志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2014年01月

「エネルギーを選びなおす」を読む

 「エネルギーを選びなおす」(小澤祥司・岩波新書)を読みました。原発問題を含めて、人間生活とエネルギーの問題を、人類史的に包括的に考察した「見取り図」のようで有益な本でした。人間は、あたかも狩猟民族のように手当りしだいにエネルギーを食い散らかしてきたが、もう先は見えてきた。そろそろ「飼育エネルギー」で持続的に暮らすことを考えたらどうかという、目からうろこ的な視点を与えてくれます。
 石油と電気の普及は、現代の大量生産、大量消費の文明を支えてきました。その裏には資源の発掘と廃棄物投棄の両面から、地球環境への負荷があったのですが、その限界が見えはじめているのが現代です。エネルギー資源発掘の効率は、投下したエネルギーと獲得されるエネルギーとの比率で計算されますが、有利な条件の資源は枯渇して、効率はしだいに1に近づいて行きます。
 この現状から、持続可能な文明社会へ移行するには、再生可能エネルギーの循環の中で人間生活が成り立つ方法を、何としても構築しなければなりません。しかしそれは石器時代の生活に戻ることを意味しません。利用できるさまざまな技術があるからです。
 この本を読んで反省させられたのは、エネルギー問題は、今は電力問題に偏り過ぎているということです。電気は便利ではあっても、発電、送電の過程で必然的にロスを生じます。とくに冷暖房に使われる電力は、もっと低温の熱源で置き換え可能なものです。そして遠隔地からの大規模送電よりも、消費地に近接した地産地消型の発電が有利なことも明らかです。
 さらに人が使えるエネルギーは、すべて太陽に由来するわけですが、太陽光発電だけが本命ではないと著者は言います。熱源としての太陽は、とくに住宅の冷暖房用として開発の余地が大きいのです。太陽光発電も、広い面積を覆い尽くすのではなく、設置方法を工夫して日照時間を分散すれば、農地との共存が可能になるとの実証もあります。
 かつての農村は、自給自足のエネルギーで生産活動を継続していました。日本の森林は、外国材に押されて放置されていた40年間に、ほぼ同じ面積なのに木質のエネルギー量は2倍以上に膨張しています。この膨大な資源だけでも、大きな可能性を秘めているのです。
 現在のエネルギー浪費社会は、たかだかこの100年ほどの現象に過ぎません。コンパクトで効率のよい新しいエネルギー・システムは、地域ごとにさまざまな産業や雇用を生み出しながら、人間にとって身の丈に合った生活を再生するに違いないのです。

安倍イズムが教育に手を伸ばしてきた時代錯誤

 中高の教科書に「竹島と尖閣は日本の固有の領土」とする政府見解を、必ず記載するようにという指導要領の書き換えが行われて、さきに当ブログでは固有の領土という呪縛で「百害あって一利もない」と論じたところだが、安倍イズムの教育への関与は、さらに広範囲に及んで行くようだ。
 「道徳教育の教科化」というのも最近の新聞で見た。昔の小学校では「修身」は、すべての教科の最初に置かれていた。帝国臣民としての心構えが何よりも大切であって、これがしっかりしていなければ、すべての知識・技能も無意味だという考え方だった。現代の日本に、国が定める「あるべき国家像」を確立したい願望があるのだろう。
 そして昨日の新聞では、教育委員会制度の見直しを本格化するとの記事が出ていた。教育が軍国主義に利用された反省から、政治権力が直接に教育に関与できないよう、中立性を保つために作られた制度だが、これが「無責任な教育行政システム」だというのだ。
 たしかに非常勤の委員からなる教育委員会には、いじめ問題などで対応に遅れをとるといった欠点も指摘されてきた。教育委員の公選制も、結局は日本では根付かず、任命制になってしまった。それでも教員人事や教科書の採択などでは、合議制によって自主的な判断をするという、一定の中立的な役割は果たしてきた。それを、自治体首長の付属機関に改めて、首長の権限を強化するのが「見直し」の骨子であるようだ。
 つまりは政治主導の強化なのだが、自治体の首長は選挙で選ばれる。たとえば沖縄などでは、かなり本土とは違った教育行政が行われる可能性が出てきそうだが、それは地方自治として容認するのだろうか。市町村に対しては都道府県が、都道府県に対しては国が、何らかの「指導」をしたくなるのではないか。つまり最終の目的は、教育の中央集権化ではないのだろうか。 
 教育は次の世代を育てる大切な仕事だが、世界の未来にどんなイメージを持つかで方向性は変るだろう。国境を超えた融合が進んで明るい未来が開けると信じれば、多様な価値観を受け入れられる自由な心を育てたい。
 その反対に、依然として国家間の紛争が絶えない乱世をイメージすれば、愛国心に富み統制に従う忠実な国民こそが国の宝だと思い込むだろう。安倍イズムがどちらを指向しているかは明らかだと思う。私はこれを時代錯誤と考えざるをえない。

ブログ連歌(347)

6919 アノ知事は 五千万円 総理一億 (うたのすけ)
6920  出馬を前に しばし評定 (建世)
6921 金次第 ゆがむ世相の 底にあり (みどり) 
6922  金権でなく 人権の世を (建世)
6923 沖縄の 屈辱ふかき 基地の害 (みどり) 
6924  民意明らか 米軍は去れ (建世)
6925 危惧するは 鉄のパイプと ヘルメット (うたのすけ)
6926  守礼の国は 乱を好まず (建世) 
6927 不気味なり ゾンビもどきが 二人して (うたのすけ)
6928  老いの執念 はたまた預言? (建世)
6929 選挙あり 君の青春 燃え立たせ
6930  見極めたまえ 明日への平和 (みどり)
6931 大寒を 過ごせば萌える みどりあり (建世)  
6932  こわごわ下る 坂に蝋梅 (みどり)
6933 初場所が 終わって興味は 都知事選 (うたのすけ)
6934  鶴竜やはり モンゴルだった (建世)
6935 イルカが 可哀そうなら ジュゴンを救え (獣医さん)
6936  差別偏見 自然保護にも (建世)
6937 乱立の 知事選すさぶ 風の中 (みどり)
6938  苦衷の選択 棄権は危険 (建世)
6939 人任せ 諦観打破の 心意気 (みどり)
6940  吉凶いずれ 残る旬日 (建世)

