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Mondial : les supporters japonais et sénégalais nettoient leurs tribunes à la fin du match
Scène étonnante lors de la Coupe du monde de football en Russie : les fans des équipes du Japon et du Sénégal font le ménage dans les gradins après leur passage. Les supporters japonais ont donné l'exemple, imités ensuite par les Sénégalais.
A l'occasion de la Coupe du monde de football en Russie, les spectateurs japonais et sénégalais font preuve d'un civisme exemplaire : ils nettoient les gradins après leur passage.
Les supporters nippons ont en effet été vus en train de ramasser leurs déchets après leur victoire 2-1 contre la Colombie à la Mordovia Arena.
Suivant l'exemple des supporters des Samouraïs bleus, ceux des Lions de la Teranga sénégalais en ont fait de même au stade du Spartak, à Moscou, après leur match victorieux contre la Pologne.
フランス語
フランス語の勉強?

この前みた古いロゴが気になって聞いてみました.使ってはダメなそうです.なんか残念ですが仕方ないです.
小林麻央さんが亡くなって1年です.別にファンだというわけでもないし,海老蔵にも関心はないけど30代で亡くなるというのはつらいです.70代や80代でもまだ若いと言われるこのご時世.あまりにも早すぎると思います.

前文部科学事務次官・前川喜平 2万字インタビュー
辻田 真佐憲

若い人たちとはまだ今でも会っています
――「『総理のご意向』文書は本物です」と、前文部科学事務次官の立場で告発し、大きな反響を呼んでから1年が経ちましたが、身の回りの環境は変わりましたか?
前川 ずいぶん変わりましたね。特に交友関係が大きく変わったんですよ。今まで付き合っていたいろんな人と疎遠になっちゃって。
――今までのお付き合いというのは。
前川 政治家とか役人です。もちろんあの後も繋がっている人はいます。文科省の官僚でも審議官以下、若い人たちとはまだ今でも会っています。ポストを気にし始める審議官以上だと、「ちょっと今は前川さんとは会えない」というのはあるでしょうね(笑)。
――官僚の中でも文部官僚というのは地味で表に出てくる場面がなかなかないと思うんです。そんな中で、前川さんはまさに「異色の官僚」。今回はライフヒストリーを含め、これまでの官僚人生、文部行政の現代史をお伺いしたいと思います。
前川 いえいえ、普通の大人しくしていた官僚ですよ(笑)。
祖母が「なんで4がついてんねん!」って
――お生まれは1955年、奈良県の今は御所(ごせ)市になる場所ですね。そのあと小学3年生で東京に引っ越されますが、奈良時代の学校体験で印象的なことは何でしょうか。
前川 秋津小学校というところに3年生の1学期までいました。小学1年時の女性の担任の先生は優しかったんですが、2年3年の時の担任はかなり年配の先生で厳しかったですね。昭和30年代後半のことですから、その先生はおそらく戦前の国民学校で訓導をやっていた方だと思います。ですから、あまり民主的ではなかったですよね(笑)。体罰も受けました。
――どんな体罰を?
前川 こちらも本当に悪いことしたんだからしょうがないんですが、ほっぺたをつねられました。僕だけじゃなくて、悪さした何人かが並べられて、ビッビッビッて。痛かった。
――勉強はよくできたんですか?
前川 私の母親は教育ママというほどではないけれど、参考書だとかドリルを買ってきてくれました。田舎の小学校ですから誇れることでもないと思いますが、1年生の1学期の体育「4」を除けば、転校するまで成績は全て「5」だったんです。でも、これには裏がありましてね、私の実家というのは地主の家で、その地域では「ボス」だったんです。それでうちの祖母が「なんで4がついてんねん!」って学校に文句言ったらしいんですよ(笑)。それ以降、オール5の成績になったという。「井の中の蛙」そのものの世界で恥ずかしい話です。
――強烈なお祖母さんですね。
前川 正確には養祖母になるんです。私の父には東京で前川製作所という冷凍機の会社を作った実父母の家と、実父の兄で奈良の本家にいた養父母の家がありました。この奈良の家が古い偏見や差別、あらゆる封建的なものを残したところで、祖母なんか僕の友だちに向かって「喜平ちゃんと呼ぶな、ボンボンと言え」って真面目な顔で怒るんです。学校に行くときに「喜平ちゃん行こか」じゃなくて「ボンボン行きまひょか」と言えと。私はそれが嫌でね。妥協の産物として「ぼうやちゃん、行こか」になりましたけど。
香港で生まれてバンコクで育った帰国子女の母
――他には奈良独特の体験というのはありましたか?
前川 同和地区の多い地域でしたから、クラスメイトの中にもそこの子どもたちがいましたが、全く意識することはありませんでした。これはおそらく、母親の影響が大きくて、母は差別意識や偏見を持たないよう教育をしてくれていたんです。というのも母は戦前に香港で生まれてバンコクで育った帰国子女。母の父は三井物産の支店長をしていた人なんです。戦時中に東京に戻ってきて、戦災に遭って、戦後は財閥解体で父親が失職。苦しい時期を経て、女学校を卒業し、私の父と知り合って奈良のど田舎に来たという人生で、まぁ意識してリベラルだったかわかりませんが、無意識のうちに古い道徳には縛られないところがあったんじゃないでしょうか。
――お父様はどんな方なんですか。
前川 父は早稲田大学の政治経済学部を出た人で、仏教青年会に入って仏教の勉強をしていました。田舎から東京に出て過ごした人ですし、母と同じく古い因習には縛られていませんでした。
――そういうご両親だからこその人格形成はあったと思いますか。
前川 今から考えればあると思います。弱者に対する思いというのは、特に母から引き継いだところが大きい気がします。今でも覚えていますが、小学校の近くに工場ができて、そこで働く家族がたくさんやって来て、転校生が何人か来たことがあるんです。その中に黒人系のハーフの子がいまして、髪の毛も肌の色も違うから、仲間はずれにされてしまってね。でも私はさっき言った「地域のボス」的な家の子どもだったから、主導権を取れる場面では彼を入れてボール遊びをしたり、あるいはピアノ教室の帰りに彼がとぼとぼ歩いているのを見つけると「乗りなよ」ってうちの車に乗せて送ってあげたりしました。そのとき彼はお米を入れた一升瓶を大事そうに抱えて歩いていましてね。後から母親に背景を教えてもらって、貧困の現実を子供心に刻むような体験をしました。今でも鮮明に思い出しますね。
東京に転校して不登校「私の人生の最も暗黒な時代」
――小学3年生の1学期に奈良から東京へ転校。最初は文京区に住まわれたそうですね。
前川 1学期の終わりに転校したものだから、クラスに仲良しができる間も無く夏休みに入ってしまった。ところがプールの授業が夏休み中にあったんです。でも、奈良の学校にはプールがなかったので、まったく泳げなかったんです。顔を水につけることすらできなかった。それで、プールの授業が嫌で嫌で。しかも、あの夏はそれほど暑くなかったので、プールに一人佇んでいるとガタガタ震えてきて……。夏休み明けの2学期から3学期が終わるまで、不登校になってしまうんですが、それはプール体験が大きかったと思います。
――それまでは奈良の田舎のヒエラルキーではトップにいたのに……。
前川 東京ではボトムですよ。母が東京の人間だから東京弁はできたんだけど、やっぱり言葉遣いは違ってよく笑われたのも嫌だった。私は母親のこと「お母ちゃん」って呼んでたんです。でも、クラスメイトは「僕たちはママって言うよね」って(笑)。「奈良に帰りたい!」ってずっと親に言ってました。私の人生の最も暗黒な時代です。
――その後、港区の小学校に転校されています。
前川 親が独立して家を構えたんです。それが小学4年生になる時。今度はうまくやろうって考えて、じわりじわり、少しずつ声をかけて仲良くなって、うまく友だちを作っていきました。ハンガリー人の子がいたのを覚えていますね。あのへんは大使館があるから。この学校にはうまく馴染めまして、5年生で学級委員もやりましたよ。
――出世しましたね。
前川 出世してますよ(笑)。転校生の気持ちがよく分かるから、積極的に転校生とは仲良くしました。
麻布中学で迎えた「1968」
――中学受験をして麻布に行かれますが、やはり塾には通っていたんですか?
前川 6年生になってから、急に両親が「喜平を受験させよう」って言い出しまして、じゃあ家から歩いて行ける麻布を受けるということになったんです。担任からは「今からじゃ遅いですよ」って言われましたけど、親が「蛍友会」っていう塾を探してきて、毎週日曜日、目黒まで通っていました。途中で母がこっちの方がいいと言って「日本進学教室」という塾に替えました。
――麻布には中高6年間通われますが、この頃の思い出といえば何でしょうか。
前川 入学したのが昭和42年、1967年です。その翌年、私が中2の年というのは日本だけでなく、世界中で学生が暴れまわった1968年なわけです。パリでは5月革命が起こり、日本では東大や日大を中心に学生運動が盛んになる。麻布はそういうものにすぐ影響を受けちゃうんで、高校のお兄さんたちがヘルメットかぶって角棒持って、「制服自由化だ!」とか何とか、学校を変えるんだと執行部に要求を突きつけていました。校長室占拠なんていうこともありましたよ。それで、校長が交代して、校長代行が校内を仕切ることになるんですが、この人がとんでもない人で。とにかく力で押さえつけるんです。これには教員の中からも反発が出て、職員室が分裂しちゃうわけ。結局は校長代行は失脚、校長代行派は一掃されるんですが、まあひどかったですね。警察が入ってきたこともあるし、ロックアウトになったこともありました。
――そこまでですか。
前川 高校2年の時にロックアウトになったので、突然の秋休みになったんです。友だちと信州に遊びに行きました。
――そういう無秩序な学校の状態を、当時はどんなふうにご覧になっていましたか?
前川 自分しか頼るものがないんだ、何が正しいかは自分で選び取っていくしかないんだって思うようになりました。自分で確かだと思ったことしか、確かではないんだ、というような。
小説家になりたくて応募した作品は「けやき賞」
――その頃の麻布出身者には官僚の道に進んだ方も多いと思います。みなさんそういう傾向にあるんでしょうか。
前川 みんながそうかは分かりませんが、多かれ少なかれ、そういう経験はしていると思います。自分で自分の道を見出すしかないと考えた人間は、多かったと思いますけどね。
――大学受験も、そういう自分の道を見定めて取り組んでいたんですか?
