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Japon : neuf morts dans un crash d'hélicoptère en montagne
L'appareil transportait des secouristes en exercice dans la montagne Hachibuse.
Neuf personnes ont été tuées dans l'accident d'un hélicoptère qui s'est écrasé dimanche au Japon lors d'un exercice de sauvetage en montagne. L'appareil transportait sept pompiers, outre le pilote et un mécanicien, selon l'agence de presse Kyodo. Six corps ont été trouvés vers 8 heures (locales) sous l'épave de l'appareil, a déclaré un porte-parole de la police. Le décès des trois autres, dont le pilote, a été confirmé dimanche. L'accident s'est déroulé dans le secteur du Mont Hachibuse, dans la préfecture de Nagano (centre-nord du Japon).
Les secouristes ont dû suspendre en fin de journée leurs recherches en raison des mauvaises conditions météorologiques. Le gouvernement va envoyer des enquêteurs sur les lieux du drame pour déterminer la cause de l'accident, a rapporté la chaîne publique NHK qui a diffusé des images de l'hélicoptère, fortement endommagé sur la montagne enneigée. La chaîne NHK affirme que l'appareil, un hélicoptère Bell 412 EP, avait été inspecté en février. Aucune anomalie n'avait été décelée.
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神戸開港150年!元町のおすすめスポットを観光大使が案内▽中華の老舗の絶品フカヒレ姿煮炒飯▽中国茶専門店のキレイでおいしい花が咲くお茶▽限定開運グッズ
▽西川きよし、黒田有(メッセンジャー)、島田珠代、柴田博、小寺右子(ABCアナウンサー)ほか
http://www.asahi.co.jp/heehoo/


宅急便でいろいろ送るのに昨日買ったきたダンボールで適当に梱包してコンビニに持っていきました.2軒目でいろいろ教えてもらって結局2軒目のコンビニから送ることにしました.額ぶちのほかにお菓子も送ることにしました.仙台まで送るのですが,夕方まで近くの宅急便のセンターに保管になっていました.夜になってやっと仙台に向けて発送になったみたいでとりあえず安心しました.

<震災6年>サーファーら海へ悲しみ寄せて
 宮城県気仙沼市本吉町の小泉海岸で5日、宮城、岩手両県のサーファーらが集い、東日本大震災の犠牲者の慰霊祭を行った。
 気仙沼市本吉町のサーフショップ「かぶとむし」と気仙沼本吉サーフィンクラブが呼び掛け、約30人が参加。1人ずつ献花台に花を手向け、全員で海へ向かって黙とうをささげた。
 クラブ副会長を務める南三陸町歌津の堀内一人(かずひと)さん(51)は、津波で親戚7人が犠牲になり、仲が良かった母方の叔父が見つかっていない。「家族同然の付き合いだった。毎年、3月11日が近づいてくるといつもより多く思い出がよみがえる」と目を伏せる。
 4月に仮設住宅から再建した自宅に家族5人で引っ越す。「暮らしや地域が安定すれば、故人の記憶をかみしめる時間も増える」と話した。11日にも同市本吉町登米沢海岸で慰霊祭と海岸清掃を行う。


<震災6年 まち再生>「職住分離」どう集客
 東日本大震災の津波被害を受けた岩手、宮城、福島の被災3県の沿岸部は、まち再生の取り組みが正念場を迎えている。中心市街地を造り直す大規模な土地区画整理事業は道半ば。現地再建への戸惑い、廃業の危機、地域格差など課題は山積する。震災から6年を迎える被災地の今を追う。
◎正念場迎える被災地(4)宮城県南三陸
 夜間人口ゼロ−。宮城県南三陸町志津川地区で行われる土地区画整理事業は、住む人を想定しない異例のまち再生だ。
<商環境一変>
 東日本大震災の津波で同町志津川の中心市街地は壊滅し、町全体で800人以上が犠牲になった。「二度と命を失わない町にする」。佐藤仁町長が選んだのは住まいを高台に移す「職住分離」だった。
 志津川地区を貫く八幡川の両岸には高さ8.7メートルの河川堤防を整備。残った低地部は約10メートルかさ上げし、住宅が建てられない災害危険区域に指定した。
 60ヘクタールに及ぶ区画整理事業地内で3日、28店舗が入る「南三陸志津川さんさん商店街」が、いち早くオープンした。周囲には住宅がない。商店街にいかに人を集めるか。課題は大きい。
 かまぼこ店を出店した及川善祐さん(63)は2月、商店街に近い高台の防災集団移転団地に自宅を再建した。4月には約4キロ内陸に工場を開設する。震災前、及川さんの自宅は志津川の中心市街地にあり、店と工場も隣接する「職住一体」。「震災前は商売と生活が一体で、客もほとんどは地元だった」と振り返る。
 震災は南三陸の従来の商環境を一変させた。本設に先立ち、33店舗が集った仮設商店街は図らずも知名度が高まり、国内外からボランティアや観光客が年間40万人も押し寄せ、地域経済を支えた。一方、町の人口は現在約1万2000。震災前より30%も減った。
 及川さんは「地場の購買力は落ちる。質の良い商品を作り、これからも『外貨』を獲得しなければ生き残れない」とみる。
<集いの場に>
 「被災地支援で訪れる来場客は、いずれ少なくなる」。危機感を抱くのは商店街を運営するまちづくり会社「南三陸まちづくり未来」社長三浦洋昭さん(58)。阪神大震災で被災した神戸市長田区にある大正筋商店街振興組合の前理事長伊東正和さん(68)から何度も助言を受けた。「仮設から本設に移ってから本当の苦労が始まる」と。
 さんさん商店街の建設事業費は7億円。そのうち2億円をまちづくり会社が負担する。各店が店舗面積に応じて支払う月5万〜20万円のテナント料を元に、10年かけて返済する。10年以内に商店街から撤退すると、会社への出資金は返ってこない。華やかなスタートの裏には厳しさが伴う。
 「堅く、堅く経営しなければならない」。三浦さんは自らに言い聞かせながら、地元住民の集客策を今も模索する。
 今夏、区画整理地内には大型スーパーが開業する。地元客を取りこぼさないよう商店街には産地直売所を入れた。盆踊りや朝市といった住民が大切にしてきた行事も実施し、町民の集いの場にする考えだ。
 3日の開業日に神戸市から駆け付けた伊東さんは言う。「本設になった今、商店街の原点に立ち返らないといけない。地元のお客さんとどう向き合うかだ」
(南三陸支局・古賀佑美)


