志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2009年05月

「二十二夜待ちの月」の再演を見る

 松戸市民劇団の「二十二夜待ちの月」を見てきました。この芝居は、木下順ニ原作の民話劇を石上瑠美子が構成・演出したもので、昨年6月にも新人公演として上演されました。劇団のアトリエ(本拠・稽古場)を50名ほどの小劇場に改装しての公演です。再演ですから、内容の紹介については、私の昨年のブログ記事と大差はありません。農民の素朴な月待ち信仰を通して、村人たちの人間的な結びつきが描かれます。観客まで巻き込んでの飲食や歌や踊りの盛り上げは、初演よりもさらに徹底していました。
 深夜の宴が盛りの最中に、盗賊の親分が乗り込んできて、後半は逃げ遅れた老婆と孫息子が、盗賊に脅されながら一夜を過ごします。老婆に仕えて何でも言うことをきく孫息子の愚直さを、盗賊は罵りながらも、いつか根負けして寝込んでしまいます。夜が明けたとき、盗賊は「俺も家に帰ろう」とつぶやき、帰って行く老婆と孫息子の後姿に向かって「達者で暮らせよー」と呼びかけるのでした。
 劇団には、今回も3名の新人が参加したということで、前半の群集場面は、劇団としての一体感を育てる格好のトレーニングの場となったことでしょう。この前半部分に対して、後半では個人の演技と「間」の取り方が生きてきます。要するに、短編ながら演劇に必要な二つの要素が、典型的に組み込まれているのです。だからこその再演だったのでしょうし、噛めば噛むほど味の出る演目として、劇団の定番にしてもいいのかもしれません。
 会場には、花てぼさんとナツさんも見えて、劇の後でうたのすけさんもごいっしょにお茶の時間も持てました。劇であれ朗読であれ何であれ、共通の話題が持てるというのは、楽しいことです。松戸市民劇団の皆さんも、経済不況の中で台所は楽ではないようですが、人間的つながりを力にして、がんばっているのだと思いました。
 帰りの新八柱の駅で、反対方向に行く花てぼさんに、2本の線路をはさんだホームから、さよならのあいさつをしました。最後に「達者で暮らせよー」と言えばよかったと、今になって、ちょっと残念です。

少年期の戦中と戦後(90)

電産ストとインフレ激化

 昭和二十一年(1946)というのは日本の労働運動にとっても重要な年で、多くの有力な組合が、この年を発祥の元年としている。私は後に労働運動の歴史を体系的に扱うようになるのだが、当時の日常から労働組合の動きを辿ってみよう。
 十一月二十六日の日記に「このごろまた電産ストが始まったのか、夜になると六時、七時、八時ごろに必ず十分ぐらいずつ停電するようになった。」と書いてある。その前の「十月攻勢」では、もっと長い停電ストが頻発していた筈である。ラジオの「日曜娯楽版」では、「明日の電気予報を申し上げます。関東地方は送電のち停電、ところにより、ついたり消えたりするでしょう。」などとやっていた。それに石炭不足による発電量の不足と、都市ガスがないために電気コンロの使用が増えたから、電圧の低下や計画停電も頻発していた。停電回復の見込みを電灯会社に電話で問合せたら「計画停電なので、わかりません」と言われたという実話がある。
 電気産業の労働組合は昭和二十一年四月に「電産協」を結成している。この電産協が十月闘争を記録して「我ら電気労働者」という映画を作っているのだが、これがなんと35ミリの劇場映画の規格で作られていたから、昭和四十年代に発見したときには驚嘆した。当時の産業や労働者の生活も記録されている貴重な資料で、映画人が全面的に協力したのに違いない。停電ストの実況も記録されている。定時に配電盤のスイッチを落とすと、東京の街が一瞬にして暗闇に沈むのだ。この場面を組合の記念行事などで上映すると、大きなどよめきが起こったものである。
 私の日記には、十二月二十二日に家族で銀座の食堂に入った記事があり、ココアが五円、汁粉が七円だったことがわかる。たいへんな物価の高騰だが、同日の地下鉄は五十銭である。公共料金と自由価格との格差が開いているのだ。このころの労働組合の記録には、賃上げ三倍増要求というような例が、いくらでも出てくる。民間の組合は労使の力関係で交渉するからそうなるのだが、官公庁や国営事業の賃金は簡単には上らない。結果として、この時期の官公労働者の賃金は、民間の半分以下だったと言われている。今とは逆に「民高、官低」になっていたのだ。こう考えると、当時の労働攻勢が官公労組主体となり、先鋭化した理由が、よくわかる。
 電産協も翌年には組織を単一化して「電産」となり、産別会議の闘争の主役になるのだが、昭和二十年代後半にも停電スト、電源ストを乱発して世論の批判を受け、組織の分裂を引き起こした。そしてスト規正法の制定を招き、電力民営化、全国九電力の分割へと進んで行った。その歴史は、後の国鉄民営化と非常によく似ている。
 この年末に、私は父に連れられて神田方面へノートの買いだめに行っている。何軒もの文具店を回って三百四十五円を使い、合計四十七冊を買った。一年前なら高給の月収に当る金額である。値上がりが目に見えていたのだ。