戦争のできない時代に戦争のできる国になりたい時代錯誤

 今年は第一次世界大戦が始まった1914年から数えて100年目に当る。当然のことだが、この戦争は、第二次世界大戦の以前には、単に「世界大戦」と呼ばれていた。世界を巻き込むような大戦がまた起こるとは、誰も予想しなかったからだ。この大戦は1918年まで4年あまりに及び、両軍合わせて1000万の戦死者を出したが、その多くは軍人だった。
 戦争の惨害に衝撃を受けた各国は、講和とともに「世界の恒久平和」を願って国際連盟を発足させたが、講和の内容は旧来の「勝者の権利」に固執したものだったから、敗戦国側には不公平感と深い恨みを残した。その無理が根源となってナチス・ドイツの台頭を許したのだから、第二次の世界大戦は、第一次の継続と見ることもできる。第一次の終結から21年しか間をおかずに、第二次世界大戦は1939年に勃発している。
 日本はこのときドイツの権利回復要求に便乗して「東亜新秩序」を目論み、米英に宣戦布告して参戦してしまった。第二次世界大戦による戦死者は、軍人が2500万人、民間人は3700万人とされている(諸説あり)。民間人の死者は、勝った側の連合国側の方が圧倒的に多い。その多くにアジアの日本軍が関係している。第二次世界大戦は1945年8月に日本が降伏して終った。
 さて、この二つの大戦の始まりから終りまでの期間は、31年間であり、意外に短いのがわかる。わずか一世代の長さだから、最初から最後までを経験した人も少なくはない。ただし100年目になるのだから、語り部として生存している人は、日に日に少なくなっている筈である。
 1945年以降いまに至るまでの69年間に、世界大戦はおろか、国と国とが宣戦布告して戦う戦争は起こらなかった。兵器は進歩し、一瞬にして世界の全体を戦場にしてしまうことが明らかになり、安易な開戦ができなくなった。国家間の経済的な相互依存が深まって、資本の論理からしても、採算のとれる戦争は、ありえなくなってしまっている。
 それでも各国が兵器の近代化競争をやめないのは、軍事力が外交力のカードになると思い込んでいるからに過ぎない。世界戦争の時代は、20世紀前半の31年間で、もう終っているのだ。そのあと2倍以上の長い時代を、世界は戦争なしに過ごしてきている。「戦争」と名がつくのは、地域的な紛争としての非対称な実力行使ばかりである。
 この時代に「積極的平和主義」とやらを看板にして、「世界で戦える軍事力国家」を目指すというのは、どこから見ても時代錯誤ではないのか。費用対効果から考えても、軍備の増強が平和に役立つというのは、信じがたい「神話」としか思えない。

都知事選挙の序盤形勢と政策の「争点」

 都知事選挙の序盤の形勢を調査した結果がマスコミ各社から発表されたが、舛添リードで細川、宇都宮、田母神が追っているというものが多かった。その理由として、都民の関心の高さから言うと、「雇用・景気」と「福祉・安全」の方が、「原発・エネルギー問題」よりも上位になっていると解説されていた。
 舛添要一氏の経歴などを改めて調べてみると、厚生労働大臣を長く務めており、自身にも痴呆症の母親を介護した経験がある。自民党の中では決して主流ではなく、少なくとも原発推進論者ではない。一時は「自民党の役割は終った」として脱党し、除名処分を受けている。だから自民党としては、小泉進次郎のように「舛添氏を応援する大義はない」といった論もでてくるわけだ。
 ところがこの形勢を見て、自民党が本気で舛添支援に乗り出すというのだから面白い。本来なら安倍路線に近いのは田母神だったと思えるのだが、勝てそうもないと見て乗り換えたと見ることもできる。細川に負けるよりは良い次善の策というところか。
 こう見ると、最初から安倍路線の完勝はなかったということになる。舛添リードが最後まで続くとしても、都民の意思で安倍路線へのブレーキを、首都から発信する可能性は残る。こんなことを書くと敗戦の準備をするのかと言われそうだが、ここで終りではない。
 本当は「原発・エネルギー問題」がこの選挙の最大の争点なのだ。景気も福祉もオリンピックもそれぞれ大事だろうが、それらの受け皿となる日本の国土そのものが、原発の不安を抱えたままでいいのかということだ。舛添が当選したら、安全策などいろいろな条件はつくだろうが、たぶん原発は再稼働を始める。核のリサイクルという架空の神話も生き延びることになる。核処分の最終決定が、来世紀へ向けて先延ばしされることになる。
 原発の問題は、当面の景気や福祉やオリンピックとは次元が違うのだ。事の大小を見誤ってはならない。脱原発は、この選挙で勝たなければならない。しかし結果がどうであれ、脱原発の運動に終りはないということだ。政府の方針が脱原発で確定するまでは。

