志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2005年12月

世界連邦のシナリオ(4)

 加盟各国から世界連邦議会に送られる議員は、国ごとの一括推薦などではなくて、各国内の自由選挙で選ばれなければなりません。そして議員としての活動も、出身国の利益代表よりも、世界市民の立場での活動が期待されます。そうでなければ世界を統合する主権を構成することになりません。前に紹介した世界連邦運動は、各国の市民が、個人として直接に世界連邦に加入する方式を強調しています。理想としては確かにそうなのですが、国家の権力がこれほど強い現状では、あまり現実的ではないと私は思います。それよりも、現在ある国連を土台として、その実績を引き継ぐ形の方が、実現の可能性はずっと大きいと思います。
 国連は、さまざまな有益な活動をしていますが、使っている経費は意外なほど少ないのです。通常予算に平和維持活動予算、社会・経済開発予算を加えても、年間100億ドルを超えません。これは全世界の軍事支出の1パーセント程度に過ぎません。国連の発展的な組織変えであれば、各国の経済的負担も大きな障害にはならない筈です。そして、当初は非常にゆるやかな連邦制をとり、各国に現状とほとんど変らない自治権を認めてもいいのです。ただし基本原則を示した世界連邦憲法に適合するよう、国内法を一定の猶予期間内に整備することが求められます。そして行政府として大統領または首相の下に閣僚が任命され、国連の各機関を担当の閣僚が指揮することになります。これらの基本形さえ整えば、あとは国連の看板を世界連邦に書き換えただけの、安上がりな組織であっても構いません。主権の統合に向けて進むための基本形を作ることが大切なのです。

世界連邦のシナリオ(3)

  世界連邦がどのような形で成り立つにしても、そこでの難問は、意思決定のルールをどのように決めるかということです。各国が大小にかかわらず平等というのは、一種の虚構だと前に述べました。それでは人口に比例させれば平等になるのかというと、これにも問題があります。人口大国の中国やインドが巨大な発言権を持つことになりますから、アメリカを始めとする先進国が納得しそうもありません。それでは各国のGDPに応じて世界連邦政府へ納める分担金を決め、発言権もその金額に比例するようにしたら、先進国は納得しそうですが、中小国からは、金持ち優先だと苦情が出そうです。
 そこで、常識的ですが、基本的権利と、人口の多さと、GDPの大きさと、この3者を調和させる方法を考えてみましょう。試みに世界連邦議会の定数を500名とします。まず加盟国190に各1名を割り振ります。残る310名を2分して各155名とし、一方は人口に比例させて配分し、あとはGDPに比例させて配分すると、アメリカは53名、中国は42名、日本は24名の議員を送ることができます。この構成ならば先進国も人口大国も中小国も、なんとか妥協できるのではないでしょうか。 

世界連邦のシナリオ(2)

 今の国連に対して、アメリカは強い不信感を持っています。その底には、国連の意思決定の方法に対する不満があります。最高決議機関である総会は、1国1票で、人口一万人にも満たない島国とアメリカとが、同じ1票しか行使できません。個人の基本的人権が平等というのなら、まだ話がわかりますが、それを国にまで適用するのは、明らかに虚構の論理です。また、大事なことを決める安全保障理事会では、逆に5大国の悪名高い拒否権があって、これも始末の悪い作用をしています。
 一方、組織的には、国連が調整機関であって行政権を持たないために、独立した各種の機関、安保理、ユネスコ、IMF、WTO、ILOなどが勝手に活動し、それらすべてを調整する過重な仕事を事務総長一人に負わせるという、非常にイビツな組織になっています。全体を見て方針を決める、どこの政府にもいる筈の、大統領も首相もいないのです。
 ですからこの先、効果的な活動を求めるなら、どこの政府にもある立法府、行政府、司法府を備えた組織、つまり世界連邦に組織変えするのが最善の道なのです。問題はそれを、アメリカが納得し、自ら「その気」になるような道筋に乗せて推進することなのです。