党首力と投手力

 朝の寝ぼけ頭に入ってきたテレビの音声で、いつの間にかスポーツ番組とニュース解説がごっちゃになっていました。「投手力の差が試合を決めた」ような話だと思ったら、麻生、鳩山の党首討論の話になっていました。「とうしゅりょく」のイントネーションは、どちらも全く同じです。
 考えてみると、政党の党首の役割は、野球の投手に似ています。チームの守備力の6割以上は投手が負っていると聞いたことがあります。実感としては、それ以上かもしれません。その自公チームの麻生投手が、ショート・リリーフだと思っていたら、予想もしなかった長いイニングの登板を続けています。最初のうちは暴投やチョンボの連発で、どうなることかと先が危ぶまれたのですが、マウンドを踏む回数が増えるにつれて、それなりのふてぶてしさが見えるようになりました。
 対する民主チームの鳩山投手は、大ベテランの思わぬ故障で、これまた急遽のリリーフ登板となりました。最初の党首対決での第1球が注目されたのですが、初登板の気負いがあったようで、「友愛」ボールは、やや高めに浮いたようです。麻生党首は余裕の表情を見せてはぐらかしながら、ねちねち攻める曲(くせ)球を投げ返しました。
 なにしろ自公チームはチェンジまでのアウト・カウントを、勝手にいくつでも増やせる特権があると称しているので、始末が悪いのです。アウト3つで攻守交替なら、とっくの昔に退場している筈なのですが、都合のいい理屈を見つけては試合を引き伸ばしています。ここでまた60日の会期延長を言い出していますから、任期一杯までねばる可能性が濃厚になってきました。終電車に間に合うかどうか心配です。
 自公チームでいちばん困るのは、ここへきて真っ向勝負を避け、当面の対策を口実として敬遠策を連発していることです。痛打を浴びて野党に得点させないように、簡単に出塁させて塁を埋めています。負けるときは大きな得点差になる危険がありますが、どうせ負けるなら同じことだと開き直っているようなのです。負の遺産を「残塁」として残さないように、潔い勝負を期待したいのですが、あの党首では無理でしょうね。
(追記・「鳩山友愛論」を、山本さんに教えていただいた資料を手がかりに、短くまとめてみました。「自由が行き過ぎると平等が損なわれる。平等が行き過ぎると自由が失われる。政治とは、所詮はこの2者のせめぎ合いである。友愛の精神は、この2者を調和させるものである。」)

ブログ連歌(80)

1579 政治屋は 白黒分けずに 全て灰色(こばサン)
1580  ことばゲームで 会期は過ぎる(建世)
1581 昨日今日 変わらぬ日々の 頼りなさ(うたのすけ)
1581B 春雨に しじょうを託し 散る債務(恩義)
1582  残す遺産は 廃墟か夢か(建世)
1583 阿修羅像 慈悲と憂いに まなざし深し(みどり)
1584  現代日本を 何と見るらむ(建世)
1585 列島を マスクで覆うは 賛否あり(うたのすけ)
1586  マスク観音 美人に見えて(建世)
1587 その昔 白衣とマスクに 恋ごころ(うたのすけ)
1588  天使語らず 人を語らす(建世)
1589 隣人も 騒音おばさん ぐらいなら(うたのすけ)
1590  インフル次は 原爆地震(建世)
1591 震源地 先に鎮めよの 声もあり(うたのすけ)
1592  短気は損気 タカ派よろこぶ(建世)
1593 総選挙 なりふりかまわず 先延ばし(T)
1594  二大政党 スキャンダルかな(夕螺)
1595 国会も 核に抗議は 全会で(建世)
1596  核の廃絶 地球を守る(みどり)
1597 核の熱 日の丸扇子で 冷ましたい(建世)
1598  それこそ民意 とぼける自公(T)
1599 なにもかも 先送りして 夏に入る(建世)
1600  まさに興醒め 春も束の間(うたのすけ)

少年期の戦中と戦後(89)

昭和二十一年秋の東京

 昭和二十一年の夏が過ぎると、終戦から満一年を経過したわけだが、復興とはほど遠い状況だった。経済安定本部や物価庁が設置され、農地改革が行われ、新憲法の審議と制定が進められてはいたが、経済が立ち直る基盤は何もなかった。賠償として価値のある産業設備は、日本から撤去されるという方針も伝えられていた。戦後処理に必要な経費を調達するため、十月に復興金融公庫が設立されたのだが、これが新円切り替えによる統制を事実上撤廃する結果を生み、インフレが再燃した。
 生活防衛のために企業別に組織されてきた労働組合は、相次いで全国組織に統合されて、共産党系の産別会議と、社会党系の総同盟が並び立った。電気産業も国鉄も産別会議の傘下に入ったから、争議手段としての停電ストや、鉄道のストライキも行われた。さらに石炭の不足により、十一月には旅客列車の削減も行われている。復興どころか、戦後のどん底は、これから来るのではないかという不安さえあったのだ。
 そうした中で私の学校生活はつづいていた。日記によると、通学の電車のトラブルの記事が多い。山手線で駒込から池袋まで、武蔵野(現・西武)線で池袋から江古田まで通っていたのだが、電車の遅延や運休は日常のことだった。満員の電車は、ドアが閉まらなくても発車した。警告するように最初は少しだけ動き、やがて速度をあげるので、乗るのをあきらめるのだった。そんな中でも、進駐軍専用車は空いていた。山手線では外回りの先頭に当る一両がそれで、白く太い横線が入っていた。全部で六両編成だった時代である。武蔵野線は二両または単車で運転されていた。進駐軍が乗ると一両が占領されたり、一両の半分をロープで仕切ったりしていた。
 時代を感じさせる学校での珍事件としては、「進駐軍の教科書調べ」騒動が記録されている。十月二十四日の朝に学校へ着くと、「アメリカ軍が調査に来るので、地図を隠さないといけない」という大騒ぎになっていた。当時の地図帳は古いままで、朝鮮も台湾も日本領になっている。これが摘発されるらしいという噂だった。級長が職員室へ聞きに行ったが、先生が誰もいないという。何もわからぬままパニックになり、地図を集めて隠し場所を探しに校内を走り回った。そのうち「あっ、もう巡査が来た」と声があり、二十名ばかりの日本の警官が入ってくるのが見えた。私はとっさに「下はだめだ、時計塔がいい」と言い、賛同した十名ほどで屋上へ駆け上がった。あとでわかったことだが、防火週間で、消防署の検査などがあったのだった。
 この秋には、神社のお祭も復活している。おみこし神輿が出て、大通りに一杯の人だかりの中を威勢よく揺られて行った。神社の境内には昔のように屋台が出ていて、演芸大会などもやっていた。人は大勢集まっているのだが、屋台の売り物は貧相だった。一回一円の福引を五回やってみたが、小さな「うつし絵」と鉛筆一本しか当らなかったと、日記に書いてある。