農薬混入事件と契約社員の悲哀

 冷凍食品への農薬混入事件では、おぼろげながら事件の全容が浮かんできた。8年間勤続しても契約社員のままで、待遇に不満を抱いていた「中堅社員」が容疑者とされている。妻子があり、一戸建ての家に住んでいたというから、生活が楽だったわけがない。一方でバイクとか昆虫飼育、コスプレなど、趣味の豊かな人でもあったようだ。それだけに金銭的欲求も強かったかもしれない。
 もちろん食品に農薬を混入するのはテロ行為そのもので許されることではないが、攻撃の相手は誰だったのだろう。誰が食べるかわからないものに仕掛けるのだから、特定の個人が標的ではない。職場を大混乱させ、打撃を与えてやろうという、自分の会社への復讐心が抑えられなくなったのではなかろうか。その前段階には、待遇の改善を求めても得られない絶望があったようだ。
 会社はおそらく管理体制の不備を批判されて、管理強化の対策を急ぐだろう。製造ラインに立ち入る人間を厳しく制限するなどの対策が考えられる。それは必要なことだろうが、工場で働く人たちの意識を、全体として明るく前向きなものに変えて行く努力をしなくていいだろうか。
 この工場では、従業員の7割が契約社員だという。正社員と契約社員との間には待遇で大きな差があるが、契約社員であってもベテランは新人の指導などもしていたということだ。契約社員でも優秀なら正社員になれる場合もあるが、その枠は年に数名で、非常に狭い門だったという。同じような仕事をしながら、「社員」と「契約」という身分の差があったら、職場は明朗闊達な雰囲気にはならないだろう。
 工場でも全員が正社員なのが当り前だった日本の職場が、パート、派遣、下請けなどの自由化で「雇用破壊」を起こしてから久しくなった。国際競争力のために必要だと説明されてきたのだが、それが職場の中に明からさまな差別として持ち込まれるのでは正義に反する。「働き方の多様化」は、野放しのままでは労使対等の原則を破壊する。
 私はこのニュースを聞いて、心ならずも現在非正規の身分で働いている人たちの心情を思い、暗然たる気分になった。歯を食いしばり、まじめに努力している人ほど、やりきれない怒りに似た衝動を感じたのではないか。石川啄木に「ココアのひと匙」という詩がある。
 
 われは知る、テロリストの 
 かなしき心を
 …………
 奪はれたる言葉のかはりに
 おこなひをもて語らんとする心を……

家入一真(いえいりかずま)のインターネット選挙が面白い

 東京都知事選挙の候補者の中で、家入一真のインターネット選挙が面白い。マスコミでは有力候補として扱われておらず、公設の掲示板にポスター貼りも完了していないのだが、インターネットを通じての選挙運動に、初めて本格的に取り組んだ候補者と言えるだろう。
 ポスター貼りで言えば、「東京をぼくらの街に」というキャッチコピー入りのポスターを、手分けして貼っていくことを活動の一つの柱にしている。それらを伝えるツイッターとフェイスブックの「#ぼくらの政策」を窓口として、政策自体をみんなの参加で作って行こうというのだから、こんな候補者は今までにいなかった。
 年齢は1978年生れの35歳、IT企業を創業して、29歳のときに最年少でJASDACに上場したということだ。かねてから「インターネット政党」を立ち上げる構想を持っていた天木直人氏は、そのブログで「インターネット政党は利権を求めて政権争奪に明け暮れる政党ではない。権力の不正を監視し、もうひとつの政治をみずから実践する政党である。東京都知事選後の政治的混乱の中で、家入氏がそれを目指す事を期待したい。」と書いている。
 この文面では、天木氏は家入氏の今回選挙での当選は無理と見ているようだが、最初から当選をあきらめている候補者はいないだろう。思い描く未来図の中には、都知事になったらやってみたいことが満ちている筈である。
 家入版「インターネッ党」は、資金集めの方法もユニークだ。「クラウドファンディング」で政治の常識をひっくり返そうと呼びかけている。そして、いかにも起業家らしいのは、政治資金として寄付を求めるのではなく、対価としての「商取引」を提供しているところである。
 目標金額は500万円なのだが、売り出している「ギフト」は、500円から50万円までの8種類ある。500円だと、本人からの感謝メールと投開票日のイベント入場チケットだが、2000円からは党のグッズが貰える。5万円以上は数量限定で、家入氏を囲むランチがついたり、ディナーがついたりする。そして最高額の50万円では、家入氏による90分以内の講演会がセットされているから、グループや団体向けのようだ。
 このファウンディングは昨日から始まって今月末に締め切られる。私が今朝見たときは170万円までだったが、いま見ると205万円まで行っている。果たして目標をクリアしてギフトの内容を実行できるだろうか。投票結果がどうなるかを含めて、興味深い候補者ではある。
 インターネットが選挙にどれほどの影響力を及ぼすのか、これまで信頼できるデータが少なかったが、家入氏の場合はインターネットに特化した選挙を自ら標榜している。インターネットの実力を占う事例として注目したいと思う。
(追記)どのようにアクセスするかは、あえて私のブログでは示さないので、各自に検索して確かめてください。

