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Fig41

Japon. Six ans après Fukushima, quelles leçons ?
Lors de l’accident nucléaire du 11 mars 2011, le Japon est passé à deux doigts du pire. On sait aujourd’hui que le gouvernement avait envisagé de faire évacuer Tokyo, avant d’y renoncer par crainte d’une panique de masse. Mais le pays en a-t-il tiré les leçons ?
La population l’a fait… dans une certaine mesure. Plus de 60 % des Japonais s’opposent toujours au redémarrage du parc nucléaire ; mais près de 30 % l’acceptent. A ce jour, le gouvernement a redémarré seulement trois réacteurs (sur quarante-trois). La troisième économie mondiale fait ainsi la preuve qu’elle peut se passer du nucléaire. Les défenseurs de l’atome répondent qu’avec lui, elle se porterait bien mieux.
Tepco, l’opérateur de la centrale, est sous perfusion d’argent public. Droit dans ses bottes, il dénonce sans relâche un ≪ complot médiatique ≫. Attaqué par un travailleur du chantier de décontamination, victime d’une leucémie, il ose contester le lien de cause à effet. Surtout, il intrigue pour faire reconnaître l’accident comme l’effet d’une ≪ catastrophe naturelle impossible à prévoir ≫, ce qui mettrait toute la note à la charge du contribuable.
Les médias débordent de sympathie pour les victimes du 11 mars et font assaut de solidarité. Mais dans les logements provisoires où vivent encore plusieurs dizaines de milliers de personnes, près de 200 sont mortes en solitaires en 2015, sans que quiconque ne s’en aperçoive. Et les enfants réfugiés sont si souvent traités en impurs, ou en parasites, dans leurs nouvelles écoles, que la presse a fini par s’en émouvoir.
Retour forcé, chantiers retardés
Le chantier sur le site de la catastrophe est traité essentiellement sous l’angle de la performance technologique. Cela a d’abord été le mur de glace souterrain, censé empêcher les eaux de ruisseler sous la centrale radioactive avant de se jeter dans la mer. Le silence est venu avec les premiers doutes sur l’efficacité de ce système.
Aujourd’hui, les vedettes sont les petits robots qu’on sacrifie pour explorer l’intérieur des réacteurs sinistrés. Pour autant, on ignore toujours où est passée la masse hyper-radioactive du combustible et des débris fondus. Le délai officiel pour terminer la décontamination reste d’une quarantaine d’années.
Les autorités ont déclaré à nouveau habitable la partie de la zone évacuée où la dose de radiation n’est plus que de 20 mSv/an. C’est la dose maximale autorisée en France pour les travailleurs du nucléaire… Ceux qui en ont été évacués sont supposés revenir, tout comme ceux qui ont quitté la région volontairement - en général des femmes qui ont mis leurs enfants à l’abri. Dans ces zones, les communautés sont détruites et le tissu économique est presque anéanti. Peu importe. Pour contraindre les réfugiés à rentrer, l’aide au logement devrait leur être coupée au 31 mars. En guise de ≪ joyeux sixième anniversaire ≫
Dans les zones dévastées par le tsunami, la remise en état des sols a avancé. Mais parfois, les deux tiers des propriétaires n’ont aucun plan pour utiliser leur terrain. Découragés, trop âgés.
Dans un pays sans chômage, les chantiers manquent de bras. L’État, qui a consacré l’équivalent de 200 milliards d’euros à la reconstruction de 2011 à 2015, n’en donnera plus que 50 d’ici à 2020.
Cette année-là, à l’occasion des Jeux olympiques, le Japon rêve de montrer au monde une zone reconstruite de manière exemplaire et innovante. Y parviendra-t-il ?
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いじめをノックアウト「最後にぜったい忘れないでほしいこと」
高橋みなみさんと一緒に“いじめ”について考える「いじめをノックアウト」。今回は、高橋みなみさんからの大切なメッセージ。学生時代に受けたいじめのせいで今も後遺症に悩む人たち。もう終わったことと思っても、いじめられた恐怖が何度もよみがえってくるという。人の一生を変えてしまうこともある“いじめ”。「誰も幸せにすることのない“いじめ”は絶対するべきではない」ことを改めて伝える。2013年放送回をアンコール
高橋みなみ, 野沢雅子

NHKスペシャル「15歳、故郷への旅〜福島の子どもたちの一時帰宅〜」
6年間帰ることができなかった故郷へ。福島の15歳が、自分自身を見つめるため旅立つ。原発事故を乗り越え、懸命に生きようとするとする子どもたちの成長の物語。
原発事故後、福島の子どもの間で広まったある行為がある。15歳の誕生日を迎えた記念に、震災以来帰ることのなかった故郷を初めて訪ねるというもの。今も避難指示区域への一時帰宅は15歳以上にしか認められない。時間が止まった故郷への短い旅は、失われた時を見つめ、自分が歩むべき道を整理する、いわば大人へと成長する旅でもある。帰郷する子どもたちに密着し、それぞれが何を感じ、どう新しい1歩を踏み出すのか見つめる。
上白石萌音

明日へ つなげよう「くまモンの一大事〜熊本と東日本 キズナの物語〜」
東日本大震災発生以来、くまモンは何度も東北を訪ねてきた。去年は故郷・熊本でも大地震が起き、その支援にも忙しい。くまモンの活動から生まれた絆の物語を見つめる。
くまモンは、東日本大震災が起きて以来、人々に元気を届けようと、何度も東北を訪ねている。さらに去年は故郷でも大地震が起き、その支援にも忙しい。ツイッターを利用した「#くまモンあのね」の取り組みや、熊本と福島の高校生同士の交流などについて紹介、くまモンの活動から生まれた、人々の絆の物語を見つめる。ナレーションを担当するのは、九州出身で、大ヒット映画「君の名は。」でヒロインの声を演じた上白石萌音。
上白石萌音


気仙沼に来ました.駅のコインロッカーに荷物を預け,ネットカフェで一服した後,レンタサイクルで出かけます.でもまずBRTで階上に向かい,震災遺構になるという気仙沼向洋高校を見ました.バスで駅に戻ってから三日町,八日町そして魚市場,弁天町を通って潮見町へ.魚の匂いがする加工場です.子どもの頃もそうだったような気がしました.でも潮見町に人は住んでいません.川口町も??
南気仙沼の復興 屋台村 気仙沼横丁に行ってみました.「大漁丸」はすでに閉店になっていたので,「たすく」に行きました.おいしいです.
唐桑にも行ってみました.更地ばかりという感じです.
今日のお宿は石巻なのでBRTで移動です.BRTってなんだか変な感じです.線路があったところをBRT専用道路にしているけど,一般の道路もかなり移動します.なので全然rapidではないです.BRTということはJRが復旧していないということで,東日本大震災で復旧していないことろを見ている感じでした.

<震災6年>復興の虚実 問い続ける
◎取締役編集局長 鈴木素雄
 先日、福島県北と宮城県南の沿岸部を駆け足で巡ってきた。早朝の相馬市・松川浦漁港。昨年9月に完成した原釜荷さばき施設にヒラメやマガレイなどが次々と水揚げされていく。「活気がある」と表現したいところだが、実態は開店休業に近い。相馬双葉漁協の年間水揚げ額は震災前の約4%、3億円にとどまる。
 福島第1原発事故の風評被害を払拭(ふっしょく)できずにいる。放射性セシウムはほとんど不検出だが、例えば震災前は2割程度あった関西方面への出荷はゼロに沈んだままだ。案内してくれた相馬市の伊東充幸農林水産課長がもどかしそうに言う。「誰が言い始めたんですかね? 試験操業なんて」
 危険とのイメージを伴う試験ではなく、あくまで本格に向けた準備、あるいは助走としての操業と位置付けたい−。そう言い聞かせなければ、確かに漁業者もやりきれないだろう。いまだ出荷制限がかかるスズキ、クロダイなど12魚種が解消されれば、本格操業が視野に入ってくるはずだ。
 「恒産なくして恒心なし」という。漁業者の生計を安定させ心穏やかに暮らしてもらうためには、取引量と価格を震災前に戻し、「常磐もの」と呼ばれたブランド力を復活させなければならない。復興とは、ここでは極彩色の大漁旗が港を埋め尽くす日のことだ。
 「復興のトップランナー」といわれる岩沼市。集団移転先である玉浦西地区は震災前のコミュニティーを尊重した町割りが特長で、住民同士の交流も活発だ。和風のしゃれた集会所で、まちづくり住民協議会の中川勝義会長(78)が振り返った。
 「新しく住む所ができて、ありがたいことです。ただ、以前は400年続いた集落に住んでいたわけで…。震災直後は我慢していましたが、思い出すんですよ、みんな昔のことを」
 6年たって、うずき始める傷がある。反対に、最愛の人を失った人たちが辛酸を癒やすにはあまりに短時日だったと言うこともできる。住宅や商店街、防潮堤が再建されたからこそ、むしろ募る疎外感、焦燥感。折れかけた心は、いまだ添え木を必要としている。
 「名存実亡」という言葉がある。名目だけ存在して実体がないこと。政治家や役所のみならず、私たちが繰り返し口にする「復興」という二文字に実体は伴っているだろうか。根気の要る作業だが、その問いを決して手放さないことが東日本大震災を生き延びた当事者としての務めであり、何より犠牲者への弔いではないかと考えている。
 あすは大震災から6年。復興の来し方を静かに振り返り、行く末をじっくり考える一日としたい。


<震災6年>「花がれき」の歩み一冊に
 福島県立保原高(伊達市)の美術部が、東日本大震災で被災した校舎のがれきに花の絵を描く「がれきに花を咲かせようプロジェクト」(花がれき)の軌跡をまとめた記録集を制作中だ。震災直後から6年近く続く活動は、仮設住宅の壁画制作などにも及び、被災者を慰めてきた。部員はアートを通じて得た心のつながりをかみしめている。
 花がれきは2011年4月に始まった。同部顧問が、表現活動を通じて生徒に気持ちを落ち着かせてもらうことなどを目的に提案。現部員46人を含む部員と初年度に参加した生徒有志の計146人が、今までに約900点を制作した。
 被災者心情に配慮し、がれき作品そのものではなく作品を撮った写真に「福島が好き」「咲かせよう笑顔」といったメッセージを添えて壁掛けを作り、市内や福島市など県北の仮設住宅の住民にプレゼントした。仮設7カ所の壁画も描いた。
 映画監督の大林宣彦さんが取り組みに共感。部員の姿を撮影し、アイドルグループ「AKB48」の曲「So long!」のミュージックビデオに使用したこともある。
 こうした歩みを、写真やイラストを多用して38ページの記録集にまとめる。「恐怖の対象だったがれきを希望の対象として見られるようになった」「感謝の気持ちと共に元気を発信したい」など部員たちの感想も掲載する。今月中に500部を作成する予定だ。
 部長の2年佐藤里胡さん(17)は中学で美術部に所属し、花がれきに取り組みたいと保原高に進んだ。「仮設住宅に住む人と一緒に絵を描き、人と触れ合う楽しさを学んだ。将来は地域で人とつながる仕事がしたい」と顔をほころばせる。
 顧問の番匠あつみ教諭は「生徒が『自分も被災者の役に立てる』と自信をつけるとともに、地域に目を向ける契機になった。美術が社会に与える力を感じた」と話している。


<震災6年>あの日の光景と今伝承へ高2渡米
 東日本大震災で被災した岩手県大槌町出身の盛岡一高2年後藤丞(たすく)さん(17)が11〜26日、同校の海外研修で米国ボストンを訪れ、現地の大学や研究所で同町の被災状況や復興課題を英語で発表する。「あの日に自分が見た光景を伝え、被災地の状況を知ってほしい」と意欲を見せる。
 後藤さんは、同町の農業と災害の伝承の二つを研究テーマに選んだ。昨年夏から町役場や被災者に聞き取り調査を進めながら、被災した同町に農業や酪農を普及させるための課題や震災で得た教訓を探ってきた。
 海外研修は同校が文部科学省の指定を受けたスーパーグローバルハイスクール事業の一環。今回は1、2年生計10人が自分で研究テーマを設定し、各テーマを専門とするハーバード大やマサチューセッツ工科大の教授らと意見を交換する。
 後藤さんは6日、盛岡一高のコンピューター室で、海外研修を担当する千條惇教諭(34)らと本番を想定した発表練習をした。自作のスライドを壁に映し、発表の流れを確認した。
 千條教諭は「復興に生かしたいという思いで、研究内容を深めてくれた。世界中からの支援への感謝も伝えられるような発表をしてほしい」と期待する。
 後藤さんは4歳から同町で祖父母と両親、姉と暮らしていた。震災発生当時、大槌小5年生だった後藤さんは校舎から避難し、必死に駆け上がった山の上で津波に襲われる町を見つめていた。家族は全員無事だったが、親しかった友人の母親が犠牲となった。自宅は、震災直後の火災で全焼した。
 後藤さんは震災後、同町の仮設住宅で暮らす祖父以外の家族と盛岡市に転居した。「思い出の詰まった町が流された記憶は鮮明に残っている。あのときの気持ちは言葉にできない」と振り返る。
 後藤さんは将来、教育関係の研究職に進み、防災教育に携わりたいと考えている。「災害はまた来ることを忘れないように、自分の体験を語るのが義務。どの国でも災害が起きることを伝えたい」と語った。


