志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2013年04月

国難は国内より来たる

 「戦争を語り継ごう」サイトのML(メーリング・リストは、ふだんはもっぱら読ませていただくだけなのですが、本日の池田幸一さんの投稿を紹介させていただきます。池田さんはこの1月で92歳になられましたが、今も毎日、新聞やパソコンで5万字の閲覧を欠かさずにおられるとのことです。表題の「天国と地獄のような二つの記事」とは、26日の朝日新聞「経済気象台」の「EUと北東アジア」と、同日に公表された産経新聞の「国民の憲法」要綱のことです。
 前者を要約すると「ヨーロッパは武力によらない国家の統合に向かっているのに、北東アジアの現状は、隣国を非難攻撃することで敵愾心や愛国心をあおり、国内の引き締めを図る政治手法を繰り返す政党や政治家ばかりが目立つ。中でも憲法改正で自衛隊の国防軍への改称を明言する安倍首相に、アジアの賢者となることを期待するのは難しい」ということです。
 これに対して池田さんは「平和に対する私の核心的思考は二つあり、その一つは宿命ともいえる我が国の位置であります。日本は東アジアのれっきとした一員であり、いくら嫌だからと云って引っ越すわけにはゆかないのです」と述べた上で、「行き着くところは唯一つ、挫折した鳩山さんの「東アジア共同体」構想です。宇宙人といわれたこの人は、“基地は国外、最悪でも県外へ”また友愛の精神で熱っぽく持論を訴えたのでしたが、今になって考えれば考えるほど正論ではないかと思えてくるのです」と述べています。
 また「不利な条件のTPPに無理矢理参入するよりも、東アジアの共同体はFTAをベースの交易の方が遥かに有利であることは、谷口誠著「東アジア共同体」(岩波新書)に詳しい所です」とあるので、私も読んでみようと思いました。
 池田さんの核心的思考の第二は、もちろん「戦後日本の誓いでもある“もう戦争はこりごりだ、我々は二度と武器は持たない”」の平和憲法護持です。ですから右翼論陣を動員して起草されたと思われる改憲案は、「私の耳には地獄からの恐ろしい呼び掛けに聞こえてなりません。」そして「我が国は何べん懲りれば気が済むのでしょうか。この反動攻勢でしみじみ思うのは、敵は海の向こうではなく国内にあり、まさに国難来れりの感じです。」と池田さんの投稿は結ばれています。
 国難を避けるためにできる行動は、次の選挙での投票です。明日(第一水曜日)の国会一周散歩アピールに「護憲」を加えることにしました。正午に地下鉄丸の内線・国会議事堂前駅改札出口からスタートです。

「昭和の日」と「反昭和の日」

 きょう4月29日は「昭和の日」だが、私が小学生のときは「天長節」だった。これが戦後は「天皇誕生日」と改称され、本来なら天皇の代替わりで廃止になるべきところ、大型連休を保存したい思惑もあってか「昭和の日」として保存された。明治の天長節は「文化の日」として生き残っているが、全部の天皇誕生日がそうではない。影の薄かった大正時代の「天長節」は、覚えている人もいないだろう。じつは実際の誕生日とは違う二ヶ月遅れの10月31日だった。
 きのうの「独立回復の日」が、同時に「独立喪失を固定化した屈辱の日」でもあったのと同じように、「昭和の日」についても、慶祝したいのと糾弾したいのと、国内には対立する二つの潮流がある。現に午後2時から西新宿柏木公園では、「講和・安保・天皇制を問う4.29反『昭和の日』行動」の集会とデモが予定されている。
 昭和という時代は、もちろん昭和天皇が在位した63年間を意味するのだが、これほど激変と断絶を含んでいる時代区分はない。とても「昭和」で一括りできるような時代ではないのだ。敗戦までは「大日本帝国」であり、戦後は「日本国」になったのだから、そもそも同じ国ではなくなった。そのどちらが「本当の日本」だと思うかで、評価はまるで正反対になる。
 時間の長さで言えば、問題なく「日本国」の方が長くなっている。憲法でさえ、現行憲法の施行期間は、すでに明治憲法の長さを超えているのだ。今の憲法の下で育った人たちは、憲法を変えるということは、白紙からの二者択一ではなくて、今の暮らしのありようの根底からの変更になるということを、もっと意識した方がいいと私は思う。
 大日本帝国は、天皇のための国家だった。日本国は、国民のための国家になった。単純化すればそれだけのことだが、民主主義を実現するのは、この国ではとても難しくなった。いま危機感を強めている仲間は多く、私もその一人だ。だが絶望はしない。今朝も古い自作の「時間」という詩の一節を思い出していた。

