志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

千葉まで行って異次元空間にいたような一日

 昨日は千葉市の若葉文化ホールで開催された「国民文化としての1960年代『みんなのうた』ーー60周年に寄せて」という公開シンポジウムに行ってきました。ただし折からのコロナの影響で、「無観客開催」になったのですが、私を含めて50名ほどの「関係者」が客席に入りました。
 主催は、鹿児島女子短期大学・佐藤慶治研究室、後援に千葉市教育委員会が入っていたのですが、なぜ千葉なのかは聞きそびれました。佐藤慶治先生とは、2018年の西六郷少年少女合唱団の定期演奏会のときに、何かのメールのやりとりがきっかけとなり、九州から飛行機で飛んで来て頂いて以来のおつきあいとなりました。NHK時代に一年半だけ、偶然のように担当した5分間番組の「みんなのうた」が、国民文化の問題として論じられるというのは、私としては驚異的な出来事でした。
 それでも、当時の「みんなのうた」が、子供たちの間で強い影響力を持っていることは実感していました。当時の私は、家庭的には子供が生まれ育つ時期に当っていました。今でもよく覚えているのは、長女の誕生の予定日が、「みんなのうた」で使う「線路は続くよどこまでも」の撮影ロケと重なったことです。撮影は天候不良に見舞われて何度も延長になり、季節外れの雪にまで見舞われる有様でした。しかし放送日は決まっています。何度も家に電話を入れながらロケ旅が続きました。撮影がやっと終わって現像・編集にかかり、ギリギリのタイミングで放送に間に合わせることができました。やっと一息ついて家で落ち着いたとき、産院から出てきたばかりの長女が寝ている部屋のテレビから、いつもの6時半に友部光子さんのアナウンスが流れてきました。
 「みんなのうたの時間です、さあ、きょうも元気よく歌いましょう。まず『線路は続くどこまでも』から……」(当初のアナウンスに「線路は続く」のあとの「よ」は入れていないのです。ただしテロップと楽譜は歌詞と同じに「よ」入りになったので、以後はこれが定番となりました。)
(注・当時のテレビ用ロケは、すべて16ミリの映画で撮影されました。放送に使えるような精度の高いビデオ録画が可能になったのは、私が退職(1965年)してからずっと後のことです。)

「そして『みんなのうた』は生まれた」の再放送

 去る3月6日の夕方にNHK-Eテレで放送され、私も出演した「そして『みんなのうた』は生まれた」(第1回)が、この連休中の5月3日(月曜・憲法記念日)の朝6時10分から10分間、再放送されることになりました。今回は総合テレビでの放送です。「みんなのうた」は、本来は総合テレビの月曜から金曜まで、午後6時半からの放送番組で、Eテレとは無関係でしたから、やや本来の形に近づいたことになります。ただし単なる再放送ですから、内容は初回と全く同じです。
 もし見逃したとか、録画しておけば良かったと思う方がおられましたら、どうぞごらん下さい。 

「井上成美」(阿川弘之著)を読む

 何が動機だったかは思い出せないのだが、阿川弘之の書いた「井上成美」を、図書館から借りて読んでみた。名前の「成美」は、本来は「しげよし」だが、今は「せいび」でも良いらしい。日本で最後の海軍大将になった人である。どこかの海戦で活躍したというような話ではない、海軍の中枢にあって、常に「良識派」の一人として「20年先の日本を考えていた」という人である。
 日独伊三国同盟(日本・ドイツ・イタリアが攻守同盟を結んで、米英に対抗しようとした)が結ばれたときも、ヒトラーの「わが闘争」を原語で読んで、日本を「おだてれば使い走りには使える小利口な民族」程度にしか見ていないことを知っていた。日本が太平洋でアメリカと対立するべきではないこと、戦えば必ず負けることも見通していた。
 人脈としては、鈴木貫太郎、米内光正そして山本五十六にもつながる、海軍の中の良識派の中心人物だった。だから戦時中は閑職を宛てがわれる立場にもなり、井上成美は江田島の海軍兵学校の校長になった。当時の教育界では英語排斥の風潮があり、兵学校でも同様だったが、井上は「どこの国と戦争してるんだ。相手の言葉も知らんで戦えるか」と言い、英語教育の削減にも、卒業年限の短縮にも抵抗を続けたと言われる。あとで本音として、「もう負けるのがわかってたから、戦後の日本で役に立つようにしておいてやった」ということだ。
 軍人は戦場へ出たら目の前の敵と戦って勝つことが任務だから、それは逃げられない。しかし軍の中枢にいたら、国が壊滅する前に戦争をやめる算段をすることも、軍人の大切な役目である。海軍の良識派がなくて陸軍だけだったら、「一億玉砕で日本民族の誇りを後世に残す」ための本土決戦を、本気で実行していたかもしれない。
 当時の日本では、私を含めてほとんどの人が名前さえ知らなかった井上成美という人の存在と、終戦への貢献の大きさを知って、興味深いものがあった。


