志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2009年03月

「政権交代論」を読んで

 「政権交代論」(山口二郎・岩波新書)を読み終ったところですが、まだ整理がついていません。ただ、日本の政治が「史上初めてと言えるほど面白いところへ来ている」ことは読み取れました。国民が、役に立つ政治を手に入れられるかどうかの正念場です。
 最後の章に、賢い有権者になれるかどうかの心得が出てきました。現代の政治戦略にはポピュリズムがありますから、わかりやすいスローガン的な政策が、大量消費の「お手ごろ商品」のように大量に流されます。それに乗せられると、本筋から外れた偽物に誘導されてしまうことがあります。郵政選挙の「小泉劇場」がその典型でした。あの選挙で、勝つべきでない政権を勝たせてしまたことが、今の苦境の大きな部分を招きました。
 多くの市民の多様な発言や運動があって、初めて国民のための政治を選択することができます。安価な大量生産の商品が市場にあふれる時代だからこそ、心のこもった手作りの商品が市場で居場所を確保できます。そのように、メディアの世界でも手づくりの多様性が大切なのではないかと思い当りました。
 ブログを知る以前の私は、選挙での投票で、自分の家族を説得する努力さえ、ろくにしませんでした。自分の意見を自由に書けるブログという場を得たことで、少なくとも私は「物言わぬ孤立した一人」よりも大きくなれたように感じています。少し風向きの怪しくなってきている気配はありますが、今の日本では、政権を批判しても、それだけでは逮捕も監禁もされなくなりました。この自由を、大切にしたいと思います。
 本当は、政治など忘れて暮らしていられるのがいいのです。でも、今年の9月まではだめです。「任せておいても安心な政治」が動き出すのを確かめるまでは。

少年期の戦中と戦後(29)

第四章 昭和二十年という年

運命の昭和二十年

 昭和二十年(1945)は「戦前・戦中」が「終戦」によって「戦後」へと転回する激動の年である。ここで確認しておくと、昭和十九年の末までは、まだ「戦前」の生活が色濃く残っていた。学校の友だちは三分の一に減ってはいたが、まだ多くの顔なじみが日記にも登場して、遊びに来たり自転車で走り回ったりしている。物価もそれほど変動はなく、配給で買える公定価格のものは、据え置かれた値段のままだった。ただし子供が金銭を使う機会は、めっきり少なくなっていた。開いている店が少なくなって、買えるものが限られたからだ。どこかの店に「蝋紙」と呼ばれる小さな紙の束が出たことがあった。たぶんキャラメルの粒を包む紙が、使い道がなくて工場から流れたのだろう。これをみんなが買いに行ったからブームになって、小さな舟などを折って水に浮かべて遊んだ。手に入る材料によって、流行が支配されたことになる。廃物が思わぬ価値を生む時代でもあったわけだ。
 当時は何でも「古いものほど良いもの」であるのが常識だった。牛皮のランドセルや靴を始めとして鉛筆や消しゴムに至るまで、上の兄弟からの「お下がり」であっても、「俺の方が古いんだぞ」が自慢の種になった。私のドイツ製の万年筆などは、折り紙つきの宝物として尊敬の対象になった。新しいものは、ランドセルなら破れやすい豚皮であり、ボール紙製もあった。鉛筆は塗装のない白木のままで、BもHもなく、芯はちょっと削ればすぐに折れた。
 空襲の跡は、まだ目立つほどではなかった。駒込駅の近くに爆弾が落ちたというので家族で見に行ったところ、深さ五メートル、直径十メートルほどの穴があいていて、二階家が一軒、半分以上吹き飛んでいた。二百五十キロ爆弾だということだった。直撃されたら仕方がないのだと納得した。穴の地肌がきれいな「すり鉢」状になっていたのが印象に残っている。
 焼夷弾による焼け跡は、まだ近所にはなかった。兄や姉、それに隣組では話としていろいろ聞いたが、実際の体験者と会ったことはなかった。町全体が「面」として焼き尽くされるような空襲は、まだ想像の外だった。
 船員になった若い叔父がいて、久しぶりに上陸で訪ねてきたことがある。いきなりの会話が「東京は空襲で大変だと聞いていたけど、どこも何ともないじゃないか」だったので、こちらの方が驚いた。省線も都電もちゃんと動いていたし、都市としての機能には何の変りもなかった。多少の空襲があっても大丈夫だと、叔父の心配し過ぎを笑った。叔父は南方の戦場をくぐり抜けてきた人だったのだから、もっとちゃんと話を聞いておくべきだった。林五郎というその叔父は、その後、阿波丸に乗っていたとき、アメリカ潜水艦の攻撃を受けて殉職した。
 これが敗戦のわずか八ヶ月前の東京だった。これから起こる大変化は、やはり人間の歴史に残るものだろうと思う。私も日記帳をしっかり読み直して、一日ごとを確かめることにしよう。

少年期の戦中と戦後(28)

焼夷弾の実体

 日記によると、焼夷弾による夜間の空襲は十一月三十日が最初になっていて、二十機内外としているから、テスト的な攻撃だったのかもしれない。それでも南の空が真っ赤になったと書いてある。落とされた焼夷弾は、それまで訓練に使っていたものとはだいぶ違っていて、その対策は急を要したのだろう、すぐに解説の記事が新聞にも出た。特徴は、小型の焼夷弾が多数まとまって落下することだった。従来は「焼夷弾落下!」と声をあげて、近所が協力して防火用水のバケツリレーを集中することになっていたのだが、どの家にも同時に複数が落ちるのでは間に合わない。対策は「それほど威力はないから初期消火が大切」ということだけだった。
 アメリカ軍は日本の木造家屋を焼くために最適の焼夷弾を開発していた。M69という集束弾で、ネットの情報では三八本が一単位ということだが、私の日記では十ポンドの弾が二八発となっている。後にはありふれて私もよく手にしたが、単体は鉄板を六角形の筒型にして油脂剤を詰め、上下に蓋をはめた簡単な構造だった。直径は十センチ、長さは六十センチぐらいで、下部の横に小さな信管が突起していて、上部には長い布製の尾がついていた。これを二段に束ねておいて、空中の爆発でバラして地上に向かわせる。このとき布の尾に火がつくので、夜間には、無数の火の粉が降り注ぐように見えるのだった。それと同時に「ザーッ」という激しい夕立のような音がした。
 焼夷弾の油脂を、姉が友だちから手に入れて持ってきたことがあって、隣組を集めて実験した。強い臭いの黒煙をあげてよく燃えた。グリースにガソリンを混ぜたようだと誰かが言っていた。燃料として強力だから、不発弾を分解すると重宝するという話も聞いた。要するに燃えやすい油脂が飛散するだけの武器だという結論になったのだが、自分の家に落ちたらどうなるのか、はっきりしたイメージを持てる者はいなかった。
 十二月十四日には、学校で焼夷弾の公式な実験が行われて、町会からも大勢が参加した。コンクリート校舎の屋上から実物を落としたのだが、なかなか発火せず、何度もやり直しになった。何度目かに、まただめかと近づいた警防団の目の前で、突然に発火した。本体はロケットのように火を吹き、火炎の帯を残しながら走り出して、取り巻いていた見物人の方へ向かった。逃げ遅れた女の人が転んだところに追いついて、モンペに火がついた。一瞬遅れて、用意されていた防火用水をみんなで掛けて消したのだが、その人は気絶してしまったと日記には書いてある。一発でも侮れない武器であることが、はからずも証明されてしまった。
 それにしても、発火と同時に万遍なく油脂に火がつくメカニズムはどうなっていたのだろう。安価に大量生産されたのには違いないが、研究を尽くしたアメリカ軍の高度な技術力で作られた焼夷弾だったのだと思う。

