志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2014年02月

政治活動は町角での会話から

 昨夜の「老人党リアルグループ護憲プラス」の例会では、「市民応援メディア・私達の街頭活動」のテーマで市民活動実践家の「ジャックさん」(本命・古田さん)と仲間の織田さんの話を聞きました。ツイキャスというツイッター経由のライブ中継を駆使しており、私の理解力では追いつかないところがありますが、わかる話のできた部分を、とりあえず紹介してみます。
 活動を始めた最初は、昨年夏の参議院選挙・東京での山本太郎の応援だったとのことです。そこでビラ配りなどの通常の活動をしながらも、もっと町へ出で多くの人と話したい、得意わざのツイッター中継も使いたいということで、新しい街頭活動の方法を考えてきました。駅頭で忙しい通勤途上の人や、疲れて帰宅途中の人に無理にビラを手渡しても、それで考え方を変えたりしてくれるだろうかという疑問もあります。
 人は人とナマの会話をしなければ考えを変えるものではない。こう考えると、商店街を歩いている人たちを立ち止まらせた方が可能性が大きいことになります。その方法の一つに「フラッシュモブ」が使える場合があります。たとえば「秘密保護法反対」のプラカードを持って歩くのは普通の方法ですが、その人が町角で突然ピタリと動きを止めたら、近くの人は何かと思って立ち止まるでしょう。それだけでもプラカードへの注目度は格段に上がる筈です。
 これをきっかけに、「シール貼りアンケート」を組み合わせる方法があります。秘密保護法の問題であれば「これが問題になってるのを知ってますか」から始めて、YES、NO、のシールを用意したボードに貼ってもらうのです。ノートぐらいの小さいボードでかまいません。そこから会話を始めるのです。多くの人は職場でも家庭でも、原発とか憲法といった政治的なことを話題にする機会は少ないものです。でも話し合う機会さえあれば、よく話してくれる人が意外に多いことを実感するそうです。
 さらにこれにツイッターによるライブ中継を組み合わせると、そこに話し合いの広場が出来てしまう可能性もあります。それには場所を選ばなければなりませんが、混雑してきたら適宜に移動できるのもツイッター中継の長所です。
 とにかく政治の話を面白く楽しくしなければ、投票に行かない若者たちを振り向かせることはできないとジャックさんは言います。そこで私は思いついて言いました。「そうですよ、政治は面白いんです。ただの遊びやお祭りより、ずっと面白いんですよ。だって政治で未来が変るんだから」と。


季節は移る〜日本列島の夜明けと日暮れ

 春分に近いこの2ヶ月ほどは、太陽の変化が速くなる。秋分も同じことだが、回転している円盤上の一点を横から見ているのと同じことで、真横を通過するときは急ぎ足なのだ。日足は目に見えて長くなってきている。
 冬は昼が短く、夏は長くなる。当り前のことで日本中が一様にそうなると思っていたのだが、日本列島の位置によって違いがあることを、この冬にNHK天気予報の南さんに教えてもらった。というのは、主要都市の中で、東京の夜明けが日本で一番早いという日があったのだ。そのとき人工衛星から見た日本列島の夜明けの写真が示されていた。
 つまりこういうことだ。地球儀でも世界地図でもいいが北を上にして見たとき、冬の朝日は右下の方向から日本列島を照らしてくる。だから弓なりに太平洋に張り出す本州の中ほどにある東京に、最初の朝日が当ることになるのだ。そして冬の日暮れは右上から、つまり北海道の知床から沖縄の方向へと、日本列島を縦に時間をかけながら覆ってくる。冬の日本列島は、ほぼ同時に夜明けを迎えて、日暮れは北海道から始まって、沖縄が最後ということになる。
 この理屈がわかったら、思い当ることがいろいろあった。去年の夏に中標津の「そりゃないよ獣医さん」を訪ねたとき、「こっちの朝は早いですよ」と言われて、その通りだった。夏の夜明けは、太陽が地図の右上から照らすから、知床から始まって沖縄へ向けて日本列島を縦に進んで行く。その代わりに夏の日暮れは、日本全国にほぼ同時に訪れるというわけだ。
 これを総合すると、北国では、冬日の短さは日暮れの早さで強調され、夏日の長さは夜明けの早さで強調されることになる。南国はどうかというと、冬の日暮れはあまり早くなく、夏の夜明けもあまり早くなくて、季節による日照時間の差は比較的に小さくなる。赤道に近い分だけ夏と冬の差が少なくなるからだ。
 細長い日本列島は、狭いようでも変化に富んでいる。ただ南北に長いだけでなく、東西にも斜めに長く伸びているので複雑になっているわけだ。これからようやく春になるが、寒がりやの私としては、どうでもいいから早く暖かくなってほしいと思っている。

解釈改憲論の曲学阿世

 「曲学阿世」(きょくがくあせい)は、訓では「学を曲げて世におもねる(迎合する)」と読む。この言葉は、吉田茂が東大総長・南原繁の卒業式訓示における全面講和論を非難するために使ったので有名になった。1950年(昭和25年)5月のことである。当時は連合軍の占領終了と、独立後の日本の進路についての議論が盛んだった。当時の吉田首相の立場は、反共政策に腐心するマッカーサーの立場と同じだった。学者の論理を、政治家の権威で否定しようとしたものだった。
 この「曲学阿世」を思い出したのは、昨日の朝日新聞に出ていた安倍首相の私的諮問機関「安全保障懇談会」の北岡伸一座長代理のインタビュー記事を読んだからだった。なんと、憲法9条に定める「国際紛争」とは、日本が当事国になる紛争のことだから、国際紛争すべてを指すのではなく、同盟国と第3国との間の紛争には適用されないという珍説を披露しているのだ。自国のためなら禁止だが同盟国のためなら武力の行使も威嚇も合憲ということになる。言わずと知れた集団的自衛権の発動を合憲とする解釈変更のためである。
 吉田・南原時代には、右に傾いた政治が「すべての国との和平が正しい」とする学者の見解を「左傾している」として非難した。誰でも自分の見方で人を見るから、自分が右に傾けば、まっすぐは「左に曲がっている」ように見える。当時の学者には、そのような気骨があった。ところが今回の「学説」は、政治の露払いとして解釈改憲の下準備を前もって進めているわけだ。首相の私的諮問機関とは、どの程度の報酬を得てこのような仕事をしているのだろう。
 正常人の頭で憲法の条文を読んでみてほしい。朝日新聞がこの談話に批判的な大見出しはつけないながら、憲法の条文をすぐ隣に掲載しているのは、せめてもの抵抗心を示しているのかもしれない。マスコミの力は、これほどまでに弱くなっているのだ。
日本国憲法第9条
 ‘本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
◆〜姐爐量榲を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 この条文を、どう読んだら同盟国のために戦争に参加するのが合憲になるのだろう。どうしても同盟国のために戦いたいのなら、この憲法は変えなければならない。ことの順序が逆だと思うのだが、このような意見は「曲学阿世で左に曲がっている」とでも言うのだろうか。

