(つづき)

西部第十八部隊に入隊して3日目である。私は戦友たちと一緒に下関へ運ばれた。10月15日夜だった。そしてそのまま輸送船に。「これはえらいことになった。再び生きて故郷の土は踏めまい」そう信じこんだ私は、阿久根の女学生たちが精根傾けてつくってくれた”千人針“を玄界灘に投げ捨てた。真っ暗い海面に白く浮かぶ”千人針“が、船のしぶきで大きく後ずさった。生まれて初めて”静かな心境“になった私は、船室に戻り、持ってきた本3冊をひざの上においた。キルケゴールの「死にいたる病」フッサールの「現象学叙説」などだった。私は学校の勉強はあまりしなかった。高校時代はもっぱら哲学書、宗教学書などをむさぼり読んだ。山田先生に「高校時代は語学を勉強しておけ。語学を通じて一つの物の考え方を学びとるんだ」とよくいわれたが、死に直面していた私たちは、師の言葉にさからってこうした本ばかりを読みふけったものである。(*)

2日後の10月17日、輸送船は釜山に着いた。汽車は一路ハイラルへ。つぎの駐屯地メントカは満州で一番寒い所だった。マイナス70度ぐらいまで下がる。ここで私は、陸軍二等兵としてみっちり初年兵教育を受けた。私はどうも優秀な兵隊ではなかったようだ。毎日、古年兵にしごかれた。おかげで入隊当時の64~65㌔はあった体重が52㌔に減ってしまった。水が体にあわず、下痢に悩まされたせいもあるが、それは気の遠くなるような別世界での”つらい“体験だった。その後、私は2回ほど転属して最後は南方向けの玉砕部隊に編入された。このとき、南方へ行っていたら、それこそ”オダブツ“だったろう。奇跡がおこった。いや天祐かな?いつになっても輸送船が迎えにこない。とうとう私たちは南方へは行かずじまい。やれうれしや、日本に近い済州島へ移された。ときに20年4月。済州島は春の花がいっぺんに咲き乱れてとてもきれいだった。私の体力も回復しつつあったが、55㌔もある重機関銃を肩にかつがされるのには往生した。済州島の”かんな山“の頂上に対空陣地を構築するため、重い銃や弾薬をかついで登る。風土があわないのか日本から運ばれてきた馬はくたばって役に立たない。馬のぶんまで働かされた私たち150人は、毎日、ただなんとなく手足を動かしてノルマを果たすのみだった。私はよく食糧の買い出しに出かけた。ある日「日本は負けるらしい」という情報を耳にした。

あれは8月17日(終戦の2日後)のひる過ぎだった。中隊長から「全員集合」の命令が下った。「日本は負けた」ー 中隊長は言葉少なに語った。正直なところ、私はホッとした気持ちだった。済州島の近海にはいつも阿久根方面から漁船がきていた。私はすぐにでも郷里に帰れるような気がした。だから、日本が負けてホッとしたのかも知れない。

武器、弾薬を海中へ投棄する作業がはじまった。せっかく構築した陣地も片っ端から壊した。黙々と作業をつづける戦友たちの肩はガクンと落ち込んでいた。10月初旬、米軍の上陸用舟艇が数十隻島に着いた。武装を解除された私たちは、米軍下士官の命令でつぎつぎとこの船に分乗させられた。誰かが「南方へ連れていかれて重労働をさせられるんじゃないか」とつぶやいた。阿久根とは目と鼻の先の近距離なのに時間がかかりすぎる。二昼夜洋上で過ごした。山の斜面に家が建っている街が目に飛びこんだ。また誰かが「フィリピンだ‼」と叫んだ。佐世保だったのだが、みんなが錯覚を起こすほど”船の旅“が長かったのである。疲れてもいた。

あとでわかったことだが、当時、玄界灘には機雷がウヨウヨしていた。上陸舟艇は速度をぐんと落としていたのだ。とにかく、私たちは佐世保に上陸、検疫をすませたあと釈放された。その足で阿久根市に帰ったが、家は空襲で廃虚と化していた。両親は6㌔離れた親せきの家に疎開していた。

(つづく)


(*)先生は、波多野精一(京都大学教授)の「時と永遠」を読まれてから京都大学で宗教哲学を学びたいと思ったこともあるそうです。