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戦前の柔道では、

・対他流の試合で寝技で苦戦した。また他流対策に寝技の研究がされた。
・寝技偏重の高専柔道の試合ぶりに、講道館より再三再四圧力がかかった。
・徐々に寝技を制限するルールに変わっていった。

等々の寝技の取り扱いに対するあれこれがあったと数多くの文献に見られますが。

この「学生柔道の伝統」にもそれらのことが書かれています。

講道館内部側から書かれているその内容に、それらがどれほどたいへんなことであったのかがむしろよくわかるような気がしました。


中でも特に興味深かったのが、対他流対策(寝技対策)の部分です。

(以下抜粋)

○「よく人から、寝技をいつ頃から研究したのかと聞かれるが、私は最初天神真楊流の柔術を修行した前川宗吉氏、無相流の松井三蔵範士に師事した。京都武徳会本部に武術教員養成所(武道専門学校の先身)が設置されたとき、第一回生として入所、磯貝一六段、永岡秀一六段、佐藤法賢五段、田畑昇太郎ニ段について、講道館柔道の指導を受けた。当時は講道館出身者以外の人たちを他流というて、武徳会各地方支部で指導をしていた。竹の内流の今井壮太郎、竹野鹿太郎、大島彥三郎、不遷流の田邊又右衛門、双水執流の青柳喜平、流派は忘れたが、山本欽作という先生方が五月の武徳会本部の演武大会、各地方支部の大会で磯貝、永岡先生と試合をしたものである。

磯貝、永岡先生は他流の者と試合をしなくてはならぬため、平素の稽古に機会あるごとに寝技の練習をされ、五月の本部大会、各地方支部大会の前には殊に寝技の稽古をされた。養成所の生徒、武徳会の練習生に寝技を修めているものがあまりなかったので、先生は私を相手に寝技の稽古をされた。他流の柔術がなお隠然たる勢力を張っていた頃で、他流との試合の勝敗が講道館柔道の発展伸長に、かなり鋭敏な影響もあったこととて、その稽古はまことに真剣なものであった。
正月早々、朝まだ早いとき、照明設備のなかった武徳殿西側北の入り方の扉を開いて、漸く顔の見えるようになる七時までに、永岡先生は私を伴って武徳殿に行き、ほかに誰もいない道場で、八時三十分頃まで私を相手に寝技の稽古をされた。いろいろ構想を練ってそれに基づいて研究工夫されたのである。

私は先生の新しい表現方法に順応して、適切な表現手法を考え、先生の表現に疑点のあるときは、それを指摘したり、そんな稽古を二週間ほど続けたこともあった。先生が新しい技を工夫されたときは、何時にかぎらず早朝私を伴って、武徳殿に出かけ稽古をされたものである。永岡先生は当時すでに定評のあった方であるにもかかわらず、他流の先生方を目標に常に寝技の研究工夫に精進せられたのである」



●岡野好太郎氏は第一期生として大日本武術教員養成所(のちの大日本武徳会武道専門学校 )に入校しているのですが。

Wikipediaをみると、同校の設立は明治38年(1905年)。岡野氏の入校も同年?



1905年と言えば、永岡秀一と田邊又右衛門(不遷流)の二度目の対戦が行われた年で。

深読みすれば、岡野氏は同校には寝技の腕を買われてスカウトされた面があったのではないか、などとも考えました。
岡野氏は、入校2年後の1907年には武徳会本部の助手にもなっています。

他に面白いと思った所として。

(以下抜粋)

○「毎年高専大会が終わると、その年の試合現象を検討して新しく得た資料によって、次回に備えるため表現方法を研究し、その技の実験のため私は毎年三月上旬より一ヶ月の予定で講道館に行っておった。その時たまたま、私と毎日熱心に稽古をせられる学生があった。その者は他の者とは違って寝技で稽古をいどむものであったが、その熱心さに感じせられて、通学している校名とその氏名を他の者から訊いたところが、それは中央大学の太田節三氏であった。しかも小田常胤氏とも盛んに寝技の稽古をした(以下略)




●ということで、講道館本部にも定期的に出向いて練習していたことか書かれています。

文中に出てくる「太田節三」は、のちにアメリカに渡り、「サンテル事件(アメリカのプロレスラーのアド・サンテルが、1921年に来日し講道館柔道に挑戦)」で有名なアド・サンテルと1926年に対戦した柔道家です(引き分け)。

あまり知られていないのですが、渡米以前には当時の柔道界の最大のイベントである講道館の紅白試合で大将を務めるなど、太田は一流の柔道家でありました。

あの「サンテル事件」には続きがあって、事件後に一流の柔道家が渡米→対戦をしていたのです。

「太田節三」について。清水過去投稿記事。







「小田常胤」はのちに「常胤流」とも呼ばれるほどの寝技の大家に。旧制四高の指導などで有名になります。



これらのことからわかることは、岡野好太郎氏の寝技というのは、武徳会や高専柔道だけではなく、本丸の講道館にも影響を与えているのではないかということ。

武徳会や高専柔道、そして講道館本丸と、実に多方面から寝技の発展に大きく貢献した人物であるということです。