「幻の祖国に旅立った人々〜北朝鮮帰国事業の記録」を見る

 「幻の祖国に旅立った人々」(小島晴則編・高木書房)を取り寄せてみました。内容は昭和35年から39年まで(1960〜64年)5年間発行された地方紙「新潟協力会ニュウス」を採録合本して、前後に紹介文と関係者の「あとがき」を加えたものです。新聞の縮刷版ですから全部を通読してはいませんが、当時の社会情勢や雰囲気が、非常によくわかります。
 しかし、北朝鮮に渡った人たち(その中には少なからぬ日本人妻もいました)のその後がどうなったかについての、新しい情報や研究成果が得られるわけではありません。ただ、分断された朝鮮の北側への帰国希望者の送り出しが、全国的に盛り上がる熱気の中で行われ、冷戦下の共産圏との交流事業として、9万名帰国という大きな実績を残した事実は記録として残す価値があります。それは、まぎれもなく多くの善意の結集でした。
 新聞の紙面は、まだ見ぬ「朝鮮民主主義人民共和国」への期待とあこがれに埋めつくされています。そこへ帰れば住居が与えられて生活に不安はなく、能力に応じて教育も仕事も与えられると説明されていました。その反面で帰国者たちが訴えているのは、日本で暮らしていた間の苦労です。朝鮮人と呼ばれて見下され、二流市民としてさまざまな差別を受けてきました。まだ戦時中の記憶が生々しく残っていた時代です。
 帰国者の中には、活躍していた芸術家やタレントもいました。声優の永山一夫氏は、幼児番組「ブーフーウー」の狼の役で人気があり、私の番組にも出てもらったことがありました。出自については何も知らなかったのですが、やがて自ら希望して北朝鮮に渡ったと聞いたとき、声と同じように重みのある性格の人だったと思い当りました。
 編者の小島氏は、この新聞の事実上の編集者でしたが、自ら北朝鮮まで取材に行ってから現実の北朝鮮の官僚主義に疑問を抱くようになりました。もしかしたら、自分はとんでもない所へ人々を送ったのではないか。それが後になって、小島氏を拉致事件に取り組ませる動機になりました。
 かつて大日本帝国は、朝鮮人も台湾人も、無理やり「日本人に改造」しようとしました。その痕跡は、今も37万名の「特別永住者」として残っています。これは「負の遺産」には相違ないでしょうが、一面で隣国との間に切っても切れない深い縁を残したと言うこともできます。北朝鮮が希望に満ちた楽天地だという虚構は完膚なきまでに破壊されましたが、話はまだ終りません。
 「幻の祖国」は、誰かが用意して与えてくれるものではありませんでした。人が住んで幸せになれる場所が祖国になって行くと考えたら、また新しい世界が見えてこないでしょうか。

歯みがき進化論



 先月、歯の健康の「8020運動」で表彰されてから1ヶ月が経過しました。このとき聞いた講演と、通っている歯科の「歯科衛生指導」が相乗して、この1ヶ月は歯みがきの方法を変えました。写真の左が従来10年以上使っていた電動歯ブラシで、次が最近使っている毛先がギザギザにカットしてある新型の歯ブラシです。次は「プラート」というプラーク取り専用の小さいブラシで、歯科で買いました。右の小さいのはゴム性の歯間用ブラシ(ワイヤー製のものより使い勝手がよい)です。
 この歯ブラシに変えてから、一本ずつの歯を意識しながらブラシを動かすようになりました。これで一通り終ってから、前回指摘されたプラーク(歯垢)の残りやすい場所を小ブラシで清掃するよう心がけました。それともう一つ、歯みがきを終ったあとの口を、すぐには漱(すす)がない、ということがあり、これは数日間は抵抗がありましたが、ほぼ慣れてきました。
 歯科医師の講演で聞いたのですが、歯みがき剤に入っているフッ素は、なるべく長く口の中にあるのが望ましいのだそうです。歯みがき剤には飲み込んで害になるものは入っていないから、安心してそのまま置きなさいということでした。直後に口をすすいで吐き出してしまうは、もったいないのです。歯みがき後の清涼感は損ないますが、ものは考えようです。
 歯みがきの方法は変えましたが、みがくのは朝一回、歯間ブラシは夜一回という習慣は変えませんでした。koba3さんから歯みがきは毎日3回とのコメントをいただいたのですが、たぶん継続はできないだろうと思いました。そしてきょうの定期点検で衛生士さんに判定してもらいました。
 結果は、かなりの好評価で、要注意の場所が10ヶ所近くあったものが、1ヶ所だけに減りました。そしてやや意外だったのは、一日一回しか磨かないのに「磨きすぎのすり減り」を注意されたことでした。歯ぐきが痩せて露出している歯の下部は、すり減りに弱いのです。衛生士さんと会話しながらわかってきたポイントは、「歯みがきとは歯の表面を磨き立てることではなくて、歯の周辺を掃除することである」ということでした。
 これは意識の上での革命に近いものです。これからは「歯みがきしましょう」ではなく「歯のお掃除しましょう」と言うべきかもしれません。こう思えばプラートの動かし方もわかります。歯の間に入れて、コチョコチョ軽く掘るようにするだけでいいのです。力は要りません。



