志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2006年03月

竹島は韓国にあげよう

新聞によると、教科書に対する文部科学省の検定が、さらに厳しくなったようです。とくに社会科の高校教科書で、政府の見解に一致するよう執拗に書き直しを指示される例が増えたということです。「偏向」されたら困るというのでしょうが、政府見解に忠実でなければ教科書にしないというのなら、戦前の国定教科書と同じことになります。竹島の問題についても、「日本固有の領土」という言葉を使うよう指導されているようです。
 竹島は明治38年に島根県に編入されました。日露戦争が終った年、日韓併合の直前です。当時の状況を考えれば、韓国側に対等な発言権はなかったろうと思われます。中間にある居住に適さない小島ですから、その存在についての記述が、両方の国の歴史の中に残されているのは当然です。今回、ネツト上で田中邦貴氏の詳細な研究を読みました。信頼できる原史料に基づいた、公平な立場での労作です。これによると、日本が早くからこの島の存在を知り、漁業に利用していたこと、それを当時の公権力である藩と幕府が認めていたことがわかります。これを明治38年に領土として編入した際の手続きも、国際法上問題はなかったというのも、その通りでしょう。
 しかしそれでも、私はこの島を韓国のものにするのが、両国のために、よいことだと思います。地理的に韓国に近いということもありますが、この島が、韓国の人たちにとって、日本による植民地支配の象徴と感じられている、その国民感情の強さを思うからです。そのように韓国政府が誘導して政権強化に利用しているという側面は、もちろんあるでしょう。それを割り引いても、日本があえて領有を続けなければならない理由は、乏しいように思います。
 わざわざ領有権放棄を宣言するのに抵抗があるのなら、現状は韓国が多大な労力で実効支配しているのですから、当分忘れていてあげればよいのです。幸いにして、漁業権では領土・領海問題を棚上げして協定が出来ているのですから、誰も困りません。「固有の領土」をふりかざして、韓国への対抗心を若い世代にも植えつけるのは、賢明な教育とは思えません。それよりも、若い人たちには、国境の垣根を低くして行く夢を、引き継いでほしいと思うのです。
 この件については、このブログ3月21日の「日本に植民地はなかった」もごらんください。

BSEはどこまで怖いのか

休日に「吉野家」に行き、牛焼肉定食を食べましたが、かつての牛丼の味ではありませんでした。アメリカ産牛肉の輸入禁止はいつまで続くのか、まだまだ見通しはつきそうもありません。BSEは、どこまで本当に怖いのでしょうか。BSEで死んだ人は、世界でまだ10人も出てはいません。アメリカではアメリカ産牛肉を、今でも毎日食べています。私もアメリカへ旅行したら、当然のように食べるでしょう。その牛肉が、日本に来たとたんに危険な食品になるというのは、常識ではありえません。
 BSEの不気味さは、それが人間に転移したら、クロイツフェルト・ヤコブ病という難病になるらしいということです。脳細胞が犯されて神経性の障害を引き起こし、やがて死に至ります。しかし細菌・ウイルス系の感染ではなく、イギリスで死んだ数名も、プリオン(細胞タンパク異常)の集中する内臓などを食べたからではないかと推定されています。そこで「危険部位」を取り除くという対策が立てられました。BSEにかかった牛でも、肉には影響はないという考え方です。
 日本ではもっと潔癖に、牛の「全頭検査」をすることになりました。検査をしても確実に病牛を発見できる保証はありませんが、安心感はあるでしょう。しかし大量の牛を主食のように食べてきたアメリカでは、もっと大ざっぱでした。怪しい牛は発見次第に処分しよう、危険部位は、なるべく食べないようにしよう、という「合理的」な対策でよしとしました。これは疫学上の問題というよりも、むしろ食文化の違いの問題なのです。だからといって、食べ物にまでアメリカン・スタンダードを受け入れなければならない義理はありません。日本向けの牛は子牛のときから管理して、全頭検査をして貰うなどの対策をすればよいのです。それでは高くついて輸入するメリットがなくなるということなら、やむをえないでしょう。あるいは、アメリカの基準で安全だとされる肉を輸入して、他の「絶対安全な」肉と厳密に区別する方法も考えられます。日本の消費者は拒否反応を示すでしょうか。私は「吉野家」が採用するのなら、平気で食べに行くと思います。現代社会のさまざまな不安、たとえば交通事故に比べたら、ずっと小さな危険だと思うからです。