<震災6年>NYとロス追悼「一緒に進もう」
 【ニューヨーク、ロサンゼルス共同】東日本大震災から11日で6年となるのを前に、米ニューヨークとロサンゼルスで5日、犠牲者の追悼式典が開かれた。日本人や日系人らが集い、被災地に向けて「一緒に前へ進もう」と呼び掛けた。
 ニューヨーク中心部マンハッタンの教会で開かれた式典では、高橋礼一郎駐ニューヨーク総領事の呼び掛けで約400人の参加者が黙とうした。
 被災地からは福島県浪江町の伝統工芸品「大堀相馬焼」の窯元の家に生まれ、大堀相馬焼の普及に取り組む松永武士さん(28)が参加した。


<震災6年>陸前高田の復興祈念公園着工
 東日本大震災の犠牲者を追悼し、教訓を後世に伝えるため、国と岩手県、陸前高田市が5日、同市沿岸部の高田松原津波復興祈念公園整備に着手した。2020年度の完成を目指す。公園の整備を予定する岩手、宮城、福島各県で、着工は初めて。
 公園全体は約130ヘクタールで、総事業費は約100億円を見込む。自然災害史上初となる10ヘクタールの国営追悼・祈念施設(仮称)には、式典も行える築山に囲まれた広場などを設ける。県の震災津波伝承施設、市の物販施設などが入る道の駅、市の運動施設も整備する。
 いずれも公園内にある震災遺構で、津波に唯一耐えた「奇跡の一本松」は国の管理となる。旧道の駅、気仙中、定住促進住宅は、市と公園を運営する県が保存・管理方法を検討する。
 5日は公園整備地で起工式があり、国土交通省の田中良生副大臣が「三陸沿岸のゲートウエーとして、津波防災文化を国内外に発信する」とあいさつした。
 宮城県内は石巻市に整備し、19日に着工予定。福島県は事業構想を策定中。


<震災6年>被災地の未来奏でるステップ
 仙台市青葉区の市青年文化センターで10〜12日に開かれる「東北タップダンス&アートフェスティバル2017 TAP INTO THE LIGHT」で市民ダンサーがステージに立つ。熊谷和徳さん(39)=仙台市出身=ら国内外のトップダンサーと共演する。
 初開催のイベントは市市民文化事業団などが主催。「東日本大震災が起きた東北でタップのリズムを奏で、未来の光につなげたい」との思いを込め、熊谷さんが総合演出を担当する。
 市民ダンサーは、熊谷さんが2007年から市内で続けるワークショップの受講生たち。6歳から70代までの男女約40人が最終日のオープニングを飾り、タップの定番曲やクラシック音楽に合わせて踊る。
 映画を見てタップに興味を持ち、プロを目指す仙台市小松島小6年の佐藤梨音(りお)さん(12)は「憧れのダンサーと一緒の舞台に上がれると思うと夢のよう」と練習に熱を入れる。
 10日(午後7時から)は熊谷さんと音楽評論家ピーター・バラカンさんの対談などで入場料1000円。11日(午後5時から)は米国タップ界の大御所テッド・ルイス・リービーらが出演する。入場料は3500円(18歳以下は身分証提示で当日1000円返金)。
 12日(午後4時から)は閉幕パーティーなどで入場料1000円。3日間の通し券は4000円。未就学児はいずれも無料。期間中、ダンスやドラムなどのワークショップ(別料金)もある。連絡先は市市民文化事業団事業課022(301)7405。


<震災6年>七回忌「ずっと帰り待っている」
 東日本大震災から6年になるのを前に、震災時に避難所として300人以上を受け入れた宮城県気仙沼市本吉町寺沢の仙翁(せんのう)寺で5日、震災殉難・物故者合同七回忌法要が営まれた。
 犠牲者69人の遺族約120人が参列。本堂で手を合わせて犠牲者の冥福を祈った。観音像を納める「萬手(まんじゅ)堂」の落慶法要もあった。
 参列した同市南郷の斎藤ちよ子さん(68)は、南三陸町職員だった次男康志さん=当時(36)=が行方不明のまま。墓にはへその緒を入れたという。「私とのつながりの証しだから。ずっと帰りを待っている」と目頭を押さえた。
 康志さんの2人の息子のうち、震災直後に生まれた子は今春に幼稚園の年長組に入るという。「子どもたちの成長を見守ってほしい」と手を合わせた。
 祖父を亡くした気仙沼市本吉町後田の自営業遠藤公貴(まさたか)さん(36)は、帰郷して2015年に自動車板金塗装業を興した。「祖父は無口でがんこだったが、名前を付けてもらった。思いを胸に古里の復興に尽くしたい」と語った。