口腔ケアの指導書です。左が前回、右が今回のもの。

ブログ連歌(350)

6979 雪害に 救助待ちいる 過疎の人 (みどり) 
6980  雪と五輪は 七難隠す (建世)
6981 高速の 深雪運輸を 寸断す (みどり)
6982  想定外は どこにもあって (建世)
6983 山崎パン 談合坂で 名をあげる (建世)
6984  談合なしの ホントの美談 (うたのすけ)
6985 ジャンプ陣 ドウでもいいよ 見事なり (うたのすけ)
6986  中年どうして 立派なもんだ (建世)
6987 雪降りて 首都の脆弱 露呈せり (みどり)
6988  雪でなくても 脆い足元 (建世)
6989 一日中 真央のニュースで 持ち切りが
6990  無念残念 致し方なし (うたのすけ)
6991 メダルなし それでもいいと 舞い納め (建世)
6992  けっこうけっこう すべてけっこう (うたのすけ)
6993 ジャンプでも 葛西は飛んで 真央は跳び
6994  いろいろあって 五輪も終る (建世)
6995 世界大戦から 100年目 
6996  いまでも戦争理由を 模索する (獣医さん)
6997 ソチ終わり 次は選抜 大相撲 (うたのすけ)
6998  勝った負けたは 土俵の上で (建世)
6999 歩みたし 菜の花の径 桃の畑 (みどり)
7000  うららの春も 遠くはあらじ (建世)


小出裕章の「100年後の人々へ」を読む

 「100年後の人々へ」(集英社新書)を読みました。著者は反原発の立場から研究と発言を続けている京都大学原子炉実験所の助教、小出裕章(ひろあき)氏です。著者は原子力平和利用の理想に燃えて原子核工学の道を選んだものの、女川原発反対運動に接する中から疑問を感じるようになり、反原発を生涯の仕事と考えるようになりました。現在の研究テーマは、放射能のゴミを始末する技術の開発です。
 編集者は当初、本のタイトルを「10万年後の人々へ」とし、遠い未来人への手紙という形式を提案したとのことです。しかし小出氏は言下にそれを拒絶しました。10万年後では話が抽象化し、話の通じる人類が生きているかどうかもわかりません。それよりも「いま、ここ」にある問題として語らなければ意味がないのです。もちろん未来にかかわる問題ではあるけれど、せいぜい孫の世代に向けて、負の遺産を残す者の無念を語っておくのなら今がそのときかもしれない。そしてこの本が生まれました。
 この本は、口述されたものを担当者が聞き取り整理する形で編集されたようです。ですから非常に読みやすい本で、著者の人がらまでが伝わってきます。私はこの人の講演を聞いたことはないのですが、ナマでお話を聞いたら「この人の言うことは信用できる」と思うでしょう。そのような本です。さらに本文で言及された事項については詳細な脚注がついており、主張される内容を裏付ける根拠を提供しています。
 内容は反・脱原発の文脈ですでに何度も語られていることですが、たとえば著者は「核廃棄物」という言葉を使わずに「核廃物」と言っています。放射性の廃物は捨てることが不可能なので、半永久的に厄介な廃物として対処しなければならないのです。その管理費用を考えたら、原発の発電コストは天文学的に高価になります。現在の財務上、動かせば経済に貢献するように見えるのは、未来の負担を荷重する犠牲の上に、少しばかりの「今の利益」を盗むことに他ならないのです。
 核廃物を無害化する方法はないのか。この問題を最先端の位置で研究している著者の言葉には重みがあります。結論は、将来の技術の進歩を見込んでも、原理的に不可能が見えているのです。核を加工すればするほど核廃物は増えてしまいます。地球外へ、地下のマントルへ送ろうとしても、安全な方法がありません。
 兵器用、発電用を問わず、核は人間の文明と共存することは不可能なのです。拡散する核汚染が人類の生存を不可能にするレベルになる前に、一日も早く廃絶するほかはありません。

「跳ぶ」ジャンプと「飛ぶ」ジャンプ

 浅田真央は3回転ジャンプを「飛んだ」のか「跳んだ」のか、どちらが正解だろうというのをテレビでやっていた。一応は「跳んだ」が正解なのだが、漢字を外来の借用語だと知っていれば、「とんだ」と発音さえすれば、日本語としてはどちらも正解になる。日本語の「とぶ」には「はねる」意味も含まれるからだ。ただし足の力で飛び上がる動作には別に「はねる」という言葉がある。だから「3回転ジャンプ」を伝統的日本語で厳密に表現すると「はねあがり みたびまわり」が正しいことになる。
 地を離れて空中に上がるときに、鳥のように継続的に滞空することを「とぶ」と言う。漢字では「飛」の字を当てる。これに対して脚力などで一時的に浮くのは「はねる」であって、漢字では「跳」の字になる。ところが日本語の「とぶ」は、「飛」よりも少し広い意味で使われるようだ。父の郷里、静岡県の山梨に近い山地では、急ぐことを「とんで」と言っていた。鳥のように早くという気持だろう。
 スキーのジャンプは風に乗って遠くまで行くのを競うのだから、「飛ぶ」で抵抗はないだろう。では、ハーフパイプやモーグルで空中に上がって演技をするのは、「飛んで」いるのだろうか「跳んで」いるのだろうか。私の感覚では「飛」に近いような気がする。勢いあまって空中に浮くので、「跳」の感じとは違うのだ。英語で「エアー」と言うことからも、自然的無重力状態は「飛」がふさわしいように思われる。
 こういう理屈を考えるのはヒマつぶしにはいいのだが、じつはあまり生産的な作業ではない。日本語では「真央がとんだ」ことがすべてであって、漢字に当てはめて「跳」がいいか「飛」がいいかは、本来は中国人が考えればいいことだからだ。足の力で飛んだ姿が美しいから鳥のように見えたのなら、「飛んだ」でも一向にかまわないと思うのだ。
 一時は日本語を簡素にするために、「当用漢字」と「音訓表」を制定したことがあった。この思想だと「飛ぶ」と読む漢字は「飛」に統一して「跳」の字の訓は「はねる」だけになる。漢字の読み方を有限の数に限定すれば、国語の表記が統一され、読むにも書くにも覚えやすく使いやすくなると期待されたのだ。この考え方は間違っていなかったと思っている。
 しかし文や字が「手で書く」ものではなく「パソコンで打つ」ものになってから、日本語表記の複雑化に歯止めがなくなってしまった。奇想天外な漢字の読み方がクイズになり、そんな雑知識をたくさん知っていることが自慢になるような風潮は好ましくないと私は思っている。それは日本語を豊かにすることとは無関係で、おそらく有害でもあるからだ。
(追記・訂正です。「当用漢字音訓表」によると、「跳」の字の読み方は、音の「チョウ」しかありません。「はねる」は漢字を使わないのが原則でした。「とぶ」と読む漢字は「飛」だけです。)
(追記2・「音訓表」を適用すると、冒頭クイズの「跳んだ」は不正解で、「飛んだ」または「とんだ」と仮名書きしなさい、が正解になります。)

