志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2006年08月

東京オリンピックは歓迎されるか

2016年の夏季オリンピックを招致する都市として、東京と福岡が競り合った結果、東京が選ばれたと、昨日のニュースになっていました。東京が当選したとはいっても国内だけの話で、3年後に世界の各国から出される候補の都市と競争になるのですから、本当に東京で開催する可能性は高いとは言えません。それでも石原知事は「よかった、よかった」と、はしゃいでいました。
 前回の東京オリンピックは1964年ですから、もう42年も前のことになります。私たちには、つい先日のことのようですが、考えてみれば、前回のオリンピックを知らない世代の方が、むしろ多数になっているわけです。オリンピックが東京に来るかもしれないというのは、華やかな「すごい」ことに感じられるのかもしれません。しかし私は何となくオリンピックは東京に来てほしくない気がするのです。
 前回の東京オリンピック直前のあわただしさを、私はよく覚えています。日本全体が熱に浮かされたように、破壊と建設に明け暮れていました。破壊と建設は建造物だけではありません。人間の暮らしそのものが激変しました。一昨日のブログに書いた「われら10代・ふるさと」の放送が、まさに同じ年です。このとき農村から出稼ぎに来ていた若者が、土木の厳しい現場の仕事にもかかわらず、「東京の仕事の方が田舎よりも3倍楽で、3倍儲かる」と語ったのを覚えています。東海道新幹線も、この年から走り始めました。高度成長の最初の高い波が、東京オリンピックであったのです。
 次の東京オリンピックは、東京に何をもたらすでしょうか。経済成長の再来と結びつけるのは無理でしょう。破壊と建設は、もうたくさんだという気がします。次回東京オリンピックに活路があるとすれば、一部で言われているように、「省エネ・オリンピック」に徹することでしょう。新しい建造物を最小限度にし、種目の肥大化にも歯止めをかけて「スリム化・オリンピック」の先例になれるのなら、国際的な「お祭り」の一つとして、許せるかもしれません。マスコミと商業主義の支配を排して、国際親善に役立つ素朴な「競技大会」にもどしたいと思うのは、私が年をとったからでしょうか。

「一十百千万」の元気術

これは若い根っこの会、加藤日出男会長の、77歳誕生日パーティーの挨拶で聞いた話の受け売りです。会長自身が誰かから聞いた話かもしれません。「一」は、1日に1回、自分を褒めよう。「十」は、1日に10回、声を出して笑おう。「百」は、1日に100回、深呼吸をしよう。「千」は、1日に1000字を書こう。「万」は、1日に10000歩あるこう、です。
 1日に1回でなくても、自分を褒めるのは大事なことです。でも、他人はあまり褒めてくれませんから、自分で褒めなくてはなりません。私の場合は、ひまな時間があると自分のブログを読み直します。少しでも気になる部分があれば手直ししながら、それを書いたときの気分を思い出していると、気持が落ち着きます。過去の自分と対面するのですから気心が知れているのは当然で、要するに自分の足元を確かめることになります。1日に10回笑うのは、今の私には一番難しい項目です。円滑なコミュニケーションの成り立つ相手がいないと、声を出して笑うのは難しいことで、一人でゲラゲラ笑うわけにもいきません。私は落語とか、テレビの「笑点」なども好きですが、テレビを相手に笑うのは、ちょっとさびしい気がします。やはり妻が横にいてくれると安心です。その他は本を読んでいて面白い記述に出会ったとき、これは「会心の笑み」になります。1日に100回の深呼吸。やればいいことはわかりますが、毎日実行の難しさもわかります。毎晩寝る前にやっている「腰痛体操」の後に、10回の深呼吸を加えることにしましょう。
 1日に1000字を書くとは、手書きのことでしょうが、写経でも何でも、効果は抜群でしょう。しかし今の私はワープロを使わずに1000字は書けません。このブログが、毎日ほぼ1000字です。一つのことを考えて起承転結するのに、適度の長さのように感じています。できればもう少し短く800字程度にして、標準的パソコンの1画面におさまるようにしたいのですが、どうも少し長めになる傾向があります。いずれにしても、ブログは私の精神衛生に大いに役立っています。最後の1日に1万歩は、仕事で出歩いていた時期には、ほぽ達成できていました。最近は外出が減ったので、気をつけないといけません。歩き回る時間が1時間もあればいいので、休日などに埋め合わせを心がけています。
 「何でもいいから、自分でいいと思える健康法を一つ持て」と、ずいぶん昔に父から言われました。

