志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2009年04月

長沼判決・一瞬の青空

 今日の朝日新聞に、自衛隊に違憲判決を出した福島重雄氏のインタビュー記事が出ていた。昭和48年(1973)に、北海道長沼町の自衛隊ナイキ基地の建設に対し、自衛隊は憲法に違反するとの判断を示した裁判長である。この札幌地裁の判決が大きく報道されたとき、長い梅雨空の後に一瞬の青空を見たような、爽快な気分だったことを鮮明に覚えている。
 福島氏は「長沼事件平賀書簡・35年目の証言、自衛隊違憲判決と司法の危機」(日本評論社)を最近出版したので、このインタビューになったようだ。
 この判決は上級審では覆され、以後は裁判所は「高度な政治的判断」には踏み込まないという慣例になってしまうのだが、福島氏は「事実調べを慎重に進めた結果、法に照らして当然の判断をしたまでです。」と淡々と語っている。
 印象的なのは、福島氏はこの裁判のために、自衛隊の実態について綿密な審理をしたという事実だ。自衛隊の最高幹部はもとより、真珠湾攻撃を指揮した参謀で、当時は参議院議員になっていた源田実氏も呼んで話を聞いている。「当時の自衛隊は裁判所に対して、それなりの敬意を払っていました。源田さんも誠実な信念の人でした。」という思い出も語っている。
 しかし長沼判決につづく裁判官は現れなかった。「合憲であれ違憲であれ、裁判所は証拠に基づいて判断を示し、それを積み重ねることが法治国家の姿であり、三権分立の基礎であり、民主主義の根幹だと思います。」という感想は、この本を出す動機となった、日本の司法への危機感を物語っている。
 裁判所の権力への迎合は、日本の政治そのものを大きく堕落させたのではないかと私は思っている。だが、裁判官は孤立して仕事をするわけではない。長期にわたる保守独裁政権を許してきた国民にも責任はあるだろう。いま日本は、現実から乖離してきた憲法9条の「後追いのつじつま合わせ」のために、改憲の議論を始めようとしている。そこには理想をかかげて進む国民の誇りはなく、薄汚いご都合主義があるだけだ。
 しかし私はこんなふうに思った。地上のどんな悪天候の上にも、青空は常に厳然として存在しているのだ。

少年期の戦中と戦後(59)

相次ぐ復員

 八月三十一日になると、アメリカ軍の飛行機の飛び方は、整然としたパレードのようになってきた。B29の大群も、みごとな編隊を組み、次から次へと上空を通過した。小型機も、威嚇するような低空飛行ではなくて、高度をとって編隊飛行するようになり、多いときは空一杯に百機ぐらいも同時に見えるようなことがあった。まさにわがもの顔の勝利飛行だった。
 学校でも、飛行機が多いときは爆音に圧倒されて授業は中断し、先生を含めて窓に寄ってみんなで眺めていた。敵機の形と名前については、先生よりも生徒の方がずっとくわしくなっていた。そのときの雰囲気なのだが、もう「敵機」というイメージは、すっかり消えていた。今にして思えば不思議なのだが、あの激しい「鬼畜米英」の敵意は、いったい何だったのだろう。撃墜され落下傘降下したアメリカ兵を、田舎の人たちは日本刀で斬り殺したと言い、私たちもその話を驚きもせずに聞いていたのだ。それなのに「終戦の詔勅」を聞いてからわずか半月で、アメリカ軍に対する私たちの敵意は消えてしまっていた。日ごとの空襲がなくなったことで、正気にかえったに過ぎないのだろうか。それにしても、あまりにも急な意識の変化である。そしてその変化が、当時の私たちに少しも不自然とは感じられなかったことに、改めて恐ろしさを感じる。
 この日の午後、学校から帰ると、医者で軍医になっていた叔父が復員してきた。なんと兵隊二人に荷物を担がせて連れてきていた。隊内の余り物資を払い下げられたのか勝手に持ってきたのか、「あの子は要領がいいから」と母が言っていた通りになった。母は兵隊たちを「ご苦労さま」と接待して帰した。その夜には叔父が持ってきたキャラメルを食べた。そんな菓子を食べるのは、本当に久しぶりのことだった。叔父の話では、一時は憲兵になれば日本の軍隊も存続できるという話になって、全員が急拵えの「MP」の腕章をつけたのだが、結局はアメリカ軍に許されないことがわかって、部隊解散になったということだった。
 翌日の九月一日から、学校は午後までの六時間授業が復活した。その日に学校から帰ると、兄が沼田の部隊から復員していた。ずいぶん痩せてはいたが、五体満足で、以前と変らない調子で話していた。兄が持ち帰ったおみやげは、キャラメル一箱、靴一足、靴下九足、毛布三枚、石鹸四個、乾パン一袋、その他いろいろあったと日記に書いてある。家に帰りつくまでの交通には苦労したらしく、前夜は一睡もできなかったと言っていた。
 今これを書きながら、戦争の犠牲者を出した家庭のことが気になる。生死を分けたわずかな運命の違いは、「運が悪かった」で済ますには、あまりにも重い現実だったろう。しかし私の友人の間でも、戦死者を出した家庭は意外なほど少なかった。私たちは、現役で多くの戦死者を出した世代とは、ちょうど半世代ずれていたのである。だから親も子も、戦争の当事者にならずに済んだ。その立場を踏まえて、私は語りつづけるしかない。

四月でもメーデー

 連合のメーデーが5月1日でなくなったのは、2001年からだった。連休の真ん中になるので、組合員や家族が参加しにくいというのが理由だった。「振り替えメーデー」は、それ以来4月29日になっている。今年で日本でのメーデーは80回目になった。私は1970年以降、40回のメーデーを毎年見てきたことになる。今年も代々木公園の会場に、最初から最後までいた。
 天気が良かったから、人出は多かった。参加人数3万6千というのは、さほど誇張ではなかったかもしれない。恒例のさまざまな出店の中には「労働相談所」が設けられていたし、非正規雇用支援や反貧困の団体も、今年は正式な参加団体に加わっていた。年越しの派遣村で村長を務めた湯浅誠氏は「グローバル化はいいが、派遣切りはいけない、というわけには行かない。労働組合はどちらの側に立つのか。」と、厳しい「連帯の挨拶」を述べていた。冒頭の挨拶では、高木会長は、連合の「雇用と就労自立支援カンパ」が1億円近く集まったことを報告した。民主党の小沢代表は、西松献金問題には一言も触れず「何がなんでも政権交代して国民のための政治を」と訴えて、拍手と声援を受けていた。
 最近の連合メーデーでは、本会場の集会が終ったあとに、隣の音楽堂でトーク・イベントがある。今年そこに下がっていたのは「最低賃金法の設定」「一日八時間労働制の確立」「労働者の最低生活の保障」の3本のスローガンだった。これは実は、大正9年(1920年)に行われた第1回のメーデーに掲げられた要求項目だったのだ。今から90年も前のことになる。(メーデーは、昭和11年から昭和20年までは禁止されていた。)この要求項目が、いま見ても切実な要求に感じられるということは、労働の環境が、20世紀初頭の段階にまで先祖返りしているということだ。
 本会場でもトーク・ショーでも、今日はいろいろな言葉を聞いた。労働組合は変らなければならない、新しい連帯を構築する必要がある、といった論調が多かった。しかしこうした言葉を、私は少なくともここ10年以上、毎年聞いているような気がする。正直に言うと、私にも本当はどうしたらいいのかは、わからない。私はたぶん、すでに「身内」になり過ぎているのだと思う。
 40年見ている間に、労働組合はずいぶん変った。これからも変るだろう。第80回を機に、メーデーの歴史をビデオ教材としてまとめることになっている。その中に未来への希望を描くことができたら、私の卒業制作になるかもしれない。

