和久峻三「失踪宣告」(講談社文庫)から。

この二人の若手弁護士の会話を聞いていると、いかにも、彼らが、警察や検察庁のやり口に対して、端から疑ってかかり、明白な根拠もないのに罪をおかした犯人をかばいだてしているかのように誤解するむきもあろうかと思われる。

だが、そういう考え方が、冤罪を招くことにもなる。
人権の擁護を至上命令と信じる真面目な弁護士なら、これが、当然の姿勢である。
仮りに、警察や検察庁に同意し、高塚琢治が自白したからには、ほんとうに罪をおかしたのだろうなどと思い込み、それにそうような弁護活動をする弁護士がいるとすれば、それこそ、弁護士倫理に反することであり、鼻持ちならない俗物というほかない。
良心的であればこそ、警察や検察庁の態度を疑ってかかるのだ。
司法権力に弁護士が同調すれば、公正な裁判など期待できないのだ。

弁護人が、故意に、被告人に対して、起訴事実を否認させようとしているとか、弁護士の権利を楯にとって真実を覆い隠し、報酬を目あてに真犯人を無罪にもち込もうとしているなどと考える人がいるとすれば、それこそ、デモクラシーに背を向ける考え方の持ち主であるというよりほかない。

良識ある法律学者の書物には、よく、こんな記述がある。「民主主義は、国家権力への不信から出発する」と。
権力を信頼してしまえば、それは、独裁への道を開くだけである。
ヒットラーを全面的に信頼し、彼に全権を託した第二次世界大戦中のドイツ国民の運命がどうなったかは、説明するまでもない。
わが国についても、似たような事態が、終戦直後までつづいていた。

それを思うとき、権力を疑うことが、デモクラシーへの第一歩であることが納得できるというものだ。