 時間ほど厳しく そしてまた寛容なものはない
 取り返しのつかない過去のあとに
 まだ手つかずの 新しい時間がくる


「主権回復の日」に思うこと

 1952年・昭和27年の4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効して日本が法的な独立を回復したとき、私は惨憺たる受験結果を経て大学に入学したばかりの18歳だった。朝鮮戦争は継続中であり、アメリカ軍の駐留も継続していたから、これで日本が独立したとか自立したとかいう明るいムードは何もなく、それらしい行事も記憶にない。
 吉田首相が講和の演説で「欣然これを受諾いたします」と日本語で演説した声はラジオで聞いていたが、その前に「全面講和」か「単独講和」かで日本を二分する大論争があり、それが朝鮮での戦争とも無関係でないことは承知していた。それでも問題はあるにしても、日本がアメリカの保護下で独立を回復するのは、しないよりは良いことだろうと思っていた。
 それにしても奇妙な「占領下」の暮らしだった。アメリカ軍に全土を占領されたのに、日常に軍政が顔を出すことはなく、「進駐軍」の兵士たちは基本的に市民に対して友好的だった。アメリカ軍による、日本政府を使っての間接統治は、みごとに成功していたのだと思う。この「占領された実感のなさ」が、主権回復についての鈍感さと表裏一体であることは間違いない。
 朝鮮戦争の戦況が、成立したばかりの中国「中共軍」の参戦によって、国連軍の完勝による朝鮮統一の寸前に急転し、38度線まで押し返された記憶が、まだ生々しく残っていた。中国に対する警戒感の強さは、現実に軍事力を見せつけられた直後なのだから、今とは比較のしようもない。だから主権回復のわずか3日後に起きた皇居前広場での「血のメーデー事件」は、朝鮮戦争の日本国内における代理戦争だとするニュース解説が堂々と行われていた。
 ことの良し悪しは別として、独立回復と日米安保のセットは、当時の世界を二分していた「自由諸国圏」対「共産圏」の中で、前者を選択したことを意味していたのだ。その後長く続いた「二つの世界」の対立だったが、幸いにしてこの冷戦構造は過去のものになった。問題は、日本がいまだに61年前の選択に縛られたまま、自分の意思で針路を決めることが出来ずにいることだと思う。
 日本人は精神的に独立を回復していないとは、よく右翼が持ち出す理屈なのだが、それが戦前・戦中の日本の復活を指向するなら、まさに歴史の針を逆にもどすことになる。
 そうではなくて、アメリカ追従の枠組みから脱して、未来志向の国として自立を目指すなら、国の独立を祝うのは5月3日の憲法記念日こそがふさわしい。自民党の改憲案と読み較べると、現憲法の先進性が、逆によくわかってくる。そこには日本のみならず、世界の未来についての理想が説かれている。

経産省前テント広場の1年7ヶ月と明渡し請求訴訟

 昨晩の老人党護憲+の例会(毎月第4金曜日)で、経産省前テント広場の運営委員(広報担当)の八木健彦さんのお話を聞きました。テントが出来て今のように発展してきた経緯と現状とを、常に現場にいた人の立場で、つぶさに報告していただきました。
 このテント広場は、大震災から半年後の2011年9月、経済産業省を囲む「人間の鎖」や「脱原発ハンスト」をきっかけとして、「9条改憲阻止の会」の合流も得て発足しました。当初は自由に出入りできる緑地だったとのことです。やがてテントの増設や運動の広場としての発展ともに、右翼や在特会による攻撃も激しくなりました。同年11月までの2ヶ月ぐらいが、テントが存続できるかどうかのヤマ場だったようです。
 経産省は歩道と緑地との間に鎖を張り「立入り禁止」の札を立てたのですが、ここでテントを守る運動も盛り上がり、国内よりも早く海外メディアで大きく報道されて、規制への抗議が内外から殺到したのが圧力になったようです。これらを語る八木さんの話は講談のような活気に満ちていました。活動を現場で支えるのは、こういうネアカの人の力が大きいのだろうと思いました。
 当時の枝野官房長官は「自主的な退去を求める」との談話を発表し、これ以後一種の平衡状態が継続してきました。テント広場の公式ホームページによると、きょうで595日目になるそうです。
 安倍政権の発足後、この広場の明渡しを求める訴訟手続きが始りました。まず、占拠者を「使用許可願い」を出した2名に特定し、1100万円の土地使用料を請求してきました。これは勝手に土地を使われた損害賠償ということなので、支払っても使用者の権利は認められません。そして次は「明渡し請求」の民事訴訟が起こされました。形式上の地主である国が、国民の中の限定した個人だけを標的にして、土地利用の正当性を争う形です。これは憲法の解釈をも含む、長い国民的な裁判闘争になるでしょう。
 5月10日(金)には、17時から18時まで、テント広場で「明渡し請求訴訟に抗議する大集会」が開催されます。

尖閣万来、紛争名所

(熊さん)尖閣万来って「千客万来」のもじりですか。
(ご隠居)おう、わかったか。せんだっては中国の公船が8隻もいっぺんに尖閣諸島の領海に入ってきて、こちらの巡視船も大変だったようだ。すっかり国際紛争の名所になってしまったな。
(熊)石原知事が「東京都が買い取る」なんて言い出してから、急におかしくなりましたね。
(隠)話せば長くなるが、野田政権は放っておけなくて国が買い取ることにした。石原知事の暴走を予防する趣旨があったと思うんだが、説明不足だったんだろう。あちらは国有化で領有権を宣言したと受け取ったから、急に態度が強硬になった。それであの反日デモの大騒動になったわけだ。
(熊)あれは日中の両方に、すごい損失になりましたね。国民感情も悪くなってしまった。
(隠)そして日本の政権は、保守本流の安倍政権に変った。もちろん「領土問題は存在しない」という立場だから、力には力の対決しか方法がない。そこへもってきて、近隣諸国に謝罪した「村山談話」の歴史認識を見直すとか、靖国神社への閣僚の参拝問題では「脅しには屈しない」と開き直りのようなことまで言うようになった。これでは「尖閣万来」は当分つづくと思ったわけさ。
(熊)靖国問題では、外国からとやかく言われることじゃないって気分もありますよね。
(隠)亡くなった人を供養する気持には、国も民族も関係ないよ。戦没者の慰霊施設もどの国にもあって、それぞれに尊重されている。だけど靖国神社は、それと同列じゃないんだ。
(熊)あれは戦死者のお墓ではなくて、神社なんですよね。
(隠)そうだよ。明治維新で天皇の政治が復活したとき、維新戦争で戦死した人たちを神として祭った「招魂社」が始まりなんだ。だから官軍の戦死者しか入ってない。西郷隆盛は官軍と戦ったから入ってないんだよ。その後も陸海軍が事実上管理して、国家神道の総本山のようになった。それが戦後は独立した宗教法人として存続を許されたので、政治との関係が悩ましくなったんだ。
(熊)宗教ということになると、政治は中立が原則ですよね。
(隠)そうだよ。だから政治家が参拝すると、戦時中そのままの「神国日本」を復活するつもりかと、外国からも反発されてしまうわけだ。これはお互いに不幸なことだよ。純粋に戦争犠牲者を弔う公式の慰霊施設が日本にないのが問題なんだが、それがわかっていて「何が悪い」と開き直ったら、これは国際的な火種になるのも覚悟しなくちゃならない。今の日本は、そういう人たちに舵取りをさせているということだ。

