志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

90歳になっていた

 気がついたら、90歳になっていた。長女に「おめでとう」のお菓子をプレゼントされたのが、もう昨日のことになってしまった。90は漢数字で縦に書くと、「卒」の略字「卆」のように見えるから、昔から「卒寿」と呼ばれている。人生の卒業に近いようにも思われるが、私の身辺には何の変異もない。定期的に医者にかかることもなくなっているし、面倒見のよい歯科で、月に一度の点検と清掃をを受けているだけである。その歯は、はるか昔の草加時代に奥歯の一本を金冠にした以外は、すべて自分の歯のままで今に至っている。
 身体能力は、特に計測もしていないが、日常の暮らしには何の変異も感じない。ただし週に一度の「ボウリング教室」で2時間ほど体を動かした後は、さすがに少し疲れて自宅まで10分の徒歩が遠く感じられて、バスに乗って帰ることが多くなった。そのほか、気がついてみたら、いつの間にか自転車に乗らなくなっていた。今は空気も抜けて、物置の奥の方に押し込んである。
 テレビでも新聞でも、世の中のことは向こうから情報が入ってくるから、不安感は何もない。あとは自分の家族、親族のこれからを見て行くだけでいいのだろう。
 ただし90歳代を、ただ生きているだけの時間で終わらせていいとは思っていない。「やりたかったことは、全部できたのか」と自問すれば、そうでないことはわかる。これからの10年間を、悔いの少ない充実したものに仕上げること、そのために私の時間と能力を、惜しまずに使おう。 

鯉のぼりの歌を思い出した

 かつて「鯉のぼりの歌」があったのを思い出した。五月になると、ラジオからも流れていたような気がする。学校で習ったのではなく、今もなんとなく覚えているので確かめてみた。

甍(いらか)の波と雲の波
重なる波の中空を
橘かおるあさかぜに
高く泳ぐや鯉のぼり

開ける広きその口に
舟をも呑まん様(さま)見えて
豊かに振るう尾びれには
物に動ぜぬ姿あり

百瀬(ももせ)の滝を登りなば
たちまち竜になりぬべき
わが身に似よや男子(おのこご)と
空に踊るや鯉のぼり

 初出は大正初年ころの小学校唱歌とされている。広田龍太郎の作曲で、作詞者は不詳となっているから、文部省唱歌として作られたものだろう。当時の一流の作詞家が協力しているだろうが、その個人名は伏せられている。当時の音楽教育は、かなり質の高いものだった。

ひとりぼっちの鯉のぼり

 タイミングを外して、やや季節外れの話題になってしまったが、今年の5月5日にも、屋上のポールに鯉のぼりを上げてみた。この鯉のぼりセットは、1991年に、最初の孫の誕生を祝って買ったことが、箱の蓋に書いてあった。その孫はすでに社会人になり、やや縁は薄くなってはいるが、マイペースで仕事をしている。
 それよりも、間もなく2歳になる曽孫(ひまご)の男の子がいるので、その子に見せながら写真でも撮れるいいのだが、そんな根回しも忘れていたので間に合わなかった。それでも年に一度、鯉のぼりを風に泳がせてやれたのは気分が良かった。ただ気になったのは、かなり見晴らしのよい屋上から見回しても、鯉のぼりらしいものが、ほかに一つも見当たらないことだった。少し以前には、マンションのベランダに小ぶりの鯉のぼりが出してあるのが見えたりしていたと思うのだが。
 わが家の娘たちがまだ小さかった頃には、この季節に町を歩けば、どこかで鯉のぼりを目にするのは当たり前のことだったと思う。「鯉のぼり」をうまく言えなくて、「コイモノリアッタ」と下の子が言っていたのを思い出す。しかし今の町中を歩いても、そんな機会はとても少ないのではないか。
 私が育った家には、庭の中央に高い木製の柱が立ててあり、私の父は「旗日」になると日の丸の旗を掲げていた。季節にはもちろん、吹き流しから黒、赤、青と続く鯉のぼりが、数日間にわたって上げられていた。私の幼い記憶の中に、それを見上げながら、シュウシュウと流れる風と、尾のはためく音を聞いている自分がいる。
 人間、顔を上げ、空を見るのは良いことだ。来年も鯉のぼりを上げて、孫、ひ孫たちにも見せてやろうと思った。

