Wikipediaより転載です。
物外の逸話
雲水のころ
永平寺の学寮にいた頃の話である。ある朝、誰の仕業か、寺の釣鐘が下ろされていた。朝夕の行事の合図の鐘を鳴らすことができないため、困った雲水たちが総がかりで吊り直そうとしたが、鐘はびくともしない。そこへ物外がやってきて、「うどんをごちそうしてくれたら上げてやる」と言った。これを雲水たちが了承すると、物外は独りで軽々と鐘を持ち上げて、元の位置に釣下げた。「犯人」はむろん物外で、その後もうどんが食べたくなると、釣鐘を下ろしておいたという。永平寺には物外の手形のついた柱があり、指の痕が4本まで判然としていたと伝わる。
加賀の大乗寺では、「安芸の物外」といわれ、寺の柱を持ち上げて下に藁草履を履かせるなど、凝った悪戯をした。あるとき、寄食している雲水たちと役僧たちとで大喧嘩になり、これを取り鎮めるために寺の大旦那だった本多安房守が兵を差し向けた。しかし、兵の誰ひとりとして物外にかなう者がなく、片っ端から物外に本堂に投げこまれ、入り口の扉を閉められてしまった。大乗寺には3人がかりでないと動かないほどの大木魚があったが、このとき物外は独りでこれを投げつけて、割れ目を作ったという。この大木魚は現存する。
金沢滞在中、加賀前田家に新規召抱えになった、戸田流を創始した戸田越後守と力比べして決着がつかず、引き分けたという話が残る。勝負は橋の上で始まったが、橋の欄干が壊れて二人とも墜落した。しかし落下した河原でも組み合いが止まらず、河原の小石が十間から二十間も掘られたという。
江戸で
このころ、物外が浅草の古道具屋で碁盤を買ったという逸話がある。物外が碁盤を気に入り、「いくらだ」と尋ねると、店主は「一両二分でございます」と答えた。「いま金を持っていないから、後でもらいに来る。それまで他人に売らないでくれ」と物外が頼むと、店主は「何か、手付けでもいただければ」と催促した。「ああそうか、では」と物外は、碁盤を裏返して殴りつけた。「これならよかろう」。見ると、碁盤に拳骨の痕が付いていた。その後も物外は拳骨の痕のついた碁盤を何枚か残している。
同じころ、芝近辺に出没する三人組の辻斬りを懲らしめたり、刀のこじりが当たったことが原因で真剣勝負の決闘に及んだ会津、肥後の侍を調停したりしている。
物外の雨乞い
天保年中に日照りがつづいたとき、農民たちが物外に雨乞いを頼んだ。「よし」といって、物外は済法寺の鐘をはずして吉和村の海岸にかつぎ出した。二隻の船の間に鐘を繋いで海上に浮かべ、17日間昼夜を分かたず祈願した上で、今度は褌ひとつで鐘の竜頭に手をかけ、大喝して、二、三間も遠くの沖へ投げ込んだところ、沛然と雨が降り出したという。「物外さんの雨乞いは、効き目がある」ということになり、それからも日照りがあるたびに、物外は農民たちから雨乞いを頼まれるようになった。海中に投げ込まれた鐘はその後、漁師の網にかかって戻って来たが、鐘のイボが8個欠けていた。物外は「八大竜王が一個ずつ受納されたのだろう」といって村人を感心させたという。
済法寺時代
ある日、備後三原城主・浅野甲斐守が床の間の掛軸を変えるために絵師を呼んで絵を描かせた。絵師は太陽を背に羽ばたく一羽の雁を描いたが、甲斐守は喜ぶどころか「雁は群れをなして飛ぶもの。一羽で飛ぶとは謀反の兆しであり縁起でもない」と機嫌を悪くしてしまった。絵師も家臣も困り果ててしまったが、たまたま三原城へ参殿していた物外がその絵に「初雁や またあとからも あとからも」と賛を入れた。物外の賛を読んだ甲斐守の機嫌はたちまち直り、絵は無事床の間に飾られることになった。
嘉永元年(1848年)、文人画の名手として知られた貫名海屋が物外を訪問して力業を見せてもらいたいと頼んだ。物外は寺の裏の竹林に入り、素手で竹の枝葉をしごき落とし、指先で拉いで襷掛けし、門人と剣術をして見せた。次に、物外の腰に船のとも綱を巻き付け、4人の相撲取りにをこれを持たせて力の限りに引っ張らせたが、物外はビクともしなかったという。
同じころ、九州から武者修行者が済法寺へやってきた。和尚と対面してお茶を喫み、雑談をしていたところ、武士はいきなり手にした茶碗を鷲づかみにして、砕いてみせた。そこで物外が自分の茶碗を指3本で3度回し、指先で茶碗を微塵に砕いて見せたところ、武士は降参して帰った。
