志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2010年08月

民主党のトロイカ(替え歌)

夏のこのバカ陽気 頭もうだる
走れトロイカやみくもに 大儀を乗せて
  走れトロイカやみくもに 大儀を乗せて

これは不思議な仕掛け 鳩時計鳴れば
走れトロイカこの場は 仲良くしよう
  走れトロイカこの場は 仲良くしよう

黒い噂が立つよ 山場を越えて
走れトロイカどこへ行く お客を置いて
  走れトロイカどこへ行く お客を置いて

 「トロイカ」の歌は、本来は「好きな娘を金持ちの地主に奪われた若者の悲しみの歌」だったのを、ハバロフスク地区の日本人捕虜の「楽団カチューシャ」が、他の曲と混同して誤訳した結果、日本では楽しい歌として定着しました。しかし、ゆっくり歌うと、確かに悲しい歌になります。ここでは「正調」で歌うことにしましょう。
(追記・「菅・小沢会談」は決裂し、選挙戦突入が決定的となりました。「選挙で負けても、互いに党を割らない」約束が出来たのが収穫です。当ブログは、この結末を歓迎します。選挙の結果が出たら、この歌の4番以後が作れるかもしれません。明るいテンポの歌になるといいですね。)

教科書問題懇談会と平和ビデオの上映

 9月4日(土)、東京・文京区で教育懇談会があり、その開会前に「わが町清瀬『戦争と平和』を歩く」が上映されます。このビデオは、清瀬市内に残る戦争の爪跡を、証言を含めて丹念に掘り起こし、市の平和活動につなげた秀作で、ブログ友の遊工房さんのイラスト・動画の空襲シーンなども作品の中に登場します。制作責任者である定信夫さん(元社会科教員で、教科書執筆者)のお話もあります。会の概要は、以下の通りです。

日時 2010年9月4日(土)13時30分よりビデオ上映、14時より16時まで懇談会。
場所 アカデミー茗台・学習室A(文京区民施設・文京区春日2-9-5 03-3317-8306 メトロ丸の内線茗荷谷駅より徒歩8分 春日通り小石川4丁目バス停前)
会のテーマ よりよい教科書を子供たちに〜教科書問題と杉本判決(家永教科書訴訟)の意義
ゲスト 俵義文(子どもと教科書全国ネット21)
    吉田典裕(出版労連)
    松本昌介(教科書問題を考える小石川高校有志の会)
    定信夫

 定さんからいただいた当日のレジュメによると、以前の教科書は、学校ごとに教師の意見を反映できる余地があり、自分の執筆した教科書を自分の授業で使うこともできた。しかし今は教育委員会主導の広域採択となり、教師や親の意見は全く顧慮されなくなっている。現状を改善するために、教科書の採択は、少なくとも学校単位に戻すべきではないか、ということです。
 公教育の劣化が問題にされていますが、教師に教科書選択の発言権も与えずにおいて、創意工夫の授業ができるわけがありません。フィンランドでは、教科書の検定制度そのものがないと聞いています。画一管理教育からの脱皮は急務でしょう。
 なお、私は当日は「さぽうと21」で日本語教師ボランティアと学習発表会などがあり、残念ながら出席できません。盛会を念じています。

民主党代表選について、私の意見

 民主党の代表選について、さまざまな論説が毎日のように流れているが、民主党と菅、小沢氏を比較的近い距離から見てきた私として、あまり表面に出てこない部分について意見を述べておきたい。
 まず、小沢氏について「政治と金」の問題についてケジメのつかないダーティーな人だというイメージは、この際忘れた方がいい。一連の「疑惑究明」の進み方について、あまりにも不自然な作為が感じられるからだ。金権政治が好ましくないのは当然だが、なぜ小沢一郎だけがピンポイントで標的にされ続けているかの謎がある。
 小沢氏の「豪腕」とは何か、ここにもさまざまな誤解があるし、中国への大議員団を引き連れての大名旅行など、古い体質も実在している。しかし「ポスト日米同盟」を視野に入れた布石と考えると、余人にはない政治センスを否定できなくなる。
 私が注視しているのは、菅と小沢と、どちらが対米自立の日本政治を実現してくれる可能性が高いかということだ。菅総理は早々と対米従順のサインを送って安全策を取っている。沖縄知事選の結果で普天間基地の辺野古移転が不可能になっても、時間かせぎに終始して、自分で決断するのは最後の最後になるだろう。日米同盟の深化・強化についても、おそらく同じような経過になりそうだ。
 小沢氏が総理としてアメリカと相対したら、安保見直しを切り札として対等な物言いができるだろうか。未知数が多いのだが、そんな場面を見てみたい気はする。豪腕は世界にも通用するのだろうか。
 もしも小沢氏が選ばれて総理にになったら、おそらく内閣支持率は史上最低を記録するだろう。だが、幸運にも3年間は選挙がない。善政が実行できれば、支持率は後からついてくるから問題はないのだ。一方、菅氏が再選されたとしても、強烈な批判にさらされた事実は残る。この国をどうするかの具体像を示さないことには、総理の座を占める資格がないのを知らされることになる。「活」を入れられて別人のように働き始めればいいのだし、また、そうするしかない。
 結局、神様のようにすべてを決められる人はいないのだ。たぶん私たちは、間もなく歴史が作られる現場を見ることになる。面白いことになってきた。