メダルなし それでもいいと 舞い納め

(熊さん)ご隠居、今朝のフィギュアスケートは見ましたか。
(ご隠居)たまたまちょうどいい時間にトイレに起きたもんだから、念のためテレビをつけたら始まるとこだった。結局最後まで見てしまったよ。
(熊)ご同様だね。なんか気になるもんだから。おかげで今朝は眠いや。
(隠)でも見ごたえはあったな。最初に出た村上佳菜子がいい演技をして、それに引っ張られるように以下の選手たちがみんな締まった滑りをするようになって、結果としてすごくレベルの高い決勝戦になったという印象だな。浅田真央が別人のように生き生きして、自己最高点を出したのには驚いたよ。これはひょっとして鈴木明子と二人、大逆転のメダル獲得かと思った。
(熊)おいらもそうですよ。あとの選手がコケたらいいと思った。
(隠)それを言っちゃおしまいよ。だが、一瞬そんな気がしたのは事実だな。しかし続く選手たちの演技を見てるうちに、これはやっぱり名演技を褒めてやるのが筋だと思えるようになってきた。速さを秒単位で計る競争とはちょっと違って、バレエとか演劇とか、芸術系のコンクールに近いような気がしてきたんだよ。以前の荒川静香の金メダルのときもそうだったな
(熊)採点は、ずいぶん細かいらしいですね。
(隠)ジャンプにも6種類あるなんて、いくら見てても見分けはつかんよ。体育大に行ってた次女に教えてもらったが、それでもわからん。氷の上で、よくあんなことが出来るもんだと感心してるだけのことさ。職人の隠し技みたいなもんだな。その道の玄人には大事なことなんだろうが。それでも技術だけじゃなくて、全身を使った情感の表現だってことはわかるな。
(熊)だから気持の持ちようが大事なんでしょうね。
(隠)そうだね。国をあげての応援で日の丸を背負ってるんだから、重荷にならないわけがない。前の日の失敗でメダルの可能性が消えたことで、ツキものが落ちて楽になったのかもしれないな。それもいいじゃないか。浅田真央は、まだ23歳だそうだ。社会人なら、まだこれからの人だよ。日本にはいろいろな人がいて、がんばってる。それぞれの方法でね。夜中に3時間テレビを見ていたのは、無駄な時間じゃなかった。
(熊)今朝のご隠居は、意外に素直ですね。
(隠)オリンピックも間もなく終る。ソチソチでテレビも新聞も占領されてた間に起こったことを忘れちゃいけない。こちらの方は一過性じゃないぞ。日本の未来が決まって行く大勝負だ。

漂流の中で生き残る方法

 バリ島でダイバー7名が行方不明になり、5名が救助された事件は今も進行中だが、残る2名は残念ながら絶望的になったようだ。全員が経験充分なベテランだったとのことだが、天候の急変という「想定外」には勝てなかった。登山隊の遭難とも共通しているが、自然を相手にするアドベンチャーでは、悲劇を根絶するのは非常に難しい。
 今回の場合は、水中にいる間に海上の状況が変化したのに気づくのが遅れたのではないだろうか。南国の海水は暖かく、水中の行動は順調だったに違いない。母船の伴走も、大筋では間違っていなかったようだ。ただし海上は暗く荒れていて、目視でもホイッスルでも位置の確認ができなかったのが悲劇的な状況を招いた。
 当初は7名が固まっていたが、インストラクターの一人は救助を求めて泳ぎに出たが果たせず、近くの岩場に上陸を試みている段階で、2名はばらばらになったと報じられている。ダイビングの装備のことはよく知らないが、非常時に位置を知らせる発信機があれば助かったろうにと、残念に思った。自分たちのいる位置は正確に把握していたというのだから、なおさらだ。
 ここから先は私の感想なのだが、最近の日本も漂流しているような気がしてならない。庶民は海に浸かっている「お客さん」たちだ。母船の船長は「安心して、大船に乗ったつもりで泳いでらっしゃい」と送り出してくれた。今のところ水は温かく感じられる。目の前だけ見ていれば特段の不安材料はなさそうだ。とりあえず次の行程まで行ってみようかと思っている。
 しかし母船の上からは、いろいろなものが見えている。舵を任された船長には、前々から行ってみたい進路があった。今はそこへ目指して行くことだけで頭の中はいっぱいだ。隠忍自重してこの機会を待っていたのだ。やれるときにやっておかなければ、悔いを残すことになる。チャンスは今しかないと思いつめているのだ。
 海の中では、そうした船の上の状況がわからない。浮上したときに船が勝手な方向へ変針していたら、取り残されて遭難するかもしれない。時々は水面に顔を出して、位置を確かめておく必要があるのだ。正しい位置は、一方からの信号だけでは割り出すことができない。必ず複数の信号を受け取って、その交点を求めることで得られる。
 今の時代に、受身でいるだけでは流される。海上には怪しい雲が立ち込めている。明るい日ざしはどこに見えるのか。顔を上げて針路を見定めよう。