前川 私は理系のクラスにいて漠然と宇宙物理学者になりたいなどと思っていたんです。アインシュタインを凌ぐような物理学を打ち立てて、もっと宇宙の真理を探りたいという野望を抱いてました(笑)。分かりもしないのに相対性理論の本を買って読んでましたよ。でも、理系で受験するためには数靴必須。ところが歯が立たないわけ。それで高3の夏休みが終わる頃には文転することを決めました。
――それで東京大学の文科を目標にすると。
前川 詩人や小説家になりたい気持ちもあったんです。高校の時に『高1コース』から『高3コース』まであるあの雑誌を毎月購読していたんですが、そこに学研が主催している「コース文学賞」というものがあって、そこに小説を応募したことがあります。そしたら、上から7番目の賞になったの(笑)。「けやき賞」っていう賞をもらいました。
――どんな小説だったんですか?
前川 港区の小学校時代に仲良くなった転校生の友だちと、一緒に北海道のおばあさんの家に遊びに行ったことがあるんです。そこで経験した人間関係の機微、ある一人の人間の生い立ちに秘められたものを小説にしたんですけどね。彼とは今も仲がいい友だちです。この小説がもっといい賞をとっていれば、本気で文学を目指していたかもしれませんね(笑)。
実は乃木大将のことを尊敬していたんですよ
――当時はどんな本を読んでいましたか?
前川 うちの親父は国内外の文学全集を家にダーっと並べていたんです。だから、暇に任せて小学生の時からめくってはいました。家の文化的環境って大きいなって思いますけど、影響を受けたものは何だろうな……。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、とにかく全部読んでみようと思って読破しましたね。絶対の真理とか、絶対の倫理とか、そんなものってあるのかどうか、ずいぶん考えたものですよ。ドストエフスキーはこれと『罪と罰』しか読んでないですけど。
――分厚いところを2作品も。
前川 途中でやめた本も多いですよ。ドストエフスキーの『二重人格』とか、わかんなかったなあ。
――音楽はどんなものを聴いていましたか?
前川 家にあったレコードといえば親父が早稲田なもんだから、A面が早稲田の応援歌、B面が慶応の応援歌っていうやつ。よく聴いてましたね。あとは軍歌が多かったですね。
――軍歌ですか!
前川 私が結構好きだったのはね、『出征兵士を送る歌』。
――「我が大君に召されたる〜」
前川 えっ! よく知ってますね。
――私、軍歌の研究もしているので……。
前川 それはそれは。『空の神兵』、あれもいい歌ですよね。それから国民歌の色合いが強いけど『愛国行進曲』。『戦友』は「ここは御国を何百里〜」か。そうだなあ、あとは『軍艦マーチ』も好きだったですよ。「守るも攻むるも黒鉄の〜」。あとこれは軍歌ではないけども『水師営の会見』。
――乃木大将ですね。
前川 僕、実は乃木大将のことを尊敬していたんですよ。小学、中学くらいまでは相当に。『海ゆかば』も好きです。あれは音楽作品としてかなり優れたものだと思います。「大君の 辺(へ)にこそ死なめ かえりみはせじ」ってね。まぁ、『水師営の会見』だの『海ゆかば』だの『愛国行進曲』だの、完全に右翼って言ってもいいくらいですよ、そういう意味では。
軍歌好きから反戦歌好きに
――意外ですね……。他にはどんな音楽を聴いていましたか?
前川 あとはクラシックですね。はじめはベートーヴェンばっかり聴いてました。それからチャイコフスキー、ブラームス。交響曲系が好きで、マーラーにも広がっていきました。ショパンやベルリオーズの『幻想交響曲』もいいですね。でもやっぱり、ベートーヴェンはすごいと思う。
――ポピュラー音楽はいかがでしたか?
前川 フォークソングはよく聴いていました。高校生くらいのときにフォーク・クルセダーズが出てきて、これは衝撃的でした。「おらは死んじまっただ〜」の『帰って来たヨッパライ』。これ、歌かよ? って。でも、フォーク・クルセダーズで好きなのはやっぱり『イムジン河』『悲しくてやりきれない』。フォークソングというと、やはり反戦歌が多いわけで、外国であればピーター・ポール&マリーの『花はどこへ行った』。この歌はキングストン・トリオのほうが好きですけどね。
――軍歌好きが反戦歌好きになったんですね。
前川 まぁ、いろんなものが若い頃にどんどん入ってきたわけです(笑)。そうやってカオスの中から人間ができていくんじゃないですか。
仏陀が何を語ったのか知りたかった大学時代
――東大法学部を卒業して文部省に入るわけですが、大学には6年いたんですね。
前川 留年を2年しましてね。だから私は教育は6・6・6制がいいって冗談で言っているんです。小学校6年、中高6年、大学6年。
――まさにそれを実践されて……。
前川 大学時代、高等遊民に憧れてたんですよ(笑)。それで全然、大学の勉強しない時期が3年くらいあったんです。仏教青年会に入っていて、仏教の本を読んだり、お寺めぐりをしたり、仏像見学に行ったりしてました。
――気づいたのですが、前川さんと麻原彰晃は同じ1955年生まれなんですね。
前川 そうなんですか? 
――当時の大学では、怪しい宗教の勧誘などの動きは見られましたか?
前川 キャンパスというのは宗教勧誘で充満しているところがありますからね。統一教会系の原理運動、崇教真光、歩いていれば声をかけられました。創価学会も東洋思想研究会みたいな名前で人集めをしていました。でも私はそういうものに興味がなくて、ただ仏陀が何を語ったのかを知りたいだけで。中村元、増谷文雄の本をずいぶん読みました。当時、座禅もやってましたよ。とても悟りを開くところまでいけませんでしたけど(笑)。極めて軟弱なテニスサークルにも入っていたので、悟りとは程遠かったと思います。
――テニスサークルですか。
前川 麻布の中高でめちゃくちゃ弱いラグビー部に入っていたんです。で、そのまま東大の運動会ラグビー部に入ってみたんですが、相当厳しくて、焼肉をさんざん奢ってもらったのに、辞めますとも言わずにトンズラしちゃった。あれは今でも申し訳ないと思っているんですけれど。それで、一緒にトンズラした友人がテニスサークル作るというので入りました。
文部省に入った理由
――かなりよい成績で国家公務員試験に合格したそうですが、あえて文部省を選んだ理由は何だったのでしょうか。
前川 私が文部省に入省したのは1979年、昭和54年ですけど、高度成長が終わり、これからは社会が成熟していく時代という雰囲気がありました。だから、経済官庁に行く気はなかったんです。金とかモノではなくて、人の心や人そのものに関わる行政に魅力を感じていた――まあ、美しく言えばそういうことかな。
――美しく言えば、ですか。
前川 ま、実のところあまり明確な意識を持って文部省に入ったわけではないんですよ。なんとなくです。
――人気官庁から声がかかってもおかしくない成績だったそうですが。
前川 そもそも官庁訪問したのがすごく遅かったんです。あれ、みんな行ってたの? みたいな。それでいくつか回りはしましたけど、教育や文化を扱う文部省がいちばん性に合っているなと。
文部省は「主君と家来」の文化というか
――実際に入省されての文部省の印象はいかがでしたか?
前川 いや、入る前からひどく保守的なところだろうとは思ってました。扱う分野は教育、科学、文化と大事なものばかりですが、役所自体が後ろ向きの姿勢だと感じていました。私は教育はもっと自由でなければいけないという信条でしたが、文部省は教育に対する国家の支配を強めようとしていましたから。これは自分の思想と、組織の論理は食い違うだろうなと覚悟してました。
――組織の論理という面では、他省は「上意下達」「上の命令は絶対」という雰囲気もあると思いますが、文部省はいかがでしたか。
前川 同じですよ。文部省はよく言えば家族主義的な組織、悪く言えば封建的なイエ制度みたいな感じです。主君と家来というかな。上司は自分の家に部下を呼んでご飯を振舞ってくれる、部下たるもの上司の引っ越しは手伝うもの。昔の村社会みたいな行動様式が残っていました。それがはっきりわかったのは2001年に科学技術庁と文部省が一緒になったときですね。科技庁はドライ。もともとが寄せ集め、霞が関の血筋の違う官僚たちが集まったところですから、明治4年以来続いてきた文部省の文化とは大違いでした。田舎と都市の違いのようなものを感じましたね。
――最初の配属は官房総務課。当時の大臣は内藤誉三郎(たかさぶろう)さんですね。
前川 そうです。文部省OBの政治家でした。内藤さんは戦後の教育行財政の基礎を作った功績の大きい方で、私はのちに財務課長として義務教育国庫負担制度も担当しましたから、まさに直の後輩にはなるんです。ただ「タカ三郎」というお名前だけあって、相当なタカ派であったことは間違いありません。
――直接お話をしたことはありますか?
前川 まだ下っ端ですから、直接謦咳に触れるようなことはありませんでした。タカ派的な保守的なことを言うというよりは、少し支離滅裂なことをおっしゃっていた記憶はありますが。
臨教審と加計問題
――入省後の文部省にとって大きな出来事といえば、中曽根康弘首相が主導した教育諮問機関、臨教審の設置だと思います。前川さんはどのように関わっていましたか?
前川 臨時教育審議会は1984年から87年。昭和59年から62年までの3年間ですよね。私は82年から84年までイギリスに留学していたので、帰国したら臨教審が始まっていた。私はそのとき高等教育局にいたんですが。
――高等教育局ではどのようなお仕事を?
前川 高等教育企画課の法規係長兼企画係長です。臨教審に関しては、高等教育を担当する第四部会と省との連絡役をしていました。臨教審は文部省と相当やりあったと言われていますが、第四部会に関しては協調的で、その成果として作られたのが大学審議会。これはもっと独立性の高い組織にするはずだったのですが、それができないまま大学行政は官邸に牛耳られ、現在の加計問題を起こすところまできてしまったわけです。大学審議会の設置には高等教育局の大崎仁局長、高等教育企画課長の遠山敦子さん、大学課長の佐藤禎一さんの「黄金トリオ」が真剣に考えて取り組まれていました。
――ちなみに当時の文部大臣は森喜朗さんでしたが、印象はいかがでしたか。
前川 あまり近くまで寄ったことがないので印象といっても、まぁラグビーで早稲田入った人でしょ、ぐらいな感じでした。森さんはワンマンだったから、秘書官が体を壊してしまったことがありましたね。
パーティー券と裏金の思い出
――森さんの後任が塩川正十郎さんですね。
前川 私はその頃、宮城県の教育委員会に2年出向して、その後外務省の研修所に行って、それから3年間フランスのユネスコ代表部で仕事をしていたんです。5年間以上、文部省を離れていた時期ですね。
――すると、1989年のリクルート事件で高石邦男前文部次官が逮捕されたときはフランスですか?
前川 そうでしょうね。ただ、高石さんが国政選挙に出ようとしていた時のことは覚えています。宮城県にいたときに、「高石さんが衆院選に出るのでパーティー券を買え」って、教育委員会に文部省から言ってきたんですよ。教育長と教育次長に相談したら、「何もしないわけにはいかんだろうな」ってことになって、結局私含め3人、ポケットマネーを出して買いました。あれはひどかったなあ(笑)。文部省内でも各課ごとにプールしていた裏金から捻出してパーティー券を買っていたんじゃないかなと思います。カラ出張やカラ会議で使ったことにして貯めた「裏金」を管理するのは、各課の庶務担当の補佐の仕事でした。
――裏金といえば、いわゆる「官官接待」にも使われたわけですが。
前川 ええ、私も大蔵省の主計官の接待をしたものです。
――大蔵官僚というのは、やはり他省の官僚とは違うものなんですか?