「生物多様性とは何か」を読む

 「生物多様性とは何か」(井田徹治・岩波新書)を読みました。生命の星である地球は、多種多様な生物のネットワークによって環境を維持しています。何億年もかけて現在の生態系が作られているのに、近年は人間だけが極端に増殖し、その活動によって多くの絶滅危惧種が見られるようになりました。本来、生態系には無意味な存在というものはないのですが、人間の都合によって各地で自然なバランスが崩れようとしています。生態系が貧しくなることは、地球が人間にとって住みにくい星になることを意味します。環境保護の大切さを、生物多様性の観点から説いているのが本書です。
 害虫とか害鳥とかいう呼び名は、もちろん人間の勝手でつけた分類です。中国で一時稲を食い荒らす雀を大規模に駆除したところ、翌年から猛烈な虫害が発生して大打撃を受けたという有名な話があります。稲の実を食べる害よりも、虫を食べてくれる益の方が大きかったのです。日本のように、実りの秋にだけ案山子を立てたり、光り物を置いて追い払う程度で、ちょうどよかったのです。
 それよりも私がこの本から得た知識で重要なものは、今でも多くの新薬が、未開発の生物圏から得られる新物質を基として開発されているという事実でした。現地人の間に伝わる伝承や民間療法なども、有力な情報源になるということです。世界にはまだ発見されていない動植物の種も多数あって、乱開発を進めれば、誰も気づかないうちに絶滅してしまう恐れさえあるというのですから、世界もまだ広いものだと思いました。
 生物の多様性を保護するためには、1992年に採択された「生物多様性条約」があります。この条約は、有用な生物遺伝資源について、原産国の権利と開発国の利益とを調和させる条項を含んでいるのですが、先進国と開発途上国との間には、解決の難しい多くの問題を引き起こしています。そして気になったのは、主要国の中では唯一アメリカだけが、この条約に未だに加盟していないことでした。その背景には、これまでに膨大な生物的「知的所有権」を蓄積している巨大企業の圧力があります。
 巨大企業の利益と、世界の生物共存の利益とは両立できないものなのか。アメリカの独善的超大国の本音が、ここでも顔をのぞかせているのでした。

民主党代表選の行く先は

(熊さん)民主党が大変なようじゃないですか。ご隠居趣味みたいな記事ばっか書いてていいんですか。
(ご隠居)そろそろおいでなすったか。所詮は民主党の党内の話だよ、外から騒ぎ過ぎるのもどうかと思うがな。しかしウチは民主党のサポーターだから、言わば身内だ。わしと連れ合いとで、ちゃんと2票持っとるぞ。その票の使い方は考えてる。
(熊)何たって、勝った方が総理大臣になるんだから、これは話題になりますよ。
(隠)それはそうだが、以前の自民党みたいに、候補者がゾロゾロ街頭演説なんてのは馬鹿げてるな。投票権もない人に演説してどうするんじゃ。あのときはNHKまでが自民党の広報部になったみたいで、あまりのひどさに問題になったんだ。
(熊)で、ご隠居はどうなんです。小沢さんが出ると思ってましたか。
(隠)思わなかったな。日米対等とか思い切った改革とか、熱心に期待してる人たちの言うこともわかるが、出たら抵抗は大きいし、勝てる見込みもないと思ってた。でも今回改めてわかったのは、小沢さんの独特の重さだな。菅さんまでが「小沢先生」と言うんだから、これは只ごとではない。教祖さまでもあるまいに。
(熊)でも政権交代の最大の功労者なんでしょ。
(隠)ところがな、去年の民主党の勝利は、小沢さんが身を引いて、鳩山さんと交代したことで人気が高まって実現したんだよ。小沢さんのままでは、たぶん勝てなかった。そのことを、みんな忘れているんじゃなかろうか。
(熊)ああ、確かにそうでしたね。
(隠)政策については、今の二人を比べると、実はわしも小沢さんの言ってることに近いところがある。でも実際に総理の地位で実行できるかどうかはわからない。政党を作っては壊してきた小沢さんの遍歴から見ても、無条件に信用する気にはなれんのだよ。一方の菅さんだが、期待外れだったところがあるが、3年間やっても何も出来ないほど無能な人だとは思えない。長年応援してきたんだから、やらせてみたいと思うわけさ。
(熊)でも、どうなりますかね。どっちが勝っても、あとが難しいでしょう。
(隠)問題はそのことだ。政権党は割れにくいものだが、小沢さんがからむとわからなくなる。平和自立、福祉充実、格差是正の大政党を、小沢さんが裏に回って作ってくれると一番いいのだが。

