ブログネタ
フランス語 に参加中!
rikhat2

JO-2020: le Japon teste le télétravail pour éviter le chaos
Le Japon a lancé lundi une campagne pour encourager les salariés à travailler à domicile, dans le but de réduire l'affluence dans les transports en prévision des jeux Olympiques de Tokyo.
Ce 24 juillet, trois ans jour pour jour avant la cérémonie d'ouverture des JO, les nombreux Japonais qui se déplacent quotidiennement vers Tokyo (environ 35 millions de personnes vivent dans la capitale et ses environs) étaient donc incités à ne pas prendre trains, métros ni voitures (pour les plutôt rares automobilistes).
Pas sûr cependant que cette initiative public-privé, qui se limite à un jour par an, suffise à résoudre le casse-tête logistique des jeux dans un pays de travailleurs inconditionnels.
Le test réalisé ce jour a été en tout cas peu concluant: selon les chiffres fournis par le gouvernement, seulement 60.000 employés de plus de 900 entreprises et administrations y ont participé et, aux heures de pointe, la foule paraissait aussi dense que d'ordinaire.
L'exercice, inspiré d'une expérience similaire au moment des JO de Londres, doit être répété en 2018 et 2019.
"Le télétravail peut être une solution" à la cohue matinale et nocturne qui sévit dans les transports de la capitale, a expliqué à l'AFP un responsable du gouvernement chargé de cette campagne.
"Ce n'est qu'un début, mais nous aimerions que cette première incite compagnies et salariés à réfléchir à un autre mode de travail", a-t-il souligné.
Réformer la façon de travailler, c'est le leitmotiv du Premier ministre Shinzo Abe, mais le gouvernement s'est pour l'heure limité à des mesures symboliques et peu suivies, comme le "Premium Friday" (quitter le bureau à 15H00 le dernier vendredi de chaque mois), ou controversées, à l'image du plafonnement des heures supplémentaires à 100 heures par mois.
Même si la durée légale de travail au Japon est de 40 heures par semaine, de nombreuses sociétés exposent leurs employés au risque de mort par excès de labeur (karoshi).
フランス語
フランス語の勉強?

楽しくありませんが,夏になっても休日出勤になりそうです.冷房を入れないと仕事にならないので申請しなくてはならないのですが,どうも休日出勤するな???みたいです.電気代ケチるなんてセコイ.なんかやる気なくなってきます.
月曜日なのでリカちゃんから予想通りメールが届きました.なんだかうれしい気がします.
最後のWフォ−1人でした.ちょっとさみしいけれど1人が好印象でよかったです.

元バンドマン開発「わかめソルト」熱く売り込め
 三陸の食材をアピールしようと、岩手県宮古市田老地区の特産「真崎わかめ」を原料にした自然塩「わかめソルト」の販売が始まった。商品を開発したのは、東日本大震災で被災した田老地区の復興支援に携わる神奈川県在住の会社役員磯部俊行さん(40)。「田老の人々と一緒に名産品に育てたい」と意気込む。
 原料は、田老町漁協が生産する塩蔵ワカメのみを使用。盛岡市の障害者就労支援施設に製造を依頼した。添加物や着色料を一切使わず、遠赤外線で低温乾燥して粉末にする。ワカメのうま味と程よい塩加減で、おにぎりや豆腐、パスタによく合うという。
 磯部さんは東京を拠点にバンド活動をしていた2010年9月、音楽を担当した映画のプロモーションで宮古市を訪問。東日本大震災後しばらくはライブ活動で募った義援金を送るなどの支援活動を繰り広げてきた。
 今年1月に岩手県内の特産品を販売する会社「茶碗(ちゃわん)とお椀(わん)」(神奈川県茅ケ崎市)を設立。規格外で廃棄処分されるワカメがあると知り、商品化に乗り出した。
 磯部さんは「海も山も田老の全てが好きで取り組んできた。今後は神奈川と宮古の交流など活動の輪を広げたい」と話す。
 インターネット販売のほか、宮古市内の旅館などでも購入できる。定価は45グラム入り500円(税抜き)。


岩手・大槌中心部 被災商店の再建着々と
 東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた岩手県大槌町中心部の「末広町」で、商店の再建が本格化しつつある。急速な人口減少という難題を抱えながらも商店主たちは、かつて商いをしていた土地への帰還を決めた。8月12日には震災で途絶えていた夏祭りが7年ぶりに復活する。
 かさ上げと土地区画整理事業が終わった末広町で今年5月以降、目抜き通りに日本茶専門店や洋菓子店が開業。現在は6店がのれんを掲げる。
 その一つ、岩喜酒店は仮設店舗での営業を経て5月に再オープンを果たした。
 グループ化補助金で再起を期す周辺約20店の中で先陣を切った店主の岩間充さん(47)。「なじみの店主、お客さんがいる場所に戻ってきたかった。ようやく安心して商売ができる」と話す。
 ただ、町の人通りはまばらで住宅の建設も遅れがちだ。町は中心部の区画整理地域30ヘクタールで、居住人口を計画段階の2100から1135に下方修正した。岩間さんは「ここ数年は厳しい状況が続くだろう」と腹をくくる。
 長く町民に憩いの場を提供してきた喫茶店「夢宇民(ムーミン)」は今月初めに営業を始めた。
 店主の赤崎潤さん(53)は「人口が減ることを気にしても仕方ない。にぎわいを取り戻すためにできることをやるだけだ」と自らに言い聞かせ、大槌末広町商店会の夏祭り「よ市」の準備に奔走する。
 往時のよ市は、2日間で約2万人を集める町の名物行事だった。歩行者天国に露店やビアガーデンが並び、特設ステージの出し物が盛り上げた。
 赤崎さんは「よ市復活は、商店会にとっての『まちびらき』。町民が昔を思い出しながら新しい街並みを歩き、未来への希望を感じる祭りにしたい」と力を込める。


被災の防災センター跡地 追悼施設の概要説明
 岩手県釜石市は23日、東日本大震災の津波で大勢の住民が犠牲になった市鵜住居(うのすまい)地区防災センター跡地に整備する「祈りのパーク」の計画概要について、センターの犠牲者遺族らを対象に説明会を開いた。
 市は、センターの被災者遺族連絡会に所属し市が住所を把握する115世帯に案内を送付したが、出席した遺族は2人にとどまった。担当者がパークの目的やデザイン、犠牲者の芳名板設置などを説明した。
 パークは、全市的な追悼施設との位置付け。市はセンター跡地であることを示すモニュメントを設ける方針だが、連絡会が要望する推計162人に上るセンターでの犠牲者の慰霊碑建立に関しては今後検討する。
 出席者の男性遺族は「センターで何人が亡くなったのかを後世に伝えなければいけない。芳名板で名前を残すだけではなく、犠牲者数が分かるようにしてほしい」と訴えた。
 野田武則市長は「(モニュメントには)たくさんの人が亡くなったことを残さなければいけない。パークを造る原点でもある。犠牲者数が推計であることから、記載する数字に関して検討していく」と約束した。


<リボーンアートフェス>増やせ!石巻ファン
 東日本大震災で被災した石巻市の牡鹿半島をメイン会場にした芸術と音楽、食の総合祭「リボーンアート・フェスティバル(RAF)2017」が22日に開幕した。観光関係者にとっては石巻ファンを増やす大きなチャンス。4月に発足した石巻、東松島、女川3市町の観光地域づくり推進法人(日本版DMO)「石巻圏観光推進機構」も誘客促進に乗り出した。
 機構は今月上旬、3市町の観光地の写真や特集記事を発信する公式ホームページ(HP)「海街さんぽ」を開設。津波被災地の「防災まちあるき」(1000円)や北上運河でのカヌー体験(3000円)など地元の団体が取り組む体験プログラムを掲載し、観光や歴史、絶景などを集めた「スポット100選」や「お土産100選」のコーナーも設けた。
 機構はRAF開催に合わせ、「縁泊」と題したホームステイ型の民泊も試験的に始める。家主との会話や郷土料理を楽しみながら交流を深めてもらい、リピーターを増やすのが狙い。
 3市町を訪れる観光客へのアンケートも実施し、滞在時間や満足度などを調べて今後の観光政策に反映させるという。
 RAFは、機構が4月に発足してから初めて迎える大型イベント。野外の芸術作品を中心とした総合祭で、これまで石巻圏域に関心がなかった人の来訪も予想される。石巻市は全国から約20万人の来場を見込んでいる。
 機構の斉藤雄一郎業務執行理事(59)は「RAFをきっかけに訪れた観光客にも地域とつながる場を提供し、人との交流を通じてまた足を運んでもらえるような取り組みを進めていきたい」と話す。


<熊本地震>SNSが避難にブレーキ 住民調査
 震度7を記録した昨年4月の熊本地震の際に、インターネットの会員制交流サイト(SNS)で情報を得た人は避難を思いとどまる傾向にあったことが、被災地住民への文部科学省の調査で24日分かった。一方で、近所の人に声を掛けられたことは避難行動を後押ししていた。
 九州北部の豪雨の際にも、被害状況の報告や救助要請などにSNSが使われて注目が集まった。うまく活用すれば災害時に役に立つこともあるが、発信者や根拠が不明な情報が流れることもあり、扱いに注意が必要だ。
 分析した甲南女子大の大友章司准教授は「SNS情報が避難を促すだろうと思っていたが逆だった」と話している。


短命県返上へ 青森県、肥満や喫煙改善の兆し
 平均寿命が全国最下位の青森県で、全国との健康格差を縮めるための挑戦が続いている。ワースト状態ではあるものの、ここ数年間で、肥満傾向の子どもの割合や妊娠中の喫煙率など健康状態を示す評価項目の一部に改善傾向があり、明るい兆しが見えつつある。県は関係機関と連携しながら、短命県返上を目指す。
 今年6月に公表された年齢調整死亡率(2015年)で、青森県は男女とも高く(表)全国でワーストだった。ただ男性については3年前に比べ76.8人減少し、減少幅は全国1位。40代の死亡率減少が寄与したという。
 2013年に第2次健康増進計画「健康あおもり21」を策定した県。全国との差を縮めようと、食生活や運動に関する38項目の目標を設定した。策定後、数年で肥満傾向の子どもの割合や大腸がん受診率など20項目が改善し、逆に改善しない項目が課題として見えてきた(表は抜粋)。
 県が本年度、新たに始めた認定制度に「健康経営事業所」がある。(1)勤務時間内にがん検診を受けられる(2)受動喫煙防止対策を講じている(3)県医師会に本部を置く「健やか力推進センター」で研修を受けた担当者を配置している−などの条件を満たした事業所が対象だ。6月に初めて3事業所を認定、今月さらに1事業所を認定した。
 認定事業所には金融機関借入金優遇制度を利用できるなど特典がある。認定は2年更新。県は18年度末までに100事業所の認定を目指す。
 がん検診の有効性を高めるため、県は「がん検診精度管理モデル事業」も昨年度始めた。市町村の検診台帳と県の持つがん登録データを弘前大に送り、検診で罹患(りかん)者を正しく判断できているか調査。その結果、がん検診を受けたのに検診以外でその部位のがんが見つかるケースが複数あったことから、精密検査の受診の有無が市町村で不正確に記入されている可能性などが浮上した。本年度は対象自治体や期間を拡大して実施している。
 連携や模索を続ける県内関係者。同大大学院医学研究科の中路重之特任教授(公衆衛生学)は「30代で既に健康の差が出ているため、すぐに全国ワーストを脱却できるものではない」と指摘しながらも、「複数の指標で改善があるなど明るいニュースもある。健康は一人一人の意識の問題。県民が本気で取り組む必要がある」と話す。
[年齢調整死亡率]高齢者の多い都道府県は死亡率が高くなる傾向があるため、年齢構成を調整した上で、人口10万人当たりの死者数を算出し、各地域の健康水準を正確に比較できるようにした指標。1960年から5年ごとに公表している。
[メモ]2010年に厚生労働省が公表した都道府県別年齢階級別死亡率(人口10万当たり)によると、「40〜44歳」「45〜49歳」などと5歳刻みで、青森県の男性の40代以上は全て全国ワースト。働き盛りの40〜60代の死亡率の高さが、平均寿命を引き下げる要因となっている。
 「平均寿命」は年齢別の推計人口と死亡率を基に計算した0歳の平均余命。同省公表で直近の10年は青森県が男性77.28歳、女性85.34歳。


