志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

人がいなくなるということ

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 人がひとり居なくなると、一人分の「不在」が生じます。朝起きて「おはよう」と声をかけても、返事をする人がいません。どこへ行ったのかは、よく知っていますから、すぐに1階のその場所に行って声をかけます。「ごはんだよ」「○○さんが来たよ」なども同様です。棺の中にちゃんといるのですが、返事はしません。死んでしまった人は、それでいいのです。
 ふつうの人よりも先に「終活」を考えているように思っていたのは、大人の「ままごと」を空想していたようなものでした。どちらかが先に死んだら、通夜のときに「神田川」の曲と「カルピス」の詩の朗読を流すなどというのも、そんなことをしたら嫌味になるように思えて、実行する気には、とてもなりませんでした。MDに入れて用意しておいたのを一通りは探してみましたが、すぐには見つからないのをこれ幸いとして、早々と使用を断念しました。その種の「演出」は、複数の他人を招いた「葬儀」ならば非常に効果的に違いありません。でも、自分が当事者の「死別」だったら全然違うのです。
 妻の「生前」と「死後」とを決定的に分けているのは、「不在」です。それは何物をもってしても埋めることのできないものです。音楽や朗読の声が流れるなどは、その場を乱す以外の何物でもなかったでしょう。老父を心配して、出来るかぎりの知恵を尽して雑事を引き受け、進行してくれた娘たちの働きは、わが娘ながら、じつに見事なものでした。妻も見とれて喜んでいたに違いありません。
 そして夕方にかけて、妻は何組かの弔問を受けました。ご縁があって10年前に私たちの金婚式を、復活祭の祝宴として祝って下さったカリタス修道女会の櫻本シスターさんも、今は保育園の園長さんとして、副園長のシスターとともにお見えになりました。故人が引き合わせてくれた、旧知の人との再会でした。
 それでもどうしても残るのは、妻の「不在」でした。私は何か事があるたびに妻に声をかけたくなり、次の瞬間に、きょうはその妻の不在こそがメインテーマだということを思い出させられたのでした。
 毎日、大勢の人が生を終えて「鬼籍」入って行きます。だからこそ赤ん坊は安心して生れてくることができます。こうして私の妻は、とどこおりなく「死んだ人」になることができました。これで良い、めでたしの終りでした。

妻が死にました

 きょうの朝6時ごろ、妻が死にました。浴槽での事故死でした。朝のまだ暗い時間に、「お風呂に入ってくる」と言い出し、「気をつけてね」と送り出したのが最後の会話になりました。それからどれくらいの時間がたったのか、ふと気がつくと、まだ帰っていません。浴室へ様子を見に行き、軽くノックしても返事がないのでドアを開けると、浴槽の中に、左肩を下にして沈んでいる妻の姿がありました。頭部がすっかり水中に没しているのを見て、「もう死んでいる」ことを理解しました。
 浴槽から引き出し、洗い場のタイルの上に横たえたところで、同じフロアにいる孫に声をかけ、3階の長女に知らせるよう頼みました。それから119番に通報したのですが、非常に落ち着いて話せたことを覚えています。「水没しているので救急の事案ではないと思いますが、とりあえずお知らせしました。」という言い方をしたと思います。やがてサイレンを鳴らさない救急車が到着し、隊員は胸を押して人工呼吸を開始してくれました。体は湯に漬かっていたためか温かく、いつの間にか長女がパンツを穿かせてくれていました。
 妻は救急隊員の手で、すぐ近くの警察病院に運ばれ、そこの救急室で手当ての継続と、警察医による検視を受けました。その所見は「心不全による急死」でした。溺れて水を飲んだ形跡はありませんでした。詳しい死因を知りたい場合は、病理解剖に回る方法もあると知らされましたが、私も長女も辞退しました。
 死亡が確認されると、葬儀社が紹介されます。こういう場合の葬儀社の担当者の対応が非常に頼りになることは、父母を見送ったときの経験からも知っていました。今回も、その通りになりました。遺体は清められ、午後3時前には納棺されて、わがビル1階の作業室の一角を仕切った中に安置されました。そこで、15日土曜日の午後1時半に予定されている出棺まで、火葬を待つことになります。ただし普通のワゴン車とし、行事らしいことは何も行う予定はありません。
 この最近の1年ほど、私と妻は非常に仲良くなっていたと思います。少し認知症になった妻は、私を頼って可愛くなりました。「60年もいっしょにいられて良かったね」「そうだね、ありがとう」というのが、枕を並べてからの会話でした。妻が心から恐れていたのは、自分が正常な認識を失って周囲に迷惑をかけることでした。でも彼女は最後まで上手に立ち回って、自分の始末をつけてしまいました。彼女のカンの良さは、私の仕事の上でも、何度も役に立ってくれました。今度も「してやったり」と、笑顔でいるような気がします。今年の5月に、みんなで静岡まで行ってきたのは、本当の「大当り」でした。
 

