2022年01月

"ラバーメン"樋上蔦雄11〜新格闘技⁉︎"柔道レスリング"とは?〜

樋上蔦雄は現役時代の最末期に、現役引退後のライフ・ワークとして?永住の地・ハワイに「柔道レスリングの教授所」設立の構想を表明しています。

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(日布時事1941.7.15)

「○当地公会館に於いての我等のレスラーとして妙技を発揮し観衆の人気を一身に集めている樋上蔦雄氏が此の度布哇(ハワイ)に永住の決意を固め、同氏が過去二十余年の経験を応用した柔道レスリングを広く伝えるため近く当地に柔道レスリング教授所を開設する計画があることが判明した。

○柔道レスリングとは柔道とレスリングの長所を取り入れた樋上氏独特のものであるから、柔道とは可成りの相違があり、その点は布哇(ハワイ)柔道有段者会ならびに武徳会布哇(ハワイ)支部の誤解なき様に了解してもらいたいとのこと。

○以下樋上氏談、布哇は今回三度目で第二の故郷だと思っていますので、当地に永久にお世話になりたいと思っています。この度日本人有志の方々から柔道レスリングの教授をしてはどうか、出来るだけの後援はしてやると言ってくれるので、私もその決心をしました。具体的な事は後日発表するとして、今日はただ柔道レスリング教授所の開設は事実であるという事だけ発表させて下さい。」

とのこと。

つまり、「柔道レスリングの教授所」とは、

「柔道とレスリングの教授所」

ではなくて、

「柔道(&柔術)と(キャッチ)レスリングを融合した、(打撃系格闘技にも対応できる?)樋上オリジナルの新格闘技の教授所」

と解釈できるのです。




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(ハワイ・タイムズ1945.10.27)



終戦後実現した樋上(と工藤嘉門)の道場は、設立当初は普通の柔道の道場だったようですが。

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(ハワイ・タイムズ1949年1月21日号)

1949年1月には、戦前にアメリカ本土でアド・サンテルと対戦した柔道家の太田節三が来島。 樋上&工藤の柔道道場の指導に加わります。
そして、ここには「素人レスリング及び職業レスリングの教授もする由である」との記述。アマチュアレスリングやプロレスリングの指導もする、ということが書かれているのです!


しかし、この「柔道レスリング」って。


1990年代初頭に、


ハワイ出身の日系人柔術家のエンセン井上と、七帝柔道(高専柔道)出身で(カール・ゴッチ→佐山聡経由の)キャッチ・レスリングの継承者でもある中井祐樹との邂逅により、日本でもかなりそれに近いものが実現しているじゃあないか!という。



そして樋上蔦雄が主戦場としたアメリカ西海岸やハワイをはじめ、今日世界中で「ギ」と「ノーギ」、道衣ありも道衣なしも、どちらも練習する、どちらも試合に出る、そういう組み技文化が確立してたいへん盛り上がっているじゃあないか!という。


樋上蔦雄はまさに先駆者ですね!

80年もの昔に、このようなものを、(一部の限られたプロフェッショナル対象ではなく)一般向けの「教授所」として始めていたという!





1993年のグレイシー柔術やUFCの出現により、木村政彦や前田光世が再注目をされた訳ですが。


こういった歴史に埋もれた「柔を世界に広めし者」はまだまだたくさんいるんだなあ、と思いました。











・1921年の「サンテル事件」。衝撃をもたらしたアメリカのプロレスラーのアド・サンテルの来日と日本柔道への挑戦は、実は事件後も米大陸で続行していた。

・その闘いの中心になったのは、樋上蔦雄という柔道家(のちにプロレスラー)で、二人の闘いは複数回行われた。

ってところに興味を持って、それから樋上蔦雄についていろいろ調べるようになったのですが。


○サンテルとの闘いは、少なくとも4回、おそらくそれ以上行われている。それも、「サンテル事件」の少しあとから、1920年代末までの長いスパンで。

○その寝技技術は、現代のMMAやブラジリアン柔術に連なる、非常に高度なものであった。

○世界各地に「現代プロレスの原形」を広めるのに貢献している。特に日本とハワイ。

○樋口蔦雄は、事実上ハワイの(現代的なスタイルの)プロレスのパイオニアかつ、戦前のハワイ・マットの看板レスラー・大スターであった。

○戦前のハワイ・マットの「主に日本人(日系人)観客を対象にした日本人プロレスラーによるプロレス興行」は、のち戦後の日本の(主に力道山の)プロレス興行に影響した。またその時代のハワイ・マットのOBたちは、舞台裏でも多大な貢献をした。