政党政治の終焉を考えてみた

(熊さん)ご隠居、このところ都知事選挙で考え込んでるみたいですね。
(ご隠居)おお、ちょうどいいところだ。ゆうべから「深山あかね」さんとコメントをやりとりしてるうちに、政党政治の終焉ってことを考えたんだよ。都知事選挙の候補者は、全員が無所属だよな、これを国会議員に応用したら、どうなるかってことだ。
(熊)えっ、政党を全部やめちゃうんですか。
(隠)もちろん結社の自由は憲法で保障されてるから、政党の結成は禁止できないさ。だけど、国会を会派別の勢力で運営するのを、やめてみるんだよ。全員を無所属にして平等の権利を認めることにするんだ。党議拘束というのはなくなって、首相の指名では単純な多数決で選ぶことにする。そこで選ばれた首相が、党派に関係なく考え方の近い人物を選んで組閣をして、政府をつくる方式にするんだ。
(熊)へー、すると、首相の指名ってのが、とても大事になりますね。
(隠)その通りだ。大統領を選ぶようなもんだな。国民が直接に選ぶ大統領じゃないが、国民が選んだ代表が選ぶ間接の大統領選挙みたいなことになる。その首相が失政をしてまずいことになったら、議会が不信任案を通して、選び直しをすればいいんだ。首相の権限は大きくなるんだが、解散権は議会だけが持つことにしておけば、首相が解散権で議会を脅かすことはできなくなるな。
(熊)ふーん、でもさ、今の制度と、あんまり違わなくないですか。
(隠)いや、政党の中で権力闘争に勝ち抜かないと首相になれないという、無駄なエネルギーが要らなくなる。政策がよくて説得力さえあれば、小さな政党からでも首相が誕生する可能性が出てくるわけだ。議員も政党の縛りが弱くなって、他の党へ移ったり、純無所属になったりを自由に選べるから、政党の対立で議会が硬直するなんてこともなくなる。
(熊)そこは良さそうだけど、議会の運営とか選挙制度にだって関係してくるでしょう。
(隠)議会の運営は、基本的に議員の中の選挙で何でも決めて行くようになるだろうな。選挙制度も政党本位をやめて、個人として選ばれやすいように変えなくちゃいけない。選挙区なんてのをやめて、全国一律で選ぶようにしたらいいかもしれないな。地域の代表が欲しい場合もあるだろうが、それもその地域の人たちに任せればいいんだ。
(熊)なんだかまだ雲を掴むような話ですね。
(隠)そうだろうよ。わしも一晩考えてみただけのことだからね。だけど、今の政党政治が、あまりいいものとは思えなくなってきたんだよ。都知事選挙を見ていての感想だな。

都知事選挙の下馬評、その2

 昨夜の老人党護憲プラスの例会でも、話題の最後は都知事選挙だった。私も意見を求められたのだが、やはり「情勢を見て票を無駄にしないように」としか言えなかった。護憲プラスの集まりだから、もちろん宇都宮か細川か、どちらを選ぶのが有効な投票になるかという話になる。
 筋としては宇都宮なのだが、いくつかの不安要素がある。共産党は前面に立って応援に入っているいるけれど、にもかかわらずと言うべきか、だからと言うべきか、10%の支持率あたりが限界ではなかろうかという予想にも一理がある。
 結論は出ないまま帰宅してから、細川・小泉コンビの選挙戦第一声(約20分)を聞いてみた。
http://www.youtube.com/watch?v=phDL5--FeJI
細川氏は「価値観の変換」「平和の問題」「脱原発」を3本の柱として話していた。人口減少の成熟社会への変換は、経済発展一本槍では行かないという論旨は明快だった。「平和」では、おもにオリンピックに関連させて、平和の祭典として奇をてらわず実質本位にと述べていた。最重要の「脱原発」では、やや理屈っぽい講義のような調子になった。自然エネルギーの開発で脱原発の新モデルを作るというのだが、あまり迫力は感じられなかった。
 その点では、小泉元総理の方が役者は一枚上だった。都民の安全、福祉の向上、オリンピックの開き方などは、誰が知事になってもやることだから大した違いはない。いちばん大事な選択は、安いエネルギーどころか、底なしのコストと未来への不安を作り出す原発と縁を切ることだ。その方向づけをするのがこの選挙戦だという、得意の「一点突破」演説は、応援演説というよりも、むしろ主役のようだった。
 さて、この「元総理コンビ」の選挙戦は、東京の風を呼び込むことができるだろうか。要は舛添に勝てる選挙になるかどうかということだ。その意味では、田母神に多くの票が出て保守票が分裂し、安倍支持勢力内の不協和が拡大する方向になると面白い。
 結論として、細川に勝ち目があれば細川を選ぶ、それがだめそうなら、共倒れを覚悟して宇都宮に義理を立てる、というところだろうか。これから先は、情勢を見ながらの「浮動票」になる。ただし、今のところの「下馬評」なのだが。

映画「100,000年(10万年)後の安全」をネットで見た

 この22日から2月10日正午まで、期間限定で、マドセン監督の話題の映画(日本語版・1時間18分)がネットで見られるのを知らせてくれた人がいて、昨日の夕方に見ることができました。
http://www.uplink.co.jp/100000/2014/
2010年に制作された映画で、日本では福島原発事故を受けて2011年4月から全国70館以上で緊急上映されたとのことですが、私は知りませんでした。小泉元首相を、原発ゼロ論者に変えた要素の一つになったとも言われます。東京都知事選挙の参考資料になりそうです。
 フィンランドは現在2個所の原子力発電所で電力需要の約30%をまかなっています。1個所は旧ソ連の技術が入っており、使用済み核燃料はソ連に送って再処理する契約でしたが、ソ連の崩壊により、現在はすべての核廃棄物を自国内で最終処分すると定めています。このため岩盤の安定している原発所在地に近いオルキルオト島の地下深くに、最終処分場の建設を進めているのです。
 その安全基準は、核廃棄物が生物にとって危険でなくなる10万年後まで安定保存し、今後100年以上かけて廃棄物をすべて収納した後に封鎖するという、壮大なものです。そこで問題になるのは、10万年後まで危険な廃棄物を絶対に掘り返さないように、後世の人たちに伝える確実な方法があるのか、ということです。
 ある研究によれば、数万年のうちには大氷河期があって地上の生物相が一変するという予想がありますが、それを生き延びた「新人類」は、今の人類の言語を理解するでしょうか。そこで非言語的なマーカーで「危険!掘るな」を伝える方法として、ムンクの「叫び」の絵を使うという提案が、まじめな議論の中で登場しているそうです。
 映画は、私たちと「10万年後の人」との対話として展開して行きます。私たちは古代の遺跡に「掘るな」と書いてあっても、ピラミッドの奥底まで発掘調査しました。10万年後の人たちがプルトニウム廃棄物を「宝の山」と考えたとしても、それを止められるでしょうか。
 原発を使ってしまった責任の始末を、世界の優等生として果たそうとしているフィンランドの人たちでも、これほどの苦悩の中にいるのです。フィンランドの10倍もの原発を抱えながら、「気をつけて使えば大丈夫、あとは何とかなる」と決め込んでいる日本の政治家たちには、この爪の垢ほどの責任感もないのでしょうか。
 原発の問題は、人類が過去に経験したことのない最大の危機なのです。これに無関心でいていい人は、地方にも国にも世界にも、一人もいません。