ナマ放送時代のテレビ番組

一昨日の若い根っこの会・加藤日出男氏の記事に関連して、元アナウンサーの神埼滋子さん(今の姓は小山)と連絡がとれました。「私もあの頃のスクリプトをとっておけばよかった」とメールにありました。そこで倉庫を探したところ、当時の放送台本が出てきました。昭和39年11月22日放送「われら10代第138集・ふるさと」午後7時から30分間の教育テレビ番組、構成者は井上ひさし氏でした。
 改めて驚いたのは出演者の多さです。若い根っこの会を中心に10代の若者約20名、歌手の葵ひろ子と井沢八郎、女声合唱のボーチェ・アンジェリカ約10名、それにゲストとして労働省婦人少年局長の谷野せつ、中小企業勤労者福祉委員の大曽根村治、「かあさんのうた」作曲者の窪田聡を招いています。これだけの人数をスタジオに入れての収録でした。当時のVTRは、事後編集のできない「時間差ナマ放送」でした。構成表によると、詩の朗読と「ふるさと」の合唱から始まり、10代のトーク1回目として「ふるさとはなつかしい」をテーマに2分40秒が入ります。次に井沢八郎の「ああ上野駅」と葵ひろ子の「先生さよなら」を聞き、10代トーク2回目は谷野氏をまじえて「都会へ働きに来ての問題点」など6分10秒となります。そのあと「母の言葉」という詩の朗読からドイツ民謡の「わかれ」の合唱を聞き、3人の若者に故郷からの「声のお便り」を聞いてもらいました。それをふまえて10代トーク3回目は大曽根氏のリードで「故郷のはげましにこたえよう」4分30秒となります。そして最後は窪田氏のアコーディオンに乗せて、出演者全員による「かあさんのうた」の大合唱で終りました。
 台本の終りの方には、残り時間が細かく記入してあります。すべてを規定の時間内に収めることに、全精力の8割ぐらいは使っていた実感があります。10代のトークの時間は合計で13分20秒ありますが、その中でゲストの紹介をし、ゲストの話と10代の話がかみ合うように引き出さなければなりません。司会を担当していた岡部達昭、神崎滋子の両アナウンサーの負担も、ずいぶん重かったろうと思います。そしていま改めて台本を読み直して、よくもこんなに窮屈な枠の中で仕事をしていたものだと思います。今だったら少なくとも1時間は使って、中身のある話し合いを中心に構成するでしょう。しかし当時は、こういう台本を用意しないと番組提案にならなかったのです。そういう綱渡り名人芸時代の産物ですが、この番組は私にとって、苦い思いを伴わずに思い出せる、数少ない番組の一つになっています。

大学の文学部は何のため

今日の朝日新聞夕刊の文化面にあった「文学部の解体」という鹿島徹氏のコラムを読んで、自分が大学生だった当時のことを思い出しました。すべり止めで入ってしまった文学部に身を置いて、私には、文学部とは何を目的として勉強をする場であるのかが、さっぱりわかりませんでした。英文科であれば英語関係の科目が多いのは当然としても、英語の読み書きに熟達するのが目的の語学学校ではないし、本人にもその気はありません。作家・文筆業に進むのに役立つかというと、それにしては無駄な科目が多過ぎます。「文学部とは、何をするところですか」と、話のわかる先輩に尋ねてみたら、「無用の用をする所だ」と、悟ったような答えが返ってきました。しかし多数を占めていた女子学生からは、そんな悩みを聞くことは、ほとんどありませんでした。4年制の大学英文科卒業の資格は、当時としてはやや高級な花嫁修業として、親の期待と本人の意識も一致しているように見えました。
 大学の英文科とは何であったのか、今になっても私にはよくわかりません。確信をもって言えるのは、その4年間で私が英語の専門家にも、英文学の専門家にもならなかったという事実だけです。全く無駄な時間を過ごしていると、2年生を終るまでは本気でそう思っていました。しかし3年生からの2年間で、私は生涯にわたる私の価値観を育ててくれた、何人かの先生に出会いました。そして、並みの人よりは少しだけ深く考えられる人になったような気がして、卒業しました。私はまさに「無用の用」をきわめたことになるのかもしれません。
 今日の鹿島氏のコラムの主旨は、文学部がジャーナリズムやコンテンツ産業への人材供給を目的とする「表現・芸術系」と、これまた実用価値の高い「社会・心理学系」を重視する方向へ再編成されつつある。しかし従来の文学部の柱だった哲学・文学・史学の分野は、役に立たない学問として隅に追いやっていいものだろうか。それは「現下の新自由主義的構造改革の象徴」ではないのか、という問題提起です。理科の分野でも、実用・応用重視、基礎研究軽視の傾向が出てきていると言われます。学校=schoolの語源は「暇(ひま)」から出ています。金儲けとは縁のない「無用の用」が人間の文化の根底にはある。それが人間の生の可能性を示してきたと、鹿島氏は主張している。私はそのように理解しました。

若い根っこの会と加藤日出男会長

「若い根っこの会」会長、加藤日出男氏の77歳の誕生日を祝う会があり、川越の「根っこの家」に行ってきました。根っこの会は1953年(昭和28)の発足ですから、今年で53周年になります。さらに「生涯青春クラブ」の活動も10周年になりました。洋上大学の運航も、すでに38回を重ねています。これらすべての活動の中心人物が加藤日出男氏です。
 私もNHKで「われら10代」を担当していたとき、番組に出演する若者たちを、根っこの会から紹介していただいたことが何度かあります。当時は昭和30年代の終りでしたから、農村から中卒で東京へ働きに来た若者が大勢いました。孤独になりがちなその人たちの支え合いの場として、「若い根っこの会」は大きな役割を果たしていたのです。「ふるさと」というテーマのとき、故郷の親たちのメッセージを録音しておいて、ぶっつけ本番で若者たちに聞かせたところ、出演者をはじめ担当の神埼滋子アナまでが涙声になってしまったのを覚えています。
 50年あまりを経て、加藤会長は相変わらず多忙のようです。かつての会員は中高年の年齢となり、会長自身を含めて、生涯にわたる生きがいが重要なテーマになってきました。洋上大学も、中高年のリフレッシュと、多世代間の交流の場として活路を見出しているようです。これらイベントも雑誌「友情」の掲載記事も、依然として加藤会長の独り舞台です。睡眠時間は1日に45分と本人が言うのですから「みの・もんた」も顔負けです。そのエネルギーは怪物のようと言うしかありません。どうしてそんなことが可能なのか、ご本人の説明は次の通りです。
 「もう死ぬぞ、と思って寝るんです。私はいつ死んでも悔いは残らないと思っている。目ざましが鳴って気がついたら、もう少し寝ていたいなんて思ったことはありません。しめた、もうかった、また仕事ができるぞ、あの人に会えるぞと、嬉しくて嬉しくてしょうがないんです。生きているから出会いがある、こんなに幸せなことはありません。生きている間は燃えて燃えている。私はそれ以外は知らんのです。」誰にもまねのできることではありませんが、このような100パーセント人生を実践している人の迫力に、理屈ぬきの感嘆と賞賛を贈りたいと思いました。

