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Certain films ont été bénéficié de soutiens critiques.

批評的な擁護の恩恵に浴する映画もある.

尾道の大和湯です.でも本当は銭湯ではなく,ゆーゆーというカフェだそうです.
NHKテレビでフランス語でmemento mori 死を忘れるな,というのが出てきました.ラテン語なのですが気に入りました.
今日は朝からやる気なしです.夕方に豚足を買いました.英語ではpig's trottersでフランス語ではpied de cochonかな?

2013年5月9日にこれからしばらくお酒は控えたいと思います.と記していましたが,実際は結構飲んでいました.反省.
おつきあいの場合は仕方ないのかもしれませんが,そうでない場合にはなるべく飲まないようにしたいと思います.




毎日新聞
大震災3年:娘奪った海眺め 78歳岸壁に立つのが日課に

 復旧工事が続く岸壁に、船外機付きの新品の小型船が20隻ほど、きれいに並んで浮かんでいた。元漁師の佐々木菊松さん(78)の船は、もうない。それでも、朝、夕と足を運び、海を眺めている。「何をするでもないんだが。暇つぶしかなあ」

 岩手県釜石市の箱崎半島の先端にある白浜漁港。一人娘の智也子(ちやこ)さん(当時44歳)をのみこんだ津波は、愛船「新宝丸」もさらっていった。新調には約170万円かかる。国などから補助も受けられるが、「後継者はいないし、何より娘がいない。船を持っても仕方ない」とあきらめた。

 智也子さんはスーパーの店長だった。逃げ遅れた従業員を助けようと店に引き返し、犠牲になったらしい。2011年5月、私が避難所で初めて佐々木さんと妻鈴子さん(71)に会ってまもなく、遺体が見つかった。智也子さんは「父さんと母さんの面倒は私が見る」と独身を貫いていた。そのお返しということだろうか。葬儀の日、佐々木さんは言った。「これからは仏さん(娘の遺骨)を守るために生きていく」

    ◇

 漁師ばかりの白浜地区で生まれた佐々木さんは、20歳になると当たり前のように漁に出た。北海道・釧路のサケ、マス漁など、20代は大きな船で遠洋漁業に出た。30歳で結婚すると、地元を漁場にウニ、アワビ、ワカメの養殖で生計を立てた。

 先月、2年ぶりに会った佐々木さんは一緒に漁港を歩きながら、「本当なら今ごろ、3月中旬から始まるワカメ漁に向けて間引き作業をやってたな」とぽつりと言った。漁に未練がありそうで、胸の内を聞くと、しばらく黙った後、目を伏せた。

 「母ちゃんが『智也子があんなことになった海に、もう行かないで』って言ったんだ」

 震災から半年もたたないころ、漁協から「持ち主が死亡した船を希望者に安く貸し出す」と聞き、悩んだ。そんな時、鈴子さんから懇願されたという。「確かに、もう年だ」と自分でも納得した。

 親戚の手伝いで時々は海に出ることもあるが、自分の船でないと張り合いがない。「何もやる気が出ない。でも、自分だけじゃないから」。震災後、漁協の組合員のうち3割以上が離職した。ほとんどが船をなくした高齢者だった。

 朝起きると必ず仏壇にお茶を供える。そして考える。「何で親より先に逝ったかなあ」

    ◇

 自宅の居間に手のひら大の鉄製の器具が飾ってあった。若い頃、ウニの大きさを測るのに使ったという。手に取り思い出を語った。

 ウニ漁ではな、舟の上から海ん中さのぞき、ゆっくり獲物に近づくんだ。「前、前」。かいをこぐ母ちゃんに声さ掛ける。毎年変わる漁場を探しあてんのは、そりゃ長年のカンよ。

 鈴子さんが横で時々相づちを打った。佐々木さんは少し興奮してきたようだった。「釜石のウニは日本一」。うれしそうに繰り返した。【黒田阿紗子】

毎日新聞
わが子よ:東日本大震災3年 スーツの破れ、あの日の痛み

 岩手県陸前高田市で、長男の寛(ひろし)さん(当時24歳)を失った村上智子さん(53)。

 あの日、寛さんが着ていたスーツが仏前に掛けてある。折り目はきっちりだが、所々破れている。「がれきにもまれた時の痛みが分かるような気がして」

 市職員だった寛さんは役場周辺で避難誘導に立ち、さらに消防団の活動に向かおうとして逃げ遅れた。「責任感が強い子に育ってくれてありがとう」と思う半面、「先に逃げてくれれば、生きていたのに」と声が震えた。智子さんは手首に巻いた、息子の数珠に触れた。【写真・文 小川昌宏】