「ガザ・和平合意はなぜ崩壊したのか」を見る

 土井敏邦監督の「届かぬ声−−パレスチナ・占領と生きる人びと」4部作の第1作を見てきました。表題の「和平合意」とは、1993年に成立した、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)による初めての相互承認と、パレスチナ自治政府の樹立を内容とする、和平への枠組みのことです。これが成立した当時は、中東の紛争解決に向けた歴史的な合意として、世界的に歓迎されたものです。
 映画は、ガザ地区に住む代表的な1家族に6年間も密着しながら、パレスチナ難民にとってこの合意の実態がどうであったのかを報告しています。そもそも先祖代々の故郷を追われた難民にとっては、帰郷の希望を絶たれる形でのイスラエルとの合意は、耐え難いものでした。それでも昔の10分の1の土地でも与えられるなら、まだ我慢もできたかもしれませんが、一方的に奪われたままでは希望の持ちようもないのです。
 主人公家族の暮らしぶりを見ているうちに、イスラエルによるパレスチナの「分離」が、分離による自由な独立とは程遠い、「封鎖」であったことがわかってきます。主要な産業も働き口もイスラエルに支配されたままで、自由な資材の輸入も、農産物の輸出も認められません。事実上の被占領状態が解除されない状況では、自立した生活向上をはかる手段がないのです。こうした不満が鬱積した状態では、イスラエル兵との紛争は避けられません。銃を構えるイスラエル兵に向かって子供たちが石を投げつける場面は、忘れられません。
 映画には、イスラエル軍のガザからの撤退と、PLO警察部隊の着任の場面も登場します。PLOは最初は熱烈に歓迎されるのですが、間もなくハマスなどとの権力闘争が始まります。民生は向上せず、ガザの人々の暗い現実を描いて、この第1部は終ります。
 この後、選挙で民衆の支持を得たハマスがPLOを追放し、ガザへの封鎖が厳しくなる中で、イスラエル領内へのロケット攻撃や自爆テロが始まり、昨年末からのイスラエル軍の侵攻を招くわけです。映画はガザ難民の生活と意見の一断面を伝えるのみですが、難民と呼ばれる人々の人間らしい「居場所」なしには、その名に価する「和平の合意」は成り立たないことを示しています。

少年期の戦中と戦後(88)

インターハイの蹴球

 日記によると長い夏休みの間にも、八月の後半には「講習会」という名で、希望者に対する教育が行われたようだ。ただし自分を含めて、あまり熱心に勉強した様子ではない。なぜか他校の生徒にも開放されて、女学生もいたように思う。しかし八月三十日の最終日の幾何の時間には、そこそこの人数は登校していた筈なのに、先生が来るまでに大半の生徒は消えてしまい、残ったのは私を含めて二人だけになってしまった。先生は「おや二人きりかい」と驚いていたが、ちゃんと授業をしてくれて、「これじゃあんまり情けないと思った」と日記に書いてある。戦後の自由主義ムードの悪い面が、私たちを蝕み始めていたのではないだろうか。
 家では引き続き仕事が忙しかった。郵便物作りが毎日大量にあって、夕方になると、かなり遠い豊島郵便局まで母とリヤカーで運んだ。坂もある三十分近い道のりで、暑い盛りだから汗だくになった。楽しみは、帰りに巣鴨駅近くの店で食べる「かき氷」だった。
 九月になり、二学期が始まったが、日記でくわしくわかるのは、朝の電車が故障で遅れたとか、夜に停電で勉強ができなかったといった雑事ばかりである。インフレの進行など社会の動きは、ほとんど伝わってこない。わずかに九月十五日に鉄道のゼネストが予定されていたが、中止になったという記事がある。
 それよりも二学期早々の大きな話題はインターハイの蹴球だった。いまの言葉ではサッカーだが、旧制高校の蹴球大会は、戦前の学生スポーツとしては、甲子園の中等学校野球大会と並ぶ名物だった。日記帳にあるトーナメント表によると東日本大会のようだが、戦争で三年間中止になっていた大会が復活したのだ。この試合を応援に行くのは学校公認で、尋常科の生徒も授業を短縮して行くことになった。緒戦では富山高校に勝ち、二回戦で成蹊高校に勝ち、三回戦で東京高校に負けるまで、三つの試合を見に行っている。会場は東大構内の御殿下グラウンドだった。東大の敷地の中に入ったのも、このときが初めてだった。三つの試合の記憶は渾然一体化しているが、試合と応援の雰囲気は、よく覚えている。
 わが武蔵高校の応援は三三七拍子の拍手が中心だったが、地方高校の応援では寮歌を歌っていた。対戦相手ではなかったが、一高の応援団は大太鼓を竿で吊るして二人で担ぎ、扇子をかざす応援団長の指揮でドンドンと打ち鳴らしていた。「乗ずるときは今なるぞ、乗ずるときは今なるぞ、蹴っ飛ばせ、蹴っ飛ばせ……」という応援歌は、およそ運動競技の応援とは思えないような、のんびりしたテンポだった。要するに旧制高校生の歌というのは、すべて「ああ玉杯に花受けて」と同じテンポで歌われるのだった。
 インターハイの蹴球は、戦後は昭和二十三年まで、三回行われて終っている。岡山の第六高校と広島高校が強かった。武蔵高校は昭和十二年(1937)に全国優勝している。

核は情報兵器

 「読谷の風」さんから「umenom」さんの引用を通して、武田徹氏の「北の核」の記事を読みました。その中に「核とは一種の情報兵器であり、リアリズムで語ることが難しい」との記術があり、言いえて妙だと思いました。
 たしかに核兵器は実用兵器ではありません。実用に使われたのは、初期の実験を兼ねた広島と長崎の2回だけで、その後60年たっても、誰も1回も実用には使っていないのです。使えば破滅的なことになるのがわかっているので、使えない兵器になってしまいました。それでも北朝鮮が開発にこだわるのは、持っているという「情報」に意味があるからです。ですから極端に言えば、持っているらしいと外国に信じさせることさえできれば、現物はどうでもいいのです。
 今の世界で、核保有国は特権階級です。5カ国による核兵器の独占を維持しようとしたのがNTP(核拡散防止条約)でした。これは保有国の立場では安全な状況ですが、反対側から見れば、一部特権階級の世界支配が継続することに過ぎません。世界が納得するためには、保有国が話し合って兵器としての核を縮小・廃棄するまでという、期間限定が守られることが必要でした。その見通しが立たないために「核クラブ」の非公認会員を増やしてしまったのです。
 ここまで来たら、核兵器をどうするか、世界的な合意を改めて作り直すしかありません。そこには正規の保有国も、後発・灰色の国も、その他多くの国も、差別なく参加すべきです。そうした話し合いが現実味を帯びてきた状況でなら、秘密裏の核開発に対する国際的な抑止・制裁も、合意されやすくなるでしょう。
 北の核について、威力がどうか、ミサイルに積めるかなど、細かい情報を漁って一喜一憂してみたところで、ほとんど意味がないでしょう。核は情報兵器であって、リアリズムで語るものではないという指摘を、よく噛みしめたいものです。それよりも、アメリカを核廃絶の道へ導くことこそ、唯一の被爆国民である私たちの使命でしょう。

