志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2008年07月

戦後日本の軌跡から学ぶこと(通算20)

コストとしての人間の格差

 企業が正社員を減らしてパート労働者と置き換えようとするのは、両者のコストが大きく違うからです。平均的時間給の比較で、現在の日本ではパートは社員のほぼ半額ですが、それだけではありません。各種の保険料や事務管理、福利厚生などの負担も、パートの方がずっと軽くて済みます。利益をあげたい企業としては、これを採用しない手はありません。ですから人員整理のときに希望者をパートとして再雇用する例も見られます。同じ仕事をさせながら、支払い給与を大幅に下げることができるのです。
 この社員とパートの格差が、一回り大きな規模で展開されるのが生産拠点の海外移転です。そこでは日本国内の十分の一にも満たない賃金で従順に働く労働者がいます。企業としては、これも利用しない手はありません。こうした構造改革が、規制緩和とグローバル化によって可能になったのでした。
 日本の銀行の貸し出し残高は、二〇〇五年夏、ようやく上向きに転換したということです。それは長らく苦しんだ末に、不良債権の処理が一段落したことを示しています。企業の業績も改善し、来春の新卒者に対する求人も上向きと伝えられています。企業が立ち直ることで景気は回復に向かった、これからは新事業の発展だと、政府は構造改革の必要性をさらに声高に叫びつづけることでしょう。しかし本当にみんなが経済成長の恩恵を受けられる世の中が再現するのでしょうか。
 失業率は少し改善したといっても五パーセント近くに高止まりしたままです。人手不足時代がくると騒がれながらも、若者の無業者は増えつづけています。企業の業績が回復したからといって、パートにされた人たちがまた社員にして貰えることはなさそうです。高度成長期には失業率は一パーセント未満の超安定雇用で、日本の社会は格差の少ない「国民総中流」になったと言われ、一九九〇年と翌年には国連「人間の豊かさ指数」の第一位にランクされました。そんことが、また期待できるのでしょうか。
 残念ながら、現状では答えは否定的です。高度成長期は、自由な競争と所得の平均化が並存した、まれに見る幸運な時代でした。弱肉強食をしなくても、市場が広いからみんながそれなりに成長できたのです。しかし、そういう形での成長は、永続は不可能でした。やがては世界市場の限界、つまりは地球の大きさによって終了することは避けられなかったのです。その転換期に入ってきたのが、アメリカからのグローバル・スタンダードでした。小泉首相は日本経済の再建を、そのグローバル・スタンダードに賭けたと言っていいでしょう。その決断が、たった一つの正しい方法だったのかどうか、審判を下すのは、これから先の日本の課題です。

戦後日本の軌跡から学ぶこと(通算19)

安定雇用の喪失と消費縮小

話が抽象的にならないように、ここでも私の体験から始めましょう。私は幼児・家庭教育用ビデオの制作・販売をする小さな会社を経営しています。不況の時代に入ってから、たしかに売上が落ちました。書店を通しての販売は、書店販売網の全国的な地盤沈下とともに下降し、全国の生協など通信販売での売上も同様になりました。さらに頼りにしていた通販問屋の倒産も、一度ならず三度まで経験し、そのたびに少なからぬ損害を蒙りました。電話や郵便、最近ではインターネットによる直接受注の拡大に努力して、それはかなりの効果をあげているのですが、それでもまだ営業の主役にまでは育っていません。
 売上が下がっても固定経費はあまり変りませんから決算は赤字になります。私自身の給与を極限まで下げても足りませんでした。短期間での売上回復が難しい以上、赤字の累積は放置できなくなりました。ついに止むを得ず社員の一部に退職して貰うことにしました。経済的理由で社員を整理したのは、私にとって初めてのつらい経験でした。
 企業の経費のうちで、人件費は大きな要素であり、しかも非常に圧縮しにくい費目です。さらに一人でも人を雇うということは、雇用・労災保険、健康保険、厚生年金への加入義務となり、企業にとっては事務だけでも面倒な仕事が増えます。その上に保険料は企業主が半分を負担するのが原則ですから、これは人を雇うことに高額の税金をかけているのと同じことです。つまり正社員の雇用を維持するのは企業にとって重い負担であり、それを減らせばずいぶん楽になれるのです。
 「構造改革」の名のもとに経費削減を迫られた企業は、こぞって人件費の圧縮に手をつけました。最初は日本的年功序列賃金を改めて成果主義を導入し、社員を刺激して活性化するというのが主旨でしたが、やがて「社員は企業の成長に積極的に貢献できる人が少数いればよい、その他の労力は社員でなくてよい」となり、業務の社外化、下請け化が流行になりました。正社員が減る一方で、人材派遣業などが脚光を浴びるようになり、新しい雇用の形態だなどと言われるようになりましたが、問題はそこで実際に働く人がどのような待遇を受けているかといういうことです。
 派遣業として認められる業種は、規制緩和で順次拡大してきましたが、それに伴って当初は専門職中心で高かった平均時給が、急速にパート・アルバイトなみへと低下しています。安定した雇用につけない人口が増加すれば、消費が上向く筈がありません。景気が回復しないどころか、経済的に安定しない若い世代は結婚も子供を生むことも、あきらめてしまうという統計が出ています。現在進行中の「構造改革」は、社会の安定化のためには反対方向へ向かう道のように見えます。

