志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2007年03月

「はたらく」ということ

優しい光」さんのブログの3月28日に、城山三郎氏の死去に関連して「経済活動に志が伴っていた時代」ということから、働くということについての感想の部分がありました。傍を楽にするが「はた・らく」であるべきなのに、志をもって働く人が少なくなったというのです。世の中の行く末を憂い、同感する人が多いのではないでしょうか。
 語源的には、「はたらく」という動詞は、あまり古い言葉ではないようです。「立つ」「行く」など動作のはっきりした動詞とくらべると、働くというのは抽象的な行為です。文献に登場するのは鎌倉時代以後で、体を動かすこと、戦場で役立つことなどに使われるようになったようです。人が動いて働くという漢字の成り立ちは、国字つまり和製漢字であるということも、今回調べてみて初めて知りました。一時は中国でも使われたが、中国語では動だけで働く意味になるというのも意外でした。傍(はた)を楽にするのが「はたらく」というのは、私も以前に聞いたことがありますが、語源というよりも、よくできた例え話というところでしょうか。
 働くのは、もちろん自分のためでもありますが、「額に汗して働く」などと言うと、人のため世のために心身を労して努めるというイメージがあります。そういうイメージからすると、バソコンの操作で投機資本を動かす金儲けなどは、働くことの風上にも置けない、志を失った働き方ということになります。私もそういう人種に生理的な反発を感じてしまう方なのですが、ここで感情に流されずに踏みとどまらなくては、という思いもあります。パソコンは現代のソロバンであり、人間の道具に過ぎないからです。敵に回しても勝ち目はありません。
 世界的に全盛期を迎えつつある資本主義経済は、コンピューターのネットワークに支えられています。そして拡大をつづけてきた世界の経済は、いま環境問題という曲り角にさしかかり、長期安定への道を模索しています。現在の世界の富は、世界の人口を飢えさせないのに充分以上のレベルに到達しています。これからの最も価値ある働き方は、コンピューターを人間を幸せにする道具として使いこなすことではないでしょうか。そのためには政治の力が必要です。つまり「志」がなくてはなりません。コンピューターは有能ですから、人の生存に必要な所得とその配分方法などは、たちどころに計算するでしょう。人間は飢えの恐怖から解放されて、すべて志のために働くようになる、そんな世界の未来だって、決して夢ではないのです。

おじいちゃんの書き置き・8

(第1章 私の育った時代)

軍国少年の作られ方
 
 日本の軍国主義全盛期に小学生だった私たちが、その影響を受けずに育つことはありえなかった。学校の呼び名は一九四一年、私たちの二年生のときから「国民学校」と変わり、
それは卒業の年まで続いたのだが、そこまで使いわけるのはわずらわしい気がする。たとえば「小学生時代」とは言えるが「国民学校生時代」とは言いにくい。やはり国民学校が戦時だけの一時的な名で、結局は定着しなかったからだろう。
 学校の授業で先生から戦時らしい話を聞いた記憶はあまりない。せいぜい勇ましい歌を教えて貰ったくらいの所で、「あの日あがったゼットきZ旗を 父が仰いだ波の上 今日はその子がその孫が……(海の進軍)」などを覚えている。そのほか、作文の時間に戦地の兵隊さんへ送る慰問文というのを書かされた。「ぼくたちも兵隊さんに負けないように、一生けんめい勉強しながらがんばっています。学校にも防空壕を作ったから大丈夫です。」などという手紙を書き、それを先生が集めて実際に送っていたようである。私の父は記者だったから時局に対してある程度は批判的な見解を持っていたようだが、子供に反戦的な教育をすることはなかった。そういうことの危険さもよく知っていた筈である。私の作文に父がちょっと手を加えたら、すごくいい手紙になった。それを受け取った兵隊さんから「読んでいるうちに涙がでました」と丁寧な返事が来たこともあった。
 家での情報源としては雑誌の「少年倶楽部」や「小学生新聞」などがあった。少年倶楽部の連載「昭和遊撃隊」は新鋭の巡洋艦隊が縦横の活躍をする物語で、毎号待ちかねてむさぼるように読んだものである。「児童年鑑」に載っていた軍艦の写真入りの一覧表も主な項目を暗記するほどよく読んだ。「大和」「武蔵」などの最新鋭艦は敗戦まで軍事機密のままだったので出ていなかったが、「長門」「陸奥」の主砲が口径四十センチで八門などと今でも正確に覚えている。マレー沖海戦で活躍した海軍機の姿もじつに美しかった。新聞に出た写真をなぞって何度も描いてみては想像をふくらませた。
 軍事マニアの若者は今でもいるだろうが、当時の少年が日本の軍艦や飛行機に寄せた関心の熱さは、とうてい比べものにならないだろうと思う。現に戦われている戦争の主役たちであり、その活躍が自分たちの未来を左右するのだ。そこには切ないほどの憧れと信頼感があった。そしてさらに、男なら自分もそれらに乗って活躍してみたいと思うのは自然な流れだろう。
新聞をはじめとする報道では、国のために死ぬことは美しいこと、名誉なこと、誰でもそうするのが当然のこととされていた。戦争が空襲として頭上にやってくるまで、戦争で死ぬとは本当はどういうことなのか、少年たちが知る方法はなかった。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する語の前に表示されます)

