志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2009年08月

平成枯れすすき2009

 今朝のコメント欄に、どなたからかわかりませんが、替え歌を一ついただきました。今の気分に当っているような気がして、少しだけ改造してご紹介します。原作者の方は、もしお差支えなければ、再コメントをお寄せください。

     平成枯れすすき2009

 民主党に負けた いいえ世間に負けた
 政権を追われた いっそ総裁も辞めるか
 失言放題やったから 未練などないわ
 100議席がやっと 自公は枯れすすき

いい気になって面白がっている場合でないのは、わかっていますが、どうしようもない時代の閉塞感を歌った初代の「枯れすすき」と、昭和の枯れすすきに続いて、平成だけは枯れすすきに終りたくない庶民の感覚が、今回の結果を生んだのではないかと思います。
 民主党の前途は多難だし、季節もこれから秋に向かいます。交代したばかりの政権が、短時間で一糸乱れぬ改革を断行できたら、それこそ奇跡です。一時的には秋の枯れ野かと思うような風景が出てくるかもしれません。でも、すすきは一年草です。
 自公の枯れすすきのあとに、芽生えるものは何か。今までよりも政治を身近に感じながら関心を持ち、新しい政権を育てて行く。そんなことを予感しながら、今日の一日ぐらいは、政治を面白がって、くつろいでみませんか。
 落選した自公候補と支援者の「残念打ち上げ会」にもどうぞ。一晩酔って悪い夢を忘れたら、新しい目覚めがあるかもしれません。

ブログ連歌(93)

1839 正義より 保身先立つ 裁き人(みどり)
1840  国民審査 おろそかにせじ(建世)
1841 泥酔も 一夜過ぎれば 思い出し(うたのすけ)
1842  公務の誇り 粉砕の跡(建世)
1843 情けなし 逮捕されたり 逮捕したり(うたのすけ)
1844  それにつけても 酒の怖さよ(建世)
1845 ノリピーの テレビはもう うんざりだ(うたのすけ)
1846  かくも恐ろし 覚せい剤よ(やまちゃん)
1847 あと二日 日本国民 覚醒の日(建世)
1848  生きがいここに 主権者我は(ハムハム)
1849 守りたき 戦争放棄 一票に(みどり)
1850  きたよきました きましたやっと(うたのすけ)
1851 2票ある 政権交代 また護憲(建世)
1852  浮かれ恥ずかし 課題は多し(やまちゃん)
1853 この夏に みん(民)みん蝉が 出世する(建世)
1854  心せよ民 秋(厭き)の深まり(みどり)
1855 ナナカマド 自在変化に 使い道(やまちゃん)
1856  民のカマドを 満たしてたもれ(建世)
1857 インフルは 選挙のニュースで 消えて行き(うたのすけ)
1858  熱がさめたら ふと思い出す(建世)
1859 落ちる前 辞めりゃよかった 大物は(うたのすけ)
1860  後知恵空し 秋は来にけり(建世)


平岡久「あの戦争あの軍隊」(42)

旅順要塞防空連隊(3)

― 碧山荘、苦力のアパート ―
 病院と市内電車終点の寺児溝駅の中間地点に、周囲に高いレンガ塀を巡らした、碧山荘というレンガ造の大アパ―ト群がありました。居住者数は数千人とも数万人とも言われました。山東半島出身の出稼ぎ肉体労働者、苦力の住まいで、経営者は南満州鉄道の子会社、福昌華工公司とのことでした。門前の空地は、多数の露天商と、働けなくなってアパ―トから追い出されて野宿する労働者の溜まり場になっていました。
 厳寒期には毎朝点々と死体が転がっており、午前と午後に中国人の大富豪が棺桶を積んだトラックで収容して、山中の土葬場へ運んでおりました。一撰千金の夢破れた、多くの山東農民の最後の姿です。この死体回収作業の施主である大富豪の名前は忘れましたが、「なかなか出来ないことをやる立派なお人だ」と我々日本兵士の間でも評判でした。
― 山東出稼ぎ人 ―
 遼東半島の南方対岸に位置する山東半島は、人ロ過密、しかも地味悪く、農民の生活の苦しいことで有名です。「一戸あたり20アールに満たない耕作面積で、大家族を養うのは大変だ」と知り合いの中国人から聞かされました。
 そこで、出稼ぎに出る訳ですが、故郷へ錦を飾ることが出来るのは、よほど心身共に秀でたごくわずかな人数に限られ、路傍で朽ち果てる人のほうが多いようです。私は衛生兵の立場を利用し、「周辺の衛生状態視察」と日直下士官に届け出て、大埠頭とか碧山荘周辺の広い範囲を悠々と歩き回りました。そのときにいろんな光景を見ました。
― 故郷へ錦を飾る苦力 ―
 大埠頭で見かけた光景で印象に残るものの一つが、立派な緞子の長さん(中国の礼装)を着た人を、たくさんの紳士が見送っている風景です。聞けば、山東半島より来た出稼ぎ人のなかで、千人に一人の成功者が満鉄や福昌華工公司の関係者の見送りを受けて、故郷へ向かう船に乗るところだというのです。新品の大きなトランクに衣類を詰め、金側時計や靴まで贈られて、多くの田や畑を買う金を持っての凱旋だそうです。「一人帰ったら千人来るんだ」と解説してくれました。誠に上手な人集めの方法だと感心しました。
 意味は大分違いますが「一将功成って万骨枯る」と言う言葉をも思い浮かべました。恐らくこの成功者は、人並み外れた体力と強靭な精神力と知力の持ち主だったのでしょう。埠頭で船積み労働をする人達を見るたびに感心したものです。大豆油を絞った後の豆板を何枚も重ねて、半ば肩に半ば右手で支えて、左手を振りながら歩み板を上り、貨物船に積みこむ超重労働に耐え抜いた人なのです。人間業と思えぬ仕事でお金を貯めたのです、最敬礼をしたい思いでじっと見ておりました。昨日のことのように鮮明な思い出です。
― 山東半島出身ゲリラ ―
 たくさんの苦力の中へ、山東半島の八路軍が紛れ込んで来て活動していました。時々、爆破や放火等の事件があり、警察や憲兵隊が出ておりました。
 是非善悪は別として、なぜこんな子供のイタズラ程度のことをするのか不思議でした。効果は少なく犠牲のみが多くて、ゲリラ戦の本質とは大分ことなるマズイやり方ではないか、と感じました。被占領国民としての感情は判るが、行動においては理性的にやるべきではないか、と。