山口県知事選挙への緊急アピール

山口県では、任期満了に伴う知事選挙が、この17日に告示、8月3日投票の日程で行われています。候補者は現職知事と共産党推薦の新人の2名だけです。現職知事は4選目をめざし、対立候補は共産党が推薦する新人のみという構図は、過去2回の知事選挙と全く同じです。前回の投票率は38%でした。首長選挙にありがちな、与野党相乗りの現職が絶対有利な選挙です。
 この選挙について、天木直人氏は「目を疑った」とブログに書いています。「地方選挙は国政選挙ではない、与野党相乗りは茶飯事である、などととしたり顔で説明するものがいる。とんでもない政治蔑視の発言だ。」と天木氏の発言は続きます。岩国のアメリカ軍艦載機基地の問題、原発建設の問題もあるのに、社民党までが、候補を立てない上に、全力で新人候補を応援する姿勢も見せないのは何ということか。「既存の政党、政治家が信用できない理由がここにある」というのが天木氏の論旨です。
 政治の転換が今ほど求められている時はないのに、県政だけが無関係ということはありえないでしょう。次の政権を担うと公言している民主党も対立軸を示さず、県民に選択の機会を与えないのでは、政権交代してもたいして変り映えしないと予告しているようなものです。
 天木氏は「これでは選択のしようがない」と結んでいますが、ちょっと待ってください。既存政党が役割を果たさないのなら、有権者にも意思表示の自由があります。有権者の5人に1人が投票行動を変えたら、予想される低投票率の中で、情勢は逆転するでしょう。支持政党のいかんを問わず、とにかく新人候補に投票するのです。それは決して無責任な政治的行動ではありません。今の政治を変えてくれという意思表示です。
 共産党推薦の候補が知事に当選しても、それで直ちに山口県民の生活が破綻するほど日本の統治機構は脆弱ではありません。山口・長州といえば、明治維新の先駆者を生み出した土地がらです。日本全国に衝撃を与えて、政治改革のシンボルになってみませんか。

戦後日本の軌跡から学ぶこと(通算18)

長期デフレの中での構造改革

 一九九〇年代に始まったデフレ時代は、私にも初めての珍しい経験になりました。物価がだんだん下がってくるというのは、少なくとも当面は、それほど悪いものとは思えませんでした。たとえば、私が長年にわたって通っていた床屋さんは一回三千円で、八十歳近くになっても元気な長老が、町内の昔話などしながら調髪してくれるのでした。ところが数年前に近所に一回千円均一の理髪チェーン店が進出して来ました。行ってみると鋏とバリカン刈りのみで剃刀、洗髪はなし、十分間でそこそこで調髪を完了してくれます。店は四台の理髪台を並べ、狭い空間にじつに合理的に設計されており、壁には「ニュービジネスを開発して国民生活の向上に貢献……」という通商産業大臣の表彰状が掛けてありました。余計なことをせずに経済的なのが魅力で、一回おきぐらいに利用していました。ところが古い長老の床屋さんは、いつの間にか閉店してしまい、近所の他の理髪店も、次々に安値の簡易コースを設けたり、基本料金を引き下げたりするようになりました。結果として、私の理髪の支出は三分の一に減って今に至っています。
 同じころに百円均一の店も出現しました。最初は安物の雑貨ばかりで、さほどの魅力も感じませんでしたが、やがて大型チェーン店が進出してくると、店内の品揃えの豊富さに驚かされました。よく見れば多くは途上国の製品です。そこで買い物をすると、こうして途上国が発展するのだろうと思いながらも、国内のメーカーは苦しいだろうなと思いました。全般的にデフレ以後、家電製品などは驚くほど安くて性能のよいものが出回るようになったと思います。しかし私の個人的な消費者心理としても、安いから余計なものを買うということは決してなく、むしろ、もっと安くなるかもしれないと思うと、買う気になれないのでした。
 小泉内閣が「改革なくして成長なし」のかけ声のもとに発足したのは二〇〇一年四月のことでした。その改革とは、資本の移動と活動を自由化することで経済を活性化するという、グローバル・スタンダードに沿ったものでした。相次ぐ規制緩和を活用して生産拠点や仕入先を海外に移したり、徹底したリストラでコスト削減に成功した企業は勝ち組になりましたが、その大切な条件は、人件費を大幅に削減することでした。リストラとは本来の意味では企業の再構築ですが、現代日本では「人員整理」とほとんど同じ意味になってしまったのです。その結果として、雇用の不安定化が大きく進みました。雇用が安定している人にとっては、デフレは困る現象ではありません。しかし雇用に不安を感じる低所得者が多くなれば、ますます物は売れなくなります。雇用の規制緩和がデフレ不況を長期化させた側面を見逃すわけには行きません。

「ホテル・ルワンダ」を見る

先日NHK−BSで放送された映画の録画を見ました。アフリカの内陸にある小国ルワンダで1990年代に起きた民族紛争を題材にしたもので、ホテルの支配人が1200名あまりの避難民を虐殺から守った物語です。
 このルワンダ紛争では、人口の1割以上に当る100〜150万人が殺されたと言われます。元ベルギーの植民地で、国民の8割以上がキリスト教徒であったにもかかわらず、フツ族、ツチ族という民族間の対立が深刻な内戦を引き起こしました。しかしフツもツチも一目でわかるほどの違いはなく、言語も同じで通婚も進んでいたのです。それでも相手を「諸悪の根源」と決めつけて「ゴキブリを殺せ」というラジオ放送が流されると、多数派フツの民兵はナタを振るってツチ族を襲い始めました。非力な国連の平和維持部隊は外国人の脱出を最優先して、経営責任者もジャーナリストも聖職者もすべていなくなり、無法状態はそのまま放置されました。
 この絶望的な状況の中で、フツ族の支配人は「外資系高級ホテル」という看板だけを武器に、知恵をつくしてツチ族の妻をはじめ1200人の避難民を守り抜くのです。それがこの映画の感動物語なのですが、私は民族紛争というものの本質を考えざるをえませんでした。
 旧ユーゴスラビアでは民族と宗教が対立の原因でしたが、ポルポト政権のカンボジアでは、同国人に対する虐殺でした。そこでは「高等教育を受けたことがある」というだけで、充分な殺される理由とされました。権力を握った者が「諸悪の根源」を特定の集団に決めつけるとき、宣伝と執行の力さえあれば、理由は何であっても構わないのではないでしょうか。
 私は、このような殺し合いが日本の国内で起こる可能性を考えてみました。単一民族だからというのは安心の理由にはなりません。「9条と改憲」、「官公と民間」、「老人と若者」、「正社員とパート」など、対立の要素はいくらでもあります。全国が極度の窮乏に陥って絶望的な気分が充満したとき、どれかの集団が「諸悪の根源」として憎悪の対象に名指しされたら、安全でいられるでしょうか。あるいは、どれかの集団が「救国の決意」で暴力的な決起を始めたりしないでしょうか。
 「ゴキブリを殺せ」の声を、決して人間に向けてはいけない。この映画から汲み取るべき教訓は、その一点にあると思います。