働くことの伝承

現代の子供たちは、いつどのようにして働くことを覚えるのでしょうか。学校を卒業して就職し、一人前の給料を貰うようになると、働く人になったと見なされて、社会人の仲間入りしたと認められるようです。しかしアルバイトなどで賃金を貰うこと、つまり価値のある働きをすることは、高校生あたりから経験している場合も珍しくないことでしょう。人間として価値ある働きができるようになる年齢は、10代の後半あたりからであるという事実は、昔も今も、あまり変っていないように思います。
 明治27年生まれだった私の父は、小学校卒業後に教員養成所に入り、代用教員として小学生を教えたのが15〜6歳の頃だったと聞いています。子供が子供を教えているような風景だったでしょうが、当時はちょっとでも見どころのある少年には、チャンスが与えられるのも早かったのでしょう。明治の元勲と呼ばれる人たちも、驚くほど若い年齢で活躍を始めています。
 文明開化の特殊事情と思われるでしょうが、私はむしろ当り前のことだと思います。農漁村でも商家でも、15〜6歳になった子供たちは、立派な戦力として家のために働いていた筈です。それどころか、もっと小さいうちから、男の子も女の子も、親の手伝いをしながら育ったに違いありません。代々それが当り前の「働くことの伝承」だったのです。
 私の父は、その感覚を私に対しても持ちつづけていたのだと思います。高校生だった私に家族で最初の自動車免許を取らせ、貴重品だった筈の自動車の管理を任せました。出版物の編集についても、一定部分の文案、割付、校正から印刷所との打合せまでを一貫して担当させました。その経験が私の人生の方向を決めたことは否定できません。私のブログは1日分が1100字程度ですが、これはマウスを動かさずに1画面に見渡せる分量です。与えられたスペースの中で文をまとめる習性が、今も生きているのです。
 今でも伝統芸能や、クラシック音楽、一部のスポーツなどで家系による英才教育が行われており、成功例も多いようです。職業選択の自由をそこなう問題もあるでしょうが、親が子に働き方を教えるのは、文化の伝承そのものの一部分です。「何も教えない、自由に任せる」だけが善であるとは信じられません。サラリーマン家庭であろうと、生涯主婦だった母親であろうと、一人前の働きをしてきたことを、遠慮なく子供に伝えるべきだと思います。

おじいちゃんの書き置き・7

(第1章 私の育った時代)

古いものほどよい物だ
 
 私の小学生時代は、身の回りのすべてが時とともにどんどん貧しくなって行く時代だった。消しゴムは固くて消しにくいものになり、鉛筆は塗装が薄くなって芯が折れやすくなった。ゴムまりは十銭も出して新しいのを買ったのに、力を入れて弾ませようとしたらパックリ割れてしまった。割れた破片にはゴムらしい弾力がなく、兄たちが使っていたゴムまりとは明らかに材質が違っていた。ゴムは戦略物資だったのである。
 靴も牛革のものが貴重品になり、豚皮が普通になった。靴でもランドセルでも、年上の兄弟からのお下がりの方が概して品質が良かった。友達の間で「おれの靴は古いから物がいいんだぞ」「おれのだって古いぞ」と、持ち物が古いことを互いに自慢したことを覚えている。子供心にも、新しいものほど品質が悪く値段が高いことを実感していたのだ。しかし自分たちが不自由で可哀想な時代にめぐ廻り合わせたなどという思いは全くなかった。むしろ母親からそんな意味のことを言われたような気がするが、日本中がそうなっているのだから文句は言えないと思っていた。なにしろ「欲しがりません勝つまでは」がスローガンだったのである。
 学用品や生活物資ばかりでなく、食べるものも貧しくなって行った。町の菓子屋もパン屋もいつの間にかなくなってしまった。食料の配給制が始まって、米屋の前に食料切符を持った人たちが並ぶようになった。小学生も時には親に言いつけられて列に並んだ。私を末子として育ち盛りの五人の子供がいた家の中には、いつもおやつの菓子類が入っている大きな缶が置いてあったのだが、それも品切れが多くなり、やがて誰も蓋をあけてみようとしなくなった。
 遊び道具も同じだった。兄はトランスから線路に電流をつないで運転する、本格的な鉄道模型を持っていた。それは日本橋の三越で兄が売り場の前に座り込み、親がついに根負けして買い与えたという、いわくつきの高級品だった。小学生になった私は兄の監視のもとにそれで遊ぶようになったが、細部まで念入りに作られた重量感あふれる流線型の機関車は、手にとって眺めるだけでも飽きなかった。そのようなものを買うことのできる時代があったということが、遠い外国の話のように思われた。
 私は成人に近くなってから、世の中はだんだん豊かになって行くのが正常で、戦時中は特殊な時代だったということを知った。しかしその渦中にあった小学生時代を考えると、人間はかなりがまん強い存在ではないかと思う。環境が厳しさを増すにつれて、一種の緊張感が生まれて精神の支えになった。そして家族や友達との人間関係を大切にし、助け合おうとする気持が強くなっていたように感じるのである。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する語の前に表示されます)

孫が成人するとき

先日の涙、涙の卒園・謝恩会で書いた野方学院幼稚部の卒園ビデオが完成しました。編集仕上げを担当したのは高校一年生の孫です。今回はすべてパソコンを使っての編集になり、私は手出しも口出しもしませんでした。というよりも、私はすでにパソコンを使ってのビデオ編集は、あきらめているのです。出来栄えは、私がやっても同じようになったであろうと思えるもので、デジタル技術を使いこなした部分などは、私の及ぶところではありません。先ほど「免許皆伝」を言い渡しました。
 私の最初の孫として生まれた彼とは、2歳にもならないよちよち歩きの頃から、親密なつきあいを重ねることができました。父親がサービス産業の仕事で土曜日曜が休みでないこともあって、休日のたびに近所にある公園の中から一つを選んでは、遊びに行ったものです。ジャングルジムなどで遊びながら、私も体を動かすことのできる楽しい時間でした。
 幼稚園の年長組になった頃から、メカに強い彼の特性が現れてきました。先生の手伝いとしてラジカセの操作をすることを、彼だけは許されたと聞いています。そして卒園のときに、私がビデオの撮影に行って、それを記念ビデオにまとめるまでを見ていました。その評判がよかったので、彼も嬉しかったのでしょう。そして小学生になり、私はベータカムのプロ用機材を使ってのビデオ編集を、彼に教えるようになりました。卒園式のビデオ編集は、彼の卒園後も恒例となって続きました。
 今も一字一句まで覚えているのは、2年生を終るときに書いた「ぼくの夢」という作文です。「ぼくの夢はビデオのかいしゃになることです。なぜかというと、おじいちゃんにビデオのへんしゅうを教えてもらって、それが面白かったからです。」とありました。私はその欄外に「けんとくんのいちばんいいところは、きもちがやさしいことです。人のきもちがわかって、だいじにできる人は、どんなことをしても、いい仕事ができます。もちろん、すばらしいビデオもできるでしょう。楽しみにしています。」と書きました。
 小学校を終るまでは勉強の手伝いもしましたが、中学生になってからは、ほとんどコミュニケーションは取れなくなりました。その間にも、彼のパソコン技術はどんどん進化して行ったようです。会社のパソコンにウイルスを呼び込んで、出入り禁止になったこともありました。そして今は、一人前の仕事のできる人間になったと私は思います。彼の進路はどうなるのか、私にも彼の親にも、まだわかりません。でも、もう自分で決められる資格を得たと、私は思っています。

