志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2008年08月

ノーム・チョムスキーの「未来への提言」を見る

NHK-BSの「未来への提言」シリーズから、ノーム・チョムスキーの「未来への提言・真の民主主義を育てる」を昨夜見ました。予想以上の濃い内容で、未来社会の望ましい全体像が浮かんでくるような気がしました。提言者はマサチューセッツ工科大学(MIT)教授で、アメリカにおける反戦運動の理論的指導者ということです。
 この人の反戦思想については、「報復は殺戮を再生産するだけだ」という主張に集約されると思います。人を法の支配に服させるためには、何よりも平和が必要なのです。
 私の印象に強く残ったのは、現代のマスコミに対する認識でした。現代のマスコミは、社会の中の上流に位置する管理・支配者層から発信されます。世界的に、資本によるマスコミの寡占化も進んでいます。その中で記者は公正・中立な立場で発言すべきだという建前はあるものの、全体としては保守的・右翼的に傾くことは避けられないというのです。マスコミは国家権力に対しても常に批判精神をもって、国のありさまを検証するのが使命だと言われてきましたが、国家体制とマスコミ業界が接近してしまった現代では、大きな限界があるのかもしれません。
 そこで大切なのが、自由な個人をベースとした独立系の出版活動やインターネットの活用です。しかしここで問題は、自主的でない受け身の大衆に働きかけてこれを動かすのは、非常に難しいということです。たとえばインターネットは便利なツールではあっても、「何を知りたいか」という目的意識なしにネットサーフィンを続けても、時間とエネルギーの無駄でしかありません。ですから改めて教育が大切になります。マサチューセッツ工科大学では、すべての授業の無料ネット公開を進めているということです。
 さらに小学校に相当する幼児教育の大切さも示唆されていました。与えられた課題を覚えて試験で点を取るだけの教育が身につかないことは、すでに実証されています。自分で問題を発見して、知識を喜びと感じるような、生涯役に立つ「学ぶ力」を与えることこそが大切です。
 私は、自分の小学生時代を思い出していました。相次ぐ空襲の中で、5年生の後半から6年生の前半までは、授業らしい授業もなく、物置で本ばかり読んでいました。あれは一種のフリースクールだったのかもしれません。塾に通う今の小学生たちの未来が、少し心配になってきました。

人間の幸せに奉仕する経済活動(通算60)

税源は労働所得から資本所得へ

 大きく分けて、人の収入には二種類あります。一つは働いて得る収入で、誰かに雇われて働く報酬として受け取る賃金が代表的なものですが、自営で働いて価値あるものを作り出すことで得られる収入もあります。仕入れたものの販売で利益を得るのは、物を作ることとは少し違いますが、行商や個人商店などの場合は、やはり汗して働いて得られた収入というのが実感でしょう。
 一方、現代では、働くという実感からは遠いところで得られる収入もあります。典型的なものは株式投資や投機的な為替取引で得られる収入で、こうした資本の移動による経済活動は、ますます社会の大きな部分を占めるようになってきています。そして本来の資本の役割を逸脱しつつあるように見えるのが問題です。
 たとえば株式投資は、事業に資金を提供し発展させることで、見返りとしての配当で利益の分配を受けるのが本来の姿です。ところが今は額面も配当もあまり重視されずに、市場における株の時価の上下だけに関心が集まるようになってしまいました。その結果として起こったことは株投資の投機化です。情報操作や買収戦略などによるマネーゲームで、強い資本力を持つ者が莫大な不労所得を手にするような不健全な状況になってきました。
 為替市場も同様で、輸出入の決済という本来の目的に使われる金額の何倍にものぼる資本が、投機資金として世界をかけめぐっています。そこに見られるのは、実用から離れた過剰な資本が、自己の論理でひたすら増殖をはかっている姿です。
 誰が考えても今必要なのは、働いて得られる収入を尊重して、資本の移動で生じる利益は、その一部を公的な課金として吸い上げることによって、経済活動を健全化しつつ国の財政に役立てることではないでしょうか。そのための対策も単純に考えればいいのです。
 株式の取引には、本来の投資には決定的な障害にならず、短期に繰り返される投機的な売買を抑制するような程度の公的な手数料を設定すればよいのです。それは株数ではなく、取引金額に比例する一種の取引高税であるべきでしょう。
 為替取引についても同様です。正常な輸出入には大きな障害にならず、投機資金の短期移動を封じるのに有効な程度の税率を設定することは、充分に可能であろうと思います。それは決して貿易の自由を妨げることにはならない筈です。
 マクロで考えれば、全世界の資本は経済活動によって絶えず増加する傾向を持っています。経済に金利が組み込まれている事実だけからでも、それは明らかです。全世界の資本の増加が全世界の実体としての富の増加を上回っているなら、過剰な資本は何らかの方法で回収して、公的な資金としなければなりません。


人間の幸せに奉仕する経済活動(通算59)

