志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2007年02月

インフレ時代の記憶(1)

日本の戦後史については、さまざまな著作が出されていますが、私が不思議に思うのは、3年半で物価が百倍になった、あの悪性インフレの時代を正面から描いたものが、ほとんど見当らないことです。すべての国民にとって大事件であった筈なのに、わかりやすい記録も資料も、すぐ思いつくような形で残されたものがないのは、どうしたことでしょうか。
 物価が百倍になることの重大さは、疑う人は誰もいないでしょう。手もとの百円玉が1円の価値にしか使えなくなり、苦労して貯めた百万円の預貯金は、1万円の価値に目減りするのですから、今の日本にそんなことが起きたら、政権がいくつ潰れても追いつかないほどの大騒ぎになるに違いありません。そんな現実離れしたような時代が確かにあって、私たちはそれを体験しているのです。昭和21年の後半から昭和24年にかけて、私が中学1年から高校1年になるまでの間のことです。
 この間の物価騰貴は、たしかに国民生活を大混乱に陥れたのですが、それで直接に生活そのものを破壊された悲惨な経験を持つ人は、意外なほど少なかったような気がします。そのために、あのインフレが憎いという深刻な怨嗟の感情は、国民の間に残らなかった、私はいま、そのように理解しています。もちろん、インフレの影響の強さは、各自の経済状態によって、大きく違っていました。たとえば収入のある人は、収入の方も高くなるから、あまり困らないで済みます。いちばん困ったのは、過去に積んだ資産で生活していた人たちだったでしょうが、資産でも、土地、家、家具、衣類など形のあるものの価値は失われません。価値を失ったのは、預貯金、債権、保険金など、金額の明示されているものに限られたわけです。つまりインフレとは、「貯金が消えてしまう」現象であったわけです。
 ですから当時中・高生だった私の、この時代に対する印象は、それほど暗いものではありません。少なからぬ預貯金や債権を抱え込み、保険もたっぷりかけていた父母の嘆き節も聞かされ、私の知らない苦労もあったことでしょうが、少なくとも悲惨な運命に打ちのめされた両親の姿ではありませんでした。この時代の実際がどうであったのか、まずは私の体験したことを中心にして、思い出してみることにしましょう。

愛それによって・59

 荷物

あなたの荷物が重かったら
ここに置いていらっしゃい
あなたがもっと身軽になって
あなたの道を遠くまで行くために

捨てられるものは何でもかでも
それでも捨てきれない
あなた自身という
大切な荷物だけを持って

あとがどうなるかなどと考えずに
惜しみなく捨てる者だけが
絶えず新しく豊かなものを
拾うことができるでしょう

だから
いらない荷物はどうぞ
ぼくの前に置いていらっしゃい
ぼくの荷物も決して軽くはないけれども
あなたの荷物がここに捨てられることの
その理由とその重みとに
おそらく堪えることはできるでしょう

       (昭和41年3月5日)