ブログ連歌(77)

1519 団子より 花を選んで 夢繋ぐ(うたのすけ)
1519B 貧困の 源分り 皆怒る(ハムハム)
1520  政治家すべて 心して見よ(建世)
1521 ひややかに 自己責任と 言うなかれ(みどり)
1522  寄り添いてこそ 人なるものを(建世)
1523 こうなると イチロー今や 神がかり(うたのすけ)
1524  スーパースターは かくありてこそ(建世)
1525 ポイントで ポイント稼ぐ 厚かましさ(うたのすけ)
1526  プロの仕事は 修練の極(建世)
1527 頂を 眺め更なる こころざし(みどり)
1528  次なる峰は 果てなき彼方(建世)
1529 秀麗の 富士で演習 誰がゆるす(みどり) 
1530  法を守らず 国守るとは(建世)
1531 海賊に 因縁つけて 憲政破る(ハムハム)
1532  北ミサイルと 手口は同じ(建世)
1533 じわじわと それがいつしか あたりまえ(うたのすけ)
1534  釜茹での湯も 最初はぬるい(建世)
1535 救援と 見せかけ火種 煽りおり(みどり)
1536  その手は食わぬ 世論を結集(うたのすけ)
1537 御破算で 平和の初心に 帰りたい(建世)
1538  永遠(とわ)に伝えよ 酸鼻の焦土(うたのすけ)
1539 長生きも 無駄ではないと 書いて置く(建世)
1540  老いの一徹 勇の虎徹(うたのすけ)

少年期の戦中と戦後(58)

空から始まった占領

 昭和二十年八月二十一日から、ラジオで天気予報が復活した。たぶん太平洋戦争の始まりとともに、新聞からもラジオからも、天気予報は消えてしまっていた。天気の予想は軍事情報ということだったのだろう。だから天気はすべて当日の空を見て判断するものだと思っていた。その復活したばかりの天気予報で報じられたのは、台風が南方から関東地方に接近中ということだった。その台風は二十三日夜に襲来して、風雨が激しく、雨漏りする中で停電して、夜が明けたら庭は木の葉だらけで、立てかけてあった材木も、畑のとうもろこしも、すべて横倒しという惨状だった。戦争中にも、これほどの台風は来なかったと思う。
 ラジオについては、春のサイパン島失陥以来、アメリカからの宣伝放送が始まっていた。このため日本側は同じ周波数にガヤガヤ声を重ねた妨害電波を出し続けていたから、放送の内容を聞くことはできなかった。その妨害電波がこの頃からなくなって、「アメリカの声」という放送が入るようになった。日本軍の主な軍艦がすでに沈んでしまっていることなどを伝えていたが、そのような情報は日本の新聞にも出るようになっていたし、あまり面白い番組はなかった。もの珍しさでちょっとは聞いてみたものの、やがて興味をなくしてしまった。
 台風が去った翌日の二十五日から、東京の空はアメリカ軍の飛行機に占領された。五、六機ずつ編隊を組んだグラマンF6Fが、後から後から際限がないほど、超低空を悠々と飛んできた。SB2CやF4Uもたくさん来たと日記には書いてあるのだが、それらがどんな飛行機だったのかは、私はもう覚えていない。日記のさし絵を見ると、翼が鳥の羽のように軽く折れ曲がった機種があったようだ。そのほかロッキードP38が双発双胴の重戦闘機だったことは、よく覚えている。それらは、とてもきれいで、今までそんなやつと戦争していたとは思えないほどだったと書いている。手ごろな高さを落ち着いて飛んでくれたから、細部までよく見えたのが快感だったのだろう。敵の飛行機だという意識は、早くもほとんど消えているようだ。
 この日から一週間あまりつづいたアメリカ軍の飛行部隊による大規模な示威飛行は、圧倒的な戦力を見せつけて、日本国民に抵抗の意志をなくさせることが目的だったに違いない。B29も低空を飛んでその巨体を見せつけた。銃座の配置がはっきり見えて、弾倉を開いたまま飛んでいる機もあった。私にとっては、それらは豪華な空中ショー以外の何ものでもなかった。私は明らかに、その眺めを楽しんでいたと思う。しかし、空襲で自分の家を焼かれ、家族の中から犠牲者を出していたら、また全く違う見え方をしたのではないだろうか。それらはつい昨日まで、私たちに襲いかかって、弾の雨を降らせた悪魔の翼だったのだから。
 そうした中で二十八日にアメリカ軍は厚木飛行場に着陸を開始した。それに同行したアメリカ従軍記者は「日本人は冷静に占領を受け入れている」と報告したと、ラジオは報じていた。

