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東北みやぎ復興マラソン_180805

Le PM japonais envoie une offrande rituelle au sanctuaire de Yasukuni à l'occasion de l'anniversaire de la capitulation du pays
Le Premier ministre japonais Shinzo Abe a adressé mercredi une offrande rituelle au sanctuaire controversé de Yasukuni à Tokyo, à l'occasion de l'anniversaire de la capitulation du Japon lors de la Seconde Guerre mondiale.
Cependant, ni le Premier ministre ni ses ministres ne visiteront probablement le sanctuaire en vue d'améliorer les relations régionales, en particulier celles avec la Chine.
Le sanctuaire shinto, considéré par les pays voisins comme un symbole du militarisme passé du Japon, est depuis longtemps une source de frictions diplomatiques entre le Japon et ses voisins, car il honore la mémoire de 14 criminels de guerre de classe A parmi les 2,5 millions de morts de guerre japonaises lors de la Seconde Guerre mondiale.
Les visites et les offrandes rituelles faites en personne ou par procuration au sanctuaire par les dirigeants et les officiels japonais ont constamment suscité de vives critiques de la Chine, de la Corée du Sud ainsi que d'autres pays brutalisés par le Japon pendant la Seconde Guerre mondiale.
M. Abe a envoyé des offrandes rituelles à Yasukuni chaque année lors des festivals de printemps et d'automne depuis son entrée en fonction en 2012.
En décembre 2013, le chef du gouvernement japonais a visité le sanctuaire controversé en personne, ce qui a été fermement condamné par la Chine et la Corée du Sud, ainsi que les Etats-Unis.
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にっぽん縦断 こころ旅〜とうちゃこ〜▽723日目 長崎県東彼杵町
「こころ旅」春の旅、今週は長崎県! この日は港町として、また街道の宿場町として栄えた東彼杵町へ! 火〜金曜は朝版と「とうちゃこ」版を合わせて一日の旅が完結です!
にっぽん縦断 こころ旅〜とうちゃこ〜▽724日目 長崎県波佐見町
「こころ旅」春の旅、今週は長崎県! 最終日は県内で唯一海が無い町!波佐見焼で知られる波佐見町へ! 火〜金は朝版と「とうちゃこ」版を合わせて見れば一日の旅が完結!
俳優の火野正平さんがみなさんから寄せられた“こころの風景”を相棒の自転車チャリオとともに訪ねる「にっぽん縦断 こころ旅」。2018春の旅は沖縄を出発! 鹿児島、熊本、長崎、佐賀、福岡と九州を北上し、山口、島根、鳥取、兵庫、京都、滋賀を走って7月の岐阜がゴールです!  火〜金曜は、朝版ととうちゃこ版を合わせて見れば、1日の旅が完結!まるごと全部楽しめます! この日は、長崎の旅3日目! お楽しみに!

小西ひろゆき (参議院議員) @konishihiroyuki
長崎の原爆投下の(9分前どころかその)5時間も前に、広島に原爆を投下した航空部隊のコールサイン傍受によって「原爆機が再び侵攻」の情報を大本営参謀は把握していた(NHK調査)。国家権力が国民を必死に守らない事実は原爆の悲劇から今に至るまで変わっていない。
パンダロウ @pandasukidesu
今NHKのノモンハン事件のドキュメンタリー番組見ているけど、やっぱり首謀者の1人として辻政信が出てきた。あと日中戦争と太平洋戦争の戦史を作るにあたって日本軍に都合がいい偽史を作りあげ、今のネトウヨ増殖の礎を作った服部卓四郎の名前が出てきた。
naoko @konahiyo
ノモンハン事件、参謀本部をはじめ最高幹部は責任を部下に押しつけて自害させ、自らは何ら責任をとらず。
自決させられた事情を問う遺族の手紙に対し、最高幹部らは「記憶にない」「知らない」「わからない」と返答。
近未来じゃなく近過去と今を見るようだ。#NHKスペシャル

NHKドキュメンタリー@nhk_docudocu
【18日深夜・再】 #NHKスペシャル 「ノモンハン 責任なき戦い」は18日(土)深夜に再放送です。
79年前、モンゴルの大草原で日本とソ連が戦ったノモンハン事件。新たに発掘した150時間の陸軍幹部の肉声テープ、AIでカラー化した鮮明な戦場の映像でその実態を伝える。[総合]


朝4時に起きました.目覚ましは3時にかけていたのですが,眠くて結局5時くらいから動き出して6時に出かけました.
仕事するのにソフトウェアのインストールですが,デスクトップの分を削除してノートにインストール.ちょっと手間取ってしまいました.
関空には10時前について,待っている間にアンケート.なぜか帰省に分類されてしまいました.ピーチは出発が遅れて,なんと50分近く遅れました.
また歴史を知らないというか自分の都合の良いように考える人が靖国参拝.残念であると同時に怒りを禁じえません.

8回目のお盆 津波で84人犠牲の大川小近くで鎮魂の花火
 東日本大震災から8度目のお盆、津波で多くの児童が犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校近くの地区で夏祭りが開かれ、鎮魂の花火が夜空に打ち上げられました。
 大川小から5キロほどの宮城県石巻市福地地区で開かれた夏祭り。迎え火が焚かれた会場では、子どもたちが「的あて」などのゲームを楽しんだり、綿あめやかき氷をほおばったりしていました。大川小では、児童ら84人が津波の犠牲となりました。次女を亡くした紫桃隆洋さんは、毎年、祭りの運営に携わっています。この祭りでは、震災後毎年、鎮魂の花火が打ち上げられています。14日夜は、約300発が夜空を焦がしました。震災から8度目のお盆。集まった人たちは、夜空の大輪を見つめながら亡くなった子どもたちを悼んでいました。


大川地区で犠牲者偲ぶ花火打ち上げ 宮城・石巻市
児童ら84人が犠牲となった宮城県石巻市の大川小学校の近くで、鎮魂の思いを込めた花火が打ち上げられました。
この花火は津波の犠牲になった児童らを追悼しようと遺族の発案で毎年打ち上げられています。
この地区では大川小学校の児童6人が犠牲となりました。打ち上げられた鎮魂の花火約300発に遺族らはそれぞれの思いを馳せました。
妹を亡くした佐藤そのみさん「震災後は、毎年毎年(ここが)大事な場所だなと思って、花火も見れて良かったです」
次女を亡くした紫桃隆洋さん「亡くなった子どたち、みんな一緒に大川の子どもたちがここに集まって、花火を見てくれていたと思う」


震災で亡くなった子供たちへ鎮魂の花火  石巻市福地で「鎮魂の夏祭り」〈宮城〉
震災の発生から、8度目のお盆です。震災で亡くなった子供たちへ鎮魂の花火を打ち上げる夏祭りが、14日、宮城県石巻市で開かれました。
石巻市福地地区で30年以上続く夏祭りは、毎年、お盆にあわせて行われていて、震災後も一度も途切れることなく続けられています。
この地区では、石巻市立大川小学校に通っていた児童6人が津波の犠牲となり、祭りでは、震災後、鎮魂の思いを込めた花火が打ち上げられるようになりました。
大川小で次女の千聖ちゃん亡くす 紫桃隆洋さん
「大川の子供たちがここに集まって、みんなと一緒に花火見ながら、供養という気持ちでいると思う」
震災の発生から8度目の「お盆」。
亡くした家族を偲ぶ夏祭りは、これからも続いていきます。


スタジアムに響け 希望の歌 釜石東中、ラグビーW杯会場完成式典で歌手・平原さんと合唱
 東日本大震災後、釜石市鵜住居(うのすまい)地区にある釜石東中の生徒たちが大切に歌い継いできた歌が19日、2019年ラグビーワールドカップ日本大会の会場となる「釜石鵜住居復興スタジアム」の完成式典で披露される。合唱曲「いつかこの海をこえて」。歌詞に隠された「鵜住居で生きる 夢抱いて生きる」とのメッセージを、生徒たちは高らかに歌う。
 古里や友達を胸に抱きながら、瑠璃色の海に船を出して進もうと歌い上げる「いつか−」。音楽ユニット「アクアマリン」のミマスさん(47)=神奈川県平塚市=が作詞作曲した。
 楽曲作りに協力した生徒たちが寄せたアンケートには「黒い海」「行方不明」という文字もあったが、「仲間」「希望」といった言葉が多く並んだ。
 「新しい鵜住居をつくり、未来を切り開いていく彼らの希望の歌にしようと考えた」。ミマスさんは「どこにいても古里を思い、幸せな人生を送ってほしいとの祈りを込めた」と言う。
 楽曲は12年2月に完成。釜石東中の生徒たちと曲を作った証しに、歌詞の行頭の1文字をつなげるとメッセージが浮かび上がる仕掛けだ。曲は今、被災地に思いを寄せる全国の中学校に広がっている。
 鵜住居地区は津波で約600人が犠牲となり、釜石東中も全壊した。元生徒会長の佐藤繁さん(18)=釜石高3年=は「つらい経験をみんなで乗り越えようと後押ししてくれた曲だった」と振り返る。
 釜石東中などの跡地に整備されたスタジアムの完成式典では、歌手の平原綾香さんが合唱に加わる。
 平原さんは「今を生きる私たちが、天国からずっと見守られているように感じる歌詞に胸が熱くなった」と語る。3年の高清水享妥(きょうた)さん(14)は「校歌と同じぐらい特別な曲。歌い継いできた先輩たちの思いも背負って本番に臨む」と誓う。
 「世界とつながり、被災地の子どもたちが夢を見る場所で歌われるのは光栄」とミマスさん。当初は津波を連想させる「海」を歌詞に入れるかどうか「迷った」と打ち明けるが、今はこう伝えたい。「海の向こうにこそ広い世界がある」


被災地で黙々とボランティア活動 吉川晃司の“気骨と矜持”
「現代のハリマオかレインボーマンか月光仮面か」などの声がネットで相次いでいるのが、ロック歌手で俳優の吉川晃司(52)。先月の集中豪雨と洪水に続き、記録的な猛暑で苦しむ西日本各地の被災地に足を運び、ボランティア活動に励んでいたことが分かり、話題なのだ。
 きっかけは上下黒ずくめにマスク、白いタオルを頭と首に巻いたいでたちの吉川がボランティアの輪に加わっている画像が「目撃情報」としてツイートされたこと。本人は、ボランティアについて公表もしていなければコメントもしていない。ただ、先月、都内でのドラマの完成披露試写会では舞台上からこんな挨拶をしている。
「このたびの水害で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。今なお不自由な生活を余儀なくされている方々が、一刻も早く元の生活を取り戻されるよう願っています」
 広島は吉川の出身地でもあり、放ってはおけなかったのかも知れない。当地では、被災地をいくつも回り、被災家屋の片づけなどに従事しているようだ。芸能プロデューサーの野島茂朗氏は言う。
「吉川さんは東日本大震災の際も被災地を訪れて、被災者に手を貸していました。今回は、お父さんのご出身が原爆ドームの近くということもあるでしょうけど、とにかく困った人を助けたいという意識が強くあるようです。
『LUNA SEA』や『X JAPAN』のギタリスト、SUGIZO(スギゾー)さんも被災地でのボランティア活動に汗を流し、現場監督をしているといった情報や様子をSNSにアップしていますが、吉川さんはそうしたことは一切、自らは発信していない。炊き出しをしたとマスコミに流し、喧伝したりする芸能人のボランティアとは明らかに一線を画していて、そうしたところがまた、男らしい、かっこいいと称賛を集めているのです。実際、現場では優しく頼りがいのある兄貴分とされ、気配りもあって『リアルヒーロー現る』と大人気だそうです。知名度があるのにニュースにならないのは、吉川さんが政府批判などをしているからでしょうか」
 テレビが吉川のボランティア活動を追わない理由は定かではない。だが、「俺は現政権がでえっ嫌い!」などと反アベを声を大にして訴え、反原発の旗印を掲げているのは本当だ。
 CM出演のオファーの際に「原発発言しますか」と聞かれ、「しますよ」と答えて立ち消えになるなどの逆風もなんのその。
「金や権力で人を黙らせようとするものに対しては、自分は絶対に『はい』とは言えません。ミュージシャンであれ、芸能人であれ、政治的な発言はしないほうがいいという風潮には疑問を感じています」との主張を曲げないのである。
 反原発については、こうコメントしている。
「次世代を担う子どもたちに負の遺産を押し付けて、あとは頼むよじゃ死んでも死にきれないから、やれることはやらなきゃと思っています。子どもに、墓に向かって『父ちゃん、何もしなかったじゃないか』とは言われたくない。せめて『いや、俺なりに頑張ったんだ』と言い返したい」
 前出の野島氏はこう続けた。
「政界に名乗りを上げれば、圧倒的な支持を集めるでしょうし、芸能界出身者では山本太郎を超える存在になるでしょう」
 魂のロッカー、吉川の気骨あふれる行動に、絶賛の声しきりなのも当然だ。