<震災6年>復興願う音色 秋田から被災地へ
 東日本大震災の被災地を訪れ、ギター1本で被災者を元気づけたギタリストが秋田市にいる。川崎ツトムさん(62)=秋田市高陽青柳町=。同市上北手荒巻の遊学舎で11日に開かれるイベント「東日本大震災〜語り継ごうinあきた」で、仲間と共に復興への思いを込めて演奏を披露する。
 川崎さんは1980年に東京でプロデビュー。2000年ごろに秋田に戻ってからは、イベントで演奏したり、地元企業のテーマ曲を手掛けたりしてきた。
 震災直後から13年ごろまでは、岩手県大槌町や石巻市、南相馬市など沿岸部を中心に60カ所以上の避難所を訪問。年配の被災者が口ずさめるよう「北国の春」や「浜辺の歌」など、主に懐メロを演奏した。14年以降も気仙沼市で開催される音楽イベントに音響スタッフとして参加している。
 「最初は被災地で音楽をやっていいのか、抵抗があった」と川崎さん。しかし「もっと聴きたい」という被災者の声に、「自分の音楽でも役に立つなら」とギターや弁当持参で自ら車を運転し被災地を回り続けた。
 印象に残る出来事がある。11年4月、大槌町の避難所。演奏を終えて帰ろうとすると、年配の男性が「もう一回、弾いてくれないか」。郷愁を誘うメロディーのオリジナル曲「逢(あ)いたくて」を奏でると、「ありがとう。今夜はゆっくり眠れる」。そう言った男性の笑顔が忘れられないという。
 川崎さんは「人のために音楽を演奏する喜びを被災地で教わった」と語る。
 11日は午前10時〜午後5時。午後2時から、川崎さんら秋田市内の音楽家6人による演奏がある。被災地支援活動の資料展示や動画放映などもある。入場無料。連絡先は遊学舎018(829)5801。


<震災6年>警察と海保 手掛かり求め捜索
 塩釜署と宮城海上保安部は9日、七ケ浜町松ケ浜の砂浜で、東日本大震災の行方不明者の捜索を合同で実施した。
 塩釜署から10人、宮城海保から9人が参加。砂をレーキでかいたり、消波ブロック周辺を念入りに調べたりして、約170メートルにわたって手掛かりを捜した。
 七ケ浜町では2人の行方が分かっていない。松ケ浜は外洋に面し、遺骨が流れ着く可能性もあることから捜索場所に選んだ。
 塩釜署の横山裕署長は「遺体の発見は難しい状況にあるが、震災を忘れないというメッセージを発信する上でも捜索は意義がある」と話した。


<震災6年>津波の怖さ伝える童歌完成
 柴田町で音楽教室を主宰する阿部弘子さん(59)が、東日本大震災を題材にした童歌「くろいうみ」を完成させた。シンプルなメロディーの童歌は、津波の怖さ、被災者の切なさを後世に伝えようとの思いが込められた。11日に町内で開かれる演奏会で披露する。
うみ うみ くろいうみ
あのひのうみは なにしたの
みんなみんな つれてった(×2)
かわいいあのこは どこにいる
おとうやおかあは どこにいる
にげて にげろ(×4)
くろいうみから にげろや
うみ うみ あおいうみ
そっちでみんなで なにしてる
こっちはなんとか いきてるよ
さびしいけれども いきてくよ
 「うみ うみ くろいうみ あのひのうみはなにしたの」で始まる歌詞。簡潔な言葉で、津波の怖さと逃げることの重要性、亡き大切な人を思う被災者の心情がつづられている。
 阿部さんが童歌を作ったのは、生涯学習支援のNPO活動を通じて石巻市のコメ専業農家太田俊治さん(60)と知り合ったのがきっかけ。太田さんに「子どもが口ずさめて、震災の教訓を代々伝えられる歌があればいい」と提案され、制作を思い立った。
 歌作りのために阿部さんが石巻市の被災者たちに今の心境を聞くと、「震災から6年近くたっても、生きるだけで精いっぱい」という答えが返ってきた。まだまだ前向きになれない人が多いことを知り、そうした思いを歌に反映させた。
 完成した「くろいうみ」を聴いた太田さんは「何度も聞くうちに心に染み、口ずさめるようになった」と出来栄えに満足する。阿部さんは「童歌は少ない音階で構成され、歌いやすい。歌が東北全体に広がり、ずっと先まで残ってくれればうれしい」と期待する。
 「くろいうみ」は、11日午後1時開会の、上川名地区の竹林で行われる「竹林の音楽会」(町上川名地区活性化推進組合主催)で発表される。阿部さんがピアノを弾き、阿部さんの音楽教室に通う小学5年の女子児童が歌う。
 連絡先は阿部さん090(1497)8409。


<震災6年>9日後救出の男性 学び古里再生に生かす
 東日本大震災の発生から9日後、石巻市の倒壊した家屋から救出された東北芸術工科大彫刻コース4年の阿部任(じん)さん(22)が20日、同大を卒業する。地元・石巻のまちづくり会社に就職する予定で、大学で学んだ美術工芸を古里の再生に生かそうと思いを新たにしている。
 阿部さんは2011年3月11日、通っていた東北生活文化大高(仙台市泉区)が休暇で実家に帰省中、津波に襲われた。祖母と2人、壊れた家で飢えと寒さをしのぎ、20日に救出された。
 大学進学後、友人から震災について尋ねられることがあった。体験したことをありのまま話すと、「聞いてまずかったかな」という表情に一変した。
 「もっと大変な思いをした人はたくさんいる」「そんなに深刻に受け止められても…」。前向きに人生を歩み始めていたからこそ、正直、困惑した。
 就職先はまちづくり会社「街づくりまんぼう」に決まった。故石ノ森章太郎さんの作品を展示する石ノ森萬画館の運営や震災復興イベントを手掛ける会社だ。
 就職活動では、東北や関東圏のデザイン会社など約20社を受けた。しかし、結果は芳しくなく、気付けば秋になっていた。採用情報をインターネットで探していた時に目に留まったのが、社員を募集していた街づくりまんぼうだった。
 石ノ森萬画館は小学生の頃からよく通っていた思い出の場だ。「この会社で力を発揮してみたい」。面接の結果は合格。将来の道筋が見えた希望と地元に帰れるという安心感で、ふっと肩の力が抜けた。
 大学生活の集大成となる卒業展示が2月7〜12日に東北芸工大であり、1年がかりで制作した工芸作品「Breath of souls」を披露した。廃材から調達したねじや歯車などを組み合わせ、羽化したチョウに見立てた。「生命の息吹を表現したかった」。多くの人から作品を評価され、自信につながった。
 大学生活を終える寂しさはある。ただ、4月の入社を控え、地元の復興に携わりたいという気持ちは日に日に高まる。津波で流された実家の跡地は、国などが整備する復興祈念公園になる。「何らかの形で事業に関われないだろうか」。夢は膨らむ。


<震災6年>不明の娘 捜し始めた母
 東日本大震災から6年を迎える今年に入り、陸前高田市で行方不明になった娘を捜す女性がいる。ボランティアと共に地道に土砂を選別し、わずかな手掛かりを求める。「待っててね」。心のむなしさを埋めるように、作業に打ち込む。
 4日、陸前高田市沿岸部の古川沼そば。大船渡市の主婦佐藤則子さん(65)が、石、貝、ガラス、草などが混在したふるいに目を凝らす。「見落としたらかわいそう」。歯や遺留品などを捜し、指先を動かす。
 陸前高田市の嘱託職員で、保健師だった次女友子さん=当時(32)=が震災で行方不明になった。佐藤さんは1月から、地元NPO法人パクトが月2回ほど行う遺留品捜しに加わっている。
 霊感が強い人の言葉にすがり、友子さんお気に入りの羊の置物やうさぎのハンカチを手に、あちこち捜し回ったが見つからない。家族の気持ちが少しでも落ち着くならと、33歳の誕生日に死亡届を出した。認めたくなくて、書類に涙が落ちた。
 友子さんは地震後、他の職員と共に市役所前の公園に待機し、具合の悪い人を介抱していた。2011年4月から岩手県住田町の正職員として働く予定で、高齢化が進む地域の保健活動に情熱を抱いていた。
 ハンガーに掛かった服、専門書などが並ぶ本棚、奇麗に整頓されたタンス。一緒に暮らした家を、ずっと片付けられない。つらくて部屋に長く居られない。
 「どれだけ苦しかっただろう」。津波を連想させる水や海は極力避けた。健康のため続けていた水泳をやめ、風呂はふたをした状態で首だけ出して入る。
 仏壇で拝んでもお墓にお参りしても、そこにはいない。七回忌の法要をしたが、踏ん切りがつかない。
 「待っているだけじゃない」。海の近くで不安だったが行動に移した。自分を納得させたいんだと思う。友子さんだけではなく、今も冷たい思いをしている人たちを見つけてあげたい。
 「体力的にも大丈夫。せめて今年いっぱい続けたい。見ていてね」


<震災6年>「この日だからこそ」福島でライブ
 福島市出身で在住のシンガー・ソングライターMANAMI(マナミ)さん(24)は11日、自身初のホールワンマンライブを同市の福島テルサで開く。東日本大震災から6年の節目と重なったのは偶然だが、「自分の歌で笑顔も生まれる日にしたい」と意気込む。
 高校在学中に弾き語りを始め、福島市の福島交通飯坂線や人気の地元飲料「酪王カフェオレ」のテーマソングを手掛ける。活動は屋外イベントやライブハウスが中心。自身だけで100人以上を動員したのは過去に1度だけだ。
 今回の会場の収容人員は450人。新たな挑戦をしようと昨年3月に開催を計画し、1年後を目標にしたところ、11日しか空いていなかったという。
 3月11日の挑戦についてマナミさんは「ためらいもあったけれど、この日だからこそできることがあると感じて決めた」と語る。
 当日は来場者全員に酪王カフェオレを配布。新アルバム「愛(め)でる」(2500円)なども販売する。午後6時半開演。前売り2000円、当日2500円。連絡先はユーワンミュージック024(597)7202。


<震災6年>記憶消さない 白板の記録今も
 ◇…「3/11(金) 14:46 地震発生」。仙台市宮城野区の東北運輸局の一室。ホワイトボードに東日本大震災発生当時の記述がそのまま残されている。
 ◇…通称「災対室」には揺れが収まって間もなくの午後3時2分に対策本部が設けられた。職員20人余りが24時間態勢で詰め、鉄道の被害を把握したり物資輸送の道筋をつけたりした。
 ◇…震災から丸6年。文字は所々かすれてきたが、消されぬまま残されている。「記録としても、記憶としても絶対に消してはいけないもの」。幹部の一人はそう話す。


<震災6年>家族に思い寄せ 宮城で集中捜索
 宮城県警は10日、気仙沼市から宮城県山元町までの沿岸部8カ所で、東日本大震災の行方不明者の集中捜索を実施した。警察官169人が参加。気仙沼ではボランティアとともに行方不明者の手掛かりを捜した。
 仙台市宮城野区蒲生地区の捜索には、仙台東署員と県警察学校の生徒ら計41人が参加。強い浜風が吹く中、横一列になり、レーキや素手で砂浜を丁寧に調べた。
 県警察学校初任科の橋本力さん(24)は「警察官が捜索活動で活躍する姿に憧れた。警察官にしかできない仕事をしたい」と話した。
 現場を視察した県警の中尾克彦本部長は「防潮堤などの工事で捜索環境は変わってきたが、家族の心情に寄り添い、今後も捜索を継続していく」と述べた。
 宮城県内の行方不明者数は9日現在、1231人。延べ約14万6500人の警察官がこれまで捜索に参加した。


<震災6年>福島の地 踏みしめ
 東京電力福島第1原発事故から6年がたつ。除染作業の本格化で避難区域は徐々に縮小されているが、山積みのままの汚染土が住民の帰還を阻む。福島県ではいまだに8万人近くが避難生活を強いられている。
 原発周辺の町を回る。避難指示が解除された地域では、被災地と向き合おうと新たに移り住んだ家族もいた。浜には、漁に制限を受けつつ大物を水揚げした漁師の笑顔があった。
 「一歩ずつ」。古里を取り戻そうと、手探りながら懸命に前を向く人たちの姿を追った。(写真部・川村公俊、高橋諒)