マンションが全貌を現した

 南側の隣地に建築中だったマンションの完成が近づいて、足場と幕が取り払われ、ようやく全貌が見えてきました。当方の3階の屋上から見ると、3階の高さはこちらよりも低く、その上に4階から7階までが盛り上がるように重なっています。7階は6階の部屋のロフトとして付属しているので、エレベーターは6階までということです。当初は7階建てと聞いて驚いたのですが、北側斜線に沿って後退しているので、悪く想像したほどの圧迫感はありません。しかし、黒い壁の印象が強いこともあって、城郭を見上げているような迫力を感じます。
 これで各戸に人が入ったらどんな感じになるのかは未知数です。こちらの2階よりも3階の方が影響が大きいのかもしれません。冬至の前後4ヶ月にわたって2階への日照が妨げられることは、この冬で実証済みです。それでも現代の東京23区内としては、この程度は「受忍の限度内」なのかもしれません。今回の経験では、容積率よりも、北側斜線の規制が有効に働いてくれたような気がします。
 思い出せば昭和40年頃には、まだ「日照権」という概念さえありませんでした。当時住んでいた埼玉県の草加で、団地前の国道沿いに市内では初めての高層(とは言っても8階程度ですが)のマンションが建ったことがありました。東西に長い造りで、その北側は細い路地を挟んで、小さな2階建の住宅やアパートが並んでいました。マンションが建ったあと、ほとんど一年中日が当らなくなった家の物干し場に、おしめが何本も干してあるのを見たことがあります。まだ紙おむつは、旅行のときなどに使うぜいたく品だった時代です。それを見たとき、土地を使う権利はあるにしても、こんなことをしてもいいものかと、心が痛みました。
 新聞やテレビなどで「日照権」という言葉を聞くようになったのは、それからだいぶ後のことです。私たちは今の土地へ引っ越したのですが、あの家の赤ちゃんと母親はどうなったかと、その後も時々は思い出しました。弱者を守る法律は、おそらく多くの被害者の苦痛を土台として作られるのでしょう。今の私だったら、声をあげる最初の一人になれるでしょうか。



少年期の戦中と戦後(57)

戦後のはじまり

 日記をよく読んだら、この夏は夏休みはなく、毎日学校へ行っていたことがわかった。空襲で授業時間数が不足したのを補うためだったと思われる。十九日は日曜日で、隣の家に数日前から来ていた小さい子供たちと遊んだ。二年生の男の子を頭に、六歳の女の子、二歳ぐらいの男の子の三人きょうだいだった。塀の下からこちらをのぞいているのに気がついて、わが家へ呼んで紙飛行機などを折ってあげた。話を聞いたら、品川で焼け出されたということだった。すぐに懐いてくれて、しょっちゅう遊びに来るようになったから、末っ子の私は、兄貴になったようで気分がよかった。
 翌日の午後、二年生の子を自転車の後ろに乗せて飛鳥山公園まで行ってみた。通いなれた公園の筈だが、考えてみると空襲が来るようになってからは、ずっと行っていなかった。一面に高い雑草が茂っていたのには驚いた。どこが道かもわからない中を自転車で突っ切って遊び場へ行ってみると、ブランコ、すべり台などが、全部そのまま残っていたので、また驚いた。鉄製のよじ登り棒までが残っていたのは、奇跡のような気がした。あらゆる鉄製品が何度も回収されて、軍需品として供出されたのを見ていたからだ。大事にしていた鉄道玩具さえ、少し壊れたものは、鉄だから隣組の回収の日に出したほどだったのだ。
 公園には他にほとんど人影はなかった。公園とは、こういうふうに遊ぶ所だったということを思い出しながら、新しい弟分を相手に、三十分ほどブランコをこいだり、すべったり、よじ登ったりして遊んでいた。遊具にあきると、自転車で草原に突っ込んで、探検みたいに走り回ったりもした。もう、空襲警報が鳴る心配はなかった。そのときには何も自覚しなかったのだが、あの楽しさは、子供らしい遊びの時間を取り戻した「平和の喜び」だったのに違いない。
 二十一日に学校へ行くと、平塚神社とじょうかんじ城官寺の分校にいた生徒も、みんな来ていた。明日からは元のように全員が本校に来るようになって、一年から六年まで、すべて学年別の組になるということだった。人数は非常に少ないのだが、やがてみんなが疎開から帰ってくることは、すぐに想像できた。使う教室が増えるから、大掃除が大変だった。土ほこりがもうもうと立つので、拭き掃除では間に合わず、先生公認でバケツの水を何杯も床にまいた。
 二十二日には、連合軍の日本上陸の日程が発表になった。二十六日に空輸部隊が厚木に着陸して、同時に艦隊が相模湾と東京湾に入り、翌日から上陸を開始するということだった。八月の終りまでに、二万の軍隊が関東地方に来ることになった。学校にいた通信隊の中に、中国大陸での経験があるという兵隊がいて、雑談に来たとき「ひどいことになりますよ」と言っていた。それを聞いた父が、姉たちに「お前たち、男装したらいい」と言い出すのを、私は半信半疑の思いで聞いていた。アメリカ軍がどんな行動をするか、想像できる者は誰もいなかったのだ。

長生きがつらい世

 この土曜日にはNHKの新番組「追跡!AtoZ」で、日曜日にはNHKスペシャルで、いずれも老人問題を取り上げていました。前者は孤立した貧困老人を金儲けの種にする悪徳商法の告発、後者は介護の申請をする能力もない認知症老人の問題でした。共通しているのは、行きどころのなくなった孤独老人が大量に発生しつつあるという事実です。
 ただでさえ、老人は生きていること自体をつらいと感じるものです。私の妻の母は10年ほど前に亡くなったのですが、6人の子を育て、13人の孫があり、晩年は末娘と孫たちが同居してケアするという理想的とも思える環境だったのですが、腰骨が弱って日常の動作の不自由は避けられませんでした。長女である妻が訪ねたときに、ふと「私は長生きし過ぎたよ」とつぶやいたのを、妻は今も悲しい思い出にしています。
 老人にとっての最大の恐怖は、体と精神が回復不能に弱った後にも、苦痛に満ちた日々が長く続くことです。苦しむ期間はなるべく短く、最後はポックリ楽に逝きたいというのは、ほとんどすべての老人の願望でしょう。一般論としてはそれでいいのです。しかし生身の人間を目の前にしては、問題は簡単ではありません。
 本人も無駄な長生きは望まない、老人の世話は非生産的で現役世代の生存を脅かすと考えるのは、決して不自然ではありません。「うば捨て」の伝説時代はもちろん、近代の権力者でも、武田信玄やヒトラーなど、障害者や老人を積極的に排除しようとした例は少なくありませんでした。もちろん現代の人権思想とは相容れないのですが。
 すべての医療は延命治療に過ぎないと考えることができます。人の死亡率は、最初から100%なのですから。ならば医療資源は現役世代の健康維持にこそ優先的に使うべきだという考え方も成り立ちます。老人には積極治療よりも、当面の苦痛をやわらげる緩和ケアが似合うというのは、現代の「うば捨て」思想でしょうか。
 私は今になって須原一秀の「自死という生き方」を思い出しています。自死という死に方ではなくて「生き方」を考えた本でした。老人の幸せな生き方は、幸せな死に方と紙一重の近くにあると感じています。今のままでは、日本人の平均寿命が世界一長くても、あまり威張れる状態とは言えそうもありません。「いのち長きがゆえに尊からず」と言ってしまったら乱暴ですか。
 今日のエントリーは、結論の出ないままにしておきます。
(追記・このブログ2008年3月18日と、そこのコメント欄にも関連記事があります)