池袋西口は燃えていた

 昨夜は、新宿西口デモを早退して、池袋西口で行われた民主党の打ち上げ演説会の撮影に行きました。私の標準装備は、ソニー民生品のミニDVカメラVX2000と、軽量の写真用3脚だけです。これ以上重い機材は体力的に無理だし、自由に動ける機動力を重視します。
 会場は芸術劇場前の「池袋西口公園」ですが、西口ロータリーに隣接していて、昔はヤミ市が出たり、学校があったりした辺りです。南口から出て近づくと、予想以上の人混みでした。時間をかけて広場を半周し、宣伝カー正面の、高い街路灯の柱に立てかけてある2メートルほどの看板の裏を陣地に決めました。看板の裏だから、人は詰めてきません。3脚にカメラをつけ、脚をしぼって1脚のようにして、カメラのアゴを看板の上に乗せると、かなり安定した画面が得られるのがわかりました。今は液晶モニターで下から画面確認ができるので便利です。爪先立ちすると、ぎりぎりでズームボタンに指が届く高さでした。そこで前座の演説でテストしながら、鳩山代表の到着を待ちました。
 ところがその後、奇跡的な好運に恵まれました。すぐ横に高い脚立が山型に立ててあったのですが、そこにいたのは留守番を頼まれた地元の人らしく、「空いてるからここでいいの撮りなよ」と言ってくれたのです。他人が立てた三脚や脚立には、絶対に手を触れないのがカメラマンの仁義なのですが、この際は事情がよくわからないながら、使わせてもらうことにしました。
 本番の鳩山氏の演説に対する聴衆の反応は上々でした。爪先立ちして演壇を一目でも見ようとする大群衆の情景も撮れました。上空には、旋回する取材ヘリが、同時に6機まで確認できました。同時刻には、東口に麻生総理が来ていて、最後の「池袋対決」になっていたのです。
 やがて現れた新聞社系らしいカメラマンに礼を言って脚立を明け渡し、人混みを分けて駅の方へ移動しました。今朝の新聞には「3000人の聴衆」と出ていましたが、あの広さと密度では、万のオーダーにはなっていたと思います。メーデーの主催者発表なら、おそらく「5万名」になるでしょう。しかも動員ではない市民が大半でした。
 駅前ロータリーから3脚を据えて遠くから周辺の撮影をしたのですが、大型バスが大群衆の中を静かに進んで行く不思議な光景を見ました。自分がくぐり抜けてきた道が、じつは路線バスの通路だったことがわかって、唖然としました。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(43)

旅順要塞防空連隊(4)

― 新兵舎と賭博 ―
 秋が深まるまでの何ヶ月間は野積場で天幕生活をしていましたが、病院との間に、屋根が地上に出た木造半地下式の兵舎が完成して、二月に引越しました。砲座も台地上に移動し、広い貨物蓄積場や大連埠頭、大連湾全体が見渡せる良い陣地でした。
 新兵舎に入ると、召集兵の間でタバコを賭けた花札賭博が盛んになりました。沖縄・九州・近畿・東北と寄せ集めの部隊でしたが、沖縄出身で年配の吉田一等兵が親分格でした。板張りの床にアンペラを敷いた座敷ヘゴボー剣を突き立てて、毛布を何枚も重ねて敷いた座布団の上に胡座をかいた親分が胴元でした。部屋の中央が土間で通路になっており、両側の座敷は何の仕切りもなく、端から端まで見通しです。その通路の突き当たりに事務室や将校室、下士官室があります。その大広間に何箇所か人の集まりが出来て、タ食後の花札賭博が開帳されます。
 週番士官も、タバコが景品で現金が動かないのと、勝ってタバコの山を築いた兵士が、負けてタバコを無くした兵士に又一箱宛配っているのを見て、笑っておりました。何の娯楽もない所ですから公認でした。他に、厚板で作った手製の碁盤と、木で作った黒白の碁石代用品で碁を楽しむ者、手製の将棋盤を囲む者等が、消灯まで賑やかに時を過ごしました。野積場時代と同じく、南京豆をかっぱらって来て、スト―ブの上で煎って食べておりました。
― 寺児溝市電停留所の界隈 ―
 寺児溝時代は、患者が出ると連れて市電に乗り、連隊本部医務室まで受診に行っておりました。この市電利用で一番困ったのがニンニクの臭いでした。兵士でもニンニクを食べて気にしない人もかなり居ましたが、私はどうにも馴染めませんでした。(戦後、中国観光に何回も行きましたが、昔ほどは気になりませんでした) 何時も、市電の一番前に突っ立って終点まで行くのが通例でした。
 停留所の周辺は屋台店がズラリと路の両側に並び、飲食店が主流で、特に魚のフライが記憶に残ります。このフライたるや、生地が見えないほどハエがたかっておりました。ハエのいない冬場には、北西の季節風が馬糞(荷馬車が大変多い)混じりの土煙を吹き付けるので、まるでゴミの塊のように見えます。中国人はその強い免疫力のせいかまったく平気で「蝿まで集まるほど美味いんだ」と申します。又、衣類や日用雑貨、漢方薬等を売っている店が並び、大変賑やかな通りでした。
 ところで、その通りを歩く我々日本兵は、占領軍の一員として無意識ながら「そこ退け、そこ退け」とばかりに横行闊歩していたのだろうと思います。日本兵は中国人を軽蔑の眼差しで見、中国人は恐怖の眼差しで見ながらも、心の奥底では強い憎しみを感じていただろうと、今本文を書きながら思い返しています。
 敗戦後、日本人の満州開拓団(中国農民の農地を強制的に取り上げて、そこへ日本人を送り込んだ)に田畑を奪われた中国農民が、開拓団の遺児をたくさん養育したことを知りました。貧しい農民が、己を貧しくした相手の子供を拾って育てたということには感動し頭が下がりました。
 私は中国人に暴力を振るったことは一度もありませんが、それでも、旅順時代に農民のリンゴを何箱か盗ったことがあります。占領軍の一員として抑圧者の立場に立ち、その圧迫下に黙って辛抱している民衆の心の痛みに無関心であったことを恥ずかしく思います。
 後日召集されたフィリッピン戦線では、砲火のもとで殺され、奪われ、焼かれて苦しむ民衆を直接見て、その哀れさ、悲しさに気付かされました。旅順大連時代は、何分にも平和な環境だったので、己自身のことしか考えない毎日で、周辺の住民の心までは見ることも考えることもありませんでした。