<回顧3.11証言>「情報なし」沢水で米を炊く
 福島第1原発事故で福島県浪江町の住民が集団避難した同町津島地区は、高濃度の放射性物質が降り注いだ地域だった。だが、放射性物質が大量に漏れた情報は国や東京電力からもたらされず、住民は自分の身に危機が迫っていることを知らずに事故後の4日間を過ごした。(勅使河原奨治)
◎福島・浪江町民、高線量地と知らず避難(上)
<発令>
 2011年3月11日午後2時46分。福島県浪江町の馬場有町長は町長室で激しい揺れに遭った。災害対策本部を設け、防災無線で町民に津波からの避難を促した。
 浪江町は横に長い。東は太平洋に面し、西は海岸線から30キロ以上内陸に食い込んでいる。第1原発の立地する双葉、大熊町は南に位置し、浪江町の東半分は原発事故後に警戒区域に指定された。
 11日は沿岸部の町民らが続々と役場に避難してきて、役場は炊き出しや毛布の準備に追われた。
 深夜、町長は作業が一段落し、テレビのニュースに目を向けた。第1原発が原子炉を冷却できなくなったとして、政府が緊急事態宣言を発令したと告げていた。
 翌12日午前5時44分。福島県は浪江町の一部を含む10キロ圏内の住民に避難指示を出した。テレビの情報だけを頼りに町は災害対策本部を原発事故対策本部に切り替えた。
<渋滞>
 町は12日午前10時ごろ、町民を津島地区に集団避難させる方針を決めた。第1原発から約30キロ北西にあり、町内で最も離れていたからだ。
 役場から津島地区へつながる国道114号は避難者の車で埋め尽くされた。同町の無職横山洋子さん(70)は「普段なら20分で着くのに4時間かかった」と振り返る。
 元東電社員の男性(75)は家族を捜すため渋滞と反対方向に車を走らせた。対向車線の車列に並ぶ知人から「原発が爆発する」と忠告されたが、「ばか言ってんじゃない。原発は安全だ」と相手にしなかった。
 津島地区には地元住民の6倍近い約8000人の町民が押し寄せた。小中学校や高校は避難者であふれかえった。学校に入れなかった人は民家で世話になったり、車中泊したりした。
<放出>
 津島地区は上下水道が整備されていない。13日夕に支援物資の水が届くまで、井戸水や沢水で炊いた米で作ったおにぎりが支給された。畑には土を掘り起こしただけのトイレが幾つもできた。
 避難者は二本松市に再避難する15日まで津島地区に滞在した。その間、第1原発は12日に1号機、14日に3号機が水素爆発。15日に2、4号機も爆発し、大量の放射性物質が大気に放出された。
 放射性物質は風で津島地区のある北西方向に運ばれた。2〜4号機が爆発した14、15日は雨と雪に見舞われ、放射性物質を付着させながら降り注いだ。
 避難者は自分が放射性物質に襲われることを認識できないでいた。「国や東電から何の情報も来なかった」(馬場町長)からだ。
 避難者が情報の枠外に置かれたまま、津島地区の放射線量は見る見る上がった。文部科学省が15日夜に津島地区で測ったモニタリングカーの計器は毎時270〜330マイクロシーベルトを指し示していた。=2011年11月9日、河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


<回顧3.11証言>放射能汚染 非公表の“非情”
 福島第1原発事故で福島県浪江町の住民が集団避難した同町津島地区は、高濃度の放射性物質が降り注いだ地域だった。だが、放射性物質が大量に漏れた情報は国や東京電力からもたらされず、住民は自分の身に危機が迫っていることを知らずに事故後の4日間を過ごした。(勅使河原奨治)
◎福島・浪江町民、高線量地と知らず避難(下)
 福島第1原発事故で、国や福島県、東京電力は放射能汚染情報を明らかにせず、浪江町民を放射性物質が拡散した危険な地域に置き去りにした。「公表基準が確立されていなかった」「情報の信頼性が不十分と判断した」。それぞれの立場で釈明するが、非公表によって、一時的にでも住民の生命と健康が危険にさらされる状況に追い込んだ責任は重い。
 第1原発の敷地には放射線量を測るモニタリングポストが複数箇所に設けられている。東電は1号機が爆発した2011年3月12日午後3時36分の約20分前、浪江町津島地区の方向を示す北西側のポストで測定を開始。約2分ごとにデータを取り、翌13日午前9時までに限っても548回の測定値を得た。
 東電は13日午前9時以降に測った値は明らかにしたが、それまでの548回の分は5月28日まで公表しなかった。548回の中で最高値だった3月13日午前8時33分の毎時1204マイクロシーベルトも長らく世に出なかった。
 東電は非公表の理由として、公表の判断基準が不明確だったことや広報部にデータが届かなかったことを挙げる。浪江町は東電と1998年、原発トラブルの際に通報連絡を徹底する協定を結んだが、全く機能しなかった。
 最新技術で放射性物質の拡散を予測する「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」も、国と福島県のデータ公表の不手際で宝の持ち腐れになった。
 SPEEDIを運用する財団法人原子力安全技術センター(東京)は地震発生の数時間後、放射性物質の拡散予想の解析を開始。浪江町津島地区のほか、飯舘村、川俣町など北西方向の地域に広がっていたことが分かった。
 解析結果は3月12日午前3時から1時間おきに福島県庁にメールで送られた。しかし、県災害対策本部に受信確認の連絡はなく、メールの存在に気付く職員はいなかった。SPEEDIの端末に接続できる県庁の設備が地震で使えなくなる不運も重なった。
 対策本部は13日朝、国が前日に避難指示を半径20キロの同心円状に広げた根拠を確かめるため、SPEEDIの解析結果をファクスで取り寄せた。これまでの防災訓練では拡散予想を基に避難域を決めていたからだ。
 この時点で県も放射能汚染が北西方向に広がっていることを認識したが「データが古く、放射性物質の密度も不明だ」と判断し、公表を見送った。
 SPEEDIの解析結果が県民に知らされたのは3月23日だった。
 浪江町民が津島地区に避難したのは3月12〜15日。SPEEDIの解析を生かして、一刻も早く同地区を離れるよう促されることはなかった。
 「時機を逸した情報は何の価値もない。町民は人災の被害者だ」。馬場有町長は怒りをあらわにする。
 津島地区に避難した無職谷島政己さん(89)は「避難中に解析結果が出ていればすぐに別の所に移り、余計な被ばくを避けられた。行政も東電も住民を軽く見ている」と憤っている。=2011年11月9日、河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 6年の節目に際し、被災者の「証言」を集めた一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


<あなたに伝えたい>笑われぬ生き方したい
 木村汐凪(ゆうな)さん=当時(7)=は、福島県大熊町熊川で父紀夫さん(51)らと6人暮らしで、小学1年だった。車で一緒に帰宅した祖父王太朗(わたろう)さん=当時(77)=と、母深雪(みゆき)さん=同(37)=も津波の犠牲になった。町でただ1人の行方不明者だったが、昨年12月、遺骨の一部が見つかった。
◎七回忌に寄せて(10)いつも走り回り笑っていた娘/木村紀夫さん(長野県白馬村)から汐凪さんへ
 紀夫さん 汐凪、ごめんな。がれきの下で6年近くも待たせてしまって。
 ヒマワリみたいな女の子でした。生まれたときの晩夏の海のように穏やかな優しい子になってくれればと名付けたけど、そうはならなかったですね。いつも走り回って笑っていました。
 震災時は福島県富岡町の養豚場で働いていました。復旧作業に追われ、家に戻ったのは夕方。土台しか残っていませんでした。
 昨年、自宅跡に近いがれきの山から遺骨が見つかりました。本当は喜ばなければならないけど全然そういう気持ちが湧きません。がれきと一緒に運ばれ、復興へと急ぐ世の中で一人取り残された汐凪。申し訳ないし、むなしくもなります。
 七回忌を前に独りぼっちじゃなくなるのは良かったかな。遺骨はほんの一部で、妻と父と3人そろったとまでは言えないけれど。
 3キロ先の東京電力福島第1原発で事故が起きなければ、きれいな姿ですぐ見つかったかもしれないし、つらさや怒りは消えません。
 たった1人で始めた捜索でした。長女と暮らす長野県白馬村から車で500キロ、通い続けています。
 今は多くの手助けをもらっています。ボランティア団体の名前は「チーム汐笑(ゆうしょう)」。汐凪を捜すことでつながりが広がりました。菜の花の油で燃料を作ろうとか、原発を動かさないために電気をなるべく使わずに暮らすとか、生きがいを見つけられている気がします。
 震災後しばらく笑えませんでした。笑顔を取り戻せるように、汐凪が導いてくれているのでしょうね。
 自宅跡周辺は3人とつながれる場所。帰還困難区域で、除染廃棄物の中間貯蔵施設の予定地ですが、売る気も貸す気もありません。
 原発事故と津波から生き延びた人間として、汐凪たちに笑われない生き方をしたい。そう思っています。
 ありがとうな、汐凪。


<原発事故6年>廃炉の難題目の当たり
 東京電力福島第1原発事故から6年を前に、原発構内に入った。炉心溶融(メルトダウン)した1〜3号機の建屋では、使用済み核燃料の搬出に向けた準備が進む。ただ、最難関となる溶融燃料(燃料デブリ)の取り出しを巡っては、炉心直下の映像をようやく捉えることができたばかり。廃炉に至る道のりの長さと険しさを改めて感じた。
<鉄骨むき出し>
 原子炉建屋を臨む高台に立つ。装備はヘルメットに紙マスクだけ。構内の空間放射線量が低減し、防護服は不要になった。
 建屋を覆ったカバーが外され、ゆがんだ鉄骨がむき出しになった1号機。がれき撤去に向け、大型クレーンでつり下げた調査用のカメラがゆっくり動く。
 水素爆発しなかった2号機には「清水の舞台」のような構造物がある。壁に穴を開け、使用済み燃料を取り出して装置を搬入するためだ。
 2号機の格納容器には1〜2月、カメラやロボットが相次ぎ投入された。事前調査と位置付けられたカメラ挿入で炉心直下の映像を撮影できた。だが、本格調査を担う予定だったサソリ型ロボは、炉心直下にたどり着く前に立ち往生。溶融燃料の位置や量は把握できなかった。
 建屋内は人が容易に近づけない高線量だ。廃炉作業の核心に迫るにつれ、想定外の事態が今後も起こりうることを予感させる。
<「梅雨前には」>
 建屋周辺を歩く。ここでは、防護服と半面マスクの着用が必要。防水のためモルタルが塗られ、灰色に染まった斜面に作業員が見えた。亀裂から雨水が染み込んで汚染水が増えることがないよう、確認作業をしているという。
 汚染水対策では昨年3月、凍土遮水壁の運用が始まった。建屋に流れ込む地下水を減らすための切り札とされている。
 凍結のための配管には霜が付いている。ただ全面凍結には至っていない。「梅雨前には
凍結が完了できればいいのだが…」。同行した東電の担当者が話した。
<並んだタンク>
 汚染水をためる巨大なタンクが立ち並ぶエリアに回る。漏えいトラブルが絶えなかった組み立て型を解体し、漏れにくい溶接型を建設する作業が今も続く。
 汚染水の発生量は減少傾向にあるものの、多核種除去装置(ALPS)などで浄化してもトリチウムは取り除けない。トリチウム水の処理方法は決まっておらず、現状ではタンクを造り続けるしかない。
 事故発生から6年。明確になってきているのは、課題と解決の難しさだ。(福島総局・大友庸一)


東日本大震災6年岩手/交通網再生で沿岸部に光を
 ひとたび災害が起きれば、地域にとって道路や鉄路は生命線になる。被災者を救い、物資を運び、情報を伝え、命をつなぐ。東日本大震災後のインフラ整備に不可欠な視点になったと言える。
 岩手県の沿岸被災地では交通網の整備が急速に進む。国が復興道路と位置付ける三陸沿岸道路(仙台−八戸、359キロ)は昨年秋までに46%が開通。2018年度中には60%を超え、20年度中にも完了する見通しだ。
 震災前の事業化決定は約6割の211キロ。ルート未定の区間さえあった。そこに震災が起き、一部開通区間が救急搬送や物資輸送、あるいはボランティアの交通路として代替機能を果たした。
 国土交通省は「災害時の道路には、破壊されず人が移動できることが求められる」と教訓を示す。かつてないスピードで「命の道」を整備する国の姿勢は評価したい。
 ただ、生活に密着する地域の道路網はまだ脆弱(ぜいじゃく)だ。沿岸を直撃した昨年8月の台風10号豪雨では県管理の国道、県道が最大47路線78区間で通行止めとなった。震災時の68区間を上回り、内陸からの物資輸送や復旧支援が滞った。川の氾濫で護岸ごと道路がえぐり取られる被害が相次いだ。
 三陸沿岸道路や宮古盛岡横断道路(100キロ)、東北横断道釜石秋田線(80キロ)の動脈が無傷でも、毛細血管のような周辺道路が寸断されれば地域の足は機能しない。県は沿岸と内陸を結ぶ国道や県道計33路線で道幅拡大やトンネル整備を進めている。さまざまな災害に耐え得る道路網の構築を急いでほしい。
 鉄道に目を転じると、震災で被災したJR山田線(宮古−釜石間)が18年度中に全線復旧する。第三セクター三陸鉄道(宮古市)に移管され南北リアス線と直結する。
 地域の期待は膨らむが、三鉄の経営を巡る課題は多い。震災直後の観光需要が一段落した反動があり、16年度決算見通しは当期損失が3182万円で3年ぶりの赤字となった。4〜10月期の輸送人員は約32万8000人で前年度比7万2000人も減った。
 山田線復旧後のレールは久慈市から大船渡市までの約163キロで、駅は計38に上る。長期にわたる運休でマイカー依存が強まっていることが想定され、利用促進のための駅前開発が不可欠となる。
 宮古市は2月、移管後の山田線を含めた沿線3地区に新駅を設ける方針を決めた。いずれの地区も災害公営住宅の整備や住宅再建で人口が増えており、商業施設が集積する可能性もある。他の沿線自治体でも駅周辺を核としたにぎわい創出が望まれる。
 岩手は交通ネットワークの転換期を迎えつつある。新たな産業を創出し、雇用の場を被災者に提供する好機にもなろう。国と県、地域企業が連携し、復興事業完了後の被災地の姿を描いてほしい。


