志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2014年08月

北方領土とロシアとのつきあい方

(熊さん)ご隠居の会社も夏休みですね。
(ご隠居)そうだよ。それで親戚の子供たちが集まる横浜の義弟の家に行ってきたんだ。2家族に小学生が4人いて、育ち盛りだから楽しいよ。恒例「孫借り正月」の夏休み版だな。
(熊)日本は夏休みでも、世界はかなり物騒ですね。ロシアは北方領土で軍事演習だって。
(隠)日本がいやがるのを見越してるみたいだな。でもここで挑発に乗らないで、ソフトにしてるのがいいと思うよ。ロシアはいま微妙なところなんだ。こっちから敵に回すことはない。
(熊)ご隠居は北方領土を見てきてますよね。
(隠)うん。知床岬とノサップ岬に挟まれてる国後島がロシア領だというのは、どう見ても不自然だと思ったよ。日本の携帯電話だって通じるしね。歯舞と色丹は根室半島につながる属島で、あれを千島列島といっしょに占領したのは、そもそも間違いだよ。歴史的には択捉までが日本の固有の領土だったのは間違いない。
(熊)ご隠居は、1970年代からずっと北方領土にかかわってきてたからね。
(隠)歯舞・色丹を返すことは、ロシアも認めてる。だが4島一括にすると難しくなるんだ。突き詰めれば、戦争で占領したんだ、文句あるかということになる。だから先方が実効支配している現状を認めた上で「そこを何とか」と切り出すほかはないんだよ。
(熊)するとご隠居は「3島返還論」ですか。
(隠)早く言えばそれに近いかもしれないが、3島にすればすぐに応じて貰えるというのは甘いと思う。歯舞・色丹にプラスアルファーするのは、無条件では難しいと思うんだ。経済協力、早く言えば金を出して買い取るとか、懸案事項として先送りするかといった議論にならざるをえないだろう。それで日本国内が納まるかどうかは、政府がどんな態度をとるかで決まるだろうね。しかし、かなりつらい譲歩をしても、北方領土問題の解決は急いだ方がいいと、わしは思ってる。
(熊)そりゃまた、どうしてですか。
(隠)ロシアとアメリカとを、決定的に対立させないためだよ。ロシア・中国を封じ込めるアメリカ・EUという対立の構図は、下手をすると冷戦の再現から「世界最終戦争」へ向かって動き出しそうになってきたんだ。その中で、日本がアメリカとだけ固く同盟してたら、その戦争の最前線になってしまう。何とかして世界最終戦争を防ぐことは、日本が生き残る道になるということだ。
(熊)いまの世界情勢って、そんなにさし迫ってるんですか。
(隠)そう簡単に戦争ができるわけはないが、真剣にそういう世界戦略を立てて、着々と準備を進めている人たちがいることは確かだな。軍人がいて軍備がある限り、これは世界の宿命なんだよ。

平和な暮らしへの願望さえも 戦争に利用されることがある

  鎮魂の8月


日本の8月は鎮魂の月である
8月6日 広島に原爆が落とされた
8月9日 長崎に原爆が落とされた
8月12日 御巣鷹山に日航機が墜落した そして
8月15日 天皇が「ポツダム宣言受諾」の詔勅を放送した
3日ごとに「忘れてはならない日」がめぐってくる


なぜ忘れてはならないのかを知るためには
その日に何があったのかを 正しく知らなければならない
それには 体験して知っている人の話を聞くのがよい
しかし体験者は年をとり だんだんいなくなる
知っている人の話が聞けなくなったら
その人たちが残した 記録や資料を見るのがよい
素直に あるがままに 見るのがよい


人は権力を持つと 歴史を書き換えることがある
自分にとって都合のよい時代にしたいからだ
そこで工夫して 都合の悪いことを隠したりする
同じ出来事でも 見方を変えれば逆だと言ったりもする
しかし大事なのは 当時そこにいた人はどうだったかということだ
それには その現場にいた人の声を聞かなければならない
書き残したものを読まなければならない