これが本当に「豊かさ」なのだろうか



 洗濯用の「小物乾し」が壊れたので、新しいのを買わなければと思っていた。前のものは補修しながら長年使ったので、どこで買ったか覚えていないが、たぶん角にあった金物店だったろう。その店は、もうなくなっている。
 昨日の夕方、別な用で歩いていたら、百均ショップの店前に、ちょうど良さそうな大きさのものが並べてあった。ピンチが18個ついていて、価格は特段の表示がないから105円と思われたが、にわかには信じられなかった。安すぎるのではないか。しかしレジへ持って行ったら当然のように会計して大きな袋に入れてくれた。
 持ち帰ってつらつら眺めると、鎖部分も含め、ほとんどすべてプラスチック製で、言わずと知れた中国製である。しかし18個のピンチだけでも、私の感覚では100円なら安いように思われた。この複雑な形状を組み上げるには、かなりの手作業が必要な気がするが、労賃はどのように計算されているのだろう。
 以前にインドネシアに行ったとき、日本の金が現地では異様なほど高額に「化ける」のを実感したことがある。物の値段が、交換レートで計算すると、考えられないほど安くなって、日本の昭和30年代にタイムスリップしたように感じたものだ。それが今は街頭で日常的に起きている。
 経済のグローバル化によるデフレ現象なのだが、これは本当に豊かになったと言えることなのだろうか。サービス業の理髪業界では、1000円カットのチェーン店が強くなってきた。そこでは従業員が1人10分の時間割で忙しそうに仕事をこなしている。一方では閉店や閑散化した理髪店が多くなっているに違いない。ここで起きたことは、理髪業という業界としては、長時間低賃金労働化と失業の増加でしかなかったのではないか。理髪代が安くても人の髪が伸びる早さは変らないのだ。
 この根底には経済の「競争」がある。そこでは大量生産と大量消費のシステム化が勝者となる。それによって人々は豊かになるというのが大義名分なのだが、本当にすべて正しいだろうか。強いところに資本を集中したい「資本の論理」は、必然的に富の偏在と格差の拡大を生む。物の安さを喜んでばかりいて、いいのだろうか。

休すれば通ず

 能登の禅僧、市堀玉宗さんの数日前のブログに「休すれば通ず」というタイトルがあった。ふつうは「窮すれば通ず」と書いて、人間、進退ままならず行き詰ったと思うときでも、意外な活路が開けることがあるという意味で使われる。運を天に任せるというか、自分を投げ出した感じのときに、固定観念を破れる場合があるのだ。
 これを玉宗さんとしては、窮する前に心を「休する」のが仏法にかなうと述べている。仏道はもともと心を自由にして窮することのない生き方を志しているからだ。それでは何を「休する」のかというと、もちろん「我執」をである。
(以下引用)
 ものを見、聞くにつけて人間は「事実そのもの」を受け入れることが出来ない。「私」という「屈折」を経てしまう癖から抜け出せない。それが迷いや間違いの元ではないのか。なにかにつけて理屈や説明や言い訳を用意し、或いは後付けしなければ気が済まない厄介な存在者である。一体であることだけでは落着せず、なにかにつけて線引したがる癖がある。ああでもない、こうでもない。ああしたい、こうしたい、俺が、お前が、等々、「思い」に引き摺られ、引き摺り、いつの間にか「宙に浮いた」ような世界を創り上げ、挙句の果てに、右往左往、四苦八苦の煩悩の炎が絶える事が無い。
 仏道はそれを「休しないか」というのである
 すべての物事は私の「思い」や「欲望」に関わりなく事実として成り立っている。つまり「通じて」いる。なるようにしかならない。然し、そこに私の見解が割り込んでくる。人間が万物の霊長にして、厄介な動物である所以。仏法はそれでいいのかと諭しているのである。
(引用終り)
 卑近な例だが、私がこの玉宗さんの記事に心を引かれたのは、都知事選挙の候補者のことを考えていたからだと思う。宇都宮氏を支持すべきなのか細川氏でいいのか、両方の情報を読めば読むほどわからなくなってくる。最後は選挙情報の予想を見て、勝ち馬に乗れば死票になるまいと、かなり投げやりな考え方もしている。「それでいいのか」と思うわけだ。
 この場合、何が何に「通じて」いるのだろう。東京の選挙を能登のお坊さんに判じてもらうのも情けないが、投票の前に座禅でもすればいいのだろうか。事前の立候補予定者の公開討論会さえ開けないまま本番に突入しそうである。

