志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2011年09月

「フクシマ・ゴーストタウン」を読む(見る)

 「フクシマ・ゴーストタウン」(根津進司・社会批評社・単行本1500円)を読みました。昨日から書店販売の最新刊です。300枚の写真を使ったフォト・レポートですから「見ました」と言うべきかもしれませんが、そのメッセージは強烈です。
 放射能対策で警戒区域とされている20キロ圏は、機動隊により厳重に封鎖されてメディアにも立ち入り禁止にされていますが、著者は「何か都合の悪いものを隠しているのではないか」と思ったそうです。その警戒網をかいくぐって、放射線量も綿密に測定しながら、隠された地域の現状を写真とともに報告しているのがこの本です。
 常磐線の駅ホームには、上下線に列車が止まり、発車ベルを待っているかのようです。駅前には通勤や通学の自転車が整然と並んでいます。しかし、そこは半年前の「あの日」のまま止まっているのです。町には人影はもちろん、小動物や昆虫さえもいなかったような気がすると著者は書いています。生き物の気配がない町は、言いようのない恐怖の世界だったということです。
 町の小学校は、都内では見たこともないような先進的デザインで、豪華ホテルのような造りです。その立派さが、人っ子ひとりいない今となって、そのアンバランスさを際立たせています。これらの風景は、遺跡のような柔らかさを持ち合わせてはいません。人の暮らす町が、ある日突然「即死」したままの状態なのです。もちろん地震や津波の被害跡も多いのですが、それらの傷も、手当されることなく白日のもとにさらされています。
 区域分けの不合理さも明らかにされています。放射線量の低い広範な場所がある一方で、道路を封鎖している遠来の機動隊員は、現場の線量も知らされないまま、高レベル中に一日中立っていたりするのでした。
 文章として多くを語ってはいませんが、証拠写真は有無を言わせません。原発は人の暮らしと共存できないということを、これ以上雄弁に語ってくれる本はないでしょう。厳重に封鎖して隠したかったものの本体は、その事実そのものだったに違いありません。
 町は死んでしまった。原発は、取り返しのつかないことをした。まず、その事実を直視することなしには、未来は始まらないのです。

母系制のすすめ(27)

 二十、結婚、離婚、再婚                    
 年ごろになって好意を感じる異性ができて、その相手と長く生活を共にしたいと思うようになり、いっしょに生活しているうちに子供が生まれて家族となる。これが結婚の素朴な原形でしょう。当然のことながら、結婚の歴史は人類の歴史と同じだけの長さをもっています。
 人間の子供は生まれてから何年間も自立して生きる能力がなく、あらゆる動物の中でいちばん成長に時間のかかる生きものですから、その期間は誰かおとなが面倒を見てやらなければなりません。その養育のおもな担当者が母親になることは自然の流れです。さらに母親の妊娠期間が一年間にも近いほど長いことから、人間の文化がまだ高度化しない時代には、子供の父親が特定しにくいこともあって、子供の親といえば、まず母親だけを指していたようです。今でも未開民族の中には、母親の男の兄弟つまり生まれた子供のおじさんたちが、父親に似た役割を果たしている例が見られるということです。そして日本でも世界の他の地域でも、歴史時代以前に母系制の時代が存在していたことは、ほぼ確実と言われています。                                 
 人間の歴史が進むにつれて、どうして母系制から父系制への変化が起きたのか、簡単に言えば、それは文化の担い手がおもに男だったから、要するに男はひまだったから、というのが正解に近いと思います。
 母系制の時代から父系制の時代へ、結婚の意味も形も、その間にずいぶん変化したに違いありません。日本では上代から中世まで、女性の地位が比較的に高かったと言われています。当時の社会の様子をうかがい知る手がかりの一つに文学作品がありますが、たとえば源氏物語を性風俗の史料として読んでみると、いろいろ面白ことがわかります。平安時代は、女性史の上では、上代の母系制度の余韻が風俗習慣の中にまだ色濃く残っていた時代とされているのですが、豪華絢爛の王朝絵巻がえがかれている中で、豪華な結婚式は一度も登場しません。物語の内容を読んでみると、女たちは親の家に住みついたままで、そこへ男が通ってくる、いわゆる招婿婚の時代です。当然、女性の地位は高かったし、ことに母親の権威は強かった筈ですが、そこには大げさな結婚式をあげる習慣がないのです。


「なぜいま人類史か」を読む

 「なぜいま人類史か」(渡辺京二・洋泉社新書)を読みました。講義録の形式なので、書いてあることはわかりやすいのですが、内容を理解するのは、かなり難しい本でした。内容を目次で紹介すると
気覆爾い淇洋犹砲
 1天地生存と社会生存
 2共同性と戦後社会
 3世界に意味はあるか
橋ζ餌力世硫歛
軍姐饋佑見た幕末維新
弧声0歐靴鬚瓩阿觜融
という構成です。なかなか魅力的に思えたのですが、著者の思考を体系として理解できた自信がありません。挿話的に語られていた、いくつかの話題が、むしろ記憶に残っています。
 冒頭の「天地生存」とは、たとえば山の上で一人で自然と接したときに感じる、自分が全宇宙と対面しているという実感です。しかしそれは一瞬のものであって、山を下りた人間は、残余のすべての時間を、社会的存在として生きるしかないのです。
 その社会的生き方が、人類史によって変ります。封建時代の農民は、領主が誰であろうと、与えられた土地で毎年同じことをしていればよかった。世界中どこでも、近代以前は、人間は代々同じことをしていればよかったのです。それは共同体の全体としても同じだった。
 生産技術の新しい開発によって、人間の共同体は変りました。生産関係が社会を変えると見抜いたマルクスは正しかったのです。しかしその革命理論は、ほとんど的中しませんでした。一方、資本主義は新しい社会関係の構築に成功しました。しかしその本質は、開発を競争して拡大する自転車操業です。安定した場所に止まっていることができません。
 だからどうしたらいいかは、著者は語っていません。人類はそのようにしてここまで来ている。ただ、わかっているのは、人類史から見たら、文明開化以後は、ほんの短い時間だということです。著者の関心は、やはり、ほんの少し前まであった「逝きし世の面影」の研究に向かっているようです。