パソコン技術タコつぼ論

 先日の「キーボードの文字配列について」の記事に、THE GUEST さんから、非常に有益なコメントをいただきました。「WINDOWSなら、IMEのメニューからソフトキーボードを立ち上げ、その後キーボードの配置を『ひらがな/カタカナ(50音配列)』にすれば、五十音表になり、マウスクリックで入力が出来ます」というのです。
 「IMEのメニュー」がどこにあるのかで少し迷いましたが、作文のときに使う入力方式ツールバーの「IMEパッド」がそれでした。手書きで漢字を探すときに使うのと同じ場所です。やってみると、簡単に50音配列のキーボードが表示されました。これを画面右下に置いてマウスクリックすると、入力の手順は従来と全く同じです。しかも、キーボードの機能はすべてそのまま生きているので、変換、Enter などの操作もスムーズにできました。
 いま現に50音配列でこの記事を書いているのですが、ほとんど違和感はなく、速度もあまり変らないように感じています。句読点やカギ括弧はソフトボードを使い、変換、Enter などの操作はキーボードを使うのが効率的のようです。デメリットとしては、クリックの回数が多くて、右手指が疲れそうな感じがあります。しかし総合的に考えて、充分実用できると実感しています。私もワープロの初期にこの方法があったら、ほぼ間違いなく50音配列を選んだでしょう。
 それにしても驚くのは、パソコンの能力の奥深さです。私が使っている部分などは、ほんの入口の小部分でしょう。これほど進化したのは、衆知を集めて新しい能力を次々に付加して行ったからだろうと思います。しかしそれは、多くの盲点をも作り出しているのではないでしょうか。すべてを知り尽くすことは不可能だし必要でもない。自分なりの使い方をすればいいのですが、孤立していると、とんでもなく遅れをとる可能性があります。
 私の古い友人で、独立した自営業なのですが、独立独歩型の人物がいます。10年以上もパソコンを使って仕事をしていたのですが、あるとき訪問して、文章を引用するのに「コピー&ペースト」の方法を使わないのに気がつきました。簡単にできるのにと教えると、「へー便利だね」と驚いているので、私の方が驚きました。タコつぼに入って一人でいると、そんなこともあるのです。
 私もブログのおかげでタコつぼに入らずに済んでいる。そんなことを改めて考えました。ちなみに、途中から入力方式を通常に戻したら、やはり格段に早くなりました。でも、面白かった。THE GUESTさん、ありがとうございました。

日本語試験の難しさ

 インドネシアやフィリピンから、日本での就職をめざして来ている看護・介護師研修生たちの、国家試験合格率が非常に低いことが問題になっています。知識や経験があっても、試験問題の日本語の難しさが壁になっているので、単語に英語併記などの対策を考えるということです。
 外国語として学ぶ日本語の難しさの大半は、漢字の使い方の複雑さから来ていることは、在日外国人に日本語を教えるようになったこの1年近くのボランティアを通して痛感しているところです。3年目の優秀な高校生で、日本語の読書がほぼ自由にできるようになると、あとは自力で語彙を増やして行けるのですが、その段階になるまでが大変なのです。
 ひらがな、カタカナ各50字と漢字が約2000字あり、その漢字は、それぞれが複数の読み方(音・訓)を持っていて、使われ方によって意味も変化します。事前の6ヶ月の日本語研修で身につけるのは、至難の業に違いありません。来日してからも、寝る間も惜しんで勉強しているのに間に合わないというのも、無理ないと思ってしまいます。
 日本を舞台にして半生以上は活躍したいという強い意志があれば耐えられるでしょうが、10年ぐらいも出稼ぎに行ってみようか程度の感覚では、日本語の学習は「引き合わない」だろうと私は思います。そもそも、日本における看護師不足は、万難を排して海外から応援を受けなければならないほど深刻なのでしょうか。それならば医療現場を、英語でも意思疎通ができるようにバイリンガル化した方が早道かもしれません。
 海に囲まれた日本の国は、中国から適度の距離を保っていたおかげで、独自の文化を発展させることができました。この国で使われる言語も、同じように和語と漢語の混合によって、独自の言語として成長してきました。日本語の「島国性」は、地理的な島国性よりも、はるかに徹底していると私は思っています。
 この日本語を、今よりもさらに難しくしてはならないと私は思います。安易な漢字の多用は避け、「耳から聞いただけでわかる日本語」に近づけるように、不断の努力を続けるべきだと思うのです。

ブログ連歌(140)

2779 避暑地にて 熱中するは 政治劇 (建世)
2780  劇は劇でも 観客不在 (うたのすけ)
2781 炎天に 沖縄健児は 戦えり
2782  ヤマトをあげて 辺野古守らん (建世)
2783 政治屋に 成り下がりては 気勢上げ (玉宗)
2784  何を狙うや 曲折の人 (みどり) 
2785 民我を 忘れしものに 一泡を (ハムハム)
2786  されど審判 3年の先 (建世)
2787 年金の 詐取は大目に 警察よ
2788  遺骨手許は 供養とみる (うたのすけ)
2789 死してなお 成仏せずに 子を守る? (建世)
2790  子は職もなく 生きる術なし (うたのすけ)
2791 一歩下がり 夫(つま)の影踏む 炎天下
2792  これ真夏日の 歩き方なり (花てぼ)
2793 好物を 買いに出るのも 命がけ
2794  ただひたすらに 秋風を待つ (うたのすけ)
2795 永久に待つ 仏の顔で ありにけり (玉宗)
2796  穂立つ尾花に 風さやと吹き (みどり)
2797 灼熱の 都をたちて 白河の (ハムハム)
2798  関を越えても 暑さ変らず (建世)
2799 蒸し風呂の 日本列島 何か起き (うたのすけ)
2800  五右衛門風呂に ならねばよいが (建世)