菅直人を推す

 千葉県知事選挙は、森田健作氏の勝利に終った。45%という投票率の低さにも落胆させられるが、民主党が全力で応援した候補は、かなりの差をつけられた。同じ紙面は、民主党への支持率の低下も伝えている。小沢党首は辞任すべしとの世論は65%に達しているとのことだ。これは民主党の危機と言うより他はない。
 菅直人は民主党の代表代行である。代表に事故あるときは代行が代表に昇格するのが当然である。選挙をする必要はないではないか。菅直人が代表として党を率いて、目前に迫っている総選挙に備えるのがいい。
 菅直人は1996年に橋本内閣で厚生大臣を務めた。薬害エイズの問題では、官僚が「廃棄した」と言い張っていた資料を発掘、公表して、大臣は誰がやっても同じではないということを教えてくれた。退任後に書いた「大臣」(岩波新書)という本は、無意味な「サイン会」と化している閣議の実態をさらけ出し、行政機構の中で政治家が果たすべき役割と、改革すべき方向を論じた貴重な資料となっている。
 菅直人はその後民主党の代表に就任するが、手腕を発揮する間もない2004年に、自らが国民年金の保険料に未払いの期間があるとの追及を受け、辞任するに至った。これは大臣就任に伴う手続きの行き違いによるものであり、未納期間は2ヶ月だった。担当の武蔵野社会保険事務所は、誤った説明をしたミスを認めて直後に謝罪したが、すでに手遅れだった。民主党の代表は、その後、岡田、前原と若返ったが、岡田は郵政選挙で大敗し、前原は偽メール問題で失脚した。その後を救ったのが小沢一郎である。
 政治家には、時の運というものがある。市川房枝の市民運動から出発した菅直人に、私は旧世代から新世代への橋渡しの時代を託したいと思う。国民が主役の政治を取り戻すと唱えている民主党には、打ってつけの党首ではないか。そしてそのすぐ近くに、長妻昭はぴったりと寄り添って修業を積んでほしい。
 民主党のこれからは、企業献金との縁をきっぱりと断つのがいい。オバマ流の、国民が支える選挙を実行できる政治家が日本からも育つとしたら、長妻昭はその最初の一人になるだろう。地元にいて彼の選挙を見ているから、私にはそれがわかる。

少年期の戦中と戦後(28)

焼夷弾の実体

 日記によると、焼夷弾による夜間の空襲は十一月三十日が最初になっていて、二十機内外としているから、テスト的な攻撃だったのかもしれない。それでも南の空が真っ赤になったと書いてある。落とされた焼夷弾は、それまで訓練に使っていたものとはだいぶ違っていて、その対策は急を要したのだろう、すぐに解説の記事が新聞にも出た。特徴は、小型の焼夷弾が多数まとまって落下することだった。従来は「焼夷弾落下!」と声をあげて、近所が協力して防火用水のバケツリレーを集中することになっていたのだが、どの家にも同時に複数が落ちるのでは間に合わない。対策は「それほど威力はないから初期消火が大切」ということだけだった。
 アメリカ軍は日本の木造家屋を焼くために最適の焼夷弾を開発していた。M69という集束弾で、ネットの情報では三八本が一単位ということだが、私の日記では十ポンドの弾が二八発となっている。後にはありふれて私もよく手にしたが、単体は鉄板を六角形の筒型にして油脂剤を詰め、上下に蓋をはめた簡単な構造だった。直径は十センチ、長さは六十センチぐらいで、下部の横に小さな信管が突起していて、上部には長い布製の尾がついていた。これを二段に束ねておいて、空中の爆発でバラして地上に向かわせる。このとき布の尾に火がつくので、夜間には、無数の火の粉が降り注ぐように見えるのだった。それと同時に「ザーッ」という激しい夕立のような音がした。
 焼夷弾の油脂を、姉が友だちから手に入れて持ってきたことがあって、隣組を集めて実験した。強い臭いの黒煙をあげてよく燃えた。グリースにガソリンを混ぜたようだと誰かが言っていた。燃料として強力だから、不発弾を分解すると重宝するという話も聞いた。要するに燃えやすい油脂が飛散するだけの武器だという結論になったのだが、自分の家に落ちたらどうなるのか、はっきりしたイメージを持てる者はいなかった。
 十二月十四日には、学校で焼夷弾の公式な実験が行われて、町会からも大勢が参加した。コンクリート校舎の屋上から実物を落としたのだが、なかなか発火せず、何度もやり直しになった。何度目かに、まただめかと近づいた警防団の目の前で、突然に発火した。本体はロケットのように火を吹き、火炎の帯を残しながら走り出して、取り巻いていた見物人の方へ向かった。逃げ遅れた女の人が転んだところに追いついて、モンペに火がついた。一瞬遅れて、用意されていた防火用水をみんなで掛けて消したのだが、その人は気絶してしまったと日記には書いてある。一発でも侮れない武器であることが、はからずも証明されてしまった。
 それにしても、発火と同時に万遍なく油脂に火がつくメカニズムはどうなっていたのだろう。安価に大量生産されたには違いないが、研究を尽くしたアメリカ軍の高度な技術力で作られた焼夷弾だったのだと思う。

