樋上蔦雄は現役時代の最末期に、現役引退後のライフ・ワークとして?永住の地・ハワイに「柔道レスリングの教授所」設立の構想を表明しています。
(日布時事1941.7.15)
「○当地公会館に於いての我等のレスラーとして妙技を発揮し観衆の人気を一身に集めている樋上蔦雄氏が此の度布哇(ハワイ)に永住の決意を固め、同氏が過去二十余年の経験を応用した柔道レスリングを広く伝えるため近く当地に柔道レスリング教授所を開設する計画があることが判明した。
○柔道レスリングとは柔道とレスリングの長所を取り入れた樋上氏独特のものであるから、柔道とは可成りの相違があり、その点は布哇(ハワイ)柔道有段者会ならびに武徳会布哇(ハワイ)支部の誤解なき様に了解してもらいたいとのこと。
○以下樋上氏談、布哇は今回三度目で第二の故郷だと思っていますので、当地に永久にお世話になりたいと思っています。この度日本人有志の方々から柔道レスリングの教授をしてはどうか、出来るだけの後援はしてやると言ってくれるので、私もその決心をしました。具体的な事は後日発表するとして、今日はただ柔道レスリング教授所の開設は事実であるという事だけ発表させて下さい。」
とのこと。
つまり、「柔道レスリングの教授所」とは、
「柔道とレスリングの教授所」
ではなくて、
「柔道(&柔術)と(キャッチ)レスリングを融合した、(打撃系格闘技にも対応できる?)樋上オリジナルの新格闘技の教授所」
と解釈できるのです。
(ハワイ・タイムズ1945.10.27)
終戦後実現した樋上(と工藤嘉門)の道場は、設立当初は普通の柔道の道場だったようですが。
(ハワイ・タイムズ1949年1月21日号)
1949年1月には、戦前にアメリカ本土でアド・サンテルと対戦した柔道家の太田節三が来島。 樋上&工藤の柔道道場の指導に加わります。
そして、ここには「素人レスリング及び職業レスリングの教授もする由である」との記述。アマチュアレスリングやプロレスリングの指導もする、ということが書かれているのです!
しかし、この「柔道レスリング」って。
1990年代初頭に、
ハワイ出身の日系人柔術家のエンセン井上と、七帝柔道(高専柔道)出身で(カール・ゴッチ→佐山聡経由の)キャッチ・レスリングの継承者でもある中井祐樹との邂逅により、日本でもかなりそれに近いものが実現しているじゃあないか!という。
そして樋上蔦雄が主戦場としたアメリカ西海岸やハワイをはじめ、今日世界中で「ギ」と「ノーギ」、道衣ありも道衣なしも、どちらも練習する、どちらも試合に出る、そういう組み技文化が確立してたいへん盛り上がっているじゃあないか!という。
樋上蔦雄はまさに先駆者ですね!
80年もの昔に、このようなものを、(一部の限られたプロフェッショナル対象ではなく)一般向けの「教授所」として始めていたという!
1993年のグレイシー柔術やUFCの出現により、木村政彦や前田光世が再注目をされた訳ですが。
こういった歴史に埋もれた「柔を世界に広めし者」はまだまだたくさんいるんだなあ、と思いました。
・1921年の「サンテル事件」。衝撃をもたらしたアメリカのプロレスラーのアド・サンテルの来日と日本柔道への挑戦は、実は事件後も米大陸で続行していた。
・その闘いの中心になったのは、樋上蔦雄という柔道家(のちにプロレスラー)で、二人の闘いは複数回行われた。
ってところに興味を持って、それから樋上蔦雄についていろいろ調べるようになったのですが。
○サンテルとの闘いは、少なくとも4回、おそらくそれ以上行われている。それも、「サンテル事件」の少しあとから、1920年代末までの長いスパンで。
○その寝技技術は、現代のMMAやブラジリアン柔術に連なる、非常に高度なものであった。
○世界各地に「現代プロレスの原形」を広めるのに貢献している。特に日本とハワイ。
○樋口蔦雄は、事実上ハワイの(現代的なスタイルの)プロレスのパイオニアかつ、戦前のハワイ・マットの看板レスラー・大スターであった。
○戦前のハワイ・マットの「主に日本人(日系人)観客を対象にした日本人プロレスラーによるプロレス興行」は、のち戦後の日本の(主に力道山の)プロレス興行に影響した。またその時代のハワイ・マットのOBたちは、舞台裏でも多大な貢献をした。
などなどのことがわかって、本当に驚きました。
しかし、このような人物が、そしてその多大なる功績が、ほとんど全く歴史に埋もれてしまっているというのは大きな謎で。
というか、本人も戦後はほとんど表舞台に出ていない(しかし力道山・木村政彦・山口利夫など、日本のプロレス創成期のプロレスラーたちに、転向時にトレーナーをしている。舞台裏で多大な貢献)。
あえて裏方に徹したんだろうと。
などなど考えさせられる部分もあったにしろ、あまりに驚かされることばかりですので、とりあえず書いてみたら、結果思わぬ大作?になってしまいました。
何をこんな100年近くも前のことをツラツラと、って思われた方が大半かと思いますが。
「こんな人がいたんだ」「こんな歴史があったんだ」
そう感じる方が少しでもいてくださったらなあと。
これでひとまずシリーズ終わりにします。
第一回〜1933年のオモプラッタ〜
第二回〜戦前ハワイの邦人紙「日布時事」にてテクニック解説記事連載。驚愕の内容!〜
第三回〜その生い立ちからアド・サンテルとの闘いまで〜
第四回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第一戦〜
第五回〜樋上蔦雄VS高橋精造〜
第六回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第二戦〜
第七回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第三戦〜
第八回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第四戦〜