 

久しぶりの西六郷少年少女合唱団

 昨日は、西六郷少年少女合唱団の定期演奏会に行ってきました。どこかで縁がつながっているようで、この時期になると案内のお知らせが来て、長女が気をきかせてチケットの購入手続きもしてくれていたのです。会場では、お互いに高年齢になってきた「みんなのうた熱中人」との再会もできました。最後のアンコールでは、「ぼくらの町は川っぷち」の元気な歌声を、久しぶりに聞くことができました。
 6年間で終った私のNHK在職中に、私が「みんなのうた」を担当したのは1年半に過ぎません。でもそれが、あの番組の絶頂期であったことは、客観的な事実だったと思います。当時は2ヶ月に一回の楽譜集が発行されていて、ハガキの申し込みで無料で配布しており、そのスポサーになってくれたのが日本ビクターでした。その申し込みが10万部を超えて、NHKのベストセラーと言われていました。
 私の担当の中でも「口笛吹いて」(クワイ河マーチ)は、撮影ロケの規模としては、記録的だったろうと、今でも思っています。ボーイスカウト東京に協力を依頼して、湘南海岸で百人規模の行進をしてもらい、それをクレーン車を使って撮影しました。ジュニアの「カブスカウト」も参加してもらったので、付き添いの母親たちのバスも随行することになり、昼の食事休憩の設定だけでも大仕事でした。
 好天にも恵まれて、クレーンに乗った私が振りかざす白い手拭いに応じて隊列が動き出したときの、ぞくぞくするような緊張と快感は、今も明瞭に覚えています。
 その場に合唱団がいたわけではありませんが、その歌声とテレビの画面とは響きあって、「テレビから流れるみんなのうた」を作り出していたのでしょう。なんという幸せな番組であったことかと、今にして思います。考えてみれば、歌ってくれた合唱団の子供たちは、湘南の砂丘を踏みしめる感触も、吹き抜ける潮風の匂いも知らずにスタジオから帰って行ったのです。
 映画やテレビは「総合芸術」とも呼ばれますが、その全体をまとめるディレクターという役柄を、私は自覚もなしに務めていました。自分は何をしていたのか、今にして幸運に感謝するばかりです。

10回「外れ」だった公団住宅

 きょうの朝日新聞土曜版「Be」の「サザエさんをさがして」は、1969年(昭和44年)の「公団住宅、また外れ」がテーマだった。この時代、私たちも住宅探しには苦労していた。当時は西池袋の、線路わきの四畳半アパートに住んでいた。生活の上では、幸いにしてテレビ拡張期だったNHKの「秋採用」に拾われて、まだ裏方の「美術部進行課」ではあったが、身分は安定していた。ただし妻は妊娠しているのがわかっていたから、住居探しは急務になっていた。
 この時代、公団住宅に入るというのは、誰でもが望むことだったが、そこにはいつも激しい抽選の競争があった。人気のある団地などでは、数十倍になることも珍しくはなかったと思う。戸塚とか常盤台とか、かなり不便そうな団地を狙ってみても、結果は同じだった。そして落選が10回にまでなったとき、思いがけずに「連続落選者のための相談窓口」というものの案内が来たのだった。
 そこで紹介されたのが、埼玉県の草加団地だった。私にとっては縁もゆかりもない知らない土地で、とんでもない田舎という印象だった。しかし現場へ行ってみると、案外に都心から近い場所で、市内には映画館もある。建物はすべて2階建てのテラスハウスで、各戸に小さいながら庭もついていた。そして周辺には水田が広がっており、蛙の声が聞こえていた。団地の裏には小川が、そしてその先には綾瀬川が、ゆったりと流れていた。
 こういう環境で子供を育てるのも、いいかも知れないと思った。そしてその場所が、娘たちにとっての「生まれ故郷」になったのだった。娘たちは、その町で良い先生に出合って小学生時代を過ごした。私もそこで団地に接する土地を購入し、今につながる自営業を創業したのだった。
 