われら誇り高き日本人

 数日前の「村野瀬玲奈の秘書課広報室」で「『日本人であることを卑下する自虐史観をやめよう』という言い分について」と題する記事を見かけた。紛争の近代史を研究している山崎雅弘氏のツィッターを中心に構成されていたが、「日本人であることを卑下しているような人物は、自分の知るかぎり一人もいない」というものだった。
 もちろん「自虐史観はもうやめよう」というのは安倍首相の持論で、私が名づけた「安倍イズム」の根幹になっている。ところが安倍イズムに反対している私たちの仲間の中で、日本人であることを卑下している人は、一人も思い当らないのだ。自分がしたことを検証し、他人に迷惑をかけた事実を認識することは、自分を惨めにすることの正反対である。真っ当な人間として、堂々と世渡りをしたいからそうするのだ。
 ドイツの大統領が、ホロコーストの記念碑の前にひざまづいたことで、ドイツの国民は貶められたのか。そうではあるまい、世界に信義を回復し、ヨーロッパの盟主として再び登場するために必要な手続きだったのだ。そこをあいまいにしたら、戦後ドイツの繁栄はなかったろう。
 いま反中国の感情で盛り上がっている人たちは、敗戦時に大陸にいた膨大な日本軍兵士の大半が、虐殺にも強制労働にも会わずに帰国できたことを知らないだろう。蒋介石が発した布告は「怨みに報ずるに徳をもってせよ」だった。日本軍は道義の上でも完敗していたのだ。
 過去の検証はやめて誇りを持てばいいという発想は、日本人の良心を傷つけ国民の間に分裂を持ち込む。愛国心のもとに国民を団結させるどころか、矮小化した集団を分立させ、会話も通じないとげとげしい世相を増幅することになるだろう。
 いま必要なのは、安倍首相が気に入らないらしい日本国憲法の前文を、偏見を捨てて静かに読んでみることだと私は思っている。この意味において、私たちは誇り高き日本人であることをやめない。

われらは
平和を維持し
専制と隷従
圧迫と偏狭を
地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において
名誉ある地位を占めたいと思う。

火野葦平の「革命前後」を読む(4)

 火野葦平への戦争協力者としての処分は、結局昭和23年(1948年)から2年間の公職追放のみでした。追放中も文筆が禁じられたわけではなく、著者は戦後の15年間にも活発に活動して多くの著作を残しています。軍部の検閲がなくなって自由に書けるようになった戦記ものもありますが、政治とは縁の薄い艶笑ものを継続して書いているのも目立ちます。このブログでも紹介した「密林と兵隊」(原題は「青春と泥濘」)は、戦争の愚劣さを徹底的に暴いています。
 しかし火野葦平は「反戦作家」にはなりませんでした。黙々と従軍し死んで行った兵たちの犠牲が、単に誤った戦争に踊らされただけの無駄であっては、彼らの純情は救われないのです。さりとて兵をそのように扱った軍の指導層を、徹底的に断罪する激しさもありません。その指導層に、自分も組み込まれたことを知っていたからでしょう。
 それともう一つ、戦後の作品群を眺めても、彼が戦後の「新憲法」をどのように評価したかがわからないのです。非戦平和を掲げる理念に反対であったとは考えられないのですが、占領軍の主導で急造された憲法を、自己の骨肉として後半人生の指針とするほど純情にはなれなかったろうとは思います。終戦時に小学生6年生であった私でさえ、戦後すぐの「民主主義教育」に素直に従う気持はありませんでした。火野葦平が簡単に「転向」できるわけはないと思うのです。
 かくて「彼はなぜ生きていられなくなったのか」の謎に近づくことになります。「悔恨と怒りのどす黒いカタマリ」を「革命前後」を書くことで吐き出したあとに残ったものは何であったのか。それは、どうしようもない「居場所のなさ」だったと私は思います。
 死後に発見された遺書は、簡単なものでした。

死にます 芥川龍之介とはちがふかも 知れないが、
或る漠然とした 不安のために。
すみません。
おゆるし下さい。
さやうなら。
昭和三十五年一月二十三日夜。十時。あしへい。

 もしいま火野葦平が世にあったら、現下の安倍イズムに対して猛然と反旗をひるがえすだろうと私は思います。昔の「軍部」が近づいてくる足音には、激しく抵抗するに違いないと思うのです。そして率先して福一原発の現場に身を投じ、放射能にさらされながら黙々と働く労働者を密着取材するでしょう。彼は死を急ぎすぎました。今こそが彼の活躍の場だったのです。

火野葦平の「革命前後」を読む(3)