毎日新聞
東日本大震災3年:原発事故被災の福島・双葉郡 学校存続、正念場 小中学生、震災前の1割

 東京電力福島第1原発事故で被災した福島県双葉郡(8町村)の学校が存廃問題の正念場を迎えている。全国各地に避難した子供たちの帰還は進まず、小中学校の児童生徒数は震災前の1割程度。もしも廃校になれば、子供がいる世帯はますます戻れなくなり、自治体そのものの存続危機に直結する。地元では、県立の中高一貫校を開設しようと郡を挙げて取り組むが、年月とともに、被災者は避難先で生活を定着させ、子供の「ふるさと喪失」は既成事実化しつつある。【蓬田正志、中尾卓英、福田隆】

 今春、双葉郡内で三つの超小規模校が授業を始める。児童生徒数の回復が見通せない中で、あえて再開するのは、学校が地域社会存続への「意思表示」になるからだ。

 震災後、約200キロ離れた埼玉県加須(かぞ)市に多くの町民が役場ごと避難した双葉町。今年4月、町立小中学校がいわき市内で再開する。児童生徒数は小学校4人、中学校4人の計8人。震災前は計551人が学んでいた。それでも、さまざまな事情で避難先から帰還する子供たちの受け皿となる。

 原発作業員で広野町に単身赴任していた男性(41)は、新潟県内に避難中の家族をいわき市内に呼び戻し、長男(10)を再開される双葉北小に通わせる。長男は避難先で不登校になっていた。男性は「何らかの行動を起こさなければいけなかった。人数の多い学校で切磋琢磨(せっさたくま)してほしい気持ちもあるが、少人数教育で勉強の遅れを取り戻してほしい」と期待する。被災地では、避難先になじめず、いじめや不登校に悩んで帰還する子供も多い。事情を知る地元教師のケアは命綱だ。

 もう一つの象徴は浪江町だ。浪江町は避難先の二本松市内で2011年8月、震災前にあった小学校6校、中学校3校を事実上統合して1校ずつ再開した。当時の小学生は28人、中学生33人で、震災前のわずか3%。今年度も小中合わせて58人とほぼ変化がない。だが、その校舎に今春、新たに町立津島小が復活し、小2、小5、小6となる3兄弟を迎えることになった。

 畠山熙一郎・浪江町教育長は「全校をできる限り再開したいと思っていた。このままでは元の学校にどんどん戻りづらくなる」。地元に戻ってくる家庭があれば、超小規模校でも看板を掲げ続ける意義があるのだ。

 それでも、現実はあまりに厳しい。三春町内の工場施設を改修して町立4小中学校と幼稚園を開いた富岡町。震災から半年後の再開だったが、それでも町民からは「遅い」と批判された。小中計4校の合計児童生徒数は64人。ただし、小学校2校の来年度新入生の見込みはゼロ。同じく三春町内の廃校を活用して昨年4月に小中学校を再開させた葛尾村では、小学校の来年度の入学予定者がいない。12年4月にいわき市内で学校を再開させ、約2割の児童生徒が戻るほど順調な回復ぶりを見せていた楢葉町でも、来年度入学の小中学生は計33人で、卒業生計37人を下回る見込みだ。

 会津若松市教委の全面協力で、同市内に震災1カ月後に学校を再開させ、初期対応が最もうまくいった大熊町では、昨年ごろから、元の住まいに近いいわき市に転出する家庭が増えた。慣れない土地での生活や仕事、先の見えない生活に、我慢の限界を超えたのだ。小学2校と中学1校の合計人数は、今年度の284人から来年度は197人に激減する。武内敏英・大熊町教育長は「初期対応としては、学校を再開して町民を引っ張っていく方法は正解だったが、日がたつと、親の働き先があるところに引っ越してしまう。学校だけでなく、保護者の雇用創出もセットで進めるべきだった」と悔やむ。
 ◇中高一貫校を構想 地元帰還、呼び水に−−郡教育長会

 子供を持つ世帯にとっては、区域外就学として通う避難先自治体の学校に慣れたこと、極度の小規模化など、地元への帰還を敬遠する理由は山ほどある。活路はあるのか。かぎを握るのは、双葉郡教育長会が昨年7月に策定した教育復興ビジョンに盛り込まれた「県立中高一貫校構想」だ。

 現在、双葉郡の教育長や県教委、文部科学省らで作る同ビジョン推進協議会で内容を練っている。2月27日に開かれた第4回会合では「子供たちは、大人でも答えを出せないような難しい課題に取り組むことになる。その挑戦自体が、生きる力につながるはずだ」「教育の土台である地域が破壊されてしまった。そこから立て直さなくてはならない」など、白熱した議論が3時間に及んだ。

