志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2006年11月

ブログ1年間の総括

私がブログを開設したのは昨年の11月でしたから、満1年が経過したことになります。わずか1年とは思えないような、いろいろなことがあった気がします。一口で言って、思った以上に面白く、やりがいのあるメディアでした。1年で私の生活をこれだけ変えたのですから、今後どのように発展するのか、楽しみでもあり、また怖いようでもあります。しかも、これだけ使っているブログに対して、私が何の金銭的支出もしていないのが、信じられないようなことです。
 ぷらら・ブローチは、CMのコマもなく、すっきりしているのが気に入っています。試用期間から始めて、少しずつ使い方を覚えてきた愛着もあります。有料でもいいから自立して自由度の高いブログへ移行しなければと思っていたのですが、当分はこのまま継続してみようと考え直しました。ぷらら・ブローチの最大の問題点は、トップページの記事数が20件を限度として、それ以上に拡大できないことです。このため、過去ログを月名で呼び出すと、月末から11日あたりまでは読めても、その前はカレンダーで1日ごとに日付をクリックしなければなりません。またカテゴリー別はさらに不便で、最近20件以上には、さかのぼる方法がなくて、古い方は分類が無意味になってしまいます。さらに小さなことですが、月名は英文でない方が、わかりやすいと思います。
 これらの点を、ぷらら・ブローチにメールと電話で相談してみたのですが、当分は変更の予定はないということでした。そこで対策として、カテゴリーは20件ごとに番号をつけて、「読書・書評1」というようにしてみます。カテゴリー数の枠が限界に来るまでは、これでやってみます。月別は仕方がありませんので、月初の方は、カレンダーの日付で呼び出してください。
 さらに、ライブドア・ブログにも、同名のブログを開設してみました。ここに同文の記事を載せることとします。ライブドアの方がメジャーなようで、ネットの検索にかかる率は、高いようなのです。ただし、ぷらら・ブローチへ誘導する「出店」の扱いで、コメント受付は、こちらへ一元化します。
 明日から12月。全体を「多世代交流のブログ広場」として、再出発したいと思います。週1回だけの「ブログ広場」でなく、いつでも開かれている広場にしたいと願っています。ご意見、アイディアも、どうぞお寄せください。
(追記・その後、20件で限界の問題は解決しました。)

未来都市の悪夢

今日の朝がたに見た夢が、あまりにもリアルで、筋道も明瞭だったので、忘れないうちに書いておきます。私は未来の町の中にいました。現在ではなくて未来であることは、何となくわかりました。私は映画の制作をしていましたが、監督ではなくて、プロデューサーのようでした。試写の画面で、未来型の戦車が機関砲を連射して、その弾筋をたどると弓道の的に、多数の細い矢が命中していました。見ているとその矢が順次折れ曲がって、何かの文字の形になるようでしたが、読めるようになる寸前に画面は移動して、町の風景の移動撮影になり、未来型電車の窓から眺めるようでした。その町では、何かの祭りがあったようでした。大小いろいろな広場や小公園に舞台が作られ、のぼり旗や国旗を飾った残りらしいものも散在していました。しかし、人の姿は、どこにも見えませんでした。やがて、窓に近い会場に「式次第」が掲げられているのが目に入りました。そのあたりで、私には画面の意図がわかってきて、同時に大声をあげていました。「おい、これじゃあ今の連中には、わからないぞ。わかるのは、じいさん、ばあさんたちだけだ。」
 そして私の頭は、どうしたら意図を表現できるかの対策に向かいました。新聞ならば伏字にしておくこともできます。しかし、映画だから難しい……。私は「検閲」をくぐり抜けられる表現方法を考えているのでした。そして、折れ曲がる矢で示そうとした文字が何であったかを、今ははっきりと理解していました。新聞なら「×××」になる。そう、3文字の漢字なのです。それを画面に出したのでは、検閲を通れません。私もスタッフも、責任の追及を受けるおそれがあります。ですから表示してはならない文字です。しかし、それではブログの読者には、わからないでしょう。だから思い切って書いてしまいます。その3文字とは「祝出征」なのです。
 目が覚めてから、何で今頃こんな夢を見たのかと思いました。うたのすけさんのブログで出征兵士を送る列車の情景を読み、その現場を確かめに歩いたことが直接の理由かもしれません。戦時中の検閲は、「児童年鑑」の編集をめぐって、父母が内務省情報局との交渉に苦労するのを見ていました。時局に協力的な編集をしても、当局の干渉は執拗でした。それと、私自身の最近の屈折感も関係していそうです。とにかく、現実でない夢でよかった「悪夢」でした。

