々を癒やし、自然災害の歴史を語り継ぐ機会に」。四国の遍路をモデルに、加盟・協力寺院88カ所による巡礼ルートの構築を目指す。
 これまでに龍泉寺(岩手県山田町)、徳本寺(宮城県山元町)、波立寺(いわき市)など30寺院が参加の意向を示している。2018年度にも88寺院をそろえたい考えだ。
 理事長で四国遍路を研究する元高校教諭桜井史朗さん(71)=仙台市泉区=は震災の震源に近い石巻市の金華山で被災し、「生かされた命」を意識した。被災者のための祈りの場をつくりたいと、みちのく巡礼の活動を思い立った。
 14年9月には福島県で巡礼ツアーを行った。全国から約40人が参加し、加盟・協力寺院の一つである福聚寺(福島県三春町)の玄侑宗久住職の講話に耳を傾けるなどした。
 巡礼ルートに参加する寺院を広げることに力を入れる傍ら、地震、噴火、土砂災害など東北の災害史を記録に残すため、住職らの語りをDVDに収録する活動にも取り組む。地域に根差す寺院が語り部となることで、教訓の継承と防災意識の啓発を狙う。
 その取材として7月22日、仙台市若林区荒浜の浄土寺をみちのく巡礼のメンバーが訪ねた。浄土寺は津波で本堂などが流され、檀家(だんか)約140人が命を落としている。住職の中沢秀宣さん(66)は「震災では次々に遺体が見つかり、遺族に掛ける言葉もなかった」と振り返った。
 阪神大震災の後の四国遍路で、犠牲者の鎮魂を願う多くの遺族に出会ったという桜井さん。「巡礼は心のよりどころとなる。東日本大震災の経験を後世に伝えて未来の命を守りたい」と話す。


バウムクーヘン製造 農業の付加価値創出拠点
 東松島市の農業法人「アグリードなるせ」が同市野蒜地区に整備していた農産物加工施設「NOBICO(ノビコ)」が完成した。バウムクーヘン製造や野菜の製粉などの設備を整え、農業での付加価値創出の拠点を目指す。
 NOBICOは平屋で床面積約320平方メートル。小麦粉や米粉、野菜の粉を製造する設備を中心に据える。総事業費は約2億円で、国などの補助を受けた。
 バウムクーヘン製造設備は、柔らかいタイプと固いタイプの2種類を1日計300個作ることができる。素材には同法人が生産した小麦粉や、法人の飼料用トウモロコシで育てられたニワトリの卵を使う。野菜の製粉についてはアシタバやキャベツ、トマトなどの加工を想定。要望を受ければ野菜を生産する市内の農業法人にも活用してもらう。
 安部俊郎社長は「農業を続けるためには付加価値を高めることが欠かせない。施設を活用し、東松島の農業法人全体が成長できればいい」と意気込む。
 バウムクーヘンは9月から本格製造する。市内各地のほか、インターネットでの販売も計画している。
 アグリードなるせは東日本大震災時、大半の水田や畑が津波被害を受けた。被災1カ月後から除塩を始め、2012年に営農を再開した。


気仙沼線復旧断念で意見聴く
JR東日本が気仙沼線の復旧を断念する方針を示したことを受けて、南三陸町が町内の団体から意見を聞く会を開きました。
会議後、佐藤仁町長は、津波の被害を受けずレールが残っている区間について、部分的に鉄道の復旧を求めるのか、引き続き住民の意見を聞いていく考えを示しました。
JR気仙沼線は、震災の津波で、一部の区間が不通となり、列車の代わりにバスを走らせるBRTを運行していて、JRは、先月、鉄道の復旧を断念する方針を示しました。
これを受けて、南三陸町は、5日、町内の観光協会などの団体から意見を聞く会を開きました。
会議は非公開で行われましたが、町によりますと津波の被害を受けずレールが残っている南三陸町の陸前戸倉駅と登米市の柳津駅の間について、参加者からは、部分的に鉄道を復旧させてほしいという意見と、すべてBRTにした方ほうが便利だという正反対の意見が出たということです。
会議後、佐藤町長は、「この区間については、今後も住民の意見を聞きながら、JRと協議していきたい」と話しました。


被爆70年 広島原爆の日
人類史上、初めて核兵器の惨禍に見舞われた広島は原爆投下から70年となる「原爆の日」を迎えました。
広島市で行われた平和記念式典で松井一実市長は、核兵器を「絶対悪」だとしたうえで「核兵器禁止条約」の交渉開始に向けた流れを加速させるため、全力で取り組む決意を表明しました。
式典は広島市の平和公園で午前8時から行われ、海外から過去最多となる100か国の代表を含む、およそ5万5000人が参列しました。
式典ではこの1年間に亡くなった人や新たに死亡が確認された人、5359人の名前が書き加えられた29万7684人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められました。
そして、原爆が投下された午前8時15分に参列者全員で黙とうし、原爆で亡くなった人たちを追悼しました。
このあと、広島市の松井市長が「平和宣言」を読み上げました。
松井市長は「私たちの故郷には温かい家族の暮らし、地域の絆、子どもたちが遊ぶ川辺などがありました。その全てが一発の原子爆弾で破壊されました」と述べました。
そのうえで「『非人道の極み』、『絶対悪』である核兵器の廃絶を目指さなければなりません。核兵器廃絶と核兵器禁止条約の交渉開始に向けた世界的な流れを加速させるために、強い決意を持って全力で取り組みます」と誓いの言葉を述べました。
さらに「武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが求められます」と呼びかけました。
このあと、安倍総理大臣が挨拶し、「今年は被爆70年という節目の年です。我が国としては核兵器国と非核兵器国、双方の協力を引き続き求めつつ、『核兵器のない世界』の実現に向けて、一層の努力を積み重ねていく決意です。この決意を表明するため、今年秋の国連総会では新たな核兵器廃絶決議案を提出します」と述べました。
原爆投下から70年となった被爆地・ヒロシマは原爆の犠牲者を追悼するとともに、国内外に平和な世界の実現に向けたヒロシマの誓いを発信する節目の日を迎えています。


特集ワイド:反戦・反原発訴える、菅原文子さん 自分の頭で考え発言を
 ◇亡夫・文太さんの遺志継ぎ有機農園運営 「辺野古基金」共同代表も
 戦後70年の夏、この国は曲がり角にある。安倍晋三政権は、反対意見を押し切るように安全保障関連法案の成立を目指す。東京電力福島第1原発事故が収束していないのに、川内原発(九州電力)の再稼働は目前に迫る。何かが、おかしい。昨年11月に亡くなった菅原文太さんの遺志を継ぎ、反戦・反原発を訴えている妻文子さんはどんな思いで過ごしているのだろう。【小林祥晃】
 南アルプスや八ケ岳を望む山梨県北杜市に、文太さんが2009年に開設した「おひさまファーム竜土自然農園」はある。訪れた日は、強い日差しが容赦なく照りつけていた。「暑かったでしょう? ここは太陽を遮るものがなくて、日照時間が日本一長いと言われているの」。ログハウス風の事務所で迎えてくれた文子さんが笑みを浮かべて話してくれた。この地で有機農業を志す若者とそばやエゴマなどを生産している。
 下積み時代の文太さんと結婚し、トップスターへの道を二人三脚で歩んできた。俳優を「引退」し、農業に携わることに異論はなかったのか。「夫も私も戦中戦後の食べ物がない時代が原点でした。だからお金を持っているより、畑のある生活の方が安心なので農業には賛成しました」
 文子さんは真珠湾攻撃(1941年)の翌年に東京で生まれ、すぐ両親や姉と共に静岡県に疎開した。終戦時は3歳。戦争の記憶は、防空壕(ごう)の暗さと食べ物がない暮らし。「疎開先で食べたのはシイタケばかり。砂糖なんてなかなか口にできなくて……。だから今も食べ物を備蓄しておかないと安心できないのよ」
 戦後70年たった今も「再びあの生活に戻ってしまうのでは」という懸念が拭えない。それは幼少時のひもじさのせいだけではない。「国の歴史は上って40年、下って40年と言うでしょう。歴史は繰り返す、という気がしてならないのです」
 「上って40年……」とは、作家の半藤一利さんら多くの識者が指摘する「日本は80年周期で上昇と下降を繰り返す」という仮説。明治政府成立(1868年)後の日本は急速に近代化し、37年後の日露戦争の勝利(1905年)で頂点に立つ。その後、関東大震災を経て第二次世界大戦へと突き進み、40年後(45年)の敗戦でどん底に落ちた。戦後日本も40年が節目。高度成長期を経て80年代後半に景気は過熱。しかし、バブル経済の崩壊後は、長い下り坂から抜け出せない。次の40年の節目となる10年後には、再びどん底に落ちるのでは、との心配が募る。
 「集団的自衛権を巡る議論を見ていると、戦前と同じ道を歩んでいるようです。それに国の借金は1000兆円を超え、ギリシャのような財政破綻が起こるかもしれない」
 さらに倫理観の低下が不安に輪をかける。「礒崎陽輔首相補佐官が安保法案を巡って『法的安定性は関係ない』と言い放つなど、自民党議員の問題発言が続いています。他にも、新国立競技場の問題で露呈した無責任体質、民意を無視する原発再稼働への動き。倫理観が地に落ちたとしかいいようがない。日本は経済格差だけでなく、倫理観格差も拡大しています」
 そう嘆く文子さんは今春、新たな活動を始めた。沖縄県の米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に反対し、作家の佐藤優さんや映画監督の宮崎駿さんらと共に基地建設を食い止めるための「辺野古基金」の共同代表に就いたのだ。米軍基地問題には文太さんも深い関心があったが、決して夫の遺志に従っただけではない。「社会的活動は人として当然」と話しながら顔を真っすぐ向けた。
 「民主主義は誰かが守ってくれるものではありません。憲法に書かれている通り、国民が不断の努力で守ってゆくもの。夫はその務めを果たした。私も自らの務めを果たしたいのです」
 だからこそ、日本人の気質が気に掛かる。国民一人一人の意識は決して低くはないと思えるのに意見を言わず、「空気」を読んで波風立てないことを優先するところだ。「必要なのは、周りに流されず、自分の頭で考えて声を上げること。菅原も勇気を持って反原発や平和を語りましたが、それは誰もがやらなければならないことなのです」
 文太さんの死後、「文太さんにはもっと生きて、発言してほしかった」と声を掛けられる。「でも、それは違う」と、文子さんは毅然(きぜん)と言葉を継ぐ。「あなたが発言する番でしょう、と言いたい。一人一人が違う場所、違う言葉で発言することが大切なのです」
 変化の兆しも感じている。「政治に危機感を持ち、真剣に憲法を学ぶ人が増えています。また、安保法制や原発再稼働に対して、若者を中心に新しい形の反対運動も始まった。多くの人が、今までの“お任せ民主主義”ではだめだと思い始めた。新しい社会を築くチャンスなのです」
 日が傾き始めた頃、文子さんの話は文太さんのことに移っていった。昨年の沖縄知事選で、文太さんが翁長雄志(おながたけし)氏(現知事)の応援演説に立ったのは11月1日。亡くなる27日前のことだ。体調は既に悪かったが、一言一言ゆっくりと、しかし力強くこう呼び掛けた。
 <政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせないこと。安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが一番大事です。絶対に戦争をしないこと>
 聴衆を沸かせたこの言葉に、文子さんはもう一つ付け足したいと話した。「それは、良い社会をつくることです。若者の死因のトップが自殺という国は、先進7カ国で日本だけ。政府は『少子化が深刻だ』と、若者に結婚や出産を奨励しますが、自殺を減らすことを考えるべきです」
 良い社会をつくる責任は私たちにもある。「上り調子の40年はお任せ民主主義でやってこられたかもしれない。でも下り坂の40年は『みんなと一緒が安心』という考えでは国は持たない。強引な政治家によって、これまで築いてきた社会が破壊されてしまいます」
 そうならないための鍵は、個人が自立して生きることだと信じている。
 文太さんも同じ思いだった。亡くなる直前、声を出す力がなかったのか、医師に何か伝えようとしても言葉が出なかった。「そうしたら私に向けて、腕を交差させてバツ印を作りました。何を言いたいのか、すぐ分かりました。『自分はもう死ぬ。何もしなくていい』と」。それから間もなく意識が遠のき、文太さんは静かに逝った。
 誰かに頼るのではない。人生を決めるのは自分だ−−。文子さんに伝えた、文太さんの最期のメッセージ。これは、今を生きる私たちにも向けられているのではないだろうか。
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 ■人物略歴
 ◇すがわら・ふみこ
 1942年東京都生まれ。立教大学文学部卒。現在は文太さんが設立した農業生産法人を運営しながら、小学館の月刊誌「本の窓」でエッセー「朝の紅顔 夕の白骨」を執筆している。