少年期の戦中と戦後(56)

戦争は急に止まれない

 昭和二十年(1945)八月十五日の終戦放送を境にして、世の中は正反対にひっくり返ったわけだが、私の日記帳は淡々と毎日の出来事を綴っている。誰かの随筆に「戦争に負けたのに、汽車がいつもの時間に走っているのを見て感動した」という経験が書いてあったが、毎日の生活が破壊されないかぎり、人間のすることは急には変らないものだ。
 翌十六日に、学校で勅語の奉読式があった。生徒を立たせた前で、校長が四角い黒塗りの盆から詔書を取り上げて朗読した。その詔書が、いつもの立派な厚い紙ではなくて昨日の新聞の切り抜きだったから、滑稽で少し気の毒でもあった。途中で読めない字があったらしくて、しばらく考えている時間があったから、「ハゲヤクワン(校長のあだ名)は途中でつっかえた」と面白そうに日記に書いている。そのあと授業はなく、友だちと雑談をして、「オレ昨日は涙がでちゃった」と言う者が出てきたりして、その辺から終戦を話題にすることが禁句でなくなった。
 校舎を使っていた通信隊の兵隊は、「山奥へ立てこもって匪賊でもやるか」と、元気そうに言っていた。空には日本の飛行機が飛び、「航空隊は戦いつづける」というビラをまいているという噂だった。偵察らしいB29が飛んでくると、高射砲は今まで通りに発砲していた。ただし空襲警報は、もう出なかった。
 十七日になると、内閣が総辞職して、東久邇宮を首相とする新内閣が発足した。皇族が総理大臣になるのは、史上初めてということだった。天皇が直接に政治に乗り出したような印象があった。これなら日本の国は、なんとかなりそうだという安心感が、少しあったような気がする。私も今にして、日本の国民の天皇に対する意識として、微妙な感情があったことを認めざるをえない。たとえば天皇のむびゅうせい無謬性、まさかのときの神頼みというような。
 日記によると、少なくとも十八日までは、日本の戦闘機が自由に空を飛び回っていた。旋回してビラをまくのを見て、自転車で力のかぎり追いかけたのだが、残念ながら自分で拾うことはできなかった。姉から聞いた話だが、「海軍航空隊は、あくまでも戦う」というビラだったということだ。
 もう灯火管制はいらないと思えたのは、三日目あたりからだったろうか。それでも私の提案で門灯に久しぶりに電球を入れて門前を明るくしたとき、父はあわてて「よせ、よせ」と止めた。近隣がまだ暗いのに、たしかにわが家の前の明るさは突出していた。あの家は敗戦を喜んでいると思われたらまずいという配慮もあったかもしれないが、とにかく目立ちすぎることは事実だったから、私も短時間の実験だけで消した。ところが翌日になると門灯はつかなくなっていた。調べてみると、電球がねじ切られていた。電球を盗もうとして外しそこなったのだろうと思ったが、悪意で電球を壊したように見えなくもなかった。しばらく電球は入れないことにした。

貫井徳郎の「乱反射」を読む

 「全く新しい社会派エンターテイメント」と帯の背文字に記した500ページあまりのミステリー小説でした。この本との出会いがまたミステリーめいていて、昨年の11月にこのブログで「神田川のやさしさ」という記事を書いたのが発端でした。その元になったのは朝日新聞に載っていた写真で、その担当カメラマンが寄せてくれたコメントが縁になり、写真の個展を見に行ったところ、その個展のテーマが「乱反射」なのでした。
 この小説は「週刊朝日」に2007年8月から1年2ヶ月にわたって連載されたもので、ある事件を中心にしてマイナスの時系列から始まるという、ユニークな構成になっています。現代人の何気ない日常の小さな出来事の羅列から、話は始まります。登場人物がどこまで増えるのかもわからないまま、関連のなさそうな単品の行動が積み重なって行きます。その中には、ちょっとした人間の弱み、たとえばゴミ処理のいいかげんさとか、公務員の怠慢とか、夜間診療の安易な利用とか、車の路上放置といった、現代的な無責任が含まれています。
 そして、それらの無責任が1点に集まった一瞬の事件で、2歳の幼児の生命が失われるのです。親の悲しみと怒りには限りがありません。父親は新聞記者でした。愛児を失った絶望の渕から、怒りの真相究明へと突進することで立ち上がろうとします。しかし、どこまで行っても真犯人を突き止めることができません。誰にも少しずつルーズなところはありました、しかし責任を追及できるほどの落ち度ではありません。心の痛みを感じてくれる人はいますが、「何で自分が責められなければならないのか」と、逆に激怒する人もいます。それでも、子供が死んでしまった事実は動かしようがないのです。
 ついに父親は、自分の行動の中にさえ、小さなルール違反があったことを思い出して愕然とします。そこから小さな希望と癒やしらしいものが芽生えるのでした。
 要約してしまうと作品を矮小化しますが、ふだん読まない種類の本にもかかわらず、最後まで緊張感をもって読み通すことができました。現代社会に潜む欠陥は、結局は自分を含むすべての人間が内蔵している欠陥の反映ではないのか。私の読後感には、仏像の姿が浮かんできました。仏はなぜあのように悲しげで、かつ微笑むような表情をしているのか。あれは、すべてを見通しているからではないのだろうか。

少年期の戦中と戦後(55)

