志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2007年08月

東京大空襲資料センター

江東区北砂にある「東京大空襲・戦災資料センター」へ行ってきました。「東京大空襲」(岩波新書)など多数の著書で知られる早乙女勝元氏が館長で、2002年にオープンし、今年の3月から増築してリニーアルしたということです。入口のわきには、コンクリート製の「防火用水」が2個並んでいました。
 今日ここを訪ねたのは、自分の記憶を、資料と突き合せることで、確かめておきたいと思ったからでした。2階の会議室では、ちょうどNHK特集「東京大空襲」のビデオを放映中で、以前に放送で見たことはあるのですが、その最後の部分を見直すこともできました。
 昭和20年(1945)3月10日の東京下町に対する大空襲は、アメリカ空軍による初めての大規模な市街地焼却作戦でした。軍事施設を狙う精密爆撃よりも、生産力の源泉である都市そのものを壊滅させる焼夷弾爆撃の方が、日本に対しては有効であるとの判断による、綿密に準備された攻撃でした。先行する爆撃で焼却予定地を囲む「火の壁」を作り、順次内部を焼いて行くという作戦で、火災は折からの強い乾燥した北風にも煽られて、恐るべき惨害をもたらしました。300機あまりのB29による2時間22分間の爆撃で、10万名の犠牲者が出たと言われます。その中には、当然のことながら、その夜に出産した母と子もいたのです。また、2時間ちょっとの戦闘で10万名もの死者を出したのは、世界の戦争の歴史でも、原爆投下以外には例を見ないということです。
 この作戦で、アメリカ空軍は事前に死者の見積もりもしていましたが、それをはるかに上回る「大戦果」でした。この作戦の指揮官だったルメイ将軍は、後に昭和天皇から勲一等旭日大綬章を授与されています。航空自衛隊の育成に努めたというのが、その理由でした。
 資料室ではM69焼夷弾の実物とも対面しましたから、自分の記憶が細部まで正しかったことが確認できました。アメリカ軍の宣伝ビラの展示もあったので、見覚えのある文面を読み直しました。戦災地図にも詳細なものがあって、私が住んでいた滝野川区西ヶ原町68番地は、まさに焼け残りの限界にありました。家が焼けず、家族から死者を出さなかったのは、単なる偶然に過ぎなかったのでした。
(追記)この下町大空襲の際に高射砲陣地にいた兵士の話を聞いたことがあって、ブログ記事にしてあります。

夏の終りの憂鬱

 ようやく暑さが段落した一日、気持ちが沈んで晴れません。夏の疲れでしょうか、夏は嫌いでなかったのに。戦後62年の夏に、すぐれたテレビ番組もありました。平和式典の子供たちは、「平和への誓い」を力強く訴えてくれました。吉永小百合さんは朗読を続けていました。そして夏が去って行きます。
 改造すれば「安倍内閣」のままでいいのか、ヒゲ隊長「佐藤発言」に抗議しなくていいのか、テロ特措法の先行きはどうなるのか、どれも大事な問題です。声をあげ、仲間を集め、行動しようとする人たちの努力に頭が下がります。私も、できることをしなければ、と思います。
 今日の新聞のコラムによると、今は「知識人」と「その他大衆」の区別がない時代なのだそうです。マスコミが流す日常の情報も、薄っぺらな単色のものが多くなりました。ブログの世界では、逆に、いろいろな意見が飛び交っています。その中から気に入りのものを選んで読んでいると、しばらくは安心な気分になることもあります。みんなが知識人になれる、いい時代なのかもしれません。しかし同じネットを利用して、犯罪の仲間を集め、簡単に強盗殺人を犯す人たちも出てきました。憲法改定・軍備拡充を唱えている人たちは、もっと大勢いることでしょう。人間は、いったい何をやっているのでしょうか。
 いま書き下ろしを続けている「人間たちの記録」の中で、気づいたことがあります。人々の生活を一変させ、多くの理不尽な死を招いた太平洋戦争の期間は3年半で、決して長い期間ではなかったのです。成長期にあった私には、時代を分ける長い戦争のような感じでしたが、大人にとっては、5年前のことは、つい昨日のように思われた筈です。その短い時間で、あまりにも多くのものが失われました。あれは、絶対に避けるべき、許されない戦争でした。見も知らぬ男ちたに拉致され殺された一人娘の死が、絶対に許されないのと同じように。
 あの戦争は止むをえなかった。よいこともあった。無罪だったという理屈も成り立つのでしょう。本気でそう主張する人たちがいるのですから。しかし私はそれらの言説を信じません。
 夏草は一年を超えて生きることができません。一代の記憶は一代で消えます。しかし言葉をつむいで種をつくり、その種を地に残します。