少年期の戦中と戦後(87)

DDTと家業の再開

 昭和二十一年の夏休みは、七月一日から九月十五日までという長いものになった。学校としても前例のない長さだそうで、別に説明はなかったが、学校側もいろいろな面で疲弊していたのではないだろうか。新円切り替えによる経済の停滞は復興の妨げになるというので、半年もたたないうちに規制は緩和に向かいつつあった。ヤミ経済も息を吹き返すとともに、インフレもまた始まった。
 夏休み初日には、四時起きして切符を買い、母と千葉へ食糧担ぎに行っている。乗り換えの千葉駅で一袋十円のドーナツを買って食べたところ、油が悪いらしくて母も私も腹具合が悪くなった。夜まで下痢がつづいたし、汽車は混んで座れなかったし、相当たいへんだったと日記に書いてある。翌七月二日は、朝からアメリカ機が低空でDDTを盛んに撒いていた。双発機が横広のノズルを曳いていて、そこから白い煙のように薬剤が噴き出していた。通過してしばらくすると、油っぽい気分のよくない臭いが立ち込めた。暑くなる前に蝿や蚊を駆除するのが目的だったのだろうが、派手に薬を撒いたわりには、効果はあまり感じられなかった。その晩も蚊は同じように出てきたし、夜は変らずに蚊帳を吊って寝ていた。
 DDTは日本の衛生状態を心配したアメリカ軍が持ち込んだものだが、最も盛んに街頭で散布されたのは、この年の夏前だったと思う。ピストン式の手持ちの撒布器で、白い粉末を人にも一人ずつ吹きかけた。シャツの前を開けさせ、最後に襟首を後ろから引っ張って、背中に吹き込むのが定式だった。私が経験したのは町会のDDTだったが、アメリカ兵が駅頭で乗客を直接に「消毒」したこともあったらしい。なんとなく万能の消毒薬のように思っていたのだが、じつは残留性の強い殺虫剤だったのだから、今なら人権問題で大騒ぎになるところだ。
 この夏休みの間に、私の家は忙しくなった。本式に出版の仕事を再開することになり、楽譜の資料が揃っていた歌の本と、図画・図案の本をとりあえず出すことになったのだ。売る方法は、書店の流通経路は当てにならないし、信用できる広告の方法もないので、宣伝物を郵便で直接に全国の書店や学校へ送ることになった。今の言葉ならダイレクトメールだが、そんな言葉は知らなかった。宣伝チラシは謄写版で刷った。おもに兄がローラーを動かし、私は紙の出し入れを手伝って、一晩に五百枚ぐらい作るのがノルマだった。
 封筒に宛名を書く、チラシを折って封筒に入れ、小麦粉を煮た糊で封をするなどの流れ作業は、家族総出の仕事になった。戦争で中断する前は、大勢の若い社員やお手伝いさんも加わって、にぎやかにやっていた仕事だから、なつかしさもあって楽しかった。私はよく夜遅くまで手伝っていて、勉強をやらなくちゃいけないだろうから、もういいよと言われたが、途中で止めたくない気持の方が強かった。勉強なんかより、ずっと面白くて、やりがいがあったのだ。

核兵器について考えたこと

 北朝鮮の核実験に刺激されて、日本でもいろいろな議論が始まっている。あちらが核兵器を持ったら、こちらも核武装すべきだとか、ミサイル発射基地を攻撃する能力を持つのは憲法違反にならないといったことを言う人もいるらしい。タカ派の議論が勢いづく動機にはなりそうだ。
 だが落ち着いて考えればわかることだが、北朝鮮が原爆を持ちたいのは、日本を攻撃したいからではない。アメリカの武力に対して抵抗する手段がなく、生殺与奪の権を握られている状態から、何としても脱したいという動機が強いのだ。これは根拠のない不安ではなく、イラクの政権がアメリカ軍によって壊滅させられた現実も見ている。
 だから自前の核を持っていれば、アメリカも安易に手を出せなくなる筈だという理屈になるのだが、これは米ソ対立時代の「核の均衡」と比べたら、話にならないほど粗末な対策でしかない。アメリカから核の先制攻撃を受けたら、おそらく1発も撃ち返せないで終ることだろう。逆に北朝鮮が先に使ったら、確実に国が崩壊することになる。
 つまり日本の立場は、日米安保の「核の傘」はそのままなのだから、米ソ対立の時代よりも、ずっと安全に保たれているのだ。下手に自前の核を持とうとすれば、アメリカと対立して、逆に「核の傘」の効力が怪しくなるだろう。
 核兵器の拡散が世界的に止まらない最大の原因は、NTP(核拡散防止条約)がうまく機能しないところにある。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5カ国の核保有だけを認めて、その他の国には認めないという不平等な規定は、核保有国が核軍縮を進めることを前提にしていたのに、その約束が実行されていないのだ。だから条約の外で核を持とうとする国を増やしてしまった。
 ところが核が拡散した結果、パキスタンなど治安の悪い国では、核兵器が反政府勢力の手に渡る危険が出てきた。こうなると、いっそ世界から一挙に核兵器を全廃した方が安全ではないかという考えが、当のアメリカから出始めている。通常兵器でも絶対優位だからと、動機に不純なところはあるが、この機運は大事にしたい。日本はもちろん先頭に立って核の廃絶を説くべきだ。オバマ大統領の存命中に核兵器を全廃することは、決して夢ではない。

少年期の戦中と戦後(86)