それぞれの玉音放送

 昭和初期までに生まれた者が共有できる話題に、「八月十五日の『玉音放送』を、どこでどのように聞いたか」というのがある。それを聞くと、その人の年齢も立場も、だいたいの見当がつくのだ。
 国民学校三年生だった私の妻は、静岡と山梨県との県境に近い山村で、この放送を聞いた。父親は出征中、乳児とともに静岡市内に残った母親と別れて、六年生の兄を頭に四人のきょうだいが祖父母とともに、馬小屋を改造した小屋で気兼ねの多い暮らしをしていた。この日妻は「もうこれで空襲があるたびに『神様、お母さんをお守りください』と、泣きながらお祈りしなくてもいいんだなと、とても嬉しかった。」と手記に書いている。
 兄は沼田の迫撃砲部隊にいた。集められてラジオを聞いたのだが、雑音が多くてよく聞き取れなかったそうで、何か言わなければならなくなった部隊長は、「思うにこれはソ連に対する宣戦の布告である。わが部隊の任務は、ますます重い。」と訓示したということだ。兄たちの一期前の部隊は、沖縄へ送られて全滅したとも聞いた。兄の新兵生活は、一通りは苦労したようだが、エリート高校生ということで、学科などの成績は格段の差があったから、それなりに一目置かれたようだ。ただしボロ兵舎で被服も十分でなく、食物が悪くて毎日のように下痢で悩んでいた。肝心の兵器は旧式のガタガタの代物だったと、復員してから聞いた。
 妻の父親は豊橋の連隊にいて、出動のための船を待っていた。しかし船の手配の遅れで待機がつづいている状態で、この日を迎えた。「この放送のおかげで命拾いをした」と、実感をこめて語っていたのを何度も聞いている。
 遅すぎた終戦ではあったが、この放送で多くの人が救われたことは事実である。おそらく国家としての形態を保ったままで意思決定できる、最後のタイミングに近かったことだろう。戦争は、臣下が作り上げた計画を、天皇が渋々ながら裁可したことで始まった。その戦争が失敗に終って収拾がつかなくなったとき、臣下は天皇の地位つまり「国体」がどうなるかわからないことを理由に決断を遅らせて、誰も責任をとろうとせずに天皇の決断を要請した。天皇の地位は国民の自由な意思で決定されるとの連合国側の説明を、天皇が「それでよい」と裁可したことで、終戦は決定したのだ。ここでは天皇が決めたことは絶対だからという理屈で、臣下が免責になった。
 しかしこれらの過程は国民とは無縁のところにあった。政府が決めて天皇が裁可した方針は、変更不可能な絶対のものであって、天災と同じことだった。あの空襲下でさえも、戦争は止めたければ止められるものだということは、誰の頭にも浮かばなかった。嵐は早く過ぎ去ってほしいという思いはあったものの、それを止められる力は「天」にしかなかったのだ。終戦の告知は、やはり「天皇の声」でなければならなかったのである。

海賊退治の妙案は

(熊さん)ご隠居、日本の自衛艦が海賊退治で活躍してるそうじゃないですか。
(ご隠居)そうさな、今んところは外国の船からも感謝されてるようだ。
(熊)で、ずっと活動つづけられるように法律作るって話が出てるんでしょ。ご隠居はそれに反対だって聞いたけど、どうしてなんです?
(隠)日本は憲法で戦争はしないと決めてるのは、熊も知ってるだろう。それがどうも怪しくなってるんだ。国際貢献ならいいじゃないか、国と国との戦争じゃないんだから、憲法には違反しないと思うことにしようという議論まで始まってる。ここで一歩を踏み出すと、日本は日米同盟を結んでるから、アメリカ軍といっしょに世界中のどこの戦争へでも参加する道が出来てしまうんだよ。
(熊)ふうん、そうですかね。でも、自分の国の船を守るのを、外国の軍艦に頼むってぇのも格好悪かぁないですか。
(隠)今は国連で協議して、いろんな国が対策に乗り出してる最中なんだ。軍艦で守るのはあくまでも当面の対策で、ソマリアの治安回復が大事だってことは、誰でも認めてる。遠くから競争に参加するみたいに軍艦を出すよりも、日本が貢献する方法は、いくらでもあるわな。当面の自衛策がないと心配だってんなら、武装した海上保安官を船に乗せる方法もあるんじゃないか。いわゆる「警乗」だな。サーチライトとか大音量スピーカーとか防弾盾とかも組み合わせて、日本の船は手ごわいぞと思わせればよかろう。
(熊)ご隠居は戦争の時代を知ってるから、戦争に巻き込まれるような道へ行っちゃあ、いけねえってこってすね。
(隠)そうよ。アメリカと戦争する羽目になったのも、中国との「支那事変」が始まりだった。これは戦争じゃなくて事変だと言ってるうちに止まらなくなったんだ。物事はすべて最初が肝心ってことだ。よく覚えとけよ。
(熊)へえ、ご隠居の海軍びいきも、やっぱし憲法優先ですか。
(隠)熊も知ってるだろうが、日本の憲法9条は世界の宝だ。決して戦争しない先進国が世界に一つある。このことを日本の外交の武器にすればいいんだ。世界から尊敬される国になれば、何よりも強い安全保障になるということだ。自前の傘に「戦争無用」とでっかく書いて、世界に広げてやるさ。
(熊)よっ、大統領!

少年期の戦中と戦後(54)

第七章 戦争が終った

玉音放送を聞く

 昭和二十年(1945)の八月十二日は日曜日だった。この年の夏休みはどうだったかについては、記憶もなければ日記の記録もない。八月になっても壕作りに動員されているから、まとまった休みではなかったような気がする。十二日も十三日も、激しい空襲はなかった。とくに十三日は、空襲警報は出て敵の小型機が上空を旋回しているのに、薄曇りの空に散発的な高射砲が上るだけという、間の抜けた空襲だった。
 十四日にも空襲の記録はなく、大本営発表は鹿島灘東方で敵空母と巡洋艦各一隻を撃沈と伝えていた。同時に樺太にソ連軍が上陸し、朝鮮では五十キロ、満州では二百キロまでソ連軍が侵入したと発表している。そしてこの日午後、ラジオで「明日正午に重大な発表があります」との告知があった。ソ連への宣戦布告ではないかという予想もあったが、日本の降伏を予想する意見は、家の中でも言葉としては出なかった。そして十五日の朝になると、正午からの放送は天皇の玉音によるものであるから必ず聞くようにとの注意が、何度も繰り返された。朝の新聞は配達されなかったが、その意味は誰にもわからなかった。空襲もなく、静かなままで昼になった。
 時報につづいて情報局総裁の紹介アナウンスがあり、君が代の演奏が流れた。そのあと、聞き慣れない声で抑揚の少しおかしな勅語の朗読が始まった。「ここに非常の措置をもって事態を収拾せんと欲し……かの共同宣言を受諾する旨通告せしめたり……」あたりで、ポツダム宣言を受諾して降伏する決定であることがわかった。家族はもちろん全員で聞いていたのだが、放送が終っても、とくに激しい感情は起こらず、言葉は少なかった。戦争が終ったことはわかったが、これからどうなるのかは、誰にも何もわからなかったのだ。ただ私としては「家が焼けないで残った」ということを強く意識して、それを口にも出したような気がする。しかし、喜んだりしたら悪い、というような気分があったことは確かだ。なにしろついさっきまで戦争継続を前提にすべてが動いていたのだから。
 やや落ち着いて物が考えられるようになったのは、午後の三時ごろになって、やっと当日の新聞が配達されてからである。家では新聞は五種類ぐらいとっていたから、みんなで順番に食い入るように読みふけった。紙面はみごとに終戦を伝え、敗戦の現実を知らせるものになっていた。御前会議の記事の見出しは「真白い手袋を御目に」と、決断した天皇の涙を伝えていた。父は広島の原爆の記事を読みながら「悪いものを作りやがって」とつぶやいた。そのとき私は初めて涙を流した。負けたことは、やはり口惜しかったのだ。
 その夜の食事がどんなものだったのか、私は覚えていない。叔父はいなくて、家族だけだったと思う。母はどんな気持だったのか、そのときもその後も、私は聞いてみたことはないのだが、子供たちのために、深い安心を感じていたのではないだろうか。