河北抄
 岐阜県内の高校生が、東日本大震災の被災地から取り寄せた種をまいてヒマワリを育てている。花を咲かせ、採取した種は「被災地の痛みを忘れないで」と呼び掛けながら地元の人々に配る。4年目を迎えた「ひまわりプロジェクト」だ。
 高校生は吉城(よしき)高(同県飛騨市)の写真部員たち。ヒマワリの種は、震災後の状況を伝える壁新聞を作ったのをきっかけに、宮城県南三陸町の写真店経営佐藤信一さん(51)から譲ってもらった。
 おととし11月、佐藤さんを同高に招き、講演をしてもらった。「私が撮った写真を見せながら話をした。生徒たちは津波の恐ろしさに衝撃を受けていた。遠くにいても、気に掛けてもらうことは本当にありがたい」と佐藤さんは語る。
 同高写真部顧問の鈴木泰輔教諭(40)は話す。「近くの畑では約100本のヒマワリが咲いた。被災地に思いを寄せる活動は、新しい部員が入ってきても変わらずに続けていきたい」
 震災から6年。記憶の風化を少しでも防ごうと、どこかで伝え続けている若い力があることを忘れてはいけない。


被災地の物流拠点に 仙台・岩切で整備計画
 仙台市宮城野区岩切で大規模物流拠点の整備構想が進んでいる。JR仙台貨物ターミナル駅(宮城野区宮城野)の岩切地区への移転計画を受け、近くの水田を土地区画整理事業で造成する。東日本大震災の被災地を含む仙台圏の新たな物流拠点の要とするべく、2020年ごろからの造成を目指している。
 地権者らの土地利用計画によると、今市地区とJR東北線の間の農地や宅地など計52.7ヘクタールを市街化区域に編入。県道仙台松島線(利府街道)の南側を中心に計8街区の流通業務地区を整備し、配送センターを置く。
 貨物駅のそばに物流拠点を配置することで相乗効果を見込む。北側にはスーパーマーケットや福祉施設、保育園を配置予定で、近隣の居住環境の向上が期待される。予定地は国道4号仙台バイパスに接し、三陸自動車道や仙台港へのアクセスも優れている。
 JR貨物は20年度、東北線の南側で新貨物駅の業務を始める予定。地権者は移転計画を契機に農地の転用を検討してきた。当初は宅地造成を目指したが、旅客駅の周辺1キロ圏に宅地開発を限定する市の方針に合致せず、道路ネットワークを生かした業務対象の土地利用に方針転換した。
 整備に伴い、交通量が増加している県道仙台松島線のさらなる混雑が懸念されるため、土地区画整理事業で県道に右折車線を新設する。南東の仙台港方面から流通業務地区に直接入る専用道路も計画する。市街化区域への編入は、来年6月の県都市計画審議会などを経て正式に決まる。
 岩切地区は七北田川の水運も含め、歴史的に交通の要衝となってきた。地権者でつくる世話人会の高野秀策代表は「地域の特性を生かしてきれいな街を造り、子孫に残したい」と話す。


がん闘病中に原発事故 「命の詩」日めくりで
 がんと闘病中に東京電力福島第1原発事故に見舞われた福島県双葉町出身の元中学校教頭、故三本杉祐輝さんの詩を掲載した日めくりカレンダーが完成した。三本杉さんは2014年11月に56歳で亡くなるまで、ブログにつづった詩で「命の意義」を発信し続けた。
 カレンダー「綿毛にのって」は、同名詩集の第2集の位置付け。三本杉さんと交流してきた福島市の矢口洋子さん(73)が写真で、大阪府在住の東晴美さんが筆文字で支援した。
 <自らの命を動かすそれが運命>といった作品からは、生き抜く意志の強さが感じられる。<たんぽぽの綿毛のように優しい そんな人になりたい>。優しさを大事にしてほしいとのメッセージも目立つ。
 三本杉さんは03年、富岡一中(福島県富岡町)教頭時代に悪性リンパ腫を発症。入退院に加えて原発事故後は福島県内外で避難生活を強いられた。元がん患者で兵庫県の運送会社経営木南一志さん(58)が作品に共感。二つの詩集を提案して発行者となった。
 三本杉さんの自宅周辺などの写真を作品に添えた矢口さんは「原発事故後も教え子を気に掛け、絶えない学校でのいじめに心を痛め、『優しさの種』をまき続けたいと言っていた三本杉さんの思いを感じ取ってほしい」と期待する。
 カレンダーは1000円(税・送料込み)で、収益はがん患者支援や児童養護施設などに全て寄付する。連絡先は矢口さん090(7935)2265。


<政宗生誕450年>東京で息づく仙台みそ
 仙台藩祖伊達政宗の生誕から450年の今も、江戸の同藩下屋敷で営まれたみそ製造が東京で引き継がれている。都内に5軒程度残るみそ製造所の一つ「八木合名会社仙台味噌(みそ)醸造所」(東京都品川区)は、宮城県内でも廃れたとされる仙台みそ古来の製造法を伝え続けている。
 同醸造所は、仙台藩品川下屋敷の跡地でみその製造と小売りを手掛ける。屋敷内に1700年代半ばまで置かれたみそ蔵が明治維新後、仙台の素封家4代目の八木久兵衛に譲渡され、1902年に現在の会社となった。
 市教委の調査によると、下屋敷では江戸各所の藩邸に常勤する1000人以上の藩士のため、仙台から運んだ大豆や米で地元風の辛口みそが造られた。甘口が主流だった江戸で一般向けにも販売されて評判になり、下屋敷は「仙台味噌屋敷」として知られるようになったという。
 市教委は、同醸造所の醸造法がこうじの製造方法や大豆の蒸し方など多くの面で、宮城県味噌醤油工業協同組合の定める現在の仙台みその仕込み方と異なると指摘。「本場の仙台で廃れた古典的な醸造法を守り続けるまれな存在だ」と評価している。
 醸造所の八木忠一郎代表社員(81)は「仙台藩との関わりを問うお客がたまにいる。この土地で造り続けることが大切だ」と話す。
 仙台市は1月、都内に残る政宗や仙台藩ゆかりの地を紹介するリーフレットを2万部作成し、都内の歴史施設などで配布を始めた。JR飯田橋−秋葉原駅沿いの仙台堀や港区南麻布の仙台坂に加え、同醸造所も取り上げた。
 八木合名会社仙台味噌醸造所の連絡先は03(3474)0505。


大震災から6年 福島の声をどう聴くか
 死者と行方不明者合わせて2万人近くが犠牲になった東日本大震災からあすで丸6年になる。
 被災地は復興の途上にあるが、東京電力福島第1原発事故に見舞われた福島県の苦難は現在進行形だ。
 震災前202万人だった福島県の人口は190万人を割り込んだ。県内外に今も8万人近くが避難し、避難先は全都道府県にわたる。原子力災害の悲惨さは、6年の歳月を経てなお目の前に立ちはだかる。
 この1年で最も被害の奥深さを気付かせられたのが、原発事故後に家族とともに避難した子供に対するいじめの問題だ。
避難いじめの深刻さ
 避難者いじめの問題を提起したのは、福島県から横浜市に自主避難してきた中学1年の男子生徒のケースだった。生徒は小学生時代に「菌」扱いされ殴られたり、150万円ものお金をせびられたりしていた。
 「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからぼくはいきるときめた」
 生徒はそう手記に書いた。
 いじめの背景に何があったのか。
 生徒と接触を続ける飛田桂弁護士は「学校は社会の縮図。子供は大人を見て弱い者を狙う」という。
 避難してほどなく、生徒の家族は嫌がらせを受けていた。ゴミが福島ナンバーの車の上に捨てられたり、ポストに「福島県民は出て行け」との文書が投げ込まれたりした。
 横浜の避難いじめが表に出てから、同様のいじめが次々に明らかになった。千葉では子供が「放射能がきた」といった心ない言葉を同級生から浴び、新潟では児童が担任に「菌」を付けて呼ばれていた。
 福島県から全国に避難している児童・生徒は、昨年5月時点で約7800人に上る。表面化していないいじめがある可能性がある。
 福島からの避難者の相談に乗る弁護士によると、差別や嫌がらせを避けるため、福島から来たことを悟られないようにひっそりと生活する人は今も多いという。
 原子力災害により、古里を追われたうえに、いわれのない差別やいじめといった二重の被害を受ける。それは理不尽というほかない。
 この春には、自主避難者にとって大きな制度の変更が迫っている。
 福島県が避難先の自治体を通じて行ってきた住宅の無償提供が今月で打ち切られるのだ。避難者の帰還を促すのが目的とされる。
 しかし、自主避難者の相談に乗る「避難の協同センター」の瀬戸大作事務局長の携帯電話には、「家が決まっていない」といったSOSが先月から相次いで寄せられている。
 無償提供打ち切りの対象となる自主避難者は、福島県の集計で約2万6600人だ。福島の避難者全体の3分の1に及ぶ。
 避難指示区域の避難者と異なり、自主避難者には東京電力からの定期的な賠償金はなく、住宅の無償提供が公的支援の柱だ。福島県は一昨年6月に打ち切りを決めた。除染が進み生活環境が整ったとの理由だが、仕事や子供が学校に慣れたことを理由に帰らない決断をする人もいる。
 福島県いわき市から自主避難し、埼玉県毛呂山町に子供2人と住む河井加緒理さん(35)は、子供の学校を優先してとどまることを決めた。苦しい生活の中で、住宅の提供を受けることの意味は大きかっただけに、打ち切りはショックだった。
復興に必要な地域の絆
 河井さんのような母子避難や二重生活を余儀なくされている人も珍しくない。避難者の生活実態に即した対応が必要だ。
 福島県が無償提供を打ち切った後、独自の予算で4月以後も無償提供を続けたり、有償での優先入居枠を設けたりするなど支援を継続する自治体もある。このままでは、避難先によって避難者間に大きな差がつくことになる。国が調整に乗り出すべきではないか。
 一方で、政府指示の避難区域で新たな動きがある。
 飯舘村や浪江町などの避難指示が近く、帰還困難区域を除き解除される。対象は3万人以上だ。だが、既に避難指示が解除された地域の帰還率は1割程度にとどまる。
 南相馬市の小高区は昨年7月に先行して避難指示が解除された。いまだ人の姿はまばらだ。震災当時のままの荒れた家屋も目立つ。帰還するのは高齢者ばかりだと町の人は言う。戻った人の生活と健康を守る取り組みの必要性を痛感する。
 それでも地域の営みは少しずつ戻りつつある。小高区では小、中、高校が4月に再開する。
 将来の町づくりのため、福島に暮らす人と避難者の結びつきをどう保つのかも問われている。
 小高区に長く住む広畑裕子さんは、小高で働く人たちを紹介するカラーのパンフレットを毎月発行し、県外避難者らにも送り続けている。小高のいまを知ってほしいとの思いからだという。
 帰った人、これから帰る人、帰らない人……。原発事故さえなければ、同じ故郷で暮らしていたはずの人たちだ。問われているのは、その人々の声を、政府が、自治体が、そして私たち一人一人がどう聴くかだ。


3・11とイチエフ廃炉 “非日常”がなおそこに
 六年たってもイチエフ廃炉の先は見えない。あらゆる命を拒む深い闇との境界で、手探りの危険な作業に挑み続ける人やロボットに、心を送り続けたい。
 福島第一原発(イチエフ)から南に約二十キロ、高台に立つ楢葉遠隔技術開発センターは、巨大な何かの格納庫を思わせる。
 通称モックアップ施設。モックアップとは実物大の模型のことで、廃炉の実動部隊であるロボットたちの、いわば訓練場である。
 高速増殖原型炉の「もんじゅ」と同じ、日本原子力研究開発機構(JAEA)の運営だ。
 建設費は約百億円。一昨年十月の開所式では、安倍晋三首相も祝辞を述べた。
 ロボットの動きを確認する試験棟には、原子炉格納容器の下部にあるドーナツ型の圧力抑制プールの一部が実物大で再現された。
 高さ五・五メートル、直径四・五メートルの円筒形の水槽や、高さ七・五メートルのモックアップ階段などもある。
 昨年の秋にセンターを訪れた。
 鉄腕アトムのような雄姿はもちろんない。巨大化した昆虫にも見えるロボットが、ぎくしゃくと階段を昇降し、障害物を乗り越える地道な訓練を積んでいた。
 先月、その中の恐らくエースが、2号機内部の探査に投入された。国際廃炉研究開発機構(IRID)と東芝が共同で開発したサソリ型の自走式ロボットだ。前後に二台のカメラを積んでいた。
 「溶け落ちた核燃料(デブリ)を初めて間近で確認できる」と、関係者は意気込んだ。
 デブリの実態把握こそ、“百年仕事”ともいわれる廃炉作業本番の、はじめの一歩だからである。
 ところが、生身の人間なら一分足らずで死に至るという放射線の嵐の中で、わずか二メートルしか進めずサソリは力尽き、動けなくなってしまった。
 「失敗とは認識していない」と東京電力側は言い繕う。だが、エースの仕事としては、明らかに期待外れだったというのが、直視すべき現実だ。
 放射線とはエネルギーの固まりだ。分子の結合を破壊して、電子回路を短時間で劣化させる威力がある。人間の細胞をがん化させるのとメカニズムは同じである。
 人はもちろん、ロボットさえも、決死の覚悟で赴かなければならないような環境が、あの日から六年を経た今もそこにある−。これがサソリの遺言なのだ。
 廃炉作業の最前線にも、日常が戻り始めているという。
◆ささやかなこの日常
 一昨年三月、原発のある大熊町内に給食センターが開設された。
 イチエフで働く約七千人の作業員が、温かいランチを食べられるようになったという。
 昨年三月には、構内の大型休憩所にコンビニがオープンした。
 甘いシュークリームが一番人気。作業の疲れを癒やしてくれる。缶飲料や弁当、雑誌類は見当たらない。かさばる“ごみ”が増えるといけないからか。日常という言葉は実はとてつもなく重い。
 目の前に、人もロボットさえも近づくことのできない「死地」があり、傍らに先の見えない作業に追われる日々がある。門の外にはこの六年、時間が凍結したまま人影のないまちがある。これこそ戦闘のない戦場ではないか。閉ざされた世界と時間の中で過酷な作業を続ける緊張が、コンビニのカップ麺にも、日常を感じさせるのだろう。
 六年を経てなお、門の向こうに未知の危険があって、それが永く続く恐れもあることを、私たちは忘れるべきではない。
 戦いは始めるより、収める方がはるかに難しい。私たちは、消し尽くすすべを持たないままに原子の火をともし、増やし続けてきたのである。
◆共感をハートに込め
 名古屋市に住むイラストレーターの茶畑和也さん(61)は、六年前の三月二十八日以来毎朝一点、ハートをモチーフにしたイラストを描き、福島に向けてネットで配信し続けている。
 震災翌年、福島県いわき市で開いた展示会には多くの廃炉作業員が訪れた。
 六年変わらず、日々「忘れない」との思いを込めて、あすで二千百七十七点目。「人ごとではない」という気持ちから、老朽化した高浜原発の廃炉を求める市民の会の共同代表も引き受けた。
 人の命や暮らしを尊ぶハートがあれば、今、原発は動かせない。