食糧難つづく

 食糧休暇は状況により延長も予定されていたのだが、明けた月曜日から授業は再開になった。その代わりの対策として、学校では取って置きの米を使って握り飯を作り、昼飯として一週間だけ配布することになった。寮生と、本当に困っている者だけという話だったが、受ける資格は全員にある。一日分一合で五十銭というのは魅力だったから、級友と誘い合わせて事務所へ券を貰いに行った。事務の女性は「通学生は本当に困っている人だけですよ」と渋っているのを、「家でも大変なんですよ」などと粘って、ついに四日分の食券を手に入れた。いま日記を読み返して、かなり恥ずかしい気がするのだが、一合の握り飯は魅力だったのだろう。
 この時期に教室では、教師による異例の怒りの爆発があった。金子先生という、図画の担当で高等科では理科の生徒に製図も教え、画家としても名のある芸術家だったが、スケッチを描いて来いという宿題をやってこなかった二人の生徒に対して激しく怒り、暴力的に座席から引っ張り出してドアの外へ追放してしまった。生徒を紳士として扱ってくれる温厚な先生が多い中で、考えられないような出来事であり、みんな震え上った。当時の先生は、家ではどんなものを食べていたのだろう。日記を読んでいて、そんなことを考える。
 六月の下旬には、私が電気パン焼き器をこしらえた珍談が出てくる。両端に金属板の電極を立て、その間に小麦粉の水溶きを入れて通電すると、発熱してパンが焼ける。焼き上がれば自動的に電流も切れるという原理で、家庭で上手に使っている人がいるという記事が新聞に出ていた。それを作ると私が言い出して、家族公認の仕事になった。母が磁器の入っていた手ごろな大きさの細長い木箱を提供してくれて、電極にはブリキ板を二枚、両端に立てた。電灯用コードの皮をむいて電線を露出させ、左右に分けてブリキ板につけた。ハンダこて鏝などはないからブリキに穴をあけて電線を通しただけで、工作というほどもない簡単な作りだった。どうやら形が出来ると、姉はさっそく小麦粉を水でこねて箱に流し込んだ。あとはスイッチを入れるだけだが、これが怖くて簡単にはできない。いったい何ワットの電流が流れるのか、見当もつかないのだ。すると通りかかった兄が「俺がやってやるよ」と簡単にスイッチを入れてくれた。
 爆発するようなこともなく静かなままで、やがてパン生地から湯気が立ちはじめた。これは大成功かと期待しながら見ていたのだが、結果としては、焼けたところと水っぽいところとが混じって、あとは時間をかけても改善せず、平均に焼ける実用品にはならずに終った。  
 これと同類の無謀な工作を、この前にも風呂でやっている。電熱器のニクロム線部分を直接水に入れれば、無駄のない加熱ができる筈だと考えたのだ。実際に薪で焚く補助ぐらいの加熱には成功して数日は使ったのだが、水中で過大な電流が流れたらしく、ソケットが燃えて家中が停電する騒ぎになった。

昔ここは桑畑だった

 家の前のわずかな敷石のすき間から、桑の木が生えてきた。生えたのは昨年よりも前で、冬の間は葉が落ちて棒のようになるから、あまり目立たない。しかしこの陽気で青々と茂り、去年よりもまた一段と大きくなってきた。
 ここにビルを建ててから、もう24年もたっている。土の中の種が芽を出してきたにしては遅すぎるような気がするが、近くに木もないのに、飛んできた種が根を下ろしたとも考えにくい。他の雑草・雑木なら気にもしないのだが、どうも気になるのは、このあたりが昔は桑畑だったと聞いているからだ。
 昭栄という会社があって、今は不動産が本業になっているが、戦後の一時期は生糸の繊維産業に属していた。全繊同盟に加盟している労働組合があって、その役員の人から、中野駅北側の広い土地が昭栄の所有になっていて、それは昔このあたり一帯が桑畑だったからだと聞いたことがあるのだ。そこは長く低層の住宅地域だったのだが、15年ほど前に再開発されて、今はサンクオーレの高層マンションと丸井の本店ビルが建っている。
 私の家はそこからは少し離れているのだが、いずれにしても昔は江戸の外れの農村地帯だったに違いない。近くには将軍綱吉の「生類憐れみの令」で知られる「お犬様」の囲い場跡もある。家を建てるとき、黒々とした土の厚い層があったことも、よく覚えている。
 関東平野は、今は人間の生活圏として利用され尽くしているように見えるが、一皮むいた下には、今も肥沃な土壌が横たわっているのだろう。人間が主人公でなくなれば、意外な短期間で草木の天下に戻るのかもしれない。
 敷石のすき間から苦労して顔を出した桑の木に、もちろん同情したい気持があるが、本当は先方が先住民でご主人様だとすると、立場は逆転する。虫のつきやすい木だから、去年も大きな芋虫がついて、孫が面白がっていた。そんなこともあるから、粗略には扱えないと思っている。今のところ車の出入りにも差し支えないから、しばらく様子を見ることにしよう。



少年期の戦中と戦後(85)

昭和二十一年戦後の旅(四)

 歩いた疲れでぐっすり眠った翌朝、目をさますと川の音がするので、ああ山の温泉に来ているのだと気がついた。朝六時という、自宅では考えられない早朝に起きて、すぐ入浴に行った。谷の底だから、まだ山には日が当らないが、空は真っ青に澄んでいた。山にはびっしりと木が茂り、濃い緑色に沈んでいた。日本にはこんなに美しい場所もあるのかと思った。
 温泉宿では湯に入るのが仕事だというので、この日は五回も風呂に入った。傷や皮膚病にも効くということだから、できものの根治がなかなかできない私の体質改善にも役立つと思われたのだろう。湯を飲むこともすすめられた。ぬるっとしてやや酸味があったが、飲みにくくはなかった。他に老人の湯治客が何人かいて、父は誰とでも、よく話し込んでいた。ぬるい湯だから、いつまで入っていてものぼせることはない。飽きれば外の河原の露天風呂へ行った。大浴場から出た湯が滝で落ちるようになっているから、肩に当てて打たせ湯ができるのだった。
 従兄はお茶や椎茸の農作業が忙しいということで、一泊だけで帰って行った。帰る前に、翌日分も含めて飯を炊いたり、芋を煮たりしてくれた。その後は父と二人でどんな食事をしたのか、日記にも記憶にも何もない。従兄の荷物は、炭、米、芋、魚、缶詰、漬物、梅干と書いてあったから、それらのものを食べたのだろう。父も私も、空腹が満たされれば文句を言わない野人だった。「昔は米の飯は病気にならないと食わせてもらえなかった」が父の決まり文句だった。
 二泊して三日目の午後、帰途についた。食糧を食べ尽くしてリュックが軽くなり、下り道だから楽に歩けた。コンヤドというところで吊橋を渡って別な親戚を訪ね、河原の伯父の家を経由して大代に上った。伯母さんと子供が途中まで送ってくれた。山の家の最後の夜はにぎやかだった。近所の人たちが次々にやってきて、「何もないけど」とお茶や山菜をくれるので、帰りの荷物はたちまち大きくなった。いろりを囲んで、父たちは遅くまで話していた。
 六月九日、私の休暇の最終日に山の家を後にした。大勢の人が川筋の道路まで送ってくれた。そこで静岡から来たトラックに乗っていた神明町の従兄、つまり後に私の妻の父親になる人と偶然に出会って、便乗するトラックの世話をしてもらったことが、今回日記を読んで初めてわかった。丸太を積んだ荷台の上から、あわただしく挨拶する間もなくトラックは走り出した。あとは狭い山道で対向車と鉢合わせしたスリルなどが日記に綴られている。
 この四日間、父と私は東京とはまるで違う環境の中にいた。時間が止まったように、そこには古いままの日本が残っていた。行った先で戦争の犠牲になった人の話が語られてはいたが、人々の現実の生活は、戦争とも戦災とも無縁のように見えた。都会の生活は破壊されて不便になったが、山の生活はもともと不便だから、変りようがないのだ。いろりの火と、筧の水と、汲取り便所があれば、人はいくらでも平和に生きていられるのだった。

