志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2007年06月

議会は議論か儀式か

昔、花形アナウンサーだった木島則夫氏が参議院の東京地方区から立候補して当選し、議員になったことがありました。正義感が強くて涙もろく、それがまた魅力で「泣きの木島」と呼ばれていました。その人が国会報告の集会で、しみじみと語ったことがあります。「皆さんは、あの立派な国会議事堂の中で、国の政治をあずかる大事な議論がされているとお思いでしょう。でも、実際に行ってみたら、あそこは毎日が儀式、儀式の連続なのです。その中で私はどうしたら皆さんの期待に沿える仕事ができるのか、日々悩んでいます。」という、率直な告白でした。
 国会の会期末が迫る中で、数々の問題法案が、次から次へと強行採決されて立法へと処理されています。野党は採決の不当を訴え、無効を主張しながら、議長不信任案などを出して抵抗を続けるのですが、それもまた選挙をにらんだ一種の儀式のように見えます。国会を多数決で通過した法律が、採決が不当という理由で裁判所で無効とされた例は、ありません。ごく一部の例外を除いて、議員は党の決めた方針に従って採決に加わるだけですから、自分の判断で賛成か反対かを決める投票の自由さえ、持ってはいないのです。
 与野党の勢力つまり議員数は最初からわかっていますから、法案が出される前から、採否は決まっているとも言えます。反対党の弁論をよく聞いて、自分の採決に反映させようと思っている議員は、おそらく一人もいないでしょう。それなら長い時間をかけて審議したり、場合によって参考人を呼んで意見を聞いたりするのは、全く無駄な儀式ということになってしまいます。その無駄を省いた究極の合理化が、強行採決ということになるのでしょう。
 それでは議会の意味がない、民主主義は死んでしまうというのが正論です。少数意見が国民の前に明らかにされるから、明日は少数が多数になる可能性がある、だから議論が大切で、そこに希望があるのです。正論はそうです。しかし今、私たちが考えるべきは、多数を与えた政党の意思で、政治の大方は決まってしまうという事実です。そして国民が国政に関与できる方法は、限りなく「選挙のときの投票がすべて」に近いということです。今の政治に満足していないとしたら、とるべき道は明らかだと思います。

おじいちゃんの書き置き・89

(第8章 男女平等への道)

法律の整備と意識の変化

 「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」という、六法全書の中でいちばん長い名前を持つ法律がある。男女平等運動にとって画期的と言われる雇用均等法のことで、一九八六年から施行され、その後何度か改正されている。前身は「勤労婦人福祉法」と言い、労働法というよりも、婦人の福祉をうたった中身の薄い飾り物のような法律だった。福祉法の名残は、いまも正式名称の中に残っている。均等法はこの旧法の改正として提案され、しかも当初は強制力の弱い努力義務ばかりの法律だった。それでも当時の経営者団体は経営権の侵害であると警戒して、その強硬な反対ぶりは、いまも語り草になっているほどである。
 均等法によって企業は性別による待遇の差別ができなくなった。すると企業は総合職、一般職などの職種を設定して、男を総合職、女を一般職に誘導することにより、結果として男女の差別を温存しようとした。このような自由な選択を装っての差別は、手を変え品を変えて、尽きることはないのである。これにはある程度やむをえない面もあるのだ。職業にも男に好まれるものと女に好まれるものがあるように、職場にも男に好まれる仕事と女に好まれる仕事があるのは不思議ではない。だからといってこれは男の仕事、これは女の仕事と決めつけてしまうのは差別になる。選択の自由があって、同じ仕事をしていれば同じ基準で評価される、それが平等ということである。
 法律の専門家の中に、法律の限界をよく知っている人がいる。その人の考えでは、世の中を変えるのは法律ではないという。世の中の常識が変って、その常識を固定するために法律が新しく制定されるのだという。そして新しい法律は、世の中を変えようとする人にとっては有力な武器になる。しかし使われない法律は、何も変えることができないというのだ。使わない権利は、ないに等しいというのに似ている。
 さらに男女平等の核心の部分は、法律の及ばない家庭の中にあると、私は感じている。たとえば家庭責任の平等な分担や、子供を生むことに対する合意と協力は、当事者の男女二人だけの問題でありながら、人生の中で具体的な行動を決めるときの、もっとも重要な要素になる。そして個人の心の中にある意識や感覚は、それぞれが育った家庭環境や社会環境によって長い時間かけて作られたものだから、なかなか簡単には変らないのである。
 変るためには、心に響く切実な体験と、周囲から入る豊富な情報が必要になる。その意味で、法律が変るような社会的な改革と、個人に訴える意識の改革は、車の両輪のように進めて行かなければならないだろう。不平等は必ず人間を不幸にする。男女平等は、これからの人類が幸せに生きて行くための、不可欠な条件である。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。)

3歳児の天使と悪魔

ビデオ取材することになった長谷場夏雄氏の資料を読む中に、「中流家庭の非行」という著書がありました。1977年の発行(昌平社)ですから、やや古い本ですが、社会福祉法人・青少年福祉センターの中心人物として、多くの欠損家庭児や非行少年の世話をして自立を助けてきた経験に裏付けられた、非常に説得力のある本でした。私は資料として読む立場を忘れて一読者として内容に引き込まれ、その結果、自分の子育ての失敗に気づいて愕然としました。
 各種の対症療法的な非行対策を述べたあとに、長谷場氏は非行の根底にある「しつけの失敗」を語っています。そこに「子どもは本来すばらしいものか」とありました。答えはもちろん、すばらしいものです。しかし無条件にすばらしくなるわけではありません。6歳ぐらいまでの人格形成期に、周囲の大人から、人類の文化のすべてを継承して「人間」になるのです。そこで伝承に失敗すれば、それで決定論ではありませんが、子どもの人生に影を落とすでしょう。
 幼児は可愛いものです。とくに3歳児のころの純情は、本当に汚れを知らない天使のように見えます。愛情と信頼に結ばれた親子の縁は、生涯にわたって続く筈です。私は父親から抑圧されて苦しかった経験がありましたから、絶対に「怖い親にはならない」と決めていました。妻も私以上に純情でした。母と子の親密さは、「一卵性親子」と自他ともに許すほどでした。そんな中で、何も「しつける」必要がなかったのです。こうしたらいいと思うことを、子は親の気持を察して先回りして実行し、親が満足する様子を見て、子も喜びを感じるのでした。
 今にして思うと、そこに弱点がありました。理屈ぬきに、しなければならないこと、理屈ぬきに、してはならないことが、人間にはある。そのことを、きちんと意識して教えた記憶がありません。目の前の子どもの可愛さに心を奪われて、ただ幸せな気分に浸っていました。徹底した性善説のままで、ここまで来てしまいました。伝え損なったと思う最大のものは「畏怖の念」です。人が生きることについての、根源的な「畏れ」の感覚です。それはマニュアルでも、受験勉強でも、埋めることのできないものです。3歳児の中に、悪魔がいなかった筈がありません。この本を読んでわかったことは一つ、「自分の中の悪魔を知らなければ、『天使のような人』には、なれない」ということでした。