選挙区で政権交代、比例区で護憲

 いよいよ明日が投票日になりました。昨夜は老人党護憲+の例会で、フィリピン元「慰安婦」支援ネットの展示会に対する「在特会」(在日特権を許さない市民の会)の妨害行動の実態を聞くことができました。ネトウヨと呼ばれてきた者たちの存在が、リアルに変りつつある傾向の一端のように思われます。ヘイトスピーチという言葉も聞きましたが、武器としての罵詈雑言が、組織的に用いられているようです。言葉の暴力と騒音の規制は、社会の平安を守るために、新しい視点で見直す必要が出てくるでしょう。
 それにつけても待たれるのは政権の交代です。選挙運動は今夜の8時で終了して、あとは有権者の投票行動にすべてがかかってきます。特に若い人たちに投票を呼びかけたいと思います。今の政治でもっとも冷たく扱われ、これからもっとも長く影響を受けるのは、若い世代なのですから。子供のいる若い親世代だったら、子供のためにも必ず投票してください。選挙権のない子供の権利も、親は自分の一票で守らなければならないのです。
 投票率を高めること自体に、選挙結果を民意に近づける大きな意味があるのですが、具体的にどのような投票が日本の今後のために望ましいか、私が考えたことと、その結論を書いておきます。
 まず、政権の交代は最優先で必要です。自公政権の末期の政治は、あまりにひどすぎました。企業を強くすれば日本の全体が豊かになるという目論見は、正反対の結果を生みました。構造改革が必要だったのは官僚組織そのものだったのに、官民癒着の構造には手をつけないまま、医療・福祉など切りやすい分野の予算を意図的に削減しました。富裕の法人や個人、不労所得などへの行き過ぎた減税は、正されないままです。
 民主党がどこまでやれるか、未知数の部分はありますが、やらせてみなければ何も始まりません。少なくとも自公政権よりは、有権者の声に聞く耳を持っている筈です。ですから選挙区では民主党の候補を当選させる。あるいは自公の候補を当選させないように投票すればよいでしょう。
 そして比例区では、私は護憲政党に投票することにしました。選挙区だけでも、民主党の過半数は大丈夫と判断したからです。民主党は必ずしも護憲でまとまっている政党ではありませんから、護憲勢力を大事にしたいのです。以上、よかったら参考にしてください。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(44)

旅順要塞防空連隊(5)

― 旅順・大連戦後の再訪 ―
 1995年(平成7年)7月末、57年振りに旅順港(軍港)が観光客に開放されたのを機に再訪した。大連ではクレーンが林立して建設ラッシュ、市街は大きなビルが並んでいます。 懐かしい大連埠頭は改造されて昔の面影はありません。貨物の野積場に列をなしていたシートを被った農産物の小山は消えて、大倉庫群で埋まり、見とおしは利きません。
 中央大埠頭の旅客待合所へ上がっても、大きな旅客船やビルで囲まれ何も見えません。今浦島の感が深まっただけです。なつかしい寺児溝を訪ねたいと思ったが、ガイドに強く止められ断念しました。
 連隊本部のあった香港上海銀行大連支店の石造りのビルも探しましたが判りません。半世紀以上の月日が流れたのですから無理もありません。その間に、植民地同然だった中国が統一されて強大な国家となり、敗戦国日本も焼け野原から金満国日本に変わりました。激動の時代の紅顔の青年達も、当然のことながら老いさらばえた老人に変わったのです、浦島太郎のように。
 かろうじて昔を偲ばせてくれたのが、旅順203高地に建つ銃弾型の日本軍忠霊塔と、そこから眺めた旅順湾と対岸の老虎尾半島、湾ロ左岸の黄金山でした。又、東鶏冠山北堡塁に同じく日本軍が建てた表忠塔があり、そこから北方を眺めると、ロシア軍の15センチ加農砲も、昔のまま砲ロが少し欠けた状態で、勇姿を誇示しておりました。新中国政府が、植民地化された苦難の時代の象徴として、大切に保存しているのです。日本人ならどうしたでしょうか。
 おそらく「国の恥だから直ちに取り払え」となるのではないかと思います。お隣の韓国政府が日本占領時代の総督府建物を取り壊したように。この違いはどこから出るのでしょうか? 基本的に己自身に自信を持つ者と持たざる者との差か? 異民族支配の苦渋を何回も味わった民族の智恵か?


選挙公報と選挙結果の予想

 今回も選挙公報の配布が来ないので、中野区役所へ取りに行きました。選挙管理委員会の説明も、前回と同じ「シルバーセンターに委託しているんですが……」でした。シルバー人材センターには、襖の張替えを依頼して、いい仕事をしてもらったことがあります。いいかげんな人たちばかりと思いたくはないのですが。
 もらった広報をつらつら眺めてみると、決して面白い読み物ではありませんが、党も個人も、限られたスペースの中で工夫しながらアピールしようとしている努力は感じられます。
 最高裁裁判官の審査広報は、比例区の広報と一体ですが、完全に定型化されていて、六法全書か紳士録のような編集です。個人のアピールは、最後の「裁判官としての心構え」から読み取るしかありません。そこにはそれぞれの立派な信条が述べられています。自覚的には、みんな立派な人たちなのでしょう。
 ところで、公職選挙法の第138条3に「何人も、選挙に関し、公職に就くべき者を予想する人気投票の経過又は結果を公表してはならない。」という規定があるのを知っている人は、どれくらいいるでしょうか。私はある時から気がついて、気になっていました。新聞社などが発表する「選挙情勢の分析と結果の予想」は、「人気投票」ではないから法にふれないという解釈になっているらしいのですが、違和感は消えません。
 立法の趣旨は、事前に人気投票をして選挙結果を予想すると、その宣伝効果で有権者が影響を受けるから、人気投票そのものは禁じないが、その結果の公表を禁じるということでしょう。ここで言われている人気投票とは、特定の団体などが恣意的に行うものという前提のようです。だから客観的な世論調査なら「人気投票」とは違うという理屈で堂々と公表されるのでしょう。
 しかし、常識で考える人気投票と、新聞社などが行う聞き取り調査との間に、どれほどの違いがあるでしょうか。まぎらわしい現在の規定は、全く無意味だと思います。正確な世論調査に基づく選挙結果の予測は、現代の選挙では不可避のものになりました。今さら禁止しても、怪しい地下情報を増やすだけでしょう。私たちは、これを活用して賢く投票するしかありません。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(45)