<相模原殺傷事件>1年を前に追悼式
 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が刺殺されるなどした事件から26日で1年となるのを前に、同市南区の相模女子大学グリーンホールで24日、神奈川県などが主催する追悼式が開かれた。遺族や施設職員ら約700人が出席し、犠牲者を悼んで黙とう。犠牲者一人一人の人柄も読み上げられた。
 追悼の辞で、家族会の大月和真会長が「私たちのささやかな幸せが残忍な犯行で踏みにじられた。許すことはできない」と訴えた。入倉かおる園長は「守ってやれなかったとの申し訳ない思いで、時間が止まったような1年だった。悲しみは続くが、以前の生活を取り戻したい」と述べた。


仙台市長に郡氏 菅原氏ら3氏破る
 任期満了に伴う仙台市長選は23日、投票が行われ、即日開票の結果、無所属新人で元衆院議員の郡和子氏(60)が会社社長の菅原裕典氏(57)らを破り、初当選した。女性市長は2期目の現職奥山恵美子氏(66)に続き2人目。奥山氏の引退表明を受け、無所属新人4人が争った。東日本大震災の「ポスト復興」期に入った東北の最大都市で地域の将来像をどう描き、新たなかじ取り役を誰に託すのかが問われた。投票率は44.52%で、過去最低だった前回を14.41ポイント上回った。
 選挙戦は自民、公明、日本のこころの各党が支持する菅原氏と、民進、共産、社民、自由の野党各党が支持・支援する郡氏の与野党対決の構図が軸となった。自民党は東京都議選の惨敗に続く大型地方選での敗北となり、支持率続落にあえぐ安倍政権へのさらなる打撃となることは必至だ。
 郡氏は「誰にでも居場所と出番がある仙台」を掲げ、いじめ防止条例制定や給付型奨学金の創設、妊娠から出産、子育てまで切れ目なく支援する仕組みづくりなど7項目を重点政策に位置付けた。教育改革や地域福祉の充実、被災者の心の復興も公約に据えた。
 弁護士らでつくる市民団体が選挙活動の中核となった。野党共闘の態勢を築くとともに、衆院議員を4期務めた実績と高い知名度を生かし、序盤から終始リードして戦いを進めた。
 菅原氏は奥山市政の継承を強調。「力強い経済」「誰も取り残さない教育」の実現などを掲げ、音楽ホールの早期着工や仙台城の大手門復元を打ち出した。
 村井嘉浩宮城県知事と奥山市長、市議会の6割強に当たる議員36人の支援を獲得。大掛かりな組織戦で終盤に追い上げたが、知名度不足や安倍政権への逆風などが響き、及ばなかった。
 元衆院議員の林宙紀氏(39)は「人口150万人への挑戦」を看板政策に掲げた。立候補表明の直前に民進党を離党し、政党や団体に頼らず、街頭演説中心の選挙活動を展開。無党派層の取り込みを図ったものの伸び悩んだ。
 元衆院議員の大久保三代氏(40)は行財政改革の必要性を訴えたが、支持は広がらなかった。
 当日の有権者は87万3635人。


<仙台市長選>与野党対決の構図 奏功
 【解説】元民進党衆院議員の郡和子氏(60)が制した仙台市長選は、国政の与野党対決の構図を持ち込んだ戦略が結果的に奏功した。地方の首長選に国政の論理はなじまないとの批判もあったが、告示直前の東京都議選で自民党が大敗し、学校法人「加計(かけ)学園」問題などで安倍内閣の支持率が続落する中での選挙戦は、郡氏には願ってもない展開となった。
 選挙戦は2015年8月の仙台市議選と似た軌跡をたどった。安全保障関連法案の国会審議で安倍内閣の支持率が急落する中での市議選は国政の情勢が色濃く反映し、共産党が躍進、民主党(当時)も堅調という結果に終わった。
 島野武市長時代(1958〜84年)に革新市政が四半世紀以上続いた仙台は近年の各種選挙でも、国政での保守系の退潮が革新系の伸長となって顕著に表れる傾向が見られ、今回も例外ではなかった。
 島野市政時代から続くとされる職員の強い結束を呼び習わす「市役所一家」は、今回の市長選で変質の兆しを見せた感がある。
 島野氏後任の石井亨氏以降、仙台は中央官僚や市職員が出自の「官製市長」が続いた。この間の市長選は主要政党が相乗りし、市役所一家も支持する大本命候補が制してきた。かつての自民党派閥間の疑似政権交代のような市長交代が繰り返され、「政権」の維持装置の役割を常に市役所一家が担ってきた。
 今回は、役人経験のない元国会議員と地元経済人の新人同士の戦いという構図自体が従来と異質だった。奥山恵美子市長(66)が会社社長の菅原裕典氏(57)を事実上、後継指名し、市幹部の多くも同氏を支持したにもかかわらず敗れたことは、変質を考える上で象徴的だ。
 市政野党を続け奥山市政とも厳しく対峙(たいじ)した共産も推した郡市長の誕生は、市役所・市議会内の力学に影響を与える可能性がある。その結果、もたらされるものが刷新なのか、混乱なのかは新市長の手腕や姿勢のみならず、職員と議員の意識にもかかっている。(報道部・若林雅人)


<仙台市長選>与党不信直撃 政権さらに打撃
 与野党対決の構図となった23日投開票の仙台市長選で、自民党は惨敗した東京都議選に続いて連敗を喫した。安倍内閣の支持率が急落する中、与党に対する有権者の不信感が選挙戦を直撃した。政権運営への影響は避けられず、共闘態勢に自信を深めた野党は対決色を強めている。
 「野党が国政の図式を持ち込んだ。影響は少なからずあった」。23日夜、落選が決まった会社社長菅原裕典氏(57)の事務所で、自民宮城県連会長の愛知治郎参院政審会長は険しい表情で取材に応じた。
 自民、公明両党が支持し、自民は市議らが核となった選挙戦を展開。党国会議員との2連ポスターを張り巡らし、安倍政権との相乗効果を期待した。奥山恵美子市長、村井嘉浩宮城県知事も加わり、盤石の布陣を組んだ。
 もくろみは、告示1週間前の2日に投開票があった都議選で大きく狂う。学校法人「加計(かけ)学園」問題などで安倍首相への信頼度は失墜。共同通信の7月調査で支持率は第2次安倍政権で最低の35%を記録した。
 15日に仙台入りした菅義偉官房長官は街頭に立たず、急きょ講演を非公開に。閣僚や党幹部クラスの応援もなく「自民隠し」に転じたが、逆に政権の苦境を際立たせた。
 24、25両日は衆参予算委員会が開かれる。南スーダン国連平和維持活動(PKO)部隊の日報隠蔽(いんぺい)問題で稲田朋美防衛相の進退も浮上し、首相が防戦一方となるのは必至だ。党宮城県連幹部は「当面は自民にとって厳しい状況が続くだろう」と力なく語った。
 初当選した元民進党衆院議員郡和子氏(60)は民進、社民の支持を受け、共産、自由が支援する共闘態勢で臨んだ。宮城では昨夏の参院選に続く連勝となった。民進の安住淳代表代行(衆院宮城5区)は郡氏の事務所で、「安倍1強政権にノーを突き付けた。政治の流れを変える」と力を込めた。


<仙台市長選>郡氏 「現場主義」の信条貫く
◎時の人/仙台市長に初当選 郡和子(こおり・かずこ)さん
 新人4人の激戦を制した。「市民との対話が市政を進める重要な鍵。だからこそ現場に出向く市長になる」と抱負を語る。
 地元民放局のアナウンサーとして26年間、衆院議員として12年間キャリアを積んだ。貫いてきた信条が「現場主義」だ。
 アナウンサー時代は社会の不条理に翻弄(ほんろう)されたり、弱い立場で苦しんだりする人たちを描いたドキュメンタリー番組を手掛けた。国政に転身後も子どもの貧困の現状などについて現場で話を聞き、「いじめ防止対策推進法」など数々の議員立法提出に関わった。
 選挙戦で各地を回り、郊外団地の高齢化問題や農産物の鳥獣被害など、地域の課題を直接聞くことができた。住民との対話を通して「新・健康都市宣言」という医療福祉やまちづくりのビジョンを新たに掲げた。「現場にこそ問題解決のヒントがある。仙台の街を強くする種がある」。選挙戦最終日の22日、街頭演説の締めくくりで訴えた。
 市内ではここ数年、中学生によるいじめ絡みの自殺が相次いで発生。「子どもたちが自ら未来を閉ざすようなことは絶対あってはならない。夢に向かって走っていけるようにしたい」。教育改革に真っ先に取り組む考えだ。
 好きな言葉は「初心忘るべからず」。東日本大震災の被災者の手作りのブローチを胸元に着け、思いを寄せる。夫(63)、長女(32)と太白区の自宅で暮らす。仙台市出身。60歳。


<仙台市長選>「安倍離れ」仙台でも嵐
 永田町の攻防が絡み、与野党が盛衰を懸けて対決した23日投開票の仙台市長選は、野党共闘で挑んだ元民進党衆院議員郡和子さん(60)が勝利をつかんだ。「安倍1強政権に一撃を加えた」。支持者が集まった事務所は歓喜に包まれた。奥山恵美子市長、村井嘉浩宮城県知事の応援を得ながらも敗れた会社社長菅原裕典さん(57)を支えてきた与党関係者は「まさか」と沈んだ。
 午後10時15分ごろ、青葉区一番町の郡さんの事務所に当選確実の一報が流れると、支持者から大歓声が湧き起こった。拍手で迎えられ、「市民の力が勝利に結び付いた」と高らかに宣言した。
 衆院議員4期目途中での市長選立候補。悩みに悩んだが「国政での12年間の経験を生かしたい」と、告示1カ月前に決断した。地元放送局の元アナウンサーという高い知名度を武器に短期決戦を制した。
 選挙戦では「現場主義」を掲げ、国会議員のキャリアや旧民主党政権での行政経験を強調。「霞が関の官僚ともやり合い、役所との付き合い方も知っている」と即戦力をアピールした。
 民進党宮城県連が擁立した形だが、市民からの要請を受けて立候補を決めた。選挙戦の中軸は市民団体が担い、「市民党」として幅広い力を結集。民進、共産、社民、自由の野党各党が「スクラムを組む」(安住淳県連代表)総力戦が奏功した。
 「崖から飛び降りる気持ちで立候補したが、市民の皆さんが、ふわふわのマットで支えてくれている。私よりも頑張ってくれている」。支援の広がりを実感し、21日夜に宮城野区で開いた最後の個人演説会では、独特の表現で感謝の言葉を口にした。
 大激戦の様相となった終盤は政党色を強め、与野党対決を鮮明にした戦術が目立った。民進を中心とする党幹部級の国会議員らが応援のため相次いで仙台入りし、街頭演説で「お友達政治にNO」などと安倍政権へ攻勢を掛けた。
 「108万政令市の首長が誰になるか、全国が注視している。一番注目しているのは安倍晋三首相だ」。郡さん自身も選挙戦最終日の22日夕、市中心部で党国会議員らと街頭に立ち、今後の国政を占う大事な一戦だと強調した。
 政権批判を前面に出した戦いは今後、自民党が最大会派の市議会との間にしこりを残しかねない。「仙台から政治を変えたい。国政にも、この市長選で市民の力を見せつけたい」と訴えてきた郡さんの姿勢と手腕を市民は注視している。


