志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

きのうまでが夏と知る いまは秋

 秋は「すとん」とやってくる。連日の暑さにあえいでいた夏の終りに、うそのように涼しい日が来て、見上げる空の雲がウロコになっていたりする。今回は台風の接近が関係しているのかどうか、そのあたりの事情は知らないが、厚い雲に覆われた下で、空気はすっかり涼しくなった。週に一度、午前中だけのデイサービスも、お盆休みで一回休みになっただけだが、再開した今朝は、何やら新鮮に感じられた。
 年寄りがデイサービスに通うのは、老後の健康ライフのためである。要支援1の認定を受けた妻は公費の補助を受け、安い費用で通っているが、私も私費で同行して体験することにした。健康ジムに通う感覚と思えば、それほど高いものでもない。どうやら毎週の習慣が身について半年以上を経過した。世の中一般の年寄りは、このように暮らしているのかと、社会勉強をする機会にもなっている。
 生産年齢から遠く離れた老人たちは、医療や介護に高額の社会的消費をすることなく、なるべく長く自立して暮らすのが社会貢献になる。良質の消費者は、社会にとって必要な存在なのだ。そしてそれは、老人が生涯をかけて貯め込んだ財産を、適度に社会に還元することを意味している。
 とは言っても、私は生涯にわたって、たとえば米一粒たりとも自分で育て上げたことはなかった。いろいろなことをやったようだが、すべては映像・音楽を含む「制作・演出」の分野に属する仕事だった。それらは「実業」に分類はされるだろうが、生産の原点には直結していない。しかし素材としての映像や音声に意味を与え、「作品」の域にまで高める仕事だったと思っている。
 その観点からだと、いま現在のデイサービスの中にだって、磨けば光る原石が転がっている可能性は充分にある。私がもう一人いて、自分を素材にして取材したら、面白いものが出来るかもしれないと、いまふっと思いついた。


 

ブログ連歌(520)

10379 翁長知事 心残しつ 旅立ちぬ (みどり)
10380  辺野古の海の 青さなりしか (建世)
10381 残暑とは 言えど酷暑の 続くなり (建世)
10382  ♪酷暑酷暑で半年暮らす (うたのすけ)
10382B  冷夏の北国 残暑を知らず (獣医さん)
10383 新盆の 迎え提灯 白く有り (みどり)
10384  そしてまた来る 終戦の日 (建世)
10385 戦死者を 悼み非戦を 誓い合う (みどり)
10386  戦雲四方(よも)に 静まりてあれ (建世)
10387 冷夏と長雨の 異常気象
10388  一月早い 大雪から初雪の便り (獣医さん)
10389 老々が デイサービスで 声合わせ
10390  口の体操 笑いで終る (建世)
                 
 

京浜島で飛行機を見た

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 昨日の土曜日、長女の案内と免許を取ったばかりの孫の運転で、羽田空港に近い京浜島へ行ってきました。秋らしさの出てきた爽やかな空を、空港めざして降りて来る飛行機の姿を間近に眺めるのは、なかなかの迫力でした。この写真の後で少し歩いて、飛行コースの真下まで行くこともできました。孫が得意のスマホ知識によると、風向きや使用滑走路によって、条件が揃うのは、かなりの幸運だということでした。
 空港というのは、そこへ行ってみるだけでも、海外につながる旅の華やかさを感じさせるものです。妻の実家の両親を誘って、展望レストランでの食事だけを目的に行って、喜ばれたこともありました。羽田空港がまだ小さくて、プロペラ機が常識だった時代のことです。妻の両親も、私の母親も、ついに飛行機に乗る経験をさせてあげられないままに終りました。
 私の初飛行は、学生時代に札幌から東京への帰路でした。版画家の河野薫さんを訪ねたときで、「社用」に準じる扱いだったと思います。昭和30年ごろ、運賃は大卒の初任給よりも高いと言われました。高空では速度を感じられず、空中にぶら下がっているようだったのを覚えています。松島の上空で、スチューワーデスさんが、「とてもきれいですよ」と声をかけてくれて、乗務員用の小窓から下を見せてくれました。初体験で高揚していた私の気分を察してくれたのでしょう。
 飛行機で働く人たちの姿が、文字通り「雲の上」のように感じられていた時代のお話です。
 