カネボウ労働組合のこと

カネボウは今年の春に化粧品部門を譲渡して、花王と統合した花王・カネボウ化粧品とし、それ以外の事業はクラシエとなりました。カネボウの前身は、東京墨田区の鐘ヶ淵で明治20年(1887)に創業した鐘淵紡績です。昭和10年代には、売上高日本一の大企業でした。戦後には鐘淵化学を分離独立させるとともに、経営の多角化を進めてきました。
 鐘紡の労働組合は、戦後すぐの昭和21年(1946)に結成されています。そして全繊同盟(現在のUIゼンセン同盟)の加盟組合となりました。基本的に、鐘紡は繊維産業の仲間と位置づけられていたわけです。私は歴史ビデオの制作などを通してカネボウ労働組合とのおつきあいが長いのですが、非常に団結力の強い、個性的な組合だと感じています。会社との間に3年間の「従業員繁栄協定」を結んで賃上げ闘争から離脱したために、上部団体の全繊同盟から除名処分を受けたという、まことにユニークな歴史も持っているのです。平成6年(1994)には、別会社であったカネボウ化粧品の労働組合との統合も実現させました。同じカネボウのブランドで働く仲間の組合は、一つであるべきだという原則の実践でした。
 その後の経営危機については、会社に対する労働組合のチェック機能が不十分だったという批判もあるようですが、組合の立場での限界もあったでしょう。この夏に、恒例の組合支部制作の教宣ビデオコンクールの審査で訪問したところ、立派な自前の新会館が建っていたので驚きました。各地に分散していた組合の財産を結集して、かつての赤レンガ造りの事業所をイメージして建築したということです。館内には、鐘淵紡績時代からの歴史資料室もあり、鐘紡で働いた仲間たちの拠り所にしたいということでした。会社名は変っても、カネボウ労働組合の名を変えるつもりはありません。
 新しい時代への課題は多いでしょうが、古きよき時代の企業内労働組合の、一つの典型的な姿ではないかと思いました。企業の変転のかげに、硬骨の労働組合があることを、ご紹介する次第です。



松戸市民劇場30周年

うたのすけさんが所属(本人は退団したつもりでも、劇団は団員扱いみたい)する松戸市民劇団の30周年公演を見てきました。中ホールの会場は満席で、2日にわたる公演の最後は、大幅な時間超過で盛り上がりました。演目は「さようならの彼方に〜ハローナイツ鳥取慕情編」。地方回りの歌謡コーラスグループを素材として、歌入り大衆劇に仕立てたものでした。松戸市と鳥取は縁があって、名産の二十世紀梨は、松戸から苗木が鳥取に運ばれて普及したものだそうです。ですから鳥取の劇団と提携した「梨の懸け橋」という公演も、過去には行われています。今回も鳥取からのゲストが来ていて、名産の提供や観光案内も行われていました。
 劇の内容は、充分に観客を楽しませて、最後まで飽きさせないものでした。アマチュアの劇団が、ここまでサマになる劇を演じて見せること自体が、一つの驚異です。団員はほとんど社会人で、市の消防職員や、市会議員まで入っています。稽古は土・日・祭日の夕方から深夜ということですから、よくも30年も続いたものだと思います。最初は市民交響楽団の演劇部として出発し、松戸市の社会教育認定団体となり、事務所・稽古場を持つまでになりました。03年からはNPO法人の認定を受けて現在に至っています。これまでの公演活動の累計は100ステージに迫るということです。
 こうした活動には、芯になる人物がいるもので、現在は理事長で主演女優でもある石上瑠美子さんがその人です。そしてうたのすけさんは、今や長老に祭り上げられているのでした。
 劇団のエネルギーは、集まる「芝居好き」たちの情熱の総和です。今回は、昨年の公演で好評だった「星屑の町」(水谷龍二原作)の続編を企画したところ、適当な脚本がなかったので「みんなで合宿して書いてしまった」ということでした。歌謡グループの存続と、母親探しをからめたストーリーになっていました。それはよく伝わったのですが、現代の親子関係や、地域社会の問題なども考えさせるようなテーマの劇や朗読会に取り組んだら、もっと話題にならないかと、ちょっと欲張りなことも考えました。

映画「こんばんは」(夜間中学)を見る

杉浦ひとみさんのブログで紹介されていた「講演と映画の集い・夜間中学を通して教育や学校のあり方を考える」に行ってみました。まず、中卒の義務教育を未修了の人が、現代の日本に100万人以上いることを知らされました。未修了になっている理由はさまざまです。高齢者の場合は、戦災孤児だった、家が貧しくて働いていたなどの理由が多く、中国からの引揚者もいます。若い人では、不登校やひきこもりで形式だけ中卒にされた人、さらに親に連れられて海外から来た子供たちといった、新しい問題もあります。こうした人たちを受け入れる体制が不十分で、まともな調査さえ行われていないというのです。
 現在、公立の夜間中学校は全国に35校しかありません。この他にボランティアで運営されているものがあって、公立化を求めています。映画は東京の墨田区立文花中学校を舞台として制作されたドキュメンタリーでした。
 映画に登場するお年寄りたちは、すでに社会人として長く生活してきながら、学校に行っていないことを負い目としてきました。ですから学ぶ姿勢は真剣そのものです。人並みに読み書きできないことがどれほどの苦痛であったか、本人たちの話を聞けばわかります。そこで行われているのは、競争のための勉強ではなくて、まさに助け合って生きるための勉強です。その雰囲気が、同じクラスに入ってきた不登校の少年の心を、少しずつ変えていきます。さらに外国から来て日本語のわからない人たちも加わって、年齢も国籍も超えた、人間の善意だけでつながる温かい空間が出来上がるのです。それを見ていると、これは一部の特殊な人たちだけの問題ではなくて、教育ということの本質を考えさせてくれる映画だということがわかります。
 学校は親善だけを目的にしている場所ではありません。人間の生き方を学ぶ場所です。どういう生き方をするかが、人間の「文化」というものです。この映画は、そんなことも考えさせてくれます。夜間中学の整備には、どれほどの予算が必要なのでしょうか。おそらくそれほどの巨額ではありますまい。日弁連の意見書に、全面的に賛同します。この映画についての情報は、ここにあります