北朝鮮の核実験

(熊さん)ご隠居、大変だ大変だ。北朝鮮が核実験やったって、でかい見出しの号外が出てましたぜ。
(ご隠居)そのようだな。昼のニュースでも第一報が入っとった。また騒ぎになると思ったが、号外が出たか。しばらくはこの話で持ちきりだな。
(熊)ご隠居はいつも落ち着いてるのが憎いね。これで日本は大丈夫ですかね。
(隠)大丈夫もなにも、騒いでみてどうなる話じゃあるまい。北朝鮮にしたら、この前の実験がショボクレてて、失敗じゃないかなんて言われたもんだから、一丁前の原爆もありますよってとこを、一度は見せておきたかったんじゃろ。
(熊)よその国がやめろやめろと言うのに、カサにかかって脅してくるんでしょ。まるで昔の日本の軍国主義みてぇだって話も聞きますよ。早ぇとこ懲らしめる方法は、ないもんですかねぇ。
(隠)軍国主義に固まってるとこは昔の日本に似ていなくもないが、日本は実際に近くの国へどんどん攻め込んでいたんだから、事情は違うな。北朝鮮は世界から爪弾きになって孤立してるから、強がらないとつぶされるという思い込みがあるようなんじゃ。実力から言えば、日本やアメリカに戦争を仕掛けて勝てる見込みは万に一つもありはしないさ。だから原爆を持ってみたところで、実際に使ったら確実に国が亡びるな。それは北朝鮮の指導部も承知してるに違いないさ。
(熊)それなのに、なんでおとなしくしていないんですかね。
(隠)そこだよ。無理してミサイルや原爆を作るよりも、近くの国と仲よく交流した方が、援助も受けられて国を豊かにできる筈なんだ。しかし世界の歴史から取り残されて、後ろだてだったソ連がなくなり、仲間だった中国も変ってしまった。まあ、孤児になったようなもんだな。それで余計に警戒心をつのらせているんだ。
(熊)じゃあ、どうすりゃいいんです?
(隠)どうもしなくていいさ。強がっても何の得にもならないことに気がつくまで、注意しながら見守ってやればいいんだ。それが近くにいる大人の役目というものさ。

少年期の戦中と戦後(84)

昭和二十一年戦後の旅(三)

 山の家に着いた夜は、疲れていたのでよく眠れた。花咲の集落は「鼻先」とも言われるほどで、山の頂上に近い南斜面にある。インカの遺跡として有名なマチュピチュにも似た立地で、朝の日当りはよかった。なぜ川沿いでなく山の上に住むようになったのかはわからないが、甲斐の武田の落ち武者が住みついたという言い伝えがあるそうで、明治以前から志村の姓があったという。ちなみに日本ですべての人が姓を持つようになったのは、明治八年の「苗字必称義務令」以降のことである。
 午前中は東京から送ってあった疎開荷物の整理などをした。大半のものは山の家でそのまま使ってもらうことにしたから、送り返さなければならないものは少なかった。このとき私が送った小包の中に、使いかけの下駄があったというのが、後々まで村の話題になったそうだ。身の回りの必要品を送れと言われた私の判断は、そんな程度だった。それが村では「東京ではこれほど物資に困っている」という話になったらしい。
 昼からは二泊の予定で梅が島温泉へ行くことになり、陸軍から復員した従兄が同行してくれることになった。食糧は持参が原則だから、大荷物を背負ってくれて頼もしかった。上りとは別な間道を通って山を下り、安倍川の河原に仮建築をして住んでいる別な伯父を訪ねた。静岡市内の戦災で焼け出された家族で、私の妻の実家になる。市内の家がまだバラックなので、老夫婦と就学前の孫が残って住んでいた。この家を建てたときのことを、三年生だった妻はよく覚えている。おじいさんが持ち山の木を伐採して、大きな鋸で丸太から板を挽くところから始めたという。小さくても頑丈な家で、後に解体して山の上に運んで物置になり、今も使われている。
 梅が島温泉への道も遠かった。途中にしんでん新田という川が滝になっているところがあり、遠くからよく見えたのだが、その滝の上に回り込む道のりだけでも相当なものだった。道は一応自動車も通れる幅だが、バスもトラックも交通はない、橋が落ちていて、水中の石を伝って歩くようなところもあった。ただ我慢に我慢で足元だけを見て歩きつづけ、温泉の宿に着いたのは夕方も近いころだったと思う。当時は一軒しかない宿の梅薫楼だった。
 宿は堂々とした造りの二階建てだった。しかし宿は部屋とふとんを貸すだけなので、食事の支度などはすべて客の仕事になる。従兄は早速炭火を起こして飯盒で飯を炊き、鍋で煮物を始めた。その間に父と私は温泉に入りに行った。温泉は宿から百メートルほども歩いて行く川の対岸にある。立派な湯屋が出来ていて、八角形の大きな浴槽があり、中央の岩から湯が流れ出ていた。浴槽は充分に泳げる広さがあった。湯はぬる目で、戦前によく行った長野の親湯温泉に似ていた。脱衣場は男女別になっているが、浴槽には区別がない。だいぶ後までその流儀を通していたから、一時は男女混浴の名所にもなったらしい。しかしそのときは客の姿もまばらだった。