戦後日本の軌跡から学ぶこと(通算17)

不良債権の処理からデフレの時代へ

 本筋に戻ってバブル崩壊後の日本の歩みを見てみましょう。株価と地価の暴落は、日本の多くの企業の資産を大きく減らすことになりました。株も土地も、自分で持ちつづけているものの価値が下落するのは、さほど打撃にはなりません。どうせ売るつもりはないのですから、我慢していればいいだけの話です。つまり、自分が必要とするもののために使った金は、自分に害を与えることはないのです。しかし多くの企業は投資の対象として株や土地を購入し、その資金を銀行からの借り入れに頼りました。借金には利子がつき、しかも投資のための資金は、値上がり期には巨額化の勢いがつきますから、有利な転売ができなくなれば、たちまち本業の利益を食いつぶして赤字に転落します。こうして世間が驚くような大企業までが、あっけなく倒産する事態になりました。
 銀行は融資の担保として不動産を回収してもそれが売れる見込みはなく、融資先を倒産させればかえって損失を大きくしますから、巨額の不良債権を抱え込んだまま身動きできなくなりました。銀行が資金貸し出しの余力をなくせば経済活動は不活発になり、さらに銀行が倒産するような事態にでもなったら、それこそ社会不安に直結します。銀行の不良債権処理ということが国家の一大事になりました。
 この一連の混乱を引き起こした責任の大半が、当時の経営責任者にあったことは明らかです。倒産を発表する記者会見のカメラの前で「社員は悪くありませんから」と号泣する名門証券会社の社長の姿がテレビで放送されたことを覚えている人も多いことでしょう。しかしこの金融不安を境にして、日本の経済は責任がなかった筈の社員たちも巻き込む厳しい道へ踏み込むことになりました。
 金融機関の再編成は、じつはバブルの崩壊とは無関係に始まっていました。グローバル化の流れの中で、日本の銀行は自由化が遅れ、数も多すぎて国際競争に耐えられないということになり、規制緩和による資本移動の自由化や金利の自由化などが進められていたのです。それにより銀行の中に強者と弱者の差別化が起こり、生き残りをかけて合併の動きが始まっていました。
 そこに加わったバブル崩壊により金融界はさらに混乱して、政府は不良債権処理を助けるために、十兆円を超える公的資金の注入を余儀なくされました。多数の金融機関が市場から去り、公的援助を受けた銀行も厳しい経営の合理化を求められました。銀行自身が合理化を徹底しようとすれば、融資の姿勢が厳しくなって企業の経営を圧迫します。不良債権の処理が逆に新しい不良債権を生み出すという連鎖が生まれてしまいました。その間にも値下げの圧力は株価、地価ばかりでなくすべての商品に波及し、日本の経済は経験したことのない長期デフレの時代に突入したのです。

コメント受付について

このところコメント欄に対して、外国からと思われる営業の書き込みが急増しています。しばらくの間コメント受付を許可制にしますが、なるべく頻繁にケアしますので、ご遠慮なく書き込みをお願いいたします。

戦後日本の軌跡から学ぶこと(通算16)

通貨と賢くつきあう方法

 戦後日本の悪性インフレは、一九四九年の終り頃、生産力が回復して民需品が世の中に出回るようになって、ようやく終息に向かいました。今も通用している十円玉が発行されたのは、一九五一年のことです。その後物価は安定してきましたが、それでもこの五十年あまりの間に、十倍以上にはなっています。一九五八年に私がNHKに入ったときの初任給が、一万二千五百十円でした。 
 悪性インフレは短期間で物価を極端に高騰させますが、デフレでの物価下落は、一割でも大事件です。インフレに苦しんだ老婦人が「あれだけの貯金があれば家だって建てられたのに、またそんな時代が来るかしら」と嘆いたという話を聞きましたが、もちろんその夢がかなうことはありませんでした。通貨の価値は極端に下落することはあっても、大幅に上がるということはないのです。通貨はいくらでも増発できるのに対して、物品の増産には限りがあるからです。そしてインフレで貯金の価値が大幅に下落したことは、所得の平均化という作用も残しました。つまりみんなが、働くことこそすべての価値の源泉だという「労働価値説」を体験したのでした。
 夏目漱石の「永日小品」の中に「金」という題目があって、金を赤、青、白など五色にして流通を制限しようという先生が登場します。「……器械的の労力が金に変形するや否や、急に大自在の神通力を得て、道徳的の労力とどんどん引き換えになる。……不都合極まる魔物じゃないか。だから色分けにして、少しその分を知らしめなくっちゃいかんよ」というのです。しかし結局は「今のような全知全能の金を見ると、神も人間に降参するんだから仕方がないかな。現代の神は野蛮だからな」と終っています。
 金に色分けは、気持はわかりますが、通貨の交換性を否定することだから成り立ちません。しかし金の万能性に対する疑いの気持を持ちつづけるのは必要なことです。戦後の私たちは、金よりも人間の労力や物の方がよほど信用できることを知りました。復興期から後は、物の中でも出遅れていた土地の価格が、長期にわたって上がりつづけました。土地バブルが生まれた底には、土地こそもっとも信頼できる財産だという、戦後世代の原体験があったのではないかと私は思っています。
 ここでの結論をあえて言うなら、通貨は人間の営みを円滑に運ぶための潤滑油であるのが本来の役目だと思います。ですから通貨の価値は一つの約束事です。それ自体に絶対の価値があるわけではないのです。通貨はこれからさらにグローバル化して、遠くない将来に世界通貨の統一ができるかもしれません。そうなれば一国単位のインフレは起こらなくなりますが、それでも通貨の価値が相対的だということは変らないでしょう。