幼い命の値段

昨25日夜の福岡市「海の中道大橋」でのRV車転落事故は、無残としか言いようがありません。飲酒運転の乗用車に追突されて、橋から海中に転落し、4歳3歳1歳の3人の幼児が死亡しました。水中から脱出して生き残った両親の今後を思うと、言葉を失います。22歳の運転者と19歳の同乗者は、直前までハシゴ酒を飲んでいたそうですが、犯人への怒りは、おそらく殺しても足りないものがあるでしょう。酒酔い死亡事故の罰則は強化されたとはいっても、死刑にはなりません。最高でも15年の懲役刑です。そして犯人をいくら厳しく罰しても、子供たちは生き返りません。
 多くの人の同情が集まり、葬儀はテレビで放送されるでしょう。そのあとで幼い命の値段を決める交渉が始まります。犯人側の弁護士や保険会社は、「誠意をもって」と言うでしょう。もう決して酒を飲まないとも言うかもしれません。それでも子供たちは生き返りません。親たちが求めるのは金額ではありません。それでも金額を決めなければ話が終りません。そして刑務所に入っている犯人が提供できる金額は知れています。無限の可能性を持っていた子供たちの命の評価は、その可能性の限りなさのゆえに、低く計算されて終るのではないでしょうか。
 でも、親たちの名誉のために、これだけは言っておかなければなりません。子供たちの価値は、限りなく大きいのです。それを金額として評価すること自体が冒涜です。子供たちの価値は金額を超越していた。そのことを誰よりもよく知っているのは親たちです。
 親の目の前で子供の命が奪われる。二度とあってはならないと思うことが、この地上では日常的に、数えきれないほど繰り返されています。過失であっても悪意であっても、個別であっても集団であっても、人は人を殺すことをやめられません。アフリカの奥地で行われていることなどは、私たちにはニュースとして知らされることさえ、ほとんどありません。しかし子供たちを殺し尽くすことは、誰にもできなかった。だから人類はいま地球の上で生きているのです。
 絶望はしないでください。男がいて女がいて、その間に愛があれば、子供はまた生まれます。人間は、そのようにして生きてきたのですから。

生命の市場価格

「命の重さに定価はない」のはその通りですが、人間の生命に「市場価格」または「実勢価格」があるのは、事実のように思われます。かつて私は、交通安全の取材をしたときに、安全対策に投じられた予算と、事故死亡者数の減少から、一人当り5000万円の投資で救うことができたという計算を出したことがあります。また、最近のイラク戦争とイスラエル対ヒズボラの戦闘を見ていると、アメリカ・イスラエル兵の生命と、イスラム戦闘員の生命との交換比率は、ほぼ1対10で成り立っているようです。現世の生命のやりとりを見ている限り、「一人の生命は地球よりも重い」などということは、絶対にありえません。過失による交通事故死の補償金でも、一人当り1億円を超えることは、めったにないのです。 補償金の計算でよく用いられるのが逸失利益という考え方です。その人が無事に生存した場合に得られたであろう利益から、消費したであろう経費を差し引いて計算します。人間を経済的な働きだけで評価すると、それでいいことになるのですが、肉親を失った家族の悲しみは消えません。私の妻の父親は、2年前に不注意運転の車にはねられて亡くなったのですが、老人の逸失利益は算出されません。しかし家族の受けた精神的被害をどう評価するのか、保険会社との間でいまだに解決がつかずにいます。それでもいずれは、何がしかの金額で決着がつくのでしょう。現代の人間の生命は、すべて経済的な問題として評価されるというのが現実です。 失われた生命はそのようにして評価されるのですが、困ったことに、その金額を積んでも、生命の再生も、生命の製造も不可能です。ここから経済の枠に収まらない、生命の「不可逆性」「1回性」「かけがえのなさ」が出てきます。話が面倒になるので、人間以外の動植物の生命には立ち入らないことにしても、それは手にあまる解けないパズルにならざるをえません。TBを入れてくださった Dan the Mortal さんの言葉の通り、「常に悩みつづける」が正解なのでしょう。それにしても「自分の生命を少し削って他人の生命を尊重してあげると、結果として自分も長生きできる」というのは面白い。そのような「現実的な正解」もありでしょう。そのように考えられるのも、自分が mortal(必ず死ぬもの)であることを知っていればこそです。