暑すぎる「残暑」

立秋を過ぎての暑さを「残暑」と言うようですが、実感ではむしろ暑さの本番です。暦の上の二十四節気によって、そのように呼ぶのが慣わしとはわかっているのですが、あまりの暑さに「現場を知らない」物言いではないかと疑問が起きて、二十四節気を調べてみました。
 まず「立秋」とは何かと広辞苑を引くと、「太陽が黄経で春分点から135度の位置に来たとき」であると説明していました。春分から90度が夏至になることは容易に推測できますから、夏至から45度、つまり秋分との中間点が立秋であることがわかります。ちなみに1年間は365日ですから、太陽の動きとの関係は、1日が1度と考えても、あまり違いはありません。ですから夏至から45日、つまり1ヶ月半で立秋が来ることになります。そして二十四節気は、この45度つまり360度の8分の1の間に、15度ずつ2つの節気が入ります。ですから暦の上では、ほぼ15日ごとに現れることになります。
 夏至から立秋までの間には、小暑と大暑が入ります。7月初めの小暑と7月下旬の大暑は、梅雨が明けていなければ、あまり暑い日にはなりません。梅雨が明けた8月上旬あたりから暑さが本格化するのは、日本列島では普通のことです。中国から発祥した二十四節気が日本の実感と合わないのは、止むをえないことなのかもしれません。
 夏に比べて、冬至から45日後にやってくる立春は、寒さも底で日の光の復活も感じられ、私たちの実感とも合っているように思います。日本では、寒さは太陽から45日遅れでやってくる、暑さは太陽から60日遅れでやってくる、ということでしょうか。それはまた、秋は急にやってきて足早に去って行くという、日本の季節感とも符合しています。
 参考までに二十四節気を春分から順に並べてみましょう。

春分 清明 穀雨 立夏 小満 芒種 
夏至 小暑 大暑 立秋 処暑 白露
秋分 寒露 霜降 立冬 小雪 大雪
冬至 小寒 大寒 立春 雨水 啓蟄

中でも重要な夏至と冬至、春分、秋分を「二至二分」と言い、立春以下の「四立」と合わせて「八節」とも言うそうです。太陽の位置を45度ずつに意識する節目の日です。

ディベートとワークショップ

読谷の風」の高江洲瑩氏はワークショップを教育の現場で実践している人ですが、最近のブログでディベートにも触れていました。私はこれまで何となく、ディベートもワークショップも、似たようなものだという印象を持っていました。大勢が意見を出し合って、何か結論を出すための方法なのだろう、という意味でです。ところが内容には大きな違いがあることがわかりました。
 ディベートは「論争」と訳されますが、言論による格闘技です。自分の正しさを主張し、相手の弱点を攻撃して、相手が反論できなくなったら勝ちです。強いものが勝ち残る競争原理に適合しますから、アメリカ・自由主義的であるとも言えます。国会などで展開される「論戦」は、ほとんどがこのディベート方式で行われているのではないでしょうか。
 それに対してワークショップは、本来「工房」の意味ですが、実践活動を共有して、より高度な合意を形成するための手法として用いられてきました。ですから小さなアイディアや思いつきでも拾い上げて、役立てることも可能になります。ディベートと対比させれば、イギリス・民主主義的と言えるかもしれません。
 私たちはふだん人と議論するときに、ディベートの場なのかワークショップの場なのかを意識しません。ごちゃごちゃに話を進めて、自分の意見が通れば満足して終ります。また人それぞれの個性があって、ディベート式で勝ちたがる人と、ワークショップ式に他人の意見の中からも良いものを引き出して、そこに喜びを感じる人もいます。
 物事には、白黒の決着をつけなければならない場合もありますが、私たちにこれから必要なのは、ワークショップ方式で「集合知」を高めることではないでしょうか。たとえば生命倫理のような、敗者を切り捨てられない問題は、ディベートでは解決できないと思います。そして本当は、国の政治論議も、ディベートでなくてワークショップであるべきだと思います。
 追記ですが、ワークショップでは大事な条件があります。全員が「意見を言う」のが義務なのです。政治に当てはめれば、投票は権利ではなくて義務になります。

