志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2009年09月

「新しい労働社会」を読む(1)

 「新しい労働社会・雇用システムの再構築へ」(濱口桂一郎・岩波新書)を読みました。日本の雇用・労働関係、つまりは社会システムが今後どのようになって行ったらいいのか、その全体像をEUモデルを手がかりとして見通しています。私の考えてきたことと近い部分もあり、最後まで興味深く読めました。日本の労働モデルの特殊性と、福祉社会化のために必要とされる課題も、よくわかりました。
 序章は日本型雇用システムの特徴から始まります。私たちが今でも普通だと感じている「就職」ということが、世界的な基準からすると、いかに特殊なものであるかが語られます。日本では学校を卒業すると「東芝」や「トヨタ」や「TBS」や、あるいは「あまり有名でない商社」や「名もない鉄工所」などの社員になることが「就職」ですが、ヨーロッパの一般的な基準では、事務職員や専門技術者、あるいは工場労働者として働き始めることが就職であって、勤め先がどこであるかは2次的な問題になるのです。
 このことは企業の求人に反映します。ヨーロツパの企業は職種と報酬を提示して必要な労働力を得ようとするのに対して、日本の企業は身分(メンバーシップ)として優秀な人材を集めることが求人だと考えます。それは経営の中心を担う幹部社員としてばかりでなく、工場現場の労働者についても同様でした。この裏側には、日本の学校教育における職業教育が非常に貧弱だという事情があるのです。そしてこの弱点は、高校や大学に至るまで総合教育に偏っていて、知的レベル選別機関の役割しか果たしていない状態は今もつづいており、無駄の多い受験競争を加速しているのです。
 日本型雇用の典型は、社員の全員を終身雇用することです。そこで決まる賃金は、年功序列型になります。若い働き盛りでは、会社への貢献に対して報酬は相対的に低く抑えられますが、社員が妻帯し子供を育て教育を受けさせる年齢になると、それに見合う収入が得られるよう配慮されています。住宅手当や医療・労災などの保険も完備して、生涯にわたる暮らしの安心を保証するのが企業の役目でした。
 こうして日本の企業は、国が行うべき福祉も「企業内福祉」として実現しながら社会を支えてきました。「東芝」と「名もない町工場」の格差はあるにしても、日本の雇用とは、そのようなものでした。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(11)

連隊の歴史(1)

 連隊の歴史を書きたいが、東京の戦史研究所まで出かけるほどの熱意はありません。従って、私が旅順重砲連隊に在隊した1年余りの見聞を少し書きます。
― 1931年(昭和6年)9月18日朝の柳条溝事件 ―
 ある日曜日の晩、医務室で日直をしていると、某准尉(名は忘れた)が外出から一杯機嫌で帰って、医務室へ来ました。「風邪気味なので薬をくれ」とのことで、こんなことは日常茶飯事です。翌日、初年兵の誰かが受診したことにすれば、薬の数は合います。
 そのとき、この准尉さん、ちょっとアルコ―ルが過ぎていたようで、日頃の不満を私相手に吐き出し始めました。
「柳条溝事件の前、8月の炎天下で、満鉄奉天駅で24榴弾砲を据え付けさせられた。下士官と将校のみで、秘密のうちにこっそりとやらされたよ。まず、昼の間に北大営へ照準を合わせ、円板測量で諸元(大砲の方向、角度)を出したが、夜間射撃用に綿密な観測だったよ。その後で、高い板塀で囲いを作り、夜間に貨車から運んで、据え付けたものだ。静かに少人数でやったので大変だったぜ。砲弾も火薬も山と積んだよ。人目に触れないように随分と気を使ったものだ。何分にも相手は東北軍第一の精鋭で、張学良がもっとも頼みとする北大営の軍隊だからな。こうして、9月18日早朝、眠り込んでいる数万人の敵兵士の頭上に24榴の巨弾を不意打ちに叩き込んだからこそ、敵はパニック状態で逃走したのだ。そのお陰で独立歩兵守備隊(南満州鉄道警備隊)一ヶ中隊で占領出来たんだ。なにが独歩一ヶ中隊の手柄なものか。我々の砲撃のお陰だ。それなのに、国際連盟への手前、我々の準備作業は隠して表に出さん。独歩は勲章を貰い、昇進するのに、我々は縁の下の力持ちだ」
と大憤慨しておりました。
 後日たくさんの本を読んで、「事前に重砲を据えた計画的な攻撃だった」事実を知りました。医務室で聞いたときには、「関東軍がそこまで計画的だったのかなあ」と半信半疑だったが、今、思い出す度に、某准尉に同情したくなります。
― 大原城攻撃 ―
 1937年(昭和12年)ll月の、中国山西省の大原城攻撃では、城壁、城門の破壊に89式15加二門で連続砲撃をした。そのうちに砲身が焼けてきたので、濡れむしろを掛けて冷やし、射撃を続けた由です。「一発打つ度にむしろをかけ直した」と下士官から聞きました。
― 張鼓峰戦 ―
 1938年(昭和13年)7月、北朝鮮とソ連との国境で起こった張鼓峰事件にも、89式15加二門で参戦した。8月に停戦。この戦いのとき、閉鎖機(砲身後尾の蓋で、ネジ込み式)が後方へ飛び、分隊長以下相当の死傷者が出た。