前川 やっぱり、大蔵省様様って感じでしたよ。とにかく主計局の主計官だとか次長は予算をつけてくださる大事な方だと。
加戸さんは私の結婚式で2曲歌ってくれました
――リクルート事件の話に戻りますが、このときに官房長だった加戸守行さんも連座してお辞めになっています。加戸さんはその後、愛媛県知事となり加計学園獣医学部の今治市への誘致を進めていたとして、国会の参考人招致で前川さんと再び顔を合わせることになりますね。
前川 実は加戸さんは私が文部省に入って間もない頃の上司なんです。私は官房総務課に配属されたんですが、その後総務課長に来られたのが加戸さん。私の結婚式で歌を2曲歌ってくれました。
――あっ、そうなんですね。ちなみに何を歌われたんですか?
前川 全然覚えてないんだけど、同じく元文部官僚の寺脇研さんの結婚式では「芸のためなら 女房も泣かす〜」っていうあの歌、『浪花恋しぐれ』を歌ったそうです。なんでこれを歌ったんですかね(笑)。
――加戸さんはどんな上司でしたか?
前川 加戸さんから建国記念の奉祝式典に潜入してこいと「密命」を帯びたことがあるんです。式典に文部省が後援名義を出すので、様子を見て報告しろと。それで行ってみると、のっけから紀元節の歌をみんな起立して歌っているわけです。「雲に聳ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も」って。講演も右翼チックなものばかり。まさに紀元節復活みたいな強い雰囲気があって、これは参ったなと加戸さんに報告したら「そうかそうか、よかったよかった」って言うんです。加戸さん、右翼なんですよね。総務課長室に建国記念の日のポスター、ダーンと貼っていたのもそういうことかと。だから、思想的には私とは相容れないところがあるんです。
与謝野文部大臣と日教組とサリン事件
――94年に自社さ連立政権である村山富市内閣が発足し、39歳の前川さんは与謝野馨文部大臣の秘書官を務めることになります。村山内閣は文部省と長年にわたって対立してきた日教組との「歴史的和解」を果たすことになりますが、どのように関与されていたんですか?
前川 私自身は、その交渉の中身にはそんなに関与していません。後から知ったことですが、村山さんが組閣にあたって与謝野さんに「日教組との関係を改善してほしい」という密かな指示を出していたそうです。それで与謝野さんは当時の日教組の横山英一委員長と極秘に何度かトップ会談をしていました。メディアに知られないよう、ホテルの一室を借りてやっていましたが、私は部屋の外で待機していましたし、具体的にどんな話をしたのかなどは聞いていないんです。95年に日教組の運動方針がガラッと変わり、文部省との対立点を表に出さなくなったのは大きな転換でしたよね。反対、粉砕、阻止ではなく、立場は違うけれども話し合える関係を作りましょうと。その証として、与謝野さんの後の島村宣伸文部大臣が中央教育審議会の委員に横山英一さんを任命したことは画期的なことでした。
――この95年には地下鉄サリン事件が発生します。霞ヶ関駅もその現場となりましたが3月20日当日、前川さんは普通に通勤されていたんでしょうか?
前川 この日の朝は春高バレーの開会式があったと記憶しています。それで、与謝野大臣が挨拶をするので同行して代々木体育館にいたはずですが、警護官の無線に地下鉄で大事件が起きていると報告が入り、それで事態を知ったんです。サリンだと聞いたときこれはオウムだろうと直感しました。
中川昭一さんから直接電話がかかってきた
――95年は他にも、日本会議や新しい教科書をつくる会といった団体ができた年でもあります。そういったものが前川さん自身のお仕事に影響してくることはありましたか。
前川 私自身は直接関わる担当でもありませんでしたが、あれはいつ頃だったかな、95年より後のことだと思いますが、中川昭一さんからいろんな働きかけを受けました。中川さんは教科書議連で安倍晋三さんとも親しかったでしょう。「慰安婦問題を中学校の教科書に書くなんてとんでもない」と、散々言っていましたよね。私に電話までかかってきましたから。そういうプレッシャーはだんだん強くなってきている空気はありました。
――右側からの影響力を感じはじめたのは、90年代後半ということですか。
前川 文部行政に対する右側からの圧力みたいなものは常にあったんです。ただ、圧力があっても、教育政策が決定的に右に振れることはなくて、自民党の中にもそれを真ん中の方に戻す力はあったんです。ところが私の感覚でいうと森喜朗内閣、2000年の教育改革国民会議のあたりから強く右に行きはじめる。つまり、教育基本法の改正だとか、道徳の教科化というものが打ち出される時期ですね。
――教育改革国民会議の報告を読むと、結構過激なことが書かれていますよね。
前川 18歳になったらみんな奉仕活動させろとかですね。修身や教育勅語の復活を唱えるような、教育を戦前回帰させる動きというのは戦後、間欠的に表に出てくるんですね。中曽根さんの臨教審だって、ご本人としては教育基本法改正のための布石だったでしょうし、森さんの教育改革国民会議だって同じ。
――その流れは2006年に発足した第1次安倍内閣の教育再生会議にもつながっていくと思いますが、こうした教育をめぐる動きが右から吹き上がっていく状態をどのように感じていましたか。
前川 これは危ないなと思っていました。森内閣の教育改革国民会議もそうですが、教育再生会議は閣議決定で作った機関なんです。総理に近い人ばかりで構成されている。そこで中央教育審議会の頭越しに議論が行われるようになってしまった。中教審はそれなりにさまざまな分野の委員から構成されているので、極端な方向へ行くことはありません。しかし、教育再生会議には政治家の意向がストレートに反映されるので、学問の自由や表現の自由が保障されず、国家権力がそこに直接介入できてしまう。文科省の行政というのは、人間の精神的自由権に関わることが多いわけで、これでは学問の自由や教育の自主性が危うくなると危機感を強く持ちました。
省庁再編 至上命題は「とにかく分割されないこと」
――教育改革国民会議と教育再生会議の中間ぐらいの時期になりますが、2001年には省庁再編があり、文部省と科学技術庁が統合し、文部科学省が誕生します。
前川 省庁再編については、かなり初期の頃から関わっていました。与謝野大臣の秘書官を退任した95年から96年にかけて、教育助成局企画官の仕事と並行して大臣官房に新たに設けられた行政改革推進室の室長をやれと言われたんです。これは当時の橋本(龍太郎)内閣の行政改革会議に対応するための官房長直属の組織で、省庁再編について大きな戦略を練るところでした。文部省の至上命題はとにかく、分割されないようにすること。それで、一番競合していたのが科学技術庁でしたから、ここと統合する道しかないだろうと。
――かなり早い段階から戦略的な対応をしていたんですね。
前川 そのときに、原子力関係はどうするんだという話にもなったんですが、これは当時の佐藤禎一官房長と、通産省の官房長とが話をつけて、経産省が所轄するようになったんだと思います。
――橋本行革で文部省に関わりがあったもう一つ大きなことは、国立大学の法人化です。
前川 佐藤官房長はもともと国立大学法人化論者だったんです。国立大学を法人化したほうが大学の自主性、自律性を高めることができるはずだ、文部省の付属機関の形で置いておくほうがおかしいんだ、というお考えだったと思います。
文科省でいちばん目立つ局は?
――ところが2004年に国立大学法人化が実施されたあと、大学関係者が口々に言うのは「年々予算が減らされて研究もできないし、環境も悪くなっている。その割にはカネを文科省が握っていて、口を出されて困っている」ということです。
前川 いや、もう本当にそれはごもっとも。行革という観点からは、自由を与える代わりに財源を絞ることはセットではあった。これまでずっと各国立大学の運営費交付金を毎年1%減らしてきているわけで、国立大学の基盤的経費の少なさはもう明らかに限界に達していますよ。資金獲得のために研究競争に駆り立てられる部分が大学に出てきてしまったのも、そこに原因があります。これは大学行政としては非常に歪んだ形であって、やはり運営費交付金をちゃんと保障するようにしなければならないと思います。これは文部省、文部科学省がきちんと財務省と対決してこなかったことに問題があったと思います。
――財務省では主計局が看板局であるように、文科省にも看板局はあるのでしょうか。
前川 どうでしょう、初等中等教育局が一番目立つ部署であることは間違いありません。ここは国会で質問されることが一番多いんです。世の中の関心も高校以下の学校については非常に高いですし、事務次官になる人もこの初中局長経験者が多いのは事実です。
――前川さんはよく初中局の出身といわれますが、高等教育局の出身でもありますね。
前川 高等教育局は係長で2年勤めただけです。ここの局長から次官になる人も結構いるんですよ。加計問題で高等教育局長が国会答弁する機会も多くなり、現在は初中局より高等教育局が目立っているというのはなんとも皮肉な話ですが。

教育基本法を改正したいとは思っていませんでした
――教育行政について安倍内閣は政治色の強い打ち出し方をしています。たとえば、2006年の第1次安倍内閣時の教育基本法の改正。この時はどんな仕事をされたのでしょうか。
前川 官房総務課長として大臣の伊吹文明さんに仕えていました。総務課長というのは、大臣のそばにいるのも役目の一つなんですが、伊吹さんから言われたのは「お前は国会に行ってチョロチョロするな。俺の側におれ」と。ただ、そうもいかないんです。国会対策の根回しに、色々と動かなければなりませんからね。
――教育基本法の改正の動きには、どう対応されていたのでしょうか。
前川 生涯学習政策局が担当していましたが、国会に提出する前に、自民・公明で長いこと与党協議をやっていたはずです。今から考えると公明党が相当なストッパー役を担い、決定的に国家主義とか全体主義にいかないよう、歯止めをかけてくれたと思います。私自身は1947年のオリジナルの教育基本法が良い法律だと思っていましたから、改正したいとは思っていませんでした。
――決定的な国家主義ではないにせよ、改正された教育基本法には「道徳心を培う」だとか、「我が国と郷土を愛する(…)態度を養う」といった方向性が盛り込まれました。
前川 旧法にあった大事な言葉「教育は国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」という文言がバッサリ削られてしまったのは大きかった。この文言の「直接」というのは、すなわち教育と国民との間に政治権力は介在しない、ということを言っているわけです。あくまで教育とは、教育する側と国民との直接の関係ですよと。これが改正法では「この法律及び他の法律の定めるところにより」という言葉に置き換わってしまい、法律の根拠さえあれば政治は教育にどんどん介入できるという書きぶりになってしまった。
――なるほど。
前川 ただ、その前にあった言葉は残っているんです。「教育は、不当な支配に服することなく」。これを残したのは公明党だと思います。
2009年の政権交代で文部省は「勝ち組」と言われた
――その後、2009年9月に政権交代があり民主党政権が誕生します。官僚はああした大きな環境の変化をどう受け止めるものなのでしょうか。
前川 まぁ、人によってはえらいことだ、どうしようってオロオロしたんでしょうが。私はチャンスだと思いましたね。
――チャンスと言いますのは?
