志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

ブログ連歌(539)

10759 カゼ熱が 引いて再び 人心地
10760  亡妻の壺に 話しかけみる (建世)
10761 彼岸花 早やも枯れゆく 古刹訪う (みどり)
10762  種も残さぬ その花哀れ (建世)
10763 台風の 歴史に残る 破壊力 (みどり)
10764  嵐の前か 雨音静か (建世)
10765 台風が 本当に来たぞと 名乗り上げ (建世)
10766  千曲川すら 決壊の憂き (みどり)
10767 夜が明けて 豪雨被害が 新聞に
10768  死者は29 不明14と (建世)
10769 淡々と 秋の薄日は 静かなり
10770  老いを楽しむ わが身にも似て (建世) 
10771 高層の マンション群の 泣きどころ (みどり)
10772  武蔵小杉の 名を高めたり (建世)
10773 実りある 米も果実も 泥の中 (みどり)
10774  雨よ風よ 何ゆえ荒れるや (建世)
10775 ひとときを 留めておきたい 小春日の
10776  日差しあたたか 風さえ絶えて (建世) 




こんな小春日和の、穏やかな日は……

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 天気の良い日には、朝のうちに洗濯機を回して二階のベランダに干す。妻の在世中は、私と二人でその仕事をすることもあったが、妻がいなくなってからは、それが多忙な長女の仕事になった。二階と三階の二世帯分だから、分量は、かなりある。私は気がつけば手伝うことにしているのだが、いつもの朝のペースで洗顔などしていると、終ってしまっていることもある。
 ただし、干したあとは、自分の責任範囲だと思っている。天気の急変などは、地下で仕事をしている長女には、わからないだろう。夕方の日が傾いて頃合いと見れば、取り込んで、けっこう工夫しながら畳んで適当に分類し、ピアノの上に並べて置く。近ごろ誰も弾かなくなったアップライトのピアノは、完全に衣類の置き場として使われている。
 しかし二階のベランダで物干しが出来るのは、11月の半ばまでで終るのがわかっている。太陽が低くなって、二階には日が当たらなくなるのだ。その後は、昔は屋上まで持って行ったものだが、近ごろは三階のベランダを使うようになった。その分だけ長女の雑用が増えるのだが、それはやむを得ない。だから年が明けて、来年の2月上旬の終るのが待ち遠しいということになる。
 そんなことよりも、きょうは温暖な小春日和だった。こういう日があると、山口百恵の「秋桜(コスモス)」の歌を思い出す。彼女の顔の輪郭が、うちの長女に似ていると思ってきた。その向こうには、母親である私の妻の顔がある。
 こういうおだやかな日には、あまり余計なことを考えたくない。長女がいて、その母親との楽しい日々があったのだ。この家は、私たちの「城」だった。小春日の日差しはあたたかい。この上に、いったい何を望むのか。
 

間庭小枝さんの「椰子の実コンサート」(第20回)を聞いた

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 声楽家で歌の教育者、間庭小枝さんの第20回「椰子の実」コンサートを、清瀬けやきホールで聞いてきました。たまたま前列の中央に席をとり、主役にいちばん近いところで声をよく聞こうと発想したのでした。私の聴力が低下気味だし、マイクを使わないナマ声を聞くには、近い方がいいに決まっていると思いました。すると、今までに経験しなかったような、自分がスタッフの一員になったのに近い感覚が出てきて、新鮮な楽しさを感じることができました。
 間庭さんのソプラノは、私の好きなきれいな声です。聞いているうちに、何だか自分が指揮をしているような気分になってきました。というよりも、テレビ局時代に、スタジオで歌の録音をしていたときの雰囲気を思い出したようでした。ディレクターの仕事は、いま聞いている歌声が「使える」かどうかを判断して、終ったときに「OK」を出すか、「もう一度お願いします」と言うかを決断することです。私は「これならOK」と安心し切って、ただただ無事に終ってくれるのを待っているのでした。それは本当に楽しい時間でした。私は深くうなづきながら聞いていたのでした。
 終演後に間庭さんにお会いしたとき、「志村さんが最前列で、うなづきなが聞いていて下さったので、とても安心して歌えました。」と言っていただきました。その感じは、私にもよくわかります。私も大人数の前で話したことがありますが、客席の中に、一人でも好意的なうなづきをしてくれる人を見ると、とても安心するものです。あとは、その人に話すつもりで言葉を続けて行けばいいのです。
 もしかすると、歌い手さんにも、そういうことはあるのではないでしょうか。大きな会場でも、「あの人が聞いている、あの人に聞かせたい」と思われるような聞き手になりたいと思います。それが歌い手さんの心を明るくするなら、歌手と聴衆との間に、これ以上幸せな関係はないでしょう。