高木仁三郎の「宮澤賢治をめぐる冒険」を読む(2)

 第二話 科学者としての賢治
 宮澤賢治は、自己の思想を、そのまま実生活で実行しようとした人でした。花巻農学校で科学的な農業を教え、生徒を農民文化人に育てようとしましたが、やがて教師を辞職して「羅須地人協会」という私塾を創立します。理由は、自身が俸給生活者であったのでは、農民になり切ることができないと考えたからだと言われています。その最初の講義の演題は
われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学を
われわれのものにできるか

でした。これが、高木仁三郎氏が「原子力資料情報室」を創設した際の精神的支柱になりました。
 巨大科学に組み込まれて、国の原子力推進政策に連なる立場で働くことの矛盾に悩んでいたときに、この言葉に出会って自分の進路が見えたというのです。それはつまり、人間の顔を失わない科学者として、市民の側に立った活動を生涯の仕事にしたいということでした。
 宮澤賢治のこの私塾は、農業科学教育と芸術・文化運動の融合をめざして始ったのですが、活動自体は一年足らずで終っており、事業としては挫折とされています。しかし賢治のこの姿勢は、文学作品として生き、世に残りました。実人生の全部が文学になったのです。そのように高木氏は、「私の科学の一切が、私の営為全体にかかわっている」というようになりたいと思ったと述べています。
 そして「われわれに必要な科学」とは、もちろん第一話で紹介した、持続可能なエコロジーの科学であったのです。
 第三話 「雨ニモマケズ」と私
 「雨ニモマケズ」は、宮澤賢治の代表作と思われるほど有名ですが、本人は作品として発表するつもりはなかったようです。実際にこれを「取るに足りない」という人もいるそうです。しかし
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

の二行を、高木仁三郎氏は大きく取り上げています。科学者の心がけを言ったものとしては、とてもよくわかるというのです。データを調べ、理論で説明して終るのと対極にいる科学者の姿です。人の目の高さから科学をやっていくという、私の決意表明だとも述べて全編の終りとしています。
 高木仁三郎という人が、詩情ゆたかな角度から見えてくる本でした。

高木仁三郎の「宮澤賢治をめぐる冒険」を読む(1)

 「宮澤賢治をめぐる冒険」(社会思想社1995年)を読みました。高木仁三郎は宮澤賢治に傾倒しており、「市民科学者」をめざすについても、宮澤賢治の生き方に触発されたところがあります。この本の題名は、著者が宮澤賢治を研究する文学の専門家ではなく、賢治の足跡をたどって自身の人生の針路を決めた遍歴を「冒険」という言葉で表現したものです。
 内容は宮澤賢治記念館での講演など、各地で行った3回の講演を各一話として採録した形をとり、幻想的なイラストや装丁によって、絵本のような柔らか味のある文芸書に仕上げてあります。「私の科学論と自然論をエッセイ風に書いたもので、こんな形で一冊の本を残しておきたいと念願していた。」と著者は「あとがき」に書いています。以下、一話ごとに紹介します。
 第一話 賢治をめぐる水の世界
 講演に先立って、会場には海中のクジラの声が流されました。聴衆はそれを聞いた前提で話が始ります。そして宮澤賢治の次の言葉が紹介されます。
 じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分でそれをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ。 
 これを皮切りにして、賢治の作品の中から「やまなし」など水をテーマとした作品を取り上げ、流れ行くものとしての人の命にも話は及びます。そして「銀河鉄道の夜」においても、四次元の流れが中心であり、その本質は水だというのです。確かに銀河は川であり、星は砂粒なのでした。
 そこから私たちが「環境」と呼ぶものの底の深さが浮かんできます。環境とは、人間を取り巻く「外部」のことではなかったのです。人間そのものが、その中のほんの一部分を占めている、最初からあった「全体」が環境なのです。
 環境とは、もともと人間の敵ではなく、征服し開発する対象でもありませんでした。高木仁三郎は水にまつわる原体験として、泳ぎを覚えた初期に海で深みに沈み、溺れそうになったことがあったそうです。そのとき怖さとともに一種の懐かしさを感じたというのです。記憶を美化しているような気もしますが、私も「水面の下に入ると、ぼくは水の中の生き物になる」という現代詩に感動したことがあります。生物が水から陸へ上がってきたのは、本当のことです。
 「私たちは自然の懐に抱かれるように生きて行かなければいけない」と、著者は講演を締めくくっています。