<震災6年>サーファーら海へ悲しみ寄せて
 宮城県気仙沼市本吉町の小泉海岸で5日、宮城、岩手両県のサーファーらが集い、東日本大震災の犠牲者の慰霊祭を行った。
 気仙沼市本吉町のサーフショップ「かぶとむし」と気仙沼本吉サーフィンクラブが呼び掛け、約30人が参加。1人ずつ献花台に花を手向け、全員で海へ向かって黙とうをささげた。
 クラブ副会長を務める南三陸町歌津の堀内一人(かずひと)さん(51)は、津波で親戚7人が犠牲になり、仲が良かった母方の叔父が見つかっていない。「家族同然の付き合いだった。毎年、3月11日が近づいてくるといつもより多く思い出がよみがえる」と目を伏せる。
 4月に仮設住宅から再建した自宅に家族5人で引っ越す。「暮らしや地域が安定すれば、故人の記憶をかみしめる時間も増える」と話した。11日にも同市本吉町登米沢海岸で慰霊祭と海岸清掃を行う。


<3.11明日への証言>自分の役割果たすだけ
 震災から月日が流れた。あの日あったこと、明かせずにいた思い。6年がたつ今だからこそ、記憶が薄れる前に、伝えたい「あの日」を振り返り、明日へつなげよう。
 東日本大震災時、岩手県大槌町の大槌高には近隣住民ら約500人が身を寄せた。毛布や灯油は不足し、幹線道路は津波で寸断され、電話も通じない。釜石市の板金業佐々木励(つとむ)さん(35)は同校教諭だった妻絵梨子さん(39)の安否を気遣い、学校に駆け付けた。その後、車で二つの峠を越え、内陸の遠野市に救援を要請した。
◎震災6年(2)救援求め峠越え遠野へ(岩手・大槌町)
<沿岸道路は寸断>
 真っ暗な峠をひた走る。車のライトが照らすのは、急勾配と曲がりくねった道。新雪が積もった路面は幸い、凍っていなかった。
 2011年3月12日未明。励さんは、岩手県大槌町の大槌高から車で遠野市を目指した。津波で海沿いの道路はずたずた。土坂、立丸の二つの峠を越える道だけが生きていた。
 11日午前。励さんは絵梨子さんと県立釜石病院にいた。結婚4年目で待望の妊娠を告げられた。夜に実家でお祝いすることを決め、それぞれ仕事に出掛けた。
 大地震の後、大津波警報が発表された。「校舎は高台なので安全だ」と考えていたが、少しずつ不安が増す。電話はつながらない。様子を見に行こうと、午後7時半ごろ家を出た。
 沿岸部を南北に走る国道45号は使えない。内陸を大回りする遠野経由で向かう。3時間ほどで同校の手前約800メートルの地点に着いた。警察や消防に「車はこの先通れない」と止められた。
<物資が足りない>
 東の空が明るく、爆発音が聞こえる。市街地を襲った火災だ。長靴に履き替えて歩き始めた。あちこちに車や丸太が転がり、山際には船が漂着している。
 校舎にたどり着き、やっと絵梨子さんに会えた。保健室でずぶぬれの女性の体を温めるなど対応に追われていた。職員は約20人。近くの小学校教諭らも加わったが、人手は足りない。連れ帰るのは諦めた。
 「毛布も灯油も不足している。釜石市役所に助けを求めてくれ」。戻ろうとすると校長らに頼まれた。
 ラジオは大槌町役場への連絡が取れないと報じていた。「道がつながっている遠野市に必ず伝えます」と応じた。
 峠越えの約60キロの道のりを走り出した。「釜石の人間の話を聞いてもらえるだろうか。遠野市長に直接会いたいが、顔も分からない」。内心は不安でたまらなかった。
 12日午前1時39分。迎え入れられた遠野市の災害対策本部で訴えた。「大槌は悲惨な状態。大槌高に500人が避難している。助けてほしい」
 通信途絶で各地の被災状況が不明で、必要な支援も分からない中にもたらされた貴重な情報。市はすぐに毛布250枚や灯油90リットル、食料を持った先遣隊を出した。峠道は凍結していた。
 早朝、遠野から大槌高に物資が到着した。絵梨子さんは安心すると同時に夫を誇らしく思った。数日後ようやく帰宅した際、2人は「届いたか」「届いた」と言葉を交わした。
<みんなのために>
 あれから6年がたつ。普段は当時の行動を思い出すことはない。
 励さんは「あの夜は生徒たちも一生懸命、避難所の運営を手伝っていた。妻やみんなのために自分の役割を果たす。それだけだった」と振り返る。
 11年秋に誕生した長女には、竹のように丈夫にしなやかに育ってほしいとの願いを込め、篠(しの)と名付けた。5歳になった。(釜石支局・東野滋)