日没の一瞬

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 午後6時10分、秩父連山に接して沈む一瞬の夕日を捕らえました。それだけのことですが、キャノンSX600HSの小型カメラでこれが撮れたことに、自分でかなり感動しています。それだけのことですが……。
 晩年の母は、箱根の山荘で長尾峠に沈む夕日を見ながら、生涯を懐古するような美文の手記を綴っていました。そこに書かれていたのは、私も知らない母の実母つまり祖母への、尽きることのない追憶の言葉でした。
 母が亡くなったのは78歳、私の今よりもずっと若い年齢のときでした。今の私を、母に見てもらいたい。突然に、そんな思いが突き上げてきました。なぜだかわかりません。 

ボウリングはスポーツだった

 毎週一回、水曜日に「中野区民健康教室」で、近くにあるサンプラザ地下のボウリング場に通っている。手元の記録紙で確かめたら、2019年の8月20日からしか紙がないのだが、ブログを見たら、この年の2月から始めていたのがわかった。最初は火曜日午前コースだったのだが、警察病院の診察日と重なることが多くて、「水曜午後コース」に移ったのだった。いつの間にか、もう2年以上も続けていることになる。昨日も行ってきたのだが、アルコール消毒、マスク着用、そしてレーンごとのアクリル板設置なども行われていて、コロナ対策にも対応してくれている。
 ボウリングは、右、左、右、左と、4歩の助走で5キログラムほど(11ポンド)のボールをレーンに転がして、奥に並べてある10本のピンを倒す競技である。日本で最初に始まったのは、まだ埼玉の草加に住んでいた時期だった。団地から少し離れた、松原の並木道沿いに出来たので、何度か行ってみたことがある。競技というよりも、華やかなファッションのような印象だったことを覚えている。妻もいっしょに行ったのだが、あまり相性はよくないようだった。料金も、決して安くはなかった。ただし私はかなり気に入って、休日に一人で車を運転して、川口のボウリング場まで行った記憶がある。また、海外交流でラオスへ行ったときは、地元のボウリング場に一人で入って、現地のエリートらしい青年たちと会話することができた。
 そんな古い記憶のボウリングと、この晩年に再会したのも、何かの因縁かも知れない。助走の間の一瞬に、狙う位置を定める緊張感と、それが的中したときの快感には独特のものがあると思う。ゲームの要素とスポーツの要素とが、絶妙にバランスしているのではなかろうか。
 昨日のボウリングのあと、家に帰って寝室で一休みしていたら、長女から「ボウリングのあとは、よく寝てるね」と言われた。自分では意識していなかったのだが、いつの間にかそういう習慣が出来てしまっていたらしい。体が動く間は、90歳を過ぎてもボウラーを続けるというのも、ちょっとカッコウいいかな、と思った。

 

オリンピックは中止だな

 ニューヨークタイムズに、ついに「東京オリンピック中止論」が登場したとのことだ。テレビのニュースにはまだ流れていないが、ネット上で拡散が始まった。
 しごくもっともな意見だと思う。日本も世界も、これで救われるかもしれない。人間の健康的な成長を競い合うためのオリンピックが、コロナに怯えながら開催されるようでは、五輪の根本理念と相いれないことはわかっている。誰か知恵者がいて、ひそかにニューヨークタイムズに依頼して、記事にしてもらったような気がする。アメリカから言い出してもらえれば、日本の立場はずっと楽になるからだ。
 今後の展開はまだわからないが、これは期待できるニュースだと思う。ちょうど今も机の横にあるテレビでは、「聖火リレーの予備ラン」などという番組を、のんびりとやっているのだが、果たしてこの動きは本物になるのだろうか。私は期待していると言ったら、怒る人もいるだろうが。