病院の定期検査や快晴日

(熊さん)きょうも出かけでしたか。ゆうべの帰りは、けっこう遅かったね。
(ご隠居)回転寿司「三崎港」で夕飯も済ませてきたからね。きょう行ったのは病院の定期検査だよ。CTと血液検査の結果を聞いてきた。大腸がんの手術から、ちょうど二年半になるんだ。もっとも、通りの向こうへ、ちょいと行ってきただけだけどね。
(熊)それで、結果はどうでした。
(隠)ああ、CTは「他臓器やリンパ節への明白な転移は認められない」で、血液も腫瘍マーカーその他、問題なしということだった。それで次は7月の血液検査と診察の予定日を決めて、「ではお大事に」と言ってくれたから「先生もどうぞお元気で」と返したら、にこにこ笑っていたよ。
(熊)患者が医者の健康を気づかうんじゃ立場が反対だが、ご隠居らしくていいや。
(隠)手術以来の長いつきあいだから、仲間みたいな気がするんだよ。術後のケアも呼吸がわかってきた。3ヶ月ごとに血液の状態を調べ、半年ごとにCTを撮り、一年ごとに内視鏡で検査するのがマニュアル化してるわけだ。それで術後5年間生存なら、めでたく手術の成功が確定する。現代の医療には、いろんな批判もあるようだが、私は信頼していいと思ってるよ。
(熊)高木仁三郎さんも大腸がんだったんですよね。
(隠)そう、自分で本に書いているが、兆候は出ていたんだ。しかし便秘は昔からあったし、血便も痔のせいだろうと、忙しいのもあって検査を遅らせていた。それが結果的に転移を進ませて完治を難しくしてしまった。まだまだ働ける62歳で亡くなったのは、本人も無念のことだったろう。
(熊)放射線を扱う仕事をしていたんだし、健康診断をしていればね。
(隠)私の場合は、念のため受けた会社の最後の成人病健診で、小さなガン入りの大腸ポリープが見つかったのが発端だった。それから定期的に大腸検査をするようになり、その2回目の大腸内視鏡検査で、腸管の4分の3ぐらいまで塞ぐ増殖中のガンが画像に現れたんだ。そのときの「検査して良かったですね」という医師の言葉の調子を、今も覚えてるよ。
(熊)それから手術する病院を、近くの警察病院に変える手続きをしたんですよね。
(隠)そう、そのいきさつをブログにも書いたから、手術チームもみんな知っていて、入院中も、とてもコミニュケーションがよかったんだ。そんなわけで、運良く生かしていただいた命だな。きょうは病気の話で終ってしまったが、高木仁三郎さんの次の本も図書館で借りてきたよ。

気分転換に音楽を

(熊さん)ご隠居、きょうは天気悪いのに、お出かけですか。
(ご隠居)うん、多摩管弦楽団の定期演奏会があるんで、ちょいと行ってくる。新宿西口仲間のKさんが、クラリネット奏者として出演するんで、チケットをいただいたんだ。2枚もらったから、連れ合いも誘ってみるよ。
(熊)へー、そりゃいいや。でもご隠居、カゼ声じゃないですか。大丈夫ですか。
(隠)うん、咳で喉だけやられた妙なカゼなんだ。熱はないし、もう直るだろ。
(熊)気ぃつけてくださいよ。きょうはこの夏の選挙情勢なんかを聞きたかったけど、まあいいや。
(隠)ああ、帰ってから話しにおいで。もっとも、「笑点」があって「八重の桜」があって、日曜の晩はテレビにもつきあうがな。この夏の選挙のことなら、わしにもわからん。熊も自分の頭で考えろや。名案があったら、わしの方が聞きたいぐらいだ。
(熊)まぁ、音楽聞いて、気分転換もいいでしょうさ。行ってらっしゃい。

ブログ連歌(312)

6219 メディアでは ミサイル発射 待ってるよう (うたのすけ)
6220  騒ぎの裏に 黒子の気配 (建世)
6221 フクイチに 飛んできたら ぞっとする (パープル)
6222  原発日本は 弱点だらけ (建世)
6223 根競べ 国を挙げての 知恵を出し (みどり)
6224  それが上策 短気は負けよ (建世)
6225 圧政の 世に抗いし 歴史あり (みどり)
6226  義士斃れたる 悲話多けれど (建世)
6227 十五日 何事も無く 過ぎて行く
6228  それより大事 年金支給日 (うたのすけ)
6229 この時と 軍事費ふやす 改憲派
6230  くらしも大事 平和も大事 (みどり)
6231 シンタロさん 無念でしょうが 潮時か (うたのすけ)
6232  意地も過ぎれば 老醜となる (建世)
6233 おぼっちゃま 何かが欲しくて だだをこね (霞)
6234  核にミサイル オレ様強いぞ (建世)
6235 同世代 なりたくはなし あの様に
6236  人のふり見て 我がふり直す (うたのすけ)
6237 ひとときの 明朗日本 迷路なる
6238  行方は見えず 春寒の空 (建世)
6239 二大国 何の因果か 惨事起き (うたのすけ)
6240  人災天災 慢心を諫む (建世)

情報の電子化は無限に進むのだろうか

 昨日、長妻昭議員と秘書さんたちと昼食をしながら交わした会話の中で、「どんなに下らない発言でも写真でも、全部が永久に保存されていったら、最後はどうなるんだろう」という話題が、妙に心にひっかかりました。プルトニウムの放射能が、人間にとっては永久に近い十万年の単位で残るという話と、どこか似ているように感じたからでした。
 人間は忘れやすい生きものです。大事なことでもすぐに忘れてしまうので、なんとか記憶を確かなものにするために、文字を発明して書き残すことを覚えました。それを書物にして、図書館に保存してみんなで共有するようなシステムも作ってきました。そして紙の代わりに電子情報として、記憶媒体に保存する方法にまで到達したのが現代です。その保存容量は、日進月歩で拡大を続けています。
 あらゆることを忘れない、細部に至るまで正確に、いつまでも覚えているというのは、記憶における錬金術のようなものです。もはや人間業ではありません。それが現代の科学技術によって可能になったのは、ただ手放しで喜んでいればいいことなのかどうか、もしかしてプルトニウムの核エネルギーのように、開くべきでなかったパンドラの箱にならないか、という不安がよぎりました。
 言うまでもなく、人は忘れることによって救われます。忘れられることによって安らぎを得る場合もあります。それは人間にとって自然な状態ですから、基本的人権に属すると言うべきでしょう。ですから自分にとって不都合な情報は消したいと思うのは当然です。ところがインターネット上に流れた情報は、拡散してからでは、完全に消去するのは事実上不可能です。現在問題にされているのは、そのようなネット時代の怖さであり、政治家としての関心も、おもにそこにあるのでした。
 しかし私の頭にひらめいたのは、電子情報の容量は本当に無限なのだろうかという、根源的な疑問でした。たとえば個人が書いたブログ日記などは、大半はおそらく百年もしないうちに関心を持つ人がいなくなり、人間界から消えたのと同じ状態になるでしょう。しかし電子情報としては、誰かが選別して消さないかぎり保存されることになります。そして、選別は面倒な仕事ですから、大事な記録を誤って消さないために、結局は全部が保存される結果になると思うのです。
 さて、そのようにして10世紀、わずか千年が経過したら、人類の電子記録はどうなっているでしょうか。長く使われない情報は、検索の下方に沈んで地層のように積み重なって行くのでしょうか。それを発掘する「電子考古学」などが登場しているのかもしれません。そして、これが最大の疑問なのですが、そのような電子情報は、地球上のどこに、どのような形で存在しているのでしょうか。