<私の一歩>かまぼこの街 再生誓う
 震災からもうすぐ6年。さまざまな形で自分の一歩を踏み出した人たちの今を取材した。
◎震災6年(5)直江僚大さん=塩釜市=
<自信作が最高賞>
 昨年7月、塩釜市北浜にオープンした店舗にトロフィーが置いてある。「農林水産大臣賞」。2015年の全国蒲鉾(かまぼこ)品評会で、自社製品の「おとうふかまぼこ 竹の子」が最高賞に選ばれた。
 「タケノコと三つ葉を練り込んだ自信作。従業員と力を合わせて開発したので、受賞は本当にうれしかった」。かまぼこ製造販売「直江商店」(塩釜市)社長の直江僚大(ともひろ)さん(34)にとって、「竹の子」は自分たちの復興を象徴する商品になった。
 11年3月、北浜地区にあった工場と店舗兼住居は東日本大震災の津波で破壊され、がれきで埋まった。当時、社長だった父親は惨状を目の当たりにして「再建は難しい」と言った。従業員を解雇し、廃業が現実味を帯びた。
 6月に入ると、常務だった直江さんの携帯電話が盛んに鳴るようになった。会社の代表電話からの転送で「中元商品を注文したい」と1日20〜30件かかってきた。ほとんどが被災したことを知らない県外の顧客。「再開したら連絡してほしい」と励まされた。500通を超える手紙も届いた。
<顧客の声 励みに>
 「やろう」。顧客の激励の言葉に背中を押され、再建を決意。20代の若さで父親から経営を引き継いだ。顧客情報が残っていたことも幸いし、被災状況や再建の見通しをダイレクトメールで客に送った。グループ化補助金を活用し、震災前と同じ北浜地区に工場を建設。12年6月、出荷にこぎ着けた。
 真新しい工場で初めてかまぼこが出来上がった瞬間を鮮明に覚えている。熱々を紙に包んで頬張った。「本当に再開できる」。実感が口の中で広がった。
 工場と店舗のある場所は目の前に塩釜港が広がり、約5ヘクタールに及ぶ土地区画整理事業が進む。周囲の宅地はほとんど更地で、新たな市街地の姿はまだ見えない。
 かまぼこ業界は震災で失った販路の回復に苦しむ。通販主体の直江商店も売り上げは震災前の8割程度。全国有数の生産地だった宮城県の都道府県別生産量は5位(15年)と低迷する。
 街の復興も、業界の復興も、胸突き八丁に差し掛かる。「塩釜ブランドを前に出し『かまぼこの街』の再生を目指したい」。直江さんは言葉に力を込めた。(塩釜支局・山野公寛)


<あなたに伝えたい>仲間と支え合って前へ
 川上和子さん=当時(66)=、大内真弓さん=同(43)=、龍さん=同(14)=、聖(たから)さん=同(13)=は、 和子さんと夫由夫さん(78)、雄のビーグル犬トワは海に近い東松島市大曲浜で暮らしていた。長女の真弓さんと孫の龍さん、聖さんは東日本大震災発生後、市の内陸部から車で大曲浜へ。車で避難中に津波に襲われ、九死に一生を得た由夫さんとトワ以外の4人が犠牲になった。
◎七回忌に寄せて(6)人が良かった妻、優しかった娘、孫/川上由夫さん(東松島市)から和子さん、大内真弓さん、龍さん、聖さんへ
 由夫さん 3月11日を忘れて復興はあり得ません。東松島市の防災集団移転団地のあおい地区に建てた家でトワと生活し、親子のように布団で寝ています。見守ってくれてありがとう、と家族の仏壇に手を合わせ、週1回は市内の清泰寺にある墓へ行きます。
 夢中だった震災直後より、冷静な今の方が悲しい。もっと優しくしておけばよかったと悔やみ、「助けて!」と津波に流されていく龍の姿が目に浮かびます。
 あの日は地震発生後、私たちのことを心配した真弓が、中学生の龍と聖を車に乗せて迎えに来ました。女房は私に「トワを乗せて行きなさい」と言いました。これが別れの言葉です。
 私の車は前が水に沈む形で浮かび、約1キロ内陸まで流されました。車内でトワを抱っこしながら一晩過ごしました。トワは命を救ってくれた大切な存在です。
 家族4人が犠牲となり、私は「死にたい」と思いました。清泰寺を訪ね、住職夫婦に気持ちを伝えたら「亡くなった人を供養するのが生き残ったあなたの役目だよ」と諭されました。
 女房は人が良かった。20代で結婚し2人の娘を授かりました。一緒に鳴子や秋田の温泉へ行きましたね。真弓は気持ちが優しかった。龍はテニス部で頑張って面倒見が良く、聖は目立ちたがり屋で明るかった。
 仮設住宅でふさぎ込んでいた頃から、ボランティアの皆さんに支えられています。私のことを「お父さん」と呼び、毎日のようにメールをくれる人もいます。生きる力を与えてくれたことに感謝し、家に無料で泊まってもらっています。
 家族4人を失った大曲浜出身の歌手らと共にコンサートを開き、あおい地区では「ペットクラブ」などで仲間とつながっています。みんなで支え合いながら前へ進んでいきたいです。


<気仙沼大島大橋>巨大アーチ 架設に着手
 宮城県は5日、気仙沼市の離島・大島と本土をつなぐアーチ橋「気仙沼大島大橋」(長さ356メートル)の架橋作業を始めた。東日本大震災の復興事業で、初日は橋の一部を設置した。
 長さ約40メートル、重さ約250トンの橋をクレーン船でつり上げ、未明に朝日埠頭(ふとう)から2キロ離れた架設地点の三ノ浜地区まで約1時間かけて運搬。「風も波もなく天候に恵まれた」(県)ため作業は順調に進み、午前10時に架設を終えた。
 付近には、多くの市民がカメラを手に訪れた。大工吉田一豊さん(74)は「一生に一度、見ることができるかどうかの大事業。完成が楽しみだ」と話した。
 大橋は橋脚間の長さが297メートルで、アーチ橋としては東日本最長。今後の作業は12、19、20、26日の予定で、橋の中心部(228メートル)を架ける26日には県主催の見学会も開催される。応募は8日まで。
 事業は大島の浦の浜地区と本土側の国道45号を結ぶ8.0キロで、県は2019年3月までに完成させるという。