民主主義の本場でストライキ

民主主義の本場のフランスで、大規模なストライキと大衆デモが起こり、政権が揺れているようです。原因は雇用法の改定で、解雇自由化政策への反発のようですが、一部緩和策でおさまるか、政権の退陣にまで発展するか、予断はできません。さすがに民主主義の本場、という気がします。天下り談合の税金食いつぶしにも増税にも、あまり大きな抗議行動も起きない日本と比べると、少しは薬にならないかな、とも思います。似ているように見える民主主義の政治形態でも、「かちとった民主主義」と「与えられた民主主義」は、やはり違うのだと思わざるをえません。
 選挙で多数をとった政権与党は、次の選挙までは多数決で何をやってもいいと、機械的に決めてしまうのなら、政治はとても簡単になります。どんな悪政でも、自分で選んだのだから我慢しろ、次の選挙でひっくり返せばいい、それなら議会は要りません。野党は絶えず政権党の政策を点検・批判し、自分たちならこうするという対案を提示して次の選挙に備える。与党は次の選挙で負けないために、野党の政策でも、良いものは取り入れる、それが民主的議会政治に期待されている機能です。ところが日本の政治の不幸は、野党の政策機能が弱いことと、与党つまり政権党が決めたことに順応してしまう国民性です。政治は「お上」のやることで、自分たちは関係ないと思っている、その従順さは、戦争に負けても本質的には変りませんでした。
 日本で大衆運動が政治を揺さぶった数少ない例は、昭和22年の共産党主導による2・1ゼネストと、1960年(昭和35)の安保闘争でした。しかしいずれも、政権交代には至りませんでした。フランスの大衆行動が要求しているのは、政策が国民と乖離したと思われる場合は、任期の途中であろうと政権の退陣か解散選挙か、国民の信を問え、ということです。そこにあるのは、議会も政権も、国民の信任がある限りにおいて権限があるので、国民の方が主人公なのだという認識です。民主国家は国民が作っている、日本で最も欠けているのは、この感覚なのです。

民主主義で国家分裂

イラクでの治安が一向に回復しないようで、毎日のように何十人もの人が死んだというニュースが流れてきます。その人数が多いのか少ないのか、平和な国でもそれくらいの人は交通事故や犯罪でも毎日死んでいるだろうと思うと、たいしたことではないようにも思えます。しかし、死者の数のかげには、もっと広範な市民生活の破壊があるだろうと考えると、やはり心が痛みます。
 イラクでは独裁政権が打倒されて、民主的な国家の再建が進められる筈でした。そのための手順として、自由な選挙も3回にわたって行われました。しかし気になるのは、選挙が行われたことで、部族間や宗派間の対立が顕在化してしまったという解説です。誰でも自由に自分の意思を表明できるようになったとき、そこに現れたのは、権利意識に目ざめた人々による抗争だったというのです。
 民主主義は多数の意見によって物事を決める制度ですが、その大切な前提として、自由な討論ということがあります。討論が自由に充分に行われることで、今日の少数意見は明日の多数意見になるかもしれません。その選択の機能があるからこそ、多数の意見が全体に対して権威を持つことができるのです。そこには少なくとも、共通の言語で話し合える基盤がなければなりません。ところが、部族や宗派による区別が固定化しているモザイク状の国家では、少数派は何度選挙をしようと、多数派になれる可能性がありません。討論の場になる筈の議会は、利益代表による抗争の場になってしまうでしょう。少数派は、権利を守るためには分離独立を求めるしかないという方向へ走り出します。ユーゴスラビアは、まさにそのような過程をたどって分裂・抗争の時代に突入したのでした。
 条件の整っていない所では、残念ながら民主主義は平和の万能薬になることができません。しかし、それではどうしたらいいのだと考えても、今の私には答えを出す力がありません。ただ、アメリカの思うようにはならないだろうという見当はつきます。最悪の場合、どれが正統政府かわからなくなり、そこにイランがからむ、ベトナム戦争の再来のようなことになるかもしれません。日本の自衛隊を含めて、撤退のタイミングは、ますます難しくなりそうです。

君が代を何とかしたい(4)

今の君が代を、けっこう好きだという人も、もちろんいるでしょう。スポーツ大会などで、有名歌手が歌う場合もあります。厳粛な感じでいいという感想もあるだろうと思います。しかし、普通の感覚で言う「いい歌」とは、かなり違った印象を与える歌であることも確かでしょう。たとえば、応援の途中で皆がひとりでに口ずさみ、それが広がって元気が出るというような場面は、想像しにくいのではありませんか。式典で畏まって歌う特殊な歌という性格は、変えられないように思います。
 そこで、現在ある曲の中で、五七調の歌詞に合い、日本を代表するのにふさわしい名曲はないかと考えると、音楽関係者の誰もが高く評価する歌が、一つあるのです。それは「海ゆかば」の曲です。これは軍人の葬送歌のようなイメージがありますが、本来は国民歌謡として作られたものです。そして「大君の辺にこそ死なめ」の万葉集の歌詞も、寿ぎ歌の中で、天皇の徳を慕ってつき従うという文脈で、比喩的に歌われています。ですから葬式の歌にしてしまったのは軍部が勝手にしたことで、曲に罪はありません。ただし「海ゆかば」は長歌の一部ですから、短歌よりも五七の1行が多くなっていて、この曲に君が代の歌詞を乗せるときは、最初の1行を足さなければなりません。そこに私は「わが国は千代に八千代に」と入れたいと思います。最初に国を置き、その象徴である天皇の長寿も祝うことになり、国のあるべき姿とも合致します。ぜひ声に出して歌ってみてください。