前川 私は元々、文部省に入ったときから組織に違和感を持っていたわけですから、よしこれで文科省もいよいよ変われるチャンスかなと思ったりしてました。特に民主党は高校無償化ってすでに政策で掲げていましたでしょう。
――一方で民主党政権は政治主導を強く掲げて「事業仕分け」が行われました。例の蓮舫さんの「2位じゃダメなんですか」発言。あれは文科省のスパコン研究が対象にされたものでしたけれども、どう思いましたか?
前川 あれはもう、困りましたよ(笑)。とにかく無茶苦茶言われるのには往生しました。でも、民主党政権では「文科省は勝ち組」と言われていたんですよ。
――どういうことですか?
前川 あのとき「コンクリートから人へ」ってスローガンで民主党はやっていたでしょう。前原(誠司)国土交通大臣が八ッ場ダム工事を中止したり、公共事業をバッサリ減らしましたよね。それで、人といったら、やはり教育や文化行政なんですよ。だから高校無償化が一番の目玉政策だったわけで、そのために4000億円の財源をひねり出してくれた。
――ちなみにこれは財務省出身の方から聞いたんですけれど、「2位じゃダメなんですか」のときのように、文科省は攻撃されるとノーベル賞受賞者や金メダリスト、宇宙飛行士という「国民の英雄」を前面に立たせて国民の支持を得て、予算獲得のための組織戦をしてくると(笑)。だから文科省は財務省にとって意外と手強いというのですが……。
前川 ハハハ。私は主に教育行政をやっていたので、華々しい国民的英雄があまりいない分野でしたが、文化・スポーツ・科学の分野ではそれができるかもしれない。
朝鮮学校無償化に強烈に反対した民主党の閣僚
――朝鮮学校無償化の話もこの時代のものだと思います。これに対しては色々な意見もあったかと思いますが、いかがでしたか。
前川 野党時代の民主党がすでに朝鮮学校も対象とする前提で高校無償化法案を出していた。それを下敷きに制度設計をしたのですから、朝鮮高校は当然対象になると考えていました。しかし、外国人学校が朝鮮学校だけというわけにもいかないだろうと。そこで外国人学校は全部、高等学校の過程に類するものは全て入れようということになったわけです。ところが今は、フランス人学校やドイツ人学校は対象になっているんだけど、朝鮮学校だけは排除されている。極めていびつな形になっています。
――民主党政権ではどのような議論があったのでしょうか。
前川 民主党政権に変わったとき、私は初等中等教育局の審議官として高校無償化の制度設計も実質的に指揮していました。当然、朝鮮高校を対象にするつもりで作業していましたが、実は民主党政権の閣内にも異論がありましてね。拉致問題担当大臣の中井洽さんが強烈な反対論者でした。拉致問題と朝鮮高校で学んでいる子どもたちの授業料を軽減するって話は全く別の話で、これでは「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」の話だなと思っていました。
私はね、好きでした、田中真紀子さん
――朝鮮学校無償化に対する右側からの攻撃について、寺脇研さんとの対談本『これからの日本、これからの教育』で、前川さんは「『ネトウヨ』といわれる人たちは、『個の確立』ができていないのでしょうね。ある意味、教育の失敗だと思います」と語られています。ネット右翼については当時から意識されていましたか?
前川 私はあんまりネットを見ないので、意識してなかったと思います。産経新聞は意識せざるを得なかったんですが。もう、相当目の敵にされていましたからね。
――この頃からですか?
前川 朝鮮高校無償化の議論がなかなか進まない中で、高校の生徒たちが署名を持って私を訪ねてきたことがあったんです。その署名の中に日本人のものもあったと聞きましたので、「なかなか結論が出なくて申し訳ない。日本人の人たちの理解を得られたことはいいことですね」という言い方をしたんです。この発言が「朝鮮新報」に載り、それを産経新聞が記事にしたんですね。前川という審議官がこんなことを言っていたって攻撃されました。
――ところで民主党政権の最後は田中真紀子文科大臣でした。印象はいかがでしたか?
前川 私はね、好きでした。官房長としてお仕えしましたが、表裏のない人ですよ。この時の次官は科技庁系の森口泰孝さん。田中大臣、森口次官、私、それぞれ相性よかったと思います。朝鮮高校無償化にも非常に前向きだったんです。ところが政権交代が起きて、2カ月半で大臣も交代。在任期間の最後には大学設置審議会の答申に反する「設置不認可」の問題で紛糾してしまいました。あれがなければ、朝鮮高校の話ももっと前向きに進められたかもしれません。
安倍さんのところに行くのは別に嬉しくもなかった
――そして2012年末、ついに第2次安倍政権がやってきます。首相動静を見ていると、前川さんも官邸に出入りすることが多くなってきます。官邸の安倍首相はメディアで見せる顔とは違うものですか?
前川 官邸に行ったほとんどのケースは教育再生実行会議のご説明で、大臣のお供で付いて行っただけです。「次の回ではこんなことを議論していただき、総理にはこの時間からこの時間までご出席いただきまして、こんなことでご発言頂きたい」。そういうシナリオ説明です。
――コミュニケーションは特になかったですか。安倍さんが自分の教育観を語るようなことは。
前川 聞いたことはないですね。「ああ、わかった」くらいの感じでしたし、私も安倍さんのところに行くのが別に嬉しくもなかったですから(笑)。
――菅官房長官にもご説明に行くわけですか?
前川 そうですね。長官には会議の説明のほか、人事関係のことでお伺いしたこともあります。人事については菅さんのご意向という形で副長官の杉田和博さんから突き返されたことも何度かありましたね。菅さんねぇ……、まぁあんまり好きじゃないな。
――やはり人事に口を出されるところなどは嫌いなところで……。
前川 いやいや、嫌いとは言ってませんよ。好きじゃないと言ってるだけ(笑)。だけど、去年の今頃のことを思い返すと、好きにはなれませんよね。散々人格攻撃されたわけですから。弁護士と名誉毀損で訴えようかと相談もしましたから。
「お友達ばっかり」の教育再生実行会議
――第2次安倍内閣の教育再生実行会議については、どのように思ってらっしゃいましたか?
前川 メンバーは安倍さんと下村(博文)さんのお友達ばっかり。教育政策を審議する場としての専門性も客観性、中立性も全くないですよね。狙いは第1次安倍内閣の教育再生会議の提言を実行に移そうとするものですが、安倍さんが言う教育再生とは戦前回帰、明治20年代から昭和20年にかけての50年余りしか通用しなかったイデオロギーを復活させようという考え方ですから。
――2015年の9月18日には安保関連法案が参院で可決、成立しました。この時、前川さんは国会前のデモに足を運ばれたそうですが……。
前川 ええ、行きましたよ。参院本会議でいよいよ決まってしまうという最後の夜。私としては、一市民、一個人としての表現の自由を行使したいと思って参加しました。デモしたって何かが変わるわけじゃないって分かっていますよ。でも、私の心のバランスを保つ上でも「こんな法律は嫌だ」という言葉をどこかで発したいと思ったんです。
――一市民という言葉が出ましたが、ツイッターに「右傾化を深く憂慮する一市民」という名前の@brahmslover(ブラームス・ラバー)というアカウントがあるんです。前川さんはクラシック音楽でブラームスがお好きと伺いましたが、これは前川さんのアカウントではないかという噂もあるんです。
前川 ああ、それ私ですよ(笑)。
SEALDsの奥田愛基くんの名前を出して、内定式で挨拶した
――「右傾化を憂う」という意味では、次官をお辞めになってから行った名古屋の中学校での講演をめぐって、文科省から市の教育委員会に執拗な問い合わせがあった件。JC(日本青年会議所)出身の文教族議員からの介入があったなどし、前川さんもこれに批判をされていたと思います。JCという団体については、今どのように考えていらっしゃいますか。
前川 日本をファシズムに引きずり込む危険性があると思っています。もともと私は30代の頃、JCの人たちとはよく付き合っていたんです。教育に対しても非常に熱心な人が多かった。ところがいつの頃からか、単なる右翼団体になってしまったでしょう。右翼に乗っ取られたと言ってもいいかもしれない。
――一方で安保法制反対デモで前面に立っていた学生団体、SEALDsに対してはどう思われていましたか?
前川 頼もしいと思っていましたよ。リーダーの奥田愛基くんが国会の公聴会に参考人で出席したことがあったでしょう。あの時に「どうか政治家の皆さんも個人でいてください。個人としての考え方があるはずです。皆さんには考える力があります」ってね。いいこと言うなと思いましたよ。後に、人の紹介でお会いしました。
――そこまで感動したんですね。
前川 安保法制が成立した後、10月1日のことですが、この日は翌年に入省する新人の内定式。その夜に次官、審議官(註・いわゆる省名審議官)、要するに省のナンバー1と2が開会の挨拶と締めの挨拶をするんです。私はこの時文部科学審議官でしたから、確か締めの挨拶をしたと思いますが、「皆さん、個人でいてください」「組織の中に埋没するな。そう、SEALDsの奥田愛基くんがいいこと言っていたよ」って語りかけたんです。
――奥田さんの名前を出して、言葉を引用したんですか。
前川 そうそう。「組織に過剰適応しないで、自分自身でいるということが大事です」ってね。
次官になって、面倒臭かった仕事
――まさに「異色の官僚」のエピソードだと思いますが、その挨拶の翌年、ついに次官になられ文部科学省の事務方ナンバー1の立場になられます。安倍政権下での次官就任。その時のお気持ちはどんなものだったのでしょうか。
前川 早く辞めたかったですね(笑)。というのは、この人に文化勲章を出せとか、いろんな政治家から嫌な話が来るわけです。次官だからと言って勲章を決められるわけじゃないですからね。まあ、これが面倒臭くて……、苦痛でした。ただ、私を次官にした大臣というのが馳浩さん。馳さんとはとても仲が良かったんです。
――馳さんはどんな印象の政治家でしたか?