おじいちゃんの書き置き・6

(第1章 私の育った時代)

学校は教育勅語で明け暮れた
 
 私たちの時代、学校の各学期は始業式の教育勅語の奉読で始まった。全校生徒を集めた前に校長先生が立ち、そこへ教頭先生が四角い盆にのせた勅語をうやうやしく運んでくる。それを校長先生がお推しいただ戴いて読み始めようとするタイミングで、生徒は一斉に頭を垂れて読み終わりまでじっとしているのである。その全文は次の通りである。ただし現代かなづかいにして一部の漢字はかなに変えてある。
 教育に関する勅語
ちん朕おもうに我がこうそ皇祖こうそう皇宗国をはじ肇むることこうえん宏遠に徳をた樹つることしんこう深厚なり 我が臣民よく忠によく孝に億兆心をいつ一にして世々その美をなせるはこれ我がこくたい国體の精華にして教育のえんげん淵源また実にここに存す なんじ臣民父母に孝にけいてい兄弟にゆう友に夫婦あいわ相和しほうゆうあい朋友相しん信じきょう恭けん倹おのれ己をじ持し博愛しゅう衆に及ぼし学をおさ修めぎょう業を習いも以って智能をけいはつ啓発しとくき徳器をじょうじゅ成就し進んで公益を広めせいむ世務を開き常にこっけん国憲を重んじ国法にしたが遵いいったん一旦かんきゅう緩急あれば義勇こう公にほう奉じも以っててんじょう天壌むきゅう無窮のこううん皇運をふよく扶翼すべし かく是のごと如きはひと独りちん朕がちゅうりょう忠良の臣民たるのみならずまたも以ってなんじ祖先のいふう遺風をけんしょう顕彰するにた足らん 
この道は実に我がこうそ皇祖こうそう皇宗のいくん遺訓にして子孫臣民のとも倶にじゅんしゅ遵守すべきところ所 これを古今に通じてあやま謬らずこれを中外にほどこ施してもと悖らず ちん朕なんじ臣民ととも倶にけんけん拳々ふくよう服膺してみなその徳をいつ一にせんことをこいねが庶幾う
 明治二十三年十月三十日 ぎょめい御名ぎょじ御璽
御名御璽とは天皇の署名とぎょくじ玉璽つまり公印が押してあるということで、この御名御璽を聞くとみんなは最敬礼で深くおじぎをして立ち直り、下を向いていた間にたまった鼻汁をすすり上げるのだった。
 教育勅語は当時学校に通っていた子供たちは繰り返し聞かされたから、この年代の人はほとんど全文を暗記している。内容の理解の程度には差があっても、一部分を聞いただけでその前後の言葉がすらすらと記憶によみがえる。老人ホームでは一種の懐メロになるし、記憶力のトレーニングにも役立つようである。
 戦前教育の象徴として槍玉にあがる教育勅語だが、内容は決して過激ではない。いちばんの問題点は日本が天皇を中心に成り立っている国家であることを、大昔から決まったこととして押し付けていることだが、それを除けば「なんじ臣民」以下に列挙されている徳目は常識の範囲と言えるものばかりである。子供の教育をするときに、よいことと悪いことの区別を、批判精神の以前に、決まったこととして教えておいてよい部分がある。現代の子供のために、教育勅語の役割を果たすものは何なのだろうか。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する語の前に表示されます)

すぐれた公務員とは

公務員の天下り防止対策として浮上した「新・人材パンク」案に対して、早くも省庁や保守党政治家の間から、さまざまな不満や抵抗が噴出しているようです。高級官僚にとっては、政界に入ることも一種の天下りですから、政・官が癒着して既得権を守ろうとするのは当然のことです。彼らが唱える「大義名分」の大きな部分に、「退官後の生活に不安があるようでは、優秀な人材が集まらなくなる」というのがありました。この言い分は、いかにも霞ヶ関の住人らしい感覚ですが、国民の感覚からすれば、ずいぶん身勝手な言い分ではないでしょうか。
 官僚の感覚では、最も優秀な頭脳集団が組織した官僚機構が日本の国を支えているのだから、その幹部が最高の身分と報酬を生涯にわたって保証されるのは当然だ、ということになるのでしょうが、そこには官僚機構こそ日本の国家そのものだという思い込みがありそうです。しかし本来は、官僚機構とは、国家社会の円滑な維持向上のために働くべきサービス機関に過ぎません。日本国憲法の第15条には「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と明記しています。
 広義の公務員には、国会や地方の議員、大臣なども含まれるので、一部は国民が直接に選挙で選んでいますが、一般職の公務員は官庁が事実上の採用や配置を行っています。しかし最終的な任免権が国民にあることは、もっと周知すべきでしょう。国民のために働かず、一部の利権に奉仕するような公務員を、国民が直接にリコールする制度も必要だと思います。
 国民の立場からのすぐれた公務員とは、国民の幸せのために情熱をもって日常の業務を行い、国の未来を明るくするために、先見性をもって法制度の改善を進める人です。退官後の安穏な生活が保証されるのが魅力で公務員になった人が、必ずそのように活躍してくれるという保証はあるのでしょうか。それよりもむしろ、多彩な社会経験を積み、先見性と指導力と情熱を備えた民間人を、幹部公務員として迎え入れる道を開いておいた方が、官庁の活性化に役立つのではないでしょうか。
 戦前の憲法では、官吏は天皇の家僕でした。今の憲法では、公務員は国民のための奉仕者です。公務員が特権階級であり続けることを許しては、国民のためにも、公務員のためにもならないのです。