政権交代は民主主義の必然

 「政権交代論」(山口二郎・岩波新書)を読み始めました。今の日本にとって、この上ないタイムリーな出版で、今すべてに優先して政権交代が必要である理由が、よくわかります。人間には過ちを正す能力がある。その力を活用して政治を円滑に行うのが民主主義であり、その機能は政権交代によって担保されるということです。
 日本の政治が、長期にわたって非現実的な左翼イデオロギーに毒され、半永久的な保守政治による支配を許してきたのは不幸なことでした。一時は、基本が間違ってさえいなければ、政権交代がなくても政治の改革は可能だという考え方もありました。しかしそれは、やはり誤りでした。
 立法、行政、司法の3権が分立して相互にバランスを取るのが民主主義の原理だと、教科書的には説明されるのですが、議院内閣制の下で多数を占める政権与党は、立法権と行政権の両方を手に入れることになります。さらには長期にわたる任命権の行使により、司法までも与党の影響下に入ることになります。つまりこれは「選挙された独裁制」に他なりません。これが長く続けば、少数意見は日の目を見る機会を奪われて、抑圧的な社会が出現してしまいます。今の日本が、まさにこれに当ります。これを救うのは、定期的な政権の交代しかないのです。
 議会の発祥は、王権による行政を国民の立場でチェックするのが役目でした。アメリカのように直接選挙の大統領が強い行政権限を発揮するシステムでも、議会は大統領の行動をけん制する役目を果たします。しかし日本式の議会・内閣一体型では、政治の失敗を救う安全装置が、どこにもないのです。失政は、選挙によって国民が正すしかありません。
 およそ現代の政治は、経済政策では自由競争での成長を重視するか秩序ある調和を重視するか、所得政策では富裕層育成か格差是正か、外交政策では国益優先か国際協調かといった、何組かの基本姿勢の組み合わせで決まります。そして一方に偏り過ぎると、逆方向への是正が必要になります。そのときに、同じ政権が続いているのでは、徹底した政策の変更が非常に難しいのです。立法の体系や官僚組織を変えることが、同じ顔ぶれでは不可能だからです。
 民主主義の政治は、トライアンドエラーの体系です。定期的な政権交代がなければ血の通ったものにはなりません。これが第一の前提です。

少年期の戦中と戦後(27)

激化する空襲

 空襲は、子供にとってはスリルのある、わくわくするような経験でもあった。学校にいるときに警報が鳴ると、みんな防空頭巾をかぶり、カバンを背負って待機した。職員室に入る情報によって、先生は生徒たちを、校内の地下防空壕に入れるか急いで下校させるかを決めるのだった。回数を重ねれば先生も生徒も要領はよくなる。適度な緊張感の中で、「今度は本当に爆撃になるぞ」などと、半分は期待するような、興奮ぎみの会話をしていた。あわて者を笑う余裕もあって、怖がらないことで「少国民」としての責任を果たしているような気分だった。試験が予定されている日などには、「早く『ポー』にならないかな」などと勝手なことも言っていた。
 十一月二十四日には、初めて大編隊での爆撃があった。四時間目から警戒警報で下校となり、自宅の庭でB29の編隊が西の空を北へ向かって飛ぶのを見ていた。この頃には、敵機の進路が真上に向かって来ないかぎりは、防空壕には、あまり入らなくなっていた。壕に入るとラジオが聞けないし、外の様子がわからなくなって、かえって不安なのだった。もちろん、ポータブルのラジオなどは、全く存在しない時代である。壕に入らなくても、防空頭巾の上に鉄兜を重ねていれば、かなり安心感があった。試しに石をぶつける位では感じないから、高射砲の破片程度なら大丈夫だろうと思っていた。
 この日の空襲では、初めて撃墜されるB29を見た。編隊の中から一機が離れ、みごとに下向きになって錐もみ状態で落ちて行った。距離が遠かったので、高射砲によるものか、味方の戦闘機がいたのかはわからなかったが、B29でも、ちゃんと撃墜できるのがわかって嬉しかった。近所の家からも、盛んな拍手がわき起こった。記録によると、この日からしばらくの間は、B29は東京西郊の飛行機工場地帯へ精密爆撃を加えていたらしい。高高度からではあまり効果がないので高度を下げ、高射砲と日本側戦闘機の反撃も本格的になった。
 十二月二十七日の日記には、昼過ぎに真上で展開された空中戦の模様が書いてある。「敵の第四編隊が来たとき、味方の一機が敵編隊の真上でやられて、白煙を吐きながら敵の一機に体当りをし、跳ね上ってもう一機にぶつかりそうになりながら、真っ直ぐに落ちて行きました。」と詳細である。この場面は翌日の新聞にも写真が出ていたが、私もよく覚えていて、何度も絵に描いた。戦闘機は白煙の塊となって石のように落ちて行き、体当りされたB29は発動機の一つを欠いて、白煙を引きながら次第に編隊から遅れていった。華々しい戦闘場面を見られて満足だったが、そこで死んだ人がいることは、ほとんど考えなかったような気がする。
 十一月には、すでに神風特別攻撃隊の出撃が報道されていた。「軍神」の扱いで、写真入りの記事が新聞に大きく出ていた。ラジオでは「敵空母に一機命中」などと言っていたが、聞いていた古手の社員が「命中かよ……」と、苦笑まじりにつぶやいたのを覚えている。