愛されることの力

ゆきさんのブログを見に行くたびに、不思議な感慨に打たれます。難しい病変に襲われ、苦労と悲嘆のどん底を経験してきた人なのに、私の知っている誰よりも健康な心で人生を前向きに生き、毎日のブログを「しあわせ・幸せ・シアワセ」の言葉で結んでいるからです。その姿勢に多くの人たちが引きつけられ、心を癒され、時に温かい感謝と激励のコメントを残して行きます。もちろん同病の人たちには大きな希望になっているでしょうが、私などは、ほとんどの場合、ゆきさんの病気のことを忘れています。そして実生活でも、ゆきさんの周囲には、善意と感謝の気持で結び合う人たちが集まっているようです。
 恋をしている女性、愛されている女はきれいになると、昔から言われてきました。愛されていれば、強くもなれるでしょう。それは男でも、子供でも、老人でも、同じことです。誰かから愛されていると思えば、自堕落にはなりません。愛されることの喜びを知っていれば、もっと愛されたいと思って努力もするし、生きる張り合いが出てきます。それは自分が誰かにとっての何かであること、つまり、この世で無価値でないことの証明です。ですから愛することは、生きる証明書を人に与えることと同じです。愛されたことで救われた人は、その価値を知るからこそ、よく愛する人になることができるのだと思います。
 昨晩のテレビ「クローズアップ現代」で、「千の風になって」を特集していました。「私は死んではいません、千の風になって広い空を吹き渡っています」というメッセージは、父親を亡くした幼い姉妹にも、今も風になったお父さんに愛されているという、慰めと自信とを与えているのでした。死んだ後もなお愛は人を救う。その大きな愛をきわめた人が、釈迦でありキリストであったのではないでしょうか。愛される人から愛する人へと発展するのが、人の健康な生き方だと思います。
 しかし話はまだ終りません。愛されたことがなくて、愛することも知らないで育った子供はどうなるのでしょうか。「赤ちゃんポスト」として話題になった「こうのとりのゆりかご」が、愛に包まれて育つ子供を一人でも増やしてくれるなら、その努力に敬意と評価を送りたいと思います。そしてさらに、憎悪に凝り固まった人の心をも包み込み、溶かすことができるほど大きく強い愛の存在に思い到って、粛然とするのです。

愛それによって・58

 ふるさとの話を

おかあさん話してください
今こそ ふるさとの話を
あなたの話を聞きたがっている
あなたの息子のために

ある早春の一日
都会で育った息子は
母親のふるさとを
借用に出かけるのです

小さな踏切を渡り
田んぼの中にうねりながら
白くつづく一本の道を
何度あなたが歩いたかを

みどりに囲まれた墓地の中の
私の知らぬ大勢の先祖たちが
私のいのちにかかわりを持っていたという
信じられない本当の話を

海に近い砂地の庭の
塩気を含んだ井戸水のほかに
もっと淡い水があるということを
あなたが知っていたかどうかを

高くそびえる わら屋根の下で
黒光りする太い柱のそばで
あなたの心が温かく守られ
その重みにも堪えたことを

裏手の小川から吹く風の中に
遠くひびく上り列車の汽笛が
才気に満ちた農家の長女に
何を考えさせたかを

親にそむいて都会に出てから
つらい日々に苦しんだあなたが
このふるさとの思い出のために
何度 眠れぬ夜を過ごしたかを

おかあさん話してください
今こそ ふるさとの話を
あなたの話を聞きたがっている
あなたの息子のために

    (昭和41年2月23日) 

「地域再生の条件」を読む

本間義人の「地域再生の条件」(岩波新書)を読みました。日本の地方都市の凋落ぷりや、農山村の過疎ぶりは、私のわずかな旅行の経験からも、目にあまるものがありました。再生に向けての希望は持てるのか、そんな疑問に、ある程度は答えてくれる本でした。
 著者は地域が衰退した原因として、政府主導で5次にわたって推進された全国総合開発計画いわゆる「全総」が、誤謬と失敗の連続であったことを指摘した上で、現在活性化に成功しつつある地域と、衰退の止まらない地域との違いがどこにあるかを示しています。そして皮肉なことに、成功しつつある地域は、例外なく国の方針に従順ではなく、自己主張を貫くことで成果をあげられたとしています。著者が考える地域再生の第一条件は、まずその地域の人たちが、その場で安心して生きて行ける条件を確保することです。
 具体例は多数あげられていますが、私の印象に残った九州の田川市の場合は、石炭産業の撤退に伴う深刻な打撃からの再生でした。大量に余った炭鉱住宅を、市は会社から買い取り、縮小整理の国の方針に逆らって、良質な市営住宅への改造を進めたのです。炭鉱の町の宿命である障害者が多いことを理由として、障害者福祉都市の指定もかちとりました。つまり一時的な石炭産業合理化の文脈ではなく、住宅改善や福祉増進を根拠として国の補助を引き出すことに成功したのです。そして市立病院を充実させ、県立大学を誘致して、域外から人が集まってくる仕掛けを作りました。その中心人物は、当時の市長とその後継者だったということです。この事例を、観光や箱物への投資に走って破綻した夕張市と比べると、あざやかな対照を示しています。
 この本を通して、公共土木工事を柱とした相次ぐ全総計画が、いかに的外れで地域住民の福祉に役立たなかったかが浮き彫りになってきます。その的外れな税金の使い方は、いまだに続いています。過疎地の生活に欠かせないバス路線は、規制緩和で次々に廃止され、残された弱者の生活を不可能にして行きます。バスの維持に必要な資金は、通る車も少ない林道の完全舗装工事の費用に比べたら、取るに足りないほど小さいのに、です。それにつけても、政権交代なき長期政治の病根の深さを思います。再生への一歩は、地域から異議を唱える住民の意識改革だと、著者は述べています。