「終活」に一応の結論が出た

 朝食のつづきで、先ほどまで高校野球のテレビ中継を見ていた。たまたま静岡代表が出ていて、静岡は父にも妻にも故郷だから、試合終了までを見届けた。静岡代表は負けたのだが、それはどうでもいいのだ。共通の話題があった時間が心地よかった。
 この数日には、いいことがあった。久しぶりに家族で夕食に出て、落ち着いて話し合う機会ができた。その場でひとつ決められたことがある。それは私たちの墓の作り方のことだった。私たちは近所の寺に最低限必要な始末として小さな墓地を一つ買ってあったのだが、娘が二人で一代限りになる「志村」の墓は、「なくてもいい」ことにしたのだ。
 つい先年義兄を見送った姉の家の例が参考になった。墓は作らずに、遺灰は「セーヌ川に流してくれ」が本人の希望だったというのだ。遺骨の埋葬は、遺体に準じるから規制が厳しいが、これが粉砕した「灰」になると、自由になるのだ。それと、私たち夫婦は、胎内死亡した最初の娘の遺骨を身近に置いている。何度も眺めたが、小さく白く、可愛い骨たちだ。これを、妻が死んだら「いっしょにしてあげる」と約束している。遺骨を粉にする作業は、火葬場でもやってくれるが、身内がやっても差し支えはない。この遺骨は、一時的に妻の実家の墓に預かってもらったこともあるが、その後引き取って身近に置いたのは、正解だったと思っている。長女は、「あんたの小さいお姉ちゃんだよ」と言われて育った。
 要は家族が、家族としての暮らしと家族との死別を、なだらかに受け入れられる形になっていればいいのだと思う。かかわりある人の遺骨が、どこにあったら安心なのか。身近に置いてみるか、あるいは散骨として自然な風景の中に帰してやるか、その判断は、残った人たちの判断に任せることにしよう。

  

現天皇最後の戦没者追悼式

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 きょうの昼前後に行われた戦没者追悼式のテレビ中継を見ていた。今の天皇が臨席するのは、これが最後になるということだった。天皇の「お言葉」も聞いていたのだが、途中で(戦争の惨禍が)「再び繰り返されることを切に願い……」と聞こえて一瞬ぎょっとしたが、すぐに「繰り返されぬ」だと気がついた。ただし明瞭に聞こえるように、ここは「繰り返されないことを」の方がよかったと思った。
 私は現天皇と同年の生まれで、大学では同期になった。戦争は少年期に始まり、戦争そのものは先代の治下で起こったことである。言わば戦争の直接の責任者ではないのだが、自分の父親が裁可した戦争の結果については、今でも国民に詫びる立場にいる。戦争の実行者たちが、ほとんど世の中から退場しても、戦争の傷あとは世代を超えて残って行く。そのことを詫びる立場から、天皇は逃れることはできない。73年間、二世代を超える時間が経過しても、それは変らないのだ。
 天皇が神でないことは、今では誰でも知っている。しかし天皇の神格化と、それを利用した「皇民意識」が、かつてこの国の対外戦争の原動力になっていたことを忘れてはならない。その中で、現天皇は、幸いにして一度も「軍籍」を得ることなく少年期を過ごしている。それは昭和天皇の意向であったと言われている。天皇制の今後の存続は、この国の平和の象徴としてのみ許されるだろう。

終戦後に書類を焼いていた兵隊

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 昭和20年の8月、私は国民学校の6年生だった。天皇の放送で戦争が終ってからも、東京に居残って家も焼けなかった私の家には、たいした変化もなかった。ただし学校の生徒は全員で30人ぐらいしか残っておらず、友人たちが疎開先から帰ってくるようになったのは、秋も深まったころからだった。
 学校は、事実上、軍隊の駐屯地となっていた。陸軍の通信隊で、概して粗暴な人は少なく、学校周辺の強制疎開の跡地に作った複数の防空壕に、当番兵が毎晩一人ずつ泊まるのだが、私たちが夜間に訪ねると歓迎してくれて、故郷の話などをしてくれるのだった。母が作った「おにぎり」を、女学生の姉といっしょに差し入れに行って喜ばれたこともあった。壕内に電灯はなく、小皿に油を入れて棉ひもを浸し、端に火をつけた暗い灯りだから、美人に見えたかもしれない。母親としたら、兵隊さんの知り合いがいれば、いざというとき心強いと思ったのだろう。
 その兵隊たちも、終戦で部隊解散となった。その直前のことだが、大きなドラム缶を並べて、書類の焼却が始まった。一日では終らず、何日もかけて大量に焼いていたような気がする。軍隊には、ずいぶんな量の書類があるものだと思った。今となっては事情を確かめる方法もないが、戦争に負けると、こういうこともあるのかと、ぼんやり眺めていた。
 当時の日本軍に、戦争に負けたときの処置を正しく判断できる幹部は、ほとんどいなかったのではなかろうか。とにかく「まずい可能性のあるものは全部消せ」ということになったのではないかと思う。軍隊とは、地元民とは無縁の存在だった。駐屯してすぐに立てた掲示には「地方人の立ち入りを禁ず」と大書してあった。「東京なのに変だね」と言っていたのだが、要するに「現地人」という意味の軍隊用語だった。軍隊とは、それほど特権的な存在であったのだ。
 やがて軍隊が去ったあとの教室の黒板に、「お世話になりました」とともに「臥薪嘗胆」と大きな字が書いてあった。家に帰ってからその字の意味を父に聞いたら、一通りの説明のあとに、「そんなこと言ってるからダメなんだ」と、意外に突き放した調子で言っていた。新聞記者だった父は、国粋主義の徳富蘇峰の弟子ではあったが、「軍人ばかりが威張る世の中」を、決して快くは思っていなかったのだ。
 