加藤周一氏に見る生命観

昨日(2006年8月23日)夕刊の朝日新聞「夕陽妄語」で、加藤周一氏は、同年代の人たちの死亡記事に寄せて、生きることと死ぬことについての思索をめぐらしていました。「なぜ死に抵抗するのか。すべての価値(望み、目標)の前提は「生」であり、「死」は「生の否定」だからである。価値は人によって、あるいは文化によって異なり、普遍的ではない。望むところは人さまざまである。しかし何を望むにしても、望む主体は生者であって、死者ではない、−−ということは唯一の普遍的な価値が生命そのものだろうことを示唆する。」これは、この世のすべての価値が生命に由来することを述べています。生命を失った、つまり人類が死滅したあとの地球には、何の価値も残らないのです。そして加藤氏は、二つの生命観を提示します。
 「……自分自身の死だけではなく、他人の、あるいは人類の死について、到達することのできる意見には二つが考えられる。第一、生命の価値についてはわからない。故にいかなる場合にも人を殺してはならないという態度はとらない。しかるべき理由により、死刑は肯定されるし、戦争も肯定されるという意見である。この意見は傲慢である、と私は思う。第二、どれほど貴重かわからないものは、破壊してはならない。生命が貴重だから、殺生戒を守るのではなく、貴重であるかないかわからぬから、あらゆる手段で人殺しを避けるという意見。そこからは死刑反対、戦争反対の考えも出て来る。これは自分自身の知識と判断力の限界の自覚である。」
 自分の生命が貴重だという意識は、たいていの人が持っているでしょうが、他人の生命も同じ程度に貴重だという実感を持っている人は、どれくらいいるものでしょうか。自分の生命は貴重だが、他人の生命はそれほどではない。あるいは、自分の生命も他人の生命も、たいして貴重ではないと思っている人がいたら、どうなるのでしょうか。生命を貴重だと思う人と、貴重だと思わない人とが対立したら、貴重だと思う人の方が、先に殺されてしまうかもしれません。だから自衛のために戦うことにすれば、信念を曲げることになります。そういう踏み絵には出会いたくないものですが、もしも殺される立場になっても、加藤氏は信念を曲げないでしょうか。あるいは正当防衛の権利を行使して、その体験をまた語ってくれるでしょうか。私は心のどこかで、そんな劇的な場面を期待しているようです。

白内障の手術を体験して

私は昨年の11月に白内障の手術を受けました。右目の白内障が進行してきて、いつも目の前に薄く白い膜が1枚かかっているような感じがわずらわしくなり、ついに決断しました。白内障は、目のレンズに当る水晶体の濁りによって起こります。濁りを取って透明にもどすことは不可能なので、手術する以外に根本的な対策はないということでした。「脳の出先」と言われるほど微妙な機能を持つ眼球に手術を加えるのはどんなものかと、ためらう気持があって、ぎりぎりまで我慢していたのですが、入れ歯も1本は入れたことだし、役に立つ人工物の装着は、眼鏡がコンタクトレンズになったその次の段階だと、思い直すことにしました。
 医師に説明して貰った通りに、手術は20分ほどで無事に終りました。痛みもほとんど感じないで済みました。その短い間に、黒目と白目の境界近くにメスを入れ、水晶体の濁った内容を吸い出して、代わりに2つ折りした人工のレンズを入れ、それを中で広げて視力を回復させるのですから、現代の眼科医療もたいしたものです。手術後に目をあけたときの、まぶしいほど明るい風景は印象的でした。事前に説明されていた通りに、右目の風景は青っぽく見えて、左目の風景はちょうど写真のY1号フィルターを入れた程度の、黄色がかかったように見えました。赤ん坊のときに見えていたのは右目の風景で、年をとるとともに水晶体は自然に黄色味がかってくるのだそうです。それでも直前までデザインの色の判定をしていたのですから、相対的にホワイト・バランスをとっていたのでしょう。右目と左目の色の違いは、だんだん気にならなくなってはいますが、今でも残っています。眼鏡は以前と同じものを使っていますが、視力は明らかに改善しました。今日は、残る左目の手術を来年2月に予約してきました。
 このように私は現代医学の恩恵を受けたのですが、将来の人類は、どこまで医学の助けを受けられるようになるのでしょうか。脳が劣化したら、健全だったときの記憶を、補助脳に保存したりするようになるのでしょうか。それがパソコンの中なら、今の私でもあまり抵抗を感じませんが、それを小型化して脳内に埋め込むようなことになったらどうか。さらに人工心臓と組み合わせたら、不老不死の人間が出来上がってしまうのではないか。そんな心配は現実になるのでしょうか。私としては、ボケることも死ぬことも、人間の大事な基本的人権だと思うのですが。

線路は続くよどこまでも

NHK「みんなのうた」から生まれて、今もよく歌われていますが、この歌の制作の事情をご紹介しておきます。この歌が放送されたのは1962年(昭和37)の12月から翌年1月にかけてでした。まだ新幹線が開通していない時代で、在来線を大阪まで6時間半で走っていた旧型「こだま」を使っての撮影ロケが楽しかったことを、よく覚えています。このロケ期間中に長女が誕生しました。  この曲の原曲は"I've Working on the Railroad"というアメリカ民謡で、古くから「線路の仕事」の題名で津川主一氏の訳詞がありました。線路の仕事は果がなくて、つらいという労働歌です。資料の楽譜には、間奏の「ランララララーン……」に当るサビの部分もついていたので、列車が走る明るい歌になるのではないかと発想しました。当時、番組は私と、先輩の後藤田純生氏との2人で担当していました。歌詞は外部に依頼せず、番組のオリジナルで作ることにしました。原型は、幼児番組で当時活躍を始めていた「のっぽさん」こと高見映氏から提供されたものです。ただし第1行が「野をこえ山こえ谷こえて」から始まっていました。ここに「線路は続くよどこまでも」と入れたのは、リーダーだった後藤田氏です。あとは「ぼくら」「楽しい旅」「リズムに合わせて」「歌おうよ」など、当時「みんなのうた用語」と呼んでいた語彙をはめ込んで行きました。 撮影ロケが11月の時ならぬ雪に見舞われたりして遅くなり、放送日前はかなり多忙になりました。アナウンス録音日になっても題名が決まっていなかったので、台本担当だった私は歌の1行目から「線路は続くどこまでも」としました。題名としては「続くよ」の「よ」は取った方がしまると思い、そのように友部光子さんに読んで貰ったのです。ところがタイトル室へ出したテロップの原稿は、歌詞の通りの「線路は続くよ」になってしまいました。ですからアナウンスと画面が一致しないままの放送になりました。さらに番組のサービス用に発行していた楽譜の題名も「線路は続くよ」で出たので、結局はこれが決定版になりました。 この歌を聞くと、今でも「楽しい旅の夢……」のところがちょっと気になります。「旅」のイントネーションが逆で「足袋」ようになるので、「旅の楽しい夢……」と直したいのですが、もう手遅れかもしれません。この歌の作詞は、番組のチーム作業でできたと私は思っていますが、後藤田氏は後に「佐木敏」の名で作詞者としての権利登録を行いました。後藤田氏の没後は、その妹さんが相続しています。