年金の一律支給に根拠はあるか

 今の日本では、年金制度の危機が問題とされ、このままでは崩壊するとまで言われています。急速に進んだ社会の高齢化と少子化の影響で、保険料を支払う現役世代の負担が異常に重くなることが、その根底にあります。雇用も不安定の中で高負担に苦しむ若い人たちがいる一方で、財産も生活の保障もありながら年金を受給して、優雅に暮らしている老人たちがいることも事実です。
 ここでまた自分の体験を持ち出しますが、私は自分の会社の責任者ですから定年はありません。六十歳を過ぎても変らずに仕事を続けていて、体力の衰えもさほど感じませんでした。そんな中で厚生年金の受給年齢が来て、毎月納めていた年金保険料がなくなり、年金の給付が始まりました。相談窓口で社会保険事務所の係員が、会社から受ける役員報酬をいくらにすれば満額の年金が出るかを教えてくれました。ちょうど会社の経営が苦しいところでしたから、これで相当に助けられました。
 しかし私の気持には何か後ろめたいものが残りました。会社の経営が苦しかったのは一つの偶然であって、私の年金とは直接には関係のないことです。もし会社が苦しくなくても、制度がそうであれば、同じように満額の年金を受け取る手続きをしたことでしょう。長年にわたって保険料を納めた見返りと思えばそれまでですが、聞けば年金は、現役世代から老年世代への扶養だと言うのですから複雑です。公的年金は老後に生活能力が低下する人たちのための生活保護に近い保障であるべきで、豊かな老後のための積み立てなら、それは任意で入る個人的保険契約の方がふさわしいと思ったことでした。
 それにしても、一定の年齢で退職する定年制には合理的な根拠があるのでしょうか。加齢に伴う職務能力の衰えに、大きな個人差があることは誰でも知っています。体力仕事ではない経営管理や学術、芸術の分野ではなおさらです。人口構成の上で若い世代が多い時代には、人事を停滞させないために一定年齢での引退にも意味があったでしょうが、基本的には、本人に働く意志と能力がある間は働きつづける方が自然です。
 そう考えると、次には退職金も今のような手厚さが必要かどうか疑問になってきます。現役時代に充分な収入が得られるのなら、老後への準備も自分の人生設計にしたがって積み立てればよいことになります。病弱などの理由で老後のための積み立てができなかった人は政府から援助を受ければよいわけで、生活保障としての退職金が必要でなくなれば、ここでも人を雇うことに伴う不合理な負担が軽減されます。
 私がここで主張していることの要点は、現役で働いている人の収入を充分に増やしておけば、公的な生活保障も年金も、一律でない重点的な給付で済む筈だということです。

マスコミの限界とネット情報

日の産科医無罪判決については、マスコミでもさまざまに報道されましたが、事実関係をよく理解しないままの情緒的な反応が、依然として多数を占めたようです。その典型例がNHKテレビの事前報道と、当日夜の「時論公論」で、私も見ていて、かなりの違和感をおぼえました。この件については、春野ことりさんが、そのブログで「NHKへの抗議文」と「飯野奈津子解説委員への手紙」という2本の記事で、理路整然とした、じつに立派な批判をしておられます。ぜひ多くの方々に読んでいただきたいと思います。
 私もNHKのOBですから、なぜこのような番組が流されたか、現場の事情が少しはわかるのです。番組担当者としてインタビュー取材に行くと、相手との間に信頼関係がなければ、よい話は聞けません。多少なりとも共感を示しながら話を引き出すことになります。そして、手に入れた素材は、生かして使いたくなるものです。問題は、今回のような場合に、違う立場の意見や、客観的な資料にも配慮した公正な番組づくりが、どこまで出来るかということです。
 要するに担当者の勉強不足がさまざまな偏向を生むので、それを防ぐためのチェック体制はもちろんあるのですが、印刷・出版の世界に比べたら、放送番組の審査の徹底はずっと難しいように思います。映像・音声・演出という感覚的な部分があるし、放送局は、常に時間に追われているのです。ですから勢い、漠然としたその場のムードで、この程度のことを言っておけばよかろうと、通過してしまうことになります。
 私は在職中に、作ったものに自信が持てないまま放送に出して、後味の悪い思いをしたこともありました。放送番組も、あらゆる人間的な弱点の渦の中から生まれるのです。ですから絶えず外部からの批判にさらされるのは、大切なことです。
 私はインターネットに親しむようになってから、NHKと朝日新聞だけ見ていたのではわからない、多くの情報に接するようになりました。3年前の私だったら、今回のNHKのニュース番組も飯野奈津子委員の解説も、もっともだ、その通りだと、何の違和感もなく聞き流したに違いありません。マスコミという巨大組織は、その内部で育てた合意のもとに動いているように見えます。本当のことは何なのか、個々人が発するナマの情報を結ぶインターネットが、マスコミを補完する大事な役割を果たしつつあることを実感しています。

人間の幸せに奉仕する経済活動(通算58)

税制は簡単な方がよい

 現代日本のサラリーマンの多くは、自分が納税者であるという意識を、非常に薄くしか持っていないでしょう。国税も地方税も、社会保険料までも、すべて給与から天引きになっているからです。代りに面倒な計算や納付の義務までも負わされているのが給与の支払い者です。源泉徴収制度は一九四〇年(昭和一五)の戦時下に財源確保の非常手段として始まったものが、徴収に都合がよいという理由で固定化してしまいました。受け取らずに納付される税金や保険料は、最初からないのと同じで意識の外へ行ってしまいます。これでは政府の経済政策に対する関心が高くなる筈がありません。
 今の税制の欠陥は、給与生活者とその他の自営業者などとの間に、所得補足率の大きな格差が出来てしまっていることです。これが国民の間に、不公平感と不満の感情を充満させています。税制は本来、どのような働き方で収入を得るにせよ、全員に公平であるべきです。そのための最善の対策は、税制の一本化です。政府が全国民を登録した情報に基づいて所得に応じた課税をすることは、今のIT技術でもすでに可能になっています。誰がどこでどれだけの所得をあげたか、つまり所得の移動を正確に補足することも、ますます容易になって行くに違いありません。こうして集積された情報によって、総所得を基礎とする課税をするのが最善の方法です。
 国民皆保険であるならば、保険料も税金と区別する必要はありません。国税と地方税も同様で、地方ごとの格差の是正などは、集めた税金の使い方で対処すればよいのです。つまり所得税は一種類に集約した方が、明快で公平になります。そして所得税には、かなり強い累進性があってよいと思います。経済活動が盛んであればあるほど、経済的な強者と弱者が生まれることは避けられません。高額所得者に対する高率の課税は、経済的格差を緩和するために必要なことです。その累進の程度は、成長と安定のどちらをめざすかによって、政治的に判断すればよいのです。
 相続税は、世代を通算した所得税の一種と見ることができます。ここにも累進性を適用して、二回相続したらほぼゼロになる程度でいいのではないでしょうか。先祖の恩恵を受けるのは孫の代までで、その後は平等になるのが健全な社会というものです。
 所得税と並んで重要なのが間接税です。一律の消費税は、所得の低い人ほど支出の中の負担率が重くなるという逆累進性が問題ですが、適切な物品税と組み合わせれば、富裕層からの納税を増やすことができます。納税者の感じる苦痛が少なく、確実に納付される間接税は、将来の税制の主役になるかもしれません。所得税は一定水準以上の高額所得者だけに適用して、大半の国民は無税で済むような税制も、決して夢ではないのです。