オリンピックと民主党

 鳩山首相がオリンピック招致のためにコペンハーゲンのIOC総会に出席を決めたと報じられている。超多忙の日程だろうに、大相撲の表彰式にも姿を見せたし、国民へのサービスという感覚なのだろうか。首相の立場には、行政実務の長であるとともに、国の代表者というシンボル性もあるから、内外への顔見せも職務の一部分にはなる。それにしてもIOC総会行きは「1泊3日」の強行軍になるとかで、おそらく一晩の睡眠時間を無視する日程なのだろう。本業に差し障りはないかと少し気になる。
 オリンピックの東京招致については、民主党はマニフェストでも触れていなかった。政治課題にはしない中立の立場だったと思う。だから積極的に出向くこともあるまいと思うのだが、オバマ大統領も出席を決めたということだし、日程が作れるなら顔を見せようということになったのだろう。エコの日本を宣伝するという理屈もついた。
 私の意見としては、東京オリンピックには賛成しない。4月20日に「オリンピック招致に反対する理由」というのを書いている。あれは麻生政権と石原都政の時代だったが、政権が変ればいいというものではない。しかし同時に「オリンピック一つで国が亡びるわけでもあるまい」とも(コメント欄に)書いた。もしIOC総会で東京が当選しても、阻止行動を起こすほどのことでもないと思っている。ただし北京オリンピックの開会式のようなコテコテの馬鹿騒ぎだけは願い下げにしたいものだが。
 オリンピックは国民的行事だから、政争の道具には似合わないという感覚は、わからぬではない。しかしここで私は政府の記者会見場での日の丸を思い出してしまう。あれは、いつから始まった習慣なのだろうか。少なくとも、国旗国歌法で「日の丸を国旗とする」と法定する以前には、なかったと思うのだが、どうだろう。その習慣が、民主党になっても踏襲されているのは、ちょっと意外だった。総理官邸が日本であることは誰にも自明のことなのに、ことさらに日の丸を背負って権威づけしたいのだろうか。あるいは日本政府の連続性の安心感を演出しているつもりだろうか。
 オリンピックでは、いろいろな国が集まるから、日の丸はそういう所で本当に必要になる。鳩山首相は健康に注意しながら行ってきていただきたい。そして落選したら、当選国を祝福してほしい。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(12)

連隊の歴史(2)

― ノモンハン戦 ―
 1939年(昭和14年)5月から9月のノモンハン事変、一中隊は高射砲で参加し、将軍廟等の物資集積所の防空にあたる。その時、一門にソ連空軍の直撃弾を受け、分隊員の殆ど全員が死傷した。分隊長も、自身の傷と部下の血汐に全身がまみれた。驚いた衛生兵が、分隊長の両足の負傷程度を十分確認しないまま、両大腿にラセン止血帯を巻いて止血したあと、ハイラル陸軍病院へ送った。ラセン止血帯は、短時間毎に緩めて血流を促さねば、止血帯から先の組織が死ぬのです。ハイラルへ着いた時には、既に両足は死んでおりました。病院で診たところ、傷は大したことはなく、ガ―ゼの圧迫包帯で十分だったそうです。某軍曹は両足を切断、完全なダルマ様となったのです。私は某軍曹の病床日誌を見て暗然となり、衛生兵の責任の重さを痛感しました。人の生死に立ち会ったとき、如何に沈着冷静に対処すべきか、肝に銘じたものでした。
 二中隊は89式15加二門でム―リン重砲兵連隊長の指揮下に入り、ノモンハン戦に参戦した。ソ連軍は質量ともに圧倒的に優勢で、当方とは天地の差があり、二中隊は苦戦を続けた。ソ連軍重砲の射距離は日本軍と比べて格段に長く、日本軍重砲は敵の野砲と戦うのが精一杯でした。ソ連軍重砲陣地へはこちらの砲弾が届かないのです。更にソ連軍は複数の砲兵師団を使用し、その消費砲弾数は物凄いものだった、と本には書かれております。横綱と十両の相撲だったのです。
 ソ連軍は、ポ―ランドをドイツと分割する前にノモンハンを片付けようと、八月末に大攻勢を掛けてきました。日本軍は、小松原師団長の馬鹿げた命令で砲兵援護用の須貝歩兵連隊は他に異動させられていました。そのため、防御されない丸裸のム―リン重砲兵連隊は8月26日に全滅しました。旅順重砲の二中隊も、歩兵随伴の敵戦車に包囲されて、火炎放射器で焼かれ、ごく僅かの例外を除き、全滅しました。


公共事業中止と国の責任

 国の公共事業が中止になった場合の補償について、前原国交大臣は根拠となる法律の整備を急ぐ方針と伝えられる。従来は国が決めた事業に中止はありえないとして、中止した場合のルールを決めてなかったということだ。国の「無謬性の虚構」を象徴するような話で、「皇軍の不敗神話」を連想してしまった。
 日本の官僚と旧軍との類似性は、よく知られている。私のブログで連載中の「平岡久の『あの戦争あの軍隊』」にも出てくるが、軍隊も官僚組織の一部分、というよりも、軍隊こそ官僚の典型だったと言うべきかもしれない。その旧日本軍には、負けた場合の降伏のルールがなかった。だから無理な作戦で陣地の死守を命じられれば、兵士はその場で死ぬしかなくなって犠牲を大きくした。欧米の軍人が「戦況が不利で捕虜になった場合は、なるべく敵軍に負担をかけるように行動せよ」と合理的に教育されていたのとは大変な違いである。
 軍隊は勝つこともあるし負けることもある。国の決定も、正しいこともあれば誤ることもあると考えるのが普通だと思うのだが、長期政権の下で硬直化した日本の官僚には、政策が誤った場合の撤退や修正のノウハウが、非常に貧しかったのではあるまいか。さらに事業の周辺には多くの天下り法人が集まるから、事業の中止は余計に難しくなる。八ッ場ダムは、その典型例になっていたようだ。
 しかし政権の交代で、国の政策を見直すことがタブーでなくなった。これだけでも交代が実現したことの意味は大きいと思う。国もまた誤ることがある。その誤りを国の責任において正すルールを決めておくのは、当然のことだろう。これからは政権の交代もタブーでなくなるに違いないから、政策が誤っていると思えば、いつでも政権を変えて政策を変えさせればいいのだ。
 あまりにも長かった公共事業偏重の産物は、いま日本全国に巨大な姿をさらしている。こんな日本の国を作った最大の責任者は自民党だが、その自民党に50年あまりも政権を与えてきた国民にも、責任がないわけではないだろう。過ちは直す、それは国の責任であるとともに、私たちの責任でもある。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(13)

連隊の歴史(3)