ブログ連歌(527)

10519 強欲者 恥じは無いらし 身は堕ちる (みどり)
10520  退職後にも 収入算段 (建世)
10521 この国は どこへ行くのか 日は短か
10522  晴れ間なき空 寒気はせまる (建世)
10523 今さらに 工程表に 高速炉 
10524  気は確かかと 人の問うまで (建世)
10525 世界中 誰も知らない数え年
10526  元号は 皇室催事だけに留め置け (獣医さん)
10527 朝寝して 冷え込みを知る 日曜日
10528  あと3週の 今年となれり (建世)
10529 父母に兄 別れ久しき 世に残り (みどり) 
10530  また一回の 年を越すらし (建世)
10531 迫りくる 翌年不況 いざ備え (恩義)
10532  暖冬・厳寒 入り混じる暮れ (建世)
10533 空母を空母とは呼べず
10534  専守防衛の大ウソ露呈 (獣医さん)    

カーナビで道に迷った話

 日曜日に姉の家に行くつもりで車で出かけたのだが、珍しく道に迷って1時間近く遠回りしてしまった。その原因が、車載のカーナビを使ったためだったのだから、我ながら情けないほどの失敗だった。姉の家は、昔から何度も行っているから迷うはずがないと思っていた。ところが今の新車にはカーナビがついている。せっかくついているのだから、姉の家も入力しておこうと、途中で思いついたのがいけなかった。
 運転中の信号停車を利用して入力しようとしたが、個人の家だから所番地までは覚えていない。近くにある学校の名で代用しようとしたのだが、その校名がいいかげんだったらしい。その結果として、いつもの街道から右折する信号を見落としてしまった。いくら行っても見慣れない景色が出てくるので不安になると、カーナビは、ありえないような変な方向を指示するようになった。そして、いつの間にか埼玉県に入ってしまったので驚いた。そこで、よく知っている最寄りの電車の駅名を入力して、確実にそこまで行くことに作戦を変えたら、これが当りだった。やがて知っている風景が出てきて、その先は難なく目的地に到着することができた。
 便利な装置がついていても、入力を片手間でやったのでは、とんでもない間違いをすることになる。ちょっと停車して確実な情報を入れるべきだった。車を運転して方向感覚を失うと、ときにはひどい失敗をする。私は青年期に、箱根へ行くつもりで渋滞に会い、うまい迂回路に入ったつもりで走っていたら、いつの間にか都心へ向かって正反対に走っているのに気がついて呆れたことがあった。まだ「道路地図」以外には頼るもののない時代ではあったのだが。
 

