志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2013年04月

ブログ連歌(311)

6199 なりふりも 構わず猪突 猛進す
6200  白から黒だ 株価は踊る (建世)
6201 インフルだ ミサイルだと 姦しく
6202  内憂だけで 手に余るのに (うたのすけ)
6203 介護など 受けずも重き 保険料
6204  相互扶助とて 福祉切り捨て (みどり)
6205 沖縄の 基地返還の 曖昧さ (うたのすけ)
6206  わが国なれど アメリカ領で (建世)
6207 津波より 廃炉の行方 恐ろしく (うたのすけ)
6208  復興十年 放射能万年 (建世)
6209 汚染水 セシウム漏れ出す 海の際(きわ) (みどり)
6210  始末もできず 「美しき国」 (建世)
6211 札束が 舞うような日々 陥穽は (うたのすけ)
6212  笛吹きゃ踊る 一喜一憂 (建世)
6213 防空壕 掘るには時間 無さ過ぎる (霞)
6214  真に受けている 奇襲の予告 (建世)
6215 お互いに 隣選べぬ もどかしさ (うたのすけ)
6216  頭冷やせと 柳に風で (建世)
6217 怖いのは ミサイルよりも 汚染水 (うたのすけ)
6218  ちょい漏れパンツで 済むわけもなし (建世)
6219 メディアでは ミサイル発射 待ってるよう (うたのすけ)
6220  騒ぎの裏に 黒子の気配 (建世) 



これでも原発やめないの?

(熊さん)今年の夏は、節電の目標ってのがないそうですね。
(ご隠居)ああ、全国的にそのようだな。関西では大飯の原発が2基動いてるんだが、これが8月には定期点検で止める期限になる。その2基が止まっても、やりくりすれば大丈夫という計算になるそうだ。つまりは原発が全然動いてなくても、日本の電力は足りるということだ。
(熊)それなら早く原発はやめると決めちまえばいいのにね。福島では汚染水のプールが漏れてるとかで騒いでるじゃないですか。事故の始末もできない頼りなさで、よく再稼働だ、新しいのも作るなんて言えたもんだ。
(隠)原発やめても、それで汚染水漏れが止まるわけじゃないけどな。でも、ちょい漏れパンツじゃあるまいし、防水シートの穴が問題だなんて、みっともない話だ。トイレのないマンションと言われてたのを、地で行ってる感じになってきたよ。後の始末の悪さ、これが原発の命とりだな。
(熊)ちゃんと計算すると、原発を廃炉にするのも、えらく金がかかるんだってね。
(隠)うん、高木仁三郎さんの計算だと、全部の廃棄物を地層処分すると原発の建設費よりもずっと高くなるそうだ。低レベルは簡単に処理するとしても、それはそれで放射能を撒き散らすことになるから管理が必要になる。どこから見ても引き合う話じゃないんだな、経済的にもだ。
(熊)それなのに、使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出すリサイクルの建前を、まだ続けてるって本当なんですか。
(隠)そうなんだ。先日も新聞に出てたが、イギリスの会社に頼んでた使用済み燃料の再処理費用が、先方もトラブル続きで、えらく値上がりしてるということだ。契約で引取りを拒否できないようだが、いずれは日本の電気料金に転嫁されると書いてあったよ。その後は日本の六ヶ所村の再処理工場で事業を続けるというんだが、これはもう正気の沙汰ではないな。どえらい金かけて、今でさえ使い道に困ってるプルトニウムを、もっと積み上げるってんだから。
(熊)そのプルトニウムの使い道が、MOX燃料ってことですよね。
(隠)それでMOX燃料(ウランとプルトニウムの混合)専用の大間の原発を作りたいってんで工事を進めてるわけだ。こりゃいったい全体何なんだ。原子力村の理屈を押し通してるだけじゃないか。日本の未来のことも、経済のことさえ全然考えてない。それくらい熊公にだってわかるだろう。
(熊)わかりますよ。とりあえず今さえよけりゃいい、問題先送りの典型ですね。

高木仁三郎の「市民科学者として生きる」を読む(1)