済法寺の門前に高さ2尺余、幅3尺、長さ7尺ほどの花崗岩の手水鉢がある。ある日、物外が中庭の掃除をしているとき、ひとりの武者修行者が訪ねてきた。「物外和尚は御在宅でござるか」と聞くので、またか、と面倒くさくなった物外は、「ただいま不在であります」と答え、左手で手水鉢の一角をもち上げ、右手の箒で石の下のゴミを掃き出した。見ていた武士は驚いて退散した。
尾道では、船着場の仲仕たちと賭をして、米俵16俵を一肩で担いだという。尾道から大坂に向かう荷船を海中で引き留め、舞子の浜まで引き上げて乗せてもらったという話もある。
近藤勇との対決
国立国会図書館近代デジタルライブラリー『物外和尚逸傳』(高田道見 明治37年)第十武藝 58ページ によれば、物外が京の町を托鉢中、新選組の道場を覗いていたところを隊士が目をつけ、からかい半分で強引に道場に連れ込んだ。ところが、物外は手にした如意で隊士たちを次々に叩き伏せてしまった。「やめろ、やめろ。君たちの手に負える坊様じゃない」と、見ていた近藤勇が出てきた。近藤が名乗って、竹刀での立ち合いを望んだところ、物外は「坊主に竹刀は似合わんでな。如意がいやなら、この椀でお相手つかまつろう」と、ずだ袋から托鉢用の木椀を二つ取り出した。新選組の近藤と聞いてなおこの反応に、ムッとした近藤勇、それならばと槍を取る。物外は右腕を正眼に突き出し、左腕は斜めに振り上げた。指先で一つずつ、木椀の糸底をつまんでいる。「さあ、どこからでも突いておいで」。いくら酔狂な坊主でも抜き身の槍を見れば震え上がるだろうと思っていた近藤のまなじりに、怒気が上ってきた。「ええ、口幅ったいやつだ」。大喝とともに槍をくり出すが、物外、ひょいと身をかわして、突き出された槍のけら首を木椀で挟み込んだ。近藤が引こうが、突こうが、動かばこそ。満身の力を込めて引っぱるところ、機を見て物外が木椀をはずすと、近藤は自分の力で二、三間も後ろへ飛ばされ、道場の床板に尻餅をついたという。

物外の逸話
雲水のころ
永平寺の学寮にいた頃の話である。ある朝、誰の仕業か、寺の釣鐘が下ろされていた。朝夕の行事の合図の鐘を鳴らすことができないため、困った雲水たちが総がかりで吊り直そうとしたが、鐘はびくともしない。そこへ物外がやってきて、「うどんをごちそうしてくれたら上げてやる」と言った。これを雲水たちが了承すると、物外は独りで軽々と鐘を持ち上げて、元の位置に釣下げた。「犯人」はむろん物外で、その後もうどんが食べたくなると、釣鐘を下ろしておいたという。永平寺には物外の手形のついた柱があり、指の痕が4本まで判然としていたと伝わる。
加賀の大乗寺では、「安芸の物外」といわれ、寺の柱を持ち上げて下に藁草履を履かせるなど、凝った悪戯をした。あるとき、寄食している雲水たちと役僧たちとで大喧嘩になり、これを取り鎮めるために寺の大旦那だった本多安房守が兵を差し向けた。しかし、兵の誰ひとりとして物外にかなう者がなく、片っ端から物外に本堂に投げこまれ、入り口の扉を閉められてしまった。大乗寺には3人がかりでないと動かないほどの大木魚があったが、このとき物外は独りでこれを投げつけて、割れ目を作ったという。この大木魚は現存する。
金沢滞在中、加賀前田家に新規召抱えになった、戸田流を創始した戸田越後守と力比べして決着がつかず、引き分けたという話が残る。勝負は橋の上で始まったが、橋の欄干が壊れて二人とも墜落した。しかし落下した河原でも組み合いが止まらず、河原の小石が十間から二十間も掘られたという。
江戸で
このころ、物外が浅草の古道具屋で碁盤を買ったという逸話がある。物外が碁盤を気に入り、「いくらだ」と尋ねると、店主は「一両二分でございます」と答えた。「いま金を持っていないから、後でもらいに来る。それまで他人に売らないでくれ」と物外が頼むと、店主は「何か、手付けでもいただければ」と催促した。「ああそうか、では」と物外は、碁盤を裏返して殴りつけた。「これならよかろう」。見ると、碁盤に拳骨の痕が付いていた。その後も物外は拳骨の痕のついた碁盤を何枚か残している。
