志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2011年06月

放射能汚染の中で生きる私たち

 昨日の朝日新聞「オピニオン・私の視点」に、京大原子炉実験所の今中哲二氏による「汚染の中で生きる覚悟を」という記事があった。そこには「私たちはもはや、放射能汚染ゼロの世界で暮らすことが不可能になった。……その事実を受け入れたうえで……」との記述があった。まさにその通りだと思った。
 福島原発から拡散した放射性物質は、すでに地球を2周したと言われる。ここでは拡散がまだ根絶されていないのが大問題で、その意味では東京も安全圏ではないかもしれないが、これは何とか封じ込められるとしよう。それでもビキニの水爆実験や中国の核実験によるものを含めて、日本国内には各種の放射能が残っている。それより前を辿れば、そもそも宇宙誕生に由来する放射線は宇宙に満ちていて、日常に私たちに降り注いでもいる。
 放射能「汚染」というのは、それが自然物ではなく人工的に作られたという認識だと思うが、質的には同じものだ。たとえばウラン鉱石を手掴みすれば被曝するだろう。わかっているのは、人工的に濃縮された大量の放射線を一時に浴びると人は死ぬし、致死量でなくてもガンなどの病変を起こす確率が高くなるということだけだ。
 低レベルの被曝については定説がない。今中氏も書いているが「さまざまな基準値は、科学的根拠に基づいて直接に導かれたものではない」のが実情なのだ。これくらいなら心配ない「だろう」という手さぐりだから、「直ちに健康被害はないレベル」といった表現にならざるをえない。そこで、さまざまな憶測を生むことにもなるのだが、それ以外に言いようがない面もある。
 こういう時代に生きている私たちは、個々の人生観を問われることになる。78歳の私だったら、「致死量が10シーベルトつまり1万ミリシーベルトなら、マイクロシーベルトの単位は気にしなくていいな」と考える。1マイクロシーベルト時を1年間浴びつづけても8.82ミリシーベルトにしかならないからだ。
 しかし「子供たちに当る放射線は少しでも減らしたい」と思う親の気持を笑うことはできない。放射線がDNAを破壊することがあるのは事実だからだ。これ以上の人工放射能つまり放射能汚染の拡大を防ぐことこそ、私たちの歴史的使命と言うべきなのだ。
 そのことを踏まえた上で、私たちは、たくましく生きて行くしかない。乳児のために「安全な水」を求める母親がいたら、老人は先をゆずることにしよう。放射線測定器も、もっと普及させたらいい。わかった上でなら、人生には放射線よりも、もっと大事なものがある。

「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(11)

 著者、武田徹氏は「おわりに」の中で吉岡斉氏の「原子力の社会史」にふれ、電力業界に対して「非共感的」である立場を共有すると述べています。(この吉岡氏の本については、連載中に「マスコミに載らない海外記事」さんから推薦の紹介をいただきました。こちらもよく読んで、改めてご紹介します。)
 武田氏は、おそらくジャーナリストの立場で、なるべく客観的に原子力問題を考察したいと思ったのでしょう。その点では反原発の活動家でも理論家でもありません。それでも「非共感」を共有すると書いたのは、自ずから一つの結論を表明したことになります。だから参考になるという考え方もあり、私はそれに近い立場です。
 著者が「ライフワーク3部作」としている残りの2つは、「偽満州国論」と「『隔離』という病」とのことです。前者は人造国家を作るという壮大な実験を通して見た日本国家論であり、後者はハンセン病隔離の歴史から見た日本社会史のようです。そして20世紀の産物である原子力とのつきあい方を考えたかったのがこの本でした。
 核は地球全体の問題となる広がりを持つために、「正当に怖がること」さえ難しい複雑な要素があり、著者が「各論」の積み重ねという形式を採用したのは、その複雑性を表現したかったのではないかと私は思いました。その上で、私としてはどう考えるかを、ここに書いておくこととします。
 題名の「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」は、今でも気に入りません。それ以外の選択肢がなく、採用を強制されたものを「選んだ」とは言わないからです。正しくは「順応させられた」と言うべきでしょう。しかし、ここから未来への希望も開けると私は思います。
 今の形式の原発が、少なくとも日本では受け入れられないものであることは、国民的合意が形成されつつあると見ていいでしょう。原発の終りとともに、間もなくエネルギーの新時代が始まります。それは核兵器の存在を前提とした原子力産業が、日本から撤退することを意味します。それとともに、中央集権的な構造から地方自立型へと、産業構造の変化も始まる筈です。それは政治へも波及せざるをえません。
 つまり、脱原発は、「原子力的日光」の下に作られた「戦後日本」を解体するマスターキーになるのです。ここを回してやれば、すべての構造が変る。本来私たちはどういう国を作りたかったのか、それを自分で考える時代を迎えるのです。

ブログ連歌(189)