「死を見つめる心」を読む(2)

 この本の紹介をもう少し続けると、著者は一時的に陥った「生命飢餓状態」から脱した状況でこの本を書いている。手術の結果、がんを忘れていられるほど安定したと思った時期もあったのだが、悪性の進行は止められなかった。やはりだめかと落ち込んだ底からの救いになったのは、「別れ」という考え方だった。永遠に続く人間関係というものはあり得ない。どんなに親しい人との間にも、必ず別れはくる。そう思えば、自分と現世との別れにも耐えられるのではないか。
 そもそも「生」と「死」を、対等な対立関係と思うのが間違っている。「生」には、さまざまな実体があるが、「死」はその不在に過ぎないではないか。「死」を、「生」と対立する実体のように、重く考える必要はなかったのだ。
 著者は人の生死観を、次の四つに分類している
1.肉体的生命の存続を希求するもの
2.死後における生命の永続を信ずるもの
3.自己の生命を、それに代る限りなき生命に托するもの
4.現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの
 上記の1は、昔の帝王も試みたが不老不死は無理だった。2は、仏教の輪廻に近いかもしれない。3は、現代人にも、ある程度は共感できる。4は、2とともに宗教的だが、4の方がキリスト教的に感じられる。
 この本は、人の生き方についての「悟り」を語った本ではない。著者が宗教学者として文字通りに「死を見つめた」結果のレポートを集成したものである。そしてこれが一番大切なのだが、死を見つめることで人は誠実になるのだ。
 私は若い頃に、夏目漱石のどれかの本で、死を考えることの大切さを説いている部分に感銘を受けたことがある。世の中のあれかこれかを選ぶのは喜劇だが、生か死かを考えるのは悲劇になる。そして悲劇にだけ価値があるというのだった。具体的には、死を考えるときは、人は必ず真面目になる。
 そしてもちろん、死をよく考えるのは、よりよく生きるためなのだ。いま自分が生きているということを、奇跡のように有難いと感じることができるなら、世事にかかわる悩みごとの9割方は、たちどころに消えて失せるだろう。
 
 

「死を見つめる心」を読む(1)

 「死を見つめる心〜ガンとたたかった十年間」(岸本英夫・講談社文庫)を読んだ。ちょうどよい時に、よい本を読んだと思っている。この本のことを、どういう経路で知って書店で探し出したのか、例によってその記憶は残っていない。ネットのどこかで見たのには違いないのだが。
 著者は宗教学者で、アメリカ在住のときにガンを発症した。最初に告げられたのは、余命は半年間ぐらいはありそうだということだった。直ちに手術を受け、そこから一進一退の闘病生活が始まった。著者はこの闘病を、宗教学者としての考察を残す絶好の機会ととらえたように思われる。その時々の経験を、活発に叙述して各種のメディアに発表するようになった。それらの文章を、集大成したものが本書である。
 しかし内容は時系列的にまとめられてはいない。たとえば最初に置かれている「わが生死観」は、「生命飢餓状態」に置かれたガン発症後に書かれている。余談だが、私は「生死観」という言葉に好感を持った。一般的には「死生観」と言う人が多いのだが、「生」が先の生死観であるべきだと、私はずっと思ってきたからだ。
 誰でも知っているが、人間は必ず死ぬ。例外は絶対にない。だから見つめるも何も、生きている先には必ず死がついてくる。だが、たとえば、刑の執行を待っている確定死刑囚はどうだろう。人間には生存への強い本能があるから、生命飢餓状態に陥ると言われている。それはガンを宣告された患者の立場とも似ているに違いない。つまり、「いつか死ぬ」のは仕方がないから我慢できるが、具体的に「期限」が切られてしまうのは耐え難い恐怖になるということだ。
 それでは自分はどうなのかと、私はここから思わぬ方向に踏み込んだ。私はブライス先生の弟子として、死に臨んでも乱れない心を確立していると思い込んでいた。それはどこまで確かなことなのか、検証しておきたくなったのだ。 

永六輔の「大往生」

 永六輔の「大往生」(岩波新書)を読んでみた。ご本人は、この本を1994年に書いて話題のベストセラーとなり、しこたま印税を稼いだ上で、2016年つまり一昨年の7月7日に83歳で永眠した。この年には、この本は第100刷に達していたのである。
 永さんは寺の住職の息子だったから、仏教の素養があった。交流のあったいろいろな人の死に方を、軽妙に記録している。テレビ「夢で会いましょう」の構成もしていたから、私とも多少の縁はあった。人が死ぬ話を語っているのに、からっとしていて楽しく読める本だった。その最後にあった「自分のための弔辞」が秀逸だったので紹介したい。最良の自己紹介になっている。(以下引用)

