志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2015年02月

「吉岡法律事務所」名の悪質メールにご用心

 迷惑メールの多さは相変わらずですが、最近の「吉岡法律事務所」を名乗るものは特に悪質です。「裁判所からの命令」「警察への出頭」「私は善意で」などの言葉を使って一日に数回のメールをよこし、それが一週間ほど続いています。もちろん無視していますが、少しでも疑念があって返信でもしたら、こちらのアドレスを確認して更なる悪だくみを用意しているのでしょう。
 ネット検索したら、この名前での迷惑メールは、最近多発しているようです。お気の毒なのは本当の「吉岡法律事務所」も実在していることで、さぞかし迷惑を感じておられることでしょう。このような場合は正式に告発して、発信元を摘発することも考慮されたらどうでしょうか。
 その他多いのは、「相続人のいない遺産があります」「余剰金の処理にご協力ください」「振り込みの準備が完了しました」などで、こちらの銀行口座番号を知りたい目的であることが、はっきりしています。しかし最近は「老夫婦です」「自殺を考えています」など、人生相談を偽装した手の込んだものまで出てくるようになりました。
 その上に一貫して多いのは「出会い系」の勧誘や、個別の色仕掛けアピールなどです。最近は画像や動画つきが増えてきました。うっかり開封や返信したら、どんなウィルスに感染させられるかわかりません。そのまま削除するのが鉄則です。毎日最初の仕事がメールの選別でうんざりするのですが、一面で世の中の移り変わりを感じたりすることもあるので、人の習慣とは面白いものです。
 つぐづく思うのですが、人間は便利なものを発明しても、その悪用の仕方もすぐに覚えてしまうものです。以前から「メールへの公的な課金」ができないものだろうかと考えていました。メール悪用の裏側に「いくらでも無料でできる」性質があるのは明らかだからです。たとえば1通10円でもかかるとすれば、迷惑メールは大幅に減るでしょう。
 しかしメーリング・リストによる情報交換などは、すでに社会インフラの一部になっています。メールはすでに「ふつうの会話」に近づいているのでしょうか。でも、それにしてはあまりにも雑音の多い世の中です。もしメールの選別が耐えられないほどの重労働になったら、また別な新しい通信方法を発明すればいいだけの話なのでしょうか。

春節で日本へ来た客(池田幸一メール)