3759 捨て置けぬ 政治課題は 山積す
3760  人の暮らしに 夏休みなし (建世)
3761 お互いに 切磋琢磨が あゝそれなのに (うたのすけ)
3762  見合ってのたり 夏の日長く (建世) 
3763 原発も 被災地すべて 収束す
3764  目覚めてがっくり 真夏の夢よ (うたのすけ)
3765 やい原発 夢でもいいから 消えてくれ (建世)
3766   ♪夢追い酒♪で いっとき憂さを (うたのすけ)
3767 もともとが 爆弾だった 核技術
3768  出直しますと 早く幕引け (建世)
3769 新しき 神話の興きよ 黄泉までも (みどり) 
3770  原点ひとつ 太陽の塔 (建世)
3771 世界遺産 やたら増やすな 困惑す
3772  我が庭先も いずれは指定 (うたのすけ)
3773 壊すなよ 地球丸ごと 遺産なり (建世)
3774  そもそもこの地は 原発不似合 (うたのすけ)
3775 原発は 国家の権力 助長する (恩義)
3776  脱原発こそ 自由への道 (建世)
3777 原発と 人の共存 あり得ぬと
3778  知りて今こそ 奮い立つなり (ハムハム)
3779 限界と 知れよ命の 玄海よ (うたのすけ)
3780  荒波立つも 鎮まり眠れ (みどり)

「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(10)

 第9章は「2002年論・ノイマンから遠く離れて」です。これも掴みにくい章なのですが、ノイマンは東欧からアメリカに移住したユダヤ人で、コンピューターおよび原爆の開発に深くかかわったキーマンとされています。コンピューターの開発も、「ナチスとの戦争に勝つため」の緊急課題でした。そして弾道計算などの戦術に役立つばかりでなく、核エネルギーの開発にも不可欠の先端技術であったのです。
 すべての技術には軍事利用と平和利用の両面があり、コンピューターも核エネルギーも同様だった。その二重性を体現した人物がノイマンだったと著者は述べています。言うまでもなく戦争に役立つ技術は、経済性も無視して最優先に開発されます。そこに集められるのは最高の頭脳を持つ人々です。開発された技術をどのように使うかは、政治家が決めることです。その場合、科学者の倫理は遠い存在になるというのが、この章のテーマのようです。
 ノイマン自身は1957に死亡しているのですが、核とコンピューターの時代は、アメリカとソ連との間に「恐怖の均衡」の時代を作り出しました。二つの最先端技術は、人類に福音をもたらすのではなく、「相打ちの滅亡」を現実化したのです。人間の利己心に先端技術を与えるとどうなるかの実験は、ゲームの理論や「囚人のジレンマ」と同じことになりました。勝者はなく、重い負担ばかりが増えました。
 この場合、技術そのものを悪として封印しようとしても不可能です。技術には常に未知の部分があって、固定した観念では処理できない。私たちにできることは、「よく見て上手に賭ける」ことだというのが著者の結論でした。コンピューターを発明しなければよかった、使うべきではなかったとは言えないでしょう。核エネルギーも同じことで、今さら「なかった」ことにはできません。「スイシン」と「ハンタイ」に二分された不毛の対立ではない、立ち止まって考える時間が必要ではないかと呼びかけて著者は本文を閉じています。
 人間は、自らを滅ぼすことのできる技術を開発してしまいました。しかし、それを使うかどうか決めるのもまた人間です。頭脳すぐれた技術者たちは、時代を大きく前へ進める新技術を開発しました。人類はおそらく新技術の開発を止めることはできないのです。それは人間の「業」と呼ぶべきものでしょう。それでも多くの人間に災厄を及ぼすような使い方をすべきではない。それはノイマンから遠く離れた人たちの仕事なのです。

「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(9)

 第8章は「1999年論・JOC臨界事故……原子力的日光の及ばぬ先の孤独な死」です。東海村の核燃料加工施設JOCは、リストラの続く下請け会社でした。その転換試験棟で起きた事故は、消防署には当初「てんかんの患者が出た」と受け取られたそうです。しかしそれは知識の乏しい作業員が「裏マニュアル」で行った無謀な行動による臨界事故でした。
 現場にいた3名が大量の被曝をし、最高20シーベルトを受けたと推定されるAは3ヶ月後に、同10シーベルトのBは7ヵ月後に死亡し、同4.5シーベルトのCは3ヶ月の入院で退院するすることができました。(この項はウィキペディアで補足しています。)
 この事故で著者が注目しているのは原発従事労働者の劣化ということでした。一部の意識の高い幹部従事者を除く一般の労働者にとって、原発関連は危険で魅力のない職場になっていました。そこには反原発運動によるキャンペーンも加わっていた筈です。人に嫌われる職場の志気が高いわけがありません。核物質をパケツと柄杓で扱っていた裏マニュアルは、そのような企業風土から、生れるべくして生れてきたのです。
 この事故で連鎖反応を起こしたウランは0.98ミリグラムでした。わずか1ミリグラムにも満たない量のウランで東海村は大混乱に陥り、多くの被曝者を出したのでした。臨界を止めるために、将来子供を作る可能性の高い独身者を除く10組20名の特別チームが職員から編成されて作業に当りました。その結果20時間後に臨界状態は終息するのですが、突入した職員は最高で68.3ミリシーベルトの被曝をしたということです。
 この事故は日本における原子力政策のすべてを集約していたと著者は言います。つまり原発の成果を享受する側との対極に、危険の実態を知らされてもいない下請け労働者(および施設周辺の住民)が放置されていたのです。本来ならここで原子力利用の可否・得失を、国のレベルで再検討すべきでした。そしてなお原発拡充の道を選択するのなら、国をあげて安全対策を公開の討論に付して、国民にそれなりの覚悟を求めるべきでした。
 しかし、そのような抜本的な対策も議論も提起されることはなく、事故は原発に対する一時的な逆風にはなったものの、やがて忘れ去られて行きました。この本は2002年に文庫版として出版されているのですが、いま読むと、福島の事故を予感させるものがあります。

