志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2008年03月

誰が日本の医療を殺すのか

「誰が日本の医療を殺すのか」(本田宏・洋泉社新書)を読みました。著者は済生会栗橋病院副院長で「NPO法人・医療制度研究会」の代表理事。外科部長として現場で働くことにこだわりながら、医療政策改革のスポークスマンとして「この活動にかけて死ぬなら本望」と言い切る人です。
 この本を読んでわかるのは、現在進行している日本の医療崩壊が、不幸な偶然などではなくて、明確な政策意図のもとに起きているという事実です。その意図とは「医療費抑制」の一語に尽きます。その裏付けとして、著者はさまざまな国際比較をしていますが、要するに日本の政府は、医療費の増大が経済成長を妨げるという「医療費亡国論」に乗じて、1986年以降に過剰な締め付けをしてしまったということです。一番わかりやすい医師の人数で言えば、医学部の定員を削減しつづけてきました。その結果、人口の高齢化に伴う医療の需要増に対して、医師の絶対数を不足させてしまったのです。
 現在、日本の医師・看護師数と医療に投じられる公的資金量とを、先進国の平均と比べると、いずれもほぼ3分の2の低水準に置かれています。それでいて世界一の長寿を実現し、国民皆保険で平等な医療を提供しているのは、奇跡と呼んでもよいほどだと著者は言います。そのかげでは、病院施設が総じて質素である、患者の窓口負担額が諸外国よりも高い、などの現実があるのですが、何よりも医療関係者の使命感とがんばりでここまで支えてきた。しかしその無理が限界まできて破綻し始めているのが現在だと、著者は訴えているのです。
 長時間労働と低収入、さらに行き届かない医療への不満が医師へのバッシングや訴訟になる世相では、医療を萎縮させる悪循環を止めることはできません。必要な人と金を振り向ける以外に、根本的な対策はないのです。しかし政府がとろうとしている対策は効率化や自由化であり、医学部定員の増加は、わずかに年間100人の程度にすぎません。医療の自由化は、国民の間に「生命の格差」を生み出すことを意味します。
 問題は要するに、私たちはどういう国に住みたいかということです。特別会計で既得権化している公共事業費の10%を削って回せば、日本の医療は世界水準に回復するという試算ができるそうです。長寿時代の国の政策として、どちらを優先したら国民は幸せでしょうか。医療の崩壊を放置して自由化を進めれば、利益を手にするのは外資系の医療保険会社だけでしょう。

ブログ連歌(27)

519 年寄りに 前期も後期も あるものか(koba3)
520  老中大老 みんな偉いぞ(建世)
521 偉い人 龍馬の夢を たどる旅(みどり)
522  皇居一周 桜田門(やまちゃん)
523 世を憂い 思い千年 かけめぐる(建世)
524  駆けては跳ねて ストレス飛ばす(うたのすけ)
525 年寄りも 後期と烙印 保険証(うたのすけ)
526  病なければ 計算無用(建世)
527 から元気 装ってみるが いまひとつ(やまちゃん)
528  年相応に 暮らすが無難(建世)
529 転勤で 気もソワソワの 菜種梅雨(やまちゃん)
530  別れそれぞれ 出会いもあって(建世)
531 壇上に 日の丸君が代 君臨す(建世)
532  生徒うつむき 君が代好かず(みどり)
533 この国を どうするつもり 花冷えて(建世)
534  気持ち新たに 明日は卯月(やまちゃん)
535 福田さん たまに言ってよ 大ボラを(えいこう)
536  「国民主権 政権奉還」(建世)
537 君主なき 世を喜びて 長屋の花見(みどり)
538  があぶがぶうの ぽうりぽりってな(花てぼ)
539 主さんを 相手に番茶で 酔ってみる(建世)
540  せめて酒だけ 灘の生一本(うたのすけ)

主婦になってみた男の二週間(1)

(婦人公論・昭和50年(1975)2月号より)
主婦になってみた男の二週間  志村建世

 男は家事のできない欠陥人間でいいのか。
 台所に立った2週間は、
 男と女の問題を考える原点になった!

「女の聖域」に踏み込む

 昨年6月の2週間、私は妻と交替して家事労働を担当してみた。必要に迫られたわけでもないのに、なぜそんなことを思い立ったかというと、家事を理解することが、男と女の問題を考えるカギになるだろうという予感は、かなり以前からあったのである。たとえば、夕食時の妻があまりに疲れ切ったような顔をしている時、もっと合理化して楽にやれる方法を考えたらどうだとか、たまには外食や出前にしたっていいんだなどと、理解と同情を示したつもりで話しかけてみても、たいてい「男の人にはわかりっこないのよ」という、あきらめた調子の返事が返ってくるだけだった。そんなとき、女にとっての家事が一種の「聖域」として、男の介入を拒否しているようにさえ感じられた。しかし、いっしょに生活している相手との会話が、そこで断ち切られてしまうことは、なんとしても気になることだった。だから、いつかその聖域を自分で確かめてみなくては、と潜在的に思いはじめていたのである。
 こうして、実験にかかる下地は出来ていたのだが、いざ実行となると、なかなか動機がつかめなかった。そんなことやらなくたってだいたい想像がつく、とか、今の仕事が一段落ついてから考えようとか、ためらう理由には事欠かなかった。しかし、ある時、そんなふうに言いわけを許さないのが家事の特徴だということに思いいたった。そして、翌日から実験にとりかかると宣言してしまった。
 