(no more war ML に投稿された池田幸一さんの2015年2月26日のメールです)
 皆様。  池田幸一です。
 春節に大勢の中国人がやって来て平和日本を楽しみ、彼らは下へも置かぬおもてなしに満足して帰ったようです。中国人が大好きな私は、爆買したり雪国で遊ぶ彼らの姿をテレビで追い、つくづく“平和とは良いものだ”の思いを実感致しました。普段かなりな反日教育を受けている筈ですし、迎える方の感情も今は余り良くありません。しかし本心は憧れの日本であり、片や不景気に苦しむ側にとっては福の神、双方共ににこにこで、これが本当のウイン、ウインでしょう。
 しかしマナーの悪さが指摘されたり、ホテルの備品を勝手に持ち出したり、随分と非難の声も多いようですが、買い手であった過去の日本人の姿が思い出されて感無量です。当時は毛さんも周さんも存命で、四人組が威張っていた時でしたが、新生中国は諸事日本に後れを取り、頭が挙がらない後進国でした。しかし彼らには悠々たる大人の風格があり、カネの亡者は見られませんでした。訪れた日本人は爆買いこそしませんでしたが、中国の文化財を安い人民元で手に入れ、この時期にかなりの財宝が流出したのではなかったか。いろいろありましたが 小平以来、彼我の立場が逆転したようです。
 素敵な旅の思い出や満足度はネットや口を通じて広く伝えられ、それが大きなうねりとなって平和を呼び込んでくれるのではないか、政府間の不和を尻目に、これこそが民間外交の始まりかと私は期待しているのですが、それにしてもこの40年の変化は信じ難い現象です。売り手と買い手の立場が逆転したのです。戦後私が初めて中国を訪れたのは1975年、54歳のときでしたが、以後各地を十数回訪れ、その間の変化をつぶさに見て来たのですから・・・・
 笑わないで下さい、私はこう見えても日中の半世紀をこの目で見て来た残り少ない生き証人なのです。戦前も満州国の奉天(今の瀋陽)に住み、その移り変わりを肌で感じて生きてきました。その間は山あり谷ありですが、敢えてその実感を披露しますと、最も好ましい時期は田中角栄と毛沢東、周恩来の間で取り交わされた「日中共同声明」以後の38年間。最も悪いのは今の安倍政権の時代です。
 尖閣をカネで買うという愚かな背信を引き金に、先哲の英知で作り上げた38年の蜜月を一挙にぶち壊し、以後急速に関係を悪化させた責任は我が方にあり、一触即発の危機を招いたのは安倍外交の不手際であることは明らかです。中国の脅威から逃れたいための安全保障は、究極アメリカの属州にでもならない限り安心は得られないのであって、このために我が国は急速に独立性を失いつつあります。即ち安倍路線は亡国の道まっしぐらです。
 いま我が国が目指すべきは安倍路線と全く逆の方向で、何処の国にも属さない自立自存の国造りです。具体的には日米同盟を廃棄して中国とアメリカの中間に立ち、正三角形の一角をなすことで、等間隔外交に徹することです。国を愛する憂国の士であれば、右、左を問わず否は無い筈です。憲法9条を掲げる平和立国のためには先ず自立自存、それから憲法に基づく理念を築けば良いのであって、国民はその時になって初めて安倍政権と御用新聞の狂いに気が付くことでしょう。
 中国との外交が如何に狂っているか、隣近所と仲が悪くてどうして平和があり得るでしょうか?気に入らないからと云って引っ越すわけにはいかない、向う三軒両隣の付き合いを思い出せば誰にでもすぐに判ることです。何はともかく善隣外交を優先するのが原則ではないでしょうか。今の「積極的平和主義」とやらの喧嘩腰と、“一衣帯水の仲です、お互い仲良く末永いお付き合いを”の気持ちで行う外交が、結果に於いてどれだけ違ってくるか。
 その具体的な方法は繰り返しませんが、ここで良く考えて見て下さい、中国と我が国は頗る相性が良いのです。彼の欲する物は我にあり、我の欲しいものは彼が持ち大筋において互恵の交易が期待されます。過去における繊維や自動車摩擦、今ぎくしゃくしているTPPでの行き詰まりなど比べれば、その互換性においてアメリカとは大違いです。アメリカべったりよりもなぜ日中韓を軸にした広域経済圏を考えないのか。EUを手本にした東アジア共同体はアセアンをも抱き込んでの共存共栄を目指す構想、これこそが我が国の未来であり使命だと思うのです。
 この展望は良い事ずくめですが、どうして日本人は中国人が好きになれないのか、嫌いなのか?数ある戦勝国の中で、負けた我が国に最も寛大な扱いをして呉れた中国の、どこが気に入らないというのか、これはひとえに誤った歴史認識にあり、我が国の多くは中国に負けたとは思っていないのでしょう。負けたのはアメリカであって、中国などに負けたのではない、このやせ我慢が根強く心の底に残っているのです。
 そうではない、中国は米英やソ連を巧みに味方に引き入れて侵略者日本に完勝した国で、言わば中国は前の戦争の戦勝国筆頭であるのであって、そこのところの認識が日本人に欠落しているのです。戦争に勝った国がなぜ負けた国の言い分に従わねばならないのか?“徳を以て恨みに酬いる”の蒋介石の計らいから、日本人には特に寛大な扱いをしているのに一向に有難いとも思わず、事毎に刃向かう忘恩の徒、このような根強い不満が彼らの心の底にあるのでしょう。それに加えて政府要人の妄言が災いし、ますます不和の溝を広げた上に、今度は徹底した安倍政権の「積極的平和主義」が今のピンチを呼び込みました。
 中国は今迄に日本人を理由もなく迫害した事があったでしょうか、嫌中、反中を日本人がしなければならないような、ひどい事を現に彼らはしているのか?なぜ仲良く出来ないのか、日中不和の原因を私は知りたいのです。狡知に長けた何処かの陰謀に乗せられているのではなかろうか。仲良くするのに立ちふさがる障害はいったい何か。いろいろ考えさせられる春節でした。