母系制のすすめ(28)

(結婚、離婚、再婚)
 年ごろの娘のところへ男が言い寄ってくることは、今も昔もかわりませんが、娘が親の家にずっといるとなれば、男を迎えることは生涯の大事件ではなくなります。もちろん、どんな男と結ばれて、誰の子供を生むかということは大切でない筈はありませんから、男の誠意を見とどけるために、簡単に色よい返事をしないで手紙のやりとりなどをくりかえすことになるのですが、要するに男が通ってくる間が結婚している状態で、通ってこなくなればそれは別れたということであるに過ぎません。現代であれば、生まれた子供の養育費をどうしてくれると大問題になるところですが、もともと子供は母親の家で育てるたてまえになっているのですから何の問題もありません。父親が誰であろうと、その家に生まれた子供にまちがいはないからです。                       
 子供を生んだ若い母親のそばには、その母親もいっしょに生活しているのがふつうですから、若い女にとって、実の母の保護のもとに子供を生み育てられるということは、非常に安心できる環境だったに違いありません。育児や生活についてのさまざまな知識も、確実に母から娘へと伝わった筈です。また、母系制のもとでは、女が子供を生むときに、自分の責任で生むという意識は、江戸時代などよりも強かったのではないかという気がします。男の来訪を拒むことができたのですから、意志に反した妊娠も避けることができた筈です。母親にとっても子供にとっても、かなり幸福な、母性の尊重された時代と言えるのではないでしょうか。                              
 このあと、時代が下がって鎌倉、室町、戦国時代と武士の力が強くなるに従って社会は男中心となり、父系制が確立します。そこでは男の家の相続が大問題となるので、嫁とりが大切な儀式となってきました。また、家同士の力関係を安定させるために、政略結婚で女性をやりとりすることも利用されるようになったので、ここでも結婚の儀式が大事にされました。それと同時に、妻は世継ぎの男の子を生む重要な役割を負わされるので、「よその男」の子供を生んだりしたらたいへんですから、女だけに適用される非常にきびしい貞操を要求されることになりました。                       
 この父系制は、江戸時代に完成した形として長くつづいたため、道徳、習慣の上に強力な体系をつくりあげて現在に至っているのです。江戸時代から一般に定着した豪華な結婚式が、女性の地位の高さの象徴ではなくて、その正反対だったことは、記憶しておく必要があると思います。


外務省はアメリカの代表部なのか

(熊さん)ご隠居、朝からなんか怒った顔してますね、どうしました。
(ご隠居)日本の外務省ってのはアメリカの代表部なのかね。2年前に「オバマ大統領は広島へ行かない方がいい」って、当時の藪中事務次官が進言してたっていうんだ。ウィキリークスという内部告発サイトが公電を手に入れてバラしたのでわかった。
(熊)2年前と言えば、オバマが「核兵器廃絶」の演説をしてノーベル平和賞をもらって、日本でも広島へ来てもらおうって盛り上がってた時期ですよね。
(隠)そうだよ。そのムードを心配して、日本の反核運動を勢いづけると日米関係にマイナスになるから、時期尚早だと伝えたらしい。外務省は例によって「広島訪問を正式に検討したこと自体がない」などと、とぼけているがな。
(熊)日米関係にマイナスどころか、あそこでオバマが広島に来たら、日本でのオバマ人気はすごく高まったでしょうね。外務省の感覚は、国民とは、えらく違うんだね。
(隠)そうだ、それが本当の日米友好だと思うし、広島へ行ったら、オバマの反核への思いも、もっと本物になったことだろう。ところが外務省の感覚では、それではアメリカの国益にならないと思ったんだな。事務次官といえば、大臣以上の実力者だから、ムードに流されないように「ご注進」に及んだってことだろう。この薮中という人は、次の駐米大使に予定されているんだそうだ。
(熊)そういう人が日本を代表する大使でアメリカへ行くんですか。大丈夫ですかね。
(隠)日本の官僚は、タテ割りで一生その役所で暮らすから、出世するほどその場の空気に染まってしまうと言われている。外務省にとっては、アメリカはずっと絶対の存在だったから、発想がすべてアメリカ本位になってしまうらしい。鳩山さんが辺野古基地の問題で失敗したのも、外務官僚が全然協力しなかったからだと言われているんだ。
(熊)政治主導で公務員制度を変えなくちゃいけないっていうのは、こんなところにも関係してるんですね。
(隠)そうだよ。「国家の主権は国民にあり」だ。どんなにでかい山でも、動かさなくちゃ国はよくならないんだ。

母系制のすすめ(29)