安倍問責を説明する蓮舫と、聞き流す首相

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 今朝の朝日新聞に出ていた昨夜、2018年12月7日の参議院本会議の風景である。野党の抵抗で深夜に及んだらしい。争点は外国人の受け入れ拡大をめざす出入国管理法の改定案だった。同じ紙面には、「使い捨て労働力、広がる懸念」という見出しが立っている。この法案が可決されて、来年の4月1日から施行される見通しだということだ。国会の会期は、土日明けの10日で終了となる。
 周知のように安倍1強の議席配分だから、採決すれば政府案が通ることはわかっている。政府から見れば、議会とは、少し我慢して野党の言うことも聞いたふりをしなければならない儀式の場ということになるのだろう。このようにして来年も、少なくとも参議院選挙のある夏までの半年間は、安倍政治が進んで行く。
 来年の10月には、消費税の増税が予告されている。安倍政権は予告通りに増税を実行できるかどうか、参議院選挙の成り行きが、何らかの影響を与えるかもしれない。そしてまた、その前には天皇の代替わりという、未曽有のイベントも控えている。この一連の行事は、よほどの番狂わせがない限りは、安倍首相が取り仕切ることになりそうである。言いたいことはあるが、成り行きに任せるしかない。
 話題は変るが、12月8日は日米開戦の日だった。ただし、あれから77年たったという、時の長さに驚かされる。あの朝、日本は異常な興奮に包み込まれていた。やがて聞かされた大勝利のニュースに沸き立っていた雰囲気は、昨日のことのようによく覚えている。私は国民学校2年生だったのだ。緒戦は勝っても、必ず負けるという当然の結果を、予想する人など一人もいなかった。国をあげて狂気に陥ることが、本当にあるのだ。これから先にも、同じようなことがあるのだろうか。古いことを知っている人間は、やがていなくなる。それから先のことを、私が知る方法はない。

高輪ゲートウェイ駅

 山手線に新しく出来る駅の名前が「高輪ゲートウェイ」になるそうで、最初は冗談かと思ったら、本当なのだそうだ。「多摩センター」など、カタカナを含む駅名がないことはないが、単に「高輪」で用が済むところに、なんで普及もしていないカタカナ言葉を使うのか、わけがわからない。前例がないからやってみたという思いつきだとしたら、ずいぶん軽薄だと思う。ネット上では、中国語表記では「高輪入口」になりそうだと言うが、そのまま日本人向けにも使った方がずっといい。
 古来、日本語は外国語からの借用で発達してきた。漢字も元は外国語だったのだが、日本に文字がなかったので、輸入し改造して、「かな文字」なども作り出して今の日本語になった。今はアメリカが大事な外国だから、次はアメリカ化するのがトレンドだとでも言うのだろうか。
 地元の駅の名前というのは、幼いころから親しんでいるから、独特の懐かしい記憶と結びついている。あまり簡単に変えたりして貰いたくない気持ちがあるが、どうだろうか。言わば、そこの「地名」に準じるものではないだろうか。鉄道会社の都合で、勝手にしていいものかどうか、もっと謙虚にして貰いたい気がする。
 

まだ破綻を認めぬのか〜高速増殖炉

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 写真の上段は、本日つまり2018年12月5日の朝日新聞の社説である。そして下段には、これに関連する昨日の同紙の記事を添えておいた。これらを合わせて読むとわかるのだが、要するに「高速炉計画はあきらめません、事業は継続します」ということだけを言っているのだ。これでまた多くの人間に職場が保障され、使った燃料よりも大きいエネルギー源が得られるという、「原子力村の夢」を追い続けることに、「お墨つき」が与えられることになる。しかしその「夢」は、本家のフランスでさえ行き詰って放棄されようとしている。そして、その前段階に当る原発の稼働も、一進一退を繰り返して、放射性廃棄物の処理の難しさなどを克服できない段階にあるのだ。
 その一方で、太陽光、風力など、再生可能エネルギーによる発電は、日進月歩で拡大してきた。原子力で電力を作らなければならない理由は、すでに消えたと言っていいだろう。それでもなお原子力にこだわるとすれば、それは核兵器につながる核技術の温存という側面しか考えられなくなる。もしかして政府には、世界の一等国として、核技術は手放したくないという思惑があるのだろうか。
 でもそれは、時代に逆行していると私は思う。国防のためであっても、核兵器を持つことは日本の未来のために有益だろうか。恐怖の均衡で平和が守られるというのは、前世紀の神話だった。民生のためでも、国防のためでも、どこから見ても高速増殖炉は日本には要らないというのが結論である。
 