 協議会メンバーが可能性を実感したのは、今年1〜2月に実施した島根県隠岐諸島の島前地区への視察だ。同地区にある県立隠岐島前高校は島外からの生徒を集めるため、寮を完備。徹底した地域連携のカリキュラムと難関大合格も可能とするコース設定で、教育を軸とした地域おこしの成功例として知られている。極端な過疎・高齢化を克服した現場を目の当たりにし、一行は「双葉でもできるかもしれない」と興奮した。

 中高一貫校の高校部分は、進学、就職、スポーツなどの選択肢を備える総合学科として3クラス(約120人想定)で15年度にスタートの予定だ。校舎は広野町内に構え、整備費は国が負担する。中学は、既存中学の活用による連携型を主張する県教委と、新しく高校に隣接して建設する併設型を求める双葉郡側で意見の違いがあり、協議中だ。また、郡内町村の小中学校や中高一貫校に通う子供たち全員を対象とする共通カリキュラム「ふるさと創造学」を編成、小中学校では来年度から開始するという。

 一貫校設置に伴い、現在サテライト校舎で運営されている既存の県立5高校(浪江、浪江・津島校、双葉、双葉翔陽、富岡)は募集停止となる。構想が実現しなければ、結果的に5高校を統廃合しただけとなる恐れもある。現在、双葉高に次女を通わせている母親は「地元の意見を反映した計画にしないと、大学に何人進学したかという尺度で測られ、みんな双葉郡、福島から出ていってしまうのでは」と危惧する。

 双葉郡教育長会長でもある大熊町の武内教育長は「このビジョンを実現させないと双葉郡の将来はない」と危機感を募らせる。双葉郡の教育を包括的に扱う事務局を法人化し、世界に向けた情報発信も始めるなど、背水の陣で臨む覚悟だ。

朝日新聞
(この一歩)花束買って家にかえろう 役場勤め上げたら

 仏壇の前で畳に両手をつき、体を折り曲げて深々と頭を下げる。3秒ぐらいか、5秒だったろうか。

 3月いっぱいで宮城・南三陸町役場を退職する元総務課長、佐藤徳憲(とくのり)さん(63)は、ざらついた畳の感触が忘れられない。

 震災の年の初秋の話だ。

 「無事にご家族をお返しできず、大変申し訳ございません」

 仏壇には、ほほえむ部下の遺影と骨つぼ。罵声が飛んだ。「高台さ、なして逃がさなかった!」。50代の遺族のうめき声が続く。「なあ、うちの子、返してくれよぉ」

 津波で犠牲になった職員36人の遺族のもとを一軒ずつ、佐藤仁(じん)町長(62)とふたりで弔問した。同級生で役場のバレー部の仲間だった同僚課長、結婚式で司会をした女性職員……。

 秋も深まったころ、いつもは町長に向かう遺族の矛先が隣の佐藤さんに向いた。「うちの人さ逃げろって言わねで、自分の女房には言うのか」。インターネット上でも見ず知らずの人から「職務放棄じゃないか」と書かれていた。

 佐藤さんと20代の頃から友人の町長は、そばにいて胸が苦しくなった。「徳さんは何も反論せず、黙って聞いてんだ。で、夜に一緒に飲んだら、泣くんだ」

     ◇

 退職の日が20日後に迫っていた。

 2011年3月11日。佐藤さんは議場で震度6弱の揺れに襲われた。急いで役場裏の自宅へ。防寒着と携帯ラジオを手に取り、「おい、はやく逃げろよっ」。2階にいた妻節子さん(当時63)に声をかけた。「2階なら大丈夫よ」。背中で妻の声を聞き、町危機管理課が入る防災対策庁舎に走った。

 約40分後、津波が街を襲った。屋上に駆け上がった。25年間、暮らした家が目の前で真っ二つに割れ、波にさらわれていく。絶叫した。

 「せつこぉぉーーー」

 波は、庁舎を丸ごとのみ込んだ。気づくと、屋上に避難した54人のうち、残っていたのは佐藤さんと町長ら10人だけだった。

 町長に請われ、4月以降も総務課長を続投することに。行く手に待っていたのは、容赦ない混乱だった。

 仮役場の設置、窓口業務の再開、職員の確保……。当たり前の日常を取り戻したい。1年間、一日も休まなかった。私情は封印した。役場人生で染みついた習性でもあった。

 2年目の春、妻の遺体が県警のDNA型鑑定でわかった。「退職したら2匹の犬と一緒に旅行にいこう」。そう約束していた節子さんは小さな骨つぼに入っていた。ふたを開ける気になれなかった。