(結婚、離婚、再婚)
 母系制のもとでの結婚の実際がどのようなものであったのか、たとえば夫婦の年齢差はどうだったのか、資料がないのでよくわかりませんが、父系制になってから、妻の方が三歳くらい年下だと良縁とみなされるようになったわけは、よくわかります。家の中でも男性主導を貫徹するのに、都合がよかったからです。そして当然ながら、年齢差というものは、人が生きているかぎりは絶対に変わらないものです。              
 もし夫婦の間に抑圧と服従の関係ではない対等で明朗な人間関係を築くのであれば、年齢の差は、無視できない要素になると思います。初めての結婚をする若い年代で妻の方が三歳も年下であれば、人生経験その他で夫に及ばない面がでてくるのはやむをえないでしょう。さらに社会全体に夫が上に立つのを当然とする雰囲気があるのですから、夫と妻の精神的な力関係は、大きく夫の方に傾いてしまいます。そして、力関係のアンバランスほど、いきいきとした人間関係を妨げるものはありません。
 現在の日本で夫婦が対等に話し合える結婚生活をしようと思ったら、妻の方が三歳くらい年上で、ちょうどバランスがとれるような気がします。年齢だけが絶対ではないのですが、要は人間同士として、どちらが指導者でもなく協力し合える夫婦であることが望ましいと思います。そして、それぞれの夫婦が対等の人間関係を結ぶことが、社会全体の男女平等を実現するための基礎になって行くと思うのです。               
 ところで、いいと思える相手をみつけて結婚したとしても、それで一生を通せるかというと、なかなかそうも行かない場合もあるようです。この問題の参考として、芸能人の女性の結婚を見て行くと、いろいろ面白いことに気づきます。芸能人の結婚といえば、はでな結婚式をあげたかと思ったらすぐに別れた、というような話題ばかりが目につくような気がしますが、事実、一度の結婚でおさまる夫婦はだいたい半分ぐらいではないでしょうか。日本の一般の離婚率も、すでに八組に一組を越えてはいますが、それにくらべても、格段に高い離婚率であることはたしかです。


核兵器事故も多発していた

 「逝きし世の面影」さんからいただいたトラックバック記事「後は野となれ山となれ」を読んで、核兵器関連の事故が、過去に多数発生していたことを知らされて驚いた。出典は必ずしもすべて明らかではないのだが、時系列に詳細な一覧表を示しており、沖縄沖での核爆弾水没事故など、これまで問題にされてきた事件も含んでいる。
 考えてみれば、安全第一で運転している商業用原子力(原発)でさえ事故が起きるのだから、実用第一で運用される軍事用原子力で事故が起きるのは当然なのだろう。米ソ冷戦がピークだった1960年代には、核爆弾を積んだアメリカの爆撃機が、常時12機以上もソ連国境沿いに飛行して核戦争の勃発に備えていたのだ。毎年複数回の事故が起きるのは不思議ではない。
 この資料によると、1950年から1986年までの37年間に、61件の深刻な事故があり、内33件は航空機関連だった。核を積んだまま墜落した爆撃機もあるし、核爆弾だけを投棄した例もある。回収できなかった爆弾も少なからずあり、少数だが核物質の拡散を招いた例もある。
 それに次いで多いのが原子力潜水艦の事故で、ソ連の潜水艦には、核弾頭、原子炉ともに沈没して回収されていないものがある。意外なほど多いのがアメリカとソ連の潜水艦が衝突した事故で、5件がリストに載っていた。しかし両国ともに厳重な軍事機密なので、詳細はわからないことが多いという。
 1992年以降はアメリカが海外の核を撤去する政策に転じたため、軍事的核事故は報告されていないということだが、それで安心というわけには行かないだろう。海底に沈んだ核爆弾や原子炉は、いつまでそのままの形でいられるのか。中身のプルトニウムが、とんでもない後世に溶け出して海水を汚染したりしないだろうか。
 劣化ウラン弾は依然として使われているし、地下の核実験もある。なによりも過去に無数に繰り返された核爆発実験の放射性物質は、今も地球を覆っているのだ。脱原発はすでに現代の常識だと思うが、軍事用の核からも脱却しなければ人類の未来は安全にならない。これはもう軍事問題ではなくて、人類生存の問題になる。

母系制のすすめ(30)

(結婚、離婚、再婚)
 そこで、芸能人の女性とふつうの主婦とをくらべてみると、特に芸能人だけが不道徳で無責任な人たちとは信じられません。むしろ一つの芸をものにしているのですから、ふつうの人よりもすぐれた知力と強い責任感をもっていると考えた方が自然でしょう。それではどこが決定的に違っているかといえば、芸能人の女性は、まず、いつでも自分の働きで自立できる生活力をもっています。次に、仕事に関連する広い行動範囲の中で、魅力的な多くの男性と接触する機会に恵まれています。さらに、家庭だけが生きがいではなく、仕事を通して自分を表現するという、目標をもった人生の充実感を知っています。一人になったら生活できないから我慢しよう、夫以外の男性を知らないのだから仕方がない、自分の家の中のことだけ考えて生きて行こう、というような消極的な結婚生活では満足できない筈です。つまり、一般よりもずっと前向きな形で、人生のパートナーとしての夫を求めている、と言ってさしつかえないと思います。
 このような条件を考えてみると、なにもこれは芸能人に限ったことではなく、自立して生活できる職業をもっている、現代のすべての女性に当てはまることです。その結果が、離婚率五十パーセントになってくるとしたら、これはどう考えたらいいのでしょうか。結論から言えば、この傾向に後もどりはないと思います。女が自立した人間として生きようとし、その人生計画の中でパートナーを選んで行くとしたら、最初の結婚で一生つきあえる相手に当たる確率は、せいぜい二分の一ぐらいなものではないでしょうか。一度できまりなら運がいいし、だめだったら失敗を教訓にして、二度目か三度目でうまくやればいいと、人生のほかの経験と同じように、もっと気楽に考えた方がいいような気がします。これは女性ばかりでなく、男性から見ても同じことでしょう。
 ただし、夫婦の間に子供が生まれていると、その育て方にまつわる問題がでてきます。夫婦の権利は対等と考えれば、子供に対する権利も対等ということになるのでしょうが、この問題にまで機械的に対等の考え方を適用するのは、ちょっと違うのではないかという気がします。男性社会の現代でさえ、離婚の訴訟で裁判所が判定する親権者は母親の方が多くなっているのです。養育費の負担の問題と社会保障の充実を条件とした上で、優先的な親権者を母親とし、話し合いによって父親が親権者となることも妨げない、という程度がいいのではないでしょうか。