<仙台市長選>与党落胆隠せず 野党意気盛ん
 23日投開票の仙台市長選の結果を受け、当選した元衆院議員郡和子氏(60)を推した県内の野党関係者は共闘効果を強調し、与党との対決色を鮮明にした。落選した会社社長菅原裕典氏(57)を支援した与党関係者は、東京都議選に続いて吹き荒れた逆風に落胆を隠せず、今後の市政や選挙への影響に不安を示した。
 民進党県連の安住淳代表は昨夏の参院選に続く野党統一候補の勝利に、「(野党)共闘を続けていくべきだと確信している。市長選の勝利は中央政局の転換点にもなり得る」と成果を強調した。
 共産党県委員会の中島康博委員長は「次期衆院選、知事選に向けて弾みがつく」と歓迎。社民党県連の岸田清実代表は「仙台市政が県政の下請けになることを市民が許さなかった」と力を込めた。
 自民党県連の石川光次郎幹事長は、学校法人「加計(かけ)学園」問題や南スーダン国連平和維持活動(PKO)部隊の日報隠蔽(いんぺい)問題などの影響を踏まえ、「自民への反発があった」と指摘。今後の選挙への影響は「市長選を総括しないと分からない」と言葉少なだった。
 公明党県本部の庄子賢一代表は、少数与党が予想される市議会の運営について「新市長が議会と対立、混乱し、市民生活に影響が出ないようにしてほしい」と要望。日本のこころの中野正志幹事長は「企業への優遇措置に反対する共産が支援する市長では、企業が来なくなる」と経済施策への影響を懸念した。


<仙台市長選出口調査>無党派層、45%郡氏へ
 仙台市長選が投開票された23日、河北新報社は投票を済ませた有権者への出口調査を市内24の投票所で実施し、1944人の回答を得た。郡和子氏は支持や支援を受けた民進、共産、社民、自由各党を合わせた支持層の78.4%を確保し、どの政党も支持しない無党派層からも45.2%を得て初当選を果たした。菅原裕典氏は支持を受けた自民、公明両党と日本のこころの支持層の64.2%にとどまり、逃げ切りを許した。
 郡氏は民進の77.9%、共産の80.7%、社民の82.1%、自由の50.0%の支持層を固めた。年代・男女別では60代と70代以上の男性、30代以上の各年代の女性で首位。60代と70代以上の男性では支持が過半数となり、高齢者から厚い支持を受けた。
 菅原氏は自民支持層を62.9%と固めきれず、無党派層も28.1%と伸び悩んだ。公明は76.6%、日本のこころからは40.0%の支持を得た。現役世代の20〜50代の男性では首位となり、女性は20代でトップだった。
 林宙紀氏は日本維新の会支持層の38.5%から得票した。民進、共産、社民、自由の支持層の10.6%、自民、公明、日本のこころの支持層の14.4%からも支持を取り込んだ。無党派層は23.2%だった。30代男性と10代女性が30%台と若年層の支持が目立った。
 大久保三代氏は全体的に伸び悩んだ。
 安倍内閣への支持に関する質問では「支持しない」が56.2%で、「支持する」の40.7%を上回った。「支持しない」の55.0%が郡氏に、「支持する」の58.2%が菅原氏にそれぞれ投票したと答えた。
 学校法人「加計(かけ)学園」を巡る疑惑などによる安倍内閣への逆風が2日の東京都議選に続き、市長選の結果にも影響する形となった。
 政党支持についても尋ね、自民33.5%、民進12.1%、共産4.5%、公明4.0%、社民1.4%、日本維新の会1.3%、自由0.3%、日本のこころ0.3%となった。「支持する政党はない」と回答した無党派層は39.4%だった。


仙台市長に郡氏/中央からの追い風に乗った
 任期満了に伴う仙台市長選はきのう投開票が行われ、無所属新人で民進、社民両党が支持し共産、自由両党が支援した元民進党衆院議員郡和子氏(60)が、自民、公明両党などが支持した無所属新人の菅原裕典氏(57)ら3人を破り初当選した。
 東日本大震災からのポスト復興のビジョンをどう描くのか、少子高齢化社会をどのように乗り切っていくのか。東北の広域連携のけん引役も求められる。まずは新市長のリーダーシップに期待したい。
 今回は市民を二分するような明確な対立軸がなかった。その分、与野党対決が色濃く出た戦いの構図となり、勝敗の行方が安倍政権の評価につながるとして注目された。
 加計(かけ)学園問題などによる内閣の支持率急落、都議選での自民の歴史的惨敗を受け、その流れが地方にも及んでいるのかどうかを占う意味での「試金石」でもあった。
 河北新報社の出口調査によると、加計学園問題などを批判した郡氏が「アンチ安倍」の追い風に乗り、菅原氏は猛追したものの、逆風に抗しきれなかったことが浮き彫りになった。政権には打撃だろう。
 郡氏は内閣不支持層の約6割の投票を得た。民進の8割近くを固め、無党派層のほぼ5割に浸透。自民の2割超にも食い込んだ。菅原氏は自民の6割超にとどまり、無党派層も3割程度だった。
 野党4党による郡氏への支援態勢は昨年7月の参院選で全国に先駆け、勝利に結びつけた「宮城方式」の再現。激戦を物にした民進は面目を保った形で、次期衆院選への野党共闘にも弾みが付いた。
 菅原氏陣営は、政党色を薄めた選挙戦を展開。村井嘉浩宮城県知事の全面的な支援を受けて、二人三脚で知名度不足をカバーした。ただ、村井知事があまりにも前のめりで、「市政への介入だ」との批判が付きまとった。4選を目指す10月の知事選にしこりを残したのではないか。
 出口調査では有権者が重視したのは「地域経済活性化」「子育て・少子化対策」「医療・福祉」で、郡氏が訴えた政策と重なる部分が多い。
 妊娠から子育てまで一括支援する「仙台版ネウボラ」、給付型奨学金制度の創設など、子育て世代や若者を意識した、女性ならではの主張が受け入れられた感じだ。
 逆に物足りなかったのは「市役所改革」の視点だ。生え抜きでない郡氏の手腕の見せどころで、「甘さ」が指摘される組織風土を刷新する大なたを振るってほしい。
 郡氏は少数与党での船出となりそうだ。議会対策に苦慮するだろう。ただ、オール与党体制が本来の望ましい姿ではない。議会側がチェック機能を正常に働かせれば、市政に緊張感をもたらすからだ。
 選挙戦で打ち出した公約を着実に具現化できるのかどうか、これから郡氏の覚悟、実行力が問われることになる。


仙台でも安倍自民惨敗…横浜、茨城へ続く野党共闘の底力
 歴史的大敗を喫した都議選に続き、安倍自民が仙台市長選でも惨敗だ。
 野党が候補を一本化した与野党のガチンコ対決。民進党など野党が支援した元復興政務官の郡和子氏(60)が、自公が支持した葬祭業者の菅原裕典氏(57)を制した。郡氏の元には野党の国会議員が連日応援に入り、加計学園疑惑などを訴えて政権批判を繰り返したのが奏功した。逆に、菅原陣営は国政が直撃。
「アベ嫌いの広がりで政党色を隠さざるを得ず、党幹部の応援はほぼナシ。当初は、村井嘉浩知事が熱心にマイクを握っていたのですが、県政の私物化だと批判を招いて混乱。稲田防衛相の日報隠蔽疑惑が追い打ちをかけました」(地元メディア関係者)
 これで改めて分かったのが、野党共闘の底力だ。政治ジャーナリストの角谷浩一氏は言う。
「仙台市は昨年の参院選で野党共闘が最も成功した地域で、東北の野党候補一本化の足掛かりにもなった。都議選に続き、仙台市長選のこの結果は〈アベNO〉の声の高まりと言えます。毎日新聞の世論調査(22、23日実施)でも内閣支持率は26%まで下がり、加計疑惑をめぐる政府説明への不信が76%、憲法改正も急ぐ必要なしが66%に達した。総裁3選も62%が否定しています。一方で自民支持率は横ばい。つまり、有権者の不信の目は安倍首相に向けられている。8月3日の内閣改造では骨格維持の見通しですから、続く与野党対決の地方選でもこの流れは変わらないでしょう」
 菅官房長官のお膝元の横浜市長選(30日投開票)ではカジノ誘致と中学校の給食実施を争点に、3選を狙う林文子市長と、野党系の伊藤大貴元市議が激突。茨城知事選(8月27日投開票)では7選を目指す野党系現職に自民推薦の元経産省職員が挑む。そして、改造後初の国政選挙となる衆院愛媛3区補選(10月22日投開票)へと続く。自民は死去した白石徹氏の次男を擁立。野党は候補者調整を進めている。
■民進は路線解消の錯誤
 支持率はつるべ落とし、黒星ズラリでは心身ともにひ弱な安倍首相は持たない。ところが、風を読めないのは民進だ。一部の共産嫌いが引っかき回し野田幹事長の交代など執行部刷新を機に共闘解消に動こうとしている。
「共闘路線を続ければ保守票が離れ、取れていた小選挙区も落としかねない。統一候補なんて論外です」(民進関係者)という理屈だが、千載一遇のチャンスをみすみす逃したら、同じ波は二度と来ない。


筆洗
 一九六四(昭和三十九)年前後を描いたNHK連続テレビ小説の「ひよっこ」を見ていると登場人物が当時の流行歌を口ずさむ場面がひんぱんにある▼今の若いお方があのドラマをご覧になれば、ずいぶんと歌の好きな人たちだなと思うかもしれぬが、当時や、そのしばらく後を知る世代からすれば、不思議でもなんでもない。昭和の人は流行歌を日常生活において、よく口にしていた▼<流行歌、歌謡曲と呼ばれた時代の歌は、歌手だけのものではなく、たくさんの人が声を出して歌った、みんなの歌だった>。そう当時を分析していた昭和流行歌の作曲家が亡くなった。平尾昌晃さん。七十九歳▼「霧の摩周湖」(布施明さん)「よこはま・たそがれ」(五木ひろしさん)「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子さん)「うそ」(中条きよしさん)…。題名を見ただけで曲がすらすらと出てくる人も多いにちがいない。台所でお風呂場であるいは酒場で。みんなが口にできる名曲を数多く残した▼自分で作詞作曲し、歌唱もした「ミヨチャン」は昭和三十五年だから、今でいうシンガー・ソングライターのはしりともいえる▼<いまに見ていろ 僕だって>。「ミヨチャン」のフレーズに苦しくとも負けないでというメッセージを込めて書いたそうだ。歌に励まされた高度成長期の青年たちもいるだろう。みんなの流行歌の時代が恋しい。