水平社博物館/Mementoでの灘本・師岡による部落差別と天皇制

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Hiroshima: les cicatrices encore visibles 70 ans après la bombe
Il y a 70 ans cette semaine, des corps carbonisés flottaient dans les cours d’eau saumâtre qui traversent Hiroshima, une grande ville du Japon qui venait de disparaître dans le feu de la première attaque nucléaire de l’histoire.
L’odeur de chair brûlée emplissait l’air, des survivants par dizaines, couverts de brûlures, se jetaient à l’eau dans l’espoir d’échapper au brasier. Des centaines et des centaines n’ont jamais refait surface, poussés par le fond sous le poids d’une masse humaine désespérée.
≪C’était une lueur soudaine, blanche, argentée≫, raconte Sunao Tsuboi (90 ans) en se rappelant l’instant où les Etats-Unis ont lâché ce qui était alors l’arme la plus destructrice jamais produite. ≪Je ne sais pas pourquoi j’ai survécu et vécu si longtemps≫, dit-il. ≪Plus j’y pense, plus ce souvenir est douloureux≫.
Sept décennies après la bombe, cette ville de 1,2 million d’habitants est à nouveau un centre de commerce prospère mais les cicatrices physiques et psychiques demeurent.
Il était 08H15 le 6 août 1945 lorsqu’un bombardier B-29 baptisé Enola Gay volant à haute altitude au-dessus de la ville a largué Little Boy (≪petit garçon≫ en français), une bombe à uranium dotée d’une force destructrice équivalente à 16 kilotonnes de TNT. 43 secondes plus tard, alors qu’elle se trouvait à 600 mètres du sol, la bombe a explosé en une boule de feu dégageant une température d’un million de degrés Celsius.
La température au sol a atteint 4.000 degrés, de quoi faire fondre de l’acier. Les bâtiments de pierre ont survécu mais portaient imprimée sur leurs murs les formes d’humains calcinés.
- Une maladie inconnue -
Des souffles de 1,5 kilomètre par seconde ont projeté des débris vers l’extérieur, arrachant au passage membres et organes, puis les vents se sont inversés.
Un gigantesque champignon nucléaire s’est élevé jusqu’à 16 km au-dessus de la ville. On estime à 140.000 le nombre de morts, au moment de l’impact puis ultérieurement, sous l’effet de l’irradiation.
M. Tsuboi, alors jeune étudiant, se trouvait à environ 1,2 kilomètre de l’impact. Lorsqu’il s’est relevé, sa chemise, son pantalon et sa peau flottaient en lambeaux, des veines pendaient de ses plaies, une partie de ses oreilles manquait.
Il se rappelle avoir vu une adolescente dont le globe oculaire droit pendait sur le visage. Non loin, une femme tentait vainement d’empecher ses intestins de tomber.
Pour les survivants, s’ouvrait alors la terrifiante inconnue d’une nouvelle maladie: gencives en sang, dents déchaussées, chutes de cheveux par mèches entières, naissances prématurées, bébés difformes, morts subites. La crainte qu’ils soient contagieux les a isolés et beaucoup ont eu des années plus tard des difficultés à trouver un emploi ou à se marier. 70 ans après, certains ≪hibakusha≫ (victimes de la bombe nucléaire) évitent de parler ouvertement de leur expérience.
≪Je sais personnellement comment une seule bombe a changé la vie de tant de gens≫, dit le maire de Hiroshima, Kazumi Matsui (62 ans), dont la mère est une survivante.
Trois jours après Hiroshima, l’armée américaine a largué une bombe au plutonium sur la ville portuaire de Nagasaki, tuant quelque 74.000 personnes.
Ces deux bombes ont porté un coup final au Japon impérial, qui s’est rendu le 15 août 1945, marquant le terme de la Seconde guerre mondiale. Pour les partisans de la décision d’utiliser l’arme nucléaire, si celle-ci a fait de nombreuses victimes, elle a évité une invasion terrestre dont certains évaluaient les pertes humaines à plusieurs millions.
- Un monde sans l’arme nucléaire -
Mais les terribles destructions de l’atome ont eu pour effet d’occulter au Japon l’histoire d’un agresseur expansionniste qui avait provoqué la guerre du Pacifique. ≪Lorsqu’on parle de Hiroshima et Nagasaki, il y a une tendance chez les Japonais à se considérer comme des victimes≫ du conflit mondial, estime Masafumi Takubo, expert japonais des questions nucléaires.
Les dirigeants politiques des deux villes frappées font depuis longtemps campagne pour le désarmement. ≪Nous ne pouvons pas renoncer à la lutte pour le désarmement nucléaire. Le danger est trop grand≫, dit Frank von Hippel, spécialiste du contrôle des armes nucléaires, professeur émérite de l’Université de Princeton et ancien responsable à la Maison Blanche.
Quant à M. Tsuboi, il espère voir le jour où les dirigeants du monde, dont le président des Etats-Unis, viendront dans sa ville entendre le récit de ce qui s’est produit sous le nuage en forme de champignon. Il ne demande pas d’excuses mais simplement que cela ne se reproduise jamais. ≪Nous ne devons pas oublier≫, dit-il.
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時論公論「戦後70年続く“残留日本人”の苦悩」
終戦時、中国大陸などに残された日本人。フィリピンで日本人の父と現地の女性の間に生まれ、日本国籍の回復を求めている2世たち。今も続く“残留日本人”の苦悩を伝える。
村田英明



2003年5月から2004年10月までの1年半にわたって、東京都を中心に全国の被差別部落出身者や団体に差別文言をつらねた匿名のはがきや手紙、身に覚えのない荷物などが送りつけられつづけた。その総数は400件にのぼる。部落解放同盟東京都連合会は、加害者が判明しないなかで被害を食い止めるために告訴を行い、04年10月、加害者が逮捕された。34歳の無職の青年だった。05年7月、東京地裁は青年に懲役2年の実刑判決を言い渡した。青年の出所後、都連は差別事件の事実確認を重ね、08年1月、糾弾会をおこない、糾弾闘争を終えた。
 この差別事件の主な標的の一人となったのが、東京都連の専従で執行委員の浦本誉至史さんだった。この本は、浦本さんの手記の形で事件の全貌を提示して、〆絞未被害者にどれだけの精神的・実際的な被害をもたらすものか、∪椎はなぜこのように執拗な差別行為をおこなってしまったのか―などを明らかにする。

戦後部落解放運動史 ---永続革命の行方 (河出ブックス)
友常 勉
河出書房新社
2012-04-11


「人の世に熱あれ、人間に光あれ。」―「水平社宣言」にはじまり差別糾弾闘争、そしてその限界を突破した70年代の狭山闘争をへて、反差別を全社会に波及させたあと、新たな模索の時代にはいった被差別部落民の闘いは何を問いかけているのか。その戦後から現在まで、運動、行政、文化などの各領域の経験を思想的に検証しながら、“デモス”=排除された民の宣言の可能性に迫る、俊英による、いまだ誰もなしえなかった果敢な試み。

JR,近鉄そしてJRと乗り換えで奈良県の掖上(わきがみ)駅まで.さらにそこから歩くこと20分くらい.水平社博物館を目指します.今日8月5日は大阪府水平社創立の日なので,入館料は無料です.水平社の意気込みが聞こえてくるような展示でした.
天満を経て無事に大阪に帰ってきました.京都部落問題研究資料センター通信を読みました.2000年から2004年まではMementoという名前です.その12号に灘本昌久氏が「部落解放に反天皇は無用」と題する大胆な論文を発表し,次号の13号に師岡佑行氏が「反天皇制は部落解放の核心である―灘本昌久『部落解放に反天皇は無用』を批判する」という長文の反論があります.水平社の運動に関して詳しくはないのですが,私が読んだ感じでは師岡氏に分配が上がります.

旧野蒜駅を震災遺構に 東松島市、復興交付金申請へ
 東日本大震災の津波で被災したJR仙石線の旧野蒜(のびる)駅(東松島市)をめぐり、東松島市は4日、同駅のプラットホームを震災遺構として残す方針を決定した。プラットホームには当時のままの姿で線路や看板が残されており、駅舎は改修され、観光拠点として活用されている。今秋、保存のための復興交付金を申請する。
 県震災遺構有識者会議は昨年12月、同駅プラットホームを「保存する意義は認められる」と結論づけた。
 市も調査を行い、保存を検討。市は6月から7月にかけて、住民などに対してパブリックコメント(意見公募)を実施し、結果を4日に公開した。21件の意見が寄せられ、旧野蒜駅の保存に賛成する意見が多数集まったことを踏まえて保存の方針を固めた。
 市は今後、プラットホームをJR東日本から買い取る方針という。
 一方、新たな野蒜駅は約500メートル、海抜約22メートルの内陸の高台に移設され、5月30日のJR仙石線全線開通から利用されている。


<日航機墜落と大震災>命つなぐためフル回転
◎元自衛官が見たもの(下)名取・閖上の現場
<生存者を捜索>
 「シュー、シュー」
 津波で流された住宅のプロパンボンベからガスが漏れる。大津波警報が出ている。「誰かー、いませんかー」。冷たい海水に膝まで漬かりながら、孤立者がいないかどうか一軒一軒家々を確かめた。
 2011年3月12日早朝、宮城県名取市閖上。同市サイクルスポーツセンター長だった太田幸男さん(51)は、東日本大震災の大津波に襲われた街で、無線機片手に無我夢中で生存者を捜していた。
 「助かる命を消してはならない。一人でも多くの命を救わなければ…」
 1985年8月12日の日航ジャンボ機墜落事故。520人の命が散った群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」で捜索に当たった太田さんは、約26年前の蒸し暑い山中の出来事を思い出した。
 太田さんはあの夏、一人の命も救えなかった。ずっと悔やんでいた。
 市サイクルスポーツセンターは閖上海岸にあり、太田さんは施設を運営する指定管理者の民間会社に勤務。地震後すぐ、同僚らと内陸に避難し命拾いした。
 18歳から約10年間いた航空自衛隊では主に、資機材や物品の管理、保管、発送などを行う兵たんを担った。人命救助や支援物資輸送に道路の通行確保が鍵となることは、訓練と実践を重ねた経験から知っていた。
 名取市沿岸部では、仙台空港や公共施設、学校、民家などに数千人が孤立。閖上地区には自衛隊や他地区の消防隊が救援に駆け付けたが、津波によるがれきが道路をふさぎ、生存者の救助ができない状態だった。
 「彼らは救助のプロだが、地元の地理は知らない。人手がない中、水先案内できるのは私しかいない」
<連絡役務める>
 市職員と人脈があった太田さんは市にボランティアを申し出て、アマチュア無線機を借りて現場に赴き、自衛隊と市災害対策本部との連絡役を務めた。仙台東部道路名取インターチェンジを、地元建設会社の力を借りて震災翌日の未明に開通させる大仕事にも参加した。
 道路はその後、救助活動や物資輸送の大動脈となり市民の命をつないだ。太田さんはそれから約2カ月、自宅に帰ることなく市役所に泊まり込み、市職員と共に被災者救援に奔走した。
<心の葛藤氷解>
 御巣鷹では520人が犠牲に、名取市内では911人が津波で亡くなった。航空機事故と大震災。太田さんは二つの惨事に遭遇した自らの運命を恨めしく思いながら、この4年余り、心の葛藤を続けていた。
 7月12日、御巣鷹の尾根。山腹の小屋にノートがあり、慰霊登山に訪れた人々がさまざまな思いを書き残していた。
 慰霊を終えた太田さんはこうつぶやいた。「御巣鷹に来て、犠牲者の遺族を支えてきた人がたくさんいたことを初めて知った。私は津波で助かった閖上の人たちを20年、30年と見守る。それが私の使命と感じた」
 太田さんの迷いが氷解した。


震災後水没地区 初の捜索、暑さとの闘い
 宮城県警は4日、東日本大震災の影響で水没した石巻市長面地区で、行方不明者の捜索を始めた。河北署と県警各署の合同で、5日以降も当面は毎日続ける予定だ。
 県警の本格的な捜索が始まったのは津波と地盤沈下で水に漬かり、手付かずだった北上川河口の水田地帯約100平方メートル。市が6月下旬に排水作業を始め、市から委託された建設業者などが7月から、重機によるがれき撤去作業などを進めていた。
 石巻では4日午前、この日最高の33.1度を記録するなど厳しい暑さとなった。日差しが照りつける中、河北、佐沼、気仙沼各署の12人がレーキを手に津波で堆積した砂をかき分け、汗を拭いながら不明者の手掛かりを捜した。
 河北署の板橋淳一署長(54)は「暑さとの闘いだが、待ちわびる行方不明者の家族に少しでも手掛かりを提供したい」と語った。4日は骨とみられるものが6本見つかり、人骨かどうか鑑定するという。


辺野古工事中断 ポーズに終わらせるな
 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設にかかわる全ての工事が、10日から9月9日までの1カ月間、中断されることになった。その間に政府と県が集中的に協議するという。両者の対立が決定的になるのを回避し、話し合いによる問題解決を目指すことを、ひとまず歓迎したい。政府はこれを政治的なパフォーマンスにせず、沖縄の声に真剣に耳を傾け、解決の糸口を探ってほしい。
 政府と県が合意し、菅義偉官房長官と翁長雄志(おなが・たけし)知事が発表した。
 これまで政府は、辺野古沖で進めている海底ボーリング調査が終わり次第、この夏にも本体工事に着手する方針だった。合意により、政府は期間中、ボーリング調査を停止し、調査用のスパット台船を撤去する。車両による資材の搬入や、実施設計の協議もやめる。
 一方、県はこの間、辺野古埋め立て承認を取り消すなどの新たな法的・行政的手続きはとらない。県が、サンゴ礁の損傷を調べるため米軍に申請していた辺野古沖の臨時制限区域での潜水調査も認められる。
 政府が従来のかたくなな姿勢を変え、県との協議に取り組むのは、一歩前進ではある。
 だが、菅氏は「政府の考え方を負担軽減を含めて説明したい」と述べ、翁長氏も「辺野古移設は不可能だと申し上げたい」と語る。双方とも主張を曲げるつもりはなく、1カ月でどこまで協議が進展するか疑問だ。
 今回の合意は、政府側が県に呼びかけ、水面下で調整を続けてきたという。1カ月に区切った政府の方針転換には、政治的な思惑もにじむ。
 この夏は安倍政権にとって難しい政治課題が山積している。
 参院では安全保障関連法案を審議中だ。安倍晋三首相が発表する戦後70年談話をめぐり、首相の歴史認識が内外の注目を集めている。鹿児島県の九州電力川内原発の再稼働も迫っている。
 安保関連法案の衆院での強行採決などにより、各種世論調査で安倍内閣の支持率は下落し、不支持率が上回る傾向が出ている。
 このうえ、辺野古移設問題で翁長氏が埋め立て承認を取り消し、政府が法的な対抗措置を繰り出したうえ本体工事を強行すれば、国と県の全面対立は避けられない。安保関連法案や内閣支持率にさらなる悪影響が出るのは必至だ。政権側にそういう判断が働いても不思議ではない。
 政府は、今回の合意をそうした悪影響を回避するための政治的なポーズに終わらせてはならない。工事の中断期間を限定することなく、解決策を見いだすまで県側ととことん話し合うべきだ。

サンドイッチマンが東松島ロケ/大阪市内の被差別部落に行ってみる

ブログネタ
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150804大阪市役所1

Nos vrais ennemis sont en nous-mê:mes.
--Jacques-Bénigne Boussuet
Our true enemies are within ourselves.
Une société d'athées inventerait aussitôt une religion.
--Honoré de Balzac
A society of atheists would immediately invent a religion
Pour grands que soient les rois, ils sont ce que nous sommes : Ils peuvent se tromper comme les autres hommes.
--Pierre Corneille
However great kings are, they are what we are : They can make mistakes like other men.
フランス語
フランス語の勉強?
こぺる編集部
阿吽社
1991-07




改革派リーダーが綴る今後の部落解放運動の可能性 辻栄 克則
 部落解放同盟の活動家の多数が、ソビエト派で、都市下層民の労働運動にそって問題を立てていたのに対し、著者を代表とする中国派は、部落の資本家と労働者の統一を基本として、拠点づくり・共同体づくりを志向していました。その思想は、地元である矢田(大阪市東住吉区)のまちづくりの運動として、典型的に結実しているのだろうと思います。著者は現在、大和川流域の自然再生など、大衆の利益を追求する信念は揺るがないまま、新しい時代における運動のあり方を模索し、挑戦し続けておられます。私は、著者に共感して運動を進めてきた方たちの中から、社会起業を実践する人々が多く生まれ、活躍されることを、願っています。
 著者が、07年に就任した高知県東洋町の沢山町長に対して、「愛弟子感」として大きな期待を寄せているのがわかります。著者の志しているものが、凝縮されており、とても感動します。
章構成・・・生い立ち/初期の運動体験/矢田教育差別事件/部落解放中国研究会の結成/松本冶一郎から学んだことなど/狭山闘争中央本部事務局長として/荊冠と銀のしずく/闘いの中で出会った人/「西岡・駒井意見書」と今日の不祥事/解放運動再生への提言


サンドイッチマンが東松島ロケをするというので録画していたのですが,まあまあ・・・といった感じです.
少し思い立って,大阪市内の被差別部落に行ってみることにしました.淀川沿いのA地区は同和対策事業が行われているところでいわゆる改良住宅がたくさんたっています.解放同盟関係のポスターなどはないです.でもわかる人にはここが部落だとわかってしまいます.
もう一つ,N地区は地区指定がされていない場所です.なのでA地区で見たような改良住宅はありません.でも民間が建てた立派なマンションが何軒か立っていました.適当に回ってみると木造の1階建ての建物が密集しているところにあたりました.路地というか道も細いです.火事があったら大変なことになるような場所です.元号を使うのは好きではないけれど,昭和の街並み,という表現が当たっているような感じです.部落というのでいうと消滅している??考えさせられます.ある資料によると,住民の出入りが激しく,それゆえに戦後に解放運動がなかなか立ち上がらなかったらしいです.(でも戦前に水平社の支部はあったようです.)その資料には(条件が合えば)「釜ヶ崎のようなスラム街になっただろう」とあってびっくりです.