世界連邦のシナリオ(1)

 国連は、今の憲章のままでは世界連邦になることはできません。ですから国連の活動を強化して行けば世界連邦が出来ると思うのは幻想です。どこかで主権の統合へと飛躍しなければなりません。ところが、その際に最大の困難は、アメリカをそこに参加させることなのです。アメリカ議会は、ウィルソン大統領が提唱した国際連盟にさえ反対してアメリカを加盟させませんでした。それが国際連盟を力の弱いものにしたのは歴史上の事実です。それほどまでにアメリカという国は独立心が強いのです。
 ところがアメリカという国は懐の深いところがあって、時として理想主義的な使命感に燃え上がることもあるのです。国連を結成するとき、ニューヨークの一等地に敷地を提供したのはロックフェラー・ジュニアでした。アメリカを「その気」にさせれば、大富豪たちは歴史に名を残そうとして、先を争って協力を申し出る可能性さえあるのです。アメリカが参加しない世界連邦では意味がありません。最初はアメリカ主導で、飾り物のような拘束力の弱い組織として出発してもよいのです。民主的な改革のシステムさえ内蔵していれば。

世界連邦が出来るまでのシナリオ

 私の人類百世紀論の基礎になっている世界連邦の建設について、そろそろ説明を始めたいと思います。世界連邦の構想は、じつは国連の結成とほぼ同じ時期に始まっているのです。その理論的な基盤を提供したのは、1945年にアメリカのエメリー・リーブスが出版した「平和の解剖」でした。その骨子は「部族であれ民族であれ、人間集団が無制限の主権を行使するときは常に戦争が発生する。ゆえに戦争をなくす方法は、分裂している人間集団を、より高次の主権のもとに統合することである。」というものでした。世界各国の主権を制限しない限り、世界の平和は実現しないということです。
 1947年に結成された世界連邦運動WFMに応じて、日本でも同年のうちに「世界連邦運動協会」が結成され、この運動は今も継続しています。現在も100名程度の国会議員が超党派で加盟している筈です。しかし残念ながらいまだに現実味のある運動にはなっていません。国連の改革論議の中でも、世界連邦の名が登場しないのです。それは、国連がそもそも「諸国の調和」のための組織であって、世界連邦とは本質的に違う組織として出発したからです。しかし、国連の限界が見えてきた今、国連を世界連邦に衣替えさせるチャンスはあると私は思います。そしてその時期は、アメリカが超大国でいられる今世紀前半のうちに、アメリカをその気にさせれば可能だというのが私の判断です。以下、順に世界連邦建設までのシナリオを説明して行きます。 

地球温暖化は一時的な現象

 最初に怖い話ですが、地球の温暖化は、もう止められません。今すぐ人工的な温暖化ガスの排出をゼロにしても、動き出している温暖化は、今後百年以上継続する筈です。海面が数メートル上昇するのは避けられないでしょう。しかし、絶望することはないのです。
 化石燃料の消費は、掘り尽したらそこで終りです。その時期は遅くても22世紀末には来るでしょう。長い目で見たら、化石燃料の消費は、浪費家の息子が先祖の蓄えを一代で使ってしまったようなものなのです。22世紀の後半からは、否でも応でも太陽・植物系の資源・エネルギーでやりくりするしかなくなります。そして理論的には、化石燃料として消費したと同じ量の二酸化炭素を、森林として固定すれば、もとの地球にもどれるわけです。
 その環境で快適に暮らすには、世界の人口は20億人くらいが良さそうだと思います。化石燃料の大量消費を始める直前の人口と同じで、「世界中の人が今のアメリカ人なみの生活をしてもやっていける地球の定員」とも一致します。核エネルギーの利用は、また改めて論じますが、あまりお奨めではありません。「星のエネルギー」は実験室にとっておいて、地上は太陽エネルギーの中でやって行くのが賢い生き方だろうと思います。