ブログ連歌(397)

7919 此れ程の 原発反対 またも無視 (みどり)
7920  こうと決めたら 聞く耳持たず (建世)
7921 大地震 自然の脅威 心せよ (みどり) 
7922  われらの故郷 火山列島 (建世)
7923 沖縄と 日本政府は 別々の 
7924  国家の如き 様相呈し (うたのすけ)
7925 沖縄は 倭国に征服 されており
7926  辺野古の沖は わが海ならず (建世)
7927 法改正 恐いものなし 次々と 
7928  じわりじわりと いつか来た道 (うたのすけ)
7929 ウクライナ 涙ながらに 老女は言う
7930  平和以外は なにもいらない (うたのすけ)
7931 導火線 火をつけたがる 黒い手が (建世)
7932  黒か白かの 見極め肝要 (うたのすけ) 
7933 米価落ち 希望根こそぎ うばう闇 (みどり)
7934  みずほの国の 自給危うし (建世)
7935 遺跡群 歴史守るも 人の道 (みどり)
7936  古人あっての 現代と知る (建世)
7937 サンゴ礁 潰れ汚さる 沖縄の海 (みどり)
7938  国の差配で 基地つくるとは (建世)
7939 打ち砕き 証拠消すかに サンゴ消ゆ
7940  見張りいる海 増しゆく怪奇 (みどり)

注意信号で加速する安倍政権の不安

 西川農水大臣の辞任に関連する国会質問での安倍首相の答弁は、例によって質問の趣旨を無視した「はぐらかし」だった。疑問を起こした閣僚の任命責任を問われて、「自分に責任はある」と陳謝しながらも、すぐ続けて「しっかりと政策を前に進め、結果を出していくことで責任を果たしていく決意だ」と述べたと報道されている。これでは話が「あべこべ」ではないのか。非常な違和感があった。
 任命責任を問われているのだから、閣僚の人選を含めて、今後は慎重に事を運んで失敗を繰り返さないように努めますと答えるのが筋だろう。それを即日に後任を決めてあわただしく任命しておいて、国会で発したのが上記の「責任を果たしていく決意」発言だった。この人は何も反省などしていないのが、はっきりわかった。言わば交差点で黄色の信号を見て、左右も見ずに加速して通過しようとしているようなものだ。
 このように、万事前のめりに「前に進める」ことしか考えられなくなっているのが、安倍首相の現状のように思われる。「積極的平和主義」なるものも、間違いなくこの文脈から出てきている。ようやく手に入れた安定政権が揺らがないうちに、積年の問題を一挙に片付けようと、心が逸りにはやっているのだろう。その分だけ周囲への目くばりやバランス感覚が欠けてくるのが不安である。
 折しも「戦後70年の総理大臣談話」を取りまとめるという「有識者懇談会」が発足した。「お友だち」を呼んで提言を集め、その中から安倍首相が気に入ったものを拾って「積極的な未来志向」を語ることになるのだろう。歴代首相の談話は「全体としては継承するが、言葉として同じものは使わない」つもりであると伝えられている。首相の談話は、対外的には「日本国民を代表した見解」として受け取られる。本当に国民の真意を伝えるものになるか、気がかりではある。
 それでも野党には政権にブレーキを掛けられる決め手がない。むしろもっと深刻なのは、自民党の中にバランス感覚のある批判勢力が見えなくなってしまったことかもしれない。ブレーキのない積極性は深刻な大事故を引き起こす。運転士が遅れを取り戻そうとして速度を超過し脱線転覆した、JR福知山線の事故を思い出すのは私だけではあるまい。

