志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

89歳になった日のボウリングスコア

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 一昨日の5月18日、満89歳になった誕生日のボウリングスコアです。3ゲームやって、回ごとに点数が落ちているのは気に入りませんが、どうやら100点を切ることなく終了しました。私としては、「やや不調」レベルの成績だったと思います。球は、会場の備品の11ポンドを使っています。会場は、私の家から近いサンプラザの地下にあるボウリング場です。
 「中野区民の健康ボウリング教室」というビラを見て参加したのは、もう忘れるほど昔のことになりました、と書いたところで気になって調べたら、2019年の2月から始めたことがわかりました。そして当時のスコアを見たら、どうやら平均100点は超えるレベルで、現在とあまり変わらない、つまり2年半やっても、ほとんど上達はしていないのがわかりました。ただし、1本だけ残ったピンを狙うときの精度は、かなり良いほうだと自分では思っています。球にはカーブはつけません。ストレートの球だけで勝負するのが性に合っていると思っています。
 私がボウリングというものに初めて触れたのは、草加の公団住宅に住んでいた時代でした。娘たちもまだ幼児で、中山律子さんというプロの女性ボウラーが、「さわやか律子さん」という歌とともに、テレビのコマーシャルに出ていました。プロのボウラーがスターになれる時代だったのですね。草加団地に近い松並木の川沿いに新築のボウリング場が出来て、車を走らせて行ったのだと思います。妻もいっしょに見に行きましたが、自分でやってみるまでは行きませんでした。
 考えてみると、今のボウリングを始めたのは、妻を亡くしてから間もないころです。私のボケを心配した長女が、ビラを見て勧めてくれたのかも知れません。とにかく、歩いて行けるすぐ近くに会場があったのは幸運なことでした。ボウリングというのは、体を動かすとともに、チームを組む人間関係を作る場でもあるのです。ストライクが出ると、近隣の人たちからも拍手をするのがエチケットになっているようです。
 そんなこんなで、熊公ではありませんが「自分が転がらないで、球を転がしてるんだから、大したもんだ」と思うことにしています。
 

北欧2国のNATO入りを歓迎する

 スウェーデンとフィンランドの北欧2国が、NATO(北大西洋条約機構)に加盟の申請をすると伝えられている。いずれも北欧の有力な国で、平和国家のイメージがある。たまたま両国とも女性が首相を務めているというのも、私には好ましく思われる。フィンランドは長い国境線でロシアと接している。第二次世界大戦のとき、フィンランドは一時的に日独伊三国同盟の側に加わって、ロシア(当時のソ連)と戦い、善戦したという記憶があり、私には勇敢な国民というイメージがある。
 この2国がNATOに加わったことで、西欧の政治地図は、ロシアに対抗するNATOという、わかりやすい区分に近づいたように見える。隣国のノルウェーは、すでに加盟国になっている。今後の問題は、ロシアのプーチンが、この状況に適応して平和的な共存を志向するか、大国ロシアの権威にこだわり続けるかの選択にかかっているように思われる。そのリトマス試験紙が、ロシアがウクライナをどう扱うかの今後に現れるのではなかろうか。
 今のロシアがNATOに対して軍事力をチラつかせた恫喝を加えたとしても、おそらく勝ち目はないだろう。ここはウクライナを手放してでも、紛争を拡大しないのが賢明だと思われる。ロシアのプーチンが、いま何を望んでいるのかは不明だが、世界を二分する一方の大国という夢は、すでに終わっていることを知らなければならない。それは逆に、ロシアこそが永続する世界平和の立役者になり得ることを示している。

雨傘の天気予報は「外れ」でした

 昨日の「雨傘の天気予報」は「外れ」でした。朝から暖かい日差しです。寒さが苦手の私は、夏らしい強い日光が感じられると、気分が上向きになります。
 世界のどこかでは戦乱が続いていますが、少しでも早く平和が回復して欲しいと思います。
 