「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(8)

 第7章は「1986年論・高木仁三郎……科学の論理と運動の論理」です。まず、高木仁三郎が書いた「巨大事故の時代」を引用しながら、巨大事故が避けられない理由を説明します。科学技術の粋を集めた巨大技術の安全性は、理論的には何重にも保障されているにもかかわらず、なぜ裏切られるのか。事故は「重畳型」「共倒れ型」「将棋倒し型」の3つの類型で起こるというのです。
 重畳型は、複数の原因が重なる不運で起こりますが、理論的確率よりも高率で起こります。一つの欠陥を生む土壌は、他の欠陥を生じる弛緩と共通しているからです。共倒れ型とは、一つの原因が複数の安全装置を無効にしてしまう場合です。たとえばケーブル事故など。この場合も個々の安全性の「掛け算」は成り立ちません。将棋倒し型とは、一つの異常事態が予期せぬ波及効果で他の安全装置も無効にしてしまう場合です。これらを総括すれば、「想定外」の事故は避けることができないのです。
 さらに高木氏は科学者の立場で一つの信念を確立します。それは「核エネルギーは原子核の安定性を強いて破壊しており、(原子核の安定の上に存在している)人間世界にとって非和解的である」(1996年、原子力円卓会議での発言)というものでした。
 高木氏は宮沢賢治に傾倒しており、やがて「市民としての自前の科学」を提唱して反原発運動に入って行きます。このあたりから、科学の論理よりも運動の論理が前面に出るようになったと著者は見ているようです。
 原発推進が「国策」として採用されていた時代に、科学という専門分野の中でのみ発言しても大勢は動かせなかったでしょう。市民に語り、市民を動かすことで警告を発し、国策を変えさせようとしたのは先覚者の見識でした。
 しかし、これは私の感想ですが、核エネルギーへの態度を、思想・信念の問題にしてしまうのは、やはり少し筋が違うと思うのです。有用だが危険な現在の核技術は、たぶん非常に未成熟な状態のままで実用化してしまったのです。たとえば放射性物質の放射能を除去する研究は進めなくていいのでしょうか。使用済み核燃料の始末はどうするのか。これも安定物質に変換できれば安心です。科学技術の研究には、止めてはならない部分があると思うのです。

30度でも涼しい冷房

 電力不足は日本の産業を衰退させるとか、原発延命をはかる勢力のキャンペーンも始まっていますが、脱原発を後退させないためにも、この夏の節電が大切です。わが家でも、この5月の電力使用量は、前年比3割減を実現しました。これはエアコンの使用を止めたことと、照明の全面的な見直しが効果をあげたと思っています。夜間の明るさは「昔はこうだった」レベルに変えました。生活面では何の不便もありません。
 暑くなってきてエアコンの出番ですが、暑がり屋の妻が率先して「30度の設定でも、直接風が当るようにすれば充分涼しい」と言ってくれました。もちろん私も大賛成です。30度設定だと、コンプレッサーが働かず、ただの扇風機として回っている時間が長くなりますが、これが自然の風のようで、けっこう心地よいのです。
 気温が30度近くなると、全身の肌はしっとり汗ばむ感じになりますが、夏の暮らしはこれが健康な状態だと思えばいいのです。以前にラオスへ行ったときの経験から「夏の健康術・正しい汗のかき方」という記事を書いたことがありますが、汗が流れ出る直前の、しっとり感を大事にするのです。汗を液体として拭き取ってしまったら、1ミリリットルにつき580カロリーの冷房能力を無駄に捨てたことになるのですから。
 ラオスの人たちは、40度近いと思われる暑さの中でも汗を流していませんでした。おそらく気候に順応してそのような体になっているのでしょう。私たちも時間をかければ、快適でいられる温度を上げることは可能だろうと思います。ただし居間で使っているエアコンの冷房温度は、30度以上には設定できないようになっていました。
 昨夜は老人党護憲+の例会へ、半袖のまま外出してJRの電車に乗ったところ、立て続けにくしゃみが出てカゼを引くのではないかと心配でした。鳥肌の立つような強い冷房は、不健康・不経済で愚かなことです。夏姿でも寒さを感じない程度には温度を上げてほしいものです。
 例会の講師は「超ウルトラ原発子ども・ゲンパツは止められるよ」(ジャパンマシニスト刊)の著者、伊藤書佳(ふみか)さんでした。20年前に出して、今回重版された「親子で読む、原発と放射能がわかる本」です。イラストやQ&A入りの親しみやすい本で、10代の問題意識で書いたというのですから、大変な先覚者です。今は母親として子供を守ることを考え、「超ウルトラ子どもネットワーク」を作っているということでした。