 私が入隊したとき、顔半分と耳に大火傷をした古兵がおりました。陸軍病院から内地へ送還して手術する予定だったが、頑強に拒否して、原隊に復帰した兵士だ、との噂だった。どうやら、この兵士は、折り重なる戦友の死体の下で夜を待ち、数名残っている監視のソ連軍兵士の目をかすめて、味方陣地に辿り着いたものらしい。
 毎晩のように、タ食後「貴様らのような弛んだ根性で、モスコ―の東方戦勝博覧会の門前に飾られた我が中隊の大砲を取り返せるのか!」と、大声で泣きながら、ベルトで初年兵を殴るのです。大抵、三年兵の先任兵長が、穏やかに「もうこの位で」と制止しておりました。正に地獄の鬼そのものでした。悲惨なものでした。殴る方も、殴られる方も。
 前記のように、二中隊は全滅だったので、その後他の部隊から転入者を迎えて、ごく少数の生き残り(大砲の側にいなかった観測、通信、出張、入院等か?)で再編成されたらしいが、日常は、ノモンハン戦のことは語られず、その話はタブ―のようでした。腫れ物扱いでした。
 後日、私たちが入隊してから行われた旅大交通のバス運転手(ノモンハン出陣のときに職場から強制徴集された)の葬儀の時も、皆ロをつぐんだままでした。時々、古兵から「お前ら命冥加の無い奴じゃ。高射砲の一中隊に行きゃいいのに、15加中隊に来るとはな」と嘲笑されました。関特演の時は二中隊も高射砲四門で出ました。
 二中隊の本来の任務は旅順港ロの守備ですが、その任務に就いたのは第二次大戦末期であり、しかもその時には、沖合で真っ昼間に悠然と浮上して、甲板上を歩いている米海軍の潜水艦に対して、歓迎の弾丸をお見舞いする大砲も飛行機もなく、ただ撫然として眺めているだけだったと云います。戦後開かれた、昔の現役兵の戦友会で聞きました。
 普段の二中隊は、前記のように、中国大陸等への野戦に緊急動員されるのが常でした。動員令が来れば、二時間以内に出発です。常にその準備を整えておりました。緊急動員令到着とともに、兵器、弾薬、自動車とその燃料、食糧、被服、衛生材料、事務用品(軍隊はお役所ですから、戦場でも書類は大量に必要です)等を旅順駅へ運び、貨車に積み込み、兵員もともに出発です。多量に必要なトラックと運転手は民間から徴集して出発です。ノモンハン出陣の時の運転手は旅大交通のバス運転手が多く、家族との別れもさせられずに出発し、再会したときは骨箱に入っていたのです。

内需拡大と無重力産業

 先日の老人党護憲+の例会では、「欲しいものがなくなっている現代」が話題になりました。たとえば最近の葬儀に関連して、香典返しとして好きなものが選べるカタログが送られてくる場合が多くなったが、家族の誰に見せても、欲しいものが何もない状態になっているというのです。数千円の価格帯では、食品以外では、たいしたものがないという事情はあるでしょうが、私もエコポイント制で、同じようなことを感じたことがあります。
 日本の経済は内需の拡大で活力を回復するということですが、この「モノ余り時代」に新しい需要を掘り起こすのが、簡単なことでないのはわかります。貧困層の底上げで生活必需品の消費が増えるとしても、それが経済成長の牽引車になるほどの主役になるとは思えません。そこに提起されたのが、今回の講師だっ中村啓三氏(元毎日新聞社論説主幹・政治部長)の「無重力産業」という概念でした。
 無重力産業とは、重さのある物体ではなくて「人間に必要なこと」を供給する仕事ということです。たとえば観光産業がそうだし、教育や医療や老人介護もそうです。さらに教養や文化、思想の分野になれば、限りなく高度な発展をする可能性もあります。そうした分野で働く人が増えて悪くない報酬を得られるようになれば、たしかに内需型の産業ということになるでしょう。
 公共事業を「コンクリートから人間へ」の投資に変えるというのが民主党の政策ですが、まず歳出の無駄を洗い出す作業を先行させて、新しい事業への投資は、早くても来年度の予算編成からということになるのでしょう。その過程として、一時的に公共支出が減って経済が縮小することはありえます。その対症療法としてのバラまき支出が必要な面もあるでしょう。
 しかしこれから大事なのは、民主党にしっかりとした未来型の政策を立案し実行させることです。そのための情報は、多ければ多いほどいいに決まっています。民主党のホームページには一般からの意見受付のメール窓口がありますから、意見、要望、批判、提案など、思うことを何でも送ってみるのも、政治参加の一つの方法になると思います。

ブログ連歌(97)

1919 安らけく 農政転換 瑞穂なる(みどり)
1920  民のかまどの 煙絶やさじ(建世)
1921 二人して 日本を留守に する余裕(うたのすけ)
1922  友愛劇場 世界で如何に(建世)
1923 友愛に なんだかんだと けちをつけ(うたのすけ)
1924  You と I とで キミとボクの和(建世)
1925 とつくにで 友愛を説く おしどりで(うたのすけ)
1926  待つは国難 秋の風吹く(みどり)
1927 おちおちと しては居られぬ 冬支度(うたのすけ)
1928  あせった熊の 末路や哀れ(建世)
1929 お土産の カウベルを腰に 山を行く(こばサン) 
1930  気ままの旅は 地の果てまでも(建世)
1931 鈴虫の 襤褸刺せと鳴く 祖母偲ぶ(花てぼ)
1932  こおろぎは鳴く 裾刺せ笠させと(うたのすけ)
1933 虫たちも 大声になる 道路わき(建世)
1934  犬のウンチに 声もかすれて(えいこう)
1935 猫の恋 季語に構わず 秋の朝(建世)
1936  焦らずじっくり 期待の季節(うたのすけ)
1937 世は変われ 若いペアにも 希望あれ(建世)
1938  明日を託せる 仕事持ちたき(みどり)
1939 もし鶴を 助けるならば 亀さんも(うたのすけ)
1940  千年万年 共存のくに(建世)


平岡久「あの戦争あの軍隊」(14)

旅順重砲連隊の兵舎(1)

