和田久先生の「山あり谷ありき」(*1)から。

私は兵庫県御影町住吉の高級住宅街で生まれた。誕生日は大正14年4月9日なのだが、戸籍上は4月1日となっている。スタートから、他の人とは何かが異なる運命の星を抱いているようだ。

出生のとき、産婆が私の頭を鉗子(かんし)の輪でひっかけて、まるで引っ張り出すようにして強引にとりだすという難産だったらしい。母親の幹(みき*2)が39歳だった、というから高齢出産で、随分つらい思いをしたことだろう。おかげで私の軟らかい頭部は大きな風船のようなコブができ、猿のような顔がいっそう見にくい。「一人息子が生まれた」ー吉報?で参集した親類や付近の人たちも、私の”形相“に肝をつぶして大騒ぎしたという。

生後3ヵ月を過ぎたころから”正常な赤ん坊の頭“になったが、この”怪物の赤ちゃん“の話題は、のちまで部落の語り草になった。それだからでもないだろうが、私の”人生航路“は波乱万丈である。いま回顧すれば手に汗する思いだが、とにかく人も驚くようなタイトロープを渡り続けた。

私が5歳の時、父母の実家である阿久根市高松に移った。母の姓は「松下」である。系図がないので詳しいことはわからないが、古い家柄であったことは事実である。徳川末期のころ、楠木正成の末えいである和田畩之進が阿久根にやってきた。そして土地の士族である母の祖父・松下八兵衛の世話になる。和田家に子供がないため、母親が養女となって和田家を継ぎ、久保家から父親の良男が養子婿として迎えられた。

こうした家系をもつ私は、やがて阿久根尋常小学校に入学する。幼いころは、ぽちゃぽちゃとして色白で”坊っちゃん“の愛称でかわいがられた。文字通り夏目漱石の”坊っちゃん“
そこのけの暴れん坊だったらしい。

父親は阿久根の役場吏員をしていた。暮らしは普通だった。私の母親は自分から言うのもおかしいが、まれにみる才女だった。ずばぬけて頭が良くて、”シン“の強い賢母だった。わんぱく大将で、朝から晩まで暴れまわる一人息子、つまり私の面倒を良くみてくれた。

1年のときの担任は母方の親せきに当たる松下先生。2年が白石先生。3年のときは平川泰治先生(現在、鹿児島市下竜尾町に在住)である。4年から6年までは吉永真人先生が受け持った。甑島出身で、なかなかやかましい先生だった。

私は、体操と唱歌(音楽)が大のにが手。だから、その授業中に、学友や先生にいたずらしては廊下に立たされた。満々と水をたたえたバケツを持たされて。体罰をうけた思い出は数限りがない。音楽の女先生がトイレに飛び込むや、ころあいを見はからって、外から石を投げ込む。気の弱い先生は悲鳴をあげて飛び出す。校長の顔をみるや声をあげて泣き出す始末。根が純情な私?はすぐ逃げまわるので「和田のしわざだ」とわかる。校長室に呼び出されて、きびしく説教される。一事が万事、こんな調子だから先生たちも手を焼いていたようだ。家での勉強はほとんどしなかったが、体操と唱歌を除いては、いつもトップだった。

このいたずらは中学、高校、大学へと進学するたびにエスカレートするのだが、いつも母親が「お前は困った子だ。生まれた時から親不孝をしている」と、よくぐちっていたのが、いまでも脳裏に焼きついて離れない。その母親は、もうこの世にはいない。

(つづく)

*1和田久先生が50歳当時に鹿児島新報で連載されたものです。

*2明治19年生まれだそうです。