などなどのことがわかって、本当に驚きました。

しかし、このような人物が、そしてその多大なる功績が、ほとんど全く歴史に埋もれてしまっているというのは大きな謎で。


というか、本人も戦後はほとんど表舞台に出ていない(しかし力道山・木村政彦・山口利夫など、日本のプロレス創成期のプロレスラーたちに、転向時にトレーナーをしている。舞台裏で多大な貢献)。


あえて裏方に徹したんだろうと。




などなど考えさせられる部分もあったにしろ、あまりに驚かされることばかりですので、とりあえず書いてみたら、結果思わぬ大作?になってしまいました。


何をこんな100年近くも前のことをツラツラと、って思われた方が大半かと思いますが。


「こんな人がいたんだ」「こんな歴史があったんだ」


そう感じる方が少しでもいてくださったらなあと。





これでひとまずシリーズ終わりにします。










第一回〜1933年のオモプラッタ〜


第二回〜戦前ハワイの邦人紙「日布時事」にてテクニック解説記事連載。驚愕の内容!〜


第三回〜その生い立ちからアド・サンテルとの闘いまで〜


第四回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第一戦〜


第五回〜樋上蔦雄VS高橋精造〜


第六回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第二戦〜


第七回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第三戦〜


第八回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第四戦〜


第九回〜世界各地へ1〜


第十回〜世界各地へ2〜







"ラバーメン"樋上蔦雄⑩〜世界各地へ2〜

話は戻って、

樋上蔦雄が、1928年のオーストラリアから始まり、1933年に2度目のハワイ上陸を果たすまでの間。

メキシコ
キューバ

そしてイギリス

時代のことも書こうかと思います。

とは言っても、この時代については邦字新聞には記録が残っておらず、僕の推測が中心になります。

イギリスの現代的なプロレスの原形(イギリスでは「オールイン」と呼ばれたそうです)の始まりについては、

那嵯涼介さんの「最強の系譜 プロレス史 百花繚乱(新紀元社)」に非常に詳細に書かれています。




競技的なスタイルであったイギリスの元来からのプロレスリングが、第一次世界大戦の影響もありいったん衰退し、それが1930年にアメリカから来た「ベニー・シャーマン」と「ヘンリー・アースリンガー」という二人のプロレスラーによって、当時のアメリカンスタイルの本場のプロレス、現代的なプロレスの原形とも言えるスタイルによって復興した、ということらしいです。

この「オールイン」の旗揚げ戦は、1930年の年末に行われているのですが(なんと映像が残っています!)



樋上の渡英は1931年。

つまり「オールイン」の旗揚げ直後なのです。

そして、このイギリス「オールイン」興行を立ち上げた一人の「ベニー・シャーマン」と樋上は、実は1928年にアメリカで(おそらく)対戦しているのです。

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(新世界1928.1.25)

記事にファーストネームがないので完全に断定できないのですが、「オレゴン」というシャーマンの地元で行われていることと、「素人(※アマチュア、という意?)中量級選手権者」という記述があるので、ほぼ間違いないと思います。

この「ベニー・シャーマン」はあの「プロレスの神様」カール・ゴッチが「最強のレスラーのひとり」として名を挙げるほどの伝説的なプロレスラーなのですが。

1928年の1月の時点では19歳。
それもまだ正式なプロデビューよりかなり前で、この時点での勝ち負けを論ずるのはあれですね。

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(新世界1927.3.19)

ちなみに樋上は、シャーマンと対戦した前年1927年に、シャーマンの師匠の一人であると言われているテッド・タイに柔道マッチで勝利しています(タイは1922年に樋上の師匠の三宅太郎に勝利しています。また樋上はタイとは翌1928年にオーストラリア遠征に同行したらしいです)。



樋上とシャーマンは1950年に木村政彦がプロレス転向する際に共にコーチにつくのですが。

もうこの1928年時点でつながりが生まれていたのではないでしょうか?