 弔辞
永六輔さん。
あなたは「大往生」という本をまとめて、タイミングよく、あの世へ行きました。
あなたはいつも無駄のない人でした。
そして、本当に運の良い人でした。
高校生のときにNHKに投書して採用されて以来、上手に立ちまわって放送文化賞まで、すべて他人の褌で仕事を展開し、自分の都合が悪そうになると、喧嘩を売ってでも仕事を乗り換えてきました。
(中間部省略)
80冊目という出版の中で、書きおろしたものは一冊もないという鮮やかさ。やっぱり最後は座談会や父上の文章を借りなければならないという力のなさ。そんな時は放送の人間と言い、放送の現場では出版文化人という替り身の早さは、「マスコミの寄生虫」というニックネームにふさわしいものでした。
 そんな寄生虫の永さんが、人間らしく過ごしたのは御家族に囲まれていた時だけではないでしょうか。
 旅暮らしの中で、一番好きな旅はと聞かれて「我家への帰り道」と答えた永さんです。その永さんがあの世へ往ったら先に往っていた皆さんに、またあることないことしゃべりまくることでしょう。
 そうかといって、またこの世に帰って来られるのも迷惑です。
 三途の川に流されて、あの世にも、この世にもいないというのが、永さんらしい「大往生」だと思います。
 読者を代表してこの弔辞を……(引用終り)

私は自分のための弔辞を書くほど図々しくはない。でも、死んだときに、誰かが、いい弔辞を書いてくれたらいいなと思ってはいる。
 

ブログ連歌(519)

10359 怖ろしや 三選どころか四選視野に (獣医さん)
10360  永久与党の 驕りでポロリ (建世) 
10361 ご隠居の 東奔西走 逞しく (うたのすけ)
10362  蝶よ花よと いい年をして (建世)
10363 獣医学部は 女性七に男三
10364  女性減点しなけりゃこんなもの (獣医さん)
10365 都会地の ペット獣医は 花ざかり
10366  酪農獣医は 原野を走る (建世)
10367 八月は 暑さばかりが 話題なり
10368  思い出深き こと多けれど (建世) 
10369 新型の 「爆弾」二発 相次いで 
10370  不気味に聞けり ソ連参戦 (建世)
10371 原爆の 死没者追悼 忘れまじ (みどり)
10372  核廃絶の 誓いも新た (建世)
10373 昨日の朝は 3.6度の大寒よ
10374  40度の空気を別けてくれ (獣医さん)
10375 小さくも 日本列島 長いこと
10376  ここは炎熱 北は寒いと (建世)
10377 台風を 甲子園見て やり過ごし (うたのすけ)
10378  いつもの夏の 日程すすむ (建世)
10379 翁長知事 心残しつ 旅立ちぬ (みどり)
10380  辺野古の海の 青さなりしか (建世)




自己採点の低かった昨日

 昨日は、一日中のうのうと過ごして、夜になっても気分の晴れない日だった。なにしろほぼ一日中、寝そべって高校野球を見ていたのだ。あれは、見ていればサマになる。どこの学校か知らなくても、見ているうちに、選手は一生けんめいにやっているのがわかってくる。試合経過がわかってくると、筋書きのわからないドラマのようになる。ちょうど時間で昼のニュースだと思ったとたんに、続きはEテレでと字幕が出たりするから、つい切り替えて深追いしてしまった。
 試合を最後まで見届けても、何の役に立つものでもない。結果が知りたければ、翌日の新聞に載るだろう。でも、そんなことを言ったら、それこそ身も蓋もない。球場に何万人もの人が集まるからこそ成り立っているプロ野球だし、高校野球だって、盛夏に欠かせない風物詩になっている。それはそれで、見ているだけで価値のあるイベントなのだ。つまらないものを見て時間を無駄にしたと思うのは、熱心に見ていた人や、真剣にプレーしていた選手たちに失礼ではないかと気がついた。
 結局、つまらない時間にしてしまったのは、すべて自分の責任ではなかったのか。にぶい感性で、自分は何をしたいのかを見失っているから、こういうことになる。夏バテで体が疲れているのなら、まず回復に気を使うべきだった。
 自分が生きていられる残り時間は、たぶんあまり長くはない。最近は永六輔の「大往生」(岩波新書)と岸本英夫の「死を見つめる心」(講談社文庫)を読んだ。永六輔氏は、私と誕生日が一ヶ月ぐらいしか違わない同年だった。私も生きているうちにしたいことが、あと少しはありそうだ。
 