陛下、体調にお気をつけください

 天候が不順の季節ですが、お元気でいらっしゃいますか。昨日は春の園遊会とかで、各界の名士にお会いになられたようですね。さまざまな公務、ご苦労さまです。
 報道によりますと、この28日には、61年前に平和条約の発効で日本が独立を回復した日に当るということで、政府の主催による「主権回復記念式典」が行われるそうです。陛下もご臨席を要請されているとのことですから、そのための準備も進んでいることかと思います。
 しかしこの式典は、安倍政権になって突如として企画されたもので、これまで前例もありません。その理由は、主権回復の日として国をあげて祝賀することができない事情があったからでした。たとえばこの日は、沖縄では「本土から見捨てられた屈辱の日」とする根強い記憶があります。そしてこの「独立回復」については日本国内を二分する激しい意見の対立があり、皇居前広場では、デモ隊と警察との、流血の騒乱事件まで引き起こしたのでした。
 講和条約は発効しても、アメリカ軍による事実上の日本の占領状態は変りませんでした。それでも法的な独立の回復を優先したについては、父、昭和天皇のご意見も反映されたと言われております。昭和天皇は、最後まで沖縄の県民感情を憂慮されながらも、全国都道府県の中で、沖縄にだけは巡幸する機会を得られないまま崩御されました。
 陛下は戦時中は栃木県の那須に疎開しておいででしたね。6年生のときに戦争が終り、焦土と化した東京を目撃した経験では、私と同じです。昭和天皇の、戦争の災禍を防げなかった悔恨の思いは、深く心に刻んでおいでのことと拝察しています。戦後の新憲法下で、国民の統合の象徴となられたお立場を、よく果たしてきてくださいました。陛下の温厚なお人がらは、よく存じ上げております。
 大学で私が女子学生と卓球で遊んでいたとき、後ろへ外らした球を、ワンバウンドでキャッチして投げ返していただいたことがあります。あのときの、ちょっと照れ臭いようなおだやかな微笑を、よく覚えています。
 この28日の「記念式典」に、今から臨席の取り消しは角が立ちますでしょう。不順の季節ですから、カゼを引いて体調を崩されることもあるかもしれません。お体のことでしたら、誰も無理にとは申せませんでしょう。ブライス先生の授業も受けておられましたから、ユーモアのセンスも伝授されていることと思います。陛下(つい「殿下」とお呼びしたくなるのですが)、どうぞ体調にはお気をつけください。 

「高木仁三郎セレクション」を読む(4)(プルトニウム物語の最終章) 

 この本の紹介の最後に、著者が1997年に「ライト・ライブリフッド賞」を受賞した際の、スウェーデン議会における受賞スピーチから抜粋してみます。 
 「プルトニウムは人工の元素です。グレン・シーボーグとその同僚が1941年に94番元素の合成に成功し、92番元素ウラン(天王星にちなむ)の二つ先の元素ということで、冥王星にちなんでプルトニウムと名付けました。つまり、地獄の王ないし火の燃える世界の元素というわけです。……この命名は何という歴史の皮肉だったでしょう。」
「シーボーグは、プルトニウムを増殖するすることによって、人類は無限のエネルギー源を手に入れることができる、と考えたのです。彼は自分の核化学を、現代の錬金術と呼び、彼はそれによって、元素の大規模転換という錬金術師の夢、つまりは卑金属から金を生み出すという夢が、ついに叶えられたと考えたのです。」
 高木仁三郎氏は最初の就職後すぐに、シーボーグの本を買って読み、その第1ページにあった「……この元素は第二次世界大戦中に発見され、またその生産手段も開発された。それはとても特別な状況の下であり、そのことによって、きわめて魅力的で好奇心をそそる物語となった。もちろんこの物語には続きがあり、新たな章が今後書き加えられねばならないだろう。」という記述の最後の部分に傍線を引いたということです。自分がその新しい章を書こうと誓ったのでした。
 その後の高木氏は、プルトニウムが権力を背景とする巨大科学の中で肥大化する現実に疑問を感じるようになり、核化学者として、市民とともにある立場で正当な評価につとめました。その結論は、あらゆる観点から、民事プルトニウム計画の継続を正当化する理由はないということでした。その経過を説明した上で、
「私たちは、今ようやく、プルトニウム物語の終章を書き始めたのです。プルトニウム物語の長い歴史と夢物語に投資された巨額のお金に対応して、まだ私たちのたどるべき道のりも長いことを知っていますが、私たちが正しい方向に進んでいることは信じてよいと思います。」と述べ、草の根の運動の仲間たちを含む多くの人々への謝辞を述べてスピーチを終っています。
 「投資された巨額の金に対応して道のりが長い」とは、至言でした。脱原発の障害になっているのは、まさに巨大な投資の累積と強固な利権の構造なのです。しかし状況は1997年とは変りました。間もなく原発が2基しか動いていない夏がきて、その後には一時的にせよ、原発ゼロが再現するでしょう。物語の最終章を書き上げるのは、私たちの責務になりました。