前川 私と波長の合う方でした。馳さんがある時ポロッと言ったのを覚えていますが「政治家としてのライフワーク、目標は日朝国交正常化だ」って。朝鮮学校にも本当はとても理解のある方です。ただ、安倍政権の中にいる限りはそんなこと表立って言えないわけで、朝鮮学校への補助金見直し通知も馳大臣の下で出しているんです。あれはご本人としては出したくなかった通知だと思いますよ。
――仲がいいというのは、例えばどういうことなんでしょうか。
前川 先だって私が東大で講演していたら、後ろの方に馳さんが立って聞いているんですよ。私は例によって言いたいことを喋っていたんですが、あやややや、これはまずいと、急に舌鋒が鈍くなりましてね(笑)。
――後に加計学園問題について首相補佐官から呼び出しがあったことなどを発言し、安倍政権の暗部を告発することになりますが、当時から抗議して辞めたいと考えることはなかったのですか?
前川 加計学園問題に関わっている途中から、職員の天下り問題が火を吹いてしまった。これは省のトップとして私が責任を取らなければならない問題だと考えていました。だから、加計問題のことで抗議の辞職というようなことを考える余裕はありませんでしたね。2016年11月の終わり頃からは、天下り問題の傷口がどんどん広がって行ってしまい、正月休みに色々と考えた結果、これはもう引責辞任しかないなと心に決めたんです。
どうして辞任挨拶メールが長文になったのか
――次官をお辞めになるにあたって、文科省の職員全員にメールを出されています。そこには「ひとつお願いがあります。私たちの職場にも少なからずいるであろうLGBTの当事者、セクシュアル・マイノリティの人たちへの理解と支援です。無理解や偏見にさらされているLGBT当事者の方々の息苦しさを、少しでも和らげられるよう願っています」ということも綴られています。通常のお別れの挨拶とは違う文面にも感じますが、どういう気持ちでこれを書いたのでしょうか。
前川 これは幼少期の思い出でも語ったことですが、私は転校生で不登校になったこともありますし、同じ境遇のクラスメイトに出会ったこともありました。ですから少数派の立場にいて悩んでいる人に気持ちを寄せていかなければ社会は成り立たないと考えているんです。それは子どもたちの世界でも同じです。ですから、文部行政に関わる職員にはこのことを胸に、職務に当たって欲しいという願いを込めたんです。
――文面は相当練られたように感じますが。
前川 私は2017年の1月20日に辞めたんですが、その前日、19日の朝にNHKが「前川次官辞任」って流したんですよ。それで次官室の前の廊下にはメディアがずらっと居並んで記者会見を求めていたんですが、松野博一大臣が私をかばうおつもりで「前川は今日、記者会見する必要はない。説明責任は自分が負う」と。それで次官室に一日中こもることになったんです。通常、次官が交代する時には課長補佐以上を講堂に集めて新旧次官挨拶の行事があるんですよ。しかし、引責辞任の状況ではそれもできない。その代わりにメールを出そうと考えたんです。最初は短かったんですけど、次官室に閉じこもっていて時間がたっぷりあったので、これも書こうかな、あれも書こうかなと、書き加えているうちに長文になってしまったのです。
――異様な状況の中で、一日中次官室にこもる官僚人生の最後というのは想像もしていなかったのではないですか。
前川 そうですね。次官室と大臣室って廊下に出なくても行き来できるよう繋がっているんですね。それで大臣室には専用トイレがあるんですが、松野大臣がいいよって言ってくれて、その日は大臣専用トイレを使っていました。トイレ行きたくなったら「大臣、すみません」ってお声がけして(笑)。
したくない仕事も随分させられたけど
――次官をお辞めになった後、読売新聞の「出会い系バー通い」報道がありました。「週刊文春」はこの時出会っていたA子さんに接触して前川さんとの交流を語っていましたが、この記事を読んでどう思われましたか。
前川 お会いした頃の彼女は、もうその日その日が楽しければいいみたいに漂っている感じでした。類は友を呼ぶで「まえだっち(註・前川氏の仮名)だったら、おごってくれるよ」って、5、6人連れてこられたこともありました。これはたかられてるだけじゃないか、まずいぞこれじゃ「ギャル版こども食堂」じゃないかって思いましたね。それでも「やっぱり大学には行った方がいいんじゃないか」「せっかく学校に入ったんだから勉強したら」なんて私はずいぶん説教じみたことも話していました。のちに彼女は自分でアパレルの販売員の仕事を見つけてきてね。仕事を始めたって聞いて、いっぺんお店を見に行ったことがあります。ずいぶん恥ずかしがっていましたが、真面目に働いていてね。それっきり彼女とはお会いしていませんから、文春の記事を見たときは驚きましたね。よく探し出したな、と。
――記事によればA子さんのお母さんは「結婚したら前川さんを結婚式に呼びなよ」と仰っているそうです。
前川 ハハハ。本当にそうなったら、それはそれで面白いですけどね。
――長い官僚人生を引退されて1年が経ちました。振り返って、どんな役人人生だったと思いますか。
前川 そう悪くない役人人生だったと思いますよ。したくない仕事も随分させられたけど、やって良かったと思える仕事もありましたし。現在は講演や執筆、自主夜間中学のボランティアなどで結構忙しくしています。役人時代にはできなかったことなので、楽しんでやってます。ただその傍らで、人生にifがあったとすればって考えるんですよ。やっぱり高3の時に数靴鯆めずに頑張って、宇宙物理学者を目指せばよかったかもしれない。小説も書きたかったし(笑)。そんな野望を抱く人生も悪くなかったのかなって、今では思っています。
まえかわ・きへい/1955年生まれ。1979年文部省入省。2017年1月、文部科学事務次官を辞任。近刊に『面従腹背』(毎日新聞出版社)。


森友問題 検査院の信頼が懸かる
 国の予算執行のお目付け役、会計検査院の怒りと危機感が行間ににじんでいる。
 森友学園への国有地売却を巡る再検査の中間報告だ。財務省が学園側に国有地の貸付料を事前に伝えていたことについて、「予定価格の類推を容易にし、適切とは認められない」とした。同省が改ざんした決裁文書を会計検査の際に提出した行為については検査院法違反と断じている。
 さらに、改ざん文書を提出した財務省職員や交渉記録を提出しなかった国土交通省職員の懲戒処分を求めるかどうか、検討するとも述べている。
 各省庁の会計担当者が重大な過失で国に損害を与えたり調査に応じなかったりした場合、検査院は大臣らに懲戒処分を要求できるとの規定がある。法律に基づく検査院の要求なら各省も無視や軽視はできないはずだ。
 検査院は昨年秋、森友への国有地売却問題で検査報告を参議院に提出している。約8億円にのぼる値引きの根拠とされたごみ処分量が過大だった可能性を指摘したものの、全体として踏み込み不足の印象を残した。
 その後、売却に関わる決裁文書の改ざんや交渉記録の廃棄が相次いで発覚。見抜くことができないまま報告をまとめた検査院は批判を浴びた。今度の再検査には、検査院が汚名をそそぐことができるかどうかも懸かっている。
 検査院は政府機関の中でも特別の存在だ。国会や裁判所に属さず内閣からも独立した地位にある。会計検査院法1条には「会計検査院は、内閣に対し独立の地位を有する」とある。
 憲法90条には、国の決算は「すべて毎年会計検査院がこれを検査」すると明記されている。
 明治憲法では会計検査院は天皇に直属し、国務大臣に対し独立した地位を確保していた。ただしすべてを検査できたわけではなかった。外交機密費や軍の統帥に関わる分野は対象外とされた。
 検査院は決算のすべてを検査する、と現憲法が定めているのは戦争の歴史の反省に立っている。
 検査院が検査の途中で中間報告を発表するのは異例である。最終報告は夏から秋ごろにまとまる見通しという。国民の信頼回復は、厳正、厳格な検査ができるかどうかに懸かっている。
 森友学園への国有地売却では政治家らの関与や官僚による忖度(そんたく)があったのではないかとも指摘されている。課せられた責務の重さを踏まえた検査を望む。


カジノ法案/依存症対策が甘過ぎる
 カジノを含む統合型リゾート施設(IR)整備法案が衆院を通過し、論戦の舞台は参院に移った。ギャンブル依存症が深刻化すると野党は激しく抵抗したが、与党は数の力で押し切った。会期も延長し、今国会で成立させる構え
だ。しかし政府が「世界最高水準」と胸を張るカジノ規制には疑問が噴き出し、国民の理解は得られていない。
 安倍晋三首相は「IRで地域が活性化され、日本全体の経済成長につながる」と力説する。自治体間の誘致合戦は熱を帯び、海外のカジノ事業者は1兆円以上の投資をぶち上げた。景気のいい話には事欠かないが、共同通信の世論調査では、ほぼ7割の人が「法案を今国会で成立させる必要はない」と答えている。
 依存症拡大の不安や経済効果への疑問などが背景にあるとみられる。ところがカジノ面積の規制は当初より基準が緩やかになり、場合によっては世界最大規模にすることさえ可能だ。客がカジノ事業者から賭け金を借りるという競馬や競輪などの公営ギャンブルで認められていない制度まで導入される。いずれも大きな論点になっている。
 そうした中で政府、与党は「万全の依存症対策を講じる」と言いながら、成立の二文字しか眼中にないように見える。国会での議論を軽んじてはならない。疑問や批判と向き合い、依存症対策を練り直す必要がある。
 カジノフロアの面積について、法案は国際会議場やホテルなども合わせたIRの延べ床面積の「3%以下」と規定。当初の政府案は「1万5千平方メートル以下かつ、IR全体の3%以下」だったが、与党協議を経て比率規制のみが残った。これによりIR全体を大きくすればカジノの面積は広がり、シンガポールやラスベガスをしのぐ世界最大規模にすることもできる。
 政府は「面積に上限を設けると、観光先進国への目的達成を制約する」とするが、依存症対策の観点からは甘過ぎると言わざるを得ない。
 事業者の貸付制度は外国人観光客と、事業者に一定の預託金を納める日本人客が対象で、日本人客は「富裕層」に限られると政府は強調する。しかし富裕層も依存症と無縁ではなく、大王製紙元会長は子会社から不正に100億円以上を借り入れ、マカオのカジノにつぎ込んだ。借金がかさんでも黙認するような制度の是非は十分議論すべきだ。
 カジノを賭博罪の例外として合法化する根拠にも批判がある。カジノは刑法で禁じられている賭博だが、依存症対策で社会還元することが求められるなど「公益性」が確保され、違法性は問われないと説明される。公営ギャンブルも同じ理屈で認められている。ただカジノを運営するのは公的な性格を持つ団体ではなく、民間の事業者だ。
 収益の30%が国や自治体に納められ、依存症対策や観光振興に充てられるとはいえ、稼ぐために客の獲得に躍起になるのは目に見えている。公益性と矛盾しないか、慎重な見極めが必要だ。