子を叱れない親

先日の土曜日、よい天気に誘われて下駄履きで出掛けた帰りの電車の中での風景です。向かい側の席に2歳程度と思われる男の子をつれた夫婦が座っていました。ベビーカーを前に置き、母親が子を抱いて窓の外を見せています。3人掛けの優先席を占領しているのも、まあいいかと好意的に見ていたのですが、子供は携帯電話を手に持って、点灯している画面も見ていました。そのうち、飽きたのか何か気に入らないことがあったのか、子供は突然に携帯電話を床に向けて投げ捨てました。父親は急いで立ち上がって携帯電話を拾い、黙って自分のポケットに入れました。さて、どんな叱り方をするかと見ていると、何も言わないのです。子供はケータイがなくなったことを恨む様子で、母親に文句を言う、それに対して母親は「あんたが投げたんだから仕方ないでしょう」と説明はしても、これまた叱る様子はありません。すると子供は、いきなり力いっぱいの勢いで母親の頭を手で叩きました。それでも母親は「だめ、痛いでしょう」と言う程度です。それを隣で見ていた父親のとった次の態度には、唖然としました。子供ににこやかな笑顔を向け、窓の外を見せて、子供の気をまぎらわせようとしたのです。
 あまりの成り行きに、声をかけようかと思ったのですが、わざわざ向かいの席まで行くだけの決断がつかず、自分の下車駅が近づいたこともあって、そのまま降りてしまいました。いま思い出して、自分のふがいなさを後悔しています。「ちゃんと叱らなくちゃ、だめですよ」の一言ぐらいは言ってあげるべきでした。今になっていくらブログに書いたところで、間に合いません。
 夫婦で暴君を育てた結果がどうなるかは、目に見えています。人の痛みがわからない、自己中心の性格が、その子のものになるでしょう。本人の人生にとって好ましいものでないことはもちろん、この夫婦の作って行く家庭にも、明るい未来を描くことができません。この夫婦は、子供のときに親に叱られたことがなかったので、叱り方を知らないのでしょうか。それとも叱られ過ぎたので、自分たちは叱らないことに決めたのでしょうか。どちらにしても、結果は同じことです。そして、ひるがえって自分が親としてどうだったかを考えたとき、失敗した親であったかもしれないことに思い当って、愕然としたのでした。

昨日、今日、明日、明後日

歌の文句ではなくて、言語のお話です。この表題を「きのう・きょう・あした(あす)・あさって」と読んだ人が大半だろうと思いますが、それでは音訓表で認められている漢字の読み方から外れています。「さくじつ・こんにち・みょうにち・みょうごにち」が正解で、これ以外の読み方はありません。音訓表を制定した趣旨は、日本語表記の明確化でしたから、「きょう」は仮名で、「今日(こんにち)」は漢字でと、使い分けることにしたのです。これなら読み方に例外がなくなります。そうでないと「日」の漢字には「じつ・にち・ひ・か」のほかに「う・た・す・て」という読み方も認めることになり、収拾がつかなくなるからです。
 私たちの実感としても、「日」の漢字に「う・た・す・て」の読みがあるとは思っていません。「今日・明日・明後日」に、ふりがなをつけてみて初めて気づくことです。とくに「明日」は、ナレーションの原稿にもよく書きますが、録音のときに「あす」ですか「あした」ですかと聞かれます。「どっちがいいかなあ」とアナウンサーと相談しながら、その場の雰囲気で決めることになります。書いたときには読みを意識していなくて、「明日」という意味だけを書いている、つまり言葉から音を無関係にしているのです。これは基本的に、言語としては欠陥なのです。
 前にも書きましたが、漢字の訓読みは、本来の日本語である「やまとことば」を、漢字で精密に説明する「辞書機能」です。ですから漢字の音とは無関係になります。「五月蝿」を「うるさい」と読むような例を考えると、わかりやすいでしょう。ですから放置すれば、各人ごとの無限の多様化が可能になります。それが知的遊戯の範囲に留まっていればいいのですが、パソコンの力を借りると使いやすくなり、際限なく増えていく可能性があります。その兆しが、私には気になるのです。
 共通理解のためには、例外は少ない方がいい。しかし個性的に多様化もしたい。その接点はどこか、というのが現代の課題だと思います。そこでのポイントは、漢字の訓読みを、どこまで認めるかということ、つまり「ひらがなでわかる言葉に、どこまで漢字を当てるか」ということです。それは「やまとことば」を大切にすること、漢字を無制限に増やさないことと関連してくると、私は考えています。

ブログ広場・昔の暮らし

うたのすけさんのブログに、このところ連続して昔の暮らしぶりについての記事が出ています。その時代にいた者にしか書けない貴重な記録です。「昔のお話です」のカテゴリーの通読をおすすめします。今日は下駄の話、昨日は汲み取り式便所の糞尿処理の話が出ていますが、私にはどちらも、ありありと思い出せる情景です。それを今知ってどんな意味があるかと思われるかもしれませんが、つい先ごろまで、そのような生活がふつうだったことを知っていれば、たとえば災害・騒乱などの混乱に巻き込まれても、人間の適応能力の豊かさを思い、絶望せずに困難に立ち向かえるかもしれません。
 東京の市街地でも、水洗便所の普及は昭和30年代に入ってからでした。それまでは、どこの家でも、便所は汲み取り式でした。便器の下の大甕に糞尿を溜めておいて、月に1回程度回ってくる東京都の清掃員に、長柄つきの柄杓で汲み取って貰うのでした。木製の大きな樽が集荷の単位で、1荷(か)と呼んでいました。あらかじめ買ってある処理券を、数に応じて渡す仕組みでした。集められた樽は、大型のリヤカーに積んで、清掃員が引いて行きました。その前後には、もちろん近所一帯にすごい臭気が立ち込めるのですが、これが予告の役割をしていました。清掃員は俗に「おわい(汚穢)屋」と呼ばれていましたが、その言葉を清掃員に聞かせることは、厳しく親から禁じられていて、「大事な仕事なんだよ」と諭されていました。やがてバキュームカーが登場して、長いホースを車から伸ばして、便壷から直接に糞尿を吸い取る方式になりました。これはウィキペティアによると、昭和26年に川崎市で開発されたのが最初だそうです。バキュームカーになっても、臭気は相変わらずでした。
 汲み取り便所では、ちょっとした注意が必要でした。甕の中が水っぽいと、固形物を排出したときに、跳ね返りの汚水が尻を直撃することがあるのです。落とす瞬間に尻を振って角度をつけ、同時に尻を上げて難を逃れるのがコツでした。また、大事なものを誤って便壷に落とすと、家中の大騒ぎになりました。敗戦前後には糞尿の回収も止まってしまって、父と汲み出して畠の肥料に撒いたり、庭に穴を掘って埋めたりもしました。これほど大きな生活の変化は、今後あまりないかもしれません。表立って書かれないでしょうが、貴重な記録ではないかと思うのです。 