「高木仁三郎セレクション」を読む(3)(エネルギーとエコロジー)

 岩波講座 現代思想13「テクノロジーの思想」1994年より。
 ここに掲載されている「人類とエネルギーの歴史」の図が印象的です。世界のエネルギー消費量の変化と人類の歴史を対比しているのですが、産業革命は、エネルギー消費量の上では、たいした変化を起こしていなかったのがわかります。爆発的にエネルギー消費が増えたのは、たかだか最近100年間のことで、100年前の全世界の一年分を、私たちは、たった一日で消費しているのです。
 間もなく80年になる私の生活史でも、その変化はわかります。私が子供だった1940年当時の暮らしでは、電気といえば、もっぱら電灯のためのものでした。電灯以外の日常的電気製品としては、ラジオが1台あっただけです。電気の使用量は、今の10分の1にもならなかったでしょう。
 エネルギー消費の急激な拡大は、20世紀の後半、とくに第二次世界大戦後に起こりました。ライフスタイルがエネルギー多消費型に変化したのです。それは成長型経済と表裏一体のものでした。このためエネルギー供給の不足が社会的危機の要因として常に意識されるようになり、より多くのエネルギーを求めることが無条件に善であるとされました。核エネルギーの利用も、この文脈で容認されるようになったのです。
 しかし1970年代あたりから、限りある地球と成長の限界を論じるエコロジーの思想が出てきました。気候温暖化など、エネルギー多消費による地球環境の悪化の面からも、経済成長には限界があると考えられるようになったのです。1972年に発表されたローマクラブの「成長の限界」は、人類の成長が選択のできない圧力によって停止する場合よりも、社会の選択によって自主的に停止する方が、はるかに安全で好ましいと説いていました。
 エネルギー政策は、従来は総需要と供給量を比較してギャップを埋めるハード・パス(パスは「道」の意)でしたが、これ以来、省エネと風力、太陽光、小水力、バイオマスなどを組み合わせ、生活の質を劣化させずに折り合わせるソフト・パスが提唱されるようになりました。これは、前者が中央集権的で少数支配の政策であるのに対して、地方ごとに民衆が管理できるエネルギー政策を採用しようとするものでもありました。
 その根底にあるのは、地球全体を一個の生命維持の体系と考えるエコロジーの思想です。太陽と水と空気と土の循環の中に、永続的な人類のライフスタイルを位置づけるということです。それは現代が人類に強いている、絶え間のない競争と緊張と欠乏の不安から、私たちを解放する道でもあるのです。

「高木仁三郎セレクション」を読む(2)(プルサーマルに関する評価報告)

 今回は「プルトニウム軽水炉利用の中止を提言する」(「科学」1998年1月号所載)を紹介します。「プルサーマルに関する評価報告」という副題がついています。プルサーマルとは、プルトニウムのプルと、熱中性子炉を意味する英語を縮めて繋いだ和製英語です。
 これは、余剰となっているプルトニウムの使い道として、ウラン燃料を使う前提で作られている原子炉で、ウランとプルトニウムを混合したMOX燃料を使用する技術です。これを経済性、安全性、安全保障、廃棄物管理、そして社会的影響の観点で、独立した立場から評価した報告書です。
 まず、プルサーマルを実行すれば、猛毒で核兵器の原料になりやすいプルトニウムを、分離・加工、輸送(海外を含む)、備蓄するために、多くの人手をかけて取り扱わなければなりません。そこに安全性と、テロリストの手に渡るなどの安全保障上の問題が生じます。原子炉級のプルトニウムでも、35kgあれば、化学的には難しくない技術で核爆発を起こすことが可能なのです。
 MOX燃料を原発の原子炉で使用した例は、海外でも少なくて、最大のドイツでも4%を超えていません。ウラン燃料よりも融点が低く、熱に対して融けやすいことが知られています。その他、出力のバラつきが大きく、炉心構造物の脆化を早める可能性があるなど、安全上、不確かなことが多いとしています。さらに過酷事故が起きた場合の被害が深刻化することは、言うまでもありません。被害面積は、ウランだけの場合の3〜4倍に及びます。
 プルトニウムの利用を前提とする「核燃料サイクル」を通して、放射性廃棄物の発生は、使用済み核燃料の直接処分に比べて、体積で6倍に増大します。それだけでなく、再処理の過程では大量の放射能が液体や気体として環境に放出されることになります。さらに使用済みのMOX燃料は、ウラン燃料の2〜3倍の廃熱を発生するという難点があります。
 これらを総合すると、炉心の3分の1をMOXに置き換えた場合の燃料費は2.5倍に高騰し、軽水炉にMOXを導入することを正当化する経済的な理由は存在しないと結論しています。
 高木氏らのこの提言は、採用されることなく今に至っています。六ヶ所村では再処理工場が核燃料サイクルを前提として稼働しようとしています。大間では、MOX燃料専用を売り物にする原発の新設工事が進行しています。「即刻中止すべきである」としたこの論文の提言は、今もまた無視されるのでしょうか。そんな愚かな選択は、あり得ないと私は思います。

「高木仁三郎セレクション」を読む(1)