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愛それによって・57

 いこいのうた

今こそ休もう
楽々と足を伸ばして

しばらく休むのは
また新しく働くため
などとヤボなことは言わない

人間がそんなにも
絶えず努力し進歩し向上し
つづけなければならぬものなら
とっくの昔に宇宙空間で
消滅してしまったに違いない

僕はかまわずここで歌う
変化はしても進歩はしない
成熟はしても向上はしない
人間の原始のあこがれのために
千年かわらぬ いこいの歌を

お急ぎの方はお先へどうぞ
けんかが好きならどうぞけんかを
それよりも僕は
空の雲を眺めている方が好きだ

    (昭和40年7月28日)

時代は変るようで変らない

昨日の新聞別刷りに出ていた都立高校入試問題集を、ざっと眺めてみました。国語、社会、数学、理科、英語の5教科で、どれもよく考えて作られているように思いました。昔は得意だった幾何を考えるのに手間取って、力の衰えも感じましたが、どうやら今でも合格点ぐらいは取れそうだと思いました。その間にふと、同じような試験を、今は小学生の孫も、いずれは受けるのだろうと思いました。そうすると、私から始まる3世代にわたって、日本の学生に要求される知識レベルは、あまり変っていないことになります。
 私の2世代前の祖父には会ったことはありませんが、江戸時代に生まれて、教育を受けたとすれば村の寺子屋だった筈です。私の父も正式には小学校卒だけで、教員養成の速成コースで学んだと聞いています。妻方の祖母はカタカナ以外の読み書きはできず、母親も小学校を家の手伝いのために休み勝ちだったために、読み書きは不得意でした。それで2月18日の「親から聞いた話」で書いたように、「語り部」のような嫁と姑との会話になったわけです。教育の水準だけではありません、生活の全般にわたって、祖父母と私との間には、前近代から現代への、根本的な大変化が横たわっているのです。
 それに比べたら、私と孫との差は、ずいぶん小さなものです。彼の母親つまり私の娘が生まれる前からあった10円玉は、今でも10円玉として通用しています。ものの考え方や価値観も、基本的には、ほとんど変ってはいません。祖父母が江戸時代の村社会から文明開化を経験し、父母が富国強兵の時代に生き、私が戦争から戦後の民主主義を経験したのとは、たいへんな違いです。要するに私から前の3世代と比べて、私から後の3世代の変化の方が、ずっと小さいのです。
 これを将来に延ばして考えてみても、超・現代として、世の中が根本からひっくり返るような大変化は、世界大戦争でもない限り、考えにくいのです。世の中変った、将来は不透明だと騒がれますが、人間の生き方の基本は変らずに、使う道具だの通信手段だの、表面的な部分が変って行くだけなのかもしれません。浮き足立たずに毎日の生活を大事にし、日ごろの努力を怠らなければ、悪くない安定した時代がこの先に長く続くと期待しても、不都合はないのではないでしょうか。