少子化対策の盲点

 山本氏からは、「日本の汚職」についてコメントが寄せられました。不正者に対しても本気で怒らなくなった、ボヤケた日本人になっているという感覚は、私にもあります。よく言えば大人になっている、悪く言えば、ひどく鈍感になっているのです。破綻するまでは目が覚めないというのも、本当にそうなっては大変です。「破れて目覚める」という戦艦大和乗組み士官の悲憤を、また繰り返すのでしょうか。
 女が子供を生むことの大変さについて、妻が本音の話をしてくれました。分娩時の苦痛の激しさが、重大な障害になっていない筈がないと言うのです。自然現象だから当り前、がまんしろなどと男の産科医が言う資格はない、これだけ医学が進んだ現代で、女性の苦痛を取り除くことに本気で取り組まなかったら、若い女性は分娩の苦痛への恐怖心だけで子供を生む気がしなくなるだろう、ということでした。個人差はいろいろあるでしょうが、苦しまずに生めるなら生んでもいいと思う女性が、けっこう多いのかもしれません。もしそうならば、本気で対策を考えるべきです。女性の方たちの本音を聞かせていただきたいと思います。

がんばれ、独身者

 23日「人口減少」の項に「みたけ」さんからコメントをいただきました。結婚もしにくい、子供も持ちにくい時代ですが、子供を持つのは社会のためというのは少し抵抗を感じませんか。好ましい連れ合いといっしょにいたいのも、子供を持ちたいのも、すべて一義的に自分のためです。それが、がんばらなくては出来ないようになったのは、やはり世の中がおかしいからでしょう。
 私の人生経験から、ささやかなヒントをさしあげるとすれば、結婚つまり家庭づくりも子育ても、女性を中心に考えてあげた方がいいのです。
そしてもう一つは、「できるかもしれないと思ったことは、できるうちにしておいた方がよい」ということです。そして最後に、以前に書いた構成詩「時間」の最後の3行をお目にかけます。
  時間ほど厳しく、そしてまた寛容なものはない
  とり返しのつかない過去のあとに
  まだ手つかずの新しい時間が来る

日本の汚職はタチが悪い

 インドネシアの山本氏が記事を寄せてくれました。21日と23日分のコメント欄に入っているのがそれです。今インドネシアでも汚職摘発の世論が動き出しているとのことです。
 日本も負けずに汚職追放に立ち上がりたいところですが、ワイロを受け取るような素朴な汚職以上に、問題なのが合法的に行われる公金の不当な消費です。なにしろ立法権をにぎって都合のよい法律を作ることで政・官・財癒着の利権構造を作るのですから、表向きには犯罪になりません。一部の特権層だけが手厚く守られるシステムが、特別会計という隠れ蓑の中で作られてしまうのです。このような合法の衣を被った実質汚職の方が、はるかに悪質だと言えます。
 かといって快刀乱麻の英雄の登場を待望するのは危険です。小泉劇場の勝利は、そうした傾向への悪乗りに見えます。ここは回り道でも、世論を起こし、政治家を動かすことで改善して行くしかないのです。社会保険庁の解体後にどんな組織が出来るのか、監視しましょう。