 第1日目の月曜日、小学6年生の上の娘の声ではっと目をさました。前夜から自分に言いきかせておいた家事責任者としての義務感で、眠気はいっぺんに吹っ飛んだ。時計は7時半で、やや遅い時間になってしまっているのにあわてた。まず雨戸をあけ、やかんをコンロにかけ、4年生の下の娘を起こしに行き、それから先は寝床の妻の助言をききながらコーヒーをいれ、トマトを切り、など、いきなり目のまわるような忙しさの中に投げ込まれたような気がした。
 あとで考えると、パンとコーヒーと果物だけの、いちばん簡単な朝食だったわけだが、ガスにかけた湯が沸くまでの間にトマトを洗って切るとか、パンをトースターで焼いている間にコーヒーをいれるといった、家事の「同時進行性」と、時間に追われているという意識が、実際以上に多忙感をかき立てたらしい。とにかくその朝は自分の顔を洗ったり、ヒゲ剃りをしたりする時間はまるでなかった。娘二人がバタバタと学校へ出かけてしまうまでの30分足らずの間は、わけがわからないうちに過ぎてしまった。
 8時過ぎにほっと一息ついて洗顔し、やっと自分のお茶でもいれようかという気になって、食卓の上の残りものなどをつまんでいると、自分の1食ぐらいはなんとなく済んでしまう。いつもならこのへんで亭主である私自身が起き出して来て、その食事の世話をしなければならないところだが、私のほうはそうしようと思っていたのに、このほうの役割交替は完全にはいかなかった。妻はなんとなく落ち着かない様子で、何かと手を出しかけては、はっと気がついて次にやるべきことを口で言ってくれた。だから、少なくとも実験の前半1週間は、妻は私がサービスすべき相手としてよりも、家事の指導者としてふるまった場合のほうが多かった。考えてみれば、ズブの素人がいきなり一人前の主婦役をつとめられるわけがないので、1週間の「家事見習い」は、当然の成り行きだった。
 それにしても、自分を家事担当者の立場においてみると、こまごまと気を配らなければならないことがいかに多いか、それは新鮮な驚きと言ってもいいくらいのものだった。たとえば1杯のコーヒーをいれるためには、コーヒーのびんとクリープのびんと、カップとスプーンをそろえたうえに、熱く沸いたお湯をもってこなければならない。熟練した主婦は、それらのことを、半ば無意識のうちに、最適の手順でやるものだということを、私はこの経験の後に発見したのだが、とにかく、他人のためにはじめてそういうことをした私にとっては、カップ1つ、スプーン1本を動かすことも、ひとつひとつが判断を要する仕事として意識されたのだ。

古くて新しい家事論争

先日、みどりさんのブログ「家事のできない男たち」のコメント欄で、ちょっとした盛り上がりがありました。私としては「男性の家庭参加」は、すでに過去の問題になったような感覚があったのですが、それは理論の上だけであって、現実の生活の場では、とくに中高年の夫婦の間では、まだ現在進行形の問題であることに気がつきました。
 私が「婦人公論」に「主婦になってみた男の二週間」という手記を書いたのは、昭和50年(1975)の2月号でした。洋上大学の講師仲間だった俵萌子さんから影響を受け、雑誌掲載を紹介されたのでした。内容は、自ら志願して妻と役割交代し、すべての家事を2週間にわたって担当してみたのです。娘たちが小学6年と4年のときでした。初日の朝から目の回るような忙しさに投げ込まれ、子供たちを起こして食べさせて学校へ送り出すまでの30分足らずは、何が何だかわからぬうちに過ぎて行きました。洗濯をしたときは、妻のパンツを干すときに、妙な屈辱感に悩まされました。外出して帰宅が予定より遅れた晩は、電話して炊飯だけして貰っておいて、大急ぎでコンビーフ入り炒り卵を作って急場をしのぎました。
 家事が拘束時間の長い、きつい労働であることは予想以上でした。そして、常に家の中の最終責任者であることの圧力は重いものでした。当時は男が本気で家事に取り組んだこと自体が、まだ珍しかったのでしょう。新聞の取材やテレビにちょっと呼ばれたりもしました。
 この経験からわかったのは、家事を手伝っても主婦は楽にならないということです。ある部分の責任を引き受ける「分担」でなければ、家事の「無制限責任性」は解消しないのです。わが家でのそれ以降の家事の分担は、思ったより円滑には進まなかったのですが、今でも風呂掃除とゴミ出しだけは守られています。それは家中のゴミ箱の配置から収集、およびゴミ袋の選定と購入までを含むのです。
 家族の生活を快適で清潔に保つには、誰かの時間と労力が必要です。男だから、やらなくていいという理屈はありません。今は食材でも便利なものが増えて、家事への参加は容易になりました。家事は家族の共同責任だという意識を、男も持っているべきだと思います。