語り継ぐことの現代的変化

大きくは国民性、やや小さくは県や町などの地域性、さらに各家庭ごとの伝統とは、どのようにして伝承されるのでしょうか。私が育ったころは、両親との日常の会話や、自然に耳に入る父と母との会話などを通して、自分が知らない時代のことを、かなりくわしく知ることができました。その多くは、毎日の食事の時に得られていたという実感があります。当時の夕食には、新聞とラジオはありましたが、どちらも話題のきっかけになることはあっても、それらが主役ではありませんでした。父親の自慢話や母親の教訓めいた生活の知恵として、父母の時代の記憶は私に伝わりました。
 私たちが娘たちを育てたとき、食卓にはすでにテレビがありました。家に1台だけでしたから、テレビが家族の共通の話題にはなったのですが、親と子の会話の絶対量は、私が子供だった時代と比べて、格段に少なくなっていたと思います。しかし当時の私は、妻も含めて、そのことを少しも意識していませんでした。むしろテレビは、家族の話題をつくりだす楽しい中心でした。子供たちの学校のこと、お友達のことなどは、別にちゃんと話し合いができていましたから、親子のコミュニケーションについては、何の不安もありませんでした。
 私たちが娘たちとの間に、知識と感覚の大きな断層があることに気づいたのは、むしろ最近のことです。親となった娘たちの子育てと、私たちの孫育てとの食い違いとして、それは形を現しました。孫に対する主導権争いと言ってしまえば、ありふれた世俗の現象で、実の娘だから嫁よりはよいと思うこともできるのですが、要するに私たちの常識が娘たちの常識でないことに愕然としたのです。時節がらの話題で言えば、妻が小学3年生のときに空襲の火災の中を逃げ回った記憶も、私が5年生で集団疎開に行った経験も、娘たちには一度も話して聞かせていなかったことに気がつきました。
 私の家族の場合は一つの失敗談ですが、一般に個別の家庭内での価値観の伝承は、だんだん難しくなって行くのではないでしょうか。子供たちは親との会話の何倍もの時間をテレビで費やしています。大きくなればインターネットが加わるでしょう。親という個別の情報源の地位が低下して、社会的な情報源が優位になってきます。よい面を見れば、それは価値観の共有が、より大きな人間集団の中で可能になることを意味します。社会的な情報源の質を、衆愚ではなくて集合知に向けるように、私はブログを書き続けることの意味を、再認識しているところです。

見田宗介「社会学入門」と中東和平

見田宗介著「社会学入門」の中に、テロとの戦いの根本的な解決の処方箋があったので紹介しておきます。ここでは「関係の絶対性」という言葉がキーワードとして使われていますが、なんだか難しそうだと思ったら、「バカの壁」と読み替えても、たぶん大きな誤りにはなりません。
 「勝てばいいというものではない。ソビエトと東ヨーロッパでは民衆がみずから蜂起して、抑圧的な権力を打ち倒したのです。だからロシアや東欧諸国の民衆で、アメリカを恨んで自爆テロをしようなどという人はいない。……フセインと第二、第三のフセインをほんとうに倒すことができるのはイラクの民衆だけです。世界中に逃げ散ってひそむテロリズム(原文のママ)たちの息の根を止めることができるのは、アラブと五つの大陸の貧しい民衆だけです。(その人たちが)『おまえはいらない』というときに、はじめてテロリズムはほんとうに消える。そしてアメリカは、自由の社会として生き返る。関係の絶対性を、関係の絶対性によって否定することはできない。関係の絶対性は幾千年を生き延びて、また死に延びてでも復讐する。それが中東問題です。」
 そして著者は、関係の絶対性を強いる構造の総体を、総体として捉えて解体し、転回する思想を確立することを説くのです。そのための具体的な方策は簡単ではありませんが、最終章の「交響圏とルール圏」という考え方がヒントになります。交響圏では、異質なものが異質なままで、一つの調和を作り出します。それが自由な社会の骨格になるのです。
 以下は私の考えです。中東問題は、本来は領土問題です。無理やりにイスラエルという人工の国家を作ったのが、ことの始まりです。しかし今さらイスラエルを「なかったことにする」わけに行かないことは、アラブの民も承知しているでしょう。ならばイスラエルの領土を、国連が決めた当初の大きさにもどすことが解決の基礎でなければなりません。イスラエルの国民は、決められた領土の中で安全を享受する道を選択すべきです。そこで初めて宗教と民族という「関係の絶対性」が、領土という相対的な問題に転回するのです。中東の安定なくして世界はテロの恐怖から解放されることはありません。アメリカが「関係の絶対性=バカの壁」を脱却できるかどうかに、世界の未来がかかっています。