「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(7)

 第6章は「1980年論・清水幾太郎の『転向』……講和、安保、核武装」です。内容が掴みにくい章なのですが、私には個人的な記憶があります。大学の教養課程(たぶん1952年)で、この人の「社会学」を受講し、内灘闘争の内幕などを雑談的に聞かされた覚えがあるのです。戦う文化人としてマスコミにもよく登場している人でした。
 その話とは大衆操縦術とも言うべきもので、みんなが「基地反対」でいきり立っているときは、逆にやや冷静に情勢分析などをしてやると信用されるといったことでした。左翼活動家とはイメージの違う、柔軟なところのある人だと思いました。
 日本の「単独講和」と「日米安保」に反対し、基地反対闘争の指導者として知られ、その後60年安保のときには「国民には請願権がある、みんなで国会へ行こう」と呼びかけて、国会を包囲する大規模デモのきっかけを作ったとも言われます。その清水幾太郎が、1980年に「日本よ国家たれ……核の選択」という冊子を自費出版したのです。これが当時は左翼文化人の「転向」として騒がれたのですが、その前後の事情を、私はこの本で初めて知りました。
 彼は当初から絶対平和主義者ではなかった。たとえば憲法9条に忠実であろうとすれば、日本は他国から侵略を受けたときは、無抵抗のまま甘んじて蹂躙されることになる。「戦後思想は、日本が国家ではないという告白から始まった」と清水氏は書いているというのです。そしてこの「転向」の動機になったのは、アメリカの軍事的優位が崩れてソ連が優勢になった(ように当時は見えた)ことであると著者は分析しています。
 国際社会が「乱世」になるとしたら、日本は国家として自立するしかない。通常兵器のみならず、核を(もちろん兵器も原発も)持たなければ一流国ではないという判断がそこから生れたのでしょう。しかし、国家とは、それほど有難いものなのでしょうか。
 20世紀において、国家は1億3475万人の自国民を殺した。これは他国民を殺した6780万人の2倍に当る。清水はこのような事実をも知るべきであったと著者は述べています。それなら著者がわざわざこの章を設けたのは何のためだったのか。単に左翼文化人までが進んで核を受け入れるようになった典型例として紹介したのでしょうか。私には釈然としないものが残りました。

ブログ連歌(188)

3739 土砂崩れ 予測あれども 無対策 (みどり)
3740  自然の猛威 こと欠かぬ国 (建世)
3741 「想定外」 言わせぬ力 我ら持ち (ハムハム)
3742  てんでに「想定」 騒ぎもするが (建世)
3743 日本語で ホットスポット なんてえの (うたのすけ)
3744  「そこ触っちゃだめ」 なんちゃって (建世) 
3745 「イヤーンバカ」そこもダメダメ 果てしなし (うたのすけ)
3746  列島身もだえ 早く助けて (建世)
3747 放射能 汚染の煎茶 フランスへ   
3748  廃棄処分に 深くうなだれ (みどり)
3749 ウチナーの 笑う力に 明日を見る (建世)
3750  笑う門にぞ 福を見にけり (ハムハム)
3751 万国旗 つないだように 機器並べ 
3752  米仏日の 除染オリンピック (建世)
3753 押しつけと 売り込み合戦 巻き込まれ (みどり)
3754  コストは二の次 戦争に似る (建世)
3755 結局は 庶民の金を 当てにして (うたのすけ)
3756  国費つまりは 俺の財布よ (建世)
3757 原発と 震災だけが 政治でなし (うたのすけ)
3758  庶民感覚 侮り難き (みどり)
3759 捨て置けぬ 政治課題は 山積す
3760  人の暮らしに 夏休みなし (建世)

「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(6)

 第5章は「1974年論・電源三法交付金……過疎と過密と原発と」です。原発というものが、どういう経済的な仕組みで作られてきたのかがわかります。電源3法とは、‥展山発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、H電用施設周辺地域整備法で、,砲茲辰禿杜浪饉劼賄典の繕發望緇茲擦靴得廼發鯆Ъし、△任修譴鯑段眠餬廚貌れ、で原発の周辺地域にバラまくことが可能になりました。これを促進したのは「日本列島改造計画」を唱えた田中角栄でした。
 これは田中の過疎地対策の一つでしたが、その前提として、原発は過疎地でなければ立地できない事情がありました。危険性は早い時期から知られていたのです。最初はイギリス、次いでアメリカから原子炉を導入するについて免責条項が問題となり、巨大事故への対策の必要性が明らかになりました。そしてアメリカの議会を通過していたプライス・アンダーソン法を参考にして、日本でも1961年に原子力損害賠償法が成立していたのです。これは原子炉設置者に過失がなくても上限無制限の賠償責任を負わせるとともに、最終的には国が責任を引き受けるというものでした。
 これに関連して、原発の立地には厳しい基準が作られました。そこには「人シーベルト」という注目すべき考え方があります。事故により放射線を受ける線量と、受ける人数を積算した「万人シーベルト」という単位を採用するのです。そうすると、たとえば近くに大都市があれば、ほんの少しの線量でも「万人シーベルト」は巨大な数字になりますから、なるべく住民の少ない地域を探さなければならなくなるのです。
 原発誘致の説明に「地域の活性化」がうたわれましたが、それは最初から自己矛盾でした。活性化して周辺の人口が増加すれば、それは原発の適地ではなくなることを意味していたからです。しかし、そのような負の側面は隠され、損害賠償法についての真剣な議論もされませんでした。原発が事故を起こすなどは「想定外」であったからです。
 一連の経過を知らされてみると、私たちは何という楽天的な国民であったかと思います。指導者と思われる一握りの人々が決めた路線を、疑いもせずにつき従ってきたのです。福島では、周辺住民にも所内の職員にさえも、緊急対策用のヨウ素剤も配布していませんでした。