桜満開の中野通り

 たぶん昨日のことだが(昨日のことなのに「たぶん」をつけなければならないのは不本意だが)、散歩に出て「春らんまんの中野通り」を見て来た。薬師公園のすぐ横にある歩道橋の上から眺めるのが、よい風景である。かなりの大木に育った桜の並木が、中野通りの両側に並んでいて、ほぼ桜のトンネルに近くなっている。思えばこの並木道は、私たちが草加の田舎から中野へ引っ越してきた昭和51年(1976年)当時には、まだ造成の途中だった。道路の幅さえも、中野駅近くでは、今の半分ぐらいだったと思う。今はもうなくなってしまった、いろいろな店で買い物をした記憶もある。それらが取り壊されて、往復四車線に拡張されて行ったのだった。その両側に点々と植えられた桜の苗木が、今は堂々とした大木になり、両側から枝を伸ばして、文字通りに花のトンネルを作るまでになっているわけだ。
 でもそんな大変化を、私たちは何も意識せずに過ごしてきた。おそらく毎日眺める風景が、昨日と同じように見えているから、気にしない、あるいは気づくことが出来ずにいたのだろう。
 思えば都内中野区の住民になってから、もう50年近くが経過している。長女が中学生なる年頃になり、なんとか東京都民に戻りたいと思った。草加団地の暮らしは楽しかったが、私は親の代から、生粋の東京っ子だったのだ。
 それと、中野通の桜には、2018年の春、妻と二人で見に行った思い出がある。二人で見ることが出来た最後の桜だった。なぜか「一期一会」という予感があったのだった。昨日は、あの日と同じ経路で、一人で歩いてみた。
 

夢に出てくる「わが生活史」

 人は眠っている間に、かなり多くの夢を見ているらしい。ただし、記憶に残っているのは、目覚めに近い時間帯に見た、最後のものに限られるようだ。自分が夢を見やすい体質なのかどうか、他人との比較も出来なのでわからないのだが、朝起きる直前まで見ていた夢が、その時点では、かなりよく思い出せる気がすることは珍しくない。今朝もそんな類型の中の一つだった。
 時間がたってしまったので細部はもう覚えていないが、私は何人かの部下を指導する立場にいる。その部下を動かしながら、何かの仕事を仕上げるのが私の職務である。ただし今はその現場へ行くために、列車に乗っている時間だから、当面は何もしなくていい。いま会話している相手は、自分の仲間とは無関係な、ただ偶然に乗り合わせた他人の乗客に過ぎない。だから気楽に、たいして深い意味もない雑談をしていればいいのである。自分の部下たちは、遠慮しているのかどうか、会話の中には入ってこない。
 だから話題は何でもいいのだが、何でもいいだけに、かえって何か実のあるものを持って来ないと、意味のある会話を続けることが出来なくなる。そこでどうしても、自分の知っている自分の過去のことを話題にする結果になるのである。 
 それは、自慢話をしたがっているようでもあり、過去の失敗の数々を味わい直す「懺悔録」のようでもある。90歳も近づいて、私の過去には、数え切れないほどの失敗の記憶もある。人は年をとると過去を美化する傾向があると、一般には言われるようだが、私には、あまりそんな感覚はない。ただし、亡妻がいてくれた時代のことは、今でも懐かしく思い出すばかりである。 

少子化の時代へ

 長らくブログは夜の寝る前に書くものだと思ってきたが、気がついたら書かずに寝てしまうことが多くなった。結果として2月には、たった一度しか書いてないことに気づいて愕然としたところだ。これでは訪問者が減ってくるのも当然である。自分の生活に「張り」がなくなるのも連動している。
 今朝の新聞(朝日)を見たら、日本の出生数が年間80万人を割り、これは信頼できる統計が取られるようになってから初めての事態だということだ。しかしこれは、私の最近の実感とも符合している。私の子孫は、娘が二人だが孫は三人で止まって、もう増える可能性はない。そしてその下の曽孫(ひまご)は、ようやく最初の一人が生まれたところである。本来なら孫は四人、ひ孫は八人いないと人口が維持できない計算だが、そこまではとても行きそうもない現状である。
 私が生まれたのは昭和8年、1933年のことだった。兄二人、姉も二人で、五人きょうだいの末っ子だった。ただし私のすぐ上には姉がいたのだが、その子は幼児のうちに亡くしたと聞いている。母は私を、死んだ娘が男の子に生まれ変わって来てくれたように思ったと、当時の日記に書いてる「それでこの子は、やさしい子になった」と、人にも話しているのを、私は聞いている。そのほかにも、次兄にあたる幼児の写真が、家の仏壇には飾ってあった。当時の母親にとっては、夫婦が円満であれば、生涯に七人の子を産むのは、むしろ自然な流れだったことだろう。
 現代では、子は自然に「生まれてくる」ものではなく、意識して「産む」ものになっているのだろう。その結果としての出生数の減少である。でもこれは、憂うべき現象だろうか。私は高尾山から関東平野を見下ろしたとき、見渡す限りが建造物に覆われているのに衝撃を受けたことがある。あまりにも過密で、三割ぐらいは人口を減らすのが適正ではないかと感じたものだ。あのときの感覚は、決して異常ではなかったと、今でも思っている。
 