 わが国は千代に八千代に 君が代は千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで

歌ってみると、歌詞とイントネーションが隅々まで一致して、非常に完成度の高い歌になることがわかります。注文で作曲しても、これほどみごとに合うのは珍しいことです。荘厳かつ、のびやかな前半と、一度低音になってからの最後への盛り上がりも、非の打ちどころがありません。この歌だったら、演奏効果に申し分なく、日本の象徴として世界に誇ることができるでしょう。
 これが私の最後的な提案です。学校でも団体でも、機会あるごとに歌ってみてください。国歌に準じる歌として使えばよいのです。世界には複数の国歌を持つ国も珍しくはありません。第二の国歌は、やがては第一の国歌になるでしょう。

PSEマークに見る骨抜きの極意

中古電気製品のPSEマークをめぐる騒動は、下手な漫才よりも、よほど面白いオチになりました。なんと法律はそのままに、販売は「レンタル」だと思う、検査は「後でする」と思うことで、円満に解決しました。実際は売買自由なのだからよかろうということで、業者も歓迎、行政も大岡裁きをしたつもりで満足なのでしょう。マスコミが話題にすることもこれで終り、やがてみんなの意識から消えて行くのでしょう。
 このブロクの1月16日に「法治主義と放置主義」の題で書きましたが、日本の政治お得意の「解釈改定」が、またもみごとに実行されました。今回は迷惑を受ける人がいないので、誰からも文句を言われる心配もなさそうです。しかし、大は憲法9条から小は税金食いつぶしの「随意契約」まで、自在に骨抜きされる法律とは、日本では何のためにあるのでしょうか。守るつもりはないが、一応こうしたらよいと思うことを書いてある飾り物に過ぎないのでしょうか。
 だから日本はだめなのだと、ここで悲憤慷慨したいところですが、それほど本気で怒る気にもならないのはなぜか、これもまた不思議です。まさかとは思いますが、以心伝心を尊ぶ「国家の品格」に由来するのでしょうか。だとすると、法を生かすのは人、日本では法の運用が人の裁量で決まる幅が広いのだと言い直すと、けっこうな褒め言葉にも聞こえてきます。一方では、「お役所仕事」と呼ばれるように、融通のきかない法令順守も非難されてきました。そう言えば「順法闘争」というのもありました。若い人のために説明すると、旧国鉄の現場などで、規則を厳格に守ることで列車を遅れさせる手法が、争議の戦術として組織的に使われたことがあるのです。
 要するにどんな法律も、運用する人間によって、悪用も善用もされるということです。だからといって、法律がどうでもいいわけではありません。こうしたら世の中がよくなる筈だという目的をもって法律は作られます。その法律を使って世の中を実際によくして行くのは、やはり人間の仕事なのです。ここでもう一度言いますが、日本の憲法第9条は、「当面のつじつま合わせ」のために変えてしまっては、惜しい法律です。

君が代を何とかしたい(3)

現行の君が代は、海軍軍楽隊と宮内省の主導で作られたと言われます。近代国家として諸外国から認められる条件の一つとして、国を代表する歌があるべきだという認識もあったのでしょう。君が代はまず宮中の礼式歌として採用になり、明治13年の天長節(明治天皇の誕生日・11月3日)に初演されました。これとは別に文部省は、明治初期に2度にわたって国歌の制定を試みています。国の音楽教育に責任を持つ立場から、国歌を作るのも所管事項と考えたようです。しかし「国歌の制定は国の大事である」と重々しく構え過ぎて議論ばかりが先行し、適当な具体案がなかなか得られませんでした。外国曲を土台にして君が代の歌詞を一部補強した歌を発表したり、複数の候補曲を作ってまず学校で歌わせてみたりしたものの、自然に普及して国民に支持されるのを待つというのは、無理なことでした。
 その間にも、君が代は宮中で外国使節の送迎などにも使われるようになり、しだいに事実上の国歌として扱われることが多くなりました。ついに明治21年に「大日本礼式」の題で吹奏譜を各条約国に送ることになり、文部省が負けたことは決定的になりました。国内でも、明治26年から小学校の儀式用唱歌として、君が代は文部省によって公布されるに至ったのです。紀元節の歌などに比べても、君が代の一般への普及は遅くなりました。そのかげには、宮内省と文部省の間の、縄張り争いの歴史があったのです。しかしその後も君が代は国歌として制定はされませんでした。天皇への礼式歌を、とりあえず国歌のように扱っておけば異論はなかろうと、いかにも日本的な対処で平成の世まで来てしまいました。近代国家にふさわしい、音楽的にも質の高い国歌を制定しようという意気込みは、いつの間にか忘れ去られてしまったのです。
 この「とりあえず国歌」の君が代を、正式の国歌に格上げしたのが1999年(平成11)の「国旗及び国歌に関する法律」でした。このとき、君が代が本当に日本の国にふさわしい国歌なのか、ちゃんと議論して欲しいという声は、音楽関係者からのものも含めて、全く無視されました。君が代への疑問は、それが国粋主義の象徴として利用されたことに加えて、その制定の過程の不明朗さにもあるのです。