ついに始まった人口減少

 日本の人口減少が、予想より一年早く始まったようです。人口の減少そのものは、決して悪いことではありません。余裕をもって生きられる社会への第一歩とすればよいのです。年寄りも、まだ働ける人は、生涯現役のつもりで、元気に世のため人のためになることを探して働きましょう。そして子供たち孫たちが安心して暮らせるように、有形無形の遺産を残してあげたいものです。
 日本の国土に見合う適正な人口はどれくらいなのか、いろいろな考え方があるでしょうが、私の感覚では、およそ今の半分ぐらいが程よいところのように思います。私は高尾山に登って都心方面を見渡したとき、足元まで迫るビル群の姿に戦慄をおぼえました。人間がこれほどまでに地上を独占していいわけがありません。
 日本の国はこれから、そして世界の全体はほぼ50年後から、ようやく長い人口減少の時代に入ります。これから大切になるのは、スクラップ・アンド・ビルドを上手にして行く生活技術です。再生可能な資源とエネルギーの中で文化を維持して行けることがわかったら、その先には百世紀も夢ではない、人類の長い安定期が見えてくるでしょう。
 世界人口が100億人に達する21世紀後半から22世紀、この100年あまりを破綻なく過ごすのが正念場です。そのための準備をする大切な期間が、この21世紀前半なのです。 

新しい税源・その4

 相続税についての意見を述べて、このテーマの一応の終りにしたいと思います。現在の日本の相続税制では、億円の単位の遺産でない限り、相続税は事実上かからない仕組みになっています。これは多分、所得税における累進性緩和、つまり金持ち優遇と同じ思想から出ていると思われます。
 自分の場合で考えてみると、遺産を残してやりたい相手は、せいぜい孫の代まででよかろうというのが実感です。孫の先の世代は、どう考えても私の責任範囲ではありません。つまり、相続税は、2回繰り返したらほぼゼロになる程度でいいのではないでしょうか。3代目から先は、機会均等で生きて行ってほしいものです。先祖の遺産が後々まで残るようでは、それこそ社会の階層化が固定してしまいます。親が賢ければ孫の代ぐらいまでは賢く育つでしょう、それだけでも有利なのですから、あまり欲張らないことです。 

新しい税源・その3

 資本とは、通貨の集積ですが、それはもはや金貨でも紙幣でもなく、コンピューターの中の情報に過ぎません。資本がこの世の中を支配していると言われますが、人間がそんなものを怖がる必要はありません。それは、人間の都合でどのようにも処分できるものなのです。
 このことを前提に置いて、現代の資本の動き方を見てみましょう。典型的な例として、株式投資と為替取引を考えてみます。まず株式投資ですが、有望な企業に資本参加して、企業の成長とともに利益の配当を受けるというのが本来の姿でした。ところが株価の上下だけに人々の関心が集まるようになり、売り買いの差額で利益を得ようとする投機が主役になってしまいました。コンピューターを使っての短期売買の横行は、企業の成長のためという本来の目的からは離れてしまっています。これを健全化するには、本来の投資には決定的な障害にならず、投機的な短期売買を抑制する程度の、公的な取引高税を設定すればよいのです。国の財政に寄与しつつ、経済活動の健全化ができます。
 為替取引も同様です。貿易の決済に必要な額の何倍もの取引が、過剰な資本によって投機的に行われている現状は異常です。これも、通常の貿易には決定的な障害にならず、投機的な短期取引を抑制する程度の公的な手数料を設定することで、健全化することが可能な筈です。これも国際的に協調して行えば効果がある筈で、この面からも世界の政治的な統合が待たれるところです。

新しい税源・その2

 次の税源は、資源の消費に対する課税です。化石燃料をはじめとする各種の地下資源と、水と空気とは、人類共有の財産です。これらの消費に対する課税は、本来は人類共通の世界連邦政府の権限であるべきですが、それが出来るまでの間は、各国政府の責任において行うしかないでしょう。
 とくに21世紀中にも枯渇が確実視されている石油に対しては、今すぐにでも、経済を破綻させない限界一杯までの高率の消費税をかけるべきです。石油製品を高価格にすることで消費を抑制し、代替品の開発を促進することができます。地球の過去の植物たちの光合成の集大成である石油は、燃料として燃やしてしまうには惜しい資源です。なるべく消費を減らして地下に温存し、太陽光発電の普及でエネルギー問題が人類の重大関心事でなくなるまで、待つのが賢明です。
 その他の地下資源についても、基本は同じことです。課税によって採掘量を減らし、代替品の開発を促進すべきです。代替品には植物系の資源の利用を優先する必要があります。植物系や、微生物を含む動物系の資源ならば、どんなに増産しようと、太陽エネルギーの循環に過ぎませんから、地球温暖化とは無関係なのです。
 人類が今後頼るべき資源は、植物系であることを認識すべきです。