満90歳が近づいている

 今年の5月になると、私は満90歳に到達する。90歳は、漢数字で縦書きした場合の字の形から、「卒寿(略字で「卆」とも書く)」と呼ばれるのだが、なんとなく卒業のような感じもある。一般的に見ても、今後に何かを期待するというよりも、「お疲れさま」と労わられて、機嫌よく過ごしていれば上出来と言われるのではなかろうか。私の場合は、長く「経過観察」が続いていた呼吸器科でも、数年前に「完治」の判定が出て、歯科以外には、医者との縁は無くなって過ごしている。
 少年期、青年期の私には、「老後」というものに対するイメージは、全くなかったと思う。人の命が永久でないことは知っていても、それを自分事として考えることはなかった。2018年に妻を失ったことはショックだったが、それは突然の事故のように思われた。やや認知症を自覚し始めていた妻は、むしろ「してやったり」と、満足して行ったのではないか、とさえ思った。
 自分が高齢まで生きたことは、決して無駄ではなかった。孫娘が連れて来た曽孫といっしょに、楽しく遊べる機会まで出来たのだから上出来である。間もなく第二子が誕生の予定とも聞いている。私がこの世にいたことは、かなり多くの人たちが覚えていてくれることになるだろう。
 書いているうちに夕方の5時半になった。毎週見ている「笑点」が始まる時間である。音の大きさは、「30」までにしておくと、娘たちからの苦情は聞かないで済む。
  

強盗集団の登場を許すな

 年末に発生した中野区の集団強盗事件の犯人、7人組のうちの2人が逮捕されたということだ。強盗と言えば、一人でも自宅に入られたら怖いものだが、これが集団として襲ってくるというのだから、考えるだけでも怖い話だと思う。今までの日本には、なかった種類の犯罪だが、今はインターネットが悪用されれば、そんなことも増えてきそうな気がする。ギャング団とはアメリカの話と思っていたが、日本でも安心はできなくなる時代なのかも知れない。
 インターネットは、知らぬもの同士を結ぶ便利なものだが、これが悪用されたら、犯罪の道具にもなり得るということだ。今回は、警視庁の暴力団対策課が対応したということだが、特定の暴力団とは無関係なところから、こうした犯罪が、これから増えてくるのではなかろうか。
 そして今後にやっかいなのは、犯罪になるかならないか、グレーゾーンの迷惑行動が、ネットを通して拡散することである。取り締まりにも、新しい知恵が必要になるのだろう。 

日本の少子化について

 国会での施政方針演説で、岸田首相が「出生率の反転を」と述べたことが、きょうの新聞に出ていた。日本の総人口は、2010年の1億2千800万人をピークとして、減少の時代に入っている。これは、私の家の現状とも符合している。
 私は昭和8年(1933年)の生まれだが、上に兄が二人、姉が二人いた5人目の末っ子だった。しかも私の母は、ほかに男女の一人ずつを、幼いうちに病気で亡くしていた。私のすぐ上は姉だったが、その子も夭折していたので、母は私を、姉の生まれ変わりのように思ったそうだ。「だからこの子は、やさしい子になった」と、他人に語るのを聞いたことがある。つまり母は、生涯に7人の子を産んで、そのうちの5人が育ったというわけだ。当時としては、ごくふつうの家族だったと思う。
 そして、その子である私は、二人の娘を授かり、そこから三人の孫を得た。その孫たちが今は現役の家庭人になる年頃だが、その下の世代からは、やっと一人の初孫を授かったのが現状である。理論上は、子は二人いて、孫は四人、ひまごは八人いないと人口の維持ができないわけだが、とてもそこまでは行きそうもないのが現状である。
 昔は、子供は「生まれてくる」ものだった。しかし私の世代は、すでに「子供は適当な時期に産んで育てる」ものになっていたと思う。つまり妊娠と出産が「自然現象」ではなくなって、選び取るものに変化してきたわけだ。この傾向は、今後も決して後戻りはしないだろうと思う。現代人の生活の中では、子供を得ることは、一つの態度の表明になっているのだ。
 そこで主導権を握っているのは女性である。女性にとって「子供を育ててみたい国」でなければ、子供は生まれなくなる。少子化を反転させたければ、男たちが集まって対策を考えるよりも、ここは女たちの意見を素直に聞くべきだろう。 