他人の解説の受け売りでは 身につくものではない
人の信念とは 自分で調べて納得したことを積み上げて作られる
戦争は悲惨だ 殺し合うよりも話し合う方がいいと 誰でも言う
それでも戦争がなくならないのは おかしいと思わないか
平和な暮らしへの願望さえも 戦争に利用されることがある
だから 自分で調べ考えることを 忘れはならない

「憲法崖っぷち!」トークイベントと「1969新宿西口地下広場」

  •  今週土曜日、16日の13時から、新宿東口職安通りの「ネイキッドロフト」で、大木晴子さんの「1969新宿西口地下広場」の発刊を記念するトークイベント「憲法!崖っぷち!Part供廚行われます。
    http://www.labornetjp.org/EventItem/1406555432436staff01
     委細は上記紹介サイトの通りで、映画「標的の村」を監督した三上智恵さん、「べ平連」の事務局長だった吉川勇一さんが見えるとのことです。私にも声がかかりましたので、この本に添付されて世に出た記録映画「'69春〜秋・地下広場」について、なるべく短く10分ほどにまとめて話してみようと準備を始めたところです。
     昔の記録映画と、今のドキュメンタリー映画との違いは、前者は映画フィルムを使い、今はビデオカメラで取材するという機材の違いによって生れます。一口に言って、昔の動画撮影は非常に面倒な制約が多く、かつ高価についたのです。そして基本的に、音声との同時収録ではなく、必要な音声は別系統で録音して編集で合わせなければなりませんでした。
     当時の主力機材だったベルハウエルの16ミリ映画撮影機が、どれほど不便なものだったかは、私のブログでも記事にしたことがあります。
    http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/archives/55595522.html
     駆動はゼンマイを巻く方式で、ピントも絞りもすべて手動です。1缶100フィートのフィルムを装てんして撮れる長さは150秒、つまり2分半程度でした。15秒のカットを10回撮ったら暗い場所を探してカメラの蓋を開け、フィルムを交換しなければなりません。そしてフィルムは、ネガで撮影してポジに焼き直して編集した上で、ネガ編集から本プリントして初めて「映画」になるのです。1970年代の価格でも、フィルム代だけで1秒100円につくと言われていました。
     こうなると、報道カメラマンの心理は、スチールカメラマンが構成写真で取材するのと似てきます。つまり「最初に全景で場所をわからせる」「次に何が起きているかをピックアップして撮る」というように、自分で編集しながらストーリーを組み立てて行くのです。この態度は、ディレクターが近くについていても同じことです。
     ですから映画時代のドキュメンタリーは、テレビ放送用であっても、制作者が書くナレーションによって画面に意味が与えられるというのがノーマルな形でした。吉田直哉氏の「日本の素顔」などは、こうした作られ方で数々の名作を残したのでした。
     しかし「地下広場」の映画では、集まった人々の討論の場面が、そのままで大きな意味を持ってきます。カメラの前に展開する現象そのものが見る人にものを考えさせるという手法の萌芽が、この映画には見られると思いました。その意味からも、地下広場は「日本にまれな先進的な場」であったのです。