溶融核燃料  廃炉計画見直しが急務
 東京電力が水中ロボットを使って3号機の原子炉格納容器内を撮影し、溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)の可能性が高い複数の物体を確認した。
 1、2号機も含め、メルトダウンした福島第1原発でデブリの可能性が高い物体を確認したのは初めてだ。事故の実態解明や廃炉作業の進展に向けた重要な一歩といえよう。
 原子炉の損傷は想像以上に激しく、原発事故の深刻さが改めて浮かび上がった。廃炉が当初の計画通りに進まないのは、もはや明らかだ。政府や東電は早急に計画を練り直す必要がある。
 水中ロボットは、3号機の原子炉圧力容器の直下に到達して溶け落ちてつらら状になった塊や、崩落した設備などに着いた塊を撮影した。いずれも溶けた核燃料とみられる。
 とはいえ、把握できたのは燃料デブリの一部に過ぎない。圧力容器の下にあるはずの作業用足場などが、映像では見当たらない。地震や原発事故で脱落、散乱した可能性がある。燃料デブリや壊れた設備がどこに、どのようにあるのか。取り出し作業のためには、全体像を把握する必要がある。
 3号機の格納容器は1、2号機に比べ下部の損傷が少ないとみられ、冷却水がたまっている。このため水中ロボットが比較的自由に動け、撮影に成功した。1、2号機の状況は手がかりをつかむことすら厳しいのが実情だ。
 こうした状況で、廃炉計画は政府や東電の立てた予定通りに進むのか。
 デブリの取り出し方針は今年夏ごろ決定する。2018年度前半に最初の一基で具体的な取り出し方法を確定させ、21年中に作業を始める−。政府と東電はいまもこんな計画を掲げている。
 予定通りなら、この時期は取り出し方針を決める時期にあたる。だが、実際にはデブリの状況の一端が明らかになったに過ぎない。
 それにもかかわらず、当初計画を掲げ続けるのには、あまりにも無理がある。原発事故の規模、深刻さを隠そうとしている。そんな疑いを抱かれても仕方がないだろう。
 原発事故から6年以上を経て、西日本で原発の再稼働が続く。安全性を確保した、という電力会社の主張を裁判所が認めている。
 だが、本当の意味で安全なのか。再稼働議論には、ひとたび事故が起きれば、廃炉が極めて困難なことも論点に加えるべきではないだろうか。


吉岡忍氏が語る安倍政権と共謀罪 「日本は権力観が欠落」
立憲主義を歪める共謀罪は19条、21条、35条に反する
 安倍政権のデタラメで、この国の言論の自由が脅かされている。取材・報道を制限する特定秘密保護法に続き、「共謀罪法」が施行された。こうした動きに抗議声明を出し続けているのが、日本ペンクラブだ。活動の原点は軍部の暴走を許した戦時体制。先月就任した新会長の吉岡忍氏は、独善政権が居座る背景に日本社会の「権力観の欠落」があると指摘する。
  ――「共謀罪法」の国会審議をどう見ましたか。
 あれを審議とは言えないでしょう。「共謀罪」を「テロ等準備罪」と呼び変えた言葉のマジックもあって、世間の関心も低かった。ロンドンやパリなどの欧州でテロが相次ぎ、国際テロには参ったもんだというところに、「テロ等準備罪」と見た目を変えてしまえば賛成しますよ。特に若い世代は保守的。これは世界中一緒で、長いスパンの歴史を知らない。親世代が歴史を伝えなければ、ものを知らない若い世代が一番保守的になるのは当たり前なんですよね。
  ――日本ペンクラブは一貫して共謀罪法に反対してきました。
「思想・信条の自由、言論・表現の自由の擁護」は日本ペンクラブの基本理念であり、歴史でもあるからです。抵触するものは絶対に反対します。われわれが歩んだ歴史から考えても、思想・信条、言論・表現、それから内心の自由という非常に繊細な分野に関わる法律は必ず悪法になる。本性が表れるとも言える。戦前の治安維持法がそうですし、明治時代の新聞紙条例もそうでした。共謀罪法は憲法違反で、立憲主義に反する。共謀罪法に基づいて法律が適用され、立憲主義を歪めている。憲法19条(思想及び良心の自由)、21条(集会、結社及び表現の自由と通信秘密の保障)に違反していますし、35条(侵入、捜索及び押収の制約)にも反しています。
  ――国会審議中に上部団体の国際ペン(本部ロンドン)の会長も異例の反対声明を出しました。特定秘密保護法に続く2例目で、いずれも安倍政権下です。
 われわれの歴史を説明すると、国際ペンの結成は第1次世界大戦後の1921年。第1次大戦は総力戦で、互いの社会の潰し合いだった。兵隊だろうが、民間人だろうが関係なく殺された。戦争はそれぞれの正義の言い合いです。勝った国も負けた国も、社会では同じことが起きていて、国内の思想・言論の自由を潰し、ひとつの権力の下にまとまり、そして戦争に向かっていった。当時の作家たちは戦争を防ぐには言論・表現の自由を守らなければならないと考え、国際ペンは始まった。
  ――日本ペンクラブは1935年に設立されました。
 当時の日本は満州事変を起こして国際社会から批判を浴び、常任理事国だった国際連盟を脱退して世界で完全に孤立していました。昭和三陸地震による津波で5000人を超える死者・行方不明者が出る大震災に見舞われても、どこからも支援がなかった。そんな時代に日本ペンクラブを設立したのは、外務省が機能しなかったからです。物書き、作家であれば、外国とのパイプ役を担えるんじゃないかという考えからでした。初代会長の島崎藤村はフランス留学をしていて、ほかにも欧米に通じる人間がいた。だからこそ、日本がいかに孤立しているかがよく分かったんです。
  ――設立にはそんな経緯があったのですね。
 すでに治安維持法が施行され、言論・表現の自由が危うくなってもいた。朝鮮半島の言論統制を理由にした治安維持法は、2度の改正で国内の社会主義や共産主義を抑えつけ、天皇制や政府に反対したものは執筆禁止。僕らが若い頃よく読んだ「暗黒日記」の清沢洌は完全に執筆禁止にされました。しかし、(設立は)さすがに遅かった。当時は会員100人くらい。解散はしませんでしたが、若い会員はみんな戦争にとられた。戦後に再建できたのは、名簿や規則が当局に押収されず、東京大空襲での焼失も免れたから。フィリピンに出征した当時の事務局長がリュックに忍ばせて隠し持っていたんです。
権力と口にしたら「あの人、反体制?」
  ――安倍政権は強引な国会運営で特定秘密保護法、安保法制、共謀罪法を成立させ、戦争準備体制を整えたともいわれています。
 民主主義のプロセスを踏んでいるとは到底思えませんが、こうなったのには、戦後の日本がどういう政治意識を社会に植え付けてきたかを考える必要がある。戦後教育で一番欠けているのは、「権力」という概念を教えることだと思うんです。「権力」は英語に訳せば、「power」という非常にシンプルな言葉。ところが、日本では「権力」と口にした時点で「あの人、反体制じゃない?」と言われるくらい嫌われていますよね。
  ――確かに、政治的な話題では「権力」という言葉を避けるきらいがあります。
 歴史や外国の話になると、日本人は「権力」を盛んに使います。「信長の権力」とか、「プーチンの権力」とは言う。ところが、日本の政治を語る時にはなかなか言わない。「政治権力」を略して「政権」と言い換える。ソフィスティケート(洗練)させるんです。そうしないと、今の日本の一般社会では権力という言葉が使えない。これが一番の間違いだと僕は思っているんです。日本は戦後70年あまりの間、成熟した権力観を常識としてこなかった。
  ――成熟した権力観とは?
 権力は批判しなければなりませんが、絶対的に必要でもある。権力なしに今の世の中は持たない。歩行者は右、車は左側通行を強制するのも権力で、法律を使った権力の行使です。しかし、権力は必ず暴走し、ろくでもないこともする。北朝鮮のような権力もあれば、ロシア、中国、米国のような権力もある。拉致もする、暗殺もする、テロもする、戦争もする。権力とはそういうものなんです。国会で強行採決もやれば、中間報告もやってのける。有権者は権力を突き放して見なければダメなんですよ。「またやったな、交代させよう」というふうにして迫ればいい。ところが、自分の人生を振り返ってもそうですが、そうした権力観の身につけ方に失敗していますよね。
  ――安倍首相は第1次政権時代から教育改革に熱心です。
 自民党の改憲草案は典型的な大家族主義。国家を家族として捉える家父長制的な世の中の見方を押しつける動きは、まさに権力そのもの。権力を権力として自覚させず、親孝行と子供のしつけのような関係の中で国民を国家に閉じ込めてしまう。それを教えるのは教育で、彼らは戦前の教育が一番うまくいったと思ったのでしょう。戦没学生の遺稿を集めた「きけ わだつみのこえ」は良心の証しのように言われていますが、僕らの観点から言うと読めたものじゃない。高校時代に読み始めて、いまだに最後まで読み通せたことがない。ああ嫌だなあと思って。なぜかというと、彼らは大東亜共栄圏なんてマヤカシだと見抜いていた。「天皇陛下万歳」と言いながら、天皇制の息苦しさも見抜いていた。唯一インチキを見抜けなかったのが、親孝行という概念。個人的な心情の中で、親に恩返しをせずに早く死ぬのを申し訳ないと考えていた。彼らが自分の頭で考えられる最大の範囲が家族だった。そういうふうに教育されたから、天皇制だとか大東亜の平和だとか、一度はスーッと入ってきちゃった。
■スキャンダルでしか変わらない日本の政治
  ――その「教育」で疑惑を持たれ、「森友学園」「加計学園」をめぐり安倍政権は揺らいでいます。
 やることがセコイですよ。思想信条に合うから小学校をやらせようとか、友達が欲しがっているから獣医学部を持たせてやろうとか。とはいえ、私利私欲と関係なく、戦前教育を復活させる究極のナショナリズムで彼らが動き始めたら、本当の権力者ですよ。戦後、いくつも権力の危機がありました。昭電疑獄、造船疑獄、ロッキード事件、リクルート事件。結局、日本の政治はスキャンダルでしか変わらなかった。日本ペンクラブは言論・表現の自由を訴え、大変な思いをした歴史を抱えながら、政府あるいは権力を批判してきた。だけど、日本は理念で変わった例がない。それは権力観がないからなんです。こんな社会ってない。フィリピンでは民主化革命が起き、香港では雨傘革命が起きた。いずれも理念に基づいたものでしょう。日本には権力観がないから、権力の思惑を考えず、共謀罪法のような悪法を簡単に通してしまうんです。(聞き手=本紙・坂本千晶)
▽よしおか・しのぶ 1948年、長野県生まれ。早大政経学部在学中から執筆活動を開始。87年、日航機墜落事故を描いた「墜落の夏」で講談社ノンフィクション賞。11年から日本ペンクラブの専務理事を務め、17年6月に第17代会長に就任。