低所得孤立老人の吹き溜り

 昨夜は「老人党・護憲+」の例会(サロン・ド朔)で、ルポライター沢見涼子さんの話を聞きました。岩波書店の雑誌「世界」の4月号には、この人の記事「低所得でも安心できる終の棲家はどこに」が掲載されています。この19日に群馬県渋川市の「静養ホームたまゆら」の火災で10人が死亡した事故は記憶に新しいところですが、記事はこの事件を予測するかのように書かれていたのでした。
 沢見さんは渋川の事件も調査したそうですが、問題はこの施設が正規の有料老人ホームでも、老人福祉施設でもなく、単なる「老人たちが自由契約で集まっていた場所」にすぎなかった、ということでした。しかしそこには、東京の墨田区からの紹介で入居した生活保護受給者もいたのです。そこで明らかになったのは、本来は低所得弱者を受け入れるべき特別養護老人ホームが待機者であふれ、かつ個室化などで高額化しているため、低所得の孤立老人の行き場がなくなっているという事実です。
 この状況で「保証人不要、生活保護OK」という施設は、区役所にとっても便利な存在でした。しかし実態は、沢見さんの取材経験からすると、営利民営化の終着点である「貧困ビジネス」に近いものが少なくないということでした。経営者の本音としては「生活保護はOKだが、年金生活者はダメ」というのがあるそうです。理由は、年金生活者は、病気になると医療費が持ち出しになる危険があるからです。そこへ行くと生活保護受給者には、医療費の自己負担はありません。死亡した場合の葬式の費用まで公費で支給されます。あとは利益を出すために、どこまで運営経費を節約できるかという話になります。たとえばスプリンクラーの設置を義務づけられる届け出などをすれば、経営は成り立たなくなるのです。
 それではどうすればいいのか。施設への監視を厳しくするだけでは問題の解決になりそうもありません。沢見さんは、老人は、なるべく長く自分の住居で暮らす方が幸せでいられると感じたようです。親族がいなくても、見守る目と援助する人手があれば、もっと地域で支えられるのではないか。そのためには、担当する公務員の数も、NPOなどへの援助も増やす必要があるでしょう。
 現状の報告から浮かんできたのは、国家自体が、政策として貧困ビジネスを助長する「安上がりな福祉」を追求している醜悪な姿でした。

少年期の戦中と戦後(26)

B29を見た

 アメリカにB29という大型爆撃機があることは、昭和十九年(1944)の最初から知られていた。それまではB17が「空の要塞」と呼ばれていて、ドイツを爆撃していることは新聞にも出ていた。だからB29は「超・空の要塞」ということだった。そのB29は、十月になると九州地方の爆撃にやってきた。中国大陸の基地から、北九州工業地帯を狙って来ているようだった。
 サイパン島のあるマリアナ諸島を基地とするB29が、最初に東京の上空に現れたのは、十一月一日のことだった。昼休みの時間中にサイレンが鳴って、生徒は急遽カバンをまとめて校庭に整列し、下校となった。学校の生徒数は減ってはいたが、一学年五組あったものが二組になって、この時点ではまだ四割ほど残っていたことになる。家に着くとすぐ空襲警報になり、防空壕に入った。防空壕に入るとラジオは聞けなくなる。空襲解除のサイレンを待つだけで、外のことは何もわからなくなった。サイレンは長く鳴るのが警戒警報、短く断続するのが空襲警報だった。空襲警報の解除は、警戒警報と同じ長音で、自動的に警戒警報に移行するのだった。この日は一時間ほどで空襲解除となり、警戒警報も午後三時には解除になった。
 ラジオの「東部軍管区情報」は「敵B29一機、帝都上空に侵入せるも投弾せず退去せり」と言っていた。しかし二人の姉はそれぞれ別な学校に通っていたのだが、空襲警報で電車が止まったため、帰ってくるのが日暮れの後になって、みんなを心配させた。
 この日を最初とするB29の偵察飛行は、数日おきに何度も繰り返された。敵機は一万メートルの高高度から、本格的爆撃のためのデータを集めていたのだろう。やがて一機だけのときは空襲警報は出ないままで終るようになった。何回目かのときに、初めてB29を見た。短い飛行機雲を引いていて、速度はあまり感じられず、高い空に浮かぶ彗星のように見えた。試し撃ちのような高射砲弾が周囲に白煙を散らしたが、命中することはなく、味方機との空中戦もなかった。当時の日本軍の主力対空火器だった八八式高射砲の実用射程は、高度七千メートル程度だったと言われている。
 間もなく夜もB29はやってくるようになった。探照灯の光が何十本も交差する中心に、B29の白い機体が輝いていた。高射砲弾は間断なく周囲で鋭い火花を散らしていた。一度だけ、B29の機体に小さい火の粉が走るのを見たことがある。すぐにラジオが「わが一弾は、敵機に損害を与えたり」と放送した。しかしその後は、何事もなかったように飛びつづけて遠ざかって行った。
 十一月も半ばを過ぎるまでは、空襲とはそのようなものだった。父は「これは一方的でどうにもならんな」と言っていたが、私にはその深い意味はわからなかった。十一月十七日には学校の運動会も例年通りに行われている。ただし来客用の椅子を二十も並べて用意したのに、二、三人しか来なかったと日記に書いてある。

戦争ごっこが始まった

(熊さん)北朝鮮からミサイルが来るのを撃ち落すって、自衛隊が出動するそうじゃないですか、こりゃ実験じゃなくて本物になってきやしたぜ。
(ご隠居)お前も血の気が多いからな。なんだか妙に元気がいいじゃないか。戦争が始まるって話じゃないんだぞ。先方は人工衛星の打ち上げだって言ってるんだ。
(熊)だけど日本に落ちるかもしれないから、撃ち落す用意をするんでしょ。
(隠)人工衛星だから、1段目の燃え殻はこの辺に落ちる、2段目はこの辺になると、予告してきてるんだ。3段目は衛星になって空へ上ったままになる筈だ。ふつうならお手並み拝見で、じっくり見ていればいいだけの話だよ。だけどミサイルの実験はするなと言っているところへ強行してくるから、そりゃ日本もアメリカも、面白くはないわな。だからミサイルに見立てて防衛の姿勢をとろうってことだ。
(熊)例のミサイル防衛システムってやつの出番ですね。
(隠)政府と防衛省にとっちゃあ、願ってもないチャンスだろうなぁ。えらい金かけてアメリカから買ったシステムが、こういうときに役に立ちますよと宣伝できるし、格好の防空演習にもなるわけだ。内心で北朝鮮様々だと思ってる者もおるんじゃないのかな。
(熊)で、日本のミサイルを撃ったら、当りますかね。
(隠)軌道が外れて丸ごと日本へ落ちてくるとしても、迎撃ミサイルは撃たない方がいいとわしは思うな。弾頭が爆弾ではないんだから、そのまま落下させたらいい。回収して研究の材料にすればいいんだ。空中で迎撃に成功したとしても、こちらのミサイルの爆発も加わって破片をばらまくことになる。ずっと始末が悪くて危険だろうさ。
(熊)ふうん、そんなもんですかね。でも「破壊命令」ってのが出れば、自衛隊は撃つかもしれませんね。
(隠)万一そうなっても、戦争だと騒ぎ立てることはない。わしは空襲で高射砲が花火のように何百発も炸裂するのを毎晩のように見てたが、破片が当ったって話は、近所では一度も聞いたことがないな。まあ心配なら、警報が出てる間だけ家の中にいたらいいさ。
(熊)本物の空襲を知ってる人は、さすがに肝が据わってるね。
(隠)あた公よ。