旅順要塞防空連隊(6)

― 高木大尉の印 ―
 防空連隊は大連湾周辺に広く散開しており、各中隊は半独立状態でした。そのため緊急の場合に備えて、連隊本部から遠い中隊勤務の衛生兵に対し、高木達郎大尉の印鑑がわたされました。認印の丸い輪の一角を欠いて、高木大尉の手帳に捺印して、誰がどの印を持っているかを明らかにした後に渡されました。急患が発生し陸軍病院へ直送する必要が生じた場合に備えたものです。
 私も何回か、盲腸炎患者や大腸炎患者発生の時には、直ちに本部医務室へ病状を報告、指示を仰ぎ、陸軍病院へ送りました。入院許可が出ると、直ちに病床日誌(病気の状態説明書)を書き、高木大尉の署名捺印をして病院へ送ります。連隊医務室から陸軍病院へは、かねてから事情説明をしてありますから、打診・聴診等の記載が無くとも、症状説明だけの病床日誌で入院が許可されます。今日の官僚王国日本と同じく、形式と認印さえあれば良いのです。
― 旅順要塞重砲兵連隊への出張 犬鍋 ―
 寺児溝の防空連隊一中隊に勤務中、本部医務室からの命令で、重砲連隊当時の患者の件で出張したことがあります。なつかしい医務室へ行ったが、知人は一人もおらず、古い書類探しはとても困難でした。それで、大連へ電話、許可を得て休養室で一泊しました。
 驚いたことに、営庭の至る所に犬小屋があり、たくさんの犬が飼われていました。訊けば、演習に出た時には野良犬を拾って来て育てており、毎晩のようにどこかの内務班で宴会だそうです。洗面器を鍋の代用にします。赤犬の肉が特にうまいそうです。野戦へ出るまえの部隊で、大部分が召集兵ですから、現役兵ばかりの大連防空連隊や重砲兵連隊とは大変な相違でした。
― 関特演動員部隊の南下 ―
 7月には輸送船で大津波のごとく押し寄せた大部隊ですが、10月末頃より潮の退くように大連港から出ていき始めました。しかも「中国戦線への参加」とか言うのに、夏服や防暑服を着ております。野次馬根性の強い私は「周辺の衛生状況視察」と称して、大連埠頭へよく見物に出かけました。「内地送還」と喜んで、土産物をたくさん買い込んだ兵士も多かった。防暑服では満州のl0月ははとても寒くて、兵士は震えておりました。
 「どうもおかしいな」と思いましたが、やはり中国南部か仏領インドシナ(ベトナム)への増援軍だろう位に思っていました。米、英、仏、蘭への開戦、太平洋戦争が迫っているなどとは、夢にも思いませんでした。

民主党が危ない

 民主党が危ない。負けそうだからではない、今朝の朝日新聞を見て、そう思った。衆議院の3分の2の絶対多数を握る320議席に達しそうだというのだ。近年の選挙で、新聞の世論調査が大きく外れた例はない。私がブログに何を書いても、勢いのついた民主党ブームが止まることは、おそらくないだろう。でも、民主党は危ないと思う。
 衆議院で3分の2を占めれば、参議院で同意を得られない法案でも、単独で再可決できることになる。自公政権が繰り返した横暴の裏返しが可能になる。安易にそんなことはしないと言明してはいるが、お目付け役の社民党など他党の影響力は低下せざるをえないだろう。事実上の民主党独裁政権になる可能性が出てくるのだ。
 すると、どういうことが起こるか。320名の民主党議員の中には、いろいろな考え方の人が混在している筈だが、そこに「権力の保持」という、ただ一つの共通項が出てくる。これは、右から左までいろいろな派閥を抱えながら、権力の維持によって組織を保ってきた「何でもあり自民党」の生まれ代わりに酷似してくるではないか。私たちが求め続けてきたのは、自民党の代替物ではなくて、清新な政策集団だった筈である。
 民主党の今のマニフェストの中に、疑問を感じる政策は少なくない。公約のすべてが国民から絶対の信任を得たと思ってほしくはない。新しい衆議院は、明るく開かれた、公正な議論の場にしてほしい。だから今のうちに注文しておきたいことがある。
 民主党の最大の使命は、政治の主権を、官僚主導から民意主導へと改革することだと思う。これは日本の政治史上はじめての大改革だから、強力な政治権力を必要とする。その意味でなら、議会での多数は絶好の武器になる。天が与えてくれたこの好機は、すべからく官僚組織の改革のために使ってほしいのだ。民意に従い、国民のために働く官僚という「手綱を握って馬に乗る」国づくりに、この4年間は集中してもらいたい。官僚が国民のために働くことに目覚めたら、必ずすべてが好転する。
 その上で、防衛・平和の問題、教育・文化の問題など、議論の多い問題に、じっくりと取り組むのがいい。郵政選挙で得た議席に乗じて横暴をきわめた小泉政治の二の舞をしてはならない。勝ったあとの危なさを自覚し、謙虚さを失わずにいられるか。政権を取ったその日から、民主党の試練が始まる。まして3分の2を上回る絶対多数党になったら、一切の言いわけは許されなくなるのだ。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(46)

大連防空連隊本部医務室勤務(1)