 岩波現代文庫の「高木仁三郎セレクション」を読んでいます。岩波書店の「世界」「科学」および「岩波講座」に執筆した論文を中心に構成しています。著者の没後、2012年の発行です。通読しても著者の思想遍歴を辿れるように順序立ててありますが、個々のテーマごとに論文としてまとまっています。読んだ中で印象的なものを、順次紹介してみます。
 第1回は岩波講座1990年所収の「核エネルギーの解放と制御」から「技術システムとしての原発」「原発事故」「原発内労働者」「放射性廃棄物」「技術の変質」の部分です。
 100万キロワット級の原発が運転中のとき、そこで行われる核分裂反応は、一日につき広島型原爆の3個分に相当します。つまり8時間ごとに原爆が「時間をかけた爆発」をしているのと同じです。そしてこの運転が一年続くと、炉内には数千億人の致死量に当る放射性物質が蓄積します。
 原発で難しいのは核分裂反応の制御と熱の管理で、定常性を維持するには厳密な条件が守られねばならず、常に暴走の危険をはらんでいます。炉心には毎秒10トン以上の冷却水を送り込まなければなりません。
 これらは通常はコンピューターで管理され、運転員は計器の監視だけしていればいいのですが、いったん想定外の事故が発生すると、短時間に複数の緊急処理が必要となり、簡単に運転員の判断・処理能力を超えてしまうというのが、スリーマイル島やチェルノブイリ事故の検証結果でした。この根底には、従来の科学技術とは調和しない核エネルギーの異質性があると著者は見ています。
 原子炉のメンテナンスには、放射能の高い所で働く「被曝要員」としての労働者を大量に必要とします。それらは少数の正社員と、圧倒的に多数の下請け・日雇い労働者から成っていることを統計で示しながら、著者は原子力産業の非人道性を指摘することも忘れません。 
 放射性廃棄物の毒性は、1000年後にセシウムやストロンチウムが壊変したあとも、100万年程度までは非常にゆっくりとしか減衰しません。仮に1万年後まで管理するルールを決めたとしても、人類は万年単位で有効な法秩序を保つことが可能でしょうか。
 つまるところ、核の安定を前提として成り立っている生物界に、核の破壊によるエネルギーを持ち込み、過去の実証も役に立たず、実験も不可能な産業を、戦争に起源を持つ政治的な圧力で強引に作り上げてしまったのが原子力産業なのでした。
 まだ誰も福島の原発事故を知らなかった時代に、こういう論文を書いていた人がいました。日本も世界もまだ決定的には滅んでいない今だからこそ、「間に合った」と言うべきでしょう。

北朝鮮のミサイルはどこへ飛ぶ

(熊さん)北朝鮮のミサイルが来そうだって騒いでたけど、ありゃどうなったんですかね。
(ご隠居)ひところは迎撃だとかなんとか派手にやってたけど、どうなるかな。でも、あんな奇妙な話はないな。本気で奇襲攻撃をするんなら、これから撃つぞなんて事前に宣伝するわけがない。口先三寸の放送だけで近隣の国に混乱を起こさせられるんなら、えらく安上がりで効果的な外交戦略ってわけだ。平壌の市内は、ふだんと変らず、のんびりしてるそうじゃないか。
(熊)あっちからのミサイル先制攻撃はない、ってことですか。
(隠)日本を飛び越えるようなミサイルの発射はあるかもしらんが、弾頭をつけて日本国内の目標を破壊するような可能性はゼロだろう。もしそんなことをしたら、北朝鮮国内の発射基地はすぐに叩かれて、あっという間に全面的な戦争が始ってしまう。いくら北朝鮮が威張ったところで、米韓日の連合軍とまともに戦ったら、万に一つも勝てないことは知っているさ。
(熊)それがわかってるんなら、なんであんなに挑戦的になるんですか。
(隠)まあ犬のけんかで、弱い犬の方がやたらにキャンキャン吠えるようなもんだな。弱みを見せまいとして必死に虚勢を張ってるわけだ。もちろんそうやって国民を緊張させて、独裁政権への不満を封じ込めておく効果も狙ってるだろう。
(熊)でもテレビで見る北の軍事パレードなんて、すごいですね。日本の軍国主義も、あんなふうだったんじゃないですか。
(隠)形はちょっと似てるけど、決定的に違うところがあるんだ。日本の軍国主義は、実際に海外への進出を始めるだけの力を持っていたし、「東亜新秩序」といって勢力拡張を正当化する理屈づけもしていた。それに比べたら、北朝鮮は現に領土の拡大を進めているわけじゃない。朝鮮の統一を主張してはいるが、それはタテマエで、実際は自分の政権維持だけで頭が一杯なんだな。つぶされるんじゃないかという不安があるから、こっちには毒針があるぞと「蜂の一刺し」を見せびらかしてるところがある。
(熊)それをまともに受けて大騒ぎしたら、あっちの思う壺ってことですか。
(隠)まあ、そんなところだ。北朝鮮がいちばん困るのは、いくら喚いても近隣の諸国がちっとも反応しないで無視されることだろうな。もっとも、これは日米の防衛関係者には追い風になって、地位を高めるチャンスになるわけだが、それはまた別な話だ。

高木仁三郎の「市民科学者として生きる」を読む(4)