安全神話は天皇神話と似ていた

 昨夜のETV特集「原発事故への道程・後編・そして安全は神話になった」で、原子力村の当時の雰囲気を証言している人がいた。安全性の問題は過去の話となり、「安全」という言葉を使うことさえ憚られる雰囲気だったという。折しも最高裁で原発訴訟の判断が出て、住民敗訴が確定した。安全性の問題は高度の科学的判断を要するものであり、住民の訴訟にはなじまないというものだった。
 この状況でことさら「安全性」を論じれば寝た子を起こすことになる。「安全」を口にするだけで文字通りに「村八分」になって相手にされなくなると思ったというのだ。科学・技術者の集団であっても、不合理な「空気」に支配されたら自由な発想を封じられるのかと思ったら、似たような場面を思い出した。
 原発の安全神話は、戦時中の日本不敗神話と似ていたのではないだろうか。集団疎開した沼津・獅子浜の本能寺は日蓮宗の寺なのだが、住職は朝の講話で「日本には天皇陛下がおいでになる。天皇のおられる神国日本は必ず勝つ。」と情熱を込めて語っていた。それを聞いた国民学校5年生の私たちは、ああそうかと少しは安心したものだった。
 戦争は進行中なのだから、すべてはそれを前提にした発想になる。「勝つためにどうするか」だけを教える教育になっていたのだと思う。子供は勉強することで戦っているという建前だった。戦争はどのようにして終るのか、天皇陛下は本当にそんなに偉いのかといった疑問は、子供の間でさえ「非国民」として糾弾されたに違いない。
 さて、天皇神話は敗戦によって崩れ、原発の安全神話は福島の原発事故によって崩れた。崩れてみると、原発は危険だと思っていた人たちの話が前面に出てきた。天皇制打倒を叫ぶ共産党も、敗戦を境にして姿を現し、それは、こんな人たちもいたのかという新鮮な驚きだった。惜しむらくは、悲惨な敗戦や大事故に至る前に、そんな話を聞けたらよかった。
 言論の自由があれば「神話」は生れないとは言えない。原発の安全神話は、言論の自由を定めた新憲法の下でも生れたのだ。今の日本には、まだいろいろな「神話」があるのではないか。悲惨な事態に陥る前に、神話の呪縛から逃れる方法を考えたい。手始めに「経済のグローバル化」という神話はどうだろう。

母系制のすすめ(31)

 二十一、女性と仕事と家庭                    
 ある有能な女性が冗談めかして、「私もそろそろお嫁さんがほしいな」と言うのを聞いたことがあります。多忙な仕事をこなしながら、そろそろ三十歳に近づいている女性でした。彼女が言いたかったことはよくわかります。
 仕事に疲れて夜おそく家に帰るときなど、食事や風呂の支度をととのえて自分を待っていてくれる連れあいがいたら、どれほど助かるかわかりません。心の疲れも体の疲れもじゅうぶんに癒して、また仕事に活躍する活力をとりもどすことができるでしょう。働き盛りの年齢になったら「お嫁さんを貰っ」て、仕事に全力をつくせるように生活の拠点を持ちなさいというのは、従来、男たちが当然のこととして周囲からすすめられた結婚の形態でした。この場合、自分の家庭を持つ目的は、日常生活のこまごまとしたことに自分の労力も神経も使わなくて済むようになるためでした。 
 ところが働き盛りの女性が同じことをしようとしても、現在では非常に難しいことになります。だいたい妻のために家庭を守って、妻の働きを蔭から助けてくれるような男性をみつけることが、至難のわざでしょう。私個人としては、有能な女性のために生涯を捧げてつくす「世話女房」ならぬ「世話夫」型の男がいても少しも不都合はないと思うのですが、どんなものでしょうか。女性の側にも、夫が「専業主夫」で家にばかりいたら、頼りないし気味が悪いというような意識が、やはりありはしないでしょうか。       
 ついでながら、専業主婦が専門の職業になりうるかという議論も、男女を逆さまにしてみるとわかりやすいような気がします。一人前の男が炊事や生活上のこまごまとした用事に専念していても、おかしくない状況といえば、たとえば十人くらいが乗り組んでいる遠洋漁業の船上生活などが考えられます。また、政治家や実業家の秘書で、一人の大事な人のために、食事の心配から旅の手配、服装への配慮まで、こまかい気くばりをする有能な男性もいます。しかし、二人だけのふつうの核家族で、妻が働きに出たあと、夫の方がただ家を守って妻の帰りだけを待っているというのは、もったいないし、やはりちょっと異様な感じがします。それと同じように、ある程度人数の多い家族ならともかく、核家族の妻が生涯ずっと専業主婦のままでは、なにか人間の生き方として安易にすぎるような気がしますがどうでしょうか。