 1942年(昭和17年)3月、兵長に進級、寺児溝駐屯一中隊から連隊本部医務室勤務となるとともに下士官勤務となりました。一般事務とともに高木大尉の秘書官的な任務を与えられ、従前通り、大尉の印鑑を保管しておりました。
― 本部医務室 ―
 関特演の目的はシベリア侵攻にありましたが、侵攻作戦は消えて東南アジアでの戦争となりました。連戦連勝のニュースが流れ、部隊全体が浮き立ち、規律が緩んで、まるで民間会社のような雰囲気になっておりました。召集兵は召集解除を、現役兵は満期除隊の日を指折り数えて待つだけです。1942年(昭和17年)始めには、準戦備が解かれたのではないかと思う。高木軍医大尉は長身のでっぷり太った偉丈夫です。満鉄の元理事の娘と新婚ホヤホヤで、満鉄大和ホテルの一室に宿泊し続けたままです。本部医務室へは遅くなって出勤してきますが、時には、朝早くに私に一日の予定を電話してきて、急用発生のときの連絡を指示した上で、出勤しないこともありました。
 昼間に映画館の座席とりを命じられることもありました。直ぐに良い席の切符を求めて、指定時間に映画館の前で待ちます。誠に気楽なお話です。夫人は小柄で美人とは言えない女性でしたが、さすがに満鉄理事の娘さんで、気品を感じさせる人でした。大尉も(けっして美人ではないことを)気にしていたらしく、私達にこう言っておりました。「お前らに嫁はんを貰うときの心得を教えてやる」「別嬪は駄目じゃ。軍人は家を後に戦場へ出る身じゃからな」「悪妻(不美人?)には三徳がある。留守にしても心配がない。サ―ビスが良い。更に、死んでも惜しくはない」最後の「死んでも惜しくはない」には大笑いしたものです。
 夫人の実家は大資産家でしたから、大和ホテルの一室を借り切る生活が出来たのです。夫人の私ども部下に対する心配りは大変なものでした。毎月始めの医務室は、報告書類の作成で夜遅くまで残業が続きますが、その時には、必ず名のあるレストランから豪華な食事の差し入れがありました。多忙さを忘れさせてくれる楽しみでした。
 私が本部医務室へ行ったときには、堀軍医中尉は他部隊へ転属したか、召集解除になったか、いずれにしてもおりませんでした。沢田軍医少尉は満鉄病院勤務の医師で、招集された軍医です。連隊本部ビルの屋上へ上がると、自分の家が見えて家族の姿もかすかに判るほどの距離ですから、病院勤務の延長のようなもので、タ食前には退庁して我が家へ帰ります。
 西住伍長は、同じく大連市内からの応召者で、沢田少尉の家よりは一寸遠いものの、これも我が家の軒先が見えておりました。日直以外の日は殆ど毎晩外泊でした。私にニッコリと笑って出ていきます。これを見た曹長殿も市内に彼女を作って、よくお出かけです。こんな状態ですから、私が日直の日の医務室は、私と衛生兵だけになります。「緊急の時には電話しますから、必ず家に居てください。自転車を身近に置いてください」と、三人には常に念を押していました。

なぜか静かな選挙戦

 天下分け目の選挙戦がたけなわの筈だが、私の家の周辺は静かだ。以前は選挙といえば宣伝カーの通過がひっきりなしで、録音の仕事にも差し支えるほどだったが、今回は遠くに聞こえたのが数回あったかどうか。18日の公示以来、長妻昭の呼び名を町で聞いたことは一度もない。街頭で見るポスターの数もずっと減って、公設の掲示板だけになった。小選挙区制になってからは、ずっとこうだったのだろうか。
 候補者一人について、拡声器つき自動車は1台だけだそうだから、区内を走り回る選挙カーの数は、昔よりずっと少ないのだろう。以前には政党機関紙の宣伝カーも出て「ただいま発売中の○○新聞には、○○候補の記事が出ております」などとやっていたが、そういうこともなくなった。取締りが強化され、選挙の公営化が進んでいるのだろうか。
 選挙公報は、まだ配達されてこない。投票日の2日前までには全戸に配布する建前だそうだから、もし来なければ区の選挙管理委員会に問い合わせてみよう。過去には少なくとも2回、国政選挙で配布がなかった。事後に問い合わせたら、シルバー人材センターに委託しているが、配布漏れの区域があったようだとの説明だった。
 私の場合は、長妻昭をよく知っているから迷うことはないのだが、判断材料のない人にはどんな情報があるのか、試しに「選挙 中野区」でネット検索してみた。ところが、欲しいような記事がほとんど出てこない。過去のデータなどは多少わかっても、現在進行中の選挙の候補者についての情報は、意外なほど少ないのがわかった。個人のホームページにたどりつけば、その人のことはわかるが、客観的に各候補者を比べられるような資料がないのだ。区の選管の公式サイトでさえ、選挙公報は「区のおもな施設や区内の駅、期日前投票所や各投票所にも備えます。」と書いているだけで、広報そのものを読むことができないのには驚いた。
 その一方で、あまり意味がないように思われる同じ文面の選挙ハガキが、2枚送られてきた。これには公費が使われている筈で、選挙管理の方法が、時代に合わなくなっていることを象徴している。ネット広報、個人ビラ、戸別訪問などを解禁したら、また別な弊害が出てくるのかもしれないが、あまり静かなのも物足りなく感じられる。

ブログ連歌(92)

1819 どんと昔 戦争あったと この星に(建世)
1820  日露のいくさ よく聞きました(うたのすけ)
1821 戦争は 絵本の中に あればよし(建世)
1822  戦争ごっこも 夢のお話(うたのすけ)
1823 夢うばう 絶えざる戦さ おぞましき(みどり)
1824  殺しが好きか やたらに跋扈(うたのすけ)
1825 靖国は 戦争前夜の ごとく荒れ(建世)
1826  想い万感 人それぞれに(うたのすけ)
1826B  ドイツ憲法 田母神裁く(ハムハム)
1827 悪い夢 忘れたいのに 同じ道(建世)
1828  そこはみんなで とうせんぼう(うたのすけ)
1829 核兵器 みんなで捨てれば 怖くない(建世)
1830  一にの三と 掛け声かけて(うたのすけ)
1831 今さらに あの軍隊を 何のため(建世)
1832  二度と御免の 前線便り(うたのすけ)
1833 鳩よ飛べ オリーブの枝 忘れずに(建世)
1834  ピースの図柄 あらためて見る(うたのすけ)
1835 禁煙の 進む世に又も ドラッグの渦(こばサン)
1836  ノリピー哀れ 元気を出して(建世)
1837 加害者が 被害者である この社会(ハムハム)
1838  裁く権威が 裁かれる日よ(建世)
1839 正義より 保身先立つ 裁き人(みどり)
1840  国民審査 おろそかにせじ(建世)