キーボードの文字配列について

 先日の静岡空襲についての記事に「うたのすけ」さんから頂いたコメントに、妻は初めて自分で入力して返信を書きました。それほど長い文ではないのですが、1時間以上かかったと思います。自分用のノート型パソコンで、目的の字を探すのが大変そうでした。方式は、ローマ字でもいいよと言ったのですが、私と同じ「かな文字」式にしました。
 私は横に指導役でついていたのですが、最大の不満は、どうして字が順番に並んでいないのかということでした。五十音表をイメージして、行ごとに整列していれば楽なのに、なぜ変な並べ方にしているのか理解できないと言うのです。キーボードは英文と共用で4段しかないから五十音表そのままは並ばないこと、使用頻度も考えて決めてあるらしいなどと説明しても納得してくれません。仕方がないので調べてみました。
 現在のJIS(日本工業規格)「かな文字配列」が決まったのは、昭和30年代でした。その基礎になったのは、カナ文字会などで使われていた「カナ・タイプライター」でした。そして元来、五十音表を強く意識して決められていたのです。ですから今も基本的に各行の字は近くに置かれています。飛び地になっているのは「け・せ・ぬ」と「は行・ま行」ぐらいで、これは英文と共用などの過程で移動して、今のようになったものです。
 要するに文字入力には、ある程度は時間をかけて文字配列を覚えるしかありません。文字数が少なくて楽なようなアルファベットでも、それは同じです。
 QWERTYで始まる今の配列も、唖然とするような理由で決まったのでした。初期のタイプライターは、同時に近くのキーが押されるとハンマー同士が絡まって故障することが多かったので、それを避けるために、なるべく離れたキーが押されるように配置したというのです。さらに左手の負担が重すぎるという欠点もあるのですが、一度普及してしまった規格は、さまざまな改良の提案が行われたにもかかわらず、未だに変えられないのです。
 その後の妻は、熱心に独学している様子はありません。「五十音順のボードが出来たら、やってもいい」と言っているのですが、どうでしょうか。世の中には、合理的でないものは沢山あります。妥協せずにいられるのは、それだけ余裕があるとも言えます。

真夏日の歩き方

 3日つづきの出歩きのため少し疲れたのか、昨夜は久しぶりにブログも休んで早めに寝ました。暑さばかりが続いて夕立も降りません。アクセス解析の検索語のところで、私の4年前の過去記事「夏の元気術・正しい汗のかき方」が、いまだに根強く読まれているのがわかりました。
 この記事の要点は、「汗は体を気化熱で冷やすためにかくのだから、液体として流れるほどの汗はもったいない」。したがって、しっとり汗ばむ程度以上の体の動かし方はしないで、早めに休むか、動作をゆっくりにするというものでした。それを思い出しながら、昨夜は中野駅から自宅までの1000メートルを歩きました。
 歩くテンポは、1歩につき1.2秒、1分間50歩程度の、非常に遅いものになりました。ふつうのビジネス歩きの半分ぐらいのテンポです。そのかわり、1歩ごとの距離をかせぐように、踵を前へ投げ出す感じで、なるべく遠くへ着地するように心がけました。そして足裏を全部使ってからつま先に推進力を集めて次の1歩を踏み出すようにしてみました。このとき、一昨年書いた「持続可能な歩き方」で推奨したように、空中に上っている足首の力を抜いて、一瞬でも休ませるようにします。これは、山の専門家でもある「愚樵」さんからコメントで褒めていただいた、山歩きの基本です。
 ただし、少し今回ショックだったのは、2008年の時点で、ゆっくりのつもりでも1分間88歩のテンポで歩いたと書いていることでした。真夏とは条件は違うでしょうが、私の基礎体力は、やはり少しずつ低下しているかもしれません。でもそれは自然なことです。
 妻に聞かせたら、「よくそんな面倒なことを考えながら歩けるわね」と呆れられそうですが、考えて工夫しながら歩くと、疲れを意識せず、短い時間で目的地に着くような気がすることは確かです。テレビでも「スロージョギング」なるものが推奨されているのを見ました。人の筋肉には速筋と遅筋とがあって、遅筋を上手に使うのが、長持ちして新陳代謝にも良い運動だということでした。
 それにしても、この夏の間に一度ぐらいは豪快な雷雨を経験したいものです。

「認罪・中国撫順戦犯管理所の6年」を見る

 東京北区「北とぴあ」で、この土日に開催されている「平和のための戦争展」に行き、NHKハイビジョン特集(2008年11月30日放送・2009年「ギャラクシー賞」受賞作品)の「認罪・中国撫順戦犯管理所の6年」の上映を見てきました。放送の当時も話題になったのでしょうが、私はまだ見ていませんでした。
 ここに収容されたのは、ソ連によってシベリアに抑留された旧日本兵のうち、中国で戦争犯罪を犯した疑いで中国側に引き渡された約1000名でした。その時期は、新中国の成立から1年しかたっていない早期で、中国としても初の国際的問題への取り組みでした。指導の最高責任者は周恩来であったと言われます。その基本方針は、人道的取り扱いと「認罪」でした。
 収容者には、当時の中国人にも過分と思われるほど豊かな食事が提供され、復讐心の強かった管理職員の心を傷つけるほどであったと言います。日本人にとっても、安心させ太らせてから殺すつもりではないかと疑心暗鬼でした。しかし、人道的取り扱いは本物でした。
 やがて希望者には読書の勧誘があり、インテリ層を中心に歴史や思想の学習会が始まります。集団の思想教育ではなく、日本人の自主性を辛抱強く待つという姿勢でした。そこからさらに戦時中の各自の行動を思い出して書き出す活動へと進んで行きました。自由な作文を通して、旧兵士たちは、自分たちが犯した行為と正対せざるを得なくなります。命令だったから、みんなでやったから、といった言い訳を離れて、人間として自分はどうだったかが問われるのです。
 この過程で、中国側からは「告白すれば光明がある、隠せば闇に落ちる」という標語が示されます。それは暗に「心からの反省があれば殺さない」ことを約束していました。結論を言えば、死刑の判決は1名もなく、最高刑の20年でも、シベリア抑留も刑期に算入するという寛大なものでした。
 これもまた戦争裁判の一種ではありました。しかし、それは復讐のためではなく、人間救済のための教育であったと感じている元収容者は少なくないのです。当時の国際情勢の中で、日本との関係を良くしておきたい指導層の思惑があったとしても、史上まれに見る人道的な国際裁判でした。後に中国で文化大革命の混乱が起こったとき、撫順戦犯管理所の元所長らは、厳しい吊るし上げを受けたということです。
 見終ってから、このビデオを見ることを勧めてくれた地元の友人に、「結局、日本人は未だに『認罪』してないんだよな」と言うと、返事は「そうなんだよ、みんな田吾作だからな」でした。
(追記・このテレビ番組は、NHKアーカイブス、放送局等の全国の施設で無料で見られます。ただしネット配信ではありません。)