おじいちゃんの書き置き・88

(第8章 男女平等への道)

母性の保護と男女平等

 男と女は平等、しかし母性は保護しなければならないというのは、男女平等を考える上で、永遠のパズルである。簡単に説明すれば「母性は人類共通で守るべきもの、だから母性を女性の弱点としてはいけない」ということになる。しかしこの原則論を唱えているだけでは解決できない問題がいろいろ出てくる。
 母性保護でいちばんわかりやすいのは産前産後の休暇制度だろう。日本では現在労働基準法で、産前は六週間、産後は八週間の休暇が認められている。休暇中は無給になるが、その代わりに健康保険から六割程度の給付金が出る。また分娩費も支給されるから、出産費用はほぼ社会保険でほしょう補償されると言っていいだろう。しかし産前産後の三カ月あまりの間、収入が減ることは避けられない。さらに継続して育児休暇をとるとすると、子供が満一歳になるまで休むことはできるのだが、その間の賃金については法律に定めがないから原則として無給になる。自治体によっては条例で多少の育児手当金が出るようだが、まだ例は少ないようだ。かといって雇用主に負担を求めるのは無理だろう。また、育児休暇は父親が取ってもいいのだが、この制度を利用する人は非常に少ない。
 結果として、働く女性が子供を生むことは、たいへんな負担にならざるをえないのだ。経済的にはもちろんだが、休暇をとった後で職場にもどったとき、前と同じ地位で同じ仕事ができるか、不安もあるだろう。法律では不利な扱いはしないとしているが、競争の激しい民間企業などで、どこまで本当に守られるだろうか。日本の出生率が史上最低にまで下がって、なお低落傾向が止まらないのは、女性にとって子供を生み育てることが、どれほど難しくなっているかを示している。
 これでも昔に比べれば母性保護はずいぶん改善した筈なのに変だ、と思われるかもしれないがそれは違う。男女平等はいまや日本でも常識になった。その常識の目で現状を見れば、「母性を社会全体で守った上での平等」など、まだ全然できていないのだ。もちろん全部の女性が男女平等をめざして働きつづけようとしているわけではない。家にいて子育てに専念したい、あるいは一定の期間だけは子育て、その後で仕事と、人生の時間を使い分ける人がいてもいい。それはそれで尊重すべきことだ。しかし、子供を生み育てることと平等に働くことを両立させたい女性が、実際にそうしたいと思ったときに、これほど困難が多いのでは、男女平等はまだまだ実現から遠いのである。
 北欧など福祉の先進国では、出生率は下げ止まりから上昇へと回復しつつある。結婚しても妻の人生を閉ざさない夫がいて、子供を育てても競争から取り残されない職場があるのなら、日本の女性も安心して子供を生みたいと思うようになるだろう。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。)

ガザという遠い土地

あまり大きな記事でもありませんが、パレスチナの連立政権を構成していたハマスとファタハが分裂して、地理的にもヨルダン川西岸地区とガザ地区との政治的な分裂が、決定的になったようです。パレスチナは遠い土地です。その中でもガザ地区は、地中海に面した忘れ物のような小さな土地です。しかしここに住んでいるパレスチナ人は、大きく見える西岸地区よりも多くて、100万人だということです。ガザからイスラエル軍が撤退した後で行われた選挙で、イスラエルへの対決姿勢の強いハマスが住民に支持されたことが悲劇の始まりでした。ハマスの政権は支援打ち切りなどの圧力を受けて尖鋭化し、穏健派のファタハとの連立という打開策も失敗して、この状況になりました。
 この状況について、天木直人氏がブログで「ガザでホロコーストを見ることになる」と述べています。天木氏は駐レバノン大使のときに、小泉首相によるイラク戦争への加担に反対する意見書を送ったため、勇退を勧告(本人は解職と主張)された人で、その主張は「さらば外務省・私は小泉首相と売国官僚を許さない」などの著書で表明されています。私は中東問題についての専門家ではないし、外務省の内情を知る立場でもありませんが、外交官であった人の意見には聞くべきものがあると思うし、ニュースで伝えられることと符合する部分も多いと思います。
 世界地図を眺めて戦略を練る立場からすれば、小さな土地に住む100万人は、小さなトゲのようなものかもしれません。世界戦略の上で有害な存在であると決定したら、抹殺は無理としても、無害化するまで圧力をかけ続ける位のことは、あり得るだろうと思います。世界平和という大義のために、やむをえない犠牲だというのが理由づけになります。
 問題は、その世界平和が、本当に世界の人たちみんなのためなのか、それとも既得権を守ろうとする、世界の一部分のためなのかということです。問題が簡単でないのは、わかっています。悪は力で滅ぼすしかないと思い込む人たちが、不真面目だとは思いません(真面目だから困る場合もあります)。しかし、そもそも善悪は相対的であって、問題の根本を解決すれば対立は終るという考え方もあります。どちらの道で平和に近づくのか、遠い国の話が、私たちの選択にかかわってきます。
(追記・この問題について、昨年のうちに3回記事にしています。このブログ内の検索で「ハマス」を入力してください。)

おじいちゃんの書き置き・87

(第8章 男女平等への道)