台風だけが伝えるべき情報だろうか

 台風11号が日本列島を縦断中で、NHK総合テレビは、昨夜から台風情報以外のほとんどすべての放送をやめてしまった。長崎原発についての夜の特集番組を予約しておいたのも無駄になったし、日曜朝の「小さな旅」も「先どり」も「日曜討論」も、すべて中止となった。台風情報が大事でないと言うつもりはないが、他の番組を全部止めなければならないほどの時間が本当に必要なのだろうか。
 台風について知りたい情報は、いつ、どこへ、どれくらいの強さで来そうかということにつきる。旅行の計画があるとか、家族や知人が地方にいる人でない限りは、自分のいる場所への影響さえわかればいいだろう。どう考えても、長時間そればかりをフル画面で見ていなければならない情報ではない。
 民放ではよくやっているが、画面の一部を使って台風の現在位置と進む方向を示しておくとか、警報が出れば字幕で知らせる、そして1時間おきに短い気象ニュースを挿入するといった程度で、全国的に最低限必要な情報は届けられるのではないだろうか。
 現状では、逆に長時間を台風関連だけで埋めなければならなくなるから、内容は繰り返しが多くなり薄まってしまう。最近は現場中継が技術的に容易になってきたのはいいのだが、木の枝が揺れているとか雨が降っているとか、現場アナウンサーが時間を持たせるのに苦労しているのが見え見えで同情したくなる。あんなものは画面を見ればわかるので、嵐の中に人を立たせる必要はない。
 台風は日本海に抜けるようだが、今夜の大河ドラマ「官兵衛」ぐらいはまともに放送されるのだろうか。それでなくても気になるニュースの多い夏だ。核廃絶への日本発のメッセージは世界に届くのか、ガザはどうなっているのか、ロシアはどこまで「制裁」に耐えられるか、イラクの「イスラム国」は育つのか、それとも過激化するのか、この一日半、NHK総合テレビからは、何の報道もなかった。

「日本国憲法を国民はどう迎えたか」を読む

 昨日に続き、「じゅんこ」さんからお借りした本のもう1冊です。憲法施行から50年に当る1997年に出た「日本国憲法を国民はどう迎えたか」は「歴史教育者協議会」の編で「高文研」から発行されました。施行から半世紀を経たのを機に、日本国民にとっての憲法は何であったのかを検証しています。20名近い執筆者が協力して、当時の文献や論調を調べ、日本各地における事例も持ち寄って、21世紀に向けて日本国憲法の理念を発展させて行く資料としたいとしています。
 憲法制定の事情については、アメリカ占領軍GHQと日本政府とのやりとりなどはよく知られています。そこでの最大の問題は、天皇をどうするか、つまり「国体の護持」でした。これが日本の降伏についても最後まで問題となり決断を遅らせたのですが、同じことが占領政策の中でも最重要課題であったのです。天皇制と日本国民との、断ち切り難い縁の深さを改めて感じます。
 日本国民の天皇への信頼感は、最後まで崩れていませんでした。敗戦の事実を前にしてさえ「天皇の決断のおかげで救われた」と感じた人たちが多かったのです。戦争は軍部が引起したので、天皇の真意ではなかったとする説明は素直に受け入れられ、皇居前で天皇に抗議の声をあげる群集は、ついに一度も出現しませんでした。
 アメリカは日本の国内事情を熟知して占領政策に活用するすることとし、東京裁判での天皇の訴追を避けるためにも日本憲法の改定を急ぎました。しかし非武装化と国民主権の民主主義化は譲れませんでしたから、日本政府の提案では満足できず、マッカーサー草案を示さざるをえなくなりました。制定の過程で、日本国民の代表による公式の審議の場がなかったことは事実です。
 こうして「象徴としての天皇」の存続が決まるのですが、政府の説明では、これで「国体は護持された」ことになったのでした。そして天皇の権限により、帝国議会の決議によって憲法を国民主権のものに変更するという「離れ業」が実行されたのでした。その後、天皇が天皇であり続けたことで、誰も「国体」について関心を持たなくなって今に至っています。
 日本国憲法の公布について、国民はかなりの高率でこれを支持しましたが、祝賀会などの盛り上がりは、たとえばメーデーや「食糧デモ」などには遠く及びませんでした。国民にとっては、やはり「上から決まって降りてきた」と見えたようです。新憲法の価値を国民に知らせるために努力したのは、むしろ政府の側でした。教科書「新しい憲法の話」など、平和と自由と民主主義で国を再建する意欲に燃えていました。
 かくして、天皇以下の政府が先に立って導入した日本国憲法です。この平和と自由と民主主義の理念を21世紀に生かせるかどうかは、国民が真剣にそれらを守り育てる意欲にかかっています。