<回顧3.11証言>施設を開放 災害拠点に
 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市で、建物や設備への被害が比較的少なかった石巻専修大は震災直後から、災害対応の最前線拠点として役割を果たしてきた。避難してきた多くの市民を収容する一方、ヘリポートや救護所、ボランティアセンターが相次いで開設された。未曽有の事態への対処を迫られた教職員や学生たちは、戸惑いながらも全力で運営を支えた。(東野滋、土屋聡史)
◎石巻専修大の奮闘(上)
<切迫>
 2011年3月11日午後6時半。停電で一帯が暗闇に包まれる中、自家発電の明かりがともる大学に近隣住民ら100人以上が集まってきた。
 大学には既に、地震発生時に実験などをしていた教職員と学生ら計約300人がいた。指定避難所でないため、備蓄の食料や水には限りがある。
 「大学としては学生を守るのが第一だが、人が入れる場所がある以上、知らん顔はできない」
 当時学生部長だった理工学部の山崎省一教授(60)は、教職員が話し合って、避難者の受け入れを決めた理由をこう説明する。
 12日には近隣の避難所に入れない人が押し寄せた。市も避難者の大規模な収容を要請。1日最大約1000人の市民が暮らす避難所が誕生した。
 42万平方メートルの広大な敷地に体育館や多数の教室があり、自家発電も備える。大学は一気に重要拠点となった。
 坂田隆学長(60)は「震災で真っ先に役立ったのが大学の持つ『ハード』だった」と語る。
 市や自衛隊、日本赤十字社などの外部機関が次々と協力を求め、13日にはグラウンドに臨時ヘリポートが完成。15日にはボランティアセンターと救護所が設けられた。
 グラウンドはボランティアがテントを張る用地にもなり、延べ9万人以上が利用した。
 市社会福祉協議会の大槻英夫事務局長(61)は「地震後、広い敷地と頑丈な建物がそろった場所はほとんど残っておらず、大学の存在に助けられた」と感謝する。
<忙殺>
 「避難者」だった教職員や学生は、運営を支えるマンパワーとして動きだすしかなかった。
 増え続ける避難者の教室への誘導、経験の無い避難所運営の補助、情報が錯綜(さくそう)する中での外部機関との調整…。教職員約30人は多忙を極めた。事務課の尾形孝輔さん(30)は「最初の10日間の記憶がほとんど無い。当時のメモを見ても思い出せない」。
 学生も13日朝、残っていた約150人が8グループに分かれ、教職員の手伝いを始めた。トイレなどの清掃や救援物資の仕分け、駆け付けた保護者の応対。作業は山ほどあった。
 床に敷いた段ボールやいすの上での睡眠時間は約4時間だった。風呂はなく、消臭剤を使って同じ服を着る毎日。下着は1週間はいて捨てた。
 地震後に宮城県栗原市の自宅に帰り、12日に大学に戻った理工学部4年の三塚光さん(22)は「被災の体験談に圧倒されたり、責任の重い仕事を任されたりした。1日があっという間だった」と語る。
<一心>
 2011年4月28日、最後まで残った避難者約30人が退去し、大学は避難所の役割を終えた。
 「新学期を控え、別の避難所に移ってもらった。申し訳なかったが、『ありがとう』と言われて救われた」と語る山崎教授。「困難は多かったが教職員も学生も、石巻のために自分ができることをやろうという一心で乗り越えた」と振り返る。=2011年9月1日、河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


<回顧3.11証言>被災地の大学 重責自覚
 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市で、建物や設備への被害が比較的少なかった石巻専修大は震災直後から、災害対応の最前線拠点として役割を果たしてきた。避難してきた多くの市民を収容する一方、ヘリポートや救護所、ボランティアセンターが相次いで開設された。未曽有の事態への対処を迫られた教職員や学生たちは、戸惑いながらも全力で運営を支えた。(東野滋、土屋聡史)
◎石巻専修大の奮闘(下)
 震災発生から一夜明けた2011年3月12日、石巻専修大の教職員は詰め掛けた大勢の避難者の対応に追われる一方、学生、大学院生計約1900人の安否確認という重い課題に直面していた。電気も電話も使えない中で、懸命の作業が始まった。
 「サーバーが使用できないなんて…」
 事務課の千葉真哉さん(34)は12日朝、同僚の報告に頭を抱えた。学生の住所や連絡先を管理するサーバーがある棟には、自家発電の電気が供給されていなかった。
 「手作業でやるしかない」。紙の名簿から沿岸部に住む学生を片っ端から抜き出し、リストを作成した。電話の復旧と同時に、一斉に安否確認に取り掛かるためだった。
 姉妹校の専修大(東京)は12日、ホームページ上で石巻専修大の学生に安否を連絡するよう告知。仙台市に住む石巻専修大の教員は、手持ちの名簿を基に学生に電話をかけた。
 石巻、仙台、東京にそれぞれ寄せられた学生からの連絡を集計できたのは21日。1675人の安否がやっと確認できた。
 実際にゼミの所属学生を捜し回った教員もいる。経営学部の李東勲(イ・ドンフン)准教授(41)は12日朝、市内に住む8人の安否を確かめようと、避難先の高台から市中心部に向かった。
 避難所と病院を回ったが、誰も見つからない。ヘドロの異臭が漂い、がれきや車の残骸が散乱する光景を前に最悪の事態が頭をよぎった。
 「先生、先生!」。突然、耳慣れた声が聞こえた。5メートル先にある水没寸前のアパートの2階で、男子学生が手を振っているのが見えた。
 一呼吸置いて叫び返した。「けがはないか! 食料はあるか!」。李准教授は15日、8人全員の無事を知った。
 3月30日、安否確認に一定のめどが付いた。学生6人、入学予定者1人が津波にのまれて亡くなっていた。
 自宅が津波で流失するなど被災した学生は約400人に上る。職員は下宿先や交通手段の確保、新学期の準備という新たな仕事に奔走し、5月20日の大学再開にこぎ着けた。
 「親を亡くし、つらい思いをする子どもを見てきた。将来、サポートしてあげたい」
 震災発生から間もなく6カ月。学生たちは若い心で震災を受け止めている。
 理工学部4年の小川雄也さん(22)は大学院に進み、小学校教師になることを決めた。避難所となった大学で多くの子どもと接したのが理由だ。
 「祖父母が戦争体験を語ってくれたように、震災で何があったかを次世代に伝えたい。被災地の学生だからこそできることだし、その責任がある」=2011年9月1日、河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