<日航機墜落と大震災>無数の遺体懸命に搬送
◎元自衛官が見たもの(上)御巣鷹の尾根
 乗客乗員520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故から12日で30年となるのを前に、墜落現場で捜索に当たった宮城県名取市の元自衛官の男性が、事故後初めて、群馬県の現場を慰霊に訪れた。東日本大震災では名取市閖上の職場が被災。生存者捜索にボランティアで参加し、懸命の救助を続けた。「惨事は二度と繰り返してはならない」。男性は二つの壮絶な現場に遭遇した経験を振り返りながら、あらためて命の大切さをかみしめた。(報道部・小島直広)
<慰霊碑に焼香>
 「30年前、この辺りは木々がなぎ倒され、一面が焼け野原。とにかく暑くて、油の焦げた臭いが立ち込めていた」
 名取市の建設会社役員太田幸男さん(51)は、月命日の7月12日、群馬県上野村にある「御巣鷹の尾根」(1565メートル)に登り、墜落現場の慰霊碑に花を手向け焼香した。
 機体が激突した山肌。救助の臨時ヘリポートとなった場所で、太田さんは戸惑うような表情をみせた。30年という時の経過で風景は一変。桜やシラカバの木々が生い茂り、夏の青空の下、涼しい風が通り抜けていたからだ。
<散らばる破片>
 太田さんは仙台市太白区秋保町出身で、地元の高校を卒業後、航空自衛隊に入隊。3年目の21歳の夏、埼玉県狭山市の入間基地に所属していた時、災害派遣命令を受け、捜索隊員として墜落現場に赴いた。
 群馬・長野県境の険しい山々。クマザサのやぶをかき分けて尾根伝いに現場に向かった。誘導のヘリコプターから合図を受け、道なき道を数時間歩くと、稜線(りょうせん)に白煙が立ち上るのが見えた。
 鼻につく燃料の臭い、機体の破片、樹木にぶら下がった男女の区別がつかぬほど焼け焦げた無数の遺体…。
<登山道に墓標>
 太田さんの捜索隊が現場の尾根に着いたのは、乗客の中学生川上慶子さんら生存者4人がヘリで救出された直後だった。太田さんらは生存者の発見に望みをつないだ。だが、見つからない。眼前にあるのは山肌に散らばった遺体ばかり。それらを黙々とヘリポートへ運ぶ作業が数日間続いた。
 「子どもの遺体を見つけた時は胸が痛んだ。隊員誰もが無言。お互い誰も目と目を合わせようとはしなかった」と、太田さんは振り返る。
 現在、御巣鷹の尾根は登山道が整備され、道端には数え切れぬほどの墓標が立つ。山全体が墓地のようだ。太田さんは歩みを止めながら、何度も何度も手を合わせた。
 「520人、それぞれにその先の人生があったはず。それが一瞬で奪われたことを私は決して忘れられなかった」。墜落事故の過酷な現場に立ち合った元自衛官はそれから約26年後、大津波と向き合うことになる。
[日航ジャンボ機墜落事故]1985年8月12日午後6時56分、524人を乗せた羽田発大阪行き日航123便ボーイング747が群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては史上最多の犠牲者が出た。機体後方に座っていた女性4人が翌13日、現場から救出された。


安保転換を問う 礒崎氏の招致
 ◇憲法軽視の疑い消えぬ
 礒崎陽輔首相補佐官が、安全保障関連法案をめぐり「法的安定性は関係ない」と語った自らの発言を撤回し、陳謝した。安倍政権はこれで幕引きを図るつもりのようだが、一連の対応は、納得がいかない。
 礒崎氏は、参院の特別委員会に参考人として出席し「軽率な発言」だったと陳謝。「合憲性、法的安定性は当然の前提」「誤解を与えて申し訳なく思う」「発言を取り消す」と述べた。引責辞任は否定した。
 問題となった7月26日の発言は「何を考えないといけないか。法的安定性は関係ない。わが国を守るために必要な措置かどうかを基準にしないといけない」というものだ。安全保障上の必要性は、憲法を頂点とする法秩序の安定性よりも優先されるべきだ、と言ったに等しい。
 関連法案に対し「憲法違反」との批判が高まり、法的安定性が保たれているかどうかが国会審議の焦点となっている状況で飛び出した発言だった。撤回、陳謝は当然のことだ。
 だが、参考人招致でのやり取りは、その場しのぎの印象がぬぐえなかった。礒崎氏の冒頭発言に続いて、鴻池祥肇委員長(自民党)が、首相補佐官の仕事や法案成立時期に言及した発言を問いただし、その後、野党を代表して民主党の福山哲郎氏が質問した。法案の根幹に関わる大きな問題なのに、全体でたったの20分程度で終わった。あまりに不十分だ。
 礒崎氏が、言い間違いにより誤解を招いた、という認識を示したことも受け入れ難い。
 テレビ報道によると、礒崎氏は、前日の7月25日にも「法的安定性で国は守れますか。そんなもので守れるわけがない」と、より率直な表現で同趣旨の発言をしていたという。
 2日続けての発言は、偶然に口を滑らせたという話ではなく、本音が出たと見るべきだろう。
 首相補佐官は、重要政策について首相を補佐するのが仕事で、礒崎氏は国家安全保障を担当している。集団的自衛権の行使を認めた昨年の閣議決定や、関連法案の作成に中心的にかかわってきた。
 安倍晋三首相は「誤解を生むような発言をすべきではない」と礒崎氏を注意したという。だが、野党が更迭を求め、与党の公明党からも一時、進退論が出ても、首相官邸は礒崎氏をかばい続けている。
 礒崎氏への甘い対応は、政権全体としてこの問題を深刻に受け止めていないことの表れのように見える。
 この間の首相官邸の対応と参考人招致でのやり取りを見る限り、安倍政権が憲法を軽視しているとの疑念は、やはり消えない。


礒崎氏陳謝 安保法案撤回し出直せ
 歴代内閣が長年堅持してきた政府の憲法解釈を、一内閣の判断で変えることは、やはり法的安定性を損ねる。集団的自衛権の行使に道を開く安全保障法制関連法案は撤回するか、廃案とすべきだ。
 発言を撤回したからといって法的安定性が損なわれている現状に変わりはない。参院特別委員会はきのう、安保法案をめぐり「法的安定性は関係ない」と述べた礒崎陽輔首相補佐官を参考人として呼び、質疑を行った。
 礒崎氏は冒頭「私の軽率な発言で審議に多大なご迷惑をおかけしたことを国民、与野党におわびする」と陳謝し、「発言を取り消す」と述べた。これに先立つ政府与党連絡会議で、安倍晋三首相は「与党に迷惑をかけ申し訳ない。法的安定性は政府の重要な柱だ。注意深くやっていきたい」と述べた。
 礒崎氏の発言をめぐっては、野党はもとより、与党内、特に公明党幹部からも批判が出ていた。
 安倍内閣や自民党執行部は、礒崎氏の招致に応じ、発言を撤回したことで、この問題の幕引きを図る考えなのだろう。
 しかし、政府・与党が安保法案成立を目指す限り、礒崎氏の発言を聞き流すわけにはいかない。
 法的安定性とは、憲法を頂点とする法体系や解釈、適用をむやみに変えず、人々の法に対する信頼を守る法治国家の大原則だ。
 安倍内閣は昨年七月の閣議決定で、歴代内閣が継承してきた、集団的自衛権の行使を憲法違反とする政府の憲法解釈を百八十度変更し、行使を合憲にしてしまった。
 これにより、憲法の法的安定性は大きく揺らいだと言わざるを得ない。誤った閣議決定に基づいた安保法案が成立すれば、法的「不安定性」が拡大するばかりだ。
 これでは首相や礒崎氏がいくら「法的安定性は重要」と強弁しても、国民は信用できまい。
 法的安定性が重要だというのなら、閣議決定とそれに基づく安保法案の撤回が先決だ。政府が躊躇(ちゅうちょ)するのなら、参院は「良識の府」として廃案とすべきである。
 礒崎氏は特別委で「平和安全法制は合憲性と法的安定性は確保されている」と述べた。このような誤った認識の補佐官が官邸内で安保政策を主導する限り、法的「不安定性」は解消されまい。
 国際情勢の変化に伴い、安全保障政策の見直しが必要なら、礒崎氏を中心とする安保政策担当の政策スタッフを総入れ替えし、法的安定性を真の意味で重視するメンバーの下で出直すべきである。


辺野古工事中断:政権、柔軟姿勢を演出…支持率低下恐れ
 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画を巡り、政府は4日、移設に関する作業を10日から9月9日まで1カ月間は中止し、沖縄県と集中的に協議すると発表した。辺野古沿岸部の埋め立て工事に9月にも着手する方針から一転して軟化したのは、沖縄の主張を丁寧に聞く姿勢を示すことで、安倍政権の強引なイメージをやわらげる狙いがある。安全保障関連法案の衆院採決強行をきっかけに内閣支持率が低下する中、工事を強行すれば、政権への世論の支持がさらに失われるとの危機感が背景にある。
 ◇「安保との二正面回避」
 政府と沖縄県は正面衝突コースに入っていた。県の第三者委員会は2013年の埋め立て承認手続きについて「法的瑕疵(かし)がある」とした報告書を7月16日にまとめ、これを受けた翁長雄志知事は承認取り消しを示唆。政府は取り消し処分が出た場合は、行政不服審査法に基づいて国土交通相に審査請求し、処分の一時停止も求める構えだった。
 これらの動きは安保法案の参院での採決時期と重なる9月前半になるとの見通しだったが、移設作業中断で先送りに。支持率低下の要因となる課題が同時期に集中するのは避けられそうだ。九州選出の与党議員は「安保法案と辺野古移設の二正面作戦を政府はとにかく避けたかったようだ」と指摘。政府関係者も「これだけ支持率を減らして、辺野古移設でまた減らすようなことは避けたい、ということだろう」と解説する。
 衝突回避のための水面下の接触は数カ月前から始まっていた。安慶田光男副知事は昨年末の就任後、10回程度にわたってひそかに上京。菅義偉官房長官と会って調整を続けていた。翁長氏は春ごろから「とにかく工事を中断して話し合いをしてもらいたい」と講演などで繰り返しており、安慶田氏はこうした考えを菅氏に伝えていたとみられる。官邸側も、中断期間中に沖縄側が埋め立て承認取り消しなどの措置を取らないことなどを確認し、その上で移設作業中断を決断した。
 菅氏は4日の首相官邸での記者会見で「落ち着いた環境の中で協議する必要があると判断した。(埋め立てに向けた作業を)全て中止する」と表明。那覇市で記者会見した翁長氏は「当該期間中、新たな法的手続きを一切行わない」と明言し、政府と沖縄の水面下の交渉の落としどころが明確になった。また、県が米軍に申請していた辺野古周辺海域のサンゴ礁の潜水調査に関し、政府が米側と協議して許可を取り付けており、翁長氏が一定の成果を得た形だ。
 菅氏は11、12両日に沖縄を訪れ、翁長氏と会談する調整に入った。政府は柔軟な姿勢を演出してみせたが、集中協議に関して菅氏は会見で「普天間の危険除去と辺野古移設、負担軽減策をもう一度しっかり説明したい」と述べており、移設方針を堅持する姿勢を強調した。翁長氏も「辺野古への移設は不可能だと(協議で)申し上げたい」としている。
 工事の「一時中断」は一時的な「休戦」に過ぎない。政府と沖縄の間にある根本的な意見の相違は残ったままだ。【田中成之、佐藤敬一】