主婦になってみた2週間

きゃらめるさんのブログを見ていたら、自分の「主婦体験」を思い出しました。1974年、男女平等について、ちゃんと考えようと思い始めた時期でした。俵萌子さんと、洋上大学の講師として乗り合わせたのも、きっかけになりました。妻に頼んで、家での役割を、2週間だけ交代することにしました。家事労働を体験することが、きっと役に立つという予感があったのです。
 当時、娘は2人とも小学生でした。初日の朝から衝撃的でした。少し寝坊してあわてて起きた瞬間から、目の回る忙しさでした。家中の雨戸を開け、娘たちを起こして着替えさせ、その間に湯を沸かしながらパンをトースターに入れ、カップと皿を並べてトマトを切り、といった同時進行の作業を、役割交代でまだ寝ている妻に助言して貰いながら続けました。娘2人がバタバタと学校へ出かけるまでの30分足らずの間、自分の顔を洗うひまなどは全くなく、わけがわからぬままに過ぎて行きました。カップとスプーンを用意するのも、湯を注ぐのも、他人のためにしたことのない私には、一つ一つが「仕事」として意識されたのでした。家事がきつい労働であることは、想像以上でした。夕食の支度は、1時間あまりの「立ち作業」で、かつ火気と刃物を使う「危険作業」なのでした。洗濯では、妻の下着を洗って干すときの感覚が微妙でした。何となく屈辱的なのです。家事を「劣者から優者へのサービス」とする意識が、自分の中にも住みついているのだと思いました。
 体力と時間の消費量が多いことはもちろんですが、2週目に入るあたりから、実務には慣れてきているのに、精神的な疲労を感じるようになりました。それは家事の「無制限責任感」でした。たとえば当時飼っていた猫が廊下を汚した後始末も、当然に私の責任になるのでした。夜になれば、娘たちの宿題を見てやる仕事もありました。それは楽しみでもあったのですが、責任範囲の広さを思いました。
 妻は2週間、「何も手を出さない」という協力を、果たしてくれました。この体験記は、俵さんが面白がってくれて、「婦人公論」昭和50年2月号の、かなり大きな記事になりました。この後、私は家事への参加のコツが、少しだけわかりました。「手伝い」ではなくて、ある部分の「分担」が役に立つのです。たとえば「今夜の後片付けは全部」というような。

私の生死観(9)

今回で最後にします。大学3年で「現世への生還」を果たした筈ですが、人間の気質というものは、それほど簡単には変りません。とくに欝状態になったときには、古い懐疑心が顔を出します。

  「地底の歌」1969年

  無気力の空間に沈下する 無為の時間が経過する
  古い地底の歌だけが 聞こえてくる
  「なぜ生きてる なぜ生きてる」と

  それが聞こえると思うとき
  自分はすべての考える努力を放棄する
  あらゆる面倒な 現実の努力を免れる

  にぶくなった視力の中央に 高校3年生の自分が
  遺書を握って影のように立っている

しかし、この辺が最後でした。欝を病気と考えられるようになったことも幸いしました。なぜ生きているかを頭の中だけで考えるのは、高尚なことでも大事なことでもないと知ったからです。なぜ生きるかの答えを求め続けることこそ、人が生きることの意味であったのです。そのことに気づかせてくれたのは、49歳のときの恋でした。
 いま私は、自分のものを含めて、人間の将来の死に方を考えています。医療はますます進歩し、生命力の限界近くまで生きられる人が、ますます増えるでしょう。問題は、限界のぎりぎりまで生きることが、本当に人間にとって幸せなのかどうかということです。周囲を見て、得失も考えて、余力のあるうちに最適の時を選ぶ自発死が、公認されて死亡原因の大きな部分を占めるようになる時代がくる、というのが私の予感です。生きるものは死ぬものである。よく生きて、よく死ぬのが、理想の人生だと思うのです。

「美味い」「上手い」の「旨い」使い分け

バニラさんのブログのコメントに、「うまい」よりも「美味い」の方がおいしそう、とありました。会話で聞いたら区別できませんが、文字を思い浮かべると、その違いは納得できます。日本語の中で漢字が果たしている役割の、一つの大きな部分に気がつきました。それは説明機能です。
 日本語の「うまい」は、人にとってこころよいことを表す、広い意味を持っています。食べ物の味も、人の動作も、風景(例・うまし国)も、状況全般も、よいものは「うまい」のです。発展途上の日本語が漢字と出会ったとき、日本語では同じになる言葉が、漢字では複数の字に使い分けられていることに、人々は気づきました。そこで当時の日本人は、手っとり早く漢字の文字も発音も、そのまま日本語の中に取り込んでしまったのです。表音文字の「かな」と表意文字の「漢字」が共存する、奇跡のように複雑な日本語が、こうして成立しました。取り入れた漢字は、日本語の「訓」でも読むようになりました。たとえば「朝」を「あさ」と読む、これは文字ごとに「インスタント翻訳」を施しているということです。「うまい」という日本語に漢字を当てるのは、これの逆の作業、つまり「うまい」の語に含まれる意味を、漢字を使って精密に説明することになります。言わば「インスタント辞書」の機能です。「うまい」を「美味い」と書いた方が、おいしく感じられるというのは、その方が意味がよくわかるからです。
 漢字のすぐれた説明機能は、専門用語の中でも発揮されます。たとえば「大腸内視鏡検査」といった医療用語でも、私たちは即座にその内容を理解して、会話を進めることができます。英語では何というのか知りませんが、一目見て即座に理解するというわけには、行かないのではないでしょうか。表意文字は古代的で、現代科学の表記には向かないのかと思うと、そうではないのです。むしろ意味の固まりとして連続表記できるというのが長所になっています。
 私は基本的に「ひらがな言葉」を大切にしたい立場ですが、現代日本の社会や経済の問題を、ひらがなだけで論じることは不可能だと思います。しかし、「うまい」という言葉に込められている意味の広さと深さを、そのままに味わう感性も、将来に伝わってほしいと思います。ことばとは、もともと、かみにかくものではなくて、ひとからひとへ、こころをつたえる、ことのは、だったのですから。