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おじいちゃんの書き置き・5

(第1章 私の育った時代)

ラジオが最新の情報源だった
 
 母から関東大震災のときの体験を聞いたことがある。それは私が生まれる十年前の一九二三年、大正十二年のことである。父は当時新聞記者で、自宅にいて激震に見舞われた。たまたま便所に入っていて、扉がゆがんで出られなくなり「開けろ開けろ」と叫んだというのが思い出話だった。山の手にあった家には幸い大きな被害はなく、父はすぐさま「会社へ行く」と出かけて行った。父は勤め先の「国民新聞社」が壊滅的な状態になっていることを確認した後、鎌倉にあった社長の徳富蘇峰の自宅まで歩いて行ったと聞いている。その数日間、母には何の連絡もなかった。東京の下町で大きな火災が発生していることも、うわさ話で聞くだけだった。まだラジオ放送がなく、新聞の配達が止まっている間、信用できる情報は何ひとつなかったのである。ただ父の帰りを待つしかなかった。
 関東大震災では、朝鮮人反乱のデマが飛んで、警察や軍隊までがこれに動かされ、自警団の暴走も加わって多数の朝鮮人が虐殺された。混乱に乗じて労働運動指導者や無政府主義者も殺された。もし当時ラジオ放送があったら、これほどの混乱にはならなかったろうと言われている。ラジオは一九二五年、大正十四年から放送を開始し、昭和になってから実用的に普及した。明治・大正期には、情報伝達や世論形成に最大の影響力を持っていたのは新聞だったのである。
 一九三六年、昭和十一年の二・二六事件のときはラジオが役に立った。「家の外に出ないように、銃声がしたら壁の反対側に避難するように」という緊迫した放送があったことを、兄はよく覚えていて自慢げに話していた。そのラジオも一台しかなく、みんなが集まる茶の間に置かれた貴重品だったから、子供が勝手に好きな番組を聞かせて貰えるようなものではなかった。父がニュースを聞く間、子供たちは邪魔にならないよう静かにしていなくてはならないのだった。父はニュースの時間を聞き逃すことはなく、いつも難しい顔をして耳を傾けていた。当時はもちろんNHKなどという呼び名はなかった。日本放送協会の名を知ったのも戦後のことである。ラジオと言えば一種類の放送しかないのだから、放送局に名前があるなどと考えてみたこともなかった。
 太平洋戦争の開始を知らせる臨時ニュースがあった朝は、家の中が異様に高揚した雰囲気に満たされたことを覚えている。その後ラジオからは鳴り物入りの「大本営発表」や東条首相の演説などが流れるようになった。新しい軍歌や戦時歌謡もラジオを通して覚えることが多かったが、「斬り込み隊の歌」「サイパン島玉砕の歌」などのちんうつ沈鬱なメロディーの方が今もはっきり記憶に残っている。戦況がさらに悪くなると、ラジオはもっぱら空襲の情報を伝える「東部軍管区情報」を聞くための機械になって行った。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する語の前に表示されます)

「あの人と和解する」を読む(3)

コンフリクトを抱えている人の悩みは、思いのたけを吐き出す機会を与えられると、大半が解消してしまうことがあります。たとえば離婚の慰謝料額でもめていた夫婦が、互いに言いたいことを言い、相手の話に耳を傾ける機会を得たことで金額が問題でなくなり、子供の幸せを中心に考えた「笑顔の離婚」に至った例なども紹介されていました。こういうときの一つのヒントが「一人称で語る」ということです。「あなたはこんなことをした」「君はこんなことを言った」と互いに攻撃することをちょっとやめて、「私にとってはこれが衝撃だった」「僕はこの言葉に傷ついた」というように一人称で語ると、自分を相手にわかって貰う材料を提供することになります。相手をわかることと、自分を相手にわからせることとは、車の両輪なのです。
 これから先は読後に私が考えたことです。本の内容を知りたい方は、ぜひ本書をお読みください。
 私には10年にあまる民事訴訟に巻き込まれた苦い経験があります。その結果得られた裁判所での和解は、人間としての和解になりませんでした。なぜ本当の和解にならなかったのか、その理由が少しわかった気がするのです。争ったレベルから、結局は離れられなかったのだと思います。
 人間の争いは、人間の心の問題です。だからビジネスの交渉ごととは本質的に違うのです。財産の分与などで経済の問題のように見えても、それで終りにはならないのです。魂の救済は、金で買えないところにある。魂のレベルへと超越(トランセンデント)しないと魂は救えない。
 私は自分が本当に苦しくなったとき、詩を書いて救われたことが何度もあります。妻を愛し、娘を愛したと信じられたときにも詩を書きました。詩を書くことでトランセンデントし、それで人間の真実が少しわかったような気がしました。しかし、それで人を救えたかというと、思い違いをしていたのかもしれません。私は芸術家ではない。家族をかえりみずに芸術を残せれば満足というほどに、高慢であっていい筈がないのです。
 自分ひとりが詩を書いてトランセンデントするよりも、人の心を動かして争いを克服させることの方が、ずっと難しいに決まっています。でも、それをしなかったら「あの人」は和解しないまま人生を終ってしまいます。生きている間に自分がやらなければならないことが、まだ残っていた。とんでもなく重い課題を、この本のおかげで私は思い出しました。

おじいちゃんの書き置き・4

(第1章 私の育った時代)