アフガニスタンの援助と空爆と

アフガニスタンの復興と自立を助けるために、献身的に働いてきた日本の青年が、武装勢力に誘拐されて殺されたと、大きく報道されました。類いまれな勇気と能力をそなえた人材が、異国の地で理不尽な死を迎えてしまいました。憎むべき犯行グループの所業です。
 同じ新聞には、目立たない小さな海外記事ですが、アフガニスタンでこの21、22の2日間に、政府軍・多国籍軍の空爆により、子供・女性を含む80名の一般市民が死亡したと伝えていました。人の生命が等しく尊いとすると、このニュースの大きさの違いは何でしょうか。
 タリバンは、今は「地上から根絶しなければならないテロ集団」と見なされているようです。だからそのための戦争で民間人が巻き込まれるのは、止むをえないというのでしょうか。それほどの極悪人集団は、なぜ発生して、しかも根絶が難しいのでしょうか。
 かつてベトナムでは、北に呼応する勢力は「ベトコン」と呼ばれて根絶の対象とされました。しかし結局は根絶は不可能で、今は同じ人たちがベトナム国家を形成しています。アフガニスタンでも、アメリカ軍がタリバン政権に対する攻撃を開始する直前に放送されたテレビ番組で、タリバン政権の中にも、欧米諸国と協調しようとする穏健派の幹部がいたこと、それが国際緊張の高まりとともに失脚した事情を放送していました。アメリカ主導の「テロとの戦い」で、有無を言わせず戦争に突入してしまったところに、最初の誤りがあったように思えてなりません。
 今はアフガニスタンは、イラクよりも危険になったと言われます。バキスタンとの国境地帯に分布するタリバンは、勢力を回復しつつあるようです。アメリカの後を引き継いだNATO軍の犠牲者も、増加の傾向にあります。
 南ベトナムから来た難民の人に、「アメリカが来るまでの内戦は、知り合い同士の馴れ合いゲームみたいだったが、アメリカが来てから本気の戦争になってしまった」と聞いたことがあります。援助をしてくれる人がいる一方で、犠牲者を出すような空爆も続行されるのでは、現地の人たちの外国人に対する感情も、深刻に分裂する一方でしょう。何としても戦争を止めて、国内の和平ルールを作るのが先決です。日本は後方支援であっても、戦争に参加してはなりません。


人間の幸せに奉仕する経済活動(通算57)

土地と資源への課税をどう進めるか

 土地は人が作ったものではなく、自然が人に与えてくれたものですから、いずれは私有を止めなくてはなりません。土地改革の第一歩は、土地基本法で「土地は人類共同の財産である」ことを確認した上で、当面は土地の「所有権」を「占有権」に読み替えることです。「借地権」は土地の「使用権」に読み替えますが、かつての農地改革で不在地主を排除したように、なるべく早く「使用権」だけの取引は廃止して、「占有権」に統合すべきでしょう。そして土地を占有し使用する個人または企業が、面積に応じた占有税を政府に納めればよいのです。
 利用価値のある土地の占有権に財産価値があるのは当然ですから、今の所有権と同じように、原則として自由に売買することも認めてよいでしょう。ただし利用もされずに長年放置されているような土地は、一定の課税によって税を取られるだけの負の財産になるので、公有化が促進される筈です。また利用価値の高い土地についても、政府が占有税率を自主的に決める権限を持てば、地価に相当する「占有権価格」の制御や、私有と公有との適切な使い分けも可能になるでしょう。こうして財源としての土地占有権を認めながらも、大局としては土地の公有化を進めた方が、土地を適切に利用する上で、人類の未来のために好ましいように思います。公有化が完了したら、国民は必要に応じて政府から借りている土地の、使用料だけを払えばよいのです。
 地下資源も、人が作ったものではないのですから、勝手に掘り出して使えばよいというものではない筈です。とくに石油資源は、その利用価値が非常に高いだけに、二十一世紀のうちに使い尽くすようなことは慎まねばなりません。本当は国境に左右されない人類の共同財産として管理されるべきですが、当面は産出国の権利を制限するのは非常に難しいでしょう。せめて国際石油税を設定して、その財源で代替エネルギーの開発を急がなければなりません。そのような協定がすぐにはできなくても、現在の各国にも、それぞれに対策があるべきです。
 石油が単純に値上がりするだけでも代替エネルギー開発の追い風になるのですから、先進国は率先して石油の消費に対する課税を、経済を破綻させない限界にまで高める必要があります。先進国が石油消費を抑制して石油増産への圧力を減らすことは、途上国の経済発展を助けることにもなり、それが世界全体としての石油温存に貢献する筈です。金の力に頼る獲得競争で価格の高騰を招き、無理な増産で枯渇を早めるような愚かなことは、決してすべきではありません。石油は、過去の太陽エネルギーと生命活動が凝縮した産物であり、燃料として燃やしてしまうには惜しい資源なのですから。