女系天皇を認めたくない愚かさ

 皇室の男子継承説というものがあって、日本の天皇はあくまでも男系でなければならない、歴史上に女性の天皇もいたが、それらは適任の男性がいないために、一時的に代理をしただけであって、男系の基本は厳格に守られてきたという説を読んだことがある。この論の正否は知らないが、男だけに伝わる特別に貴重な遺伝子があるというのは、たぶん虚構だと思う。
 卵子が男になるか女になるかは、性決定遺伝子がXXかXYかで決まるのだが、この最後のXとYが、対等の大きさというよりも、Yが異常に小さくて、むしろXの欠落と言った方がいいという説明を読んだ記憶がある。つまり生物の基本形は雌であって、遺伝子をシャッフルして進化を起こすために有性生殖を導入したというのだ。この場合、男を作る特別に貴重な遺伝子が存在するのではなくて、基本形の雌に、変化を起こすための欠損を作ってみた、ということになる。
 こんな説明は知らなくても、すべて生き物の基本は雌であり、人間で言えば女であることを、古代の人も本能的に知っていたのだろう。日本の神話も、そのようにして、高天ヶ原を支配する天照大神(あまてらすおおみかみ)を民族発祥の祖として定めたのだった。そこから地上の日本国を支配するために、孫を派遣したのが神武天皇で、初代の天皇ということになっている。よく出来た話ではあるが、もちろんお話の中のことである。
 それから連綿として今まで続くのだが、ここで女系の天皇を作ると伝統が壊れるなどと心配することはない。じつは男系にのみ伝わる特殊な遺伝子などは、最初から存在していなかったのだ。遺伝子をより多く伝えたいのなら、女性を中心にした方がよほど合理的である。当面は心配がないようだが、次の機会には、安心して女性の天皇を登場させるのがよい。
 
 

「昭和史」(ちくま新書・古川隆久)を読んだ

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 「昭和史」(ちくま新書・古川隆久)を読んだ。昭和という時代を総括して理解させてくれる、良書だと思った。
 昭和という時代は、なぜ「昭和」なのか。これは言うまでもなく、昭和天皇が在世した期間の、日本式の年号による呼称である。ふつう(つまり西暦)の区分なら1926年12月25日から1989年1月7日までに相当する。年末に始まり、年初で終っているから、実質は満61年と2週間だった。しかしこの長さは、神話伝説時代を除けば、最も長く続いた天皇の治世だった。
 そして私にとっても、「昭和」による年号の記憶は根強く残っていて、意識的に採用した西暦よりも、未だに早く出てくるところがある。たとえば私は昭和8年に生まれた、31年に大学を出た、結婚は昭和33年だった、といった具合である。つまり「絶対の尺度」になっている部分があるのだ。記憶を西暦に置き換えようとしても、なかなか簡単には行かない。
 ところで本題だが、昭和とは、本当に波乱に満ちた時代だった。世界の大国としての自信をつけ、天皇を擁した権威をもって世界を指導しようとさえ試みたのだ。その結果としてアメリカとの対立を招き、無謀な戦争にまで突入して悲惨な結果を招いてしまった。ところが、ここまでに要した時間が20年で、昭和史の長さの3分の1にしか過ぎない。戦後はアメリカによる占領を経て、和解というか、アメリカの庇護を受ける立場で独立を回復して、国際社会に復帰することができた。
 その後の日本が、誰もが言うように、日本国憲法に準拠する「象徴としての天皇を戴く民主国家」として歩んでいることは、言うまでもない。昭和天皇の後を継いだ上皇が、画期的な「生前退位」を提起したのは賢明だった。象徴としての天皇は、象徴だからこそ、老衰を感じさせる姿であってはならない。
 余談だが、この本の著者は、私の長女の高校時代の級友だということだ。この世代の人が、こういう本を書いてくれるようになったことを、私はとても安心だと思う。世の中は、このようにして、次から次へと進んで行くのだろう。
 

 