映画「キャタピラー」を見る

 若松孝二監督の映画「キャタピラー」を見てきました。反戦川柳作家、鶴彬(つるあきら)の句に「手と足をもいだ丸太にしてかえし」というのがありますが、それを地で行く実話があったことは、私も子供のときに聞いていました。中国戦線で両手足を失い、喉にも負傷して言葉も出なくなった軍人が「護国の軍神」として郷里の農村に帰って来た、その家の嫁との物語です。
 私が聞いた話では、その軍人は甕に入れられたそうですが、映画では、東北地方で子供を入れるのに使う篭の大きなものに座らされ、軍服、軍帽と勲章をつけて、嫁の引くリヤカーで村内を巡回するのでした。もちろん軍神として尊敬の対象ですが、やがて本人は外出をいやがるようになります。
 それよりも大事なテーマは、性と暴力と、そして男と女との力関係です。両手足を失っても、食欲と性欲は衰えません。まさに「食って、寝て」が生きることのすべてになります。戦地での残虐な行為の記憶がそこに重なります。
 私はこの映画を見ながら、日本の女性史研究の大家である高群逸枝(たかむらいつえ)の著作に出ていた記述を、何度も思い出していました。「女にとって、性交における正常位は、決して正常ではない」と書いてあったのです。固い学術書の中で不意を突かれて、大いに驚きました。しかしそれは事実だと思います。出征前は暴君で、事あるごとに妻を殴っていた夫は、用便さえも自分では出来ません。苛立つ妻に頬を平手打ちされても、唾を吐くしか反撃できないのです。
 重いテーマの映画であり、それを徹底してほしかったのですが、空襲や原爆まで持ち出したのは、反戦によりかかった、やや安直な手法ではないかと思いました。また「キャタピラー」という題名も、それが本来は芋虫の意味で、戦車やブルトーザーのキャタピラーは派生語であることを、どれだけの人が知っているでしょうか。もっとも、地を這う人間の姿は、最後に表現されるのですが。
 決して見て愉快になる映画ではありません。しかしこうした映画が堂々と作られ、都心の映画館をほぼ満席にして上映されていることは、心強いと思いました。

ブログ連歌(139)

2759 浴衣の子 灯篭流し 終戦日 (建世)
2760  絵になる風景 いついつまでも (うたのすけ)
2761 高層の ビルに緑陰 造りたき   
2762  とんぼに蛙 帰りくるやも (みどり)
2763 油蝉 しきりと哭く 十五日 (うたのすけ)
2764  屋根に夏草 ム-ミン屋敷 (花てぼ)
2765 靖国の 境内に濃き みどり蔭
2766  宣伝カーの 怒声は遠く (建世)
2767 わが家の 周り暑さに 包まれて
2768  網戸の蝉も 声をひそめる (うたのすけ)
2769 猛暑日が 今日もつづくと 籠城す (建世)
2770  釣りしのぶ下げ 涼風待ちぬ (みどり)
2771 夕立も なくて今宵も 熱帯夜 (建世)
2772  ええ面倒と 日々三時起き (うたのすけ)
2773 起きる人 寝る人がいて 不眠都市 (建世)
2773B 少しづつ おかしくなりぬ 地も天も (玉宗)
2774  水銀灯に 虫も眠れず (みどり) 
2775 蜚?(ごきぶり)の 雑兵もなき 気象かな (花てぼ)
2776  脛に傷持つ 輩が二人 (うたのすけ)
2777 頼むから 小鳩はどうか お静かに
2778  当分菅に  舵取りさせて (うたのすけ)
2779 避暑地にて 熱中するは 政治劇 (建世)
2780  劇は劇でも 観客不在 (うたのすけ)

金子みすずの最後と仏さま

 市堀玉宗さんのブログ「再生への旅」で先日見かけ、それを引用した「花てぼ」さんのブログでも話題になっていた金子みすずの詩「さびしいとき」。最後の2行が心に残っていました。