首相の思いと国民の厳しい視線の差
 ★今日24、25日と衆参の予算委員会が開かれ、加計学園疑惑や防衛相・稲田朋美の南スーダンPKO派遣の日報を巡る虚偽答弁疑惑などを野党が追及、首相・安倍晋三らが参考人とともに疑問に答える。首相は「真摯(しんし)に丁寧に答える」としているが、この疑惑の当事者であり、親友の加計学園理事長・加計孝太郎は出てこないし、森友学園疑惑の謎は首相夫人・安倍昭恵が真相を承知している。 ★首相が嫌ったのか、自民党が「忖度(そんたく)」して出頭させなかったのかは知らないが、真相に近づくために「真摯」に対応するには随分と前提条件が付くものだと思う。しかしこの予算委員会さえ乗り切れば首相は来月3日には党人事と内閣改造を断行し、人心の刷新をもって新たなスタートを切ることになる。だが本当にそうなるのだろうか。改造は行われるのだろうか。 ★22、23日に毎日新聞が行った月例の世論調査では内閣支持率は前回の36%から26%に急落し、不支持率は12%増の56%。しかし政党支持率は25%と微減程度だった。また自衛隊加憲案に賛成は25%、反対は41%、憲法改正の議論を急ぐべきが22%、急ぐ必要なし66%、加計学園問題の政府説明を信用できる11%、信用できない76%という結果だ。つまり安倍政治が数字上は否定されているということになる。 ★首相は内閣改造を前に、幹事長・二階俊博、財務相・麻生太郎、官房長官・菅義偉らに事前に留任を伝え政権の骨格はいじらないと宣言した。つまり、なんら今までと変わりはなく、安倍政治を続けるとしたわけだが、その首相の思いと国民の政権への厳しい視線の差が大きすぎる。

稲田問題のリーク源から、安倍内閣「倒閣運動」の深刻度が見えてくる かなりの広範囲で進んでいる可能性も
盒 洋一 経済学者嘉悦大学教授
面白い資料が出てきた
森友学園問題、加計学園問題については、本コラムでそれぞれの問題の本質を明らかにしてきた。
森友学園問題では、当初の段階で公開入札手続きをとらなかったという近畿財務局のチョンボ(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51362)であり、加計学園問題では、50年以上獣医学部の新設を拒否してきた文科省告示の存在とそれを巡る既得権派と規制緩和派の争いである(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52245)、というものだ。
その問題本質の理解を妨げたのが、役所における公文書管理である。筆者にとっては、各種資料から、森友学園問題、加計学園問題について結論を出しているが、一般からみてそれらが分かりにくいのは事実だ。
森友学園問題では、「森友学園側の不正補助金授受」という形で事件化されて、ことが終わろうとしている。もちろん、この問題についてももろもろ論点はあるのだが、なにしろ「財務省の文書は破棄した」という言い方に終始したのは、政府への信頼を大きく損ねただろう。
実際、筆者は森友学園問題の構図を探るためにいろいろと資料をさがしたのだが、結局、鴻池議員の事務所のメモ(これは、各種資料と照らし合わせても信憑性が高いものである)に頼らざるを得なかった。本来であれば、財務省に管理されているしかるべき公文書をみれば直ぐわかることなのに、それがないゆえに解明に難渋した。
一方、加計学園問題では、その点かなり楽だった、当事者である文科省と内閣府双方の合意済みの特区諮問会議、ワーキンググループの議事録が残されており、それらと前川氏の記者会見や文科省からリークされたメモが齟齬していたからだ。筆者が本コラムで書いてきた問題の本質は、10日の閉会中審査での加戸守行前愛媛県知事の国会証言、14日に行われた京都産業大の記者会見で、結局明らかになった。
その後、週刊誌が、昨年11月17日、山本幸三行革大臣は蔵内勇夫日本獣医師会会長らと面談した際、「新設校は加計学園で決定した」という、抵抗勢力であった獣医師会側からのリークメモを報じた(ただし、これについて、蔵内氏自身が、その面談の際には、京都産業大学の名前も出ていたと、山本大臣に軍配を上げ、週刊誌報道を否定した→https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170720-00000004-tncv-l40)。
いずれにしても、加計学園問題は、森友学園問題に比べて公開されている議事録や資料が多いので、その解明は難しくなかった。
筆者は、加計問題でのいわゆる「石破4条件」について、文科省の挙証責任を指摘してきた(5月29日付け本コラム http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51868)。しかし、「石破4条件の挙証責任は文科省にはない」という。実際、前川喜平・前文科事務次官ほか、文科省関係者はそう主張してきた。
規制官庁側に挙証責任があるというのは、本コラムで書いたように役所の常識であるし、閣議決定された特区基本方針にも書かれている、にもかかわらずだ。
それについて面白い資料が見つかった。2005年7月12日の規制改革会議の議事録だ(http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/old/minutes/wg/2005/0712/summary050712_01.pdf)。そこには、課長時代の前川氏が登場している。ご一読いただければ分かるが、その当時から前川氏は「挙証責任」が理解できておらず、草刈隆郎規制改革会議議長から、規制改革会議への出入りを禁止されていたのだ。このような非常識な役人が次官になるというのが、文科省の最大の問題点だろう。
さて、前置きが長くなったが、今回は稲田防衛大臣の諸々の問題について解説を加えたい。
支持率低下の理由は「女性」にアリ
まずは各種報道から時系列を整理しておこう。
昨年7月、国連平和維持活動(PKO)をしている南スーダンで政府軍と反政府軍の間で「戦闘」があった。
9月30日、フリージャーナリストが防衛省に、PKO派遣されている部隊の「日報」開示を請求
12月2日、「日報」の情報開示請求に対して、防衛省は「日報はすでに廃棄し存在しない」とし不開示を決定
12月16日、稲田防衛大臣が再調査を指示
12月26日、電子データが統合幕僚監部に存在
今年1月27日、稲田防衛大臣に対し電子データが統合幕僚監部存在していたことを報告
2月7日、日報公開
2月15日、《省内会議 陸上幕僚監部で電子データとして保管、保管データは公表しない方針》(?)
3月16日、衆院安全保障委員会において、陸上幕僚監部で日報が保管されていた疑惑に対して、稲田防衛大臣が「報告はされなかった」と答弁
3月17日、防衛省防衛監察本部による特別防衛監察が設置され、解明が進められることに
まず、国民との関係でみれば、日報自体は2月7日に公開されているので、大きな実害はない。どこの部署で保管されていたかどうかが議論になっており、これは部内では問題であるが、国民との関係では些細な問題である。しかも、その後、南スーダンからPKO部隊は撤収されているので、この点でも、安全保障政策上の問題はまずない。
もっとも、防衛省の部内問題であるとはいえ、稲田防衛大臣が国会で「虚偽答弁」をしていたのであれば、それは問題である。それが今クローズアップされているのは、森友学園問題で、弁護士時代の活動についての国会発言が訂正されたり、先の都議選での自衛隊に関する不適切な失言があったからだ。
特に、都議選での失言(「防衛省、自衛隊としても(自民党候補の応援を)お願いしたい」と発言したもの)は弁解の余地はないくらい酷いものだ。筆者はたまたま失言が行われた選挙区の住民であったが、この失言と隣接地区選出の豊田真由子議員の暴言によって、自民党への大きな批判が起こるのを身近に感じた。
なお、2カ月前までの安倍政権の高い支持率には、小泉純一郎政権以降と比べて、いくつかの特徴があった。
年代別でみると、他の政権では、一般的に高齢世代ほど支持率が高い傾向があったが、安倍政権は逆に若い世代ほど支持率が高かった。男女別でみると、他の政権では男女で支持率の差は少ないが、安倍政権は男性の支持率が高かった。第2次、第3次安倍政権は、10年前の第1次安倍政権と比べても、世代別政権支持率と男女別政権支持率は異なっている。
最近になって支持率が急落した要因は、女性の支持率がさらに下がったことが大きい。強引な国会運営に加えて、豊田真由子議員の暴言、稲田朋美防衛大臣の失言も背景にあると筆者はみている。
豊田氏の暴言は本当にひどいものだった。これで高齢世代の男性の支持も大きく失ったはずだ。筆者もあの発言がテレビで流れるたびに腹が立ったものだ。
また、稲田防衛大臣の失言もひどかった。ある女性芸能関係者は、ワイドショーのなかで「神妙になるべき会見で、稲田防衛大臣のつけまつげはその場にふさわしくない」と指摘していた。こうした点に女性は敏感である。
一種の「クーデター」だったのか
話を稲田防衛大臣の国会における虚偽答弁に戻すと、国民への開示や安全保障政策上の問題というより、議員本人の信頼の問題だろう。ただし、これを文書管理の観点から白黒つけるのは難しい。公文書があったとしても、開示するのは難しいからだ。
もしかすると、稲田防衛大臣のいうとおり、大臣は日報問題について防衛省から報告を受けていなかった可能性もある。たしかに、2月7日には日報が公開されていることから、稲田防衛大臣には隠蔽するインセンティブはない。しかしながら、これほどまで防衛省からのリークがあること自体が、シビリアンコントロールの観点から考えても異常なことだと言わざるを得ない。
筆者の役人時代の感覚からいえば、「軍隊組織」に近いほど上から下までの統率が取れているものだ。その代表格は防衛省、警察である。その意味からいえば、森友学園では財務省から一切情報が出ないで、加計学園問題では文科省からのリークが出たのは、想定内の話だ(文科省の方が、より軍隊組織からは遠いという意味だ)。
もちろん、防衛省からも自己組織に有利なリークが行われることはあるが、今回のような防衛大臣を貶めるリークは聞いたことがない。これまで、防衛省は、どのような人が防衛大臣になったとしても、組織として必死に支えてきたはずだ。
一部には、特別防衛監察の結果があまりに酷く、稲田防衛大臣にまったく責任が及んでいない点から、防衛省内での一種の「クーデター」だったのではないかという意見もある。
また、一部のテレビ局が報じたが、日報問題の「監察結果の概要」が画像付きでスクープされたり、防衛大臣室でのやりとりで稲田防衛大臣が「けしからん」といった、という報道も気にかかる。
監察結果の画像付きスクープは、「監察結果の概要」が外部に漏れていることを示唆するし、「けしからん」が防衛大臣の口癖であることは、知っている人は知っている話だ。これは、ひょっとしたら、安倍政権の倒閣運動が、各省庁の段階ではなく、かなりの広範囲で行われている可能性も示唆しているのだ。
もろもろぶっ飛ぶ
いずれにしても、稲田防衛大臣の下では、防衛省の組織統率が取れていないの事実であるので、仮に稲田防衛大臣が虚偽答弁をしていなくても、大臣失格であるのは間違いない。8月上旬の内閣改造を待たずに辞任する可能性もあるだろう。短期間であれば、首相が兼務するという方法もある。
さて、安倍政権の倒閣が行われた場合、経済政策にかなりの変化が起こることは、7月10日付け本コラム(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52245)で書いた。もちろん、教育の無償化を憲法改正で行うという議論もぶっ飛ぶだろう。
教育の無償化は、憲法改正なしでも立法政策として可能だという意見もあるが、その問題点は18日付け本コラム(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52319)で書いてある。
安倍首相は、教育を投資とみて教育国債を発行する考え方にも理解をしている。これは、23日に行われた日本青年会議所(JC)との会合でも明らかになっている(日経新聞「首相、教育国債「次代にツケ残さず」 無償化財源めぐり 可能性排除せず」 http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK23H0B_T20C17A7000000/)。この点は、ポスト安倍といわれる政治家とは異なっていることに留意すべきである。倒閣というなら、もろもろのデメリットも考慮したうえでいうべきだろう。
こうした点も含めて、24日(月)と25日(火)の国会閉会中審査が安倍政権の支持率反転につながるのかどうか、注目したい。