新聞の見出しは豪雨被害だが

 新聞には豪雨被害の記事が大見出しで出ているのだが、台風の過ぎた空からは薄日がさしている。自民党の二階幹事長が、「まずまずに収まった」と発言したのは、実感ではあったのだろうが、現実に死者が出ているのだから、政治家としては、まずかったのだろう。折から開かれいた国会では、安倍首相がわざわざ釈明する事態になったようだ。ふだんの直感による言動が、すぐ話題になってしまうのだから、政治家とは不自由な商売ではある。
 ただし家の中ではそんなことは話題にもならず、昨夜は次女が熱心に見ているバレーボールの中継があったから、私もつきあって夜おそくまで見ていた。サッカーなどに比べて、あまり変化のない単調な競技のように見えるが、解説を聞いていれば試合の要点はわかってくる。それなりに楽しみながら見ていられた。
 このところカゼ気味で、医者からもらった薬を飲み尽くしても、全快したという爽快感がない。病人ではないのだが、健康体とも言い切れないような、あいまいな状況が続いている。喉のガラガラが治らないから、昔ながらの「浅田飴」の錠剤を舐めたりしているところだ。
 家の仕事は長女が、食事の世話は次女が引き受けてくれているから、日常の暮らしには何の不安もない。妻が築いてくれた安全保障の仕組みが、その没後にも回っていてくれるのを実感している。 
 ひまな時間に、自分のブログの過去記事などを読んでいた。東北の大震災後を取材して歩いたころの記事が懐かしい。いま大学の4年で、来年の就職も内定している孫と、秋になったら一泊で三陸鉄道に乗りにいこうという話になっていた。今度の雨で、一部に損傷があったようだがどうなるか。多少のトラブルはあっても、現地へ行けば何とかはなるものだ。被災地の今がどうなっているか、ぜひ行ってみたいと思っている。
 

たぶん世界一眺望のよい男子トイレ

 昨日は夕方から、現状での家族全員、つまり長女夫妻と孫と私と次女の5人で、東京湾アクアラインの「海ほたる」まで行ってきた。行く手の正面、東の空にはには満月と思われる月が昇ってきて、振り返れば西の空は夕焼けに染まっていた。どちらも絵になるのに、カメラを持つのを忘れたのは残念だった。
 ただし私には若い頃から、「写真に撮ってしまうのは、もったいないような美しさ」という独特の感覚もある。自分の目で見たものだけが「一期一会」の光景なのだ。カメラで写し撮ったものは、その抜け殻にすぎない。
 ところで「海ほたる」は、道路が開通して間もないころにも妻と行っているが、もっと小さな施設だったような気がする。今回行ってみて、5階まで通じるエレベーターがあるので驚いた。いろいろな店やレストランなどが並ぶ巨大施設になっていた。そして、ここで夕食を食べるというのが、娘たちの計画になっていたのだった。
 施設内には何階だったかは忘れたが、公設の大型トイレもあった。食事の前に入ってみたのだが、ここの男子「小」用のトイレがすばらしかった。正面の胸の高さから上がガラス張りになっていて、東京湾の全景を見渡しながら用を足すことができるのだった。こんなトイレを、ニューヨークでも見たことがない。女性には縁のない話かもしれないが、おそらく世界でも他に例がないのではあるまいか。
 だいたい男子「小」トイレで、前面がガラス張りというのが珍しいと思う。これを設計した人には、多少なりとも冒険心があったような気がする。
 ブログにこんなことを書いてしまったが、このトイレを有名にしようなどという意図はない。むしろ経験者だけが知っている「隠れ名所」にしておくのがいいだろう。
 

台風一過の晴天

 台風一過の晴天になった。風ではたいした被害もなく、木の葉が駐車場に散らばった程度だった。地下室の水漏れも拡大することなく、雨量も多くはなかったので、夜になっても心配はなかった。
 台風のあとは、どうしてこんなに良い天気になるのだろう。夏日が復活しそうな日差しである。洗濯物が、目いっぱいに干してある。吹き抜ける風が心地よい。
 このところ、気分は穏やかである。不満の種は、非常に少ない。私の家族の今と未来については、すべてが順調に回っている。その余のことは、どうでもよい外周に過ぎなくなった。あるべきものが、あるべきように納まればそれでよい。
 私の親友の釜石の実家には、ゴッドマザーと呼ぶべき実力者の母上がいた。その人のヒューマン・ドキュメンタリーを制作したとき、その人が残した遺言書の話を聞いたことがある。どんなことが書いてあるのかと、顧問の弁護士を含めてうやうやしく開封したところが、そこに書いてあったのは、「みんな仲良く」の一言だったというのだ。それを見た三姉妹は、その言葉の通りに、互いに譲り合って遺産分割の話し合いを進め、何の不平不満も残さなかったということだ。
 家族というものは、そうありたいと思う。今の暮らしの延長として未来があるのなら、あるいは遺言そのものが不要なのかもしれない。「あとはよろしく頼む」だけで、いいのではあるまいか。一応は用意した遺言書はあるのだが、本当は何も要らないのかもしれない。
 