私がさびしいときに
よその人は知らないの。

私がさびしいときに
お友だちは笑ふの。

私がさびしいときに
お母さんはやさしいの。

私がさびしいときに
佛さまはさびしいの。

 仏さまだけが共有してくれた金子みすずのさびしい最後について、「ひなまつり」と「金子みすゞ」と「アフガニスタンの女性たち」と題した綿密なブログ記事がありました。
 夫から詩人としての活動を禁じられ、性病を移され、離婚後も娘の親権を夫に奪われることになった金子みすずは、娘を引き渡す約束の前夜に、3歳の娘を風呂場でていねいに洗いながら、いつもよりたくさんの歌を歌って聞かせたそうです。病気のために、娘と同じ浴槽に入ることさえできない体になっていました。
 風呂のあとで両親と4人で桜餅を食べ、「今夜の月は、きれいだから、うれしいね」と言い、最後の言葉は、娘の寝顔に見入っての「可愛い顔をして寝とるね」だったとのこと。そして自室にこもり服毒自殺しました。芥川龍之介と同じ睡眠薬のカルモチンを用いたとされています。覚悟の自殺の前には、写真館で自分の姿の撮影も済ませていました。
 昭和5年のその時代に、26歳の若い母親にとって、娘を自分の母親の手で育てて貰えるかもしれない非常手段は、これしかなかったのでしょう。冥界に入った金子みすずを、仏陀は決して叱らなかったと私は思います。私の理解では、仏陀の心は宇宙全体と同じ大きさがあるのです。だから人間の考えることも、人間のやることも、すべては理解の中に入っているのです。
 金子みすずの最後を、女性の人権の問題と考えることも、もちろん可能です。あらゆる不正義の犠牲となって倒れる人は後を絶ちません。そのすべてを見ていてくれる誰かがいると思わなければ、この世は闇です。その人の名が「仏さま」であろうと、なかろうと。

「学徒勤労動員の日々」を読む

 私の「少国民たちの戦争」を購入して下さった鈴木光男さんから「学徒勤労動員の日々」(近代文芸社・単行本)の寄贈をいただきました。副題は「相模陸軍造兵廠と地下病院建設」となっていますが、主題は福島県の私立石川中学生だった著者が、学徒動員で神奈川の陸軍造兵廠(現在は米軍の相模補給廠)で働いていた時期の記録です。
 著者は私よりも6歳年長ですから、中学2年で太平洋戦争の勃発となり、以後、戦時体制下の「学徒」として戦争に巻き込まれて行くことになります。それは当初は学業と両立する「勤労奉仕」でしたが、しだいに労働力としての動員の比重が高まり、ついには学校をあげて遠隔の軍需工場へ、「準軍属」としての赴任に至ったのでした。
 記録の主体は著者および周辺友人の日記の形をとっており、人名も地名も多数の固有名詞で語られる「ナマ資料」に近いものです。1日で読了するのは少し疲れる感もありましたが、それだけに脚色のない事実がよくわかりました。総体として、当時の中学生以上の学徒(この「学徒」という呼称も、「少国民」と似て戦時中の特殊な用語でした)に比べたら、国民学校(小学)生だった私たちが受けていた教育の方が、ずっとマトモだったというのは、この本で初めて教えられた事実でした。
 身分は中学生であり、後には試験に合格して高校生(旧制)になっても、実態は動員先の工場の工員なのでした。日本の高等教育は、昭和19年後半以後は、事実上、機能を停止していたのです。わずかに教育が維持されていたのは、軍関係の各種学校と、医学系および一部の理系の学校・学部だけでした。
 戦争が末期になり空襲が激化すると、工場は資材と輸送の両面から機能を低下させて行きます。相模造兵廠は大規模な空爆を受けませんでしたが仕事はなくなり、動員学徒も濠掘りが本業のようになります。「本土決戦」の掛け声だけが大きく、現場はヒマになる末期症状です。その流れで帰郷が実現し、最後の仕事が「地下病院建設の土木工事」になるのですが、それは実質1日半で終戦となりました。同じ時期に行われて新聞でも大きく取り上げられた「松根油の生産」も、他にできることがなくなった失業対策のようなものだったということです。
 戦争のために国民のすべての能力を利用し尽くす「使い捨て思想」は、学徒動員においても同じでした。でも、幸いにして現場が国内であったため、多くの若者は学業に復帰して国を支える力となりました。これは語られることの少なかった「もう一つの戦争」の記録です。

静岡がなぜ空襲されたの・妻からの疑問

 本日のエントリーは、妻と話し合いの上、志村ひさ江の言葉で書きます。

 私は長いこと、静岡の私の家がなぜ空襲で焼かれたのか、わかりませんでした。目ぼしい軍事施設も大きな工場もなく、ふつうの民家と商店ばかりが並んでいる平和な町です。そんな町がどうして空襲され、小学3年の私が、6年生の兄と3人の幼い弟たちといっしょに、母に連れられて火の中を逃げ回ることになったのか、疑問だったのです。 
 東京の夫の家も、三菱重工に勤めていて名古屋は危険だからと疎開荷物を送ってきた叔母の家も焼けなかったのに、私の家だけが焼かれたのは何か不公平な感じさえありました。その疑問に答えてくれたのが、朝日新聞8月5日夕刊に出ていた「悲劇に正当な憤りを」(川田順造)という記事でした。(以下引用)

……一晩で10万人の一般市民を、綿密な計画のもとに焼き殺した3月10日の東京大空襲を始め、市民の殺傷による戦意喪失をねらった多くの都市への新型焼夷弾攻撃を実行し、原爆投下の現地指揮官でもあったルメイは、……後の国防長官マクナマラに、負けていたら俺たちは戦争犯罪人だと言った。その通りだ……(引用終り)