ある春の日に

 ブログ書きも休んで、いつの間にか10日が過ぎてしまった。べつに体調が悪かったわけでも、忙しい用事があったわけでもない。それなりに新しい本も買って読んではいたのだが、残念ながらブログの記事にするほどの魅力を感じなかった。著者に悪いから、書名は書かないでおくことにする。
 基本的に寒さは嫌いな体質だから、太陽が力を増してくるのは有難い。居間は日当たりが良くて、レースのカーテン越しに空も見えている。ゆったりとしていられるのは、じっとしていても良くなって行きそうな季節だからだろうか。怠け者の天国なのかも知れない。
 少し忙しくなりそうだと思っていた英文科の同窓会は、会場を予定してい学内の「松本楼目白クラブ」がコロナの影響で閉店中ということもあり、安全第一でとりあえず中止ということにした。みんな88歳ぐらいにはなっているから、無理することはない。昨年に「一年後じゃ死んじゃう」と言って、春の開催を要求した友人には、「10月の第二木曜日まで、がんばるんだよ」と電話した。
 その少し前には、アメリカ在住の同期生から突然の電話がかかってきて、それが何と一時間以上も続いたのだった。料金は先方持ちだから、大丈夫かと聞いたら、「うん、全然平気」と言う。在学中は知らなかった、満州から引き揚げてきた苦労話を聞くことができた。だいぶ話して「そろそろ昼飯の時間だけど」と言ったら、先方は夜の8時半だと言う。道理で落ち着いて話していたわけだ。
 私たちは、戦後に出来た新制大学の第3期生だった。同期生には、陸軍の爆撃機の操縦士だった男もいて、戦場での思い出話も聞かせて貰ったのだが、いつの間にか中退して、卒業まではいなかった。文学部の雰囲気とは、合わなかったのかもしれない。
 その電話のアメリカ在住の友人とは、手紙のやりとりもして、先方の自宅の写真ももらった。日本の常識では「豪邸」と呼ぶような家だった。どんな結婚をして、どんな家族を持っているかなどは、未だに話題にしていないから、わからない。ただ、実際に本人の声を聞くと、昔のことを思い出す。彼女は大学の初登校の日に、ただ一人高校生らしいセーラー服姿で来ていたので、私は好意的な関心を持ったのだった。卒業のときには、父親といっしょに来て、研究室の裏庭に桜の苗木を植えていた。あの木はどうなっているか、今度日本に来たら、いっしょに見に行きませんかと話した。
 その桜の苗のことを、私の詩集に書いたことがある。そのページをコピーして、手紙といっしょに封筒に入れ、航空便で送った。

   記 念 樹

四ヶ月目に訪れた研究室の
窓の下に探し当てた
背中に浸み透る蝉の声の
行き所のない暑さの中の
弱々しい彼岸桜

傍らに立つ白い柱は
理解されることのなかった善意を
完成されることのなかった愛を
未熟のままに終った果実を
弔う墓標

日を重ね月を過ごし年を経て
墓標の文字の消えた後は
記念の言葉は知る人の心に
思い思いの時と所に
還らぬ旅を運ばれて行く

赤土の中に残された苗木も
枯れずにあれば咲く日もあろう
自然の時の命ずる日に
その花の開く由来も知らぬ
知ろうともせぬ人の眼の前で

(昭和31年7月23日)

 注・1956年、卒業した年の夏

聖火リレー、愛知県半田市「ちんとろ舟」の珍トロ

 ネットで見たので、全国のニュースにはならないかも知れないが、愛知県下のオリンピック聖火リレーで、半田市の「ちんとろ舟」というものに聖火を乗せるとき、伝統的に女は乗せないことになっている舟だから、その区間だけは男だけで運んだということだ。なぜそんなアホなことをしたのだろう。
 万人に平等に開かれているのがオリンピックの精神であることは誰でも知っている。男尊女卑の尻尾を引きずっている「ちんとろ舟」に、なぜ聖火を乗せなければならないのかが、さっぱりわからない。おそらくその地方では名物だから、この機会に全国的に知らせたいと思ったのだろう。ところが「女は乗せない」伝統の方を優先してしまったのは失敗だった。
 ここは誰が考えても、「ちんとろ舟」は最初からあきらめるか、それともこれを機会に「初めて女を乗せたチントロ舟」として、全国的な話題になるかの、二つに一つしかないだろう。愛知の半田市には、その程度の知恵を出す人もいなかったのだろうか。
 あと知恵では、もうどうしようもないのだが、「ちんとろ舟」という名前に愛嬌があったので、きょうのブログのネタにしてみた。
 半田市は、全国にほっこりと温かい話題を提供する絶好の機会を逃してしまった。私も本当は、このブログを書かないほうが良かった。半田市の「ちんとろ舟」さん、お気の毒さま。