 「市民科学者として生きる」(高木仁三郎・岩波新書1999年)を読みました。著者が市民とともにある科学者としての立ち位置を定め、自らのガン発症も知った時点で書いた「最後の一冊のつもりの自伝的自己紹介と未来への提言」です。
 著者は1945年の敗戦時に小学校(国民学校)一年生でした。空襲を受けた記憶があり、敗戦に伴う大人たちの変節ぶりや、戦後民主主義の明るい雰囲気を体感しています。そうした激動の少年期を通して、「常に自分の頭で考えて、何をするべきかを決める」態度を身につけたようです。
 中学・高校では文学少年であったものの、確実な知識・技能を身につけるべく理科に進み、東大では核化学(放射化学)を専攻しました。核の研究が新しい時代を開きそうな漠然たる期待があった、時代の流れに近いところに居たいと思ったということです。
 大学では研究室に残らず、政府の肝いりで作られた日本原子力事業に就職しました。時は1961年です。学生として安保闘争を経験しましたが深入りはせず、就職先では原子炉の建設中で、政治が先行して期待感はあるものの、まだ原子力は産業として成り立っていない段階でした。
 ここで高木氏は、放射性物質の挙動についての基礎的な研究に取り組みました。放射能については未知の領域が大きく、安全対策のためにも、できるだけ解明を進めるべきだと考えたのでした。しかしこれは原子力利用を目的とする会社としては「後ろ向き」の研究と見なされたようです。しだいに会社の中では行き詰まりを感じるようになりました。
 原子力会社での4年あまりの経験を通して、著者は日本型企業に身を置くことの意味を総括しています。そこは「個」として働くことのできない世界でした。会社を支配している空気に従って動いている間はいいのですが、おかしいと思ったことを口にするには勇気が要ります。そんな異分子にならずにいさえすれば、終身の雇用が保障されるのでした。
 高木氏が次の職場に選んだのは、東大原子核研究所でした。

 別件ですが、明日の水曜日は、天候待ちで一週遅れになった「国会一周散歩」に行く予定があります。正午に地下鉄丸の内線国会議事堂前駅改札出口を出発点として、一周の途中または一周後に昼の食事をする予定です。 

「純と愛」が残した「みんなが笑顔になる日」

 この3月に終了したNHK朝のテレビ小説「純と愛」は、視聴率はいまいち上がらなかったようだが、珍しいほど自己主張の強いドラマだった。家人の期待を裏切ってハッピーエンドにならなかった最終回のメッセージも明瞭だった。
 新宿西口仲間の木村(雅)さんは、東京新聞の「反響」欄に投稿が載ったことに関連して、「3.11から2年を経て、素晴らしいメッセージをもらった」とつぶやいている。主人公の最後のナレーションは「私達は未来を変えることができる。より良い世界を造ることができる。奇跡を起こすのは神様ではなくて私達人間なんだから。」と結ばれていた。これが「厳しい闘いを強いられている私達への応援歌」に聞こえるというのだ。
 私も深く同感するのだが、このドラマでは、女性の主人公を、愛(いとし)と名づけられた夫が献身的に支えるという構図にも興味があった。「純さんは、そのままでいて下さい」とは、女性の価値観を中心に据えるということだ。その純の口ぐせは「みんなが笑顔になるように」だった。
 人はどんなときに笑顔を浮かべるかというと、相手を人間として許容するときにしか笑顔を見せられないことに気づく。命令と服従の関係には笑顔は不要で、時には危険でさえある。力関係で人を動かすには、多かれ少なかれ人間性の一部分を殺さなければならないからだ。そうした縛りから解放されている場面で、私たちは初めて笑顔になることができる。
 今の世で何ごとかを訴えようとすると、多くの不機嫌な顔に出会うことになる。デモの警備に当っている警察官の顔がその典型かもしれない。でも「ご苦労さま」と、こちらから先に声をかけると、一瞬表情がゆるむことが多い。その瞬間は「官」ではなくて「人」になっている。相手が人になっている間は「話し合い」が成り立つ可能性がある。デモの現場でも、根性の据わったベテランほど、笑顔を絶やさないことに私は気づいている。
 笑顔で内輪の団結を固め、外に対しては毅然と行動しなければならない場合は、確かにある。けれども人は「人」になったときにしか決めたルールを変えられないものだ。みんなが笑顔になるとは奇跡のようなことだが、所詮は人間を救うのは人間にしかできない仕事になる。政治つまり社会のルールを変えさせて「みんなが笑顔になる」奇跡を実現する原動力は、案外に「笑顔の力」であるのかもいしれない。