第九回〜世界各地へ1〜
第十回〜世界各地へ2〜
(日布時事1941.7.15)
「○当地公会館に於いての我等のレスラーとして妙技を発揮し観衆の人気を一身に集めている樋上蔦雄氏が此の度布哇(ハワイ)に永住の決意を固め、同氏が過去二十余年の経験を応用した柔道レスリングを広く伝えるため近く当地に柔道レスリング教授所を開設する計画があることが判明した。
○柔道レスリングとは柔道とレスリングの長所を取り入れた樋上氏独特のものであるから、柔道とは可成りの相違があり、その点は布哇(ハワイ)柔道有段者会ならびに武徳会布哇(ハワイ)支部の誤解なき様に了解してもらいたいとのこと。
○以下樋上氏談、布哇は今回三度目で第二の故郷だと思っていますので、当地に永久にお世話になりたいと思っています。この度日本人有志の方々から柔道レスリングの教授をしてはどうか、出来るだけの後援はしてやると言ってくれるので、私もその決心をしました。具体的な事は後日発表するとして、今日はただ柔道レスリング教授所の開設は事実であるという事だけ発表させて下さい。」
とのこと。
つまり、「柔道レスリングの教授所」とは、
「柔道とレスリングの教授所」
ではなくて、
「柔道(&柔術)と(キャッチ)レスリングを融合した、(打撃系格闘技にも対応できる?)樋上オリジナルの新格闘技の教授所」
と解釈できるのです。
(ハワイ・タイムズ1945.10.27)
終戦後実現した樋上(と工藤嘉門)の道場は、設立当初は普通の柔道の道場だったようですが。
(ハワイ・タイムズ1949年1月21日号)
1949年1月には、戦前にアメリカ本土でアド・サンテルと対戦した柔道家の太田節三が来島。 樋上&工藤の柔道道場の指導に加わります。
そして、ここには「素人レスリング及び職業レスリングの教授もする由である」との記述。アマチュアレスリングやプロレスリングの指導もする、ということが書かれているのです!
しかし、この「柔道レスリング」って。
1990年代初頭に、
ハワイ出身の日系人柔術家のエンセン井上と、七帝柔道(高専柔道)出身で(カール・ゴッチ→佐山聡経由の)キャッチ・レスリングの継承者でもある中井祐樹との邂逅により、日本でもかなりそれに近いものが実現しているじゃあないか!という。
そして樋上蔦雄が主戦場としたアメリカ西海岸やハワイをはじめ、今日世界中で「ギ」と「ノーギ」、道衣ありも道衣なしも、どちらも練習する、どちらも試合に出る、そういう組み技文化が確立してたいへん盛り上がっているじゃあないか!という。
樋上蔦雄はまさに先駆者ですね!
80年もの昔に、このようなものを、(一部の限られたプロフェッショナル対象ではなく)一般向けの「教授所」として始めていたという!
1993年のグレイシー柔術やUFCの出現により、木村政彦や前田光世が再注目をされた訳ですが。
こういった歴史に埋もれた「柔を世界に広めし者」はまだまだたくさんいるんだなあ、と思いました。
・1921年の「サンテル事件」。衝撃をもたらしたアメリカのプロレスラーのアド・サンテルの来日と日本柔道への挑戦は、実は事件後も米大陸で続行していた。
・その闘いの中心になったのは、樋上蔦雄という柔道家(のちにプロレスラー)で、二人の闘いは複数回行われた。
ってところに興味を持って、それから樋上蔦雄についていろいろ調べるようになったのですが。
○サンテルとの闘いは、少なくとも4回、おそらくそれ以上行われている。それも、「サンテル事件」の少しあとから、1920年代末までの長いスパンで。
○その寝技技術は、現代のMMAやブラジリアン柔術に連なる、非常に高度なものであった。
○世界各地に「現代プロレスの原形」を広めるのに貢献している。特に日本とハワイ。
○樋口蔦雄は、事実上ハワイの(現代的なスタイルの)プロレスのパイオニアかつ、戦前のハワイ・マットの看板レスラー・大スターであった。
○戦前のハワイ・マットの「主に日本人(日系人)観客を対象にした日本人プロレスラーによるプロレス興行」は、のち戦後の日本の(主に力道山の)プロレス興行に影響した。またその時代のハワイ・マットのOBたちは、舞台裏でも多大な貢献をした。
などなどのことがわかって、本当に驚きました。
しかし、このような人物が、そしてその多大なる功績が、ほとんど全く歴史に埋もれてしまっているというのは大きな謎で。
というか、本人も戦後はほとんど表舞台に出ていない(しかし力道山・木村政彦・山口利夫など、日本のプロレス創成期のプロレスラーたちに、転向時にトレーナーをしている。舞台裏で多大な貢献)。
あえて裏方に徹したんだろうと。
などなど考えさせられる部分もあったにしろ、あまりに驚かされることばかりですので、とりあえず書いてみたら、結果思わぬ大作?になってしまいました。
何をこんな100年近くも前のことをツラツラと、って思われた方が大半かと思いますが。
「こんな人がいたんだ」「こんな歴史があったんだ」
そう感じる方が少しでもいてくださったらなあと。
これでひとまずシリーズ終わりにします。
第一回〜1933年のオモプラッタ〜
第二回〜戦前ハワイの邦人紙「日布時事」にてテクニック解説記事連載。驚愕の内容!〜
第三回〜その生い立ちからアド・サンテルとの闘いまで〜
第四回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第一戦〜
第五回〜樋上蔦雄VS高橋精造〜
第六回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第二戦〜
第七回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第三戦〜
第八回〜樋上蔦雄VSアド・サンテル第四戦〜
第九回〜世界各地へ1〜
第十回〜世界各地へ2〜




