 無防備の一般市民の家を焼くのは、当時のアメリカ軍の作戦だったのです。だから港と工場のある清水よりも、住宅地の広がる静岡が爆撃の目標に選ばれた。戦争とはそんなものだったのかと、改めて気づかされました。だったら東京の3月10日だけで充分でした。日本の指導者たちは、そこで止めるべきでした。また、アメリカ軍の指導者たちも、本当の犯罪人でした。日米ともに、人間として、してはならないことをしたのだと思います。
 私は以前に「小学三年生で経験した静岡空襲」を書きましたが、あの最後に、アメリカという「巨大な民主主義の文明国」と書いたことが、その後も気になっていました。あれから65年たって私も大人になり、子も孫も育てた今、あの部分は取り消さなければならないと思うようになりました。「良い戦争」など、絶対にありません。もう終りにしなければいけないのです。



焼け残った建物は、静岡駅(意外な方角に見えた)、県庁、市役所、消防署、そして小学校では市内に3つだけあったコンクリート3階の学校でした。その1つが私の母校で、戦後も木の部分は何もなく、コンクリートに土足の授業でした。


8月15日の靖国神社

(熊さん)ご隠居、昨日は猛暑だったってぇのに、靖国神社を見に行ったんですか。
(ご隠居)うん、例年は行かんのだが、今年はちょっと気になってな、地下鉄で3時ごろに行ってみた。九段下の駅を出たら、大鳥居の前から機動隊がびっしりだったよ。
(熊)やっぱり右翼が集まってるんですか。
(隠)昨日は在特会(在日特権を許さない市民の会)だったな。交差点に近い歩道の両側に街宣車を並べて300人ぐらいだろうか、日の丸と軍艦旗を並べて気勢をあげておった。それを機動隊が柵と隊列で囲んでいて、通行人の通路を、やっと確保している状態だったよ。
(熊)在日の外国人と靖国神社が、どうして関係あるんですかね。
(隠)それがわからんのだよ、まわりで配ってたビラによると、外国人の参政権に反対のようだが、靖国神社との関係はわからん。ものすごい大音量で演説していて、要所で全員が一斉に叫び声をあげるんだが、結局、意味のある言葉を聞き取ることはできんかったな。よく右翼の街宣車が脅しのために、汚い言葉と大勢の怒号を録音したテープをでかい音で流しているが、あれをナマでやってるわけだ。靖国神社の追悼の雰囲気を妨害するのが目的としか思えなかったが、本当にそうだったのか、どうも不思議な団体だな。
(熊)この暑いのに、デモの参加者はどんな人たちなんですかね。
(隠)わしは知らんが、冗談でやってるわけじゃあるまい。本人たちは大真面目で、いいことをしてるつろりなんだろ。だがな、真面目だからいいってもんじゃない。誠心誠意で悪いことをしてしまう個人も団体も、いくらでもあるんだ。戦争もその一種だよ。
(熊)それで、肝心の神社の方はどうでした。
(隠)思ったよりも静かだったな。境内では演説も集会も禁止と掲示してある。ただし「国立追悼施設建設に反対」の署名運動は、テントを張って、やっていたよ。その他では、軍服を着て「同期の桜」を合唱してる老人グループなんかもいたが、その程度は黙認されているようだった。とにかく参道は人で一杯だった。拝殿正面は長い列で、お参りには30分以上はかかりそうだったな。わしは参道を避けて、横の桜の木陰を歩くようにしたから、少しは楽だったよ。
(熊)まあ、ご苦労さんでしたね。
(隠)家に帰ったら、連れ合いが「こんな暑い時に終戦なんてするからいけないのよ」と言っておった。「4月にでもしていれば、原爆は落とされなかったし、静岡の家だって焼けなかった。ソ連にも攻められなかったのに」だって。本当にそうだ。いいこと言うよ。


良い戦争の条件とは(3)

 多くの国民を無意味に死なせて負ける「悪い戦争」を経験しなかったアメリカは、第二次世界大戦後もアメリカ流「良い戦争」の改良に力を注ぎました。朝鮮戦争は対日戦争の亜流で、物量の優勢により敵を圧倒する戦術でしたが、地続きの中国から増援した大軍の歩兵部隊の浸透により、完勝できずに終りました。ベトナムではジャングル戦に悩み、初めて戦争目的を達成しないままの撤退を余儀なくされました。いずれの戦争でも、究極兵器だった筈の原爆には、効果的な使用の機会はありませんでした。
 ソ連の崩壊後は、国家単位の総力戦が発生する可能性は、ますます低くなりました。原水爆が有用だった時代は終ってしまったのです。今後に残っているのは、廃絶の手順をどうするかだけの問題になりました。
 最後に残ったのが「テロとの戦い」でした。ここで有効と考えられたのが、ハイテク技術を駆使した精密なピンポイント攻撃です。その象徴が、アメリカ本土からの遠隔操作で中東のテロリストを殺す無人機攻撃でした。これなら自軍の兵士を安全な場所に置いたままの、絶対に負けない戦いになります。まさに「良い戦争」の理想の姿です。
 しかし、こうした一方的な攻撃は「裁判抜きの処刑」に等しく、テロ行為と同じではないかという批判が、当事国やアメリカ国内からも出てきています。誤爆の問題も根絶は不可能で、乏しい情報ながらも、最近は抑制的になっているということです。
 アメリカの主戦場はイラクからアフガニスタンに移りましたが、全土平定の見通しは全く立ちません。ベトナムと同様に、現地のことは現地の人々に任せるしかなくなるのは、時間の問題でしょう。外国軍の武力制圧で平和な国が作れるわけがないのです。
 情報と貿易の緊密化により、国家単位の総力戦は、もう起こり得なくなりました。テロ国家に近似しているイスラエルと北朝鮮はありますが、世界の中では小国です。武力の使い道はますます狭くなり、バランスのとれた縮減だけが今後の課題になるでしょう。
 国家の行為としての戦争を、世界で最初に憲法で放棄したのは日本でした。事情はどうであれ、この事実は世界の歴史に残ります。1945年は、世界で最後の戦争が終った年として、人類に永く記憶されることになります。ただし、放っておいてそうなるかどうかはわかりません。私たちの努力が必要です。当面の大事な目標は、辺野古の海兵隊新基地を作らせないことです。