こんにゃく座「春のうた会」に行く

 昨夜は「聞いてわかって楽しめる日本語オペラ」の創作と普及を旗印にしている、こんにゃく座の恒例「春のうた会」に行っていました。嵐もようの天候でしたが、宿河原にある稽古場の会場は、ほぼ満席の盛況でした。
 ふだんは旅公演などで一堂に集まる機会の少ない座員たちが、この日は全員が順番に「自分で歌いたいうた」を好きなように歌うという趣旨です。私が初めてこれを聞きに行ったのは、2007年のことでした。ブログを始めた初期にブログ友になった大垣の「みほ」さんが開いた地域コンサートに、私がビデオ記録を兼ねて出かけてみたのが最初の縁でした。
 昨年は、永年の主宰者であった林光さんを追悼するイベントを兼ねて行われ、林光さんの遺志を継いで発展を誓う決意表明のような雰囲気がありました。それから一年、座員の数は40名近くにまで増えており、伸び伸びとした明るさが感じられました。芸達者の「歌役者」たちの個人演技は連年の通りですが、岡原真弓さんの、ピアノを演奏しながらの「マイクなしの弾き歌い」の迫力は、びっくりものでした。
 個人発表を基本にしながらも、クラブ活動的な試みもあります。創部5年目という「ミュージカル部」の出し物は、臨時部員を含めて13人を動員したミニ公演的な立派なものでした。「宿河原七丁目グリークラブ」の男声カルテットは今回初演だと思いますが、BS日テレの「フォレスタ」ばりの格調正しさの意外性で受けていました。
 今回は島田大翼さんがスコットランド民謡の麦畑」(誰かと誰かが麦畑……)を私の訳詩で歌ってくれたこともあり、新宿西口のスタンディングをお休みして行ってきました。雨はしっかり降っていましたが、最後の全員大合唱まで、3部4時間半を見届けました。

高木仁三郎の「原子力神話からの解放〜日本を滅ぼす九つの呪縛」を読む(2)

 原発の安全神話についても、落ち着いて考えれば、そうかと気のつく虚構がいくつもありました。よく原発の放射能は5重の安全策で守られていると言われていました。第一は燃料ペレットに固めて死の灰を閉じ込めていること、第二は金属の細管(燃料棒)に入れて密封していること、第三は炉心は丈夫な圧力容器に入れてあること、第四は圧力容器の外側に格納容器があって炉の全体を収めていること、第五は窓のないコンクリートの建屋で覆っていることでした。
 しかし、燃料を使いやすいように固めるのは当然で、細管に入れて細分するのも使用上の当然の手順です。燃料棒は素手で扱えるようなシロモノではないのですから、この二段階を安全策に数えるのは、おこがましいというものでしょう。建屋がコンクリートでも、放射能にはスカスカの籠のようなものです。結局、意味のある安全装置は圧力容器と格納容器の二重であるに過ぎません。それも、圧力容器が爆発するほどの圧力なら、格納容器が無事なわけがないと高木氏は述べています。
 さらに重大なのは原発の老朽化です。この本が書かれた2000年現在でも、建設から30年に達する原発が増えはじめていました。老朽化によって大小のトラブルが増加する傾向は、統計をとれば明瞭に読み取ることができます。当初は会計上16年としていた原発の耐用年数は、初期投資が大きい経済上の理由で40年とされ、さらに一定の条件を満たせば20年の延長が論じられるようになりました。安全の確認よりも経済の都合が先行していることに、高木氏は不安を感じています。
 日本でも原発の新設は難航するようになり、どう見ても先細りの産業であることは争えなくなってきました。そこで心配なのは従事者のモラルの低下です。相次いで明らかになるトラブル隠し、データの改ざんなどは、その大半が内部からの告発により明らかになったものです。告発者がいないところで水面下で処理された不都合がどれほどあったかは、外部から知る方法がありません。
 そして最後の難問が廃炉の費用です。放射能を厳重に管理して地層処分し更地にもどす場合は、高木氏の計算によれば、建設費用の2倍近くを要するとしています。これを切り下げるには、低レベルの放射線が環境に拡散するのを許容するしかありません。化石燃料で温暖化ガスを増やすのよりも安全と言えるだろうかと問題提起しています。
 最後にパンドラの箱のたとえが語られていました。余剰プルトニウムは、高レベル廃棄物を守護神に混合し、誰も近づけない忌避物として処分するしかありません。人類史上最大の災厄を地上にもたらした後に、それでも一つの「希望」を残すことができるでしょうか。私たちの目前にある選択肢です。

高木仁三郎の「原子力神話からの解放〜日本を滅ぼす九つの呪縛」を読む(1)