 不戦を誓った日本国の憲法が
 「時代遅れ」ではなく
 「時代の先取り」であったことが
 実証される世界を
 私の生きている間に
 見たいと思います 

お日さまが傘さした

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 先刻、午後6時過ぎに、西の空に現れた「お日さまが傘さした」状況です。これが出ると、「翌日は雨」という、古くからの言い伝えがあります。科学的に説明してしまえば、「大気中に水蒸気が多い」ということなのですが、これを教えられたのは、いつのことだったでしょうか。母から直接に教えられたのならいいのですが、それほどの自信もありません。
 ただ、こんなのが見えているよと、教えてあげる娘がいてくれたのは幸せでした。
 きょうの一日が、これで静かに暮れて行きます。
 あと8日で、私は89歳になります。 

とても大きい夕焼けだった

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 きょうの夕焼けは、とても大きかった。地平線から天頂近くまでが夕焼雲になった。地平線が傾いているようにも見えるが、カメラは傾いていない。晴天ならば秩父連山が見える位置に、低い雲が右上がりの斜めに横たわっている。

 きょうは
 いい日だったな
 と思う 

青空に鯉のぼり

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昨日のことだが、孫娘が子供を連れて遊びに来た。誕生日は私と2日違いの5月20日だったから、もうすぐ満1歳になる。つかまり立ちは、もうしっかり出来るようになっていた。天気も良かったから、屋上に鯉のぼりを上げてみた。サマになる、ひとときのにぎわいだった。
 考えてみたら、私はこの子の「じいちゃん」ではなくて「ひいじいちゃん」になるわけだ。この子には、そんな区別などわかるまい。本当の「じいちゃん」つまり長女の婿殿の頭髪には、気がつけば少々白いものがまじる年になっている。
 この鯉のぼりは、箱の上書きを見たら、最初の孫になる次女の 長男が生まれたときに、新宿の三越で買ったものだった。そのときにも、この屋上のポールに上げたと思うのだが、もうあまりよく覚えていない。その子はすでに有能な社会人として活動しているが、家族としてのつきあいには、ほとんど顔を出さなくなって久しい。彼は、この鯉のぼりが自分のために買われたということを、たぶん何も覚えていないだろうと思う。でも彼は、私にとっては、永遠に「ウチの子」なのだ。
 そして今、因縁の鯉のぼりを五月の風に泳がせることができた。この出番があっただけでも、良しとすべきだろう。ただし、あたりを見回しても、わが家のポール以外には、ほかに鯉のぼりの姿は一つも見ることができなかった。それは町中を歩いてみても同様だった。少し以前には、団地やアパートのベランダなどに、それらしいものが出してあるのを見たと思うのだが、今年はついに、わが家以外のところでは鯉のぼりの姿を見ないまま5月5日が過ぎて行ったように思う。もう、庶民の習慣ではなくなって、自治体やデパートなどのイベントとしてだけ残っているのかも知れない。
 ただ、私の中の原風景は消えない。北区滝野川にあった生家の庭の中央には、不相応なほど立派な国旗掲揚のポールが立っていた。先端には金色の玉もついていて、あれは昔の金の鳶のシンボルだと父から教えられた。神武天皇の弓の先に止まり、その光で賊軍を追い払ったという、日本神話の伝説とのことだった。そこには祭日には日の丸が上がり、五月には鯉のぼりが上がるのだった。
 風が強いと、鯉のぼりは風音を立てて力づよく身を震わせる。その下には、わけも知らずに見上げていた幼児の私がいた。なぜかまた、母に会いたくなった。 

軍艦島の思い出

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 知床の海で沈んだ「カズワン」という船が話題になっているが、それに誘われて、長崎にある「軍艦島」のことを思い出している。私が訪ねたのは、連合の平和運動を取材していた時代のことになるが、今は世界遺産として登録されているこの島、正式には「端島」というのだが、まだ全国的には知られていない時期のことだったと思う。単独行動になった日に、海岸からこの島を遠望して、ぜひ近くへ行ってみたいと思った。そこで地元の漁師さんに、船を出して貰えないかと話しかけてみた。たまたまヒマだったのか、好意的に話に乗ってくれて、二千円か三千円ぐらいでOKになったと思う。手漕ぎではなく、エンジンつきの漁船だった。
 船長は操舵室に入り、私は前甲板の前の方に立ち、会話も何もできなかったのだが、右から回って一周してくれた。なぜか私は手持ちのカメラさえ持ち合わせておらず、したがって写真の一枚も撮ってはいない。ただ、近づくにつれて無人になっている住宅や通路の細部が見えて来て、そこに人が一人もいないということが、なにか古代の遺跡を見るような情感をかき立てたことを覚えている。
 近づくほどに、島は軍艦の形に見えてくる。精悍な巡洋艦のシルエットに近い。実際に戦時中には、島に向けて魚雷を発射したアメリカの潜水艦があったということだ。うわさだけでなく、実際に不発の魚雷が海岸にあったという。
 ここは本来は島ではなくて、鋭い岩礁の列があっただけだったとのことだ。そこを埋め立てて炭坑の坑口を作り、作業員の住宅も建設した。最盛期の人口は5千人を超え、小中学校や映画館、パチンコ店などもあったという。それらがすべて廃墟となり、今に姿を残している。
 今は逆に世界遺産としての脚光が当り、観光ルートが開設されて観光ツアーも行われているらしい。また長崎に行くことがあったら、立ち寄ってみるのもいいかも知れない。
 