― 元帥 ―
 軍隊というところは、階級とともに在営日数即ち飯の数が重要です。階級が建前で、メシの数が本音です。ですから、三年兵のことを「神様」と申します。神棚の上に鎮座ましまして、二年兵の初年兵教育を眺めております。三年兵の中の一等兵には、箸にも棒にもかからないようなワルや出来損ないがいて、二年兵も初年兵も此奴らに大変痛めつけられます。このワルの渾名は「元帥」(これ以上何年居ても昇進しない)と云います。二年兵になってすぐ上等兵になった者(第一選抜)などは、よく目の敵にされて、なぐられてお
りました。又、同年兵で下士志願して軍曹になった人でも、この「元帥」には大変遠慮しながらロを利きます。
― 報告 ―
 入隊してすぐ教えられるのは、内務班(30名から40名)を出入りする時の報告の義務です。これは戦場で上官が部下を掌握するための訓練らしいのです。(支那事変の発端となった盧溝橋事件は、永定河で夜間訓練中の兵士が黙って用便に行き、路に迷ったことが引き金になった)
「○○二等兵、便所へ行って参ります」
「○○二等兵、只今便所から帰りました」
「おう、無事に出たか?」と古兵殿
「ハイ、無事に出ました」
「ほうそりゃ目出度い」
「ハイツ」
「○○二等兵、洗濯に行って参ります」
「○○二等兵、メシ上げに行って参ります」
「○○二等兵、ぺーチカ燃料使役に行って参ります」
「○○二等兵、入浴に行って参ります」
「○○二等兵、靴磨きに行って参ります」
イヤハヤ賑やかなものです。
― ビンタ ―
 兵舎中央には、幅1メートル余、長2メートル余の頑丈な木製テーブルが一列に並び、両側には1メートルほどの通路があります。兵士の座る丈夫な木製の長椅子は、テーブルの下に入るようになっております。そのテーブルで食事をしたり、衣類の修繕、兵器の手入れ等を行います。毎晩、銃、ゴボー剣の手入れ、軍靴の手入れも致しますが、少しでもゴミの付着があれば、即ビンタです。枕カバー、シーツ等が汚れていると、赤いチョークで金魚の絵を描かれます。赤いチョークで絵を描かれると、なかなか綺麗になりにくくて困りました。絵の意味は「金魚が水を欲しがっているぞ」というのです。
 初年兵は自分の物だけではなく、隣のベッドの古兵の物も担当ですから大変です。洗濯をすると、兵舎の裏に物干し場があり、練兵に出る前にそこへ干しておくと、よくシャツや枕カバー等が盗られます。古くなった物を新しい物と取り替えていくのです。泣くにも泣けないことがよくありました。靴下の盗難などは毎度のことで、古兵の物をやられた時は、自分の新しいのを古兵に廻します。

秋の太陽は急ぎ足

 秋分の日をはさんで、9月20日と25日に夕日の撮影をすることができました。太陽の沈む位置の変化がわかります。この5日の間に、太陽の直径で間に3個入るほど移動しているのがわかりました。秩父の稜線が左に高くなっているので、25日の方は円形ではありませんが、ほぼ同じ高さのものを選んだつもりです。
 日没の位置の移動は、冬至と夏至の近くでは、ゆっくりになります。円周上を一定の速度で移動する点を横から見た場合は、左右の端ではゆっくりになり、正面では速く通過するように見えるからです。
 秋は、夏の暑さがまだ残っているうちに秋分になりますから、季節の変化が春よりも急に来るような気がします。太陽が日に日に弱まって行くように見えるのは、夏が好きな私には、いつも少し淋しいのです。やがて隣のマンションが完成してから初めての冬になります。2階のベランダへの日ざしが影になるのは、12月でしょうか11月からでしょうか。工事の幕はありませんから、去年より少しでも長く洗濯物に日が当ってほしいと思っています。
 夕暮れになると、鳥の飛ぶのが見られます。それがカラスであっても、やはり風景の一部分です。「山気日夕に佳に 飛鳥相ともに還る このうちに真意あり 弁ぜんとしてすでに言を忘る」の陶淵明の境地には及びませんが、夕日を見ているのは飽きません。天地の中にいる自分を感じるからでしょうか。





平岡久「あの戦争あの軍隊」(15)

旅順重砲連隊の兵舎(2)

 寝台の上に幅4、50センチの木製の整理棚があります。そこへ、一装(外出、出陣の時使用)、二装(衛兵勤務等使用)、三装(営外演習時使用)等、代用等の上衣袴、上着とズボン、を作法通りに畳んで、その上に軍帽を乗せます。そして四角い箱形になるように積み上げます。前面も真っ直ぐに揃え、両横も垂直でないと、練兵から帰ってきた時には、突き崩されて寝台の上下に散乱しております。泣きたくなります。その傍らに防寒外套(オーバー)、外被(レインコート)、天幕、飯盒を並べ、隣との仕切は、手箱という小引出しのある木箱が乗っており、この手箱には文房具、財布、教本等を入れます。
 前記の上衣袴の一装、二装の差は、ポケットの裏側の白い布地に○で囲んだ装の字の印を押して、その数で決めます。一装は一字で新品です。少し古くなれば、もう一つ捺印して二字になれば二装です。一番古く、破れて修理したような衣類には代の字を捺して代用となります。
 下士官にはそれぞれ一人宛新兵の当番がつきます。食事の上げ下げ、衣類の洗濯、部屋掃除、ゴボ―剣の手入れ、軍靴の手入れ(泥を落として、保革油を塗り、布で磨きます)。洗濯は、毎日、肌着、靴下、ハンカチ、襟布(上着の襟に縫いつけるカラ―代用品)等で、大変な分量です。毎日洗って、干して、取り入れ、畳んで衣類棚へ整頓です。こんな雑用を練兵終了後の疲れた体でこなすのだから、どうしても失敗や手落ちが生じます。その時に当の下士官から直接殴られると、その報復として、頭のフケをメシの上に掻き落として、下士官にフケ飯を食わせることをよくやりました。だから、下士官は自分の当番兵を直接殴らずに、教育係の二年兵の上等兵にやらせるのが慣例でした。
 なお、午前、午後の練兵が済んで「解散」と号令がかかると、各人の内務班へ向かいますが、初年兵は中隊入りロで下士官の来るのを待って、各班長、班付き下士官の巻き脚絆を解かねばなりません。いつも上手に立ち回る新兵さんは、やはり色々と優遇されて可愛がられますので、皆いつも脚絆解きの競争です。
 まあ、あれやこれやで、入隊当初の2、3ヶ月は、毎晩ビンタの花盛りです。「メガネを外せ」と命令されると、両足を少し開いて、歯を固く食いしばり、両手を固く握り締めます。誰かの失策、失敗は「全体が弛んでいるからだ」と言われ、一列に並ばせられて、古兵が交代で殴って廻ります。
 手で殴るのは序のロで、次はスリッパ、ベルトになります。ベルトの場合、殴る方も殴られる方も十分用心しないと、巻き付いたようになり、皮膚がベロリとはがれた例があるそうです。そこで、殴る方はベルトを直角に当て、当たったときは、引っ張ったり延ばしたりしないことです。殴られる者は全身にカを込めて動かないことです。又、よく行われたのは、新兵同士を向かい合わせて殴り合わせる対抗ビンタです。古兵殿は寝台に座ったり、腰掛けたりしてご観覧です。少しでも手加減をしたりすれば、百戦錬磨の古兵殿から「○○、気合いが入っとらん」「○○、たるんどるぞ」とヤジられた後で、スリッパを持つ古兵殿の前に立たされます。だから、誠心誠意、全力で殴り合うことが大切です。そうすることで、尽忠報国の精神が充実したものとして、教育(ビンタは大変重要な教育科目です)が終了するのです。