そのためにシャーマンは、イギリスで自身で旗揚げした「オールイン」に樋上をすぐに招聘したのではないでしょうか?

「オールイン」の特徴、「見せるためのさまざまな工夫」そして「高度な寝技技術・サブミッション」の腕を見込んで。

そして同様に樋上のこの時期の世界各国への遠征は、


「現代プロレスの原形」がアメリカから「輸出」されるにあたって、樋上の「高度な寝技技術・サブミッション」の腕が見込まれてのことであったのではないか、と僕は推測するのです。

ちなみに、

アメリカ
メキシコ
キューバ
イギリス

というのは、それぞれ"コンデ・コマ"前田光世が回ったルートでもあり

特にメキシコでは、1933年にEMLL(現在のCMLL)という団体が創立され、本格的な現代プロレスの歴史がはじまっているのですが。

そのスタートに際し、前田光世に柔術を習ったその弟子たちの影響がかなりあったと言われています。

しかし、その年1933年により近い時期に来訪し、またより現代プロレスに近いスタイルであった樋上たちの影響というのもあったのではないかと僕は思うのです。


またこの時期他には、1932年アメリカでとある日本人選手と日本人対決を行い(プロレスリング試合)2-1で勝利しています。

この日本人選手というのが、渡米以前には某強豪大学の主将=かなりの強豪柔道家、だったようです。


前回触れた1933〜1936年の樋上の2度目のハワイ来島、そして永住を決めた1940年の3度目の来島。

実はこの3度目の来島以降が、真珠湾攻撃→日米戦争を挟んで相当すごくて。

いかに戦後の日本のプロレスに、特に力道山のプロレスに、戦前のハワイにおける「日本人(日系人)観客を対象にした日本人レスラーによるプロレス」が影響しているか。


また、表面上だけではなく、その裏側でいかに戦前のハワイ&西海岸の日本人プロレスラーOB達が、そしてそのネットワークが支えとなってきたか。

特に「伝統ある米西海岸&ハワイ日本人ファイターの、正統派としての系譜を本来受け継ぐはずだったある男」は、1963年12月15日に力道山が刺殺されるその日まで、人知れず(?)「ブレーン」の役目を務め続け、力道山の数々の大ヒット企画に関与しています。

表舞台では、戦前のハワイマットでの姿とは真逆の「悪」を演じながら。



戦前のハワイマット界は「戦後日本のプロレス・高天原」だと思います。

まだ世間に知られていない驚きの事実が数々あります。






…ても、その辺のことを格闘技ジムのブログに書くには、すでにかなり内容的に逸脱していると思うので(柔術ともMMAとも、あるいは柔道とももはやほとんど関係ない)。
多分続きを書くなら、別のブログなりを立ち上げて書こうと思います。






しかし、最初は「サンテル事件」(1921年にアメリカのプロレスラーのアド・サンテルが来日。講道館柔道に挑戦状)以降も、サンテルの日本柔道への挑戦は続いていた、特に樋上蔦雄とは複数回に渡って戦った、ということに興味を持ったことにはじまって。

その辺の経緯
 ↓


「スタンフォード・デジタル・コレクション」から戦前の在外法人向けの邦字新聞の記事を調べていったら、次から次へと驚きの事実が続出してしまい、それでこのブログ投稿シリーズもえらい大作になってしまったという!