【東日本大震災】 阪神と東日本の“絆” 兵庫のボランティアが追悼の竹灯籠 宮城の仮設住宅
 宮城県名取市の愛島(めでしま)東部仮設住宅に15日、兵庫県からボランティアが訪れ、東日本大震災の犠牲者に向けたお盆の追悼行事を行った。竹灯籠730本に阪神大震災の鎮魂と復興を願う「1・17希望の灯り」(神戸市)から分灯した火をともして、住民らと安寧を祈った。
 訪れたのは阪神大震災の追悼行事を行う市民団体「神戸・心絆(ここな)」と災害ボランティア支援拠点「ひょうごボランタリープラザ」を通じて参加した計33人。平成25年夏以降3月11日と8月15日の年2回、同住宅を訪れて竹灯籠を灯している。
 竹灯籠は「メデシマ アリガトウ」の文字に並べた。心絆の山川泰宏会長(80)は「これまでの感謝の思いを込めた」。兵庫県尼崎市の大学1年、寺坂美桜さん(19)は「仮設があり続けることはよくないけれど、せっかく築けたコミュニティーがなくなるのは複雑。ここに来ると元気にしてもらえた」と話した。
 名取市によると市内に残る応急仮設住宅は愛島東部と美田園第1団地で、美田園第1は今年度末に閉鎖。来年度は愛島東部だけで居住者は10人ほどになる。ここでのお盆の竹灯籠は今回で最後になる見込み。
 震災の語り部をする元住民で閖上在住の自営業、長沼俊幸さん(55)は「このような行事があり、仮設を出た住民にも同窓会になる」という。


「お母さん、おる?」苦しむ子脳裏に 福知山露店爆発5年
 3人が死亡、55人が重軽傷を負った京都府福知山市の露店爆発事故は15日、発生から5年を迎える。夏の夜空を見上げるたび、家族を亡くした悲しみに打ちひしがれる遺族たち。負傷者はやけどの後遺症と向き合う日々を送る。多くの被害関係者が再発防止を願う中、主催者側による事故の検証作業は今も手つかずのままで、専門家は「行政が主導し、原因究明に努めるべき」と指摘する。
 「お母さん、おる?」。全身にやけどを負い、10歳で亡くなった京都府京丹波町実勢の山名空君=当時小学5年=の母三千代さん(44)は、毎年8月が来ると、空君の最期の言葉を思い出す。綾部市から京都市へと転院搬送される救急車の中。か細く、かすれた声だった。体力を奪わないようにと気遣い、「ここにおるよ」とだけ返事した。空君は事故の4日後、入院先で息を引き取った。三千代さんは「当時を思い出すと、涙がこぼれてしまう。言葉にならないほどつらい」。
 心優しい息子だった。仕事で帰りが遅くなると、ご飯を炊いて待っていてくれた。「助かるわ。ありがとう」。そう声を掛けると、照れくさそうな笑顔を浮かべた。自宅リビングには、無邪気な表情で遊ぶ空君の写真が並ぶ。今年3月、中学校を卒業した空君の同級生が訪ねて来た。携帯電話の画面に空君の姿を表示させ、一緒に記念撮影した写真をプレゼントしてくれた。「忘れないでいてくれることがうれしい」と話す。
 自宅のある京丹波町では毎夏、花火大会が催されている。空君が苦しむ姿を思い出すのがつらく、打ち上げ花火の音が鳴り響くと、ずっと耳をふさいできた。今夏はふと、「空、一緒に見ようか」と思い立った。会場から離れた場所に車を止めた。夜空を照らす鮮やかな光。「少しだけならと思ったけど、やっぱり無理だった」。10分もたたないうちに、車のアクセルを踏んでいた。
 各地の花火大会や夏祭りで同じような事故が起こるたび、胸を痛める。相模原市では今月4日、祭り会場の屋台のボンベが爆発して9人が負傷した。三千代さんは「一瞬の不注意で悲しむ人が出てしまう。絶対に事故が起きないよう、安全対策を徹底してほしい」と訴える。


「あんなの人間の遺体やない!」日航機事故で娘3人を失った夫妻の怒り 西村匡史著『悲しみを抱きしめて』
西村 匡史
あの悲劇の大事故から今年で30年。3人の娘を奪われた田淵夫妻が初めて明かしてくれた事故後の凄絶な日々。それは想像をはるかに超えるものだった――。
* * *
最後の写真
1985年8月12日午後6時56分。
そのとき、親吾さん(当時56歳)は父の代から続く町場の石鹸工場で働いていた。輝子さん(同51歳)は、旅行から帰宅する3人の娘たちの夕食の準備に追われていた。
ふだんと変わらぬ日常だった。
田淵さん一家は、夫妻と長女の陽子さん(当時24歳)、次女満さん(同19歳)、3女純子さん(同14歳)の5人家族。
実直な人柄の親吾さんは、子どもたちの学校で役員を務めるなど社交的な面ももつ。一方、輝子さんは夫の工場を手伝いながらも、子どもと過ごす時間を最優先に考え、娘たちが外出した際はどんなときでも眠らずに帰りを待つような、情愛の深い母親だった。
そんな夫妻のもとで3人の娘はのびのびと育っていく。
長女の陽子さんは親吾さんの会社名「山陽油脂」から一文字をとって名づけられた。仕事や家事で忙しい両親に代わって、妹たちの面倒をよくみるしっかり者である。
次女の満さんは予定より1ヵ月も早く生まれた子だった。満さんがお腹のなかにいるとき、母親の輝子さんは妊娠中毒症で、医師からは「お子さんの命はあきらめてください」と告げられている。
「せめて名前だけは満期に」という願いを込めて「満」という名前をつけた。控えめな大人しい性格で、飼っていた猫が一番懐くほど優しかった。
3女の純子さんは「純粋に物事を考えるように」という意味で名づけられ、その名の通り真っ直ぐ育っていく。
「純ちゃんは愛嬌がいいから、私の代わりにお使いにいくと、商店街のおじちゃんやおばちゃんがよく割り引きしてくれたんや。だから私もよう重宝したわ。学校や近所でもえらい人気者やった」
娘たちの話になると輝子さんは夢中になって止まらない。
遊びにいくときはいつも一緒だったという3姉妹。御巣鷹の尾根の墓標には、そんな3人の写真が陶板に加工され貼り付けられている。
日付は1985年8月9日。事故機の残骸から燃えずに見つかったフィルムを現像したもので、3人が一緒に写った最後の写真だ。
私は輝子さんがこの写真をじっと見つめながら放心したような状態でつぶやいた一言が忘れられない。
「どこに行くのも3人一緒。天国に行くのも3人一緒や」
事故で亡くなった三姉妹の墓標。中央には仲が良かった三人の写真が収まっている。
事故の3日前の8月9日。3人は旅行のため、大阪の伊丹空港を出発する。茨城県で開催中だったつくば科学万博や東京ディズニーランドなどを回る3泊4日の予定だった。
毎年夏休みに行われる3姉妹の恒例行事。当時、司法書士事務所に勤めていた陽子さんは夏のボーナスが出ると、そのほとんどを旅行費用に充てた。忙しい両親を気遣い、長女の陽子さんが妹たちを誘っていたのである。
当初は尾瀬に行く予定だったが、親吾さんは、何気なく、科学万博に行くよう勧めた。
「尾瀬にはいつでも行けるけど、万博は今年限りやからそっちに行ってきたらどうやと口を挟んでしもうて……。それで予定を変更して123便に乗ってしまったんや」
目をつぶって額を押さえ、悔しさを隠しきれない。親吾さんは事故後、ずっと自分を責め続けていたのである。
墓標に置かれた備前焼の3体の、かわいらしい地蔵をさすりながらつぶやいた。
「わしが余計なことを言わなければ……悔やんでも悔やみきれん」
機体の残骸から見つかったフィルムにより娘たちの最後の足取りがわかった。3人は出発した9日に羽田空港から科学万博会場に向かっている。
3人一緒の最後の写真は、9日の夜、万博からの帰りの電車内で撮影したものとみられる。純子さんが身につけているイヤリングとネックレスは、姉の陽子さんから借りたものだ。
翌日の10日も万博に寄っている。古代遺跡の彫刻を模ったパビリオンの前で陽子さんと純子さんが2ショットで写っていた。
満さんはタイムカプセルにハガキを投函する姿が写真に収められている。これは「ポストカプセル2001」という企画で、このポストに投函すると16年後の2001年正月、つまり21世紀の元旦に自分宛てに配達してくれるというものだった(満さんが投函したハガキは、その後、田淵夫妻が大阪から兵庫県に引っ越ししたため、2人のもとに届くことはなかった。後日調べたところ、住所不明のため、すでに廃棄されていたことがわかっている)。
万博を楽しんだあと、10日夜には千葉県で花火を見ている。たくさんの花火がフィルムに収められていた。
翌11日はディズニーランドに行っている。そして最終日の12日、3人は東京タワーを訪れたのを最後に、午後6時12分発の日本航空123便に乗り込んだ。
羽田から大阪・伊丹空港へ向かうはずの機体は、離陸から12分後に操縦不能となり、約32分間ダッチロールを続けた後、6時56分に御巣鷹の尾根に墜落したのだった。
田淵夫妻が最初に事故を知ったのは、テレビで搭乗者名簿に3人の名前が載っているのを見た、輝子さんの妹からの連絡だった。
「あの子たちはいつも最終便で帰ってくる。だからその便には乗ってへんから大丈夫よ」
輝子さんはそう妹に答えるとともに、自分にも言い聞かせた。だが次第に明らかになってくる情報はどれも悲観的な内容ばかり。親吾さんは当時を振り返る。
「頭からすべてが吹き飛んだ。不時着をただ祈るだけだった」
一方の輝子さんは、娘たちが亡くなっているとは想像だにしなかったという。
「きっと山の中でけがをしているから、早く助けてあげなければと思ってた。死んでいるなんて夢にも思わへんかった」
残酷すぎる現実
田淵夫妻は事故当日、日航が手配した大阪のホテルに駆けつけ、翌朝の臨時便で羽田空港に飛び立った。到着後、すぐにバスで群馬県藤岡市に向かう。
一刻も早く娘たちに会いたいと登山靴や雨具を用意してきたが、なぜか一行が到着したのは学校の体育館だった。墜落現場での捜索ではなく、ここに運ばれてくる遺体の中から肉親を確認する作業が待っていた。生存を信じている人々にはあまりにも残酷な作業だった。
山中に突っ込んだ機体は大破して炎上。奇跡的に4人が救助されたが、亡くなった520人の遺体の損傷は激しかった。首と胴体がつながっている完全遺体はわずかで、大半が部分遺体。当然ながら、身元の確認作業は難航した。しかも、真夏に起きた事故であるため、遺体の腐乱は早い。クーラーもない体育館のなかは暑さと激しい臭いが充満している。
多くの遺族は肉親を失った苦痛を背負いながらも、なんとか身体の一部だけでも戻ってほしいとの思いから、遺体との対面を繰り返していた。
田淵夫妻が初めて遺体の確認のために体育館に入ったのは、事故から3日経過した15日。それまでは別の体育館で遺体の検視を待っていた。
ずらりと並べられた柩に入っていたものは誰のものともわからない身元不明の遺体。一つ一つ確認しても手がかりは見つからない。
体育館を出た瞬間、輝子さんは叫び声をあげながら、日航職員におしぼりを投げつけてつめ寄っていた。
「うちの娘とは違う!あんなの人間の遺体やない!」
「初めて体育館で遺体に会わせてもらったときは……忘れられへん」
御巣鷹の尾根にある墓標の前で、輝子さんが当時の様子を話してくれたことがある。その場で力なく腰を下ろし、首を振りながら言葉に詰まった。
「これは遺体やない、山の木を焼いたんやろって。声がひとりでに出たんよ。そのあとは私あまり意識ないね」
輝子さんの沈痛な表情を見て親吾さんが代わった。
「あまりにも酷い状況下で感覚が麻痺し、臭いも気にならない。涙も一滴も出なかった。ただ娘たちを確認することだけに無我夢中やった」
3人の娘は燃料タンクの近くに座っていたため、火災による遺体の損傷が激しかった。
親吾さんの弟で現地に駆けつけた田淵友一さんは当時、大阪府警の警察官を務めており、仕事柄遺体と向き合う機会が多かった。だが、遺体のあまりの損傷の激しさに「兄夫婦には絶対に見せられない」と思ったという。
結局、輝子さんは満さんの手の一部だけは自分で確認した。満さんの手にあった傷の特徴を知っていたのは輝子さんだけだったからである。確認する箇所以外は全身が包帯で巻かれていたが、それでも変わり果てた姿が目に焼きついて離れない。
「バカにするのもいいかげんにせえって言ったんや。人間の遺体というよりは炭のようやった」
3人の遺体の最終確認を終え、大阪の自宅に戻ったのは20日。2日後の22日に葬儀が行われた。
輝子さんは、陽子さんの柩に、白地に赤い花柄模様の振り袖を入れた。長女のために自分で仕立てたお気に入りのものだ。満さんの柩には、成人式のために用意していた反物を急いで仕立てて入れる。純子さんには、陽子さんが成人式で着た赤地の振り袖を分けて入れてあげた。
葬儀の様子を撮影した写真が残されている。祭壇には陽子さんの遺影を中央に左手に満さん、右手に純子さんの写真が並んだ。
位牌をもつ親吾さんはうな垂れ、その傍らに立つ輝子さんは憔悴しきった表情をしている。中学生だった純子さんの同級生をはじめ、歩道から溢れ出そうなほど多くの参列者が3台の霊柩車を見送っていた。
本当に大変だったのは葬儀が終わった後だった。輝子さんが錯乱状態に陥ったのである。
『悲しみを抱きしめて 御巣鷹・日航機墜落事故の30年』
著者=西村匡史
講談社/定価890円(税別価格)
●内容紹介●
悲劇の事故から30年。深い悲しみの果てに遺族たちがつかんだ一筋の希望。感動秘話
●3人の愛娘を失った夫妻の慟哭
●慰霊を支えた元零戦乗りの村長
●村一番の暴れん坊から「山守」に
●遺族から慕われ続けた日航社員
●遺族会をまとめあげた母の執念
●事故直後に生まれた遺児の感慨
●新妻を失った男性の「それから」
●あの遺書が自分を育ててくれた
●真相究明を続けた事故調査委員
悲しむ人と寄り添う人の感動秘話