愛それによって・56

会話について

あなたが誰かと
さし向かいで話すとき
どんなに楽しくおしゃべりしていても
ふと話題の途切れることが
必ずいつかはある筈です

そんなとき
その沈黙が気づまりで
あわてて次の話題を探すのが
まずは普通の場合です

でも時によると
その沈黙が気にならず
相手の顔を見たりしながら
ニコニコ笑っていられるかも知れません
そんな親しい友達を
持っている人は幸せです

ことによると
その沈黙を破るのが
なにか勿体ないような気さえ
することがあるかも知れません

たぶんあなたは
相手の人を
好きになりかけているのでしょう

      (昭和40年7月28日)

菅直人は都知事選に立て

統一地方選挙による東京都知事の選挙が1ヵ月後に迫っているのに、民主党の候補者がまだ決まりません。いくつかの名前が挙がっては消え、まだ混迷の中にあるようです。現職の石原都知事は3選への意欲を示して、オリンピック招致へ突き進む勢いです。身内の処遇や常識外れの旅費の支出など、多選の驕りと見える不明朗な話題を引きずりながらも、独特のアクの強さは衰えることなく、自信満々に見えます。
 対する民主党は、安倍内閣の支持率低下にもかかわらず、一向に人気が上向いてきません。都知事選を不戦敗で終るようでは、政権担当能力を、ますます疑われる結果になるでしょう。ここはエースを立てて全力で戦うべきだと思います。菅氏本人は「自分が国会を去ったら、安倍首相が喜ぶだけだ」と語っているそうですが、民主党自体を沈下させては国会での対戦も成り立たないでしょう。私としても、菅氏は総理大臣にしてみたい人ですが、この夏の参議院選挙で民主党が勝ったとしても、それで民主党が政権を取れるわけではありません。知事選に出ても、それが菅氏の政治家としての終点ではないと思います。菅氏が出ても、勝てないかもしれません。しかし「いい勝負」ができることは確かでしょう。それが党のエースとしての責務だと思うのです。
 菅氏が厚生大臣を経験して書いた「大臣」(岩波新書・1998年)を読み直してみました。ここで明らかにされているのは、議員内閣制で総理から任命される大臣が、官僚の飾り物のトップとして孤立し、官僚組織に絡め取られてしまっている実態です。官僚はかつての軍部のように、行政権の独立を盾にして、自己の論理でしか動かなくなっているというのです。菅氏は厚生大臣として薬害エイズの問題などで官僚の論理に風穴をあけ、国民の支持を得ました。その経験に基づいて、行政を国民の意思に従わせるための方策として、「官僚内閣制」から「国会内閣制」へという、重要な制度改革を、この本の中で提起しています。
 菅氏の政策と見識と実行力は、本来は国政の場で必要とされるものです。それは承知の上で、あえて菅氏に都知事選への出馬を要請します。市川房枝氏の弟子として、市民運動から出発した菅氏には、「東京から日本を変える」道もあると思うのです。

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愛それによって・55

 ある夏の晩

思いがけないときに
うしろから
僕を呼んでくれたのは誰?

振り向けば
会いたいなと思ってた顔が
二つも並んで笑ってた

何の努力もしないのに
こんな楽しい偶然が
ころがり込んでくるなんて

こんなことがあるから
人間は生きていられるんだと
僕は思いますよ

そう思いませんか
幸福そうに笑ってる
いずれも美人のお二人さん

今夜はいい晩ですね

   (昭和40年7月28日)
(帰りがけの偶然で、番組でつきあいのあった美人アナ二人と、喫茶店でおしゃべりしました。NHKの退職日が決まった頃でした。)