八ッ場ダム、中止の中止は難しい

(熊さん)ご隠居、ちょいとご無沙汰でしたね。新型インフルでもやってましたか。
(ご隠居)ああいう新しいもんは、わしには寄り付かん。気ままにやってたさ。
(熊)テレビでやってましたが、八ッ場ダムってえのは大変だね。さんざん揉めて、ようやく引っ越すつもりになったらダムは中止だ、もとへ戻れと言われてもねぇ。
(隠)そうさな。わしもいろいろ調べてみたんだが、なんせ戦後すぐの57年前の計画から始まってるんだから、只ごとではないな。草津温泉から出てくる酸性の水まで関係してるとは知らなんだ。住民の反対も強かったが、他にもいろんな問題が多くて遅れに遅れているうちに、世の中が変ってしまったてぇわけだ。
(熊)それでも、もう7割がた出来ちまってるって話じゃないですか。ここでやめたら無駄が多くてもったいないってぇのも一理ありませんかね。
(隠)テレビで言われてることにも眉つばが多いんだ。7割というのは、予算の7割を使っちまったというだけのことで、あとの3割で完成する保証があるわけじゃない。これまでだって、予算は何度も理由をつけちゃふくらんで来てるんだから。テレビによく出てくる高いコンクリートの柱を、ダムの形だと思ってる者もいるようだが、あれだって道路の橋脚で、ダムの本体とは関係がないんだよ。
(熊)そうですかい。知らなかった。
(隠)それよりも今の一番の問題は、地元の人たちが、ダムのある暮らしへ切り替えようとしていた、その境目の弱い立場にいるということなんだ。自分の引越しだと思えばわかりが早いだろう。新居に移るまでの仮小屋に家財道具を運んで、不便だがしばらくの辛抱だから我慢しようと思ってたところへ、新居の建築は「無しよ」というわけだ。これは怒るのも無理はないんじゃよ。
(熊)それじゃあ、ご隠居ならどうします?
(隠)今すぐに話し合うのは無理かもしれないが、かといって問題先送りでは、一番損をするのは地元の人たちなんだ。ただでさえ切り替え時の弱い立場が、このまま続くことになったら、いいことは何もない。時代の流れをよく読んで、自分たちの思いを政治にぶつけるしかないだろうなぁ。どうだい、この紅葉の時分に、川原湯温泉へ行ってみるか。
(熊)合点だ。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(16)

旅順重砲連隊の兵舎(3)

 なお、内務班等でのいわゆる私的制裁には、兵士は深い反感を持ちます。しかし、前記の28センチ榴弾砲組立のような練兵の時に殴られるのは誰も余り気にしません。新兵さんでも公私の別は知っています。
 次に、軍靴の手入れが不十分だと、一足の靴を紐で結んで首からぶら下げ、中隊の端から端まで挨拶廻りをさせられます。「○班の○○二等兵、軍靴様を粗末に致しました。それで、手入れの仕方を教えて頂きたく参りました」と云って、各班の中央部まで進んで立ち止まります。大抵の場合、「気を付けろ、通れ!」と誰かが云ってくれて、一巡して帰ります。ところが、班の空気が悪い時は、よそ事を話すばかりで、知らぬ顔をされ誰も声をかけてくれずに立ち往生します。10分も20分も直立不動の姿勢で立ったままです。暫時の後「何をボヤボヤしとる、さっさと行け―!」で通ります。しかも帰りが遅いと、自分の班でのビンタの数が多くなります。私はやらされたことはありませんが、「通れ」の声が出ないで、じっと待っている新兵さんの姿は、哀れさを通り越すものでした。横目でチラッと見るのがとても辛かったので、記憶は今も鮮明です。
 小銃手入れ不良の時は、ビンタ代わりに、両腕を真っ直ぐに前に延ばして、小銃を持って不動の姿勢です。少しでも腕が下がったり動いたりすると、すぐにビンタです。万一落とそうものなら大変です。天皇陛下より預けられた菊のご紋章の入った兵器を床に投げつけた大罪人として、ふらふらになるまで殴られます。
 次によくやらされるのは、テ―ブルの上で腕立て伏せを10回とか20回とかです。古兵は寝台で寝そべりながら、真横から見るのです。腕立ての時の背筋の延び具合がよく見えます。直線で無いと駄目です。伏せの時は、テ―ブルと体の隙間が水平にスッと通らないと不合格です。「もっと腰を落とせ!シャンと背を伸ばせ!」等、ガヤガヤ言って楽しむのです。子供のイジメそっくりをやって毎晩の余興とするのです。その間、下士官室の下士官や事務室の週番士官、週番下士官は十分承知ですが、知らん顔で出て来ません。
 建前として、陸軍大臣通達等で、私的制裁は厳禁です。連隊長も中隊長も時々「私的制裁は絶対禁止」と大真面目で訓辞します。しかし、本音ては「しっかり鍛えろ!大いにやれ!」と奨励なのです。その理由は「殴られることで兵士に動物的服従心、隷属心を植え付けたい」からなのです。こうして訓練し、一度「突撃!」と命令さえすれば、雨と降る銃砲弾の中へ、銃剣を振りかざして敵陣に突入する兵士が出来上がるのです。「前方戦車、攻撃」と命ずれば、火炎ビンや爆雷を持って戦車に立ち向かう兵士になると信じられたのです。


