志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2007年06月26日

命を救う知識

沖縄県民の生死を分けた戦時下の行動について、「読谷の風」さんのブログに、私の探していた事例が出ていました。亀甲墓に避難してきた一人の日本兵が、「皆さんは民間人だから、アメリカ軍も粗末には扱わない筈だから、降伏しなさい」と言って、具体的な方法を綿密に教えてくれたというのです。その家族は、翌日その通りに実行して全員が救われました。しかし秋田県出身と言っていたその兵士は、「自分は任務だから最後の一弾まで撃ち尽くして死ぬ」と、夜の内に出て行ったということです。戦いの中でも最後まで常識を失わない兵士もいたのでした。
 私は戦後すぐ、中学生になったばかりのときに、戦前版の六法全書を見て衝撃を受けました。そこにはハーグ陸戦条約が載っていて、戦時下における軍隊の行動を、詳細に規定していたのです。民間人を殺すことはもとより、財産権を犯すことも禁じていました。国際的な良識に安心するとともに、実際の戦争のイメージと違っていることに驚きました。その後「ひめゆりの塔」の映画を見たときに、この学校の先生の中には、ハーグ陸戦条約を読んだことのある人が一人もいなかったのだろうかと疑問が湧いてきました。部隊解散で軍務を解かれたあと、女学生たちがアメリカ軍の保護を受けるのは、降伏ではなくて民間人の権利だった筈です。正式にアメリカ軍と交渉する先生も、軍人もいなかったのはなぜなのか、それ以来、消えない疑問になりました。
 戦時中の「鬼畜米英」「一億玉砕」の雰囲気は、私も小学生として体験したことですから理解できます。そしてハーグ陸戦条約は日本も批准したものの、その精神を日本軍は実際の大陸の戦闘などでは尊重しませんでした。「戦争にルールなし」の野蛮な風潮が支配的だったことは事実でしょう。しかし責任ある立場の教養ある人たちまでが、すべて狂った価値観でしか行動できなかったとしたら、情けないと思いました。
 絶望的な環境に投げ込まれても動じない知性が、人々の命を救うこともあると、私は信じたいのです。沖縄戦の中で、県民のためにアメリカ軍と交渉した日本軍指揮官の存在を、まだ知りません。ただ、本隊から離れた一人の兵士の事例を知って、私は小さな救いを感じるのです。

おじいちゃんの書き置き・95

(第9章 科学技術と人間)

日本の科学技術

 古代日本の科学技術は、中国からの輸入に負うところが大きかったろう。七世紀の大化の改新以後、短期間のうちに巨大な宮殿や寺院、仏像などをこんりゅう建立できたのは、大陸や朝鮮半島から招いた多くの技術者たちの指導のおかげだったに違いない。しかしそれを受け入れた日本側に、ある程度の技術レベルが必要だった筈で、それらは上代からの巨大木造建築や、金属の精錬加工の技術として蓄積されていたのだろう。そして短時間で伝来の技術を消化し、独自の文化を発展させることができた。
 中世の日本のじょうかく城郭、日本刀を始めとするよろいかぶと鎧兜などの武具、社寺や仏像、庭園などは、科学技術と美意識がこんぜん渾然いったい一体となった、みごとな作品になっているものが多い。それらを支えたのは、手仕事に長じ、創意工夫を伝承した名人かたぎ気質の職人たちだった。
 十六世紀にたねがしま種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝来したとき、領主は直ちにかたなかじ刀鍛冶に命じて製法を研究させた。鍛冶屋はくしん苦心さんたん惨憺の末、最後は切腹を覚悟で見本の銃を破壊して銃底を閉じるらせん螺旋の構造を知り、ついに国産の鉄砲を完成させたという。当時の技術の格差が、職人の努力で克服できる程度であったのは幸運だった。
 その後の日本は、徳川幕府の鎖国政策によって三百年の保守的な時代に入った。幕府というのは文字通り幕を張った野戦司令部の意味で、この三百年は、言わば凍結された戦時体制である。幕府は体制をおびや脅かす変化を警戒したから、原則として新しいものを禁止した。
「しんき新奇はっと法度」という世界にも珍しい禁令が日本の江戸時代に出ている。新しい工夫をした道具類を作ることを公式に禁止していたのだ。世の中すべて「新しいものは良い」ではない政治判断がありえるということは、記憶しておくに値すると思う。
 しかし江戸時代の日本は決して文化の低い国ではなかった。寺子屋教育でしきじりつ識字率は高かったし、しょくにんわざ職人技も健在だった。長崎を窓口として諸外国の情報も、最小限必要な程度は入ってもいた。新奇法度が出されたのも、研究開発のきざしがいろいろな分野であったればこそだったのだろう。この状態で明治の文明開化を迎えたのである。
 日本にとって再び幸いだったのは、十九世紀末の科学技術が、欧米諸国にとっても出来たばかりの新技術だったことである。しかもしこう試行さくご錯誤の面倒もなく、良質の結果だけが導入されたのだから、後発メーカーの利点を生かした無駄のない発展さえも不可能ではなかった。短期間のうちに近代化の優等生になったのは、偶然ではなかったのである。
 近代化に成功した日本は、増長して軍国主義に進み、国粋主義という閉鎖主義に回帰したのだが、幸か不幸か戦争に負けたことで閉鎖を解かれた。戦後の復興もまた、最新技術の導入による後発メーカーの成功例になったのである。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。)

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
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昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
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