五十銭玉の威力
 
 私たちの世代は一銭玉を使って生活していた時期がある。小学校入学の前後まで、町の駄菓子屋の店先には「ガチャン」という今のパチンコ台のような機械が置いてあって、一銭銅貨を入れるとガラスの向こうで鉄玉が一つ出てくる。それを台の下に突き出ているレバー類を操作しながら、当たり穴へと導くのである。うまく当たりに入ると景品の飴玉が出てくるのだった。そのほか紙芝居の飴を買うのでも、子供の世界の用は、ほとんどすべて一銭玉で足りた。それでも父は、今の子供はぜいたくだと思ったのか、よく一厘菓子の話をしていた。父が若い頃は、一銭で十個買える菓子があって、粗末だがそんなものを喜んで食べたというのだった。
 五十銭銀貨は、当時の子供たちが手にすることのできる最高額の貨幣だった。ギザとも呼ばれ、周囲にギザギザの入った重量感ある銀貨は、見るからにそれ自体の高い価値を感じさせた。年に一度のお年玉とか、学用品など改まった買い物のときにしか触れることができなかったが、「お金」というものを代表するように思えた。事実、貨幣としての品位からも、戦前の安定期の「円」を象徴する硬貨だったようである。
 日本の通貨は、明治以来一度も切り下げられてはいない。だから明治の頃に安い菓子が十個買えた一銭は、今も同じ一銭でそれは一円の百分の一の価値である。今の通貨とかけ離れているように感じるのは、物価がそれほど高くなったからである。今の百円で十個買える安い菓子があるとすると、物価は明治期の一万倍に高騰したことになる。こうなった最大の原因は、一九四五年の敗戦後に日本社会を襲ったインフレである。父の一厘菓子の話から考えても、明治期から昭和初期までの物価の上がり方は、おそらく十倍にまでもなっていなかったろう。そして一九四一年から四年間の太平洋戦争中も、物価はそれほど上がってはいないのだ。敗戦直後の混乱時に、私は学校の事務室で先生の月給がわかる資料を見てしまったことがあるが、新任の若い先生の月給が百五円だった。敗戦翌年に私が中学生になってからも、東京の都電の運賃は四十銭だった。
 悪性インフレが荒れ狂ったのは、敗戦から一年を経過した一九四六年後半から三年ほどの間である。政府は新円を発行して預金の流動性を抑え、通貨の膨張を防ごうとしたが失敗に終った。インフレの時代に、うまく立ち回って資産を物資や土地として転がした者は大きく財産を増やすことができた。その一方で預貯金を大事に守っていた人たちは悲惨だった。ようやく物価が安定した一九五一年、昭和二十六年に今と同じ十円硬貨の発行が始まった時、それで買えるものは戦前の一銭玉とほぼ同じだった。貨幣価値は千分の一に下落していたのである。それは庶民の貯金の九九・九%が奪われたことと同じだった。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する語の前に表示されます)

「あの人と和解する」を読む(2)

個人と個人の間に生じるコンフリクト、感情の行き違いから生じるわだかまりほど始末の悪いものはありません。権利義務や財産権のからむ問題であっても、解決を本当に難しくしているのは、相互の人間的な不信感であることが多いのです。逆に、当事者同士の間に人間的な共感を育てることができさえすれば、その他の問題は「たいしたこと」ではなくなってしまいます。こういうときに調停に立つ人が心すべきことは何でしょうか。著者は5つの、ありがちなパターンを示しています。
 第1は刑事型。相手の気持に頓着せずに、自分のペースで質問を重ねて情報を得ようとする。これでは共感は得られません。
 第2は思い出語り型。自分もそんなことがあったと、何でも自分の体験と結びつけてしまうタイプで、人の感情がそれぞれ違うことに対して鈍感です。
 第3はワンマン社長型。人の話を最後まで聞かず、「まかせておけ」と勝手に解釈してしまう一人よがりタイプ。
 第4は体育会系型。「もっと強くなれ」とハッパをかけたり、きまったことをしっかりやればいいなどと自分の信念を押し付けて、相手の気持を尊重しないタイプ。
 第5は同情抱きしめ型。よく話を聞いてあげているようで、結局は自分の感情だけに流れてしまうタイプで、相手の感情を読み取る余裕がありません。
 こうした反省の上に立って調停者は双方から話を聞いて行くわけですが、その技法は、自分の中にコンフリクトを抱えている場合でも、自分がコンフリクトの当事者であっても、役に立つものです。共感を導くためには、相手を徹底的に理解する必要があります。「わかる」ことは「わける」ことであると、著者は言います。自分と相手との違いを知ることが「わかる」ことであって、共感とは、自分と相手が同じになることではないのです。違っている者の間に共感を育てるのがトランセンデントです。争っているレベルにいたのでは、衝突は回避できません。争っていたことが「たいしたこと」でなくなるような、一段高いところに共感の場を得たときに、争いは本当に終るのです。
 非常に難しいことのように思われるかもしれませんが、私たちが日常に経験する小さなケンカでも、あとで考えるとバカのようなささいな原因で起こります。大きなコンフリクトでも、本質に変りはないのです。

おじいちゃんの書き置き・3

(第1章 私の育った時代)