高知白バイ事件の暗雲

先日の「司法の独立はどこへ」の記事に関連して、高知県に「白バイ事故冤罪事件」なるものがあることを知りました。ネット検索の「高知県 白バイ事故」で関連記事はすぐに発見できると思いますが、全国的な話題にならないうちに、権力犯罪型の怪事件があったようです。最高裁の控訴棄却により、司法手続きは終ってしまっているのですが、見過ごすことはできません。
 事件の概要は、中学生と教師を乗せたスクールバスに白バイが衝突して警官が殉職し、バスの運転者は道交法違反で免許取消し、禁固1年4個月の実刑判決を受けた、というものです。ところが乗っていた生徒たちや教師、バスの後方で別な車を運転していた校長、事件の直前に白バイに追い越された車の運転者など、民間人の目撃者の証言は一致して「交差点で止まっていたバスに白バイが高速で衝突した」ことを示唆しているのに、警察の調書は、たまたま反対車線を通過した別な白バイ警官の証言などを根拠に、バスは無理に飛び出して急ブレーキをかけたというシナリオで書かれ、不自然な「ブレーキ痕の証拠写真」なるものが、後から出されたというのです。
 さらに、事故責任の割合について、警察からバス運転者に「バス側100%にしたい」との打診があり、運転者は殉職警官の処遇に協力するつもりの善意で同意したという、気になる経緯もあったということです。裁判は運転者が予想もしなかったシナリオで進められ、途中から協力することになった弁護側の証拠・証人は、ほとんど採用されずに上記の判決が出されました。問題なのは、控訴した高裁が事実調べを不要として一切行わずに1日で控訴棄却の判決を出し、最高裁もまた、それを踏襲したことです。多数の証言者は、証言台に立つ機会を与えられないまま終りました。
 私は裁判の中身に深くかかわる立場ではありませんが、警察の捜査は、なるべく多くの目撃者からの情報を聞き込んで、真実に迫るのが基本の筈です。警察官の死亡事故であっても、公正に捜査しなければならないのは当然です。裁判所もまた、積み残された多数の証言があることを知りながら門前払いを繰り返すのでは、法の番人としての役割の放棄です。法と治安に対する国民の信頼を失えば、官の権威を守るどころか、その正反対の結果を招くでしょう。

人間の幸せに奉仕する経済活動(通算56)

経済政策に役立つ物品税

 私が子供の頃、トランプカードや花札はかなり高価なものでした。遊興用のゲーム用品として高率の物品税がかかっていたからです。カードの箱には納税済みの証紙が貼ってあり、トランプカードを手にするときは、別世界に遊ぶような高揚感がありました。手もとのカード一枚で天国と地獄のような運命を経験できるのですから、カードが大人の管理する高級品であることは当然と思っていました。しかし今ではトランプカードはずっと安価なものになりました。紙に記号を印刷するだけですから、もともと高価な製品ではなかった筈です。それが課税によって国の財政に寄与する一方で、その特殊な使用価値により、今より以上に魅力的な商品でありつづけたのでした。
 近代以前にも、たとえば塩は伝統的に物品税の対象でした。英語のサラリーの語源が塩から来ていることは有名ですが、生活必需品の塩は、重要な収入源として為政者により管理されてきたのです。日本でも塩は一九九七まで専売品でしたが、管理する意味がなくなって自由販売になりました。私はスーパーの店頭で、塩の価格の安さに驚いたことがありますが、明治時代には塩は政府の大事な財源だったのです。
 日本の物品税は一九八九年の消費税導入と同時に廃止されてしまいました。それ以後、たばこ、酒、ガソリンなど、ごく限られたもの以外は、すべて一律の一般消費税の対象になりました。これは国の健全な経営のためには、残念なことだったと私は思っています。
人はいろいろなものを買いますが、生活上どうしても必要なものと、余裕のある贅沢で買うものと、個人的な欲求で手に入れたいものと、動機には明らかな差があります。日常生活のための食料品などへの課税は最低限であるべきですが、豊かさを誇示するための贅沢品や、遊戯用品などには、もっと高い税負担を求めていいでしょう。
 物品税は徴収の手続きが複雑というのが廃止の理由の一つでしたが、IT化や電子タグの技術が進んだ現在、密造や脱税を防ぐ方法はむしろ容易になっている筈です。問題は、何にどれだけの課税をするかを機動的に決めて実行する、業界団体の圧力に屈しない政治的な判断力です。物品税を上手に使いこなせば、財政に寄与するばかりでなく、好ましくない商品の普及を抑制するなど、社会の健全化にも役立つでしょう。
 品物に対する税だけではありません。たとえば交通機関の料金について、鉄道と比較して大量の燃料を消費し空気を汚染する航空料金が、鉄道料金よりも安くなるような状況は好ましいものではありません。代替の交通手段がある場合には、航空から鉄道へと利用者を誘導するような税制があってしかるべきです。それは航空輸送の必要性を否定するものではありません、社会にとって好ましい分担を進めるということです。

ブログ連歌(40)

779 さびしくも 精霊流し うつくしき(花てぼ)
780  御霊(みたま)は帰る 我はいずこへ(建世)
781 萩の花 枝垂れる墓の 土となれ(みどり)
782  早くも秋の 虫の声する(建世)
783 そろそろだ 気合いを入れて 草むしり(うたのすけ)
784  名も知らぬまま 抜いて捨てたり(建世)
785 闇雲に むしる背後の 呆れ顔(うたのすけ)
786  一汗かいて 飲むぞ一杯(建世)
787 酒の酔い 借りて告げたる 月の夜(みどり)
788  お酒臭いと 軽くいなされ(うたのすけ)
789 その先の 長い話を ちちろ鳴く(建世)
790  秋の夜長の 懺悔ばなしに(うたのすけ)
791 身の哀れ 語る遊女に 虫も鳴き(みどり)
792  阿呆な男が まともに受けて(うたのすけ)
793 昔から 男女の道の 名人戦(建世)
794  阿呆な倅に 泣く親あわれ(うたのすけ)
795 恋に似て あきらめられぬ 親心(建世)
796  落語であれば 叔父さん出番(うたのすけ)
797 手にあまる メール飛び交う 新世代(建世)
798  私はザ・ラスト ノ−・ケ−タイスト(花てぼ)
799 親子メール 圏外にいる 祖父母たち(建世)
799B コンクール 手紙で競う はるかの日(みどり)
800  それより問題 迷惑メール(うたのすけ)



人間の幸せに奉仕する経済活動(通算55)