新しい税源・その1

 最初はささやかな税源ですが、物品税の復活です。私が子供の頃、トランプ・カードや花札は、かなり高額な商品でした。遊戯用品ということで、高率の物品税がかかっていたからです。箱には納税証が貼ってあり、大人が管理する高級品という感じでした。考えてみればカードは紙にマークを印刷しただけの簡単な製品ですから、もともとそれほど高価な製品だったわけがありません。それが物品税によって、国の財政に貢献するとともに、子供たちにとっては魅力的な製品でありつづけたのでした。
 物品税は戦時経済のために導入された日本独特のものとも言われますが、一般消費税導入のときに廃止されてしまったのは残念なことです。人はいろいろなものをいろいろな動機で買いますが、衣食住を満たす必要不可欠なものと、趣味や遊びのもの、差別化を示したい贅沢品などとの間には、明らかに必要度に差があります。必需品の課税を薄く、負担能力の高い贅沢品への課税を厚くすることは合理的です。さらに、社会政策的に、あまり普及させたくない商品、たとえば排気量の大きい自動車などは、高率な課税で抑制することも可能になります。また、鉄道と航空とで運賃で競合するような場合、大量の燃料を消費し大気を汚染する航空輸送から鉄道へと、やはり税制で乗客を誘導することができます。
 物品税が廃止された理由の一つが、手続きが複雑で徴集が困難ということでしたが、現代のIT技術による電子タグなどで、密造や脱税を防止することは可能でしょう。要は、業界の圧力に屈せずに、機動的に発揮する政治的な実行力の問題です。

個人の課税から資源・資本の課税へ

 国家を維持するには経費が必要で、それは国民から取り立てるというのが伝統的な課税の考え方でした。近代になり、企業が法人となって納税の一部を担うことになりましたが、いまだに多数の国民が納税者となって国の財政を支える構図は変りません。私の主張は、中流までの生活をしている国民の労働所得に対する課税は、そろそろやめてもいいのではないか、ということです。その理由は、現代では、個人の労働よりも、各種の企業活動や資本の移動の方が、より多くの所得を生み出すようになっているからです。
 税制の適正化は、大多数の国民の生活を安定させるとともに、社会の浪費を抑制し、環境維持型の社会を形成して行くのに役立つ筈です。以下、勤労者への減税を当然のこととした上で、それに代わるべき「新しい税源」について、何回かに分けて考えてみたいと思います。
 

インドネシアから山本氏が参加してくれました

 インドネシア在住の山本荘二氏が、12月15日分のコメントを皮切りに参加してくれることになりました。
 彼は長年にわたり林業の分野で東南アジアで活躍したのですが、日本企業の社員としてではなく、現地に溶け込んで、現地と日本との橋渡し役に徹したところがユニークです。インドネシア語を自由にあやつり、むしろ現地人の立場で日本との交渉に当ったようです。多分、インドネシアでの永住権も取得していると思います。
 一度、スラバヤの自宅を訪ねたことがあるのですが、その際、日本の現状に対して非常に強い批判的な意見を持っていることに驚きました。「金をばらまくばかりで、感謝も尊敬もされない日本」を、現地にいてつぶさに見ていたからでしょう。また、「NHKと朝日新聞だけ見ていても、本当のことはわからないよ」とも言われました。彼の意見では、「週刊ポスト」の方がよい情報源になるということです。そう言えば、腐敗摘発の記事などで活躍した例が多いようです。「公式記者会見で記事を書くのと、自分で調べて記事を書くのとの違いだ」という彼の意見には説得力があります。
 彼の目から見たら、「人類百世紀」を論じている私は昼間から夢を見ているヒマ人に見えることでしょう。なにしろ彼は下町生まれの江戸っ子ですから、日本にいる連中は何をボヤボヤしてるんだと、じれったくて仕方がない様子なのです。私一人で受け止めるのはしんどいし、また、もったいないので、「プログでの公開討論にしよう」と提案した次第です。何が始まるか、ご期待ください。もちろん飛び入りも自由です。