無差別殺人の闇

このところ相次いで「誰でもいいから殺したかった」という不気味な事件が起こりました。そこにあるのは「全否定」の思考です。全部を「なかったこと」にしたい。だから自殺願望は無差別殺人と紙一重だし、その両方を実行しようとする例も、珍しくはありません。わずかに好運だと思うのは、日本では銃が規制されていて、一般的には手に入れにくくなっていることです。アメリカのように簡単に銃が買える状況だったら、間違いなく犠牲者の多い乱射事件になっていたことでしょう。
 私も少年期に、かなり似たことを考えていました。当時は水爆の実験成功が話題になっていたのですが、水素のように通常では爆発しない元素でも核爆発させられるようになった、この技術を延長すると、地球上のすべての元素が爆弾になるのではないか、という警告を出した科学者がいたと聞きました。私には、この説が魅力的でした。今の言葉にすれば、核爆弾を起爆剤として地球のすべての元素を融合させ、人工的に超新星爆発を起こすというものです。地球そのものが一瞬にして消え去り、新しい星の歴史が始まるのですから、これは犯罪と呼べるでしょうか。もしそんな起爆スイッチを手にしたら、押してみたいと思いました。
 当時の私に、世間の常識で言われるような深刻な悩みはありませんでした。それでも学校のことや家族との人間関係などで、否定したいことは、いくらでもありました。さらに自分は何でもわかっているのに、この世は嘘と誤魔化しの集積だといった、周囲を見下す自意識を抱えていました。だから地球を一瞬にして消してしまうのは、世のため人のためにも良いことだというような、独善的な考え方をしていたように思います。
 自殺というのは「自分にとってのすべてを消す」ことですから、無差別殺人と非常に近いのです。不満や恨みの感情がそこに介在していれば、ただの自殺では物足りないと思うかもしれません。また、反社会的な行為で受ける報復を、自分を破滅させる力として利用したい願望もあるかもしれません。いずれにしても根底にあるのは、絶望による全否定感情の噴出です。
 この種の犯罪を少なくするには、どうしたらいいのでしょうか。人は現実感をもって生活している間は自殺などしません。人を現世につなぎとめるものは、日々の仕事であり、家族との人間的な交流です。それらを断ち切るような差別、非寛容、不平等こそが絶望の源泉なのではありませんか。立場の違う者を排除しない優しさと、そこそこの経済的なゆとりという常識的な対策が、ここでも王道なのだろうと思います。

ブログ連歌(26)

499 梯子段 上れば霞む おぼろ月(みどり)
500  ふと口ずさむ 覚えざりし歌(やまちゃん)
501 月を見る 幼な子もいた 遠い日よ(建世)
502  その子も辿る 同じ齢(よわい)を(koba3)
503 我が蹉跌 ふむまじと娘(こ)に 小糠雨(みどり)
504  山並み遠く 春は来にけり(やまちゃん)
505 子と孫の 越え行く先に 光あれ(建世)
506  耕す沃野に 稲穂かがやき(みどり)
507 休耕田 菜の花畑 通り抜け(やまちゃん)
508  向こうは川よ 柔らかき陽の(花てぼ)
509 ランドセル 新品背負って 朝ごはん(みき)
510  嬉しさ募る サクラ咲く頃(やまちゃん)
511 孫たちの 学校行事に 季節知る(建世)
512  蛍雪を越え 晴れて卒業(みどり)
513 卒業を してもかわいい 幼稚園(建世)
514  六つのポケット 先が心配(やまちゃん)
515 親二人 祖父母四人で 孫ひとり(建世)
516  捨てる瀬もある 親子のきずな(みどり)
517 生まれるも 死ぬのも一人 自助努力(やまちゃん)
518  後期高齢 好貴厚礼(建世)
519 年寄りに 前期も後期も あるものか(koba3)
520  老中大老 みんな偉いぞ(建世)


あなたの孫が幸せであるために

「あなたの孫が幸せであるために・百年後の世界を考えよう」(志村建世・新風舎)も、直接に販売することとしました。版元の新風舎が倒産したため、買い取った部数が私の手元に若干ありますので、直接販売に加えてみます。
 この本は、百年後の世界が住みよいものであってほしいという願いを込めた未来論です。内容は、以下の9章から成っています。
第1章 私たちはどんな時代にいるのか
 現代の私たちをめぐるさまざまな問題を整理して、トータルで考えたらどうなるかを検証します。
第2章 戦後日本の軌跡から学ぶこと
 廃墟と混乱の中から現代までを見てきた者として、人間はどうなるかを考えます。
第3章 人間はどんな国を作ってきたか
 「よい国」の条件とは何か、アメリカはどんな国なのか、政府の役割は何なのか。
第4章 世界連邦ができるまで
 近未来に世界連邦が必要かつ必然であることを論じ、実現までの道程を提案します。
第5章 戦争と犯罪は人類を滅ぼすか
 人間はなぜ争うことを止められないのか、犯罪を根絶できないのか、人間の本質から考えます。
第6章 人間の幸せに奉仕する経済活動
 貨幣は人間の家僕であるという観点から、現代資本主義の向かうべき道を示します。
第7章 地球環境とエネルギー対策
 長期安定的に住める世界にするために、人間の欲望をどのように制御すべきか考えます。
第8章 人間の幸せに奉仕する科学技術
 科学も技術も人間が主役であることを忘れず、幸福に役立つものでなければ意味がありません。
第9章 人類百世紀の概観
 文明の発祥から1万年、百世紀までの人間の歩みを予想して、私の世界観の総括とします。

