2005年06月02日

04旅行記・セルビア目次

カテゴリー「セルビア」では首都ベオグラード(6本)、南部のノヴィ・パザル(1本)、その近郊のソポチャニ修道院、ストゥデニツァ修道院(各1本)について写真を交え紹介。ベオグラードは2004年6月14-15日、ノヴィ・パザルは同16-18日、ソポチャニは16日、ストゥデニツァは17日訪問。

 *ストゥデニツァ修道院
 *ソポチャニ修道院
 *ノヴィ・パザル
 *ベオグラードその6〜NATO空爆の痕
 *ベオグラードその5〜聖サヴァ聖堂
 *ベオグラードその4〜美術館
 *ベオグラードその3〜旧市街
 *ベオグラードその2〜カレメグダン要塞
 *ベオグラードその1  

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2005年04月23日

ストゥデニツァ修道院

ノヴィ・パザルからストゥデニツァは、少し遠い。バスでベオグラード方面に20キロほど戻った町、ラシュカまで行き(30分)、そこのバスターミナルでタクシーを拾った。さらにイバル川沿いの谷間の街道を北へ(ベオグラード方)20キロほど進み、ウスチェという集落から西に山道を10キロ程登る。ベオグラードから来るならば、クラリエヴォという町がウスチェの40キロくらい手前にある。一言で言えば、とんでもない山奥である。お断りしなければならないが、ストゥデニツァを訪れた時には、あろうことかカメラの電池が切れで替えも持っていなかったので、写真が取れなかった。残念である。ちなみに訪れたのは、2004年6月17日である。

ストゥデニツァの修道院は、ソポチャニよりも創建が二、三世代遡るだけでなく(1186頃)、数倍大きな規模を誇っている。明らかに「格」が上だ。どちらか一つだけ選べといわれたら私はストゥデニツァを挙げる。セルビアの初代司教、ステファン・ネマニャの遺体が葬られているのもここだ。中世の威容は現在でもまだ確かめることが出来る。重厚な石積の外壁に丸く囲まれた敷地には、3つの聖堂が建ち、外壁の内周約三分の一ほどに沿って建物が残り、西側の門の上には塔がそびえている。

中核をなすのは聖母マリア聖堂(1196以前)だ。プランはソポチャニを一回り大きくした三層構成であり、外見もそれを反映している。建物は、ソポチャニの地味で簡素な様式に対し、ロンバルド帯がよりふんだんに施されているだけでなく、片蓋柱が登場するなど、より装飾的で、西欧のロマネスク的要素を色濃く示している。全体のプロポーションもより優雅な雰囲気だ。内部に入ると、まずエソナルテクスの扉口(つまりエクソナルテクスの東壁)に、玉座の聖母子の高浮き彫りを配したティンパヌムを頂く美しい彫刻装飾が見られる。丸彫りではないが、ビザンチンではイコノクラスム以後彫刻芸術は存在しない、と単純に思い込んでいたので、新鮮な発見であった。ロマネスクの様式はスプリットやコトルなどアドリア海沿岸地域から伝わったらしいが、ソポチャニより内陸部にあるストゥデニツァでそれが強烈な刻印を刻んでいるのは興味深い。ティンパヌムを囲むアーキヴォルトにはケンタウロスのような半人半獣の空想の生き物たちが並び、リンテル(まぐさ石)の唐草模様も美しい。

堂内に入ると、ソポチャニよりも広く、天井も高く、明るい。フレスコは、一番古いものが13世紀初頭だが、16世紀後半に描きなおされた部分も多い。ビザンチン絵画を代表する傑作の《磔刑》図は身廊の西壁、つまり入って振り返った後ろの壁を飾っている。ソポチャニより年代的に先行するからか、マニエリスティックな饒舌さは見られず、ずっと古典的で、ソポチャニの「動」に対して「静」といった印象である。背景の吸い込まれるような深いブルーも、画面に瞑想的な静けさを与えるのに一役買っているかもしれない。