 法案では日本人客の入場を週3回、月10回までとするなど一定の制限を設けているが、実効性を問う声がある。カジノ入場者の7、8割は日本人客という自治体や民間の予測もある。政府は負の側面も説明を尽くすべきだ。


民泊が大混乱!自民党と観光庁が招いたお粗末な「人災」の内情
岸 博幸:慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授 
民泊を巡る2つの大混乱 本当に仲介サイトの責任か
 前回の連載記事で、政府は成長戦略で第4次産業革命を強調するわりにはシェアリングエコノミーの普及に及び腰であることを、カーシェアリングを例に指摘しました。図らずもこの数週間の民泊を巡る騒ぎから、及び腰どころか政治と行政がともにその足を引っ張り合っていることまでが、明らかになってしまいました。
 多くのメディアで報道されているように、6月に入ってから日本での民泊ビジネスは大混乱となりました。混乱の原因としては2つの事象があります。それぞれについて経緯を簡単に振り返ってみましょう。
 1つ目は、民泊仲介サイトの物件リストからの違法な民泊施設の削除です。民泊のルールを定めるべく新たに制定された民泊新法(住宅宿泊事業法)の施行日が6月15日だったので、観光庁は民泊仲介サイトに対して、法に基づく届出を行なっていない物件(=違法物件)を物件リストから削除して紹介しないよう求めてきました。
 これを受け、たとえば民泊仲介サイト最大手のエアビーアンドビー(Airbnb)は6月に入り、今春6万2000件あった掲載物件のうち4万件以上の表示を止めました。
 2つ目は、新法の施行日より前にすでに成立していた予約の扱いです。観光庁は6月1日付の課長名の通知で民泊仲介サイトに対し、6月15日以前の段階で違法物件を対象に成立した宿泊予約について、以下のことを求めて来ました。
・6月15日以降に宿泊する予約については、予約の取り消しか合法物件への予約変更を行うこと。
・6月15日以前に宿泊する予約についても、対象の違法物件が法に基づく届出を行う予定がない場合は、違法物件の所有者に対して予約の取り消しか合法物件への予約の変更を推奨すること。
 この通達を受け、たとえばエアビーアンドビーは6月7日に違法物件への6月15日〜19日分の予約をキャンセルし、6月19日分以降の予約も10日前に自動でキャンセルとなるようにしました。ちなみに、エアビーアンドビーが6月7日以前の段階ですでに受け付けていた予約は6月15〜30日分だけで4万件あり、そのうち3万件超の予約がキャンセルとなる恐れがあるそうです。
 以上のように経緯をかいつまんで書くと、民泊新法の施行が近づいたにもかかわらず、違法物件の数が物件リストでも予約数でも多かったので、混乱が起きたのだろうと考えられがちです。しかしその背景には、政府と政治の重大な瑕疵が存在することを見逃してはいけません。
 多くのメディアが見逃していますが、今回の民泊を巡る混乱の本質を理解するには、2つの大事なポイントを忘れてはいけないと思います。
 1つは、民泊新法は昨年6月に成立しており、その段階で法律の施行日も決まっていたことです。つまり、法律の施行まで1年もの時間の猶予があったのだから、明らかに混乱するであろう施行日直前よりもっと早い段階で対応できなかったのか、ということです。
 もう1つは、法律の世界の常識として、法律の効力が施行日より前に遡及するようなことは、本来あり得ないということです。つまり、6月15日より前の段階で成立した違法施設への宿泊予約は、宿泊する日が施行日以降であろうとも、本来は問題ないはずなのです。
混乱の責任は観光庁と自民党に 法律的に見ても明らかにおかしい
 これらの点を踏まえて裏事情を探ってみると、何が問題であったかがよくわかります。
 まず第一の事象である、民泊仲介サイトの物件リストから違法施設を削除することについては、観光庁も民泊仲介サイトに対して、新法の施行が迫った直前ではなく、早い段階から求めていたようです。とすれば、民泊仲介サイトの側の対応が遅かったのが問題と言えなくもありません。
 ただ、法律に基づく届け出を行なうのかどうか、またいつ行なうのかは宿泊施設側の判断なので、施行前の段階でどの施設が違法施設の予備軍かを民泊仲介サイトが見抜けるはずありません。そう考えると、第一の事象にまつわる混乱は、ある程度は止むを得ないものだったと言うことができます。
 これに対して、第二の事象は明らかに問題と言わざるを得ません。この点は大事なので、詳しく書いておきましょう。
 まず永田町の関係者によると、どうやら観光庁の側はもともと、新法の施行日の前に成立した違法施設への宿泊予約は止むを得ないものと考え、その取り消しまでは民泊仲介サイトに求めていなかったようです。これは「法律の効力は施行日前に遡求しない」という常識からは、当然と言える正しい判断です。それもあり、エアビーアンドビーなどの民泊仲介サイトの側も、成立した予約まで取り消す考えはなかったようです。
 ところが、その観光庁が5月下旬になって態度を豹変させ、民泊仲介サイトに対して違法施設への予約の取り消しや、合法物件への予約の変更を求め出しました。それが6月1日付けの課長通知として公になったと言えます。
 それでは、なぜ観光庁は突如として、法律の効力を施行日前に遡って適用するような無理筋の要求を、民泊仲介サイトに求めるようになったのでしょうか。
 その背景を探ると、5月16日に自民党で開催された観光立国調査会で、自民党議員から違法民泊を取り締まるよう強く要求されたことが、大きく影響しているようです。与党議員に叱責されてビビってしまい、国会で追及されるのを避けたいと考えた観光庁の役人たちが、無茶なことを民泊新法の施行日の直前という最悪のタイミングでやったのです。
日本はこのままでは シェアリングエコノミー後進国に
 以上の話からわかる通り、今回の民泊を巡る大混乱は、民泊仲介サイト側の対応の遅れが原因ではありません。むしろ、自民党の政治家と観光庁の役人が引き起こした、法律の常識(法律の効力は施行日前に遡求しない)と政策の常識(法律の施行日前は混乱するのが当たり前なので、必要な手は早めに打つ)を無視した、稚拙な人災と言っても過言ではないのです。
 ついでに言えば、民泊新法自体も、民泊施設の宿泊日数の上限は止むを得ないとしても、煩雑でわかりにくい手続きを求め、かつ地方自治体による上乗せ規制を認めているなど、シェアリングエコノミーの主要分野である民泊を普及させる観点からは、出来の悪い法律となっています。
 だからこそ、民泊新法に基づく届出件数は6月8日の段階で3000件と、今春の段階で6万2000件あったエアビーアンドビーの掲載数とは比較にならない少なさに留まっています。
 こうした事実を踏まえると、日本ではライドシェアはもちろん民泊の本格的な普及も期待薄であり、シェアリングエコノミーの後進国となるのは確実と結論づけざるを得ません。日本における政治と行政のレベルの低下は、いよいよヤバい状況になってきたのではないでしょうか。


ハリルホジッチ氏を忘れる勿れ
小田嶋 隆
 今回はワールドカップ(W杯)関連の話題を扱うつもりだ。
 というよりも、そうせざるを得ない。
 なぜなら、W杯開幕以来、生活が不規則になっているせいか、W杯以外のことを考えることが難しくなっているからだ。
 こんな状態でサッカー以外のテーマに取り組んでみたところで、どうせろくなことにはならない。
 とりあえず、寝不足ではない。
 どちらかといえば、寝過ぎだ。
 起床と就寝のリズムが乱れているせいなのか、サッカーを見ていない時間は、うとうとしていることが多い。のみならず、横になって本格的に寝る時間も、順調に増え続けている。
 午前中から午後にかけての明るい時間帯の睡眠は、どうしても眠りが浅くなる。それで睡眠時間が増える。
 しかも、夢の醒め際を狙うようにしてかかってくる電話が、眠りの質を悪化させている。結果として、連日12時間近く寝ているにもかかわらず、寝不足の感じが拭えない。この調子でW杯が3カ月も続いたら、私は間違いなく睡眠障害を獲得することになるだろう。悪くするとそのまま抑うつ状態に陥るかもしれない。
 とにかく、決勝戦までのあと3週間ほどの期間を、なんとかアタマを悪くすることで乗り切って行こうと思っている。
 4年に一度、こうやってアタマを悪くする訓練を積むことは、しかしながら、無意味なことではない。明敏に生まれついてしまった人間は、バカになる機会を確保しておかないと、空回りで自滅してしまう。私はそうなってしまった人間を何人か知っている。用心せねばならない。
 日本代表の対コロンビア戦は、うっかり仕事を入れてしまっていたので、リアルタイムでは観戦できなかった。
 当日、帰宅したのは、試合終了に近い時間帯だった。
 ただ、その日は、午後から順次情報遮断を心がけていたので、帰宅して予約録画しておいたゲームを再生する時点では、勝敗を知らずに済んでいた。おかげで、同時視聴の場合と変わらぬ臨場感で試合を楽しむことができた。
 何回か前の当欄で簡単に説明した通り、私は、現代表チームのメンバー構成やチームとしての正当性に疑念を抱いている。
 よりはっきりとしたところを申し上げるなら、私は現代表チームならびに、その選考に当たったJFA(日本サッカー協会)の首脳を信頼していない。
 それゆえ、「サムライブルー」と呼ばれている現代表について、自国の優秀な選手たちで構成されたサッカーチームとして応援する気持ちは抱いているものの、自分たちの本当の代表だとは考えていない。
 理由は、以前書いたことの重複になるが、前監督であったハリルホジッチ氏解任の顛末に納得できていないからだ。また、西野監督に後任を託した理由と経緯について、JFA(日本サッカー協会)ならびに西野監督本人がなにひとつマトモな説明をしていないからでもある。
 こんな筋の通らない組織がデッチあげたデタラメなチームを、自分たちの代表チームとして承認することは不可能だ。
 ただ、それでもチームは動きはじめている。
 そして、W杯が始まり、ホイッスルが吹かれ、選手たちはボールを追いかけている。
 このこと(現実に目の前でサッカーが展開されていること)から目を背けることは、とてもむずかしい。
 前にも書いた記憶があるのだが、わたくしども日本人は、眼前の現実を宿命として甘受する傾向を強く持っている国民だ。それゆえ、現在進行形で動いている事態には、いつも甘い点をつけてしまう。
 われわれは「現に目の前で動きつつある状況」や「結果として現出しつつある事態」や「理由や経緯はどうあれ、所与の現実として自分たちを巻き込んで進行している出来事」みたいなものに、あっさりと白旗をあげてしまうことの多い人々だ。で、その結果として、いつも現実に屈服させられている。
 「思考は現実化する」