経済は収支が合えばよい

 この辺でまた私の具体的な経験から話を続けましょう。会社を経営していて人を雇うというのは、ずいぶん負担の重いものです。毎月の給与と年に二回の賞与の他に、社員の社会保険料を社員と折半、つまり社員が払うのと同じ額を負担しなければなりません。面倒な計算や各種の届け出もすべて会社の責任です。これでは人を雇うことに高率の税金をかけているのと同じことです。その一方でパート社員は相場の時間給さえ払えば自由に雇うことができ、保険に関する負担も面倒もありません。なるべく社員を減らしてパートを増やしたくなるのは当然です。結果として失業率は慢性的に高くなり、就業者の中でも安定雇用についている人の割合が低下してしまいます。これでは幸せに暮らせる人を増やす経済政策ではなくて、その反対です。
 これを逆転するには、社会保険はすべて個人対公的機関の契約として、企業は無関係とすべきです。個人は勤め先に左右されず生涯にわたって被保険者であり続ける、それでこそ本当の社会保険です。IT化が進んでいる現在、そのような事務管理が不可能な筈がありません。また、パート社員の時間給は、同じ程度の仕事をしている社員の年収から算出される時間給を下回ってはならないことに法定すべきです。必要に応じて雇い入れる応援の人件費は、社員よりも割高になって当然です。これが実行されたとき、はじめてすべての人が本当に自由に、多様な勤務形態の中から、自分に最適の働き方を選ぶことができるのです。それが社会の豊かな多様化ということです。
 この経済政策を実行すると、企業の社会保険負担が軽くなる分の公的収入が減ります。新しい財源をどこに求めるか、そこに社会の将来の方向を決める重要な選択を示さなければなりません。世界連邦憲法草案に「土地、水、空気、エネルギーは人類共同の財産である」と定められていたことを思い出してください。企業活動で、個人が使う以上の土地、水、空気、エネルギーを使用する企業からは、一定率の税金を徴収すべきです。つまりこれは、人が働くことについての負担を軽減し、資源を消費することに対する課税を強化するという方向への、経済政策の根本的な変更です。
 会社の貸借対照表もそうですが、経済は収入と支出のバランスがとれてさえいればよいのです。社会を維持するために一定の経費がかかることは誰でも知っています。それを賄う財源は、絶えず利益の拡大をはかって発展しようとする経済活動から得なければなりません。そのときに、多くの人間を幸せに生活させることを優先して、地球上の資源を浪費せず、長く安定した自然環境を維持する方向へと経済活動を誘導することは、強力で機動的な税制を活用することで、十分に可能であると私は思います。


人間の幸せに奉仕する経済活動(通算54)

金銭欲が欲望の頂点に立った

 人間が欲望の動物であることは誰でも知っています。食欲、性欲から始まって物欲、独占欲、支配欲、名誉欲に至るまで、私たちはさまざまな欲望に動かされて生きています。欲望は人間の生きる力の源泉でもあります。そして金銭という何にでも交換できる、この上なく便利な道具が発明されたとき、金銭に対する欲望は人間の欲望の頂点に立つことになりました。人間の持つさまざまな欲望のほとんどすべてが、金銭で満たされることがわかったからです。
 こんなわけで、金儲けが人生の目的と思い込む人が大勢現れても、無理はないのです。経済学が「人は常に最大の利益を求めて行動する」と規定したのも間違いではありませんでした。しかし問題があるとすれば、人は常に最大の利益を求める、つまり限りなく欲望に従って行動するということを、あたかも数学における公理のように設定してしまったことです。ここから経済人は限りなく大きな利益を生み出すのが当然であり名誉でもある、少なくとも非難される理由はない、という常識が成立しました。
 一方、どの宗教もどこの社会の道徳も、昔から人間の欲望が根の深いものであることを知った上で、よりよい人間生活と社会を維持するためには、欲望を抑制して世のため人のためを考えることが必要だと説いてきました。その観点からすれば、人間の欲望の頂点に立つ金銭欲つまり資本の集積に対して、宗教からも道徳からも強い批判の声が上がらないのは、不可解な片手落ちと言わざるをえないことになります。
 資本家の成功があまり非難されず、敏腕な経営者が社会の尊敬を集めさえするのは、経済活動の活発化が広い意味で社会の福祉向上に役立つと考えられているからでしょう。現在の日本で、民間にできることは民間に任せるのがよいとする政策が、宗教に近いほどの熱心さで信じられているのも、その一例になりそうです。しかし集積された資本の力は、今や世界の政治さえも動かして、人類が経験したことのない時代を作り出しつつあるように見えます。功成り名をとげた資本家が、慈善事業や文化事業に資金を提供することで利益を社会に還元する、そのような美談で埋め合わせるにしては、現代の資本主義はあまりにも「怖いものなし」になり過ぎてはいないでしょうか。
 読者はすでに感じておられるでしょうが、私の立場は資本を人間の制御の下に置き、人間の幸せに役立つように働かせるということです。そのために、時には最大の利益を求めて行動する資本の論理を逆手にとった対策も有効だと思います。前にも述べましたが、現代の資本は金貨でも紙幣でもなく、コンピューターの中の情報に過ぎません。筋道さえ立てれば、人間がそんなものを怖がる必要はないのです。