久しぶりの熊さん談義〜元号編

(熊さん)しばらくご無沙汰のうちに、12月になっちまいましたね。
(ご隠居)ああ、そうだね。年を取ると時間の流れが早くなると言われるが、その通りだね。つい先ごろ秋になった気がしてたら、もう12月で最後の月だよ。クリスマスの飾りを見かけるようになると、「今年ももうおしまいだな」と思うわけさ。あれを見て楽しいなと思うのは、おもに子供じゃないのかな。テレビ局の現場にいた頃、VTRの早撮りでクリスマスツリーを出したら、タレントさんが、「いやなもの見ちゃったな、これが出てきたら、今年ももうお終いだ」と嘆いたことがあったっけ。年末が近づくと、正月番組の撮りだめも始まるんだよ。アナウンサーだって、「今年」と「去年」の言い間違えをしないように神経を使うわけさ。
(熊)テレビ局の「歳時記」みたいなもんだね。ところでさ、「平成」の年号は、31年までで終って、年の途中から年号が変るんだってね。天皇の生前退位なんて前例のないことがあるから、カレンダーも気を使って注釈をつけたりしてる。
(隠)私は昭和が終ったあとの年号は使ってないから関係ないんだ。役所の書類で強制されない限りは一度だって使ったことないよ。日本だけで通用する年号なんて、ナンセンスだと思ってる。不合理、不便なだけで、何もいいことありゃしないよ。だから新しい年号が何になろうと、まるで興味はないね。今年は2018年で来年は2019年になる。それだけで結構だよ。
(熊)でもさ、明治、大正、昭和の年号を西暦に換算するのは、ご隠居のお得意じゃないですか。
(隠)うん、「明治は空し」で67、「大正はいい時代」で11、「昭和の空は濁ってた」で25、「平成は葉っぱ」で88を足すと、西暦になるんだよ。次の年号が何かは知らないが、19「……いく」を足せばいいってだけの話だ。でもね、そんな面倒よりも、日本年号は、皇室関係だけで使うようにしたらいいんだ。公文書でも、西暦の併記を基本にするって話が出てたと思うけど、いずれはそうなって、やがては西暦に統一されて行けばいいんだよ。 

「現音秋の音楽展2018」を聞いてきた

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 昨夜は東京オペラシティーのリサイタルホールで、日本現代音楽協会主催の「現音・秋の音楽展2018」を聞いてきました。ここで毎年作品を発表している林文夫氏は、私と同年生まれの母方の従弟です。幼いころからよく知っている仲で、誕生日は私よりも後になることを、昨夜、本人から聞きました。今は私の母の実家である千葉の八日市場にある「本家」を守って、ひとりで暮らしています。ただし本人は「猫たちがいるよ」と言っています。
 学生時代には、私の実家「野ばら社」の音楽顧問のような立場で、音楽出版物の校閲などもしていました。農家の息子なのに音楽学校へ行きたいという希望を、私の父母は応援したと聞いています。そして東京芸大の音楽部作曲科に入学し、現代音楽の道へと進みました。その縁から、私は例年のように現代音楽の発表会を聞くようになりました。
 現代音楽は、現代アートの一部分ではあるのでしょうが、たとえば絵画から得られる印象よりも、捉えるのが難しいように私は感じています。しかしこの日のパンフレットの挨拶文には、「私たちは、個々バラバラに思えるような多様な音楽作品の総体にこそ、現代という時代の姿をはっきりと見て取ることができるに違いないのです。」という言葉がありました。そして林文夫氏本人は「幼少より現在に至る時の中での・かすか・な音楽的印象に「想いを馳せて」と書いていました。
 私と同年で、85歳になった林文夫さんにとって、プログラムの最後を締める作品の発表が、軽い仕事であった筈がありません。「よくやりましたね、お互い、少しでも長く元気でいましょう」と、固く手を握って会場を後にしました。
 

ブログ連歌(526)