平岡久「あの戦争あの軍隊」(47)

大連防空連隊本部医務室勤務(2)

― 平岡秘書の任務 ―
 連隊本部副官室からは毎日たくさんの文書が出てきます。軍隊とはそもそも役所で、軍人は国家公務員です。官庁の常として、繁文辱礼の言葉どおり文書がまことに多い。その中でも、「軍事機密」とか「極秘」と捺印された文書は、副官、主計長、軍医長が回覧の後、連隊長に出されていたように記憶しています。高木大尉が不在の時には平岡兵長が見て、かねて預かった印を押して副官室へ届けます。勿論、高木大尉には要点をメモしておいて他の文書とともに報告します。重大と判断した場合には、直ちに電話連絡して居場所を確認し、直行して報告したこともあります。このような特殊な立場にあったため、一兵士の私が独・ソ戦の情報の一部を知ることが出来たのです。
 例えば、「海岸砲台と軍艦との砲撃戦は天候で左右される」というドイツ軍情報(どちらが有利なのかは忘れた)とか、ハルビンにあった収容所からのソトへ情報(ソ連軍逃亡兵から得た情報)とかです。文脈から判断して、冬期凍結した黒龍江を渡った日本軍が、巡察中のソ連兵士を拉致することもあったのではないかと思いました。
 前記ソトへ情報で深く印象に残った記事として、下級将校、下士官、兵の戦闘能力の調査がありました。時々演習をさせて、将校の指揮方法と能力、下士官と兵の連携度などを調べたようです。忘れられないのは、兵士の地形とか物陰の利用感覚が優れている、との記述でした。
 ソ連軍の縦深陣地の件もよく覚えています。ソ連軍は、円型の土塁の中に速射砲(対戦車砲)と機関銃と小銃を持った兵士の一団を置き、各堡塁が相互に支援する戦法です。頑丈ではないが、かなり強靱な抵抗力を持つ防衛方法で、広大な領土を持つロシアならではの戦法です。
― ソ連軍等の編成 ―
 ソ連軍、ドイツ軍はともに砲兵・戦車(移動式砲兵)が主力で、歩兵は砲兵の援護、基地の守備隊、或いは占領地の警備隊として編成されていることに驚きました。当時の日本軍は38式小銃を持つ歩兵が主力で、砲兵は歩兵の援護部隊だったからです。旅順時代に、断片的ながら、仮想敵軍たるソ連軍は砲兵と戦車が主力部隊らしいと知ってはいました。しかし、一兵士の私には具体的かつ正確な知識を得ることは出来ませんでした(知識欲は貧欲でしたが)。
 ところが、高木大尉の秘書となり、時々、軍機密、極秘の書類を見るようになって、ソ連軍、ドイツ軍の編成概要を知るようになって、びっくりしました。彼らは数個の砲兵連隊を集めて砲兵師団を作り、その砲兵師団を何個か集めて砲兵軍団として使用するのです。基礎になる砲兵連隊は、小銃、機関銃、速射砲(対戦車砲)の各中隊を自衛部隊として持っているのです。

比例区票を活用しよう

 各種の世論調査を見ると、この選挙での民主党の圧勝は、ほとんど間違いがないようです。自公政権を退場させるという目的は、ほぼ確実に達成されるでしょう。2大政党による交代を意識して作られた現在の選挙制度は、ようやくその効果を発揮します。
 問題は、その後の政治情勢になってきました。「政権交代可能な野党」の一番手は民主党になりますが、それは「まず変えてみよう」の気分に押されたもので、国民の選択肢としては、まだ不満の残るものになる可能性があります。その不安の最大のものは、2大政党以外の政治的意見を代表する政党が、埋没してしまうことです。
 とくに「社会主義」の名を冠する政党が日本から消えることは、大きな損失です。ヨーロッパの福祉社会を築いた功労者は、押しなべて「社会民主」を名乗る政党でした。その思想的な根源は、1951年に採択されたフランクフルト宣言
「自由なくして民主主義はありえない。社会主義は民主主義を通して達成され、民主主義は社会主義によって実現される。」
に発しています。
 今の民主党には、旧社会党、旧民社党の政治家は、ほんの少ししか残っていません。社会党崩壊の後を継いだ社民党は、苦戦を続けています。社民勢力が「歴史的和解」に失敗して四散したについては、歴史的な不幸と指導者の誤りがありますが、日本の政界に社民思想の種は残さなければならないと私は思います。
 およそ政治思想には、自由を重んじて競争による発展をよしとする自由主義と、平等を重んじて民主主義による平和共存をよしとする民主主義と、2つの潮流があります。これは内政ばかりでなく、外交・防衛など国際関係にも、そのまま一貫するものです。この2つの潮流に整理されたとき、日本の2大政党制も、納得できるものに近づくでしょう。
 そう考えると、今の日本の2大政党が、そのまま「政界のすべて」になってしまうのは決して好ましいことではありません。政権交代は当然としても、その後のことを考えた比例区票の投票を呼びかけたいと思います。また「第3の道」に可能性を残す比例区の議員定数は、今後も削減せずに、むしろ増員すべきです。

ブログ意見集 by Good↑or Bad↓ 小選挙区と二大政党制の是非



平岡久「あの戦争あの軍隊」(48)

大連防空連隊本部医務室勤務(3)