次回でとりあえず最終回にします。

"ラバーメン"樋上蔦雄⑨〜世界各地へ1〜

"ラバーメン"樋上蔦雄は、1928年のオーストラリア遠征をスタートに、1933年に(2度目の)ハワイ滞在に至るまで、

アメリカ→オーストラリア→メキシコ→キューバ→イギリス→ハワイ

へと、「世界漫遊の旅」へ赴きます。
情報ソースは
 ↓
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(日布時事1933.8.17)

この旅には、"ある重要な意味"があったと思うのです。

「戦前の邦人新聞の記事」を情報ソースとしているため、ハワイや米西海岸以外、オーストラリア・メキシコ・キューバ・イギリスでの樋上の活動については推測にしかなりませんが。

1933年時におけるハワイでの記事を参考(根拠)にすると、

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(マウイ新聞1933.08.29)

「(略)
此の西洋角力を見て往年のそれと甚だしく変化した形でただひたすら観客を喜ばせる方法を弄すものに驚いた。大体の取組方は日本角力のショッキリという所であるが、殴る、蹴る、噛み付く、頭髪を引っ張る、喧嘩の真似をする、場外へ飛び出す、終始冗談ばかりやるので滑稽である。」





と(ネガティブな感じにですが)書かれているのです。

それでは、「往年のそれ」というのがどういうものであったのか?

ハワイのプロレス 、というか格闘技興行史を辿ってみますと。



以下

「平成 23 年度 日本体育協会スポーツ医・科学研究報告 III
日本体育協会創成期における体育・スポーツと今日的課題 −嘉納治五郎の成果と今日的課題−
−第 2 報−」参照。

1916年北山弥次郎(尚武館・師範)、三宅太郎(柔術/レスラー)とともに興行。ちなみに三宅も岡山県出身。
1922年高橋精造(アド・サンテルと一敗一分)がレスラー・クラハムに勝ち、ボクサー・モリスと一勝一敗。
1925年樋上蔦雄がアド・サンテルと試合。第一戦引き分け第二戦敗退。尚武館の北山がレフリーを務めている。
1931年三宅太郎がハワイで「沖の海」(愛称オキ・シキナ、後に力道山のコーチ務める)に出会い、指導する。三宅がサンテルと組んで興業試合を行う。









という風で、樋上(たち)の1933年の2度目の来島以前にハワイで行われていた格闘技興行は(他に行われたレスリング興行も含めて)、わりと競技的な大会・試合ばかりだったらしいのです。

つまり、この1933年の樋上たちのものが、ハワイでは初めての現代的なプロレスリングの興行だったようなのです。

これは、「現代プロレスの原形」の(アメリカ国外への)「輸出」だったのではないかと思うのです。





くわしくはWikipediaの「プロレスの歴史」を参照して欲しいのですが。


プロレスリングが従来のアマチュア・レスリングに近い形のものから変化して、現代プロレスに近いものになったのが1920年代だったらしくて。
そしてアメリカで出来たこのスタイルが世界に広まりだした、世界各地への「輸出」が行われ出したのは、1920年代の半ばからだったらしいのです。





画像記事の「往年のそれと甚だしく変化した」っていうのは、そういう事だったのではないかと思うのです。

競技的なレスリングや柔道の試合しかみたことがなかった人が、樋上たちによって「輸出」された、「見せる工夫」のされた現代的なプロレスリングを初めて見て困惑した、という。




「マウイ新聞」にはこんな受け取られ方だったのですが、樋上たちのプロレス興行は現地で大人気となりました。

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(日布時事1940.6.19)

「1933年の8月、ピートと第一戦を交えてから樋上さんは忽ち公会館(※シビック・オーデトリアム)のドル箱となり、超満員は日常茶飯事になるほど人気があった。従って収入も毎月千ドルを下らないという豪勢さだった。その代わり使う事も派手で、まるで湯水を流すようだった。料理屋で夜明かし呑む場合も決して酔い潰れたりしなかった。確かに強いことも強いのだが、バカ呑みをしないで盃でチビリチビリやるころに前後不覚にならぬコツがあったそうだ。

人気レスラーで終わることに満足しない樋上さんは、一時プロモーターとして立った。これは組織に欠陥があって結局は失敗に帰してしまったが、山男ディーンを招聘して一万に近い観衆を収容する大ホームランをかっ飛ばしたり、志熊俊一(※キラー志熊)君をレスリングに転向させたりして、大きな話題を残した。米大陸でも志熊くんが大成するまでの約一年間マネージャー格として面倒をみていたそうである。」

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(日布時事1941.11.18)