紀元二千六百年
 
 私の幼児期の記憶の中で、年代が特定できるいちばん古いものは、紀元二千六百年の祝賀行事である。それは一九四〇年、昭和十五年に当る。この年に私は小学校の一年生になった。紀元節は二月十一日だったが、記録によると紀元二千六百年の祝賀行事は十一月十日の記念式典を中心に行われたようである。当時小学六年生だった姉が「浦安の舞」に出演するというので、学校の講堂へ見に行った記憶がある。姉は神社のみこ巫女さんのような長い衣装と冠をつけ、扇子を顔の横にかざしながら優雅に登場して来た。それと、夜の街を花電車が通ったのを覚えている。屋根のない市電の台車に花飾りと電飾をいっぱいつけた車両が、何台も続いてゆっくりと通って行った。
 紀元二千六百年とは、神武天皇即位の年を元年とする日本紀元で二千六百年になるということで、皇紀とも呼ばれた。ちなみに海軍の飛行機で零戦とか一式陸攻、二式大艇とかいうのがあるが、皇紀でその年に制式採用になったことを表している。皇紀は西暦に対して六百六十年古く設定された。これは日本書紀の記述をすべて正しいとする皇国史観によって明治初期に制定したのだが、科学的歴史研究と一致しないことは当初からわかっていた。しかし当時は学校教育をはじめ公式の歴史は皇紀に統一されていたから、私たちも日本は世界でいちばん古い歴史を持つ国だと思い込んでいたのである。
 この年はまた、東京でオリンピックが開催される筈の年だった。しかしヨーロッパでナチス・ドイツの侵攻により第二次世界大戦が始まって、オリンピックは中止となった。オリンピックが中止になった代わりに紀元二千六百年を盛大に祝ったというのは、当時の日本の国際的な孤立を象徴しているように思われる。だが、この年はまだ最後の「戦前」だった。街には紀元二千六百年の歌が流れていた。
  きんし金鵄輝く日本の 栄えあるひかり光身に受けて 今こそ祝えこのあした朝
  紀元は二千六百年 ああ一億の胸は鳴る
 この歌には、すぐに次のような替え歌が現れて広く流行した。
  金鵄あがって十五銭 栄えある光三十銭 今こそあがるこの物価
  紀元は二千六百年 ああ一億のかね金がへ減る
 「金鵄」と「光」は当時のタバコの銘柄である。それらが五割値上げでこの値段になった。一九三七年から始まった日中戦争は当時は「支那事変」と呼ばれていたが、長引く戦時経済の影響で生活物資の不足と物価の上昇が始まっていた。しかしまだ戦争は海の向こうの話で、一般家庭の中までは入り込んでいなかった。紀元二千六百年の替え歌を歌った私たちも、面白がられることはあっても、ひどく叱られることはなかった。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する語の前に表示されます)

「あの人と和解する」を読む(1)

先日の大垣への往復の車中で「あの人と和解する・仲直りの心理学」(井上孝代・集英社新書)を読みました。単に「いい本を読んだ」というだけでなく、自分を変える力にしなければと思っています。今の世の中、人間関係に悩みを持っている人が多いと思いますが、なんとか状況を変えたいと思っている人に、おすすめしたい一冊です。著者は心理学者であるとともに臨床心理士、カウンセラーであり、家裁の調停その他の豊富な経験も持っています。また平和学者ガルトゥング氏に師事して認定を受けた「トランセンデント法」のトレーナーでもあります。国際平和までを扱う「平和学」が存在していることを、この本で初めて知りました。
 争いごとには個人から国際関係まで、さまざまなレベルがありますが、その根底は共通しています。要するに相容れない2つ以上の要求が衝突することで、これをコンフリクトと言います。個人の中で起こるコンフリクトは心の葛藤になります。個人と個人との間のコンフリクトは、けんかやいじめになります。集団の中のコンフリクトは派閥争いや内部抗争になります。集団と集団とのコンフリクトは紛争や戦争です。これらは違うもののようでいて、じつは同じものです。ですから解決の方法も同じなのです。
 2つ以上の衝突する要求を「和解」させるために、ふつうに取られる方法は、互いに譲歩して「足して2で割る」ような妥協点を見出すことです。たいていはこれでコンフリクトは解決したと見なされるのですが、本当にそうでしょうか。互いに不満が残り、何かの理由でバランスが崩れれば、また対立が始まって、前回よりもさらに深いコンフリクトに陥る可能性があるのではありませんか。当事者同士が本当の和解に到達していないで、当面の妥協で終っているからです。
 トランセンデントとは、超越するという意味です。争っていたレベルとは違う共通理解へと、紛争の当事者を導くことです。これができてはじめて、両者は再び争うことのない平和な関係を結ぶことができるのです。私はこの言葉に出会って、学生時代にブライス師から教えられたことを思い出しました。すべての価値ある文学は、トランセンデンタル(超越的)だというのです。日常平凡な世界を超えて、超越的でなければ意味がない。しかしそれは非日常的な、特殊な表現をしろということではない、日常平凡の中から非凡をつむぎ出すのが詩人だというのです。

おじいちゃんの書き置き・2

(第1章 私の育った時代)

私が生きた時代
 
 私は一九三三年、昭和八年に生まれた。没年はまだわからないので書けないが、二十世紀後半から二十一世紀初めにかけての人間である。昭和という年号は六四年まで長く続いたので、私たちの世代の者にとっては絶対の時間尺度に近いものになっているのだが、これから先の日本人にとっては、そうではないだろう。だからこの本では西暦を基本として、日本の年号は必要なときに付加的に書くことにする。西暦はキリスト教に由来するとは言え、今の世界で支配的な暦法になっていることは疑いようがない。西暦を使わなければ世界歴史の記述はほとんど不可能だし、日本の歴史もまた同様である。
 日本式年号は、今は天皇の一代ごとに変ることになっているのだが、たとえば昭和六四年は一月一日から七日までの一週間しかない。一月八日に昭和天皇が崩御し、その日に今の天皇が即位して平成元年一月八日になったからである。つまり昭和六四年と平成元年は同じ年で、それは一九八九年である。だから昭和と平成の年数を合計するには、一年差引かないと正解にならないのである。
 年号は、漢の武帝が治世の初めに「建元」と称したのが最初で、そこには皇帝が時をも支配するという思想があった。それが日本に輸入されて「大化」から使われるようになり、天皇の代変りだけでなく、縁起をかついだりして、時の権力者の意思でさまざまな年号が使われて来た。それを明治以後は一代一年号と多少の合理化をしたのだが、所詮は天皇本位の時間管理法であることに違いはない。宮廷の行事などで使うことには意味があるだろうが、国民生活の場でも使わせるのは行き過ぎている。国際化の時代にふさわしくないのはもちろんで、私はなるべく使わないように心がけている。 
 私の父母は一八九四年、明治二七年生まれで、日本の近代国家成立後の初代国民とも言うべき年代に生きた。父は静岡の山村育ちで、苦学して代用教員の資格を取り静岡市へ出た。その後新聞記者、雑誌記者を経て、三十代で独立し東京で小出版社を開業した。母は千葉のとくのうか篤農家の娘だった。学校の成績優秀で、雑誌に投稿して入選するほどの文学少女だったが、一度は親の決めた縁談で農家に嫁いだ。しかしそれを嫌って翌日に飛び出し、自活の道を探している間に新聞記者時代の父と出会って、熱烈な恋愛の末に結婚したと聞いている。その後は献身的に夫に協力して事業を起こすまでになり、その過程で実家とも和解して温かな援助を受けられるようになっていた。
 私はこうした一代記を父母との生前の会話や、没後に整理した手紙などから知ったのだが、父母の生きた時代のことも非常に身近に感じられる。だから私は二十世紀前半に当る明治・大正の時代も、自分の知っている時代に含めたいと思っている。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する語の前に表示されます)