司法の独立はどこへ

杉浦ひとみさんに教えていただいて、今朝の「サンデープロジェクト・言論は大丈夫かシリーズ」の「国のウソ、回避する司法」を見ました。沖縄返還交渉の過程で、日本政府とアメリカとの間で交わされた密約について、これを暴露した新聞記者が起訴・有罪とされた「西山記者事件」をとりあげて、明白な証拠・証言があるにもかかわらず、国のウソをかばいつづける最高裁判所の姿勢を批判していました。
 沖縄返還を実現するために、当時の日本がアメリカに対して、さまざまな代償を支払ったであろうことは想像に難くありません。西山記者が暴露した400万ドルの裏金の他にも、「核抜き・本土並み」を骨抜きにする密約も存在したことは、今では国民の常識になっていると言っていいでしょう。アメリカの公文書が次々に公開される時期を迎えて明らかになる歴史的事実に対しては、「当時の政府としては止むをえなかった」と陳謝する程度の誠実さは、日本の政治家にも欲しいものです。しかし安倍内閣でも福田内閣でも、政府は「密約は一切ございません」の建前を変えません。そして最高裁判所は、西山記者の名誉回復の訴えに対しても、証人を呼ぶこともなく、時間の経過を理由として判断を避けてしまったのです。
 この他にも、最近の反戦ビラ配り有罪事件など、最高裁判所の判断には、行政の追認や判断回避の姿勢が目立ちます(その最たるものが憲法9条ですが)。最高裁の判断は、当然ながら下級裁判所の判断に影響を与えるでしょう。それでは法で守られるべき国民の知る権利、批判する権利は萎縮させられてしまいます。裁判所までが事なかれ主義に陥るのでは、司法の独立を掲げている意味がありません。
 最高裁判所の長官は天皇から任命される、最高裁の裁判官は国民審査を受けるなど、形式的な制限はありますが、事実上の任命権は内閣にあります。裁判所が三権分立の理念を忘れて政府の下請け機関に堕落するようだったら、国民の批判を受けるのは、むしろ健全なことです。最高裁判所の判断といえども、批判すべきでない聖域ということはありません。憲法に定めた国民主権の大原則は、最高裁判所も否定できない筈です。

人間の幸せに奉仕する経済活動(通算53)

貨幣は人間の家僕である

 貨幣は、人間の生産活動を円滑にするために作られたものである、というのが私の思考の出発点です。人間は自然の中から有用なものを取り出すことで生きており、その行為が労働であり生産です。その生産活動は貨幣という交換システムを利用することで、はじめて組織的に発達することができました。いつでも交換が円滑にできるなら、集中した生産や「作りだめ」も可能になります。こうして生産物は商品となり、世界を流通するようになりました。やがて流通そのものが仕事になり、生産と加工よりも流通以降の第三次産業の方が経済活動として大きな部分を占めるようになりました。非常に大雑把ですが、これが経済の歴史のすべてです。
 中世から近代へ、暮らしが高度化するにしたがって貨幣は人間にとって大切なものになってきました。素朴な物々交換の名残を残していた辺境までが貨幣経済に組み込まれるに及んで、ついに「万事が金の世の中」が完成したのです。生産技術の向上による産業の発達は、資本の成長と平行して進みました。それと同時に、貨幣の動かし方つまり経済活動が社会にとって重要な要素であることが意識されるようになりました。
 経済学の基礎になる人間観は「人は常に最大の利益を求めて行動する」というものです。この原理により、商品の生産、流通と価格の決定は、かなりよく説明することができます。多くの人が求める商品は高い値段でもよく売れるので、生産を増やそうとする意欲を引き出し、そこで需要と供給のバランスが回復して価格は安定するというように、市場が「神の手」のように最適の調和をもたらすというような、楽観的な理論も登場しました。
 その一方で、経済活動は人間の不平等を顕在化し拡大するという、やっかいな側面も示し始めました。貨幣という共通の指標によって貧富の差は誰の目にも明らかになり、金持ちはますます金持ちになるように、貧乏人は少しでもよい暮らしをするために、持ち金を増やすために努力することになりました。結果としてすべての人が、目の色を変えて金のために働かされる世の中になったのです。
 資本すなわち貨幣が世の中の主人公になって、人間が家僕としてその下で働かされるというのは、どう考えても間違っています。しかしすぐに反論が出そうです。「資本そのものが人間を働かせるのではなくて、資本を動かす人間がいて人を働かせるのだ。だから結局は人間が人を働かせるということに過ぎない」と。それは認めてもかまいません。それでも私は、人間が資本の力を借りて大規模に他の人間を支配する、その構造を問題にしたいのです。資本が、それ自体の力学で止めどなく増殖して人間支配の道具となる、それは結局、資本が人間を支配するのと同じではありませんか。


「ロスジェネ」創刊号を読む

超左翼マガジンと自称する「ロスジェネ」の創刊号(6月発行・かもがわ出版)を、やや遅れて読んでみました。150頁足らずのA5判雑誌なので、軽く読めるだろうと思ってとりかかったら、意外にゴツイ内容で、昨日はついにブログに書けませんでした。
 巻頭の「ロスジェネ宣言」は、次のように始まります。「『ロストジェネレーション』という名の妖怪が、日本中を歩き回っている。就職超氷河期(1990年代という「失われた10年」)に社会へと送り出された20代後半から30代半ばの私たちは、いまだ名づけられ得ぬ存在として日々働き暮らし死んでいきつつある……、その数 20,000,000人。……」言わずと知れた「共産党宣言」のパロディーです。
 創刊号の特集テーマは「右と左は手を結べるか」。執筆者は、ほとんど私が今まで知らなかった人ばかりでした。巻頭の対談に、「31歳フリーター、希望は、戦争。」と断言して話題になった赤木智弘が登場します。この人の名も、初めて覚えました。雨宮処凛は「生きづらさが超えさせる『左右』の垣根」を書いています。その中にあった「グローバリゼーションを押し進める新自由主義(ネオリベ)のもと、世界中の人々が不安定さを強いられる状況に対しての対抗運動だ。……ネオリベという言葉で、今まで点と点とで存在していたものが、見事に線として繋がった。」という部分が、非常に印象的でした。戦うべき共通の敵が、正面に見えたということです。
 その他、筋金入りのブロガーや音楽家や画家や市民運動家や、目まぐるしいほど多彩な人たちからの寄稿が並んでいます。書かれている内容を追うのに疲労しながらも少し安心したのは、それらが私にも理解可能な日本語で書かれていたことでした。やや左翼的で良心的のつもりでいた私の立場などは、さしあたり「サヨク」とカタカナで表示される部類に入るのだろうと、見当がつきました。
 一晩たっても、この雑誌を総括する評論などは書けません。ただ、本来ならば社会の中核となるべき働き盛りの世代の中に、行き場のないマグマが圧力を高めていることは感じられます。私はいま、日本政府から厚生年金を受給していることを、恥じなければならないのかもしれません。
 とりあえず、私が今、この失われた10年世代に言いたいのは、次の総選挙では、必ず投票に行ってくれということです。そして、間違っても政権与党には投票しないことです。
(追記・新自由主義、ネオリベラリズム=ネオリベを、誤ってネオベリと書いていました。)