「戦後日本の国家保守主義」を読む

 老人党護憲プラスの「じゅんこ」さんから紹介を託されていた「戦後日本の国家保守主義〜内務・自治官僚の軌跡」(中野晃一・岩波書店)を読みました。2013年3月発行の、やや地味な本ですが、日本国家の骨格を形成してきた官僚組織は、敗戦と新憲法公布という激震をも乗り越えて生き残り、今もさまざまな影響を残しているという視点を教えてくれます。それを単なる総論ではなく、局長級以上のポストにあった者たちのキャリアパス(出身大学から退官後の役職まで)を明らかにするさまざまな資料を駆使して解明しているところに、類書のないユニークさがあります。
 現代における国家とは何かと言えば、一定の地域に暮らす共通の言語、通貨、文化を持つ人間集団であり、単一の政治権力の下に統治されていると定義することができるでしょう。その統治を実行しているのが官僚組織です。その中でも戦前・戦中までの日本国家の中核に位置していたのが内務官僚でした。具体的には東大法学部から高等文官試験を経て内務省に入り、さまざまなキャリアを積んで省内の実力者になり、退官後も知事になったり政治家になったり、準国家機関に天下って役員になったりします。
 これらエリート官僚が「国家保守主義」の体現者になるのは、当然の帰結であると著者は考えています。国家の骨格を支える内側にいるのですから、国を守るということは、自分の職場組織を守るために精励することと同じです。その国家像とは、明治政府によって作られた立憲君主国家でした。一時は軍部の暴走を許して見通しのない戦争に突入し敗戦を招いたものの、文民であった内務官僚は、例外的な一部を除いて占領軍による公職追放を免れました。公職追放を受けた者も、一時的な自粛をしたのみで、独立回復後に速やかに復帰しています。
 戦後の民主政治で、官僚は国民全体のための奉仕者とされました。しかし一貫して政権についていたのは保守党が組織する政権であり、官僚組織は新憲法に適応しながら保守政権を支えてきました。平和と安全保障の問題でも、核エネルギーの問題でも、官僚にとっての第一義は「権力秩序を護持する」ことでした。民主党による一回の政権交代ぐらいでは、簡単に揺るがない基礎が出来上がっていたのです。
 さらに著者は、保守統治と新自由主義との「親和性」に関心を寄せています。自己責任論は、社会的リスクやコストを省く「強くて小さな国家」を可能にします。これには民間活力を解き放つプラスの側面がありますが、逆に私益追求が可能な天下り機関を増殖させる可能性もあるのです。悪くすれば軍事力、警察力、秘密保護で守られた「国家の私物化」に向かうのではないか。著者の問題意識には、そのような警告が含まれていました。

国会前に虹色の傘

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 昨日の国会一周散歩は、この上ない上天気に恵まれました。国会前にデビューした虹色傘は、日傘として役に立ちました。折から国会は閉会中で、周辺には機動隊員の姿も少なく、静かすぎるほど平穏でした。
 日本の国会議事堂には、「核の傘」よりも「虹の傘」が似合います。
 虹色旗のことを少し調べてみましたが、中央に「PEACE(イタリア語では「PACE」)などの文字を配した「ピース旗」は、上が青・紫の8色のものが多いそうです。これは実際の虹の色順とは反対で、副虹として外側に現れたりするときの形です。そして、上が赤の虹色旗は、同性愛者のシンボルとして使われたこともありました。ただしこれは国際的に公認されたことはなく、虹の色はすべての色を含むという意味で、オリンピック旗にも見られるように、多民族の融和、少数者の権利、平等と平和などのシンボルになっているということです。
 ただし虹は、いくら追っても手で掴むことはできません。理想は常に天空の指標として立ち現れるのです。しかし世界のどこへ行っても、太陽の光がある限り、虹が絶えることはありません。