唇は閉じて歯は楽に

 月に一度お世話になっている「愛育歯科」の歯科衛生士さんから言われた注意事項から、こんな標語ができました。歯ぐきを大事にするための心得です。歯の長持ちのためには歯ぐきの健康が大事ですが、強く噛み締めるのは、充血から出血を招きやすいので、よくないということでした。ものを噛むために力を入れるとき以外は、上下の歯は接していない方がいいのだそうです。人は無意識に歯に力を入れていることがあるので、壁に注意書きしておいて、時々気がつくようにするといいという話から、上の標語を思いつきました。
 そういえばホームラン王の王貞治さんは、打席で歯を食いしばることが多かったので、若いうちから歯がぼろぼろになったという話を聞いたことがあります。上下の歯が力をこめて合っていれば、鍛錬になって歯の健康には良さそうなイメージがありましたが、本当はその逆で、歯ぐきのためには余計な緊張が少ない方がいいのですね。
 そこで歯に力を入れないためには、口を開けていれば確実です。でもそれではだらしない感じになりますから、唇は閉じたままで、歯の力を抜いて上下を離していればいいのです。その形をやってみて、すぐに気づいたことがありました。上下の歯を離すと、顔全体から緊張が消えるのです。それは微笑を用意しているときの顔つきそのものなのでした。それだけで気分がふっと和らぐような気がします。
 逆に、上下の歯をぎゅっと噛み締めるのは、失敗や怒りなどで気持ちが荒れているときに、本能的に起こるような気がします。戦いや狩りのために、噛みつく用意をしているのでしょうか。とにかく顔の全体が緊張することは確かです。確認したかったら、歯をぎゅっと噛み合わせたままで笑顔になれるかどうか、試してみてみてください。
 そこできょうのテーマは、歯を大事にしながら世の中を和やかにする、ということでした。簡単ですからやってみましょう。書いて壁に貼っておくのもいいかもしれませんよ。著作権は要りません。
 唇は閉じて歯は楽に

浅田次郎編「見上げれば星は天に満ちて」を読む

 浅田次郎編の「見上げれば星は天に満ちて」(文春文庫)を読みました。「心に残る物語・日本文学秀作選」と副題がついています。浅田次郎が選んだ13編の短編小説の選集です。私は「みどり」さんのブログに書評が出ているのを見て、読んでみたくなりました。自分の知らない作品が意外なほど多く、知識の欠落部分が補えるような気がしたからです。選ばれているのは次の通りです。
 「百物語」森鷗外、「秘密」谷崎潤一郎、「疑惑」芥川龍之介、「死体紹介人」川端康成、「山月記」「狐憑」中島敦、「ひとごろし」山本周五郎、「青梅雨」永井龍男、「補陀落渡海記」井上靖、「西郷札」松本清張、「赤い駱駝」梅崎春生、「手」立原正秋、「耳なし芳一のはなし」小泉八雲。
 この中で私が確実に読んでよく知っていると思えたのは、中島敦の2編と、中学の英語教材として読んだ「耳なし芳一」だけでした。森鴎外と芥川竜之介は全集で読んだ可能性がありますが、記憶があいまいです。今回この選集を通読してみて感じたのは、自分はやはり「本当の文学好きではない」なということでした。それぞれの物語の面白さはわかるのですが、所詮は「つくりもの」だなぁという感想が拭えないのです。その意味では「補陀落渡海記」や「西郷札」といった、多少なりとも現実世界と接点のある作品には引き込まれるところがありました。
 「耳なし芳一」は、英語教材として読んだときは、意味が分かっただけで安心したところがあったと思います。今回は上田和夫の訳文で読んだわけですが、初めて日本文学として読んだ新鮮さがありました。浅田次郎はこの作品に「物語として本邦最高傑作」との評価を与えており、だから選集の最後に据えたと「あとがき」で書いています。そう言われてみると、戦いで滅亡した平家一門の悲劇と、それを語り伝える盲目の琵琶法師、そしてそこに集まってくる亡霊たちというのは、たしかに類いまれな、すぐれた構成です。
 もしこれを「日本の戦争」に置き換えたら、小説になるのか劇映画になるのかオペラになるのか、そんな決定版的な作品が出来ないものだろうかなどと、余計なことまで考えてしまいました。戦争を語り継ぐとは、戦争のない世を願う永遠の悲劇なのでしょうか。それともいつか本当に平和が当り前の時代がきて、昔は戦争というものがあったと、懐かしく語る時代がくるのでしょうか。
 浅田次郎の「あとがき」は、思ったよりも短いものでした。一編ごとへの解説も、期待したほど詳しいものではありません。ただ、多くの先人たちの作品が自分の滋養になった。「すぐれた作品」を選んだなどという大それたことをしたつもりはない、自分にとっての心に残る作品を選んだと書いています。一人の作家としてということは、文学を愛好するすべての人にも共通するでしょう。読んでおいて損はしません。
 見上げれば星は天に満ちているのは、その通りです。いろいろな星がいて、さまざまな光を放っているのが宇宙です。慕わしい星、会いたい星もあります。私もまた、それらの星の一つになります。