戦争と犯罪は人類を滅ぼすか(通算52)

人類最大の敵は人間の中に

 有名なユネスコ(国連教育科学文化機関)憲章は、その冒頭で「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」と述べています。そして戦争は「人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義を広めることによって可能にされた」と続けています。まさにその通りだと思います。
 この原則は戦争ばかりでなく、人間の個人間の争いや犯罪にも十分に適用できるものです。しかしこの章の最後に、少し違った視点からも人間を脅かす要因を考えておきたいと思います。たとえば交通事故をはじめとする人の過失で発生する災害は、犯罪の一種ではあっても、人の心に生まれる悪意が原因とは言えません。現代の社会システムが求める制御能力に対して、人間が時として適応し損なうことから生まれる、新しいタイプの災害です。こうしたミスマッチに対しては科学技術を駆使した対策がとられるでしょうが、人間の不完全さを克服することは、おそらく永久に不可能でしょう。
 犯罪に対しては、社会のIT化が歯止めになる可能性があります。指紋よりも正確で簡便な個人識別技術と、公的機関による個人情報の蓄積が進めば、匿名性を武器とする犯罪者の行動の自由は、かなり有効に制限できるようになるでしょう。個人情報を把握されることに対して抵抗を感じる人も少なくないでしょうが、要は社会の安全と個人の自由とのかねあいの問題です。さらに自由とは、必ず匿名性を必要とするものでしょうか。自らを明らかにした上で自由に行動できる社会の方が、より高度に自由であるように私は感じます。犯罪者になる自由も個人の基本的人権に含まれるのか、そのあたりの基準は、その時々の社会の安全性によって変動するでしょう。
 それよりも将来大きな問題になりそうなのは、法律に触れる以前の、社会全般にわたるモラルの低下です。節操のない資本主義は、提供する商品と情報を通して、絶えず人々を努力せず、深く考えず、便利で手軽で快適な生活へと誘導しています。現代の若者は、過剰に提供される選択肢の前で自分を見失い、どれを選んでも満足せずに落ち着かず、果ては思考停止に陥ったりしています。社会のIT化は孤立した個人を増やすとともに、ちょっとした目新しさに付和雷同する大衆をも作り出しているようです。
 二十世紀における教育の普及が人類を活性化して、現在の高度に発達した文明社会を築き上げました。二十一世紀以降のIT化が、人間の新しい「無知と偏見と不平等」を生み出すようなことがあってはなりません。人間は人間である限り、自らの欠点を克服するために、永遠に戦いつづけなければならないのです。


戦争と犯罪は人類を滅ぼすか(通算51)

危険なエリート白人集団の反乱

 名称はどうであれ世界統合組織が設立された後の世界を考えると、設立後の比較的短期間のうちに、有色人種の人口が圧倒的多数を占めるようになることは確実です。そして現在の人口増加率から推測しても、有色人種の優位は相当長期にわたって継続することが予想されます。人口の圧倒的優位は、どのような調整方法を用いようとも、政治的な力関係に反映せずにはいないでしょう。それまでに人種間の通婚が進んで、人々の人種に対する意識が薄まることはあるでしょうが、皮膚の色へのこだわりが簡単に消え去るとは思えません。とくに長期にわたり歴史の主人公を自任してきたアメリカ・ヨーロッパの白人社会は、人種または民族の誇りと無縁でいられるでしょうか。
 世界組織が成り立った後に起こりうるもっとも危険な反乱は、白人エリート集団によって引き起こされるのではないかと私は思います。有色人種優位の世界のありように不満を抱く白人集団が、民主的な手続きでは主張が容れられないと絶望したとき、暴力に訴えてでも政権を奪取したいと思ったらどうなるでしょう。彼らには知能すぐれた人材が多くあり、政府や軍部の要所につながる人脈もあります。各種の有力な企業を支配下に置き、最先端の科学技術を自分のものにしています。秘密を守る、あるいは反対を封じる情報操作にも長じています。必要とあれば、核兵器を持ち出すことも不可能ではないかもしれません。こういう人たちが決起したら、クーデターが成功する確率は高くなります。
 私が世界連邦を構想したときに、繰り返しアメリカを主役にすることを説いたのはこのためです。白人の反乱という最悪のシナリオが展開した場合にだけ、世界には核戦争と大分裂の悪夢が再来するのです。
 白人がそこまで追いつめられる状況をつくり出すかもしれない要因の中でも最大のものは、白人に対するイスラム教徒の反感です。世界組織の中で現在の先進国が少数派になったとき、積年の恨みが旧先進国に対する不公正な圧迫になっては困るのです。そのためにも、イスラエルとアラブ・イスラム諸国との共存を急がなければなりません。対立の根本原因が国境問題であることは、はっきりしています。国連が承認した国境線をイスラエルが尊重する姿勢を示すことが、話し合いの出発点になるでしょう。パレスチナにどんな政府が出来ようと、まともな話し合いができないままでは、世界にとって中東は最後で最大の病巣として残ってしまいます。
 中東問題はユダヤとイスラムの宗教対立になっているのは事実ですが、その本質は領土問題であり、宗教が問題を一段と深刻にしているのです。ユダヤもイスラムも、元をただせば同一の神を戴く兄弟の関係にあります。領土問題の解決は、確実に宗教の対立を緩和するでしょう。