医者の仕事は何だろう

最近、医師のブログを読むことが多くなって、自分のこれからの医療とのつきあい方を含めて、改めて考えてみました。まず、3つの公理が立てられるように思います。

1)人間は必ず死ぬものである。
2)医療は、人間の病苦を救うことができる。
3)従って医療の目的は、生存中の人間の病苦を救うことである。

 こんなことを考えたのは、「天国へのビザ」(命とオカネの関係)というブログのコメントで、「年金の受給を続けたいから老人を死なせないでほしい」という要求、つまり経費よりも利益が多い間は老人を「財源」として生かしておくという発想があること、さらに「ある国では寝たきりの老人はいません。経管栄養をしないから、寝たきりになったら、すぐに死にます」という例を読んだからです。また、日本の病院では、死因を「老衰」とすることを不名誉とする空気があることも知りました。
 医者の仕事は、人を死なせないことではなくて、よく生かすことであるというのは、私が以前から考えていたことです。ですから当然に、よく死なすことも考えてくれるものだと思っていました。ところが「天国へのビザ」の春野ことり医師のコメントには、「最近の医療訴訟の増加や刑事告発などは、医師の過剰医療を誘発し、自然死をますます困難にさせることと思います。」とありました。
 こうなると、誰のための医療かという、根本的な疑問が湧いてきます。とりわけ間もなく死と対面する私たち老人にとっては大問題です。理想としている「自然死」が、そんなに難しいことになってしまっては困るのです。私は一時的な救命策を除いて、経管栄養は辞退するつもりです。「自分で食えなくなったら死ぬ」のが人間だと思うからです。でも、その考え方を受け入れてくれる医師は、責任を追及されるのでしょうか。まじめな議論として「医療の限界」についてのガイドラインを考える必要があると思います。 

「医療の限界」を読む

いくたまきさんが参加している展覧会を見に、千葉の東金まで行ってきました。いくたまきさんの漫画のほかに、版画、洋画、書、手芸アートを加えた、多彩な個性を楽しめる展覧会でした。
 往復の車中で「医療の限界」(小松秀樹・新潮新書)を読みました。内容は私が表題から期待したこととは少し違っていましたが、今の日本の医療の危機的な状況が、実感をもって理解できました。にわかに話題になってきた医師不足の問題、医療ミスをめぐる刑事・民事の裁判の問題、医療費の増加傾向とその抑制の問題などが、すべて関連し合っていること、それらを解決するために国民的な議論が、今こそ必要であることが説かれています。
 これを読んで目からうろこなのは、「安心で安全な医療」は甘い幻想に過ぎないという事実です。医療行為は大なり小なり生体である患者に対する侵襲であるというのは、言われてみれば確かにその通りで、苦かったり痛かったりするデメリットよりも、得られるメリットの方が大きいことを期待して行われます。そして医療技術がどこまで進歩しても、あるいは進歩すればするほど、失敗の危険は除去できません。失敗しなくても、高齢者が多くなれば合併症による急死も起こります。そんなときに「医者がミスしなければ死ななかった」と訴えられる例が多くなりました。
 現在の刑法は過失を個人の責任として追及する建前になっていますが、大半の医療事故は個人を有罪にして再発を防止できるものではないと著者は言います。むしろシステムとして、たとえば航空機事故調査のようなアプローチで事実を解明しなければ、有効な対策は立てられないでしょう。そこでは患者と医療者を対立させない無過失補償制度のようなものが役に立つ筈です。医療者が被疑者として取調べを受けるのなら、不利な証言は拒否する権利があります。真実の解明は、かえって遠のくでしょう。
 医療現場が医師にとって「労多くして危険の多い報われない場所」になれば、「立ち去り型サボタージュ」が起こります。それは、これから老齢を迎える私たちにとっては、まさに悪夢です。医療の現場から発信される声に、真剣に耳を傾ける必要があると思いました。

平和伝道の必携マニュアル

優しい光」さんが昨日から予告していた「理想とする日本の姿を読みました。短い文の中で、日本が世界で果たすべき役割を示した上で、それを担う個人が何をすべきかまで、明確に具体的に網羅していることに驚きました。これを、日本ができる最大の国際貢献である「平和伝道師の必携マニュアル」として推薦します。
 本物を見ていただければ、それでいいのですが、あえて解説すると、東に復讐の戦いをしようとする者がいれば、憎しみの連鎖では事が解決しないことを説きます。西に宗教戦争があれば、あらゆる宗教の共存が可能であることを説きます。南に貧しさからの紛争があれば、資金と技術を持って救援に行きます。北に独裁者がいれば、周辺の国々と協力して独裁者に退陣を促します。こうした行動が説得力を持つためには、日本の国が、世界から信頼される国でなければなりません。それは、その国民である私たち個人が、周囲の人と小さな平和を築くことから始まるのです。
 これにつけ加えるものは何もありません。これは論語の「大学」にある「修身、斉家、治国、平天下」(わが身を修め、わが家を整え、わが国を治め、天下を平らかにする)と同じ思想です。今の世の中はおかしい、世界は狂っていると、憤っても嘆いても、何の役にも立ちません。それは二千五百年も前に、孔子がいやというほど経験したことと同じです。乱世に翻弄されたからこそ、孔子は高い理想をかかげて堅固な思想を今に残しました。
 この新しい平和の伝道マニュアルを、一人でも多くの人が日常に実践して、この国の平和を確かなものにするように、そしてとくに若い人たちが、このマニュアルを携えて世界に出て行ってくださることを、心から願います。