 作品の中では「辻昌介」と名乗っている火野葦平は、家族と再会して運命を待つのですが、その間にも何もしないわけには行きません。誰もが「ヤミ」に手を出さなければ生きていられない状況となり、周囲から推されて焼け跡を借り受け食堂街を作る計画に乗り出します。本人もまんざら嫌いな仕事ではなく、自分も中の一軒でおでん屋のオーナーになるつもりでした。
 さらに出版界が、どんな本でも飛ぶように売れる飢餓状態であったために、出版の拠点として「九州書房」を立ち上げる話が持ち上がり、ここでも著者は著名人として中心人物に推されます。しかし用紙の割り当てでも進駐軍への検閲申請でも、すべての折衝に「ヤミ取り引き」を使わなければ進まない状況でした。気がつけば、著者はすっかり「ヤミ屋」の身分になっているのでした。おでん屋への夢に熱中している著者にとって、妻がその変身を悲しんでいる姿は衝撃でした。
 このように時系列にしたがって終戦を境とする半年あまりの激変を記録したあと、作品は後日談的に、ほぼ2年後の状況を説明します。ヤミ市食堂計画は、武士の商法の弱点をさらして瓦解しました。九州書房も、一時的にはそれらしく活動したものの、東京の復興と出版流通の回復とともに存立の基礎を失い、出資者を集めた解散総会をもって終りを告げます。総会後の記念写真は、会場として借りた寺の墓地の前で撮ることになり、カメラマンに強いられたゲラゲラの笑い顔を交わすところでこの小説は終ります。
 しかしその直前に、印象的な場面がありました。ある日アメリカ軍のジープが自宅にやってきて、著者は検査官から紳士的ながら厳しい尋問を受けるのです。そこで聞かれたのは、日本の戦争目的を正しいと思っていたのか、天皇制をどう考えていたのか、といった事項でした。著者の答えは、自分は従軍した兵隊たちの立場を表現しただけであって、それ以外のことは考えなかったというものでした。そこで頻繁に使われたのは、「自分はバカでしたから」という説明でした。天皇は国家と一体でしたから、分離して考える余地はなかったのです。
 尋問が終ったあとは、自分はアメリカ軍が真っ先に摘発するほどの大物ではなかったという虚脱感に襲われました。
 この小説は雑誌に連載されたため、問題作として「悔恨と怒りとのどす黒いカタマリ」という評価を得たことを、著者はうれしく思ったと「あとがき」に書いています。毀誉褒貶を超えた満足感があったのでしょう。しかし私の書評は、次回にまで続きます。

火野葦平の「革命前後」を読む(2)

 8月15日の「天皇の重大なる放送」の内容は、報道部の者たちは事前に知っていました。しかしその後に起こる事態がどのようになるか、見当がつかない点では一般庶民と変るところはありませんでした。それでも私が東京の小学6年生で体験したよりも、はるかに大きい混乱が九州であったことが読み取れます。軍の一部が戦争継続で決起するとの情報がきて、九州独立革命派が勢いづいたり、アメリカ軍の上陸が近いとのデマで国鉄が臨時列車を運行し、大量の避難民が殺到したりしたとのことです。
 報道部はそこで、アメリカ軍の上陸は終戦の手続きの後でなければありえないことを、ビラや掲示、街頭広報などで知らせ、沈静化に努めました。報道部として目に見える成果のあった、ほとんど唯一の活動であったと著者は述べています。
 このときに火野葦平が予想した自分の運命は、戦争協力者として必ずやアメリカ軍に逮捕され処刑されるだろうということでした。中国戦線で反日の指導者たちがどのように扱われたかを知っていたからです。それでも国運をかけた戦争に負けたのだから、それも仕方のないことだと覚悟していました。その状態で、日本軍の崩壊を目の前に見ることになります。
 上級の職業軍人たちは、規律の保持を唱えながらも、保身と利益をはかって変身しようとする者が少なくありませんでした。撃墜され捕虜となったアメリカ兵の処刑は執行の途中でしたが、生存者がいると秘密が漏れるとの心配があり、激論の末に残る全員を処分して全体を極秘にすることに決めたと記述されています。
 報道部の解散式の最後は乱痴気をきわめた宴会になりました。浴びるほど酒を飲んだ末に食器を手あたりしだいに叩き割り、会場のホテルから、その後長く恨まれたとのことです。部員の中の民間人は、軍とのしがらみが浅いため本来の自分を取り戻すのも早く、共産革命の好機がきたと熱心に説く者もいました。しかし著者にとっては迷惑なつきまといに過ぎませんでした。
 結局、身辺には劇的な変化がないままに、著者の生活は戦後風景に染まって行きます。博多の町にもアメリカ兵の姿が見られるようになりますが、東京地区よりも殺伐とした風景が多かったようです。ジープに向けて玩具のピストルで撃つまねをした幼児が、即座に射殺されるような事件が日常茶飯事であったとしており、婦女暴行などは事件にもならないと記録しています。
 それよりももっと屈辱的な経験は、復員した兵隊に対する市民感情が冷たい場面を見ることでした。これも私の経験からの感覚とは違うのですが、北九州市民の気風だったのか、あるいは著者の「兵隊目線」が、とりわけそういう場面に強い衝撃を受けたのでしょうか。

火野葦平の「革命前後」を読む(1)

 火野葦平の「革命前後」(上下巻・社会批評社の復刊版・各1600円)を読みました。原著は1960年(昭和35年)の1月に発行されており、元旦に「あとがき」を書いた著者は、発刊の1週間前に自死しています。上下で600頁近い大作は、自伝的小説の形で、敗戦の年の夏前からアメリカ軍による占領下の翌年初頭までの、激変の時代を描いており、「兵隊作家」として著名だった火野葦平がその生涯を総括しようとした、文字通りの遺書であったと見ることができます。
 小説の舞台は著者の出身地でもある北九州で、陸軍西部軍の「報道部」として、作家、詩人、舞台・映画人などの文化人が、東京方面からも軍属として集められ、軍籍にあった著者はその幹部となりました。当時はすでに沖縄での戦闘が終末を迎え、秋にはアメリカ軍の九州上陸が確実と見られていました。そんな中での報道部の仕事は、住民への戦意高揚と軍への協力体制を強化することでしたが、部員の一部には、九州独立の革命を企図している者もいました。ただし反戦の独立ではなく、国運挽回の「千早城になる」というもので、中央への反骨精神は、ミニ国粋主義に転化しているのでした。
 どうにも勝てそうもない戦況と絶え間のない空襲の中でも、著者の「必勝の信念」は揺らいではいませんでした。兵隊作家として時代の寵児となってからも、著者は一貫して「兵隊の目線」で戦場を観察し、兵隊の心情をありのままに描いてきたつもりです。苛烈な戦闘に斃れる兵隊たちの死を、一つでも無駄だと思ったことはありません。インパールの無謀な作戦を現地で見て、上層部に痛烈な意見具申をしたことはあっても、戦争の「大義」を疑うことはありませんでした。
 しかし客観的な戦況は日に日に急迫してきます。ポツダム宣言の発表と、それに対する日本政府の不明瞭な「拒否」の間に、広島への原爆の投下がありました。このときの衝撃波が、博多でも小倉でも感じられたという記述は、他では聞いたことのない話なので、非常に印象的です。それに続いてソ連軍の参戦があり、長崎への2発目の原爆投下がありました。長崎へは報道部から取材班が派遣され、凄惨な現状と記録写真が報告されました。
 この時期の軍隊内部の雰囲気はどうだったのか、一般の実戦部隊の兵隊には8月15日まで何も知らされなかったでしょうが、報道部には独特の情報ルートと自由に話し合える雰囲気がある程度はあったので、私には興味がありました。しかし描かれていたのは、わずかな情報をめぐる憶測で議論をしているだけで、東京の私の実家での会話と大差のないものでした。つまりは「大変なことだが何とかなるだろう。自分たちが心配しても、どうにもなるものじゃない」ということでした。