「おじいちゃんの書き置き」について

今日から「続きを読む」の部分で「おじいちゃんの書き置き」の連載を始めます。これは一昨年(2005年)7月に碧天舎から出したものです。私としては、市販本として出した最初の本になります。
 出版の碧天舎は、昨年春に倒産しました。自費出版系の出版社の中では良心的で、編集主任の片山満雄氏は信頼できる人でした。装丁も念入りで気に入っていたのですが、すでに新刊としては流通しなくなってしまったのは残念です。初版の1000部は1年足らずでほぼ売り切れたのですが、再版ができないので、今はわずかに中古本として検索に出る程度です。しかし、意外に多くの公共図書館に収蔵されたようで、検索で「貸出し中」になっていたりすると、ちょっと嬉しくなります。
 表題の通りに、孫が成人したときに「おじいちゃんはこんな人だったのか」と知ってほしいと思ったのが動機でしたが、書いているうちに、自分の思想の総まとめのようになり、副題も「21世紀を生きる君たちへ」としました。その事情は「あとがき」に書いたのですが、全体を理解してしていただくために、まずその部分をオモテの紹介記事とします。

この本は 孫のために書きはじめた
おじいちゃんはこんな人だったということを
成人してから思い出して貰いたいと思った
それはその通りなのだが 書いているうちに
自分に言いたいことが
まだまだ たくさんあることに気がついた

いろいろなことをやってきた
いろいろな本をたくさん読んだ
それらのすべてが
いま自分の中で一つのものにまとまりつつある
これは最後の一冊のつもりだったが そうではなかった
複雑に分解して行くように見える現代の世の中で
人間の「知の統合」をめざす最初の一冊になる

おじいちゃんの書き置き・1

第1章 私の育った時代
二十一世紀末の地球人へ
 
 私は二〇〇四年、七十一歳のときにこの文を書き始める。まだまだ現役のつもりでいたのだが、この年では同年輩の者は大半が仕事から退いて老後生活を送っている。そろそろ自分もこれまでに経験したこと、考えたことを、何かの形で書き残しておくのも悪くないかという気がしてきた。ただ書くのなら日記のように気ままに書いてもいいのだが、ここでちょっと考えた。日記は備忘録ともいうように、その日にあったことを後で思い出せるように書くのだから、予定する読者は自分でいい。しかし今さら自分で読むために書くのでは動機が弱いと思った。現に私は成人するまでは克明に日記をつける習慣を身につけていたのだが、三十代後半あたりでその習慣もいつとはなしになくしてしまった。大人になってからのことは覚えていられるから書かなくてもよかろうと思ったのが、日記をさぼり始めた頃の理由づけになったのである。
 私は文を書くのは嫌いではないが、やはり誰に読ませるのかを決めた方が書きやすい。そこで私のいちばん下の孫を読者に想定することにした。その孫は六歳で、今年小学校の一年生になった。その子は健康で無事に生きてくれれば二十一世紀の終り近くを見ることができる筈である。私はその子の生涯を見届けることはできないが、その子が生きている限り覚えていて、何かの折に役に立つかもしれない知識を与えることはできるのではないか。それには彼が十分に成長して、いろいろなことをきちんと考えられるようになってから読んでくれればよい。そこで子供に話しかける文体ではなく、自分でいちばん書きやすいスタイルで書くことにした。
 人は未来を思い描くとき、どれくらい先までを自信をもって考えることができるものだろうか。自分の子供のことは大きな関心事だから、現にさまざまな備えをしている。その子つまり孫も今すでにいるのだから、私は直接の責任者ではないけれど、なるべく良い人生を全うさせてやりたいと思う。つまりは自分の後の二世代先までを考えるのが、身の丈に合っているように思うのだ。そうすると、孫は一人だけで生きて行くのではないから、どんな世の中になって行くのかを考えないわけにいかない。そしてさらに、孫が生きて行くまわ周りに広がる世界・人類・地球の未来を考えないわけにはいかないのだ。
 よく言われるように、孫とは可愛いものである。自分がいなくなった後まで生き続けると思うと、時にはふびん不憫でさえある。その孫のために未来がどうなってほしいか、それを私の人生で得たすべてを注いで書き残すことができるのなら、やり甲斐のある仕事になる。
 こう考えて私は書き始めた。この本はおそらく雑学の集大成のようになるだろうが、それらを貫く一本の思想が、読者に伝わることを私は願っている。
(原文の漢字につけた「ふりがな」は、該当の字の前に表示されます)

「愛それによって」の連載を終って

 あとがき

船というのは何と不思議な乗り物だろう
洋上研修船の二週間で
四十歳の男がこうも変り得るとは

眠っていたものが目をさました
忘れていた歌が口をついて出た
消えていた火が燃え上った

二十五歳の情熱と四十歳の自信が
同時に存在するという奇跡のようなことが
そこでは実際に起こった

その中で十八年前の自分の言葉が
若者の心を明らかにゆり動かすのを
私はこの目で見た

そのときから 私は
自分が書いたものについて
恥ずかしがることをやめた

そしてこの小冊子が世に出た

      (昭和49年3月4日)