わが思い出のダットサン

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 日産自動車から、ついに「ダットサン」の名が消えるという話が新聞に出ていた。ダットサンと言えば、私にとっては少年時代には小型国産車の代名詞だった。家業だった出版の「野ばら社」で、私は高校一年の16歳で自動車運転免許を取ったのだった。昭和24年(1949年)12月24日のことである。私の免許取得と同時に、ダットサンのバン型車が家に届いた。当時の日記に「わが人生最良の日」と書いた覚えがある。それまでは古くからの社員と私が、自転車とリヤカーで神田方面の書籍問屋へ「配本」に回っていたのだった。
 それから数年間、新しい社員が免許を取るまで、私は社内で唯一の自動車担当だった。学校から帰った午後から夕方にかけて、週に3回ぐらいは車を走らせたと思う。最初の車は1937年製で、すでに10年以上使われていた中古車だった。ただし「戦前」の製品だから、品質はかなり信用できる感じだった。それでもセルモーターは弱くて、エンジンの始動は、クランク棒を前から突っ込んで、手動で回すのがノーマルだと思っていた。写真で見る通り、学生服のままで仕事に出ていたと思う。
 そのダットサンの名が、世の中から消えてしまうというのは、やはり寂しい。ダットサンの名は、日本で最初の国産車「脱兎号」から始まる。その後継車だから「脱兎の息子」でDATSONとしたのだが、これでは「だっとそん」と読む人がいて、「損」に通じるので気になる。それで太陽の「サン」に変えたという由緒があるのだ。
 それ以来のダットサンとのご縁である。3台目のダットサン・オージーも、よく走って私たち家族の思い出を作ってくれた。それらの思い出が過去になって行く。DATSUNの綴りを、私の兄は「ダッツン」と呼んでバカにしていた。その兄も後から免許を取ったのだが、運転は明らかに私よりも下手だった。その人も、すでに故人である。
 さようなら ダットサン 
  ありがとう
 あなたの時代は終ったが
  私は 忘れない
(追記)
 この車の登録番号は「13288」だった。まだ種別はなく、単純な登録順だったような気がする。

沖縄が右側通行だったころ

 今朝のNHK朝ドラを見ていたら、沖縄のバスが、右側通行で右のドアから乗り降りしていた。とたんに、初めて沖縄へ行ったときのことを、ありありと思い出した。
 あれは1975(昭和50)年、夏に沖縄で「海洋博覧会」があった年だった。長女が中学1年生で、私は42歳、NHKを退職して家業の出版(野ばら社)に復帰したものの、父親との関係が不安定で、いまいち落ち着かない気分で埼玉県草加団地のすぐ横に建てた二階家に住んでいた時期だった。このとき海洋博を見ながら一人で沖縄へ行こうと思い立ったのは、自分の中にあったモヤモヤした気分を、南の海で晴らしたい気持ちがあったからだと思う。
 あまり金もかけたくなかったから、往路は鹿児島まで夜行列車の寝台で行き、その先は船旅として、帰りだけ飛行機を使うことにした。この旅行で飛行機の窓から見下ろした南の海と、そこに浮かぶ小島たちの美しさは、今も記憶の中に鮮明である。
 ただし書きたかったのは、博覧会のあとに時間を作って、本島の南部にある「摩文仁の丘」と、それに続く海岸に一人で行ってみたことである。当時は墓地も記念碑もまだ何もなくて、白砂の海岸が広がっているだけだった。ただし、野球ボールほどの大きさの廃油ボールが、いくつも海岸に打ち上げられていた。何もないところてはあったが、その地で何があったかは、私は本を読んで知っていた。あたりには、人の気配は、一切なかった。かなり遠かったバス停の茶屋のおばあさんに、次のバスの時間を聞いたら、「すぐ来ることもあるし、なかなか来ないこともある」という、もっともな返事だった。停留所にも、時刻表のようなものは一切無かった。
 帰り道を一人でトボトボと歩いていたら、たまたま通りかかった地元の農家らしい人のトラックが、すぐ横で止まってドアを開けてくれた。礼を言って便乗させて貰ったが、私の言うことは通じても、先方の言うことはほとんど聞き取れず、会話はあまり進まなかった。
 それだけのことなのだが、あのとき茫然と海を見ながら沈思していた、何もなかった時間の長さが、今となっては、しきりに懐かしい。
(追記)
 このとき肝心の「海洋博」で何を見たのかは、ほとんど記憶にない。海の上に張り出した、「アクア」なんとかいうガラス貼りの建築があったことだけを、かすかに覚えている。
  

