(つづき)

昭和18年4月、旧制の第五高等学校(熊本)に入学した。私は幼いころ病弱だったが、五高へ進んだころは体も丈夫になっていた。全寮制度だったため寮生活を送った。柔道が黒帯だったので、威勢がよかった。ところが、ある事件で私が五高入試のさい及落線上をさまよっていたことが判明した。事件が起きたのは、私が五高に入学して間もないときである。中間試験があるということで、私は同級生の一人にノートを貸してくれと頼んだ。この同級生はとても勉強のできるやつだったがまじめ人間だったせいか、私の申し入れを断った。私は「たかがノートぐらいケチケチするな」とばかり、なぐりつけてしまった。こいつが、熊本医大の三宅教授の息子であったことから、学校当局も大騒ぎ。たちまち五高内で大問題へと発展した。私は早速、生徒主事に呼びつけられ「だいたいお前は不合格だったんだ。教練の検定試験にも通っていないではないか。なまじっか入試の成績がトップだったので、及落会議でも仕方なく合格にしたんだ」と説教された。私は冷や汗をビッショリかいた。そういえば、私は出水中学の後半期、教練の時間によくさぼるし、先生たちに反抗的な態度をとっていた。非国民的に見られていたのかもしれない。

私が熊本市大井町の下宿に住んでいた2年生の終わりごろ、私の素行の悪さについに母親、幹(みき)も呼び出され、生徒主事にきびしく説教を食った。私が友人と紀州旅行(*)を終え、下宿に帰ったところ母親が姿をみせている。私の顔をみるなり母親は「お前には困ったものだ。小学生や中学生ならいざしらず、高校生になってまで母親が学校へ呼びつけられるとは情けないのではないか」と嘆いた。しかるでもなく怒るでもなく、それは泣き崩れる母親の姿だった。私の胸はキリリと痛んだ。

母親の嘆きの姿を見ているうちに、私は熊本へ出発するときの光景を思い出していた。「お前も親元を離れてよそに行くのだから、少しはおとなしくしておくれよ。お前みたいな男には娘さんたちはほれないだろうが、女にも気をつけておくれネ。もし女がほれるような素振りをみせるときは、お前をだましているのだから相手にしてはいけません」といいながら母は白木の箱に納まった短刀を差し出した。「切腹しろ」ということかな?母親の真剣な姿に私はタジタジになったのを覚えている。

さて、19年に入ると私たちの勤労奉仕の中身が変わってきた。田植え、稲刈りからついに長崎にかり出され、三菱造船所に放りこまれた。工員にはビール券の配給があった。私は友達からかき集めてきたたばこと交換した。私は毎晩ビールをあびるほど飲んだ。しかし、それもつかの間、10月12日ついに西部第十八部隊に入隊させられた阿久根市高松の家では、二日二晩の大宴会となった。なにしろ一人息子の入隊である。三菱造船所で一緒に勤労奉仕をしていた五高の友人、守住有信君(東海郵政局長)が無断で造船所を抜け出し、私の家までやってきて祝ってくれた。あとで、そのことが上司にばれて、守住君はこってり油をしぼられたらしい。私にはこんな友人が多かった。

「お国のためだ。死んでこい」と、宴席で、みながそういって励ましてくれた。が、当時の阿久根郵便局長、久木田重親氏(現在、阿久根市に在住)だけは「命は一つしかない。しかも、お前は一人息子だ。必ず帰ってくるんだ。国のために死のうなんて軽率な行動はとるなよ」と、肩をたたいていってくれた。

私は阿久根の女学生たちがつくってくれた”千人針“を腹に巻き、勇気凛々(ゆうきりんりん)として入隊した。

(つづく)

(*)原文では「霧島旅行」となっていますが、先生からは「紀州旅行」と聞いています。先生から聞き取りした内容を原稿にまとめたものが新聞連載されたため、食い違いが生じたようです。