デスク日誌 命の重み
 戊辰戦争150年の今年、福島県内では会津地方を中心にさまざまな催しが展開される。会津若松市では9、10月に記念式典、各種企画展、会津まつりなど関連行事がめじろ押しだ。
 150年の時の長さを想像してみた。直接知ることはできないが、そう遠い過去でもない。3、4世代前の先人の経験が、今に伝えられている。
 会津では高齢の方ほど、長州藩(山口県)への感情的なしこりが少なからず残る。戦死した会津藩士の遺体を半年間、新政府軍が埋葬を許さず、野ざらしにしたとされてきたことが、要因の一つにあるという。
 昨年、会津藩降伏直後に埋葬されたことを示す新史料が見つかった。歴史認識が変わる契機となる一方、市井の人々の気持ちは、容易に変わるものではないというのも現実だ。人の命が持つ意味は重いということなのだろう。
 発生から8年目の東日本大震災と原発事故。2万人近い最愛の人を失った悲しみは深く、記憶はまだ新しい。戦没者240万人といわれる先の大戦が終わったのは73年前。終戦の日のきょう、多くの犠牲の上に今があることを思う。(会津若松支局長 玉應雅史)


終戦の日を迎えて 記録を尊ぶ国でありたい
 終戦からすでに73年の歳月が刻まれ、来年5月には昭和、平成に続く戦後3番目の年号が始まる。
 とはいえ、8月15日はいまだに私たちにとって羅針盤であり続ける。日本という国の仕組みを根底から見直す原点になったからだ。
 問われたことの一つに、集団無責任体制というべきものがある。政治学者の丸山真男が「これだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がどこにも見当たらない」と評した精神構造だ。
 国民に極端な忠誠を求めながら、国家中枢で組織防衛と状況追認に明け暮れていたのが戦前日本だった。
 防衛省防衛研究所に併設された戦史研究センターに「市ケ谷台史料」と呼ばれる書類が保存されている。
 和紙に1枚ずつ貼り付けられた史料には、焼け焦げた跡が残る。破れて判読ができないものも多い。
寸断された責任の系譜
 これらは、敗戦前後に旧陸軍が焼却命令を出した書類の燃え残りだ。1996年4月、東京都埋蔵文化財センターが旧尾張藩上屋敷(かみやしき)のあった市ケ谷駐屯地(現防衛省)を発掘調査中に地中から発見した。
 東条英機が天皇に裁可を求めた原簿、ポツダム宣言に関する憲兵司令部の動向調査、原爆投下直後に広島から打電された「特別緊急電報」などが目に付く。ほとんどはまだ専門家の研究が進んでいない。
 ポツダム宣言の受諾が決まった直後、陸海軍や内務省で機密書類の組織的な焼却が始まったことはよく知られている。「大東亜戦争全史」によると「焚書(ふんしょ)の黒煙」は45年8月14日午後から16日まで上り続けた。
 ただし、これほど大規模な焼却だったにもかかわらず、意思決定の記録は残っていない。命令書も同時に焼却されたためとみられる。
 わずかに九州の陸軍部隊が受電した電報に痕跡がある。「重要ト認ムル書類ヲ焼却スベシ。本電報モ受領後直チニ焼却」というものだ。
 一連の焼却命令は、将来の戦犯裁判に備えたのだろう。とりわけ天皇に不利な文書を葬る意図があったことは想像に難くない。日本より早く降伏したドイツではすでにニュルンベルク裁判の準備が進んでいた。
 同時に、実際はつながっているはずの軍官僚の責任の系譜も次々と断ち切られた。満州事変以降、15年におよぶ戦争遂行の検証に障害となって立ちはだかったのである。
 戦後、役人は「天皇の官吏」から「国民の公僕」に変わった。なのに私たちは今年、過去に引き戻されたような行為を目撃させられた。
 言うまでもなく財務官僚による公文書の改ざんと廃棄である。
 背後には当然、権力者への迎合と自己保身があったと考えられる。ところが、麻生太郎財務相は「動機が分かれば苦労はしない」と人ごとのように開き直った。
 野党の追及にいらだつ安倍晋三首相は「私や妻が関与していないことははっきりした」と財務省の調査結果を逆手に取って強弁した。
 政府にあって今も無責任の連鎖が続いているように見える。
歴史の総括は事実から
 A級戦犯を裁く東京裁判は、46年5月に始まった。重要書類の大量焼却は予想通り裁判に影響を及ぼす。存在すべき文書が見つからず、絶対的に証拠が不足したことだ。
 日暮吉延・帝京大教授は著書「東京裁判」で「本来なら公文書1通の提出ですむはずの問題がしばしば冗長な宣誓供述書や証言で立証されなければならず、東京裁判が長期化する要因になった」と指摘する。
 記録文書の欠落は、史実よりイデオロギー優先の論争をも招いた。国内の右派は東京裁判を「自虐史観」と批判するが、では戦争責任をどう整理すべきかの提案はない。
 事実を共有しない国家、過去を検証しない国家に、共通の歴史認識が生まれることはなかろう。
 昨年5月に他界した歴史学者の岡田英弘は、歴史という文化要素を持つ文明と、持たない文明が対立するとき、常に歴史のある文明が有利だと説いた。その理由は示唆に富む。
 「歴史のある文明では、現在を生きるのと並んで、過去をも生きている」「歴史のない文明では、常に現在のみに生きるしか、生き方はない。出たとこ勝負の対応しか出来ない」(「世界史の誕生」)
 為政者は自らを正当化するのに、歴史の審判を待つとよく口にする。それが通用するのは、正確な記録が積み上げられた場合のみである。


終戦の日/過去をたどる「ほそ道」の先に
 73年前のきょう、太平洋戦争が終結した。8月15日は不戦と平和を誓う日である。
 満州事変からの戦争は甚大な犠牲をもたらした。軍人と民間人を合わせた日本側の死者は300万人を超える。忘れてはいけないのは、他国の犠牲は2千万人以上とされることだ。
 今も戦争を巡る認識の違いが内外で議論を呼ぶ。当事者の受けた傷は深く、過去はなかなか歴史の収蔵庫に収まらない。
 「歴史とは現代と過去との対話だ」と英国の歴史学者E・H・カーは述べた。きょうは過去が語る言葉に耳を傾け、改めて問い掛けてみよう。「あの戦争は何だったか」と。
      ◇
 「奥の細道」は江戸時代の俳人、松尾芭蕉が東北、北陸などを歩いた俳句紀行の名著だ。その題を冠した英語の小説が世界的な評価を得ている。
 オーストラリアで4年前に発表され、英国を代表する文学賞「ブッカー賞」などを受賞した。今年、日本語訳の「奥のほそ道」(白水社)が出た。
 芭蕉の紀行文と違い、題材は太平洋戦争だ。東南アジアで日本軍の捕虜となり、熱帯雨林を切り開く鉄道建設に酷使されたある軍医の人生を描く。
 小説では日本軍将校や看守が虐待を繰り返す。食料も満足に与えられず、労働を強いられるオーストラリア人兵士たち。弱った捕虜を殴打する日本の看守。極限の状況が展開される。
 作者のリチャード・フラナガンさんはオーストラリアを代表する作家だ。「奥のほそ道」の執筆には12年の歳月をかけて試行錯誤を重ねたという。
 今の時代にこの本が世に出た意味を考える必要がある。
「死の鉄路」での体験
 50代のフラナガンさんは戦争体験がない。だが父親は日本軍の捕虜となり、労働力として酷使された。タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ「泰緬(たいめん)鉄道」の建設現場である。
 工事には連合国軍の捕虜約6万人が動員され、オーストラリア人は約3千人が亡くなった。マラリアやコレラがまん延し、「死の鉄路」と呼ばれた地獄から生還した父親の体験が、物語の下敷きになっている。
 生前、父親は戦争を語る時、看守への恨みを吐露した。顔を何度も「ビンタ」され、同僚は殴られて絶命したという。
 今の日本は友好国だが、当時の日本人はどのような人たちだったのか。それを知りたくて東南アジアや日本を訪ねた。芭蕉が歩んだ旅路のように、長くて細い道のりとなった。
 人生の大切なものが戦争で失われる。作品では、敵味方を問わず、運命に翻弄(ほんろう)される人の弱さ、悲しさを掘り下げた。
 当時の日本軍では、上官の命令は絶対だ。物資も人手もない中で鉄道の早期完成を迫られた現場の将校は、追い詰められて薬物に手を染める。日本民族の優秀さをたたえ、精神論を振りかざして、捕虜をこき使う。
 人間性を失っていく将校が支えとするのは、芭蕉や小林一茶らの俳句だ。文人らしい教養と冷酷な振る舞いの落差が、戦争の不条理さを際立たせる。
戦後世代が問い直す
 神戸に長く住む50代のオーストラリア人女性は、この本を読んで感銘を受けたと話す。虐待を受けた側だけでなく、日本人の側からも戦争の実像を捉えていると考えるからだ。
 フラナガンさんと同じ戦後生まれだが、日本軍の捕虜虐待は自国では世代を超えて知られる事実だ。女性の父親は「無抵抗の日本兵を撃つなど、こちらもひどいことをした」と話していた。しかし、日本人を許せない戦争体験者も少なくない。
 おじもその一人で、収容所で爪の下に竹を刺すなどの暴行を受け、殴打された傷痕が背中に残る。女性が日本の男性と結婚する時には強く反対した。
 「被害感情が強い時期には、こういう小説は書けなかったでしょう。時間がたってオーストラリアも変わった。許すことはできなくても、理解しようとする力が、今はあると思う」
 初めて日本に来た時は広島に住み、被爆者の話を聞いて原爆の実情を知った。今は「どの国の人も残虐行為に無罪ではありえない」と考えている。
 飜って日本の状況はどうか。
 捕虜虐待の事実どころか、オーストラリアと戦ったことも多くの人は知らない。戦争中、兵庫県でも捕虜収容所が神戸、姫路などに設けられたが、そこでの過酷な労働の歴史も理解されているとは言いがたい。
 欧米では近年、戦後世代が戦争を自分たちの目で見つめ直す動きが続く。「奥のほそ道」もそうした流れの中にある。
 日本では、捕虜となった米兵の苦難を描いたハリウッド映画が「反日」と批判され、劇場公開が1年以上も遅れたことがある。これでは他国との隔たりは大きくなるばかりだ。
 対話を拒まず、自分たちも答えを探す。戦後世代が過去をたどる「ほそ道」を、日本でも切り開きたい。ともに歩む、未来への入り口とするために。