しかし、《磔刑》以外のフレスコ、というかフレスコ画の描かれた壁面は、実はそれ以上に忘れがたいインパクトを持っていた。ナオスへと扉をくぐると、壁面を覆うフレスコ一面に白い斑点のようなものが浮いて見えたのだ。一歩中に入ると、それが何か分かった。フレスコが剥がれて石膏が見えているのだ。ゴルフボール大の丸い無数の剥落が、フレスコ画の描かれた壁面という壁面を―なぜか《磔刑》図だけは無傷で残されている―、天井から床まで覆っているのだ。何が描かれているのかは、何となく判る。しかし、それは剥がれた、などというものではない。あるところでは、人物の頭部がきれいに抉り取られている。明らかに、ハンマーかなにかの鈍器で打ちつけて剥がした跡だ。

その恐ろしい光景に圧倒されて見上げていると、たどたどしい英語をしゃべる助祭さんのような青年が近づいてきて、説明をしてくれた。トルコに占領された時、攻め入られ、彼らがこのような仕業をしていったのだという(実際はその他地震や火事の被害も受けているようだ)。また一部壁画の残っていないところはトルコ軍が剥がしたのだそうだ。実際、ほかにどんな理由も考えられなかった。上のほうなど、ハシゴに登らなければ届くはずも無いところまで、ご丁寧にハンマーで打ちつけたのは、よほどの執念を持っていなければ出来ない仕業である。

異教の教えを説くのを禁ずるだけであれば、全部剥がしてしまえばよい。上から白く塗るか、建物ごとぶっ壊すほうが、よっぽど手間が掛からない。しかし、非征服民に征服民達の社会的優位性を示そうとしたのであれば、これほど「効果的」な方法は無いのかもしれない。嫌な譬えで恐縮だが、電気椅子ではなく、ねちねちといつまでも痛めつける拷問で人を殺すのようなものか。キリスト教徒の側とて、どうしてこれをこのまま500年も放っておいたのであろう。ただ直す金がなかったのか。全面的な修復をトルコ側から禁じられたのか。それともトルコの「蛮行」を末代まで伝えんとしたのか。

いずれにしても、この壁画(というより光景)は、ビザンチン美術の重要な作品というだけでなく、バルカン半島の歴史を象徴する貴重なモニュメントである。その視覚的インパクトは計り知れない重さを持っている。しかし、悲しいことに、この地域では、こうした宗教施設に対する破壊行為は大昔の話に限ったことではない。つい最近も、コソヴォのアルバニア人(ムスリム)が、昨年3月にコソヴォ内の古い正教修道院を焼き討ちしている。その報復として、ベオグラードではモスクが焼かれた。そういう意味では、この壁画は、バルカンの現在である。セルビアというキリスト教徒が多数派を占める国家の揺籃の地・最も重要な歴史遺産が、今でもムスリムが多数派を占める地域にあるというのも、バルカンの現在である。  続きを読む
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2005年04月18日

ソポチャニ修道院

ソポチャニは、ノヴィ・パザル市街から9キロと比較的近い山の中にある。バスがあるという説と無いという説両方あったが、それを確かめる術も無いので市街の広場に溜まっていたタクシーに乗った。ものの15分か20分で着く。訪れたのは、2004年6月16日である。修道院の歴史とフレスコ装飾の日本語による概略が、Seong Jun氏のウェブサイトTesserae内のソポチャニのページで読める。

ソポチャニの修道院

山奥の修道院は、敷地をぐるりと円形の外壁に囲まれ、その中央に聖三位一体に捧げた小さな聖堂が建っていた(敷地プラン)。1265年頃の創建という。外壁に沿って内側にも建物が建てられていたようだが、今ではほとんどが遺構となっている。このページの一番下の俯瞰写真が、修道院全体の雰囲気を伝えてくれるだろう。祈りの場を護るこの石積みの外壁は、キリスト教とイスラム教が勢力を争ってきたこの地の複雑な歴史の一断面をよく伝えてくれる。実際、修道院は1689年にトルコ軍によって荒らされ、1960年代まで無人だったらしい。今では英語も話す修道士たちが生活を営んでいた。