ポリープ切除その後

この2日に受けた大腸ポリープ切除手術の結果を聞きに、病院へ行ってきました。「癌が入っていました。だけど取れているから大丈夫です。念のため6ヶ月後に検査しましょう。」という説明でした。どうやらいいタイミングで発見して、処置ができたようです。保健所の簡単な健康診断も、このところ間遠になっていたので、久しぶりに成人病健診を受けてみたのが幸運でした。思い出してみると、2回分提出した検便のうちの1回に、微量の潜血反応が出たのが発端でした。それで腸管再検査となり、レントゲンでポリープが発見されて、内視鏡によるポリープ切除へと進んだわけです。手術のときに見たポリープは、きれいなキノコ型をしていて、悪性のものとは見えませんでした。検便に反応が出たのは、かなり運がよかったように思います。
 今回はこうして一難去ったわけですが、癌はいまや「ふつうの病気」で、死亡原因の第1位になりました。いつまた、どこへ現れるかわかりません。「長生きした果ての眠るような最期」が理想ではあっても、そこまで行ける保証は、誰にもありません。身体の自由を失い、苦痛に責められながら、しだいに自意識さえもなくして寝たきりになるというのは、私たち老人が例外なく抱いている恐怖です。自意識をなくした後の延命治療は望まないと、私たち夫婦の間では合意しているのですが、「ちゃんと書いておかないと、だめだよ」と、親戚の医者に言われながら、まだ実行していません。
 現実にいま、かなり多くの人が「長生きしすぎた」「早く終りにしたい」などと思いながら生きていることは事実です。1999年に文芸評論家の江藤淳氏が、「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以(ゆえん)なり。」の遺書を残して自殺したとき、私はほぼ全面的に共感を覚えたものでした。自殺という言葉はよくない、自発死、自分死、または自死と呼んで、市民権を認めるべきではないかとも思いました。
 生きていてと願ってくれる人が一人でもいる限り、少しでも長く生きようとするのが、人としての自然な姿であろうとは思います。しかし、苦痛の連続か自己喪失の空虚しか未来に予想できなくなったとき、自分で選ぶ自由を全く失っていいとは、私は思っていません。

私の生死観(8)

イギリスの詩人ワーズワースの、和歌一首のような短詩の名作があります。その後半4行は、次の通りです
 No motion has she now, no force;
  She neither hears nor sees;
 Roll'd round in earth's diurnal course
  With rocks, and stones, and trees.
この前半4行では、恋人を見つめる夢の世界が描かれています。そこでは時間は止まり、その人は永遠そのものに見えていました。しかし今はつめたく横たわり、目も耳も二度と開きません。地球の回転に乗せられて、木や土とともに運ばれて行くばかりです。この詩における「死」について論ぜよというのが、ブライス師の中間試験の問題でした。
 私の答案は、前半は「生」の世界、後半は「死」の世界である。したがってこの詩のもっとも重要な部分は、前半と後半との間にあるという、常識的なものでした。しかし時間が余るので、「要するに生と死の違いは、見ること聞くことを、するかしないかの差に過ぎない」と、悟ったようなことを書き加えました。その答案を読み直すうちに、私は自分自身がこの2年間、目も耳もふさいで自分の殻に閉じこもっていた、つまり「死んでいた」ではないかと思い当ったのです。その瞬間に、まさに世の中が引っくり返りました。世の中がくだらないのではなくて、自分がくだらない生き方をしていたのでした。
 この気づきのあと、魅力的だと思っていた人を好きだと思うことに、自分で抵抗を感じなくなりました。クラスの女性たちとのつきあい方も自然になって、ノートの貸し借りや、雨の日の傘に入れてあげる、入れて貰うなども、自然にできるようになりました。そうなってみれば、学園での日常が憂鬱であるわけがないのでした。これから後の1年半で、私は東大の入試に落ちたことを、後悔しなくなりました。
 自分で築いた自分の殻を破るのは、自力では難しいものです。ただ、私は運がよかっただけ、とも思いたくはないのです。殻を破りたい衝動は、人間の原初の生命の力から来る、それを素直に見る、聞くことができたときに殻は破れる。そのようにして人もまた脱皮するというのが、私の実感なのです。