阪神・淡路大震災の記憶

 朝の新聞を見て気がついた。阪神・淡路大震災が28年前にあった日だ。あの朝は、早朝から異様な雰囲気だった。東京にいて地震を感じた記憶はないのだが、朝のテレビでヘリコからの中継映像が流れ、「高速道路が倒壊しています」と伝えているのを見て衝撃だった。それでも肝心の大阪方面の地上からの情報が何もないのが異様だった。西からの情報は、京都発のものが最初だったと思う。それからしばらくの間は、ひたすらヘリコの中継映像だけが流れていたような気がする。次々に映し出される市役所も警察も、まだ出勤前の「ただの箱」の連続に過ぎないのだった。
 あれから28年が経過していることも、きょうの新聞で知った。このときの私は、まだブログを始めていなかったから、記憶を確かめる方法もないのだが、阪神方面からの情報発信の能力は、壊滅状態だったのだと思う。幸いにしてというべきか、関西方面には、親密な親類や知人がいなかったのが、身勝手だが、救いと言えば言えた。
 所詮は大陸の端の海上に、不安定な頭を出しているだけの日本列島である。「日本沈没」も、荒唐無稽の作り話ではない。自然災害に備えて、絶えず警戒心を忘れずに生きていく他はない。この日本という国の、危うくも美しい自然に感謝しながら、私たちはこれからも生きつづける。

「1969新宿西口地下広場・上映&トークの会」に行ってきた

 渋谷のLOFT9を会場とした、新宿西口地下広場をテーマとした会に行って、帰ってきたばかりです。吉岡忍さん、山城博治さんをメインゲストとし、そこに若い世代の研究者男女二人が参加し、大木晴子さんが総合司会者として全体をまとめる構成でした。会場は渋谷の「LOFT9・Shibuya」でした。   
 私が土曜日の「西口スタンディング」に参加するようになったのは、自分の過去ブログを見たら、2009年の3月からでした。大木晴子さんの活動は、その時点ですでに40年もの積み重ねがあったのですね。改めて、この人のやったことの大きさということを考えます。
 発足時のテーマは、ベトナム戦争に反対する平和運動で、新宿の西口地下広場に何となく若者たちが集まるようになり、その中心に、ギターを抱えて歌う大木晴子さんがいたのでした。その運動のその後の経過などについては、ご本人が書かれた本もあるし、私の出る幕ではありません。ただ、私にとっては、土曜日にここへ行くことによって、「今の日本と世界」につながる接点が得られたのでした。そして今日の会場でも、何人かの顔見知りの人たちとの再会ができました。その雰囲気は、「同窓会」に行って、かつてのクラスメートと言葉を交わす懐かしさそのものでした。
 私の人生の中に、こんな仲間との交流があったということを、私は誇りにしていいと思いました。一人で机に向かっているのが好きな私にとって、貴重な「外の空気に触れる機会」であったと思うのです。かつての「仲間」たちに、心からの感謝と、尊敬を送ります。 