これからの家庭像

育てる子供の数は少なく、母親も社会の一員として働くことが当り前、テレビでもインターネットでも、個人として情報に接することは容易になっている。こうしたことが、これから先の家庭づくりの基本的な条件だろうと思います。多人数の家族の生活を一手に支え、自らを犠牲にして生涯を終ったかつての母親像は、そこにはありません。これからの家庭は、犠牲者を必要としないのです。
 子供の数は、やはり3人以上が望ましいと思います。子供を持たない女性も増えるでしょうから、子供を育てる場では、3人ぐらいはいた方がいいと思うのです。それは必ずしも一人で3人生まなくてもいいのです。姉妹でも友人でも他人同士でも、母親同士が協力して複数の子供を育てられる場があれば、親のためにも子供のためにも、有益かつ経済的でしょう。もちろん保育所が、公的にはその機能を果たすことになります。
 男性の役割も変るでしょう。対等な育児責任者として家庭を大事にする男性が増える筈です。しかし一方では、仕事一筋に人生を貫きたい男性も、そして女性もいることでしょう。そういう人たちには、日本の伝統だった「通い婚」が似合うかもしれません。育児に対する社会保障が充実していれば、そういう人たちにも親になるチャンスはあります。そして結婚は法律行為ではなく、事実婚が主流となって、戸籍は個人本位に作られるようになるべきだと、私は思っています。
 20世紀には「家」を単位として家庭生活が営まれ、生活の知恵も引き継がれました。そこから世帯が細分化して、孤立して暮らす人が増えてきましたが、これは人間の「群れて暮らす」性質に適合していません。複数の人間が子育てを中心に助け合って暮らす新しい習慣が必要だし、必ずそのようになって行くだろうと思います。
 老人の立場はどうなるのでしょうか。家の中で長老として権威を保ち、子や孫に昔の話を聞かせるような出番はなくなりました。昔の景色はテレビで見られるし、昔の話はネットで調べられるし、その材料は私もいま書いているところです。それともう一つ私が思っているのは、老人と幼児との親和性です。集団としても個人としても、育児の補助者としての老人の活用は、子供のためにも老人のためにも、得るところが大きいに違いありません。

愛それによって・54

 骨肉

骨と肉とは血によってつながる
血によって生きる
これは生理である
必然である
宿命である

骨と肉とを裂けば
血を見ずには済まない

生あたたかく
血の匂いに満ちた
骨肉の愛!

   (昭和40年7月26日)
(家業への復帰を考え始めた時、早くも父親との対立を予感しました。)

テレビは家庭をどう変えたか(2)

昭和50年代の初めまで、わが家のテレビは居間兼食事室の1台だけでした。多くの家庭も、たぶん同様だったと思います。娘たちは中学生になる前後でした。この頃の最大の問題が、どの番組を優先するかという「チャンネル権」だったと思います。親は子供たちに譲る場合が多かったのですが、その場合でも、子供たちがどんものを好んで見ているかを、知ることはできました。そしてドリフターズの「8時だよ、全員集合」などを、あまり感心しないと思いながらも、私もけっこう楽しんで見ていました。テレビのおかげで、時代の感覚に遅れないでいられるようにも感じました。家庭生活がテレビの影響を受けた大きさは、この頃が一つのピークだったように思います。
 次の10年ほどで、家庭に2台目のテレビが入りはじめ、ほぽ同時にビデオデッキが登場しました。これはチャンネル権争いを解消するとともに、家族の分散化にもつながりました。わが家の場合は、娘たちの高校、大学時代とも重なりましたから、その変化は明らかでした。私としても、好きな番組を気兼ねなく見られるようになって、好ましい変化であったと思います。やがて寝室にもテレビとビデオを備えるようになって、就寝後の楽しみが増えました。
 私が次にテレビの存在を強く意識したのは、娘たちの家族が半同居状態になって、総勢9人の擬似大家族の暮らしが始まってからです。孫たちが幼児の頃は、親である娘たちとの調整だけで済んでいたのですが、学校に通うようになると、孫自身の主張が出てきます。その結果は、居間と食堂とを使いわける食事の完全な分離になりました。見たいテレビを中心として、私と孫たちとの会話の接点が少なくなることは止むをえません。ただし孫だけの部屋にテレビを置かないことは今でも守られていますから、孫たちの好みの傾向ぐらいはわかります。
 それにしても、テレビ(ビデオを含めて)は、じつに魅力的なメディアです。見ているだけで、思いがけない新知識が得られたりします。教養番組でも見ていれば、たとえ半眠りでも、おじいちゃんはテレビでお勉強しているらしいサマにもなります。それよりも本当は、家族と何気なく交わすナマの会話の方が大切だとは思うのですが、しかしそれは、けっこう面倒なことなのです。