 昨日は西口の皆さんは夕方の新宿へ行かれました。「長屋」の住人4人で、久しぶりに国会前庭の霞ガーデンで、ゆったりした昼食をとりました。

ブログ連歌(377)

7519 名古屋場所 活気の殊勲者 稀勢の里 (うたのすけ)
7520  綱とり場所へ 夢をつないで (建世)
7521 国連で 常に論議は 尽きるとも 
7522  世に殺戮の 種は尽きまじ (うたのすけ)
7523 世の荒れに 抗し明るく 生きんとす (みどり)
7524  そこでともかく 氷菓を一つ (建世)
7525 ご老公 お変わりなきか 垣根越し (みどり)
7526  夏には夏の 楽しみもあり (建世)
7527 オスプレイ いつの間にやら 我が物顔 (獣医さん)
7528  急患輸送の チャンスを待って (建世)
7529 この暑さ 思考回路が 途絶して
7530  手枕ゴロ寝 うちわパタパタ (うたのすけ)
7531 子も孫も 連れぬ夫婦の 二人旅 (建世)  
7532  野辺の草むら アカマンマ摘む (ひさ江)  
7533 北と西 豪雨で泣けば 関東は
7534  連日猛暑で 息も絶え絶え (うたのすけ)
7535 秋立つに 豪雨洪水 衰えず(みどり)
7536  悲劇は及ぶ 化学記号に (うたのすけ)
7537 ガザ地区で 砲声止んで 死者の数
7538  カウントなくて 和平の兆し (うたのすけ)
7539 ヒロシマに 毎年同じ あいさつし
7540  過ちを繰り返えそうとする DNA (獣医さん)
7540B  安らかに 眠れるわけもない (獣医さん)

映画「はだしのゲン」上映会のお知らせ

 「みどり」さんのブログからの転載ですが、映画「はだしのゲン」が明日の午後、川崎・溝の口駅前の高津市民館ホールで見られます。「たかつ九条の会」の企画ですが、一般1000円、小中高生600円の当日払いで見られるとのことです。要領は以下の通りです。

2014年8月7日(木)
上映は 。隠魁В械亜´■隠機В苅機´18:30 の3回
(開場はいずれも30分前) 
原作 中沢啓治(漫画)
映画監督 山田典吾 キャスト 三国連太郎 左幸子 他
会場 溝の口駅前「マルイ」の左側に併設されている商業施設
「ノクティ2」の11階にある「高津市民会館」
会場電話番号  044-814-7603

 この映画は、かなり以前にテレビ放映されたのを見た記憶がありますが、原爆体験者である作者の怒りと活力が、画面を突き破って出てくるような迫力がありました。似たような体験から作り出された名作映画「火垂るの墓」が、静かな怒りと哀調をもって迫ってくるのと対称的な作風だと思いました。しかし、そこから導かれる反戦、非戦のメッセージの強さは、みごとな双璧と言えるでしょう。
 夏休みで、子供を連れて見に行くのにも好適でしょう。原作マンガを図書館から排除する動きが出たという話題作ですが、映画で見られるのは貴重なチャンスです。