「患者」でなくなる日が見えてきた

 定例になっている東京警察病院での定期観察に行ったら、思いがけない吉報を貰った。「経過がよいので、このまま落ち着けば完治ということで、次回(9週間後)で終りにしましょう」と言うのだ。いつから始まったか、もう忘れてしまうほど長く続いていた肺の患部が、ほとんど消えているというのだった。レントゲン写真というものの見方はよく知らないのだが、指で示された部分は、たしかに黒の一色のみになり、古い写真に出ている白い部分が消えている。病名は「非結核性マック症」だと教えられている。
 何はともあれ、疾患が全治したとは有り難いことである。毎日一回だが、3種類の薬を各2錠、たいてい朝のお茶といっしょに飲んでいる。そのわずらしさが、なくなるわけだ。ただしここだけの話だが、たとえば泊りがけの旅行のときなどに、几帳面に薬を持って行った記憶は絶えてない。そしてなぜか、飲み残しの薬というものは、じわりじわりと増えてくるものなのだ。
 それにしても、薬を飲まなくてもいい生活というのは、気持ちがいいと思う。その反面で、定期的に病院に行くから、体調など気になれば、いつでも相談できる安心感があったことも否定できない。ともあれ、この年になって薬なしの健康生活を続けられるとは、ありがたいことである。
 警察病院では、何度か「いのち拾い」をさせて頂いた。大腸がん手術が最初で最大の危機だったが、この病院の機敏な対応のおかげで、おそらく最善の結果を得ることができた。新宿まで通っていた病院でレンドゲン写真のコピーを取らせてもらって相談に行ったところ、即座に転院と手術の日程まで提示されて入院を勧められたのだった。家からも最短距離だし、願ったり叶ったりだった。
 この病院は、基本的には地域の拠点病院として、外来は紹介を基本としているらしい。わが家では、妻が最初の入院患者となって、無事に生還したので今でも感謝している。 

ロシア海軍の南と北、そして「海軍記念日」

 ロシア黒海艦隊の旗艦を務める巡洋艦が、ウクライナ軍のミサイル攻撃を受けて、火災を起こし沈没したというニュースが入ってきた。どういうことかと思って世界地図を出してみたら、改めていろいろなことがわかった。まず、ロシアとは基本的に内陸国だから、海とは中心から遠く離れたところにあるものなのだ。ロシアの国は、ヨーロッパの南側では黒海に接し、北側ではバルト海に面している。その間の距離は、直線で千五百キロにもなる。しかも、南の黒海からは狭いボスポラス海峡を抜け、エーゲ海を経て地中海の複雑な海域を三千キロも通り抜けないと大西洋に出ることはできない。
 また、北側のバルト海から出ても、スカンジナビア半島とデンマークとの間の複雑な水路を経て、北海から英仏海峡を抜けないと外洋に出ることが出来ない。日露戦争の時のバルチック艦隊は、こんな経路で地球を半周する大航海をしてきたのかと、少しは同情したい気分になる部分もある。こんな位置関係では、同じ国の艦隊でも、北と南の共同作戦などは、海外遠征と同じぐらいの労力を必要とすることだろう。日本のように、全艦隊を命令一下で呼び集めるなどは、日本が島国だからこそ出来たことだと、改めて実感させられた。そう思うと、だだっ広い陸地を抱えた地図上の大国が、必ずしも面積に比例した国力を持つわけではないという理由が、素直に腑に落ちてくる。
 日本海海戦における日本海軍の大勝利は、長い航海を経て疲弊していたロシア艦隊を、用意万端整えて待ち構えていた日本海軍が殲滅したという、順当勝ちだった面があるように思われる。ただし世界史的には、近代戦で非白人が白人に勝った最初の例として衝撃を与えた。
 この日(5月27日・1905・明治38年)は、海軍記念日として制定されたが、現在も海上自衛隊では、この日の前後を祝祭行事に当てているとのことである。             
 