10499 一年を 10勝で過ごす いい男 (獣医さん)
10500  ぶら下がっている 綱が三本 (建世)
10501 横綱は 番付だけで 年を越し (建世)
10502  土俵の上は 大関止まり (建世)
10503 金持ちはケチだ ケチだから金持ちになって (獣医さん)
10504  逮捕されるにも 司法と取引 (建世)
10505 不捜査の おかげで森友 無事でいる
10506  そうさそんなの 常識なのか (建世)
10507 晩秋の 日影が伸びて
10508  あわただしさの暮れを待つ ひと期 (獣医さん) 
10509 日程を 消化するように 日が暮れて
10510  わが人生の 残り日いくつ (建世)
10511 木枯らしの 吹きすさぶ夜 近づけり (みどり)
10512  小春日暮れて 寒くなるらし (建世)
10513 気がかりは 陽射し少なき 陰の家 (みどり)
10514  わがビルの影 児童館の庭に (建世)
10515 高層の ビルにコンビニ 都市の貌 (みどり)
10516  武蔵小杉は 新開の地に (建世)
10517 よく解らん 会長に社長に CEO (獣医さん)
10518  役職づくりは 官僚のよう (建世)
10519 強欲者 恥じは無いらし 身は堕ちる (みどり)
10520  退職後にも 収入算段 (建世)

たかがブログ、されどブログ

 気がついたら、22日にゴーンさんの記事を書いてから5日目になる。その間、「連歌」以外のブログの更新をしないでいた。
 ブログの更新をしなくても、誰からも叱られはしない。それでも「新聞のように毎日見ている」と言ってくれた人もいた。当てもなく過去記事を拾い読みしていたら、数年前には、毎日きちんと切れ目なく書いている月が続いていて、書いている内容も、かなりしっかりしていると自分でも思えた。
 私がブログを始めた2005年の末に、私は72歳だった。まさに「70代からの情報革命」だったのだが、新しい時代に適応できたという快感があった。思いつきを文章化するという得意技で、世の中に認められるというのは、私が少年時代から夢見ていたことだったからだ。それが、現役の仕事を終えた安心感で書き始めた最初の著書「おじいちゃんの書き置き」を宣伝する機会にもなるというので、まことに好都合だったのだ。
 それ以来、私はブログを著作を発表する場として使うようになった。戦中・戦後の暮らしを記録として残す「少国民たちの戦争」は、完全にブログに連載する形で最初から最後までを書き通すことができた。「昭和からの遺言」も、ほぼ同様だったと思っている。私にとっての「本を書く」作業は、パソコンのキーボードの「かな文字」変換で文字を打ち込むことと同義になった。これをも「執筆」と言うのだろうか。
 そして今、ブログ書きをサボり始めた私がいる。少年から大人になって、もう必要なことは覚えていられるから、毎日の記録は要らないだろうと思った状況と似ている気がする。そんな私のブログが、これからどうなって行くかは私にもわからない。ことの成り行きを、見守って頂けたら幸いである。
 

「ゴーンは忘れません」だって

 中嶋寛さんのフェイスブック(とブログにも)「ゴーンは忘れません」と出ていたので笑ってしまった。ゆっくり読めば「ご恩は忘れません」になる。日産を再建した恩人であることは、日産の関係者でなくても知っている。逮捕されたのも、所得の過少申告容疑の経済犯であって、凶悪犯罪などではない。フランスのルノーは、役職の停止はしたものの解任はせず、代理の役員を立てたということだ。日本での逮捕劇は、社内の権力闘争が関係しているような気がする。
 これから先のことは、事態がどのように展開するか予想できないから、私も深入りしないのが安全だと思っている。ただ日産自動車については、私が1949年(昭和24年)に最初に運転した車がダットサンだったことから、かなり深い愛着がある。
 日本で最初の国産車が、ダットサンの前身となる「脱兎号」だった。この後継が脱兎の息子(son)だからダットSONにしようとしたが、「損」に通じるというので、太陽のSUNでDATSUNになったというエピソードがある。このダットサンは戦前にかなり普及したから、小型自動車を意味する普通名詞のようにも使われた。トヨタが初めて小型車を出したとき、来賓が「御社のダットサンは……」と言ってしまったという伝説もある。
 私が乗った1937年製のダットサンは、戦後の町をよく走ってくれた。エンジンと車体のバランスもよく、買い替えた戦後生まれのダットサンよりも信頼できたような気がしている。ただし操向輪を安定させる「三角ロッド」のボルトが走行中に外れて、重大事故を起こす寸前になったことがあった。
 ゴーンさんも日産も、いずれは天下晴れて復活する日があるだろう。私の運転免許は来年の6月で切れる。それまでに電気自動車を一度は運転してみたいと思っている。