「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(5)

 第4章は「1970年論・大阪万博……未来が輝かしかった頃」です。東京オリンピックに続き、日本が国際舞台に存在感を示した一大イベントでした。掲げられた統一テーマは「人類の進歩と調和」であり、世界から史上最大の参加国を集めました。日本で目立ったのは、政府館よりも、各企業が規模と知恵を競ったテーマ館の数々でした。
 ここで語られたのは未来の限りなさと、夢いっぱいの人類の未来についてでした。展示の中で最大の人気を集めたのは、アメリカ館の「月の石」でした。期間中の入場者は6400万人に達し、当時の日本人の2人に1人は見に行ったことになります。オリンピツクでは白黒テレビが普及しましたが、万博ではカラーテレビが普及して90%に達しています。
 この会場に、派手な演出で「原子力の電気」が送られてきました。関西での本格的な原発として、敦賀発電所が運転を開始したのです。それは喜びに満ちたニュースであり、事故や廃棄物の心配をする声は、どこからも聞こえませんでした。「人類の進歩」のあとに「調和」の文字はついていましたが、公害問題はまだ広くは知られず、オートメーションは人間を幸せにのみしてくれるものと信じられていました。
 しかし表の華やかさの陰に隠されたものがあることを指摘した人たちもいました。たとえば70年安保問題は、万博を伝える圧倒的なニュース量の前に埋没していました。手放しの「人類の進歩と調和」を日本が発信することは「大東亜共栄圏」の再来ではないかと批判して、大阪城で「反戦万博」を開いたグループもありました。それでも万博を目ざす人々の流れが止まることはありませんでした。
 この後、日本は70年代の高度経済成長に突入して行きます。増加する電力需要を満たしたものは、次々に完成した原発の電力でした。増加分をそっくり原発が引き受ける形で、電力全体に占める比率を高めて行ったのです。その直線的な増加ぶりは、社会主義国の計画経済にも似ていたと著者は表現しています。
 大阪の万博会場跡地には、今は各企業パビリオンの残影は何もありません。残ったものはただ一つ、岡本太郎が時代に流されない反骨で築いた「太陽の塔」だけです。

菅総理の後はどうなる

(熊さん)ご隠居、しばらくですね。沖縄で日焼けしちゃって、いいご身分だね。
(ご隠居)たまにはいいさね。日本も広いよ。ちょいと見直したね。
(熊)見直しって言えば、菅さんはどうです。えらい元気なんだってね。
(隠)こういう総理も珍しいな。最後になって生き生きしてきた。最初っからこうしてたら、だいぶ様子が違ってたかも知らん。急に正気に返ったみたいだ。
(熊)「私の顔を見たくなかったら、再生エネルギー法案を通せ」だって。俺の首と取替えっこだってんだから、ちょいと格好いいや。通りますかね。
(隠)それは何ともわからん。だがな、これで原発にブレーキをかけようとした首相という評価は残る。政治家の仕事ってぇのは、一つの話題を残せたら上出来だよ。
(熊)それで後はどうなるんですかね。大連立だか閣外協力だか知らないが、誰かが次の総理になるんでしょ。その誰かが、ちっとも出てこないんだよね。
(隠)平時だったら、ここで解散総選挙という手があるな。脱原発は、対米自立経済とか平和外交なんかともリンクできるから、新しい政治的立場の旗印になるんだ。それで勝てれば菅さんがまた首相になるのも夢じゃない。しかしなぁ、今それはないだろう。
(熊)震災復興の最中に何やってんだと怒られますよ。
(隠)それもある。それに、今の民主党は菅さん支持で固まってないし、みどりの党はまだ出来てもいない、社民党も弱いまんまだ。政治的変化を受け入れる地盤がまるっきり整っていないんだよ。曲がりなりにも可能性が出てくるまでに、最低でも2年はかかるだろうな。
(熊)すると民主党の衆議院300議席が任期いっぱい続くってことになりますね。
(隠)そう、それを前提にして考えるしかあるまい。民主党という政党が、ずっと今のままの形でいられるかどうかは別問題だがな。どっちにしても、これから2年かけて日本の新しい進路が決まって行くことになる。その総決算が2013年夏の衆・参同時選挙ということになるな。
(熊)へえ、そうですか。震災復興や原発の始末と平行して、政治の再編も進んで行くってことですね。
(隠)そうだよ。そこで大事なことは一つ。今度こそ国民の声で政治の方向を決めなくちゃいけない。飯田哲也さんが言ってたように、「右か左かではない、前か後ろか」ということだ。みんなにわかりやすい、新鮮なリーダーが立ってくれるといいね。