失われた20年インタビュー:作家・雨宮処凛さん「格差が、同じ日本で言葉が通じないくらい広がった」
 フリーターとして働いた苦しい経験から非正規労働の救いのない状況、貧困を訴え続けている作家の雨宮処凛さん。「同じ日本に住んでいて言葉が通じないぐらいに格差が広がってきている。生活意識も何もかも全部違って、格差の上位の人と下の人たちで、一つも共感できるところがないふうになっている。そういう社会ってちょっと怖い」と話す。【聞き手・尾村洋介/デジタル報道センター】
 −−雨宮さんがフリーターになったいきさつを教えてください。
雨宮さん 美大に進学したくて1993年に東京に出てきて、美大専門の予備校に行きました。バブル崩壊は何となく知ってたけど、東京に出た時はまだジュリアナ・ブームのような感じで、すごいバブルっぽい雰囲気がありました。94年に進学を諦めたんですが、その時に「就職氷河期」といわれていて、どうしたら就職できるかわからないし、まあアルバイトを始めようと思いました。実際に始めると、時給はどんどん下がっていって、バイト先でも「すごく悪い時にフリーターになったね」って言われましたね。
−−当面の仕事のような意識だったのでしょうか。
雨宮さん 最初はそんな感じでしたけど、始めて半年ぐらいたったら、もう、これ絶対逃れられないんだなっていうのに気づきましたね。95年ぐらいの時、自分の周りの友達と、「うちらは親が死んだらホームレスだよね」「野垂れ死にだよね」ということは冗談交じりに話してたんです。アルバイトだから風邪で一回休んだだけで家賃を滞納してしまったり、ガスや電気が止まったりするので、そのたびに親に電話し、泣きついてお金を借りていましたので。もう正社員にはほぼなれないし、なり方もわからないし。綱渡りの生活をしていた。世の中では自由でいたくてやっているフリーターというイメージがすごく強かったけど、自分たちはまったく自由だと思わなかったですね。でも、上の世代からは甘えてだらしがなくて怠けてるって言われるので、私は甘えているからこういう生活なんだろう、何かが自分に足りないからこうなってるんだって思ってました。社会が悪いとは一切思わなかったです。
−−すれすれの生活ですね。
雨宮さん バイトもしょっちゅうクビになるんです。本当は違法な解雇だったりするんですけど、当時は人格否定されたように思っていました。単純な仕事をクビになると結構きついんです。本当に誰にもできる、クソつまらないような仕事でさえ必要とされないというのは、一番底辺から蹴り落とされるようなところがありました。
−−何かよりどころはあったのでしょうか?
雨宮さん 私は一時期、右翼団体に入っていました。飲食店で働いていると、日本人のフリーターに比べて韓国人のほうが時給は安いのに働き者だから取り換えたいとか、そういうことを言われるんですよ。「自分は日本の底辺にいて、外国人労働者とまったく変わらない。もし外国人労働者と自分を区別するものがあるなら、それって日本人であることしかない」みたいな、過剰に日本人であるってことにすがっていきました。学生時代にバブルだったので、ものすごく受験勉強が厳しくて、受験戦争で傷つけられても、すべて頑張れば報われるという戦後日本の一番大切にしていた「神話」みたいなものを信じてきた。けれども、自分が社会に出たころ、「バブルが崩壊したから今までのことは全部うそになりました」と言われた気がして、すごくびっくりした。大人とか学校から教わってきたことが、たかが経済によってうそになるんだ、みたいな。それで後で思うんですが、天皇制はバブルで崩れなかったので、経済の停滞とかで崩れない揺るぎない価値観が欲しいという気持ちがありました。フリーターとして東京で1人暮らしをしていると、職場がなかったり、職場があってもしょっちゅうクビになったりするので、そこに帰属意識が持てないし、職場が変わるので友達もできない。学校にいけない、企業社会にも入れない、もちろん地域社会もない、どこにも居場所がなくて。そうなると、もう一気に国家しか居場所がないような感覚がありました。教育にうそをつかれたっていう被害者意識があったので、学校で教えてくれない靖国史観的なものが、自分の中にストンと入ってきた。私が入っていた右翼団体には同じような人が入っていました。
−−その団体が、当時の非常に不安定な状況を支えてくれることはあったんでしょうか?
雨宮さん 一時的にはありました。私を唯一必要としてくれる居場所でしたが、自分たちの苦しい現実から目をそらすために、アメリカがどうとか、そんな大きな話をしていた。自分たちの生活を何とかしようとか、自分たちの労働や生活の状況を問題にするということは一切なかったですね。逆に言うと、自分たちは日本人で恵まれているんだということを再確認し合う会話がずーっと続くというような、そんな感じでした。
−−今から考えると、どういうことだったんでしょう?
雨宮さん お前は悪くないよって誰かに言ってほしかったんですね。右翼の大人は、今の世の中で若者が鬱屈して生きづらいのは、日本国憲法が押し付け憲法だから悪い、アメリカと戦後民主主義が悪いと説明するんですが、その意味がわからなくても、自分が悪いと思わなくていいというところで自分の生きづらさをごまかすことができた。それではまりました。
−−右翼をやめたのはどうしてですか。
雨宮さん 私、そのころ総理大臣の名前も知らないくらいの大ばかだったんですけど、右翼の人が時事問題から何から教えてくれました。でも、ある程度物事がわかってきて自分の頭で考えるようになったら、私は全然、右翼じゃないな、右翼の人の言っていることは自分の考えとは違うなと思うようになり、やめました。
−−雨宮さんが「プレカリアート」(不安定な労働者)という問題に取り組み始めたのはいつごろからですか?
雨宮さん 2006年ごろですね。00年に脱フリーターして文筆業になって、不安定なプレカリアートという言葉をたまたまネットで見つけて引っかかるものを感じて、メーデーの集会に行った。そこで、新自由主義と生きづらさや自殺の問題の関係とか、日本の労働政策がどれほど変わってきたかというのを初めて知ったんですね。それまで、自分の周りの人たちがずいぶん自殺していたんですが、その背景には、個人の問題じゃなくて、何か構造的な問題、社会が関わっているんじゃないかとずっと考えていたときだったので、すっと理解できた。その十数年前からの労働政策や新自由主義で格差が広がり、普通に生き、普通に働くってことが特権階級にしか許されなくなったというような状況がある。自己責任などと言われて働けない自分を責めて、「すみません」って遺書とかで謝りながら死んでいった人もいます。どんどん労働市場が過酷になって、ちょっと不器用な人たちの居場所がなくなり、こんな自分が生きてちゃいけないと思って死んでいくような、そういうことがあった。集会で話を聞いて、その人たちのせいで死んだんじゃなく、人を生きさせないようなシステムがもう作られてたんだなと思った。「原因がやっとわかった。ここに敵がいたのか」みたいな感じでした。それをなくさないと私たちの生きづらさは絶対になくならないと思うと、猛然と腹が立った。
−−敵といってもシステムですか。
雨宮さん 当時は小泉政権でした。小泉さんは敵としてはある意味完璧というか、自己責任という言葉もそうですし、既得権益である正社員層からごっそり盗んで、非正規の人が何かおこぼれがくるんじゃないかと錯覚させるようなやり方が巧みだった。小泉さん個人というよりは、小泉さんが進めている労働法制の規制緩和などの政策が自分たちを追い詰めている。本当をいえば、それ以前からの政策で、派遣法ができたときぐらいから自民党の政治が進めてきた方向が、若者の貧困を個人の問題にして企業の利益を最大化していく。そこにみんな気づいて怒りだしたんです。
−−経済の停滞が始まって、企業は非正規を採用してコストを低くしました。それはどのように見えていましたか。
雨宮さん プレカリアートの問題を知ってからは、やっぱり企業は自分たちの利益のために人件費の削減をやっていこうとしているんだと、びっくりしました。日本の企業を誇りに思っているところがあったのに、名だたる大企業が非正規を使い捨てにしたために、派遣労働を経由してホームレスになっている人たちが山ほど生まれた。当時は景気が良いと言われていたけれど、自分たちにはその恩恵はないし、すごく苦しい人が増えているし、大企業の派遣で働きながらも月収10万円ぐらいの人もいた。まったく自分たちが思っていたのとは違う労働世界が広がっていて、その人たちはもう一生はい上がれないようなシステムになっちゃっている。それが始まったのがちょうど私たちの世代くらいからなんです。06年に私は31歳でした。同世代のフリーターは30代を超えて、仕事がなくなり始めてましたね。30の壁を超えられないとか、日本には30歳を超えたフリーターの行き場がないということにも気づいた。
−−企業の言い分についてはどう思いますか。
雨宮さん 結局、グローバル競争を勝ち抜いていくためには人件費を安くして当然じゃないか。一貫してそれです。企業は営利活動を目的としているので、企業を責めてもしょうがない。そこは政治がある程度歯止めをかけないと。営利活動が行き過ぎない雇用形態だとか、あっさりホームレス化しないような生活ができる賃金を払うという法規制は、どこの国でもやっている。日本は働いた賃金だけで生きていけっていうかなりの自己責任社会であるうえに、そこを不安定化、低賃金化されると、働く人に不利にできているので、みんなが不安定になってしまう。雇用保険も失業者の7割以上が受けていない上に住宅政策もないので、失業したらホームレスになっちゃう。
−−80年代から雇用の流動化が進んできましたが、不安定になる人を支える手立てをあんまり考えてこなかったんですね。
雨宮さん そうです。求職者への支援制度とかセーフティーネット的なものがやっとできたのは派遣村以降で、それもあまり使い勝手がいいとはいえないんです。本当は86年に派遣法ができたぐらいからやっておかないといけなかった。00年代に時限爆弾が爆発するように問題化した時には、まだ何もなかった。
−−プレカリアートの人たちに日本が豊かだという感覚は?
雨宮さん まったくないんじゃないですか。90年代は、自分たちが集まって話すときは常にうっすらと「豊かだけど生きづらい」と意識していました。それが00年代に入ると「生きづらいうえに貧乏、カネがない」というのを前提に語られるようになった。だから、一億総中流的なものって、言葉としては05年ぐらいまで生きていた気がします。90年代も自分たちは貧困ライン以下の生活をしていたのに、日本は経済大国という全体の幻想の中で、本当に気づくのが遅れてしまった。当事者は、社会に出たことがないから気づかない。あの時、誰か一人でも、気づいてくれたらと思います。今でこそ、若者の貧困が注目され、非正規の問題に取り組んでくれる人は増えましたけれどね。メディアに問題として発見されたから、認識が改まったってことですよね。
−−今現在の状況はどう見ていますか。
雨宮さん どんどん悪くなっていると思いますね。この前の国民生活基礎調査で、生活が苦しいという人が62・4%と過去最多でした。だから、アベノミクスって何なの、ってことです。年収200万円以下の人が増え、平均年収も下がっています。生活保護受給層は200万人をずっと突破しています。
−−リーマン・ショックの時、緩やかに回復していた景気が急速に悪化して、「派遣切り」などが表面化しました。こうしたことがまた起きる際の備えには何が必要ですか。
雨宮さん 自衛する方法としては制度を知っておくことですかね。労働組合が関われば、寮を追い出されないようにする交渉ができるので、フリーターでも入れる組合を知っておけばいい。あとは、最低限の生活保護に関する知識とか、住宅手当や求職者の支援制度もあります。使えるものは結構あるんですが、それがまったく周知されてない。日本ではそういう生きるか死ぬかにかかわる情報が全然知られてない。
−−どこを変えればいいのでしょうか?
雨宮さん 最低賃金を上げるとか、非正規にいろんな保障をつけるとか、過労死しない労働時間規制とか、そういう個別の小さな政策でできることってちゃんとあります。でも、日本社会がこの格差に対してまひしている感じがあるように思えるんです。最初はみんなすごいショックを受けて聞いてくれたんですが、今は誰も驚かないし、そういう社会だからしょうがないよね、それがグローバリズムに対応する先進国の宿命でしょう、とでもいうようなものを感じるんです。同じ日本に住んでいて言葉が通じないぐらいに格差が広がっていて、生活意識も何もかも全部違って、格差の上位の人と下の人たちで、一つも共感できるところがないふうになっている。そういう社会ってちょっと怖い。そういう相手を助けようとは誰も思わないだろうし、話を聞こうともしない。言葉も通じない怠け者は自己責任だと思ったら、社会保障の分配の対象にするのにも反対すると思うんですね。そういうふうになってきている感じがする。
−−これから先の展望はどうでしょうか?
雨宮さん 自分たちの世代は自分を「絶滅危惧種」って呼ぶようになってきています。結婚して子供を残せない、種を残せないから、そのまま絶滅していくだけの運命という意味です。今住んでいる6畳一間のアパートとかにみんな居続ける。フリーターとか非正規で働いている人たちはその家賃も払えなくなってくると思う。川崎市で起きた簡易宿泊所の火事では、あれが自分たちの未来の姿じゃないかというか、ああいうところで自分たちの世代がどんどん孤独死したり、火事で死んだり、そういう場所に行きつくしかないんじゃないかとすごく感じました。
−−5年先、10年先にやっていきたいことは何ですか。
雨宮さん 自分の世代のこの問題が、何か運動とかすれば解決とか決着というか、どこかに着地するのかと思っていたんですね。雇用があまりにも流動化したことが原因だから、セーフティーネットが必要だ、彼らが悪いわけじゃないんだという認識が社会的にも広まって、どこかに決着の地点があると思ったけれど、10年たってもまったくない。だから、自分の世代の問題として、どこかで落とし前をつけるまではこの問題からは離れられない。10年前は若者の貧困だったけど、今はもう若者じゃない。中年になっていて、それがどんどん初老になり、高齢者になっていく。この世代がどのへんで救われるのかが、ものすごく重要だと思っています。
■あまみや・かりん 1975年、北海道生まれ。高校卒業後、パンクロック歌手、右翼活動家などを経て作家に。2000年、「生き地獄天国」でデビュー。若者の生きづらさをテーマにした著作を発表している。著書に「プレカリアート」「雨宮処凛の闘争ダイアリー」など。「生きさせろ!難民化する若者たち」で日本ジャーナリスト会議賞受賞。「反貧困ネットワーク」世話人。最新刊に「14歳からの戦争のリアル」。

自由同和会機関紙の灘本寄稿を読む

ブログネタ
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150718湯葉

Voyager au Japon grâce aux vidéos des passionnés de trains
Il existe au Japon une communauté de ≪ vloggers ≫ (vidéo-blogueurs) passionnés par le tenbo shaso (展望車窓), qui peut se traduire approximativement en ≪ Vidéo par la fenêtre d’un train ≫.
Typiquement, ce vlogger est celui qui, sur un train, installe une camera vidéo pour filmer au travers des vitres (車窓, ou shaso, quelquefois transcrit syaso) et enregistre tout le voyage.
Il y a deux sous-types de vidéos tenbo shaso : ≪ Vue de devant ≫ (前面展望, senmen tenbo) c’est-à dire prises depuis l’avant du traint, et ≪ vue de fenêtre ≫ (車窓, shaso / syaso) qui enregistre le paysage défilant devant une fenêtre latérale .
Ces vidéos téléchargées sur YouTube durent habituellement au moins deux heures et sont quelquefois découpées en playlists pour contenir les heures de tournage.
Le spectateur de ce type de vidéo peut par exemple faire une ballade à l’avant d’un train à l’ombre du monde Mont Fuji en partant de la gare de Shizouka jusqu’à celle de Tokyo .
Ce voyage a été enregistré en 2007 sur le vieux Tokai (東海) express, peu de temps avant l’interruption de son service, quelques mois plus tard.
Osaka-Sapporo intégral
S’il existe un train ou une ligne de tram au Japon, vous allez trouver une ≪ shaso vidéo ≫ de la ligne entière sur YouTube. Pour exemple, cette playlist de 40 vidéos ou se trouve enregistré le voyage entier d’un train de Osaka à Sapporo, capitale de l’ile d’Hokkaido dans le nord :
Il a été enregistré sur le Twilight Express, un train de nuit de luxe qui, jusqu’à sa supression en mars 2015, faisait le trajet d’Osaka à Hokkaido sur la côte accidentée longeant la mer du Japon.
L’ouverture de lignes de train à grande vitesse, le transport aérien bon marché, et le succès croissant des bus longue distance ont provoqué la suppression des lignes de trains express longue distance.
Les vidéos de voyages en train sont donc une fenêtre sur l’histoire, elles alimentent la nostalgie des passionnés de trains.
RailKingJP, roi de la vidéo de train
RailKingJP, un blogger japonais très populaire, a réalisé des douzaines de vidéos de voyages en train-, souvent alors qu’il était en voyages d’affaires un peu partout au Japon.
Ci-dessous, il montre une vidéo ≪ vue de devant ≫ du mythique Odakyu Express en service entre Shinjuku dans l’ouest de Tokyo et la ville touristique de Hakone, sur les pentes du mont Fuji :
Si vous voulez savoir à quoi ressemble le centre de Tokyo, on trouve beaucoup de vidéos prises depuis la ligne circulaire Yamanote qui fait le tour de la ville :
Tsunami
Ce type de vidéos est aussi un bon moyen pour observer la façon de réagir au Japon après le tremblement de terre suivi d’un tsunami en 2011 qui a dévasté une bonne partie de la côte qui s’étire au nord-est de Tokyo.
Ci-dessous, borojins, un autre vlogger de train prolifique sur YouTube, a publié un enregistrement fait sur la ligne du Sanriku Railway récemment réouverte.
Beaucoup de sections de cette ligne ont été détruites par le tsunami de mars 2011, et on pouvait se poser des questions sur sa remise en service. Pourtant, elle a été reconstruite, ramenant les touristes dans la région.
Comme on peut trouver, sur YouTube, des milliers de vidéos qui vous permettent de découvrir presque tous les coins du Japon en train, mais depuis votre ordinateur personnel, il peut être précieux de savoir ou vous ≪ allez’ si vous ne lisez pas le Japonais.
Un bon moyen pour commencer est la liste des lignes de train au Japon sur Wkipedia. Choississez une ligne et trouvez la page correspondante en langue japonaise pour savoir quel est son nom au Japon.
Copiez et collez le nom japonais de la ligne de train dans votre fenêtre de recherche YouTube, en faisant bien attention d’ajouter 展望車窓 :
Ici nous avons réussi de cette façon à trouver une video prise à partir du monorail Chiba.
Playlists par régions au Japon
YouTube vlogger borojins a aussi réalisé un montage vidéo pour proposer une playlists par région, avec titres en anglais.
Syaso.com a posté lui aussi des douzaines de playlists sur YouTube pour des lignes de chemin de fer dans toutes les régions du Japon mais s’il n’y a presque pas d’indications en anglais.
フランス語
フランス語の勉強?