女だってお嫁さんが欲しい

 知人の有能な女性の一人が、あるとき冗談めかして「私もそろそろお嫁さんが欲しいな」と言うのを聞いたことがある。「だってお嫁さんて、お洗濯や炊事をやってくれて、夜はお風呂をわかして待っててくれるんでしょ。」と話は続くのだが、彼女が言いたかったことはよくわかる。仕事に疲れて帰宅しても、やさしく迎えてくれる連れ合いがいたら、どんなに救われるかわからない。思いっきり働くための大きな支えになることだろう。
 ところが、働き盛りの男性は当然のようにそんな結婚相手を探すことができるのに、働き盛りの女性にはとても難しいのだ。私としては、そんな世話女房ならぬ「せわおっと世話夫」がいてもいいと思うのだが、女性の方にも夫に対して「私の世話だけしてくれればいい」とまでは言い切れない気持があるのではなかろうか。尊敬できる大きさを持った人であってほしいなどと考え始めたら、条件はどんどん難しくなる。
 少し前にアメリカで「いい男はみんな結婚している」という本を書いた人がいて、翻訳本も出た。キャリアウーマンの結婚難をテーマにしたものだが、似合いの夫になりそうな男は、もうみんな既婚者になっている。そこで婚外恋愛の事例がたくさん出てきて、「独身男よりも、既婚者を相手にした方が浮気をされないし、安定した恋愛関係になる」とあって、私も虚を突かれた思いがした。しかしそれでは「第一の妻」との衝突も起こるし、子供が生まれれば母子家庭になるという問題もある。悩みの多い問題提起だった。
 この問題は、結婚や家庭の形を従来のものから思い切って変えないと、根本的には解決しないだろう。女性主導の結婚ならば夫が年下の方が成功率が高いだろうし、夫と安定的に同居できないなら、仲のよい女性が数人集まってぎじ擬似家庭のような共同生活をすれば、子供の養育や教育には好ましいだろう。私の知人に、三人の姉妹が同じ敷地内に三軒の家を建て、それぞれ夫はいるのだが、子供たちは三つの家を自由に往来しながら、みごとに仲よく暮らしている例がある。
 結婚した夫婦の姓は、たてまえは夫か妻どちらでもいいのだが、実際上は妻が自分の姓を失う場合が圧倒的に多い。キャリアのある女性が、結婚で姓を変えなければならないのは不合理である。何らかの形で旧姓の使用を合法化すべきだろう。専業主婦として家庭に入った女性でも、新しい姓で呼ばれて抵抗なく返事ができるようになったのは、子供が幼稚園に通うようになってからだったと聞いたことがある。名前はそれほど大切なものなのだ。現在の戸籍制度も、夫婦単位を基本にしているために、法的に結婚しない子供はいつまでも親の戸籍に残ってしまう。成人した子供は、いつでもぶんせき分籍の届けをして独立した戸籍を持つことができるのだが、これを知らない人が多い。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。)

元祖・非武装平和論

非武装について、うたのすけさんとコメントを交換しているうちに、今の憲法が制定された当時のことを思い出しました。戦争をしない国になるというのは、たしかに新鮮でした。そして、もちろんみんな、第9条は書かれている通りの意味だと思っていました。戦災の廃墟の中で、そこに希望を見出した人も、少なくはなかったでしょう。当時の政府も「自衛のための戦争もしない」と答弁していました。私は「日本軍」が負けてしまったのを残念に思っていましたから、中学の同級生と、本当に軍備なしで大丈夫だろうかと議論しました。「はっきり戦争しないと言ってるんだから、攻めてこないんじゃないか」と言うので、そんな考え方もあるかと思いました。
 当時の幼稚な議論を今の言葉にすると、日本は島国だから、海を渡って攻めてくればすぐに世界に知れ渡る。国際世論が許さないだろう。それに日本人を殺すことだけが目的ではあるまい。資源や産業を支配するのが目的だろうから、占領のコストが高くつけば、採算はとれないんじゃないか、それくらいの抵抗はできるだろう、というものでした。
 風向きが変ったのは朝鮮戦争からでした。世界から戦争がなくならないことが予感され、今の自衛隊の出発点となった警察予備隊が創設されました。私はひそかに「強い日本軍」が復活するのではないかと期待したものです。しかしそのとき、一人の詩人が絶望して、中央線(吉祥寺・西荻窪間)の線路で鉄道自殺をとげていました。その人の名は、原民喜といいます。広島で原爆に遭遇し、絶望の中からも「死者の嘆きのために生きる」ことを目指して再起した原爆作家・詩人でした。人類が決して戦争をやめないことを目のあたりにした彼は、二度目の絶望から逃れることができなかったのです。
 私が原民喜のことを知ったのは、それから20年後のことです。原爆ドーム前に佇んでいた私は、通りかかった地元の中年の婦人に「原民喜さんの詩碑をごらんになりましたか」と話しかけられました。「何となく、あなたのような方に見ていただきたいと思いまして。」
 
 遠き日の石に刻み 砂に影おち 
 崩れ堕つ 天地のまなか 
 一輪の花の幻
  
この詩碑は、ガイドブックにも載っていない目立たぬ姿で、今もドームの前に立っています。一輪の花は、まぼろしに終るのでしょうか。

おじいちゃんの書き置き・86

(第8章 男女平等への道)

主婦になってみた二週間

 娘たちが小学生のころ、独立して自宅で仕事を始めていた私は、ようやく男女の平等ということを体系的に考えるようになった。そして、かねて気になっていた家事労働を、もっとよく知っておく必要があると感じた。そこで、まず自分で体験しようと、二週間の家事担当を申し出た。妻も面白がって協力してくれることになった。
 初日から少し朝寝坊した私は、いきなり目の回るような忙しさに投げ込まれた。家中の雨戸をあけ、やかんを火にかけ、娘たちを起こし、それから先は私と役割を交替してまだ寝床にいる妻の助言を聞きながらコーヒーを入れ、トマトを切り、トースターでパンを焼き、などなど娘二人がバタバタと学校へ出かけてしまうまでの二十分間ほどは、わけがわからないまま過ぎてしまった。コンロにかけた湯が沸くまでの間にトマトを洗って切るとか、パンをトースターで焼いている間にコーヒーを入れるといった家事の同時進行性が、実際以上に多忙感をかき立てたようだ。それに、他人のために家事をしたことのない私にとっては、カップとスプーンを持ってくる、湯を注ぐといった個々の動作が、すべて判断を要する仕事として意識されたのだ。
 感想として、家事は想像していたよりもずっときつい労働だった。夕食の支度は下準備から配膳までの一時間あまりの間、休むことのできない立ち作業になる。刃物と火を使うから、かなりの危険作業でもあって、体力、精神力を消耗する。熟練した主婦はそれらを苦にせずにやっているようだが、時間と体力の絶対量を取られるということはよくわかった。それと、自分を主婦の立場に置いてみると、家の中のことすべてが自分の責任として押し寄せて来るのだ。廊下の汚れは、その原因が猫であっても、最終的には自分が始末しなければならない。全部が自分の責任という意識は、かなりの重荷だと思った。
 この経験によって、私は家事の手伝い方のコツが少しわかった。要するに、手伝って貰うのはあまり有難くないのだ。それよりも、小さな部分でも自分の責任範囲が減ったら、その分だけ楽になる。つまり家事の負担を軽減してくれるのは手伝いではなくて「分担」なのだった。たとえば「今夜の後片付けは全部」というような。
 女性の社会的な活動が少ないのは、家事労働で能力を消耗してしまうからだろうと以前から思っていたが、この体験でそれを実感できた。もしも私が主婦だったら、私の仕事上の能力などは、少しばかり「しっかりものの奥さん」として家庭の中を取りしきることで、ほどよく消耗させられてしまうだろうと思った。無数の女性の無償の家事労働の上に築かれている男性中心の現代文明こそ、人類史上最大のさくしゅ搾取ではないかとさえ考えた。しかし妻は「これで私が留守にしたときの安心感がちょっと増えた」とクールな感想だった。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。)