愛それによって・53

 時間

私の死は すでに予定されている
私の持っている時間は
多分そんなに長くはない

今日の二十四時間はもうすぐ終る
明日の二十四時間もおそらく終る
だがいつか
一日の二十四時間が終らぬうちに
私の終末の時間がくる

それが明日であろうと
数年の後であろうと
数十年の後であろうと
ほかの誰も関心を持つことではない
それは私だけにかかわることだ

だが実際にその日がくると
もはや存在しなくなった私は
そんな事件にかかわりようもなく
皮肉にも
かかわりのない筈だった他人だけが
何やかやと迷惑がるに違いない

      (昭和40年7月25日)

テレビは家庭をどう変えたか(1)

私が自家用にテレビを買ったのは、昭和33年の暮れです。中古の14インチの白黒テレビでしたが、月収の数倍に当る高価な買い物でした。それ以来50年ですから、私の人生の大半にわたってテレビとのつきあいが続いているわけです。当時は自分でテレビの仕事をしていたので、ほとんど常時つけ放しにしていました。それが夫婦の会話に邪魔になったという認識はありません。アパートのすぐ横が山手線の線路でしたから、電車の通過音の方がよほど邪魔でした。言わば「ながら視聴」の元祖だったと思います。
 テレビが国民文化を低俗化するという論調は、早い時期からありました。テレビの局数が増えた昭和34年以降には、視聴率本位の民放の娯楽番組が、批判を受けることも多くなりました。私は担当していた「われら10代」の番組に呼び集めた高校生たちに、「テレビは、やってるから見る、という時代じゃないよ。目的をもって選んで見なくちゃ」とお説教していました。しかし教育テレビの番組だった「われら10代」の視聴率は、最高でも1%を少し超える程度以上にはなりませんでした。
 公団住宅に入居ができて娘が生まれてからも、わが家のテレビは初代の1台だけでした。居間に置きましたから、食事の時間にもついています。しかし画面を見なければラジオと同じことですし、チャンネルはNHK総合に、ほぼ固定されていました。民放にいろいろと面白い番組があることを知って、娘たちといっしょに見るようになったのは、幼稚園に通う年齢になった頃からです。もっとも私は夕食時に家にいることは少なかったのですが、しっかり食べさせるためにテレビが邪魔になるという話は、妻からも聞いた記憶がありません。
 娘たちが小学生になり、テレビがカラーになっても、状況はあまり変りませんでした。早めに帰宅して、娘が夢中になっているアニメ番組などをいっしょに見るのは、楽しい時間でした。一週間の曜日ごとに、何時からテレビで何を見るかは、きっちりと決まっていました。妻はそれに合わせて、微妙に食事の時間を調整しているようでした。この頃から、テレビは茶の間の主役となり、家庭生活のリズムを支配するようになったのです。それでも私は、テレビが家族の共通の話題を提供していることに満足し、そこに問題を感じてはいませんでした。テレビにとられる時間の絶対量が、親子の会話の絶対量を、たとえば私たちの育った時と比べて大幅に減らしていたことは、いま振り返って、ありありと思い当ることです。