もみじの枯れ葉が一枚

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もみじの枯れ葉が一枚 2階ベランダの手すり部分に乗っていた
何の手も加えず そのまま写真に撮った
親木は狭い境界地から伸びて ここまで来てくれた
なんとなく 母親が近くにいるような気がした

トップが犯罪者になるとき

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 敏腕で知られる日産自動車のゴーン会長が逮捕された。衝撃のニュースだが、中でも驚きの大きかったのは、何も知らずにいた日産の社員たちだろう。何人かのインタビューが、テレビニュースでも流れていた。どんな大きな会社のトップでも、法にふれる行いをすれば司直の手にかかることがある。それが健全な民主国家というものだ。
 ところがこれが政治家の犯罪になると、やや微妙になる。現職の総理大臣が犯罪者として逮捕されたという例は、まだないようだ。田中角栄・元総理の収賄容疑による逮捕も、辞任のあとで行われた。総理には強い指揮権があるから、現職での逮捕というのは、日本では難しいのではなかろうか。もしあれば、それはクーデターに近い政権奪取を意味するから、これまでの日本に経験がないのは、幸せと言うべきかもしれない。
 日本の民主主義も、やや怪しくなったとは言われるが、まだ基本は守られていると言っていいだろう。だが油断はできない、時代の変化というのは、人々が気づかぬうちに進んでいることがあるからだ。選挙を何度やっても変り映えがしなくて、誰がやっても変らないと、関心が薄くなったりすると危ないことになる。
 会社のトップの犯罪は罪として裁かれるが、国政のトップの判断の誤りは、基本的に裁きをつける機関というものがない。ある程度の時間がたって、やはり間違っていたと結論が出るのを待つしかないし、その結論も、見方によっては評価が割れてしまう場合もある。そもそも国政のトップは、自覚的に犯罪に踏み込むことは少ない。たいていは良かれと思ったことが間違っていて失敗するのだ。
 でも政治家には時として暴走する確信犯が出てくる。ヒトラーがその典型だが、日本にも出てこないとは限らない。混迷する政治の現状は、不気味な予感を含んでいるように思われる。


私は岩波新書文化人?

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 岩波新書が創刊から80周年になるそうで、きょうの朝日新聞に特集記事が出ていた。私も岩波新書には、古くからたいへんお世話になった。かなり長い時期、新刊が出るたびにチェックしては買っていたこともあった。書棚を調べたら、現在903冊が確認できた。古いと思われる方では、「漢の武帝・吉川幸次郎著」の第4刷、昭和29年(1954年)発行(定価100円)がある。学生時代に、もぐりで聴講した国文科の授業で推薦があり、買った記憶がある。
 新書だと、集中すれば一日で読めて、新しい一つの知見が得られるのが快感だった。そんな中で島崎敏樹氏の「生きるとは何か」(1974年第3刷)にも出会った。島崎氏は、島崎藤村の遠縁に当る人で、温厚な精神医学者だった。私の人生観に一つの指針を与えてくれた本であり、その著者である先生に、後にNHK「われら10代」のディレクターとして、直接に教えていただく機会を得た。
 シリーズの中にあった大河内一男氏の「黎明期の日本労働運動」「暗い谷間の労働運動」「戦後日本の労働運動」の3部作からは、日本の労働運動についての概観を知ることができて、これがその後、労働組合の視聴覚教材を制作するときに、非常に役に立った実感がある。
 その他、背文字を見ていると、その時々に受けた感銘を思い出すこともある。しかし圧倒的多数は、中身を覚えてはいない。読み直してみたら、また面白いと思って読めることだろう。事実、面白そうだと思って買って読んだあとで、よく見たら家の書棚に同じ本が入っていたという珍事が、複数回あるのだ。
 昔は、いつか自分の本を一冊、岩波新書にしてみたいと思っていたが、今はその気はない。自分に合った出し方をすればいいと思っている。もしかすると90歳のときに、最後の一冊を出すかもしれない。どうぞご期待を。