一日の終りには、ブログを書こう

 一日の終りにはブログを書こうと、なぜか今、思いついた。かつては一日の終りに日記を書く習慣を、成人になってからも、かなり長く続けていた。それは私の精神の支柱だったという感覚も残っている。いま88歳になっている私に残されている時間は、たぶんこの先は、あまり長くはない。おとなしくなったまま、文字通りの「音なし」で終わったら、口惜しくはないのかと自分に問うてみた。
 これはかなり本気だと、今の私は思っている。なぜそうなったのか、近時のさまざまなニュースから刺激を受けた面もありそうだが、理由は何でもいい。寝床に入る前の夜のひとときに、自分の机で自分と対面する時間があるといいと思ったのだ。妻はもういないけれど、相談はできないけれど、そんな私を褒めてくれそうな気がするのだ。「ボクは、やっぱり偉いね」と言ってくれたら嬉しい。だから……

世界の孤児になるプーチンのロシア

 現下の世界情勢の中で、ロシアの孤立が際立っている。ウクライナへの侵攻は、どこから見ても同情をもって見られてはいない。通常はロシア寄りと見られているインドや中国さえも、賛同に至らない無反応を示しているだけである。逆にウクライナに対しては、人道支援ばかりでなく、ロシアと戦うための軍事支援も伝えられている。その支えもあるのだろう、ウクライナ軍は善戦しているように見える。ロシア軍の方が、逆に戦線を整理して、守りに入っているように見受けられる。さらに欧米を中心としたロシアへの制裁措置は、ロシア経済の停滞として効いてくるだろう。
 私たちが抱く「外国」というものに対する印象は、これまでに経験している様々な事実や情報によって形作られるものだと思う。最近のことだが、大学で同期生だった女性がアメリカから電話してきて、かなり長い間話していたことがあった。私が「そろそろ昼飯だから」と言ったら、先方は「もう夜で落ち着いてたから」と言っていた。そのときの話題が、敗戦後の満州で苦労した思い出で、頻繁に「ロスケ」という言葉が出てきたのが印象的だった。私と同年だから、当時は小学6年生だった筈である。進駐軍として入ってきたソ連兵を呼ぶ言葉だったのだろう。言わずと知れた日露戦争以来の、ロシア人に対する蔑称である。教養のない、粗野な者どもという印象がある。日本人から腕時計を奪って自分の腕に巻いても、ネジを巻くことを知らないから、翌日には動かなくなる。それでも文明人になったつもりで喜んでいるという話だった。
 今のロシア人がそれと同じということはないだろうが、なにか久しぶりに、安心してロシアの悪口を言えるような雰囲気になってきた。そう思うと、プーチンというのも、かなりおかしな名前ではある。
 