パレスチナの国連加盟を支持したい

 パレスチナ自治政府が、国連に加盟申請書を提出し、アッバス議長の国連総会演説では、大多数の加盟国代表が立ち上がって熱烈な拍手を送ったという。アメリカの代表は苦りきった顔をし、日本の代表は着席のまま拍手だけはしたとのことだ。
 この加盟申請は、手順として安全保障理事会で審議されるから、そこでアメリカが拒否権を発動するので、実現の可能性はないと言われている。しかしアメリカがパレスチナ問題の調停者としての立場を弱めることは確実だろう。
 パレスチナは今回直ちに加盟が実現しなくても、次善の策として、オブザーバー加盟の資格を「組織」から「国家」へと格上げする方法も考えているとのことだ。これは国連総会で2分の1以上の賛成が得られればよく、アメリカは拒否権を使うことができない。これが実現するとパレスチナはバチカンと並んで国連のオブザーバー加盟国となり、表決権はないが国連で国として発言できることになる。
 もともとイスラエルは国連の承認により誕生した国家なのだから、独立後の行動を指導監督する役目は、国連が担うのが本筋というものだ。アメリカはイスラエルのスポンサー兼後見人なのだから、公平な調停者になる資格を欠いている。せいぜい国連が決めた約束を守らせる「なだめ役」を期待されるのだが、それさえも果たしてはいない。
 パレスチナ地図の無残な現状を見れば、国際正義がどちら側にあるかは、はっきりしている。ヨルダン川西岸地区の中にも、無数の「入植地」をガン細胞のように増殖させているのだ。これを放置し、凍結さえもせずに既得権を前提とした交渉を進めるのは間違っている。アメリカが退場しなければ、永続的な平和は得られないだろう。
 これからますます激しくなるのは、国連とイスラエル・アメリカとの対立だろう。イスラエルは国連敵視政策に出てくる可能性もあるが、そのときアメリカは国際的に孤立してもイスラエルの側に立つだろうか。国連とアメリカとが世界の覇権をかけて争うような最悪の未来は見たくないものだ。アメリカの良心は目ざめるだろうか。

母系制のすすめ(32)

(女性と仕事と家庭)
 それはともかく、今の日本の女性の大半は、仕事の継続を楽にするための結婚を、ほとんど期待できないのが実情ではないかと思います。そうなる原因の最大のものは、やはり結婚したら家庭生活の上で、夫が妻に与えるサービスよりも、妻が夫に与えるサービスの方が大きいということ、つまり「家事は女の仕事」とする役割意識が、どうしようもなく強い力で、現代の夫婦の生活をも支配しているということです。「働く人としての私を支えてほしい」という期待を、夫から妻へは当然のことのように求められるのに、妻から夫へは、なかなか要求できないのです。                       
 こうなると、仕事を大事にする女性は、ますます結婚をしにくくなります。理解ある男性とめぐり会って、結婚しても仕事をつづけることを彼が認めてくれたとしても、妻としての役割という新しい仕事が、どうしても増えてしまうからです。精神的に頼れる人が身近にいるという安心感は貴重なものかもしれませんが、結婚したから安心して仕事に集中できる、深夜の残業や長期の出張があっても家庭があるから支えになる、というわけには行かないで、おそらくその逆になるでしょう。さらにまた、結婚すればいずれは妊娠、出産、育児ということも考えておかなければなりません。これだけでも結婚をためらう理由は充分なのに、夫は妻よりも少し年上で、社会的にも妻よりも高い地位と収入をもっているのが望ましい、という伝統的な条件がついたら、もう絶望的に難しくなります。ひとかどの仕事をするほどの女性なら、地位も年齢もかなり高いところまで登っている筈で、それに見合う地位と年齢の男性は、ほとんどみんな、とっくに妻子もちになっているに違いないからです。
 このように社会的に活躍する女性の結婚難は、従来型の結婚にこだわるかぎり、今後もきびしくなる一方でしょう。しかし、活動的で有能な女性の多くが結婚の機会から遠ざかり、家庭をもたず子供もつくらずに一生を終わってしまうとしたら、その人のために惜しいという以上に、社会的にも人類の将来のためにも、憂慮すべきことだと思います。結婚して子供を生むことを、すべての女性に押しつけるつもりはないのですが、仕事上の才能を発揮しようとすれば子供を持てなくなる、たとえ欲しくても、結果として持てないというのでは、人間としての女性の本来自然の姿が、やはりどこかで阻害されていると考えざるをえません。自分の持っている能力を、のびのびと発揮する機会を与えられるのが、人間としての女性の基本的な権利であるならば、人生の適当な時期に愛する人と生活を共にし、子供をつくることは、もっとも基本的な権利の一つであろうからです。


ブログ連歌(207)