歯の「8020運動」で表彰された



 昨日の日曜日は名護市長選挙の稲嶺勝利で、いい日でしたが、私にはもう一ついいことがありました。8020運動とは、平成元年から歯科医師会と厚生省が始めたもので、80歳のときに自分の歯が20本残っているのを目標にしようということです。この条件に私も該当するので、かかりつけの歯科の推薦で、中野区歯科医師会から他の50数名とともに表彰されました。 
 成人の歯は、親知らずを除いて上下に14本ずつで、計28本あります。私は40代に門歯を1本、虫歯で抜かれましたが、以後は抜かれてないので27本まで今も自分の歯です。歯の手入れは、朝の歯みがきと、夜寝る前の歯間ブラシによる清掃の各1回だけ、フロスによる歯間の清掃は、薦められて買ったものの、面倒なのと苦痛とで、3日で放棄しました。
 近年の私の口腔ケアは、2ヶ月に1回の定期的な口腔衛生士による「お掃除と点検」で、中野ブロードウェイの4階にある「愛育歯科」に通っています。これだと小さな虫歯でも発見次第に医師が手当てするので、知らぬ間に悪化するということがなく、費用も手間も、かえって安上がりなのかもしれません。それと、好き嫌いなくよく食べる(その割りに太らない)のも、いいのでしょう。
 表彰とは「表彰状をくれますよ」ということでしたが、思ったより豊富なプレゼントが用意されていました。なぜかヤクルトの製品が多かったのは、協賛企業にでもなっているのでしょうか。それと、歯科医師による講演もあって、これがなかなかタメになるお話でした。
 砂糖とか強酸性の食品を、ちびりちびりと長時間にわたっ口に入れているのは良くないということです。短時間でメリハリをつければ、唾液の中のカルシウムで歯は修復されるというのです。年をとると唾液の分泌が少なくなって口が乾きやすくなりますが、耳の下、あごの横、下にある唾液腺を指で刺激して唾液の分泌を促す動作も教えてもらいました。
 8020運動が始まったころは、条件に合う人は5%しかいなかったものが、今は30%超まで改善しているとのこと。しかし一方で、80歳で半数の人が総入れ歯になっていると聞きました。歯の健康は全身の健康ライフに直結するというのは、歯科医の宣伝だけではなさそうです。

名護市長選挙に寄せて

 東京は朝から晴天だが、かなり強い北西の風が吹いている。冬型の気圧配置が続いているのだろう。沖縄の天気は、どうなのだろうか。
 沖縄の名護市では、朝7時から市長選挙の投票が始まっているはずである。名護市は沖縄県北部の市だが、かなり大きく、東西両方に海岸がある。人口は6万1千あまり、その市長選挙の争点は、言うまでもなく東海岸の辺野古に予定されている、普天間基地からのアメリカ海兵隊の移転を受け入れるかどうかである。辺野古埋め立てに反対の現職と、移転容認の保守系新人との一騎打ちになった。
 目や耳にする情報では、選挙戦は苛烈であるらしい。有権者に2人ずつペアを組ませて事前投票に行かせるとか、現金の配布なども目立っているということだ。地縁の濃い沖縄の選挙事情には、本土からの応援者には立ち入りにくい微妙さもあるようだ。
 辺野古新基地の構想は、単なる移転ではないらしい。港湾を併設して、海空一体化した訓練、補給、出撃の新鋭施設にしたいようだ。軍人は転んでもただは起きない。国際的緊張を前提とするかぎり、少しでも強力な基地が欲しいのだ。辺野古新基地ができたら、半永久的に手放そうとはしないだろう。
 よく言われるが、沖縄はまだ「終戦」を知らない。日本の中で、ただ一つ今でも戦時下のままでいる。占領時代をこのまま続けるのか、終らせるのか、その代理戦争を、沖縄の県民だけが今でもやらされている。遠い県の、どうでもいい話とは違うのだ。
 大差で現職が勝ってくれたら、日本の政治への大きな衝撃になる。そこから新しい力が目覚めるかもしれない。大寒が過ぎて立春がくるように。

池田幸一氏の「アングレン虜囚劇団」を読む

 「戦争を語り継ごうML」の長老、池田幸一氏(1921年生れ)の「アングレン虜囚劇団」(サンケイ出版1981年)を読みました。旧満州の奉天で、終戦間際の8月1日に現地で召集され、関東軍の崩壊過程に巻き込まれてソ連軍による拘束を受け、3年半にわたって抑留労働に使役された経験を記録したものです。アングレンはイランにも近い中央アジアにあり、池田氏は1976年に再訪した経験を踏まえて、青春の一部分となった3年半を、一本の劇のように構成しています。
 生存に必要な最低レベルも満たさない食糧と住環境と強制労働の中でも、日本人虜囚団には文芸活動や劇団が存在したのでした。軍隊にはいろいろな人がいるので、旧軍においても、折々の「演芸大会」は公認のイベントだったのです。しかしそこには軍隊の階級、そして虜囚団ではソ連による「民主化工作」がからんできます。早期のダモイ(帰郷)への損得勘定で、集団の中には偽装転向や、さまざまな対立も起こってきます。
 私はこれを読みながら、井上ひさし氏の最後の長編小説「一週間」を連想していました。こちらはハバロフスクの収容所を舞台にしているのですが、極限状態で露呈する日本人集団の欠陥と、ソ連工作員と日本人エリートのかけひきなど、井上氏はこの「アングレン虜囚劇団」を資料として読んでいるのではないかと思いました。
 今回読んだ池田氏の本でのクライマックスは、ナホトカで乗船してから日本に向かう船の中での一夜の情景でした。偽装して民主化の「赤」になっていた一部が決起して日の丸を急造し、「赤化」の指導者たちを糾弾する吊るし上げ大会を開こうとしたのです。著者も文芸活動などで「赤」だったと糾弾されました。しかし池田氏は最後まで「赤」を受け入れなかった中の一人でした。弁護に立ったのは、劇団はみんなの楽しみだったと訴える純朴な東北出身の兵でした。
 船内には「皆さま、どうか明日の上陸まではご自重ください。本船はこの問題には一切かかわりません」というアナウンスが流れました。
 先日の成人の日に、たぶん92歳の池田幸一さんは、語り継ぐべきことは語り尽くしたとした上で、「青年たちに、ぜひこれだけは守ってほしいことが一つあります。“絶対に戦争はしない、どんなことがあろうが銃を手にしてはいけない”このひと言です。」とのメールを寄せておられました。
 この池田さんにしても、おもに「戦後」を経験しているのです。戦争の体験そのものを語れる人は、日本からも世界からも消え去ろうとしています。だからこそ「文献」が大切になると言えるでしょう。