B6判212ページ。現行の定価にかかわらず、頒価1500円とします。ご注文の方法は、当ブログのトップページ近くにある「著作の紹介と販売」をごらんください。



戦争の経済効率

昨日の私の記事にトラックバックいただいた「情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)」ブログの「イラク戦争、2兆ドルの悪夢」は衝撃的です。戦争がバカバカしいものだと、頭ではわかっているつもりでも、具体的な数字の決算を突きつけられたら、言葉を失うほどです。
 「イラク戦争の1日の戦費があれば、低所得層の子ども5万8千人を1年間、就学援助プログラムに登録でき、あるいは低収入の学生16万人に年間の奨学金を提供でき、もしくは国境警備隊員1万1千人か警察官1万4千人に1年間給与を払えた…」というニューヨークタイムズのコラムが朝日新聞に転載されていたとのことです。さらにイラク戦争全体の経費の見積もりについては、上下両院合同経済委員会の試算によると、2兆ドル(約200兆円)か、それ以上になると報じられています。昨年の日本の国家予算が83兆円ですから、その2年半分に当ります。
 それだけの経費をかけてアメリカが手に入れたものは何だったのでしょうか。「テロとの戦い」は至上の価値だから金に糸目はつけないということだったのでしょうが、世界の現実の姿はアメリカ国民の期待さえも大きく裏切りました。世界を安定させテロの危険を低減させるために、同じ予算を投じたら別な方法があったのではないか、よほどの変人でない限り、誰でもそう思うでしょう。今はまだ戦費の実態は隠蔽されているし、イラク撤退論はアメリカの少数意見に過ぎないでしょう。しかしアメリカ国民が目を覚ますときが、絶対に来ないとも言い切れません。アメリカは懐の深い国だし、経済合理性を追求して世界にグローバリズムを広めようとしている張本人です。戦争の費用対効果が極端に低いということは、早晩認めなければならないのですから。
 紛争を戦争で鎮めることは、一時的に表面的には可能であっても、平和の本質ではありません。誤解と恐怖と憎悪を取り除かない限り、人間の平和な生活はありません。恐怖と憎悪を静めることのできる最大の武器は、貧困を解消して希望の持てる生活を保障することです。それは金の使い方で、いくらでも可能になっています。
 国際貢献とはアメリカと共に戦うことだという思い込みは、捨てなければなりません。下手に義理立てすると、アメリカの破滅と心中することになります。憲法9条は日本の足かせではなくて、未来のための最強の武器なのでした。

プリンスホテルへの要請

会場使用拒否問題を起こしたグランドプリンスホテル新高輪への要請会談に同席してきました。「プリンスホテルの集会拒否問題を考える会」の代表、毛利正道弁護士以下の4名で、ホテル側の宴会場責任者以下3名と面談し、要請書を手渡した上で1時間にわたって説明を聞きました。私は滋賀のまいさんのブログでこの会の存在を知って呼びかけ人に参加しており、毛利氏から連絡をいただいて今回初めて現場へ行ってみました。
 結論的に言えばホテル側の態度は記者会見で発表されたものと同じで、議論はすれ違いに終りました。しかし経緯の細部がわかって、私としては、新しく得られた知識もありました。この問題の大筋は、「日教組が全国研究集会を開くと右翼の妨害行動が集中する。他の客にも近隣にも迷惑をかけるのでホテルの判断で予約を解約した。東京高裁の仮処分命令にも従わなかった。」これが正当かどうか、ということです。
 ホテル側の説明によると、前年の会場となった大分を調査して、文教・住宅地区の高輪では開催は無理だと判断したというのですが、地元の学校や住民と連絡をとることはなく、すべてホテル側の一方的な「思いやり」であったことがわかりました。そして「どうしたら円滑に開催が可能か」を探るために、警察や主催者と積極的に協議することもなく、一挙に開催を断る方針に傾いたようです。象徴的なのが解約した会場に、あとの別な予約を入れたタイミングで、解約を否とする地裁の命令が出ているにもかかわらず、「高裁でご理解が得られると思っていた」というのですから、裁判所の仮処分命令は無視するつもりの確信犯的な態度を固めていたことがうかがえます。
 その他、会場のみならず、集会のない日の宿泊予約までも一方的に解約したのも、「会場との一体の契約」との理屈を繰り返すだけでした。全体として、非常に内向きの論理に固まっている印象を受けました。民間企業というよりも役所の窓口のようで、決めたことは変えられないと繰り返しているようでした。ですから解約で迷惑をかけた謝罪はおろか、今回のことは遺憾に思うという程度の言葉も出てきません。社会的責任を踏まえて今後の方針を再検討してほしいという要望に対しても、「お話は承りました」で終りました。
 日教組による損害賠償請求の裁判など、この問題は、これから長く続くでしょう。これでは「プリンスホテルは使わない」を続けるしかありません。
(追記・私の過去ログに「プリンスホテルは使わない」と「集会の自由と労働組合」があります。)

古木涼子さんのメッセージ

(いただいたメールを転載します)
志村さんのブログに仲間入りをさせていただいてから半年が過ぎました。ちょっと異なった世界から舞い込んで来たシスターを、あたたかく受け入れてくださりありがとうございました。志村さんの記事のみならず、寄せられるコメントから、私は多くを学んでおります。類は友を呼ぶと申しますが、志村さんのブログの世界に集まる方々は、ほのぼのとしたユーモアのセンスと互いを尊敬する謙虚さをお持ちのように感じられました。その輪の中に自分が居られる事がとても嬉しく、志村さんとの摂理的な出会いを、神さまに感謝するばかりです。