終戦記念日 揺るぎない平和を未来へ
 太平洋戦争の敗戦からきょうで73年を迎えた。
 おびただしい数の命を奪った戦争の記憶と平和の尊さを継承する。その覚悟を新たにしたい。
 いま、平和を脅かすような動きが日本の内外で目立っている。
 米トランプ政権の自国第一主義が国際秩序をかき乱し、国同士の対立を助長している。
 防衛力の増強に余念がない安倍晋三政権は、国民統制色の濃い政策を推し進める構えだ。
 そんな安倍首相の主張に呼応し、憲法9条を変えようとする国会議員が増えている。
 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起(おこ)ることのないやうにする」。それが憲法前文に記された日本の意思である。
 政府の行き過ぎを止められるのは国民の力だ。平和を守る決意を固め直し、戦争のない世界へと主導する役割を果たしていきたい。
■安定乱す事象次々と
 「戦後」が「戦前」に変わらないとも限らない。そう思わざるを得ないような出来事が目立つ。
 トランプ大統領は「貿易戦争」を明言し、中国や欧州からの輸入品への高関税を発動した。
 戦前、米国が自国産業保護のために導入したスムート・ホーリー法を彷彿(ほうふつ)させる。各国はブロック経済化と通貨安競争に走り、世界経済は収縮、不況が第2次世界大戦の一因となった。
 日本では4月、自衛官が野党の国会議員に「国益を損なう」「ばか」と暴言を放った。戦前に青年将校が「国民の敵」と書いた紙をまき、首相官邸を襲撃した五・一五事件にどこか似ていないか。
 文民統制の緩みは明らかだ。にもかかわらず、懲戒には至らない甘い処分となった。
 こうした事象が戦争に直結するとは限らない。だが、戦後培われてきた安定を乱す行いを止められないことに不安を禁じ得ない。
 侵略や植民地支配に対するわだかまりをアジア諸国に残したまま、2年後の東京五輪に向けた高揚感に包まれている。それがいまの日本の姿ではないか。
■理解に苦しむ改憲論
 安倍首相は自民党の改憲案を次の国会に提出すべきだとの考えを表明した。
 自民党憲法改正推進本部は「9条に自衛隊を明記する意見が党内の大勢」としたが、最終結論には至っていない。9条2項を削除して自衛隊を「戦力」と位置づける全面改定を目指す意見もある。
 来月行われる総裁選の争点となりそうだ。
 戦後一貫して日本の平和主義の根幹をなしてきた憲法9条を、なぜいま変えなければならないのか、理解に苦しむ。
 緊急時に国民の権利を制限する緊急事態条項が改憲案に含まれていることも気がかりだ。
 政権は、国民の目と耳をふさぐ特定秘密保護法を制定した上で、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈の変更を行った。その上で、国民の口を閉ざす「共謀罪」法を新設している。
 改憲の動きは、その延長線上にあると考えざるを得ない。
 よもや戦争を始めたいわけではあるまい。しかし、安倍政権の一連の政策からは、もしもに備えて日本を戦争ができる国にしておこうという意図が見て取れる。
 戦争放棄を内外に宣言した日本がとるべき政策ではない。
■貧困や差別の解消を
 森友・加計問題で明らかになったのは、「安倍1強」下で首相の意向を忖度(そんたく)し、国民を代表する国会を欺くこともいとわない行政府の傲慢(ごうまん)な姿だ。
 与党は真相解明に及び腰で、野党の力不足は目を覆うばかりだ。
 戦後積み重ねられてきた議会制民主主義が危機に直面している。
 安全保障関連法に反対を訴え、後に解散した若者グループSEALDs(シールズ)の奥田愛基(あき)さんは、2015年の参院特別委中央公聴会でこう訴えた。
 「若者がこれから生きていく世界は相対的貧困が5人に1人という超格差社会で、今こそ政治の力が必要です。どうかこれ以上政治に絶望してしまうような議会運営をするのはやめてください」
 与野党の国会議員はこの言葉を強くかみしめるべきである。
 女性を不当に差別する東京医科大の入試の実態が明らかになった。自民党の杉田水脈(みお)衆院議員がLGBTなど性的少数者を「生産性がない」と切り捨てた。
 戦争がなければ平和だとは言い切れない。ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏によれば、貧困や差別もない状態を「積極的平和」と呼ぶという。目指すべきはそこではないか。
 力に頼らず、話し合いの中から解決策を見出し、平和の上に繁栄を築く。そうした、日本なればこその構想力が問われている。


「終戦」73年 沖縄の8・15を見つめる
 73回目の終戦記念日を迎えた。今年も6月23日の慰霊の日、8月6、9日の広島・長崎の原爆の日に、不戦平和の誓いを新たにしてきた。きょう8月15日は沖縄にとってどのような意味があるのか、改めて考える。
 本紙が2005年8月15日に発行した「沖縄戦新聞」第13号は73年前のきょう、1945年8月15日前後の人々の姿を多角的に紹介している。
 14日の日本のポツダム宣言受諾を受けて、米軍は16カ所の収容所の住民代表124人を石川地区(現うるま市石川)に集め、米軍の諮問機関として沖縄諮詢(しじゅん)会を設立すると表明した。20日に15人の委員によって正式に発足し、半年間にわたって中央政府の準備に当たった。ここで戦後沖縄の住民自治が胎動し、米軍統治との対峙(たいじ)も始まった。
 収容所では栄養失調やマラリアで命を落とした人が多かった。住民の大半が収容所に入れられる一方で、敗戦を知らずに南部のガマに隠れ続けていた人々も多くいた。
 避難民が身を潜めた北部の山中では、散発的な戦闘が続いていた。久米島では住民が日本軍にスパイ視され虐殺される事件が18日、20日に相次いで起こった。
 基地建設が進められた沖縄本島と異なり民生が顧みられなかった離島では、治安や食料確保などの苦闘があった。
 県外、国外にも沖縄出身者はいた。九州に疎開していた子どもたち。開拓団として満州(中国東北部)にいた人たち。日本の植民地、台湾にいた人たち。米軍の捕虜としてハワイ、サイパン、フィリピンにいた人たち。それぞれの場所で敗戦を知り、すぐに戦後の苦難が始まった。
 終戦というと、昭和天皇が詔書を読み上げた玉音放送がイメージとしてよく使われる。しかし、これは沖縄には通用しない。
 本土防衛の捨て石とされた沖縄戦で焦土と化し、住民の4人に1人が命を落とした。その後は広大な基地が建設されて軍事要塞(ようさい)と化し、50年代には本土から基地が移されて来た。今また、県民の大多数の反対を押し切って名護市辺野古への新基地建設が強行されている。
 現在に至るこのような歴史が示すのは、沖縄には真の意味での「終戦」はなかったということだ。沖縄の作家、目取真俊氏が指摘するように、沖縄は「戦後ゼロ年」のままなのである。
 「戦後ゼロ年」の歳月の中で、沖縄の人々は1968年に主席公選を実現し、72年に平和憲法下の日本への復帰を成し遂げた。しかし、復帰した日本では今、平和憲法の空洞化が進み、改憲を望む勢力が国会の多数を占めている。平和憲法の破壊を許すわけにいかない。
 悲惨な沖縄戦を体験した沖縄県民にとって8月15日の意味は格別に重い。不戦を誓い、平和希求の決意を新たにしたい。


終戦の日に考える 平和をつくるために
 きょう八月十五日は戦没者の方々を追悼する日であり、また同時にどうしたら戦争をなくせるかを考える日でもあるでしょう。二つの事例を引こう。
 一つめは、核兵器に関することである。
 英国とアルゼンチンが戦ったフォークランド紛争ではこんなことがあったという。
 英国の駆逐艦、シェフィールドが、アルゼンチン軍の発射したフランス製ミサイル・エグゾセで撃沈された数日後の一九八二年五月七日、フランスのミッテラン大統領はサッチャー英首相から電話をもらったそうだ。
◆核持つ国の絶対優位
 ミッテラン氏はかかりつけの精神分析医アリ・マグディ氏のところへ予約より遅れて到着し、言い訳した。
 <すみません、先生。鉄のご婦人との諍(いさか)いを収めねばならなかったもので。我々がアルゼンチンに売却したミサイルのレーダーを無効化するコードを渡さなければ、四隻の原潜でアルゼンチンを核攻撃すると脅すんですから…核戦争を引き起こすなんて。私は引き下がりましたよ>(東京大学出版会UP4月号、長谷部恭男氏「巡洋艦ベルグラーノ撃沈 一九八二年五月二日」より要約)
 精神分析医の著作(日誌)にある話で電話の有無、内容は間接情報であって真偽はわからないが、ありえる話である。
 そうだとすれば、核兵器は実際には使わないにせよ、核の力をもって英国は戦争を有利に導いたことになる。
 過去の話にせよ、核の威力は絶大で、核保有国は非核保有国に対し絶対的優位にあるわけだ。
 その威力は少なからぬ国々にひそかに核を持ちたいと願わせ、実際に保有国を誕生させた。
◆反核のうねり始まる
 北朝鮮もその一つである。核の威力をもってアメリカを振り向かせ、独裁体制の保証という果実を得ようとしている。
 それと正反対の世界的動向が非核保有国が集まって進める核兵器禁止条約である。核兵器の開発・保有・使用などを法的に禁止し、昨年国連で採択された。ただし各国の批准は進んでいない。
 それでも核兵器に対する人々の考え方は、徐々に変わってきているのではないか。持つ・持たないの不公平、非人道性への倫理的拒絶、人類の破滅。サッチャー氏の逸話などは過去のものとし、核時代を非核の時代へと反転させる意思を世界は持つべきだ。そのうねりは始まっている。
 もう一つは、私たち自身のことである。
 敗戦の後、憲法九条をマッカーサー司令官とともにつくったとされる首相幣原喜重郎は回想している。一九〇五年九月、日露戦争の講和直後のこと。
 ロシアから賠償金もとれなかった講和を屈辱外交と非難する東京・日比谷の大会から流れた人々が、政府への反発から交番、電車を焼き打ちし新聞社も襲った。実際は政府には戦争継続の力はもはやなく、一方国民は徴兵と戦費のための増税で苦しんでいた。
 当時幣原は外務省勤務で、講和全権の外相小村寿太郎から以下の述懐を聞いている。
 小村には国民の反発は予期の通りだったが、故郷宮崎県飫肥(おび)の村に帰って驚いたそうだ。各所に小さなテーブルが出て酒が一杯ついである。小村の酒好きは知られている。一人の老人が小村の前にやってきて言った。
 「東京では大騒ぎしたそうですが、騒ぐ奴(やつ)らは、自分の子供を戦争にやった者ではありません。私は子供が三人あり、そのうち二人は満州で戦死し、残った一人も戦地におります。みんな犠牲になるものと諦めておりましたが、お陰(かげ)で一人だけは無事に帰って来ることと思います。全くあなたのお陰でございます」
 老人は戦争を終わらせた小村の洋服にすがって泣き、同じ光景が二、三あったという(幣原喜重郎「外交五十年」より)。
 外交官の苦悩が語られ、同時に戦争のもたらす根源的な悲しみが語られている。
◆危うい耳に心地よい話
 戦争は政府にとっては政治であり勝敗であるのだろうが、家族や個人には人の生死でしかない。
 国家を主語とした威勢のいい話は一時耳に心地よいかもしれないが、注意せねばならない。近隣国への反感をあおる政治家の言葉はよく聞き分けねばならない。
 戦争より外交である。武力より対話である。
 戦争が多くの人の命を奪うのなら、外交は多くの人の命を救うといってもいい。
 何も理想を言っているわけではない。反戦は普通の人々の現実である。国家を平和へと向けさせるのは私たちの判断と意思である。


終戦記念日/歴史の教訓を生かす知恵を
 終戦直後、歌人の土岐善麿は<あなたは勝つものと思つてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ>という歌を作っている。勝つ自信はともかく、勝利を願う思いは当時の国民に共通であった。歌ににじむのは悔恨の念だ。
 開戦時、勇ましい歌をこの人は詠んだ。<許しがたき不遜無礼を今こそは実力のもとに撃ちのめすべし>。斎藤茂吉ら他の著名な歌人たちもまた、熱に浮かされたように同様の作品を残している。
 二・二六事件に共感を寄せた女流の斎藤史でさえ例外ではなかった。時代の熱狂がそうさせたのだろう。作家の五木寛之氏は当時を「国民は戦争のサポーターであった」とスポーツに例えて最近の対談で回顧している。
 開戦から敗戦、そして戦後の歩みをつまびらかに知る現在の目から振り返れば、歴史の分岐点における国家の選択の誤りは明白だ。しかし、どんな時代であれ、人々は指導者も一般の国民も時代と格闘しつつ懸命に生きたのだ。
 歴史に対するそうした当然の敬意を失うことなく、現代という高みから過去を見はるかすのでもない。謙虚な態度で、失敗から教訓をくみ取る努力をわれわれは不断に続けなければならない。
 最近の歴史研究などを参照すれば、戦争を回避する手だてがあった事実が浮かぶ。日米開戦を前に、当時の一線の経済学者が軍の委託でまとめた戦争経済に関する報告書でも、日本の致命的な敗北を高い確率で予測していた。
 それでも政府は日本を巡る国際情勢の楽観的な展開を予想し、それを頼りに開戦へと進む。新聞をはじめ強硬な世論も後押しした。過ぎてみれば、米ソ冷戦へと不可避的に動きだす時代まで少し待つ選択肢もあった。
 一方、近時、主として米国で公開された新たな文書などによって、米国が日本との戦争を願っていた事実は疑いようもなくなっている。当時の米政権は、共産主義に共感してソ連と通じていた一部高官によって操られていた驚くべき史実も判明している。
 第2次世界大戦によって日本はあくまで概数だが、約310万人の死者を出した。このうちの約80万人は非戦闘員である一般国民の死者だ。空襲、艦砲射撃、沖縄戦、原爆投下、旧満州からの引き揚げ時など、むごたらしい犠牲を数限りなく生んだ。
 被害ばかりではない。忘れてならないのは、加害者としての視点だ。戦争相手国もまた、莫大(ばくだい)な経済的な損失、癒やしがたい人的被害を同様に受けている事実は、改めて指摘するまでもない。
 戦後73年間、日本は平和と繁栄を享受してきた。歴史学の新たな知見によって過去の実相が明らかになる中で、冷静な洞察の上に立って教訓を生かしていく。戦争の辛酸をなめた先人に対する私たちのそれが義務でもあろう。