韓国前大統領の遺書

 韓国の前大統領、盧武鉉(ノムヒョン)氏の死亡が大きなニュースになっている。私は韓国の政治にくわしいわけではないが、新聞に出ていた遺書には、ある種の感銘を受けた。その後半部分は

あまり悲しむな
生と死は、すべて自然の一かけらではないのか
すまないと言うな
誰も恨むな
運命だ
火葬してくれ
そして家の近くに、とても小さな石碑を一つだけ残してくれ
昔から考えていたことだ

という言葉で終っている。
 盧氏がどのような宗教心を持っていたのか私は知らないが、孔子に代表される「天命」の死生観が、色濃く反映しているように思われる。私たち日本人の心情にも近いのではあるまいか。
 愚樵さんの最近のブログで読んだような気がするのだが、エリートには「加害者」になる宿命があるのだという。どんなにすぐれた政治家が善政を施したとしても、その権力によって不幸になる人間が生まれることは、避けられないのではあるまいか。たとえば利権で栄えていた人たちであるとしても。思えば政治家も罪の多い職業ではある。だが私たちは善政を必要としている。
 信念で戦争を始める政治家もいて、偉大な指導者として歴史に名を残したりする。それに比べると、戦争を避けて平和を維持した政治家の方は、何となく地味で、あまり有名にもならない。政治家にもいろいろあるのだが、悪事を企んだように見える政治家も、自覚的には良いことをするつもりだったのではないかと私は思っている。
 良いことをするつもりで誤った信念で突進する政治家が最大の悪をなすという、恐ろしい真実がある。この世で大きなことをしたいと思っている人は、この遺書に正対すると、少し謙虚になれるかもしれない。ただし私は小さな石碑もいらない。すべて遺灰にして土に返るのがいい。

少年期の戦中と戦後(83)

昭和二十一年戦後の旅(二)

 幸いにしてトラックは思ったよりも早くつかまえられた。いっしょに歩いていた地元の人らしいおばさんが手をあげて車を止め、しばらく運転手と話していたが、振り向いて「乗りましょう」と言ってくれた。トラックの荷台は案外高くて、先に荷物を投げ上げてから、先に大人が車輪に足をかけてよじ上り、私は父に手を引っ張り上げてもらった。走り出したトラックは、間もなく川沿いの細い道にかかった。洪水の後ということで、木材で補強した凹凸の多い車幅いっぱいの道の下から、車が通るとバラバラと土砂が落ちていた。その下は切り立った崖に水流が打ちつけている。上は上で木の枝が突き出しているから顔に当りそうになる、さらにその上には、今にも落ちてきそうな岩がゴロゴロしていた。その上に雨が降ってきたりしたから、景色を楽しむ余裕もなかった。
 しかし乗り合わせた人たちはみんな親切だったし、話もできた。復員兵は、インドネシアのハルマヘラ島にいたということだった。アメリカ軍の上陸はなかったが、空襲が激しくて、高射砲部隊が大活躍した話を聞かせてくれた。一発の砲弾で敵の三機を撃墜したことがあったという。元気な明るい人で、自分の村に近づくと、知っている人がいたらしくて大声で呼びかけていた。そして「ただいま帰ってまいりました」と、格好よく挙手の礼をした。
 トラックの行き先の都合で途中で車を降り、また別なトラックに便乗したのだが、それも途中までで、あとは歩くことになった。幸いに雨は止んだ。山育ちの父は、山にかかる雲を見て、雨足が見えると教えてくれた。雨を降らせる雲は、下に暗いかげがあるのだ。それを見ていれば、濡れずに雨宿りできるということだった。途中の景色のよいところの道端で休憩し、弁当を食べた。眼下には激流が流れ、山間には白雲が流れている。絵のように美しい風景だと思った。
 梅が島の村落に着いてから、道は車の通らない山道になった。ここからの一時間ほどの急な上り坂がきつかった。道端の石に腰掛けて、もう動けないと思うほどだった。父は野いちごを探してきて食べさせてくれた。それが甘くておいしかったことは忘れられない。いま日記を読んでみて、父親に励まされながら上った山道の情景がよみがえってきた。青年期にこれを読んでいたら、あれほどまでに父を憎まないで済んだかもしれない。
 夕方、へとへとになって梅が島村大代花咲の父の生家に到着した。段丘に広がる十軒ほどの小集落の入口に当る家である。わら屋根の大きな家の中で、いろりの火が燃えていた。伯父伯母をはじめ、みんなが大きな驚きとともに歓待してくれた。集落の出入りの人が庭先を通る配置になっているから、近所の人たちもすぐに集まってきた。父は幼なじみからは文蔵の名を「文公」と呼ばれていた。会話は静岡弁だが、私にもだいたいはわかる。「○○だろう」の推量を「○○ら」と言うのが特徴だが、「らん」と言う人もいた。古語の「らむ」が残っていたのだ。

「冬の兵士・良心の告発」を見る

 昨夜の「老人党護憲+」の例会で、田保寿一監督の記録映画「冬の兵士」を見ました。「反戦イラク帰還兵の会」メンバーの証言を中心に、現地の映像も交えたドキュメンタリーです。製作者の田保氏は、元テレビ朝日の記者で、会社の方針に反して取材を続けるため、退社してフリーになったとのことです。上映のあと、田保氏のお話も聞くことができました。
 イラク帰還兵の中から多くの自殺者や心身の障害者が出ていることは知られていますが、証言は、彼らの置かれた状況を、生々しく伝えるものでした。彼らの多くは使命感と愛国心を抱いて任地へ派遣されたのですが、現地で直面したのは、誰が敵だかわからないという現実でした。軍隊の根幹である「交戦規定」が猫の目のように頻繁に変更されて、発砲・射殺の条件が限りなく緩和され、判断の権限が末端の兵士に任されてくるのでした。敵意の高まる住民に囲まれれば、誰でも生き延びて国へ帰ることだけを考えて行動するようになります。悲惨で無意味な殺人を繰り返すうちに、兵士たちの人格そのものが破壊されて行くのです。
 見ているうちに、先日見たイスラエル兵の証言を綴った「沈黙を破る」と内容が非常によく似ていると思いました。イスラエル兵も過剰な破壊と殺人に悩んでいたのですが、アメリカ兵には自分の国の存在を守るという目的意識がないだけに、空虚感はさらに深刻だと言えるでしょう。「テロとの戦い」という大義名分が虚像にすぎなかったことの矛盾が、戦闘の現場に集中的に現れたのです。
 過去のベトナム戦争では、帰還兵や従軍記者の報道で反戦の運動が高まりました。しかし9.11以後の戦争では、取材・報道は完全に当局により管理されています。アメリカ国内のマスコミの資本買収も進んでいます。反戦イラク帰還兵たちの活動も、ほとんど無視されているということです。このテーマに、日本のジャーナリストが取り組んでいることの意味は大きいと思います。
 この映画はDVD化されており、下記のサイトから購入できます。上映時間は80分、3000円です。購入したDVDによる上映会の開催は、原則自由に行ってよいとの田保氏のご意向でした。平和学習会などでの上映をお勧めする次第です。
http://wintersoldier.web.fc2.com/