歌会の始めの一句あべだとう 首長選挙で一矢報いん

 15日に行われた宮中「歌会始」のお題は「静(せい)」だった。天皇の歌は「慰霊碑の 先に広がる 水俣の 海青くして 静かなりけり」と、熊本の水俣を昨年初めて訪れ、慰霊碑に花束を手向けた際に目にした水俣湾の様子を詠まれたということだ。皇族の歌は、心情を自然風景などに託した素直なものが多い。
 当ブログでは「ブログ連歌」を延々と続けているが、歌会始の習慣はなく、公募もしていなかった。ところがテレビから流れる、とんでもなく言葉を引き伸ばす独特の朗詠を聞いているうちに、たまには歌もいいものだと思えてきた。だが、この年頭の題としては「静」は似合わない。風雲急で大乱の予兆もある。新年のあいさつは「明けまして、あべだとう」で始まった。
 そこでタイトルのように「歌会の始めの一句あべだとう 首長選挙で一矢報いん」となった。この週末には名護の市長選挙がある。その直後から東京都知事選挙が始まる。ここで一矢だけでなく二の矢三の矢と「民意」の健在を示しておきたいものだ。
 安倍首相は年末には靖国神社参拝をして、国際的な批判を浴びた。戦没者の霊に不戦の誓いをしたというのだが、墓苑ではない「やすくに教」の神社を拝みに行ったのだから国際的な非常識を広く知らせる結果になった。オウンゴールだという声もあったのだが、年明けの世論調査では、秘密保護法で低下していた支持率が、意外にもプラスに転じていた。外国からとやかく言われる筋合いはないという反発があったのかもしれない。
 靖国の問題も、戦争の評価その他の歴史問題も、きちんとした教育が固まらないまま戦前への回帰が始まってしまった。その中心に安倍首相がいる。今や国会議員の中に従軍経験者は一人もいなくなっているということだ。戦争は経験を「語り継ぐ」ことがしだいに困難になり、文献を通して伝説として読まれるものに近づいているのではないか。つまりは戦国時代の合戦の記録と大差のないものになりつつあるように思われる。
 しかし戦争になれば若者は戦場で敵を殺し、敵に殺されることになる。民間人も犠牲になり、町は破壊される。勝って「名誉の戦死」をとげても、褒めてくれる人は、誰も残っていないかもしれない。過去から学ばない者は、よい未来を作ることができないのだ。

ブログ連歌(346)

6899 消費税 軍備ふやすに 好都合 (みどり)
6900  金(かね)に色なし あれこれ欲しい (建世)
6901 中国と 日本の今は 昔のよう (うたのすけ)
6902  天に代りて 不義を討つとか (建世)
6903 草の根の 友好事業 断ち切らず (みどり)
6904  顔が見えれば 敵意は消える (建世)
6905 乱世なり 昔の殿も 腰上げて 
6906  昔の首相 馬引いて出る (建世)
6907 近ごろの 都大路に 亡霊が (うたのすけ)
6908  憂い多くて 成仏できず (建世) 
6909 落ち武者の 嘆きを掬い 世に問わむ (みどり)
6910  天に怨霊 地には遺骨が (建世)
6911 何処までも 和平の二文字 掲げゆく (みどり)
6912  天下無敵の 安全保障 (建世)
6913 厳寒に 人心凍てつ 選挙戦 (みどり)
6914  怒りは熱し 沖縄燃えて (建世)
6915 歌会の はじめの一句 あべだとう
6916  首長選挙で 一矢報いん (建世) 
6917 自衛隊 居て生きる生 死ぬ命 (うたのすけ)
6918  人殺さぬを 本分となせ (建世)
6919 アノ知事は 五千万円 総理一億 (うたのすけ)
6920  出馬を前に しばし評定 (建世)

ぷららブローチのサービス終了について

 当ブログがお世話になっている「ぷららブローチ」から、2014年6月30日をもってサービスを終了するとの通知がありました。3月から移転のために過去のデータを各自のパソコンにダウンロードできるサービスを提供し、各自の責任で移転先の新しいブログに移ってほしいとのことです。
 余計なCMなどがなく、すっきりして気に入っていたブローチですが、実質無料で使っていたのですから、改めて苦情を言い立てるつもりはありません。長い間お世話になりました。しかし使い慣れた環境が変ってしまうのは不安だし、残念ではあります。いつも言うようにブログはすでに「文献」の一部なのですから、保存は社会的責任でもあると思うのです。
 横丁の隠居としては、仲のよい長屋住人の行き先も気になります。震災の仮設住宅のように、集団で移転できると安心かもしれません。3月になって移転のダウンロードの実際がわかった時点で、おすすめコースがあれば、ご案内もしてみます。しかし基本的にブログはどの会社のものを使っても交流は同じようにできますから、どこへ行っても大丈夫です。
 私は現在もライブドアとウェブリのブログで同名の「志村建世のブログ」を平行利用し、毎日更新しています。おもに被検索の機会を増やすためですが、ブローチが開きにくいなど事故の場合には、そちらでも読んでいただけるようにしています。ただしコメントとトラックバックの受付は、このブローチに限定しています。
 本来ですと、私はこの二社のうちのどちらかに引っ越すのが順当なのですが、自分としては、この機会に独自の対策を考えることにしました。この3月からは、独立したアドレスを持つ「自前のホームページ」へと移行する方向で準備を始めてみます。6月までは、その「移行周知期間」ということになります。
 いずれにしても、今のブログ形式での発信は変ることなく継続しますので、今後ともよろしくお願いいたします。「多世代交流のブログ広場」は永久に不滅です!