  

黄砂の空を見た

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 本日午後5時半ごろ、屋上から見た西の空である。太陽は隣家のパラボラアンテナの陰に隠してみた。曇天ではないのに空が一様に灰色に曇り、太陽に近いところでは黄色になる。大陸から飛来した黄砂に違いない。空は天頂に近いところから東側は、いつもと同じ青空になっていた。
 黄砂の飛来は、国民学校(小学校)時代に、すごいのを体験したことがある。昭和10年代のことだが、昼休みの校庭がにわかに暗くなり、細かい砂粒が降ってきたのだ。学校としては特に屋内に入るように指示などはなかったが、大陸から海を渡ってきた砂嵐の影響だという説明は、先生から聞いたような気がする。大陸というのも、案外に近いものだと思った。
 砂漠と言えば。駱駝に荷を積んだ隊商などを連想するし、「月の砂漠をはるばると……」という歌も聞いていた。王子さまと王女さまが並んで行きましたというのは、ロマンチックでもあった。実の兄と妹だったのだろうか。それとも……。
 のちに「アラビアのロレンス」という映画を見て、砂漠というのは生きるのにとても厳しい環境だということが、よくわかった。それでもなお、「月の砂漠を……」のロマンは消えない。ロレンスは砂漠の民を率いて戦い、彼らの国を作ってやろうとしたのだが、その夢は無残な瓦解に終った。砂漠には砂漠の掟があるのだろう。
 私は体質的に、砂漠には合わないと思う。私は田んぼの稲とともに育った農家の長女の息子である。夜は蛙の声を聞き、上り列車の汽笛に心を揺さぶられた母の心情を、体内のどこかに残している。だから私は、黄砂を好まない。
    

若いっていいわね

 なぜだか理由はわからないのだが、きょうは母の最期を思い出している。窓の外は、ずっと曇天である。私の母は、1973年(昭和48年)の6月4日に亡くなった。78歳だった。死因は乳がんの転移による多臓器不全で、直接の死因は、輸尿管の断絶による尿毒症だった。実弟の叔父が優秀な内科医であったにもかかわらず、父が心酔していた「西式健康法」にこだわり、手術のタイミングを失したのが決定的だった。
 最後に入院した先は、新宿の東京医科大学病院だった。私が当時住んでいた埼玉の草加から、家族4人で車で見舞いに行くとき、まだ小さかった次女が「医科大学へいくの? タコ大学もあるのかな」と言ったのが、小さな笑いになって救いになったのを覚えている。
 当時の病院では、家族や看護人が夜も簡易ベッドを置いて付き添うことが公認されていた。姉二人と次兄と私の4人が、交代で泊まりに行くことになったのだった。実弟の医師も立ち会って腎臓に尿管を直結する手術もしたのだが、尿の分泌は始まらなかった。それを見た叔父が「ああ、姉さん」と言って涙を流すのを見て、私たちも状況が厳しいことを察したのだった。
 母が死んだ日の前夜に、私は当番で宿直についていた。看護師(当時の呼び名では看護婦さん)が夜間の巡回に来たとき、母は意外なほどしっかりした声で「ありがとう」を言い、続けて「若いっていいわね」と言ったのだった。眠りから覚めて、意識がはっきりしていたのだろう。それは、いつもの母の声そのものだった。そしてそれが、私の聞いた最後の母の声になったのだった。
 母にだって、「若くていい時代」はあったのだ。それは母の生涯の宝物だったと私は思う。若い看護婦さんを誉めることで、母は自分の生涯をも誉めたのではないのか。今になって私もそう思う。そしてまた、母にとっての私もまた、大事な宝物の一つであったことを確信できるのだ。
 子は宝であることは今も変わらない。孫も同様である。母が生きた78年を超えて今の私は生きているが、今の私にも、母は「若いっていいわね」と言ってくれるに違いない。その期待に応えたいと思う。