昼の太陽が丸く撮れた

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 うすら寒い日だ。曇った空に薄い太陽が見え隠れしているが、温かさは降ってこない。午後も3時になってしまっては、冬の日差に期待はできない。
 隣家の屋根に近づいてきた太陽だが、これから冬至に向けて、ますます低くなる。やがて当家の2階ベランダは、下の方から順に日陰に入ってくる。そして冬至の日、食堂の窓の上部に、数センチの幅の日当りを残したころでその進行は止まるのだ。それが今年は12月22日になるそうだ。それからは、季節は寒くても、太陽は確実に春に向かって帰ってくるのだ。今年は暖冬の気配だが、実際はどうなるのだろう。例年にも増して、私の老体は冬の寒さに身構えている。
 日本ならば「冬がない」と言われる沖縄か、海外ならマーシャルの島へでも行けたら、身体的には楽だろうと思う。しかしもう、そんな気力はない。連れ合いのケアもしなければならないし、老々がいたわり合って過ごす日常も悪くはないと思うことにした。もし、ガンが再発しても、もう戦うつもりはない。苦痛の除去だけをして貰えれば、それで結構である。
 仕事はもう若い世代に任せた。その次の世代がどうなるかは、私の責任範囲ではない。

北方領土が連日トップ記事

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 昨日と今日と、北方領土問題が2日続いて朝日新聞のトップ記事になった。会談をしている場所がシンガポールというのも面白い。戦後70年以上も動かなかった問題だが、何らかの進展があるといいと思う。
 北方4島との間には「ビザなし交流」というものがあって、これを労働団体の「連合」が支援していた。私は2000年代前半にこれに同行して、報告のビデオを作ったことがある。国後島に上陸して、「宗男ハウス」と呼ばれる宿舎に泊まり、現地のロシア人家庭への訪問などもした記憶がある。
 そのときの印象を率直に言えば、「ここは、もう外国(ロシア)になっている」ということだった。ロシアの本土を知らない子供たちが育っているのだ。ただし地理的に近い日本に対しては、警戒心などよりも、むしろ親しみかあこがれに近い感情を持っているようだった。事実、急病人が出たような場合は、緊急搬送で日本へ送り、高度医療を受けさせるとも聞いた。
 また、元島民にとっては、ここはまさに「父祖の地」であることを実感した。墓地はそのままに残っている。日本統治時代の建物もある。これが「外国」になってしまったというのは、あきらめ切れない思いがあることだろう。
 その一方、国境の島らしい緊迫感は全くなかった。軍事施設らしいものも軍人の姿もなく、警察官さえ見かけなかった。それは対岸の日本側でも同様だったのだが。
 この訪問時に、私はちょっとしたトラブルに見舞われた。自由行動の時間に集落に深入りして、飼い犬に足を噛まれたのだ。脛に小さな傷ができた。帰宅して念のため地元の医院へ行って、「北方領土で犬に噛まれました」と言ったら、受付さんが「海外ですね」と言うので、「いや日本ですよ、政府がそう言ってるじゃないですか」と言って、健康保険で手当てしてもらった。