都知事選レースの役者がそろった

(熊さん)今朝はまた一段と寒いですね。ご隠居にはこたえるでしょう。
(ご隠居)本当だよ。骨身にしみるというが、わしには骨耳だよ。耳が冷たいのも困る。北海道で買った毛糸の耳カバーが、外歩きには欠かせないね。これで冬の稚内へも知床の流氷へも一人で行ったことがあるんだが、今はちょっとなぁ。
(熊)それはそうと、都知事選挙の顔ぶれがそろいましたね。細川さんと舛添さんが噂の通りに出てきて、2強の対決だなんて言われてますよ。
(隠)「そりゃないよ獣医さん」の見立てだと、在庫一掃のガレージセールということだ。用済みや半端ものが並んで、有力政党の由緒正しい候補はいなかったということになる。大物と言われる2人も、元は自民党から出て、それぞれ個性的に動いた人だからね。
(熊)でもさ、知事の選挙だから政党がどうこうよりも、東京をどうするかって政策がよけりゃいいんじゃないですか。
(隠)そりゃそうだ。でもな、日本の10分の1の人口のいる東京の知事だよ。当選できるのは一人だけだから、ミニ大統領選挙みたいになるわけさ。日本の政治動向を決めるシンボルにもなってくるんだよ。当面の大きなテーマとしたら、原発問題とオリンピックだろうな。
(熊)細川さんは脱原発で、舛添さんはオリンピックですかね。
(隠)うん、細川は脱原発が第一で、オリンピックは無駄なくやればいいということらしい。舛添はオリンピックを成功させるのが第一で、原発は推進ではないが、すぐにゼロは無理という立場じゃないのかな。この2人は決定的な対立というよりも、その程度の優先順位の違いがある、という理解でいいと思うよ。
(熊)今さらオリンピックの返上はできないだろうから、結局、決め手は原発ですかね。
(隠)この2人で選ぶんなら、そういうことになる。だけど候補者はこの2人だけじゃないよ。まだ確定じゃないから、どたん場で変化があるかもしれないし、先行してる候補は運動を進めてる。「民主平和党」を言い出したわしとしては、これからの情勢をよく見きわめて、民主平和党の三原則に少しでも近づけるように、自分の票を生かしたいと思ってるのさ。
(熊)ふーん、これからの情勢を見きわめて、ですか。投票日の前には、また相談に乗ってくださいよ。
(隠)あいよ、わかってるよ。

大島渚の「忘れられた皇軍」を見た

 日本テレビ系で深夜に放送された「忘れられた皇軍」を見ました。1963年、東京オリンピックの1年前に、大島渚監督が「ノンフィクション劇場」の枠で制作した古い作品の再放送に、現代の視点を加えた異色の番組でした。50年前のテレビ・ドキュメンタリーが果たしていた役割を思い出しました。
 テーマは、日本兵として戦地に送られ戦傷を負った在日朝鮮人たちの運命です。当時は朝鮮人も日本人という建前ですから「皇民化」の対象でした。軍隊に入り「皇軍」の一員になることは、究極の皇民化として賞賛されたのです。しかし戦地で手足を失い、両眼失明などの戦傷を受けて帰還したとき、朝鮮は独立して在日朝鮮人は「外国人」になりました。
 日本の旧軍人に与えられる手当てや医療は打ち切られ、一方で韓国の大使館も政府も、朝鮮戦争の被害者は救済しても、「日本の戦争」による被害は日本政府の責任であるとして受け付けません。結果としてこの人たちは、戦後18年を経ても「傷痍軍人」として街頭で物乞いする以外に生活の手段を失っていたのでした。
 この不条理に対して、大島監督は強烈な怒りと「これでいいのか」という日本国民への詰問としてこの番組を作っています。クローズアップを多用し、被害者の声と激しいロック音楽を重ね、ナレーションによる「告発の矢」を放ち続けるのです。
 当時の取材は音声同時ではありません。それだけに制作者の意図をナレーションで明確に語ることができました。NHK「日本の素顔」の吉田直哉ディレクターの作品の魅力も、彼の文章表現力の豊かさに負っていました。しかしこれは制作手法の新旧の問題とは違うのです。年末に再放送されたオリバーストーン監督の「もう一つのアメリカ史」シリーズも、必要な場面では遠慮なく長文のナレーションを使っていました。要は制作者として何を伝えたいかという目的意識を持つことなのです。
 ところで、この在日朝鮮人戦傷者の救済については、いまだに抜本的な立法が行われず、現職総理への要請書の提出が続いているとのことです。この番組画面の登場者のうち、いま何人が生き残っているのでしょうか。たとえ当事者がすべて死滅しても、この不正義な事実が消えることはありません。一本の映像作品がその証言をしています。
(追記・朝鮮出身の日本兵には、1944年9月以後の徴兵と、それ以前からの志願兵が混在していました。外地にまで送られたのは志願兵が多かったようです。もちろん日本軍に所属したことは同じですが。)

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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