夏が終る

夏が終ります。東の空に、入道雲が出ていました。暮れるのが早くなった西日に照らされていましたが、そろそろ見納めかもしれません。
 オリンピックのテレビも、少し飽きてきました。野球の中継は、やっている人には悪いのですが、国内のプロ野球の方が、緊張感があるような気がしました。打球の行方がわからない中継技術の問題もあるのでしょうが、次回からオリンピック種目から外れるのは、順当のように思います。
 表彰式では、種目ごとにメダル授与式があり、国旗が掲揚されて国歌が演奏されます。古代のオリンピツクでは、名誉は個人のもので、オリーブの冠を与えられて神殿に列席を許されたそうですが、現代のオリンピックは、はっきりと国別の対抗戦で、平和な代理戦争をやっているように見えます。血を流す戦争よりもよいのはもちろんですが、個人でも集団でも、勝ちたい、一番になりたいという欲求は強いのでしょう。人間は、よくよく競争の好きな動物なのだなあと、感心してしまいます。
 オリンピツクのおかげで、敗戦の日前後のテレビ番組などが、例年よりもずっと少なくなってしまいました。オリンピック放送を、あまり楽しめない気分だったのは、何か忘れ物をしているような感覚が続いていたからかもしれません。なぜ今回に限って暑い盛りを会期にしたのか、そんな疑問を残しながらも、もうすぐオリンピツクは終ります。東京にまたオリンピツクを招致したい人たちもいるようですが、他に開催したい国があるのなら、そちらで引き受けてもらいたいものだと、私は思っています。
 夏が終ると、秋と冬は足早にやってきます。夏は一年の中間ではなくて、もう3分の2は過ぎてしまったのです。後期高齢者になったことだし、時間はこれから、さらに早く過ぎて行くでしょう。やりたいことは出来たのか。これからどこまでやったら、自分でもいいと思えるのか。ゆったりと、時の過ぎるのを楽しむような日々は、来るのでしょうか。



戦争と犯罪は人類を滅ぼすか(通算50)

犯罪を病気として扱った国

 一九世イギリスの風刺作家、サムエル・バトラーが書いた「エレホン(Erewhon)」という空想小説があります。題名はNowhere(どこにもない)を逆に綴ったもの(ただしwhは一音扱いでそのまま)です。これは機械の発達を一定のところで止めた、一種の理想郷を描いた作品ですが、この国では病気が犯罪として取り締まりの対象になり、犯罪が病気として手厚く看護されるという記述が出てきます。病気が犯罪扱いされるというのは、隠すことでますます悪くなるということはありますが、荒唐無稽な設定というのに近く、著者の主眼が、犯罪が取り締まられ社会から隠蔽されることでさらに深まり再生産される現実を風刺することにあるのは明らかです。
 とにかくエレホン国では、犯罪が起こると犯人は患者として丁重な診察を受けます。親族や知人はこぞって同情し、お見舞いを持参して犯人を慰め、早く直るようにと勇気づけます。さまざまな治療の甲斐があって社会に復帰しても大丈夫となると、人々は盛大に退院を祝い、心から歓迎して、以後の生活に不安がないように協力を惜しみません。
 このような犯罪への対処が行われたら、現代でも、犯罪の発生率とくに再犯や累犯の率は大幅に減らすことができることでしょう。犯罪の原因を犯人の立場で綿密に研究した上で対策を考えれば、もっとも適切な防犯も可能な筈です。犯罪の誘因は、社会のどこかに歪みとして蓄積していることが明らかになるでしょう。さらに犯罪者を二度と同じ誤りに陥らせないように、周囲の人たちがよく事情を知った上で、温かく見守ることが欠かせません。性犯罪などでも恥じることなく、本人も周囲も弱点をよく知った上で誘惑を遠ざけながら生活させれば、社会全体はずっと安全になるでしょう。
 こうした対策は、個人による一般犯罪だけでなく、確信犯によるテロ犯罪についても、さらには戦争についても、同じように有効と言えそうです。犯罪者の出現は、その社会が抱えている欠陥や矛盾に対する警鐘なのかもしれません。社会全体を一個の人体と考えるなら、犯罪の発生は体のどこかに病巣があることを知らせる発熱です。早期の対症療法はもちろん必要ですが、発熱が何に由来するかを突き止め、大病にならないうちに治療することは、それ以上に重要です。
 ここまで考えると、世界全体が繰り返してきた戦争や紛争も、人類の病気だったのではないかと思えてきます。不平等、貧困、搾取、抑圧など、病気の原因とそれが発する不快な症状は、二千年の歴史を重ねても解消せず、あまりにもはっきりと私たちの目に見えています。人類は医療を発達させて多くの病気を制圧することに成功しました。人類全体の病巣にメスを入れて健康体にすることが、できない筈がありません。


産科医無罪判決に思う

福島地裁は、大野病院事件で逮捕・起訴された産科医に対して、無罪を言い渡しました。あれで有罪になるのなら産科をやめると宣言していた医師も少なくありませんでしたが、最悪の混乱は避けられたようです。昨夜は、この件で娘を亡くした父親が、テレビのインタビューを受けていました。「どうして娘が死ななければならなかったのか、今でも納得できない。このようなことが二度と起こらないようにして欲しい」と語っていました。
 遺族の感情というのは、そのようなものだろうと思います。しかしすべての産婦が今後は理想的な環境で最高水準の医療を受けられるようになるというのは、無理なことです。予定外の早産になることもあるでしょうし、日本のどこにいても、24時間いつでも、名医のいる施設に運ばれるとは限りません。次善三善の策に頼らなければならない場合もあることでしょう。危ないことは引き受けないと断られたら、悲惨な事例は逆に増えてしまうことになります。
 人は不死身ではないし、医師は神様ではありません。人間にできることは、知恵を尽くして少しでも安全な医療になるように努力することだけです。今回の遺族も、医師を告発したのではありませんでした。ただ「本当のことを知りたい」と言いつづけただけです。一年以上もたってから医師の逮捕・起訴に踏み込んだ警察・検察の行動は、乱暴ではなかったかと私は思います。調査と対策は、裁判所よりも、医療の場で行われるべきでした。
 今日のニュースですから、まだ新聞記事にもなっていませんが、検察側は控訴しないで、この判決を確定してほしいと思います。それは医療事故の解明を不問にするというのではなく、悔いを残すことの少ない医療のためには、被告としての弁明ではなくて、医師の積極的な協力や提案が絶対に必要だと思うからです。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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