少年期の戦中と戦後(82)

第十章 戦後の旅と家業の再開

昭和二十一年戦後の旅(一)

 千葉へ食糧担ぎに行った翌日の六月五日から、私は父と二人で静岡へ出かけた。日記によると東京駅朝七時発の列車に乗るのに、駒込駅四時二十七分の始発電車に乗っている。東京駅のホームにはすでに列車が着いていて、さすがに時間が早いから自由に席を選べた。海側の、窓ガラスが入っていて、座席も壊れていない席を探したのだが、これがかなり難しい。窓は板張りや、ガラスでも板の中央に小さくはめ込んだ程度のものが多かった。座席も、座面が破れてバネが飛び出しかけているのや、ビロードの表面が切り取られているものが多かった。座席のビロードは、靴磨きの布に向いているので、戦災浮浪児に切り取られる場合が多かったのだ。ようやく決めた座席には、気がついてみたら網棚がなかった。
 長々と待った末に、列車は定刻に発車した。やがて列車は京浜工業地帯を南下する。両側に見える風景は、見渡すかぎり焼け野原のままだった。時たま見える大型のコンクリートの建物もガランドウの廃墟で、立ち並ぶ煙突からは、どれからも煙は出ていなかった。要するに操業しているらしい工場が一つも見当らないのだ。見ていた父は「これは大変なことだ」と、深いため息を洩らした。終戦からすでに九ヶ月は経過しているのに、まだ復興など始まってもいない。戦災による破壊がいかに徹底していたかを、改めて実感させられた。
 平塚を過ぎ、小田原に近づくころから、車窓には田園風景が見えてきた。褐色に枯れているのが麦で、「麦秋」という言葉があること、薄紅色が広がっているのはレンゲの花で、やがて水田になる、黄色い花は菜の花などと、父から教えられた。小田原を過ぎると海が近くに見えてきた。列車はトンネルをくぐり、鉄橋を渡りながら、海からつかず離れずに走りつづける。熱海までの風光は、これを初体験として、私の最も気に入りの車窓風景となった。私も父も、日本の風景の美しさを見直すことで、ひとときは心をなごませていたような気がする。
 列車は途中から超満員になったので、昼近くに静岡で降りるときは窓から降りた。駅前に出てみると、戦災は東京よりもひどいように感じられた。東京よりもビルが少ないから、一面に平坦な赤い焼け跡が広がって、所々に小さな木造のバラックが建っていた。ここからバスで安倍川奥の梅が島へ行くのだが、次のバスは二時間後だという。切符を買って近くの店で持参の弁当を食べ、みつ豆を注文して、お茶を飲んだらそのお茶が一杯一円と言われて驚いた。待っていたバスは、時間が過ぎても現れない。予定のバスは故障運休で、その次はまた二時間後だということがわかった。復員兵を交えた乗客同士で相談の上、切符は払い戻してトラックに便乗することにした。当時は木材運搬のトラックが川沿いに往来していたから、街道まで行って頼めば、適当な金額で乗せてくれることが知られていた。山へ登るときは空で走るから、荷台に立って乗ればいい。ただし山から下るときは、満載の木材の上に乗るので、かなり怖いということだった。


民主党と友愛の心

 「優しい光」さんのブログによると、民主党の鳩山代表の「友愛」の精神に期待していたところ、田原総一郎のサンデーモーニングを見て、少なからず期待外れだったということです。私はこの番組を見ておらず、また、天木直人氏は同じ番組を見た感想で鳩山氏に軍配を上げているので、優しい光さんの期待が大き過ぎたのかもしれません。しかし次のフレーズ

勝手な私の思いなのですが、「お金儲けの為なら手段を選ばず、自分さえよければ何をしてもよい、そんな雰囲気が蔓延している今の社会を変える。相手を思いやる心、自分の出来る事で互いが助け合い、支えあう社会を創り、極端な格差を無くす、それが愛のある社会」位の事を言ってほしかったのですが・・・(引用終り)

は、まさに鳩山氏が言うべき言葉だったと思います。ほんわかとしたムードづくりのスローガンでなくて、具体的に何をしてくれるのかが、国民に伝わらなければ意味がありません。祖父の鳩山一郎氏から引き継いだという「友愛」の心を、弱者を救う施策に反映させるのが政治家の仕事というものでしょう。
 「友愛」で私が思い出すのは、大正元年(1912)に発足した「友愛会」のことです。これは日本の「民主的労働運動」の源流と位置づけられているもので、イギリスの穏健な労働運動だったフレンドリー・ソサイエティに習って、東大出の法学士、鈴木文治が命名したと言われます。明治天皇の暗殺を謀ったという「大逆事件」の大弾圧で、窒息状態にあった日本の労働運動を、社会的に認知される形で再建しようとした試みでした。
 この友愛会が、大正デモクラシーの中で労働総同盟へと発展し、社会主義政党とも連携しながら、労働条件の向上にも成果をあげました。革命を指向する左派の分裂・抗争や、軍国主義下での弾圧・転向など、曲折を経ながらも、戦後日本で社会党の右派から民社党へとつながったのが「友愛会」の伝統です。これはまた、労働運動の今の「連合」の中にも、つながっているのです。
 友愛とは、肉親の愛に似て、さらに社会的な広がりを持つ言葉です。鳩山氏の個人的なスローガンを超えて、民主党の政策の中心に据えてもいいのではないでしょうか。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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