政治よりも大切なこと

昨日の天木直人氏のブログに「政治よりもはるかに重要な事というエントリーがありました。他の人ならともかく、天木氏が「自己犠牲を覚悟の少数の立派な人間だけが政治に携わればいいのだ。……我々一般の市民は、政治の事などにかかわる暇があれば、それぞれの人生を誠実に、そして一生懸命生きればいいのだ。そのような我々国民の生活が、公正、公平であるように、能力のある一握りの自己献身的な人間が政治を司ればいいのだ。」と言うのですから、重みがあります。
 これは孔子が求めた「聖人君子の政治」にも近いものです。理想の政治が行われるところ、「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」(政治に安心を感じさせれば、理屈を知らせる必要はない)が成り立つでしょう。私だって、昔のように「天皇の大命降下」で首相に任命されたら、3年間ぐらいは全力で政治に取り組んでみてもいいと思います。施政方針演説は1200字、5分以内で基本方針を示し、実務は吉田茂のように「問題が重要でありますから、担当大臣から答弁致させます」の方式で進めます。かなりいい政治ができると思うのですが、もちろんこれは冗談。
 現実には天木氏も言うように「権力や名誉欲に取り付かれた連中が政治家となり、官僚と結託して国民の税金を使い、国家権力をほしいままにしている」から、監視の目を厳しくしなければなりません。そのように批判し改革するのは、労多くして報われることの少ない仕事です。しかし一挙に強権を振るって独裁政治を布くことができない以上は、今の法秩序の中で改善を積み重ねて行く以外に、方法はないのです。
 政治は手段であって、目的ではない。政治を目的物とする「政治屋」を排除して、政治を公正で公平な国民生活を保障するための手段にするような、そのために身命を捧げる本物の政治家を選ぶべきだ。天木氏が言いたかったのは、そのことではないでしょうか。

佐藤正久発言は「わかるけど、だめ」

自衛隊の海外での活動について、重大な発言が飛び込んできました。イラクに派遣されたヒゲの隊長で知られる佐藤正久議員が、JNNの取材に応じて「イラクでオランダ軍が攻撃されたら、偵察目的で出動して、戦闘に巻き込まれる形で救援するつもりだった」と発言したというのです。日常の警備で世話になっている友軍が、目の前で攻撃されて苦境に陥ったら、放っておくわけには行かない、脱法的行動であろうと救援に駆けつける覚悟をしていたということです。
 実際には幸いにして、そのような事態は起こらずに済みました。しかし、そうなる可能性は、少なくはなかったでしょう。その場合、彼の行動は、どう評価されたでしょうか。現場指揮官の立場としては理解できると思う人が、多いのではありませんか。結果として、譴責か厳重注意はあっても、既成事実は「仕方がなかった」ことになってしまうのではないでしょうか。そうすると、これが集団的自衛権発動の第1号になります。
 既成事実の積み重ねが国の方針を変えるとは、こういうことです。かつて日本の軍隊が中国に対して戦線を拡大したとき、批判的な政府の要人を襲撃したとき、いやというほど繰り返されたのが「彼らの国を思う真情は理解できる」という、論理にならない理屈でした。今回のイラクへの自衛隊派遣について言えば、そのような「真情の発露」を強いるような場所へ派遣した政治的な判断が、やはり間違いだったと言わなければなりません。
 武力によらない平和的な世界秩序の構築を希求し、国際的な紛争を解決する手段としての戦争を永久に放棄した日本国憲法の理念を、守るつもりがあるのか、ないのか。すべての問題は、この一点にかかってきます。

「自衛隊 変容のゆくえ」を読む(3)

今の日本が平和なのは、日米安保体制によってアメリカ軍に守られているからである、というのは公理でしょうか。そう思いたい人はいるでしょうが、では逆に、アメリカ軍に守られていなかったら、今の日本はソ連や中国から圧力を受けて共産主義国家になり、経済発展もできずにいたでしょうか。もちろん架空の議論に深入りは無意味ですが、素朴で根本的な疑問です。
 日本の平和憲法の理念は、米ソ対立の冷戦下で貫くのは困難でした。では今はどうでしょうか。予想される主要な戦争は、いわゆる「テロとの戦い」になっているのではないでしょうか。その戦いに核武装や最新技術の高度な武器は有効でしょうか。
 EUは過去の歴史に学び、相互信頼の統一体を作り上げるまでになりました。歴史的に「仇敵」同士だったドイツとフランスが戦うことは、もう考えられません。同じことをアジアで構想することは絶対に不可能なのでしょうか。今は中国の軍備増強が不安材料として語られていますが、これを自衛隊の画期的な装備近代化に対する10年遅れの反応と考えると、「あちら側から見た安全保障」の観点も見えてきます。日本の自衛隊がアメリカ軍との「接続」を弱めて自立性を強めれば、周辺国との対話は進めやすくなる筈です。アメリカの「核の傘」から離れたら、直ちに北朝鮮の核ミサイルが日本全土に降りそそぐという想像は、現実的ではないと私は思います。
 日本の自衛隊は、日本の国民のものであるという本来の姿に立ち返る、アメリカは世界の警察官としての任務を、アジアにおいて軽減されるというのであれば、アメリカの納税者は納得するでしょう。この本では、日本から発信して信頼醸成の基盤を作っていくための、具体的な方策も提案されています。また、これからの世界で役に立つ「武力」とは何かも考察されています。たとえば日本の生命線と言われるシーレーンを守るためだったら、「海賊には勝つが海軍には負ける」程度の、きめの細かい国際警備組織が有効に働くでしょう。自衛隊員が、真に誇りと自信をもって活躍できる場は、国内にも海外にも、少なくはない筈です。