このたび、ローマへと出発することになりましたが、これからも変わりなく、ブログでお会いしたいと思います。続けてよろしくお願いいたします。

古木涼子


金婚の復活祭

50周年をどう過ごすか、遠出は無理なので特段の予定も立てないでいたところ、宮崎カリタス修道女会の(テレジア)古木涼子さんから「復活祭の昼食会を、ごいっしよにいかがですか」とお誘いをいただきました。場違いではないかと妻は一瞬尻込みしていましたが、「行きたくても誰でも行けるという場ではないのだから、せっかくの機会をお受けしよう」と説得して、出かけました。総本部がローマへ移転するので、東京に残っている9人のシスターたちにとっても、大半の人が別れ別れになる最後の祝宴だということでした。
 部内の厨房で用意された豪華なご馳走が並び、食前の祈りにつづいての乾杯では、復活祭の喜びとともに、私たち夫婦の金婚式を祝っていただきました。ざっくばらんな楽しいおしゃべりをしながらの食事のあと、古木さんは自らピアノを弾きながら「いのち永遠に」を歌ってくださいました。シスターの合唱は、2006年に作られたという谷崎新一郎の作詞・作曲による「この星は」でした。

この星は美しいのに いつもどこかで争いがある
この星はすばらしいのに いつも誰かが傷ついている
だからイエスさまが 本当のやさしさを届けてくださった
ささやかなこの笑顔で 幸せがひろがるなら
イエスさまのぬくもりで ほほえみを咲かせよう

 最後にはケーキが登場して、二人で入刀する場面も用意されていました。「お任せください」と言われていた通りの、最高の50周年でした。50年前は、5人の友人が来てくれただけの地味な結婚式でした。でも自分たちの意志を貫いた誇りがありました。その50年後の今日は、一つの決算を認めていただいたのかもしれません。でも、まだ終点ではなくて中間決算です。すばらしい記念日をプレゼントしてくださった皆さまに、厚く厚く御礼申し上げます。

以下は志村ひさ江からのコメントです

50年すぎました 24歳と21歳も74と71
山あり谷ありも本当でした 笑いあり涙ありも本当でした

娘二人に孫三人 合計九人の夕ごはん
それぞれねぐらへ帰ったあとは
残る履物二人分という現在(いま)です

これを履いて これからどこまで行けるのでしょう
心安らかな 平穏な日々でありますように





古木さんが撮ったケーキ入刀の写真をメールで頂きました、よく撮れているのに驚きました。

愛 それによって

詩集「愛 それによって」は、私が昭和49年(1974)に自費出版で発行したものです。この年に研修船(民社党・洋上大学)に講師として参加した私は、自分が書いたものや語る言葉が、若者の心を明らかに揺り動かすのを見て、人生の進路に光明を見出しました。そして自分が自分であることの一つの証明書として、この本を出すことを思いついたのです。
 内容は、大学を卒業する年の昭和31年(1956)から10年あまりにわたる期間に書きためたものを、一冊にまとめました。父親から自立し、結婚し、可愛い盛りの娘たちを育てて一段落し、母親を前年に亡くしたことも、一つの区切りになりました。未熟ではあっても、その時期にしか書けなかったものもあるように思います。要するに自分の原点はここにあると、今でも思うのです。今回、結婚50年を機に、昭和49年に出したものを、一部手入れして確定版としました。
 A7判(文庫版)192ページ、80編を収録。定価はありませんが、頒価500円とします。ご注文の方法については、当ブログのトップページ近くにある「著作等の紹介と販売」をごらん下さい。



春の昼月と日曜日

ここ数日、昼の月が見えていました。上弦から満月へと近づいて行く月でした。春分の後の、満月の後の最初の日曜日がキリスト教の復活祭だそうで、西方教会では今年は明後日の23日になるそうです。刑死して埋葬されたイエスは3日後に復活し、40日間地上にとどまって弟子たちと言葉を交わした後に昇天したと言われます。この最後の奇跡が弟子たちを勇気づけ、ペテロを中心に団結して最初の教団を結成したのでした。ですからキリスト教では最大の祝日です。
 やわらかに霞む春の空に浮かぶ昼の月は、何となく、死別した人や、遠い昔のことを思い出させます。今から50年前の3月23日も日曜日でした。どうして同じ曜日になるのだろうと明け方に妻に言われて、考え始めたら、そのまま眠れなくなってしまいました。
 1年は365日ですから、7で割ると1余ります。つまり元日と大晦日は同じ曜日になって、同じ月日の曜日は、1年に1つずつ進むのです。ただし閏年には2つ進みます。1958年から2008までの間には閏年が13回ありました。ですから50+13で63だけ曜日が進むのです。63は7で割り切れますから、ちょうど同じ曜日が50年後に巡ってくるのでした。ただし閏年の3月から翌年の2月28日までの間に結婚式をあげたカップルは、金婚式の日の曜日は1つだけ進んで、結婚式が日曜なら月曜日が金婚式になります。閏年が12回しかないからです。閏年は西暦の末尾が00年のときは省略されるのが原則ですが、上2桁が4の倍数のときは閏年になります。2000年は、この特例で閏年でした。私たちはミレニアム(千年紀)のおかげで、結婚と金婚が同じ日曜日になるというわけです。
 娘が幼児だったころ、草加のテラスハウス団地のテラスから半月を眺めていて、「お月さま、半分どこへ行っちゃったんだろうね」と問いかける妻に、「あきこちゃんと半分こしたの」と元気よく答えたことがありました。子供の考えることって面白いねと、小さな頭の中を、のぞいて見たいと思いました。