原発廃棄物処分/未解決のまま再稼働では
 東日本大震災の発生直後、国民の間には原子力発電所に依存しない社会を目指すとの意識が広がった。6年が過ぎようとする今、政府は原発を「ベースロード電源」と位置づけ、再稼働を進めている。
 だが、原発を動かせば必ず発生する使用済み核燃料など高レベル放射性廃棄物は、最終処分のめどが立たない。再稼働を進めればその量は増え、解決への道のりはますます遠くなる。政府は先送りせず、責任を持って解決策を示さねばならない。
 原子力規制委員会は、6原発12基が新たな規制基準を満たしたと判断した。5基が再稼働したが、大津地裁の運転差し止めの仮処分決定で、2基は運転できなくなった。
 全国では約1・8万トンの使用済み核燃料が原発敷地内の燃料プールなどに保管されている。関西電力が再稼働を目指している高浜原発をはじめ、動かし続ければ数年でプールが満杯になる原発は多い。
 政府は地下300メートルより深い地層に廃棄物を埋設する最終処理策を打ち出し、2000年に法制化した。しかし候補地は白紙のままだ。仮に政府が候補地を示しても、地元の同意を得るのは容易ではないだろう。
 廃棄物の無害化までには10万年を要する。日本列島が地震の活動期に入り、未知の活断層が大きな地震を引き起こす中、これほど長期に地中の安定が保たれるかは現代の科学技術では見通せない。
 被災地には除染で発生した汚染土壌など大量の放射性廃棄物が山積みとなっている。政府は今秋、東京電力福島第1発電所の周囲で、最大2200万立方メートル分を保管する中間貯蔵施設の運用を始める。30年以内に福島県外で最終処分する方針だが、住民の間には、処分地が見つからず施設が恒久化するとの懸念がある。
 放射性廃棄物の処分の検討は50年以上も前から始まっていたが、答えが出ていないのに国策で原発の新増設を推し進めた。災禍に直面しても軸足を変えようとしない政府に、国民が疑問を抱くのは当然だ。
 原発が立地する新潟や鹿児島県では、再稼働反対や脱原発を掲げた知事が当選した。原発再稼働に否定的な民意が根強いことを、政府は謙虚に受け止めるべきである。
 廃棄物処理の具体的な道筋を描かないまま、次世代へ難問を押しつけることは許されない。


河北抄
 岐阜県内の高校生が、東日本大震災の被災地から取り寄せた種をまいてヒマワリを育てている。花を咲かせ、採取した種は「被災地の痛みを忘れないで」と呼び掛けながら地元の人々に配る。4年目を迎えた「ひまわりプロジェクト」だ。
 高校生は吉城(よしき)高(同県飛騨市)の写真部員たち。ヒマワリの種は、震災後の状況を伝える壁新聞を作ったのをきっかけに、宮城県南三陸町の写真店経営佐藤信一さん(51)から譲ってもらった。
 おととし11月、佐藤さんを同高に招き、講演をしてもらった。「私が撮った写真を見せながら話をした。生徒たちは津波の恐ろしさに衝撃を受けていた。遠くにいても、気に掛けてもらうことは本当にありがたい」と佐藤さんは語る。
 同高写真部顧問の鈴木泰輔教諭(40)は話す。「近くの畑では約100本のヒマワリが咲いた。被災地に思いを寄せる活動は、新しい部員が入ってきても変わらずに続けていきたい」
 震災から6年。記憶の風化を少しでも防ごうと、どこかで伝え続けている若い力があることを忘れてはいけない。


福島原発事故 改めて教訓に学ぶ姿勢を
 ■東日本大震災6年■
 東京電力福島第1原発事故からあすで6年を迎える。最大40年かかるとされる廃炉に向けて原子炉格納容器内の本格調査がようやく始まったが、高い放射線量などに阻まれ、いきなり難航している。
 原発がひとたび炉心溶融(メルトダウン)のような過酷事故を起こせば一体どうなるか。私たちは数多くの教訓を学んだ。そして発生から6年が過ぎようとしていても事故は現在進行形であり、収束の確かな見通しすら立っていない。思うように進まない廃炉作業はその象徴といえるだろう。
 ●収まらない負の影響
 福島の苦境を横目に全国各地で原発再稼働の動きは加速する。事故の教訓は本当に生かされているのだろうか。
 日本記者クラブ取材団の一員として先月、福島第1原発の構内に入った際、二つの線量計を身に着けた。一つは本社から持参し、もう一つは東電から渡された。
 東電から事前に「最大0・1ミリシーベルトの放射線を被ばくする可能性がある」と説明を受けた。放射線医学総合研究所によると、日本では食物などから1年間に受ける自然放射線は平均2・1ミリシーベルトという。
 構内の除染も進み、顔全体を覆う全面マスクの不要エリアは昨年から大幅に拡大した。原発建屋を外側から見た今回も使い捨てマスクなどの「軽装」で臨めた。
 持参した線量計は0・032ミリシーベルト、東電の線量計も0・03ミリシーベルトの表示で事前の説明を下回った。歯科エックス線検査の3回分だ。
 しかし、建屋の内側は全く別の世界だ。ロボットなどを使った本格調査では、格納容器内の放射線量は最大650シーベルトと推定された。人がその場にいたら数十秒で死ぬという。まさに桁違いである。
 廃炉の工程表によれば、メルトダウンした1〜3号機のどれかで、溶け落ちた核燃料(デブリ)の取り出し方法を2018年度上半期に決め、21年に実施に移す。
 作業の主役は当然、ロボットになる。格納容器内がどうなっているか。どんなロボットが必要で、どう作業を進めるかを検討するためにも事前の調査は不可欠だ。
 2号機に投入した調査ロボットは、目標地点に達しないまま堆積物に進路を阻まれ動かなくなった。堆積物を除去する別のロボットは高い放射線量で不具合を起こした。今後の計画や作業に数々の困難が待ち受けていることは想像に難くない。
 経済産業省は昨年末、廃炉や賠償、除染など事故処理費を従来想定の2倍に及ぶ21兆5千億円と推計した。その多くは電気料金への上乗せなど国民負担となる。
 東日本大震災では岩手、宮城、福島3県で今も12万人以上が避難生活を送る。うち福島県が8万人と際立って多い。避難が長引く最大の要因は原発廃炉への道が容易に見えないことだろう。
 避難のストレスや疲労による震災関連死も福島県は6日現在、2131人と突出する。農林水産業や観光は風評被害に苦しむ。負の影響は収まる気配がない。
 ●「なし崩し」の懸念
 福島原発事故を受け、国内の原発は定期検査に合わせていったん全機が停止した。その一時的に出現した「原発ゼロ」も結局は長続きしなかった。
 政府は14年4月に閣議決定したエネルギー基本計画で原発を「重要なベースロード電源」と位置付けた。「原子力規制委員会の新規制基準に適合した原発は地元の同意を得て再稼働させる」が政府の基本方針だ。この方針に沿って九州電力川内原発(鹿児島県薩摩川内市)1、2号機は再稼働した。原発の新規制基準を満たす審査書が決定したのは九電玄海原発(佐賀県玄海町)3、4号機を含め全国で5原発10基に及ぶ。
 さらに政府は「原発輸出」を成長戦略の一環と位置付け、原発をその技術とともに海外へ売り込もうとしている。
 一連の動きは国民的議論が深まってのことなのか。大地震が多く、津波の危険性と隣り合わせの日本に原発は適しているのか。再稼働を懸念する世論は根強い。なし崩しの決定は許されない。
 福島の教訓から何を学ぶか−。事故から6年を迎える今、私たちに突き付けられている根本的な問いもまた、現在進行形である。


東日本大震災から6年 「暮らしの復興」こそ急げ
 1万8千人の犠牲者を出した東日本大震災から、あすで6年を迎える。
 政府が復興事業の総仕上げと位置づける「復興・創生期間」(2016〜20年度)も、間もなく1年がすぎる。
 住宅や防潮堤の建設など、従来型の公共事業による「復旧」が進んだ。その一方で、暮らしに直接かかわるソフト面の支援はこれからだ。
 岩手、宮城、福島3県の12万3千人がなお避難生活を余儀なくされている。うち3万5千人はいまもプレハブの仮設住宅にいる。
 6年たっても元の生活は戻らず、不自由な仮住まいだ。お年寄りの「孤独死」も絶えない。
 安倍晋三首相は「復興の加速」を強調するが、それも暮らしという中身が伴ってこそである。
 被災地では震災の記憶の風化を心配する声も聞いた。被災者に寄り添った、コミュニティーの再生を目指すきめ細やかな支援も求めたい。
■宅地を整備したのに
 3月初め。津波被害が大きかった三陸地方の沿岸部では盛り土用の土砂がうずたかく積み上げられ、大型ダンプが行き交っていた。
 国が15年度までに震災復興に投じた29兆円は、主に住宅整備や防潮堤、道路の建設などインフラ整備に充てられてきた。
 福島県を除くと、住宅整備は17年度中に9割方、完了する。
 だが、これも地域によって進捗(しんちょく)度合いが大きく異なる。
 岩手県陸前高田市では宅地の4割で利用の見通しが立っていない。時間がかかり、住宅の建設を諦めた地権者もいるという。せっかく整備しながら虫食い状態になる恐れがある。
 一方、宮城県南三陸町は今月で住宅整備が終わる。
 佐藤仁町長は今後の課題について「ついのすみかでのコミュニティーづくり」を挙げる。新たに生きる土地で、「隣近所」と言える人間関係を築くことだ。
 住む家ができれば、住宅整備は終わりというわけではない。
 それぞれの自治体の被災状況、まちづくりの方針によってニーズも違ってくる。時間がたつほどその傾向は強まる。
 大事なのは地元の声にしっかりと耳を傾けることだ。
 復興庁はこれまでそうした進め方をしてきたか。建設が進む巨大防潮堤に疑問をはさむ住民は今も少なくない。
 復興庁の取り組みを検証する必要がある。
■回復しない売り上げ
 被災地が自立するには産業の再生が不可欠である。
 津波の被害を受けた水産加工施設は既に9割まで回復した。
 だが、経済産業省が実施したアンケートによると、震災直前の水準まで売り上げが回復した企業は45%にとどまっている。中でも主力の水産・食品加工業は3割にすぎない。
 原因の一つが福島県を中心とした原発事故の風評被害だ。国が安全性をPRし、不安を払拭(ふっしょく)すべきなのは言うまでもない。
 震災前の取引先が他地域の水産品に乗り換え、販路を失ってしまったというケースも多い。
 販路拡大に向けて競争力を高めるには新しい発想と、それを担う人材が必要だ。
 被災地では人口の流出、人手不足が深刻である。一方でボランティアに入り、被災地に住み続ける若者もいる。
 国も新年度予算案に若者や専門家を派遣するモデル事業や住宅支援などの新規事業を盛り込んだ。こうした動きをさらに強めるべきである。
■被災地から学びたい
 6年がたち、壊れたものを元に戻す復旧から、本格的な復興につながる動きも目立ってきた。
 3月初め、南三陸町中心部の高台で「南三陸さんさん商店街」の常設店舗がオープンした。
 震災翌年、プレハブ店舗で営業を始め、被災地の仮設商店街の代表格となった。
 地元の杉をふんだんに使った平屋の建物に、鮮魚店、飲食店など28店が軒を連ねる。仮設時代の2倍、年間80万人の集客を目指す。
 宮城県女川町は「まちづくりのフロントランナー」と言われる。温泉を併設したJR女川駅から海に延びる遊歩道。その両側に地元の特色ある店舗が並ぶ。
 施設の運営などにかかわる阿部喜英さん(48)は言う。
 「被災地はほかで何十年もかかったまちづくりを5、6年でやってきた。防災はもちろん、他の地域の人が学べることがたくさんあると思う。役立ててほしい」
 阿部さんの元には大手企業が社員研修に訪れる。被災地はいつまでも被災地ではない。前向きな試みを広げていきたい。