打ち文字と書き文字

作文がキーボード上の作業に変ってしまってから目立ってきた現象は、漢字を手書きしようとすると、書き方に自信をなくしている戸惑いです。小学生の孫に教えようとして、一瞬、迷ってしまったのは衝撃でした。若いころから漢籍に親しんできた私でもそうなのですから、働き盛りや若い世代の中でも、この現象は出ているのだろうと思います。当面は変換された文字を見て、正しいかどうかの判別さえできれば、実用上の支障はないのですが、字形の覚え方そのものまで蚕食されるようになると、問題は深刻になってくるかもしれません。昔は、字は何度も書いて覚えろと言われました。それは今でも同じでしょうし、手の動きで覚える確実さは、実感できるものです。変換した文字を見て判別するのとは、おそらく脳の働き方が違うのでしょう。
 これは、漢字以外の文字だったら、どうなるのでしょうか。西川亨氏のブログ(11月19日)を見たら、学生全員に1台ずつPCワープロを持たせて、指で叩かせて英作文主体の授業をしろとありました。してみると、英作文の習熟は、手書きでなくてキーボードの方が能率がよいという考え方のようです。たしかに26文字しかないローマ字なら、いくら叩いても文字の形を忘れないだろうし、字綴りの記憶に悪影響もなさそうです。また、略語を登録する以外には「変換」の必要もありません。こう考えると、ワープロを使っていると字が書けなくなるというのは、漢字だけに特有の現象ということになります。中国語も、ローマ字式のキーボードを使えば同じことになりそうです。さらにハングルやアラビア文字はどうなるのか、この辺になると、私の知識は及ばないところです。
 要するにローマ字という異質の表音文字を借りることで、ワープロの便利さが出来上がっているわけで、和文タイプでは勝負にならないことは、とうに結論が出ているのです。さて、これからどうするかという話ですが、確実に書ける漢字と、読めるけれども暗記では書けない漢字との、二つの水準の使い分けが避けられないように思います。第一水準が教育漢字の1000字程度、第二水準も1000字程度、ブラスして「ふりがな」つきで使う若干の第三水準というところでしょうか。そうなっても、人の知らない難しい漢字を使いまくるのは、悪趣味だと私は思っています。

ブログ広場・思い出す先生

小学校(正しくは国民学校)時代の先生で、今でも思い出すのは岩澤清先生です。もと海軍予備学生13期の中尉で、神雷特別攻撃隊に所属し、人間爆弾「桜花」を抱いて行く一式陸攻の操縦士でした。終戦後の10月あたりに着任して、卒業までの半年ほど、しかも私の担任ではなく、隣の組の担任だったのですが、当時の日記が残っています。昭和21年2月6日水曜日、先生は病気で先週の金曜日から休んでいたとあります。終業時間近くに出てきて、掃除当番の仕事ぶりを見ていたのでした。
 「先生は元気がなかったが、黒板のそばへ寄って何か書き始めた。……見ていたら、先生はこんなことを書いた。『君達の掃除は無責任極まるものである。各自が自分の教室をみがくのに何の遠慮があるか。……私は君達を信頼するが故に、今日のこの見苦しい掃除を見て、失望と義憤を感じるものである。……生徒諸君の猛省を促す。』こう書いて、まだ病気が直り切らないのか、ふらふらしながら黙って帰って行った。一組の生徒は、これを何度も読んでいるうちに、『おい、やり直しだ』と掃除のやり直しを始めた。僕達も手伝った。掃除をやりながら何度も黒板を見て、全くいい先生だ、僕も一組へ来たかったと思った。」
 この日記のコピーを、昨年に先生に送ったところ、「感謝、感激……」の返信をいただき、その後直接に訪問してお話を聞くことができました。師範学校の繰上げ卒業で海軍を志願し、救国の志に燃えて特攻にも進んで入ったとのことです。それだけに敗戦の衝撃は大きく、虚脱していたときに、野原で遊ぶ子供たちの姿を見て、「俺には教師になる道があった」と思い直したということでした。その情熱が、私達のあこがれと信頼を集めたのでした。民間航空が再開したとき、操縦士としての入社を勧められそうですが、先生は教職の道を貫いて、立派な業績を残しました。 
 今の小学校に岩澤先生が着任したら、どうするでしょうか。生徒は掃除をしないでしょうが、給食当番はするでしょう。今の子供たちに対しても、何事にも無責任を許すことなく、その厳しさが信用されて、生徒から慕われる先生になるに違いないと思います。
(皆さんの、先生についての思い出をお寄せください。)

私の生死観(7)

高校3年で書いた遺書は、思ったよりも幼稚なものでした。そのとき具体的に考えた死ぬ方法は、それ以上に幼稚なものでした。自分の意志が強ければ、死ぬまで呼吸を止めていられると思ったのですから、現実離れしていました。少し意識が薄れる程度までの「実験」を何度かしているうちに、沙汰止みになりました。睡眠薬でもあったら「覚めない眠り」を狙ったでしょうが、幸いに手の届くところには、ありませんでした。
 結果的に、一連の人生懐疑は、受験勉強を怠けるための口実になりました。生きるか死ぬかを考えているのだから、勉強などは二の次、三の次でいいのでした。当然の成り行きとして、東大の入試には落ち、第二志望へ回りました。新制大学として3年目の学習院の文学部の同期生は、大半が女性なので驚きました。中高6年間を男子校で過ごしたために、女性との口のきき方がわからず、これがいちばん困りました。妙な所へ来てしまったという後悔の念とともに、死にそこなって、ごまかしているという後ろめたさがあり、閉鎖的になって懐古趣味に傾いたのは、止むをえないところでした。ただし侮りは受けないという意地はあって、本を読むことと英語の力をつけることは、手を抜きませんでした。
 憂鬱な2年間でしたが、3年目のブライス教授のゼミで風向きが変りました。R.H.ブライス氏は戦前から在日したイギリス人で、禅と俳句の研究家であり、皇太子(現天皇)の家庭教師も勤めていました。英文学のテキストを使いながら、ふんだんに仏教の禅による解釈を試み、学生たちの人生観、恋愛観を問うのでした。そうした論争に概して女子学生は消極的ですから、私が矢面に立って、食い下がるような場面が多くなりました。片言ながら英語で先生と言葉を交わすのは、楽しい経験でした。そのうちに、次はこの質問をぶつけてみようというような欲が出てきて、やがてゼミの時間は、ブライス師との知的な会話を楽しむ、優雅な場になって行きました。その内容は、たとえば「人間の知恵は小さい、役に立たないものだ。しかし、そのことを悟るためには、深い知恵が必要になる。」というような、いかにもブライス師好みの逆説だったりするのでした。
 こうして凍りついていた私の心は、少しずつ解け始めていました。その下で、一気に眼からうろこが落ちる「悟りの時」が用意されていたのでした。