日米同盟は条約ではない

 鳩山首相とオバマ大統領が会談して、双方で「日米同盟の強化」に合意したというのが大きなニュースになっている。やはりそうかと、がっかりした気分だったが、ふと気になって問題の「日米同盟・未来のための変革と再編」という文書の英文を見てみた。そこで今まで気がつかなかったことがあったので書いてみる。
 この文書の題名は
Security Consultative Committee Document
U.S.-Japan Alliance:
Transformation and Realignment for the Future
であって、安全保障委員会の公文書であると明記しているが、決して条約ではない。そして同盟を意味する Alliance なのだが、これは国同士の同盟でもあれば、企業や個人の縁組みや連携にも使われる、意味の広い言葉のようなのだ。つまり Alliance だけなら「いっしょにやりましょう」という単なる仲良し宣言でもあり得る。
 同盟というと、まず「日独伊3国同盟」を思い出して、戦争に引き込まれる退っ引きならない条約のようなイメージがあったのだが、あれは正式に条約として調印されたからこその縛りだったのだ。その意味では、私は「同盟」という言葉に過剰に反応したことになる。しかし、一般的にも、日本の国民は「日米同盟」という言葉を繰り返して聞かされれば、強固な同盟関係が法的にも成立しているようなイメージを持つのではあるまいか。
 国家間の条約ならば Treaty という言葉が使われる。これは「国家間の最も正式で総括的な協定」と定義されている。いまの「日米同盟」は、まだ正式な条約にはなっていなくて、「行動原理として合意されている」だけの状態にあるのだ。そのことを私たちはもっと正確に知っている必要があるのではなかろうか。
 同じ「日米同盟の強化」という言葉を使いながらも、アメリカ側から言われていることと、日本の国民が受け取る印象とは違っている可能性がある。アメリカのスタンフォード大学で学んだ鳩山首相は正しい判断をしてくれると期待するが、「日米同盟は調印された条約ではない」という事実は、もっと広く国民に知らせるべきだと思う。
(追記)
 日米同盟を条約に格上げしようとすれば、必ず憲法に抵触する。だから憲法を変えるのか、それとも軍事同盟を友好関係に変えるのか、そこに日本の最大の分岐点がくる。

平岡久「あの戦争あの軍隊」(17)

旅順重砲連隊の兵舎(4)

― 砲弾不足の軍隊と兵士の命 ―
 典型的な一例として、中国上海戦線の廟行鎮での肉弾3勇士が上げられます。当時、兵士の命は1銭5厘のハガキ代に等しいと言われました。軍歌にあるように「命令下る一線に、開け歩兵の突撃路」、直ちに工兵3名が爆薬筒を抱き、砲弾代わりの肉弾となって突進し爆死したのです。兵士の命は鴻毛よりも軽かった。外国の軍隊では、まず空軍の爆弾投下、砲兵の砲弾で敵の一線を粉砕した後、戦車が突進し、最後に歩兵が進みます。なぜ日本人の命は安いのか?誰の為に?なぜ?どうして?
 旧型の1905年(明治38年)制定の38式小銃が重要な武器で、大砲やその砲弾は数も少なく、貴重品だったのです。敵の鉄条網破壊すら肉弾に頼らざるを得なかった。日露戦争でも、ロシアの旅順要塞への第一回総攻撃では砲弾不足に悩み、無謀な突撃を繰り返した挙げ句、友軍歩兵の屍が山と重なり、中止されたのです。第二回攻撃までの間、東京への砲弾要求は悲鳴にも似たものだったと書物には書かれております。
 奉天会戦の時、日本軍左翼を進んだ乃木第三軍は、奉天北方の鉄道線西側に進出するも、砲弾が無いため、鉄道で悠々と退却するロシア軍を、座して見送ったのです。大日本帝国と威張ってみても、実態は貧しい小国で、戦場で命をかけて戦う兵士に、必要な弾丸を補給するカがなかったのです。以後、第二次大戦の敗戦まで、ずっと、大砲はすくなく、打ち出す弾丸は不足していたままでした。中国戦線での最後の大作戦であった「北京・漢ロ・ベトナム連絡鉄道確保のための京漢・湘桂作戦」でも、全期を通じて、情けないほどの砲弾不足でした。衛陽城占領の時の砲弾不足と、歩兵が代用肉弾にされる哀れさは、目を覆うものでした。
 こんな軍隊は世界で唯一です。誠に無惨な人命軽視であり、人間を虫けら同然と考える軍隊です。貧しい国の愚かな職業軍人が、身の程を忘れて大陸支配に乗り出した必然の結果です。その最高司令官の名前は?
 今日、君が代を国家として法定化した真の狙いは、青年を再び戦場へ送る時、国民に歌わせる「挽歌」なのです。子や孫を戦場に送りたい人たちと、それに拍手して喜ぶ人たち。忘れてはいけないことは、戦争を命ずる人たちは決して前線に出ず、又、その人たちの子や孫は兵役を免れることがおおいのです。