間庭小枝さんの「第2回・見上げてごらん夜の星を」コンサート

 昨日は、所沢の文化センター「ミューズ・キューブホール」(下車駅は「航空公園」)へ、間庭小枝さんのコンサートを聞きに行ってきました。「第2回・見上げてごらん夜の星を」です。間庭さんのコンサートと言えば、秋に行われる「椰子の実コンサート」が定番で、昨年の10月10日にも行っていますが、冬の星空をイメージした新しい企画なのでしょう。男声歌手の高津佳さんとのコラボでした。ただし公演は星空の夜間ではなくて、ふつうの昼間です。
 下車駅の「航空公園」の駅前には、国産旅客機「YS11」の実機が展示してあります。ここは、日本の航空産業の原点でもあるのです。近寄って間近に見ることもできるので、私にとっては、それだけでも訪問の価値がある駅です。
 コンサートの構成は、「日本の美しい歌曲」「信長貴富の歌曲」「こどものための合唱曲集より」そして「時代とともにあった流行歌」でした。私としては、他では聞けない珍しい曲もあって収穫ではあったのですが、「椰子の実」のときのような、舞台と客席が一体化するような盛り上がりというよりも、やや「お行儀のよい」クールな会場であったように思いました。それには、客席をすべて一つごとに空席を設ける「コロナ対策」モードにしていたことも関係します。この時期の主催者の負担の重さは、想像するだけでも大変なことだと思いました。
 「椰子の実コンサート」ではないので、最後に舞台と客席が一体となって歌うフィナーレはありません。会場の外へ出て、他の聴衆たちと駅へ向かって歩くとき、お客さんだった人たちの大多数が、りっぱな「おばさん」たちであったことに気がつきました。この人たちが、間庭さんのコアのサポーターだったのですね。事前の配布チラシに「ロビーでのお見送りは、ありません」とコロナ対策が書いてあったので、素直に退場したのですが、こちらから楽屋を訪問すれば良かったのにと、後悔する気持ちが残りました。また、次の機会があることを望みます。 

年始めの深大寺

 年の始めの雲一つない晴天の一日、長女の夫婦とその娘の夫婦、そしてそこに生まれた1歳8ヶ月になる長男と、そこに私が加わった6人で深大寺へ行ってきた。新年のお参りに行くという宗教的な感覚は、誰も持ってはいないのだが、車で行ける正月の行き先としては好ましく思われた。私から見れば、長女の長女の長男という、直系の三代目つまり曽孫(ひまご)になるが、気がついたら姓はみんな違っている。今の戸籍制度では、これは今のところ仕方がないのだろう。
 曽孫は誕生日が私の二日あとで、今は一歳と7か月あまりということになる。歩き方は、だいぶしっかりしてきた。この年代というのは、肌や手先は赤子の柔らかさを残しているが、骨はしっかりして来て、自分の力で歩いているのがよくわかる。私たち夫婦が、長女を上高地へ連れて行ったのが、ちょうどこの年頃だったことを思い出した。まさに可愛い盛りの中にある。

 そこには
 青く澄んだ梓川があり
 美しい川岸の紅葉があり
 その向こうには白く輝く穂高の頂があり
 秋の日は河原に暖かく

 私は絶句した

と私は詩に書いた。昭和39年、31歳のときだった。それからあと58年もの間、私は何をしてきたのだろう。あのときはNHKに勤務していて、東京オリンピックで通常番組が二週間休止になったため、たまっていた有給休暇が取れる絶好のチャンスになったのだった。あのままで、定年まで無難にNHKに勤務していたら、私の人生は、今とはずいぶん違うものになっていたことだろう。過重なストレスで、一時的に欝状態に陥ったのだった。正直に申告して、休暇を申請すべきだった。それを言い出せなかったのが、やはり私の運命だったと思われる。NHKに定年まで勤めた私は、今とはずいぶん違う人生を送って89歳を味わっているに違いない。

 