ゴーマニズム宣言差別論スペシャル
小林 よしのり
解放出版社
1995-10


優れたエンターテインメントとして楽しめる作品です マトボッククリ
人間を出自や人種で差別してはいけない−差別に関して語るべきことはこれで全てでしょうか?小林よしのりはそう考えません。差別はいかに被差別者の心を切りさいなむか。差別する心の醜さ。何故人は差別を行うのか。このような基本的な内容はもちろん、筆者は差別に抗議し闘う資格の無い人間による差別への抗議に見られる偽善や、出版社による差別的表現自主規制の問題点についても容赦なく批判します。「差別論」という副題にふさわしい、広範な話題を取り上げた作品集です。「ゴーマニズム宣言」というタイトルとは裏腹に筆者の主張は極めて良識的であり、好感がもてます。
筆者の意見の全てが正しくはないでしょう。本書を読んで傷つく人もいるかもしれません。筆者が忌み嫌う偽善を、筆者自身に見出す人もいるかもしれません。それでも筆者が多くの読者から受け入れられるであろうと思われるのは何故でしょうか。漫画の持つ恐ろしいまでの影響力。愚かで間違ったことを述べたり人を傷つけたりする可能性。自分の中にもある差別心や心の醜い部分。書いて発表することに対する重い責任。こうした一切を自覚したうえで真剣に書いている筆者の姿勢が作品から伝わってくるからだと思います。
重い内容を扱っているにも関わらず、「差別論」は同時に優れたエンターテインメントでもあります。人間は定められた時に定められた場所で定められたことをするようになっているといいます。子供向けギャグ漫画を作者が長年書きつづけてきたのも、このような作品群を作り出すために必要な、エンターテイナーとしての修行だったのかもしれません。



ガツンとくる1冊 tadpole
普段は女性であることを意識していなくても、生き方に悩むとき、それを意識せざるを得ない場合があります。この本には、たくましく生き抜いてきた同性の大先輩たちの言葉が満ちています。彼女たちの背中を見ていれば、人生を歩む脚にも力がよみがえりそう。ドキリとしたりハッとしたり、肝に響く深い言葉にいくつも出合えました。

久しぶりのマイマイ.忘れていることが多いです.
ネットで検索していて灘本昌久さんが自由同和会の機関誌に寄稿していることを知りました.ヒューマンJournalというものですが,大阪市の図書館にはないので残念だなぁ・・・と思っていたら,自由同和会のHPで読むことができるのを発見.灘本さんは解放同盟に批判的であっても長いこと解放同盟とともに運動を進めてきたと思うので,どうして自民党系の自由同和会なのかなぁ???という疑問はあります.解放運動にかかわった契機とか大学での実践など自分のことを語っているのはとても興味深く思えました.

「バイキング」サンド地引き網中継復活!故郷・宮城沿岸で復興伝える
 4日に放送されるフジテレビ「バイキング」(月〜金曜前11・55)で、「生中継!サンドウィッチマンの日本全国地引網クッキング」が約9カ月ぶりに復活する。
  同企画はお笑いコンビ「サンドウィッチマン」による素人いじりや傍若無人なロケ進行が人気を博して番組内で名物コーナーとなっていたが、冬場に入るため昨年10月27日の放送を最後にいったん終了していた。
  ロケの舞台はこれまで千葉県、神奈川県、茨城県の沿岸だったが、今回はサンドウィッチマンの出身地・宮城県の沿岸でロケを行う。
  地元・宮城でロケが行われることに関してサンドウィッチマンの2人は、「この企画が始まってからずっと思っていた地元・東北の被災地での中継。元気な部分と、まだまだこれからの部分を、中継を通じて伝えられればうれしいです」(伊達)、「東日本大震災で被害の大きかった宮城県がどのくらい復興、復旧しているのか、さらには町の人の元気、名産品も伝えられれば、と思います」(富澤)とそれぞれコメントした。
 4日の放送では約20分の生中継を予定。サンドウィッチマンが地引き網漁に参加し、獲れた魚をその場で調理する。調理をするにあたり、料理研究家の高城順子氏も出演する。


気仙沼復興願い2400発花火
「気仙沼みなとまつり」は2日最終日を迎え、震災からの復興への思いを込めて打ち上げられた2400発の花火が夏の夜空を彩りました。
気仙沼みなとまつりは、ことしが64回目でした。
2日間のまつりの最後を飾る花火大会は、午後8時に始まり和太鼓や笛の音に合わせて気仙沼湾に浮かぶ船から2400発の花火が次々に打ち上げられました。
会場には浴衣を着た若者や家族連れなど多くの見物客が訪れ、歓声を上げたり写真を撮ったりしながら夏の夜空を彩る花火を楽しんでいました。
宇都宮市から帰省している26歳の女性は「船と花火の色が幻想的できれいだと思います。祭りの活気で街もどんどん元気になってほしいです」と話していました。
地元の56歳の女性は「みなとまつりは毎年楽しみにしていて元気をもらっています。復興はまだまだ進んでいないところもありますが、気仙沼の街も花火のようにきれいに輝いて欲しいです」と話していました。


法曹資格持つ職員の確保 被災地苦戦
 東日本大震災の被災自治体が、法曹資格を持った職員の確保に力を注いでいる。復興事業の推進に向け、法的知識が必要となるケースが多いためだ。法曹ニーズは全国でも高まっており、被災地には「大都市圏に人が流れてしまう」と危機感が漂っている。
 日弁連によると、岩手、宮城、福島の被災3県では各県庁に加え、計9市町に弁護士などの法曹資格者が勤務している。いずれも任期付きの採用といい、更新時には新たな人材を探す必要がある。
 福島県相馬市では企画政策部参事の高橋厚至郎弁護士(44)が年度内に任期切れを迎える。市は3年前に公募を行ったが実らず、日本司法支援センター(法テラス)から派遣を受けた。後任選びが難航することも想定し、7月から来年度採用の募集を始めている。
 高橋弁護士は「権利関係が複雑な用地買収も残っている。職員が気軽に法的な相談ができる点で、組織内に法曹資格者がいる利点は大きい」と意義を説明する。
 宮城でも石巻市が来年4月末、東松島市が年度内でそれぞれ現職者の任期が切れる。石巻市は「復興事業で法的知識が求められる局面が続く」として、秋口以降の公募を検討している。
 既に顧客を抱えている弁護士らの転身はハードルが高く、法テラス所属の弁護士も限られる。関東や中部など大都市圏が人材確保に乗り出している上、東北では内陸部の郡山市も昨年初めて採用に踏み切り、今後、沿岸被災地のニーズが満たされるとは限らない。
 こうした事態を受け、日弁連は4日、東京で被災自治体によるセミナーを初めて開催する。3県で採用された弁護士が活動状況を報告するほか、自治体によるプレゼンテーションが予定されている。
 福島県浪江町は今春、法曹資格者を公募したものの応募はゼロだった。「賠償関連の相談事業が多い」として8月に再募集する。担当者は「交通の便が悪いなどの悪条件はあるが、復興支援を志す人の応募に期待したい」と話している。
            ◇     ◇     ◇
 相馬市の法曹職員の募集期間は8月末日まで。1年以上の訴訟実務経験者が対象となる。採用は来年4月。連絡先は総務課0244(37)2116。


<気仙沼線>BRT専用道は9割に引き上げ
 東日本大震災で被災したJR気仙沼線(宮城)と大船渡線(岩手、宮城)をめぐり、JR東日本は鉄路の復旧を断念する代わりに、運行中のバス高速輸送システム(BRT)の利便性向上を検討している。BRT専用道の比率を気仙沼線は90%、大船渡線は51%に引き上げ、新駅による駅増設なども視野に入れる。
 沿線自治体に示した案によると、気仙沼線の柳津(宮城県登米市)−気仙沼間(55.3キロ)は専用道比率を現在の41%(約23キロ)から90%(約50キロ)まで拡充。所要時間は現在の1時間46分から1時間30分に短縮され、鉄道運行時とほぼ変わらなくなる。
 大船渡線の気仙沼−盛(岩手県大船渡市)間(43.7キロ)は専用道比率を37%(約16キロ)から51%(約22キロ)にする。気仙沼市から陸前高田市に至るBRTは現在、国道45号を利用。被災を免れた線路は山間部にあることなどから、気仙沼線に比べて専用道を拡充しにくい状況だという。
 大船渡線のBRTの所要時間は現在1時間14分。専用道延長で短縮可能だが、短縮時間は明示していない。大船渡市内では、周辺で災害公営住宅の整備が進む大船渡魚市場前に新駅を設置し、12月ごろの使用開始を目指す。
 JR東は「新駅やルートについては、両線とも沿線自治体などの要望に基づいて柔軟に対応していきたい」と説明する。
 JR東の提案に対し、気仙沼市の菅原茂市長は「(気仙沼線のBRTは)仙台圏へのアクセスなどが不十分」と納得していない。一方、宮城県南三陸町の佐藤仁町長は7月30日の定例記者会見で受け入れを表明した。
 登米、大船渡、陸前高田の3市長はおおむね提案を評価している。


<ねぶた>熱狂包んでいざ出陣
 軽快な囃子(はやし)と跳人(はねと)の「ラッセラー」の掛け声が真夏の夜に響き渡り、青森ねぶた祭が2日、開幕した。青森市は未明から時折激しい雨が降る不安定な天気で、全てのねぶたがビニールに覆われての出陣となった。
 午後7時すぎ、号砲を合図に約3キロの運行コース内6カ所で待機していたねぶたが一斉に動きだした。三国志の英雄や不動明王が見えを切るように回転し、ビニールのベールの中から鋭い眼光でにらみつけた。初日は大型ねぶた14台、子どもねぶたなどが登場した。
 青森青年会議所のねぶた「三升景清 分身不動」の前では、三沢市の米軍関係者の子どもや留学生らが跳ね、祭りを盛り上げた。ビクトリア・ケイツさん(7)は「4歳のときから毎年見ている。跳ねるのは初めて。楽しい」と笑顔。
 ねぶた祭は7日まで。最終日は大型ねぶたの海上運行と1万1000発の花火が競演する。


<ツール・ド・東北>再生へ思い コース試走
 東日本大震災で被災した宮城県沿岸部で9月13日に開かれるサイクリングイベント「ツール・ド・東北2015」(河北新報社、ヤフー主催)に向け、ヤフー自転車同好会のメンバーら約10人が1、2の両日、宮城県石巻、気仙沼両市などのコースを試走した。自転車で駆け抜け、被災地の復興の姿と再生への思いを確かめるイベントの魅力を訴えた。
 一行は1日、発着点となる石巻市の石巻専修大を自転車で出発。駅舎が新しくなった宮城県女川町のJR女川駅前などを通り、気仙沼市に入った。2日は大会のエイドステーション(休憩ポイント)になる気仙沼市本吉町の道の駅「大谷海岸」を訪れた。大会当日に提供されるホタテの炊き込みご飯とフノリのみそ汁を味わった。
 同好会の中曽佑一会長(28)は「気仙沼市内では昨年は何もなかった場所に建物ができるなど、さまざまな風景の変化を感じることができた」と語った。
 ことしで3回目を迎える大会は石巻、気仙沼、女川、南三陸の4市町を自転車で巡る。コースは五つで、気仙沼市を出て石巻市を目指す片道型のコースが新設された。全国から約3500人が出場する。


<仙台市議選>自民に逆風 野党は着実に得票
 仙台市議選は2日投票が行われ、即日開票の結果、新議員55人が決まった。投票率は35.83%で、過去最低だった2011年の前回(40.03%)を4.20ポイント下回り、初の30%台に落ち込んだ。当選者の政党別内訳は自民16人、民主9人、維新1人、公明9人、共産7人、社民5人、諸派1人、無所属7人。
 東日本大震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島の3県で秋まで続く大型地方選の皮切り。安全保障関連法案への世論の強い反発が色濃く反映し、共産など野党が着実に得票した一方、自民は伸び悩んだ。同法案の国会審議や被災地での今後の地方選に影響を与えそうだ。
 自民は国政での「1強多弱」を背景に、前回より4人多い18人の公認候補を擁立したが、現職と元議員の2人が落選。党勢低迷が続く民主は前回比3人減の9人に公認を絞り込み、全員当選につなげた。維新は初の議席を獲得した。
 公明は泉区で初めて2議席を獲得したのをはじめ、9人全員が当選。共産は5選挙区中、3区でトップ当選し、改選前の7議席を維持した。社民は5議席を維持、旧みんなの党の流れをくむ諸派は1議席にとどまった。
 女性は候補17人中、過去最高の14人が当選。女性議員の比率は初めて全体の4分の1を超えた。
 昨年12月の衆院選開票時に起きた青葉区選管の票水増し問題を受け、市は今回の投開票事務を信頼回復への第一歩に位置付けた。問題の発端となった投票者数の集計ミスを防ぐため、開票開始を前回より30分遅らせて点検を強化するなどの改善策を徹底。大きな混乱はなかった。
 22日に2期目の任期を折り返す奥山恵美子市長を支持する勢力が引き続き過半数を占める見通し。ただ、改選直前の市議会6月定例会では票水増し問題に伴う市長の給与減額条例案に対し、自民系会派で賛否が割れた。2年後の市長選をにらんだ動きが活発化し、奥山氏の市政運営に影響する可能性がある。
 新議員の任期は28日から4年間。


<仙台市議選>野党4区でトップ当選
 安全保障関連法案をめぐる「自民1強」の揺らぎが、一票の行方を翻弄(ほんろう)した。激しさを増す国会論戦と並行する形で、2日投開票を迎えた仙台市議選。共産が宮城野、若林、泉でトップ当選を飾るなど、5選挙区のうち4区で野党候補が首位を占めた一方、与党候補は逆風下で苦しい守りを強いられた。
 「廃案は市民の意思だ。有権者の良識に敬意を表したい」。若林選挙区で他候補を圧倒する得票を集め、再選を果たした共産現職の庄司あかりさん(30)は、荒町の事務所で支持者と握手し、喜びを爆発させた。
 陣営内には当初、法案反対の世論が得票に直結しないのではとの懸念もあった。告示後、息子が自衛隊員の父親から「応援する」と声を掛けられるなどし、日増しに追い風を実感した。
 共産党は市内の全5選挙区で「戦争法案ストップ」を前面に出す戦いを展開。公認候補はいずれも得票を増やし、躍進を遂げた。庄司さんは「憲法9条を生かした政治の実現につなげたい」と力を込めた。
 民主党も安保法案の審議動向をにらみながら、国政と連動した戦いを展開した。太白選挙区の現職岡本章子さん(50)は「集団的自衛権の行使で巻き込まれるのは民間人。断固反対する」などと重ねて強調し、トップで5選を飾った。
 党本部も選挙戦最終日に枝野幸男幹事長を投入するなど、分厚い態勢で支援。長町の事務所で祝福を受けた岡本さんは「被災地から命を大事にする政治をつくる」と決意を新たにした。
 防戦を余儀なくされた自民党の候補は伸び悩んだ。
 青葉選挙区で3選した現職跡部薫さん(50)は「厳しい戦いだった」と話し、北根の事務所で安堵(あんど)の表情をのぞかせた。
 前々回(2007年)、前回(11年)は無所属。初めて党公認を得て臨んだ。「国政との結び付きを重視したい」という思惑だったが、前回2位の得票を減らし、下位に後退した。
 他選挙区に党公認で立候補した同僚は、厳しい世論を警戒して自民色を封印するなど周囲には動揺もあった。跡部さんは「政党に波があるのは当然のこと」と話し、足元の課題解決に全力を挙げることを誓った。