慶良間諸島座間味島

 19日は勝手に休日として、慶良間諸島の座間味島で過ごしました。ここが目的で行ったわけではありません。泊の港へ行ったら、9時発の船がそれだけだったからです。私としては、これでも計画的な方なので、以前に松山の港では、急かされるままに乗船して、出港してから「この船はどこへ行くんですか」と聞いたことがあります。 船は前島と渡嘉敷島の北側を通過して行きます。33ノットの快速船でした。前島については、「守備隊の駐屯を断って犠牲者を出さなかった島」として紹介したことがあります。座間味島にはボート型の水上特攻隊基地があったため、本島上陸の前にアメリカ軍に占領され、多くの犠牲者を出しました。



 沖縄は真夏日の連続です。絵はがきのような浜辺は阿真ビーチ。日曜日なのに、もったいないほど人影はまばらでした。



 村内のポスターで、学校で運動会をやっていることがわかり、行ってみました。小・中学が一体で、全校生徒数は60名だそうです。家族が参加する種目なども工夫して、午後までしっかりしたプログラムを組んでいました。最近は、生徒数は増加する傾向だそうです。ダイビングなど観光関連の新しい仕事もあって定着する人が多くなったとのことで、観客にも、幼い子供づれの家族が多く見られました。



 村営バスもあって均一300円。一周したあとは、もっぱら歩きました。展望台へ上る中腹には、村長・助役・収入役以下、59名の村民が集団自決した記念碑がありました。バスの運転手さんの母親も、手榴弾の不発で命拾いしたとのことで、大江健三郎の裁判が決着したことも、よく知っていました。





 古座間味ビーチの白い砂浜。ゴミの漂着物なども皆無で、無垢の自然とは、こういうものかと思いました。遠目には砂と見えても、よく見れば珊瑚の遺骸の集積なのでした。夕方の船の時間まで、日影の天然の岩棚に横たわって昼寝をしました。波の音とホトトギスの声と、時折の遠い観光客の声と吹き抜ける風と。至福の時間が流れて行きました。

基地で笑う沖縄

 18日の昼に沖縄着、高江洲先生の案内で普天間基地を見に行きました。基地は地位協定という日本の法律で守られています。沖縄国際大学のへり墜落地は正門近くの道路沿いで、自由に入れる小公園が作られていました。屈辱の史跡を忘れないためです。
 演芸集団FECの「お笑い米軍基地」は、年に1度の制作で今年は第7作になります。満員札止めの盛況でした。コント8本の第1部と、不発弾処理と放射能を引っかけた笑劇の2部構成。コントは、米軍の特権を茶化せば、何でもネタになります。「基地に逃げ込めば捕まらないサー」。観客は嬉しくてたまりません。劇の最後では「何たって、一番すごいのは人間エネルギーなんだよ」という訴えが出てきて同感したのですが、「難しい長いセリフをちゃんと言えたぞ」で大爆笑になってエンディングでした。
 衣装が破れたり小道具が壊れたりの失敗で大うけになるドタバタ性や、予定の時間が30分以上も伸びてしまう「ウチナンチュータイム」のいいかげんさも魅力になるわけで、観客を含めた雰囲気の全体が作品だと思いました。この劇は本土では上演されていないようですが、なんとかして「沖縄基準」のままで普及したいものです。この公演は6月25日沖縄市、7月2日名護市でも上演されます。ナマ中継カメラが入るといいのですが。


(追記・JAPANESU LAWと綴り字を違えています。単にいいかげんに作ったのか、あるいは「日本らしい国」の法律ですよと「基地を笑う」精神を発揮しているのでしょうか。)





 この夜は、高江洲先生と親しい教職の方々の案内で「宮里榮弘芸能館」へ行き、民謡や沖縄武術、獅子舞などを見せていただきました。宮里さんは伝統芸能伝承者として受賞し、海外との交流なども盛んにしている芸能一家です。
 中央で立派なのが高江洲先生。



私も衣装を借りて、とりあえず「琉球王」になりました。

(追記・NHKの番組「笑う沖縄」によると、「お笑い米軍基地」は、本土で上演されたこともあるそうです。)

18・19日、沖縄へ行ってきます

今日と明日、沖縄へ行ってきます。「お笑い米軍基地」の公演を見て、「読谷の風」の高江洲さんに会ってきます。

「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(4)