昭和20年の八月も暑かった

 外に出たくないような暑さの続く8月、空気が重いように感じらる空を見ていると、昭和20年の8月を思い出す。気象統計の上でどうだったかは知らないが、あの夏も暑苦しかったと思う。東京の北部、滝野川区にあった私の家は戦災で焼かれずにいたが、周辺はすでに一面の焼野原の連続だった。空襲さえも、もう東京にはあまり来なくなっていた。目ぼしい目標がなくなって、米軍の爆撃は、もっぱら地方の中小都市に向かっていたのだ。
 近所には、幼時から親しんだ友人たちは、もう一人も残っていなかった。生徒が1500人もいて、滝野川区の「本校」だった国民学校は、全学年で30人しかいない寺子屋のようになっていた。特別な事情のある子供以外は、東京の都区内に居住していてはいけないことになっていた。
 この年は、8月になっても「夏休み」にはならなかったと思う。学校の授業も、時間表による科目単位ではなく、国語・算数などの自習が中心だった。数少ない高学年(六年)生だった私は、むしろ先生の助手として、複式学級の低学年生の面倒を見てやる時間が長かったような気がする。教科書は持っていたのだが、この時期に、先生に何かを質問したり、教えてもらったりした記憶は何も残っていない。
 授業は午前中だけ、警報が出れば即帰宅だから、学校にいられる時間は長くなかった。そんな中での「玉音放送」の告知と、その放送だった。翌日すぐに学校へ行って校長先生の話を聞いたから、この年の夏休みは、なかったと思うのだ。終戦を知って、明瞭に意識した第一は、これで家が焼かれずに済んだということだ。それ以外は、この時の大人も子供も、とても鈍感になっていたと思う。
 終戦は、怖い台風が突然に消滅したようなものだった。戦争は、人智を超えた自然災害のようなものだったのだ。戦争は、二発の「新型爆弾」と「ソ連の参戦」で、最悪になったと思ったとたんに終ってしまったのだ。このときの感覚は、「拍子抜け」というのが、いちばん近いと思う。戦争は、天災のようにやってきて、この日に突然消えたのだ。私がその意味を反芻する気になったのは、それから50年後のことだった。
 

自然災害としての暑さ

 今年の夏の暑さは、歳時記的な自然現象を超えて、「災害」と言えるほどの事態になっているようだ。伝えられるところによると、これは日本だけではなく、世界的な問題になっているらしい。北欧も異常な暑さと乾燥で、山火事が頻発しているということだ。根本の原因として「地球の温暖化」が言われている。
 その温暖化は、現代の文明社会が放出している「温暖化ガス」の影響であることは、90%以上の確率だそうだ。そして、これを抑制して、再生可能エネルギーの利用などによって、地球全体の熱量の収支バランスを回復するためには、最短でも50年ぐらいの時間はかかるというのが、現在の見通しであるらしい。
 しかし人間の現実の暮らしでは、当面の「今」を何とかしなければならない。テレビでも「暑いときは昼でも夜でも、ためらわずにエアコンを使って健康を守って下さい」と、繰り返して呼びかけている。町では多くのエアコン室外機が、フル運転して熱気を吹き出し続けることになる。外気が暑くなることなどには構っていられないのだ。
 現に私もいま、エアコンを利かした部屋でこれを書いている。部屋の外は、屋内でもすでに33度になった。風を通しても温度は変らない。予報ではきょうも35度と言っているから、外出はしない方がよさそうだ。
 昔から夏が好きで、夏向きの体質だと思っていた私も、災害としての暑さには勝てないのを実感するようになった。以前に「南洋」のヤップ島へ行ったとき、半袖姿で快適だったのだが、あのときの気温は28度から30度の間だった。常夏の楽園だと思ったものだ。コンクリートで固めた東京の35度は、もはや夏ではなくて災害でしかない。
 
 

女性への「差別」と「区別」

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 今朝の新聞を見て、「まだこんなことをやっているのか」と思った。男と女が同じでないことは誰でも知っている。その「区別」は当然だが、それを理由として「差別」してはいけない。では区別と差別はどう違うのかと問われると、明確に答えられない人が今でも多いようなのだ。今から43年も昔、1975年の遠い過去に置いてきたつもりだった問題が、いまだにくすぶっている。仕方がないから、私も同じことをもう一度掲載しておく。ゼンセン同盟の機関誌「友愛」昭和50年4月号に寄稿したもの。