戦争の当事者としての覚悟はあるのか(池田幸一メール)

(no more war ML に投稿された池田幸一さんの本日のメールです)
 皆様。 池田幸一です。
 爐茲Δ瓦兇鵑垢諭このまま戦争で! 全ての日本人に当事者意識と覚悟を問う”これは小林よしのり氏の「新、戦争論」における巻頭の言葉です。この人とは随分意見が違いますが、現政権の傍若無人のやり方や、非力な野党の抵抗、メディアの不思議な沈黙などを見ていると、私もこの問いかけに同感です。戦争は絶対にしてはいけないのであって、この理念に逆行する政府はどんな政府であろうとも倒すか、退陣に追い込まねばならないと思うのです。
 果たして今、日本人は、「イスラム国」と本気で戦争する覚悟があるのでしょうか?先々予想もしないテロにやられても敢えて闘い続ける戦意があるのかどうか、今我々は戦争の当事者能力と覚悟を厳しく問われているのです。我が国は何処の国とも戦争は出来ないし、してはいけない。また争いの片方に加担してはいけない、最低限厳正中立でなければ憲法違反ではないでしょうか。
 憲法9条をもう一度読んで下さい。我が国はどんなことがあろうとも戦争はしてはいけないし、出来ないのです。即ち狎鐐茲簓靂呂旅垰箸榔扮鵑砲海譴鯤棄”しているのであって、普段は相手に喧嘩を吹っ掛けられないように気を配り、万が一争い事が生じた場合でも全てを話し合いで解決しなければならない。従って陸海軍その他の戦力は保持しない事になっています。憲法は一国の看板であり、戦後日本はこの憲法のお陰でどれだけが尊敬され、平和立国としての信用を博したか。
 およそその国の国柄を知ろうと思えばその憲法を読むに如かずで、“看板に偽りあり”の行動は国際信義を大きく裏切ることになります。今の憲法を変えてからならともかく、現政権は勝手気ままな解釈でこの看板に反する事を強行しようと躍起になっています。「イスラム国」が一人前の国家であるのかテロの集団かどうか?その見解は分かれるところですが、彼らとは一度も交戦した事もなく、遠い国の我が国が選りによって宣戦を布告され、更にテロのターゲットにされるとは・・・・
 アベと名指しされて一方的に宣戦を布告され、我が国はなすすべもなく戦争を受け入れたことになり、それに加えて2月19日にはワシントンでの「テロ対策閣僚会議」に中山泰秀外務副大臣が出席、その席上で有志連合に忠誠を誓い、人道支援と云う名の軍資金を提供するなど、これで「イスラム国」との戦争は確定的となりました。憲法に反するこれだけの大事件を、さて国民は政府からいつ、どのように知らされ、覚悟を求められたでしょうか?
 これらは外交に於ける拙劣さに起因するところが大ですが、それよりも憲法の精神を軽視した心得違いから生じた国難です。「積極的平和主義」とは「積極的戦争主義」ではないのか、今迄中東紛争には何の関わりもない人質事件に巻き込まれたうえ、思いもかけず敵視され、その上中国、韓国との近所付き合いも最悪、更に同盟国のアメリカともぎくしゃくと、いったいこれ以下は考えられない下手な外交であり、安全保障の致命的な失敗ではないでしょうか。