台風を待つ夜が更けてゆく

 大型の台風が近づいているようで、雨音がだんだん大きくなってきた。私のビルでも、地下室の物置の奥から浸水が始まった。ふだんあまり使わない場所なのだが、捨てるにはちょっと惜しい古い家具などが押し込んである。その床が濡れてきたので、収納物を全部取り出して状況を調べる騒ぎになった。婿殿まで出動して、水が出てくる隅の割れ目を確認することができた。
 水が浸みてくる間は手をつけられないから、出てきた水を雑巾に吸わせて、バケツで捨てる対症療法になる。本格的な対策は、雨が止んでコンクリートが乾いてから、プロのリフォーム屋さんと相談して決めることになるだろう。
 地上3階、地下1階の「志村ビル」を建ててから、もう34年たっている。長女に言わせると、「地下室は、あまり好きじゃない」のだそうだ。建ててから間もない時期に、排水ポンプの故障で地下水位が上がり、水が地下室の床板すれすれにまで上がってきたことがあった。それに最初に気づいたのが、当時まだ学生だった長女だったから、そのときの衝撃が、トラウマになっているのではないかと、私は思っている。なにしろよく気がついて、人に先んじて心配りする長女なのだ。
 ただし私としては、事務室を地下にしたのは成功だったと思っている。防音が完全に出来て、録音の仕事が安心してできるのが良かった。夏は涼しく、冬は暖かいという長所もある。ドライエリアを作って外光を入れているから、地下にいる圧迫感もない。かなり気に入っているのだが、長女はいつか、「私が建てるときには、地下室は作らないよ」と言っていた。
 彼女の言うことにも一理はある。地下室の維持には、地下水の管理が欠かせない。自動ポンプで排水するとともに、故障に備えて水位の警報装置もつけてある。長期の停電には、バケツで汲み上げて排水するしかあるまい。非常用の、ガソリンエンジンのポンプも用意してある。でもそれらは、考えようによっては、すべて「不自然な」対策なのだ。自然のままで安心なら、それが一番いいに決まっている。
 もちろん、私の時代のあとには、彼女の時代がくる。というよりも、すでに「私の時代」は終っている。私は立派すぎる家を建ててしまったのかもしれない。彼女が早く自分で好きだと思える家を建てられるように、私は協力すべきだろう。その新しい家を、私は生きているうちに見られたらいいと思う。
 

本当に最後になりそうな学習院英文科同窓会

 昨日の10日、10月の第二木曜日、学習院の中央研究棟の最上階にある「松本楼・学習院店」に、私と同期の英文科第3回卒業生が集まりました。正方形のテーブルを囲んで4人、それぞれ好みの昼食を取りながら、ゆったりとした2時間ほどの会話を楽しみました。中の一人は、わざわざ鹿児島から、日帰りの飛行機で来てくれたのでした。私たちの卒業は昭和31年(1956年)の3月、新制大学が出来てから3年目の入学ですから、「3回生」と呼ばれています。まだ4年生はいなくて、卒業生を出していない大学でした。
 時代は、戦後日本の混乱期が、すぐ近くにあった時期でした。学内には、松本楼のような上品な店があるわけもなく、同期生だった「殿下」つまり今の「上皇」さまも、武骨な学食で30円のカレーライスを食べていたのでした。
 敗戦を迎えて「戦後」になるまで、日本では女性は正規の大学に入ることができず、別枠の「女子大学」があるだけでした。それが戦後の民主化で、女性にも高等教育の道が開けたのです。釜石出身の親友は、「私が合格したら、地元の新聞に私の名前が出たのよ」と教えてくれました。日本全体では、まだ大学への進学率は、80人に1人という時代だったのです。
 その同期生の中で、誰よりも早く結婚したのは私でした。卒業の2年後に、家を出て四畳半のアパートに新居を構えたのです。同期の女性たちにとって、新婚家庭というのは好奇心の的だったのでしょう。代わる代わる訪問してくれて、家庭用品の差し入れをしてくれたり、3歳年下の妻の相談相手になってくれたのでした。
 その友人たちも、その後それぞれに結婚して、今は子も孫もいる年代になりました。久しぶりに会えば、それぞれの消息を問い合わせ、その話題の中には、そろそろ「連れ合いさんの介護」の問題が入ってきます。平均的に、私よりも年上の年代なのです。
 こうして時代は移り、私たちの世代は「現役」を終了して行きます。悪くない人生でした。その一部分にかかわって下さった皆さんには、心からの感謝あるのみです。
 