俺は誰だ

奇妙なタイトルですが、漢字の話です。現在の常用漢字1945字の中に入っていなくて、これから追加する候補188字に「俺」と「誰」が入っているのです。文化審議会小委員会で承認されたということです。正式な決定までにはまだ2年ほどかかるようですが、たたき台が出来たということでしょう。
 現在の常用漢字は、1946年(昭和21)に制定された当用漢字1850字に、1981年に95字を追加して公布したものです。同時に適用が「漢字使用の目安とする」と、ゆるめられました。それ以来ほぼ30年ぶりの改定です。追加する候補の188字を見ると、「今はこんな字も入っていないのか」と驚かれるものが多いでしょう。
 たとえば「岡」です。岡山県をはじめ人名にも多く使われるし、会話で「ふつうの岡です」と言えば、「丘」の字を連想する人の方が少数派でしょう。その「岡」が、なぜ常用漢字でないのかというと、固有名詞に使われるのは特殊扱いだとして、「高いところ」を表す「岡」と「丘」は同じような意味を表すから、「丘陵」「砂丘」などと漢語も作れる「丘」に統一すればよいと考えたのです。言語を改良する理屈としては正しいのですが、日常の親しさとは反対の結果になりました。その反省からでしょうか、今回は「岡」のほかに、府県名に使われる「阪・鹿・奈・熊・梨・阜・埼・茨・栃・媛」がすべて含まれています。
 当然だと思われるでしょうが、漢字を整理する観点からは、方針の不徹底で後退したのです。戦後すぐに「大坂府」「愛姫県」などと改名していたら、今ごろは定着していたでしょう。しかし人名の「岡山さん」を「丘山さん」に変えさせるのは、抵抗が強くて難しかったことでしょう。使われている漢字をコントロールするというのは、非常に難しい仕事です。
 漢字復興の機運の中で今回の188字を見ると、納得できるものが多いように感じられます。その一方で、あまり使われないので常用漢字から外す候補も挙げられています。それが「銑・錘・勺・匁・脹」の5字だけなのは意外でした。この案では総計が2128字に増えることになります。今の常用漢字には「朕」(天皇の自称)など、ほとんど使われない字が、まだかなり残っています。それらを私の感覚で見直すと、総数を2100字程度に抑えることができそうに思います。とにかく常用漢字の総数は、むやみに増やしてほしくないのです。

戦後日本の軌跡から学ぶこと(通算15)

一銭玉が通用していた時代

 日本の通貨単位は「円」ですが、その下に銭や厘の単位があったことを、現代の人はほとんど実感していないでしょう。しかし日本の通貨は、明治四年に「円」を基本単位と定めて以来、一度も切り下げられてはいません。ですから銭は円の百分の一、厘は銭の十分の一という価値は、今も変っていません。私もさすがに厘の単位は実感できませんが、はがきが二枚で三銭、一枚が一銭五厘だったことは覚えています。
 幼児期から少年期にかけて一銭玉を使って暮らした経験のある私は、通貨の危うさについて今の人は意識しないような諦観を持っています。駄菓子屋の店先では、当時の一銭玉一つで「ガチャン」と呼ばれる機械ゲームが一回楽しめました。今の感覚で言えば百円玉に近い使い勝手だったと思います。単純に計算すれば物価は一万倍近くまで値上がりしたことになります。そのインフレがいつのことかというと、意外に思われるかもしれませんが、戦時中ではありません。敗戦から一年ほど経過した一九四六年(昭和二一)の後半から三年半ほどの間に、ほぼ百倍の物価騰貴があったのが大きかったのです。
 そういう時代に国民の生活はどうだったのか、具体的に思い出してみましょう。まず、敗戦で各種の統制がゆるみ、町には「闇市」と呼ばれた一種の自由市場が出現しました。統制・配給制度を脅かす「闇屋」の横行と物価騰貴を防ぐため、政府は一九四六年二月に「新円」を発行するとともに旧円の預金を封鎖して、一世帯一月当り五百円以上の引出しを禁止しました。ただし学用品は別枠でしたから、間もなく中学生になった私は、辞書を買う、顕微鏡を買うなどの証明書を学校から貰っては、家計を助けたものです。
 この強権発動によって、物価は一時的には落ち着きましたが、逆に商工業に回る資金の不足が深刻となり、政府は結局、復興資金の供給を増やさざるを得なくなりました。ここから本格的なインフレが始まりました。
 三年半で百倍は、たしかにひどいインフレでしたが、農漁村や商工業の人たちは、ほとんど困りませんでした。収入の方も新しい価格で入って来たからです。サラリーマンも少し遅れて給与の改善を得られました。官公労働者の給与改定は民間より遅れましたから、その不満が一九四七年のゼネスト計画になりました。食料品や紙、木材、石炭など、物資を持っていた人たちは、困らない以上に、売り惜しみをすれば大儲けも可能でした。ただし土地や建物など、売りにくいものの値上がりは遅れました。
 結局、収入さえあれば、インフレは戦争ほどには悲惨なものではなく、目先の利く人たちには、チヤンスの多い時期でもありました。百分の一に価値が下落したのは、現金、預貯金、保険金などの、金額が固定されたものだけだったのです。