虹色の傘で国会一周へ〜真夏の歩き方

015

 大木晴子さんが最近よく使っている「虹色の傘」を私も買いました。人気商品らしく品切れのものもありましたが、アマゾンの「男女兼用 レインボーアンブレラ 16色 虹色 ジャンプ 長傘」(2200円)を手に入れました。日傘としても使えるでしょう。
 明日は第一水曜日、暑さもピークですが、正午に地下鉄丸の内線「国会議事堂前」駅改札出口(一つしかありません)の前からスタートして、国会議事堂の周回歩道を左回りに一巡する「アピール散歩」をします。旗やプラカードなどは規制されますが、手持ちの団扇、カード、バッグなどは大丈夫です。日傘はもちろんOK、ただ歩くだけでもいいのです。
 当局に届けなどは出していません。個人の任意の散歩です。国会の周辺を、いつでも国民が意思表示をしに行ける場所にしておきたいのです。ですから時間など決めなくてもいいのですが、初めて行ってみるとか、仲間がいると行きやすいと思うかもしれない人のために「私の個人的な予定」をお知らせしている次第です。一周後に、時間のある方と近くで昼の食事をして帰るのを通例にしています。
 話は違いますが、私はこの夏の対策として、肌着の使い方を変えてみました。綿の肌着を上下ともに全廃してみたのです。肌着は「もっこふんどし」一本のみとして、自宅では下は甚平のズボン、上は半袖シャツを直接に着流しでつけることにしました。肌に密着しない素材が出てきたので助かります。外出のときは、長ズボンでシャツを内側に入れ、冷房対策のジャンバーか上着を持てばいいのです。
 考えるヒントになったのは、汗を吸った肌着の重さでした。ずしりとした重さで、妻には「水に漬けたんじゃないの」と疑われました。肌着に吸わせたということは、液体として拭き取ったのと同じことだと気がつきました。以前に「夏の元気術、正しい汗のかき方」という記事にしましたが、汗を拭き取ってしまうと、気化熱による肌の冷房効果がなくなって、汗が無駄になるのです。
 この理屈に気づいたのは、ラオスに行ったときでした。日本からの訪問団が大汗をかいているのに、現地の人たちは少しも汗を流しておらず、肌がしっとりと潤っているだけでした。つまり汗の気化冷房効果を100%生かしているのでした。そこで「流れ落ちる汗は無駄になる、その寸前で止めるように行動する」という原則をつかむことができました。ところが綿の下着に汗を吸わせたら、拭き取るのと同じことだったのです。
 長年の習慣ですから、肌着をやめるというのは、かなり思い切った決断でした。それでもおかげで、冷房の設定は、昼は30度、夜は29度で快適に過ごしています。  

頭を雲の上に出し〜箱根湖上祭

014

 7月31日は妻の誕生日です。78歳になりました。この日は例年箱根の湖上祭で、箱根神社と元箱根を中心に花火大会が行われます。子供たちが小さいころ、実家の父が持っていた仙石原温泉荘の山小屋がありましたから、夏にはよく行って、湖上祭の花火も、湖尻から出る観光船に乗って見に行ったものです。
 子供が大きくなり、孫も育って大きくなって、家族連れ立っての外出の機会は、めっきり少なくなりました。下手をすると「教育と教養」(きょう行く所ときょうの用事)のない夫婦になってしまいそうです。そこで本当の久しぶりに、車を走らせて夕方の箱根に来ました。今は裏街道になっている長尾峠の国道トンネルを抜けると、目の前に富士山が現れます。
 富士の山頂は見えましたが、眼前に開けるはずの御殿場の市街地や東富士の山麓の風景は、すべて厚い雲海の下になっていました。峠は海抜1000メートル程度ですから、それ以下の低層の雲なのでしょう。この場所では初めて見た風景でした。時刻は6時半ごろ、日没の間近です。手前の草むらの中にホタルのような光が散っているのは、草の葉に日光が反射しているのでした。

007

 トンネルの近くでバイクを止めて休んでいた学生さんに頼んで、ツーショットの写真を撮ってもらいました。妻が手に持っているのは、アカマンマを見つけて根つきで掘り起こし、ポリの小袋に入れたのです。これは自宅に持ち帰って庭に植えました。

025

 それから仙石原を経由して、湖尻から7時半に出る納涼観光船に乗りました。湖上の花火には、船は絶好の観覧場です。午後8時からの30分間に4000発を打ち尽くす、めりはりの効いた、みごとな構成でした。数十年の間に、花火も進化しているのでしょう。