 極端なナショナリズムとその体質、歴史認識の狂いから東アジアの諸国とは売り言葉に買い言葉の喧嘩腰、先人の英知で棚上げにされたままで領有権を認められていた有利な条件の尖閣を、カネで買うなど最も愚かな手段でぶち壊して相手を怒らせ、それが為の中国との危機を恐れるあまりアメリカにすり寄り、助けて貰いたいばっかりの従米べったりが中東への介入に繋がり、今回のような思わぬ国難を招きました。その責任は厳しく問われなければなりません。亡国政策の推進者をこのままにはできないのです。 
 一国の宣戦布告や同盟がこのように軽々と進められる前例がこれまでにあったでしょうか。前の戦争の直接原因は「日独伊三国同盟」への加担でした。圧倒的なドイツの快進撃はヨーロッパを席巻し、英仏蘭の東洋植民地は空き家同然になり、石油、ゴム、錫など天然資源が欲しくなった我が国は、“バスに乗り遅れるな”を合言葉に独伊の勝利を予測して加担したのが1940年の9月、この道は翌年の12月には連合国相手の全面戦争となり、国を亡ぼす道に繋がりました。
 情報の甘さと云うか、大局判断の完全な読み違いでした。それと同時に軍の独裁にひれ伏した翼賛政治のもろさ、これらの失敗に懲りて戦後の憲法が出来たのではないでしょうか。過去に目をつむる者は先々が見えない、いくら戦争を知らない方々の時代とは云え、どうしてこれが判らないのか?前の戦争に比べ今回の戦争は極端に当事者能力が欠けています。極言すれば戦争をする資格がないのです。
 安倍政権は時を得顔のやりたい放題ですが、それであるなら此方も言いたい放題言わせて貰いますと、憲法9条がある限り厳正中立でなければ憲法違反であり、いやしくも国が戦争状態に入ったり、争いの片方に加担することは認められない。この理念を踏み外した政府は即座に下野し、国民に信を問うべきでしょう。思えば戦後政治を独占した自民党は、ハト派とタカ派が巧みに連動して大過なく戦後復興を成し遂げました。
 憲法改正を党是に掲げながらその実、憲法を尊重した結果では無かったか。不充分ながらそれが巧く平和に貢献したのであれば、いっその事9条の通りに忠実にやってみればどうでしょうか。折角の憲法を今迄はまともに具体化した事がないのです。完璧にやってみて不都合であれば変えるもよし、そうでないなら更に拳拳服膺すれば良い、世界に類を見ない憲法を一度も真面目にやらずに放棄するとは勿体ないではありませんか。
 いつも同じことの繰り返しで恐縮ですが、国民の不真面目さが如何にも残念。生き残りの老兵の遺言だとご容赦下さい。

憲法9条で守るべき核心は何か

 「集団的自衛権・国民投票」の運動をどう進めるかについての打ち合わせに行ってきました。いろいろな意見が出された中で、これは私が持ち出してみた一つの見解です。崖っぷちに立たされている日本国憲法第9条について、絶対に守るべき核心部分とは何かということです。第9条は、主文となる第1項と、従文となる第2項とから成っています。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