     ◇

 高台では山を切って宅地が造られ、浸水した市街地ではがれきが撤去され、盛り土が進む。

 町内に再建された式場で昨年11月、次男弦(ゆづる)さん(33)が結婚式を挙げた。佐藤さんの隣の席に、節子さんの遺影も置いた。

 余興で、丸っこい体を揺らして近づく町長に遺影をふんだくられた。町長は佐藤さんに差し向けながら、長渕剛の「しあわせになろうよ」を歌ってくれた。

 〈初めて出会った場所に も一度戻ってみよう〉

 節子さんは、初めての配属先の先輩だった。歓迎会で妙に気が合った。解散後、「漁港まで歩きませんか」と誘った。佐藤さん、18歳。節子さん、21歳。交際が始まり、3年後に結婚。2男1女を授かった。

 出張時には、同行する部下の弁当まで作ってくれたっけ。よく一緒に、海岸まで愛犬の散歩に行ったっけ――。我慢していたのに、また泣いた。

 今年1月、「あとはやりますよ」と町長が言ってくれた。震災前は我が家での一杯が生きがいだった。いまは町の変化がよろこびだ。復興の現場で、奮闘する部下たちも心強い。思い残すことはない。

 姉と暮らす高台の中古物件の自室に、友人たちから分けてもらった妻の写真を8枚はった。妻も好きだった時代小説を本棚にもう一度、買いそろえた。

 3年前、退職したら妻にバラを贈ろうと思っていた。言いそびれた「ありがとう」。今度こそ、花束を買って家にかえろう。(伊藤喜之)

     ◇

 新たな一歩を踏み出した人、踏み出そうとしている人がいる。この一歩がなお遠い人もいる。震災から11日で3年。被災地で取材を重ねる記者たちが訪ねた。


朝日新聞
(いま伝えたい)俺が船に乗る姿、待ち望んでいるはず

 ■「千人の声」2014

 港の岸壁を打ち砕く黒い濁流。妻の「お父さーん」の声が今も耳に残る。

 福島県相馬市の漁師、佐藤弘行さん(58)が、自宅のがれきの下から見つけた妻けい子さん(当時51)の遺体は「まるで眠っているようだった」。

 漁をやめようと思った。「この仕事は母ちゃんの支えや力なくしてはできないから」。だが思い直した。病気で漁に出られない時も、妻が懸命に看病してくれたおかげで海に戻れた。「女房は俺がまた船に乗る姿を待ち望んでいるはず」

 昨年6月から相馬双葉漁業協同組合長を務める。震災前、季節を通じて100種を超える魚を取り、東北有数の水揚げを誇った松川浦漁港。津波で漁協の組合員101人が亡くなった。3年たった今、岸壁の復旧や市場の土台作りが進むが、本格操業再開のめどはたたない。

 佐藤さんは「賠償金をもらって生活はできるけど、復興はできない。じっとしていても浜は守れない」と組合員らに言い聞かせる。

 一昨年6月にミズダコなど3種で始めた試験操業は30種を超えた。国より厳しい基準でモニタリング検査し、東京や名古屋に出荷する。

 だが、東京電力福島第一原発の放射能汚染水漏れが発覚した昨年7月には、名古屋の卸関係者から「値段がつかない」と言われ、一時出荷を止めた。震災前に年間45億円あった港の水揚げは今、1億円に満たない。

 それでも、佐藤さんの一人息子の泰弘さん(23)は昨年、「おやじの手伝いをしたい」と消防士をやめて漁に出始めた。船酔いと格闘しながら仕事を覚える息子の姿に「若い漁師たちが生計をたてられるようにしなければ」と佐藤さん。「魚の仕分けを手伝う漁師の妻たちでにぎわう、港の風景を取り戻したい」

     ◇

 福島県いわき市の魚仲買人、熊木敏男さん(65)は昨年10月、「いわき仲買組合」(27社)を代表して、いわきの魚をPRするため、東京・築地の取引先を訪ねた。汚染水漏れなどで福島産の魚に対する懸念が広がっていた時期。「何しに来た」「まだ早いんじゃないか」との反応に厳しい現実を思い知らされた。

 だがあきらめない。今月中旬から、震災後初めて、いわきの白魚を築地に出荷する。「試験操業で取れた魚は全て検査済み。組合の連絡先を記したラベルを貼り、安全性を訴えたい」

 いわきの白魚は震災前、市場で1キロ6千円の値がついたブランド品。だが、今も築地の取引先は「福島県産と表示したら難しいよ」と言う。熊木さんは「値段は二の次だ。アピールしなければ、本当にいわきの魚が廃れてしまう。いわきの魚を残す、大義の問題だ」。

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