NHK「小さな旅」と「アルプス一万尺」

 日曜日の朝、NHKの「小さな旅・選」で「上高地とアルプス」をやっていた。そこで思い出したのが「みんなのうた」の「アルプス一万尺」で、初めてアルプスに登ったことだった。ディレクターは先輩の後藤田氏と私の二人、カメラマンは、たしか小野さんという、山登りのスペシャリストと言われる人だった。以前にもこのブログで書いたことがあるが、私としては初めての登山体験だった。局内にも取材用の登山靴などはないから、当時出たばかりだという布製の「キャラバンシューズ」というのを私費で買って履いて行った。
 歌詞にある「アルプス一万尺 小槍の上で……」を表現するために、国学院大学山岳部の協力で小槍に登ってもらい、それを主峰の槍ヶ岳山頂に構えたカメラで撮ることにした。山岳部は、小野カメラマンの手配だったと思う。このときは天候が悪くて、数日は山頂小屋に籠って雲の中で過ごことになった。その間のことは、このブログにも書いたことがある。ひたすらにトランプカードで「おいちょ株」というのをやっていたのだった。私はかなり勝っていたのだが、天気の回復で仕事になったら、みんな忘れてしまった。
 この時は、帰り際に足を延ばして、槍ヶ岳から穂高までの稜線を縦走し、北アルプスの全景も撮影できた。その場面は番組の中でも使ったのだが、それを見たドラマ担当の者から、「いい絵だから使わせて貰いたい」という申し出があり、それに応じたら、台本には「霧の中に見え隠れする北アルプスの稜線」という説明が書いてあった。その部分は、映像資料として局内に保管されたのだろう。
 それ以来、上高地は私にとって特別な場所になった。長女がまだ幼児のときに、妻と三人で再訪して梓川の河原で遊んだ。いま思い出しても、絶句するような幸福感だった。
 私の上高地初体験は、昭和37年(1962年)のことだから、今から60年も前のことになる。生きているうちに、孫が運転する車で、もう一度行って見られないかと、いま思いついた。 

プーチンのロシアと、どう向き合うか

 ウクライナ侵攻で四面楚歌となっているロシアのプーチンが、日本との戦後処理問題である平和条約交渉を、一方的に打ち切ると通告してきたとのことだ。北方領土については、私にも「ビザなし交流」の事業に参加して、国後島のロシア人家庭を訪問し、通訳つきながら会話した経験もあって、多少は身近に感じている。
 日本の敗戦の直前に、ロシアの前身であるソ連は、まだ有効期間中だった「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して日本に宣戦し、わずか一週間の参加で南樺太から千島列島までの広大な地域を占領したのだった。しかもその大部分は、日本の降伏後に、アメリカ軍の不在を確かめながら行われた。まさに「火事場泥棒」の所業である。余談だか、千島北端の占守島では、事前の根回しなしに不用意に上陸したソ連軍は、日本軍守備隊によって壊滅的な敗北を喫している。
 さらには、地理的に千島列島には属さない、納沙布岬の属島である色丹島と歯舞諸島までも占拠して今に至っているのであ。このとき、一度は択捉島の北側で停止し、「これから先はアメリカ軍の担当だから」と引き返したという、立ち会った日本軍将校の確実な証言もある。ただしアメリカ軍が無関心なのを確かめて南進してきたのは、戦後の九月に入ってからのことだった。そのまま居座って今に至っているのだから、まさに火事場泥棒そのままである。このときアメリカ軍に一人でも北方に関心のある人物がいて、駆逐艦の一隻でも出していたら、事態は大きく変わっていただろうと惜しまれる。
 第二次世界大戦時の連合国側には、「領土不拡大」の基本原則があった。戦争の目的は、枢軸側の侵略を阻止するのが目的で、相手国の領土を奪う意図はないということだ。だからアメリカは、多大の犠牲を払って占領した沖縄の施政権も日本に返還した。日本の千島列島は、過去に一度もソ連・ロシアの領土であった歴史はない。むしろ正式に「樺太・千島交換条約」を結んだ史実がある。
 ロシアは「領土の割譲禁止」という国内法を最近になって制定したと伝えられる。多分に北方領土問題を意識しているのだろう。それは逆に、プーチンの「うしろめたさ」を自白しているように思われる。
 