パートの時間給は安過ぎる

 今も進行している企業のリストラで、正社員を減らしてパートや派遣に置き換える動きがつづいています。社員に退職への圧力をかけ、パートとして再雇用することで、同じ仕事をさせながら賃金を半減させるような例も珍しくありません。社会保険料の負担もなくなるのですから企業は大助かりです。
 年収が300万円以下だと結婚をしない、400万円以下だと子供を持とうとしないという傾向が、統計で出ているそうですが、多くの人が「下流社会」に落ちてしまったら国の将来はありません。1000円の時給では、年間2000時間働いても、年収は200万円を越えないのです。
 正社員と同じ仕事をさせるなら、パートの時間給は正社員の年収から計算される時間単価と同等であるべきです。むしろ、便利な応援として機動的に利用できるパートの労働力は、正社員よりも高くついて当り前です。こうした原則が守られたときに、はじめて「働き方の多様化」が国民生活の豊かな多様化になるのです。
 具体的には、時間給の法定最低賃金の水準引き上げに着手すべきです。また、形式的な身分の変更だけで賃金を引き下げるような不公正を防ぐよう、適正な雇用ルールを徹底しなければなりません。それらは政治の力でできることです。
 本当に補助的な学生アルバイトなどと、ベテランの知識・技能を要する基幹労働力とが、「時間給」という同じ土俵の上で、市場原理に任せて値段づけされてしまうところに問題があるのです。

社会保険を企業に押し付けるな

 私は小さな教育ビデオ制作会社の経営者でもあるのですが、一人でも社員を雇うというのは負担の重いものです。給与の支払いは当然としても、その他に雇用保険、健康保険、厚生年金への加入を義務づけられ、一切の面倒な事務手続きをするとともに、保険料の半額を負担させられるのです。さらに本人が支払う国税と地方税の徴収までやらされます。これでは、人を雇うということに対して、高率の税金をかけているのと同じことです。社員を増やすよりも、アルバイトかパートで済ませられないかと考えるのは当然です。
 「国民皆保険」を言うのなら、社会保険は速やかに個人対政府の直接の契約にすべきです。IT技術が進歩している現在、その程度の事務管理ができない筈がありません。職場がどのように変ろうとも、勤め先とは無関係に生涯同じ保険で保護される、それでこそ本当の社会保険ではありませんか。公務員は失業しないから雇用保険料を払わないなどの差別もやめるべきです。国民皆保険ならば、税金と保険料の区別をする必要さえなくなります。税制は、なるべく単純明快な方がよいのです。集めた金で身内の福利をはかり、天下り法人を太らせる社会保険庁などは、真っ先に廃止すべきでしょう。
 社会保険の負担から解放されたら、企業は社員を雇うのがずっと楽になります。安定雇用の増加に役立つことは間違いありません。

