(つづき)

阿久根の疎開先では、両親がポッダム上等兵の私を心よく迎えて歓待してくれた。久しぶりに食する”銀メシ“としょうちゅうの味が格別だった。兵役中に、五高の推薦で東京帝国大学独法科に入学許可が出されていた。私は進学するなら京都帝大の歴史学科にしたかったのだが、兵役で留守をしていたため、学校から母親・みきのところに志望校の問い合わせが出され、母は近くに住んでいた田中卯吉氏(元東京控訴院長、定年で阿久根市内に帰っていた)に相談した結果「こんな時代だから法科か医科がいいだろう」とのことで、私は第一志望校が東大法学部、第二志望校が熊大医学部と回答されていた。

戦争末期で混とんとした世相だったため、各大学とも実際に入学試験を実施するところはなかった。高校からだされる在学時代の成績表や内申書から判断し、かつ各高校の大学進学率などを照らしあわせたうえ”推薦即合格“という形になっていたのだ。私もこうしたことで東大入学が決定され、合格通知は満州で受けとっていた。

帰郷後、私は毎日、家で所在なく時間をつぶしていた。〈これまでのわが国の価値体型が敗戦で崩壊したいま、これから先どうなるのだろうか・・・〉と、ひとり静かに考えるのだが、私にも計り知るすべもなかった。

21年2月初め私は満員の汽車にゆられて上京。川崎市の登戸にあった親類の家に身を寄せて通学することにした。初めて登校したのは11日の紀元節(現在の建国記念の日)であった。着物姿の私は初めて聞く南原繁総長の講演に感銘した。オールド・リベラリストの南原総長が祖国再建について情熱的に訴える姿がとても印象的だった。

東京の戦災は目をおおうものだった。焼け跡にヤミ市がたつ。食糧はない。私は1ヵ月もしないうちに阿久根に戻ってしまった。勉強どころではなかった。生きていくだけでも精いっぱいの世の中だった。私は2、3ヵ月おきに阿久根と東京を往復する。

22年5月に上京したときである。同級生の古賀清春君(北九州市出身)の家に寄ってみると、彼が真剣になって法律書を読んでいる。わけを聞くと、高文の試験を受けるというのである。たぶんこの高文試験が最後の高文になるだろうーという。私はいつもの”負けずぎらい“がムクムクとわきでてきたが、いまさら受験するといっても、卒業のための単位もとっておらず、勉強もしていない。一瞬あきらめかけたが、私は”落ちてもとともとだ“と思い直して、受験することに決めた。

このころは藤沢の久木田外科病院(久木田郵便局長の弟)に身を寄せていたので、ここで猛烈に勉強した。高文の試験は8月初旬に実施される。3ヵ月足らずしか勉強する時間はない。私は病院から”眠らなくなる薬“を持ち出しながら注射し、手あたりしだいに法律の本を読みあさった。1日にわずか3時間の睡眠時間である。後にも先にも、このときほど死にものぐるいでがんばつたことはない。

20日ぐらいすると、クスリの副作用と疲労のため、顔はむくみだす、ジンマシンがでるーで、ついにダウンし、10日ほど寝込んでしまった。それでも高文はあきらめず、私は寸暇をおしんで努力した。そのかいあって、みごとに合格し、卒業に必要な23単位も修得した。

この成果に友人の古賀君もだが、大学の関係者はみなア然としていた。古賀君もみごと合格したが、まもなく心臓病で他界した。まじめな青年だったのにー。

私は卒業と同時に同大学院特別研究生の一員となった。民事訴訟法のオーソリティーである兼子一教授の門下生である。特別研究生の制度は戦時中、東條英機内閣時代、優秀な人材が徴兵され、”頭脳の流失“を防ぐため、各学部から選抜された学生を研究室に残して、徴兵免除にするという制度である。

私が同研究室に入ったところ、加藤一郎(前東大総長)雄川一郎(行政法)平野竜一(刑法)伊藤正巳(英米法)碧海=あおみ純一(法哲学)といった、こんにちの東大を動かす人たちがいた。

私は研究室でも兼子教授や先輩(*1)、同期生にも評判がよかった。とくに雄川、平野、伊藤の三先輩にはとてもかわいがられ、よく飲み代のつけを回したものだ。「判例法規」の本を執筆したが、マージャン、将棋などをおぼえたのもこのとき。兼子教授(*2)からも手ほどきを受けたくらいなので、私のマージャン歴は相当なものだと自負している。兼子教授は民事訴訟法の大家だけあって、ずば抜けて頭のきれる人で、私が尊敬するなかの一人である。

(つづく)


*1団藤重光教授(刑法、刑事訴訟法)からは同教授の自室に自由に出入りしてよいと言われたそうで、そこには泉鏡花全集が並んでいたのが印象的だったようです。

*2兼子先生はブリッジが得意だったそうです。