加藤周一氏の「愛国心について」

朝日新聞22日付夕刊に、加藤周一氏のコラム「夕陽妄語」が出ていました。「愛国心について」の題で詩人ハイネのドイツからの亡命に触れています。現代日本の知性を代表する人の発言は、加齢とともに明晰さを増し、私には、一語一語が芸術のように響きます。
 「『愛』は外から強制されないものであり、計画され、訓練され、教育されるものでさえもない。」「『愛』は心の中に『おのずから起こる』私的な情念であり、公権力が介入すべき領域には属さない。愛国心も例外ではない。それを国家が『殊更』に『喚起』しようとするのは、権力の濫用であり、個人の内心の自由の侵害であり、『愛』の概念の便宜主義的で軽薄な理解にすぎないだろう。」「祖国への愛は情念である。自己批判は理性の働きである。理性的に統御されない情念は、しばしば自己陶酔を推し進めて、どこまで行くかわからない。愛国心は容易に排他的なナショナリズムになるだろう。その結果がどうなり得るかは、われわれのよく知るとおりである。」
 「もし愛国心がなければ誰もその国の未来を心配しないだろうし、その国の未来に関心がなければ、個人的な損失をしのんでも……わざわざ国の現状と過去を検討して直言をしないだろう。ハイネの祖国愛と祖国批判との間には、もちろん、緊張があったにちがいない。しかし、矛盾はなかった。両者は同じ源から発し、同じ目標へ向かう。理性は情念を統御し、情念は理性の働きを支える。もし路傍の花を愛すれば、その花を踏みにじる暴力に抵抗するのは……当然であろう。」
 大学1年のときに先輩の由良君美氏のすすめで加藤氏の著作を読みはじめ、それ以来、私が目標とする人になりました。今また「理性は情念を統御し、情念は理性の働きを支える」の言葉に出会い、自分の近頃の日常がどうであるのか、深く省みるものがあります。

君が代を何とかしたい(2)

和歌一首で歌を作曲すると、当然短い歌になります。一拍一秒の自然なテンポとして、現行の君が代は45秒足らずです。しかしイギリス国歌の God save the King は約40秒ですし、短くて不都合ということはありません。30秒以上あれば、国旗掲揚にも困らないでしょう。現行の君が代を作曲した林広守は、歌が短くなることを恐れて、過剰に荘重にしようとし、結果として歌詞の無理な引き伸ばしをしてしまったのではないかと私は想像しています。この考え方は、国旗・国歌制定法の審議のとき、参考人として呼ばれた作曲家の故・中田喜直氏も、辻元清美議員の質問に対して答えています。無理に引き伸ばしても、その効果は5秒程度なのですから、上手な作曲とは言えないのです。
 曲がこのようになったのは、当初は宮中での演奏を主な目的として、国民みんなが歌うことは想定していなかったという事情にもよるのでしょう。奏楽を中心に考えれば、それなりに使用目的に適合しているとも言えるのです。ただし、この曲を生かす前提で国歌にするのなら、私としては、歌詞の方を少し修正したくなります。次の歌詞で、ぜひ声に出して歌ってみてください。

 日の本の国 ときわに栄えよ さざれ石の いわおとなりて 山にそびゆるまでも

かなで6文字分を足すと、無理な引き伸ばしが解消して、ずっと歌いやすくなります。日本の国全体の長久を願う趣旨での歌詞の補作です。もし国が採用してくださるなら、私は喜んで著作権を国に寄付しますが、どうでしょうか。これが「何とかしたい」提案の第1案です。

君が代を何とかしたい(1)