 

ブログ連歌(538)

10739 訪ね行きし 十勝帯広 野は広く
10740  目ざす彼方は 果て無きごとし (建世)
10741 人ひとり 弔う席に 連なりぬ
10742  その日の暮れに 降る小ぬか雨 (建世)
10743 秋めくや 蝉の声すら 切れ切れに (みどり)
10744  棺を覆いて 兄を送りぬ (建世)
10745 夏木立 谷中の墓地に みどり濃く
10746  兄の遺骨は 壺に納まる (建世)
10747 暴風雨 奔り抜けたる 空あかね (みどり)
10748  いつしか夏も 過ぎて行くらし (建世)

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10749 涼風や 虫の音とどく 夕まぐれ (みどり)
10750  雲の間に間に 月は宿れり (建世)
10751 連休が あとひとつあり 息をつく
10752  身を整えて 明日に向かわん (建世)
10753 時雨れゆき 孤愁ふかめる 一人膳 (みどり)
10754  逝きし人あり また会う日なく (建世)
10755 消費税 上げるなの声 どこまでも (みどり)
10756  夕日薄れて 「その日」近づく (建世)
10757 台風に 煽られ未だ 被災民 
10758  屋根こわされつ 耐えて生き抜く (みどり)
10759 カゼ熱が 引いて再び 人心地
10760  亡妻の壺に 話しかけみる (建世)
 

この1週間の経過報告

 いろいろなことがあって、落ち着かない1週間だった。
 まず、21日夜に、にわかに腹痛に襲われた。下腹部の全体が、とにかく痛い。しばらく我慢していたが、とても眠れる状態ではないと見極めて、深夜になってから時間外受診を決断した。長女が7119番(救急通報するかどうかを相談する窓口)に電話して、近くの警察病院で時間外の診察を受けることにした。孫の運転で時間外受付から入り、ベンチで待っている間に午前0時を過ぎて22日になった。
 間もなく呼ばれて診察室に入り、ベッドで腹部を診察して貰うと、排尿障害ということだった。尿意は全く感じなかったのに、膀胱がパンパンに張っているというのだ。直ちに導尿が行われて、これが初体験だが相当に痛かった。カテーテル(細管)を、尿の経路を反対に、つまり出口から入れて膀胱にまで届かせるのだから激痛の連続になる。看護婦さんが2人がかりでやってくれたのだが、こちらは「痛い、痛い」の連続で、恥ずかしいの何のを考えている次元の話ではない。しかし、管が通って排尿が始まると、見る見るうちに苦痛が和らいで人心地がついてきた。
 あとで聞いた話だが、前立腺の肥大が原因の排尿障害ということだった。私の前立腺が肥大していて、膀胱を突き上げる形になっているというのは、10年以上前から知っていたが、貯水量が減って小水が近くなる程度のことだからいいやと思って放置していた。しかし、こういう怖い事態にもなるのなら、考え直さないといけないかも知れない。
 だから泌尿器科の専門医と相談する必要があるので、その予定は、すでに予約票になっている。長生きすると、人体にはいろいろなことが起きる。自動車なら故障が多くなる前に新車に乗り換えればいいのだが、人体ではそれが出来ない。一つしかない体を大事にするしかないのだろう。
 そんなわけで、22・23の連休はほぼ無為に過ごし、その間にカゼを引き、24日のボウリングはお休みとした。つづく25日、26日も微熱が続き、立っているだけで疲れるような倦怠感が強かった。そしてきょうの夕方になって、先ほど次女が部屋をのぞいて「もうすぐご飯だけど大丈夫?スブタだよ」と声をかけてくれた。「いいね、大丈夫だよ」と、やや元気に返事をした。