 という感じの、片思いをこじらせた中学生の妄想じみた呪文を繰り返す類いの様々な自己啓発書籍が、全国の書店で高い売り上げを記録しているのは、日本人の多くが、常々、自分自身の思考を実現するどころか、眼の前で起きている現実に自分の思考の方を合わせることを強いられている人々であることの裏返しなのであって、われわれが暮らしているこの国のこの社会は、個々の人間が自分のアタマで独自に思考すること自体を事実上禁じられている場所でもあるのだ。
 代表監督をめぐるゴタゴタについてあらためて申し上げるなら、おそらく、多数派のサッカーファンはすでに許している。
 「いまさらグダグダ言っても仕方がないじゃないか」
 「過ぎたことを蒸し返してどうなるものでもないだろ?」
 「とにかく今目の前で戦っている自分たちの代表を応援するのが、普通の日本人としての唯一の現実的な態度だとオレは思うわけだが」
 てな調子で、当初は不満を持っていた人々も、時間の経過とともに、順次わだかまりを水に流しつつある。こんなふうにすべてを水に流して忘れてしまうことが、善良な日本人としてのあらまほしき上品な振る舞い方だということを、われわれは、子供の頃からやんわりと教えられ、そうやって大人になっている。
 気持ちはよくわかる。
 私自身、もはや半分ほどは許している。八割がたあきらめてもいる。
 協会のやり方に腹を立て続けている自分の偏屈さに、我ながら多少あきれてさえいる。
 だから、筋を通すべきだという私個人の牢固たる思い込みを、多数派のサッカーファンにぜひとも押し付けようとは思っていない。
 ただ、この場を借りて自分の真情を吐露しておかないと先に進めないので、読者のみなさんにご迷惑をかけていることは重々承知の上で、愚痴を聞いてもらっている次第だ。
 われわれの多くは、不満たらたらで通っていた職場にも、そのうちに馴れてしまうタイプの人間たちだ。してみると、どんなに無茶な人事であっても、いかにデタラメな状況説明であっても、事態を掌握している側の人間が中央突破で押し通してしまえば、最終的にはどんな無茶でもまかり通ることになっている。月日のたつうちには、誰もが抵抗をあきらめてしまう。われわれが住んでいるのはそういう国だ。
 つまり、既成事実の積み重ねが人々を屈服させるということの繰り返しがこの国のこの千年ほどの歴史の主要なストーリー展開であったことを踏まえて考えるなら、JFAの排外クーデターもモリカケの強弁も、最終的には、
 「現実としてこうなってしまっていることについていまさら何を言っても仕方がないじゃないか」
 てなことで、不問に付されるに決まっているのである。
 全体主義の社会で暮らす民衆が、息の詰まる思いで過ごしているのかというと、私は、必ずしもそうではないのだろうと思っている。
 多数派の国民は、少数派や異端者が声を上げることの少ない社会に、むしろ居心地の良さを感じているのだと思う。
 全体主義が貫徹されている社会は、たしかに、不満分子や反体制派にとっては、息苦しい世界であるのかもしれない。それ以上に、たとえば、体制転覆を企図しているタイプのさらに極端な少数派にとっては、それこそ命に関わる危険な場所であるはずだ。
 だが、全国民が一丸となっている前提が共有され、個々の国民同士が相互に締め付け合っている一億総括約筋社会は、多数派に属する人々にとっては、思いのほか安全で、しかも快適な世界であったりする。
 そういう社会で暮らす人々は、自分の理想を実現することや、自分の考えを表明して他人にわかってもらうことよりは、むしろ、現実の社会の中で主流を占めている思想に自分の思想を同一化させることに注力することになるのだと思う。
 でもって、体制に異を唱える人間を「反逆クール」(←「格好をつけるために反逆のポーズをとっている人々」を揶揄する言葉のようです)みたいな言葉で論評することで、自分たちの正当性を相互確認するわけだ。
 民放のW杯番組を見ていると、すでにその種の社会の到来に向けたプロパガンダが始まっている気配を感じて、なんだか索漠たる気持ちになる。
 そんな中、とあるツイッターアカウントが
 「サヨクはかわいそうだな。自国の代表チームが勝ったことを喜べないんだから。オレはサヨクじゃなくてつくづくよかったぜ」
 という感じのツイートを投稿していた。
 そのツイートがかなりの数リツイートされているのを見て、私は孤独感に似た気持ちを味わっている。
 サヨクだからではない。
 「サヨク」が自国の代表チームの勝利を喜ばないはずだと決めつける思考の乱暴さに驚いたからでもあれば、サッカーの勝ち負けに思想のミギヒダリを持ち込む態度に不気味さを感じたからでもある。
 実際のところ、どういう人間を「サヨク」と呼ぶのかにもよるが、仮に世間でよく言われている意味の「左翼思想」の持ち主を「サヨク」と呼ぶのであれば、その彼らが日本代表のこの度の勝利を祝福していないということはないと思う。
 左翼思想を抱いている人間の中にもサッカーファンはたくさんいる。一方、思想の左右を問わず、ほとんどすべての日本のサッカーファンは日本代表チームの勝利を心から喜んでいる。
 当たり前の話だが、自国の代表を応援することと、思想の左右は無関係だ。
 してみると、このツイート主の発言は、「左翼思想を持つ人間たちは日本代表チームのこの度の勝利を喜んでいない」という観察結果に基づいた言葉だったのではなくて、むしろ「代表の勝利を心から喜ばない人間をオレは『サヨク』と呼ぶぞ」という一種のマニフェストだったと考えたほうが良いのだろう。
 ところで、日本代表のこの度の勝利を喜んでいないサッカーファンは、実際のところ存在するのだろうか。
 私は、存在していないと思っている。
 サッカーがきらいな一部の人は、日本がきらいだというよりは、サッカーがきらいだという理由で、代表の勝利を喜んでいないかもしれない。
 が、それは、サヨクとかいったことがらとは別の話だ。
 私はといえば、もちろん跳び上がって喜んだ。
 大迫勇也選手のゴールが決まった瞬間には立ち上がってなぜか拳を突き上げていたりもした。
 ということは私はどこからどう見ても「サヨク」ではない。
 とはいえ、ゴールに跳び上がって、勝利に浮かれ、NHKのアプリで再生を繰り返しては有頂天になってはいても、私がサッカー協会の功績を認めたのかといえば答えはノーだ。冗談ではない。私の喜びは私の喜びだが、私の祝福はなによりもまず選手たちに向けられている。そして、私の中にある感謝の気持ちの一番大きい部分は、はるか遠いヨーロッパの空の下にいるハリルホジッチ監督に向けられている。
 開始5分というあわただしい時間帯に、中盤の混線の中から一瞬の空白を突くようにして前線に送りこまれた縦パスを、素早く走り込んだ大迫選手がカラダを張ったキープからシュートに持ち込むことができたのは、彼自身の日頃の鍛錬の結果でもあれば、サッカーの女神のきまぐれでもある。が、より明らかな戦術的偶然として、あのゴールは、ハリルホジッチ前監督の指導の賜物だと思う。
 というのも、在任中の2年余りの間、選手たちに一貫して「縦に速いサッカー」を求めたハリルホジッチ監督が、後ろからのパスに強いワントップのストライカーとして最も重用したのが、大迫選手だったからだ。
 つまり、W杯の本番で顔を合わせることになる世界の強豪から得点をもぎとるためには、一種のスキを見逃さないカウンターの精度と、常にゴールに直結するパスを狙う強いメンタリティーが必要だという、ハリルホジッチが来日以来執拗に繰り返していた言葉が、そのまま現実化したのが、あの開始6分のPKだったということだ。
 あれを「幸運」の一言で片付けてはいけない。
 サッカーが戦われている芝の上では、幸運は、それを迎え入れるために訓練を積み重ねた者の上にしか訪れない。われわれのチームが訪れた幸運を得点に変換することができたのは、あらかじめ、幸運を呼び込むに足る訓練を積み重ねていたからだと考えなければならない。
 その功労者として、わたくしども日本人は、ハリルホジッチ氏の名前を忘れるべきではない。
 さて、W杯は、クラブチームに向けた若手選手の品評会と言われることが多いのだが、別の一面では、「戦術の品評会」という言い方で説明される。ちょうど4年に一度というタイミングが、世界的な戦術の変化の潮流とシンクロしているからだ。
 あるクラブチームなり代表チームが、特定の優れた戦術を武器に勝ち進むと、その戦術は、それからしばらくの間、世界の流行になる。
 ちょっと前(というよりもずいぶん昔だが)の例で言えば、ヨハン・クライフのいたオランダが持ち込んだ「トータルフットボール」が有名だし、最近の例では、2010年の南アフリカW杯で優勝したスペイン代表チームが体現し、バルセロナFCや、グアルディオラ監督の活躍とともに広まった「ポゼッションサッカー」が一世を風靡している。
 詳しい解説はしない。
 私自身、他人に解説を垂れるほど十分に理解しているわけではないからだ。
 ただ、ある戦術が頂点を極めて流行すると、その戦術を無効化するための別方向の戦術がどこかで案出され、それらのせめぎあいの中でサッカーの戦術が日々変化している。これは私にもわかる。
 とはいえ、われわれのような凡眼は、戦術の変化が、実際のチーム戦術として具体的に選手を動かし、その新しい戦術が古い戦術を圧倒しはじめた時になってはじめて、戦術の存在に気づくことになっている。
 つまり、われわれは、戦術という実体を「事後的」にしか認識できないわけだ。
 監督は、それを、まず自分のアタマの中で立案し、選手を動かす実戦の中で磨き上げる。そして、最終的に、その戦術に沿ってボールを動かすことで、チームに勝利をもたらす。なんと見事な人たちではないか。
 将棋でも囲碁でも、すでに打たれた一局について、専門家の解説を参考にしつつ並べ直せば、私のようなヘボにでも、一手一手の意味がなんとなく見えたりはする。
 サッカーチームの監督は、プロの碁打ちや将棋指しと同じく、たった一人で実戦に向かって、誰のアドバイスも仰がずに一手一手の指し手を考案している。
 実に大変な仕事だと思う。
 今回のW杯のゲームを見ていて印象深いのは、集団的な守備戦術が個人の攻撃能力を圧倒していることだ。
 結果として、ピッチ上で繰り広げられているのは、カウンターのスピードと精度を競う戦いになっている。
 ドイツ対メキシコも、スイス対ブラジルも、アイスランド対アルゼンチンも、圧倒的な戦力を誇る強豪国に対して、堅実な守備と一瞬のカウンターを武器に対峙するチームが善戦ないしは勝利した、サッカー史に残る名勝負だった。
 日本代表の対コロンビア戦の1点目に限らず、縦に速いサッカーによる電撃的な得点は、どうやら今大会を象徴する「華」なのである。
 今大会に特徴的な傾向として、攻撃陣と守備陣が五分五分の条件で四つに組み合う条件下では、戦術的な洗練度の高い守備陣の方が優位に立つケースが多い。結果として、強豪チームの攻撃陣と中堅チームの守備陣の戦いであっても、守備陣の方が勝ってしまうケースが目立つ。