国民すべて公務員になったら

荒唐無稽と言われるのを承知の上で、問題提起をしてみます。今日の新聞によると、公務員の年金制度を民間勤労者の制度と統合すると、退職金を含めた生涯受取額が240万円ほど不足するので、税金からの補填が必要になるとのことです。さらに公務員には守秘義務や兼業禁止などの制約が多いので、民間よりも優遇されるべきだという意見もあるのだそうです。公務員に同情して、優遇してあげたいと思う人は、どれくらい、いるものでしょうか。
 こうした待遇の問題に限らず、「公」と「私」との間には、さまざまな対立が起こりがちです。「私」は、面倒でいやな仕事は「公」に押し付けて、サービスを要求する側に立とうとし、「公」は「私」に対してルールを押し付け、はみ出し者を、なるべく作るまいとします。こうした公と私の対立を、両者を一体化することで解消するのが、今日の提案です。
 「公」を維持するのは国民みんなの義務。よって全国民は、生涯のうちの3年から5年間を、公務員として働く義務を負うこととします。これで公務員として必要な労働力は確保できます。原則として、学齢の直後に公務員になるのですが、社会経験を積んでから公務についてもよいこととします。どんな公務につくかは、本人の希望と適性にもよりますが、原則として人事機関の指示に従うことになります。言ってみれば昔の兵役の義務に近いものが、すべての公務に広がって、公務が、大多数の人にとっては、生涯の職業ではなくなるわけです。ただし一部の幹部職員は必要でしょうから、これは専門職の公務員になるので、昔の職業軍人に近い立場かもしれません。とにかくすべての国民が、一度は公務員として働いた経験を持つのですから、「公」と「私」との間には、今よりもずっと風通しのよい関係ができることでしょう。政府や行政機関を、「あちら側」のものとして見るのではなく、「自分たちのもの」とする感覚も育つに違いありません。経済システムとしては、公務員の採用・待遇を通じて、雇用の安定や賃金水準の適正化をはかることも容易になります。そして公務員給与の総額は、今よりも安くて済みます。
 簡単に書きましたが、これは「国民」と「国家」との関係を、原点から考えてみるための問題提起です。自分の国は「誰かが作る」ものでも「誰かがやってくれる」ものでもないのですから。

日本語はどこへ行く

文化審議会国語分科会というところで漢字政策の議論が進んでいると、一昨日の新聞に地味な記事が出ていました。パソコンやケータイの時代になり、漢字が手書きではなく「打ち言葉」として使われるようになったことも関連しています。私自身も、最近のブログ・サーフィンを通して、新しい問題が起きつつあることを痛感しました。一口にいうと非常に「乱れて」いて、いいかげんな漢字変換が横行しています。一つだけ具体例をあげると、「思ったよりも」を意味する「いがいに」が、「意外」の字ではなく、「以外とよかったりして……」などと「以外」で代用される場合が増えています。間もなく誤用として辞書に登録され、さらに常用にもなりそうな勢いです。
 日本語の最大の問題は、「漢字との不幸な出会い」から始まっています。中国から輸入した漢字は、日本語を書き表すには全く不都合な文字でした。日本語の表記は、ローマ字系の表音文字だったら50字もあれば充分だったのです。ところが「かな文字」を開発したほかに、漢字を、意味も音もそのままに借用して際限なく取り入れ、以後の日本語を構成しました。現在私たちは「品質を保証する」「損害を補償する」「安全を保障する」と3通りの「ほしょう」を使いわけていますが、意味の違う言葉が同じ発音になってしまうのは、本来は外国語の漢字を無理やり日本語にしてしまった報いで、コミュニケーションのツールとしては欠陥と言うほかはないのです。さらに漢字に訓読みを加えたことで、同じ字を、場面に応じて何通りにも読みわけることになりました。「下」を「げ・か・した・さがる・くだる」と読むなどです。本家の中国では今も1字1音が原則ですから、漢字ばかりが並んでも、日本語ほどの難しさはありません。
 かくして外国人から「悪魔の言葉」と嘆かれるような難しい言語が私たちのものになりました。戦後の当用漢字と音訓表の制定は、漢字の字数と読み方とを、ともかくも「有限の数」の中に収めようとする努力でした。それは教育民主化の一環でもあったのです。それなのにコンピューターの力で漢字変換を無限に拡大して行けば、際限のない迷宮に踏み込むことになります。それを日本語の奥深い魅力だから自由にするのが正しいとは、私は思いません。
 使いやすく美しい日本語はどうあるべきか。世界とのコミュニケーションが不可欠になる現代だからこそ、良識のある判断が必要です。そしてその先に、グローバル言語の必要性が浮かんできます。