今年の1日1日から、毎日のブログの「続きを読む」を使って連載してきた私の詩集「愛 それによって」が、最終回となりました。「あとがき」として書いたように、詩集としてまとめる動機になったのは、洋上研修船に乗った経験でした。民社党が昭和49年(1974年)2月に、ただ1回出した2週間の洋上大学に、私は写真教室と放送クラブの講師として乗船したのでした。これに参加したことで、それまでアルバイトのつもりだった映像制作の仕事を、本業にする気になりました。船上で結んだ若い人たちとの信頼関係が、その決心を後押ししてくれました。
 今回読み直してみて、詩としての良し悪しは別として、自分の精神史そのものが記録されていることを感じました。読者からコメントをいただけなかったのは残念ですが、心に残るものが、一つでもあってくれたら、私は幸せです。奇しくもきょうは、私たち夫婦の満49年の結婚記念日に当ります。残りの人生を、少しでもよい形で完結させたいと願っています。
 明日からは、同じ方式で、私の第一著書「おじいちゃんの書き置き」の連載を開始します。引き続きよろしくお願いいたします。

こんにゃく座オペラを大垣で見る

昨日、岐阜大垣で、民間学童保育「どろんこ子どもクラブ」主催の「はじめてのコンサート……子ども・未来・いのち」を見てきました。田中みほさんのブログのご縁で、ビデオの撮影記録のお手伝いでもしようかと、軽い気持で出かけました。出演がこんにゃく座ということは事前にわかっていたのですが、私には地元の音楽劇団だろうぐらいの認識しかありませんでした。むしろ、どろんこクラブの活動の方に、興味があったのです。
 型通りに会館の外見や看板、受付風景などを撮影して、客席後方にカメラを据えて撮影を始めたのですが、1曲目の歌を聞いて、「これは本物だ」と自分の認識不足に気がつきました。この日の出演者は、歌が岡原真弓さんと太田まりさん、ピアノ榊原紀保子さんの3名でしたが、語りと歌とピアノ演奏をつないで、子ども連れの観客を引きつける、よく考えられた舞台を構成していました。それでいて子どもに媚びることなく、親子に送る力強いメッセージを込めています。マイクを使わずにナマの声で中ホールを支配する表現力は、自ら名乗る「歌役者」の本領を発揮していました。
 後で知ったことですが、「オペラシアター・こんにゃく座」は1971年に東京芸大の学生サークルを母体として発足した歌劇団で、「新しい日本のオペラの創造と普及」を目指して、恒常的にオペラの巡回公演を行っています。ヨーロッパで通用するオペラ歌手になることが目標になりがちな日本のオペラ界にあって、日本人が聞いてわかる日本語のオペラを普及しようとする活動は、貴重なものだと私は思います。オペラは、数万円のチケットを手にして着飾って出かけるよりも、ふつうの人がふつうの感覚で見に行けるものでなければ、文化として根付いたとは言えません。そしてまた、厳しい試験や修業を課せられるわりには、デジタル化時代の波に押されて仕事の場を狭められているクラシック系の芸術家たちに、活躍の場を与えるという側面でも、とても意義のあることだと思います。
 それにしても、一つの学童保育クラブの活動を核として、オペラコンサートまでやってのけるバイタリティーには脱帽するしかありません。出演者側のボランティア的な協力があるにしても、2000円の入場料で数百の観客を集める活動が、楽にできた筈がありません。10年にわたる活動の積み重ねがあってのことでしょうが、常に資金難との闘いだったと、司会をつとめた田中さんは語っていました。こういう活動は、地域の力を集めて支えて行ってほしいものです。

愛それによって・81

 愛 それによって

その昔 
神が人を造ったとき
神の似姿を永遠に伝えるために
減数分裂と受精という
途方もなく巧妙なシステムを
遺伝の方式として採用した

そのときから人類は
愛し合うことなしには
生存を許されないものとなった

そして
どんな愚かな者にも
人を愛するとはどんなことかを
理解させるために
男と女の間に「恋」を置いた

ああ 実に
恋は愛の入口
愛 それによって
人は生きることに堪えられる

     (昭和49年3月3日) 

なぜ天下りが必要なのか

国家公務員の再就職先をあっせんするという「新人材バンク」が話題になっていますが、それ以前に、年金制度も退職金制度も完備している筈の国家公務員に、なぜ特段の再就職あっせんが必要なのか、素朴な疑問が消えません。特に不愉快なのが、幹部職員に早期退職を勧める「肩たたき」です。同期に採用された者の中から、局長など一定の役職以上に昇進した者が出ると、昇進しなかった者は退職して再就職するという慣行があるそうで、そこから省庁の予算や権限を背景とした押しつけ的な再就職、いわゆる天下りが生まれるのです。人事を停滞させないためだというのですが、まことに身勝手な理屈としか思えません。
 どんな会社でも、社内での働き方で昇進に差ができるのは当り前のことです。誰かが役員になったから、同期入社の者は退職するなどというバカな慣行はありません。昇進しなければ、低い身分と給与のままで定年まで勤めるだけのことです。年長者が、若い上司の下で働くことになっても、それで会社の運営ができないなどということはないでしょう。実力主義の現代なら、ますます年功序列は無意味になります。国家公務員試験の上級に合格したから、生涯を通して名誉と高給を保障されるべきだという感覚そのものが間違っています。社会の常識が、どうして官庁の中では通らないのでしょうか。
 私は基本的に、公務員はもっと「ふつうの仕事」になるべきだと思っています。他の官庁や、国から地方への横移動も、中途採用や中途退職、つまり官庁と民間との人事の交流も、もっと自由にした方がいいと思います。私は、一定の年数を公務員として働くことを、国民すべての義務にしたらいいと考えたこともあります。その方が「国民のための奉仕者」としての意識が、より徹底することでしょう。国家公務員が、特別な職業として、国民の感覚とは違うところで仕事をし、その身分が生涯つづくのが健全な慣行とは、到底納得できるものではありません。国の骨格にかかわる大きな問題として、提起しておきたいと思います。
 しかし今問題になっているのは、もっと次元の低い、現在の天下りの悪習をどうしたら少しでも減らして行けるかということです。新しい組織を作っても、旧来の力関係が温存されるのでは効果はなく、問題がさらに隠されるだけです。政権交代なくして根本的な改革は期待できませんが、成り行きを注目することにしましょう。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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