<避難解除>帰還求める楢葉町 困惑の職員
 東京電力福島第1原発事故に伴う避難指示の解除を迎えた自治体の職員は、職務と生活のはざまで悩む。今春を「帰町目標」に掲げる福島県楢葉町では、職員が町当局に帰還を強く求められている。町は歳出抑制を理由に通勤手当の削減も検討する。率先垂範を迫られた職員にも長期避難で生じた家庭の事情があり、困惑が広がっている。
 楢葉町は2015年9月に避難指示が解除された。今年4月には小中学校が町内で再開し、帰町者が増えるとみられるが、今月3日現在では818人、帰還率11.1%にとどまる。
 町によると、本庁舎の職員約100人のうち町に住むのは35人ほど。子どもの学校や親の介護・通院といった家庭の事情、自宅の修繕遅れなどで、福島県いわき市に避難を続ける職員が多い。
 松本幸英町長は今年の年頭訓示で「職員は町民の先達として早期に避難生活から脱却し、町内での自立した生活を示す立場にある。私も先頭に立ち、時には心を鬼にしながら進める」と述べるなど、職員の帰町に強いこだわりをみせる。
 大和田賢司副町長は「どうしても無理な事情があれば仕方ないが、町が帰町目標を掲げた以上、職員が戻って町民を迎えるのが本来の姿。職員が住むことで町民の不安解消にもつながる」と説明。単身ではなく、家族で戻ることを促す。
 楢葉町では危機管理策として昨年12月から3月までの予定で、職員が輪番で10人程度、町内の自宅などに宿泊している。業務外で手当もないが、町の宿舎は設備が不十分のため自費で宿泊施設に泊まる職員もいるという。
 原発事故後、業務量や負担は増大している。職員からは「避難していても責任を持って仕事をしている」「いずれ町に戻るが、今は家庭的に難しい」「帰町しなければ職員にふさわしくないと思われたら、つらい」などの声も漏れる。
 自治労県本部は「自治体当局は職員の人事権を握る。帰還の働き掛けが強制や圧力と感じられるようならば、職員の意欲をそぎ、住民サービスにも影響しかねない」と指摘する。


台風被災者の支援 共助の力で孤立防止を
 厳しい冬を迎えてなお、生活再建が進まず、将来もなかなか見通せない。台風10号豪雨から半年に際しての本紙アンケートからは、被災者がぎりぎりの状況で踏ん張っているさまがうかがえる。
 心身の不調について「非常にある」「かなりある」と強いストレスを感じている人は計20・5%。昨年9月の前回調査の33%より減少したが、「時々ある」は26・1%で前回の12・5%より増加。ストレスは若干軽減したものの高止まっている。
 災害後の心理は、ぼうぜん自失となる発生直後から、精神的に高揚し連帯感が高まる時期を経て、将来の不安や疲労の蓄積が心身の不調として現れる「幻滅期」、そして少しずつ生活再建に向けて歩み出す「統合期」へ至る。
 今、「幻滅期」のただ中で疲弊し、不安を抱えている被災者は多いことだろう。将来的な生活再建格差の拡大は、孤立のリスクを高める。過疎化と高齢化が進み、自助にも公助にも限りがある中、共助の力を強めることで、孤立を防止したい。
 懸念されるのが、心身の不調や悩みの相談相手について「いない」が12・5%に上ったことだ。山間部に集落が点在する地域事情、在宅避難者は仮設住宅入居者に比べて支援が届きにくいことも踏まえれば、必要な支援につながっていない住民は多いと考えられる。
 潜在的な苦しみにも目を向け、地道に支援を継続してほしい。隠れたニーズの掘り起こしが、より良い復興にもつながるだろう。
 アンケートで、将来不安についての回答は「生活資金」「住宅の確保」「仕事の先行き、確保」など多岐にわたった。心の復興の土台は生活再建だが、そこには住宅再建・修理をはじめ、仕事、健康状態、家族関係などが複合的に関連する。災害以前からの問題が、災害に伴う生活の変化で顕在化することもある。
 こうした課題に対応するため、岩泉町では東日本大震災被災者や生活困窮者の支援団体が連携して「岩泉よりそい・みらいネット」が発足。被災者だけではなく、全町民を対象に相談窓口を開設している。生活再建へ踏み出す一助になってほしい。
 アンケートでは、自宅の再建を希望する場所について「台風前と同じ場所」が5割超に上った。住民の土地への強い愛着の現れだろう。一方で、将来的には「地域コミュニティーの崩壊への不安」の声も寄せられた。
 仮設から災害公営住宅への移行、集落再編も視野に入れた地域の在り方の検討に際しては、丁寧に住民のニーズをくみ取り、つながりを絶やさないように進めてほしい。