「レスラー樋上の名を知ったのは八年前であったと記憶する。その頃の樋上は鶏群の一鶴として光り輝き、公会堂(シビック・オーデトリアム)のドル箱として屋台骨を一人で背負っていたことを想起せざるにはいられない。樋上の形に付き添う影の如く満員札止めの盛況が続き、レスリング黄金時代を創したのであった。

数年後樋上の去ったハワイにもレスリングは継続されたが、漸次下り坂を辿り、(アル)カラシックの同時となってミドル級よりヘヴィー級への転換に局面の打開が講じられたのであるが、カラシックの折角の努力も兎角水泡に帰しがちであった。

そこで再びジュニアー・ヘヴィー級へと目先を変え樋上を招聘することによって新興へのスタートを切り加うるに国防景気に恵まれ爾後殆ど順風満帆に近い好結果を挙げている。」






ということで、樋上は1933年からの2度目のハワイ滞在時では、

「ドル箱として屋台骨を一人で背負っていた」

「樋上の形に付き添う影の如く満員札止めの盛況が続き、レスリング黄金時代を創した」

というまでの存在、つまりハワイマット界の大エースだったらしいのです。

あとこの時期には「世界ジュニア・ミドル級王者」を名乗ってタイトルマッチを多数行なっています(1930年代のプロレス界は世界タイトルが乱立していたらしく、樋上のこのタイトルがどういうものか詳細は不明)。

さらには、「人気レスラーで終わることに満足しない」でプロモーター業も。





これも、調べてみると樋上は「汎太平洋運動倶楽部」なる団体に、

自分自身と、柔道から転向の志熊俊一(のちのキラー志熊)と、1931年ハワイで三宅太郎がスカウトしアメリカ本土でプロレス・デビューしていた沖識名(力道山の日本プロレスでレフェリー)を所属にしてこの時期(1933〜1936)に自身のプロモートする興行を何度も行なっています。

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(実業のハワイ1935.1.1)

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(ハワイ報知1935.2.15)

(2022.7.5加筆。「汎太平洋運動倶楽部」についてさらに情報ありました。「檀山流柔術(檀山=ハワイ、の意味。つまりハワイアン柔術)の創始者の岡崎星史郎氏が代表だったそうです)
↓




僕も、樋上を追うまでは全く知らなかったのですが、戦前日米開戦前の時点で、ハワイでは全人口の40%以上、つまり人種別では日本人(日系人)が一番多く生活していたそうなのです。

そのため、それらの興行は、実は「日本人(日系人)観客を対象にした日本人レスラーを中心にしたプロレス興行」だったらしいのです。

つまり、戦後の日本のプロレスの原形が作られはじめていた、ということです。


でもそれは、

「組織に欠陥があって結局は失敗に帰してしまった」

ために樋上はアメリカ本土に戻ってしまったのですが(※1933〜1936の間、何度かアメリカ本土と往復してはいる)。



しかしその数年後、





「(アル)カラシックの登場となってミドル級よりヘヴィー級への転換に局面の打開が講じられたのであるが、カラシックの折角の努力も兎角水泡に帰しがちであった。
そこで再びジュニアー・ヘヴィー級へと目先を変え樋上を招聘することによって新興へのスタートを切り加うるに国防景気に恵まれ爾後殆ど順風満帆に近い好結果を挙げている。」




ということで、樋上は1940年に三たびハワイへ訪れ、再びハワイ・マットのエースの座に返り咲きます。





1941年12月7日(現地時間)

真珠湾攻撃→日米開戦

その時まで。




そのわずか18日前、11月19日に行われた自身のプロ生活20周年を祝う「樋上ナイト」。

皮肉にもその時の試合が、樋上格闘技人生最後の試合(記録に残る限り)になってしまったという。

本人の意向・都合とは全く関係なく。

そして、その「樋上ナイト」において、


ハワイ・マットのエース

日系移民コミュニティのヒーロー


その座を樋上から禅譲された(「樋上ナイト」前、そして以後、メインイベントの座をまかされています)男、1910年代の伊藤徳五郎や三宅太郎から続く、米西海岸&ハワイ日本人ファイターの伝統、その正統派としての系譜を本来受け継ぐはずだったある男の運命も、ありえないほどに急転します。

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(日布時事1941.11.18「樋上ナイト」前日の記事。写真上が樋上で下が"伊藤"。対等の大きさに並べられる=後継者と目されていただろうことがわかる。このレスラーの正体とその後がまさに驚愕!)