廃墟の地球も見てみたい

おだやかならぬタイトルですが、最近のkoba3さん(コメント欄)やいくたまきさんのブログを見ているうちに、こんなことを考えました。koba3さんは自然風景を愛する立場から、いくたまきさんは現代への疑いの目から、それぞれに地球の未来について、明るい展望が持てないと感じているようです。その認識は、現代の良識ある人たちの間には共有されているのではないでしょうか。まさに、いくたまきさんが言うように、「人類は『目先儲かる』か『目先ラク』しか選択しないのが常だ。それでも反省する為には、『この問題を解決しないと不利益が生じる』所まで追い詰められないと社会は動かない。」のかもしれません。
 私は「あなたの孫が幸せであるために」の中で、希望を込めて「人類進化の軟着陸」を想像してみました。それが甘い見通しであることは、百も承知しています。現実には、破滅に向かう速度は、少しも衰える気配はありません。冷静に考えれば、百年を待たずに深刻な行き詰まりに直面することは、必至と言ってもいいでしょう。その中でも最悪のケースを進んだ場合、人類は本当に絶滅するのでしょうか。そこまで考えたとき、なぜかそのシナリオも魅力があると感じたのです。
 私は廃墟が好きです。とくに鉄道の廃線を歩くときは、その線路を支えた全盛期の人々のいとなみが、とても愛しいものに感じられます。そのように、廃墟と化した高層ビル群の街を歩いてみたいと思いました。人類の大破滅で、私が生き残る可能性は、あるのでしょうか。戦争だったら、人類は絶滅しません、勝ち残る者がいます。自然破壊だったらどうでしょうか。やはり絶滅は難しいような気がするのです。人類が引き起こす環境破壊は、恐竜を絶滅させた大変化に比べたら、ずっと小さなものです。99%が死んだとしても、ピークの人口100億として、1億人の人間が生存します。まして人間は適応力の強い生き物ですから、半分が生存してもおかしくはありません。
 とにかく何らかの原因で激減した人類は、文明の再建を始めるでしょう。膨大な廃墟は、その人たちの資源として役立つ筈です。試練を生き延びた新人類が、私たちよりも少しはマシな世界を作ってくれるといいのですが、さて、どうでしょうか。私は、どこまで行っても究極の楽観主義者のようです。

おじいちゃんの書き置き・85

(第8章 男女平等への道)
 
私たちの結婚

 私の父母の結婚は、私たちの結婚の反面教師となった。しかしそのことを強く感じていたのは父母を見ていた私の方で、妻の方は学業を高校までで打ち切られた不満はあったものの、自分の父母に対して、さほど強い問題意識を持っていたわけではなかった。同居してからすぐ、私は妻を伴って郵便局へ行き、妻名義の貯金通帳を持たせたのだが、妻の方は、これからいっしょに生活するというのに、ずいぶん不思議なことをする人だと思ったそうだ。今となっては笑い話だが、一事が万事、妻を自立した人格として尊重したつもりの私の配慮は、一人よがりの空振りに終ることが多かった。
 妻は私と三歳の年齢差があった。二十歳をちょっと過ぎたところでの三歳の差は大きい。しかも突然に郷里を離れ、あらゆる人脈から切り離されて、とち土地かん勘さえもない場所に来たのだから、非常に心細い状態にいた筈である。妻が私にすべてを頼り、寄り添うことで家を捨てて出てきた不安と後ろめたさを忘れようとしたのは、当然のことだった。のちに南こうせつの「神田川」の曲が流行したとき、二人ともこの歌に強く心を引かれた。山手線の線路ぎわの四畳半アパートは、まさに「神田川」の世界だった。
 私たちの子育て期には、私の勤務がテレビ番組の制作現場で、しかもまだビデオテープがなく、ナマ放送中心の激務の時代だったから、妻は専業主婦にならざるをえなかった。その中でも私は積極的に子供の世話にかかわるよう努めたつもりでいたが、今にして思えば、やはり「できるときには手伝う」のいき域を出るものではなかった。
 ただ、夫婦で決めた一つの約束事は、かなりよく守られたように思っている。それは二人の娘に対して「女の子だからだめ」とは言わない、ということだった。してはいけないことがあるとしたら、それは人間としていけないことなので、女の子だからだめということはない筈だと考えたのだった。男の子はいなかったので比較の対象もなかったが、娘たちをなるべく規制せず、のびのびと育てようとしたことは事実である。
 娘たちが中学、高校と進むころには「家を帰りにくい場所にはしない」ということにも気をつけた。私は少年期に、家に帰れば厳しいしっせき叱責が待っているとわかっていながら家路に向かったときの、暗く悲しい気持が身にし沁みている。だから帰りたくない家にはしたくなかったのだが、結果として、叱らない甘い親になってしまったことはいな否めない。
 娘たちは、親とのかっとう葛藤をほとんど経験することなく成人した。そして孫が生まれて娘たちが親になったのだが、これが意外に子供にきつく当っている。親の怖さを知らずに育ったので、自分が子供にとって怖い親になっていることに気づかないのではないかと思う。人は一世代おきに、反対方向への過ちを繰り返すのだろうか。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。) 