安倍首相「加計理事長からいままで学部つくる話を聞いたことない」は真っ赤な嘘! 加計の大学新学部を自ら発案
 まったく臭い芝居だった。きょうの閉会中審査では内閣支持率が危険水域に入ったことに相当焦っているのか、安倍首相は冒頭から「私の友人が関わることなので、国民から疑念の目が向けられるのはもっとも」といまさら言い出し、野党議員からの質問を受ける際も「さきほどのご下問ですが」などと極端にへりくだった物言いに終始した。
 しかし、国民は、加計学園問題が国会で取り上げられた当初、質問する野党に「私人の名前を出すな!」「責任を取れるのか!」などとキレまくっていた安倍首相の姿を忘れてはいまい。だいたい、自分を抑えてキレそうになるのを懸命に堪え、神妙さを装っても、やはり中身は一緒。現に、安倍首相は、「加計孝太郎理事長から獣医学部新設について話を聞いたことはない」と、バレバレの嘘をついたのだ。
「(加計理事長は)チャレンジ精神をもった人物であり、時代のニーズにあわせて新しい学部や学科の新設に挑戦していきたいという趣旨のお話は聞いたことはございますが、しかし、いままで彼もさまざまな学部・学科をつくってきたわけでございますが、そういうことも含めて具体的にですね、何かをいまつくろうとしている、今回で言えば『獣医学部をつくりたい』、さらには『今治市に』といった話は一切ございませんでした」
「(加計学園が獣医学部新設を申請していたことは)今年の1月20日に加計学園の申請が正式に決定した国家戦略特区諮問会議で私が知るところにいたった」
 加計理事長と頻繁に会食やゴルフに繰り出し、加計学園が運営する千葉県銚子市の千葉科学大の開学10周年イベントに遠路はるばる参加し、奇しくも国家戦略特区に今治市が指定された9日後の2015年12月15日には仲良く乾杯するかのようにグラスを傾けている、昭恵夫人いわく「男たちの悪巧み」写真まで公になっているにもかかわらず、“大学の学部・学科新設の話はいままでしたことがないから、総理のご意向は入りようもない”とシラを切ったのだ。
 無論、これはあり得ない話であり、これが嘘であることを示す証拠も数々ある。すでに「総理のご意向」と書かれた内部文書によって行政側が加計学園ありきで2018年4月開設に向けて動いていたことは明らかになっているが、今治市は最初に構造改革特区に申請した際から事業者主体を加計学園としてきた。そのため、前述した2015年12月に国家戦略特区に今治市が選ばれたときも、朝日新聞(大阪地方版)は加計学園に取材し、担当者が「今治市から再び誘致の要請があれば、協力したい」と回答している。加戸守行・前愛媛県知事が「12年間、加計ありきだった」と証言しているように、「今治市の獣医学部誘致構想=加計学園」というのは当然の認識だったのだ。それを国家戦略特区の議長という最高責任者の立場にある安倍首相が知らなかったというのは、あまりに無理がある。
「安倍さんに千葉科学大の教員に名前を貸してくれと頼まれた」の証言
 しかも、安倍首相は「加計理事長がつくろうとしている新しい学部・学科の話は一切していない」というが、この発言自体を覆す証言がある。「文藝春秋」8月号に掲載されている森功氏のルポルタージュによれば、千葉科学大学の元教員が、同校が2004年に新設した危機管理学部そのものが、〈安倍の発案で設置された〉と証言しているのだ。
 じつはこの元教員も「安倍さんから、『教授として名前だけ貸してくれないか』と頼まれました」と言い、同校で客員教授を務める萩生田光一官房副長官についても「萩生田さんも安倍枠のはずです。安倍さん自身が『萩生田は浪人(落選)して金が大変なので、加計に面倒見てもらうよう俺が頼んだんだ』と言っていました」と語っている。
 実際、この話を裏付けるように、安倍首相の人脈は千葉科学大に大量に流れ込んでいる。たとえば、第2次安倍内閣で内閣参与となった木曽功氏は、在任中の2016年4月に千葉科学大の学長および加計学園理事に就任。また、第1次安倍内閣で首相秘書官に選ばれた井上義行参院議員も同大で客員教授を務め、「週刊朝日」(朝日新聞出版)の取材に対し「危機管理学部で授業を持っていた」とその事実を認めている。さらに、やはり加計学園が運営する倉敷芸術大学では、安倍家と深い仲である地元・下関市の元市長である江島潔参院議員が客員教授を務めていた。
 安倍首相の息がかかった人物がこれほど加計学園に投入されていることが「たんなる偶然」なわけがない。ここまでそうした関係を築いてきた上、獣医学部新設に執念を燃やしてきた加計理事長が、国家戦略特区の議長である安倍首相に、何の相談もしなかったことなど考えられないだろう。
 しかも、安倍首相は、「前川氏を含めて私から直接、具体的に(加計ありきと)指示を受けたという方はいないわけです」と述べ、「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っていること」などと書かれた内部文書を全否定したのだ。
 だったら文書なりメモなり反証の証拠を出せばいいが、もちろんそんなものは出してこない。ようやく審議の場に出てきた和泉洋人首相補佐官にしても、「『総理が自分の口から言えないから私が代わりに言う』。こんな極端な話をすれば、私も記憶が残っている。そういった記憶はまったく残っていないし、言っておりません。言っておりません!」と、“記憶にない”の一点張り。さらに「言わなかったのか、言った記憶がないのか」と野党から追及を受けると、強気だった和泉首相補佐官も「言わなかった、と思っております」とトーンダウンしたほどだ。
 自分の身の潔白を証明するのに、物証もない自分の子飼いの証言をもち出す無意味さ。だが、安倍首相はくわえて、国家戦略特区ワーキンググループ座長の八田達夫氏や、安倍首相の“極右つながりのお友だち”である加戸氏らの証言のほか、京都産業大学の会見における発言まで「利用」しはじめたのだ。
京産大と京都府を利用して疑惑隠ぺいも、説得力ゼロ
「京都産業大学の黒坂(光)副学長もですね、この問題、いわばプロセスについて問題はなかったという、『京産大外し』という、この意向は考えなかったという趣旨のご発言をされているわけであります。とくに納得できない部分はないことの証言もされているわけです」
 言わずもがな、京産大と京都府は獣医学部新設の申請者であって、行政の決定プロセスにはタッチしていない。すなわち、いま問題になっている加計ありきの決定プロセスについて、京産大と京都府は知る由もないことだ。その上、京産大は同じ会見で、事業者公募の際に開学が2018年4月と期限が切られていたことから「教員の確保などを考えるとタイトなスケジュールだった。準備できなかった」として新設を断念した理由を明かしていた。一方、今治市と加計学園は18年4月開学というスケジュールを遅くとも昨年8月に内閣府から知らされていたことが証拠として残っているが、安倍首相はこの疑惑をまったく無視するのだ。
 さらに、安倍首相はこうも言った。
「京都府知事においてもですね、京都府知事も準備不足だったということを認められる発言をされているわけでありまして、プロセスが適正であったことはそうした発言から裏付けられていると思います」
 たしかに、山田啓二・京都府知事は、京産大との会見のなかで「(今治市は)本当に必死でやってこられた」「恨み言を言う気はない」と発言している。だが、じつはこの会見の11日前の7月3日、安倍首相と山田京都府知事は、東京・三田にある会員制クラブ「綱町三井倶楽部」で清家篤前慶応義塾長らとともに会食を行っていることがわかっている。このタイミングから、安倍首相が会食の席でなんらかの説得や懐柔を行ったとみられても仕方がないだろう。
 3月13日の参院予算委員会では、はっきりと「私はね、もし働きかけていたのなら、私、責任取りますよ。当たり前じゃないですか」と述べたものの、一転してきょうは「軽々にですね、自分の職をかける等の発言をすべきでないというご批判もありました」と言い出した安倍首相。しかし、“借りてきた猫”のポーズを取っていれば何でも聞き入れられると思ったら大間違いだ。明日の審議ではどんな嘘を吐くのか、ひきつづき注視したい。(編集部)


安倍首相“脱傲慢”作戦失敗 加計キーパーソンが逆ギレ答弁
 安倍首相は「李下に冠を正さず」という言葉を何度も繰り返した。24日午前から始まった衆院予算委員会の閉会中審査。安倍首相は“腹心の友”が理事長を務める「加計学園」の獣医学部新設計画に関し、改めて「(理事長の)加計さんは学生時代からの友人だが、彼が私の地位や立場を利用して何かを成し遂げようとしたことは、ただ一度もない」と関与を全面否定したが、テレビ中継を意識して最も強調したのは「低姿勢」だ。
 質問のトップバッター、自民党の小野寺五典議員が「単刀直入にうかがう」と切り出し、加計氏との関係を問うと、安倍首相は普段のまくし立てるような答弁を控え、ゆっくりと穏やかな口調でこう釈明した。
「私の友人が関わっていることで国民の皆さまから疑念を持たれるのは当然のことだ。今までの答弁ではその観点が欠けていた。足らざる部分は認めなければいけない」
 数々のゴーマンな態度が、内閣支持率暴落の要因との自覚はあるようで、安倍首相はしおらしい態度に努めたが、それを打ち消すように感情を爆発させたのが、前文科次官の前川喜平氏から「キーパーソン」と名指しされた和泉洋人首相補佐官だ。
 この日も前川氏は和泉氏から「総理は自分の口から言えないから自分が言う」と獣医学部新設で対応を促されたと重ねて証言。対する和泉氏は、興奮した口調でこう答弁した。
「獣医学部新設は『岩盤規制』の象徴。総理は常々『スピード感を持って進めるように』とおっしゃってきた。そのことは申し上げたかも知れないが、『総理が自分の口から』という極端なことを言えば記憶に残っているはず。その記憶はないから、言っていません」
 あまりに感情的な口調に議場がざわつくと、「言っていません!」と繰り返した。
 他の証言者も前川氏以外は、内部文書に残された安倍首相の“お友達”への便宜をにおわす発言を、岩盤規制突破に向けた指示にスリ替えた。
■「腹心の友」の学部新設「知らなかった」
 質疑者が与党から野党に移ると、安倍首相の態度は一変。都合の悪い質問にはマトモに答えず、いつものように持論を一方的に垂れ流し始めた。
 官邸の関与をめぐり、前川氏と和泉氏の主張は真っ向から対立。民進党の大串博志議員が偽証罪に問われる証人喚問を行い、真偽を明らかにするよう安倍首相に求めると、途端にのらりくらり。「委員会から要請があった中で、松野大臣も山本大臣も和泉補佐官も藤原審議官も出席している。誠意をもって真実を話している」と何度も言い募り、「国会のことは国会でお決めいただきたい」と明言を避けた。
 加計孝太郎理事長との関係については「政治家になるずっと前からの友人関係」と説明したものの、「獣医学部を今治市にという話は一切なかった」などと、新設計画については知らぬ存ぜぬの一本調子。「正式に申請が認められた(今年)1月20日の特区諮問会議で知るに至った」「知り得る立場にはあったが、具体的な説明は私にはなかった」と答弁。
 これには議場がどよめき、激しいヤジが飛び交った。
 今治市とのパイプ役を担ったとみられている柳瀬唯夫首相秘書官(現・経産省審議官)も出席。国家戦略特区での獣医学部新設を提案する2カ月前に、今治市の課長級の担当者らを官邸に招いて面会していた疑いが浮上しているのだが、「記憶にないので覚えていない」を5回も繰り返した。
「丁寧な説明」とやらは、どうなったのか。