ワーキングプアは自己責任か

「ワーキング・プアは自己責任か」(門倉貴史・大和書房)を読みました。小飼弾氏のブログ書評を読んで買ってみたのですが、大半の部分は新しい知見が得られたというよりも、すでによく知られていることの整理と確認のように感じられました。「……自己責任か」の問いの答えは、もちろん「否」で、経済自由化政策によって意図的に作られた、社会構造の問題ということです。
 経済活性化を最優先にして弱者保護の規制を外せば、弱肉強食に陥ることは当然で、大量の貧困層が出現します。「働き方の多様化」は、すぐれて使用者の便利のためであり、多様な働き方が便利だという求職者は、例外的な少数に過ぎません。しかし経済的弱者が増えすぎると、消費が落ち込んで景気がよくならないというマイナス面も出てきます。そこで最近は、企業の利益の一部を賃金改善に振り向けるべきだという議論も出てきました。要するに賃金の改善は、利益の向上に役立つ場合にのみ、少しは認めてもよい、ということです。国民全体の豊かさというような発想は、そこからは出てきません。
 私が興味を感じたのは、対策を考える部分でのベーシック・インカム(基本所得)というヨーロッパ生れの発想でした。これは全国民に、一律に最低生活が可能な年金を支給するというものです。すると他のすべての生活保護や社会保険制度は不要になりますから、事務管理が非常に簡単になります。働いて所得のある人からは、もちろん所得税を取りますが、高額所得者には遠慮なく高率の課税ができます。相続税についても同様です。消費税の水準も、弱者を困窮させる心配なしに自由に決められます。生活を切り詰めて貯金をする必要もありません。低賃金労働さえも、生活のためという無理や悲惨とは無縁のものになります。
 生活費に苦しんだ結果の犯罪や絶望も激減するでしょうから、社会全体が安全で浪費の少ないものになるでしょう。夢のような理想論と思われるかもしれませんが、現代の生産力と資本力とを適正に配分すれば、そのような制度は、計算上は充分に成り立つのです。私は以前にブログで「私の新・資本論」を書いたとき、ジェフリー・サックスの「貧困の終焉」を紹介しましたが、先進国のGDPの1パーセントを振り向けるだけで、世界の貧困が最終的に解決することを論証していました。これと組み合わせれば、世界のすべての人に基本所得を与えることも不可能ではなくなります。
 世界の人々が等しく生活の不安から解放されたら、戦争が起こる可能性は、限りなく小さくなることでしょう。夢のような未来は、意外なほど近くにあるかもしれないのです。
(追記・私の「新・資本論」は、8回にわたっています。読み直したら、けっこう面白く書けていました。このブログ内の検索で呼び出してみてください。カレンダーでは07年5月です。)

ブログ連歌(25)

479 みごとなり これぞ本当の 自由人(建世)
480  国によっては 命懸けなり(うたのすけ)
481 この国は 軽い言葉の 多くして(建世)
482  まともに聞ける 話少なし(うたのすけ)
483 忍び寄る 反動復古の 不気味なる(建世)
484  せめては連歌 自由気侭に(うたのすけ)
485 うれしくも 春の日ざしは めぐり来ぬ(建世)
486  里人は出で 若菜摘みけり(花てぼ)
487 野に山に 梅桃桜が 艶競う(うたのすけ)
488  タンポポも見ゆ 隣家の庭に(建世)
489 河川敷 春の野草は スクスクと(やまちゃん)
490  遠出せずとも 春はあまねく(建世)
491 クシャミする 鼻の周りは 春爛漫(やまちゃん)
492  賓頭蘆(びんずる)さまの 顔も日に三度(花てぼ)
493 人の世の 騒ぎはよそに 野の仏(建世)
494  手と手を合わす 私の心(やまちゃん)
495 百地蔵 近間にあって 月参り(うたのすけ)
496  百仏力の ご利益はなに(建世)
497 線香を 百本灯し 足強く(うたのすけ)
498  山も登れば 梯子ものぼる(建世)
499 梯子段 上れば霞む おぼろ月(みどり)
500  ふと口ずさむ 覚えざりし歌(やまちゃん)

ある幼稚園の伝承

今年もまた、地元幼稚園の卒園式・謝恩会のビデオ撮影に行ってきました。この野方学院幼稚部については昨年も記事にしていますが、昔ながらの「のびのび保育」に徹しているのがユニークです。勉強を教えない、親の負担が大きいなどの理由で一時は園児が減少しましたが、近年はまた良さが見直されているようです。
 今日の撮影の主役は、高校2年生の孫とその友人でした。学校で映像制作のクラブ活動をしており、将来の進路もその方向に決めているようです。パソコンを使う編集技術では、すでに私の及ばないレベルへ行っていますが、撮影についても、独自のノウハウを確立しつつあることに、今年は気づきました。私が現場を仕切ったら、かえって邪魔になる、そのことに気づくのが、少し遅かったかもしれません。それはお母さんたちとの打ち合わせについても、同じことでした。
 私の孫は、この幼稚園の12回前の卒園生です。そこから切れ目なしの卒園ビデオのおつきあいが続きました。今年の卒園生の一人の制服が、私の孫からの使い回しで、裏の名札に孫の名が書いてあるのを見て驚きました。孫がお世話になった先生にも見せて、先生たちの間でも驚きの話題になりました。そんなこんなで、例年にも増して、涙と笑いを共有できる卒園式・謝恩会になりました。
 終り近くに、Kiroroの玉城千春の「未来へ」を母親たちが合唱しました。そのバックとしてスクリーンに写した写真構成は、孫が完全徹夜で仕上げた見事なものでした。初めて聞く歌でしたが、私も何かの形で参加したくなって、若いお母さんたちの列の端に勝手に参加して、口を動かしてみました。
 