同じころ、芝近辺に出没する三人組の辻斬りを懲らしめたり、刀のこじりが当たったことが原因で真剣勝負の決闘に及んだ会津、肥後の侍を調停したりしている。
物外の雨乞い
天保年中に日照りがつづいたとき、農民たちが物外に雨乞いを頼んだ。「よし」といって、物外は済法寺の鐘をはずして吉和村の海岸にかつぎ出した。二隻の船の間に鐘を繋いで海上に浮かべ、17日間昼夜を分かたず祈願した上で、今度は褌ひとつで鐘の竜頭に手をかけ、大喝して、二、三間も遠くの沖へ投げ込んだところ、沛然と雨が降り出したという。「物外さんの雨乞いは、効き目がある」ということになり、それからも日照りがあるたびに、物外は農民たちから雨乞いを頼まれるようになった。海中に投げ込まれた鐘はその後、漁師の網にかかって戻って来たが、鐘のイボが8個欠けていた。物外は「八大竜王が一個ずつ受納されたのだろう」といって村人を感心させたという。
済法寺時代
ある日、備後三原城主・浅野甲斐守が床の間の掛軸を変えるために絵師を呼んで絵を描かせた。絵師は太陽を背に羽ばたく一羽の雁を描いたが、甲斐守は喜ぶどころか「雁は群れをなして飛ぶもの。一羽で飛ぶとは謀反の兆しであり縁起でもない」と機嫌を悪くしてしまった。絵師も家臣も困り果ててしまったが、たまたま三原城へ参殿していた物外がその絵に「初雁や またあとからも あとからも」と賛を入れた。物外の賛を読んだ甲斐守の機嫌はたちまち直り、絵は無事床の間に飾られることになった。
嘉永元年(1848年)、文人画の名手として知られた貫名海屋が物外を訪問して力業を見せてもらいたいと頼んだ。物外は寺の裏の竹林に入り、素手で竹の枝葉をしごき落とし、指先で拉いで襷掛けし、門人と剣術をして見せた。次に、物外の腰に船のとも綱を巻き付け、4人の相撲取りにをこれを持たせて力の限りに引っ張らせたが、物外はビクともしなかったという。
同じころ、九州から武者修行者が済法寺へやってきた。和尚と対面してお茶を喫み、雑談をしていたところ、武士はいきなり手にした茶碗を鷲づかみにして、砕いてみせた。そこで物外が自分の茶碗を指3本で3度回し、指先で茶碗を微塵に砕いて見せたところ、武士は降参して帰った。
済法寺の門前に高さ2尺余、幅3尺、長さ7尺ほどの花崗岩の手水鉢がある。ある日、物外が中庭の掃除をしているとき、ひとりの武者修行者が訪ねてきた。「物外和尚は御在宅でござるか」と聞くので、またか、と面倒くさくなった物外は、「ただいま不在であります」と答え、左手で手水鉢の一角をもち上げ、右手の箒で石の下のゴミを掃き出した。見ていた武士は驚いて退散した。
尾道では、船着場の仲仕たちと賭をして、米俵16俵を一肩で担いだという。尾道から大坂に向かう荷船を海中で引き留め、舞子の浜まで引き上げて乗せてもらったという話もある。
近藤勇との対決
国立国会図書館近代デジタルライブラリー『物外和尚逸傳』(高田道見 明治37年)第十武藝 58ページ によれば、物外が京の町を托鉢中、新選組の道場を覗いていたところを隊士が目をつけ、からかい半分で強引に道場に連れ込んだ。ところが、物外は手にした如意で隊士たちを次々に叩き伏せてしまった。「やめろ、やめろ。君たちの手に負える坊様じゃない」と、見ていた近藤勇が出てきた。近藤が名乗って、竹刀での立ち合いを望んだところ、物外は「坊主に竹刀は似合わんでな。如意がいやなら、この椀でお相手つかまつろう」と、ずだ袋から托鉢用の木椀を二つ取り出した。新選組の近藤と聞いてなおこの反応に、ムッとした近藤勇、それならばと槍を取る。物外は右腕を正眼に突き出し、左腕は斜めに振り上げた。指先で一つずつ、木椀の糸底をつまんでいる。「さあ、どこからでも突いておいで」。いくら酔狂な坊主でも抜き身の槍を見れば震え上がるだろうと思っていた近藤のまなじりに、怒気が上ってきた。「ええ、口幅ったいやつだ」。大喝とともに槍をくり出すが、物外、ひょいと身をかわして、突き出された槍のけら首を木椀で挟み込んだ。近藤が引こうが、突こうが、動かばこそ。満身の力を込めて引っぱるところ、機を見て物外が木椀をはずすと、近藤は自分の力で二、三間も後ろへ飛ばされ、道場の床板に尻餅をついたという。





