(つづき)

当時の出水中学は1学年100人、総生徒は400余人。先生の数は30人ぐらいだった。生徒は出水市を中心に高尾野、阿久根、それに水俣あたりから集まり、北辺に輝く”学び舎“だった。私は阿久根からの汽車通学である。1年生のときはいくぶんかまじめだった。2年生に進んで1学期、出水市内の武宮祐輔氏のところに下宿した。再び悪ふざけの虫が騒ぎ出した。武宮氏は出水の長老で有名な人だったが、そのころは神戸に住んでいて、留守を母のエイさんが守っていた。ここも私の母方の親せき。同宿人に、英語の深堀卯助先生がいた。

いまでいう”番長格“の私は登校すると先生にしかられ、下校すれば同宿の深堀先生にどやされた。

これには私もくさった。エイさんが気の毒に思って、「最近久(ひさし)はよく勉強するようにないもした。いたずらもせんよーになったんで、阿久根の方に引きとってくいやんせ」とウソの手紙を母親みきあてに出した。私は”暴れん坊“なるが故に、身の置きどころがなくなった。

戦争の雲ゆきがあやしくなると、ご多分に漏れず、勤労奉仕や飛行場づくりなど中学生も戦時体制下に入った。私は阿久根にある自宅からの汽車通学に戻っていたが、伝書バトみたいに、毎日わが家へ直行というわけにはいかなかった。同級生の一人だった石沢盛典君(県衛生部次長)の家によく泊った。石沢君の家は酒、たばこを売っていたので、夜がふけるのを待っては、友達を連れ込んで酒宴を開く。たばこをスパスパ吸って勉強はろくにしない。そしてドンチャン騒ぎ。あたりが暗くなったところで、スイカ畑とポンカン畑荒らし。村の青年とケンカもした。

このころの同級生には、石沢君のほか渕上哲彦(鹿児島中央高校教頭)津川明(税理士)松田覚(海上自衛隊鹿屋航空隊勤務)君らがいる。

こうした”悪童ぶり“がたたったのか、中学4年の1学期、私は肋膜炎にかかった。肺結核の一歩手前である。当時、肺結核といえば”不治の病“であった。私は病床で飲みにくいスッポンの血をムリヤリに飲まされた。そのつらいことといったら、まるで天罰にあったようだった。医者もサジを投げかけるほど私の病状は悪化した。先生も友人も”あの悪童もついにダメか“とささやくほどだった。そのなかで、いまでも忘れがたいのが故内山円蔵先生やイトコの中尾良賢氏がわれを忘れて看病してくれたことだ。7ヵ月間の闘病生活で肋膜炎は完治した。秋の運動会が終わった10月であった。

登校して間もなくである。4年生と5年生の合同模擬試験が行われた。5年生が大半を占めたが、全部で170~180人は受験した。私も4年生の一人として受験したのだが、病気でまるまる1学期欠席していたので、何一つ勉強していない。それどころか、机に向かうと頭がフラフラして落ち着かなかった。ところが、試験の結果はトップだった。私も驚いたが、担任の西元先生もびっくりした。私の肩をうれしそうにたたいてくれた。あのうるんだ目がいまでも忘れられない。

”災難“は忘れたころにやってくる。4年の終業式が近づいたとき、刃傷事件が起こった。ストーリーはこうだ。ある青年が家から日本刀を持ち出して、私の友人に重傷を負わせた。

私は首謀者扱いにされた。何を勘違いしたのか八木繁校長までがカンカンに怒って、緊急同窓会の席上「わが校の生徒のなかから、かかる事件を引き起こす不心得者が出て誠に申し訳ない。関係者を厳重処分する」とやらかした。それやこれやであやうく退校処分になりかけたが、有馬俊二先生や担任の西元竹二先生の努力で、私が事件に直接関係していないことがわかり、難を逃れることができた。

あのとき、退校処分をうけていたら、今日の和田弁護士はいない。いまだに両先生の顔を思い出すとき、身がキュウと引きしまる。勉強ができても、こうまで学校当局ににらまれたら操行は可。丙の一つ下だから始末が悪い。ついに中学卒業で優等賞(品行方正の一項目が入っている)はもらえず、かわりに同校はじまっていらいの”同窓会賞“を手にして卒業した。

(つづく)