大野晋先生と日本の漢字文化

大野晋先生が亡くなられたという新聞記事が出ていました。丸谷才一氏は「本居宣長よりも偉かった」という言葉を贈っています。偉大な国語学者であり、「日本語・日本人とは何か」という壮大なテーマを、生涯をかけて追い求めた人でした。
 私は大学時代に聴講生として先生の授業を何回か受けることができました。試験を受けた記憶がありませんから、単位に関係ないモグリの聴講だったようです。そこで聞かされた「漢字は日本語ではない」という考え方が衝撃的でした。それは反漢字主義というような視野の狭いものではなく、漢字という優位な文化を輸入したために発達し損なった「やまとことば」に対する深い愛着から発しているのでした。つまり「漢字に出会わなかったら日本語はどうなったか」という、「あるべかりし日本語」へのこだわりでもあったのです。
 たとえば「あお」という色の表現として「青い」「蒼い」「碧い」などと書き分けて、それで日本語の表現力が豊かだと思ったら、間違いだというのです。それは漢字の豊かさに過ぎないのですから。漢字に頼って日本語を難しくするよりも、本来の「やまとことば」の力を引き出して日本語を発達させることができないだろうか、という問題提起でした。わずか数回の授業を受けただけで、その後の私は日本語の好ましい形というものを意識するようになりました。
 戦後の教育漢字・当用漢字の導入は、日本語の近代化のために正しい方向であったと思います。それは日本語の表記を「記憶可能な有限数」の中に収めるための試みでした。それが今、パソコンの普及によって、ゆらいでいます。読めるけれど、書けない言葉が増加してきているのです。しかし読みと書きの分離は、言語として決して好ましいことではありません。
 漢字の使用を無制限に増やさないこと、日常に使う2000字程度に抑制することは、日本語としての共通理解のために必要です。その中で日本語を豊かにすることは、少し工夫すれば充分にできる筈です。美しくてわかりやすい日本語の表現をみがくことを、私は大野先生から受け取った遺言のように感じています。

戦後日本の軌跡から学ぶこと(通算14)

土地は誰のものなのか

 土地を作り出した人はいません。公共事業で埋立地が出来たりすることはありますが、それは例外で、土地は海と同じように地球の自然物です。それなのに日本の国土で公有地を含めれば誰のものでもない土地というものは存在せず、世界にも南極大陸を除いては、どこかの国の領土でない土地は存在しないとは、どういうことでしょうか。
 家を建てて住むのに土地が必要、作物を作るのに土地が必要、それらをつづければ自分の支配する土地の範囲が決まってきて、他人もそれを尊重するようになります。土地についての権利が、それを使う権利から始まったことは明らかです。それが定住によって親から子へと受けつがれるようになり、やがて「昔から決まっているわが家の所有物」として意識されるようになったのでしょう。個人としての所有ばかりでなく、力のある指導者が人々をまとめて、「わが村」や「わが国」の勢力範囲を守ろうとすることから、「領地」の観念も育ってきたに違いありません。
 やがて人間社会の組織化が進むにつれて、土地の権利も権力者による身分支配と結びついて、土地を支配する権利つまり所有権と、利用する権利つまり使用権との分離が始まりました。多くの農民は土地を所有する権利から遠ざけられ、土地を耕す権利を一年ごとに借りることになりました。土地の借り賃が領主に納める年貢や地主に納める小作料になりました。封建時代を経て文明開化の時代までくると、土地の領有権は国家に集約されるとともに、個人の財産権も確立して土地の私有が公認になりました。それが現在まで継続して土地所有権は基本的財産権の一つとなり、その権利は上下に及ぶ、つまり空中と地中にまで及ぶと規定されています。こうして土地は自由に売り買いも貸し借りもできる私有物となりました。
 土地バブルのとき、私は地球が誰かの私有物になるという無気味な予感を持ちました。それ以来、土地の所有に対する違和感が消えません。結論だけを言えば、人間が主張してよいのは土地を使う権利だけだろうと思います。土地は誰のものでもなく、強いて言えば人類みんなのものです。だから国家でさえ、土地を所有すべきではないと考えます。
 土地の問題に限らず、私は従来よりもずっと長い時間で将来を考えようとしています。、当面の行動目標は一世代三十年、中期計画は三世代百年、そして長期計画は十世代三百年くらいにしたら、有効な将来への方針が立てられるのではないでしょうか。
 土地の所有権が無制限に地下にまで及ぶのなら、地下の水脈も資源も岩盤もマグマも、地球のコアに達するまで所有することになります。今は問題にならなくても、誰にもそんな権利を認めるべきではありません。

「イスラーム主義とは何か」を読む(3)