学校へ行かなくても困らない

うたのすけさんのブログに「無理に学校へ行くな」とありました。まことにその通りで、本人が行きたがらず、あげくに死んでしまうような学校へ、無理に行かせる必要など、さらさらありません。気の済むまで休ませておいて、家にいるよりもよい教育をしてくれることが確認できたら、また行かせればいいだけの話です。たかだか百年ぐらいの歴史しかない学校制度に、みんなが縛られなければならない義理などありません。学校ができる前の何千年も、子供の教育は、家で親がやっていたのです。
 義務教育とは、国民の権利として国から無償で受けられるもので、親の義務は、子供に普通教育を受けさせることだけです。特定の学校へ通うことが義務なのではありません。発明王エジソンは小学校から落ちこぼれだったそうですし、黒柳徹子さんも、それに近かったようです。家で好きな勉強をした方が向いている子供は、今でもいくらでもいるでしょう。幸い今は教科書でも参考書でも、いくらでも手に入るし、家庭教師も塾もあります。学校の進度は「学習指導要領」を見ればわかるのですから、基準を下回らない程度の学力をつけてやることは、親がその気になったら、決して難しいことではありません。何人かでグループを作る方法もあります。
 戦前に野田醤油で大争議が起こったとき、争議団に加わった家庭の子供たちが学校でいじめられて、同盟休校に入ったことがありました。このとき指導に当った総同盟は、独自の教室を開設して、ボランティアの文化人や学生の協力も得ながら、子供たちの教育に当りました。争議が解決して子供たちが学校へ戻ったとき、争議団の子供たちの成績が優秀で、級長になったり表彰されたりしたのが何よりも嬉しかったと、「繊維女工の母」と呼ばれた赤松常子は回想しています。
 小学校と中学は義務教育の中ですから、地元の公立校に在籍して、終了証を入手するのが順当でしょうが、高校になったら、通学の必要性はさらに低下します。Danさんのブログ(10月27日大学行きたかったら高校行かなきゃいいのに)にもありましたが、大検(大学入学資格検定)を、もっと活用すべきです。これなら、めざす進路に向けた勉強に集中して、大学に進むことができます。ここに述べたのは極端な考え方と思われるでしょうが、何のために学校へ行くのかということを、親子ともに原点から考える視点があったら、思いつめる悲劇も、少しは減らせるのではないでしょうか。
(追記・今年度から高等学校卒業程度認定試験と呼称が変りました)

「恋」と「愛」

和英辞典で「恋」を引いたら、love または deep love としか出ていなくて驚いたことがあります。愛の深いものが恋だという、程度の問題ではなくて、質的に違うという感覚があったからです。日本語の恋(こひ)は古い言葉で、死別、離別などで身近にいない人への思慕の情が本来の意味のようです。それに対して愛は「いとしい」感情を漢字の愛に当てたもので、比較的に新しいようです。
 語源はともかく、私の実感では、愛が深まって恋になるよりも、恋の方が先にやってきます。ある日ストンと落ち込んだことに気づくのが恋です。それはおそらく、DNAに仕組まれた本能が、種の保全を目的として発動する感情なのです。あとで考えると、その人に恋した理由は、それなりに説明がつくのですが、そのときの実感としては、事故に会ったようなものです。とにかくその時からその人のことが頭から離れなくなり、俗っぽい流行歌の歌詞までが妙に心に沁みるようなことが起こります。見なれている筈の自然の風景も、異様な美しさで迫ってきて、木の葉の一枚までが、いとしいものに見えてきます。DNAが先祖返りして、すべての生命に通じる回路が開くからだというのが、私の解釈です。ともかく恋は、恋人と共にありたいという衝動です。ですから「愛しているから別れてあげる」は言えても、「恋しているから別れてあげる」とは言えない、それが恋なのです。
 そこへ行くと、愛には恋よりも広がりがあるように感じます。恋人だった人と結婚して生活を共にするようになると、恋心は終ります。惜しいけれども仕方ありません。恋は目的を達したのです。長く続いたように思う私たちの新婚生活でも、ほぼ3年で終ったと思います。でも天の助けか、その後に家族としての愛が育ちました。妊娠し、胎内の子を気づかう妻を守るためだったら、私は命を惜しむことさえしなかったでしょう。幼い娘たちを育てて行く過程でも、家族を愛する気持は持続しました。
 恋は永遠のいのちへのあこがれ、そして広く人を愛することへの入り口、というのが、今の私の、一応の結論です。恋は、人のいのちに、たくましいエネルギーを呼び起こす源泉。それだけに危険でもあります。愛する家族がいる中へでも、恋は訪れることがあります。許されない愛はないけれども、許されない恋はあります。その話は、まだ書けません。