見田宗介「社会学入門」を読む

燕温泉への往復の車中で「社会学入門」(見田宗介・岩波新書)を読み終りました。題名だけ見て、社会学の一般向け概説書だと思うと、ちょっと違います。「人間と社会の未来」という副題がついています。その通りに、人間の未来を社会学の目で見通そうとする、壮大な試みなのです。さまざまな有益な示唆が多い本ですが、私が先頃まで考えていた日本人の「集団の狂気」に関連して、こんな部分がありました。まず、新聞の投稿歌の一首が紹介されます。
  一人の異端もあらず月明の田に水湛え一村眠る  田附昭二 
一見、平和な農村風景ですが、この歌は、日本社会論の核心にふれていると著者は言います。日本の伝統的社会は稲作農耕社会でした。それも南国の粗放型の稲作ではなく、北限に近い人工的な稲作であり、利水を初めとする絶え間ない努力と協力がなければ成り立たない社会でした。この日本型共同社会は、異質なものの存在を許さず、みんなの意見で、時代の流れに逆らうことなく進んで行きました。それが「お国のための滅私奉公」であろうとも。そう考えるとき、私たちの過去への反省と、未来への処方箋が見えてこないでしょうか。
 また、IT化の未来についても、私にとっては心強い考え方が示されていました。「『情報化』は……その可能性の核心において見るかぎり、工業化の技術とは対照的に、有限な物質資源の大量の採取解体ということなしに、無限の価値の増殖を可能とする技術、あるいは、無限に新しく展開しうる幸福と感動の鮮度の維持を可能とする技術の領域であり、このようにしてそれは、高次化された『安定平衡系』としての社会の存立を、この惑星の現実の条件の下で可能とする技術の領域である……」というのです。私が人類の百世紀つまり1万年を単位とする生存も可能だと考えた論拠の一つは、人間の「限りなく領域を広げようとする」本能は、ITの分野で、かなりの程度まで満たされるだろうと予想したからでした。
 ここに紹介したのは、ほんの小さな部分の「切り売り」に過ぎませんが、私はこの本を、「半永久的持続型社会」に入って行くだろう人類の未来を見通した、初めての本格的な著作であると理解しました。

星空を見ながら考えたこと

燕温泉に1泊した夜、宿の窓から星空がよく見えました。下弦の半月が出ていましたが、周辺の星も負けない光で輝いていました。ガラス戸を開け放し、枕を窓の下に寄せて、星を見ながら寝ることにしました。山の冷気は心地よく、部屋を暗くしておけば、虫が飛んでくることもありません。贅沢を楽しんでいる気分でいたのですが、しばらくして、これが本来の人間の暮らし方だと気がつきました。
 東京の夜空では、よく晴れていると思う日でも、10個以上の星を数えることができません。最近の都会の明るさは、異常と言ってよい段階にまでなっていると思います。低い雲が出ていれば、照り返しで地上はさらに明るくなります。自分の家をいくら暗くしても、どうにもなるものではありません。街路は、安心して歩ける明るさにするのが常識になりました。そして町に点在するコンビニエンス・ストアなどは、夜通し過剰な明るさを溢れさせています。
 私はアメリカへ行ったとき、一流のホテルやレストランが、意外なほど暗いという印象を受けました。しばらくして、それは安らぎと落ち着きを表現するための演出で、明るいばかりの照明は品がないと思われているのだと、わかりました。それがアメリカだっただけに、ちょっと意外だったのですが、それ以来、自宅の居室や浴室の照明に電球色を加えるなど、仕事場の照明との違いを意識するようになりました。電球色は火を使った伝統的な照明に近く、仕事場は昼の延長で昼白色が似合うということは言えそうです。そう考えると、やはり夜は暗い方が自然なのです。
 星を見ていると、子供のころもそうでしたが、何となく人間の小ささということを考えてしまいます。一つ一つの星が太陽のように燃えていて、その周りには地球のような星もあるのかもしれない。知ることはできないけれど、自分が知っていることが、とても小さいということだけはわかる。そんなことを考えながら時間が過ぎて行きました。それは図鑑やプラネタリウムで得られる知識とは、やはり本質的に違う感覚なのです。昔の人は、おそらく毎晩のように星空を見ていたことでしょう。私たちよりは、ずっと自然に対して謙虚だったのではないでしょうか。この星空を孫たちに見せたい。しかし、そうするだけの力が今の私にはないことを、残念に思いました。

妙高・燕温泉再訪

1泊2日で新潟県の妙高山中腹にある燕温泉へ行ってきました。ここはスキー場の中でも乗鞍に次ぐ豪雪地帯で、高校2年から3回ほどスキーの合宿で行ったことがあります。雪の景色しか知らないので、雪のない時はどんな所だろう、一度は行ってみようと思っていて、それを55年目に実現しました。
 1951年(昭和26)当時、燕温泉には「笹屋」という旅館があって、武蔵高校のスキーの定宿でした。主人の笹川速雄氏は日本のスキーの草分け的な長老で、「大先生」と呼ばれていました。その子息の笹川幸雄氏はスキー選手で、国体の滑降で猪谷千春と優勝を争った人でした。この人たちから当時教えられたのは、体重の移動で自然に回転する「山スキー」の基本でした。雪の深い燕温泉では、軽快な「ゲレンデ・スキー」よりも、山スキーの方が合っていたのでしょう。ですから私たちは、スキーを揃えたまま後部をはね上げて回転するクリスチャニアを、「あんなのは邪道だ」と思っていました。深い新雪の上を滑ると、スキーのベンドの先端だけが見えていて、靴のくるぶしあたりの深さで雪を切って行きます。そして速度を落とすと、スキーは浮力を失って、ひざの深さくらいまでズブズブと沈むのでした。今でも忘れられない爽快な思い出です。
 55年後に訪ねた今回、笹屋旅館はすでに廃業していました。しかし旅館街の地形に変りはなく、温泉も同じように豊富に流れていました。海抜1100メートルの高さですから、夜の星の輝きは見事なものでした。近くには「川原の湯」という露天風呂も出来ていて、乳白色の湯につかり、温まった足を渓流の冷たい水につけるのは、言いようもないほどの快感でした。谷間には、豪雪の名残の雪が、まだ残っていました。まさに秘境と言いたい温泉地ですが、旅館街の経営は苦しいようでした。スキー場としては急峻で一般向きでなく、妙高登山の基地としては、道路がよくなってからは日帰りが多いようです。年寄りが安心して連泊できるような、本来の「湯治場」にもどる方がいいのかもしれません。ここでも、路線バスの乗客は、行きも帰りも、私一人だけでした。55年前に、夜行列車で関山駅に着いた高校生の隊列が、丸一日の雪中行軍で登った道のりは、車で30分もかかりませんでした。