ほら 足もとを見てごらん これがあなたの歩む道
ほら 前を見てごらん あれがあなたの未来……
……母がくれた たくさんの優しさ……
……その優しさを時には嫌がり 離れた母へ素直になれず……
……ほら 足もとを見てごらん……
……未来に向かって ゆっくりと歩いて行こう

高校2年の男子生徒が、愛想よかったり、素直だったりするわけがありません。何を考えているのかわからぬうちに、彼も大人になって行くのだろうと思いました。

老人道の鑑(かがみ)

「読谷の風」に連載されていた「仲間金一遺稿集」は、高江洲さんの義父に当る教育者の回想記をまとめたものでした。台湾で「皇民化教育」に携わり、戦後は沖縄で校長も勤められた人の一代記は、日本の教育史の資料としても貴重なものだと思いました。その最後に、娘さんつまり高江洲さんの奥様が父親を自宅で看取った思い出が書かれていました。その内容がすばらしいので、私は思わず「老人道の鑑」という言葉をコメントに書いてしまいました。
 「武士道と老人道」というのは、私が先に紹介した「自死という生き方」に出ていた言葉です。武士道の「葉隠精神」にも似た出処進退の潔さが、これからの老人には求められるのだろうと、私は理解しました。仲間金一先生は、先に奥様を亡くされましたが、その際にも夫婦合意の上で延命治療は受けられなかったということです。ほぼ一年後に前立腺癌を発病したとき、親族は相談の上、告知をしないことに決めたものの、ご本人は悟っていたであろうと、高江洲さんは述べています。病院側とは、家族ぐるみの厚い信頼関係が築かれていました。
 感動的なのは、最後の3週間です。金一先生の強い希望で、退院して自宅療養としました。「病院から出れば病人じゃないよ」という言葉が印象的です。生き生きとした表情で、先に逝った奥様の仏壇を守りながら、自宅での生活を楽しんだようです。盛んだった食欲もやがて衰え、固形物が喉を通らないようになりました。痛み止め以外の薬はやめて、スープとジュースの生活になりました。それも飲めなくなってからは、口の中を霧吹きで湿らせたということです。最後の2日間は言葉も発しなくなったものの、介護に協力しようとする意識は、はっきり感じられたということです。
 不遜かもしれませんが、以下は私が感じたことです。「餌を自分でとれなくなったら命が終る」のは、動物のもっとも基本的な死に方ではないでしょうか。その自然死が、不必要に苦しいものである筈がないと、私は思うのです。空腹感は苦しいかもしれませんが、チューブだらけになって経管栄養を受けたら、満腹の幸福感が得られるのでしょうか。仏僧の断食修業の話を聞いても、一定の限界を超えたあとは一種の恍惚感が訪れるという、その方が本当らしく私には思えます。
 いろいろな立場の方がおられますから、私の考え方を押し売りするつもりはありません。しかし、これからの老人の死に方が、人類の大きな課題になるだろうことは予感できます。子孫のために、どんな世界を残したいのか。次に書きたい本の題名が浮かんできました。「老人道のすすめ」です。

日の丸を汚すもの

日本の国旗と国歌について、「君が代」については、私は音楽的にも問題のある歌だと思い、このブログでも「君が代を何とかしたい」の題で4回にわたって書きました。(「このブログ内の検索」で出ます。)しかし日の丸については、デザイン的にも、世界に誇れるすぐれた国旗だと思ってきました。幼年期に、後に版画家として活躍する河野薫さんから「日の丸は、とてもいい旗なんだよ」と教えられたのも影響しているかもしれません。戦後にマッカーサーから「国旗の自由な掲揚を許可する」との指令が出たとき、父が早速箱根の山荘に長い丸太を立て、日の丸を毎日掲揚したのも覚えています。湖尻の船着場からも見えて、ちょっとした名物になりました。
 そんな私ですが、いつの頃からか日の丸に対する印象が曇ってきました。右翼の宣伝カーと大音量の軍歌を連想するようになったからです。日の丸を私物化しているようで不愉快でした。旗にベタベタとスローガンを書き込むのは、出征兵士への寄せ書きを思い出させて、戦意高揚に用いられた、日の丸の持つ負のイメージが立ちのぼるからです。それに対して、私は教育センター「友愛の丘」で、アメリカ労働総同盟会長一行の来訪を記録する映画を作ったことがありますが、星条旗掲揚に際しての彼らの忠誠心の表明は見事でした。そのとき、「正義の勝ち戦」しか知らない彼らの歴史の好運に思い当ったのでした。
 最近の学校における日の丸の掲揚と君が代の起立斉唱の強制は、国旗・国歌に関する過去の暗い記憶を、さらに強調する結果になりました。少なくとも私には、そのように感じられます。もしそのような式典に私が列席を求められたら、何とかしてその場を外すことを考え、それが許されなければ欠席するでしょう。しかし任意に欠席できない教職員や生徒、関係者の精神的な苦痛は、充分に理解できます。国の象徴に敬意を表すことが悪いのではありません。国ぐるみで誤った戦争を招き、国民を不幸にしたのと同じ象徴に向かって、全員に敬意を強制するのは無理だと言っているのです。
 すべての国民が、日の丸の旗に対して何の曇りもない誇りと愛着を感じられるようになる日が、早く来てほしいと私も思います。でも、それには、まだ100年早いのです。子や孫に語り、「決して忘れてはならない」と伝えるべき教訓が、あまりにも多いからです。

