朝ドラの「カーネーション」が最終回で、みごとに終ってくれた。見ながら、本当に贅沢な作り方をするようになったものだと、今昔の感が深かった。最初は聞いても意味のわからない不思議なテーマソングが気になって、あまり好意的でなかったのだが、最後に主役の交代によって老齢を演じさせた演出は大当りだったと思う。ただし歌声は最後まで「よろこびうつせ日のため 心をさだめてるのね」としか聞こえなかったが。
「カーネーション」は、NHKの朝ドラ85作目のシリーズだったそうだが、第一作は「娘と私」で、昭和36年(1961年)の4月から翌年3月まで放送された。この「娘と私」の前半は、私が美術進行として担当したのでよく覚えている。入局して一年半たって、高卒の新人が入ったのを指導しながらだった。美術進行というのは不思議な職種で、大道具の建て込みから小道具の配置、衣装、かつら、履物から消費される飲食物まで、撮影に必要とされるすべてのものの調達の責任者なのだった。
「娘と私」は獅子文六の自伝小説をドラマ化したもので、時代背景は戦前・戦中に当っていた。主役(佐々鬼八)とナレーションは北沢彪、妻(千鶴子)は加藤道子で、娘の麻里役は、成長に従って三人が交代した。私としては担当した期間が相対的に長かったので、時代考証にもかかわり、出演者との交流も、結構あった。
今でも忘れられないのが、温泉宿の止まり木に鎖でつながれた猿がいるという設定で、その猿を動物店へ借りに行ったことだった。電話で交渉して借りに行ったところ、檻にも入っていない猿を、そのまま貸すという。「慣れてますから大丈夫ですよ」と言われて肩に乗せられたのだが、まさかそんな仕事があるとは思わなかった。そのままタクシーに乗ってスタジオに戻った。結果は、スタジオはライトが熱いから猿は落ち着かない。台本の指定は「寒そうに丸くなっている猿」だったから、見ている夫婦のセリフとは、まるで噛み合わなかった。
当時のビデオ収録は、編集のできない「時間差ナマ放送」だから、原則として撮り直しはしない。別な録画場面の挿入などもないから、全部が生カメラ前の一発勝負だった。朝の居間の風景を、15秒ほど玄関を写している間に夕食の場面に飾り変えるなどの早業も、当り前のようにやっていた。数人のスタッフが、カメラの赤ランプが消えるのを待って、いっせいに行動するのだった。映像の編集が自由自在になってテレビドラマの作り方は映画に近くなったが、初期のテレビドラマには、舞台に近いナマの人間臭さがあったような気がする。
私はこの年の秋から青少年部にスカウトされ、翌昭和37年(1962年)4月から「みんなのうた」の担当になった。
「カーネーション」は、NHKの朝ドラ85作目のシリーズだったそうだが、第一作は「娘と私」で、昭和36年(1961年)の4月から翌年3月まで放送された。この「娘と私」の前半は、私が美術進行として担当したのでよく覚えている。入局して一年半たって、高卒の新人が入ったのを指導しながらだった。美術進行というのは不思議な職種で、大道具の建て込みから小道具の配置、衣装、かつら、履物から消費される飲食物まで、撮影に必要とされるすべてのものの調達の責任者なのだった。
「娘と私」は獅子文六の自伝小説をドラマ化したもので、時代背景は戦前・戦中に当っていた。主役(佐々鬼八)とナレーションは北沢彪、妻(千鶴子)は加藤道子で、娘の麻里役は、成長に従って三人が交代した。私としては担当した期間が相対的に長かったので、時代考証にもかかわり、出演者との交流も、結構あった。
今でも忘れられないのが、温泉宿の止まり木に鎖でつながれた猿がいるという設定で、その猿を動物店へ借りに行ったことだった。電話で交渉して借りに行ったところ、檻にも入っていない猿を、そのまま貸すという。「慣れてますから大丈夫ですよ」と言われて肩に乗せられたのだが、まさかそんな仕事があるとは思わなかった。そのままタクシーに乗ってスタジオに戻った。結果は、スタジオはライトが熱いから猿は落ち着かない。台本の指定は「寒そうに丸くなっている猿」だったから、見ている夫婦のセリフとは、まるで噛み合わなかった。
当時のビデオ収録は、編集のできない「時間差ナマ放送」だから、原則として撮り直しはしない。別な録画場面の挿入などもないから、全部が生カメラ前の一発勝負だった。朝の居間の風景を、15秒ほど玄関を写している間に夕食の場面に飾り変えるなどの早業も、当り前のようにやっていた。数人のスタッフが、カメラの赤ランプが消えるのを待って、いっせいに行動するのだった。映像の編集が自由自在になってテレビドラマの作り方は映画に近くなったが、初期のテレビドラマには、舞台に近いナマの人間臭さがあったような気がする。
私はこの年の秋から青少年部にスカウトされ、翌昭和37年(1962年)4月から「みんなのうた」の担当になった。