 片や、日本軍の戦闘用師団の編成は、歩兵三ヶ連隊、砲兵一ヶ連隊と捜牽連隊(軽戦車と装甲車数ヶ中隊)で、工兵連隊と輜重連隊が補助します。砲兵二ヶ連隊で砲兵旅団を持つ師団は日本中でも十指に足りません。旅順で「ソ連軍はドンドンと太鼓を叩き、日本軍はパチパチとゴマを煎っていた」という話がやっと納得できました。ノモンハン戦当時、日本一と自慢する満州駐屯の関東軍には、軽戦車連隊が一ヶあっただけです。しかもソ連軍と一度顔合わせをするや、大打撃を受けてビックリし、直ぐにチチハルの原駐地に引き上げてしまいました。
 大連の医務室で、近代ヨ―ロッパ軍と日本軍には横綱と褌担ぎほどの差があることを痛感させられました。その結果、ロには出さないものの、太平洋戦争の前途もはっきりと見極めることができました。だからこそ、後日フィリッピンでサイパン玉砕(1944年8月24日)を知らされても、「来るべきものが来ただけ」と冷静に受け止めたのです。ただ、その時に軽率にも姫路出身のT伍長に対して「神風は吹きませんよ」(勝てませんよ)と失言してしまい、あわや憲兵隊送りの瀬戸際に立たされるという大失敗をやりました。
 当時、賢明なる大日本帝国の高級職業軍人さん達は「現人神(アラヒトガミ)の御印たる菊の御紋章が付いた38式小銃は、宿敵、鬼畜米英の大砲に勝利する。皇軍兵士は飯の代わりに水だけで十分生きられる」と信じて疑わなかったのです。なんと気楽でお幸せな! 日中戦争のとき、中国人農民は大刀会や紅槍会を組織して、「紅い房の付いた刀槍を持てば、日本軍の銃弾は絶対に当たらない」と信じて戦いましたが、日本の高級軍人も同じ思考レベルです。きっと、士官学校や陸軍大学では、「皇軍無敵、無敵皇軍」と呪文を毎日唱えるのが授業だったのでしょう。「南無大師遍照金剛、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経」と唱えて、法悦に浸るのと全く同じように。そんな馬鹿者どもに率いられて、戦野に屍を曝した戦友達こそ哀れではありませんか。
 医務室で高木大尉は個室を持っており、出勤したときは、私は報告をしたり、呼ばれたりで頻繁に出入りしました。これを書きながら今思うと、どうやら大尉は平岡を秘書役とすることで、自分は大和ホテルに泊まり込み、市中を遊び回りながらも、医務室には緊張感を持たせるという、高等戦術をとったのだろうと思います。
 私は、沢田少尉以下の医務室幹部のことは何一つ大尉に告げませんし、大尉も一切訊きませんでした。しかし、平岡を再三部屋に呼ぶことで、他の幹部の手綱を締めていたのです。お坊ちゃんにみえながら、この高木大尉はなかなかの人物だったのです。また二人の下士官も、平岡は余計なことは言わんだろうと見て、自由な夜を過ごせることを喜んでいたのです。「器用貧乏、隣のワルに使われる」、一番の馬鹿は平岡だった。
 それでも、「平岡兵長、事務連絡で陸軍病院へ」と自分で書いて、大尉の署名捺印をして公用外出できます。ちょっと入院患者の顔を見た後は、自由に市内散歩です。アカシアの花が咲く春の公園はとても美しく、良い香りが流れていて、「良えなぁ」と、つかの間の平和を楽しんだものでした。

民主と自民、似ているようでもハッキリ違う

 民主党と自民党、政権交代はいよいよ現実味を帯びてきましたが、いざとなると言っていることが似てきました。マニフェストの文字面を見るかぎりでは、どちらにも似たような言葉が並んでいます。これでは交代しても、何が本当に変るのかと、疑問を感じはじめている人もいるかもしれません。
 しかし昨日の朝日新聞と東大の共同による候補者へのアンケート調査で、あざやかな違いが出ていました。個々の候補者つまり当選したら議員になる人たちが、国の予算をどのように使うつもりかを答えているのです。これは、マニフェストよりも正直に、選挙後の国政の方向を示していると考えていいでしょう。
 大きな違いが出ているのは、防衛関係と公共事業関係です。まず防衛費について、自民党では29%が「増やす」と答えているのに対して、民主党で「増やす」は4%だけです。逆に防衛費を「減らす」と答えているのは、民主党が29%に対して、自民党は7%です。公共事業費については、自民党の25%が「増やす」で、民主党は3%のみ。逆に公共事業費を「減らす」は、民主党の72%に対して、自民党は17%となっています。この2項目について、自民党が増額を指向し、民主党が減額をめざしている傾向が読み取れます。
 この違いが、雇用・経済対策、医療・福祉対策、教育・文化対策という、3つの重要課題について影響してきます。両党とも、力を入れるつもりでいる点は同じですが、優先順位は微妙に変らざるをえないのです。雇用・経済対策では民主党74%に対して自民党69%、医療・福祉対策では民主党96%に対して自民党90%、教育・文化対策では民主党91%に対して自民党76%と、いずれも民主党が自民党を上回っています。
 雇用・経済、医療・福祉、教育・文化を充実すると、同じことを言っていても、熱心さの度合いは同じではない。このことを、候補者の回答は教えてくれます。政党の政策といっても、所詮は所属議員の意見の総和で決まるものです。マニフェストではわからない「本気の度合い」を、この調査は知らせてくれました。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(49)

大連防空連隊本部医務室勤務(4)

