(つづき)

3年ほど特別研究生として法律の勉強をしたが、3年後の25年10月に法務省に入った。もともと時間にしばられての勤務ができないタチである。おまけに型にはまった職場が体質にあわない私は、欠勤しがちであったため、局長の専用車が出勤時間がくると、平吏員の私の家までわざわざ出迎えにくる始末。法務省始まっていらいの珍事として、同僚に冷やかされたが私にはとても苦痛であった。2ヵ月も勤まらないうちに私は辞表を提出して阿久根に帰ってしまった。

親父も高齢で病気がちだったので看病のため帰ったのだが、父は26年12月11日に病死した。71歳である。

年が明けた27年3月ごろ、私は再び上京するため車中の人となったが、大阪に五高時代の友人がいるのを思い出して途中下車した。7年ぶりに再会する友人2人と痛飲するうちに、自然、仕事の話に移った。私が職もなくぶらぶらしていることを知った友人の1人が「3人で会社をつくろう」といいだした。

当時は”黒ダイヤブーム“だった。エネルギーの主力製品が石油に移る数年前である。友人の1人がいうには、関西電力に有力なコネがあるというわけだ。私もこの案に賛同した。

会社設立(*)と同時に、北九州方面から買い集めた石炭を関西電力に納入しだしたが、面白いほどもうかる。私たちはわが目を疑うほど金が入ってくるので〈果たしてこれでよいだろうか〉と首をひねったほどである。ダンボール箱の中に、お金をぎゅうぎゅう詰めても入りきらないほどである。3人とも毎晩札束を背広やズボンの中に押し込んでは豪遊する。外車は乗り回わし、まるで大名気取りである。3人ともあまりもうかるので”商才“があるものと錯覚し、相手の会社のリサーチもせずに石炭を納入しはじめた。ところがそのうちの1つ、ガラス製造工場が倒産し、売掛金がこげついてしまった。また友人の1人は絹糸の相場に手を出して大やけどをしてしまう。踏んだり蹴ったりである。

こうして成金の会社も、わずか2年たらずで解散するハメになる。私は失意のうちに大阪港の岸壁で思いにふけっていた。無一文になったため、これから先どうして暮らしていったらよいのかと迷い、岸壁に係留されていた砂利運搬船のふなべりに腰をおろして、暮れていく夕日をながめていた。

足元がゆれ動くのに気づいて、ふと目を岸壁に移すと、船が岸を離れているではないか。私は驚きのあまり飛び上がったが、ときすでに遅く、船は沖の方へ流されていた。あとでわかったことだが、機関士が私のいることなど気づかずに船を動かしたということだった。

やがて船は瀬戸内海の坊勢という小島に到着した。この島は瀬戸内海の底引き網漁の基地で、別名を”海賊島“と呼ばれるところ。

機関士は私を発見して驚いたようだが、いまさら大阪港へ引き返すわけにはいかない。私からすべての事情を聞いたうえ、坊勢で働くようすすめてくれた。運命はどう転ぶかわからない。東大を卒業した”弁護士の卵“であった私は”ロビンソン・クルーソーの漂流記“にも似た生活を送ることになる。

私は元来、人に好かれる性質をもっているらしく、気の荒い漁民の心にもすぐとけこんだ。以来、夕方になると漁船に乗り込み、夜を徹して網をたぐる。船員と車座になって酒をくみかわし、とりたての刺身に舌つづみを打つ。なんにも拘束されない、自由きままな生活をエンジョイした。

”浦島太郎“ではないが、約1年半漁師生活が続いただろうか。ある夜、酒の酔いでつい私の身元がばれてしまった。大学出といえば、漁協長の明治大学出1人しかいない島でのこと。そこに東大出で、しかも高文にもパスした”弁護士の卵“が漁師をしているのである。うわさは広がった。地元の警官が私の身元を洗いはじめた。当然ながら阿久根の家へ身元照会もされたらしい。事実が知れわたったため、仲間たちは「あんたのような偉い人が、いつまでも漁師をしているところじゃない」と説教?され、送別会が催された。しぶしぶ私は仲間の1人が姫路駅まで見送ってきたため阿久根までの切符を買ったが、乗車して間もなく途中下車し、再び、坊勢に姿を現した。

島の人たちは開いた口がふさがらないといった面持ちで私を見つめていたが「やはりあんたは郷里に帰って弁護士になる人だ」と、こんどは2人の仲間が私を連行するかのようにして阿久根の家まで”護送“してくれた。

いっさいの事情を仲間から聞かされて知った母親みきは、私を説教する気にもなれず、なかばあきらめ顔でア然として見つめていた。

(つづく)

*社名は、三友社だったそうです。