さくら満開の善福寺川

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 きのうの土曜日、善福寺川の両岸は、さくらの花が満開でした。長女につき合ってもらって、自転車で杉並の成田東にある友人の家まで行き、そこに自転車を預けて、善福寺川の周辺を三人で散策しました。花は満開でも、路上には花びらの一枚も落ちていない、奇跡のような風景が、川に沿ってどこまでも続いていました。桜の木は、どうしてこんなにも、時を合わせて花を開くことができるのでしょうか。並んで立っているというだけで、私たちにはわからない「体内時計」が時を知らせているのでしょうか。
 友人の母上は、私が以前に「潮路はるかに」という伝記ビデオを作成したことのある、岩手釜石の「津田商店」のゴッドマザーと呼ばれた人です。津田商店釜石工場で作られる「鮭の中骨入り缶詰」は、今もわが家の台所の常備品になっています。
 もとは大学の同期生ですから、友人とは互いの年齢がわかっています。介護保険のケアマネージャーの訪問があったとかは、身近な話題です。お互いに、すでに連れ合いさんは亡くしていて、私たちも独身者同士にもどりました。そう言えば、近々の来月8日には、英文科同窓会の予定が決まっているのでした。
 大学の卒業後、誰よりも早く結婚したのは私でした。静岡から来て、東京での慣れない新婚生活に戸惑っていた私の妻を心配して、代わる代わる四畳半のアパートを訪問してくれたのも、同期の女性たちでした。中でも津田さんは気っ風の良さで、姉貴分になったような感じでした。電話がかかってきたときに妻が最初に出て、「志村に代わりましょうか」と言ったら「志村クンはいいの、あなたと話したかったから」と言われたと、これは笑い話のような本当の話です。
 女性と対面しても常に平常心で会話ができることは、私にとっては貴重な利点になるということに、私はその後の職業人生で気がつきました。学習院大学英文科で過ごした4年間では、ブライス教授との出合いとともに、すぐれた女性たちとの交流も、貴重な宝であったのです。
   

深夜に魅せられた「蝶々夫人」のドミンゴ

 深夜というべきか今朝までというべきか、寝室で偶然についていたテレビでオペラ「蝶々夫人」(プッチーニ作曲)が始まり、午前3時の終了までを見入っていました。ドイツ語で歌われていましたが、日本語の字幕スーパーは入るので、お話としてはむしろよく理解でき、とくにピンカートン役の声の張りが見事でした。お話としては良く知られている通りで決して難解ではなく、すべて海外の制作で、日本人は一人も参加していません。舞台も日本ではなく、畳を敷いて日本家屋らしく見せている家は、やたらに広い日本式の寺院を借用しているようでした。
 俳優の化粧も衣装も、日本人らしくはしているつもりでしょうが、やはりかなりの違和感は免れません。それでも、これが外国人が考える「日本らしさ」ということかという意味で、興味を感じながら見ていました。オペラとして作曲する過程で、日本で集めた各種の楽譜も参考にして日本らしい風合いを持たせたと言われる部分も、それらしく聞き取ることができました。
 今朝になってから昨日の夕刊をよく見たら、「0時45分歌劇『蝶々夫人』ドミンゴ」の字がありました。そこであの声の主が、有名なドミンゴだったのかと思い当った次第です。
 「蝶々夫人」のオペラについては、やや悲しい記憶もあります。戦前の日本で、初めて海外に出て活躍した歌手は三浦環(たまき)で、「蝶々夫人」を有名にした人でもありました。私の父も、新聞記者時代に、多少の交渉があったと聞いています。その三浦環は1945年に死期を迎えるに当って、「最後の歌声」をラジオ放送に乗せたのです。しかし渾身の力を振り絞ったであろうその歌声は、決して全盛期の再現にはなりませんでした。それでも、苦しい声ながら、全曲を最後まで歌い通したのです。それはちょうど、日本の戦争が敗戦で終わった年のことでした。
 
  