 「原子力神話からの解放〜日本を滅ぼす九つの呪縛」(高木仁三郎・講談社+α文庫・初版は光文社カッパブックス2000年)を読みました。著者の「遺言シリーズ」の一冊です。九つの神話の呪縛とは、以下の通りです。
「原子力は無限のエネルギー源」という神話
「原子力は石油危機を克服する」という神話
「原子力の平和利用」という神話
「原子力は安全」という神話
「原子力は安い電力を提供する」という神話
「原発は地域振興に寄与する」という神話
「原子力はクリーンなエネルギー」という神話
「核燃料はリサイクルできる」という神話
「日本の原子力技術は優秀」という神話
 これらはいずれも今では虚構であったことが知れ渡っていますが、石油危機を脱したばかりで、原子力依存を強めようとしていた当時にあっては、異端の少数意見であったのでしょう。当時の私も、反核の運動があることは承知していましたが、これらの本を読まずにいたのは不明の至りでした。もし読んでいれば、もっと早くに自分の態度を決めていられたでしょう。
 原子力を爆弾として開発したのは許されなくても、発電に使うのならいいのではないかと何となく思っていました。しかし、この本の前半部分では、原子炉を運転すればプルトニウムが生成されること、そしてプルトニウムはウランの濃縮よりもずっと簡単に、原子炉レベルでも爆弾として使用できることが、よくわかりました。パキスタンなど後発国の核兵器は、すべてプルトニウム型で作られたのでした。平和目的専用の核技術などは、あり得ないのです。
 原発で作る電気は安いというのも、詐欺的な計算操作で作り出した宣伝でした。廃棄物の処理費用は、方法が未定ということで算入せず、競合する火力発電の輸入燃料費は、古い円安の為替レートで計算するなどの小細工を重ねているのです。その一方で、原発は出力の調整ができず、需要に合わせた運転のためには揚水式発電所など大きな関連施設を必要とするといった使い勝手の悪さは隠されて、発電単価だけで比較していました。

ブログ連歌(310)

6179 限りある 命に続く 生命あり (みどり)
6180  誰が守るの 幼き子らを (うたのすけ)
6181 三都市の 評価は似たり よったりか (うたのすけ)
6182  心情的には イスタンブール (建世)
6183 東北の 復興五輪と 重なれば (うたのすけ)
6184  さても目出たし 米寿の祝い (建世)
6185 それまでは ピンピン生きて コロリとな (うたのすけ)
6186  みんな仲よく あとは白浪 (建世)
6187 大海の 恵み戴き 潤えり (みどり)
6188  ひょうたん島の 灯台赤く (建世)
6189 ひょっこりと あの世の子等を アニメにす (みどり)
6190  アトムも昔 ヒーローだった (建世)
6191 栄誉賞 参院選に 利用かな (うたのすけ)
6192  イチロー辞退 先見の明 (建世)
6193 歌舞伎座と 栄誉賞とで 一日が (うたのすけ)
6194  アベは春から 大見得切って (建世)
6195 アベ旋風 春の嵐に 打ち勝つか (うたのすけ) 
6196  薄汚れてる 遅散り桜 (建世)
6197 みちのくに 春が到来 桜咲く 
6198  アベノミクスとは 桜と似てる (パープル) 
6199 なりふりも 構わず猪突 猛進す
6200  白から黒だ 株価は踊る (建世)




高木仁三郎の「原発事故はなぜくりかえすのか」を読む(2)

 一定の既定方針というか枠組みが決まってしまった政策の中で、政・官・財の強力な癒着構造が完成することは、他の公共事業などとも共通する日本政治の問題点です。原子力政策では、これに「学」が加わりました。基本政策を検討するための機関は事あるごとに設置されるのですが、その事務方として万事をとり仕切るのは官僚です。
 高木仁三郎氏はすでに批判的な学者・技術者として知られていましたが、「決定権のある委員会に参加するのは無理ですが、審議会に入って少数意見を記録に残すことはできます」と、明らさまな言葉で誘導を受けたと証言しています。そのような「村のオキテ」的な予定調和の中で日本の原子力政策は推進され、その程度がだんだん悪くなりつつあるというのが、この本を書かせた動機でした。
 それと、技術者の変貌ということもあります。高木氏のように初期の原子力開発にかかわった人たちは、自分の実験装置で放射性物質を扱った経験を持っていて、放射線の強さを機器の熱として実感したり、放射能の意外な漏れやすさに驚いたりした経験があります。しかし理論物理から入った技術者は放射能を抽象的な数値としてしか把握しておらず、コンピューターの操作が大半の仕事を占めています。
 そこから、都合の悪いデータは隠蔽し、やがて改ざんへと進む誘惑が生じます。自分の手で計測したデータであれば、それを改ざんすることは良心の否定ですから簡単にはできませんが、複雑な計算に使うデータの一部に不都合があった場合は、少しの修正で全体が無事に納まるのであれば、そうすることにあまり抵抗を感じなくなるというのです。
 そして最後に提案しているのがパッシブ・セイフティーということです。原子力開発はアクティブ技術の極致の位置にあって、物質の安定要素である核を壊してエネルギーを解放しようとするものです。そこから発生する危険を、より大きな力で抑え込むというのが、今の原子炉の基本的な姿です。しかしそこには常に、放置すれば暴走する危険が伴いつづけます。
 それに対して、たとえば重力による制圧、熱伝導による拡散・冷却など、自然法則に従った安全策が考えられるのではないか。しかし、原子炉のエネルギーは、おそらく超越的に巨大でしょう。結論として原発にはパッシブ・セイフティーは効かないのです。そうであれば唯一の安全対策は、これを廃止することです。