4119 台風が 放射能をば 押し流し (霞)
4120  秋晴れ日本 復活の日よ (建世)
4121 台風で 増税の理由 ひとつ増え (霞)
4122  治水は結局 民の治世で (ハムハム)
4123 紀の国へ 旅取り止めと 姉夫婦 (みどり)
4124  天災止むなし よき日を待たむ (建世)
4125 NHK 進取とまでは 言わないが
4126  せめて時代に 遅れるなかれ (建世)
4127 デモ集会 ニュース皆無で 唖然とし (うたのすけ)
4128  信用できるが ネットだけとは (建世)
4129 瓦版 熊さん八さん 生き生きと (ハムハム)
4130  嘘と誠を 賢く見分け (みどり)
4131 縁台の 将棋のように 生死論 (建世)
4132  夢を見ずして 寝入る境地と (うたのすけ)
4133 脱原発 訴えて立つ 西口に
4134  吹き抜ける風 肌寒となる (建世)
4135 冷まじき 風のみちのく 忘れるな (玉宗)
4136  何処まで続く 不幸の連鎖 (みどり)
4137 「悪い米 作っちまった」と 嘆くという
4138  農家に罪は あらざるものを (建世)
4139 汚染米 賠償まつ身 畑田荒れ
4140  悔し涙は 人には見せず (みどり)
4140B  心の底から 怒って欲しい (うたのすけ)

LED電球の末路

 当ブログで先日紹介したLED電球の後日談です。昨日の夜から、ついに3個目がダウンしました。最初のものは1週間で切れ、島忠中野店で無償交換してもらった2個目は2日で切れ、渋々交換の3個目はやや長命でしたが、推定使用時間300時間ほどでだめになりました。中国製ですが、寿命4万時間と表示してあり、価格は2980円でした。
 よく見ると、今回は中の発光体が蛍火のように弱く光っています。もちろん公称90ルーメンの明るさとは比べようもなく、従来の10Wの白熱電球にもどしました。1個目はガラスの下部に焦げ跡がつき、2個目は見た目には何の変化もなく、切れ方は3個3様でした。
 ナツメ球と呼ばれる常夜灯の12型ソケットに合う、光量の大きいLED電球は、まだ開発の途上なのでしょう。この電球は「シャンデリア用」としてありましたが、クリスマスに使うような豆電球を並べたコードにでもつけたら、4万時間まで光ったのでしょうか。わが家にはそんな需要はないし、ちょっと信じられない気がします。
 これ以外の、26型ソケット対応のLED電球は、いずれも支障なく使えており、その中には中国製のものもあります。小型電球のLED化は、まだ難しいのでしょうか。10Wの電球を2WのLED電球に変えても、節約できるのは8Wだけです。1キロ25円の電気料金で2980円を取り返すのは、1日に10時間点灯として計算したら4年以上かかります。それでも電球が本当に10年間使えれば、交換する価値はあったのですが。



母系制のすすめ(33)

(女性と仕事と家庭)
 この問題の解決を考える切り口は、三つあると思います。第一は、結婚相手を選ぶ範囲を、思い切って広くとることです。共同生活が楽しくできて、誠実に協力してくれる相手でさえあれば、男性の方が自分より年下でも、社会的な地位が低くても問わないことにする。事情があって法律上の結婚ができない相手でもいいことにする。常時いっしょでなくても、定期的に会える「通い婚」、あるいは一定期間をかぎった「契約婚」でもよいことにする、などです。女性の経済力と人生設計がしっかりしていれば、物心ともに頼れる相手でなくてもよいことになり、失敗したときの打撃も小さくて済みます。もっと広い範囲からパートナーを選ぶことができるということです。
 第二は、子育ては人生のある期間の問題であり、仕事は人の生涯を通しての問題だということ、つまり時間的な使いわけをすることです。子供の養育は、実際に手がけているときは、永久につづきでもするような気がするものですが、落ち着いて考えてみると、本当に手がかかるのは三年から五年くらいのもので、残りの人生から見るとそれほど長い間ではありません。それに子育ては、しばらくかかりきりになるのも悪くないと思えるほど、充実した面白い経験になります。たとえ仕事のやりくりにかなりの犠牲をはらったとしても、損にはならないと考えることもできるでしょう。                
 第三は、結婚生活の形態を女性の負担の重くないものに変え、子育てへの社会的なバックアップも充実させて、仕事と子育ての同時進行を可能にする方向です。結婚生活を女性にとって負担の重くないものにするためには、家事分担の思想を相手にわかってもらう必要があります。その要点は、自分の生活を自分で維持することは、男女を問わず人間のもつべき基本的な能力だということです。家事について関心をもつことが家族全員の常識になったとき、はじめて家事は合理的に分担され、日常茶飯のこととして意識の隅に整理することができる筈です。                             
 職業生活と家庭生活を無理なく両立させるためには、職場そのものが全体にもっとマイルドなものになる必要があります。労働時間はもっと短く、そして融通のきくものになるべきでしょう。これは女性だけでなく、当然、男性についても言えることです。そして育児を助ける制度や施設が充実して、必要に応じていろいろな形で利用できることが、ぜひとも必要です。こうした問題では、政治の力を借りなければなりません。女性の意見を、政治に反映させる方法が問題になってきます。