体験的ウェブ2.0の評価

今回の「日本軍はなぜ降伏しなかったのか」の掲載中に、資料検索の上でのパソコンの優位を痛感しました。従来の私は、辞書を入り口として百科辞典へと進み、さらに必要なら専門書を買うか図書館にこもるか、という方法で必要な知識を得てきました。わずかな記憶と資料を頼りに、必要な情報にたどりつく能力にかけては、かなり自信も持っていました。その一方で、私はメモをとるのが苦手で、大学を卒業するまでの4年間に使い終ったノートが一冊もありませんでした。以来、自分の頭の中に残っているものだけで勝負する、というのが信条のようになっていました。
 今回の具体例を一つあげると、上海事変の空閑少佐についての私の記憶は、少年時代に見た軍歌集の中の「……目覚むれば 敵の看護の床の上……」という歌詞の一節だけでした。他の軍歌とは雰囲気の違うもの悲しさが、記憶に残っていたのです。ですから当初は「敵の捕虜になった高級将校もいた」という事実だけでブログを書こうとしました。ところがネットで検索してみると、意外に早く空閑少佐という固有名詞が出てきたのに驚きました。そのあとは捕虜になった事情をはじめ、敵の指揮官との因縁、映画になった後日談までを、簡単に知ることができました。図書館などを使う従来の調べ方では、考えられない能率のよさでした。
 この経験から考えたのは、これは資料調べについての一種のアウト・ソーシングではないかということです。従来は、ミニ図書館のような大量の蔵書を集め、自分だけの検索方法を工夫して行っていた作業が、不特定多数が構築した知識の集積を利用することで、低コスト、短時間で行えるようになったのです。これは大きな福音であることは間違いありません。そしてこの現象は、もの書きをする立場の人間としては、自身の「記憶容量の大きさ」という制約から解放されることを意味します。記憶容量の大きさが勝負の条件にならないとしたら、残るものは何でしょうか。
 残るものは、何が問題であるのかという問題意識と、その問題の解決に役立つ知識をどこから得るかという方向づけではないかと思います。そのとき、記憶が不必要ということは絶対にありません。記憶の集積としての知識があるからこそ方向を決められるのですから。その上での容量の拡大は、ウェブ2.0をうまく使えばよいのです。長生きしたおかげで、本当に面白い時代を見ることができました。

今の日本が始まった日

8月15日を
終戦の記念日ではなくて
今の日本が始まった記念日にしよう

300万の日本人が死んで
その何倍もの人たちを日本人が殺した
血の海の中から今の日本が生まれた

そんな話を 
いま2歳のあなたに教えなくてもいい
あなたの親も知らないのだから
あなたのじいちゃんや ばあちゃんだって
あまり思い出したくはないのだから

家族は仲よく暮らすのがいい
けんかはしない お話すればわかる
おとなになっても それは同じ
けんかはしない お話すればわかる

おとなになったら
あなたは けんかをやめさせる人になる
そして日本は 戦争をやめさせる国になる
そういう国に 日本がなった記念日
それが8月の15日

あなたは それだけを
知っていてくれればいい

日本軍はなぜ降伏しなかったのか(補遺)

日本の軍隊における捕虜の位置づけについて、途中で入手した資料を利用しながら補足します。
 明治期までの日本は欧米から学ぶ立場であり、捕虜の扱いについても、優等生的に国際基準を守ったと言えそうです。日露戦争後の日本兵捕虜の処遇についても、政府は罪に問うことなく原隊に帰すなどしているのですが、戦死者が多数出たのに敵に養われて帰ってきたという反発は強く、軍隊の内部でも民間でも、帰還者が周囲から冷たく扱われる例が出てきました。日清、日露の戦いに連勝した過剰な自信は、この頃から他民族蔑視の風潮と、日本的価値観への回帰をもたらしたように思われます。そこに皇軍の不敗神話と、軍事力重視の基本政策が重なりました。日本の軍隊は世界にも類のない特別な存在であるとする、一種の神格化が起こったのではないでしょうか。天皇の存在はその象徴でした。こうして敵国の捕虜は侮蔑の対象となり、日本軍人の降伏は天皇を裏切る大罪になって行ったのだと私は思います。
 1932年(昭和7)3月、上海事変で第一線指揮官だった空閑少佐は負傷して人事不省のうちに捕虜となりました。敵側の指揮官は、日本の陸軍士官学校で学んだ、空閑少佐の教え子でした。空閑少佐は手厚い看護を受けて送り返されたのですが、捕虜になったことを恥じ、悲痛な遺書を残して自決しました。1939年(昭和14)のノモンハン事件では、敵25機撃墜の輝かしい戦歴を持つ航空兵が被弾して敵地に着陸し、捕虜となって戦後に送還されました。伊藤曹長というその人は、軍法会議で有罪と判定され、非業の死をとげたと記録されています。敵地で被弾したら敵陣に突入すべきであるのに、敵地であることを知りながら着陸したという理由で敵前逃亡を適用されたのでしょうか。このあたりから、捕虜になることに対する常識を外れた禁忌が表面化します。そして「戦陣訓」につながるのです。
 日本人は捕虜になったら生きて祖国に帰ることはできない。自分だけでなく、家族も非国民として迫害を受けることになる。その恐怖感が、多くの人に死を選ばせました。悲惨な現実ですが、私はこれを日本人の農耕民族的な従順さ、温和さの、一つの表れではないかと感じています。そして天皇の権威でさえも、長い歴史の中では、強力な実権からは距離を置いた、調和的な権威であった筈なのです。ヒトラーのような狂信的指導者がいたわけでもないのに、あの時代になぜ日本人は「集団の狂気」に陥ったのか。それを解明するのが私たちの課題です。