北方領土問題の変遷

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 久しぶりに北方領土問題が新聞の第1面に登場した。「島を返せ」のこの問題には、私も仕事を通して、かなり早い時期からかかわってきた。おつきあいの長かった労働組合の全繊同盟(現・UAゼンセンの前身)が、民間労組として先陣を切ってこの運動への取り組みを始めたからだった。牽引車になったのは、当時の山田精吾書記長だったと思う。おかげで私も関連資料を読んだりして勉強することができた。
 北方領土とは、千島列島のうちで択捉島以南にある国後島、色丹島、そして歯舞諸島で、伝統的に日本人の支配下にあった地域である。とくに色丹島と歯舞諸島は、地理的にも千島「列島」ではなくて納沙布岬の属島のような位置にある。これらの地域を、ソ連軍は8月15日以降から9月にかけて占領した。占領に当って、アメリカ軍が来ていないことを確かめながら慎重に進んできたという経緯もある。戦後のどさくさに乗じた一方的な占領だった。
 だからサンフランシスコでの平和条約でも、日本は「択捉島以南の南千島は日本固有の領土である」ことを条件に受諾している。しかしソ連は「戦争の結果としての帰属」として、ロシアになってもそれを引き継いでいる。そして1956年の日ソ共同宣言では、色丹と歯舞は平和条約締結後に引き渡すと明言して、鳩山一郎首相とブルガーニン首相が署名して、日ソは国交を回復した。
 それ以来、日本政府は、建前としては「択捉、国後、色丹、歯舞の一括返還」を唱えてきたのだが、相手のある交渉ごとで、首相同士が署名した共同宣言を無視するというのは、無理筋ではないだろうか。まだ有効だった中立条約を無視して侵攻したソ連への遺恨はあるが、ここは共同宣言を基礎に交渉するのが現実的と言うべきだろう。それにしても、失うものの多い、愚かな太平洋戦争だった。
 

 

ブログ連歌(525)

10479 人の命 政治利用の裏表
10480  カショギ殺され 純平助かる  (獣医さん)
10481 情報は なぜか錯綜 遠くから
10482  有力説を 語るカタール (建世)
10483 酉の市 祝儀の手打ち 音冴ゆる (みどり)
10484  三の酉まで 今年はあると (建世)
10485 新暦 知らぬ月日の 美しく
10486  わが命日は 何処にあるか (建世) 
10487 ケセラセラ 任せ我が道 歩むのみ (みどり)
10488  垣間(かいま)に見ゆる 破滅への道 (建世)
10489 国会は 浮世離れた 議論して
10490  秋の短か日 早くも暮れる (建世)
10491 閣僚の にわか答弁 稚拙なり (みどり)
10492  在庫整理の 素人なれば (建世)
10493 かくも軽き官僚答弁
10494  諦め半分 聞く人もなし (獣医さん)
10495 ねじれもせず 緊迫もなく
10496  わが国会は 日程消化す (建世)
10497 主権無き 島の返還 いぶかしき (みどり)
10498  かくも長かり 戦後の処理は (建世)
10499 一年を 10勝で過ごす いい男 (獣医さん)
10500  ぶら下がっている 綱が三本 (建世)
 


「移民」を入れるのか入れないのか

 日本国内の労働力不足を補うために、外国人労働者の受け入れ拡大に向けて、政府は入管法(出入国管理法)の改定を提案しているということだ。これが通れば、これまでは「高度な専門人材」に限ってきた外国人の就労資格を、単純労働にも拡大することになる。ますます深刻になる人手不足に対応するためだそうだが、業種や人数などが明らかになっておらず、野党は警戒感を示している。
 入国の資格をゆるめれば、治安がよく賃金水準も高い日本をめざして入ってくる人たちは増えるだろう。当面の人手不足にも役立つだろうが、話はそれほど簡単ではない。まず、日本国内の賃金格差は、ますます拡大することになる。単純労働は、流入外国人と日本人との安値競争にさらされるだろう。単純労働の外国人も、やがては結婚し家庭を持つようになる。子供が生まれて学校に通うようになったらどうなるのか。日本社会は、それほど世界に開かれた寛容性を持っているだろうか。
 かといって、働き盛りの人だけを受け入れる、家庭を持つことは許さないといった差別的な扱いが人道的に許されるだろうか。ヨーロッパの先進国では、外国からの出稼ぎ労働者も多いようだが、島国の日本には、これまでそんな経験はなかった。外国人の安易な受け入れは、日本国内に新しいタイプのトラブルを引き起こすのではないだろうか。「移民」を受け入れてもいいかという、かなり難しい問題と直結しそうな気がする。
 
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

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