今年最後の夕日

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 今年最後の夕日が、先ほど西に沈んで行った。今はもう見ることができない。明日から新年つまり「来年」になるのだが、人との挨拶は、きっと「今年もどうぞよろしく」と言うに違いない。私たちは生きている限り、常に「いまの一瞬」にしかいられないのだから。
 昔は「数え年」で年齢を唱えていたから、赤んぼうでも生まれたとたんに「一歳」であり、次の日が元日なら、すぐに「二歳」になったものだ。年齢の唱え方に関する法律ができて、満年齢で唱えるようになったのは、戦後のことである。でも今は、戦後もすでに77年を経過している。戦前を知っている世代の方が、ずっと少数派になった。私はすでに89歳になっている。
 いろいろあって、本当に面白い人生だったと思っている。アメリカとの戦争が始まって、大日本帝国万歳を叫んだのは、小学2年生のときだった。日本軍は強いから、アメリカの太平洋艦隊も簡単に撃滅した。君たちが大人になるときは、日本も大きくなっていると教えられて育った。学校の教室には、日本軍の活躍を知らせる世界地図が貼りだされて、戦争が日本の勝利で終る日のための、中央に貼る大きな日の丸までが用意されていたのだ。
 ところが景気が良かったのは4年生ぐらいまでで、5年生のときには集団疎開で田舎の寺に寝泊まりするような経験もした。6年生のときには親の都合で東京にもどり、夜ごとの空襲で、B29が焼夷弾をまき散らして行く実況を、鉄兜をかぶって見上げていた。「こんなすごいものは、今しか見られないぞ」と、高校生の兄が言っていた。その兄にも召集が来て、迫撃砲の部隊に入って訓練を受けていたのだが、内地にいる間に戦争は終った。
 戦争に負けたら、ひどいことになると言われていたのだが、進駐して来たアメリカの兵隊たちは、布の帽子をちょこんと被った、いい人たちばかりだった。表通りで通りかかるジープに「ハロー」と呼びかけると、キャンディーなどを投げてくれるのだった。それが甘くて美味しかったことは、今でもありありと覚えている。そんなこんなで今がある。戦争には、親は年を取りすぎ、子はまだ幼なかった、幸運な世代に当っていたおかげだった。
 そんな私が、いまや老年となり、世の中から退場しようとしている。すでに妻とは死別した。そして妻が残した娘たちの家族とともにここに住んでいる。次の年に何があるかを、私は知らない。私はいったい、何を残して行くのだろう。

歳月は人を待たぬ

 「歳月は人を待たず」と言われる。原典は陶淵明の詩で、「雑詩」の中に出てくる「盛年重ねて来たらず、一日再びあしたなり難し、時に及んで当(まさ)に勉励すべし。歳月は人を待たず。」という言葉から来ているとのことだ。今年もあと明日の一日だけになった。日めくりカレンダーも、あと一枚で終りである。
 かなり昔のことだが「時間」と題して

 時間ほど厳しく
 そしてまた寛容なものはない
 取り返しのつかない過去のあとに
 まだ手つかずの新しい未来が来る

という詩を書いた覚えがある。たしか「電工労連」さんから依頼された機関紙の新年号のために作った詩だった。画面は、手前から遠くの山を越えて、果てしなく続いて行く高圧送電線の写真だった。晴天の日も嵐の夜も、暖かいものが休みなく送られているという趣旨の言葉が、その前後に配してあったと思う。
 電力は、もちろん一瞬も絶やしてはならない人間文明の血液だが、私の心臓は、永久動き続けることはない。89歳は、もう十分に長生きしたとも言える。残りの人生で、このあと私は何をしたいのか。

 この地上では、24時間で太陽が一周する。あと一周で今年が終るのだが、未だかつて「未来」の時間に生きた人間はいない。人は「いま」に生きている。それがすべてである。




金田義朗氏の新著「新・神話」

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 旧知の人で畏友の金田義朗氏から、新著の送呈を頂いた。金田氏は旧・全繊同盟の教宣担当者として活躍された人で、私の事業草創期からお付き合いが始まった恩人でもあり、私とはほぼ同年代に当る。今は悠々自適の歳月を楽しんでおられるかと思っていたら、「神と人間の関係」を正しく伝えなさい」という啓示を受けて、この本を出されたということだ。その啓示は、数年前に心臓の手術を受け、集中治療室に入っていた夜に、夢か幻のように現れたと巻頭に書いている。
 そのことに衝撃を受けたのは、私も何年か前に大腸がん手術で入院中に、ほぼ同じような夢を見て、天空から地上を見渡していたことを思い出したからだった。その場面を、私は「昭和からの遺言」のラストシーンとして、ほぼそのままに記述しておいた。それは余談だが、金田氏の場合は、その浮遊の場で、実際に神様から命令されたというのだから、これは信じないわけに行かない。
 人にはそれぞれに、天(神を信じる人には神でもいい)から与えられた使命というものがある。それを自覚しないで、なんとなく生きて死んでしまう人も少なくはないが、人間は死の恐怖が近くにあると、多少なりとも真面目にものを考えるようになる。これをたしか夏目漱石は「人生の第一義」と呼んで、その他は「すべて喜劇」と評しているのを読んだ記憶がある。
 それはともかくとしてこの本は、くだくだと長い理屈をこねることはしない。短い言葉で、ことの本質を述べて行く。一人の男が、文字通りの「命がけ」で書いた本である。著者自らが手習いして描いた「絵本」になっているので読みやすい。