「共謀罪」法案 問題多く提案は無謀だ
 共謀罪の構成要件などを変えた組織犯罪処罰法改正案の全容が明らかになった。適用対象を「組織的犯罪集団」に限定し、現場の下見などの「準備行為」があることも処罰の要件とした。対象犯罪は当初、法定刑が懲役・禁錮4年以上の676に上っていたが、直接テロの手段になり得るものを中心に277に絞り込んだとしている。
 政府は法改正の狙いを「2020年東京五輪・パラリンピックを見据えたテロ対策強化」とし、共謀罪ではなく「テロ等準備罪」の呼称を使って説明してきた。しかし、改正案の条文には「テロ」という表記は一つもない。与野党から疑問視する指摘が相次いだため、政府はテロの文言を明記する方向で検討に入ったという。
 野党は「テロ等準備罪と呼んでいたのは、国民を安心させるための印象操作だったのではないか」と反発を強めている。弁護士や学者からは「条文が不明確で、処罰対象が拡大解釈される恐れがある」などと懸念の声も上がる。二転三転する金田勝年法相の国会答弁に象徴されるように、問題の多い法案だと言わざるを得ない。
 政府は改正案について、これまで3度廃案になった共謀罪法案より構成要件などを厳しくしており、一般市民を対象にしたものではないと強調する。罪に問われる組織的犯罪集団を「目的が対象犯罪を実行することにある団体」と定義し、従来の「団体」から変更した。
 しかし、組織的犯罪集団と認定する要件が極めて曖昧な上、法務省が「正当な活動を行っていた団体でも、目的が犯罪を行うことに一変した場合は処罰対象になり得る」との見解を示したため、野党は「一般市民が処罰される恐れは否定できない」と批判している。
 どういった場合を「目的が一変した」に当たると判断するのか。組織的犯罪集団の認定に関する明確な基準や要件が示されない限り、処罰対象が拡大解釈される懸念は払拭(ふっしょく)できない。
 処罰の要件となる「準備行為」については「資金または物品の手配、関係場所の下見その他」と規定。これについても「その他」とあることで、捜査機関による恣意(しい)的な運用につながりかねないと専門家は指摘する。
 さらに、準備行為は「計画した者のいずれか」により行われることとしているため、1人が準備行為をすることで犯罪を行うことに合意した他のメンバーが処罰される可能性もある。となれば、犯罪の謀議に加わっただけで処罰される過去の共謀罪と本質的に変わらないことになるのではないか。
 政府は今月中旬にも改正案を閣議決定する方針という。国民の権利に関わる重要な問題を指摘されながら、十分な説明もできぬまま国会に改正案を提出するのは無謀ではないか。政府は国民の懸念を真摯(しんし)に受け止め、提出を断念すべきである。


嘉手納の騒音訴訟 深刻な被害放置するな
 司法の限界で済ませていいのだろうか。
 沖縄県の米軍嘉手納基地周辺で暮らす住民約2万2千人が、米軍機の夜間・早朝の飛行差し止めと、騒音による損害賠償を国に求めた第3次訴訟で、那覇地裁沖縄支部が国に賠償を命じた半面、飛行差し止めの訴えを棄却する判決を下した。
 判決は、日常生活の妨害や精神的苦痛など、被害を幅広く認めた。「戦争経験のある住民にとっては戦争時の記憶をよみがえらせ、より大きな不安を与える」などとも踏み込んだ。
 賠償額が約302億円と同種の訴訟で過去最高となり、1人当たりの基準慰謝料を大幅に引き上げたのも、被害を深刻に捉えたからだろう。
 判決はまた、日米両政府が抜本的な被害防止策を取っておらず「違法な被害が漫然と放置されている」と厳しく批判した。さらに、基地の公共性を認めた一方で、少数者に特別の犠牲を強いる不公平は正当化できないと断じた。両政府は重く受け止める必要がある。
 だが、それにもかかわらず、飛行差し止めを門前払いにしたのは納得できない。日米安保条約と地位協定で、日本は米国に口出しできないというのが理由だ。判例を踏襲したものだが、自ら限界をつくるのではなく、条約や協定の不備を指摘することが司法の役割ではないか。
 日米は夜間・早朝の飛行制限に合意しているが、米軍は守っていない。日本政府はこれを放置せず、米側に強く順守を働き掛けるべきである。


故滝井判事の文書に思う
 一九九五年に起きた大阪市東住吉区の住宅火災。シャッター付きの駐車場で火災が発生し、隣接する浴室で入浴中だった長女が焼死した−。この火災は保険金目的で母親と内縁の夫が放火、殺害したとされ、二〇〇六年に最高裁で無期懲役判決が確定した。
 この判決の約一カ月前に滝井繁男判事が定年退官している。実は滝井氏は冤罪(えんざい)だとの考えを持ち、一、二審の有罪判決を破棄すべきだと書き記した。共同通信が入手した文書がそれを伝えている。
 滝井氏は正確に物事を見ている。被告の家の家計が窮迫していたわけではないし、母親に浪費癖があるというのも、おかしい。むしろ家計簿をつけてきちょうめんだ。お年玉もきょうだい同額で、娘への愛情が薄いわけではない−。そして、こう綴(つづ)る。
 「自白が捜査官の誘導で生まれたのではないかとの疑問をぬぐえない」「動機の不自然さ、客観的な状況との不一致を考えると、私は自白内容にどうしても全面的な信頼を置くことができない」
 そもそも二人とも無罪主張だった。一二年に再審開始が決定、昨年、再審無罪が確定した。滝井氏は一五年に亡くなっている。最高裁内部で滝井氏の見方が広がり支持を得ていればと悔やまれる。ちなみに滝井氏の兄は中日新聞記者から弁護士に、そして推理作家となった和久峻三氏である。 (桐山桂一)