河北春秋
 晴天の日だった。頭に戦闘帽、足にスキー靴。1945年8月15日、花森安治さんはそんな格好で玉音放送を聞いた。「戦争に行かなくて済んだ。死なずに済んだ」。心からほっとした▼東京・銀座の焼け野原に腰掛け、戦争をしないためにどうすればいいかを考えた。「暮らしをもっとみんなが大事にしたら、暮らしを破壊するものに反対するんじゃないか」。そう思い至った(『花森安治の従軍手(て)帖(ちょう)』)。この考えが自身が編集長を務め、3年後に発刊する雑誌『暮しの手帖』の原点になった▼花森さんらが読者の戦争体験記を集め、49年前に出した『戦争中の暮しの記録』という本がある。増刷を重ねるこの本の続編『戦中・戦後の暮しの記録』が先月、出版された。戦時中に子どもだった70〜80代を中心にした読者から寄せられた体験記や聞き書き計2390点から157点を厳選している▼どの手記も一文一文に魂がこもる。婚約者との永遠の別れ、集団自決で九死に一生を得た女性、戦争孤児の集団…。満州にいた人々は8月15日に地獄の日々が始まった▼共通するのは「戦争は二度と繰り返すな」という思い。教科書の用語や数字を暗記するだけでは本当の歴史は分からない。近頃は政治家や有識者の言動も怪しい。真実は庶民の声の中にある。

終戦の日 「不戦の力」で平和主導を
 平和の尊さと戦争の愚かさ−。日本の近現代史の光と影を見つめるとき、私たちは今、特別な価値を帯びた時代を生きています。
 「平成」。この時代が体現した日本国憲法の理念、平和国家としての営みを次の時代、世代へとつないでいく。その使命を背負うのもまた私たちです。
 終戦から今日で73年、平成で迎える最後の「8・15」に当たり、“国のかたち”と報道の使命を改めて見据えたいと思います。
 ●文化や宗教を超えて
 アフガニスタン。戦争や内乱で荒廃し、干ばつで砂漠化した大地で今、水と緑がよみがえり、多くの命が救われています。
 福岡市の「ペシャワール会」現地代表の中村哲さん(71)らが2003年から進める用水路建設(緑の大地計画)の成果です。
 「武器より命の水を」。隣国パキスタンでの医療支援に端を発した活動は本紙でも度々紹介しています。そこで中村さんは現憲法の価値を繰り返し強調しています。
 日本が「不戦」を国是とすること。それが現地の人々に信頼感をもたらし、長年の活動の後ろ盾になっている、という実感です。
 その憲法に照らすと、1989年1月8日に始まる平成は、天皇が憲法の下で初めて「国民の象徴」として即位し、国家が一度も戦争の過ちを犯さなかった時代といえます。明治、大正、昭和の激動期とは明らかに異なります。
 「文化、宗教、信念が異なろうと、大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない」
 91年に63歳で女性初、またアジア出身で初の国連難民高等弁務官に就任し、10年にわたって紛争の地を駆け巡った緒方貞子さん(90)の姿も忘れられません。
 国連の取り組みを改革し、アフガンを含めた各地で難民を救済、後に国際協力機構(JICA)理事長としても活躍しました。
 立場は異なるものの、中村さんの姿と併せて、平成は日本が非軍事分野で世界に貢献する姿を印象づけた時代でもあります。
 ●「人間の安全保障」へ
 「いよいよ憲法改正に取り組むべき時が来た」
 安倍晋三首相は先日、自民党総裁3選・首相続投に向けて自衛隊の存在を憲法に明記する改憲の必要性を改めて訴えました。
 集団的自衛権の行使を容認し、自衛隊の活動領域を全世界に広げた安全保障法制に、屋上屋を架すかのようです。武器輸出緩和や防衛装備増強なども含め、「積極的平和主義」の名の下で歴史の歯車が後戻りしていないでしょうか。
 国際情勢は確かに変容しています。89年は大きな分岐点でした。
「ベルリンの壁」崩壊です。東西冷戦終結後、各地では民族紛争などが多発し、テロや難民問題が深刻化しています。さらに地球規模で広がる気候変動や感染症への対策なども課題になっています。
 そこでは国家の枠を超えた「人間の安全保障」が叫ばれ、武力の根絶こそが求められています。であれば、平和憲法を持つ日本こそがその流れを主導すべきです。
 安倍首相が「強い日本を取り戻す」と意気込めば、中国の習近平国家主席が「偉大なる中華民族の復興」を唱え、トランプ大統領が「米国を再び偉大な国へ」と叫び…。大国の指導者がそろって内向きのスローガンを掲げる姿は、グローバリズムとは裏腹にナショナリズムの再来を想起させます。
 ●「戦争」はなお身近に
 1億491万6千人。この数字をご存じでしょうか。
 日本の総人口のうち、戦後に生まれた人の数(総務省推計、昨年10月1日現在確定値)です。総人口の82・8%に上ります。
 長寿の恩恵によって65歳以上の人口(3515万2千人)は膨らんでいるものの、ざっと計算すると、うち4割近くは戦後世代です。つまり「戦争を知らない高齢者」が年々増えています。
 元号別では平成生まれが3244万7千人に達し、総人口の4分の1を超えました。明治・大正生まれはわずか1・3%(170万7千人)まで減少しました。
 消えゆく戦禍の記憶を世代から世代へとつなぎ、不戦の誓いを守り抜いていく。そして為政者の独善、暴走を許さぬよう政治を監視していく。過去に悲劇の片棒を担いだメディアの役割が厳しく問われていることも事実です。
 戦争は“歴史上の遺物”ではありません。むしろ今もさまざまに形を変えながら私たちのそばに忍び寄っている−。そのことを胸に刻み、ペンを握り続けます。


終戦の日  反省と鎮魂どう引き継ぐか
 終戦の日を契機に、今年に入って亡くなった方々のお名前を、思いつくまま挙げてみよう。
 1月は元官房長官で京都ゆかりの野中広務さん。2月は俳人の金子兜太さん、そして先月は演出家の浅利慶太さん。
 いずれも発信力が強く、戦争のことを語っていた。
 順番は前後するが、98歳で亡くなった金子さんはあの夏、兵士だった。
 海軍主計中尉として赴任した南洋のトラック島で、部隊が孤立。食べるものがなく、仲間は非業の死を遂げた。
 <水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>との句を残す。引き揚げ後は、平和運動にも注力した。
 92歳の野中さんは、大戦末期の沖縄戦で散った特攻隊員と、ほぼ同世代である。応召した高知県で終戦を迎えた。
 自衛隊の海外派遣など政治の節目に「戦争を知らんから、そんなことができるのだ」と訴えた。
 85歳の浅利さんは2人より若く、空襲と疎開を経験した世代である。天皇陛下と同じ、1933(昭和8)年に生まれた。
 風化と形骸化が心配
 戦時中を生きた人たちが、次々といなくなっている。そのことを身に染みて実感する。
 そして来年、陛下は退位され、政府主催の全国戦没者追悼式でこれまで通りに、お言葉を述べることもないだろう。
 戦争の記憶は風化し、徐々に語り継がれなくなっていくのではないか。終戦の日、反省と鎮魂の思いを込めた厳粛な行事も、形骸化してしまわないか。それはよくないと、誰もが考えよう。
 陛下は昨年の追悼式で、「深い反省とともに、戦争の惨禍が繰り返されないことを切に願う」と述べられた。
 「深い反省」との文言は3年連続で盛り込まれた。まずは、引き継いでおくべきものであろう。
 「ものぐさ精神分析」などの著作で知られる岸田秀さんも、昭和8年生まれである。
 40年以上前の「日本近代を精神分析する」との評論で、幕末のペリー来航時に日本国民は本音は攘夷(じょうい)なのに開国を選択し、矛盾する心情を抱えたとする。
 その後の米英に対する宣戦布告は、まさしくその発露であり、国民自身における分裂状態への反省を欠くならば、再び同じ失敗を犯す危険があろう、とした。
 あくまで分析ではあるが、史実と戦時中の空気を踏まえており、今日でも説得力を持つ。
 国会の勢力分野が、憲法改正を発議できる状況となっている。前のめりとされる姿勢を取り続ける向きもある。改めて、頭に置いておきたい指摘といえよう。
 陛下は、終戦の日と広島、長崎への原爆投下日、沖縄慰霊の日を「忘れてはならない四つの日」として毎年黙とうをささげ、被災地や太平洋の激戦地に赴いて、すべての犠牲者を悼んできた。
 これもまた、平成が終わり、次の時代になったとしても、引き継ぐべきものだ。
 哀悼われわれの手で
 浅利さんは、海外のミュージカルの翻訳、上演に取り組む一方で、オリジナル作品も発表した。代表作は、「南十字星」「異国の丘」「李香蘭」という昭和の歴史3部作で、いずれも戦争をテーマにしている。
 パンフレットに、こうある。念頭に置いたのは、戦争の深い傷が日本の社会から忘れ去られようとしていることである。死んでいった圧倒的な数の兵たち、市民たちはみなわれわれの兄姉、父母の世代である。平和は、あの人たちの悲しみの果てにもたらされた。哀悼と挽歌(ばんか)は、われわれの手で奏でなければならない。
 観劇した若い人にどう伝わっているのか、知りたいところだ。
 昨年の追悼式には、対象となる約310万人の遺族約5千人が参列した。このうち、犠牲者の妻は過去最少の6人だった。
 最高齢は101歳で、戦死した夫を「いい人だった」と話す。陸軍の上司からの手紙に、銃撃された後、手りゅう弾で自決したとあった、と明かした。
 一方で、孫ら戦後生まれの参列者が、4分の1を占めるようになった。最年少の6歳が悼んでいたのは、顔を合わせたこともない曽祖父であった。
 演繹は事実ゆがめる
 世代間のギャップを、埋めていく必要があろう。
 浅利さんは、あの戦争を総括するには、まだ時代が早いという意見に耳を傾ける、としていた。
 75年生まれ、気鋭の政治学者である中島岳志さんは近著「保守と大東亜戦争」で、戦中派の保守論客は超国家主義的な考えとは相いれず、戦争には極めて懐疑的な見方を示していた、と述べる。新たな視点となるのかもしれない。
 論客の一人、名作「ビルマの竪琴(たてごと)」を書いた竹山道雄さんは、主義主張に伴い既定の前提から発する「上からの演繹(えんえき)」は、論理によって事実をゆがめる、と主張したと紹介されている。世代を超えて物事を引き継ぐには、謙虚な姿勢で事実を積み重ね、まっとうな判断をするしかないだろう。