海賊法案とマスコミの劣化

 昨夜来のテレビニュースは、大阪の女児死体遺棄事件と、有名タレントの全裸事件で持ち切りになってしまった。どちらも現場中継を繰り出す力の入れようだが、山中の墓地や現場の公園からレポートすることに何の意味があるのだろう。そんな所から「事件の核心に迫る最新情報」などが出てくるわけもないのに、スタッフと機材を派遣して無駄な騒ぎをしているとしか思えない。こういうものを見ていると、つくづくマスコミの劣化ということを考えてしまう。野次馬レベルでしか、物を見られなくなっているのだろうか。
 その一方で、国会での海賊法案の行方などは、小さな扱いになってしまった。あとは参議院での審議と否決、そして衆議院での再可決で成立という見通しになる。それが日本にとってどれほど重要な意味を持つかについての議論は、もう聞かれない。天木直人氏は、朝日新聞の購読をやめる人の話をブログに書いているが、私も50年来の習慣を、ふと疑う気持になった。
 ネットで記事を探すと、麻生首相は「集団的自衛権の行使」についての解釈変更を、本格的に検討し始めたようだ。国際紛争を解決する手段としての戦争を、日本の憲法は禁止している。だから外国と同盟しても、参戦つまり海外での武力行使はできないというのが、これまでの歯止めだった。これを「呪縛」ととらえると、また一段の「解釈改憲」が必要になるのだ。
 やっかいなのは、現代の戦争が「宣戦布告をした国家間の戦争」ではなくなっていることだ。アフガニスタンでもイラクでも、アメリカは宣戦布告をしていない。国家間の正式な戦争だけを憲法は禁止していると狭く解釈すれば、現代のすべての戦争に自由に参加する道が出来てしまう。思い出せば、日本は太平洋戦争の4年前に始めた日中戦争を、「支那事変」と呼んで戦争とは認めなかった。だから戦時国際法にも拘束されないとして残虐な行為もしていた。今のアメリカに似ている。
 今のソマリア沖への自衛隊の派遣を、国民の6割以上が支持しているそうだ。サーチライトと大音響の威嚇で海賊を撃退していると聞いて、それ位ならいいじゃないかと思う人は多いだろう。だが、戦争とは何か、原理原則を外したら何が起こるか。今のマスコミ界に「憂国の志士」はいないのだろうか。

少年期の戦中と戦後(53)

新型爆弾とソ連の参戦

 八月七日の午後、久しぶりの大本営発表があった。昨日六日に少数のB29が広島に飛来して新型爆弾を投下し、そのために相当の損害を受けたというものだった。そのあと簡単な説明があって、この爆弾は落下傘がついていて空中で爆発し、大きな爆発力と高い熱を発生するということだった。熱を防ぐには、白い布を被るといいというようなことも言っていた。私の日記には、勝手な解釈で「破片が遠くまで飛び散るのだそうです。」などと書いてある。
 翌日の新聞には「敵、残虐なる新型爆弾を使用」などと書いてあったが、写真もなく、くわしい解説が出ていたわけでもない。要するに何のことかよくわからなかった。一瞬で広島の市街が壊滅し、十四万人の死者が出たなどとは、想像も及ばないことだった。戦争の初期から、「マッチ箱ぐらいの大きさで戦艦も沈めてしまうような、すごい爆弾が研究されている」という話は聞いたことがあった。しかし兄はいなかったし、この新型爆弾がそのような全く新しい種類の兵器だということは、父にもすぐには理解できなかったようだ。
 八月九日には、ソ連軍が満州で国境を越えて侵入したというニュースが飛び込んできた。やがてソ連が日本に対して宣戦を布告し、日満軍は自衛のために迎撃中という発表があった。「日ソ不可侵条約は成立の基礎を失った」というスターリンの声明があったということで、それを伝えるラジオは、昨日までは必ず「スターリン議長」と呼んでいたのに、この日から「スターリンは……」と呼び捨てになった。それを聞いて、ソ連が敵国になったことを実感した。
 この日には、長崎に二発目の原爆が投下されている。しかしそのニュースをラジオで聞いた覚えがない。翌十日の新聞に、小さくふつうの事件のような扱いで「長崎にも新型爆弾」と出ていた。しかし大きな見出しはすべてソ連軍との戦闘で占められていた。さすがに父も「これはどうなるんだ」と不安を口にしたのだが、もちろん家族の誰も、どうにもする方法はなかった。
 ソ連の攻撃と呼応するかのように、十日には激しい昼の空襲があった。戦爆(戦闘機と爆撃機)連合の大編隊が関東地方に来襲して、東京上空の中高度にも、昼近くにB29が整然とした編隊で爆撃に来た。爆音だけで家のガラスがビリビリ共鳴するほどの大音量になり、爆弾が近くに落ちたときは振動で隣家のガラスが数枚割れた。「B29が並んで通って行くのはとても見事で、一機は白煙を吐いて墜落しました。」と日記に書いてあるのだが、どうして壕にも入らずに見ていたのか、自分でも理解できない。
 この夜の大本営発表は、樺太へのソ連軍の攻撃などを伝えていたが、その中に一つだけ明るいニュースがあった。北朝鮮沖でソ連軍の空軍から攻撃を受けたわが護送船団は、そのうち十四機を撃墜して撃退し、わが方には被害なしということだった。これは大本営発表の中でも数少ない本当のニュースだったと言われる。歴戦のアメリカ軍機とは格が違ったのだろう。