映画「三池」を見る

三池・終らない炭鉱(やま)の物語」を東中野ポレポレで見てきました。かつてエネルギーの主役で、国の重要産業であった石炭にかかわった人たちの記録を、丹念に拾った見ごたえのある映画でした。三池炭鉱は、最盛期には日本の石炭の4分の1を産出した巨大な炭鉱で、そこでは草創期には夫婦での採炭や、囚人の労働、戦時中には強制的に連行された朝鮮や中国の労働者、さらには戦時捕虜となったイギリス兵の使役までが行われ、戦後は労働運動の強固な拠点にもなったのでした。映画は、それぞれの時代の資料や、生存者の証言を積み重ねて行きます。
 映画のハイライトは、昭和35〜36年の三池争議です。石炭から石油へのエネルギー変換、生産性向上運動、安保闘争といった環境の変化が一点に集中して、三池が「総資本対総労働の対決」の場になったのでした。それはまた民社党の結成や、総評を批判する全労会議の結成とも関連していました。総評の労働運動の理論的指導者は、九州大学の向坂逸郎教授で、三池では「向坂教室」を開くなど活動家の育成に尽力しました。三池労組は結局は新労組の結成によって分裂し、多くの犠牲を払うのですが、組合員の妻の「机の前で考えた理屈の、私たちはモルモットにされたとですよ。」という声が印象に残りました。
 新労組の結成後は、争議は運動方針をめぐる労々対決の様相も見せるようになりました。所属組合の違いから、炭鉱住宅の中でも主婦や子供たちまでを巻き込む厳しい対立が始まり、新労組の組合員家族が集団で疎開するといった事態にもなりました。就労をめぐるトラブルでは、多くの負傷者も出しています。最後は全国から動員された総評のオルグ団が石炭搬出のホッパーを占拠し、これを排除するための警官隊も動員されて極度の緊張が高まる中、中労委のあっせん案を三池労組が受け入れて、争議は収束に向いました。私も取材で三池を訪ねたことがあり、感慨の深いものがあります。
 大争議から3年後の昭和39年、三池では鉱山史上最悪のガス爆発事故が起こり、四百名あまりの死者と千名近い負傷者、COガス中毒者を出しました。ガス中毒で神経を犯された犠牲者とその家族は、40年あまりを言語に絶する苦悩の中で過ごし、今は老衰の障害を加えています。忘れてはならないことがある、というのが、この映画のメッセージです。

ブログ広場・親から貰ったもの

私が父母から貰ったものは、この肉体。すべての細胞の中にある遺伝子。「身体髪膚これを父母に受く」と孝経にあるのは、その通りでしょう。ではどこから先が自前の「自分」なのか。……と書き始めましたが、今日は哲学ぶった話はやめましょう。具体的に親から何を貰ったかと考えると、数年前に、長い裁判の末に父母の遺産から何がしかの分与を受け、苦しかった会社経営にとっては干天の慈雨になりました。それは即物的な貰い物ですが、他にもいろいろなものを貰った実感はあります。
 父と母は明治27年、1894年の同年生まれです。18歳のときに明治が終り、31歳で昭和を迎え、39歳のときに私が生まれたことになります。太平洋戦争は47歳から51歳にかけてです。ですから私が知っている時期の父母は、創業までの苦労が一段落して、出版の家業を軌道に乗せる壮年期にあり、その間に戦争と戦後の混乱が挟まる、ということになると思います。
 気質的には、私は母に似たと言われます。母は人を責めることをしない優しい人だったと、人々に言われて生涯を通しました。その一面で、聡明で人を動かす才があり、事業を安定的に継続できたのは母の力による所が大きかったと言われています。知性の確かさ、努力の尊さ、情緒の豊かさなど、人間の持つ良いもののほとんどすべてを、私は母から教えられたように感じています。
 では父から何を貰ったかというと、これが難問なのです。毎日日記を書く習慣は、父に強制されたことで身につきました。編集や校正の実務も、否応なくやらされたので、高校時代からプロ意識を持つようになりました。本や資料は、何でも惜しみなく買い与えてくれました。この辺までは貰ってよかった贈り物と考えることができます。しかし、仕事をする後ろ姿で教えてくれたかというと、「ああはなりたくない」ということが多いのです。鋭い勘は働かせるし、いい文章も書くのですが、移り気で持続力がありませんでした。そのくせその時々の自分の意志を押し通す独裁者なのでした。父の才能を包み込んで評価するほどには、私は大きくなれませんでした。ついに対立し、反面教師とする状態のままで父の死を迎えることになりました。私に残された遺産は、父を正当に評価することなのかもしれません。
 みなさんにとっては、親から貰った大切なものは何ですか。

自分の価値観を持とう

今月7日の「価値観と虚無感」で、現代の不安の最大の原因は、多くの人が「価値観不在」のままで生きているからではないかと思い当りました。自分の価値観を持つことつまり「自我の確立」は、かつて旧制高校生の最大のテーマでした。それは「世に立つ」ため、つまり社会のエリートとして巣立つために必要な資質と考えられていました。そうした特権的な教育に適するように、戦前の学制は作られていたのでした。それが戦後の改革で、広くすべての国民に開かれたのは、正しい方向だったと思います。私は戦前の教育体系の残り香の中で育った最後の世代ということになります。
 私は社会に出てから仕事上の取材で、さまざまな人と出会いましたが、「これは」と思う人は、それぞれに自分の価値観をしっかりと持っていることに気づきました。それは学歴とは関係がありませんでした。むしろ下町の職人の「そんなこたぁ、お天道さまが許さねえ」というような言葉に、動かしがたい威厳を感じました。価値観とは、哲学書を読むことでも、複雑な理屈をこねることでもなく、自分の生き方を大事にすることで身につくものだったのです。それはたとえば、私の好きな「ゆきさん」のブログ(11月7日『どれだけいるのかな?』)に書かれているようなことです。
 
  この世に生を受けた全ての人は
  きっと寂しがり屋さんで、
  最初から自信なんてなくて、
  失敗を繰り返して大きくなっていったという事実を
  手を握り、目を見て話してくれる大人って
  どれだけいるのかな?

  ほんとうに小さなことだけど
  とっても大切な事のように思う。

 こういう人に育てられる子供がいると思うと、私は安心できます。「教育勅語」も「教育基本法」も読んだことがなくて構いません。しかし、価値観のない人生は危ういし、弱いのです。「価値観なんかに縛られたくない」と思う人がいたら、それは違います。価値観とは、自分が真剣に生きた長さに応じて、必ず自分の中に育つものだからです。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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