いつもそうですが私の場合、読んだ本の紹介は忠実な書評ではなくて、読みながら私が勝手に考えたことが中心になっています。
 この本に出てくる「イスラーム復興」ということも、私の今までの漠然とした理解とは違っていました。イスラム教では1日に何回ものお祈りがあるし、女性の顔や髪は人に見せてはいけなかったり、断食月などという厳しい戒律があったりで、現代人の生活とは調和しないだろう、いずれは世俗化して簡略になって行くのだろうと思っていました。ところが著者の大塚氏の観察だと、エジプトの町でも「イスラーム復興」の潮流は、はっきり感じられるということです。
 この現象は「イスラーム主義」とは違って、人々の生活文化に見られる現象です。政治的な強制などではなく、イスラム教徒が自らの宗教を、以前よりは強く意識するようになりつつあるということです。それはおそらくアメリカの主導による「グローバル化」に触発された反作用でしょう。直接の紛争地域ではなく、欧米と協調的だったエジプトでも、イスラム教は民衆の自覚的な支持を高めつつあるのです。
 この本にあるもう一つの大事な考察は、「本質主義」というものです。自分たちの本質に回帰して純粋に行動しようとすると、他者に対する許容範囲が狭くなります。「イスラーム主義」を破壊しようとする異教徒の攻撃には、自爆テロも辞さないということになります。その反対側では「テロとの戦い」が文明国の使命だということになります。この2分法が多くの悲惨を生み出して、終りのない紛争になることは、私たちが現に見ている通りです。
 それではどうしたら異なる宗教は平和的に共存できるのでしょうか。原理は「他者を認める」という簡単なことです。「寛容なるイスラム」という言葉があって、コーランにもそのような記述があります。異教徒にも及ぶ愛を否定しないのは、キリスト教も同じです。イスラム教徒とキリスト教徒は永遠に戦い続けるのが運命だなどというバカなことが、あるわけがないのです。
 紛争を解消する特効薬は、国際的な公正の実現と貧困の救済以外にありません。民衆がどんな宗教を選ぶか、あるいは無宗教になるかは、その先の問題です。中近東もアフリカも侵略したことがなく、限りなく無宗教に近い温和な仏教徒である日本人こそ、世界の平和に貢献できる最善の資格があると、私は改めて思いました。

戦後日本の軌跡から学ぶこと(通算13)

土地の適正価格とは何だろう

 ここでちょっと寄り道して、土地の値段はどうして決まったのかを考えてみましょう。私が埼玉で土地を買うことを決断したのは、団地のすぐ近くで便利な場所だったことと、価格が貯金とローンを組み合わせれば当時の収入でどうにか返済可能な範囲に収まったからでした。その四年後に東京都内に移転したときは、仕事のために都内へ出たいという明確な目標がありました。このときは当時の仕事の規模では無理かと思えるほど高い買い物だったのですが、「仕事さえしていれば借金は怖くない、成り立つようにがんばればいいのだ」と前向きに考えて決断しました。そう思わせてくれたのは妻でした。
 その後の土地価格の乱高下に、私たちは巻き込まれずに済みました。目の前のローンと格闘するのに精一杯でしたから、必要以外のものに手を出す余裕などなく、それが幸いだったのかもしれません。もし余分な資金が手もとにあったら、二回の土地購入の成功で気をよくしていた私たちは、自分で使うつもりもない土地に投資して、大やけどをした可能性もなくはないのです。
 バブル絶頂期の日本の土地価格は、そこにどんなものを建てても土地購入費を償却することが不可能なほど高くなったと、当時すでに警告されていました。にもかかわらず値上がりが止まらなかったのは、土地の広さは有限だから誰でも欲しがる筈で、先に手をつけたものが勝つという「土地神話」に踊らされたとしか言いようがありません。ここまでくると土地の価格は、使用価値とは切り離された抽象的な所有価値になります。みんなが欲しがるというただ一点に価値があるわけで、ついに日本は「土地本位制」の国になったとまで言われるようになりました。土地はもっとも信用される財産となり、金融機関はその価値を基準として融資をつづけたのです。
 ところが経済学の原則では、土地の価格の基礎はもちろんその使用価値にあります。農・林業地にしろ商・工業地にしろ、その土地を使ってあげられる収益を利子分とする元金に相当する金額がその土地の適正価格です。それは利子を何パーセントにするかで変ってはきますが、ともかく計算で導くことができます。しかしながら実際の取引価格は経済理論では決まりません。売り手と買い手のさまざまな事情が交錯し、しかも土地というものは同じものが絶対に二つはないのですからやっかいです。そこで公示価格さえも近所の最近の取引例から推測で決めるしかないのです。ですからバブル期の土地価格に対して、政府も有効な抑制策をとることができませんでした。
 自分もかかわりを持った土地取引を通して、私はいつの間にか土地の所有について基本的な疑問を感じるようになりました。「土地は勝手に所有してよいものだろうか」と。

政治家の人相

最近のテレビでの政治対談や、インタビュー番組などを見ていて気づいたことがあります。担当大臣などの要職につくと、その政治家の人相が、だんだん悪くなってくるように感じるのです。自民党の中でも期待の若手と言われ、それなりに新鮮な魅力も感じられた人たちが、しだいに表情を失って能面のような顔になり、生気のない言いわけのような話し方をしているのを見ると、ちょっと気の毒のようでさえあります。
 環境問題であれ、対北朝鮮の問題であれ、当面何もしないという基本方針が決まってしまっている中で、担当大臣は問われれば何かをしゃべらなければなりません。言葉をつないで自分でも納得していない理屈を長々と述べるのは、楽でない仕事に違いありません。精神衛生によくないことは、おそらく本人が一番よく知っているでしょう。
 今の政権では、大臣の仕事とは、そういうものだと割り切るしかないのかもしれませんが、国政の担当者が生き生きと手腕を発揮できないような政治が、国民の役に立つとは思えません。数少ない例ですが、かつて菅直人氏が厚生大臣だったとき、官僚が「ない」と言い張っていた薬害エイズの資料を、倉庫から発見して明るみに出したことがありました。その前後の菅氏の生き生きとした活躍ぶりを思い出します。そのときは「大臣とは、誰がやっても同じではない」ということを実感できました。
 今の政治家の全員が無能で、自己の保身しか考えていない人たちだとは信じたくありません。政治家の表情が生き生きと輝いて、信じる理想に向かって渾身の力を振り絞っていることが感じられるような、そんな政権の誕生を、一日も早く見たいものです。