小栗旬が結成か「俳優労働組合」 相次ぐ電撃引退で現実味
 芸能界を揺るがしている人気俳優の相次ぐ電撃引退。昨年12月、突如、引退した成宮寛貴を皮切りに、今年に入って女優の江角マキコ、清水富美加、堀北真希と、4人の人気俳優が、わずか3カ月の間に自ら幕引きを行ったのだ。
「こんなことは、芸能史をひもといても、あり得なかったこと。売れっ子俳優が自らの事情で引退に追い込まれるなんてことは10年に1人……、いや20年に1人いたかどうか……。今後も、引退を口にする俳優が出てくるかもしれない」(芸能プロ関係者)
 そんな異常事態の中、注目を集めているのが俳優の小栗旬だ。俳優のための俳優による自主的な労働組合を結成しようと水面下で活動しているという。
「小栗の目標は、米ハリウッドにある『SAG―AFTRA』の日本版です。『SAG──』は1933年に設立された世界初の映画俳優組合で、組合員は約20万人いる。日本にも、俳優の西田敏行が理事長を務める『日本俳優連合』が存在するが、組合員は約2700人ほど。“御用組合”に近い存在です。若手俳優は、存在すら知らないんじゃないでしょうか」(前出の芸能プロ関係者)
 かつて、雑誌のインタビューで「SAG──」について熱く語っていた小栗。背景にあるのは「事務所の大小で仕事が決まったり、理不尽なオーディション制度などに対する不満」(事情通)だという。そもそも、俳優はアイドルやアーティストバンドなどと違い、引退を宣言する必要がない職業なのだ。
「『SAG──』があれば、俳優の権利がとことん守られる。最近、引退した人気俳優らも、結論としては、所属事務所との“決別”だと言っていい。本当に所属事務所と信頼関係があれば引退する必要はありません。だが、いまだに俳優の権利を尊重する事務所は数えるほどしかないのが現実。トラブルが発覚したら、数年間の休養、あるいは仕事の選択ができなくなるのが日本のプロダクションなんです。だから最終的に『引退』という切り札を出さざるを得ない。ハリウッド関係者も旧態依然とした日本の芸能界には、本当に驚いているんです」(映画関係者)
 小栗は芸能界の“救世主”となれるのか。


責任逃れから一変 松井知事“森友不認可”で人気取りの噴飯
 小学校開校が来月に迫る中、「認可」が怪しくなってきた森友学園。大阪府の松井一郎知事はごみの撤去計画や経営見通しが期限内に提出されない場合、「認可は難しい」と表明。暴走する森友学園に体を張って“待った”をかけるリーダー気取りだが、ちょっと待った。これまで、「自分は認可権者じゃない」と責任逃れしていたではないか。
 例えば、2月21日、記者に囲まれて松井知事はこう言っている。
〈昨年(2016年)4月の時点で、私学についての権限を教育長に委譲している。学校の経営が成り立つかどうかについては、20人の専門家でつくる私学審の判断を尊重し、教育長が最終判断する〉
■「認可権限は教育長」と断言も……
 さらに、24日に日刊ゲンダイが、12年に松井知事が私立小設置基準を緩和し、森友学園に門戸を開いたことを報じると、松井知事はツイッターで「新規参入を促すため」と弁明。森友ありきの規制緩和の疑いについてこう反論した。
〈私学審議会の開催は審議会会長判断であり、認可権限は教育長です。ゲスな勘ぐりとはこの事ですね〉
 これはまったく的外れだ。前述した松井知事の記者への説明にあるように、教育長への認可権限移管は16年4月から。基準緩和の12年も、森友学園に「認可適当」を与えた15年も、認可権者は松井知事本人だ。
 ここまで松井知事は、森友学園への認可の“汚れ役”を教育長に押し付ける魂胆がミエミエだった。ところが、問題続出で「不認可」が現実味を帯びると態度を一変させる。25日の日本維新の会の会合でこう言い出したのだ。
〈安定した経営ができないようであれば認めるわけにはいかないというのが、府教育庁の立場だ〉
 あれっ? 認可の権限者は教育長じゃなかったのか? 以降、松井知事は教育長をさしおいて、認可に口を出すようになる。今や世間は松井知事の“英断”に注目するようになった。
 しかし、森友学園問題の元凶は何か。橋下徹元知事は28日のツイッターで「僕が私学設置基準見直しの大号令をかけた」と認め、松井知事同様、「新規参入促進」を強調している。だが、現実には緩和後5年間で私立小学校の申請は森友学園のみというお寒い結果だった。“競争”で活性化どころか、緩和のせいで、質の悪い学校法人を招き入れ、結局、経営不安で「不認可」というオチがつきそうなのだ。橋下、松井両氏は、自らの失政を認めて、府民に謝るべきだ。


「安倍小学校いらない!」 国会前集会で参加者が怒りの声
 森友問題をきっかけに、市民、野党が共闘して安倍政権の退陣を要求する「10万人デモ」の国会前集会が5日行われ、約200人が集まった。
 午前11時から始まった集会は、安保法反対デモと同様の雰囲気に包まれ熱気ムンムン。
「アッキード疑惑」「安倍小学校はいらない」と書いたプラカードを持った参加者らが「安倍は辞めろ」とシュプレヒコールを上げたほか、映画監督の増山麗奈氏も「(昭恵夫人は)今日はスキーで遊んでいるようですが、子供たちには洗脳的な教育をし、考える自由を奪い、自分はどうですか。国民のお金を自分のもののように(使い)欲望のまま生きている」と訴えた。
 主催者はきょう(6日)から、5日間連続で院内集会を開く予定で、12、19日に国会前でデモを計画している。(取材協力=ジャーナリスト・横田一氏)