長谷川貞雄(うたのすけ)さんの「ひぐらし食堂」

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 松戸市民劇団の石上理事長から、「ひぐらし食堂」の台本と、公演パンフレットの送呈をいただきました。この公演が、昨年3月の時点で、ここまで準備が進んでいながら、新型コロナの影響で、延期という名の中止となったのは、残念至極と言うほかはありません。印刷された台本を、心して読ませていただきました。
  この本を読んで感じた第一は、これは昭和20年代を描いた、すぐれた「同時代演劇」だということでした。以前にブログにも書きましたが、私と「うたのすけ」さんとは、一年に一日だけ、5月19日に同年になる先輩と後輩(私)の間柄でした。ですから終戦直後の東京の風景を、小学6年生と中学1年生で見たことになります。それは物心ついた年頃の原風景でした。この本の執筆の時期は知りませんが、あの戦後風景が「演劇人うたのすけ」の原点であったことは疑いようがありません。
 ですから戦後に「進駐軍」の一員として来日した二世の青年も、その青年にからむ日本の女たちも、すべて「あの時代はそうだったな」という追憶の中でリアリティーを持つのです。ですからこの本を現代の日本で舞台に上げるとしたら、それなりの解説文か、あるいはナレーションの挿入が必要ではないかと思いました。
 焼け跡で迎えた茫然自失の終戦。そこからたくましく立ち上がったのは「闇市」のにぎわいでした。そこで活動していた人々の言動は、「うたのすけ少年」の心の奥底に記憶されたのに違いありません。
台本のタイトルの左横に立ててある一行の添え書きには、「過ぎし日を今に残せの言葉あり 老いのつれづれ書きし芝居(そらごと)」の文字がありました。日暮らし食堂とは、少年期を過ごした日暮里駅の近くにあったのです。そこは私にも故郷の一部分でした。
 この5月19日に私は「うたのすけ」さんと同年になり、その先では私が年上になって行きます。うたのすけさんが書き残したことを、これからも私なりの筆で書きつづけることが友情の証ではないのか、そんなことを、いま考えています。

梅の赤ちゃん

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「梅の赤ちゃんが出来てるよ」という長女の声で見に行ったら、本当だった。もういい年になって、間もなく自分が「おばあちゃん」と呼ばれるようになるのに、可愛らしいことを言ってくれる。この梅の木は、なかなか優秀なのだ。一昨年のブログを見たら、6月に12キロもの収穫があったと書いてある。帯広に住んでいる婿殿の母上のところへ送って、梅ジュースを作ってもらった記憶がある。その帯広も、今はもう雪が消えているだろうか。
 庭木に季節を感じながらも、時間は一定の速度で過ぎていく。年をとると一年が短くなるとは、よく言われることだが、それは暮らしの中に「知っていることの繰り返し」が多くなり、新規の経験が少なくなるからだろうと思う。それは、生まれた赤ん坊が、一年間でどのように変わって行ったかを思い出すだけで、十分にわかるだろう。
 梅の赤ちゃんは、これから何が起こるかを知らないが、私は知っている。自分で梅ジャムを作ったことさえあったのだ。今年は少し手もとに残して、久しぶりに梅ジャムの自家製をしてみようかと、いま思いついた。帯広の母上は、今年もお元気だろうか。たしか私の亡妻と同年だったと思う。久しぶりに電話して、お声を聞いてみようか。  

自分の名が「建世」であることについて

 私の名は「建世」と書いて「たけよ」と読む。初対面ですぐ読める人は少ないし、同じ人名をよそで見たことも一度もない。すでに亡くなったが、長兄は幸世(ゆきよ)であり次兄は文世(ふみよ)だった。姉たちの名前は美佐子・洋子と平凡だったのに、男児の名で「世」にこだわったのはなぜか、父からもちゃんと説明されたことはなかった。ただ、私の生まれた昭和8年に「満州国」(今の中国東北部)の建国があったから、国よりも大きい世の字にしたと言われた記憶はある。また、読み方も訓読みなら「建てる」だが、日本の神話時代に「建御雷尊(たけみかづちのみこと)という名があるから、これでいいのだと言われた。
 それ以来88年近くも使ってきた名前である。しかし、かなり変った名ではあった。NHK時代には、台本の担当者名のところに「Construction of the world」と書き込んだ者がいて、「直訳しちゃまずいよな」と苦笑したこともあった。成人して少しは著書らしいものを書くようになってからは、自分には筆名は要らないなと、ちょっといい気分になったこともある。
 基本的に人名は識別記号だから、識別性は高いほうがいい。同姓同名がいないというのは、ひとつの利点と言っていいのだろう。だから親のつけた名を変えるという発想は、いまだに一度も持ったことがなかった。しかし、やはり、「建世」とは、よくも大きくつけたものである。
 私は「父親を尊敬しているか」と問われると、一瞬考えてしまうところがある。私の結婚を阻止しようとしたときは、本当に殺してやりたいと思った。しかし私のアルバムには、次女を抱いた父の写真も残っている。その幸せそうな顔は、今も私の心を落ち着かせる。
 父は私に何を期待していたのだろうか。今になってそんなことを考える。たとえば「みんなのうた60周年」のテレビ放送を見せたら、手放しで喜んでくれたのではあるまいか。たぶん私の名前は、親が抱いた私への期待を乗せているのだろう。だからこの名前を背負ったままで、私はこれからも生きて行こうと思っている。 