戦後日本の軌跡から学ぶこと(通算12)

高度成長とバブルとその崩壊

 埼玉県草加市の公団住宅に住んでいた私が、団地のすぐ近くに土地を購入したのは一九七二年のことです。高度成長は何年も継続して、自動車をはじめとする国産品の性能が向上しアメリカへの輸出が本格化してきました。国内では「列島改造」論が盛んになり、土地の購入に対して金融機関は積極的に融資する姿勢でした。将来への備えとして土地だけを確保しておくつもりだったのが、建築会社が、全額ローンができるから家を建てさせてくれと言ってきました。そこで定収入用に二戸のアパートをつけた自宅の建築が、とんとん拍子に実現してしまいました。
 一九七三年末のオイルショックは一時的に日本経済を混乱させ、狂乱物価と呼ばれるインフレ傾向を生みましたが、大幅賃上げも後追いしてきたので、勤労者も中小企業者も、要するに働いている人たちの生活はさほど困窮せずに済みました。ローンを抱えていた私はむしろ返済が楽になり、わずか四年後の一九七六年には東京都内に土地建物を入手して移転することができました。草加の土地建物が、購入時の二倍以上の価格で処分できたのが役に立ちました。高度成長は私にも恩恵を分けてくれたのでした。
 その後現在に至るまで私は同じ場所に住みつづけています。一九八〇年代に土地の価格は異常に高騰し、財産価値が増えたようで悪い気はしませんでしたが、自分で使っているのですから価格は関係のないことでした。やがてバブル崩壊で評価額が下がっても同じことでした。固定資産税が安くなった分だけ楽になりました。
 今から考えると、一九七〇年代までの高度成長は実体を伴う健全な成長だったと言えると思います。急成長の歪みとして各種の公害の発生や交通事故の激増、働き手の流出による農村の崩壊といった問題はありましたが、労働市場は超完全雇用で新卒の高校生は金の卵ともてはやされ、初任給は毎年一〇パーセントも引き上げられました。会社の寮や食堂など福利厚生施設が見違えるように改善されたのも、この頃のことです。
 一九八〇年代になると、日本の賃金はすでに世界水準を上回って国際競争力を低下させるとの説が流され、物価が徐々に落ち着くとともに賃金も上がらなくなりました。ここで企業の資金は土地の先行取得や有望企業の株に向かい、やがて値上がりだけを期待するマネーゲームへと突入して行きました。他に先んじようとする競争心が冷静な判断力を麻痺させたのでした。当時の経営責任者にもそれ以上の説明はできないということです。
 一九九〇年初頭の株価下落から始まったバブルの崩壊にも、これといった明確な原因があったわけではありません。行き過ぎを調整する健全な反応だなどと論じているうちに、株価は九カ月で半減して、二百七十兆円が日本から消えてなくなりました。

ブログ連歌(36)

699 男帯び きりりと粋に 手ぶりよき(みどり)
700  「踊」一文字 大書してをり(花てぼ)
701 お酒飲み その勢いで 踊りだし(うたのすけ)
702  ここは一番 行かざなるまい(建世)
703 花道に やくざ蹴散らす 男伊達(みどり)
704  大向こうから 「みどり屋!」の声(建世)
705 声もなく 涼風ゆらす 釣り忍ぶ(みどり)
706  大川端に 半月おぼろ(建世)
707 夕端居 ブログ連歌の 端唄めく(花てぼ)
708  いのち一つが 流れて末は(建世)
709 サミットは いつも女房と 買い出しに(うたのすけ)
710  これが本当の サミットストア(建世)
711 槍の穂も ひとのむらがる 夏休み(ひとみ)
712  谷間に残る 雪と戯る(koba3)
713 梅雨晴れに 夏待ちかねる 雲の峰(建世)
714  沖の白波 知るや知らずや(みどり)
715 海山へ 思いは近く 足遠く(建世)
716  娘との海 とうの昔に(うたのすけ)
717 行ってこそ 若き父との 思い出の海(ひとみ)
718  九十九里浜 「戦前」の夏(建世)
719 地曳網 老若つどう 浜の朝(みどり)
720  砂踏む素足 力を込めて(建世)



「イスラーム主義とは何か」を読む(2)