(お礼)ブログランキングは、あまり意味がないようなので、参加をとりやめます。ご協力いただき、ありがとうございました。

日本軍はなぜ降伏しなかったのか(5)

戦争は敵対する者の間での、暴力の応酬です。一方が激しい戦法をとれば、相手はそれを破るために、さらに激しい戦法を編み出します。アメリカ軍にとって、日本軍は例のない難敵でした。絶望的な劣勢に追い込まれても抵抗をやめず、投降の呼びかけにも一切耳を貸さずに、命を捨てて刃向かってくる日本兵は、アメリカ兵には理解不可能の存在でした。中でも硫黄島の激戦は有名ですが、当初は5日で落とせると見積もった島の占領に、アメリカ軍は1ヶ月半を費やし、1万名あまりの死傷者を出しました。2万1千の日本軍守備隊は、全島を要塞化した地下壕にこもって、渇きと飢えに苦しみながらも徹底的に戦いつづけたのです。生存者は、わずか1千名と伝えられます。
 これを相手方から見たら、どう見えるでしょうか。日本兵は死ぬまで戦いをやめない。殺し尽くす以外に方法はない、ということになります。恐怖とともに復讐心も、もちろんあったでしょう。海水を壕に注入してガソリンを流し、点火して焼き殺すという方法まで採用しました。狂信的で危険な集団を滅ぼすという目的の前に、人道主義も合理精神も道を譲ったのです。
 アメリカ軍の現場指揮官たちの判断は、その後のアメリカ軍の作戦に影響を与えました。日本の都市に対する無差別爆撃は強化され、その延長線の上に原爆の投下があったという示唆は、荒唐無稽とは言い切れません。暴力は暴力を呼び寄せる。最初の暴力が、どれほど切ないものであろうとも。
 原爆の投下は、日本がポツダム宣言受け入れの決断をする上で、大きな要素の一つになりました。天皇の命令によって、ようやく日本の戦争は終りました。戦争を終らせる方法は、結局それ以外には、なかったのです。こうして「天皇の軍隊=皇軍」は地上から消えました。
 あなたは日本の軍隊を、どのように評価しますか。それを民族の誇りと思いますか。それとも……
 私はこの後につづける言葉を持ちません。私の肉親は、幸いにして一人も戦争では死にませんでした。肉親や恋人を戦争で失った人たちの悲しみを、私は共有することができません。慰霊碑が建てられる以前の沖縄、摩文仁(まぶに)の丘の下で、砂浜に寄せる波を見ながら、40歳の私は立ちすくんでいました。
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日本軍はなぜ降伏しなかったのか(4)

「生きて敵の捕虜となるな、死後にまで罪禍の汚名を残すぞ」という脅迫めいた戦陣訓は、法律ではありません。軍人に戦時の心得を説いた訓示にすぎないものです。しかしそれは法律以上に猛威をふるいました。それにしても、自らの意志にかかわりなく徴兵された兵士が、力尽きて敵の捕虜になるのが、なぜ辱めなのでしょうか。罪禍とは、誰の誰に対する罪であり、禍いなのでしょうか。戦陣訓には何の説明もありませんが、キーワードは「天皇」です。神である天皇に率いられる神の軍隊であるから、負けること自体が、ありえない恥になり、まして敵にすがって命を永らえることが罪と禍いになるのです。
 阿川弘之氏の名著「雲の墓標」に、特攻隊の学徒兵が悩んだ末に「天皇に帰一し奉る」という境地に達する話が出てきます。この場合、天皇は国家の象徴であり、大日本帝国と同義語です。その天皇のために死ぬことで、神国日本の一員として永遠の栄光と生命を得るのだという悟りです。まさにここに、護国の英霊として靖国の神になる、という思想が完結するのです。
 しかしもちろん、全員が神のような悟りに達することはできません。皇軍の不敗神話どころか、実際の戦闘で日本軍にいかに多くの欠陥があったかは、指揮官にも兵にも明らかでした。それでも成功する可能性のない無謀な作戦や、大勢が決したあとの無益な抵抗が続けられて、犠牲を増やして行きました。そうしたすべての不合理を覆い隠したのが、戦陣訓の縛りであったのです。中でも罪が深いのは、軍人ではない一般の国民にまで戦陣訓の実践を強要したことです。その典型がサイパン島の悲劇であり、沖縄の惨劇でした。日本の国民だから天皇陛下の赤子である。軍人と同じ心で忠誠を尽くすのが国民の務めであると拡張解釈されて、民間人までが戦闘に巻き込まれました。
 これは恐ろしい思想でした。天皇の命令で始まった戦争が継続している限り、国民すべては戦争から逃れることが許されません。そして降伏が重罪として禁じられている以上は、どれほど圧倒的な戦力差で攻められようと、戦いをやめる方法がないのです。戦いが終るのは全員が死滅するとき。「玉砕」の精神とは、まさに亡国の思想でした。
 サイパン島や沖縄で、これほどまでにして戦った成果として、日本の本土は少しでも守られ、国民の犠牲は少なくて済んだのでしょうか。悲しいことに、現実はその反対になったのです。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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