町内パトロール体験記

もう30年以上も現住地で暮らしているのに、地元との接点が少ないことは、以前から気になっていました。町会の組織があって、年額1200円の町会費を払い、時々回ってくる回覧書類の受け渡しはしていたのですが、同じブロック内の独立家屋は一つまた一つと減ってきて、ついに私の家だけになってしまいました。2軒はミニ・アパートとなり、由緒ある旧家は10年以上も前にマンションになり、もう一つのマンションが、もうすぐ着工になります。回覧は私の家に届くだけになりました。
 地域の変貌はやむをえないのでしょうが、ゴミ集積場の管理とか、マンション問題が起これば日照権や安全の確認とか、近所との話し合いは必要になります。路上での立ち話が縁になって、先月から町会の防犯パトロールに参加してみるようになりました。公式の参加ではなく、手始めに様子を見に行っているという段階です。月に3回あるのですが、忘れるときもあるので、今までに3回になりました。
 毎月「5の日」の午後4時に、町会事務所に10人ほどが集まります。背中に大きく「防犯パトロール」と夜光塗料で書いてある揃いのベストを身につけて、30分ほどかけて町内を一巡するのです。自分の町会の範囲が、どこからどこまでなのか、歩いてみて初めてわかりました。参加メンバーは大半が女性で、60代以上が主力です。一番若くて40代でしょうか。男性は全員70歳以上に見えました。パトロールといっても、雑談しながら、のんびり歩くだけです。それでも細い路地を縫うように歩く所もあり、今まで知らなかった道を覚えました。消防車の入れない狭い路地が多いのがわかりました。
 歩き終わると、事務所の座敷でお茶とスナックが出て、30分ほどの雑談になります。最初に一回だけ紹介されましたが、人覚えの悪い私は、誰が誰だか、未だにほとんどわかりません。メンバーには代々の古い人も多くて、30年の私などは「新住民」なのでした。話し合いは会議とか連絡伝達というほどのものでもなく、何となく会話のやりとりで最近の話題がわかるのです。それでも、町会の名簿が2004年版以降の改定ができなくなっていて、個人情報が問題にされるようになった以後は、発行できなくなっていることなどがわかりました。
 どのようにおつきあいできるか、まだ皆目わかりませんが、名入りのベストは自宅に預かっています。個人でパトロールしてもいいそうですから、詳しい地図と照合しながら、マイペースで歩いてみようかと思っています。ベストを着けていれば、怪しまれずに歩けそうです。

有料老人ホーム見学記

親しくしていた人が有料老人ホームに入居して4ヶ月ほどになりました。部屋のセッティングも済み、生活にも慣れてきたところで、様子を見学しながら訪問してきました。私よりも少し年上で、今も現役の仕事をしている芸術家です。昨年まで広いマンションに住んでいたのですが、数年前に奥さんを亡くしてから、日常の生活に時間と労力をとられるのが困ると嘆いていました。子供は娘さん一人、結婚して子育て中ですが地方都市に住んでいます。マンションの価格が下がらないうちに、将来安心な生活設計をしたいということでした。
 ホームは大手が経営する定員60名の3階建で、都内の私鉄沿線です。訪問者は、まず職員から手洗いと嗽を求められました。面会票を書いて案内されるので、病院に似ています。しかし内部は1室ごとに表札を掲げたマンションに近い雰囲気でした。部屋は仕事本位に見事にアレンジされていて、回転椅子を中心に機材や資料が上手に配置してありました。「ぼくは仕事をしたいから引っ越すんだよ」と言っていた彼の真意が、よくわかりました。理想的な仕事空間を確保した上に、食う寝る住むの心配から解放されるのですから、のびのびと仕事できるに違いありません。本人が満足している様子がわかって安心しました。
 事前に予定しておいた、ホームの昼食も体験できました。過不足のない上質の食事と思いましたが、1600カロリーとのことで、ホームでは若手の彼は、少し間食することもあるとのことでした。完全自立なら月額の入居料も安くなります。困ってから入る老人ホームではなくて、一人暮らしの雑事から解放されて仕事に集中したいという、攻めの姿勢での選択は、当っていたようです。もちろん、転居に当っては多くの思い出の品々を処分したわけで、そのつらさはあったでしょうが、「要らん物を捨てるには引越しするに限るよ」と、本人はシンプル・ライフを楽しんでいるかのようでした。
 ホーム内の老人たちの中でも、彼はひときわ生き生きとしていて、職員からも信頼を集めているようでした。同じ老人ホーム暮らしでも、「積極的な受容」と「消極的な受容」とでは、大きな差が出てくる、そんなことを考えながら帰ってきました。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
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