卒業式の季節になると、公立学校で全員起立の国歌斉唱をさせることが問題になります。起立して歌わせることが、統制に従わせることの踏み絵として使われるのですから、いま私が学校にいたら、生徒であっても教師であっても校長であっても、気の重いことでしょう。その統制の問題をちょっと離れて、今日から何回か、君が代が本当に将来に伝える国歌として、高く評価できるかどうかを考えてみたいと思います。そのことがまた、強制することの是非の問題に返ってくるだろうと思います。
 君が代をどう評価するか、まずは歌としてよい歌かどうかという問題があります。次に、国歌とするのに適しているかどうかという性格の問題があり、これには制定にいたる経緯をも含みます。
 まず、歌詞は読み人知らずの古歌に基づいており、定型短歌の一首です。ただし第3句の「さざれいしの」は1字あまりになっています。歌の意味は、小さな石も長い時間をかけて成長し巨岩になる、そのように君が代はつづくという寿ぎです。すべてのものに生命が宿ると考えた古代人の自然観を反映しているのでしょうが、それにしても石が成長するとは奇抜な発想で、その奇抜さゆえに珍重されたのでしょう。祝い歌として古くから使われていたようです。ところで「君」は自分にとって大切な人の意味だから、天皇に限定されないという説もあります。しかし、その場の権力者つまり天皇に捧げられた歌と考えるのが自然でしょう。つまり歌詞はひたすらに天皇の長寿を願っているのです。
 歌詞はそれなりに筋は通っているとして、問題が多いのはメロディーのつけ方です。作曲者は宮内省雅楽課の伶人長、林広守。伝統的雅楽ではなく、洋楽器でも演奏できるよう考えたのでしょうが、和歌一首を歌う歌としては、無理やり音を引き伸ばしている個所が多過ぎます。子供たちが「きみがわよおわ」と覚えるのも無理ありません。盛り上げたい大事なエンディングも、「こけのむうすうまああで」となり、最高音が「むうすう」と、声を響かせるのに不向きな「う」音になってしまいました。和歌一首を歌詞とした作曲はいくつもありますが、「白鳥は悲しからずや」でも「平城山」でも「御民われ」でも、君が代の歌詞を当てて歌ってみると、どれでも現行の君が代よりは、ずっと気持よく歌える歌になります。とくに「御民われ」は、そのまま国歌にしてもいいと思えるほどです。

日本に植民地はなかった

相も変らぬ靖国問題の蒸し返しなどを新聞で目にするたびに、日本における歴史認識の盲点を思わずにはいられません。日本は台湾や朝鮮を植民地として支配したと思っている人が多いのではないでしょうか。しかし事実は違います。当時の日本の政治家も新聞の論調も、台湾や朝鮮を植民地にするなどとは一度も言っていない筈です。正解は、「日本は台湾も朝鮮も、日本の領土にして、そこにいる人たちを日本人にしようとした」です。そこが、ヨーロッパ諸国による植民地支配と根本的に違うのです。
 日本の一部にしようとしたからこそ、経済的利益をあげさえすればよいとは思わずに、都市の近代化や農業の改善、衛生思想の向上、教育の普及などにも力を入れました。日本統治の時代に、良いこともしたと言う人たちは、その面を見ているのです。しかし目的は現地を日本にすることですから、人々の宗教や教育にまで立ち入ることになりました。そこにあったのは、日本民族は天皇を戴くすぐれた血統なのだから、日本人の仲間に入れてやることは恩恵なのだという思い上がりです。これが日本民族を世界の頂点に置く国粋主義の世界観であり、台湾、朝鮮における皇民化教育つまり天皇の臣民であることを自覚させる教育の根拠であったのです。さらに朝鮮に対しては、朝鮮族は中国人と違って、本来日本人と同根(同じ源流から出ている)とする宣伝が行われました。
 しかしこれらは、かなり建前の部分です。実際には日本人の利益のために現地の人たちが差別され搾取される植民地でもあったことは、厳然たる事実です。ですから、単純な植民地支配の上に、皇民化という民族の誇りを奪う支配が重なっていたのが、日本による統治の時代だったのです。この二重の支配がどういうものだったか、それを受けた側の心の痛みを、私たちはどこまで理解できるでしょうか。
 天皇のために戦って死んだ人だけに神格を与えて祭っている神社を、あたかも墓参りのような無邪気さで拝みに行くことの意味を、よく考えてみてください。

風かおる五月

青春の思い出話に、もう1回だけつきあってください。ゼミの試験以後、目からうろこが落ちるとは、こういうことかと思いました。素直に見る、聞くでいいのだと思ったとたんに、周囲のすべてが違って見えてきました。ブライス師が、折りにふれて now and here(今とここ)を大事にしろと説いていたことの意味もわかってきました。5月のある日、開け放した教室の窓からは、気持のよい風が吹き抜けていました。窓の外の木々は、あざやかな緑で、野鳥の鋭い鳴き声が時々響いていました。ブライス先生は「自然が教えてくれるね」と日本語でつぶやき、しばらく沈黙しました。私の斜め前の席には、好意を感じ始めていた女性が座っていました。好きな人の傍で、好きな先生の講義を聞いている自分に、私は満足していました。そのとき、ノートの端に、すらすらと一句が出来ました。「風かおる五月に君の傍にあり」。
 ちょっといいなと思ったとき、ここでは「自然と同化する」「自分を捨てる」ということが出来ているのに気がつきました。その人の近くにいる嬉しさだけが句になって、自分が消えていると思ったのです。持て余していた自意識から抜け出した解放感でもありました。それはまた、私が心の中の虚像ではなく、生身の人を愛していることを自覚した、最初の日にもなりました。