安倍改憲は「自主」なのか

このタイトルは、昨日の朝日新聞朝刊の文化面に出ていたものです。論者は心理学者・評論家の岸田秀氏で、私と同じ1933年生まれということです。副題は「米に隷属する現状直視を」となっていました。岸田氏の分析によれば、外国を崇拝する「外的自己」と、誇大妄想的な「内的自己」との葛藤や交代として、日本の歴史を説明できるということです。玉砕や特攻隊でアメリカに抵抗したのが「内的自己」の発露であり、降伏して平和憲法を受け入れたのが「外的自己」への転向ということになります。この結果、戦ったのは軍国主義の狂気に強制されたのであって、日米友好こそが本来の正しい日本だということになりました。
 しかし内的自己は抑圧されただけで、消滅したわけではありません。日本がいまだに事実上アメリカ軍に占領されたままであり、外交や経済政策でも決して対等にはなれない状況の中で、抑圧された自尊心はつねに傷つき疼いています。内的自己を発揮しようとしても、牛肉の規制ぐらいの抵抗しかできないのが現状です。この状況の中で「自主憲法」を制定して第9条の歯止めを外してみても、それはアメリカが決めた戦争で、世界のどこへでも出て行くことにしかならないのではないか。つまり今の憲法以上に、アメリカから押し付けられた憲法になってしまうではないかと、岸田氏は危惧しているのです。
 それではどうすべきなのか。「この現状だって永久不変ではないから、いつかは変わる。その日を待って辛抱強く臥薪嘗胆の日々を送るしかない。」そして「対等とか自主とかの言葉でごまかして、日本の隷属的な立場から目を逸らすべきではない。」と岸田氏は説いています。
 そして最後は私の意見です。「アメリカから押し付けられた憲法」を逆手にとって、アメリカに抵抗する武器にすることが、今ならできます。それを貫いた方が、むしろ「自主と対等」に近いのではありませんか。そして辛抱強く国際情勢の変化を待てば、軍縮と平和のリーダーとして、日本が本当の自立独立を果たせる時が来るような気がするのです。そのとき初めて「内的自己」と「外的自己」との相克は、終るのではないでしょうか。

おじいちゃんの書き置き・84

(第8章 男女平等への道)

私の母の晩年

 私が今になって母の人生というものを考えてみるとき、身にそなえた能力を発揮するという点では、かなり高いレベルまで行っていたように思う。私がのちに取材で知った有能な女性たちの例から見てもそう思うのだが、母の能力は最後まで家の外に向かって発揮されることは許されなかった。その意味で、目いっぱいに働かされ搾取されたと言うこともできるかもしれない。しかし母の意識の中では、その時代の女として、それほどみじめな被害者意識ばかりではなかったらしいことがせめてもの救いである。
 晩年の母は、療養を兼ねて箱根の山荘で過ごすことが多かった。西向きの窓の正面には富士山が見え、夕焼けの空に富士山がシルエットになって行くのを、母は飽きずに眺めていた。心はすでに西方浄土に向かっていたのかもしれない。最後まで筆まめに書いていた日記には、母親とふるさとに向けての、限りない懐かしさが綴られていた。
 「母のおもかげありありと心にうかぶ。あの夜のしとねのそば側に母のかげ! そのかげ再び見るをえず。ただ心の中にともに住み、うきもつらきも、あの母ゆえに耐えて来し。」
 「ふるさとのあの松いまいかに。祖父母、父母ませしわが家。遠くしの偲べばなつかし人々の笑顔うかびぬ。ああふるさと今いかに。あの日のままにわが行く日まで、あの日のままに木々よ茂れ、川よ清らにせせらぎてあれ。」
 「あか紅きばらめでし乙女の日、父ませり母ませり。なつかし恋しあの人かの人みな遠くかげさえ薄れぬ。木々のわくら葉みな散りて、柿ひとつ残りて紅き。」
さらに母が見送った最後の年末には
 「いつのまに月日流れし。はや(昭和)四七年もゆく。この日とわ永久にさらば。心よりなれ汝にふかきせきべつ惜別と感謝をこめて。さらば幸なれ!」
とあった。すでに老人となった母が私の知らない祖母を幼な子のように慕っていたこと、そして年月に託してすべてのものへの感謝を述べていたことに、私も心の安らぎを得ることができた。実家の父母との若い日の葛藤も消え、温もりの日々の浄化された思い出だけが残り、過ぎゆく日々を素直にいとおしむ気持になれたのだろう。それは自分にできることを力の限りやった人の、もっとも美しいあきらめの形だったのかもしれない。
 母性への尊敬と信頼はもちろん、知性の確かさ、情緒の豊かさ、努力の尊さなど、人間の持つほとんどすべての良いものを、私は母から教えられたように感じている。世が世ならば、母は文筆家として、あるいは事業家として大をなし、そのことと家庭の生活をみごとに両立させたに違いないと思う。できるならばもう一度誕生させて、もっと無理と無駄の少ない人生を経験させてあげたいものである。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。)

ブログアクセス1日1万

ブログの影響力、発言力について考えています。私が以前にかかわった出版の仕事では、10万部というのが、一応世の中に認められたと言える部数でした。日本の人口1億人として、1000人に1冊ということですが、本を読みそうな人は人口の1割ぐらいと考えると100人に1人になりますから、学校とか町内会とかの中で、その本を知っているとか読んだという人に出会うのが、珍しいことではなくなります。そのレベルまで行っていたのが、戦前および戦後の一時期の、野ばら社の「児童年鑑」でした。「標準軍歌集」「図画辞典」なども、それに近かったかもしれません。その後の教育ビデオを含めても、私がかかわって10万部に達したのは、5本の指で数えられる程度だと思います。
 その10万部をブログに換算すると、毎日10万アクセスなら文句はないのですが、毎日見なくても、時々のぞきに来るぐらいの人でも、読者と言えるかもしれません。累計数にはあまり意味はないとしても、少し甘く見て、毎日1万アクセスあれば、一応は社会的に認知されたと言えるかもしれないと思いました。私のブログのアクセス数が、このところ毎日1000のレベルに来ました。これからなお10倍になれるかどうかで、モノになるかどうかが決まるような気がしています。
 アクセス数が100を超えたのは、ブログを始めてから4ヶ月後ぐらいだったと思います。その当時は、それが10倍になることは予想できませんでした。それがしだいに増えて500のラインに近づいてきたのですが、その間に私は何も特別なことをしたわけではありません。せいぜいトラックバックを覚えて、検索した関連ある記事に自分の記事を送る「営業活動」をやってみた程度です。あとは「他力本願」でアクセス数が増えつづけました。このあたりから、インターネットの面白さがわかってきました。ネット上で話題にされることが、自動的にアクセスを引き寄せる力学を働かせるのです。その原因が検索のシステムにあることが、最近に読んだ「ウェブ社会をどう生きるか」(いずれ読書・評論として紹介します)などで理解できました。
 私のブログの内容は、最も硬派の、伝統的随想録(今の言葉でエッセイ)になっています。一日1千字なのは、毎日読んで貰うのに、5分間ぐらいが適当だろうと思うからです。最近写真を載せたのは、「志村さんて、女の人だと思ってました」への対策とともに、「本業のつもりになりました」の意思表示かもしれません。