― 兄 清吾の面会 ―
 本部勤務中に五兄の清吾が面会に来てくれました。兄は満鉄の自動車修理工場に徴用されていて、たまたま大連に来る機会があって面会にきてくれたのです。満州で兄弟が会えるなど夢にも思わなかったので、とても嬉しかった。清吾兄は職業の関係か、金回りが良かったらしく、多額のお小遣いをくれました。元来、兄弟の中で一番金遣いが荒く、気前の良い人間でした。
 その金で、ある日曜日に「生涯の思い出に」と大連飯店に出かけて、豪華版の食事をしました。個室で一品ずつ運ばせての食事です。そこで思わぬことがありました。廊下の反対側で中国人が食事をしていたのですが、それはそれは超豪華な食卓でした。ボーイさんに聞くと、終日食べては眠り、目覚めては少し食べて、部屋の片隅の寝台に横になって休む、これの繰り返しだそうです。中国人の富豪にはよくある食事風景だとのことです。食べては吐き、吐いては食べるを繰り返す皇帝の話を本で読みましたが、食味道楽もいかにも大陸的で、日本人の島国根性とは随分異なるなあ、と感心しました。
― 大相撲慰問団 ―
 1942年(昭和17年)初夏、日本相撲協会の関東軍慰問団が大連を訪れ、その興行に招待されました。生涯只一度の大相撲見物でした。興行の場所は忘れましたが、当日は、高級将校団が土俵間近に座り、順次、下級将校、下士官、兵と遠くなります。民間人は更にその外回りに位置しておりました。しかし、旅順・大連には駐屯軍が少なかったため、兵士も土俵の近くで見物できました。
 先ず筋骨隆々たる力士に驚きました。旅順重砲でも創立記念日には相撲大会がありましたが、大相撲と比べると、小学生と大学生ほどの差があります。しかし、力士の肌に擦り傷が多いのを見て、稽古の大変さを感じました。楽しい一日でした。
― 九州出身漁民との交流 ―
 ある外出時に、北九州出身の漁民と親しくなって、日曜日に時々その事務所へ遊びに行きました。もともと漁具、漁業に深い関心があったので、話は弾みました。大きな打たせ網漁船(風力利用の底曳き網漁業の帆船)を何隻か持った人でした。特に覚えているのは、春になって南方の東シナ海方面から渤海湾へ北上する魚を獲る漁業でした。網の形状は、鳥の首が無く羽根を左右に延ばした形で、魚を胴体部分へ誘い込み、尻尾の所へ集めて漁獲する方法です。
 定置網の一種です。漁種はクチ、太刀魚が主で、相当大きな水揚げがあり、利益も大きいようでした。一度操業する場面を見たかったが、早暁に出る船に乗ることは出来ず、ついに希望だけで終わりました。

山谷夏祭り2009に行く

 昨夜は、新宿西口「一人デモ」に時々参加されるOさんご夫妻からチラシをいただいていた「山谷夏祭り2009」に行ってきました。ご夫妻は、以前から山谷で毎週日曜日に行っている「炊き出し」ボランティアをしている方で、新宿に立つときは原発反対をテーマにしておられます。
 西口デモを少し早めに切り上げて、南千住の駅から歩いて15分ほどの山谷・玉姫公園の会場へ行ってみました。この辺りはNHKに勤務していた時代にも何度か行ったことがありますが、簡易宿泊街で、今でも1泊2000〜3000円程度の旅館やホテルが並んでいます。雰囲気は昔と変りませんが、ホテルには白人の外国人旅行者の出入りも多いようでした。場所によっては独特の饐えたような臭気もあるのですが、ダンボールハウスやブルーテントは全く見かけませんでした。
 山谷夏祭りは、盆で飯場が休みになる時期に、帰る場所のない日雇い労働者たちが、亡くなった仲間を懐かしみ、互いに元気になれるように集まったのが発祥ということです。今は労働者も高齢化し、生活保護で暮らす人たちも増えています。時代の変化に合わせて、2年前から夏祭りも実行委員会方式として、近隣のホームレスの人々も含めて、交流を深め、協働の場とするということで、会場には相談コーナーも設けられていました。
 ただし私が到着した時間には、場内はすでに「出来上った」状態で、模擬店は売り切れ続出、ブルーシートに座ったり横になったりした人たちが、のんびりと演芸などを楽しんでいました。しかし最後の盆踊りは、かなり盛り上がりました。Oさんの説明で「山谷の玉三郎と呼ばれる女形の名人」さんは、さすがにあざやかな手振りで、私も後について東京音頭が7割ぐらいは迷わずに踊れるようになりました。
 会場の一隅に、亡くなった仲間の写真を飾ったコーナーがあり、灯明と線香が供えられていました。山谷の人たちは、自分の地元を「やま」と呼びます。昔の炭鉱住宅の感覚にも近いのでしょう。「まともな写真がなくて苦労する」ということで、スケッチ画の顔もありました。「あいつは刑務所で殺されたんだよ」と、熱心に説明してくれる人がいました。
 この夏祭りは、今夜も6時から9時まで行われます。



平岡久「あの戦争あの軍隊」(50)

大連防空連隊本部医務室勤務(6)

― ポツダム宣言 ―
 1945年8月の敗戦処理を考えてみるに、7月26日発表の連合軍のポツダム宣言をなぜ即時受諾しなかったのか、その不決断が情けない限りです。それから僅か20日間に起こった、広島・長崎の原爆、在満州百万の悲劇、更には、南方・中国・千島・樺太での悲劇も、回避することができたのです。
 ところが、現人神大元帥にも、翼賛政治家にも、胸前狭しと勲章をぶら下げた将軍にも、僅か半月先の事態が見えなかったのです。多くの情報が集まったのに、分析・判断能力がなかったのです。30師団司令部でも中将以下のエリ―ト将校が、終戦勅語を聞いても、なお敗戦の事実を信じられなかった、と公式記録に残っております。
 当時、私は末席の下士官一伍長に過ぎませんでしたが、それでも僅かな情報と自らの推理で「敗戦必至」と見ました。だから、私は6月12日に病院解散の命を受けるや、直ちに仲間全員の衛材を捨て去りました。衛生兵の兵器ともいうべき衛材ですが、荷物に手足を取られるよりも、飢えて体力のない兵士が身軽になって生き残る道を選んだのです。普通なら死刑になる行為ですが、この判断により部隊の半数を生還させることが出来たのです。
 開戦から終戦に至る長い間、判断力、決断力のない愚かなリ―ダ―を戴き続けた国民こそ、誠に哀れと言わなければなりません。その悲哀を再び重ねることのないよう……
― 防空連隊長志気の上がらぬ訓辞 ―
 祝祭日や記念日には、ビル屋上に連隊本部勤務者が集合させられて、連隊長訓辞がありました。その連隊長ですが、演壇に上がるのに、たった三段の階段を立って上れないのです。まず腰の軍刀を外して壇上に上げておきます。続いて、階段の縁を両手で握ってボツボツ上がります。二段目で軍刀を執り、それを杖にして、やっと壇上に立ちます。そうして、ポツリポツリと訓辞や祝辞をやるのです。
 病身だったのでしょうが、ヨボヨボの連隊長では隊員の士気高揚など望むべくもありません。志気沈滞はその極に達します。「連隊長室で居眠りでもしとりゃ良いのに」と兵士が陰ロを叩きます。今振り返って考えるに、あの老大佐にも若い溌剌とした日々があったのでしょうが、よる年波と病に負けたのだろうと気の毒にさえ感じます。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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