週のはじめに考える 独創は地方で生まれる
 自治体消滅などと言います。本当でしょうか。地方にある宝に気付いていないのかもしれません。先端技術に未来を懸ける山形県米沢市を訪ねました。
 太陽がまぶしく感じる日、米沢市の山形大学工学部の門をくぐりました。ここで二十一世紀を照らす新しい光、有機EL(エレクトロルミネッセンス)が生まれたのです。有機物は電気を通さないのが普通ですが、中には半導体となり、電流を流すと発光するものがあります。これが有機ELです。
 真新しい五階建てのビルが、有機エレクトロニクス研究センターです。城戸淳二・卓越研究教授が一九九三年、白色光の有機ELを発明したのです。白色とは、太陽光とほとんど同じ光です。
◆韓国企業に負けた
 白熱電球と蛍光灯は身近な照明ですが、白熱電球はエネルギー変換効率が悪く、蛍光灯は水銀を使うのが欠点です。
 急速に普及しているのが、省エネのLED(発光ダイオード)照明です。有機ELも非常に効率の良い照明です。LED照明は一点から強い光が出るのに対して、有機ELは面全体が光るのが特徴です。ちょうど太陽光が障子を通して室内を照らすような光です。
 実用化は、韓国企業が先行しています。地方大学で生まれた技術に対し、国内の大企業は冷たかったのです。
 「安いのはLG化学(韓国企業)製。二〇二〇年までに勝負は決まる」と城戸教授は言います。現在は液晶のようにガラス基板に蒸着して造っていますが、プラスチックなどに印刷することも可能です。逆転のカギは、印刷技術を取り入れて製造コストを削減できるかです。大手印刷会社が今、山形大と共同研究をしています。
◆城戸教授と中村教授
 話を聞いていて、〇三年に城戸教授と中村修二米カリフォルニア大教授が対談したときのことを思い出しました。中村教授は徳島県にある日亜化学の技術者として青色LEDを発明しました。
 対談時、青色LEDは商品化されていました。「信号機に採用したのは徳島県ぐらい。国や大企業は使ってくれない。海外では信号機にも道先案内表示にも利用されているのに」。中村教授は地方企業への差別に怒っていました。
 青色LEDも有機ELも、ディスプレーとして注目され始めたころでしたが、二人は「二十一世紀の照明は有機ELとLEDだ」と語っていました。昨年、中村教授はノーベル賞を受賞しましたが、受賞理由は「明るく省エネルギーの白色光源を可能にした効率的な青色LEDの発明」でした。二人には未来が見えていたのです。
 話を山形県に戻します。
 城戸教授は対談で「県のプロジェクトとなり、県税を四十三億円も使います」と感激していました。山形大もその後、結城章夫学長時代に「特色を出さないと地方大学は生き残れない」とバックアップし、人材を集めました。知の拠点となったのです。
 米沢市には〇八年、照明用有機ELパネル専業企業「ルミオテック」が誕生しました。山形大生が地元の企業に就職したり、自らベンチャー企業を設立したりすれば、地方創生の理想的な姿です。
 地方大学の活躍は過去にも例があります。
 浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)は、高柳健次郎氏が一九二六年、世界で初めて電子式テレビの実験に成功したことで知られています。門下生の堀内平八郎氏が五三年、開発型の企業「浜松テレビ」をつくりました。浜松ホトニクスと社名は変わりましたが、従業員三千人超の東証一部上場企業に成長しています。
 先端技術だけでもありません。
 大分県別府市に二〇〇〇年、立命館アジア太平洋大学が開校しました。学生は約六千人で、半数は七十六の国や地域から来ています。人口約十二万人の温泉町に若者が集まったのですから、大学の存在自体に意義があります。
 今村正治・副学長は地方創生フォーラムで「地方であるため、学生は郷土愛を持つ」と話しました。卒業生が世界中で「別府は第二の故郷」と言ってくれるのなら、こんな強力な観光宣伝はありません。副学長は「開校前は荒唐無稽とも言われた」と打ち明け、地元の熱意に後押しされて実現したと話しています。
◆非常識なことができる
 城戸教授は「非常識なテーマでなければブレークスルーはない。大企業も役所もすぐに会議。会議をやれば結論は常識的になる。地方は中央から離れているから非常識なことができる」と独創性が生まれる秘密を語ります。地方がアイデアを出し、国は支えることに徹する。未来が見える人からのアドバイスです。


人種差別:禁止法案、審議へ 「ヘイトスピーチ」受けて
 ◇野党が議員提案 4日からに参議院で
 在日外国人への人種差別を禁止する法律案が、4日に参議院で審議入りする。在日コリアンへのヘイトスピーチが社会問題化したことを受けて議員提案され、人種差別の禁止を明記し、差別防止を国や自治体の責務とうたっている。罰則のない理念法だが、自治体の条例制定を後押しする効果も期待されている。【林田七恵、岸達也】
 法案は、民主、社民両党などが5月に参院に提出した「人種差別撤廃施策推進法案」。人種や民族などの属性を理由とする差別的な取り扱いや言動を禁止するとし、差別防止のために国や地方自治体に実態把握や相談体制の整備などを求めている。罰則は設けない。
 関係者によると、自民党が法規制に消極的で、一時は審議されるかどうか危ぶまれたが、その後了承に転じた。公明党も審議を了承し、参院法務委員会で4日に趣旨説明、6日に質疑が行われる。
 提案した「人種差別撤廃基本法を求める議員連盟」幹事長の有田芳生参院議員(民主)は「ヘイトスピーチを放置すれば、国際的に日本が人権を軽視しているとのレッテルを貼られかねない。修正にも応じるので、与党にも議論に加わってもらいたい」と話す。
 ヘイトスピーチを巡り国連人権委員会は昨年7月、「差別、敵意、暴力をそそのかすような人種的優位の主張や憎悪をあおる言動」を禁じるよう日本政府に求め、現行法で十分対処できていないとして加害者を処罰する法整備を促した。国連人種差別撤廃委員会も同8月、ヘイトスピーチを行った個人や団体について「捜査を行い、必要なら起訴すべきだ」と勧告。国内では、160を超す地方議会が、法規制などを求める意見書を採択した。
 安倍晋三首相は2月の衆院予算委員会でヘイトスピーチを批判したが、法規制については「個々の事案を検討する必要があり一概に言うことは困難だ。立法措置は各党の検討や国民的な議論の深まりを踏まえ考えたい」と述べるにとどめた。
 ◇人種差別撤廃施策推進法案の骨子
・特定の人に対し、人種や民族を理由とする差別的な取り扱いや言動をしてはならない
・人種や民族が共通する不特定の人に対し、著しく不安や迷惑を与える目的で、公然と差別的言動をしてはならない
・国と地方自治体は差別防止施策を策定する
・政府は、施策について国会に毎年報告する
・国は、差別実態を明らかにする調査を行う
・有識者でつくる「人種等差別防止政策審議会」を内閣府に置く
・公布から3カ月以内に施行する


ヘイトスピーチ:法規制に厚い壁 「表現の自由」侵害懸念
 ◇人種差別禁止の法律案 4日に参院で審議入り
 在日外国人への人種差別を禁止する法律案が、4日に参議院で審議入りする。ヘイトスピーチの法規制を巡っては、現に生存を脅かされる被害者を速やかに救済すべきだとして肯定する声が強い。一方で、憲法の保障する「表現の自由」との兼ね合いから、法規制以外の手段を尽くすべきだとの声もある。
 「朝鮮人を殺せ、と叫ぶ醜悪なデモに何ら法的規制がない。規制がないから統計がなく、被害者がいないというパラドックスが生まれている」と、金尚均(キム・サンギュン)龍谷大教授(48)は被害者の窮状を訴えている。
 京都市の当時の京都朝鮮第一初級学校前で2009年、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の会員らが街宣活動を行った。この街宣は人種差別撤廃条約の禁じている人種差別だとして、在特会側に約1200万円の賠償を命じる京都地裁判決が確定。在特会関係者は刑事裁判でも有罪判決を受けた。だが、法的な救済や処罰ができたのは被害者が特定され、具体的な損害が立証されたからで、不特定多数への差別的発言は現行法で規制することができない。
 その一方で、何を「規制すべき表現」として切り出すかという判断は、現実には難しい。
 それ以上に問題なのは、政府に規制の権限を与えた場合、批判的な言論が狙い撃ちにされかねないことだ。実際、自民党は14年8月、「ヘイトスピーチ対策等に関する検討プロジェクトチーム」の初会合で、国会周辺での街宣活動やデモの規制も議論の対象にするとして批判を浴び、釈明に追われた経緯がある。【岸達也】


スネークマンショー:桑原さん「そこはかとない反戦選曲」
 1970年代後半から80年代、しゃれた選曲とブラックユーモアで人気を博した「スネークマンショー」のメンバー、桑原茂一(くわはら・もいち)さんが、自身のラジオ番組やフリーペーパーで「そこはかとない反戦選曲」の紹介を続けている。桑原さんは「正しいことを正しいと言うだけでは心に響かない。音楽が戦争を考えるきっかけになれば」と話す。
 スネークマンショーは、選曲家の桑原さん、ラジオDJの小林克也さん、俳優の伊武雅刀さんによるユニットで、音楽とコントを組み合わせたラジオ番組などを展開。反権力や社会批判を含んだパロディーは若者から大きな支持を集めた。
 安全保障関連法案が衆院を通過した先月16日の翌日深夜。桑原さんはFMラジオ番組で、政府への痛烈な皮肉が込められた「反戦選曲」を流した。曲の合間には、記者会見をもじったナレーションを挟み込んだ。「わが国は先ほど正式な手続きをもって、戦争を行うことになりました。しかしご安心ください。相手がどこの国か、いかなる戦争か、すべて国民の皆さんにわからぬよう進めていく次第であります」
 ツイッターには「他人の受け売りではなく自分で考えなければ」「心を揺さぶられた」といったコメントが400件以上寄せられた。
 桑原さんは隔月発行のフリーペーパーで2011年から、著名人が反戦の思いを込め選んだ楽曲を「そこはかとない反戦選曲」として掲載。漫画家の浦沢直樹さんや俳優の永瀬正敏さんなど数百人が参加した。RCサクセションの「明日なき世界」やオフコースの「生まれ来る子供たちのために」、南北戦争を歌うボブ・ディランの曲も紹介した。
 桑原さんは「そこはかとない、多くの人が参加しやすいやり方で、戦争反対を訴え続けたい」という。フリーペーパーの入手方法はhttp://clubking.com/archives/category/interで案内している。【野村房代】


ワールド・トレジャー:特派員が選ぶ私の世界遺産 西岸分離壁(パレスチナ自治区)
 ◇覆面芸術家の反骨精神
 「バンクシー」と名乗るアーティストがいる。本名も素顔も明かさない。神出鬼没の覆面画家だ。
 世界各地の道路や壁に型紙を押し当て、スプレーペンキで「グラフィティ(落書き)アート」を描き、瞬時に立ち去る。その「作品」は高く評価され、最近は競売大手サザビーズで約2000万円もの値がつくほどだという。
 作品は、イスラエルが占領するヨルダン川西岸パレスチナ自治区にも及ぶ。イスラエルは2002年、「テロ対策」として西岸との境界で分離壁(高さ8メートル)の建設を開始。バンクシーはそれに抗議するように「爪痕」を残した。
 「キリスト生誕の地」とされる西岸地区ベツレヘムの分離壁には、束ねた風船を手に、浮き上がって壁をふわりと越えそうな少女の姿を描いている。壁の向こう側に行きたい少女と、それを阻む冷徹な現実の壁−−。そこに怒りを込めているように見える。
 壁近くのガソリンスタンドの裏手には青年の絵がある。イスラエル軍の催涙ガスを防ぐためのマスクだろうか。今にも石を投げつけそうだが、手にしているのは花束。非暴力、不服従の戦いを呼び掛けているかのよう。05年出版の画集の表紙にもなっている。
 ガソリンスタンドに隣接する建物内に描かれたのは、少女が兵士にボディーチェックをしている絵。イスラエル兵によるパレスチナ人への身体検査を皮肉っている。店の反対側には平和の象徴、オリーブの葉をくわえたハトの姿があり、銃の照準を向けられているが防弾チョッキを着ている。
 5月のある日、パレスチナ人の大学院生、デラールさん(25)と一緒に、ケニア・ナイロビから訪問中のジャーナリスト、デニス・コーデさん(52)を案内した。
 キリスト教徒のコーデさんは「パレスチナとイスラエルの平和と自由を祈らずにはいられない」とやるせない表情を浮かべる。デラールさんは「これはアパルトヘイト(人種隔離)の壁であり、バンクシーが批判のために描いたことは間違いない」と語る。そしてこうもつぶやいた。「バンクシーが来る前から、ここにはパレスチナ人によって力強い絵が描かれていた。彼らの作品がバンクシーにより再び注目され、評価されているのか。それともパレスチナ人に向けられるべき関心をバンクシーが奪っているのか。どちらだろう」
 デラールさんは、パレスチナ国家建設を目指すことでイスラエルと一致した1993年のパレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)の少し前に生まれた。壁の建設が始まったのは小学生のころ。高まる閉塞(へいそく)感。怒りを壁に刻む当時の若者たちの姿を思い起こしたのだろう。「この壁はあなたにとってどんな存在?」と尋ねると、こう答えた。
 「高さと、長さと、目的に驚く。とらわれ、刑務所に収容されているかのように感じる。壁がある限り、この感覚が消えることはない」【大治朋子】
 ◇ガザにも登場
 バンクシーは今年2月、パレスチナ自治区ガザ地区にも出没。昨年夏のイスラエルとの戦闘で破壊されたがれきの山に、幾つかの「作品」を残した。反戦、反権力の怒りをぶつけるという当初のスタイルを超え、注目を集める自らの存在をスポットライトがわりに、注目されるべき場所や問題に光を当てようとしているようにも見える。
 ◇バンクシーの正体
 バンクシーについて、一部の英メディアは、英西部の港町ブリストル出身の40代男性ではないかと伝えている。バンクシーは「落書き」するだけでなく、自らの作品を額縁に入れて、大英博物館などに勝手に据え置くこともある。多くは撤去されたが、一部はそのまま展示されている。英BBCは「ゲリラ・アーティスト」と呼んだ。