加計学園「重要機関」の顧問に名前を連ねていた、あの大物政治家
シリーズ【加計学園とは何者か】第二部
安倍総理と加計孝太郎理事長の深い関係が、行政の判断を左右したのではないか——加計学園の獣医学部新設をめぐる「疑惑」は、いまだ晴れない。
視点を変えて、加計学園の歴史を明らかにすることで、問題のありかを浮き彫りにする本レポート。第二部では、いかにして加計学園が初の大学新設に成功し、学校経営を「家業」として確立したかを追う。
億単位の私財をつぎ込んだ
その日は最高気温34度を超える、うだるような暑さだった。岡山市街地を一望できる小高い丘の上で、加計学園創設者の加計勉氏は蝉の声を聴きながら頭を垂れていた。
1961年8月27日、のちに岡山理科大学とその附属中高、そして加計学園本部が置かれることになる岡山市街地北側の半田山。ここに備中国一宮である吉備津神社から宮司を招き、学校法人加計学園が設立する最初の学校、岡山電機工業高校の地鎮祭と起工式が行われた。
勉氏と岡山県庁私学担当者とのやりとりは第一部にて詳述したが、氏が県に高校設置の申請書を提出したのは同年9月6日、県から認可が下りたのはその2週間後の同20日のことだ。学園による記録や、各種資料の中の関係者証言が正しければ、勉氏は申請書を提出する直前に工事を始めたことになる。
戦前は旧陸軍が所有していた半田山は、まだ草木が鬱蒼と生い茂る山林だった。この時の列席者は勉氏をはじめ、少数の学園関係者に限られ、式はごくひっそりと進んだ。
当時38歳の勉氏は、予備校経営で手にした数億円もの財をなげうってこの山を買った。のちに学園理事長となる長男・孝太郎氏は、このとき小学生。加計家は決して貧しいわけではなく、むしろ予備校事業の大成功によってかなり富裕だった。にもかかわらず、勉氏の事業計画を叶えるため、子供たちのおやつを買うのにも苦労するような耐乏生活を強いられていたという。
目指す開校期日は8ヵ月後の翌1962年4月に迫る。建設用地の造成と校舎建設は急ピッチで進められたが、生徒が集まらなければ話にならない。
勉氏の経営する予備校・広島英数学館から職員が応援に出て、岡山県下のみならず香川県や兵庫県でも説明会に奔走、入学試験は丘のふもとにある市立岡北中学校の校舎を借りて実施するという突貫工事ぶりだった。
地元ゼネコンとのつながり
明治期から倉敷紡績(現・クラボウ。クラレの母体となった企業)などの繊維産業を中心に発展してきた岡山県南部地域は、戦後は鉄鋼・石油化学などの重工業が急速に盛んになり、人口も急増していた。日本が高度成長期のとば口に立っていた当時、勉氏には「理系の学校は、これから必ず必要とされるようになる」という確信があった。
岡山電機工業高校の第1期入学者は247名。受験者数は定員の約7倍だったというから、かなりの高倍率だ。しかし勉氏にとって、工業高校の設立は「通過点」にすぎなかった。氏があらかじめ買い取った土地は約5万平方メートルだが、そのうち高校の用地に使われたのは2万2000平方メートルあまり。残りの土地は、宿願だった岡山理科大学建設のためにとっておいたのだ。
事実、高校の開学式典の席上で、勉氏は「この高校の運営が軌道に乗ったあかつきは、この地に大学設立を実現したい」と話し、列席者を驚かせている。その言葉通り、氏は高校開校の直後から大学設立に向けて動き始める。『加計学園創立二十周年記念誌』(1985年)より、本人の述懐をひこう。
〈高等学校よりもむしろ大学を設立するということが当初からの狙いでした。本来ならば、高等学校が三年生まで在籍するようになってから大学を作るというのが普通のやり方なのですが、今述べた理由により、大学も同時に作りたいと思っておりました。
一言で大学を作ると申しましても、教授陣容を整えないといけませんし、また、ばく大な資産の投下も必要です。その当時、私の所有していた約一万坪の土地全部の他に、いろいろなものを含め、完成までに五億円を要すると言われておりました〉
大学校舎の建設については、1963年9月に地元の建設会社大本組と契約を交わした。この大本組は現在、愛媛県今治市に建設中の岡山理科大学獣医学部の校舎建設も請け負っている、岡山県を代表するゼネコンである。真新しい高校の校舎の横で、トラックと重機が山腹を行き来する中、1期生たちは勉学に励まねばならなかった。
県知事への「根回し」
岡山理科大学の設立費用5億円を現在の貨幣価値に換算すると、大まかに言って10億円以上になる。だが勉氏の回顧録を見る限り、かなりの部分を私費でまかなったにもかかわらず、金銭面で苦労した形跡はほとんど記されていない。むしろ行政への認可申請、そして教員確保に走り回ったことが強調されている。
〈当時、皆さんから「なぜ理学部を作るのか、金ばかりかかって損益の合わないものをなぜ作るのか」とよく言われました。私自身の出身が(広島)文理科大学の数学科ですので、頭の中ではそういうものをめざしていましたが、 (中略)文部省の方では新しい学部を作るというのは、認可が非常にむずかしいとの話もありました。そこで理学部の中に応用的な学科を作ろうと考えました〉(『二十周年記念誌』より)
現在の「加計学園問題」にいったん話を戻すと、今治市で新設予定の岡山理科大学獣医学部が、2015年6月に閣議決定された「日本再興戦略改訂2015」にある、いわゆる「石破4条件」を満たしていないのではないか、という指摘が野党などから上がっている。これは、当時の国家戦略特区担当大臣・石破茂氏の下で決められた、「獣医師養成系大学・学部の新設」についての縛りだ。
その中に、「既存の大学・学部では対応困難な場合」という条件がある。要するに、「大学を新設したいなら、今ある大学とは違った新味を出せ」というわけだ。約半世紀前の岡山理科大学開設に際しても、文部省は加計勉氏に、同じような要求をしたといえる。
勉氏は手始めに設置を決めた理学部内に、化学科と「応用数学科」の2学科を設けることで、大学新設のための審査を切り抜けようと考えた。当時の働きぶりは、部下・同僚たちから「昼夜を分かたない阿修羅の如き活動」と評される猛烈なものだったという。
ただ、加計学園のまとめた当時の記録には、大学開設に至る経緯そのものは、さほど詳しく述べられていない。特筆すべきものがあるとすれば、広島大学名誉教授(当時)で、勉氏の広島文理科大学数学科在籍時の恩師だった戸田清氏の回想である。戸田氏は、加計氏の相談に応じ、県知事に話を伝えた——そう明かしているのだ。
〈加計氏から大学創設の考えを耳にした。広島で既設の大学と競合することの不利。京阪神、四国、山陰に近く、水島臨海工業地帯に政治生命をかけている知事のいる岡山。こちらを選ぶべきではないかと述べた記憶がある。加計氏の参考になったかも知れない。(岡山県)知事にも、大学設置の計画のあること(を伝え)、もし、そうときまれば、何分の援助協力を要請した記憶もある〉(『二十周年記念誌』より)
行政に対する勉氏の根回しと、政治的嗅覚の一端が垣間見える記述といえるだろう。
あの大物議員が顧問に
岡山理科大学は、文部省への申請からわずか1年半後、東京五輪開催を控えた1964年春に開学した。それに伴い、先行して開校していた岡山電機工業高校は「岡山理科大学附属高校」に改称された。岡山理科大学の初年度の入学者は143名と多くはなかったが、翌年以降は新学科を続々と増設し、学生数も右肩上がりに増えていった。
勉氏はのちに、「僕は教育者ではない。教育実業家だ」と述べたという(鶴蒔靖夫『加計学園グループの挑戦』より)。予備校経営から教育事業に参入し、資金を確保して、ついに学生時代から夢見た大学開設までこぎつけた。重化学工業の発展という時代の要請に応え、学生を確保するために、学部は需要の見込まれる理科系に絞りこんだ。確かに勉氏は、単なる教育者にとどまらない「ビジネスセンス」を持ち合わせていた。
1970年代以降、成長期に入った加計学園・岡山理科大学には、現在の報道でも名前の出てくる人物がちらほらと見え始める。以下は、加計家の人々と学園関係者の「人名録」である。
現在、加計学園理事を務め、2016年まで系列校の千葉科学大学学長を務める赤木靖春氏は、当時は学園の一職員だった。氏は1980年代、岡山県北の蒜山(ひるぜん)高原に開設された附属研究施設「蒜山研究所・学舎」の所長を務めている。
一方、注目したいのは1970年代以降に学園が力を入れ始めた海外交流事業だ。本稿でもたびたび引用している、1985年刊行の『加計学園二十周年記念誌』には、当時の学園本部の陣容が掲載されている。中でもひときわ目を引くのが「国際交流局」。局長は、現在は学園理事長を務める加計孝太郎氏(当時は「晃太郎」と名乗っていた)、そして顧問には、衆院議員の逢沢一郎氏の名前がある。
逢沢氏といえば、従兄が経営する岡山県の建設会社「アイサワ工業」が、今治市の獣医学部建設工事を前出の大本組とともに受注したことが報じられている。1985年当時、逢沢氏は松下政経塾を卒塾したばかりで、衆議院選挙で初当選したのは翌1986年のことだ。逢沢氏と加計孝太郎氏はほぼ同世代。少なくとも30年あまり前には、両者はそれなりの親交を持っていたはずだ。
現理事長・加計孝太郎氏の1990年の寄稿文(『広島加計学園創立十周年記念誌』より)
30代から40歳ごろの孝太郎氏は、国際交流局長と副理事長を兼任していた。学園の公式刊行物には、当時から必ずと言っていいほど寄稿文を寄せ、国際交流事業がいかに大切かを説いている。
〈 (当時の)外務大臣、安倍晋太郎氏も言っておられますが、日本はアメリカの袖の下に隠れていれば、平和と安全と守ることができ、世界の中で発展して行くことができたという受身の形から、言いたいことははっきり言い、世界の中で日本の役割を積極的に果たして行くという形に展開して行かなければと思います。
国際的な舞台で何らかの決定を迫られ、例えば、拒否したい場合、Yes, but……,という表現から、No. Because……, という表現に変えて行くべきであると思います〉(『二十周年記念誌』所収の孝太郎氏の寄稿文「広い視野にたった交流を」より)
2017年のいま、孝太郎氏の長男・加計役(まもる)氏は加計学園の副理事長や広島加計学園の理事長を務め、次男・加計悟氏は学園系列校の倉敷芸術科学大学副学長と、同大学の獣医学系学科である動物生命科学科の講師を兼任している。
父の孝太郎氏がかつて岡山理科大学などの系列校で教鞭をとっていた形跡はないが、40代にさしかかっていた1992年の時点で、孝太郎氏も加計学園副理事長・国際交流局長のほかに、学校法人広島加計学園理事長、広島英数学館・福山英数学館館長のポストを得ていた。
当時からすでに、加計学園は現在と同じく「家族経営」の様相を呈しつつあったのだ。
参考文献:鶴蒔靖夫『加計学園グループの挑戦』IN通信社、2011年 『加計学園創立二十周年記念誌』加計学園、1985年 『広島加計学園創立十周年記念誌』加計学園、1990年 『加計学園創立30周年記念誌』加計学園、1992年