小野雅楽会を聞く

 映画「靖国」を見た同じ日の夜に、東京オペラシティーのコンサートホールで「小野雅楽会・百二十二年の会」の管弦と舞楽を鑑賞しました。特段の趣味があったわけではなく、当日の昼近くに、邦楽一家の友人から「切符が一枚あるの、いらっしゃいよ」と誘われたのでした。「急な話だね」と応じると、「こういうのは急に決まるのがいいのよ」という豪快なお誘いでした。ですからこの日は、靖国の映画と雅楽の舞台がごっちゃになって、さすがの私も整理がつかないまま、ブログも休んで寝てしまった次第です。
 パンフレットによると小野雅楽会は、民間の雅楽演奏団体として最も古い歴史を持ち、大陸的生命力と雄大な響きをめざしてきたということです。演目は第一部「管弦」が壱越調音取(いちこっちょうのねとり)、賀典(かてん)の破急、朗詠の嘉辰(かしん)でした。第二部「舞楽」は、振鉾(えんぶ)、萬歳楽(まんざいらく)、抜頭(ばとう)の3曲で、管弦は舞台の左右に分かれての演奏でした。
 演奏も舞いも、非常にゆったりとしたテンポです。以前に何かの本で「雅楽のテンポは、昔は今よりも早かったと考えられる。細部を丁寧に伝承している間に、時間が伸びてきたのではないか」という説を読んだ記憶があります。短い時間を計る時計がなかった時代には、音の高低よりも、時間の長さの方が変動した可能性はありそうです。それにしても、雅楽が、ゆったりとした悠久の時の流れを感じさせることに変りはありません。
 今日になって、Wikipedia 程度ですが、後学問で雅楽のことを調べてみました。ナマ演奏を見て聞いた後ですから、いろいろ思い当ることもありました。主要な楽器の笙(しょう)は、天から差し込む光を表すのだそうです。パイプオルガンのように複数の和音を奏でるのですから納得です。龍笛(りゅうてき)は横笛(おうてき)ともいい、天地の間を縦横無尽に駆け回ります。篳篥(ひちりき)は地上の人々の声だそうで、言われてみれば人間くさい親しみがあります。
 篳篥は音程の難しい楽器で、低めの音から出して探るようにして音を整えるということです。そこからあの独特の、漂うような音の流れが生まれるのでしょう。そのほか、鞨鼓(かっこ)を打つ先頭の人が全体の指揮者の役割をすること、笙は音程を保つために演奏の合間でも火で温めることなどを、友人から教えて貰いました。思いがけず貴重な経験のできた晩でした。

少年期の戦中と戦後(52)

黙々と壕を掘る

 ポツダム宣言は隣組でも学校でも、決して話題にされることがなかった。もしもあのとき「それでいいから戦争をやめてくれ」という意見が国民の間から多数出たら、政府の対応は変ったかもしれない。情報を公開したのは、国民の反応を見ようという意図があったからだ。政府はすでにソ連を仲介とする間の抜けた和平交渉を考えていた。しかし国民はあまりにも従順だった。「戦い抜こう大東亜戦」のスローガンに慣らされ過ぎて、それ以外の発想の自由を失くしていた。「降伏」を口にしたら特高警察に捕まるという恐怖もあった。国民の意見を聞く道は、政府自身の手によって閉ざされていたのだ。
 わが家では七月の下旬から新しい壕掘りが始まった。母屋の地下を南北に貫く大トンネルの計画で、避難用ではなく、家財を収納する安全な地下室を作る趣旨だった。母屋もいずれは空襲で焼けることが必至だったからだ。この工事には叔父の巡査仲間が全面的に協力してくれた。竪穴の上には丸太を組み合わせて重石でバランスをとる簡易起重機を設置したから、土の運び出しの能率は、格段に向上した。一週間もしない空襲の真っ最中に、南北の穴は貫通した。日記によると、この前後は空襲警報は気にしないで壕堀りばかり続けていたようだ。
 父はとっくに東京に居座る覚悟を決めていたと思う。もし家が焼けたら、そのときに下の姉と私の疎開を考えればいいと思っていたのだろう。父もやはり過度に時代に適応した人だった。もしあのまま東京に地上戦が迫っても、その中で家族を守ることを考えたのではなかろうか。
 壕堀りは学校でも盛んに行われた。八月四日には分校の生徒も全員集められて、三年生以上の全員で区役所横の焼け跡に建築中の壕舎作りの仕上げを手伝った。土を掘り下げ、柱と板囲いを作ってから土を埋めもどして最後に屋根を乗せるのだが、その屋根の上に五、六年生が赤土を篭で運んできてかぶせ、三、四年生が足で踏み固めた。朝の八時半から一日かけて、立派な壕舎が出来上がった。木造校舎の地下に掘られた防空壕は危険だということが、ようやくわかったのだろう、この頃には全く使われなくなっていた。私は家に帰ってからも自宅の壕掘りを夜遅くまで手伝ったので、今日は朝から夜まで壕掘りだったと、日記帳でぼやいている。
 その前日の八月三日には、昼間に一機だけで来たB29が、久しぶりに高高度で通過した。こういうB29には、日本の高射砲は発砲しなくなっていた。双眼鏡で見ていると、B29は何か煙のように広がるものを次々に投下した。よく見ると、それは無数の宣伝ビラだった。双眼鏡の視界一杯に、ばい菌のような小さな白いものが、うようよとうごめいていた。青空を背景にしたそれは、美しいとも言えるものだった。おそらくは日本の降伏を促すビラだったのだろう。まっすぐ落ちてこないかと期待していたのだが、風の流れは合わなくて、どの団塊も遠くへ外れて行ってしまった。自転車で追いかける気にならなかったのは、空襲警報発令中だったからだろうか。

映画「靖国」を見る

 やや時期遅れですが、昨日、川崎の宮前九条の会で映画「靖国」を見る機会がありました。右翼の上映妨害行動で一時は騒がれましたが、制作の趣旨の通り、日中韓3国の連携で作られた、すぐれた映画作品でした。公正で冷静な視点で靖国問題の本質に迫っており、私たちが気づかない多くのことを教えてくれます。
 靖国神社の象徴として選ばれたのは、境内で作りつづけられた「靖国刀」でした。それは大日本帝国の「武」の根源であり、幾多「聖戦」の戦力の象徴でもありました。中国大陸では、百人斬りなどの殺人競争や、捕虜を使っての試し斬りといった「実用」にも用いられたのでした。
 8月15日には、靖国神社の境内は異様な雰囲気に満たされます。聖戦遂行のための装置としての靖国が、本来と寸分も違わぬ姿で復活するのです。そこにあるのは、郷愁でも追憶でもなくて、「現役」としての精神の高揚です。その中で「平和」や「和解」を祈念するのは、場違いな行為でしかないでしょう。靖国の本質は、昔も今も、少しも変ってはいないのです。つまり靖国神社は、鎮魂の墓苑ではなくて、軍神の神社なのです。
 靖国が日本の国内だけの問題に止まっていられないのは、台湾や韓国の人たちもかつては「大日本帝国臣民」であり、軍神として平等に祀られてしまっているからです。この人たちの分祀つまり名前の削除を求める願いに、靖国神社は応じていません。神として祀ったものは、人の力で動かすことができないという理屈なのだそうです。相手の心に寄り添うという謙虚さも柔軟性も、期待できそうにありません。
 これらの事実を、李纓(リイン)監督は、一言のナレーションも加えずに、現場の映像と現場の音声だけで綴って行きます。言葉での主張が述べられないだけに、かえって言いたいことがよく伝わるという、高度な演出を成功させていました。
 これは日本人にとっての愛国心とは何であるかを、鏡に映すように、違った角度から見せてくれる、奇跡のように貴重な映画作品です。若い人たちにも見てほしいのですが、ただ、基礎となる知識なしに表面だけを見ると、一つの風俗の描写と見られて終る心配もあります。会場の観客がお年寄り中心で、老人クラブのようであったのが少し残念でした。