「みんなのうた週間」を終わって

 「みんなのうた60周年」のおかげで、この6日の土曜日の「そして『みんなのうた』は生まれた」の放送から始まり、その再放送の昨日15日まで、10日間のにぎわいが終わった。私にとっての「みんなのうた」とは何だったのだろうと、改めて考えてみる機会にもなった。
 これまでブログにも書いてきたが、私にとっての「みんなのうた」は、自分で望んで担当した番組ではなかった。「めぐり合わせ」でかかわった番組だった。しかし、やっている間中が楽しくて、充実した日々だったことは、誇りをもって断言できる。生家の出版編集のときには「楽譜」でしかなかった歌が、ここでは実際に歌として聞き、他人の耳に届けるものになったのだった。自分なりによく適応して、努力したとも思う。NHKに採用された時点で私は26歳になっており、新卒よりも4年半多い社会経験を積んでいたのだ。それは決して無駄になってはいなかったと今でも思う。テレビ拡張期に2回だけ行われたNHKの「秋採用」が、私に想定外の活動の場を与えてくれたと言ってもいいだろう。
 今でも思い出すのだが、ポーランド民謡の原語の意味を知りたくなり、大使館まで行って話すうちに館員たちが踊り出すのを見て、歌と民族との幸福な結合を見たのだった。この楽しさを日本の子供たちにも知らせてやりたい。それは心の底から感じたことだった。
 NHKに入る前には、かなり長い「失業の業苦」の期間があった。私を支えてくれた妻にも苦労させる日々が半年以上も続いていた。そして手に入れたNHK職員の地位だったが、私は6年半しか在職していない。「定年までずっとNHKにいたらどうだったかしらね」と妻と話したことはある。「一度は地方へ行って少し偉くなって、家が一軒は建ったかな。」
 人生を生き直して二通りを経験することは不可能である。自分がなぜ今のようになったかを、合理的に説明することは、自分にもできない。ただ、その時々に、自分でも説明の難しい「しょうがなさ」が重なってこうなったと言えるだけである。世に「終活」なるものを提示する人がいて、私も少しは読んでみた。しかしどれをとっても自分の理想とは思えなかった。だから自分なりに考えて、少しでも良くなるようにと考えながら、死ぬまでは生きていようと思っている。

もう一つの3・11

 東日本大震災から10年ということで、追悼のテレビ番組や、新聞の特集も出ていた。犠牲者はおよそ1万6千人と言われている。たしかに過酷な災害ではあった。涙を誘うような多くの悲劇も語られていた。でも私の中では、かすかに古い記憶が疼いていた。
 時間は昭和20年へと飛ぶ。だれの目にも、もう日本が戦争に勝てる見込みはなくなっていた。当時は滝野川区と呼ばれていた北区上中里の高台に出てみた私は、見渡すかぎりの下町の一帯が、猛火に包まれているのを見た。サイレンが鳴って空襲警報は解除になり、零時は過ぎて日付は11日になっていた。左から右へ、つまり西から東へ、かなり強い風が吹いていて、火災の煙は鋭い角度で右方に上がり、どこまで上がっても燃えるような炎の色をしていた。見たこともない巨大な火災が発生しているのがわかった。私は国民学校の6年生だった。
 この空襲では、東京は一晩で10万名を超す死者を出したと言われる。翌日に遅く配達された新聞には、下町で川に飛び込んで逃れた新聞記者の、生々しい体験記も掲載されていた。そして「生かせ一坪に5発の戦訓」という見出しがあったのも覚えている。記者は、集中した焼夷弾が落ちて来たら、逃げるしかないことを言外に知らせたかったのに違いない。
 自然災害と戦争の惨害と、どちらが怖いかという話を書くつもりで始めたのだが、終りまで来て、にわかに結論が書けなくなってしまった。戦うべき相手は何か、という話なら、議論の余地はないのだが。 