 ということは、マトモにぶつかり合っている限り、どのゲームでも点が入らないスコアレスの展開が続くことになる。
 そこで注目されるのがカウンターだ。
 カウンターとはつまり、相手の守備陣が守備陣形を整える前に、1本か2本の少ないパスで、時間的には自陣から遅くとも10秒以内でシュートに持ち込む攻撃法で、「攻撃」というよりは「反撃」と呼ぶに近い戦い方だ。別の言い方をするなら、カウンターは、攻めている側ではなくて、攻められている側が突然牙を剥く形の攻撃だということだ。
 してみると、このサッカーは、前々回の南アフリカW杯でスペイン代表が優勝して以来王道となった「ポゼッションサッカー」(常にボールを保持し、相手に攻撃を許さないことで勝利の確率を高めるサッカー)の、正反対の戦術ということになる。
 そして、その堅守速攻のカウンター志向のサッカーこそは、ハリルホジッチが日本代表の戦術として定着させようとして、最終的に(誰によってなのかは知らないが)拒絶されたところのサッカーでもある。
 なんということだろう。
 われわれは、追放した人間によって授けられた戦術によって勝利を得たわけだ。
 この先、われらが日本代表チームが、順当に勝ち進んで決勝トーナメントに進むことになるのか、それとも敗退することになるのかは、誰にもわからない。
 いずれの結果が出るのであれ、私は彼らを応援する。
 ただ、協会は祝福しない。
 仮にベスト4に進むようなことがあったのだとしても、その結果をもってチームの正当性を認めることもしない。
 勝ち負けと正当性は別だ。
 応援と愛国心も別だ。
 もし仮に、こういう言い方をしたことで、私が「サヨク」なり「反日」なりと呼ばれるのだとしたら、それはしかたのないことなのだろう。
 ただ、自国のチームを心から応援しつつそのチームの来歴に不満を抱くことが、祖国への反逆だと本当にそう思う人がいるのだとしたら、その人間こそ「反日」ではないのだろうか。
 というのも、真に日本サッカーを愛する愛国サッカーファンは、現状の体制や現状のチームを無条件に応援するよりは、日本サッカーの真の強化のために、協会に苦言を呈することを厭わない人間であるはずだからだ。
 なんだか、えらくエモーショナルなお話をしてしまった。ちょっとはずかしい。
 でもまあ、仕方がありませんね。
 サッカー的にはまるっきりの右翼なので。


海老蔵 麻央さん闘病振り返る…命日に愛あふれるブログ更新「家族はただその存在が大事」
 歌舞伎俳優の市川海老蔵(40)が最愛の妻・麻央さん(享年34)が乳がんのため亡くなってから1年となる22日、自身のブログを更新。麻央さんが病と闘ったブログの記事を丁寧に振り返り、心情をつづった。
 海老蔵は午前6時過ぎにこの日初めてブログを更新し「今日です。一年が経ちました。おはようございます」と麻央さんの命日を報告。続けて昨年3月29日以降の麻央さんのブログ記事を1つずつ引用し、何度もブログを更新した。
 「血液検査」の結果に麻央さんが落ち込む心情をつづった記事には「深刻な時も麻央の『ガビンチョーン』に私自身も何回も助けられました」とコメント。「藍染体験」を報告した記事には「麻央はどうしても二人としたかった事のように私には感じました。身体この時も辛かったのですが、強い意志にて藍染体験に向かった。私はそう記憶します」と思い出をつづった。
 何気ない日常をつづった記事には「なにやっても、どんな時も明るく可愛く素直でステキな人でした。まだまだ言葉では言い表せてないっす笑笑」と愛情をにじませ、「家族って何ができるとか何をしてくれるではなく、ただその存在が大事なのだと思います」「余計なことですが、皆様も目の前の当たり前をよく見つめてくださいませ」と読者に呼びかけた。


[県都の再開発] 将来見据え魅力創出を
 県都・鹿児島市の街の姿が今、大きく変わろうとしている。JR鹿児島中央駅東口や天文館、市交通局跡地などで大規模な再開発プロジェクトが進む。
 曲折を経てようやく建設にこぎ着けた計画もあれば、具体的な施設内容をこれから詰めていくものもある。
 施設の多くは2020年以降に開業する見込みだ。東京オリンピック・パラリンピックと鹿児島国体による経済効果が次第に薄れる頃でもある。地域浮揚につながり、県都の新たな“顔”にふさわしい施設になることを望みたい。
 中央町19・20番街区には4390平方メートルの敷地に、延べ床面積4万7300平方メートル、地下1階、地上24階建て、101メートルの県内一高い複合ビルが誕生する見通しだ。
 ビルの1〜7階部分には商業施設、8階以上にはマンションが入る。2階部分と隣接する駅ビルとを結ぶ「ペデストリアンデッキ(高架歩道)」も設けられる予定で、回遊性が確保できそうだ。
 20年秋の商業施設部分の先行オープン、翌春の全面開業に向けて5月下旬に着工した。完成時期は五輪と国体が開催される頃と重なる。周辺は新幹線全線開業により大幅に活性化したが、一層にぎわいが増すに違いない。
 千日町1・4番街区(旧タカプラ周辺)では、20年完成を目指して再開発ビルの建設計画が進む。1〜6階に商業・業務施設、7〜15階にホテルが入るという。
 一帯は1936(昭和11)年の百貨店開業から82年もの間、多くの県民に親しまれた商業施設跡地で関心も高い。天文館地区は、活況な中央駅周辺に比べると集客力に陰りが見えるだけに、「新たな起爆剤に」との期待は大きい。
 高麗町の市交通局跡地でも、2022年初頭の開業を目指し、商業施設やマンション、病院からなる複合施設の建設計画が進む。病院移転計画の変更やホテル事業者の決定がずれ込んで着工が半年ほど遅れることになったが、鹿児島になかった外資系高級ホテルが核となることもあり、海外の富裕層の集客に一役買いそうだ。
 さらにドルフィンポートを中心とした海の玄関口・本港区や、長年懸案だった中央駅西口の再開発事業も動きだすことになった。両プロジェクトには多額の事業費が必要で、開発完了時期は五輪・国体後になる見込みだ。採算性や長期的な利用方策など、より綿密な計画の立案が求められる。
 それぞれの計画の関係者は、人口減少社会をしっかりと見据え、一過性の経済効果で終わることのない魅力の創出に努めてほしい。


「日大の中枢部に寄生する人々」がターゲット、今度は「雇い止め」で非常勤講師8人が怒りの提訴
日本大学から不当に雇い止めをされたり講義のコマ数を減らされたりしたとして、日大で英語などを教えていた8人の非常勤講師が6月22日、日大を相手取り、東京地裁に雇い止めが無効であることの確認を求める訴えを起こした。あわせて、1人あたり20万円の慰謝料なども求めた。原告や原告を支援する首都圏大学非常勤講師組合が同日会見し、明らかにした。
●原告「契約更新への合理的期待がある」
訴状などによると、日大は原告ら非常勤講師を採用するにあたって、新学部である危機管理学部とスポーツ科学部の設立を見据え、「平成28(2016)年4月からご担当願います」「平成32(2020)年3月までは継続してご担当いただきますよう、お願いいたします」と記したペーパーを渡していた(ペーパーの日付は、2014年11月25日付)。
ところが2018年3月をもって雇い止めにされたり、コマ数を減らされたりした。原告側は「4年間の雇用期間まで更新される旨の合意が存在しており、仮に合意の存在が認められなくても、4年間の契約更新への高い合理的期待がある」と主張している。会見で代理人の中川勝之弁護士は「4年間という合意は明確にあったと思う。鋭意、戦っていきたい」と話した。
また、日大が講義を外部の民間組織に委託したため、そのぶん講義のコマ数を減らされた非常勤講師もいる。それにより、多い人で月額20万円前後の賃下げになったという。原告側は、委託した講義で、日大の専任教員が出す指示のとおりに委託先の講師が動いているとして、「偽装請負となっている疑いが強い」とも指摘している。
●日大による非常勤講師ゼロ化計画か
原告団の真砂久晃団長は会見で、「今回私たちが是正を要求するのは、日大の中枢部に寄生し、非常勤講師を良心の呵責もなく使い捨て、教職員をこき使って何食わぬ顔をしているわずかの人々に対して」だとし、「非常勤講師を含む教職員を人間扱いしない人に、学生が守れるはずがない」と語った。
別の非常勤講師の男性は「ルールを無視して、働く者の権利をないがしろにして、色々な事柄を隠蔽して対処しようとする姿勢に疑問を持っている。教育機関として、正しい判断をしてほしい」と求めた。
原告側が入手した日大人事部の内部文書「非常勤講師に係る対応について」には、「非常勤講師の無期転換権発生を認めるということは今後の大学運営に支障をきたす可能性が大きいことを考慮に入れる必要がある」と記されていたという。このため、原告側は、「日大による非常勤講師ゼロ化計画だ」と批判している。
無期転換ルールとは、有期労働契約が反復更新されて通算5年を超えたときは、労働者の申込みにより、期間の定めのない労働契約(無期労働契約)に転換できるルールのこと。賃上げの保証はないが、予期せぬ契約打ち切りに怯える必要がなくなる。


「雇い止めは違法」と日大を提訴 非常勤講師ら
 日本大危機管理学部やスポーツ科学部などの非常勤講師らが22日、大学側から「不合理な雇い止めをされ、違法だ」などとして、地位確認を求める訴訟を東京地裁に起こした。原告らが記者会見して明らかにした。原告は8人で、うち3人は4月から担当授業がなくなった。残り5人は授業数を減らされた。
 原告らは、背景として有期契約労働者が通算5年超働けば無期契約に移行できる「無期転換ルール」があるとみている。今年から本格的に始まるのを前に、非常勤講師の授業をゼロにすることで無期移行できないようにしたと主張している。
 日大広報課は「提訴内容が分からずコメントできない」としている。


京大・吉田寮の保存求め要請書 卒業生ら、大学側に
 京都大が、吉田寮(京都市左京区)の老朽化対策として寮生全員に9月末までの退寮を求めている問題で、卒業生らでつくる「21世紀に吉田寮を活(い)かす元寮生の会」が22日、山極寿一総長らに、吉田寮の保存活用を求める要請書を提出した。
 要請書では「大正初期築の旧棟は、学生寄宿舎を重視した日本の高等教育の生き証人で、歴史的文化財としても貴重」と指摘。退寮要請の見直しと、同会が要請の趣旨を説明する機会を求めている。元寮生の会の奈倉道隆代表理事は「寮生活は人間教育に大きな意味を持つ。活用し続けることが、学生や大学教育にとって重要だ」と話した。
 吉田寮の旧棟は築100年以上。寮自治会は補修を求めてきたが、大学側は建て替える方針で、耐震基準を満たす新棟を含む全寮生に退寮を通告している。大阪府北部地震を受け、大学側は早期の退寮を求めており、寮生は「伝統的に話し合いで寮運営について決めてきた『確約』を無視し、一方的だ」と反発している。