 この「前項の目的」を「国際紛争を解決する手段としては放棄」と狭く解釈して、自衛のための戦力は持てるとしてきたのが従来の政府の憲法解釈でした。ただしこれは裁判所が公認したわけではありません。裁判所は「高度な政治的判断」として判断を放棄しているのです。こうしたあいまいさを残したまま日本では防衛論議が続けられ、その中で「護憲」と「改憲」の勢力が対立してきました。
 この状況に決着をつけようとしているのが安倍政権です。集団的自衛権の名のもとに、自衛隊の活動範囲から地域の制約を外し、集団的自衛で支援する外国の軍隊をアメリカ軍以外へも拡大しようとしています。これが歯止めなく進めば、国際紛争解決の手段としての武力行使に限りなく接近することになります。これほどの政策変更が一内閣の「閣議決定」で可能になるとは、驚くべき法の「曲解」です。
 だからこその「集団的自衛権・国民投票」の運動なのですが、今の国会で安倍政権の立法を阻止できるかどうかは非常に厳しいものがあります。そして何よりも運動は急を要し、国民的な広がりを必要とします。そのときに、「現行9条死守」だけで多数派になれるでしょうか。当面の国民投票では結集できたとしても、その先で「憲法はどうするか」を必ず問われることになります。
 そのときの私の答えが「主文である第1項を死守して、第2項は捨てる」ことなのです。陸海空自衛隊の存在を全面否定することも、これらを「戦力でない」と強弁することも、もはや無理だと思います。攻められても交戦権がないから戦えないというのは、虚構でしかないでしょう。常設の国連軍が存在しない今の世界では、軍備の全廃は理想として掲げるのが、もっともふさわしいと思います。
 第1項の原則だけを高く掲げておけば、政権交代したときには軍備の全廃に向けた取り組みも可能です。当面の保守政権でも、国際紛争を解決する手段としての戦争への参加には、一定の抑止力として働くでしょう。従順で融通無碍な日本の国民には、けっこう似合いの憲法になりそうな気がします。

本を読むのは何のため

(熊さん)ご隠居、久しぶりだね。こんところ本ばっかり読んでるようじゃないですか。冬ごもりですかい。
(ご隠居)それもあるな。寒いと部屋で本を読んでるのが無難だよ。最近は図書館の利用も増えてきた。金もかからないし、部屋にモノが増えないってとこもいい。借用期間は長くても5日ぐらいで、どんどん返してるよ。忘れないうちにブログに書いたら「一丁上がりっ」て感じかな。
(熊)読むのは早いようだけど、本当に全部ちゃんと読んでますか。
(隠)細かい注釈なんかは「斜め読み」することもあるけど、基本的に全部読むようにはしてる。特別な速読法なんてなくて、ふつうだよ。ただ、邪魔されずに読んでいられる今の環境には感謝してる。日程に縛られるような仕事は、ほとんどしてないからね。だからって街頭の行動にどんどん出て行くほどの自信はないし、要するに、これが今の自分には合ってるんだろうね。
(熊)ご隠居は、本を読んでブログに書くのが「社会貢献」ってわけですね。
(隠)そうだね。いつも言ってるように、私が書いてるのは客観的な「書評」じゃなくて、自分が知らなかったことがわかった、ここがピンときたというように、自分にとってその本がどうだったかを書いてるんだ。だから同じ本をほかの人が読んでくれてもいいし、私が書いたことで考え方を補強する人がいてくれてもいい。そういう意味でなら「社会貢献」にもなってるかもしれないね。
(熊)ご隠居は、昔からずっと本を読むのは好きだったんでしょ。
(隠)それはそうだけど、いわゆる読書家ではないよ。いつも自分本位だった。独立して仕事を始めた時期にはまだ仕事が少なくて、時間がたっぷりあった。そこで手あたり次第に読んだのが岩波新書の中の社会思想や労働運動、それに歴史一般とか科学技術に関係した本だった。このときにいろいろ読んでおいたことが、その後で労働組合の人たちとスライド教材や映画を作るときに役に立ったという実感はあったね。ただの出入り業者じゃなくて、「こういう世の中にしたい」という共通の目的のある仲間のようなつきあいができたのはよかった。その感覚が、一般企業の仕事をするときにも応用できたんだよ。
(熊)ふーん、ただの趣味の読書とは、ちょっと違うんだ。
(隠)そうなんだ。だからいま時間があって本を読んでいられるのも、これから何かするときの「充電期間」になるといいんだよ。だけどね、がんばってあと10年ぐらいで何ができるのか、正直に言うとまだ目標が定まらないんだ。そこで何かの準備のための読書なのか、読書そのものを目的にしてもいいのか、自分の中では整理がついてない。悩んでるわけでもないが、宿題があることはたしかだな。
(熊)まあいいんじゃないの。読んで書いていられるだけでも、ご隠居は恵まれてるよ。
(隠)今はそういうことにしておくよ。でもね、ゆうべ「少国民たちの戦争」を読み直してたら、たいしたこと書いてないなと思った。本当に大事なことが、まだ書けてない気がする。目標は、いつまでも先にあった方がいいようだね。