「下流社会」を読みました

昨日に引き続き、友人に勧められた「下流社会」(三浦展・光文社文庫)を読みました。ちなみにこの友人は、旧制高校尋常科(中学)1年から高校卒業まで、6年間クラスが同じだった親友で、現在はインドネシアのスラバヤに長期に在住しています。海外から日本を見て、日本にいる者以上に、日本の現状を憂えている「憂国の士」です。
 さて、この本は日本で現在進行中の二極化現象を、豊富なデータを用いて分析しています。ただし使っている資料があまり精密でない(サンプル数が少ないなど)うらみがありますが、世代論としても面白く書かれています。中心課題は、かつて一億総中流とまで言われたその中流が崩壊して下流へと没落し、やがて多数の下流と少数の上流が固定した、新しい身分社会になって行くのではないかという警告です。「構造改革」による自由化・民営化そして「がんばった人が報われる」社会の行き着く先がこんなものであっても、国民は従順であり続けるのでしょうか。
 私の考える好ましい社会は、国民の大多数が「当り前のことをしていれば当り前に生きられて、なおかつ上を目指したい人も妨げない社会」です。私はこの考え方で次の著書「人類百世紀のために」を書きました。このブログで順次、その内容をご紹介するつもりです。本は編集中ですから加筆・訂正が可能です。関心のある方の「コメント」への書き込みをお願いいたします。

「破綻国家の内幕」を読みました

古い友人から読むようにと強く勧められていた「破綻国家の内幕」(東京新聞取材班・角川書店刊)を読みました。今の日本の政治と経済が、強大な官僚機構と癒着した政・財の利権構造に牛耳られている現状をレポートしています。許認可や予算配分を握る高級官僚が、続々と新しい特殊法人やファミリー企業群を作り出し、そこへ次々に天下っては公金を消費して行く構図を解き明かしています。その利権構造がそのまま政治家の集票組織になっているのですから、改革が進まない理由もよくわかります。この文脈での著書は、この本の前にも後にもいくつか出ていますし、最近はテレビ番組でも取り上げられるようになりましたが、これはなかなかの労作で一読に値します。
 日本の官僚が、国は滅びても自分の私腹さえ肥えればいいと思っている人たちばかりだとは、私は思いません。しかし、人は弱い存在ですから、そういう状況ではそうなるだろうなとは想像がつきます。この構造を変えるには、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という原則の通り、権力を相対的にする、つまり政権交代がいちばんいいのですが、日本の現状ではその実現が当分は期待できません。せいぜい国民が関心を持って監視し、マスコミ報道などで透明性を高めながら、次の選挙で本当に改革をやってくれそうな政治家を選んで行くしかないでしょう。日本の財政が危機的な状況になっているのもある意味では追い風で、増税の前にやることがあるだろうという圧力は、不公正な利権にメスを入れる動機になります。
 それにしても利権ができるのは、それを許す法的な裏づけがあるからで、結局は立法府を変えるしかないのです。選挙で小泉政権が予想外の大勝をしたのも、「自民党をぶっ壊す」という威勢のよさが期待感をかき立てたからでしょう。しかしながら、壊れない自民党政権の下で根本からの改革をするというのは、所詮は無理な相談です。
 それにしても、それにしても、日本の政治はいつからこんなに変になったのでしょうか。
 いわゆる55年体制とは、昭和30年代の自民党、社会党の2大政党時代のことですが、曲がりなりにも2大政党で、自民党が失政をすれば社会党に政権が行く可能性が少しはありました。しかし社会党は3分の1の壁を破ることができず、批判政党の座に安住する結果となりました。1993年になり、自民党の分裂でようやく非自民の細川内閣が成立したのですが、短命に終ったあとの村山内閣が曲者でした。自民党は社会党を取り込むことで政権に復帰し、社会党は回復不能なまでに信用を失いました。それ以来、期待をもって「革新政党」と呼ばれる政党は、日本から消え去って今に至っているのです。旧民社党と社会党の勢力を含む民主党が、小泉首相から「改革に反対する抵抗勢力」とのレッテルを貼られたのですから、これ以上の皮肉はありません。その間、共産党は一貫して一定の勢力を保っていたにもかかわらず、一度として政権に近づくことなく、有効な働きをしませんでした。
 今はせめて民主党を少しでも大きくして、やがては期待できる「革新政党」になってくれることを、気長に待つしかないのだろうと、私は思っています。それまで日本の国が破綻しないように、少しでも出来るところから直して行く、そのためにこのブログも書きつづけようと思います。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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