良い戦争の条件とは(2)

 一方、日本が起こした戦争は全部「悪い戦争」ばかりだったかというと、そうでもないのです。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦までは、かなり「良い戦争」をしていました。まず、この3つの戦争は、すべて勝ち戦でした。戦い方も、世界の評価を気にして、国際法規を律儀なほど守ろうとした形跡があります。目立たないところでは残虐行為も働きましたが、捕虜の取り扱いなどは概して人道的でした。戦後に交換されて帰ってきた日本側の捕虜も、日露戦争までは原則として原隊への復帰を許されています。
 しかし昭和に入り大陸への進出を始めて以後の日本軍は、急速に前近代的な絶対主義に先祖返りし、世界標準から外れて行きます。君主に仕える武士の倫理が召集兵にまで一律に適用されて、命を惜しまず戦い「生きて虜囚の辱めを受けない」ことまでが強要されるようになりました。武士階級なら「旗本」の倫理が、全国民の義務とされてしまったのです。
 戦場で絶望的な戦況になっても降伏せず、あらゆる手段で抵抗を続ける日本軍は、近代戦を前提とするアメリカ軍には扱いにくい相手でした。今ならイスラム原理主義のテロリストと対するような不気味さと恐怖を感じたことでしょう。ここで日本軍の戦いは、多数の兵を死なせる負け戦という「最悪の戦争」の連続になりました。やり切れないのは、こうした日本軍の抵抗が、祖国の家族を守りたい熱意とは裏腹に、「日本人は殺すしかない敵」というイメージを生み、本土への過酷な無差別爆撃を正当化する理由にもなって行ったことです。
 戦争にも一応のルールはある筈ですが、スポーツのルールと違って、戦場には審判がいません。「殺さなければ殺される」極限の緊張状態では、戦う手段は容易に過激化して行きます。「ルールを守る良い戦争」というのは、机の上の虚構に過ぎなかったのです。
 それにしても、軍国主義が作り上げた日本の戦争観とは、何というグロテスクなものだったのでしょうか。先日放送された「NHKスペシャル・玉砕」の録画を先ほども見たのですが、「敗残兵」に生存価値はなく、せめて「玉砕」させて軍神に祭り上げる消耗品に過ぎないのでした。一回の戦争で負けたら終りの「果し合い」の世界であり、国益を守るための実力行使という近代戦の感覚は、片鱗さえもありません。まさに恐るべき亡国の思想でした。
 かくて私たちは、史上最悪の「悪い戦争」を体験させられました。その日本でも、人口の4分の3は、すでに戦争を知らない世代になっているそうです。地球上の貴重な「絶滅危惧種」になりつつある私たちは、戦争についての最後の総括をしておかなければなりません。

ブログ連歌(138)

2739 人身事故 今日も止まるよ 痛勤(通勤)電車 (こばサン)
2740  身に添わぬ夢 意に沿わぬ世は (建世)
2741 高齢者 医者にかかって 存在感
2742  あらえっさっさっと デイサービスも (うたのすけ)
2743 秋立ちぬ そぞろ寂しき 人の世に    
2744  生きてある身の 倖せ探る (みどり)
2745 幽霊でない 証拠に今日も ブログ書き (建世)
2746  生きる喜び 地球の裏に (ハムハム)
2747 核持たぬ 抑止もあらむ 神ならで (玉宗)
2748  無一物こそ 万物を生む (建世)
2749 天と地の 恵み分けあう 知恵そだて  
2750  生きるを讃う 此れ人の道 (みどり)
2751 摩訶不思議 奪いしものを いま還す (うたのすけ)
2751B アン(赤毛のアン)に集い 墓の話に 終始せり (花てぼ)
2752  墓を覆わず 粉骨循環 (建世)
2753 ミソ萩に 水したたらせ 盂蘭盆会 (みどり)
2754  禅寺の供花 涼しかりけり (花てぼ)
2755 盆参り 年々暑さが 身に応え (うたのすけ)
2756  クーラーつけて 家内安全 (建世) 
2757 川風に 吹かれてみたし 夜の秋 (みどり)
2758  まさに実感 川辺に遠く (うたのすけ)
2759 浴衣の子 灯篭流し 終戦日 (建世)
2760  絵になる風景 いついつまでも (うたのすけ)
 

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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