ブログ連歌(349)

6959 雪予報 出だすスコップ 手に重き (みどり)
6960  孫が喜ぶ 時代も過ぎて (建世)
6961 大都会 百分の一の雪で 大騒ぎ (獣医さん)
6962  山脈越えて 日本は広い (建世)
6963 大雪に 出番失い 日暮れゆく (みどり)
6964  新宿西口 人も少な目 (建世)
6965 蓋開けて 唖然声なし 風もなし (建世)
6966  ハレルヤ一転 ああアキレルヤ (花てぼ) 
6967 その夜の 空に寒月 高く照り 
6968  残雪黙し 夜明けをぞ待つ (建世)
6969 時節待つ 折れぬ精神 身の内に (みどり)
6970  力のかぎり 勝利の日まで (建世)
6971 五大陸 友好ありて 国栄う (みどり)
6972  メダルばかりが 目的でなし (建世)
6973 ソチ五輪 無冠の選手を 温かく (うたのすけ)
6974  非難するなど サラにあるまじ (建世)
6975 雪愛でる ゆとり失い 冬ごもり (みどり)
6976  節電もせぬ 窓ガラス越し (建世) 
6977 大雪に しばし忘れる 永田町 (うたのすけ)
6978  テントひろばの 当直は誰 (建世)
6979 雪害に 救助待ちいる 過疎の人 (みどり) 
6980  雪と五輪は 七難隠す (建世)

梅雪の花ざかり



 花芽をつけていた梅の枝に雪が積もって、花が咲いたように明るくなりました。底冷えがして、交通の不安もあり、ボランティアの外出も中止としました。立春のあとに寒さの本番が来たようです。
 寒い日に、「軍人恩給は生きていた」という古い記事に、新しいコメントが入りました。今でもよく読まれている記事です。右欄の「最新のコメント」のところから見に行けますので、どうぞご覧ください。戦争責任への無感覚は、国内に向けても同じなのです。命令一下で全国民を戦争に動員した大日本帝国は、戦争に負けても完全には解体されませんでした。
 その古い日本を、再び生き返らせようとする政治が進められています。この国の主権は、70年たっても国民の手には移りませんでした。半分以上もが投票所に行かなかった東京都民には、政治を論じる資格がありません。
 雪に降り込められた一日、社会批評社から出た火野葦平の「革命前後」(上下巻)の復刊版を読んでいます。戦争と敗戦そして天地が逆転した(ように見えた)「革命」を体験した著者の、文字通りの遺書となった本です。なぜ彼はこれを書き終って死を選んだのか。そこから、「どういう国なら生きられたのか」を考えたいと思います。
 雪は梅の枝を覆いました。でも明日はたぶん雨に会って、また本来の枝の姿に戻るでしょう。私たちにとって、大日本帝国とは、一夜の雪だったのでしょうか、それとも民主主義が春の淡雪で、枝そのものが本性だったのでしょうか。神話伝説から現代にいたる長い歴史の中では、いずれが本性だったのでしょうか。
 それよりも何よりも、私たちは、これからどんな国に住みたいのか。それこそが大事な問題でした。その答えを出さないかぎり、火野葦平を無駄に死なせたことになります。

「国家機関説」という視点

 昨日の「ハンナ・アーレントの『暴力について』」の記事に太田哲二さんから頂いたコメントで「国家機関説」という言葉が新鮮に感じられました。Google の検索にかけたところ、ウィキペディアにはこの項目はなく、似たものとして「国家法人説」の見出しが立っていました。民主制の下では、国家は国民の道具として役立つ「機関」であるのは当然だから、わざわざ項目にしていないのでしょうか。
 それにしては「国家」とは重々しさのある言葉です。近隣の独裁制の国では「国家反逆罪」に認定されると、本人ばかりでなく親族まで処刑される例が、今でもあるようです。民主主義を建前にしている今の日本でも、「国家秘密」とか「国家戦略」とか「あるべき国家像」といった名がつくと、なにか国民よりも上にあるような、えたいの知れない威圧感が出てきます。
 しかし落ち着いて考えれば、民主主義体制における国家は、国民の幸福な生活のために組織されるサービス機関であるべきです。国民に対して規範的な基準を示す場合でも、そこには国民すべての幸福のために必要であるという合意がなければなりません。歴史的に決まっている「国体」の護持が国家の使命であるといった固定観念で、国民を縛ってはならないのは当然です。
 そこで「国家法人説」をとるとすると、今の日本は「株式会社」に近いのではないかと思いました。国民のすべてが株主で、株主総会(総選挙)で代議員を選び、その代議員たちが執行役員を選んで国の経営に当るというわけです。会社ですから利益をあげて再投資し、経済を成長させなければなりません。順調に利益をあげられれば、社員として働き、かつ株主でもある国民に、給与や配当を支給することができます。ただし全員が「終身雇用」ですから、働けない弱者にも生活に最低限必要な保護は与えなければなりません。
 今の「日本株式会社」は、社員構成が高齢化しているので、先行きの見通しは明るくありません。そんな中で、依然として資本の集中に努め、社員(国民)相互の格差の拡大を放置しているのは問題があります。国際競争に勝ち残るためだというのですが、安定した中間層を増やす方向へ転換する時期に来ているのではないでしょうか。
 さらに国際紛争に対応することを名分に、「軍事・官僚特殊法人」を作ろうとしているように見えるのが気がかりです。第二次世界大戦の終了から70年近く、正規軍が宣戦布告して戦うことはなくなりました。戦争と名がつくものは、すべて中小国への軍事介入で、それで世界が平和になった例は少ないのです。株主がしっかりしていないと、今の経営陣は、とんでもない時代錯誤を始めるかもしれません。