現世への生還

素朴で単純なリズムで書かれた、わずか8行の英詩があります。ワーズワースの「ルーシー詩編」の一つである A slumber did my spirit seal. です。
 
A slumber did my spirit seal.     夢の中に私の心は閉ざされ
I had no human fears.         人間のもつ不安を忘れていた
She seemed a thing that couldn't feel, 彼女はこの世の時の流れに
The touch of earthly years.      かかわりあろうとも見えなかった

No motion has she now, nor force,   今 彼女はつめたく静かに横たわる
She neither hears nor sees,       耳も目も もう二度と開かず
Rolled round in earth's diurnal course, 地球の回転に乗って運ばれて行く
With stones and rocks and trees.    木立や岩や土といっしょになって

大学3年のブライス師のゼミで、この作品で述べられている生死観を論ぜよ、というテストがありました。第1連は夢の中の世界である。そこでは時間が止まり、一瞬が永遠のように感じられる。しかし第2連では恋人の死という現実に直面している。したがってこの詩のもっとも重要な部分は、第1連と2連との間にある、というような答えを私は書きました。しかし簡単過ぎるし、時間も余っていたので、要するに死ぬとは、見ること聞くことを止めてしまうことだと、悟ったようなことをつけ加えました。その答案を読み返していたとき、私はあることに気づいて愕然としました。古い高校生の観念論にしがみついて、現実世界から学ぼうとしないでいた間の自分は、生きていないのと同じではなかったかと気がついたのです。世の中がくだらないのではない、自分の方が背を向けていたに過ぎないのではないか。この単純な真実に目ざめるまでに、私は2年以上の時間を必要としたのでした。

ああ玉杯に花うけて

高校3年の私の精神世界を支えていた大きな支柱の一つは、強烈な懐古趣味でした。旧制高校は、青年期特有の哲学的雰囲気を持っていたもので、私の在籍した武蔵高校は、私立の中では最古参で、公立高校と類似する伝統があったようです。ただし学制改革で3年前から新制高校となり、過去の伝説と栄光は、余韻を残すだけになっていました。旧制高校の雰囲気は、好んで歌われた歌にもよく表れています。沈鬱なメロディーと美文調の歌詞を特徴とし、私が一時かかわった蹴球部で歌われた「逍遥歌」も、およそ運動部の歌とは思えない葬式のようなメロディーでした。その典型として、一般にも知られている一高寮歌を紹介しておきます。強い独善的な意識構造が読み取れるでしょう。
1.ああ玉杯に花うけて 緑酒に月の影宿し
  治安の夢にふけりたる 栄華のちまた低く見て
  向うが岡にそそり立つ 五寮の健児意気高し
2.芙蓉の雪の精をとり 吉野の花の華をうばい
  清き心のますらおが 剣と筆とを取り持ちて
  ひとたび起たば何事か 人生の偉業成らざらん
3.濁れる海に漂える わが国民(くにたみ)を救わんと
  逆巻く波をかきわけて 自治の大船勇ましく
  尚武の風を帆にはらみ 船出せしより十二年
4.花咲き花はうつろいて 露おき露の干るがごと
  星霜うつり人は去り 舵とる舟師(かこ)は変るとも
  わが乗る船はとこしえに 理想の自治に進むなり
5.行く手を拒む者あらば 斬りて捨つるに何かある
  破邪の剣を抜き持ちて 舳(へさき)に立ちてわれ呼べば
  魑魅魍魎(ちみもうりょう)も影ひそめ 金波銀波の海静か

18歳最高説の検証(その2)

18歳の自分は何を考えていたのか、だいたいのことは、もちろん今でも覚えています。「何のために生きるのか」がわからなくなったのです。それは小学生時代から考えはじめたことでしたが、高校3年になって、これは大人になってもわかりそうもないということが見えてきたのです。そうすると、これから先の人生は、問題を先送りするか雑事にかまけて忘れて行くか、いずれにしても、堕落への道のように思えてきます。それは本当の人間の生活というものを知らないから言えることなのですが、当時の心境としては、社会生活というものを知らない今のうちだからこそ自分は純粋なのだという、逆転の発想だから始末の悪いことになります。現実から遊離した観念論、出口のない循環論、自分のことしか考えない自己愛、その他どんなに悪口を並べられようと、すべて自分の純粋さを保障する名誉ある証明としか考えなくなってしまうのですから。
 石川啄木の歌に「『なにゆえに死ぬるや』『なにゆえに生くるや』『よせよせ問答』」と、自問自答を歌にしたものがありますが、「なぜ生きるか」が出てくると、トランプのジョーカーのように、他のすべてが凍結してしまいます。明日の試験も、家族の顔色も、「なぜ生きるか」に比べたら、とるに足りない小さなことです。この時期、私はほとんど本さえも読まなくなっていたような気がします。ただひたすらに同じことを考えつづけ、それを文字にして日記に書いていたに違いありません。青年らしい、鋭く光るものが書かれているかとも思うのですが、大半は精神病寸前の繰言の羅列だったような気がします。そこから何を読み取って総括するか、人の役に立つものを拾い出せるか。私の3冊目のテーマです。