「自衛隊 変容のゆくえ」を読む(2)

この本の主要な部分は、自衛隊が「専守防衛」から「米軍に付随した戦力」へと変化して行く道程の検証です。「日本の国土が侵されたときに、日本人が日本人の指揮により防衛のために戦う」専守防衛は、辛うじて現憲法の下でも許されると解釈されてきました。その専守防衛の思想に絶えず圧力をかけ、変容を促してきたのがアメリカの世界戦略でした。アメリカから見て、日本が最も重要な同盟国であることは本当でしょう。ヨーロッパには価値観を共有できる多数の国家があり、それぞれに防衛力も備えています。それに対してアジアでは、アメリカが信頼できて、かつ実力を備えている国が日本の他には見当らないのですから。
 アメリカの世界戦略が日本の自衛隊をどのように変えてきたかは、この本を読んでいただくのが一番いいのですが、最近進行している日米共同訓練に関して、印象的な部分を一つだけご紹介しておきましょう。アメリカの空母を日本の護衛艦がアメリカの駆逐艦と共同して護衛する訓練をしたとき、Plug and Play という言葉が用いられたというのです。この言葉は、コンピューターの周辺機器を接続する場合などに使われるのと同じで、「接続すればすぐに使える」意味になります。つまり自衛隊が、アメリカ軍の下請けよりももっと密接な「信頼できる周辺機器」になることを意味します。アメリカ軍の大規模な世界戦略の再編成に、日本の自衛隊が抜きがたく組み込まれつつあることを認識しなければなりません。
 また天木直人氏の最近のブログには、「沖縄の嘉手納空軍基地が、日本を守るためにあるなどと考えているアメリカの軍人はいない」という談話が紹介されていました。アメリカの世界戦略が変れば、日本の自衛隊も周辺機器として役立つように変らなければならないというのは、絶対に避けることのできない運命なのでしょうか。主権国家としての日本の立場はどうなるのか。アメリカの世界戦略という戦時体制のレジームからの脱却は、ありえないのでしょうか。
 今のままの既成事実の積み重ねが継続すれば、早晩、憲法との乖離は救い難いものになります。集団的自衛権の発動という世界戦争への参加を公認するために、「憲法は実情に合わなくなった」として改憲する。放っておけば、そうなります。その筋書きを書き直すことは、今ならまだ間に合うかもしれません。

「自衛隊 変容のゆくえ」を読む(1)

昨日の大阪へ往復の車中で、「自衛隊 変容のゆくえ」(前田哲男・岩波新書)を読みました。窓外の関が原付近の風景、緑濃い森林と、薄緑の水田の美しさを見比べながら、何度も嘆息しました。
 これまで何となく感じていた自衛隊への疑問が、順を追って解明されるのを感じました。認識できた本筋は「憲法ではなくて、自衛隊こそがアメリカの押し付けだった」という事実です。占領継続中から、アメリカは日本政府に対して、憲法は日本国民の意思で自由に改変または国民投票などの方法で確認の手続きをしてよいと示唆しています。しかし政府は「その必要はない」として応じませんでした。憲法の改変を求める世論が、全くなかったからです。
 それに対して警察予備隊の創設は、朝鮮戦争に直面したマッカーサーが発した、事実上命令に等しい「書簡」によるものです。その後の相次ぐ拡大も、常にアメリカの要請に応えて行われてきました。つまり「戦後レジームからの脱却」を言うのなら、憲法を変えるのではなくて、自衛隊の存在を再検討した方が、理にかなっていることになります。
 警察予備隊は陸上だけから出発して、後に海上を加えて保安隊となり、さらに陸海空の自衛隊となって今に至っています。その都度内閣法制局は、憲法との整合性をどうするか、憲法解釈で苦労してきました。保安隊までは「戦力に当らない」でしたが、それが無理になると「自衛のための戦力は保持できる、行使もできる」になりました。その憲法解釈は、裁判所の判決で何度か否定されたのですが、控訴審の最高裁判所は「高度な政治判断に属する」として判断を保留し、それが判例となって今に至っています。
 これは私の意見ですが、最高裁は、昭和30年代までに、法律の解釈として本当に自衛隊が認められるのかどうか、明確な判断を示すべきだったと思います。大混乱を引き起こすのは必至だったでしょうが、憲法で期待されていた職能を果たしていれば、今ほどのモラルの低下は避けられたのではないでしょうか。憲法第81条の条文は、以下の通りです。
 「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則または処分が、憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する最終裁判所である。」