死もまた「新鮮な、手垢のつかない今」

 表題の言葉は、市堀玉宗さんのブログ「再生への旅」から頂きました。能登の禅寺「興禅寺」の住職さんで、俳人でもあるお坊さんです。人生を達観した言葉ですが、この日の題は「代り映えのしないお坊さんの暮らしぶり、その実態は!」で、自己の日常を見つめています。「さすがにお坊さんの心だ」と感心すれば、「とんでもない」と照れるに違いないのです。だから私は、この人の言は信用できると思っています。
 座禅して半眼でいる長い時間も、一刻ごとが一期一会の、かけがえのない「今」である筈です。その「今」が、死ぬときにも、かけがえのない新鮮な姿で来るというのが、とても気に入りました。私の恩師ブライス師は「今と此処」(Now and Here)がすべてだと教えてくれましたが、「死」が「今」としてやってくるときには、何が起こるのでしょうか。
 「今」を100%そのままで受け入れるように、「死」も100%そのままで受け入れればいい、それがとても楽しそうな未来に思えました。島崎敏樹氏の「生きるとは何か」(岩波新書・絶版)も思い出しました。人はその最後の一瞬まで、光をめざして前へ進む存在であると説いていました。しかし少し考えたら、死を楽しみにするというのも、禅では邪道なのでした。手垢のつかない今というのは、楽しみに待って得られるものではない筈です。
 かけがえのない「今」として、時間は休みなく過ぎて行きます。その中のどこかに「死」が入っていたら、「今」はそこでフリーズするのでしょうか。おそらくそれも違うでしょう。時は同じように流れて行く、とくに死なずに残った人にとっては。本人にとっては、死んだ「今」よりも先はない。それだけでいい、と言うよりも、それよりほかに「なりようがない」ものとして本人の死がある。それで終りです。
 要するにわかったことはそれだけなのですが、この解放感は何でしょうか。手垢のつかない新鮮な「今」としての「死」に出会える。それが、わくわくするような楽しみに思えて仕方がないのは、なぜでしょう。人生に疲れたというのとも違います。むしろその反対に、退屈しないで最後まで生きられそうだと思っているのです。

母系制のすすめ(34)

 二十二、婦人参政権は実現しているか          
 現代の社会で政治が果たしている役割は、非常に大きなものがあります。人によっては政治を日常生活とは縁のうすい遠いもののように感じている向きもあるようですが、それは錯覚にすぎません。常識化して水や空気のように感じられている社会のいろいろな仕組みも、存在の根拠はその国の法律と行政、司法にあるのです。政治を遠いものとして、のんびりしていられる国の国民は幸せと言うべきで、いったん狂暴化した政治が国民をどれほど不幸にするかは、ちょっと考えればすぐにわかる筈です。中国の孔子の思想の根本に「政治はもっとも巨大な愛情の表現である」という考え方がありますが、まことにその通りだと思います。                                
 その政治に、国民が参加するもっとも基本的な権利が参政権、つまり選挙権と被選挙権ですが、今の日本で本当に女性の参政権は認められているのでしょうか。日本では第二次世界大戦後の婦人解放以来、完全に男女平等の参政権が認められたことになっています。しかし、それでこの問題が根本的に解決したように感じているとしたらとんでもないことで、それは一つの錯覚にすぎないと私には思えるのです。
 日本の国会でも、県会、市町村会などの地方議会でも、婦人議員の占める割合は、長いこと二、三パーセントにすぎませんでした。最近は女性の社会進出が進んだ、女性の議員も増えてきたと騒がれてはいますが、それでもまだ、十パーセントにも及ばないありさまです。これは私たちがふつう多数決で物事をきめるときに、ほとんど無視してしまう率に過ぎません。どうしてこれで婦人参政権が機能していると言えるのでしょうか。 たしかに制度の上では、投票する権利だけでなく、立候補し選挙される権利も全く男女平等です。しかし実際には、立候補する女性は非常に少ないし、もし立候補しても、なかなか当選しないのです。これは、政治は男のものだとする考え方がまだ根づよくて、女性が政治の世界で活躍する下地が出来ていないことが原因でしょう。しかし、女性の政治的意識が高り、社会全体が女性の政治活動を当然とみなすようになったら、婦人議員が半分を占めるようになるでしょうか。男女平等の先進国といわれる北欧の例などからみても、絶対にそうはならないと思います。
(注・この原稿は、およそ30年前に書かれたものです。)

NHKは時代の風を読め

 19日夜7時のNHKニュースには、がっかりさせられた。「さようなら原発1000万人アクション」の一環として行われた明治公園での集会とデモについて、ついに何の言及もなく終ってしまったからだ。自分が参加していたから残念だったというだけの話ではない。時間がたち、各種の情報を知るにつけて腹が立ってきた。
 この集会には主催者の予定でも5万人だったところへ、6万人の人が集まった。明治公園の実収容人数は4万人だそうだが、それを完全に埋めつくた上に、入りきれない人たちが警察にも誘導されて周辺の緑地や道路にも溢れていたのだから、6万人は決して誇張ではなかった。私は何度も取材で行ったことのある会場だが、人なだれの事故を心配するほどの密集になった状態を見るのは初めてだった。
 呼びかけ人となった大江健三郎氏以下文化人の知名度もあるが、これほどの人が自発的デモに集まったのは、安保闘争以来のことではないだろうか。しかも反体制の闘争を自覚してゲバ棒を持参するでもない、子供も連れた多くの一般市民を含んでいたのだ。これが報道に価する大事件でなくて何だろう。NHKの報道デスクは、いったい何を考えていたのか。
 一方、私にも反省がある。盛会だったことを自分の目で確かめながらも、「どうせマスコミは、まともには取り上げないだろう」とシニカルに予想しているところがあった。その気分が自分で書いたブログにも出ている。反・脱原発と言えば「一部勢力の運動」として、先鋭化した衝突以外は深入りして報道しないマスコミの姿勢に、いつの間にか慣らされてしまっていたのに違いない。
 マスコミで働く人間も平均的日本人と同じことで、その時代の「空気」の中で動く。個性を発揮する特集番組ではない日常番組では、それが反映することになる。しかし時代の空気は変ったのだ。それを示すのが今回の集会だった。この変化が読めないようでは、NHKの報道デスクは完全に時代遅れになる。そのことに気づかなければならない。今回のNHKは「特落ち」の失敗をしたと知るべきだ。