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「差別」から「区別」へ 男女平等論へのヒント
 国際婦人年ということもあって、男女平等論が目立つこの頃だが、男女の基本的な平等が主張される一方で、たとえば母性保護のように、男女の機能のちがいを社会的に公認させる主張も並行して行われるために、多少なりとも混乱した印象を与える場合があるように思われる。
 男女の間に性の区別があるのは自明のことなのだが、要は性の「区別」を性による「差別」に拡大させないことであろう。とすると、「区別」と「差別」はどう違うかを考えておくことも無駄ではなさそうである。それも、辞書的な解釈ではなく、現実の行動に結びついた認識として心にとめておくことが必要であろう。
<能力を男女で分けるのは不当>
まず第一に「区別」は個別的で「差別」は包括的(ひっくるめて)だということがある。   たとえばある職場で、男性のA君よりも女性のBさんの方が職務能力でやや劣っていたとしよう。「区別」の目から見れば、それはたまたまBさんの素質や、それまでに受けた教育訓練、さらに本人の努力のいずれかに不充分な点があったからそうなったので、当面は待遇の面でもそれなりの区別をするのはやむを得ない。しかしその状態は、本人の努力なり教育訓練によって、いつでも改善の可能性が残されていることになる。 
 ところが「差別」の目でこれを見れば、Bさんは要するに女なのだからA君より劣るのは当り前だということなる。そして、もしBさんがA君以上の働きをすることがあっても、それはあくまでも例外なので、やっぱり女なのだから、というところへ押しもどされてしまう。これではBさんは、男に生まれ変わらない限り、救われないことになってしまうだろう。
<一人ひとりの人格尊重を>
第二に、「区別」は事後的で「差別」は予断的(前もって判断)だということがある。母性機能以外のあらゆる方面の能力で、男女の能力の差が相対的であることは誰でも知っている。もっとも男性的な筋肉労働でさえ、ダメな男よりもすぐれた女の方が有能だし、女性的と思われている家事や育児でも、ダメな女よりも有能な男はいくらでもいるだろう。ということは、特定の仕事について個々の男と女の能力をくらべるとき、実際にやらせてみない限り、どちらが有能かはわからない、ということになる。つまり、「区別」は事後でなければ出来ないのである。
 これに反して「差別」の方は平均値をよりどころとして予断的に発動する。ところがここで忘れてはならないのは、平均値は個々のデータを集めた結果として導かれるもので、平均値が個人を規制することはできないという事実である。われわれのまわりに生きているのは、個々の名前と顔と個性と能力をもった人間であって、「平均的な女」などというものが、一人だって生きているわけではないのだから。
<女性蔑視は男も不幸である>
第三に、「区別」は理性的で、「差別」は感情的である。これまでに見てきたように、「区別」は個々の人間を冷静に見きわめることから成り立っている。ところが「差別」は面倒な思考の過程を踏ますに、断定的な感覚として人の心に住みついている。それが人間性の解放にとってどれほど障害になっているかは言うまでもない。
「女というものは」というような決めつけた言い方は、男にとっても女にとっても、不幸な言葉なのである。 

映画「沖縄スパイ戦史」を見た

 東中野ポレポレで上映中の映画「沖縄スパイ戦史」(三上智恵・大矢英代監督)を見てきました。先の大戦での沖縄戦の舞台裏には、陸軍中野学校出身者の仕掛けた「謀略戦」の側面があったのです。謀略戦とは、正面での軍事作戦の裏側にあって、自軍の有利に働くような、あらゆる手段を動員しようとする作戦です。この作戦は、現地の状況のよくわからない外征先よりも、現地住民を利用しやすい防衛戦において威力を発揮する性格を持っていました。つまり「本土防衛戦」の最前線と位置付けられた沖縄こそがその最適地であり、それはすなわち、本土決戦に備えた最善の戦訓が得られるであろう実験場とすることを意味していたのです。 
 謀略戦の実務者たちは、あらかじめ偽名を名乗り、学校の教師などとして沖縄の島々に配置されました。子供たちや親たちからも慕われ、信頼される存在となることが第一段階での使命でした。しかしそれが島人たちの悲劇になるのは、その目的が、島も島民も守ることではなく、総力戦への動員へと徹底していた事実でした。
 映画の中に、生存者が当時を思い出して、「自分たちは何のために戦ったのか」を自問する印象的な場面がありました。インタビューに答えるうちに、命をかけた筈の「戦った目的」がわからなくなるのです。「島人を救うためでも、領地である島を守るためでもなかった」ことは明らかでした。ならば日本の本土を守るためだったと言ってはみても、その内容がわかりません。強いて言えば、「天皇が統治する大日本帝国の誇りを守るため」でしょうが、国民も国土も失ったあとに、いったい何が残るのでしょうか。
 つまるところ戦いの大義とは、抽象的な空論に過ぎませんでした。国民と国土の安泰を犠牲にしてまで守るべき「国家」とは、虚像に終るしかないのです。この映画が見事だと思ったのは、この沖縄の悲劇を、最後にきっちりと「今の日本」に結びつけてくれたことでした。先島諸島への自衛隊の配備は誰の何のためのものなのか。そこに住む人たちのためでないのはもちろん、私たち日本人のためでもないのは明らかです。戦争を前提にした力学だけで事を進めることの愚かしさと危うさを示すサンプルにしかならないことに、なぜ気づかないのでしょうか。
 この映画を、一編の「戦争批評」として鑑賞することをお薦めします。