少年期の戦中と戦後(51)

無視されたポツダム宣言

 沖縄戦が終り、兄が入営してしまったあと、上の姉も第一高女を卒業して自由学園に入り、寮に入ることになった。自由学園は「婦人之友」を創刊した羽仁もと子が創立した学校で、キリスト教的「自主、自労」の精神を尊ぶ教育方針を掲げていた。戦時中も「自由学園」の名を守り抜いたユニークな学校で、文部省の学校令によらず、従って正式な学歴を目的としない教育を貫いていた。父がこの学園を姉のために選んだのは、その反骨精神が気に入ったからかもしれない。それにしても、入学式が七月一日とは、いろいろな混乱があったのだろう。入学式の前日には、姉の友だちが四人も家に集まって、米の粉でお団子を作って食べたと日記に書いてある。
 七月の十八日になると、敵艦隊は鹿島灘の沖に現れ、水戸市と日立市に艦砲射撃を開始した。数日後には、房総半島南方二十キロで、わが輸送船団の護衛と敵艦隊との間で海戦があったと報じられた。東京湾の鼻先も、もう日本の海ではなくなったのだ。七月二十四日には、敵機動部隊の艦載機、沖縄と硫黄島基地からの中小型機が合計して約二千機、さらにマリアナのB29約七百機が来襲して、東海、中部、関西地方に最大規模の空襲があったと報じられている。そして「わが方に若干の損害がありました」とだけ書いてある。「若干」で済むわけはないのだが。
 記録によれば、この二十六日に連合国は日本に対して降伏の条件を示す「ポツダム宣言」を発表している。これは直ちに日本国内にも知らされるという異例の措置がとられた。私もラジオで聞いたし新聞でも読んだのだが、意外なことに日記帳のどこを探しても関連する記述がない。日本のことを敵国が勝手に決めているという、バカにされた不快感が強かったことは覚えている。「日本の領土は、北海道、本州、四国、九州及び、われらの決定する諸島に限定せらるべし」という条件も当り前のことで、それが寛大な条件などとは夢にも思わなかった。この条件を呑めば戦争が終るのだという、前向きな考えは、全く浮かばなかった。私だけでなく、父からも母からも叔父からも、ポツダム宣言が話題にされることはなかった。なぜみんなで無視したのか、今でもその理由はわからない。
 わが家の空気をそのまま移したように、数日後に「ポツダム宣言は黙殺する」との内閣情報局の談話が新聞に小さく出た。新聞の論説も尻馬に乗るように、「返事なんかしなくていい、黙殺に限る」という趣旨を書いていた。私は、そんなものなんだろうな、俺たちにはどうせ関係ない話だよなと、にぶい頭で考えていた。事実は、この黙殺発言が決定的だったのだ。ソ連の参戦も原爆の投下も、いずれもこの「黙殺という名の拒否回答」を理由として行われた。日本の国民を長く苦しめることになる二つの大きな災厄を呼び込んだこの黙殺発言は、じつは「ノーコメント」の気持だったという。私もあのとき、父にちゃんと問いただしておくべきだったのだ、ここで降伏しないと、どうなるのかと。

少年期の戦中と戦後(50)

沖縄戦の最後

 戦前の少年にとって、沖縄はあまりなじみのある県ではなかった。もちろん「内地」の一部ではあるのだが、鹿児島と台湾の間にある小さな島というだけの知識だった。観光で有名ということもなく、物産も偉人も、沖縄から連想するものは何もなかった。知る限りの知人の中にも、沖縄とかかわりのある人はいなかった。だから三月の末にアメリカ軍の上陸が始まったときも、日本の本土の一部が攻撃されていて、そこには日本の同胞がいるという切実な感覚はなかった。ただ地図を見て、こんなに近い所まで攻められるのでは大変だと感じた程度だったと思う。いま沖縄という地名を口にするときに、一種の切ない愛しさを感じる私の感覚は、すべて戦後になってからの見聞によっている。
 四月以降の私の日記帳でも、沖縄の戦況はもちろん大きな部分を占めている。その大半は特攻隊の攻撃で敵艦を何隻沈めたという大本営発表の「戦果」の羅列にすぎないのだが、沖縄での戦闘は三ヶ月近くもつづいた。その間にはルーズベルト大統領の急死や、ナチス・ドイツの崩壊といった大ニュースもあった。沖縄は、よくがんばっているというのが、当時の印象だった。というのは、それまでのアッツ島から硫黄島に至る島々での玉砕では、敵の上陸が報じられ、激戦中との報道や戦果の発表があって、最後に「海ゆかば」の曲つきの大本営発表で守備隊の玉砕が伝えられるまで、二週間から一ヶ月ぐらいというパターンが何度も繰り返されていたからだ。
 戦略的に言えば、サイパン島を失ってからの日本の戦争は、絶対に勝てる見込みのないものになっていた。あとは「できるだけ抵抗して時間を稼ぐ」という問題先送り思考になるのだが、時間があれば本土防衛の準備が整う保障などは、何もなかったのだ。千葉では海岸地帯から子供と老人は退去するよう勧告があり、それ以外は逆に移動を止められたと聞いている。住民を竹槍で戦わせるつもりだったのだろう。
 沖縄ではよく戦った、しかし軍は最後の突撃を敢行したという大本営発表は、私の日記では六月二十五日の午後二時半と記録されている。そして三ヶ月に及ぶ戦闘の「戦果」として、地上で約八万人、海上で撃沈破約六百隻の損害を敵に与えたと総括している。その間に沖縄の県民はどうなったのか、私たちに届いた情報は何もなかった。ただサイパン島のときのように、「現地民間人も、おおむね軍と運命を共にせるもののごとし」といった言及もなかった。
 私にも、何の想像力も働かなかった。「ああ、沖縄も終ってしまったな」と思っただけである。私は東京で毎日空襲を経験してはいた。しかし家が焼けもせずに空中戦を見物していたのを、戦争体験と呼ぶのは、おこがましいだろう。戦争をすれば人は死ぬ。その現場にいた人と、現場にいなかった者とは、感覚を共有することはできない。映画を見、本を読み、現地で体験者の話を聞くことで私の感覚は変った。だから私はやはり「戦後世代」の仲間なのだ。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
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