終戦の日 平和実現へ積極的行動を
 日本が焼け野原となった先の大戦終結から73年。約310万人の戦争犠牲者を慰霊し、平和を誓う終戦の日を迎えた。
 東京では遺族や天皇、皇后両陛下、安倍晋三首相、各界代表者らが参列して平成最後の全国戦没者追悼式が開かれる。
 敗戦後、戦争放棄を掲げる憲法の下で日本は驚異的な復興と経済発展を遂げた。さまざまなひずみを抱えながらも、人々は戦渦に巻き込まれることなく生活してきた。
 だが、戦後70年余りを経た今、世界には多数の核兵器と、情勢が不安定な地域が存在する。
 国内では、集団的自衛権行使を可能にした法制定に続き、9月の自民党総裁選後には、首相が悲願とする憲法改正への動きが強まるとみられる。「不戦」の時代に影が差す中、政府には平和を守ることが戦争による甚大な犠牲の最大の教訓と認識し、核兵器と武力による争いの根絶へ積極的に行動するよう望む。
 今年の戦没者追悼式では、来年退位の天皇陛下が最後の出席をされ、お言葉を述べる。平成が始まった1989年1月、陛下は即位宣言後、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓う」と憲法順守の決意を明言、「世界の平和、人類福祉の増進を希望してやまない」と語られた。その言葉は、多くの国民の心情に寄り添うようだった。
 安倍首相は憲法9条に自衛隊を明記する改憲案を主張する。最近も総裁選や秋の臨時国会で改憲議論を加速させたい意向を示した。国民は改憲、護憲の動向を注視する必要がある。
 一方、米トランプ政権は小型核導入を打ち出すなど前政権の「核なき世界」から方向転換した。イランなどへの強硬姿勢も緊張を高めている。
 広島、長崎の原爆被爆者らは政府に、国連で採択された核兵器禁止条約への参加を求め、グテレス国連事務総長も長崎で核戦争の恐怖を訴えた。これに対し首相は、条約は現実を踏まえていないと不参加の立場を表明し、核保有国と非保有国の橋渡しをするとした。しかし、政府が核廃絶のため努力する姿は見えてこない。唯一の被爆国の責務として、核廃絶に向けた指導力を発揮してもらいたい。
 殺りく、破壊、飢えという戦争の現実を実体験した日本人は年々減り、遠い過去の出来事と受け止める人も少なくない。広島と長崎の被爆遺構、沖縄戦の戦跡をはじめ各地に戦いの爪痕が残る。夏休みに「戦争遺跡」を訪ね、当時に思いを巡らせてはどうだろうか。


終戦から73年 地上イージスは必要か
 終戦から73年を迎えた。平成では最後の終戦の日である。約310万人もの犠牲者を出した歴史を学び、平和を享受できていることに感謝し、同じ過ちを二度と繰り返すことのないよう考える一日である。
 平和の尊さを考えるこの日に、政府が秋田市の陸上自衛隊新屋演習場に配備を計画している迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」(地上イージス)についてあらためて考えたい。
 地上イージスは、北朝鮮に対する弾道ミサイル防衛(BMD)の強化策として政府が導入を決めた。日本のBMDは、海上自衛隊のイージス艦に搭載する海上配備型迎撃ミサイル(SM3)と航空自衛隊の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)の二段構えで、地上イージスはイージス艦を補完する役割を持つ。
 国の防衛、安全保障の観点から地上イージスの配備を検討することは必要である。しかしその前提となるのは配備先の住民の安全確保、不安の解消である。住民の合意なしに強引に配備が進められることがあっては絶対にならない。
 新屋演習場は住宅地や小中学校、高校と隣接している。なぜこうした環境にある場所が候補地として選ばれたのか。レーダーから発せられる電磁波の影響はないのか。そんな疑問が地元住民から出ているのは当然である。県や秋田市の質問状に対する政府の回答や住民説明会での対応を見る限り、住民の不安や疑問に十分に答えているとは言い難い。
 一方、国際情勢に目を向ければ、導入を決定した昨年12月時点では北朝鮮が新型大陸間弾道ミサイルを発射するなど緊張が高まっていた。それが南北首脳会談、米朝首脳会談で情勢は大きく変化した。北朝鮮が非核化を実現するかは不透明ではあるが、昨年末よりは緊張は緩和されている。
 政府もこうした情勢を受けて、イージス艦の日本海での常時展開を取りやめ、中四国や北海道の陸上自衛隊駐屯地に展開した地対空誘導弾パトリオット部隊を撤収した。警戒態勢を縮小する一方で、地上イージスを導入する。政府の対応は矛盾していると言わざるを得ない。
 導入費用も膨らんでいる。昨年末時点では1基1千億円弱と見込んでいたが、現在は2基で約2680億円とされ30年間の維持や運用経費を合わせると約4664億円となっている。2023年度の運用開始見込みも、米側の提案で24年度以降にずれ込む可能性が出ている。
 政府にあらためて問いたい。それでも北朝鮮の脅威は変わっていないとして、地上イージスの配備は必要であり、急がなくてはならないのか。さらにはなぜ新屋演習場なのか。
 政府には新屋地区の住民はもちろん、秋田市民、県民に対して納得できる説明を求めたい。それなしにこの問題が前進することはあり得ない。


終戦の日 心に「平和」「命」の軸を
 きょうは平成最後の「終戦の日」。本紙声欄の「戦後73年」特集には50通近い投稿が寄せられた。投稿数自体は減少傾向にあるが、何度も苦心して書き直した文面は重みを増し、もどかしさが高まっているように感じられる。
 薄れゆく幼少期の記憶をなかなか呼び起こせない。この生々しい痛みの経験を確実に次代に伝えたいが、明快な答えが出ないまま焦りばかり募る。そんな中、「戦争を知らない政治家」による改憲の動き。もどかしさには、いくつもの要因があるだろう。
 戦後日本を貫いてきた「平和の希求」という太い軸が、先細っている。「戦争体験者がいなくなる日」が現実のものとして迫っている。
 世界に目を転じれば、昨夏以来、核廃絶に向け希望が生まれた。核兵器禁止条約が国連で採択され、その原動力となった「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受賞。にもかかわらず、核保有国も日本も条約への参加を拒んでいる。
 この、もどかしい現状を少しずつでも変えていくため、どうあればいいか。まずは、私たち一人一人の心の中に、ぶれない「平和」の軸を据え続けることだ。体験者の「声」を継承する取り組みに、さらなる力を入れたい。
 そして、もう1本のぶれない軸を心に据え付けたい。それは「命」の軸だ。
 「役に立つ」ことが最優先される価値観の下、幾多の命が排斥された。特に戦時中、障害者ら社会的弱者にとってどれだけ過酷な時代だったかは、あまり知られていない。
 戦争の役に立たない「ごくつぶし」「非国民」とののしられ、防空演習に参加できないからと隣組の責任者から配給米差し止めの嫌がらせを受け、「お国の役にも立てぬ子を産んだ親」と白眼視され…。秋元波留夫、清水寛著「忘れられた歴史はくり返す」(2006年)には、数々の事例が紹介されている。
 戦後になると、経済成長の「役に立つ」ことが重視されるようになる。1948年に「不良な子孫の出生防止」を掲げた旧優生保護法が施行。「もはや戦後ではない」(56年度「経済白書」)と経済大国へまい進していた50〜60年代に、障害者らの強制不妊手術件数がピークを迎えたことは、偶然の一致ではない。
 こうした尺度は今なお根強い。先月、自民党の杉田水脈衆院議員が月刊誌への寄稿で、性的少数者のカップルについて「『生産性』がない」と主張。党内から擁護する声すら上がる。
 命を軽んじてきた歴史に学ぶべきだ。自国の多様な存在を尊重できなければ、他国の人々の命の重みに思いをはせることもできまい。


終戦の日に 若者たちが平和をつなぐ
 終戦記念日が巡ってきた。平和国家日本がその出発点に立ってからことしで73年、平成では最後の記念日になる。
 先の大戦では国家が国民を無謀な戦いに引きずり込み、アジア諸国に多大な犠牲を強いた。
 前線に駆り出された国民の多くは亡くなり、広島、長崎への原爆投下や相次ぐ空襲で大勢の命が奪われた。戦争で人生を断ち切られた300万人余りの悲劇の上に、私たちの暮らしはある。
 改めて歴史に思いをはせ、平和の重みをかみ締めたい。
◆過去の教訓を未来へ
 昭和から平成へと続いてきた戦後は、長い時を刻んだ。戦時の実情を身をもって知る人は減り続ける一方である。
 それと歩調を合わせるかのように、戦後築き上げてきた平和の土台はあやしくなっている。
 安倍晋三首相の唐突な提案を機に、平和憲法の核心である9条を巡り「改正ありき」のような議論がくすぶり続ける。
 政府は「唯一の戦争被爆国」を掲げながら、核兵器禁止条約に不参加の態度を崩していない。
 世界に目を転じれば、トランプ米政権の登場以降、自国第一を唱える政治が大手を振ってまかり通っている。
 目の前の平和をこれからも維持していくために、過去の教訓を未来に伝えていく確かな意志を持ち続けなければならない。
 戦争のむごさや愚かさの記憶を薄れさせない。そのことが、過ちを防ぐ第一歩となる。
◆思いを育てる大切さ
 平和を未来につないでいく上でとりわけ期待したいのは、次代を担う若い世代である。
 「核兵器や戦争の恐ろしさを絶対に忘れてはいけない。忘れることは、戦争への道を一歩ずつ踏み出していくこと」
 高田高2年の神谷優李さんは昨年8月、第20代「高校生平和大使」メンバーとしてスイス・ジュネーブの国連欧州本部を訪れ、各国代表を前に英語でスピーチした。
 平和大使はインド、パキスタンが1998年に核実験を強行したのを契機に誕生し、広島と長崎両市の市民団体が募集している。
 毎年国連を訪問し、核兵器廃絶を願う署名を届け、平和への思いを世界に発信してきた。長年の活動が認められ、ことしのノーベル平和賞候補になっている。
 「被爆や戦争の実体験を伝えることはできないけれど、平和のための活動を行ったり、平和について考えるきっかけをつくったりしていきたい」
 帰国後、平和大使の活動経験を学校の内外で紹介してきた神谷さんはこう語る。
 神谷さんが平和について学ぶきっかけは小学5年の時、父親から自由研究のテーマとして憲法を勧められたことだった。
 戦争放棄をうたい、平和憲法の象徴となっている9条が印象に残り、戦争や世界の紛争にも関心を抱いたという。
 神谷さんは、自らの中に芽生えた平和への思いを育てた。感じさせられるのは、子どもや若者の柔らかな感性に「平和とは」と問い掛けることの大切さである。
 平和大使に選ばれた神谷さんは曽祖父が戦時中に直江津捕虜収容所で働いていたのを思い出し、祖母に当時のことを聞いた。
 国連でのスピーチでは曽祖父の話も織り交ぜ、戦争や核兵器への反対を伝えた。被害とともに加害の事実にも目を向け、新しい世代がそれを乗り越える国際関係を築くことが重要とも訴えた。
 ことしも、長岡高2年の佐藤倫花さんが高校生平和大使として活動する。
 平和への強い願いを持ち、行動する若者が増えていけば、未来への希望も膨らんでいく。
◆大人も責任果たそう
 神谷さんの平和への願いは身近にあった戦争の記憶に目を向けさせ、それは国境を越えた。
 「平和について考えるきっかけはいろいろなところにある。記憶の端っこにあるものが、そうなることも」。神谷さんは言う。
 きっかけやそれにつながる機会を積極的に提供することは、大人の側の重要な責任だろう。
 学校での平和教育をはじめ、家庭での対話や地域の取り組みなどを通して、戦争の歴史と平和の大切さを繰り返し伝えたい。
 「73年前の事実を、被爆者の思いを、私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります」
 ことしの広島原爆の日、広島市で開かれた平和記念式典で子ども代表が宣言した「平和への誓い」はこう締めくくられていた。
 命を尊び、互いを尊重し合う。そんな当たり前のことが失われていた時代が、かつてこの国にあった。歴史を胸に刻み、未来の平和を支える若い世代を育てていかなければならない。