名古屋まで「ちゅうこん70」を見に行ってきた

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 昨日は12号台風で大騒ぎの中、名古屋まで往復して「ちゅうこん70」を見てきました。「ちゅうじ」さんは、私は知らなかったのですが、名古屋地区における「こんにゃく座」の勧進元で、ご自身も舞台に立って「ソングをうたう会」の中心メンバーであり、こんにゃく座の全員にもよく知られている存在なのでした。
 ここにゲストという形で、こんにゃく座の岡原真弓さん(構成も担当)と太田まりさん、井村タカオさん(照明も担当)が参加して作り上げた舞台でした。第一部は各人が得意とする歌の連続で、一曲ごとに迫力があり変化があり、楽しめました。
 第二部の前半は「森は生きている」からの抜粋が7曲で、名曲の楽しさが生き生きと再現されました。そして終盤には「きょうだいを殺しに」「なぜ?」「告別」「うた」という重い4曲が並び、反戦・平和への願いを響かせて感動的でした。私たちが「こんにゃく座」のコンサートに期待しているものに、そのまま応えてくれる内容でした。
 思い出せば、私と「こんにゃく座」との縁は、2007年の大垣での母親グループ主催のコンサートから始まったのでした。
http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55592378.html
名古屋圏に属する大垣だったから、岡原さん、太田まりさんと出会ったのは当然の成り行きだったのです。それから10年あまり、いろいろな果実を残してくれた出会いでした。あのときに「こんにゃく座」を知る機会がなかったら、私の人生の後半は、かなり色どりの乏しいものになったのではないかと思います。
 「日本オペラの夢」を掲げた林光氏は亡くなりましたが、その理想は今も脈々として受け継がれ、今から未来に向けて、その底流には「反戦・平和」への旗色をますます鮮明にしながら、力強い活動が続けられているように見えます。そしてそこに参加している「歌役者」さんの中に、心から応援したい人がいることを、私は幸せに感じています。
 2年前の太田まりさんの名古屋での「ただいま!コンサート」も、ちゅうじさんの制作だったことが、今回の解説でわかりました。改めて、その節は、ありがとうございました。
 

死刑で犯罪は防げない

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 ここへ来てオウム事件の確定死刑囚13人が、相次いで全員処刑されてしまった。2020年に向けて慶事が多くなることから、平成のうちに過去の清算を済ませて置くという趣旨があると言われている。汚れ役を押し付けるのに使われたとしたら、平成という時代も、ずいぶん見下して使われたものだと思う。
 もう言い古されているが、死刑という制度は人間の尊厳と両立しない。人を殺すのは重罪だが、だからといって「人を殺した者は死刑に処す」を厳密に実行したら、この世に生存できる者は一人もいなくなってしまう。「ただし法の執行のための殺人は罪に問わない」と例外規定を設けなければならないのは、国家が殺人を制度化しなければならないジレンマを示している。だから世界の文明国の中で、いまだに死刑制度を残しているのは、日本とアメリカの2国だけになった。
 刑法というのは、個人間の怨恨と復讐を、公的な権力の行使によって代行するために作られた。そこで殺人に対する刑罰も死刑から始まったのだが、やがて死刑による威嚇は、殺人事件の抑止には役立たないことがわかってきた。それは、死刑を廃止しても、凶悪事件の増加とは関係しないことによって証明された。つまり死刑制度とは、犯罪抑止よりも、被害者側の復讐意識による部分が大きかったのだ。
 今回のオウム死刑囚の処刑を、被害者の遺族関係者は、どのように受け取っておられるのだろうか。これでよかった、被害者の無念が晴らされたと思われただろうか。それとも、これ以上の犠牲者は望まない、むしろ、なぜこのような事件になったかを、生涯をかけて語り尽くして欲しかったとは思われなかったろうか。
 人の命が尊いことについては議論の余地はない。だとしたら、一時の過誤から犯罪者となった人たちの命は尊くはないのか。その者たちから、生涯をかけた魂の声を聞いてみたいとは思わなかったのか。
 人は、さまざまな理由で犯罪者となる。だが、生きている限りは、日々に心身を入れ替えて変化しつづける。その命を途中で断ち切るのは、人間の可能性の一部分を勝手に切り捨てることではないのか。神でない人間は、勝手に他人の人生の長さを決めてはならないと私は思う。死刑制度は、この国から消滅させるべきだ。

ブログ連歌(518)