 第3章は「1965年論・鉄腕アトムとオッペンハイマー……自分と自分でないものが出会う」です。手塚治虫のロボット「アトム」は、初期作品では科学の原罪を問う視点がありましたが、ヒット作「鉄腕アトム」以降は人間を守る正しい力持ちとして描かれ、テーマは「ロボットと人間との共生」になりました。ロボットの基本法は、以下の2条でした。
1.ロボットは人間を幸せにするために生れてきたものである。
2.その目的にかなうかぎり、すべてのロボットは自由で平等な生活を送る権利を持つ。
 しかし安保闘争の1960年ごろから、ロボットは人間の奴隷ではないとして反抗するストーリーが登場します。ロボットは人を傷つけてはならないのに、人は勝手にロボットを破壊するという不満が生れるのです。アトムは最後まで人間を守って自己犠牲の精神を発揮するのですが、最後の作品では、人間を憎むロボットの前に身を挺して死ぬことになります。
 このアトムの運命と、オッペンハイマーに代表される核開発にかかわったユダヤ人の運命とを、著者は対比させています。原爆が実際に日本に投下されたとき、トルーマンが意気揚々としていたのに対して、早くもオッペンハイマーは罪の意識に苛まれて落ち込んでいました。戦後の彼は、核兵器を制限する運動の急先鋒となり、その結果として中央から退けられます。
 アメリカがソ連に対して優位を保つために水爆の開発に進もうとしたとき、オッペンハイマーは再び阻止のために立ち上がりました。しかし突然、機密をソ連に洩らした疑いをかけられて公職から追放されてしまいました。抗議した裁判の場で、オッペンハイマーは繰り返して「物理学者は罪を知った」と述べたと言われます。著者の解説によれば、それは兵器の製造が不道徳だというような浅い思想ではなく、ユダヤの宗教から発する言葉でした。
 ナチスに迫害され、地上から抹殺されそうになったユダヤ人が、人類を破滅させる力を持つ兵器を作ってしまった逆説の中に、著者は人類の「業」のようなものを感じているのかもしれません。ただし、オッペンハイマーが原子力の「平和利用」についてはどう考えていたのか、この本には書かれていませんでした。「原発」をテーマにした本なのですから、その点には不満が残ります。たぶん廃棄物の危険性は、よく承知していたと思うのですが。


「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(3)

 第2章は「1957年論・ウラン爺の伝説……科学と反科学の間で揺らぐ『信頼』」です。水爆実験により反米感情が高まるのを恐れたアメリカと日本の「先覚者」たちは、原子力の平和利用を持ち出して「毒をもって毒を制する」方策に転じました。そこにテレビの普及という新時代の技術がからみます。いずれもアメリカが先進国でした。
 ここで重要な役割を果たしたのが正力松太郎でした。読売新聞をあげて「原子力平和利用」の大キャンペーンを展開したのです。原子力は平和目的に利用されれば、資源の乏しい日本にとって願ってもない繁栄の原動力になるというものです。原爆で悲惨をなめたが、平和な原子力によって世界をリードするというのは、進歩的文化人にとっても魅力的でした。
 国内ではウラン鉱探しがブームとなり、鳥取、岡山県境の人形峠の採掘権を手に入れた東善吉という人物は、一夜にして羨望を集める身分となりました。当時はウランの放射線は健康によいと信じられており、この人はウラン鉱を入れた「ウラン風呂」に入り、「ウラン野菜」を常食したと言われます。アメリカでも同様で、ラジウム入りのキャンディーや美容クリームなどが人気商品として売られていたということです。
 しかし科学者の間では、もちろん放射線の健康障害は研究されていました。兵器として使う必要上からも必須の研究であり、アメリカではプルトニウムの毒性研究に、進んで人体実験に応じる勇敢な愛国者も少なくなかったとのことです。
 核兵器は簡単には使用されず消耗しないため、原子力産業としても、平和目的での継続的な使用は絶対に必要でした。国をあげての「平和な原子力」への期待は、科学を超えた宗教的な情熱へと過熱しつつあったのです。アメリカの従順な弟子となった日本でも同様でした。
 国産のウランは、自前のエネルギー源という観点からも重視されたのですが、その政策は長くは続きませんでした。アメリカから濃縮ウラン提供の申し出があり、日本の「原子力によるエネルギー自立」の構想は尻つぼみに終りました。採用する原子炉のタイプもアメリカ型に限定されることになり、ウラン爺の夢も破れたのです。最後は妻とともにガンで亡くなったということです。

「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(2)