東京タワーから50年

 今から51年前、4畳半のアパートで新婚生活を始めた私たちは、それぞれ新橋と銀座の勤め先で働いていました。建設中の東京タワーが、少しずつ空へ向かって伸びて行くのが見えていました。その後幸いにしてテレビ局を仕事場にするようになってからは、時代の最先端を行く職場の一員であることに、快い緊張と誇りを感じていたように思います。テレビはまだ試行錯誤の時代で、未知の可能性に満ちていると言われていました。 
 自分は35歳になったら何をしているだろうかと考えたとき、今はできないことが何でもできるようになっていそうな気がする、そんな夢を許してくれる昭和30年代でした。
 それからいろいろあって、親しんできたアナログのテレビが終ろうとしています。草加の公団住宅に住んで、東武線の浅草駅経由で通勤していた時代を思い出しながら、連休の最後に電車に乗ってみました。当時、業平橋の駅の下は東武線の貨物駅で、東武鉄道の社屋があったと思います。その跡地に、新しいテレビ塔「スカイツリー」の建設が始まっていました。決して広い敷地ではありませんから、高架の線路のすぐ横が工事現場です。電車を防護するための仮設屋根が張り出されていました。
 工事はすでに120メートルを超えているようです。完成すれば610メートルの高さになるとのことですが、塔というよりも高層ビルの建築のように見えました。直立する棒のような形ですが、現代の技術で安定性は保たれるのでしょう。駅のすぐ南を流れる北十間川にかかる橋が、絶好の写真撮影地点になっていました。
 今日の一日、駐車場でも昼食の食堂でも商店でも通りや駅で出会った人でも、下町の親しみやすい人情に包まれているような気がしました。この橋の上でもそうでした。「二人で撮ってあげましょう」と声をかけてくれる人がいて、お願いしたのがこの写真です。画面の隅々まで目配りの行き届いた、立派な撮影でした。「タワーが出来るまでに、ここでまた会いましょう」と、さわやかに自転車で走って行きました。
 デジタル放送がアナログとどう違うのか、実を言うと、私にはよくわかりません。ただ、東京タワーから50年たって、新しい時代が始まろうとしていることはわかります。その時代に活躍するであろう人たちの中に、多分私たちの孫も加わるのでしょう。



平岡久「あの戦争あの軍隊」(18)

旅順重砲連隊の兵舎(5)

― 百発百中の大砲と百発一中の大砲 ―
 旅順重砲連隊でも、大連防空連隊でも、耳にタコが出来るほど聞かされた話があります。「百発百中の大砲一門は、百発一中の大砲百門に匹敵する」。三つ子でも通用しないおとぎ話ですが、訓練の精度を高めるための激励の言葉でしょう。
 訓練精倒の百発百中の大砲一門を有する部隊と、訓練不足の兵士が同性能で百発一中の大砲百門を有する部隊とが戦闘したらどうなるかは明かです。同時に撃ち合えば、百発百中の大砲一門は敵の最初の一撃(百発)で無くなり、敵の百発一中の大砲は99門生き残り、後は敵の楽勝となります。その証明がノモンハン戦であり、日本軍砲兵は、圧倒的な大量のソ連軍砲弾の前に手も足も出ませんでした。一兵士でも「下手な鉄砲でも数撃ちゃ当たる」ことを知っていますが、陸軍大学を卒業して胸に「天保銭」(陸軍大学出身者の徽章、天保銭に似ていた)を飾った高級職業軍人には理解できなかっただけのことです。
自分を「日本一の名参謀」と信じた辻正信ごときは、ノモンハンからガダルカナルまで御指導になって、敗戦になるやおめおめと生きて帰りました。更に、国会議員選挙に出ると、敗け戦の指導者たる彼に、なんと大量の投票が集まって当選する始末です。「日本人の頭のなかには、豚かロバの化身がおる」当時の私の批評です。
 戦争には絶対に必要な補給(食糧、武器弾薬、船と艦船の燃料)の補の字も知らないくせに、異常に肥大した権力欲の亡者達によって、自らの体を砲弾と代えさせられた我が戦友達よ、謹んでご冥福を祈ります。
― 逃亡兵 ―
 初年兵として入隊した2、3ヶ月後の晩、隣の班の初年兵が私的制裁に耐えかねて逃亡しました。日朝点呼の時にいないことが判明、さあ大変。中隊長は激怒して「練兵中止、捜索隊編成」となりました。新兵さんは主として兵舎、便所、倉庫、周辺山林の捜索に当たります、2、3年兵は市街、バスタ―ミナルの捜索。下士官が大連駅まで探しに行ったらしい。
 日常、兵士を痛めつけるのは平気だが、逃亡兵を出すと、下士官、将校ともに昇進の妨げになります。だから、憲兵隊に捕まる前に身柄を確保して、中隊内で内密に重営倉に入れ、ヤキを入れる位で、決して公然化してはならないのです。結局、2、3日探しても判らず終いでした。上部へはどんな報告をしたのか、一兵士には判りません。その年の秋、兵舎北東の旧ロシア軍の白銀山要塞の濠の中で、白骨死体で発見されました。着衣で逃亡兵と判ったらしいのですが、極内密に収容したようです。有線通信の兵士が発見したらしいのです。
 白銀山は他の連続した山と同じく、山頂部を凹字型に10メートル近くも掘り下げてあり、その底部で死んでいたそうです。彼は最後のとき、一人で何を思いながら昇天したのでしょうか。フィリッピンでの経験上、数日間の喉の乾きに耐える過程は定めし辛かったことと思います。合掌。

日米同盟の怪

 鳩山首相がアメリカへ旅立った。アメリカを舞台として、諸外国首脳とのトップ会談も予定されている。そしてアメリカ側は、日米関係が従来と大きく変るとは考えておらず、日米同盟をさらに深めることを期待しているのだという。しかし、その前提としている「日米同盟」とは、いつ、どのように締結されたのだろうか。
 日本が独立を回復するときに、日米安全保障条約を結んだことは誰でも知っている。それは日本が独立を認められるための条件の一つでさえあった。それでも日本国内に反対の声は少なくなかったし、その後も改定の60年、70年には国を揺るがすような大論争が巻き起こったものだ。しかしその安保条約が、いつから日米の軍事同盟になり「日米同盟」と呼ばれるようになったのか、正確に答えられる人は、どれほどいるだろうか。
 「日米同盟・未来のための変革と再編」という文書は、2005年にアメリカのラムズフェルド国務長官と、日本の町村外相、大野防衛庁長官によって署名された一片の「行政合意書」に過ぎない。日米安保条約の改定でさえなかった。にもかかわらずこの合意によって「日本周辺の安全のため」という縛りは外され、国連の判断に従うという条件づけも不要になってしまった。本来なら、国民投票にかけるほど重大な選択だったと思うのだが、小泉政権のもとで、この政策変更は目立たぬうちに進められ、憲法との整合性が国会で議論されることもなく現在に至っている。
 この辺の事情については孫崎享氏の「日米同盟の正体」にくわしいが、私もブログ記事にしたことがある。要は憲法上の論議も国民の合意もないうちに、小泉政権下のマスコミ操作で、いつの間にか既成事実のようになってしまったのが「日米同盟」の正体なのだ。もちろん問題はその名称とともに、その中身にある。
 だが私たちは「日米同盟」を、もう決まってしまった国家同士の条約と思いこむ必要はないのだ。時の政府がアメリカ一辺倒に迎合して署名した、条約よりも下位の行政合意に過ぎないのだから。
 鳩山首相も、安易に「日米同盟」を口にすることなく、大いに「日米の友好」を強調してほしいと思っている。そこから再出発するのでなければ、政権が変った意味がない。
(追記・私のブログ「日米同盟の正体を読む」は、2009年4月8、10、11日です。)