立憲民主・国民・社保・無所属フォーラム

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 政権交代可能な野党を作るという趣旨で、国会に新しい統一会派ができた。その会派名が、「立憲民主・国民・社保・無所属フォーラム」という長い名になった。現憲法下での国会会派の名称としては、最長の19文字になるそうだ。ただし・(中黒点)も1文字にカウントするらしい。当初は「立憲民主党・国民フォーラム」にするつもりだったが、社保の名を残して欲しいなどの要望があって、このようになったらしい。
 ちなみに、従前の会派名の最長は、「生活の党と山本太郎となかまたち」の15文字だったということだ。名前の長さで人目を引くというのも一つの戦略かもしれないが、日常の使用には、あまり便利とは言えないだろう。
 この件で思い出したのが、昭和47年に制定された「男女雇用均等法」のことだ。採用や昇進についての男女の差別をなくすことを目的にしていた。ただしこの制定までには、業界団体の反対などもあり、かなり難航したことを覚えている。だいぶ骨抜きにされて、実効性には不安な面があった。私は当時、労働組合の教宣資料を作っていたから、「均等法と私たち」というスライド教材の中で、この法律の正式名称の長さを、落語仕立てで皮肉ってやったものだ。
「わーっ、すごく長い名前ですね。名前が長けりゃ、効き目もあるんでしょうか。」
「まさか、おまじないじゃあるまいし。」
といった内容だった。なんと「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」(42文字)というのだ。私の知るかぎりでは、一番長い名前の法律のように思われる。ただし現在では、内容の改定とともに、やや短い名称に変更されている。当初の名前が長かったのは、先行する「勤労婦人福祉法」などの、制定までの歴史経過を反映したからだった。 

きょうはいい日だ、こんにゃく座

(熊さん)ご隠居、お久しぶり。このところ、名物の「ご隠居、熊さん対談」がないねって、ファンの姉御たちが気にしてるみたいですよ。
(ご隠居)そう言われてみれば、そうかも知れんな。自分でもすっかり忘れとった。気持ちに余裕がなくなってたんだろう。それが、きょう見に行った「こんにゃく座」の公演が良かった。珍しく「ふしぎなたまご」と「おじいちゃんの口笛」の二本立てだったんだが、とくに「おじいちゃんの口笛」が良かったな。
(熊)そして、太田まりさんにも会って、赤ちゃんを抱かせてもらったんでしょ。
(隠)そうなんだよ、最初にまりさんに会ったのは、2007年春の大垣だから、もう12年以上も前になるんだね。最初から、女優さんにあこがれるって感じじゃなかった。自分の娘を見てるような気がしたんだよ。女優としての成長はもちろんだけど、何よりも彼女の「人としての幸せを願う」って気持ちが強かった。そんな不思議な「歌役者」さんだったんだよ。
(熊)わかりますよ、ストレートに出てくる、まじりっ気のない魅力でしょ。
(隠)そうだ、その通りだよ。それから私は許可も取らずに宿河原の稽古場に通ったりして、こんにゃく座のファンになって行ったんだ。いろんな舞台も見せて貰ったが、行くたんびに、来て良かったという収穫があったんだよ。それから「春のうた会」なんかも楽しかったな。
(熊)創立者の林光さんは、「日本人が聞いてわかる、日本語によるオペラ」を目指して旗上げしたんですよね。それがずっと続いている。
(隠)その通りだ。外国が「本場」で、上流階級が楽しむものだった「輸入オペラ」とは、そこが全然違うんだね。「日本人のためのオペラ」を開拓するというのは、決して易しい仕事ではないが、日本の文化のレベルアップのためにも、とても貴重な事業だと私は思っているんだよ。
(熊)ご隠居が元気になって、日本の文化も元気になるんなら、こりゃ八方よしだ。きょうは、いい日でしたね。良かったね、ご隠居。

(今回の公演は俳優座劇場にて、18日(水)14時からが最終回です。)

箱根の緑の中で

 昨日の昼まで、姉の一家とともに箱根にいました。夏は終りに近くても、木々の緑は、まだ全盛期のままです。最近の東京では聞かれなくなったひぐらしの声が、遠くから聞こえていました。姉家族の帰り支度を待つ間に、ベランダの椅子で休んでいた私は、知らぬ間に居眠りをしていたようです。
 一瞬、私は自分がどこにいるのか、わからなくなりました。ただ、懐かしいような安心感がありました。私は夏の箱根にいる。まだ高校生なのかもしれません。緑の中にいて、風に吹かれているのが好きでした。近くには父親がいて、剪定した枝で焚火をしていたに違いありません。もちろん暖をとるためではありません、ゴミを減らして灰を肥料にするためです。山育ちの父は、箱根に山小屋を購入してからも、毎日のように山仕事をしていました。それは楽しみのためというよりも、自分に課した仕事のように見えました。安楽椅子に深く腰を下ろして休んでいるような父を、見たことがありません。「俺は山猿だ」というのが、死ぬまで変わらなかった口ぐせでした。
 この父のおかげで、私も箱根の山を、自分の第二の故郷のように感じるようになりました。ただしそこには何の生産性もなくて、ただ気の向くままに山歩きするのが好きになった、というだけのことなのですが。
 その箱根から帰ったきょう、頭の中が、少しすっきりしているような気がします。あるべきものが、あるべきように見える、ということでしょうか。個々の人間は、所詮は本人の大きさに応じてものを考えるしかないのでしょう。それらすべてを統括した外側に、緑の風が吹いているのです。余計な心配は、要らないのでした。
 