 著者 金田義朗(かなだ よしろう)
 発売元 株式会社星雲堂 〒112-0005 東京都文京区水道1-3-30 03-3868-3275 FAX3868-6588
                        定価 990円(税別)

 



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サンタクロースが来ていた頃

 12月も半ばを過ぎて、テレビではちらほら、サンタクロースの話題も聞ける時期になりました。私の家にサンタクロースが来ていた時期の最後は、草加団地の隣接地に家を建てて、自立した制作の仕事を始めていた、60年ほど昔、昭和40年代の終り頃だったと思います。娘たちは、育ち盛りの小学生でした。
 妻と二人で「今年はどうようか」と相談した結果、「そろそろ最後になるかも知れないけど、今まで通りのサンタさんにする」ことに決めました。
 当時娘たち二人は、私たち夫婦と廊下を挟んで向き合う三畳間に寝ていました。寝静まった頃に私たちは、例年のように娘たちの枕元に、例年のようなプレゼントを並べ、そこに私はこんな「お手紙」を添えて置きました。

 サンタクロースは 今年も来ました
 すみよちゃんとマーちゃんが待っていたので
 ことしもやっぱり来たのです

 あなたたちがおとなになって
 赤ちゃんを育てるようになったとき
 その赤ちゃんにところへ
 きっとまたサンタクロースが来るでしょう

 だから サンタクロースは
 やっぱりほんとうに いるのです

次の朝に耳をすませていると、娘たちの会話がきこえてきました。「本当はママなんだよね」と言う次女に対して、長女は律儀に「サンタクロースのお菓子でしょ」と言い張っていました。そんな心づかいが出来るようになっている長女でした。
 その後、私の家族には三人の孫が生まれて、今では曽孫(ひまご)も一人います。その子供たちのところに、サンタクロースは来たのでしょうか。そんなことを話題にするのを忘れていたことに、いま気がつきました。

  

「あの日」から81年

 12月8日は、私にとってはいまでもやはり特別な日だ。いまから81年前のことになる。私は小学校(当時の名称では「国民学校」)の2年生だった。朝、目を覚ましたときから異様な雰囲気で、上の兄が、興奮した口調で「米英軍と戦闘状態に入れり」と、臨時ニュースの言葉を繰り返してていた。その時点では「西太平洋において」という地域が示されていて、それは仏印(フランス領インドシナ)とマレー半島への上陸作戦を意味していたので、ハワイ海戦の情報は、それから昼にかけて順次に伝えられて来たのだと思う。とにかく、米英という大国を相手に戦争を始めたというのだから、その衝撃は大きかった。
 しかし「大変なことになった」という不安感は、ほとんど無かったと思う。それまでも中国大陸での戦争は長く続いていたのだし、戦争のニュースと言えば、日本軍が勝って進軍したという話ばかりを聞かされていたから、負けるかも知れないなどという不安は、子供には全くなかった。
 ラジオニュースの冒頭には、勝ったニュースのときには、まず威勢のいい「軍艦マーチ」の曲が最初に流れるのだった。このパターンは、かなり早い時期から決まっていたように思う。私はこれが聞こえると、勝手な身振りで踊り出す習慣になり、それを大人たちが面白がるので、得意になっていた記憶がある。子供にとっての戦争とは、まずはそのようなものだった。
 この戦争は結局、私が6年生になるまで継続して、学童疎開の騒動とか、最後の年には夜ごとの空襲という形で、家族の生活の全体を支配するようになって行った。私の家族の中から犠牲者を出さずに済んだのは、父親は年を取りすぎていて、子供たちは兵役年齢に達していなかったという、世代的な「谷間」にいた偶然の結果に過ぎない。高校生だった兄にも召集は来たのだが、内地で訓練中に終戦を迎えて、軍から払い下げの、かなりの物資を背負って復員して来た。
 あの時代に、壮年兵として戦場にいた世代がいたことを思えば、心はおだやかではいられないのだが、国をあげて戦争に向かう時代を、決して再来させてはならないと思う。 
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
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