少年期の戦中と戦後(25)

防空壕を掘る

 サイパン島がアメリカ軍に占領されたことで、東京が空襲されるのは時間の問題になった。わが家でも防空壕掘りが本格化して、しばらくの間、家族全員がかかり切りになった。庭先に竪穴を掘ってあったものをさらに掘り下げると、地下一メートルぐらいから下は赤土になる。その赤土部分に横穴を掘ると、土がしっかりしているから、素掘りのままでトンネルになるのだ。道具はシャベルと鍬だけだったが、掘ってはバケツに土を入れて運び出す作業を延々と続けた。掘る役目とバケツ運びは適宜に交代したが、自分のシャベルでトンネルの形が出来て行くのは、けっこう楽しかった。幅も高さも1メートルあまりの地下トンネルが、だんだん奥へ向かって伸びて行った。
 この地下壕は、最終的には五メートル以上の長さになり、反対側の竪穴から掘った横穴と連結した。中間にはやや広く、一段掘り下げた「居室」も作られて、土の段差が長椅子のようになった。下にはすのこ簀子とござを敷いたから、居住性もよかった。元社員や親戚の人たちの手伝いもあったが、これほどのものが作れるとは、予想以上だった。うちの家族は、いざとなるとすごい力があるんだなと、誇らしくも思った。この壕は近所でも有名になって、見学に来る人も多かった。警防団の役員は「民間でこれほどの防空壕は見たことがない」と感嘆していた。
 父はこの成功に気をよくしたのか、あるいは他に仕事がないから熱中したのか、後に第二次、三次の防空壕づくりを進めた。玄関脇の空き地に深い竪穴を掘り、家の南側にも竪穴を掘って、家の下に深い地下トンネルを通すという大計画である。巡査をしていた叔父の同僚が土木工事にくわしい人で、その人の指導と全面的な協力を得ながら工事は進められた。数本の丸太が運ばれて来て櫓のように組まれ、その上に水平に渡された長い丸太の一方には重石がくくりつけられて、反対側の細い先には、バケツを下げる鉤が綱で吊るされた。これを上下させれば、深い穴の底から土を入れたバケツを、軽々と引き上げることができるのだった。完成は翌年のことだが、幅一メートルあまり、高さ一・五メートル、長さ十メートルほどの大トンネルが出来上がった。ここはおもに箪笥などの家具類を収納するのに使われたようだ。
 これも翌年になってからだが、砂場のあった場所を掘り下げて「壕舎」も作った。六畳ほどの半地下式の仮建築で、強制疎開にかかった家の資材を利用した。ここには資料の図書類や、雑多な生活物資を集積していた。母屋が焼けても、焼け残ることを期待したのだろう。改めて考えると、一家をあげて、できる限りの空襲対策はしていたのだと思う。それにしても、大変な労力だった。掘り出した大量の土を積み上げたから、わが家の土地の全体が三十センチほど高くなった。昔から隣家の庭の方が高くて、大雨が降ると、こちらの庭が水浸しになっていたのだが、これ以後戦後もずっと、その関係は逆になった。

「夕張・年老いた町で」を見る

 昨夜のNHK総合「夕張・年老いた町で……医療再生に賭けた700日」を見ました。私も所属しているMJLnet(医療と報道)で、この番組を作ったtoriiyoshiki さんの日記をたまたま見たおかげで、見逃さずに済みました。財政破綻した夕張市の医療現場に身を投じた、一人の医師の2年間に密着したドキュメンタリーです。
 日記風に、見たまま聞いたままを綴って行く構成が、すぐれた臨場感を生み出していました。破綻して「逃げられる者は逃げ出した」あとに残るのは、動けない老人たちと、大きすぎる建物です。市立病院もベッド数を10分の1に減らして診療所となりました。そこの責任者となった村上智彦医師は、患者に合わせた医療を徹底することで、バランスの取れた医療を再生して行きます。
 余計な薬は減らし、過剰な治療を押し付けることはしません。残された日々を少しでも心地よく過ごせるよう生活の指導をします。病院の空き室を利用して、老人保健施設を作り、老々介護の家族の負担を軽減しました。自宅に帰りたい患者は積極的に応援して、訪問医療でカバーします。「医療は、非日常なんですよ。少ない方がいい。」というのが根本の思想です。そしてそれは老人たちの願いとも一致するのです。
 番組に登場した患者は、番組の中で次々に亡くなって行きます。自宅に帰り、禁じられていたタバコをうまそうに吸った人もいました。経管栄養の処置をせずに自宅で暮らしていた人の最後は、誤嚥による窒息死でした。残された奥さんは「あっと言ったまま、それっきりでした」と、おだやかに話していました。その雰囲気からは、医療過誤を言い立てる訴訟は起こる余地がありません。「こんなに大事にされたら、まだ長生きしたい。でも、明日死んでもいいよ」と言っていた老人の、満足そうな笑顔が印象的でした。 
 夕張の風景は、間違いなく日本全体の明日の姿です。空き家だらけの町で、多くの老人が人生の最後の日々を送ることになります。長い撤退期に対応する社会のあり方について、貴重な示唆を与えてくれる番組でした。

少年期の戦中と戦後(24)