オーストラリアの世界地図

ちょっと休憩して軽い話題にします。先日「春の宵に上弦の月」にパパボンさんからいただいたコメントに、オーストラリアの学校の地図は南極が上になっているというのは本当だろうかとありました。大学同期で、シドニーにセカンドハウスを持ち、冬はそちらで過ごすという優雅な人がいるのを思い出して、久しぶりの電話をかけてみました。その人の話では、町中の案内地図でも新聞でも図書でも、南極が上なんていうことはない、学校でそんなものを使っている筈がないということでした。ただし、観光おみやげ屋さんでは、南極を上にした地図や、それを取り入れたグッズを売っているということです。つまりオーストラリアは南半球だから、なんでも反対だろうという面白話と、それに乗っかった観光商売の産物のようです。
 ちなみに、南極を中心にした地図はどうなっているのかと思って手近な地図帳を見たところ、経度ゼロを上にするものが多いようです。南極半島が左上に突き出しているのがその形です。ただし私たちには東経140度あたりが上になっていると、ふだん見ている地図とのつながりがわかりやすいのですが、そういう地図は見当りません。学校用地図では帝国書院は東経90度、二宮書店は西経90度が上と、まちまちですから、規制の好きな文部科学省も決めてはいないのでしょう。もし決めてしまうと、教育ママたちが「南極の形はこれが正しい」などと言い出すでしょうから迷惑です。

18歳最高説を検証する

昭和26年の4月10日の朝7時30分ごろ、高校3年の最初の登校日で駒込駅東口に向かっていた私は、線路の反対側から来る女学生と偶然に目が合いました。「ちょっとシャンだな」と思った第一印象が、ずっと後まで残りました。同じ西武線江古田駅まで通う、元都立第十高女、学制改革で2年前から男女共学になった豊島高校の生徒でした。夜になってから日記にも書き、日ならずして、恋に落ちたことを自覚しました。
 私が昨年「おじいちゃんの書き置き」を書いたとき、古い日記帳が、かなり役に立ったのですが、高校3年の分は読む気になれませんでした。多いときは自由式の日記帳を1カ月で使い終るほど大量に書いていました。家人が受験勉強をしていると安心していたであろう時間に、私の関心は全く別なところにありました。その独善的精神世界に再び踏み込むのは勇気が要ります。私が一冊書いただけでは終れないと思った理由の一つが、これです。
 恋が高校3年生の最大の関心事になったのは当然ですが、それはあくまでも純粋でなければならないのでした。純粋とは、具体的には、こういうことです。その女生徒にまた会いたければ、少し早く行って駅で待っていればいいのです。しかしそれをしたら純粋性が損なわれる、あくまでも偶然に、運命的に出会わなければならないのでした。そしてその自分への縛りを私は律儀に実行し、それがこの上なく価値あることのように思い込んだのです。私が恋の話を最初に持ってきたのは、これが当時私が抱いた思想のすべてに共通する、空中楼閣の一つであったことが、今ならわかるからです。頭の中だけで考える、あくまでも純粋に考える、それだけを繰り返していたら、18歳の頭脳は人生最高の境地にまで達した。そんなことが本当にあったのでしょうか。その人を思いつめ、心をつくして最高の境地まで愛した。相手の名前さえも知らないで。そんなことが本当にあったのでしょうか。本当のことを知るのは、今でも私は怖いのです。