 著者はライト・ライブリフッド賞の賞金を使って「高木学校」の活動を組織しました。そのAコースは高木氏自身が中心となり、意欲ある研究者や活動家が、知識と理念を共有して運動の拡大をはかろうとするものでした。そしてBコースでは、Aコースで学んだ人たちが、一般市民を対象として脱原発の理想を普及して行くことを目指しました。「高木学校」は、高木仁三郎の理想を伝道する道場でした。しかしそれは決して難しいものではありません。
 「私が信条としてきたことは、きわめて単純である」として、著者は次の四条を述べています。
(1)人と人、人と自然が相互に抑圧的でないような社会であること
(2)平和な暮らしが保障されること
(3)公正な社会であること
(4)このような世界が持続可能的に保障されること
これらの当り前の理想を、わざわざ決意して掲げなければならないほど、現代の世界は病んでいるのです。個々の人間を呑み込んで、限りなく肥大しようとする政・経・官・財の複合体、その中心に位置を占めているのがプルトニウムです。これを政府と対等の立場で論じようとすれば、反原発の陣営は、それに耐える知識と理念と、そして広範な国民の支持を集めなければなりません。
 高木学校の発足は、著者が自らの死を予感するのと、ほぼ同時になりました。「高木学校には、もともと『次の世代へ結ぶ』という意図があったが、がんという病を経由し、死を予期したことで、逆に『未来』がきわめて身近な存在となり、精神的には新しい力を得た(肉体的にはやや疲弊しているが)」と最終章「希望をつなぐ」の中で書いています。
 最終的に、著者が目指したのは「核文明からの脱却」でした。そして核のない社会は必ず実現するという強い信念も持っていました。それを「出来うれば自分の目の黒いうちに」という願いは叶いませんでしたが、著者よりも5歳年長の私も、その願いを共有するものです。
 第8章「わが人生にとっての反原発」の中に、反・脱原発運動の本質を凝縮している言葉がありました。それを掲げてこの本の紹介を終ります。
 反原発というのは、何かに反対したいという欲求ではなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である。

高木仁三郎の「市民科学者として生きる」を読む(3)

 大学を辞めて浪人生活をしている間に、著者は原水爆禁止運動、そして反原発の運動へのかかわりを深めて行きました。ここでプルトニウムと再会し、自分の知識・経験を、運動の中に生かして行くことになります。
 プルトニウムについては、その毒性の強さや、核兵器化することの容易さについて、相次いで世界の科学者から警告が出されていました。このため市民運動の中からもプルトニウムについて学習する機運が高まり、批判的研究者として知られるようになった高木氏に期待が集まってきました。その流れの中で「原子力資料情報室」が創設され、高木氏はその責任者になりました。資料の収集とともに、研究者たちの交流サロンとすることも目的としていました。1975年のことです。
 それでもまだ原発の「安全神話」は一般に流布していて、日本でも海外でも、反原発運動は少数者の批判でしかありませんでした。その状況を一変させたのが、1979年のスリーマイル島原発事故と、1986年のチェルノブイリ原発事故でした。これ以後、情報室はマスメディアからも信頼されるようになり、高木氏自身も、単に研究者とし情報を発信するばかりでなく、社会の改革にまで踏み込む使命を自覚するようになったということです。
 高木氏は非常に多忙になりました。頻繁に海外の研究者とも交流を重ね、1991年には日本で「国際プルトニウム会議」を開き、1993年には「脱プルトニウム宣言」を発表して、自ら科学技術庁前に座り込んでハンストを決行しました。宣言文は「プルトニウムに未来はなく、未来を託することもできない。……超猛毒で核兵器材料である物質の脅威をどう断ち、子供たちにプルトニウムの恐怖のない未来をどう残せるか……」と述べています。
 のち1997年に高木仁三郎氏はライト・ライブリフッド賞(Right Livelihood Award)を受賞しています。これは「もう一つのノーベル賞」と呼ばれるもので、訳語にすれば「(人類の)正しい生き方賞」でしょうか。人権、環境保護、健康、平和、貧困救済など、人類の課題を改善する努力に対して、ノーベル賞と同じ発想で1980年から設けられているものです。
 高木氏の活動は、よりよい未来のために、文明のあり方そのものを変えて行くという、スケールの大きいものに発展して行ったのでした。

高木仁三郎の「市民科学者として生きる」を読む(2)

 1965年に著者は東大原子核研究所に入りました。ここでプルトニウムについての基礎研究ができると思ったからでした。核研の中の化学グループが注目したのは、宇宙線と地球物質との反応でした。そのためには人工の放射線が少ない場所が必要で、千葉県鋸山の旧軍用地下壕にこもり、全国各地を歩いて集めた岩石、泥土などの試料を分析する研究者生活がつづきました。
 その過程で驚いたのは、地球の表層が、原爆・水爆の実験による放射能の拡散によって、すでに広範に汚染されている事実でした。放射能汚染のない鉄材を探して、戦前に作られ沈んでいた戦艦「陸奥」のサルベージ鉄材を手に入れたという、象徴的な経験もしています。
 その一方、水俣病など一連の公害事件に心を痛め、科学者の社会的責任ということを深く考えざるをえなくなったといいます。基礎研究をして論文を書くだけの生活でいいのかという疑問が大きくなり、やがて自分の研究テーマを論文にして一応の区切りがついたのを機会に、「体制内化した学問」からの脱皮をめざして、都立大学助教授への推薦を受け入れることとしました。
 1969年、著者は30歳でしたが、大学に入っての衝撃は、そこが企業とよく似た「家族共同体」的な共通の利益で結ばれた世界であることでした。折りしも学園紛争が猛威をふるっていて、教授会は全共闘の学生による学園封鎖の対策などに追われていました。「大学が守るべき学問とは何か」を話題にしようとした高木氏は、気がついたら札つきの「造反教官」になっていたそうです。
 そんな中で著者は成田空港の土地収用に反対する「三里塚闘争」に参加することになります。そこで農民たちの話を聞き、権力の立場でなく市民の立場で考え行動しようとする人たちとの知己を得ました。そして対立の現場に身を置き、農民とともに稲を育て米を作る経験もしながら、「市民の立場でものを考える科学者」という自分の立ち位置を自覚するようになりました。そのときの指針になったのが、農民科学者を目指した宮沢賢治だったということです。
 大学の教員としての意欲を失った高木氏でしたが、自ら動いて海外研究留学の機会を得ました。ここで専門研究員として重ねたヨーロッパの科学者たちとの交流は、後に国際的な運動を起こすときの力として生きてきます。結局は1973年に都立大学を退職するのですが、「元都立大学助教授」という経歴には、今も一種の恥ずかしさを感じると、著者は書いています。

記事検索
プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