原作者は神様

昨日紹介した「いのち」の歌の作詞について、古木シスターから、「この言葉も神様からいただいたものなのではないでしょうか? 神様はいろいろな方の口を通して真実を語られています。それに気付けるかが問題なのでしょう。」というメールをいただきました。そうすると、この歌の原作者は神様で、古木シスターはその伝達者ということになります。
 詩文にかぎらず、彫刻でも絵画でも音楽でも、「神仏が乗り移った」奇跡の作品がある、という話は聞いたことがあります。でも私にはまだ、そんな経験はありませんでした。ただ、母を亡くしたとき、父親と対立したとき、あるいは妻と娘の姿に無上の幸福を感じたとき、言葉を失うような深い心の深層から、思いがけない言葉が浮かんできたことはあります。それでも私は、言葉とは自分の中から絞り出すものだと、これまでは考えていたと思います。
 奇跡のように得られる解決も、自分のこれまでの経験や思考の集積が、必死になって無意識のうちにも働きつづけるから得られるのではないか、と思っていました。一晩寝ると新しい考えが浮かぶ、沈思黙考は無駄にはならない、といった経験も、それを裏付けるものでした。ところが今回、高江洲氏の「外から貰う言葉もある」という考え方に衝撃を受けました。それでは自分とは、いったい何だったのか。
 だから古木さんに問いました、「あの言葉は、あなたのものですか、それとも神様のものですか」と。その返事が上記の内容でした。修道女としては、当然のお答えだったのでしょう。
 私はここで結論を出したくはありません。私は何ものにも帰依しないで生涯を終るのか。絶対者に身を委ねる「他力本願」の幸せを、最後には得るのか。ただ感じたのは、「この歌を聞きながらだったら、安心して死ねそうだ」ということでした。

いのちの歌

古木涼子シスターから、「クレド」(ある兵士の祈り)が入っているCDとは別の、自作のCDをいただきました。その中に「いのち」と題した歌があります。「一人の女の子が性的虐待を受け、もう自分の体は汚れたからと非行に走り、売春を重ね、エイズになって死んだことを聞いてショックを受け、「いのち」について考え、自分なりの答をこの詩にあらわしました。」とお手紙にありました。

  いのち  古木涼子作詞・作曲(および歌唱)

いのちがこんなに尊いのは この世に たったひとつだから
いのちがこんなにきれいなのは 神さまが心込めてるから
いのちがこんなに愛しいのは それはあなた あなたのいのちだから

父さんがいて 母さんがいて 家族がいて みんながいて
そしてあなたが生まれた けっして一人ではなかった
みんなで守るよ そのいのちを 心と体 傷ついても
あなたのいのちは変らないよ 美しく光り輝いてる

生きて 生きて 生きて欲しい かけがえのない あなたのいのちを
生きて 生きて 生きて欲しい かけがえのない あなたのいのちを
あなたのいのちを

この歌は、カトリツク教会の中で広まりつつあるそうで、昨年のクリスマス会に女子少年院でシスターズが歌ったところ、少女たちは号泣したということです。広く一般に知られて、いのちを大切にする歌として歌われるようにと願い、ご紹介します。
 私としては、「父さんも母さんも家族もいない」子供たちが現代に存在することも、認めなければならないと思います。その子たちの父母や家族になってあげることも、現代の私たちの責務ではないでしょうか。
(追記・「いのち」が収録されているCDについては、宮崎カリタス修道女会の日本管区にお問い合わせください。)

↓歌声は、ここでお聞きください。


自分のところで断ち切る

昨日の広島平和記念式典で、こども代表の言葉が、いちばん心に残りました。新聞には市長と首相の言葉は全文が出ているのに、こども代表の言葉はありませんでした。ここに全文を引用します。

 私たちは、62年前の8月6日、ヒロシマで起きたことを忘れません。あの日、街は真っ赤な火の海となり、何もかもが焼かれてなくなりました。川は死者で埋まり、生き残った人たちは涙も出ないほど、心と体を傷つけられました。目も鼻も口もわからないほどの大やけど。手足に突き刺さった無数のガラス。あの日、ヒロシマは、怒りや悲しみのとても恐ろしい街でした。
 これが原子爆弾です。これが戦争です。これが本当にあったことなのです。しかし、原子爆弾によっても失われなかったものがあります。それは生きる希望です。祖父母たちは、廃虚の中、心と体がぼろぼろになっても、どんなに苦しくつらい時でも、生きる希望を持ち続けました。多くの犠牲の上によみがえった広島をもっと輝かせたいという思いで、原子爆弾によって焼け野原になった街をつくり直してきました。そして、今、広島は、自然も豊かでたくさんの人々が行き交う、笑顔あふれるとても平和な街となりました。
 今、テレビや新聞は、絶えることない戦争が、世界中で多くの命を奪い、今日1日生きていけるか、1日1食食べられるか、そんな状況の子どもたちをつくり出していることを伝えています。そして、私たちの身近なところでは、いじめや争いが多くの人の心や体を壊しています。嫌なことをされたら相手に仕返しをしたい、そんな気持ちは誰にでもあります。でも、自分の受けた苦しみや悲しみを他人にまたぶつけても、何も生まれません。同じことがいつまでも続くだけです。
 平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です。そして、文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを「知ること」が大切です。途切れそうな命を必死でつないできた祖父母たちがいたから、今の私たちがいます。原子爆弾や戦争の恐ろしい事実や悲しい体験を、1人でも多くの人たちに「伝えること」は、私たちの使命です。私たちは、あの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助けることはできるのです。
 私たちは、ヒロシマを「遠い昔の話」にはしません。私たちは、「戦争をやめよう、核兵器を捨てよう」と訴え続けていきます。そして、世界中の人々の心を「平和の灯火」でつなぐことを誓います。平成19年(2007年)8月6日
 こども代表
 広島市立五日市観音西小学校6年 森展哉
 広島市立東浄小学校6年 山崎菜緒(崎の字は、大の代わりに立の下の横棒なし)