愛それによって・52

 上り特急「あさかぜ」

ぼくはいま走っている
あなたのいる所へ
静かに座り 考えながら
しかも全速で走っている

歩き疲れた自分の足を
座席に長く伸ばしたとき
ぼくは突然に理解した
文明の存在理由を

自分の足で歩かないことは
今は恥ではなくなった
静かに座り 考えながら
ぼくは行きたい所へ行く

長いつらい希望のない
無駄な旅はもう終った
ぼくは再び自由に生き
あなたの所へ帰る

ぼくはいま走っている
静かに座り 考えながら
しかも全速で走っている
あなたのいる所へと

    (昭和40年6月22日)
(「若い広場」の最後の撮影ロケを終って帰る車中での感想です。博多からの寝台特急でした。)

昭和33年は文明の節目

私なりに昭和33年を考えると、かなり重要な文明史上の変わり目のように思われます。その年に蒸気機関が発明されたとか、飛行機が飛んだというような年表上の大事件はなくても、国民の生活が本格的に変り始めたという意味で、大きな分岐点だったと思うのです。
 家族の関係で言うと、前近代までの多産多死から多産多生つまり人口爆発の時代を経て、少産少子の時代になりました。多人数のきょうだいで育った親たちは、受胎調節法の普及によって、一人か二人の子供を大事に育てるようになったのです。手あぶり火鉢と団扇か扇風機程度だった冷暖房は、部屋ごとの暖房が常識になり、少し遅れてクーラーも登場してきました。襖と障子に羽目板の伝統的な家屋の造りが、サッシ建具とモルタル塗り、そしてやがてコンクリートの集合住宅へと変り始めたのです。トイレも汲み取り式の便所から、水洗式へと変りました。これだけでも画期的な出来事です。自然に親しむ昔の生活に郷愁を感じる人でも、汲み取り式の便所の方が素朴でよかったと思う人は、非常に少ないのではないでしょうか。
 考えてみると、昭和20年代までの庶民の暮らしは、基本的に江戸時代の農家の暮らしと、あまり変ってはいなかったのです。照明がランプから電灯になり、炊事が竈からガスコンロに変っても、家の構造も日常の食事も身につける衣類も、大半は祖父母の時代と共通していました。町に電車や自動車が走っていても、家庭生活の中身の現代化は、50年は遅れていたと言えるのです。そう思ってみると、昭和33年からの変化が、人類の歴史にただ一度の大変化だったことが納得できます。
 家庭内のコミュニケーションにとって最大の問題は、テレビの登場でした。それは最初、居間に飾ってあって、時間を決めてみんなで見入るものでした。昭和33年当時に東京には3つのテレビ局しかなく、しかも全日の放送ではなくて、夜も10時程度で終っていました。それが翌年には局数が一挙に倍増して、放送時間も朝から夜まで切れ目なくつながるようになりました。完成したばかりの東京タワーから電波が出るようになったのです。この年にNHKに入った私は、テレビを家庭の必需品として見て貰うことを目指して、日夜番組づくりに励むことになりました。テレビが家庭に及ぼす深刻な影響を、まだ考える余裕はありませんでした。

愛それによって・51

長尾峠にて

この夜更けに
私は霧の中を進んできました
進めば進むほど濃い霧でした
ヘッドライトは二本の白い棒のように
五メートルほど先を辛うじて照らすだけでした
もう誰も通る筈のない裏街道を
うねうねとつづく危険な山道を
それでも私は登ってきました

峠のトンネルの中も霧でした
トンネルを出ても同じ霧です
私は車を止め
貧しい人工のあかりを消しました
音もなく光もなく
ただ一面にぼうと白い世界です
たちまち息のつまるような恐怖感が
周囲から私を締めつけます

自然よ 私は
小さな哀れな人間になってしまいました
わざわざあなたの懐に入り込みながら
ここで今 こんなに震えているのです
自然よ あなたは
こんなにも底知れず
脅迫に満ちたものだったのでしょうか