文学部って何の役に立つの? 阪大学部長の式辞が話題に 思いを聞く
【ネットの話題、ファクトチェック】
 「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます」。今年3月、大阪大学の文学部長が卒業セレモニーで述べた式辞が、ツイッターで話題になっています。世間からの「文学部って何の役に立つの?」という声に対する考えを語ったものです。どんな思いが込められているのか? 話を聞きました。
式辞の内容は
 大阪大学文学部長で、大学院文学研究科長も務める金水敏さん。話題になっているのは、今年3月に開かれた文学部・文学研究科の卒業・修了セレモニーでの式辞です。
 「みなさま、本日はご卒業・修了まことにおめでとうございます」と始まり、ここ数年間の文学部・文学研究科をめぐる社会の動向について、「人文学への風当たりが一段と厳しさを増した時期であったとみることが出来るでしょう」とふり返ります。
 「税金を投入する国立大学では、イノベーションにつながる理系に重点を置き、文系は私学に任せるべき」といった意見が出たことなどを挙げながら、「文学部で学ぶ哲学・史学・文学・芸術学等の学問を学ぶことの意義は、どのように答えたらよいのでしょうか」と問いかけます。
 「医学部」「工学部」「法学部」「経済学部」などの実例を挙げた上で、「先に挙げた学部よりはるかに少なそうです。つまり、文学部で学んだ事柄は、職業訓練ではなく、また生命や生活の利便性、社会の維持・管理と直接結びつく物ではない、ということです」とした上で、こう述べます。
 「しかし、文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます」
 「今のこのおめでたい席ではふさわしくない話題かもしれませんが、人生には様々な苦難が必ずやってきます」
 「恋人にふられたとき、仕事に行き詰まったとき、親と意見が合わなかったとき、配偶者と不和になったとき、自分の子供が言うことを聞かなかったとき、親しい人々と死別したとき、長く単調な老後を迎えたとき、自らの死に直面したとき、等々です」
 「その時、文学部で学んだ事柄が、その問題に考える手がかりをきっと与えてくれます。しかも簡単な答えは与えてくれません。ただ、これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう」
 「人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、文学部で学ぶさまざまな学問であったというわけです」
文学部長に聞きました
 今月17日、「人文学類を出た身としてはとても響くものがあるので幾度となく読んでしまう」という文言とともに、金水さんのブログで公開されていた式辞全文がツイッターに投稿されました。
 すると「すごく心に響くものがある」「名文やなぁ」「なんとなく入った文学部の娘に読むのを勧めたい」といったコメントが寄せられ、いいねが1万4千を超えています。
 この式辞にどんな思いを込めたのか? 金水さんに話を聞きました。
 ――このテーマを選んだきっかけは
 「『人文学は人生の岐路に立ったときに真価を発揮する』という考えは以前から持っていて、2016年の大阪大学文学部案内の巻頭言にも書きました。特に人文系に対する風当たりが強い昨今、卒業していく学生さんたちに、『きみたちが学んできた学問にはこんな力があるんだよ』と伝えて、世の中に対し少しでも顔を上げて生きていっていただけたらという思いでこのテーマを選びました」
 ――表現で工夫した点は
 「できるだけ難しい言葉は使わずに、耳で聞いてすっと理解できるようにとは考えました」
 ――金水さんご自身の体験との関係は
 「肉体的・精神的につらい状態にあるときに、考えることがつらさを和らげてくれるという実感は何度か経験しました」
「それ以上でもそれ以下でもありません」
 ――式当日の反響は
 「卒業生の皆さんは静かに聞いていて下さいましたが、特段の変わった反応はなかったです」
 ――ツイッターで話題になったことについては
 「正直、当惑しています。なんで今頃、と感じましたが、それだけ人文学の行く末を案じ、応援して下さる方が多いんだなと理解し、うれしく思っています」
 「スピーチ自体は、今読むと、いろいろ言葉足らずの、稚拙な表現もあるし、考えの至らないところもあるし、さほどオリジナリティーがあるわけでもないありきたりのスピーチです。卒業式のその場の皆さんに向けたことばであり、それ以上でもそれ以下でもありません」
 ――これから文学部で学びたいという学生や、現在学んでいる学生、かつて学んでいた人へメッセージを
 「卒業した方には分かっていただけるのではないかと思うのですが、文学部で学んだことがらは、いつの時代にも変わらない価値を持ち続けます。多くの方に『いい選択だった』と思っていただけると信じています」
 ――「これは言っておきたい」という点があれば
 「人文系の学部はもちろんですが、大学自体が岐路に立っています。大学関係者は、不十分ながら、大学が持っている『大事なもの』を少しでも残していこう、受け継いでいってもらおうと努力しています。ひとりでも多くのみなさまに、そんな努力を知っていただき、応援していただけたらと願っています」


相模原事件から1年 命の重さを改めて考える
 あの事件からもう1年になる。
 相模原市の障害者入所施設「津久井やまゆり園」で19人の重度障害者が元職員に殺害されたのは昨年7月26日の未明だった。
 植松聖被告(27)の初公判はまだ開かれていない。「障害者には生きる価値がない」という理不尽な動機がどのように形成されたのか、事件の核心部分はまだよくわからない。
 同園で暮らしていた障害者は現在、横浜市内にある施設などで仮住まいをしている。悲惨な事件の記憶に今も苦しむ人は多いという。
 神奈川県は当初、家族会などの要望を受けて施設の全面再建を打ち出した。しかし、山あいの大規模施設で再び障害者を収容することに対して各地の障害者らから批判が高まり、軌道修正をすることになった。
障害者の意思を中心に
 現在、県は4年後をめどに相模原市と横浜市に小規模の入所施設を新設する方針を示している。小規模で家庭的なグループホームもつくり、選択肢を広げるという。時間をかけて障害者の意向を確認し、どこで暮らすかを決めるというのだ。
 家族会からの反対論も根強いが、障害者自身の意思を中心に考えるのは当然である。重度の障害者についても本人の意思決定を大事にしようというのは国際的な潮流であり、厚生労働省は意思決定支援のためのガイドラインを策定している。
 大規模入所施設は各地にあり、高齢で重度の障害者が多数暮らしている。地域生活への移行については、やはり家族の反対が強いこともあり、容易には実現していない。
 神奈川県は福祉や心理職、弁護士など多分野の職員がチームで同園の障害者の意思確認に当たるという。今後の日本の障害者福祉のモデルとなるよう期待したい。
 再発防止策は混迷している。
 厚労省は再発防止のために精神保健福祉法改正案を今年の通常国会に出したが、精神障害の関係者から反対論が強まったこともあり、継続審議となった。
 植松被告は措置入院から退院した4カ月後に事件を起こした。このため、自治体や保健所による退院後の相談支援、自治体間の患者に関する情報伝達の強化などが改正案に盛り込まれた。
 ただ、障害者の地域生活を支援する福祉サービスは不足している。そちらには手を付けず、退院後の患者情報の伝達や相談ばかり強化するのは「監視」を強めるに等しいとの批判が寄せられているのだ。
 また、植松被告は精神鑑定で刑事責任能力のある自己愛性パーソナリティー障害と診断された。現在の精神科医療では治療が難しいとされ、再発防止について精神科医療の枠内で検討すること自体の適否についても議論が起きている。残された重要課題だ。
個性認め合う多様性を
 事件後、厚労省が防犯カメラによる監視や施錠などを強化するための補助金を出した。しかし、植松被告は通り魔などではなく、同園で3年以上働いていた元職員だ。勤務中に障害者への暴言や虐待行為があったことも確認されている。ハード面だけでなく、職員教育や虐待防止研修などをもっと重視すべきだ。
 障害者を差別視する意見は今もネットなどで散見される。社会的格差が広がり、自己責任が過度に求められる中で、障害者にゆがんだ視線を向ける人は多いのかもしれない。
 ただ、どんな人にも生きる権利はあり、重度障害者もそれは同じだ。肉親や周囲の人々を通して社会に何かしらの影響力を発してもいる。障害のある子からさまざまな刺激や影響を受けて偉大な功績を残した芸術家や経済人は少なくない。
 被告の主張は優生思想に影響を受けたものだと指摘される。しかし、優生思想の基となったダーウィンの進化論は、優れたものや強いものが生き残ることを示す考え方ではない。たまたまその時代の環境に適したものが生き残るに過ぎないという自然の摂理を示したものだ。
 地球環境や資源の有限性に直面し、未開拓のフロンティアが消失した世界で私たちは生きている。他者の存在を認めない偏狭な考えこそ、現代の環境に適していないと言うべきではないだろうか。
 互いの価値観や個性を認め合い、支え合いながら共存しなければ、社会の維持や発展は望めない。あの痛ましい事件はそのことを私たちに訴え続けている。


臓器移植法20年 「命の重み」をかみしめて
 脳死段階での移植を可能とした臓器移植法の施行から今年で20年になる。
 世論も国会も二分する論議の末、人の死は心臓死であることを前提に、移植に限って脳死を人の死と認める医療がスタートした。
 臓器を提供され救われた命がある。一方で心停止を待たずに法律上の死とされた人の命がある。二つの命をどう考えるのか‐。
 国民一人一人の死生観も深く関わり、提供者の数は伸び悩む。より定着させるには、社会の理解を一層深めていく必要がある。
 日本臓器移植ネットワークによると、法が施行された1997年10月から今月中旬までに、心臓、肝臓、肺、膵臓(すいぞう)、小腸など計2001件の脳死移植が実施された。年平均では約100件である。日本移植学会が体制整備の目標とする年500件には程遠い。
 提供者は458人だった。移植を待つ登録者1万3450人(6月末現在)との開きはあまりに大きい。そもそも脳死者は全死者の1%程度とされる。海外での手術に踏み切る人は今も少なくない。
 内閣府の2013年の世論調査によると、脳死段階で臓器を「提供したい」と答えた人は43・1%で法施行翌年より12ポイント増えた。ただ、運転免許証の裏面や「意思表示カード」に提供の可否を記入している人は回答者全体の1割だ。
 脳死移植への抵抗は依然強いと思われる。移植数低迷の背景には大学病院など移植施設整備の遅れや医療への不信のほか、不十分だが移植の代替療法が注目されるようになった環境の変化もあろう。
 もちろん、家族の体がどこかで生きていることに勇気づけられる提供者の遺族や、提供者の分まで強く生きる決意を持つ患者は多い。術後の生存率も高まった。
 いずれにせよ移植の可否を決めるのは一人一人である。その前提として欠かせないのは医療機関との信頼関係だ。脳死移植が進む過程では医療全体でインフォームドコンセント(十分な説明と同意)という概念も定着した。改めて命の重みを考える契機と捉えたい。