おじいちゃんの書き置き・83

(第8章 男女平等への道)

私の父母の結婚

 ここで明治の結婚の一例として、私の父母の場合を書いておこうと思う。
 父母は一八九四年、明治二十七年の同年生まれで、母の方が少しばかり早い生まれだったらしい。母は成績優秀な文学少女だったが、女学校に行かせて貰うことはできなかった。「女に学問はいらない」と親の決めた縁談で一度は農家に嫁入りさせられたが、翌日には飛び出して帰って来るという思い切ったことをしている。それから自活の道を求めて、裁縫学校に通ったりしている間に新聞記者の父と運命的な出合いをした。
 母の死後、父からの恋文の束が出てきた。父は最初、母を年上と思っていたらしく、姉のように慕う心情で迫っている。母の方は当時ほとんど人生をあきらめていたのが、父と会って「この人に生涯を捧げ尽くそう」と思ったようだ。すると父の手紙の調子が変化して、呼びかけの言葉も「姉様」から「お前」になり、母への視点が恋人として慕う対象から、妻にする女へと変ったことが読み取れて、その後の二人の関係を暗示している。
 結婚してからの母はみずから厳しく「良妻賢母」の道を自分に課したように思われる。「女は男を立てなければいけない」と口ぐせのように言い、りちぎ律儀にそれを実行していた。父が無理なことを言いだしても、なだめ、説得するのが精一杯で、その意味ではねばり強い一面もあったが、どうしてもだめなら仕方がないとあきらめてしまうところがあった。父も母も、明治の文明開化の風を受けて向上心をふくらませた少年であり少女だったと思う。父は曲がりなりにもその生涯を通して自分の夢を追いつづけることができた。しかし母の能力や可能性は、もっぱら「良妻賢母」の枠の中で発揮されるしかなく、母の権限を高めることにも、自由に処分できる財産を増やすことにもつながらなかった。それが大多数の「明治の女」に用意されていた運命だったのである。
 出版社を創業したが感情の起伏が激しかった父のかげで、母は対外的にも社内でも円滑な人間関係を保つことに尽力し、何度も事業を危機から救った。子供たちはそんな両親を見比べながら成長したから、父に対しては批判的に、母に対しては同情的に傾くことになった。それに対して父が過剰な警戒心を働かせ、ついには建設的な意見さえも受け入れないようになってしまったのは、誰よりも父にとって不幸なことだった。
 私を含む五人の子供たちも、成人するにつれて結婚問題などでそれぞれ父と衝突することになり、それが結果的に家業を順調には発展させないことにつながった。母が、その実力にふさわしい決定権を行使してくれていたらと、私はいまも歯ぎしりするほど残念に思っている。家業を支えながら五人の子供たちを育て上げた母は、心身の消耗もあったのだろう、父よりも十年早く世を去った。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。)

株式会社の株離れ

このところ企業の買収が話題になることが多くなりました。株の多数を握ることで会社の経営に関与し、場合によっては経営権を手に入れることさえ可能なようです。株式の上場で証券市場から容易に資本を調達できる代わりに、企業は株の買収で経営権を乗っ取られるリスクも負うことになりました。国際資本家によると、敵対的買収に対して嫌悪感を示す日本の産業風土は「世界から遅れている」のだそうですが、他人が苦労して作った会社を金の力で買い取るという手法が、良いイメージを持たれないのは当然のような気がします。会社は株主のためにあるという理屈は、会社に必要な資金を集めるために株主を募集したという、会社設立の精神を逆転してしまうのです。
 本来の株主は、経営者の目論見に賛同して資金を提供し、共に繁栄しようとする「身内」の筈でした。ところが今や株を持つのは配当が目的ではなく、株価自体の上下で利ざやを稼ごうとする投機が目的の大部分になってしまっています。これはもう、投資ではなくて、投機そのものです。そういう株主が増えたために、資金力のある資本が、企業や産業を支配するまでになりました。それが「進んだ資本主義」だから、従えと言うのでしょうか。
 私も小さな株式会社を二つ作りましたが、額面の決まった株券を自分で半分以上持ち、友人や親類にも買って貰って会社をスタートさせました。経営の内容さえ良好なら、必要な資金は金融機関から借りることができます。しかし、起業家がみんな株式の上場を目指すのは、資本の獲得が容易で、利息支払いの必要もなくなるからです。だから有利なのですが、不特定多数から借金したことには変りありません。そこに、つけ込まれる余地が生まれます。
 会社がどんなに大きくなっても、株の上場は義務ではありません。定款で、株の譲渡には取締役会の承認を要すると決めておけばよいのです。会社が決めた額面で株券を発行し、引き受け手さえいれば、誰からでも投資を受け入れることは可能です。今の投機的な証券市場を避けて、株を上場しない大会社があってもいいと思います。そういう非公開株に投資したい人たちが増えれば、本来の健全な投資が復活するかもしれません。新しい経営者に、株の上場に対して慎重な人が増えているそうですが、健全な反応と言えるでしょう。

おじいちゃんの書き置き・82

(第8章 男女平等への道)