滋賀の男性、たこ焼きで被災地支援 初の3・11訪問へ
 東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町の支援活動を続ける滋賀県長浜市のボランティア団体「源希倶楽部(げんきくらぶ)」代表の徳田智史さん(34)=同市十里町=が12日、被災地で行われる催しに参加し、たこ焼きを販売して売上金を地元に贈る。今回が9度目の現地入りで、震災当日の11日に訪れるのは初めて。
 徳田さんは、震災翌年の2012年3月12日、震災1年の様子をテレビで見て「何かできないか」と思い立ち現地を訪ねた。被災地の様子を写真に撮ることをためらったが、地元のタクシー運転手から「被災の状況を伝えてほしい」と声を掛けられた。
 長浜に戻りすぐに同倶楽部を発足、写真展を開いた。会長に就いた小学時代の恩師の堀田源四郎さん(66)=米原市市場=から「1カ所に集中して支援活動をするように」とアドバイスを受け、南三陸町歌津地区の住民と交流を続けている。
 徳田さんは包装資材業を営む傍ら週末に、たこ焼き店を経営。14年からは現地の伊里前福幸(ふっこう)商店街の催し「春つげわかめまつり」に合わせて現地でたこ焼きを販売している。
 「被災者にとってとても重い日」との思いから「3・11」に行くことは避けていたが、今年は催しが12日になったため、堀田さんとともに発生当日に初めて訪ね、慰霊献花式にも出席する。
 日ごろ交流がある長浜市内の障害者施設の入所者が作った千羽鶴も届ける。徳田さんは「初めて11日に行くので、どんな感情になるか分からない。息長く活動を続けたい」と話している。


東北食材の「食堂」運営、後輩に託す 京都、3学生卒業で
 毎月11日夜、東北の食材を提供する「きっかけ食堂」(京都市上京区)を3年間運営してきた学生3人が、今春の大学卒業とともに、後輩に運営を託して食堂を去る。東日本大震災から6年を迎える11日は、昼夜営業し、「震災の記憶を風化させない」と訴える。
 いずれも立命館大4年の右近華子さん(22)=右京区=、橋本崚さん(22)=同=、原田奈実さん(22)=京都府井手町。3人は2014年2月に被災地の実情を知るバスツアーに参加。復興について語り合う場を作ろうと、食堂を企画した。
 同年5月11日、日替わりで出店できる食堂「魔法にかかったロバ」(上京区一条通御前西入ル)で最初の「きっかけ食堂」を開いた。以来、毎月11日に欠かさず同じ場所で開き、東北の地酒や三陸沿岸の海産物を出してきた。当初は学生客が多かったが、復興に携わる人や東北にゆかりある人の集まる場として次第に有名になり、最近は一晩に50人前後が訪れる。
 店内では、毎時11分、東北に対する思いや、参加する復興支援活動について客同士が話し合う「きっかけタイム」を設けている。来店をきっかけに東北を訪れた若者もいた。
 昨年から運営に加わった後輩メンバーに、4月以降の食堂を託すが、3人は「今後も何らかの形で、きっかけ食堂や東北と関わりたい」と語る。
 11日は午前11時から午後5時と同6時から翌日午前0時まで営業する。宮城県気仙沼市産のメカジキの刺し身や、福島県白河市産のニラを使ったにらまんじゅうなどが並ぶ予定。発生時刻の午後2時46分は、黙とうをささげる。


[福島原発事故6年]息の長い被災者支援を
 東日本大震災による東京電力福島第1原発の事故から11日で6年になる。
 除染作業や交通インフラの整備、商店街の再建など環境整備が進み、この春には、福島県4町村に対する避難指示が一斉に解除される。
 地元自治体や住民は事故発生以来、絶え間なく難題にぶつかり、悪戦苦闘しながら、復興に取り組んできた。その努力が少しずつ実を結びつつあるが、その一方で、今なお多くの困難に直面している事実も見逃せない。
 避難指示が解除されても避難者が戻らないというケースが目立つ。すでに避難指示が解除された区域であっても、実際に戻ってきた住民の割合(帰還率)は低く、数%から10%台にとどまる。国の帰還政策は行き詰まっている。
 復興庁などが実施した住民意向調査によると、今春、一部の避難指示が解除される浪江町、富岡町では5割以上が「戻らない」と回答した。特に30代以下は帰郷を断念した人が7割前後に上る。
 「原発の安全性への不安」や「子どもたちの学校のこと」「生活に必要な商業施設や医療機関が少ないこと」などが理由だ。
 避難指示の解除に対して「早すぎる」と考えている県民も多く、評価は割れている。
 被災者が10人いれば10の被災体験があり、それぞれが異なる事情を抱え、戻るか避難先にとどまるか、真剣に悩んでいるのである。
 懸念されるのは帰還政策が進まないのを被災者のせいにする空気が存在することだ。
■    ■
 福島県の内堀雅雄知事は、
 被災地の自治体や住民は「風評と風化という二つの逆風」にさらされている、と指摘する。
 福島県産に対する風評被害はひところに比べ減ったようだが、なくなったわけではない。避難者に対する偏見や差別、子どもたちに対するいじめは深刻だ。
 福島県から横浜市に自主避難した中学生がいじめを受けていたことが昨年11月にあきらかになったのをきっかけに、同様のいじめが各地で次々に表面化した。
 原発事故でふるさとに住めなくなり、避難した先でまた、いわれのない差別やいじめに遭う。こんな理不尽なことはない。
放射性物質と放射線に関する誤った情報がインターネットなどを通して拡散され、それが健康不安をかきたて、偏見や差別意識を生み出しているのである。
 「被災者はわがまま」だという上から目線のモノ言いは、基地政策に協力しない沖縄をわがままだと批判する沖縄ヘイトとも無関係ではない。
■    ■
 避難指示の解除に伴い、賠償金も打ち切られることになる。全国各地に自主避難している世帯への住宅の無償提供も3月末で打ち切られる。これでいいのだろうか。
 廃炉までの道のりはあまりにも長い。中間貯蔵施設がないため避難指示の解除後も除染で出た廃棄物入りの黒い袋があちこちに山積みされたままである。現実を直視した、避難者に対する息の長い支援が必要だ。

[大震災あす6年 原発] 頼り続けるのは無責任
 東日本大震災からあすで6年。東京電力福島第1原発事故が示したものは、あまりに理不尽な現実だった。
 全電源が喪失し、1〜3号機で炉心溶融(メルトダウン)が発生した。複数の原子炉が暴走したのは世界の原発で初めてであり、衝撃は今なお消えない。
 放射性物質の大量放出で汚染は広範囲に及び、居住できなくなった住民は避難を余儀なくされた。表土をはぎ取るなどの除染作業も終わってはいない。
 廃炉作業は遅々として進まず、事故費用は膨らむばかりだ。長期にわたる国民負担も避けられそうにない状況である。
 事故を受けて、福島県は「脱原発」を掲げ、県内に立地する全基(10基)の廃炉を求めている。
 こうした中、国は震災後に策定した新規制基準に適合した九州電力川内原発(薩摩川内市)などの再稼働を急いできた。
 この間、国内外のエネルギーを巡る状況は大きく変わった。太陽光や風力など再生可能エネルギーの発電コストが下がり、急速に普及が進んだ。
 一方、原発は安全対策費などが電力会社の経営を圧迫し、高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の処分の見通しも立たない。
 何よりも原発が他の発電と違うのは、過酷事故が起きれば影響が子孫まで及ぶことだろう。
 このまま、原発に頼り続けるのは無責任だ。行政も企業も、脱原発に向けて方針の大転換に踏み出す時ではないか。
 経済性からみても、原発は厳しいといえよう。経済産業省の試算で事故費用は21兆5000億円になり、従来の想定から倍増した。廃炉だけでなく、汚染水対策や賠償の支払いなどがかさむためだ。
 費用は今後も増えそうだ。溶け落ちた核燃料(デブリ)の取り出し作業が始まるが、現場は放射線量が高い。作業が難航するのは避けられまい。
 世界最大の原発企業であるフランスのアレバは、自国などでの建設費が膨らんで経営難に陥った。日本の東芝も、米国での原発事業で巨額の損失を出して債務超過に転落した。
 国などは「原子力は安い」「安全だ」と繰り返してきた。だが、そんな「神話」は崩壊した。安全対策も非常時の被害想定も甘かったと言わざるを得ない。
 安全で安心できる将来に向け、選択すべきエネルギー政策は明らかだろう。


福島事故から6年 原発の方向性、今考えよう
 東京電力福島第1原発事故の発生から、あすで6年となる。川内や伊方など新規制基準を合格し、再稼働した原発がある一方で、福島の事故現場では溶け落ちた核燃料(デブリ)の回収のめどが立たず、事故の収束はほど遠い。この1年で、核燃料サイクルの中核施設となる高速増殖炉の廃炉方針や、原子炉メーカーでもある名門企業東芝の経営危機も明らかになり、原発を取り巻く環境は厳しさを増している。
 東電は福島第1原発2号機の内部を調査するために、カメラや線量計を搭載した自走式ロボットを投入したが、炉心直下にたどり着く前に立ち往生した。強い放射線のためか、カメラの映像にも不具合が出ている。
 放射線量は最大毎時650シーベルトと推定される。人命を短時間で奪う強さであり、機械での作業も困難なほどだ。30年前に事故が起きた旧ソ連のチェルノブイリ原発は今もデブリの撤去はできていないが、福島も相当な長期戦を覚悟すべきなのだろう。
 廃炉作業の難航に加え、農業被害や住民生活への賠償金、広域的に拡散した放射性物質の除染など事故処理費用は青天井に増え続ける。現在の試算で総額21兆5千億円だ。事故を起こした東京電力だけで負担はできず、国は電気料金に上乗せして、国民に負担を求めるスキームを検討している。
 事故の総括さえ十分にできていないのに、負担論先行のやり方に違和感を覚える人は多いだろう。東電は費用捻出を理由に、新潟県の柏崎刈羽原発の再稼働を急ぐが、昨年10月の知事選は再稼働慎重派の新人が勝利した。安全性への地元の不安は大きいと言える。
 原発推進論の一番の根拠だった「安い電力」も揺れている。欧米では風力や太陽光など再生可能エネルギーの活用が急拡大している。原発と比べ、発電コストが低くなってきたからだ。「脱原発」は安全性から語られることが多いが、経済現象としての「原発離れ」が見え始めている。
 福島の事故後、世界的に安全対策の強化が求められ、建設費が上昇した。東芝は買収した米国企業が原発新設で多額の損失を抱えていることがわかり、その負債で存亡の危機に直面している。世界最大の原発メーカーのフランス・アレバも経営難に陥っている。
 日本政府は国内メーカーのために新興国への原発輸出を後押しするが、リスクは大丈夫か。現地でトラブルが起きれば、経営のダメージが計り知れないのは、東芝のケースを見ても明らかだ。
 発電コストの安さは、使用済み核燃料を再利用する核燃料サイクルを前提としているためでもある。しかし、研究用の高速増殖炉「もんじゅ」がほとんど稼働実績を残すことができないまま、廃炉になることが決まった。
 本来なら再利用計画を断念し、最終処分場建設を急ぐべきだろうが、住民の反発を危惧してか、候補地の名前を出すところまでも至っていない。福島の事故後も問題の先送り体質は変わらない。
 原発が電力を安定供給し、この国の豊かさに寄与したことは評価すべきだろう。しかし、「3・11」後、その経済性が揺らいでいる。事故から6年、課題を直視し、原発政策が進むべき方向性を真剣に考えたい。(日高勉)


大震災6年 中 生活支える産業に力を
 被災地を支える地場産業は今、どうなっているのか。それを再生してこそ、復興と言えよう。
 農林水産業は回復しつつあるが、東京電力福島第1原発事故の影響で、福島県の遅れが気掛かりだ。
 被災3県で津波によって浸水した農地のうち、宮城で96%、岩手で77%が営農できる状態に回復したが、避難指示区域が残る福島は46%にとどまっている。
 さらに、福島県産品には根強い風評被害がある。消費者庁の最近の調査では、福島県の農水産物を買い控えるという消費者が16・6%もいた。
 桃やコメなど福島産農産物は、他の産地より安い価格で取引されているのが実情である。販路が回復しないことや業者による不当な「買いたたき」が一因のようだ。これでは、ただでさえ苦しい生産者の営農意欲をそぎかねない。
 国は、福島県の農産物が厳格な検査で安全性が確保されていることを、消費者に周知徹底する必要がある。流通面で福島の生産者が不利益を強いられている実態の解明も急ぐべきだ。
 漁業でも港湾のインフラ整備が進んでいる。被災した漁港は、部分的な岸壁の回復を含めると99%が復旧した。
 ただ、岩手、宮城両県は水産市場が全て再開したのに対し、福島県では12施設のうち、わずか1施設だ。
 原発事故の影響で、福島県沖では漁が自粛された。県漁業協同組合連合会は12年から海域を絞った試験操業を行っているが、国よりも厳しい県漁連独自の基準をクリアしたものだけを出荷している。それでも魚介類の値段は震災前より格段に安いという。
 私たち消費者は、こうした福島など被災地の産品を積極的に購入することで、復興を後押ししていきたい。
 希望の光も見え始めている。津波で大きな被害が出た宮城県南三陸町では「南三陸志津川さんさん商店街」が、かさ上げされた土地で常設店舗として再オープンした。住民のほか観光客も集う拠点である。地域を勇気づけ、活性化させてほしい。
 とはいえ、3県で仮設の店舗や事務所で復旧した飲食、建設、小売りなど約3千の業者のうち、恒久施設で本格再建したのは約400業者にすぎない。約2300業者は入居を継続しており、46業者は廃業した。
 再建する場所の確保が難しく、資金的にも余裕のない厳しい現実がある。
 観光客の減少から休業、廃業したホテル・旅館は数多い。最近では、土木工事など復興需要の縮小による企業倒産も起きている。
 住民の就労の場となる産業を活気づけ、定住人口を増やさなければ、被災地の再生はおぼつかない。
 農業、水産、商工業者にとっても、復興は途上だ。
 国は、地場産業をてこ入れする支援策を、しっかりと打ち出さなければならない。