ハンナ・アーレントの「暴力について」を読む

 ドイツ系ユダヤ人として生まれ、亡命してアメリカで思想家・政治学者となったハンナ・アーレントの「暴力について〜共和国の危機」(山田正行訳・みすず書房)を読みました。初版はアメリカで1969年に発行されています。
 最近に著者名そのままの「ハンナ・アーレント」という映画が公開されて話題になりました。私は見に行きそびれたのですが、ホロコーストの実行犯アイヒマンの裁判を通して、巨悪の犯行者も、じつは職務に忠実であろうとした平凡な人間に過ぎなかったことを明らかにした作品だったということです。日本の官僚も必見だと、老人党護憲プラスの会合で聞きました。
 この本は、日本でも大学紛争が盛んになった世界的な「怒れる若者たち」や、ベトナム反戦運動の時代を踏まえて書かれています。内容は「政治における嘘」から始まり、「市民的不服従」と「暴力について」を論じ、対話形式の「政治と革命についての考察」でまとめています。大いに期待して読んだのですが、今までに経験したことのないほど読みにくい本でした。著者の思考回路を辿るのが非常に難しい文章の連続でした。そこで私なりに理解できたことと、最後の「考察」の部分を中心に紹介してみます。
 最初の「政治における嘘」では、ベトナム戦争に関するペンタゴンの情報が、いかに政治的にゆがめられて、現場の実情から遊離して行ったかを考察し、国家ぐるみで誤った道へ進む道程を描いています。そして「市民的不服従」では、国民の良心が国の法秩序と合致しなくなったときに、どこまでが合法的で、どこから非合法な行動になるかを論じています。これは、立法が国民の意思に基づいているかどうかと関係します。
 そして政治的権力は、本来は法秩序の中で非暴力的に行使されるべきものなのです。暴力は、多少なりとも「物」を必要とするという考え方は説得的でした。腕力から銃、原爆に至るまで、有無を言わせず人を屈服させるには「物」が介在します。そして暴力に頼らざるを得なくなることは権力の失敗であって、必ず政治権力の崩壊を招くのです。
 ではハンナ・アーレントは、どんな政治形態を理想として提言しているのでしょうか。それは世界国家とは対極の「評議会国家」でした。最後の結論部分から引用します。
 「……主権の原理とはまったく無縁であろうこの種の評議会国家は、さまざまな種類の連邦に格別適しているでしょう。それはとりわけ、連邦では権力が垂直的ではなく水平的に構成されるからです。しかし実現の見通しはどうなのかといま尋ねられれば、もしあるとしても、ほんのわずかと言わざるをえません。それでも、もしかするとーーつぎの革命が盛り上がればできるかもしれません。」 

建国記念の日に見る紀元節への郷愁

 きょうは建国記念の日で休日である。成人の日も体育の日も、連休を増やすという下司な理由で月曜日に移動させられてしまったが、2月11日は政令で決められているから毎年変らない。建国の記念日の日付は、固定でないと格好悪いということか。
 安倍首相は、総理大臣として初めて「建国をしのび、国を愛する心を養う」趣旨のメッセージを出したということだ。愛国心を振るい起こす日として、大いにこの記念日を活用してほしいという心だろう。
 建国記念の日は、敗戦までは「紀元節」と呼ばれていた。日本書紀により神武天皇が即位した日とされたのだが、明治5年に制定されたときは、旧正月の元日に当る1月28日だった。その後、太陽暦に換算して2月11日とした経緯がある。日本書紀は、語り部が伝えた古代からの神話伝説を書き起こしたものだから、正確な「歴史」でないことは当時からわかっていた。だから古代の天皇の在位年数は100年を超えるものが続出し、紀元前660年とされた神武天皇即位も、実際は1000年ほどずれているだろうと言われている。
 しかし明治政府は、国内統一のために天皇の神格化を強調して、日本書紀を「正史」と位置づけたから、その後の歴史研究などに大きな禍根を残した。天皇の神格化は、昭和天皇による戦後の「人間宣言」で、一度は清算された筈だった。しかし独立回復とともに「紀元節」の復活は保守勢力の悲願となった。法案は、当時は健在だった社会党の反対もあって、国会では何度も廃案の憂き目を見たものの、ようやく昭和42年(1967年)になって祝日に加えられた。
 このときは「建国記念の日」と「の」の字を入れることで「特定の記念日ではなく一般的に国の成り立ちを祝うため」と、苦しい言い訳もしている。日付は結局は2月11日が選ばれたのだが、保守勢力の悲願の中心にあったのは、明治の「天皇を戴く大日本帝国」への郷愁であったことは間違いないだろう。
 私は個人としては、日本の神話伝説は嫌いではない。太陽神である天照大神が子孫を送り出して「天地と共に極まりなく栄えなさい」と祝福したという説話は、よく出来ている。125代までの天皇の系譜が、曲りなりにも特定されてその子孫が現に国民から親しまれているというのも、世界に例を見ない稀有のことだと思う。そのような島国の幸運と、そこに住む人たちの温和を、愛しいと思っている。
 願わくは、太陽神の子孫は、永続する平和を世界に広める民であらんことを!

付録・「紀元節」の歌の歌詞(4番まであるが1番のみをよく歌った)は次の通り。戦中までの学校の式典で歌われていた。曲は荘厳な名曲だったと、今でも思っている。

雲に聳ゆる高千穂の
高根おろしに草も木も
なびき伏しけん大御世を
仰ぐきょうこそ楽しけれ

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
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