矢田支部の大衆的闘い/矢田教育差別事件/盆踊り

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Japon : un Français aurait détourné plusieurs millions d'euros
Avec sa dégaine adolescente, il est difficile de l'imaginer jonglant avec les millions. Pourtant, Mark Karpelès, ce Français arrêté samedi 1er août et suspecté d'escroquerie par la police japonaise, était jusqu'à l'an dernier l'un des rois du bitcoin. Grâce à sa plateforme, l'homme aurait fabriqué de toute pièce plus de 900 000 euros de cette monnaie électronique. Le Bitcoin apparaît en 2009. Une monnaie virtuelle censée correspondre à des investissements bien réels et qui promet de révolutionner le commerce. L'invention séduit vite ceux qui ont besoin d'effectuer des transactions discrètes. Un fabricant iranien de chaussures s'en servait par exemple l'an dernier pour contourner l'embargo.
Dépôt de bilan
En 2014, l'entrepreneur français installé au Japon dépose le bilan. L'équivalent de 355 millions d'euros, qui transitaient sur sa plateforme, se sont volatilisés au grand désespoir de ceux qui avaient misé sur cet or impalpable.
Mark Karpelès est également suspecté d'en avoir détourné une partie.
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テレメンタリー2015「宿命 -トルーマンの孫として-」
「原爆が戦争を早く終わらせた。多くの兵士の命を救った。」
アメリカでは、いまだその正当性を支持する声が根強い。
原爆投下を命令したトルーマン大統領。
その孫であるクリフトン・トルーマン・ダニエルも
幼い頃から原爆は正しかったと教えられてきた。
2012年、和解を求め、初めて被爆地を訪れた。
しかし、彼を待っていたのは「謝罪を求める声」だった。
その後、人知れず被爆者と会い、証言を集め続けたダニエル。
いま一冊の本を出版しようとしている。
ダニエルが伝えようとするものとは?
祖父の遺産を見つめ続けた孫は、
70年前の決断に、どのような答えを出すのか。
広島ホームテレビ 小川泰成 吉野篤志
DNAの大事件! 生命進化の謎
近年、テクノロジーの発達により、人間をはじめ様々な生き物のDNAの解読が進められている。その結果、驚くべき生命の進化の詳細な過程が明らかになってきた。これまで、地球の生命は40億年以上の長い時間を掛け、少しずつ姿を変えてきたと考えられていた。しかし、「目・手足の誕生」や「脳の巨大化」といった変化は、ある時期に、突如DNAが激変する事件が起きたというのだ。それを可能にした遺伝子重複の秘密に迫る!
明日へ−支えあおう− 花は咲くあなたに咲く▽母さん食堂営業中!〜福島県南相馬市
福島県南相馬市小高区。日中の立ち入りしか許されないこの町に、去年オープンした食堂がある。その名も「おだかのひるごはん」。店は、自宅の修復に来た住民、除染や復旧工事の作業員でごった返す。切り盛りするのは、地元の4人の主婦たちだ。彼女たちを突き動かしたのは、活気あふれる故郷を取り戻したいという思い。7月末には伝統行事、相馬野馬追で多くの住民も一時帰省する。食堂での交流を通して、故郷再生への情熱を描く。 畠山智之, 天野ひろゆき
僕らのミーティング「話す・聞く・想う」 心の授業 
須田邦裕 福井放送
福井県勝山市の山あいにある私立かつやま子どもの村小中学校。ここの授業は「プロジェクト」と呼ばれる体験学習が中心で、「衣食住」をテーマに、建築や農業に取り組む。何より大切にしているのが「ミーティング」の時間だ。例えば建築クラスでは、作る建物や作業の手順は子どもたち自身がミーティングで話し合って決める。ミーティングの内容は、学校規則、行事、子ども同士のもめごと解決法など多岐に渡る。教育方針は「自由な心」「個性」「自己決定」。「学力」とは、学業成績や受験実力ではなく、良き人間関係を保ち、自分の人生を自分の力で切り拓いていける能力ととらえている。「話す・聞く・想う」時間を積み重ね、自分で考えて判断する力やお互いを認め合う心を育んでいく子どもたちの姿を追った。

部落解放同盟
矢田同和教育推進協議会
1980-08


部落解放同盟
部落解放同盟中央本部
1982-02


たまたまですが矢田部落に関しての本を2冊読みました.一つは戦後の矢田支部の運動の歴史.部落のボスの支配に対して青年が立ち上がって大衆的な闘いを進めた話が素晴らしいです.でも失敗や間違いなどもあったりで必ずしも順調ではなかったようですが.中国の革命に学んで大衆の闘いを作っていくというのは,とてもいいことだととおもいました.
もう一つは教育に関するお話.一般に矢田教育差別事件と呼ばれている事件です.日本共産党の「指導」は間違っているのでは,と感じました.でも解放同盟の側の糾弾に関しても行き過ぎがあったのではないか,という思いはあります.どちらの組織も自らを正当化しているだけです.両者とも民衆内部の矛盾を解決するという観点で総括してほしいものです.
夜,近くの小学校での盆踊りに行きました.

復興願う大輪夜空に/石巻川開き祭り
 石巻市の「第92回石巻川開き祭り」(実行委員会主催)は1日夜、中心部で恒例の花火大会があり、夏の祭典に幕を閉じた。東日本大震災からの復興を願う花火が次々と港町の夜空を彩った。
 午後7時半から旧北上川の中瀬で計6000発が打ち上げられた。ことしから最大サイズが5号に1段階アップし、約200メートル上空に直径約150メートルの大輪が咲き誇った。
 街中には県内外から約12万人(主催者発表)の見物客が詰め掛けた。宮城県内の花火師による復興祈願スターマインや5号16連発では、ひときわ大きな歓声が上がった。
 花火大会は震災前、東北最大級の約1万6000発を市内陸部で打ち上げていた。震災の影響で2011年に会場を現在地に変更し、規模を縮小して開催している。


気仙沼みなとまつり開幕
 港町の夏を彩る「気仙沼みなとまつり」(まつり委員会主催)が1日、気仙沼市で開幕した。初日は内陸部の田中前地区を会場に恒例の「はまらいんや踊り」を実施。東日本大震災からの復興にかける市民の思いを反映するように、踊り手の熱気が街に広がった。
 「はまらいんや」は、この地方の言葉で「一緒に参加しましょう」の意味。中高生や職場のグループなど57団体の約3200人がそろいの法被やTシャツなどに身を包み、勇壮な太鼓のリズムに乗り群舞した。
 同市中井小は震災後、多くの行事を自粛していたが5年ぶりに参加した。6年三浦真子さん(11)は「1年生以来で、とても楽しい。中学生になっても踊りたいな」と話した。
 最終日の2日は、街頭パレードが震災前の会場だった三日町、八日町、南町で5年ぶりに行われる。夕方からは港町臨港道路特設会場で打ちばやし大競演、船で太鼓演奏する「海上うんづら」、2400発の海上打ち上げ花火などがある。


<復興の風景>津波の猛威後世に/震災語り部(宮古市)
◎岩手知事選を前に(9)
 防潮堤を越えた津波が一気に迫る。「ドーン」。建物にぶつかる衝撃音は生々しい。宮古市田老の高台に新設されたホテル「渚(なぎさ)亭たろう庵」のロビー。見学者は約6分の映像に息をのむ。
 撮影したのはホテルの松本勇毅社長(58)。当時、海沿いで営んでいた「たろう観光ホテル」の6階で大津波を目撃した。「記録すれば想像以上の恐ろしさが伝わる」とレンズを向けた。
 観光ホテルは4階まで浸水。1、2階は骨組みだけが残る。2013年11月、震災遺構になった。
 「津波から命を守る鉄則は逃げること。猛威を知れば説得力は増す。建物と映像があれば、言葉だけよりも確実に風化を防げる」
 震災学習などで多くの人が新ホテルを利用する。松本さんは「田老は津波で多くの犠牲者を出してきた。逃げる大切さを訴え続けたい」と伝承を続ける。


<祈りと震災>社会的使命を模索
◎一関の僧侶・臨床宗教師 後藤泰彦さん
 東日本大震災をきっかけに東北で生まれた臨床宗教師が、社会的役割をより広げようと模索している。一関市川崎町の常堅寺住職、後藤泰彦さん(55)は地元の介護施設で仏教セミナーを始めた。忍び寄る死の気配や大切な人を失った悲嘆に伴う根源的な苦悩を受け止め、宗教者としてそばにいるという臨床宗教の考え方に、瞑想(めいそう)などを取り入れている。
 川崎町の特別養護老人ホーム寿松苑で7月中旬、「みとりセミナー」があった。講師に招かれた後藤さんは参加したホームのスタッフら約20人に語り掛けた。
 「震災は不条理にたくさんの命を奪った。『なぜ人は突然死ぬのか』『どうして災いが自分にばかり降り掛かってくるのか』…」
 震災が人々に突き付けた深い苦悩にいかに寄り添うかは、臨床宗教師の大きなテーマである。
 後藤さんは続いて、宗教色を抜いた瞑想の時を設けた。参加者の呼吸を整えながら穏やかにつぶやいて瞑想に導く。マイナス的な感情の改善などに役立つ「マインドフルネス」と呼ばれる手法だ。
 後藤さんは震災後に東北大が開設した臨床宗教師研修に参加。臨床宗教のアプローチから死と生を考えた。一方で、マインドフルネスを仏教的視座から深めることは安定的な心の平穏につながると考え、学びを重ねている。
 臨床宗教師の存在はまだ一般に浸透しているとは言えず、関係者は認知度を向上させ実践の場を確立していこうと、手探りの日々だ。マインドフルネスと合わせることで、新たな可能性が広がるかもしれない。
 「みとりに関わることがある介護施設の若い職員らが、死に向き合う際の心の持ちようをそれぞれに考える場にもなる」と後藤さん。臨床宗教師がこれからの社会で担う使命を思う。


双葉町の子どもたち、年に一度の再会
 東京電力福島第1原発が立地し、原発事故で全町避難している福島県双葉町の子どもたちが集う「集まれ!ふたばっ子」が1日、いわき市のスパリゾートハワイアンズで開かれた。2日まで1泊2日の日程で、子どもたちは久しぶりの再会を喜び合った。
 町教委の主催。福島、宮城、東京、新潟など13都県から小中高生75人と保護者ら計136人が参加した。子どもの代表4人が「ピアノを頑張っています」「町に戻れないのは寂しいが、一日一日を大切にしたい」などと、今の生活や古里への思いを発表。琴の演奏を聞いたり、地元のじゃんがら踊りに挑戦したりした。
 原発事故当時は幼稚園の年長で、現在は小学5年の新妻千穂さん(10)=宮城県柴田町=、広田愛乃さん(11)=長野県=、平田明里さん(10)=茨城県=は、新妻さんの妹朗奈さん(8)も交え、おしゃべりに花を咲かせた。広田さんは「久しぶりに会ってもすぐ分かる。一緒にプールで遊びたい」と話した。
 双葉町の子どもたちが集まる催しは原発事故後、年1回開かれている。


鶴見俊輔さん 民衆の中によみがえる
 安全保障関連法案の国会審議真っただ中、鶴見俊輔さんが、この世を去った。自由を愛し、自立を求め、命を貴び、行動し、そして何より、戦争を嫌悪した人の魂は、今どこにあるのだろうか。
 鶴見さんは、戦後日本を代表する思想家だった。
 思想家とは何だろう。広辞苑には「思想が深く豊かな人」とある。つまり、よく考える人である。
 鶴見さんのユニークさは、雲の上から世間を見下ろすようなことはせず、いつも大衆とその暮らしの中に身を置いて、心を自由に遊ばせながら、思索を深めたことにある。
 毎日スーパーへ買い物に出かけ、ご近所との立ち話の中から、人間や歴史を論じ、映画や漫画を語り、戦争と平和について考えた。
 考えて、論じるだけには、とどまらない。膨大な著作をものし、丸五十年の長きにわたり、雑誌「思想の科学」を発行し続けた。
 そしてその上、行動する人でもあった。
 若いころから不良を自認し、国内では進学できず、米ハーバード大学に留学した。そこでプラグマティズム(実用主義)に出会う。
 思想の真価は、それを行動に移してみないと分からない−と考える、米国流の哲学だ。
 「非暴力直接行動」を掲げて、「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」に参加し、「九条の会」の呼び掛け人になった。
 行動という枝葉、思想という幹の根元には「反戦」という土壌があった。
 大戦中は海軍軍属の通訳として、ジャカルタなどに送られた。
 「戦争中に私は、生き残りたいと思ったことはない。殺したくない。ただそれだけだった」(「戦争が遺したもの」)と語っていた。
 暑い夏。政権は自らの「正しさ」と数の力を振りかざし、憲法をねじ曲げて、戦争ができる普通の国へと、あと戻りを急ぐ。鶴見さん、あなたが嫌悪したものばかりではないか。
 だが、あなたは書いた。
 「全体が戦争の準備に向かって大きく流れてゆくとき、私たちは、個人の立場、自分の基準をしっかり、はっきりと定めて、そこに不動の姿勢を保つということが大事になります」(「グラウンド・ゼロからの出発」)と。
 国会前で「反戦」「非戦」を唱える声はますます高くなる。
 あなたが愛した民衆の渦の中、鶴見さん、あなたは既に、よみがえろうとしているのではないか。

テスト/耳鼻科で耳垢/オール・ロマンス差別糾弾闘争

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Tokyo Street View : le jardin de Rikugien la nuit
Vous avez désormais pris l'habitude, le samedi sur Gameblog : Tokyo Street View vous proposera de découvrir les plus beaux lieux du Japon en vidéo et en partenariat avec notre ami Gonzague.
Décidément, il semblerait que Tokyo propose une liste sans fin de parcs à visiter ! Et nous sommes d'ailleurs bien loin de tous les avoir parcouru. Parmi eux, vous serez impressionés par Rikugien, un parc magnifique à proximité d'Ikebukuro.
Le plus intéressant ici est que Rikugien est un beau jardin à visiter tout au long de l'année, et qui est un véritable plaisir visuel à chaque pas. Pour ceux qui ont l'opportunité de visiter la capitale nippone en Décembre, sachez que le parc propose des nocturnes sur quelques semaines !
Construit vers 1700 sous le 5ème Shogun Tokugawa, Rikugien est un autre exemple de parc dont l'architecture est propre à l'ère Edo et qui a sa propre histoire ! Rikugien signifie litteralement "Le jardin des six poèmes", et vous pourrez y contempler des reproductions miniatures de quelques 88 scènes issues de célèbres poèmes japonais.
PS : Afin de mieux capter "l'essence" de ce jardin en pleine nuit, nous avons décidé de filmer l'intégralité de cette vidéo en time-lapse. Nous espérons que vous apprécierez cette video 4K autant que les autres.
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朝シャワーを浴びて麺棒で耳を掃除したら,耳が聞こえにくくなってしまいました.でもテストなので病院に行くことができません.テストは3つもあるのでクタクタ.でもやはり耳が聞こえにくいのは心配なので,梅田の耳鼻科に行くことにしました.待ち時間は15分くらいだったかな?先日借りてきた戦後部落解放論争史を読んでいたので待ち時間はあまり感じませんでした.耳の中を器具を使ってみた後小さな掃除機みたいなもので掃除.耳垢がたくさんつまっていたそうです.ちょっと恥ずかしいです.でもちゃんと聞こえるようになって安心です.
夜になって戦後部落解放論争史第1巻の続きを読みます.最後まで読みました.なかなか興味深いです.目次を記すと
・まえがき
・第I章 戦後における部落解放運動の出発
・第II章 戦後初期の部落解放運動
・第III章 戦後初期における部落問題についての理論的認識
・第IV章 北原・高桑論争と井上清の三位一体論
・第V章 井上論文にたいする批判と反批判‐‐井上清「解放闘争史の教訓‐‐克服されるべき二つの偏向‐‐」
・第VI章 部落大衆を基礎とする解放運動の構築をめざして
・第VII章 差別撤廃闘争の本格的展開‐‐『オール・ロマンス』差別事件と西川県議糾弾の闘い‐‐
・第VIII章 生活をまもりたかめる闘いの重視

特にオール・ロマンス闘争から学ぶところは多いのではないかと感じられました.
  