でも、どういうわけか現在、

日本語で

「ハワイ プロレス 歴史」

と検索しても、

英語で

「Hawaii history pro wrestling」

で検索しても、



「アル・カラシックが1936年に〜」

に始まる史実しかヒットしません。





それ以前の樋上蔦雄や志熊俊一や沖識名の名前や活躍があまりヒットしません。



それどころか、1936年以降のカラシック体制になってからでも、

1940年に来島するカモン工藤(工藤嘉門、工藤嘉右門)や、

そして1941年に来島、米西海岸&ハワイ日本人ファイターの、正統派としての系譜を受け継ぐはずであった"伊藤"の、

名前や活躍もなぜだかほとんどヒットしないのです。




カモン工藤の試合動画。

ハワイではなくニューヨークで行われた試合のものですが。

カモン工藤は、伊藤徳五郎も指導した北米最古の柔道道場で、100年以上の歴史をもち、そして現存もしている「シアトル道場」の出身だそうです。

"ラバーメン"樋上蔦雄⑧〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第四戦〜

「樋上蔦雄VSアド・サンテル」の第4戦は、1927年2月18日、シアトル市ワシントン・ホールで行われました。

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(日米新聞1927.2.20)

1R
ヘッドロックとボディシザースのコンビネーション(ギロチン・チョーク?)で樋上失神。サンテル勝利。

2R
時間切れドロー。

3R
襟絞めでサンテル失神。樋上勝利。

1-1のドローでした。


サンテル第4戦後樋上は全米各地を転戦。
翌年の1928年5月にオーストラリアへ向かいます。

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(新世界1928.3.29)


オーストラリアには、おそらくサンテルと一緒だったのではないかと思います(邦字新聞には見つけられませんでしたが、英語サイトでアド・サンテルやテッド・タイらとのツアーだったとありました)。

そして現地で再びサンテル戦が行われたのではないかと。


この年の11月、ほぼ同じ時期に二人ともオーストラリアからアメリカに帰ってきています。

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(日米新聞1928.11.24)
樋上帰米。

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(新世界1928.11.27)
サンテル帰米。



2枚目画像の記事に「今夏オーストラリアにおけるライト・ヘヴィー・ウェートの選手権大會に出場すべく選ばれ」って書いてありますが。

サンテルの持つ「世界ライトヘビー級選手権」をかけた樋上との試合が行われたのでしょうか!?


このオーストラリア遠征を皮切りに、樋上は世界各地を飛び回るようになります。

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(日布時事1933.8.17)

上の記事によれば、樋上はオーストラリアから帰米後アメリカ各地を転戦。
その後メキシコからキューバへ。

1931年にはイギリスへ。

そして1933年に再びハワイへと渡ります。

ここからは仮説になりますが。

1928年のオーストラリア遠征から始まる樋上の世界各地への遠征は、"ある重要な意味"を持つのではないかと。


"ラバーメン"樋上蔦雄⑦〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第三戦〜

1925年6月20日、ハワイのモイリリ・スタジアムで行われた2度目の「樋上蔦雄VSアド・サンテル」戦。

それから間髪入れず、第3戦は7月4日に行われました。

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(日布時事1925.7.7)

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(日布時事1925.7.7)

1R
樋上絞めで勝利。

2R
サンテル、アームロックで勝利。

樋上肩脱臼で決勝ラウンド棄権。

サンテル勝利。


肩脱臼→ダブルリスト・ロック(腕がらみ、キムラロック、チキンウイングアームロック)か?


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(日米新聞1926.11.15)

樋上は3度目のサンテル戦後も、1926年の年末までハワイに滞在し、ハワイ各地で柔道の指導を行ったり、プロレス試合に出場したりしていたようです。

また、滞在中に他にオーストラリアにも遠征し、3試合行ったそうです。

ハワイからアメリカ本土に戻った後にはシアトルに向かいます。

シアトルでは4度目のサンテル戦が行われました。
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