私たちは何となく、宗教色が薄まり世俗化することが近代化だと思い込んではいないでしょうか。たとえば日本の仏教などは極端で、墓では寺の世話になっていても、酒を飲んだり肉食することを、仏教徒だから遠慮するという人は、皆無ではないでしょうか。日常生活はもちろん、政治においても宗教から分離して中立であるのが「正しい政治」だとする観念があります。日本では憲法でそれを決めているのですから、天下公認の考え方です。
 ところが先進国である筈のアメリカの大統領は、就任式で聖書に手を置いて宣誓をします。だからといってアメリカの政治が遅れているとも言えません。キリスト教精神は、今もアメリカでは支配的な価値観なのです。同じようにイスラム教精神が支配的価値観になっている国もあると考えれば、イスラム諸国は近代化が遅れているという印象は、一種の偏見であることに気がつきます。
 イスラム諸国の中でも、最も定型化した宗教国家の性格を残しているのが、サウジアラビアです。ここでは女性は今でも自動車の運転が許されません。この保守的なイスラム国家から、9・11テロの黒幕と言われるオサマ・ビンラディンが生まれたことは象徴的です。そして彼と近い「イスラム原理主義過激派」と呼ばれる人たちは、近代的教育を受け、欧米諸国の事情にも通じた知識人が多いのです。伝統的イスラム国家に疑問を感じ、イスラム教本来の精神に立ち返ろうとして目覚めた彼らが、現代の世界を見渡して選んだ道が、「アメリカの世界支配に対する抵抗」だった、というわけです。そこにはパレスチナのムスリムが受けている不公正な抑圧に対する、強い同情と怒りが影響した筈です。
 このように見ると、「イスラーム主義」は、キリスト教の宗教改革およびプロテスタントの運動と、非常に多くの共通点を持っているのがわかります。イギリスで抑圧された「清教徒」たちが新大陸へ渡って作った国がアメリカでしたが、やや遅れてイスラムを宗教改革しようとした人たちには新大陸はなく、否応なしにアメリカと戦わざるをえなくなった。そのように考えると、同じ起源を持つ世界の2大宗教の、まことにドラマチックな運命を見ているような気がします。

戦後日本の軌跡から学ぶこと(通算11)

焼け跡からの復興と成長

一九四五年の敗戦から間もない頃に、父に連れられて東海道線の列車に乗ったことがあります。東京駅を出てから品川、川崎、横浜を過ぎて戸塚あたりで丘陵地帯に入るまで、窓の外の景色は戦災による廃墟の連続で、まともに操業しているらしい工場などは一つも見ることができませんでした。「これは大変なことだ」と父は深くため息をつきました。
 その旅の続きで父の郷里、静岡県安倍川奥の山村を訪ねると、そこには緑豊かな農村の風景があり、戦地から復員してきた若者が元気に村人と交歓している姿がありました。「あれだけの戦争をしていた生産力が、全部民需品に回るのだから、きっとこれからはよくなるよ」と、父は気を取り直すように言いました。そしてその予言は当りました。
 戦後日本の復興には、いくつかの幸運がありました。占領された相手がアメリカであったことは、その最初で最大の幸運と言っていいでしょう。「鬼畜米英」と教えられて育った私たちにとって、戦勝国のアメリカが敗戦国の日本の復興を助けるなどとは、ありえないことに思えたのです。それが食糧援助を始めとして、国民生活の再建に目に見える手助けとして入ってきたのですから、総司令官のマッカーサーが一時は救世主のように人気を集めたのも自然の成り行きだったのです。
 次の幸運は朝鮮戦争でした。国連軍の兵站基地としての機能を求められて、日本の工業生産力の復興は一気に軌道に乗りました。政治的にもアジアにおける「共産主義への防波堤」の役割を期待され、アメリカと同盟関係の路線が敷かれました。これ以後、日本では保守党が一貫して政権を担当して今に至っています。イギリスや西ドイツそして北欧諸国が、社会民主主義政権のもとで高福祉高負担の「大きな政府」の時期を経験したのに対して、日本はわき目もふらずにアメリカの弟子として経済成長の道を進み続けました。
 日本が戦争で廃墟になったことは、ここで幸運に転じました。最新の施設と技術を揃えた「後発メーカー」の利点が生きてきたのです。さらに日本の地形が幸いしました。工業拠点のすぐ近くに港があることは、原料の受け入れにも製品の搬出にも好都合です。資源のない島国は、世界の工場としては最適の国になりました。
 最後で重要な幸運は、日本が戦争を放棄した平和憲法を持ったことです。当初はアメリカがめざした「日本の軍国主義解体」の政策に沿ったものであったことは確かですが、経済力も人材も軍需に取られることなく、民需に集中できたことは日本の財産になりました。今ではアメリカから見れば「安保の傘」の下にいつまでも安住しているのは虫がよすぎる、応分の「平和貢献」をしなさいということになるようですが、軍事力の拡充で貢献するのは時代遅れだと、私は思います。

「イスラーム主義とは何か」を読む(1)

「イスラーム主義とは何か」(大塚和夫・岩波新書)を読みました。最新刊ではなくて2004年4月の発行ですが、もっと前に読んでおくべきでした。私は、イスラム教はまだ宗教改革を経験しておらず、近代との調和ができていないという、漠然たる印象を持っていたのですが、これを先に読んでいたら、少し違った見方ができたかもしれません。
 ちなみに、著者が言う「イスラーム主義」とは、今の新聞やテレビで「イスラム原理主義」と呼ばれているものと同じです。イスラム原理主義と聞くと、自爆テロや、女性へのベール着用の強制などを連想する人が多いでしょうが、それはイスラーム主義の極端な現象の一つにすぎません。イスラーム主義は、もっと広範なイスラム世界における現代の時代思潮であると著者は言うのです。現実にイスラム世界に生活した実感から導かれる考察には、説得力があります。
 この本で用いられているイスラム関係の用語は、著者の独特な表記になっているのですが、ここでは現在のマスコミでも使われている通常の用語によることにします。
 まず、原理主義という用語のことですが、宗教の原点に忠実であることであって、キリスト教にもあるものです。たとえば聖書の創世記を真実であるとして、進化論を認めないというような態度です。ですからイスラム原理主義というと、コーランに書いてあることが絶対で、反近代・反文明的であり、自爆テロも辞さない狂信的な破壊主義者であるかのような、否定的なイメージを持ってしまうのです。しかしそれでは、13億人もいるムスリム(イスラム教徒)の、ますます多くを敵に回すことになってしまいます。ですから著者は「イスラーム主義」という言葉を使って、自分の宗教を鮮明にして大切にしようというのは、宗教を信じる者として当然の態度ではないかと言うのです。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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