005

 この「夏休みの絵日記」は、長女が一年生のときのものです。1969年の夏休みの宿題でした。この絵のことは、本人もよく覚えていました。先生に丸をたくさんつけてもらったのが嬉しかったのでしよう。
 それから45年後の、老夫婦の夏休み写真日記でした。

映画「三里塚に生きる」を試写会で見る

 昨日は大木晴子さんから紹介をいただいた「三里塚に生きる」の関係者試写会を見てきました。大津幸四郎・代島治彦両氏の監督で、大津氏が撮影を、代島氏が編集を担当しています。これまでに作られた「三里塚映画」の集大成とも言うべく、パンフレットには「ニッポン最後の百姓一揆・完結編」の文字がありました。私はこれまでの三里塚映画を見ていません。白紙の状態で見ました。
 成田空港建設にまつわる「三里塚闘争」のピークは1971年でした。1978年からは滑走路一本だけの部分運用でしたが開港して、その後、未完成部分を残しながらも整備を続け、現在の成田国際空港となっています。闘争の当時は青年だった人々も、老境を迎えるころになりました。それでも多くの人たちが今も三里塚に生きています。あの三里塚闘争とは、何だったのでしょうか。
 140分の映画の中で、多くの人の過去と現在が交錯します。三里塚闘争は、一方的に計画を推進しようとした国の「苛政」と、民衆の力による革命の成就を夢見た抵抗者たちとの戦いでした。闘争の頂点では、3名の機動隊員が殉職し、反対同盟の青年行動隊リーダーが自死しました。国の第一着手のまずさが農民の反発を買い、反対同盟の側にも深刻な分裂や対立が生れて多くの悲劇を残したのでした。
 映画はその全体を一本の解釈でまとめようとはしません。誰に寄り添うかで、見える景色は変ってくるのです。代島監督は「万華鏡のように、ちょっと位置をずらすだけで見える構図が一変する」と上映後のトークで語っていました。どう見えるかを、観客に委ねているのです。しかしこの映画に記録されているのは、それぞれの真実の姿であり、それぞれの真情からの語りです。
 私にとっての印象的な場面は、ラストに置かれた「よねばあさんの畑」でした。1995年になって、村山内閣の時代に国と空港公団はようやく強権的だった態度を地権者に謝罪し、部分的な和解が成立しました。よねさんの養子となっていた松浦(小泉)英政氏は、空港公団と近隣の農家から土地を借りて、有機農法の野菜を作っています。ジェット機の轟音がとどろくすぐ下で、淡々と農作業をつづける姿は、まさに「三里塚に生きる」ことの実践に見えます。各人が生涯を支配するような重荷を背負いながらも、日々を生きているのです。「苛政」の罪は、それでも決して消えません。
 この映画は、今年11月から東京「ユーロスペース」で公開され、順次全国で公開されるとのことで、前売り券を販売中です。また、国際ドキュメンタリー映画祭への招待も受けているとのことです。
http://eiga.com/movie/80617/