ウクライナ問題で考えたこと

 いま話題になっているウクライナとはどんな国なのか、手近なネット検索の範囲で調べてみた。遠い旧石器時代から人が住んでいた豊穣の地であったらしい。ソ連が健在な時代には、ソビエト連邦を構成する有力な共和国の一つでもあった。ただし歴史的に、多民族が往来する交差点のような位置にあるので、東はモンゴルなどから、西はヨーロッパ諸国から、異民族の襲来による大虐殺なども経験している。公用語はウクライナ語で、スラブ語派に属する独立した言語であり、ロシア語と同じキリル文字を使っているということだ。ただし国内には、親西欧派と親ロシア派の二つの潮流があり、その対立で政治が不安定になる傾向があるらしい。
 今回は、どうやら一方的なロシアからの侵攻のようで、ロシアに非難が集まっている。ただしロシアとしては、身内のつもりでいたウクライナが、西欧の一員になってしまうのは絶対に許せないという感覚があるのだろう。プーチンが核兵器にまで言及しているのは、身内の寝返りにうろたえたことを露呈しているのかもしれない。
 かつてはハンガリーで起きた民主化の運動を、ソ連軍の戦車が押しつぶした事件もあった。ただし東欧の民主化が、それで止まることもなかった。ソ連がロシアになっても本質が変わらない面はあるが、確実に時代は動いている。先の大戦で、敗戦間際の日本から火事場泥棒的に北方領土を奪ったソ連の蛮行は、なるべく早く正さなければならない。
  

曽孫(ひまご)を抱いていたひととき

 午前中に孫娘が、初めての子を抱いて遊びに来た。孫娘としたら実家に帰ってきたわけだし、たまには子供から手を放していられる時間も楽しいらしい。だからかなり長い時間、私が抱いてソファーで過ごしてみた。私の誕生日から2日遅れて、5月20日生まれだから、生後9か月と20日ぐらいになる。最初は少し居心地悪そうにしていたが、しばらくしたら、落ち着いて私の腕の中にいるようになった。
 名前は「いおくん」と呼んでいるのだが、字を書くと、ちょっと面倒なような気がして、いまだに覚えていない。いおくんは、「いおくん」でいいのである。顔をのぞき込んで、目線が合うこともあったが、別にいやがる様子もなかった。人見知りというのは、どれくらいのときに起きる現象だったのか、私も子育てはした筈だか、もはや何の記憶もない。
 幼児の体温は、おとなのそれよりも少し高いのではあるまいか。抱いていてそんな実感があった。ただし足裏は冷たかった。靴下を履いていないので、「足が少し冷たいよ」と母親に言ってみたのだが、「ああ、ぜんぜん大丈夫」と、まったく取り合わないのには、ちょっと驚いた。幼児のときに連れ歩いて、少し神経質のように感じた記憶があったのだが、自分が母親になったら、大らかになったのだろうか。
 私は男の子を育てたことがないから比較ができないのだが、息子を育てるというのは、多少なりとも他人行儀的になりそうな気がする。世の中に出してこれで大丈夫か、みたいな、評価がつきまといそうな気がするのだ。私と父との関係でも、何とはなしに「教育と期待」みたいな関係が、いつまでも纏わりついていたように感じている。その極めつけが「建世」という名づけだった。父は、こういう名をつけられた子供がどんな気持ちになるかを考えなかったのだろうか。発奮してひとかどの男になれという願望だったのか。「満州国が出来た年だから、国よりも大きい世界にした」だって。よくもまあ、欲張った名をつけたものである。 

東京下町大空襲の思い出

 今年も3月10日が近づいてきた。東京下町大空襲の日である。前日の9日の夜から始まった空襲は、日付の変わるころから本格化して、東京の江東地区は広大な「面」として焼き払われ、10万人を超す死者を出すという、原爆にも匹敵する惨害を残したのだった。当時、小学5年生だった私は、その夜の空襲を頭上に体験し、敵機が去ったあとは下町を見渡せる高台の端まで行って、父と並んで眺めていたから、強烈な印象で覚えている。数えてみれば、もう77年も前のことになるので、見知っている人間はあまり残っていないだろうが、私の中の記憶は消えない。私の「少国民たちの戦争」の中でこの大空襲を記述しているので、その部分を引用してみる。
 「その夜のB29は、見えている範囲では投弾しなかった。東京の東側に攻撃を集中していることがわかった。高度が低いから高射砲弾の炸裂も近くて、直撃を受けたB29が、たちまち火の玉になって流星のように落ちて行き、そのあとに火の粉が残るのも見えた。爆撃は二時間ほど絶え間なく続いたのだが、後半は空の明るさが異常だった。探照灯なしでもB29ははっきり見えるようになり、地上の全体も新聞が読めるほどに、満月の夜よりも明るかった。空襲警報が解除になっても、その明るさが変わらないのが異様だった。
 父に連れられて、田端・上中里間の京浜線線路の上に当る、高台の外れまで様子を見に行った。正面から右へかけて、下町の一帯が燃えていた。見た角度で60度ぐらいだろうか、その間が一面に文字通りの火の海になっていた。前景には近い建物のシルエットが並び、巨大な煙が低い角度で右へと流れていた。強い北西の風は、まだ吹いていたのだ。並んで見ていた人たちは、意外なほど静かだった。……」
 すぐ近くには父もいたのだが、一言も発しなかったことを覚えている。 