日本女性の運命

 平安朝の貴族の生活は源氏物語に描かれているが、その時代の庶民の生活ぶりはわからない。貴族よりも生産的な生活をしていた筈だが、そこで女性の地位がどうだったのか、上層社会の慣習が、国民全体の慣習を代表していただろうと思うしかない。それ以後の時代についても同様に、歴史に残る資料から類推するしかないだろう。
 貴族の時代は、武士のたいとう台頭によって終りを告げる。武力が物を言う時代は男の時代になる。壇ノ浦に滅びたへいけ平家には少なからぬ貴族の女性が同行していたが、これを滅ぼした源氏の軍勢は男ばかりの殺風景な武士集団だった。鎌倉時代からけんむ建武のちゅうこう中興を経て室町そして戦国時代へと、武力と政治力とはますます一体化して行った。それと平行して日本の父系制は、武士の家族を模範例とする強固なものになった。結婚は、武士集団の結束を強めたり、有力な武将との間で友好関係を築いたりするための手段としても利用されるようになった。女性は家のために有用であるときだけ高く評価された。
 こうなると結婚式は大切な行事になるから、盛大に行われるようになった。妻の大切な任務は家を継ぐ男の子を生むことだから、妻にはきびしいていそう貞操が要求され、夫は同じ理由で側室を持ってもよいことになった。武士優位の社会は、戦国時代を締めくくった江戸時代まで長く続いたから、父系制は町民、農民に至るまで、社会の隅々にまで広く徹底することになった。江戸時代に定着した豪華な結婚式が、女性の地位の高さの象徴ではなくて、その反対だったことは記憶しておいてよい。
 明治維新になって日本社会の近代化が急がれたとき、家庭の模範例は、やはり武士階級つまりしぞく士族に求められた。民法はいえせいど家制度を公認、固定化する方向で制定され、家族は男の家長を「戸主」とするこせき戸籍に編入されることになった。国語教育も、士族の家庭で用いられる言葉を標準の日本語とした。学校教育も開始されたが、そこでは修身という科目が最重要とされて、女子には「りょうさい良妻けんぼ賢母」になることがさと諭された。家のために役立つことがよい女になる道であり、それが国のためでもあると教えられた。要するに女の価値は、夫に尽くし、立派な息子を育てることにあるのだった。
 明治の文明開化以来、女性の解放、自立に目覚めた女性たちもいた。女子教育や文学の分野では、歴史に残る業績もあった。また社会主義や労働運動と連動して活躍した女性の活動家も現れた。しかし多くは弾圧を受け、あるいは無理解の壁に進路をはば阻まれた。やがて軍国主義の台頭とともに女性は「軍国の母」として息子を喜んで戦争に送り出すことを求められ、また、男がいなくなった生産現場に労働力として動員された。それでも戦争が敗戦で終るまで、女性に選挙権が与えられることはなかった。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。)

生協の介護事業に期待する

コムスンの事件で、営利事業としての介護のあり方が問われています。民間の参入で、質の良いサービスの競争が起こるという発想は、必ずしも間違いではなかったと思うのですが、介護保険という公金の支出がからむだけに、資本の論理による弱点がさらけ出されました。書類さえ揃えて公金を引き出せれば、利益が大きくなるという発想です。
 富裕層のための高度な介護施設を始めとして、民間事業としての介護は、これからますます需要が高まって発展するでしょう。ただし、入居者が健康で長生きすればするほど事業の利益が減るという微妙な問題もあるだけに、安心できるチェックの仕組みが望まれます。利益の追求が至上命令ではない、人間の福祉に奉仕するという精神が、民間事業といえども必要でしょう。
 それとは別に、生協法がこの春に改正されて、来年の4月から施行になります。この改正で、医療・福祉の事業が生協の活動分野として明記されました。これまでも地方ごとに行われてきていますが、これからは全国規模での展開を期待したいと思います。「組合員相互の助け合い」を原点とする生協は、労働組合の草分け的な存在である戦前の「友愛会」の共済活動から出発した、労働者福祉の活動とも連携しながら発展してきました。今では生協も共済も、特定の組合員のための活動というよりも、広く市民に開かれた、任意に参加する活動というイメージになっていると思います。この共同組合という事業の形態が、介護の事業には最適ではないかと思うのです。
 生協による介護は、各種の共済とも連動できるし、資金面では労金と連携することもできます。そして何よりも心強いのは、全国にくまなく情報のネットワークが行き渡っていることです。それに加えて、災害時の救援などで活動しているボランティアの労働団体や市民団体との人脈もつながっていて、実地に活動できる組織力をそなえています。
 今回のコムスン事件で、一部から介護はやはり公的な機関の仕事にすべきだという意見も出ているようですが、生協は、立派に介護事業の受け皿になれると私は思います。そして、間違っても役人の天下る特殊法人などは作らないことです。

おじいちゃんの書き置き・81

(第8章 男女平等への道)

源氏物語の世界

 紫式部の源氏物語を女性史の資料として読んでみると、いろいろと面白いことがわかる。
この小説が書かれた時代は平安朝だから、日本が中国から学んだりつりょう律令こっか国家としての体制を整えたものの、生活習慣には上代の母系制社会の影響が、まだ色濃く残っていたとされる時代である。源氏物語は歴史小説ではなくて同時代小説だから、その点も都合がよい。
 主人公はひかるげんじ光源氏だがその周辺に多くの女性たちが登場する。そして当時の結婚は嫁入り婚ではなくて通い婚だから、主人公はいろいろな女性のところへ通うことになる。妻にする女性を自宅に引き取るのは、寄る辺のない童女の場合だけである。女性の側から見れば男が通ってくる間が結婚している状態で、来なくなれば別れたことになる。どんな男と結婚するかは女性にとって大事な問題だから、通いを許すかどうか、手紙のやりとりなどで相手の誠意を見届けるのだが、その駆け引きが詳しく小説に描かれている。ただし結婚そのものは両家の大事ということもなく、にぎやかな結婚式などは行われない。公式に発表されるのは、重要人物の政略結婚の場合だけである。
 子供ができても女は自宅で過ごす。女にとって母親のいる家で妊娠、出産の時期を迎えられるのは心強いことだろう。子育ても原則的に女の自宅で続けられるが、男の子は成人してから父親の家に移る場合もある。つまり通常の生活感覚としては母系制で、父親の官職を継ぐような場合にだけ父系制が優先になる状態である。この時代の女性たちは幸せだったのだろうか。百人一首の中には、この時代の女性の気持をよ詠んだものが多いが、男が訪ねてこない夜のさびしさを嘆いたものが目につく。「嘆きつつひとりぬ寝るよ夜の明くるま間はいかに久しきものとかは知る」などはその典型だろう。そんな受け身でいることの心細さはあったかもしれないが、母親はもちろん、女性全体の地位は江戸時代などよりもずっと高かった筈である。気に入らない男の来訪を拒むことができたのだから、意に染まない嫁入りを強要されるようなことはなかったに違いない。
 母系制の根強さについて、少し古いイギリスでの研究に、ホワイトカラーの管理者層は夫の実家の近くに家を持ち、ブルーカラーの労働者層は妻の実家の近くに家を持つ傾向があるというのがあった。ホワイトカラーは仕事を中心に生活するから父系制に近くなり、ブルーカラーは毎日の生活が便利で安心な方がいいから母系制に近くなる、ということが言えそうである。男の経済力や権力が介入せず、生活者として自然に家族を構成するならば、年頃の娘の所に男が通ってくるか婿入りしてくるか、とにかく母親を中心に家族が作られて行くのが、古代から現代まで変らない人間の自然な性質なのではあるまいか。それは七十年あまり生きてきて、今も娘たちが身近にいる私の実感でもある。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。)