なんという夕焼けだ

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 昨日の夕方、西空の夕焼けがみごとだった。すぐに連想したのは、母が見送った最後の年末に、箱根の山荘の居間で綴っていた日記帳の言葉だった。それは私の知らない母の、祖父母や父母へ向けた感謝と愛の告白であり、大自然に託して「この世に生きたこと」への、尽きることのない喜びを述べたものだった。
 西方浄土に、今は亡き父母や、もろもろの会いたい人たちがいるのかどうか、私は知らない。私がこれまで考えてきた「思想」に従えば、それらはむしろ幻想だろうと思う。にもかかわらず、こういう夕焼けに対面すると、私でも心がさわぐのは、なぜだろう。
 こういう空を見ていると、私でも「あっちへ行って母に会ったら、何を話そうか、と思ってしまうのだ。
 ただし、私の妻は、まだ「あっち」にはいない。祭壇の骨壺の中にいて、今でも毎日、ほとんど一日中、私と会話している。

風邪ひいた週末

 この週末、みごとに風邪を引きました。微熱あり、咳が多発、喉が痛くて、頭がぼうっとしています。エアコンの使い方が下手で、半袖の腕がちょっと寒いと思っているうちに、咳が始まってしまいました。家族内にほかの患者はなく、ウィルスがどこから来たのかは、わかりません。昨夜から葛根湯と「アネトン」を飲みはじめましたが、今のところ効果は出てきません。
 幸い、どこへも外出の予定などはないので、ただただ家の中で謹慎しています。軽率な行動はするなと、誰かさんが警告してくれたのかも知れません。心配してくれる人がいるとしたら、それはたぶん、私の亡妻でしょう。こんなときに妻がいてくれたら、どんな意見を言ってくれるだろうかと、何度も思いました。「私には、わからないよ」と言ったかも知れませんが、それでもいいのです。
 「あんたにも、わからないか。そうだよな、誰にだって、先のことがわかってりゃ苦労しないよ。」と、私も応じたでしょう。
 昼のニュースは、台風の接近を伝えています。それと同時に、にわかに大粒の雨が降りはじめました。洗濯物の取り入れに少しあわてて、これから昼食にします。
  「あの世」とやらに本当に妻がいるのなら、私も急いで後に続きたいのですが、どうなのでしょうか。遺影との会話は毎日のようにしていますが、本当のことはわかりません。私が少し不満なのは、あんなに親しかった妻が、未だに一度も夢にさえ出てこないことです。現世で充分に良かったから、もういいやと思っているのでしょうか。
 

夏水仙が2輪になった

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 夏水仙(じつは「タマスダレ」)の花が、二輪になった。つづいてあと三つぐらいは、すぐにも咲きそうな花芽がある。このプランターの花の咲き方をレポートしていると、当分はブログのネタに困らずに済むかもしれない。
 私の父は、子供たちに日記を書かせることに熱心だった。自分が青年期に日記を書き続けていて、それが精神的な支柱になっていた記憶があったらしい。私の日記の習慣もそこから始まっていて、今のブログにもつながっているのだが、子供にもいろいろな個性がある。私の下の姉は、日記を書くのがきらいというか、不得意だった。それでも父は日記を書くことを強制していたから、女学生時代の姉はつらかったろうと思う。さらにいけないのは、時々書いた日記を見せろと言って検閲までしていたのだから気の毒だった。
 そこである時期、姉は、当時家の庭で飼っていた鶏が生んだ卵の数を、日記に記録するようになった。それなら書くのが楽で、長く続けられると思ったのだろう。他に書くことがなくても、日記帳が空白にならなくて済む。ところがその日記の書き方が、安易だと言って責められる事態になった。父はそれを見たら、子供にも得意なことと不得意なことがあるのを悟るべきだったと、今の私は思う。でも父は結局、死ぬまで頑固者としての性格を変えることはなかった。
 下の姉は、のちに友人のつてでスペイン大使館に手伝いとして入ったのだが、そこで短期間のうちにスペイン語の会話に上達して私たちを驚かせた。教科書的な学習ではなく、コミュニケーションとしての外国語習得には、すぐれた能力を発揮したのだった。自信をつけた彼女は、やがて私に「英語を教えて」と言ってきた。少しだけつきあってあげたら、次は「生まれて初めて試験で100点取った」と、私に笑顔を見せてくれたのだった。
 その姉は、やや高齢になってから理解ある夫を得たのだが、子供は授からなかった。数年前に、「もう私のことは心配しないで」と、さびしいような電話をかけてきたのだが、その声は明るかった。寡婦となって住んでいた家は、行ってみたら整地されて分譲地になっていた。
 