自然よ ああ 私は
忘れていたことをやっと思い出しました
昔からあなたは人間の敵でした
小さな人間たちは
寄り集まり力を合わせることで
はじめてあなたの一角に
安住の地を築いたのでした

今だから言いましょう
私はあなたを利用しに来たのだと
思い立ったらもうたまらずに
飲まず食わずに走りつづけて
ただあなたに拒否されるために
拒否されて人間の世界へ跳ねて返るために
ここまでやってきたのだと

自然よ あなたは巨大です
私はあなたに
叱られたり許されたりするほど
価値ある者ではありません
さよならも言わずに
私は早く逃げて帰りましょう
なつかしい人たちの住むところへ
私がそこで生きるべき人間の世界へ

       (昭和40年6月7日)

布施克彦「昭和33年」を読む

布施克彦の「昭和33年」(ちくま新書)は、期待以上によく書けている本でした。著者は1947年(昭和22)生まれの団塊の世代、昭和33年には11歳ですから、ちょうど私たちが終戦を迎えた年ごろです。成人し就職してから海外生活の経験も豊富で、広い視野から、日本の高度成長の原点と言われる昭和33年を見直し、そこから日本の未来への希望を見出そうとしています。
 昭和33年は映画「ALWAYS三丁目の夕日」でも話題になりましたが、「まだ貧しかったが、人の心が豊かで希望にふくらんでいた」とイメージされているようです。しかし本当にそうだったのだろうか。著者はこの年の新聞を丹念に読み直す作業を基礎として、根本的な疑問を投げかけるのです。昭和33年には、極貧の生活はありふれていて、栄養失調や餓死の恐怖は、まだ完全に去ってはいませんでした。集団就職で上京する田舎からの中学卒業生たちに、職業選択の自由などはありませんでした。経済的、精神的に破綻して自殺する若者は後を絶たず、若年層の自殺率の高さにおいて、日本は世界でも最悪でした。将来への見通しについても、就労人口が増加するので、競争はますます激しくなり、失業率も上昇するとの予想が大勢を占めていました。
 著者はここで、日本人の特性としての「昔は良かった症候群」と「将来への心配性」を挙げています。世界の他民族との比較において、農耕共同社会、変りやすい自然環境、閉鎖的な島国などの条件によって、日本人には上記の2つの傾向が、顕著に認められるというのです。私は他民族のことはよく知りませんが、私たちの中に「昔はよかった」とする感覚が根づよく存在することは認めなければならないと思います。
 私にとっても、昭和33年は、「社長の息子」の地位を捨てて家出し、結婚して、一失業者としてゼロからのスタートをした記念すべき年です。まさに「貧しかったが希望だけはあった」年でした。餓死も絶望もしないで済んだのは、幸運としか言いようがありません。それでもこの年に暗いイメージを持たないのは、その後の人生が悪くなかったという、結果オーライが今ならわかっているからです。しなくてもよい苦労は、しない方がよかったのです。私にも父にも、もっと無理の少ない、幸せの多い人生がありえたのです。この本から発展して、そんなことまで考えてしまいました。

愛それによって・50

こどもの一日

新しいものが好きで
じっとしていることが嫌いで
すべての人の注意を自分に向けたがり
欲しいものは誰にでも欲しいと言い
きらいなものは絶対にきらいだと言う
この確信に満ちたこどもの一日

目が覚めればすぐに起き
次から次へと絶えず動き
動けなくなるほど疲れると
何でもないことに大声で泣き
泣きやむと眠ってしまう
この健康なこどもの一日

あすは何をしようかと
腕組みして考え込んでいるような
変なこどもを見たことがあるか
俺は何のために生きているのかと
疑いながら生きているような
変なこどもを見たことがあるか

人間のいのちにとって
成長はついに退歩の歴史に過ぎないのか
親はわが子の一日を見て
こどものように充実した生活を
せめて一週間でも続けることができたら
人生に不可能がないことを感ずるのだ

       (昭和40年5月30日)

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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