戦争の記憶 「分かりたい」思いを胸に
 目が訴えてくる。
 大きな屏風(びょうぶ)画に描かれた被爆者は焼きただれてさまよい、力尽きて折り重なる。目には悲嘆と絶望、時にうつろで憤怒をたたえているように見える。
 埼玉県東松山市にある「原爆の図丸木美術館」を訪ねた。画家の丸木位里(いり)さん、俊(とし)さん夫妻(故人)が共同制作した15部の「原爆の図」のうち、最後の「長崎」を除く14点を常設している。
 終戦から73年。戦時を知る人たちはいよいよ少なくなり、「記憶の継承」が叫ばれている。自らにない体験を、どのように受け継いでいけるだろう。
   <「原爆の図」の前で>
 水墨画家の位里さんが出身地の広島に入ったのは、1945年8月9日という。油彩画家の俊さんもすぐに後を追った。
 2人は1カ月ほど滞在し、爆風と火災で荒廃した街、もだえ苦しむ人々を目の当たりにした。
 夫妻は50年、被爆者たちが破れた皮膚を引きずり両腕を前に差し出す第1部「幽霊」(当時の題は「八月六日」)、真っ赤な炎に包まれる第2部「火」、川辺にはい寄り事切れる第3部「水」を相次いで発表する。
 家族や親戚に話を聞き、原爆投下翌日に撮られた写真なども頼りにして、2人は直後の広島の光景を描き出した。
 連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、広島と長崎の被害の実相は国民に知らされず、原爆の文字を使うのがはばかられるほど検閲が厳しかった。それだけに3部作は反響を呼び、市民の手で各地を巡回する。その後も夫妻は証言を集め、続編を制作した。
 ただ、被爆者から「もっと悲惨だった。この絵はきれい過ぎる」との声が聞かれたという。
   <広がっていく意識>
 人の苦しみに共感するのは簡単なことではない。戦争を持ち出さなくても、原発事故に見舞われた福島を取材する度に実感する。家や仕事を失い、故郷を追われ、家族もばらばらになった住民の心情を理解できたか、読者に伝えられたか、自問せざるを得ない。
 丸木夫妻はどうだったろう。
 55、56年発表の2作品の主題は広島を離れている。54年に米国が太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験を行い、島の住民やマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が死の灰を浴びた。
 第9部「焼津」は、抗議の決意を宿した漁村の民の鋭い眼光が印象に残る。第10部「署名」は、東京都杉並区の母親たちの呼びかけで全国に広がった反核運動のうねりを捉えた。
 原爆の図はここで完結するはずだった。が、証言を聞くうち、見過ごせない日本人の加害の事実を知る。71年の第13部は広島で虐殺された「米兵捕虜の死」を、72年の第14部「からす」では、多数の朝鮮人の死体が被爆地に遺棄された無残を告発した。
 「第10部で終われば、広島から未来につながる『美しい物語』になったかもしれない。丸木夫妻は迷いながら仕事を続け、終わりのないことを意識していた」と、学芸員の岡村幸宣さんは言う。
 美術館の新館には、2人が75年から81年に完成させた四つの巨大な壁画が展示されている。
 「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」「水俣の図」。もう一つは、水俣病、原発建造、成田空港建設を巡り、権力に虐げられる市民を歴史絵巻のように表した「水俣・原発・三里塚」。苦悶(くもん)する無数の人々の目顔は、広島の被爆者と重なる。
 岡村さんは「夫妻は原爆だけを描きたかったのではない。暴力と差別がもたらす人間の痛み、その痛みを負った人たちを支え得る社会のありようを絵に託したのだと思う」と話した。
   <続編は一人一人が>
 位里さんと俊さんの作品群は完結していない。私たちの生きる社会に続編はある。
 「平和利用」のかけ声の結果、福島は核の惨禍にさらされた。沖縄県民は「安全保障」の名目で今も主権を奪われている。
 過労死や自殺が後を絶たず、人と人との関係は薄れて孤立感が深まっている。戦争とは質の異なる暴力に追い詰められ、身近な命が悲鳴を上げている。
 東京や広島、長崎、沖縄で、曽祖父母や祖父母世代の体験を語り継ごうと、3世、4世に当たる若者が多様なアイデアで活動を始めている。心強くはあるものの、戦争の記憶はそうした一部の人たちだけが担い、受け継いでいくものではないはずだ。
 原爆の図をいかに「自分の絵」として見てもらうかが、これからの美術館の課題だという。丸木夫妻の願いをたぐり寄せようとする国内外の人たちの支えで、館は半世紀存続してきた。
 戦時に生きた人々の苦難を共有することはできない。知ったつもりに、寄り添えた気になるより、目の前にある命の問題と交錯させながら、「分かりたい」との思いを持ち続けたい。


平成最後の「終戦の日」 不戦の誓い、かき乱すのは
 平成最後となる73回目の「終戦の日」を迎えた。約310万人もの戦没者を悼むとともに、それだけの犠牲をもたらした歴史を改めて学び、平和と繁栄を継続させるには何が必要なのかを考える日としたい。
 6日の広島、9日の長崎原爆忌では昨年に続き、異様ともいえる光景が繰り返された。平和宣言で核兵器禁止条約への参加、賛同を求めた両市長に対して、安倍晋三首相は核保有国と非保有国との「橋渡し役に努める」としたものの、記者会見では条約への不参加を再度表明した。
 一方、11日に地元の山口で開かれた党の集会では、9月の総裁選への出馬意欲を示し、その中で自衛隊を憲法9条に明記する改憲の実現に「大きな責任を持っている」と強調。翌日の講演では「いつまでも議論を続けるわけにはいかない」と述べ、「スケジュールありきではない」としたこれまでの発言を撤回したかに映る。
 核兵器廃絶を世界に訴え、行動している被爆者たち。その先頭に立つべき、唯一の戦争被爆国の首相が背を向ける。さらに、長崎原爆忌で被爆者代表が「平和への誓い」の中で「憲法9条の精神は、核時代の世界に呼び掛ける誇るべき規範」と評したことなどを一顧だにしていない。平和を祈り、不戦の誓いを新たにすべき時をかき乱すかのような姿勢ではないか。
 首相が改憲を表明した昨年5月の時点では、北朝鮮が日本海に向けてミサイル実験を繰り返し実施。一昨年には尖閣諸島近海に中国の公船・漁船が毎日のように現れる事態があり、日本を取り巻く安全保障環境は大きく変動した。首相の改憲論は、こうした情勢を受けた側面もあるだろう。
 だが、北朝鮮情勢は、6月の米朝首脳会談を機に緊迫の度合いは格段に低くなった。日中関係も融和ムードが高まりつつある。先行きの不透明感は拭えないが、そこを確かなものにしていくのが政治であり、政権の責務である。
 首相は、2015年9月には解釈改憲で集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法を強行成立させ、「戦争ができる国」としての突破口を開いた。次は宿願の改憲をとの考えだろうが、国民の57・6%が首相の下での改憲に「反対」している(5月の共同通信社世論調査)ことを肝に銘じるべきだ。
 悲惨な体験を伝えるはずの被爆者は平均年齢が82歳を超え、戦争を体験した戦前生まれは人口の2割を切った。直接語り継ぐ機会は限られてきている。ただ、被爆地では若者が核兵器の非人道性を訴えようと頑張る姿もある。県内でも戦争の悲惨さを伝えようと、遺族の孫世代で構成する「次世代の会」の立ち上げが続いている。
 きょう行われる全国戦没者追悼式は、来年4月末に退位される天皇陛下にとって最後の式典となる。苦しみながら戦後を生きた国民一人一人に向き合ってこられた陛下が何を語られるのか、耳を傾けたい。


終戦記念日 先人の言葉を胸に刻んで
 73回目の終戦の日を迎えた。先の大戦で犠牲になった約310万人を追悼し、平和への誓いを新たにする日である。来年5月には改元が予定されており、平成最後の終戦記念日となる。時代の変わり目に、あらためて先人の言葉に耳を傾け、胸に刻みたい。
 今年に入り、1月に政治家の野中広務さん、2月に俳人の金子兜太(とうた)さん、5月に絵本作家の加古里子(かこさとし)さんが亡くなった。3人はともに大正生まれである。大正(1912〜26年)生まれの人たちは終戦の年に19歳から33歳だった。青春時代を戦争に奪われ、若くして命を落とした人が多い。生き残った人たちは強烈な戦争体験を胸に戦後を生き、さまざまな言葉を残した。
 加古さんは終戦時に19歳だった。自伝の中で、自分は「死に残り」だったと書いている。中学2年の時に飛行機乗りの軍人になると決心したが、近視が進み、断念した。ともに軍人を目指した同級生たちは敵艦に体当たりをする「特攻」で死んでいった。
 敗戦を境に手のひらを返すように態度を変える大人たちに失望した。戦時中は戦意高揚をうたっていたのに、負けたら反省の一言もなく、今度は民主主義の時代が来たと喜んでいる。しかし、大人だけではなく、自分も浅はかだったと気づいた。
 軍人になるために必要な勉強はするが、歴史など学んでも仕方ないと思っていたが、間違っていた。歴史の流れ、社会の動き、政治経済の問題を知ることこそ必要だった。これからの子どもたちには自分の頭で考え、判断し、行動する賢さを持ってほしい。加古さんはそんな願いを込め、戦後、絵本の道に進んだ。
 近年の政治や社会の状況に、戦前と似たものを感じるとして危機感を訴えた言葉も少なくない。金子さんは2年前に出した自伝の中で「世の中から、自由にものを言える雰囲気が失われているような気がする」と警鐘を鳴らした。戦前も言論統制や思想統制が進み、気がついたら戦争へと進んでいたという。
 自民党幹事長や官房長官などを務めた野中さんは、戦後70年の節目のインタビューで政治家に苦言を呈した。「戦争の本当の残酷さを分からない人たちばかりが政治をやっている。安倍さん(首相)がこの国をどのような方向に持って行こうとしているのかよく分からないのに、正面から党内で意見を述べ、闘いあう勢力が全くいない」
 戦争体験者がいなくなり、平成の時代が終われば、昭和の記憶はさらに遠のくだろう。だが、戦争体験者は文章や映像で多くの言葉を残した。それらを通じて、私たちは戦争を知る努力を続けなければならない。戦争を知るとは、戦争の悲惨さを知ることだけではない。先の戦争はなぜ起きたのか。歴史に学び、考え続ける必要がある。平成の次も、「戦後」と呼べる時代を続けていくために。


終戦の日/記録も記憶も大切に
 平成最後となる戦後73年の「終戦の日」を迎えた。約310万人もの犠牲をもたらした歴史を改めてかみしめ、惨禍を繰り返さぬよう、静かに考える一日である。
 戦後生まれは1億人余りとなり、総人口の8割を超える。悲惨な戦争や被爆体験を風化させないために、先の戦争に関する「記録」や「記憶」を引き継ぐことの大切さを、次の世代に伝えていかなければならない。
 服部卓四郎元陸軍大佐による「大東亜戦争全史」はこう記している。「終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から全陸軍部隊に対し、機密書類焼却の依命通牒(つうちょう)が発せられ、市ケ谷台上における焚書(ふんしょ)の黒煙は八月十四日午後から十六日まで続いた」。重要機密文書の焼却処分は、1945年8月14日の閣議で決めたとされる。
 法相などを務めた故奥野誠亮氏は終戦当時、内務省の事務官として戦争終結処理指令を作成、全国八つの地方総監府を回ってそれを伝達した。生前、指令の中身を「公文書の焼却と軍保管物資の民間への放出が柱だった」と回想したように、公文書の焼却は、軍部だけでなく、他の官庁、地方にも徹底されたという。
 こうした公文書の焼却処分が、日本の近現代史を検証・研究する上で支障をきたしたのは言うまでもない。大きな損失であった。作家の半藤一利さんは、鼎談(ていだん)「『東京裁判』を読む」の中で、軍や官庁にとどまらず、新聞社も資料などを焼却していたことを挙げ、「本当に日本人は歴史に対するしっかりとした責任というものを持たない民族なんですね」と語る。
 だからこそ、2009年に成立した公文書管理法では、真っ先に公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置付け、その適切な保存・管理の目的を「現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすること」と規定した。
 しかし、この国の政治や行政の現場では、73年前をほうふつさせる光景が広がっていないか。森友学園を巡る財務省の決裁文書の改ざん、海外に派遣された自衛隊の日報隠蔽(いんぺい)、そして首相の「腹心の友」が理事長を務める加計学園問題…。国会で政府側が連発したのは、「記憶にない」「(記録は)廃棄した」という答弁だった。
 終戦時も現在も公文書の廃棄や改ざん、隠蔽の意図は共通する。前者は戦争裁判に不利な証拠を残さない、後者は1強政権へのダメージを与えるわけにはいかない、という「保身」だろう。
 だが、公文書の廃棄や改ざんは、歴史を消す行為だ。歴史への冒瀆(ぼうとく)と呼んでもいい。それに手を染める背信の重さを、官僚も政治家も認識していたとはとても言えまい。
 安倍晋三首相は15年の戦後70年談話で「私たち日本人は世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければならない。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任がある」と強調している。
 「記録」や「記憶」をないがしろにすれば、歴史の正確な継承がおぼつかなくなる。平成から新たな時代に向かう変わり目の8月15日、その危うさを、もう一度胸に刻みたい。それが戦争犠牲者への追悼にもつながる。