聖堂は、外から見るとバシリカ式の建築で、ポーチ(近年の再建らしい)の西側に鐘塔を併設している。しかし中に入ると翼廊を備えたラテン十字のプランになっていた。外見は地味であり、装飾は壁面の最上部を取り囲むロンバルド帯くらいしか見当たらない。ポーチ(エクソナルテクスというのかしら)から聖堂の内部に入ると、エソナルテクスを経てナオスへと通じ、エソナルテクスとナオスには、13世紀後半から14世紀後半にかけて制作されたビザンチン美術を代表する大変貴重なフレスコが遺されている。内部は写真撮影禁止であったが、その壁画の全部をBRAGOというサイトで見ることができるので、写真はそちらで見て欲しい。アプスの壁画などは、現地に行ってもイコノスタシスの隙間から垣間見るしかないので、ウェブサイトで見たほうがよっぽどよく観察できる(笑。

当初は壁面全体がフレスコで覆われていたに違いないが、現状では、決して全て残っているわけではない。建物の天井に近づくにつれて剥落部分が多くなるのは、トルコ軍に天井を壊されたからかと思う。身廊は狭く短いが、北壁の《キリストの冥府下り》、南壁の《磔刑》、そして振り返って見上げた西壁の一番有名な《聖母の眠り》と三方を絵画で囲まれた圧倒的な空間であった。また、交差部のドームを支えるペンデンティヴの四福音書記者像や、アーチの曲面やらを埋め尽くす預言者像も見事である。引き伸ばされた人物のプロポーション、古典的な凛々しさを備えた頭部とは対照的にマニエリスティックな彼らのポーズ、そして表現主義的な色彩やドレパリーのスタイルを見て、300年後に同じ伝統から生まれたエル・グレコの芸術を思い起こさずにはいられなかった。

わたしが聖堂内を見学中、黒の胴衣を着て長いひげを蓄えた坊主が、ずっと携帯でくっちゃべっていた。そのあまりのアンバランスさに、彼のしゃべり声もなんだか読経のように聞こえた。山奥のここだって、都会と同じ同じ21世紀の時間が流れているんだ。1時間ほど見た帰り際、坊さんからコーヒーでも飲んでいかないか、とのお誘いを受けたのだが、タクシーの運ちゃんが今か今かと私の帰りを待ち受けているのが見えたので、残念ですが、とお断りして帰ってきた。


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ノヴィ・パザル
*ソポチャニ修道院
ストゥデニツァ修道院  
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2005年04月12日

ノヴィ・パザル

ベオグラードのバスターミナルを朝5時半に出発するバスに乗り、セルビア南部のノヴィ・パザルという街に向かった。ベオグラードから約5時間半。ノヴィ・パザルのある地域は、コソヴォ以外のセルビアでは珍しく(唯一?)ムスリムが多数派を占めるが、中世セルビア・キリスト教王国揺籃の地でもあり、文化的に複雑・重層的な歴史を持つ。周辺にはソポチャニやストゥデニツァといったビザンチンの貴重なフレスコ画を今に伝える修道院が点在している。一帯は、1979年から既に「スタリ・ラスとソポチャニ周辺」という名で世界遺産に登録されているそうだ。私はこの街に04年6月16日から18日まで二泊滞在、ソポチャニとストゥデニツァの修道院を見に出かけた。

ノヴィ・パザルの要塞跡
 
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2005年03月25日

ベオグラードその6〜NATO空爆の痕

セルビアは、ミロシェヴィッチ独裁政権に対する報復として、1999年にNATO軍から空爆を蒙った。とはいえ、不幸中の幸いか、軍事、政府関係施設が爆撃の標的となっただけなので、町全体としては、サラエヴォのような甚大な被害を蒙ったわけではない。2004年現在、戦争の痕跡を感じさせるものはほとんど見当たらない。しかし、中には僅かながら、あたかも悲劇のモニュメントであるかのようにして、歴史の一コマを思い出させてくれる建物も残っている。

ユーゴスラビア連邦国防省・軍参謀本部ビル1(ベオグラード)
 
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2005年03月24日

ベオグラードその5〜聖サヴァ聖堂

聖サヴァ教会1、外観(ベオグラード)

初代セルビア大司教聖サヴァ(1169-1236)に捧げられた聖サヴァ聖堂は、旧市街の南側の新市街にある。高さ134m、現在使用されている正教の聖堂としては最大の規模を誇るらしい。写真で見るとその大きさが良く伝わらないのだが、友人曰く、現イスタンブールのアヤソフィアと同じ大きさだとか。歴史的建造物ではないのだが、市民の礼拝に供されている傍ら、1935年に始まった建設工事が現在もなお続いている。建設は1894年に計画が興り、1935年に開始されるが、1941年ドイツ軍の攻撃により中断、1984年に再開、現在に至るそうだ(参照)。  続きを読む
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2005年03月22日