 もちろん広島市教育委員会をはじめ、大人たちの助言はあったでしょうが、これらの言葉が、この子たちの意思と無関係であった筈はありません。「憎しみを自分のところで断ち切る」ことがどれほど難しいか、二人もこれから経験することでしょう。でも、そこにしか希望はありません。

原子力発電は使いこなせるか

昨日の日曜日、「読谷の風」の主、高江洲瑩(たかえす・あきら)さんに会いに行ってきました。私の母校でもある練馬の武蔵高・中学校の、理科研究室にお訪ねしました。じつは沖縄に住んでいる人だと思い込んでいたのが、すぐ近くとわかって、気楽に訪問できました。名刺を頂いたら理学博士で、地球物理学が専門ということでした。地下から発生するガスで地震を予知するというテーマを持っていて、今もCO2の観測を続けているのは、その関連でもあるのでした。
 読谷の風ブログで継続して提起されているのは、科学者の目を通した現代の科学技術、科学教育、そして政治や社会に対する鋭い批判です。「大臣の絆創膏を取り上げるのと同じぐらいの熱心さで、原子力発電の問題を、子供や主婦にもわかるようなニュース・ショーにすべきではないのか」という数日前の記事が、記憶に重く残っていました。私が会って聞いてみたかった質問の第1は、「人間は原子力発電を使いこなせると思いますか」でした。
 答えは「不可能ではないと思うが、非常に大胆な決断を要する」ということでした。核分裂反応を、爆発的でなく安全に管理するには、厳重に閉鎖した環境を用意する必要がある。ところが完全に閉鎖してしまったのでは物の役には立たないわけで、エネルギーは熱水などの形で取り出す必要がある。そこから必然的に、放射能漏れという綻びが発生する問題は、根絶は不可能だということでした。今回の地震による刈羽原発の事故では、「想定外」という言葉が頻繁に使われました。「絶対安全」の建前は、「想定外」に直面すれば無力になるのです。そして想定外とは、想定できないから想定外です。それでも他に仕様がないから使うというのなら、重大な覚悟が必要になるのは当然です。私たちは、そのような真剣な議論をしたことがあるでしょうか。
 原発を一時的なピンチヒッターと考えるのなら、まだ間に合います。代替エネルギーの開発とエネルギー消費の抑制とを同時進行させて、循環系の中で人間が生活する均衡点を求めればいいのです。それとも、危険を承知で限りない拡大・発展を続けたいか。私にはそんな大胆な決断はできません。

夏休みも近いので

夏休みも近いので、あまり無理せずに長持ち第一にしようかと思いました。もしも休載日がありましたら、そしてお時間がありましたら、過去ログの方へもお越しください。「カテゴリー」を指定すれば、20件単位で、そのテーマの記事がすべて出てきます。また日付順でしたら、「アーカイブ」で1年前までは、さかのぼれます。これも20件単位ですから月の初めの方は「次の20件」をクリックしてください。1年以上前は、カレンダーをアーカイブで古く(今は2006年の9月まで)してから、カレンダー下の「前の月」をクリックすると、1ヶ月単位でさかのぼれます。私のブログの最初は、2005年の11月(ただしこの月は1件のみ)です。
 古い記事を読んでコメントをくださる場合、どんなに古くても、その場に入れてくださったコメントはそのまま最新の情報になりますから、見落とすことはありません。時間をおいてから話題にしてみるのも、面白いのではないでしょうか。そしてお願いですが、誤字、脱字、あるいは疑問点に気づかれましたら、どうぞコメントとしてお知らせください。自分でも、古い記事の気になるところは、常時訂正を加えていますので。
 よそのブログを見ても思うのですが、単発の本の読者よりも、ブログの読者の方が、ずっと「縁が深い」のではないでしょうか。本を読むのは一過性ですが、ブログを読むのは「現在進行形」になります。そして書き込むコメントが、また書き手を動かして行きます。大勢の人とのつながりの中に自分のブログがあることを、私は今も驚きの目で眺めています。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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