終戦73年 「いつか来た道」へ戻らぬ誓いを
 73回目の終戦の日を迎えた。きょうまで日本で保たれてきた平和が、戦争の放棄を掲げた憲法の下、先人の不断の努力によって築き上げられたことを改めて心に刻みたい。薄れゆく戦争の記憶を継承し、平和を未来へつないでいくことが、現世代に課せられた大きな使命だ。
 しかし、安倍晋三首相は秋の臨時国会で憲法9条への自衛隊明記などを盛り込んだ自民党改憲案の議論を進めたい考えを示した。平和主義の根幹である9条を変えることは「戦争ができる国」への道を本格的に開く危険性をはらんでおり、深く憂慮する。今こそ歴史の過ちを省みて、「いつか来た道」を歩まないよう踏みとどまらなければならない。
 首相は講演で「自民党として憲法改正案を次の国会に提出できるようとりまとめを加速すべきだ」と述べ、2020年の改正憲法施行を目指す自身の方針に沿って手続きを急ぐ。改憲案を9月の自民党総裁選で主要争点にしたい考えだが、優位に立つ総裁選で党内の異論を封じ、改憲論議の主導権を握ろうという手法は容認できない。
 自民が3月に策定した改憲案は、戦力不保持と交戦権否認を定めた9条1項と2項を維持したまま、新たに「9条の2」を追加して「自衛隊保持」を明記する内容。自衛隊について、従来の政府見解では「必要最小限度の実力であり、戦力には当たらない」としていたが、改憲案では「必要な自衛の措置を取ることを妨げず、そのための実力組織」と位置づけた。「必要最小限度」の文言を削ったことで自衛権や戦力の拡大につながりかねない。
 憲法は国民が権力を縛るためにある。改憲は世論の盛り上がりによって国民が求めたわけではない。権力側の首相が提案すること自体に疑義がある。
 首相はこれまでも世論の強い懸念を押し切り、憲法解釈を曲げて集団的自衛権の行使を認めるなど、強引な政権運営が目立つ。最高法規である憲法を改定することは、国の針路を根本から変えることであり、これまでと重みが異なる。十分な説明や議論がないまま改憲に突き進むことは断じて許されない。
 国際社会では、軍事衝突も懸念されていた米国と北朝鮮の首脳会談が実現し、朝鮮半島の完全な非核化で合意した。その行程は見通せない部分も多いが、東アジアの平和構築に向けた一歩には違いない。安倍政権の改憲を巡る動きや、地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」の導入などは、対話による問題解決へ向かおうとする国際社会の流れに逆行している。唯一の被爆国として非核化のリーダーシップをとる役割があるはずの日本が「火種を放つ」ような行動をしてはならない。
 アジア諸国にも多大な犠牲を出した加害の歴史にも真摯(しんし)に向き合う必要がある。いま一度、平和主義の原点に立ち戻り、不戦の誓いを新たにしたい。


【終戦の日】平和と「今」を考えたい
 時代が移ってゆく。平成最後となる73年目の終戦の日を迎えた。
 即位時からは初めて、憲法が定める国と国民統合の「象徴」となった天皇陛下は、象徴のあるべき姿を模索され続けてきたといえる。
 高知新聞が連載した「憲法のいま 公布70年」では、側近が「象徴とは国民が願うものを体現することだ」と述べている。
 平成に確立された「象徴の務め」の柱は、東日本大震災をはじめとする被災地の訪問であり、国内外で重ねられた戦争犠牲者の慰霊であっただろう。
 天皇の名の下に先の大戦は行われた。「負の遺産」と向き合う慰霊の旅は1994年、硫黄島に始まる。戦後50年の翌95年には広島、長崎、沖縄、東京都慰霊堂へ。戦後60年からは太平洋の激戦地にも赴き、全ての戦争犠牲者を悼んだ。
 戦没者追悼式では、平和を願うメッセージに戦後70年の2015年から「深い反省」という文言が加わった。歴代首相が触れてきたアジア諸国への加害責任に言及しない安倍首相との違いが際立つ。
 今年1月、自民党の重鎮だった野中広務氏が死去した。
 小渕内閣の官房長官に就いて以来、沖縄振興策に積極的に関わった。基地政策には批判も残るが、00年の沖縄サミット開催に際して「戦争世代を生きた者の贖罪(しょくざい)」と述べるなど、沖縄に寄り添う姿勢には定評があった。
 安倍首相が目指す憲法9条改正に野中氏は生前、「再び戦争になるような歴史を歩むべきではない。反対だ」と言い切っている。戦争を知る者の信念と生きざまだろう。
 現実の政治はこうした祈りや警鐘と別の時空を進んでいるかに映る。
 戦争の惨禍を経た現憲法は、権力の行き過ぎに歯止めをかけ、権力を縛る立憲主義を本旨とする。しかし今、権力がそこから自由になりたがっているかのような政治が続く。
 安倍政権は15年、歴代政権が9条の下で禁じてきた集団的自衛権の行使を可能にする安全保障法制を強引に成立させた。衆院憲法審査会で憲法学者全員が主張した「違憲」の疑いは今でも残る。 
 首相はさらに、戦力の不保持と交戦権の否認をうたう9条2項を残したまま自衛隊を明記する改憲を掲げて、自民党総裁選に臨む。
 民意に寄り添い、説明を尽くし、対話する姿勢が政治に見えなくなったことも不安を駆り立てる。
 沖縄では今月、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設を巡り、政府と全面対決を貫いた翁長雄志知事が死去した。
 一連の対立の中で、沖縄の苦難を踏まえた対話と熟議はなされたのかどうか。地元では反対の民意が再三示されてきたにもかかわらず、安倍政権は「唯一の解決策」という姿勢を崩さない。
 平成最後の終戦の日。慰霊と平和、そして私たちが置かれた「今」を考える日にしたい。


[終戦記念日] 明治150年の歩み直視を
 明治維新150年の今年1月、安倍晋三首相は施政方針演説でこう切り出した。
 「身分、生まれ、貧富の差にかかわらず、チャンスが与えられる。明治という新しい時代が育てたあまたの人材が、技術優位の欧米諸国が迫る『国難』とも呼ぶべき危機の中で、わが国が急速に近代化を遂げる原動力となった」
 明治の先人たちに倣い、新たな国づくりを進めようと強調した。だが、侵略戦争や植民地支配といった負の歴史には触れなかった。
 明治に改元された1868年から73年後の1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発、45年の終戦から再び73年の歳月が流れた。
 前半の73年が近代国家の礎を築きながら戦争へと突き進んだ時代だとすれば、後半は経済成長を成し遂げ、社会が成熟していった73年と言っていいだろう。
 きょうは終戦記念日。日本が歩んできた、この150年の道のりを顧みながら未来を考える一日にしたい。
■富国強兵が唯一の道
 明治維新とは何だったのか。
 幕藩体制から天皇中心の中央集権体制に移行し、現代に通じる国家が形づくられていった。そして西洋文明を積極的に取り入れ、文明開化を推進した。一大変革期だったのは間違いない。
 その引き金になったのが世界の情勢である。19世紀に入ると、欧米列強によるアジア諸国の植民地支配は勢いを増していく。長く国を閉ざしてきた日本も侵略されかねない。そんな危機感が維新の原動力になったとされる。
 作家司馬遼太郎は語っている。
 「イギリスのような大きな工場と精練な海軍を持ち、フランスのような大陸軍を持ちたい。それができれば、併合されることからまぬがれる。富国強兵だけが救日本の唯一の概念であった」
 富国強兵を追い求めた日本は日清、日露両戦争で勝利を収める。大正デモクラシーを経て昭和に入ると、36年に陸軍青年将校らによるクーデター、いわゆる二・二六事件が起きる。
 「陸軍に対抗しうる政治勢力は存在しなくなり、明治以来の安定が完全に失われた」(中村隆英著「昭和史」)
 「降る雪や明治は遠くなりにけり」。俳人中村草田男は昭和初期にそう詠んだ。叙情だけでなく、当時の世相を映しているようで興味深い。
 その後、軍部の政治的発言力が強くなり、日中戦争、太平洋戦争へとなだれこんでいく。
 近代史は学校教育でも手薄になりがちである。連綿と続いた出来事を明治維新150年を機に改めて学びたい。
 太平洋戦争開戦時と終戦時に外務大臣を務めた、日置市東市来町美山出身の東郷茂徳に触れておきたい。ポツダム宣言受諾を巡り軍主戦派を抑えて和平に奔走、終戦に導いた功績は大きい。
 ノンフィクション作家の保阪正康さんは「<敗戦>と日本人」(ちくま文庫)でこう評価する。
 「昭和二十年八月に東郷茂徳が外務大臣であったことは、日本にとってきわめて益するところが大きかったのではないか。重光葵でも吉田茂でも軍部と折り合いをつけることはできなかったのではないかと思う」
 東郷はこんな歌を残している。
 <この人ら国を指導せしかと思ふ時型の小さきに驚き果てぬ>
 東郷は東京裁判で禁錮20年の刑を受け、獄中で亡くなった。外相としての自負と、指導者に対する不信感はいかばかりだったろう。
 焦土と化した日本の経済は驚異的な成長を遂げ、外交、安全保障は日米同盟を基軸に展開される。
■負の歴史の清算必要
 戦後積み残された課題は多い。
 「核なき世界」へのプロセスは遅々として進まない。昨年7月、核兵器禁止条約が国連で採択されたが、日本政府は条約に署名しない立場を変えようとしない。
 安倍首相は「核保有国と非保有国との橋渡しに努める」と強調するだけで具体的な方策は見えない。被爆者らの声に耳を傾けて「核の傘」を巡る議論を進めるべきである。唯一の戦争被爆国が消極的では核廃絶への道のりは遠い。
 北朝鮮は核兵器開発を誇示することで体制維持をもくろむ。6月には史上初の米朝首脳会談開催にこぎつけ、朝鮮半島の完全非核化をうたう共同声明に署名した。
 半島の非核化は東アジアの安定には欠かせない。日本政府は中国、韓国とともに積極的に関わっていかなければならない。
 しかし、両国との間では歴史認識問題が決着していない。領土を巡る争いもある。戦争の後始末を放っておくわけにはいかない。
 日本復帰から46年たつ沖縄では米軍普天間飛行場を巡って県と国の対立が続いている。
 8日亡くなった翁長雄志知事は「上から目線の言葉を使えば使うほど、県民の心は離れ、怒りは増幅していく」と政府の姿勢を批判した。「捨て石作戦」と言われた沖縄戦、米軍政下での圧政といった歴史の記憶が県民の心には深く刻まれている。
 歴史には分岐点がある。一国の指導者が負の歴史を直視し、過去を清算しなければ、その局面を見過ごし、同じ過ちを繰り返すことになりかねない。


2歳児保護 見つけた尾畠さん「ぼく、ここ」うれしかった
 山口県周防大島(すおうおおしま)町で行方不明になっていた藤本理稀(よしき)ちゃん(2)が15日、3日ぶりに見つかり、家族や捜索に加わった住民らに安堵(あんど)と喜びが広がった。
 15日早朝に理稀ちゃんを見つけたのは、大分県日出(ひじ)町からボランティアで捜索に加わっていた尾畠(おばた)春夫さん(78)だった。尾畠さんは「『ぼく、ここ』と聞いた時は本当にね、うれしかった」と言葉を詰まらせた。
 尾畠さんは「何か力になりたい」と14日午後に現地入りした。15日は午前6時ごろから山中に入り、捜し始めた。木がうっそうと生い茂る険しい山中を「よしくん」と呼び掛けながら登った。入山して約30分で「ぼく、ここ」と聞こえた方に行くと、理稀ちゃんを見つけた。あげたあめを「ガリガリ」と食べてくれたので、尾畠さんは「大丈夫だ」と確信したという。
 尾畠さんは東日本大震災や西日本豪雨などの被災地にも積極的にボランティアに行き、2016年12月に大分県佐伯市で当時2歳の女の子が行方不明になった時もボランティアで捜索に参加した。その経験から「子供は現場から下ることはまずない」と思い、理稀ちゃんが最後に目撃された道路に従って山中に入り、発見につながったという。尾畠さんは「人の痛み、悲しみが分かる人間になってほしい」と理稀ちゃんの将来に思いをはせた。
 山を下りてきた理稀ちゃんに、祖父の藤本正憲さん(66)は「よっちゃん」と大声で呼び掛けた。ぱっちり開けた理稀ちゃんの目を見て、涙が流れたという。正憲さんは「私が目を離した隙(すき)に、こんなことになって責任を感じている。理稀の無事な顔を見た時は涙、涙だった。ただ顔だけ見ていたい。やんちゃで元気に育ってほしい」と取材に答えた。【真栄平研、古賀亮至】
母親 目開けた息子に「胸がいっぱいに」
 「3日もたって、もうダメかなと思う気持ちが大きかった。息子が目を開けてこっちを見た時には胸がいっぱいになった」。藤本理稀(よしき)ちゃんの入院先の病院で15日、母美緒さん(37)が取材に応じ、時折涙を浮かべながら喜びをかみしめた。
 理稀ちゃんの行方が分からなくなったのは12日午前。美緒さんは14日午後に「よっちゃーん、早く出てきて」と公共用スピーカーで何度も呼び掛けた。しかし、理稀ちゃんは見つからなかった。それだけに「生きて会えた今の気持ちは言葉では言い表せない」。
 病院で、理稀ちゃんは、バナナをほぼ1本とゼリーを食べ、リンゴジュースを飲んだ。起きている時には美緒さんにべったりで、少し離れると「おかあちゃーん」と呼ぶ。「私も不安だったが、理稀がもっと不安だった」とわが子を思いやった。
 理稀ちゃんは13日が2歳の誕生日だった。「アイスクリームが好きなので、アイスケーキにしてあげよう」。誕生日のお祝いを考えるだけでも心が弾む。「連日の猛暑の中、地元の方、警察や消防をはじめ、見ず知らずの人も捜索に携わってくれた。感謝の気持ちしかない」と美緒さんは何度も頭を下げた。【松本昌樹】