恋は死にますか

数日前のバニラさんのブログを見ていたら、昔の私の「本にならなかった本」の一章に使った、このタイトルを思い出してしまいました。恋を貫いて、思う人と結婚したあとに、恋はどうなったかという話です。さだまさしの「防人の詩」(教えてください……海は死にますか 山は死にますか 風はどうですか 空もそうですか……)がテレビから流れていた頃のことです。
 結婚して五年後、可愛い盛り、育ち盛りの子供たちがいた頃に、「秋」という題で私はこんなものを書きました。

秋雨 涼しさ 虫の声
時計 電灯 日記帳

恋人を 妻にしてはいけない
秋の夜の雨を 窓の外に聞いても
思い出すべき恋人が いないとは

雨は心をつめたくする
せめて今夜は風邪をひいて
わが身を熱く ほてらせよう

 愛する人と結婚して、子供を育てる幸せの中で、ふと心を横切った淡い影。死んでしまった恋への挽歌でした。いっしょにいられるだけで無上の幸福に浸っていられた新婚の気分は、3年ほどは続いたでしょうか。それもやや薄れてきたかと思う頃に、天の恵みか、子供が生まれるのです。子供を中に置いて、夫婦の間に家族としての愛が育ちます。衝動としての恋から、持続する愛へ、こうして人は大人になるのだと思いました。それなのに、ふと浮かんだ「恋を恋う」心です。
 恋」と「愛」については、昨年の11月にも書いていますが、恋が目的を達して結婚で終ったあとも、結婚のときに永遠の愛を誓ったから、それでおしまい、というわけには行かないのです。もちろん家庭は大事です。パートナー以外の異性に心を移せば、それは重大な約束違反です。それがわかっていても、恋へのあこがれは消えません。それは「非日常へのあこがれ」と言い直すこともできます。好きな芸能人に熱をあげて恋人の代理にする、かつての恋人であるパートナーに新しい魅力を発見するなど、折り合いをつけながら、大半の人たちは人生を送るのでしょう。
 「恋は、永遠の命へのあこがれだった」という私の一応の結論は、今も変りません。だとすると、それ自体を悪いものだとは、今も思えないのです。

おじいちゃんの書き置き・80

(第8章 男女平等への道)

女性解放思想の成立

 文書に記録されるようになってからの人間の歴史は、すべて男性の歴史である。どこにどんな国が栄えたとか滅んだとか、どんな偉人がどんなことをしたとか、すべて男性がしたことの記録である。その間に女たちは家の中で子供を育て、もっぱら男性に従っていた。たまに女性が歴史に登場するのは、重要な人物の母親だったり、恋人として争奪の対象になったりした場合だけである。だから女性の歴史は成り立たないと言う人もいる。
 社会組織が古代ギリシャ・ローマの奴隷制から中世の封建制、さらには前近代の絶対王制になっても、男性の家長を中心に家族が構成される家父長制は、本質的に変ることはなかった。女性は支配階級であろうと被支配階級であろうと、男性に支配されることに変りはなく、そのため大多数を占める下層の女性たちは、階層による支配と性による支配と、二重の支配の下に置かれたのだった。
 十八世紀のフランス革命で、女性の解放は初めて公然の要求になった。有名な「人権宣言」に触発されて「女性の権利宣言」を発表した先駆者も現れたが、女性の要求はフランス革命では受け入れられなかった。革命で実現したのは多額納税者の男性の政治参加だけで、女性は選挙権はおろか市民としての権利さえも認められなかったのである。革命後のフランスをまとめたナポレオンの民法典は、近代的民法の手本として世界に影響を与えたものだが、その中でも妻の経済的自立は認められなかった。たとえば妻が他人に損害を与えたときは夫が賠償の責任を負う、つまり責任能力のない飼い犬と同じだった。
 産業革命も女性の地位を直ちに向上させることはなかった。賃労働は家内工業と同様に家族の収入とされ、やがて農村の崩壊と物価のこうとう高騰が進むと、都市の貧困層の中に女性が急増したと言われる。女性はまだ家族の中でしか生きられなかったのだ。
 十九世紀に入ると女性の参政権要求は社会主義の影響も受けて継続的な運動になった。イギリスでは普通選挙の実現が日程にのぼるようになってきた。しかし女性の選挙権となると話は別で、妻の利益は夫の利益と一致するから投票は男だけでよいというような議論が、相変らず繰り返されていた。女性の参政権は、女性の地位向上のもっとも明確な目標になったのだが、実現までに「自由・平等」が叫ばれてから意外に長い時間がかかったのは、女性の権利がいかに深く家族の枠の中にとら囚われていたかを示している。
 女性の参政権が認められたのは、ニュージーランド、オーストラリアと北欧諸国が早くて十九世紀末から二十世紀初頭、イギリスは一九一八年、ドイツは一九一九年、アメリカ全州が一九二〇年である。日本は周知のように敗戦後の一九四五年からだが、フランスはなんと日本よりも一年後の一九四六年になった。
(原文で漢字につけた「ふりがな」は、該当する字の前に表示されます。)

記事検索
プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