「夏水仙」が一輪

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 ベランダに置いてある夏水仙が、一輪だけ咲いた。植物に疎い私は、ウィキペディアで確かめようと思ったのだが、そこに「夏水仙」の名で出てくる画像は、どうもこの花とは違っている。しかも水仙の仲間ではなくて、彼岸花の属だと書いてあった。するとこの花は、いったい何なのだろう。
 この花とのつきあいは長い。草加団地に住んでいたときに、家に入る戸別の玄関前通路の両側に、この花が植えてあったのだ。植えたのは妻で、「夏水仙、きれいでしょ」と自慢していた。まだ幼児だった長女は、白い花が並んでいる、「きれいな玄関前を通ってお家に帰るのが楽しかった」と言っている。それからずっと、私たちは、これが「夏水仙」だと思ってきた。
 長女はそれを覚えていて、最近になって近所を歩いていたときに、「夏水仙」を見つけて、種をもらってきたのだと言う。それが数年かかって増えて、プランターに一杯になってきた。
 妻が最初にこれを植えたときは、たぶん誰かに分けてもらったのだろうと思う。そのときに、これは「夏水仙」と呼ばれていたのだろう。この画像から、正しい名前を教えてくださる方がおられたら有り難い。画像から正しい名前を知るというのは、ウィキペディアでは、なかなか難しいのだ。
 ものの名前というのは、何だろう。その原点は、「会話する仲間同士の共通認識」であればいいのだ。たとえば「おじいちゃん」は、家庭の中では固有名詞として通用している。「父さん」「かあさん」も同じことだ。そしてその呼称は、「その家庭内の、最小年齢者を基準として決まる」という一般法則がある。
 話がやや脱線しそうだが、本日のテーマは、「この花の名前をご存知でしたら、教えて頂けませんか」ということだ。ただし家庭内の会話では、「夏水仙」のままでも一向に差し支えはないのだが。

今にして対面するブライス師の教え

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 妻を見送り、自分も老体となって、あとは静かに人生の終結を考えればいいという境地になっていた(つもりだった)。しかし兄の死で状況が変った。父が残した小さいながら伝統のある出版社と、同じく夢を描いた箱根山の不動産の管理者が不在になった。
 このまま放置しても、「何とかなる」ことはわかっている。数年のうちに権利者がすべて消滅して、「国の財産になる」可能性もある。それも悪くはないのだが、生涯をかけた父の夢はどうなるのか。正当に管理権を取得して将来に向けて保全する機会があるのなら、それは試みるべきではないのか。
 そんなことを考えている中で、偶然のように本棚の隅から、大学3年のときの教科書が出てきた。その中に、ブライス師と対面して質問し、教えてもらったときのメモが挟んであった。授業のあとで、個人的に質問したときのものだと思う。試験のあとで、「一人も正解者がいなかった」という厳しい評点に対し、食い下がってその真意を教えてもらったことがあったのだ。そこで私は、「禅の悟りについての根本的な勘違い」を指摘されたのだった。つまり、空(くう)とは、「すべてを諦めた空白」ではなくて、「100パーセント充実した解脱」だということだった。
 ここで説明されたのは、「悟りとは、地球の回転に乗せられているという認識ではなくて、自分が地球を回しているという自覚だ」ということだった。荒唐無稽のようだが、禅ではそれが当り前なのだ。悟った心は宇宙と同じ大きさになる。だからこそ、あらゆる現実を超えることが出来るのだ。
 その極意が左下に手書きで書いてある。「禅とは、君が石や木(つまり地球)を回転させることなのだよ」と。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

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