プーチンのロシアはどこへ行くつもりなのか

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 プーチンのロシアが、ついに報道の統制を始めた。独裁権力を握った権力者が、つねに欲しがる甘美な環境の整備である。耳に痛い批判が聞こえなくなり、自分を讃える声と歌だけが周囲に満ちるようになったら、さぞかし気分がいいことだろう。世界中の独裁者たちが、そのようにして「わが世の春」を謳歌しては、時の流れとともに破滅し没落して行った。プーチンの場合は、かつて世界を二分した大勢力の一方を率いて、核兵器まで所有しているのだから資格は十分である。
 憲法で、紛争解決の手段としての戦争は永久に放棄すると誓い、核兵器は「作らず、持たず、持ち込ませず」の非核三原則を掲げている日本の国民としては、「いまさらご苦労さま」と言ってあげたいところだが、本人は大まじめで、近隣のウクライナが西欧化するのを危険と感じて、武力行使にまで突き進んでしまったのだろう。しかし、大国が小国の自由を認めない「いじめ」の構図になってしまったのは、まずかった。
 「戦闘地域からの住民の避難路確保」の交渉が難航しているようだが、これも侵攻をやめればいいだけの話で、元から考えれば、すべての責任がロシアにあることには疑問の余地がない。ロシアは「ウクライナの中立化と非武装化」を求めているとのことだが、これも相手国に無条件降伏を求めているのに等しい。どこから考えてもロシアに正義はないのだ。
 かといって、国連の力でロシアの侵略行為に対抗することは難しい。安全保障理事会では、ロシアは五大国の一員として拒否権を持っているからだ。総会では非難決議はできても、「国連軍」の派遣はできない。朝鮮戦争で「国連軍」が成立したのは、当時のソ連の判断ミスがあったからだった。
 結果として、ウクライナは軍事占領されるだろうが、その後が大切である。たぶん日本には、戦後復興と、独立主権の回復を助ける役割が回ってくるだろう。 

今年も梅が咲いた

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 今年も梅が咲いた。顔を寄せると、ほんのりと、それらしい香りも感じられる。この梅は、かなりの老木である。埼玉の草加から引っ越してきたときに、はじめて庭らしいものを作れる余裕ができ、埋め込み式の人造池の近くに植えたのだった。それは長女が中学2年生のときだから、46年前のことになる。木造二階家のすぐ横にあった池に、私は買ってきた金魚を二匹入れ、眺めている時間もあった。それを見た妻が、長女と「パパがまた金魚とお話ししているよ」と会話していたのを覚えている。
 しかしその金魚は、長命ではいられなかった。あるとき、猫に狙われて非業の死をとげたのだった。そのあと、隣地の買取で庭を広げることが出来たのだが、そのときには、もう池は作らなかった。そしてこの梅の木だけが残って今に至っている。世に桜の大木・古木というものはあるが、ネットで見たら、梅にも300年にもなる古木があるそうだ。ただし、そびえ立つような大木ではなく、横に広がっているように見える。梅には梅らしい長生きの作法があるのだろう。
 私の父の故郷の、静岡県安倍奥の梅が島村には、誰も樹齢を知らないという柿の巨木があった。枯れたという話は聞かないから、たぶんまだあると思う。父も子供のころに登った記憶があるそうで、私が長じて木登りが好きになったときは、決して叱らず、むしろ喜んでいるようだった。
 これは最近に近い話なのだが、私が柿の実の収穫で木に登っていて、歯医者の予約を忘れたことがあった。そのあとまたしばらくして、同じ歯科で予約失念の失敗をしたとき、顔見知りの受付のお嬢さんが「また柿の木ですか」と笑いながら聞くので、「いや、今度は梅の木でした」と答えたが、それは本当のことだった。 
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

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