自殺と言わないで

「自殺」というのは、私のきらいな言葉の一つです。殺すという字が入ると、他人の生命を奪う犯罪のような響きがあります。おだやかに自分の生命を閉じようとするのは、「自発死」と呼ぶのがふさわしいと思っています。社会の福祉化がどれほど進歩しようと、極限の老齢になってから死ぬ人が大半を占めるようになった社会では、いずれ自発死が避けて通れない問題になると私は思っています。
 私には小学校高学年あたりの少年時代から、一貫して自発死へのあこがれがありました。自分の好きな時に、一切の生きるわずらわしさを断ち切れるというところに魅力を感じていたようです。それに加えて、人生の最高地点で自発死すれば、もっとも完全に近い人生になると考えたのが高校3年生のときでした。実行しなかったのは、適当と思える具体的な方法がなかったからでした。楽に眠れてそのまま覚めない薬物でも手に入れていたら、危なかったかもしません。
 今でも私は「死にたい」と思いつめている人がいたら、夜を徹してでも傍にいて、話を聞いてみたいと思います。お説教で思いとどまらせようとするのではなく、ただただ話を聞いてみたいと思います。生きていても仕方ないと思うわけを話し尽くしたら、たぶんその人は死なないでしょう。もしも私が逆に説得されたら、いっしょに死んであげることになります。どうしてそんなふうに思うのか。ここでは私は結論を出しません。
 人生に「どうしようもない」場面というものは、あるものです。そんな「どうしようもない」人に出会ったときにキリストはどうしたか、恩師のRHブライス教授の「禅と英文学」だったかに、答えになる聖書の個所が書いてありました。そこにあったのは、わずかに2語でした。Jesus wept. 主は泣き給えり。どうしようもない時に、人は泣くことができる。他に何ができるでしょう。
 人は死ぬことができるから人間です。死ぬことのできない人生こそ、地獄ではありませんか。

社会的入院は解消できるか

今日は「介護の社会化を進める1万人市民委員会」主催の「社会的入院の解消と新しい介護サービスを求めて……医療・介護の将来像と医療病床の行方」というシンポジウムの記録撮影に行ってきました。内容のある、興味深い話が聞けました。
 「社会的入院」とは、本来の医療・治療の目的というよりも、老人介護の一形態として長期間の入院が行われることを指します。これに使われている病床の数は、全国で40万近いと言われます。これを、医療の必要度の高い患者に絞って、必要度の低い入院者は、介護施設や居住系のサービスに転換して行くというのが、今の国会で論議されている「医療制度改革関連法案」なのです。病院を養老施設のように使うのは確かに筋違いで、ベッドを空けて本来の医療に専念できるようにすべきだというのは、正論です。問題は、病院を出る要介護者を、どのような受け皿に導くかということです。
 老人は、というよりも、人はすべて一般に、なるべく長く自分の住みなれた環境にいたいと望むものです。それが無理になったとき、一足とびに病院に入るしかなかったのが今までの状況でした。しかしそれは、訪問看護が充実すれば自宅でも生活できるかもしれないし、あるいは近所にグループホームがあれば、自宅にいるのと近い環境で暮らせるようになります。そしてそれが老人のために幸せであるのはもちろん、トータルで社会的負担を軽減することにもつながる筈です。
 パネリストとして登場した先進的な実践者の人たちの話は、同感し、心強く思えるものが多くありました。私も、自分の老後を誰に託すか、そして、どのような死に方をしたら自分で満足と思えるか、また、人に迷惑をかけなくて済むかを考えさせられました。人間としての誇りが守られ、できれば苦痛の少ない死に方をしたいものです。「楽に死にたかったら、長生きしなさいよ」と教えてくれた医者がいました。とりあえずは、それを目標に生きることにしましょう。

ナルセペダルで踏み違え事故防止

昨日のアクセル踏み違えについて、安全対策のペダルを開発した会社があるのを発見しました。ナルセペダルという商品名で、白山商事(株)が扱っています。改造装着を前提としたもので、右足だけを使うのですが、アクセルはレバーは右に押し、ブレーキは下へ踏み込むことで、2つの動作を分離しているのが特徴です。足を移動せずにブレーキをかけられますから、空走距離を短くする効果もあるとのことです。開発されたのは2002年頃ですが、まだあまりメジャーな製品になっていないようなのは残念です。この開発に際しての調査で、AT車でペダル踏み違えのミスを経験した人が3割以上いたというのですから、やはり大きな問題ではあるのです。
 一度普及してしまった標準仕様を変えるというのは、なかなか出来ないものです。踏み違え事故対策も、たとえば公式行事の最中に世界の首脳が何人も犠牲になるような大事件でも起こらない限りは、根本的な見直しは難しいでしょう。同じような例はいくらもあります。この文を打っているキーボードの文字配列は、初期のタイプライターのものをそのまま引き継いでいます。左手とくに小指の負担が重過ぎるなど、昔から何度も問題にされ、改良案が発表されて、実用機も製造されました。しかしついに主流は変らずに今に至っています。1年12カ月の中で2月だけが短い不合理も直すことができません。すべて10進法ならば便利だと思うのに、時間の数え方は60と12のまぜこぜになっているのは何故か、いくら論じても、今さらどうにもなりません。
 これらの現象は、不合理というよりも、人間の文化の一部なのでしょう。文化は合理性で規制することはできないということでしょうか。しかし、危険な習慣を放置してよいということにはなりません。戦争は人間の文化だから、止めさせようとしても無駄だというのと同じことになります。私は、かなりの自然主義者ですが、それでも、すべてが「あるがまま」でいいとは思いません。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
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