母系制のすすめ(35)

(婦人参政権は実現しているか)
 男女平等が理想的に実現しても、大多数の女性は、働き盛りの大切な時期に、妊娠、出産、育児という、人類にとって大切な役割にかかわっています。少なくともこの期間は、選挙戦に打って出たり、議会で活動するのに制約が多いことでしょう。また、多くの女性が家族のまとめ役として、家庭を中心にした行動範囲で活動する傾向は、将来もあまり変わらないように思えます。こう考えると、今のような「自由競争」方式の選挙では、男女平等が実現していないことになります。さらに、住民の代表を選ぶ選挙で、女の人口が半分いることが最初からわかっているのに、男女の間で「自由競争」で議席数を争うのが公正なのかどうか、大いに疑問です。
 政治的民主主義は、誰もが平等に政治に参加できるという条件の上に成り立つ筈です。国家のような大きな組織では、全員参加の直接民主主義は事実上不可能なので、代議員による間接民主主義、つまり議会制民主主義をとりますが、その場合でも、代表者を選出する権利は誰でも平等であるべきです。つまり、議会は「構成人口の意見をなるべく正確に反映する」ことを期待されているのです。ところが人口で半分いる筈の女性が議会に十パーセントもいないのでは、女性の意見が政治に反映する筈がありません。今の日本の法律でも、たとえば憲法改定のような重要問題は、国民投票で決めることになっています。国民投票ならば女性の意見もそのまま結果に反映するわけで、これが最高の国民的意思決定の方法です。これから見ても、今の議会で女性の意見は不当に小さく扱われているとしか思えません。               
 「自由競争」式の選挙では女性の代表が議員になりにくい理由はすでに説明しました。代表を出しにくい女性たちは、代表を出しにくいほどに、たくさんの問題をかかえているからこそ、より痛切に政治の場での代弁者を必要としていることでしょう。そして、その代弁者は、「理解を示してくれる男性議員」などであるよりも、同じ女性の議員であった方が、より確実な代弁者になることは言うまでもありません。            
 もちろん、政治の問題は、男女の区別にかかわりのない問題もたくさんあるでしょう。しかし、あらゆる政治的な決定に女性が男性と同じ重さでかかわることは、政治を国民の実感に近づける上で、大きな効果をもつと私は思います。社会の生活者の半分を占める女性が、政治的な権利と責任でも半分を引き受けることによって、より健全な社会の方向づけが可能になるに違いないと思うのです。そしてそれは、何よりも、社会正義にかなうことです。
 この一連の考え方を実現するための具体的な方法は簡単です。日本の場合、憲法を改定する必要はないでしょう、公職選挙法をほんの少し手直しするだけで済む筈です。国会でも地方議会でも、住民代表の性格をもつあらゆる議会の議員定数を、男女同数にすればよいのです。これ以外の合理的な解決はありません。具体的な投票の方式としては、得票がどちらかの性に偏るのを防ぐために、男性の候補者に一票、女性の候補者に一票というように、一人が二票を行使するのがいいと思います。


「人は放射線になぜ弱いか」を読む

 「人は放射線になぜ弱いか」(近藤宗平・講談社ブルーバックス)を読みました。じつは、かなり前に読み終わったのですが、ブログに書くのをためらっていました。副題には「少しの放射線は心配無用」と表示しています。不用意に紹介すれば「ご用学者のトンデモ本」扱いされるのではないかと危惧しました。
 しかしこれは福島の原発事故後に書かれたものではなく、1998年末に初版で出たものの増補版です。著者は京都大学の原子核物理教室の学生として、広島の原爆症調査に参加することで研究者人生をスタートしました。この著書も「学術書のレベルを保つよう心がけた」と言う通りに、引用されるすべての知見には精密な脚注で出典を明示しています。
 著書の当初の目的は、チェルノブイリ事故に起因するヨーロッパの「不必要だった混乱と悲劇」を少しでも緩和することだったように思われます。風評の拡大により、多くの妊娠中絶が行われました。10年のうちには何十万ものガン死者が出るとの予想もありました。その状況を踏まえて、放射線と人間の耐性との関係を解明しようとしたものです。
 放射線の「安全基準」については、多くの虚構(と言って悪ければ仮説)があります。致死量が10シーベルト(1万ミリシーベルト)であることは確実ですが、年間積算で1ミリなら安全と思うのは、少しずつ長期間なら、一時に浴びるよりも安全だろうと考えるに過ぎません。事実は、細胞のDNA修復能力は、1年に1回よりも、はるかに早いのです。さらに人体にとっての「毒」は、すべて量的に作用するものです。致死量の1万分の1でも有害な毒は存在しないということがあります。
 とくに女性にとって恐怖の理由となる遺伝への影響ですが、チェルノブイリでも有意の差は出ていません。生殖細胞には、損傷のある細胞を峻別して自死させる能力があり、これについても詳細な研究が紹介されています。
 私は読んでいて、かなり重要なことに気がつきました。よく「チェルノブイリの基準」が引き合いに出されますが、チェルノブイリの基準は、20年後の研究結果がわからない段階で暫定的に決められたものです。今の福島に適用する妥当性があるのでしょうか。
 とはいうものの、私は現在の「放射能汚染除去」の努力に水を差すつもりはありません。人間の安心感は、合理的な説明だけで得られるものではないからです。そして不安の根源である原発から離脱すべきとの思いは変りません。ただ、このブログにより、合理的と言えない不安感から少しでも救われる人がおられることを願っています。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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