貧しくなった食卓

 集団疎開から帰って、またもとの家の生活に戻れると安心したのだが、家の中の様子は、わずか一ヶ月あまりの間に変っていた。まず、毎度の食事が目に見えて貧しくなっているのに気がついた。夕食のおかずが一品だけなどということは以前にはなかったのに、たとえばコロッケならコロッケだけで、あとは味噌汁だけというようなことが多くなった。社員も帰郷して出征したり、徴用で「産業戦士」になって軍需工場に動員されたりで、ほとんどいなくなっていた。お手伝いさんたちも帰郷してしまって、ときどき様子を見ながら手伝いに来る程度になった。食事の内容が低下したのは、母が何でも自分でしなければならなくなったからに違いなかった。
 家の仕事は、主力商品の年鑑が休刊になり、月刊の「学友第一線」も出せなくなっていたから、あまり仕事もなかったのだろう。しかし軍歌集や図画の本などは相変らずよく売れていたから、過去の遺産で食いつなぐ状況になっていたのだと思う。用紙を確保するのが大変だったようで、ヤミで買った紙を、千葉の親戚に頼んで印刷屋まで馬車で運んで貰う相談をしているのを聞いたことがある。
 上の姉は第一高女の女学生になっていたが、学校の授業はほとんどなくて、女子挺身隊となって工場へ直接に通うことが多く、スミレ3号とかいう航空用無線機の配線をやっていると言っていた。兄は一高に合格していて、こちらは比較的まともに授業が続いているようだった。「配属将校には挙手の礼をするように言われているが、みんな帽子をとって丁寧にお辞儀をしてやるんだ」と自慢話をしていた。エリート校に学ぶ若者の、ささやかな抵抗だったのだろう。
 私が復帰した国民学校でも、雰囲気はがらりと変っていた。縁故疎開者も多くなって生徒数は夏休みを境に激減していた。第二次三次の集団疎開が予定されていて、最終的に東京に残ることは不可能になりそうだった。私はいずれ縁故疎開をするということで、とりあえず東京の学級が存続する間の復学を認められたらしい。
 沼津の疎開学園では、生徒の脱走事件があったり、先生を誹謗する落書きが便所に書いてあったりしたことが伝わって、保護者の間に動揺が起きていた。父は相談を受けて夜遅くまで近所の家へ話しに行ったりしていた。「逃げて帰っても、君たちのお父さんお母さんは、絶対に家に入れてくれないだろう」と先生が話したとか、受け取った手紙も出す手紙も、疎開学園では全部検閲するといったことを、問題にしたらしい。しかし疎開は時代の要請だから、問題を表ざたにするわけには行かない。学校に改善の要請をする程度で、結局は父も収め役に回ったようだ。
 以上は昭和十九年(1944)後半の話である。私は国民学校の五年生だった。秋にはアメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸した。東条首相は退陣して海軍の米内大将が首相になったが、ラジオからは「海ゆかば」の曲とともに、あちこちの島の玉砕のニュースが続いていた。

小沢一郎の続投をどう見るか

 一夜明けたら「もう一人の一郎」の記者会見が記憶に残っている。あの続投表明会見から、人々はどんな印象を受けたのだろう。小沢氏はもともと能弁家ではない。オバマのように熱弁を振るって大衆を動かすような場面は、この人には似合わない。日本の首相として国際舞台に立ったとしても、そのキャラクターは変らないだろう。よく言えば、東北人らしい朴訥さからにじみ出る誠実感と、東洋の微笑の謎めいた魅力だろうか。
 小沢民主党にとって、最大の目的は政権の交代である。そのために自分が必要であるのなら、苦しくても現職にとどまらなければならないから、一人では決められない。自分が辞めた方がいいかどうかは、みなさんに判断していただきたいという趣旨だったと思う。党の執行部としては、当面の党首続投を選択したわけだ。
 民主党は小沢党首を失ったら、選挙を戦えないほど弱くなるのだろうか。党外にいる私には内部の事情はわからない。企業献金からの絶縁を宣言して、新しい顔で遮二無二に突進するという選択肢もあるだろうと、今でも思う。その場合は、菅直人代表代行と役割を交代して、菅が表に、小沢が裏に回るのがいいと私は思っている。しかしそれは民主党が決めることだ。
 問題は言うまでもなく、次の選挙での有権者の気持がどう動くかということである。政治には時代を変える「大事」と当面の「小事」とがある。大事はもちろん政権の交代で、これを逃したら日本の政治の改革は10年は遅れるだろう。民主党にも期待できなくなったと自公政権へ票がもどるようでは、それこそ大事を誤ることになる。民主党ではだめだと思っても、他の野党を強くしておけば将来に希望はつながる。どうしても共産党や社民党へ投票するのはいやだと思う人は「支持政党なし」と無効票を投じればいい。自公両党を一度政権から引き剥がすことが眼目なのだ。その選択の大切さが、どこまで有権者に見えているだろうか。
 新聞もテレビも、これからもいろいろな情報を流し続けるだろう。その中で何が「大事」で何が「小事」なのか、それを見きわめる目が必要なのだと思う。

少年期の戦中と戦後(23)

学童疎開に行く

 昭和十九年(1944)の一月には、学校で耐寒訓練というのを、よくやっている。寒中マラソンのことだが、職員室にだけストーブが入っているので、みんなが怒って煙突に石を投げる者もいたと、日記に書いてある。当時の冬は寒かった。家の中にも小さな火鉢以外の暖房はなかったから、霜焼けでふくれ上った手の甲は、春になるまで直らなかった。
 五年生になった六月には、アメリカ軍がサイパン島に上陸した。この頃の戦況説明のきまり文句は「敵は物量に物を言わせて……」であり、「わが方は必勝の信念で……」だった。大本営発表では、日本の連合艦隊はほとんど無傷でいる筈なのに、アメリカ軍がどんどん攻めてくるのが不思議だった。
 この夏には、東京への空襲は必ずあるということで、学童の集団疎開が決定した。この段階では任意の申し込みだったが、私は修学旅行に行くような感覚で、行ってみたいと申し出た。行き先が沼津の海岸で、そこまで列車に乗れるのも魅力だった。父母は私に集団生活を経験させるのも良いことだと思ったのだろう。案外簡単に許可してくれた。
 昭和六十年に発行された「静浦疎開学園ものがたり」によると、参加したのは四年と五年生の約六十名で、モデルケース的な意味合いもあったようだ。私たちは男女混合だったが、後には男女が別になる集団疎開が多かったらしい。空襲はまだ始まっておらず、それほど切迫感はなかったのだが、学校の先生としては、大勢の生徒を丸ごと生活させながら教育するというのは、ノウハウもわからない全く未経験なことだった筈である。とくに食べたい盛りの子供たちに、「食い物の恨み」を感じさせないで育てるのは、至難のわざだったに違いない。
 疎開先は沼津市静浦獅子浜の本能寺で、夜は本堂の大広間にふとんを並べて寝た。昼は同じ場所に座机を並べて勉強である。先生が男女の各一名、地元の寮母が四名ほどで世話をしてくれた。親のいない生活には慣れているつもりだったが、腹が減るのには弱った。東京では威勢のよかったガキ大将が、見る見る元気を失くして行った。この期間に、残念ながら私の日記は残っていない。別な薄いノートに書いていたのだが、それが紛失しているのだ。ただ、じっと耐えるだけの生活だった印象は残っている。海岸に出ると、東京の方角はどっちだろうと考えながら山を見た。いつか終るには違いないが、終りが予想できない毎日だった。
 中間で様子を見に来た父は、「子供たちが異様におとなしくて囚人を見るようだった」と、後に語っている。そこで父は判断をしたのだろう、数日のうちに母が迎えに来た。私の体に吹き出物が多く出ていたので、その治療をするというのが理由だった。こうして私の集団疎開生活は一ヶ月あまりで突然に終ってしまった。寺の門を出るとき、「いいな、いいな」と羨む友人たちの視線が、刺すようにいつまでも追ってきた。