苛政ここに極まる〜沖縄のゲート前に殺人鉄板

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 上のギザギザ鉄板が、辺野古のキャンプ・シュワブの門前に敷き詰められたという。琉球新報はこれを「殺人鉄板」と呼んでいる。抗議する人々が門前にスクラムを組んだり座り込んだりするのを妨害する目的で設置したのは明らかだが、防衛施設局は「工事車両のタイヤの泥を落とすため」と説明したということだ。
 舗装された道路を走ってきた車両に泥はついていないだろう。場内でついた泥なら、門を出る前に清掃するのが常識というものだ。見えすいた理屈を言って、抗議行動は絶対に許さないと居丈高に脅しているように聞こえる。タイヤの泥落としに、こんな広い仕掛けをするなど見たことも聞いたこともない。
 こんな場所で大勢が押し合ったら、機動隊や警備員が転んでも無事では済まないだろう。女性や老人もいる抗議行動の人たちがケガをしても、危険を承知の自己責任で放置するつもりなのだろうか。弁護士は、紛争の予想される場所に意図的に危険物を設置した傷害罪に当ると言っているそうだ。
 江戸の昔には、罪人を角を立てて並べた角材の上に座らせて、膝の上に石を載せる「石抱き」という拷問の方法があった。角材が脛に食い込んで、皮は破れ骨に傷がつく。極悪人も怖がる威嚇の効果もあったようだ。お上を恐れぬ者は徹底的に痛めつけて、思い通りの罪状を白状させることになっていた。
 孔子には「苛政は虎りも猛し」の言葉かある。山中で家族が虎に襲われたのを悲しむ婦人に会い、なぜ町に住まないのかと尋ねると、返事は、ここには苛政(ひどい政治)がないから、だった。孔子はそこで弟子たちに説いた。「よく覚えておきなさい、悪い政治は虎よりも恐ろしいのだよ」と。
 この鉄板を並べた発想には、国民の主権などは一かけらも存在していない。言うことを聞かぬ抗議デモは、国家の権力をもって排除するのが政治なのだ。もっとも確実で効率的な方法を考えさえすればいい。そこで採用されたのが座り込み排除のギザギザ鉄板だった。
 だが、日本はいつから独裁専制の国になったのか。行政は国民支配の絶対権を握ったのか。国が決めた方針に従わぬ者を力づくで排除していいことになったのか。この写真は、行政が極限まで堕落して「苛政」と化した姿を示していると私は思う。行政が国民を敵視してはいけない。国家の名誉のために、直ちに撤去せよ。

平均寿命を超えてしまった

(熊さん)今朝の新聞見ましたか。日本の男の平均寿命が80歳を超えて、世界で4番目の長さになったそうですよ。ご隠居は81歳になったから、もう平均以上なんだね。
(ご隠居)わしもゆうべのニュースで聞いたよ。やれやれ平均までは来たかいなと思ったよ。だからって安心なわけでもなし、この先どこまでって不安になるわけでもなし、大した感想もないがな。強いて言えば、「思えば遠くへ来たもんだ」ってところかな。自分が老人になったときのイメージなんて、まじめに考えないで来てしまったからね。
(熊)だいたいご隠居は、自分が老人だなんて、思ってないでしょう。
(隠)あはは、そりゃそうだ。しかし電車のシルバーシートには、75歳ぐらいから遠慮しないで座るようになったな。実際に座れば楽だと実感するようになったのが、そのころからだね。それから映画なんかのシルバー料金に抵抗感がなくなって、「シルバーでお願します」なんて平気で言えるようになったのも、その頃からだった。自分をシルバーと名乗るのは、やはり社会的弱者になったのを認めることだから、最初に抵抗を感じるのは、むしろノーマルだと思うよ。
(熊)シルバーって、大事にされる権利のようでいて、弱さを公認することでもあるんですね。
(隠)そうだよ。老人は社会的弱者になるより前に、家庭内で弱者になる場合が多いんだ。とくに女性の場合は、子供や孫たちを庇護する立場でずっとやってきたのが、いつの間にか立場が逆転して、子や孫から心配されるようになったりすると、ショックが大きいようだ。規模は小さいけど、家庭の中で政権交代が起きるようなものだからね。
(熊)政権交代、そしてあとの長い老後の暮らしですか。
(隠)寿命の長いのは、たぶんいいことだろうよ。だけどそれがそのまま人間の幸せとは言えないと思うんだ。長生きし過ぎたと嘆く老人が多くなるんじゃ何にもならないからね。子供たち孫たちが、いつまでも平和で暮らせる日本でいてほしいと老人たちは願っているさ。わしも頭と体が動く間に、何ができるかを真剣に考えないといけないな。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
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昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
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