10339 トランプを 10万人のデモでお迎え (獣医さん)
10340  「盟友」なれど 女王も戸惑う (建世)
10341 安倍の宴 豪雨のち酷暑 横に見て
10342  せめて外遊 中止してみる (建世)
10343 災害時 呑んで宴会 危機感麻痺 (みどり)
10344  66時間 空費したとか (建世) 
10345 解説は どうでもいいが 暑いこと 
10346  恐れをなして 外出もせず (建世)
10347 被災の地 泥土に瓦礫 片よせる
10348  汗拭く軍手 支援は続く (みどり)
10349 横綱を 張って三方 夏休み 
10350  世代交代 名古屋で進む (建世)
10351 不信任 数の力で 切り抜けて  
10352  採決急ぐ カジノ法案 (建世)
10353 カジノさん 今に見てみい 悲惨なものに (うたのすけ) 
10354  ギャンブル亡者が 社会の重荷 (建世)
10355 長袖が手放せない 冷夏の夏 (獣医さん)
10356  首都は猛暑に 声さえ絶えて (建世)
10357 やぐら建ち 精霊も待つ 盆踊り (みどり)
10358  せめて夜風は 涼やかに吹け (建世)
10359 怖ろしや 三選どころか四選しや(視野)に (獣医さん)
10360  永久与党の 驕りでポロリ (建世)  

「憲法9条・国民投票」の試写および勉強会

昨日午後は、参議院議員会館の地下集会室で開かれた、今井一(はじめ)さん呼びかけによる、「憲法9条・国民投票」の新作DVDの試写および勉強会に行ってきました。DVDは、今年2月に行われた実験的な討論会とそれを受けた模擬投票の様子を記録したもので、17名の「ふつうの人たち」が、憲法と国民投票の問題について、一流の政治家・専門家たちの講義を聞いた上で、各自が考えて出した結論を説明しながら投票して見せるという構成でした。このDVDだけで100分の長さがあり、かなり疲れる内容でした。
 しかし現実の問題として憲法の改定に手をつけるとしたら、必ず国民投票という手続きを必要とするのですから、これは重大な政治的課題なのです。政権与党も含めて、各党の議員の関心も高いようで、会場には現役の政治家が集まってきた時間帯もありました。議論を聞いていると、超党派での継続的な「議員連盟」の形成が模索されているように感じられました。

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 すでに安倍政権は「憲法改正」を公約に掲げているのですから、国民投票は避けて通れません。過半数の獲得は当然に視野に入れているでしょうが、もしも国民投票で負けてしまったら、致命的な打撃を受ける諸刃の剣でもあります。逆に護憲の立場からすれば、国民投票は安倍改憲を阻止する最後で最大のハードルなのです。そして「国民投票法」は、一応は制定されていますが、その細目についてはまだ議論が詰められていません。投票前後の広告・宣伝のルールなども、重要な問題です。
 いずれにしても、憲法と国民投票については、遠くないうちに具体的な動きが出て来るでしょう。その時のために、感性を磨いておきましょう。



 

カジノ法通し国会夏休み

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(熊さん)国会は、カジノ法案だけ通して閉幕したんですってね。
(ご隠居)そうなんだ。もりかけ問題も放り出して、外国から観光客を呼ぶとかの理屈で、賭け事を合法化するカジノ法案だけは急いで通したんだよ。てら銭の30%が国に入るそうだし、その筋からの献金もあったかもしれない。でもね、所詮は賭け事だよ。今でも日本人は相当なギャンブル好きなんだ。手近なところではパチンコが国民的な娯楽産業になってるだろ。この上にまた新手の賭け事を導入するってのは、どうなのかな。新しい生活破綻者を作り出すことにならなけりゃいいんだが。
(熊)新しい産業と言っても、生産性が上がるような話じゃないですよね。大勢が少しずつ損して、運のいい人に金を集めるだけのことでしょ。宝くじみたいなもんだ。全部買い占めたら損するに決まってるんだから。
(隠)その通りだよ。よくわかってるじゃないか。それでも導入を急ぐってのは、ほかに役に立つような政策が何もないから、安倍自民党が当面のにぎやかしに出してきたような気がするな。毒にも薬にもならないことを議論してれば無難だから、突かれたくない弱点は隠せるというわけだ。あとは、せいぜい記録的な猛暑だとか酷暑とか、お天気を話題にしてくれてたらいいと思ってるんじゃないのかな。
(熊)秋になると、自民党の総裁選挙があるってのは、どうですか。
(隠)ああ、それもあるんだってね。国政で近いところに選挙がないから、それも話題にはなるかもしれない。でも自民党内の選挙だから、党内の派閥の力関係で決まるわけだよ。自民党としたら安倍政権をどう評価するかってことだね。党内で競争もあるかもしれないが、私は正直言って、あまり興味はないし知識もないよ。誰がやっても、目のさめるような変化はありっこないと思ってるな。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
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昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
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