大震災から10年目に考えたこと

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 あの東日本大震災から10年間が過ぎて行った。10年前に、私は77歳だった。しかし元テレビマンとして、行ってみたい血が騒いだ。それでこの年のメーデーのときに、当時の連合の古賀会長に「私の労力はボランティアにしますから、連合の救援活動をビデオに記録しませんか」と提案し「ぜひやってください」と依頼を受けたのだった。それから3回にわたって、宮城、岩手、福島の3県に入り、それぞれ数日間の撮影取材をしてきた。それをまとめたものが連合の公式活動記録に添付された「東日本大震災・災害救援活動の記録」のDVDになったのだった。
 この活動は、私のブログでも、取材ビデオから切り出した画像を添えて、3回にわたって掲載した。自分でもかなり良い仕事をしたと思えたし、現場でボランティア組合員が真剣に汗を流す姿を間近に見て、労働組合の底力を感じて感動もしたのだった。とくに古くからの知り合いで単位組合のトップにもなっていた人たちが、一兵卒になって働いていたのが印象的だった。もうOBとして現役を退いていたのだろうが、久しぶりの肉体労働を楽しんでいるように見える人も多かった。
 この企画も、出来上がったDVDも好評だった。この仕事はここで完結して終わったのだが、昨今の災害から10年のテレビ番組を見ているうちに、私の取材の「浅さ」に気づかされた。ボランティアに行った側からの視点のみで、現地の人たちの実情は何も伝わらないのだ。現地の人は、感謝し笑顔を見せてくれるだけの立場で出てくる。そういう視点でしか見なかったからだ。
 あの現場に入るという貴重な機会を与えられながら、私は「雇われカメラマン」としてしか働いていなかった。77歳にもなっていて、自由な取材を保証されていて、表面しか見ないで帰ってきたことを恥ずかしいと今は思う。自分が踏んだガレキの下に、掘り出すべき無数の悲劇があったことに気も付かずにいたのだ。
 でも、古いビデオを今になって見直して、自分もなかなかいい仕事をしたと、自己満足して終わるよりは良かったのかも知れない。三陸海岸の思い出の地を、また一人で歩いて見たくなった。

「みんなのうた」影の功労者

 「みんなのうた」の関連で、映像を盛り上げた影の功労者がいたことを思い出した。それは子供たちの動きを指導した、有能な舞踊振付師の存在だった。具体名をあげれば、関矢幸雄さんと江崎司さんのお二人である。二人は親友であり、それぞれに配下の児童舞踊団の指導をしていた。「ドレミのうた」に登場して、ピアノの鍵盤の上で踊った可愛い少女たちも、どちらかの舞踊団から来ていたに違いない。
 関矢さんは東宝ミュージカルの演出を担当していたし、江崎さんは日本の伝統芸能にも精通している、いずれも一流の芸能家だった。関矢さんはネアカの性格で、子供たちと溶け込んで、雰囲気を盛り上げる天才的な能力を持っている人だった。「ドレミのうた」の名場面のスタジオにも、立ち会っていたのではないかと思う。実写画面づくりで野外ロケに出るときも、振付師の存在は不可欠だった。ところが、この報酬の支払いが難儀だった。窓口の俗称「謝金課」には、振り付けの項目がないというのだ。ただでさえ「日本薄謝協会」と言われていたNHKの報酬である。そこで「出演料なら出せる」と言うので、出演者として申請しておいて、「出てはいたのだが、編集の都合でカットした」ことにした。もう今だから書いておいてもいいだろう。
 みんなのうた関連の特集番組のときだと思うが、伊豆の一碧湖で撮影のためにボートを出したことがある。岸近くに岩場があって座礁したとき、関矢さん、江崎さんの二人が靴を脱いで水の中に入り、持ち上げて押し出してくれるときに、「この場面は必ず使えよー」と大声を出したのが、忘れられない思い出になっている。「みんなのうた」は、こんな幸せな番組だった。
(注)
この撮影は、ゴールデンウイーク向けに作った「みどりの歌」という特集番組のためだったと思う。そして放送のすぐ後に、音源を日本ビクターに提供して、ビクターのソノシートになったような記憶がある。仕掛け人は後藤田純生氏だった。そういう「企画力」のある人で、NHKの中ではやや異質な才人だった。

みんなのうた60周年の番組「そして『みんなのうた』は生まれた」

 本日午後4時50分から、NHKのEテレで「みんなのうた60周年」の番組があります。何回かあるうちの1回目のようです。ここに、先日取材を受けた私が登場します。何かコメントが入ったりするかも知れないので、独立のエントリーを立てて置きます。
(注)
 この番組の再放送があります。来々週の月曜日、3月15日の午後3時半から(10分間・NHKのEテレ)です。



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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
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