 第1章は「1954年論・水爆映画としてのゴジラ……中曽根康弘と原子力の黎明期」です。アメリカの原爆独占は長続きせず、すぐに、より強力な水爆の開発が行われました。日本はすでに独立を回復し日米安保条約を結んでいました。水爆の実験により第五福竜丸が被災して死者を出したことは、日本国民の反核感情を高めましたが、その直前に日本の原子力研究は解禁され、関連予算も通過していました。法案の提出者は中曽根康弘でした。
 日本の原子力研究は、「公開」「自主」「民主」の3原則で行うことが合意されていました。公開であれば軍事利用は避けられると研究者たちは考えましたが、政治家の思惑は、世界の一流国になるための布石であり、認識には当初からズレがありました。
 そんな時代に作られた映画が「ゴジラ」であり、水爆実験による変異で古代生物が巨大化して復活したという設定でした。ゴジラは原爆の放射能に引かれて日本に向かうことになります。広島、長崎に続いて、日本は原子力による3度目の被害国になったというメッセージ性が、第1作には込められていました。
 その暴虐なゴジラを倒すために、日本の天才科学者は、酸素に作用して生物を分解してしまう強力な新兵器を開発します。しかし新兵器が人類の未来に災厄を及ぼすことを予感する科学者は、開発の成果を封印したまま、ただ1回使用の自爆攻撃によってゴジラを倒したのでした。
 この映画は娯楽作品として成功したためにアメリカにも輸出され、次々に続編も作られました。しかしメッセージ性は拭い去られて行きます。「キングコング対ゴジラ」では、日本のゴジラとアメリカのキングコングが対決する構図になるのですが、最後は海の中で相撃ちになるという、あいまいな結末でした。
 最終兵器を国際管理できない世界の冷戦構造の中では、核エネルギーと正面から向き合う志は、限りなく弛緩して行きます。日本国内では原水爆禁止の市民運動が組織化され、一定の力を持つようになるのですが、日本における自主的な原子力研究は、アメリカの傘の下に呑み込まれる道を進み始めていました。 

ブログ連歌(187)

3719 みちのくに われらが詠み人 なに語る
3720  冥界の王は 伏して慄く (うたりすけ)
3721 帰りきて 玩具の町か 東京は
3722  がれきの山と 化する日も見ゆ (建世)
3723 全くもう やけのやんぱち 菅頼み (うたのすけ)
3724  原発止めた 置き土産ひとつ (建世)
3725 土産にも 何かといちゃもん 非常識 (うたのすけ)
3726  欲しき権益 人情は要らぬ (みどり)
3727 菅首相 民は神ぞと 臍を決め
3728  怖いものなし 歴史を前に (ハムハム)
3729 まだ晴れず 大義ありしや 菅降ろし
3730  脱原発は 禁句なりしか (建世)
3731 志村氏の ブログを見てと 夫に言う
3732  11日は 新宿の日と (花てぼ)
3733 無重力 惰力運転 政治村 (建世)
3734  それじゃ困るの 困るのことよ (うたのすけ)
3735 「死の灰」は チャンスとばかり 永久に降る (ハムハム)
3736  まだ塞がらぬ 尻ぬけの穴 (建世) 
3737 天災の ように対策 遅々として 
3738  原発噴煙 火山に似たり (建世)
3739 土砂崩れ 予測あれども 無対策 (みどり)
3740  自然の猛威 こと欠かぬ国 (建世)

「私たちはこうして『原発大国』を選んだ」を読む(1)

 武田徹の「増補版『核』論」で、中公新書ラクレ387番です。著者の「あとがき」によると、ライフワーク3部作の最後に当る「苦労したわりに出来のよくない作品」ということです。年代順に9本の論考を連ねた複雑な構成になっており、書評の達人である小飼弾氏も「『こういう本』だと一言で説明するのが難しいのである」と書いていました。私はそれで興味を持ち、読んでみました。
 たしかに一言では説明できません。しかしこれは原発問題の全体像をつかむには絶好の本でした。私は原発大国を選んだ覚えはありません。にもかかわらず、どうして「私たちは選んだ」ことになってしまったのかがわかります。全9章に「まえがき」「あとがき」を加え、11回の予定で紹介してみましょう。
 まず最初に「原子力的日光」という言葉が出てきます。話は日本国憲法制定の事情にさかのぼります。マッカーサーがまとめた新憲法の骨子を持参したホイットニー准将は、日本側に「討議の前に15分だけ読む時間を与える」と言い、ベランダに出ました。そのとき米軍の爆撃機が超低空で上空を通過しました。部屋に戻った准将は「私は外で『原子力的日光』を浴びていましたよ」(We've just been basking in the warmth of the atomic sunshine.)と言ったというのです。
 原爆を手にしたアメリカは、まさに太陽を手に入れた絶対優位で日本に臨んだのです。アメリカの目的は、日本を天皇支配から脱した民主主義の国に改造し、二度と戦争を起こさないよう非武装にすることでした。そこでは原爆さえも民主主義を普及する力として利用されたのです。「原子力的日光」には、アメリカの太陽に照らされて暮らす日本国民という含意までが含まれていたのではないか、著者はそのような文脈で旧版の「はじめにーー1946年のひなたぼっこ」を書いています。
 このようにして制定された憲法は、日本にとって「押しつけられた」ものなのか「進んで受け入れた」ものなのか、その議論は原発問題と無関係ではありません。法律的には、戦後に実施された総選挙による衆議院が可決し、貴族院も枢密院も通過しているのですから、日本国憲法が合法的に制定されたことは明らかです。以下は私の感想ですが、日本国憲法を受け入れた段階で、日本が「アメリカの太陽」である原発を受け入れることを運命づけられたとするならば、私もまた無意識に「原発大国」を選んでいたのかもしれません。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
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昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
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