<石巻川開き祭り>震災犠牲者を悼み灯籠流し
 「石巻川開き祭り」(実行委員会主催)が31日、2日間の日程で石巻市中心部で始まった。旧北上川では夕方、東日本大震災の犠牲者を悼み、鎮魂と復興を祈る灯籠約5000個が浮かべられた。
 満月を幻想的に映す川面に赤、青、緑など色とりどりの淡い光を放ちながら、灯籠は静かに川を下った。訪れた人は見守り、手を合わせた。
 供養花火も打ち上げられた。河北新報社など地方紙7紙が連携し、平和への願いを込めた新潟県長岡市の慰霊花火「白菊」が夜空に白い花を咲かせた。街中では、震災の影響で途絶えていた七夕飾りが5年ぶりに復活、通りを飾った。
 1日はメーン行事の孫兵衛船競漕(きょうそう)の準々決勝、準決勝、決勝がある。花火大会は午後7時半から約6000発が打ち上げられる。


<八戸三社大祭>ヤーレヤーレ、鮮やか山車絵巻
 八戸市の八戸三社大祭が31日開幕した。おはやしと子どもたちの「ヤーレ、ヤーレ」の声が響く中、市中心部で豪華な山車絵巻を繰り広げる。4日まで。
 前夜祭の初日は山車全27台が披露された。呼び物の合同運行は「お通り」の1日が午後3時、2日が午後6時、「お還(かえ)り」の3日が午後3時から。4日の後夜祭は展示が中心になる。祭りは約290年続く国内有数の山車祭り。


<安保法案>被災3県大学教員が反対アピール
 安倍政権が今国会で成立を目指す安全保障関連法案をめぐり、「安保関連法案に反対する被災3県大学教員有志の会」は31日、廃案を求める声明を発表した。有志の会には東北大、岩手大、福島大、東北学院大など16大学から学者103人が参加を表明している。
 声明は、多くの憲法学者が知性と良識に基づいて安保関連法案を違憲としていると指摘。「知性と良識に基づく民主的議論は、被災地復興のための最も重要な社会的源泉。知性と良識を『否決』する安倍政権を断じて認められない」と批判した。
 仙台市青葉区の市民会館で記者会見した有志の会事務局長の郭基煥東北学院大教授(共生社会論)は「被災地は、『これ以上誰も死なないで』と多くの人が祈った場所。だからこそ、われわれは人が人を殺す戦争への道を開く法案を認めない」と訴えた。
 長谷川公一東北大教授(環境社会学)は「戦後70年間、戦争で1発の弾丸も放たなかったことを誇りに思うべきだ」と強調した。
 有志の会は今後、ホームページを通じて全国の市民から賛同の署名を募り、デモや討論会の開催を検討する。


東電元会長ら強制起訴 被災者「当然だ」
 勝俣恒久元会長ら東京電力の旧経営陣3人の強制起訴が決まった31日、福島第1原発の津波対策を怠ったとして刑事責任を追及してきた「福島原発告訴団」や原発の再稼働に反対する団体のメンバーをはじめ、今も避難生活を強いられている被災者からは、検察審査会の決定を「当然だ」と受け止める声が上がった。
 福島県庁で記者会見した告訴団の佐藤和良副団長(61)=いわき市=は「復興を前進させるために事故の原因と責任を特定する必要がある。被害者側に立った賢明な判断をしてくれた」と語った。「市民の声を代弁した」「涙が出るほどうれしい」。同席したメンバーも喜んだ。
 飯舘村から伊達市に避難し、東電に精神的賠償の増額を求めている長谷川健一さん(62)は「これだけの事故を起こした加害者が誰も罰を受けず、誰も責任を取らないのでは法治国家とは言えない」と断じた。
 東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)の再稼働に反対する市民団体の篠原弘典世話人も「検察審査会の議決は当然だ」と評価した。その上で「福島第1原発事故の原因究明ができていない段階で再稼働を急ぐのは間違いだ。今回の議決は、強引に再稼働を進めようとする動きに対する警鐘になる」と強調した。
 一方で、審査会の決定を冷ややかに見る原発事故避難者も。飯舘村から福島市に避難する会社員男性(39)は「一企業の幹部の責任を追及するだけで、果たして国の原発政策が変わるのだろうか」と首をかしげた。
 企業幹部らの責任を追及した強制起訴をめぐっては、JR西日本の歴代3社長が対象になった尼崎JR脱線事故など、無罪の結論が導かれるケースが多い。
 佐藤副団長は検察役の指定弁護士の負担の大きさを指摘し、「弁護士をバックアップする体制を整え、支援したい」と力を込めた。


フクシマは“人災”か 東電元幹部を強制起訴へ
 福島第一原発事故は東京電力が津波対策を怠ったため起きた−。それが検察審査会の結論だった。“人災”だったのか、公の裁判の場で決着をつけたい。
 自然現象に不確実性はある。しかし、原発事故という大災害を招きかねないケースにおいては、「万が一」の事態も事前に想定しておかねばならない。
 十一人の市民で構成する東京第五検察審査会は、そのような極めて常識的な立場にたって、福島第一原発事故を検討したといえよう。検察が「不起訴」判断だったのに、東電元幹部らに刑事責任が問えると、ぎりぎりの判断をしたのも、そうした常識観の反映だとみることができる。
◆大津波の試算があった
 もちろん、「想定外」の事態を扱う場合、その安全対策をどこまで考えておけばいいのか、どのような具体的な条件設定をすればいいのか、難しいポイントは数々ある。検察審査会の市民が重視したのは政府の地震調査研究推進本部の長期評価である。
 二〇〇二年の段階で、マグニチュード(M)8・2クラスの津波地震が発生する可能性があると指摘されていた。〇八年の段階では、長期評価を用い、東電側で明治三陸地震をモデルに試算すると、一五・七メートルもの大津波が押し寄せる−。そんな結果も出していた。巨大津波が来れば、原発は水に覆われてしまう。
 「十メートルの敷地高を超える津波がひとたび来襲した場合には、電源喪失による重大事故が発生する可能性があることは、そのとき既に明らかになっていた」
 検察審査会の議決書では、そう記している。東電元幹部の刑事責任を問うには、まず注意義務違反があったかどうか、重大な事故となる予見可能性があったかどうか、などが焦点になる。市民の感覚は、そのいずれも「あった」と断じるものだった。
◆安全だと「思い込み」が
 そもそも一五・七メートルもの大津波が来るという重大な指摘があったのに、東電側はまるで時間稼ぎをするかのように土木学会に検討を委ね、対策を先送りしていた。
 その点について、検察審査会は「最悪の場合、原発の運転を停止せざるを得ない事態に至り、東電の収支を悪化させることを危惧した」と述べている。
 東電は津波によって非常用海水ポンプが機能を失い、炉心損傷に至る危険性があることや、全電源喪失の危険性があることも分かっていたのではなかろうか。
 「検察審査会は素人判断だ」などと侮ってはならない。国際原子力機関(IAEA)が作成した福島第一原発事故の最終報告書でも、巨大地震や大津波は「想定外」とする東電と国の主張を真っ向から否定しているからだ。
 その報告書では、「『日本の原発は安全』との思い込みにより、関係機関には、安全レベル(向上)に挑もうとしない傾向があった」と明確に記しているのだ。しかも、約二百四十ページにも及ぶ報告書には「思い込み」という言葉を何度も刻み、国や東電の対応のまずさを指摘している。
 原発運転では核分裂を伴う以上、機器の故障や運転ミスだけではなく、地震や津波、洪水などに対しても万全の対策が求められる。それでも対策は突破され、重大事故は起きるものだ。IAEAの報告書はそのような観点にたっている。東電はまさに「思い込み」に陥っていたのではないか。
 ただし、今回の「強制起訴」議決によって、東電元幹部を有罪視するようなことがあってはならない。白黒をはっきりさせるのは、あくまで裁判の場である。
 〇九年に新しい検察審査会の仕組みが出来上がってから、初の強制起訴となった兵庫県明石市の花火大会で起きた歩道橋事故のケースは、時効成立による「免訴」の判決が出た。尼崎JR脱線事故では、JR西日本の歴代三社長は「無罪」判決で、両事件とも最高裁に係属中だ。政治資金規正法をめぐる陸山会事件では、小沢一郎元民主党代表は「無罪」が確定している。
◆法廷で真相に肉薄を
 むしろ、福島第一原発事故のケースでは、当時の東電の幹部たちが、原発事故とどう向き合っていたのか、公の法廷で肉声を聞くことができる。証言や証拠が開示され、われわれ国民の前で明らかにされる意義が極めて大きい。
 少なくとも検察は強制捜査に踏み切ることもなく、業務上過失致死傷罪での刑事訴追について、「想定外だから罪は問えない」と一蹴してしまった。
 「レベル7」の過酷事故は本当に防げなかったのか。天災なのか、人災なのか−、被災者も注視している。真相に肉薄することが、今後の裁判に期待される。


東電元幹部起訴へ 裁判で問う意味はある
 甚大な原発事故を防ぐ手立てを尽くさなかった東京電力元幹部の責任は、刑事事件の法廷で問われるべきだ。福島第1原発事故をめぐり、検察審査会が出した結論である。
 市民から成る審査員11人が「起訴すべきだ」と判断した。2度目の議決により、勝俣恒久元会長と武藤栄、武黒一郎両元副社長の3人が業務上過失致死傷罪で強制起訴される。
 事故の3年前の2008年の時点で、最大15.7メートルの津波が発生するとの試算が出され、3氏はその事実を知ったのに責任者として適切な対応を取らず、重大事故を未然に防止する注意義務を怠った−−。それが起訴議決の理由だ。
 そうした結論に至った理由として、原発事故がひとたび起これば、重大、過酷なものになる危険性に議決書は何度も言及している。その考え方は理解できる。
 議決書は、原発を動かすに当たり、コストよりも安全対策を第一とすべきだと指摘する。海外での原発事故も例にひき、「万が一にも」「まれではあるが」津波が発生した場合に備えるべきだったと強調した。
 とはいえ、個人の刑事責任を問う業務上過失事件の立証に当たっては、「予見できたか」と「回避できたか」が焦点になる。議決書はまず、原発を動かす東電のトップにいた3人の責任を重くとらえた。さらに、3人は立場上、従来の想定を超える津波高の試算について報告を受けていたと認定した。ならば、対策がとれたはずだったと結論づけた。
 3人を不起訴処分にした検察は、試算の精度から「3人が具体的に危険を予見できたとはいえない」と判断したが、議決は「何の説得力も感じられない」と厳しく批判した。
 刑事責任の有無は今後の裁判に委ねられる。ただし、「罪を問うべきだ」と、市民たちが2度にわたり結論づけた意味は重い。
 政府や国会の事故調査委員会が解散し、継続して原因究明を求める声に応えないまま年月が経過する。
 東電関係者の証言なども一部が公開されたに過ぎない。「なぜ、事故は防げなかったのか」。多くの被災者が今も疑問を抱いている。
 3人の公判は事故の原因究明を目的とする場ではないが、証言を通じ被災者の疑問が少しでも明らかになることが期待できる。経営トップだった3人は、東電の中で自らが果たした役割を真摯(しんし)に語ってもらいたい。
 議決は、原発事故に伴う長時間の避難で死亡した入院患者関係者ら福島の被災者の告訴によるものだ。患者は被害者と認定された。多くの被災者が公判を注視する。公判を維持する検察官役の指定弁護士の責任は重い。検察の協力も欠かせない。


東電元幹部強制起訴へ/事故責任の明確化が民意だ
 責任をうやむやにしたままでは、犠牲者や避難者の無念は晴らせない。何よりも、原発事故の失態が繰り返されてしまうのではないか。
 福島第1原発事故について国民の多くが抱く素朴な思いと危機意識が、順当に反映された判断と言えるだろう。
 福島事故をめぐり業務上過失致死傷罪で告訴・告発され、東京地検が2度不起訴とした東京電力の勝俣恒久元会長ら元幹部3人について、検察審査会が「起訴すべきだ」との議決を下した。
 これから強制起訴の手続きが取られ、3人は刑事被告人として法廷の場で刑事責任が追及されることになる。
 強制起訴につながる議決は当初から想定された展開であり、司法手続きの一つの通過点と冷静に受け止める向きもあるが、市民感覚を生かす趣旨の検審制度によって、2度にわたり刑事責任追及を求める議決が下された意味を過小評価してはならない。
 空前の過酷事故はなぜ起きたのか。当時の経営トップは本当に事故を防ぐ対策を取ることはできなかったのか。
 民意が求めているのは、あくまで事前の津波対策を中心にした事故原因の徹底解明と責任の明確化である。そのことをはっきりと示した点で検審議決の意義は大きい。
 災害や大事故に関して個人の刑事責任を問うことは一般的に困難とされている。同じように歴代社長3人が業務上過失致死傷罪で強制起訴された尼崎JR脱線事故の裁判では、一審と二審ともに無罪判決が出ている。
 東電元幹部の捜査でも、検察当局は刑事責任を問う上で要件になる予見可能性と結果回避可能性について、3人の直接的な関わりを具体的に立証することは困難として、不起訴の結論に至った。
 プロの結論を覆すような新証拠がない中で、強制起訴を可能にする検審制度の在り方には「道義的責任と刑事責任を混同している」と疑問の声もあるが、深刻な被害が続く結果の重大性に照らせば、それが広く受け入れられる感覚ではないことも確かだ。
 2008年に社内で「最大15.7メートルの津波が来て、4号機の原子炉周辺は2.6メートル浸水する」という予測を立てていながら、対策に生かさなかった東電の企業体質を国民は注視している。
 やるべきことをやっていれば事故は十分に回避できたのに、目をつぶって無視していたのに等しい状況だった、という議決の厳しい指摘に共感する国民は多いだろう。
 強制起訴後の裁判が3人の刑事責任とともに、事故を防げなかった東電組織の実態に迫り、経営トップの安全軽視の姿勢を検証する場となることを期待する。
 九州電力川内原発1号機(鹿児島県)を先頭に再稼働の動きが加速し、福島事故の風化も懸念される中で、今回の議決が下されたことも重く受け止める必要がある。
 事故原因と責任の所在を明確にすることなしに、教訓に基づいた事故対策の確立はあり得ない。
 福島事故の原点に立ち返ることの大切さをあらためて、この機会にかみしめたい。
Le petit prince
On ne voit bien qu'avec le coeur. L'essentiel est invisible pour les yeux. (Le petit prince)
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