福島の避難住民 帰還促進へ地域の再生を
 東日本大震災による福島第1原発の事故に見舞われた福島県では、依然として約8万人が古里を離れて避難生活を強いられている。地域の復興に向けて避難者の帰還をいかに後押ししていくかが大きな課題となっている。
 立ちはだかる壁の一つは原発の事故処理の先行きが見通せないことだ。40年かかるとされる廃炉作業は緒についたばかりで、今年になってようやく原子炉格納容器内へカメラを入れ、溶け落ちた核燃料(デブリ)とみられる物質の撮影にこぎ着けた。
 ただ、取り出し作業に必要なデブリの位置や量の特定には至っていない。人が1分もたたずに死亡する高い空間放射線量が推定されている。廃炉作業の困難さを改めて突き付けられたと言えよう。
 廃炉が遅れるほど、住民は帰還をためらうことになる。技術開発を急ぎ、廃炉を着実に進めることが求められる。
 避難者の帰還は今春、大きな節目を迎える。政府は除染やインフラ整備が進んだとして、今月31日と4月1日、帰還困難区域を除いて飯舘村、川俣町、浪江町、富岡町で避難指示を一斉に解除する。避難区域の面積は、当初の3分の1に縮小される。
 ただ、これで住民の帰還が進むと考えるのは早計だろう。2014年4月以降、順次解除された5市町村の帰還率は平均約13%にすぎない。
 15年9月に避難指示を解除した楢葉町では、人口約7千人のうち、約800人しか帰還していない。町は、商業施設や医療施設、住宅などをコンパクトに集約した復興拠点の整備を進めており、診療所や一部住宅の利用は始まっているが、帰還は思うように進んでいない。町内での買い物はコンビニかプレハブの仮設商店に頼るしかない。
 帰還者の半数以上が65歳以上と、子育て世代などの動きは鈍い。4月には小中学校が授業を再開するものの、通学を予定する児童生徒は事故前の1割強にとどまる。
 復興庁によると、避難者は帰還に必要な条件に、雇用、医療、買い物、教育などを挙げる。帰還者が増えないため、生活インフラ復旧が遅れ、さらに帰還をためらわせる悪循環に陥りかねない。帰りたくても帰れないジレンマの中で、懸念されるのは戻らない選択をする人が増えることだ。時間がたつほど、避難先に定着する傾向が強まろう。政府や自治体は生活基盤の復旧を急いでもらいたい。
 除染で出た汚染土などの廃棄物の始末もめどが立っていない。政府は中間貯蔵施設の建設を進めているが、用地取得はまだ2割と遅れている。住宅地近くにも廃棄物の入った袋が積み上がったままだ。福島の復興に向けた地域の将来像をどう描いていくか。なお課題は山積している。


大震災6年 寄り添う気持ちを大切に
 東日本大震災の発生から11日で6年となる。激しい揺れと大津波、原発事故で、多くの人々が大切な家族や住まいを奪われた。被災者が普通の暮らしを取り戻すまで、寄り添う心を持ち続けたい。
 大震災による死者は1万5千人を超えた。改めて冥福を祈りたい。約2500人が行方不明のままだ。手掛かりが見つかるよう捜索を続けてほしい。
 避難者は震災直後、推計約47万人に達した。現在も12万3千人が避難生活を続けている。
 避難者の中には、災害公営住宅の完成や宅地造成を待つ人のほか、経済的な理由で住宅を再建できない人もいる。避難者の事情に合わせた自立支援が急務である。
 避難に伴う体調悪化などが原因の震災関連死は3500人を超えた。高齢者の孤独死が後を絶たない。見守りの充実が必要だ。
 福島県は今月末、原発事故の避難区域外から自主的に避難した約1万500世帯への住宅無償提供を打ち切る。
 インフラ整備や除染が進み、生活環境が整ったとして、自主避難者の帰還を促すのが狙いだ。
 だが、子供への放射線の不安から避難を続けたいとの声は根強い。本県への自主避難世帯の8割超が避難継続の意向だという。
 不安はあるが、経済的な理由で福島へ戻らなければならない−。苦しい立場に追い込まれる人もいるのではないか。
 福島県は4月以降も、所得が一定以下なら家賃を補助する。本県をはじめ避難先の自治体は独自の支援策を講じる。ただ、全国どこでも同じ内容の援助が受けられるのが理想だろう。
 福島県からの避難者に対しては、心ない言葉を浴びせるいじめが本県などで相次いだ。避難者を思いやる気持ちを持ちたい。
 福島県の農林水産物は厳格な検査で安全性は担保されている。だが、原発事故で販路が失われ、取引価格は低迷している。
 行政は、消費者向けに安全性をPRするだけでなく、流通段階の課題を洗い出し、解決に努めてもらいたい。
 明るい兆しも見えつつある。津波で壊滅的な被害が出た宮城県南三陸町では、かさ上げされた土地に新たな商業施設が開業した。
 仮設で営業してきた23の商店が本格再建を果たし、復興のけん引役として期待されている。観光客を継続して呼び込む仕掛けが鍵を握るだろう。
 岩手県釜石市は、2019年のラグビーワールドカップの会場だ。試合の前後で延べ14万人の人出が見込まれ、経済効果は80億円を超えるとの試算もある。
 釜石市と内陸の花巻市を結ぶ約80キロの復興道路が18年度に開通する。観光客は移動しやすくなるが、「素通り」されない魅力づくりが課題となりそうだ。
 大震災で人口が大幅に減少した被災地が多い中、支援活動やボランティアを契機に移り住む若者が増えつつある。空き家や雇用の情報提供を始めた自治体もある。
 復興へ向けた歩みを見守り、後押ししたい。


福島原発事故6年 あの恐怖を忘れるな
 世界を震撼(しんかん)させた東京電力福島第1原発事故から6年。決して忘れず後世に伝え続けるためには何度も何度も思い起こすしかない。
 東日本大震災の翌日。目を覆うすさまじい被害が次々と伝えられていた午後3時36分に1号機建屋の外壁が吹き飛んだ。据え付けカメラによるテレビ画像に背筋が凍った。水素爆発はその後3号機、4号機でも起きた。この国は、私たちは、恐怖に震えた「あの時」を忘れてはいけない。
 溶け落ちた核燃料の被覆管金属から発生した水素が建屋内の酸素と結合して水素爆発は起きた。全電源を喪失した原子炉の現実は悲惨だった。核燃料が圧力容器底の水と触れて水蒸気爆発が起きる恐れもあった。大量の放射性物質が飛び散り、高いレベルの放射線が首都圏にも飛来して首都機能が喪失する可能性さえあった。
 事故当時の第1原発所長で修羅場の最先線に立った吉田昌郎さんは「もう死ぬだろうと思うことが数度あった」「(事故対応した)部下は地獄の中の菩(ぼ)薩(さつ)だった」などと語っていた。その後、2013年7月に食道がんのため58歳で亡くなった。悲惨な歴史の証人の早過ぎる死が悔やまれてならない。
 福島に6年の時が流れた。原子炉内の惨状が明らかになるにつれ、廃炉作業が一体あと何十年かかるのか見通せなくなっている。
 2号機の溶融核燃料(デブリ)の実態把握を目指した自走式ロボットは、原子炉内部を撮影し、毎時650シーベルトという極めて高い放射線の推定量を出したものの、圧力容器直下までたどり着けなかった。
 現場の作業員らはこの6年間、過酷な環境の中で懸命の作業を続けてきた。それでも廃炉工程最大の難関であるデブリ取り出しのめどは立っていない。
 福島県内の避難区域は少しずつ縮小しているが、県内外で依然8万人近い被災者が自分の家に帰れないでいる。避難指示が解除されても身近な生活インフラが再興していない地域が多い。帰還者の多くはなお、不自由な生活を余儀なくされている。
 大震災、原発事故の前から福島の「浜通り」地域は高齢化が進んでいた。高齢の被災者は辛苦の避難生活の日々の中でさらに年を重ねた。
 「これから二つの『風』との闘いが続くが一緒に闘ってほしい」。「風化」と「風評被害」。ある被災者が大震災直後に語ったこのことばを今、改めて受け止めたい。


『あさイチ』震災特集に柳澤秀夫が苦言!「“震災で離婚減少”は福島の現実と違う」「データで一括りにするな」
 東日本大震災から明日で6年が経つ。この時期メディアでは震災関連の番組や特集が多く組まれるが、『あさイチ』(NHK)で、NHK解説委員の柳澤秀夫が自らの番組の報道姿勢に静かな怒りを見せたシーンがあった。
 8日の『あさイチ』(NHK)では震災特集として「データでみる東日本大震災から6年」が放送された。この6年間で、私たちの暮らしの何が変わったのか、そして何が変わらないかを様々な“全国データ”で考察するとういうもの。たとえば、震災直後に増えた被災地のふるさと納税、全ての米で放射性物質の検査をしているのになかなか伸びない福島産の米、復興に程遠い福島県の漁業の実態などが、データで示されていったが、最後に示されたのが“結婚と離婚”のデータだった。
 番組では震災直後に女性が殺到したという大阪にある結婚相談所を取材し、当時流行語となった“震災婚“絆婚”という言葉を紹介。婚姻数は震災翌年には7000件増えたあと、減少したこと、一方、離婚件数も震災前年と比べて1万6000と大きく減少したことなどが“全国データ”で示された。これに対し司会の有働由美子アナが「6年経つと(結婚感に対する)考え方が変わるというか。私は変わりませんけど(笑)」と笑いを取り、コメンテーターの三田寛子も「東北の方々のご苦労も見えてきました」と無難なコメントをするなか、憮然とした表情で苦言を呈したのが解説委員の柳澤秀夫だった。
「一言では言えないね。だって離婚が減っているというのも福島の現実と違う。帰る、帰らないで、いろいろ問題になっている。ひびが入って離婚することが福島の場合には問題になっているくらいなので。全国で大きい目でみるのと、(福島も一緒に)データでくくるのは、正直、違和感がある。くくれない」
 これに対し、フォローするように司会の井ノ原快彦や有働アナが発言するが、しかし柳沢はこう続けた。
「5、6年で現実が見えるものもいいけど、僕は福島出身ということもあって、それはなかなか見えてきませんね。福島の当事者にしてみれば、農作物を作るにしても愚直に、やれることを丁寧に続けるしかないんです」
「(福島の米が)検査されていると知っている人が40 %にも満たない。メディアの側ももう少し考えないといけないということを突きつけられたと思います」
「日常の戻り方が被災地と被災地でない人の差が大きくなっていますよね。僕たちは震災と関係のない日常が戻っていますけど、被災地はそうではありません」
 つまり、柳沢は被災地、特に福島の現状や離婚の実態を“データ”、それも“全国データ”でひとくくりにして欲しくないと、静かな憤りを表明したのだ。その上で、未だ“絆”などと言って、被災地の現実から目を背け、被災地の状況を正確に伝えないメディアにも苦言を呈したのだ。
 柳沢の怒りはもっともだろう。確かに震災以降、福島も含め全国的に離婚率は減っている。しかし甚大な原発事故、そして未曾有の放射能汚染に見まわれた福島に限っていえば、その事情はあまりに特殊だと言わざるをえない。
 親にとって子どもの被ばくは事故直後から現在までもっとも切実な問題だ。今年2月20日に開かれた福島県の「県民健康調査」検討委員会でも、昨年末発表からさらに1人増え、甲状腺ガンまたは悪性の疑いが184人に達したことが発表された。こうした現状もあり、現在も自主避難を続ける親子は多いが、自主避難をめぐり多くの家庭が一家離散、あるいは離婚に追い込まれるケースは少なくない。
 たとえば、自主避難をテーマにした『ルポ 母子避難――消されゆく原発事故被害者』(吉田千亜/岩波新書)では、自主避難した多くの家族の“分断”や“苦悩“が描かれている。
 2人の幼い子どもを連れて避難したものの、夫は仕事のため単身で福島に戻った河井加緒子さん(当時29歳)もその一人だ。母子は事故後、埼玉県の公営住宅で避難生活を始めた。しかし夫からは、避難生活に対する経済的援助は一切なく、放射能のリスクや子どたちへの影響にも無関心だった。
「ある日、夫が河井さんのいないところで「あいつが勝手に避難したんだ」と身内に話していたことがわかった。子どもを守るために避難するのは当然だと河井さんは考えていたが、夫は違ったのだ」
 河井さんはフルタイムの仕事を得ることができたが、小さな子どもたちを抱えどんどん疲弊していき事故後10カ月ほどで離婚を決意したという。
 他にも離婚には至ってはいないが慣れない環境、離散生活で母子ともに体調を崩すケース、夫の両親との意見の違いからなかなか子どもを連れて逃げられない母親、原発事故で失いたくない仕事を捨て、新築したばかりの家を出る。避難先では貯金を切り崩す生活を余儀なくなれる。そのうえ、子どもの幼稚園や学校、進学、そしていじめの問題もある。
 また今週発売の「週刊女性」(3月21日号 主婦と生活者)の被災地特集でも、いまだ続く家族、そして夫婦の亀裂が紹介されている。
「“二重生活は嫌だ”と反対する夫ともめたんです。私は子ども中心で考えたいのに、結局押し切られた」(県外避難がかなわなかった30 代女性)
「夫の親は“爆発からもう5年もたった。安全だ”と言いますが、私は“まだ5年しかたっていない”と言いたい。でも夫との間で放射線に関する話はしません。話せばもめますから」(2人の子どもをもつ30代女性)
 水面下で、しかし着々と進む家族の亀裂。そして放射能の問題を口にすれば離婚しかないという現状。その事情は様々だが、しかしいずれも原発事故がなければ決して起きていなかったはずのものだ。
 しかも今年3月、一部を除く避難区域の解除に伴う帰還事業と、自主避難者への住居の無償提供が打ち切られる方針だ。そうなれば経済的、心理的、そして子どもの健康、教育問題など、これまで以上に様々な問題が避難者たちに大きくのしかかり、追い詰められる家族がさらに増えることは想像に難くない。
 ようするに、この日の『あさイチ』はこうした現実があるのに、「離婚が減っている」などというデータをもちだしていたのだ。無神経としかいいようがない。
 というか、そもそも、震災を語るのに、ざっくりした全国データを意味ありげに並べることにいったいなんの意味があるのか。むしろ、福島をはじめとした被災地がいまも抱える問題に蓋をして、社会を分断させることにしかならない。おそらく、柳沢はそう指摘したかったのだろう。
 もちろんこの問題は『あさイチ』に限ったことではない。震災報道全体、そして社会の空気や政府の姿勢にもいえることだ。震災以降、この国では「絆」「みんなでひとつになろう」「前を向こう」といったざっくりとした美しい言葉をやたら声高に叫んで、震災、原発事故によって起きている過酷な現実をごまかしてきた。
 しかし、いくら言葉で「絆」を強調したところで、問題は解決しない。むしろ、美しい言葉とは裏腹に、現実はどんどんグロテスクになっていく。被災者は隅っこに追いやられ、誰も被災地の問題に見向きもしなくなり、美しい物語からこぼれ落ちたいちばん過酷な状況にある人が、いちばん虐げられ、ものが言えなくなっている。
 震災と原発事故から6年。柳沢の静かな怒りは、私たちはそのことを思い出させてくれたといっていいだろう。
(伊勢崎馨)