サムライ野球の世界制覇

 延長10回表、出来すぎたようなイチローのヒットだった。世界の強豪を次々に打ち破っての世界制覇だから、文句のつけようがない。「野球で戦ってるんだからいいわよ」というのが家人の言葉だった。野球だから素直に応援できて、世界制覇も喜んでいられる。勝っても負けても人は死なないし、敗戦国の国民が生活に苦しむこともない。
 昔は日本にも、大まじめで世界に君臨しようとした時代があった。日本人は神の子孫に率いられている特別な民族だから、世界の新秩序を作る使命があるのだと、子供たちは学校で教えられた。あの変な夢は、早く覚めてよかった。世界は征服する敵地ではなくて、いろいろな人たちと出会えたり、知らなかった風景が見られたりする刺激的な場所になった。だからそこへ出て行くサムライもイチローも、カタカナで書くようになった。
 それにしても、野球とはおかしなスポーツだ。だいたいあれは団体競技なのだろうか個人競技なのだろうか。ルールに従って打ったり走ったりしている間は、たしかに団体競技のように見えて、時間もそのままに流れている。ところが費やしている時間の大半は、投手と打者が相対する対決の場面になっている。時間はピタリと止まって、投手は秘策を込めて振りかぶり、打者は「寄らば切るぞ」というように打棒を構える。まるで講談に出てくる巌流島の決闘のようだ。
 スポーツにもいろいろあって、たとえばボクシングは殴りあう闘争の原型を、ほとんどそのまま残している。ルールも、相手を立っていられなくなるまで叩きのめせば勝ちだから簡単明瞭で、野蛮と言えば野蛮だ。運動医学の本では、唯一の「あらゆる年齢層に推奨できないスポーツ」と定義されているのを読んだことがある。
 そこへ行くと野球は、武士や騎士たちが刀と弓矢で戦っていた中世の戦いを思い出させるのかもしれない。相手の顔が見えていて、鍛えた筋力と勇気で敵に向かって行くわけだ。戦国物語の面白さが野球に反映されるからこその「サムライ・ジャパン」だと思えば、わかるような気がする。
 戦争は、戦国時代を舞台にした活劇物語か、野球の試合か、いずれにしてもエンターテイメントの世界に生かしておくのがちょうどいい。核兵器の押しボタン戦争では、どんなスポーツにもならないだろう。

ブログ連歌(74)

1459 鼻くそが 目くそを指差す 永田町(獣医さん)
1459B 春一番 あちらに吹いて こちら向く(獣医さん)
1460  政争よそに 困苦深まる(建世)
1461 仕事なく 貧の一字が のしかかる(みどり)
1462  勤労の権利 憲法にあれど(建世)
1463 建前を 「仕方がない」と いつも無視(T)
1464  解釈改憲 わがもの顔に(建世)
1465 悪政し 憲法悪しと 改憲へ(ハムハム)
1466  ブログ連歌も 政治の季節(建世)
1467 こちとらの 神経持つか 選挙まで(うたのすけ)
1468  ねばって待つも 年の功なり(建世)
1469 松は待つ 紅葉こがれつ 身は緑(みどり)
1470  若葉の季節に 祈願成就か(うたのすけ)
1471 一念は 秋になるとも 忘れまじ(建世)
1472  とかく淡白 執念薄く(うたのすけ)
1473 江戸っ子は 醒めやすいのが 玉に瑕(建世)
1474  我慢比べだ 性根を据えて(うたのすけ)
1475 さまざまの 人を眺める 一人デモ(建世)
1476  人の絆が より逞しく(ハムハム)
1477 春風に 人を訪ねて みたきかな(建世)
1478  足萎えぬうちと 気持は焦り(うたのすけ)
1478B  お迎え近しと 陰口もあり(うたのすけ)
1479 勝ち名乗り しばし野球で 憂さ晴らし(建世)
1480  絵に描いたよう イチロー痛打(うたのすけ)
1480B  神の演出 勝利の一打(うたのすけ)


少年期の戦中と戦後(22)

厳しくなる戦局と生活

 昭和十八年(1943)になると、良くないニュースが続いた。二月にはガダルカナル島の日本軍が「他の方面へ転進せしめられたり」という発表があった。苦戦の様子は知られていたから、本当は退却したことは子供にもわかった。この後しばらく、都合が悪くなると「我が方は転進せり」と言うのが流行した。同じころにドイツ軍がスターリングラードで大敗し、二十万が壊滅したというニュースがあった。四月から国民学校四年生だから、私の日記も新聞などの情報も入れた、記事らしいものになってくる。ただし事実を書くだけで、評論にはなっていない。
 四月になると、連合艦隊司令長官の山本五十六大将が戦死した。国葬が行われて元帥になった。5月にはアリューシャン列島のアッツ島(日本名は熱田島)の守備隊が全滅して、「玉砕」の最初となった。イタリアではムッソリーニが失脚して、日独伊三国同盟の一角が崩れた。年の後半になると、マキン、タラワ島の玉砕など、アメリカ軍の反攻が本格的に始まったのが明らかになってきた。しかし新聞発表の上では、敵艦撃沈何隻、敵機撃墜何機などと、まるで勝ったような記事が続いていて、私の日記も、それらをなぞっているだけである。
 学校では新任に女の先生が多くなった。夏休みに行った千葉では、学校の先生が出征で生徒に送られて行くのを、Yちゃんといっしょに見に行った。先生は赤い襷をかけて、元気に挨拶していた。秋になると学校では、農園づくりや防空演習に時間をとられることが、ますます多くなった。私の担任は体操が得意で歌も上手なスマートな先生だったが、学校の便所から糞尿を汲み出して、リヤカーに乗せて生徒といっしょに運んだ。公園の一部をつぶした学校の農園まで、電車通りを引いて行って肥料に撒いたのだ。それでもこの頃までの学校は楽しかった。プールの水泳もあったし、教えてもらった戦時歌謡などは今でも覚えている。
 学校の防空壕は、木造校舎の床下に掘られていた。運動場がアスファルトで固められていたからだろうが、校舎が壊れても燃えても危険きわまる場所になる。それでも当時はまだ、防空壕とはそんなものだと思われていたのだ。訓練で生徒がもぐり込むと、服に泥がついて困った。
 当時の日記を読んでいたら、お菓子や学用品、洋服などは、学校を通して配給されていたことがわかった。お菓子の配給がある筈だったのに、今月も取りやめになった、などと書いてある。学級に二着しか来なかった上下揃いの洋服の配給が私に当ったので、洋服屋さんへ行って作ってもらったという記述もある。生地を使う許可証のようなものだったのだろう。
 その他、学校で戦地へ送る手紙を書いたとか、図画や習字も集めて送ったというようなことが、頻繁に出てくる。中には「工場で働く産業戦士に手紙を書く日」もあった。家の身の回りでも、出征した親戚の人たちや、元社員だった人たちとの手紙のやりとりが多くなった。隣家の、美術学校に通っていた人気者のお兄さんにも、召集令状が来た。