本日の国会散歩は来週に延期します

 東京地方の天気が悪いようなので、正午からの国会一周散歩は見合わせることとしました。来週になれば、暖かい春らしい日になっているかもしれません。
 誰でも、いつでも、思いついたときに、どこでも、意思表示をしながら歩けるのが理想です。
 長い道は、ゆっくりと歩きましょう。
 いっしょに歩く人が一人でもいたら、もっと遠くまで行けますね。

高木仁三郎の「原発事故はなぜくりかえすのか」を読む(1)

「原発事故はなぜくりかえすのか」(高木仁三郎・岩波新書2000年)を読みました。著者の絶筆となり、発行が没後となった一冊です。JCOの臨界事故を受けて、これだけは書いておきたいと、最後は闘病の床で口述したということです。内容は
1 議論なし、批判なし、思想なし
2 押しつけられた運命共同体
3 放射能を知らない原子力屋さん
4 個人の中に見る「公」のなさ
5 自己検証のなさ
6 隠蔽から改ざんへ
7 技術者の変貌
8 技術の向かうべきところ
 の8章から成っています。一見してわかるように、独自の論理で固まった「原子力村」(当時はそんな言葉はありませんが)の独善性と、そこから予想される悲劇的な破綻を警告しています。当時は「もんじゅ」のナトリウム漏れ、東海村再処理工場の爆発、そしてウラン溶液をバケツで注いだJCO臨界事故と、2年おきに重大事故が発生していました。
 そのたびに政府は事故調査委員会を設けて事故の検証をするのですが、その報告書は責任を個人の不注意や点検ミスに矮小化して、大筋では間違っていなかった、注意すれば防げるし現に深刻な事態には至っていないという、自己弁護に終っているのでした。
 どうしてそのような体質になったのか、高木氏は原発事業が、政治家の決定による「上からの既定方針」として降りてきた不自然な成り立ちに由来すると見ています。従来の日本の職人たちの感覚が通用しない特殊な技術と見なされ、しかも複数の企業が分担する境界があいまいで、そこから初歩的なミスでも見逃してしまう無責任体制が蔓延したというのです。
 ちなみに4の「個人の中の『公』」とは、役人の感覚ということではなく、職人であるべき技術者の、社会の期待に応えるべき役割という意味です。放射能を自分の手で扱ったことのない人たちが決定権を持つ特殊社会の危うさは、高木氏の目には、はっきりと見えていました。

 別件てすが、明日は第一水曜日なので、私は正午に地下鉄丸の内線国会議事堂前駅改札出口を出発点として、議事堂を一周する「アピール散歩」をし、国会記者会館(誰でも入れます)で昼食をする予定です。お天気は雨のち曇りで少し寒いでしょうか。いつものように私の予定を書いているだけですが。


エイプリルフールでもいいから言ってみたい5大ニュース

★1★ 原発の全面停止を決定。除染・復興と廃棄物処理に全力を注ぐこととなった。
★2★ 竹島は韓国に譲渡することで包括的に和解。尖閣諸島は「存在しない」こととして海洋利用し、保安管理のみ日本が担当することで合意成立。北方領土は国後、色丹、歯舞の3島返還プラス経済協力で決着した。
★3★ 日、韓、中、朝、露の5カ国で相互不可侵の平和条約が成立し、日米安保条約は5年以内に解消してアメリカ軍は日本から撤退することとなった。
★4★ TPP交渉は凍結し、東アジア経済共同体に向けた論議を先行させることとした。
★5★ 衆議院の選挙制度は、比例代表を小選挙区よりも優先する「併用制」の採用が決まった。民意が投票結果に反映しやすくなり、真の二大政党による政権交代が期待される。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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