平岡久「あの戦争あの軍隊」(19)

旅順重砲連隊の兵舎(6)

― ロバとともに泣く新兵さん ―
 第二中隊の兵舎は、旅大公路を挟んで、歩兵の下士官候補者(下士志願した兵士)隊の兵舎と並行していました。その下士候隊には多くの騾馬(ラバ、牡ロバと雌馬の雑種でロバよりも大きく強健。歩兵砲の牽引用)とロバが飼われていました。あの物悲しい調べの消灯ラッパが鳴って、教習室(消灯後の2時間、兵士が典範令の学習をする部屋)での学習を終わって出て、寝台に入った頃、必ずひとしきりロバが哀切極まる鳴き声を響かせます。ロバはあの小さな体と細い足で、肥え太った人間や重い荷物を運びます。その我が身の不幸を天に向かって嘆くのだそうです。新兵さんに代わって訴えてくれるように感じて、枕を涙で濡らさなかった新兵はおそらく一人もいなかったろうと思います。
 中国にはそのロバと、荷馬車を引くラバが大変多い。中国派遣軍に参加した老兵に聞いてみてください、皆、あの鳴き声を思い出す筈です。
― 人を殴る ―
 私は初年兵時代の前期を中心にして、随分殴られました。「態度がでかい」というのが基本的に底辺にあって、些細なことで難癖をつけられることが多かったように感じます。その時に思ったことは、殴られるということは、肉体的な痛みもさりながら、心に深い傷が残るということです。
 それで私は「生涯人は殴るまい」と決心し、現役時代も、召集されたフィリッピン時代も、一度も兵士を殴ったことはありません。実は「一度も」というのはウソになります。
フィリッピンのミンダナオ島で敵から逃げ廻り、飢えさらばえていたときのことです。一人の補充兵が座り込んで立とうとしなくなり「班長、捨てといてくれ。ここでこのまま死にたい。歩きとう無いんじゃ。仲間の足手まといになるだけです。ほっといてくれ」というのを、「なに戯言を言うとる。立て! 歩け!」と叱咤し、杖代わりの竹で殴り続けて、遂に生還させました。
 帰郷後、播州のその兵士の両親に招かれて訪問しました。親族も集まった席上で、ご両親が両手をついて「捨てるのが当たり前の戦場で、せがれ唯義をようこそ連れ帰ってくれた。命の恩人じゃ」と涙ながらにお礼を言われました。この1件だけは「情状酌量」で殴ったうちには入れません。
 人を叩くことはしない、と決心しながら、不徳な者の常として、誓いを破ったことが、二回あります。第一は、戦後、妻が子供の育友会に出席して帰宅時間が予定よりも遅れたことに腹を立て、平手で一発叩いたことです。私も妻も忘れず50年経っても恥ずかしい思いがします。もう一つは、住宅の上棟式の宴会に招いた甥が酒を飲み過ぎて、泣き酒となり大声で泣き出したので、注意しても止まらず、思わず頬を一発叩きましたが、生涯に二回誓いを破り、今でも思い出しては恥ずかしい。


碓氷峠「アプトの道」を歩く

 連休の中日、かねて行きたかった碓氷峠の廃線跡を歩きに行ってきました。北関東は晴天でした。横川の「鉄道文化むら」の横から、散策路が始まっていて、これは無料で歩けます。「めがね橋」で知られる第3橋梁までの5キロ弱の区間です。もとは線路ですから急なアップダウンはなく、休憩所も整備されていますから、家族連れにも歩きやすい、おすすめのコースだと思いました。全盲の人が、連れ合いさんの肩に手を置いて元気よく歩いているのも見ました。たぷん車椅子でも大丈夫でしょう。


 出発してすぐに右手に見えてくるのが旧丸山変電所です。レンガ造りの重厚な建物が、コスモスの花に囲まれていました。ここを通過すると間もなく線路は急坂になって、機関車の歯車が線路の間に敷かれたラックレールと噛み合うアプト式の運転が始まるのでした。小型の電気機関車が前に2両、後に3両つくのが標準で、それぞれ音程の違う短い汽笛で合図を交わしながら、ゆっくりと進んで行ったのです。100メートルで6.6メートル上がる勾配は、歩いてみても、かなりの坂道に感じられました。


 短いトンネルが連続するのもこの区間の特徴でした。機関車はトンネルに入るとき短1声の汽笛を鳴らすのですが、客車がトンネルを抜ける前に、先頭は次のトンネルに入っていたりしたものです。窓から身を乗り出して眺めていました。このアプト式線路は、昭和38年に磁石で機関車を線路に引きつける「粘着運転」方式の新線(単線)が開通したときに廃止されたのです。


 めがね橋の上から見下ろした国道18号線(旧線)です。ここでは線路がだいぶ高くなっていますが、じつは少し手前では、国道と線路はすぐ横に並んでいたのです。国道が山腹をうねっている間に、線路は一気に高度を稼いでいたわけです。


 めがね橋を渡った次のトンネルからは通行禁止です。山側に下る道があって、北側から橋を見上げました。深みと迫力があるように感じました。


 これが国道側からの定番の風景です。帰りは路線バスがあるだろうと思っていたのですが、期待は裏切られました。JR東日本は横川・軽井沢間に連絡バスを走らせている筈ですが、鉄道の代替ということで、中間に停留所を設けていないらしいのです。季節運転の1日1本しかありません。サービス精神の無さに呆れました。帰りも同じ道を歩いて帰ることになります。おかげで久しぶりに2万歩を超えました。急がず快適に歩きましたから、たぶん疲れは残らないでしょう。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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