三浦綾子「氷点(下)」(角川文庫)から。


陽子はそこでまた、ていねいに一礼した。
「みなさま、高いところから誠に失礼ではございますが、卒業生一同を代表致しまして、一言答辞をのべさせていただきます」
よくとおる声であった。
夏枝は額に汗をにじませていた。
(何をいうつもりだろう)
「実はただ今、答辞を読もうと思いましたところ、これは白紙でございました」
陽子は奉書紙を高く、さしあげた。人々は再びざわめいた。
「どこでどう、まちがいましたか、わたくしにもわかりません。御来賓の方々。先生方。在校生のみなさま。そして本日晴れの門出をなさる卒業生のみなさま。わたくしの不注意を何卒おゆるしになって下さいませ」
陽子はふかぶかと頭をさげた。
「みなさま。ほんとうに、わたくしの不注意を心よりおわび申しあげます。わたくしといたしましても、何日もかかって書きました答辞が、まさか白紙になっているとは夢にも思わないことでした。それでただ今は少しばかり驚いたのでございます」
場内は、しんと静まりかえって、緊張した空気がピシッとはりつめた。
このように、突然、全く予期しない出来ごとが、人生には幾度もあるのだと教えられたような気がいたします」
陽子の言葉に夏枝は唇をかんだ。
陽子は言葉をつづけた。
「自分の予定通りにできない場合は、予定したことに執着しなくてもよいということも、わたくしはただ今学ぶことができました。それで、勝手なのですが、ただ今予定外の行動をとらせていただきました。雲の上には、いつも太陽が輝いているという言葉を、先生に教えていただいたことがございます。わたくしは少し困難なことにあいますと、すぐにおろおろしたり、あわてたり、べそをかいたりいたします。けれども、それはちょっと雲がかかっただけで、その雲が去ると、太陽がふたたび輝くのだと知っておれば、わたくしたちはどんなに落ちついて行動できることでしょうか。今日わたくしはそれを学ぶことができて、よかったと思います。わたくしたちは、中学を卒業致しますと、進学する人、就職する人の別こそありますけれど、一歩、大人の世界に近づくことでは同じだと思います。
大人の方々の前で失礼ですけれども、大人の中には意地の悪い人もあるのではないかと思います。でもわたくしたちは、その意地悪に負けてはならないと思います。どんな意地悪をされても困らないぞという意気込みが大切だと思うのです。泣かせようとする人の前で泣いては負けになります。その時にこそ、にっこり笑って生きて行けるだけの元気を持ちたいと思います。このこと一つだけでも、わたくしたち卒業生の一人一人の心の中にあるならば、今日お祝辞を下さった方々への御礼になるのではないかと思うのです。・・・・しどろ、もどろでつまらないことを申しあげましたが、これを以て第13回卒業生一同を代表致しましての答辞と致します」
陽子はていねいにおじぎをした。
嵐のような拍手が起こった。夏枝はめまいを感じた。拍手をされている陽子が憎かった。

しかし、拍手の中を降壇する陽子の心は、複雑であった。直感的に陽子は、夏枝の仕業であることを感じた。級友がすりかえるはずがなかった。陽子は学校にきて、一度も手放さなかったからである。

(ほんとうの母なら、こんなことは決してしない)
世のすべてから捨てられたような、深いしんとした淋しさであった。