ベオグラードその4〜美術館

ベオグラード市内の美術館としては、共和国広場に面して立つ国立美術館が最大の組織である。しかし内戦以後ようやく市民の生活基盤が整ったこの国では、美術をめぐる状況はまだまだ厳しいものがあるようだ。

友人曰く、国立美術館は(当然開館スケジュールがあるのだろうが)やってるかやってないかは行ってみないと判らない、何が展示してあるかも行ってみないと判らない状態だそうで、我々もとりあえず行ってみた。そうしたら、開いていた!  続きを読む
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2005年03月16日

ベオグラードその3〜旧市街

ベオグラードの旧市街は、歴史的にずば抜けて特筆すべき見所のような区域や建築物には乏しいが、丘の上の街並(中央駅から見て北東)は総じて共産主義時代の乱開発を免れており、ぶらぶらとそぞろ歩きするのが吉。観光地かされていないというか、良い意味で全く観光ズレしていないので、とってつけたような土産物屋であるとか、ましてや日本語メニューを店頭に飾るレストランなどあるはずもないので、そういう意味で異国情緒はかなり高い。

サヴァの対岸から旧市街を眺める(ベオグラード)
 
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2005年03月07日

ベオグラードその2〜カレメグダン要塞

(承前〜その1

旧市街の繁華街、クネザ・ミハイラ通りの突き当たりは、カレメグダン要塞だ。ここは、ベオグラード発祥の地といえるかもしれない。サヴァ川とドナウ川の合流点を見下ろす要衝にあることから、ローマ人がまず砦を築き、その後この地を支配したビザンティン、セルビア、オーストリア、トルコがそれぞれの様式で改築と増築を繰り返し、戦略上の拠点としてきた。そして友人曰く、ベオグラードで唯一つの「観光名所」。

カレメグダン要塞入り口(ベオグラード)

ストロンボル門IIと呼ばれる(らしい)要塞のメインゲート。18世紀半ばに作られた。後ろにはバロック様式の時計台が建つ。城塞は今は公園として開放されベオグラード市民の憩いの場になっているが、ローマ時代の塁壁から中世の塔、トルコの霊廟、バロックの時計台と様々な時代の建造物(のあと)があちこちに残っている。バルカンの複雑な歴史の重層を間近に見ることが出来て、なかなか面白い。そして城塞のどこかに軍事博物館があるようで、大砲がずらりと並んでいたりする。詳しくは写真も多いナイスな英語サイトがあるので、そちらにどうぞ。  続きを読む
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2005年02月25日

ベオグラードその1

ベルリンを起点にスタートした今回の中欧縦断(といってもベルリンからブダペストは飛行機だったが)の最終目的地は、クロアチアのドブロヴニクである。ブダペストから、かのアドリア海の真珠までは、リュブリャーナかザグレブを経由し、海岸沿いに東進するか、ベオグラードを通ってセルビア=モンテネグロの内陸を南下するか、の二通りを想定していた。前者のほうが一般的だろうが、たまたまベオグラードに日本人の友人が留学中であったので、彼女を訪ねがてらセルビア経由ルートを取ることにした。田舎に残るビザンチン美術の大変重要な壁画なども見てみたかったし、内戦の戦禍から立ち直りつつも、ほとんど情報の入ってこないこの国の実際の姿も見てみたかった。それに、友人でもいない限り、この国を訪れる機会は巡ってきそうもないじゃないか。

ノヴィ・ベオグラード駅より眺める

2004年6月13日夜、ブダペストから夜行列車に乗った。翌朝、巨大なコンクリアパートがボコボコ並ぶさまが視界に入ってくると、ノヴィ・ベオグラード、ベオグラードの郊外である。ご覧の通り、我々「西側」市民の思い浮かべる、典型的な旧「東側」の都市風景だ。線路と高速道路に挟まれた狭い土地には、喩えではなく本物のスラムがひしめく。

列車はサヴァ川を渡り、20分ほど遅れて中央駅に到着。さあて、どんな町なんだ、一体…。  続きを読む
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