多生の縁と空耳

 もうじき終る朝の連ドラ「だんだん」のテーマソングを、私は起きる直前のふとんの中で聞くのが習慣ですが、この歌詞を調べてみて、自分が思いこんでいたのと違う箇所が、意外に多いのに気がつきました。正調の歌詞は、次の通りだそうです。

  袖振り合うも多生の縁と 昔(いにしえ)からの伝え通り
  この世で出逢う人とはすべて 見えぬ糸でつながってる
  天が描いたシナリオに沿い あなたと私知り合うの
  時に愛して時には泣いて やがて固い絆へと
  どんなに細い縁(えにし)の糸も 物語運んでくる

まず、ことわざを「袖擦り合うも他生の縁」で覚えていたので、今朝まで「袖すりあう」だと思っていました。広辞苑を見たら、両方が採録されていました。なお「多少の縁」と思っている人が多いかもしれませんが、輪廻思想で「別な世にいたときから」の意味です。
 空耳が激しくなるのは「天が描いた……」からの部分で、「てんらん えがいた シナリオみとい あなたとわたし しあうの」と聞こえるので、これは「天が描いたシナリオみたい あなたと私愛し合うの」だろうと想像していました。声に力が入る部分で、唇の形や口の開き方が少し変形すると、本人の意思とは違う言葉に聞こえる場合があるのです。本人も、立ち会っているディレクターも歌詞は熟知していますから、音程や情感に神経を集中していて、言葉としての発音へのチェックが甘くなる場合があるのだろうと思います。最後の方の「えにしのいとも」の「も」も、口が開きすぎて「糸は」に近い発音に聞こえます。
 発音の変形はナレーションでも当然起こるので、私にも何度か失敗の経験があります。台本を見ながら聞いているので、ちゃんと読んでいるように聞こえてしまうのです。歌の空耳は誰にでも経験のあることで、それを材料にしたお笑い番組も出来ているぐらいですが、今の朝ドラの歌は、空耳度が高い方ではないかと思いました。
 今どきの歌には、歌詞の字幕がないと、ほとんど言葉のわからない歌も少なくありません。言葉あっての歌ですから、言葉としての発音も大事にしてほしいものです。今日は年寄りの小言みたいな話につきあっていただいて、だんだん。

少年期の戦中と戦後(21)

戦争と国民生活

 太平洋戦争の経過を年表で見ると、日本軍の攻勢は開戦から半年の間であったことがわかる。昭和十七年(1942)六月のミッドウエイ海戦で戦力の優位を失い、八月にはソロモン群島ガダルカナル島の戦闘が始まっている。これが日本軍の進出した東の端になった。戦況をマクロで見れば、連合国の準備不足に乗じて短期間に南太平洋と東南アジアの広大な地域を占領したものの、あとは消耗戦で国力を衰えさせ、敗戦に向かって行ったという単純な構図になる。
 その中で、三年生の私にとっての昭和十七年は、まだまだ余裕があった。夏休みには、前年と同じ千葉の海へ行っている。村の様子も平和なままで、自転車にアイスキャンデーの箱を積んで、チリンチリンと鈴を鳴らしながら売りにくるおじさんもいた。夜になれば花火を買ってきて庭で遊んだ。お盆になると、藁で作った馬を引いて、朝早くからYちゃんと近所を回ったりもした。夏休みの後半には、兄や姉たちといっしょに湯河原の旅館に長期滞在までしている。米は配給制で、米の持参か外食券が必要だった筈だが、親は子供にそんな心配はさせなかった。温泉街の夜店のにぎわいは楽しく、私は弓道場で弓を覚えて、兄と競い合ったりしていた。
 秋になると、日記帳に、お菓子の配給のことが出てくる。配給は、不足する物資を公平に分配するための制度だから、無料ではない。公定価格で買える権利が与えられるということだ。物が統制されて公定価格が決まると、自由に買うときの値段は高くなる。これがヤミ価格で、公式には禁止なのだが、いろいろなものに公定とヤミと、二重の価格がつけられることが多くなった。だから配給があれば辞退する人はいない。ヤミでもっと高く売れるからだ。
 資料によると、この年から調味料、マッチ、たばこ、衣料品、肉、野菜など、ほとんどすべての生活必需品が統制品になっている。「こんなバカな制度はない」と父は怒っていた。「砂糖だのタバコだの、要らない者にまで配給するから物が足りなくなって値段が上がるんだ」と。それにも一理はあったと思う。コンピューターもない時代に、これで円滑な物流ができたとは思えないし、官民の癒着や、利権・汚職なども多発しただろうと思う。日記に「今日はキャラメルが二個配給になった」などと書いてあるのを見ると、そこまで国民の生活の面倒を見るのでは政府も大変だったろうと、妙に同情したい気分になる。
 そんな混乱が繰り返される間に、町のお店で買えるものがどんどん少なくなって行った。母は要領のよい人だったから、昔からの信用で、統制品をヤミで買ってくるのが上手だった。子供たちの靴下や下着類、ノートや鉛筆なども、「あるうちに買っておく」と、まとめて買ってきた。当時、とても悪いこととされていた「買いだめ」である。
 やがて十二月八日の「大詔奉戴日」(宣戦の詔書が出た記念日)がめぐってきた。開戦一周年の式典があり、生徒は全員が一人十銭の献金をしたと日記に書いてある。

記事検索
プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