安倍政権が見捨てた福島・飯舘村から悲痛な叫びを『報ステ』が報道「東京が1mSvなのに、なぜ福島は20mSv?差別でしょ」
 3.11から明日で丸6年。テレビでは多くの局が東日本大震災の特集を組んでいる。しかし、原発事故の苛烈な実態を報じるものは少なく、なかでも、安倍政権に尻込みしているのか、国の原発政策に対する批判的な報道はほとんど見られない。そんななか、昨日9日の『報道ステーション』(テレビ朝日)では、綿密な取材を通して、国が定める放射線量基準の“ダブルスタンダード”を真っ向から批判した。
 安倍政権は本日10 日、復興推進会議と原子力災害対策本部の合同会議を開き、避難指示地域について、福島第一原発がある双葉町と大熊町の一部を除き、帰還困難区域などを除いた全地域で解除することを決定した。すでに今月末に飯舘村の帰還困難区域を除く全域と、川俣町の一部地域の避難指示を解除することが決まっていた。同時に今月末には「自主避難者」に対する仮設住宅の無償提供などの支援を打ち切る。県が把握する「自主避難者」は、昨年10月時点で1万世帯以上にものぼっている。
 安倍政権による“帰還政策”は待ったなしだ。しかし、解除する避難指示区域は、はたして、人々が容易に生活することのできる場所なのか。
 9日の『報ステ』では、富川悠太アナウンサーが飯舘村から生中継を行った。飯舘村は福島第一原発から約40キロメートルの地点に位置する、農業や畜産業を中心にした村で、事故前には約6000人が住んでいた。原発の補助金は出ていない。事故発生後、すぐには避難指示が出なかったが、原発の爆発で撒き散らされた放射性物質が強い風に乗り大量に浴びた。
 富川アナが立つ場所のすぐ後ろには、おびただしい量の“黒い物体”が山積みになっていた。汚染土を詰めた袋だ。こうした状況が、飯舘村のあちらこちらで見られるという。番組が取材した飯舘村の酪農家・長谷川健一さんは、2011年5月を最後に、家族で別々の場所への避難を余儀なくされた。自宅の前は、除染で削り取られた汚染土が積載したままだ。撤去の目処は立っていないという。
 国は避難指示地域で除染作業を行ってきたが、その基準の毎時0.23マイクロシーベルトは、一般の人の被曝限度である年間1ミリシーベルトから導かれたものだ。ところが、長谷川さんの庭先で線量を調べると、毎時1.2〜1.3マイクロシーベルトを計測。除染基準の約5倍の数値である。なぜ、こんな高い数値が出るのか。長谷川さんは、「山が(放射性物質の)供給元だと私は思う」と語る。実は、飯舘村の約7割を占める山林では除染はほとんど行われていないのだという。
「線量が除染によって下がったという場所は非常に限られた場所なんですね。全体的に下がったということは決していえない」
「現実に土壌の汚染度合いを調べてみても、やっぱり汚染されてるから。それがはたして、われわれがここで牛乳を生産してね、(略)『安心、飲んでみろ』って、そんなこと言えない。やっぱり、これは」
 はたして、これで本当に除染が進んだと言えるのか。国は年間線量が20ミリシーベルト以下になった地域から避難指示を解除するが、これは一般の被曝限度である年間1ミリシーベルトの、実に約20倍の数値だ。しかもこの数値は事故直後、内閣官房参与だった小佐古敏荘東京大学教授が「この数値(年間20ミリシーベルト)を乳児、幼児、小学生に求めることは、私のヒューマニズムからしても受け入れがたい」と涙ながらに訴えて、参与を辞任するきっかけとなった数値でもある。
『報ステ』は、この年間20ミリシーベルトの基準の根拠を取材。そもそも、事故直後に政府が避難指示の基準とした20ミリシーベルトという数値の基準の拠り所は、専門家による国際学術組織・ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告だという。番組はフランスに飛び、ICRP副委員長のジャック・ロシャール氏に話を聞いた。すると、ロシャール氏は驚くべき事実を口にしたのだ。
「年間20ミリシーベルトの被曝は長期間続くと安全ではない。ICRPでは『事故後の落ち着いた状況では放射線防護の目安は1〜20ミリの下方をとるべき』と勧告している」
 つまり、もともとICRPは「20ミリ」では危険との認識を示していたのである。実際、同じく『報ステ』が取材したICRPの甲斐倫明専門委員も、「(事故直後の)20ミリというのはある意味で緊急時の数値でしたから、こういう環境回復の段階ではもっと別な数値を選んで、20ミリと1ミリの間のなかで目標値を立てて、1ミリに近づけていきなさい、と」「そういう数値を設定しなさいというのがICRP的な考え方なわけですね」と語っている。
 繰り返すが、帰還基準の20ミリシーベルトは、通常時の年間被曝限度の20倍だ。しかも、ICRPが示していたのは「20ミリ」ではなく「1ミリに近づける」ということだった。『報ステ』はこの“二つの基準値”を「ダブルスタンダードではないのか」と強く疑義を呈したうえで、再び、富川アナのいる飯舘村から生中継する。
 もともと農地だったその場所には、汚染土を入れた大量の袋が積み上げられている。袋には「遮」の文字が。これは、汚染土を入れた袋の周りを、通常の土を入れた袋で囲って“壁”をつくっていることを意味する。大量の袋と富川アナの距離は、約10メートルほどだろうか。その状況で、富川アナが線量を計測した。0.77マイクロシーベルト。除染基準の3倍以上の数値だ。そうした環境で、政府は避難指示を解除、自主避難者に対する援助を打ち切るのだ。
 もちろん、今回の避難指示解除で、故郷に戻ろうと考えている人も少なくない。だが、食品売り場を始め、医療や介護施設などのインフラは整っておらず、主な産業である農業や畜産業の再開も、いばらの道だ。当然、健康被害への不安も尽きない。帰りたい、けれど帰れない。そういう人がたくさんいるのだ。
 前述した飯舘村の長谷川さんも、いずれは故郷に戻りたいと考えている一人だ。だが、現段階ではそれは難しいとも吐露する。『報ステ』のなかで長谷川さんはこのように語っていた。
「東京が1ミリ(シーベルト)で、なんでここが福島が20ミリなんですか? まったくの差別でしょ、こんなのは」
「ものすごい私は怒りを覚えますよ。なんでわれわれだけがそうなんだ」
「その尺度はどうやって決めたんですか。だから安全なんですか? 誰もわかりません。それじゃおかしいでしょ」
 飯舘村だけの話ではない。番組では2014年に避難指示が解除された隣の南相馬市高倉も取材し、除染が不十分な場所が少なくないにもかかわらず、国が再除染を渋っている現実があることを伝えた。さらに避難解除基準に内部被ばくが入っていないという点を指摘し、土壌汚染がチェルノブイリの規制区域基準より大幅に高いところがある事実まで見せた。実際、こうした問題は被災地の様々なところで喫緊の課題となっている。
 だが、安倍政権は、差別的な二枚舌で避難指示を解除し、自主避難の支援を打ち切るなど、人々から選択肢を奪うことで強引に“福島の復興”を演出しようとしている。そこに、2020年の東京五輪招致のため「アンダーコントロール」と嘯いた安倍首相の思惑があるのは間違いない。
 福島原発事故から6年。政権の圧力に萎縮しきったテレビメディアからは、年々、震災と被災地そして原発の扱いが小さくなっている。おそらく『報道スーション』のこの報道にも、政府からの圧力が加わるのは確実だろう。
 作家の室井佑月は本サイトの連載で、報道の萎縮を防ぐために、タブーに踏み込んだ良い報道をしたメディアやスポンサーには直接電話をして褒めることが大事だと語っていたが、今回の『報ステ』のこうした原発報道の姿勢は支援していく必要がある。そして、安倍政権に対しては、東京五輪で金の無駄遣いをするまえに、なさねばならないことが山ほどあることを、突きつけていかなければならない。
 最後に、番組から長谷川さんの言葉を引用して終わりたい。
「避難解除という部分だけが先行して、インフラとか、医療の問題はどうなのか。買い物はどうなのか。戻りたい人が戻ってきて飯舘で生活するときに、何で生活していけばいいのか。そういうものがまったく整備されていない現状なわけですよ。そういうものをしっかりやってもらわないと、われわれが戻るにしても、安心して戻れる環境づくり、これが非常に私は大事だと思いますね」
「やっぱり国の責任でなったものですから、事故がね。国にはきちっとした責任をとってもらわないとダメだと思います」(宮島みつや)


森友学園問題 関係者を招致すべきだ
 大阪府豊中市の国有地払い下げを巡り、新たな疑問点が次々に浮かんでいる。
 どんな経緯があったのか、国会で解明する必要がある。自民党は野党が要求する関係者の参考人招致に応じるべきだ。
 評価額9億5600万円の土地が小学校用地として大阪市の学校法人「森友学園」に1億3400万円で売却された。格安となったのは用地内のごみ撤去費用、8億円余りを差し引いたためという。
 政府は、ごみの状況を直接確認していなかったことを参院予算委員会で明らかにしている。「工事関係者からヒアリングし、写真で確認した」というのが国土交通省の説明だ。「値引きありき」ではないかと疑いたくなる。
 購入希望者と行う「見積もり合わせ」をせず、学園側に見積額の提示を求めなかったことも判明した。国が通常、売却額を高くするために行うものだ。財務省は「新たに出てきた地下埋設物の撤去費用を学園自身が短期間に見積もるのは困難と考えた」とする。
 なぜ、こうも異例ずくめの払い下げになったのか。疑問は一向に解消しない。安倍晋三首相は「必ずしも、すとんと、ふに落ちるような説明がされなかったのは事実だ」と述べ、事務方の答弁が不十分だったとの認識を示した。
 問題は答弁の仕方ではない。売却に関わった当事者の口から直接説明を聞けないことだ。
 野党は森友学園の理事長や、払い下げの交渉時に財務省の理財局長だった国税庁長官、近畿財務局長だった財務省国際局長らの招致を要求している。自民党は「民間人の招致は慎重でなければならない」などと拒否している。
 学園の小学校設置は大阪府私立学校審議会で「不認可」とされる可能性が強まっている。建設工事を巡り、学園が請負代金7億5600万円とする契約書を府に提出する一方、国交省の補助金申請に23億8464万円と記すなど問題点が発覚したためだ。
 うやむやにはできない。学園側は小学校設置に向け、自民党参院議員の鴻池祥肇元防災担当相らに助力を求めていた。不自然な契約の背景に政治家の不当な働き掛けがなかったか、はっきりさせなくてはならない。
 自民党の二階俊博幹事長は「できるだけ疑問点は少なくし、晴らしていくことが大事だ」と記者会見で述べた。政治への信頼に関わる問題である。疑問を晴らそうと考えるなら、国会に関係者を招致して経緯をただすべきだ。


<東京大空襲72年>戦争 二度と繰り返さない
 一晩で約10万人が犠牲になったとされる東京大空襲から72年を迎えた10日、遺骨が納められている東京都慰霊堂(墨田区)で法要が営まれ、被害者や遺族らが「二度と戦争を繰り返してはいけない」と語り、平和を祈った。法要には秋篠宮ご夫妻、小池百合子都知事のほか、遺族ら約600人が参列した。
 東京都東久留米市の斉藤節子さん(72)は生後18日で被災。両親と兄2人が覆いかぶさり、火の手から守ってくれたという。泣き声を聞いた人が助けてくれたが、父と兄2人は帰らぬ人に。「家族に生かしてもらった。お骨が見つかっていないので毎年ここに供養にきています」と話した。