「市場と権力〜『改革』に憑かれた経済学者の肖像」を読む

 「市場と権力」(佐々木実・講談社・単行本2013年)を読みました。副題の「改革」に憑かれた経済学者とは、竹中平蔵のことです。小泉首相と組んで「構造改革」路線を推進し、郵政民営化、規制緩和、ゼロ金利政策、雇用の流動化などを進めて「日本の国のかたち」を大きく変え、その影響は今に及んでいます。彼のビジョンの中心には何があったのか、そもそも竹中平蔵という人物の実体とは何であったのかを、著者は解明しようとしています。
 話は生い立ちから始りますが、経済学者として一人前になるまでの経過は順調ではありませんでした。一ツ橋大学を卒業し銀行員から経済研究員を経てアメリカに渡り、大蔵省とも人脈を作るまでになってから、ようやく博士号を取得しています。経済学者として独自の分野を開拓するというよりも、人脈づくりの巧みな実務家として頭角を現してきたことがわかります。今でも大学教授をオモテの看板にしていますが、世間の信用を得るための一つの門構えとして利用しているようです。
 竹中平蔵の強みは、アメリカとの間に太いパイプがあることでした。時代は日本経済の「開国」を迫っていました。その急先鋒はアメリカ政府で、日本に「構造改革要望書」などを突き付けてきました。この趨勢の中で竹中が発想したのは「外圧の民営化」ということでした。民間先行の自由化で日本の市場をアメリカに開くという考え方です。こうしてアメリカをバックとした竹中の政界工作が始まりました。
 竹中が政界中枢に持ち込んだのがアメリカ流の「シンクタンクづくり」でした。ここに気心の知れた内外の著名人を集めることで直接に首相を動かすことができます。竹中の先見の明というよりも変わり身の早さとして、印象的な記述がありました。森内閣の支持率が低下して先が見えてくると、竹中は小泉純一郎に急接近するとともに、民主党の鳩山由紀夫にもシンクタンクを持つように勧めたというのです。さすがにメンバーが重複しないように気は使ったものの、どう転んでも政権の中枢に人脈がつながるよう保険をかけたのでした。
 小泉内閣の時代には経済財政政策担当大臣、金融担当大臣、郵政民営化担当特命大臣など要職を占め、「小泉首相の意向」をちらつかせながら「聖域なき構造改革」を進めました。しかしその業績とは、確信的な経済政策というよりも、その時々の空気を読んで「アメリカでやっていることは日本でもやるべきだ」という基準でしかなかったのではないかと著者は分析しています。問題は、そのようにして国費を投じた政策が、最終的には誰の利益になったかということです。
 りそな銀行の経営破たんでも、郵政民営化に伴う「かんぽの宿」売却でも、巨額の国費・公費が民間の資金へと転化しました。その流れを追っていくと、決める人たちと受け皿になる人たちが、結局は同じグループに属して資金が還流する構図が浮かんでくると著者は示唆しています。
 この本の最後に「ホモ・エコノミカス」という言葉が出てきます。経済合理性の徹底的な追求は、「平等」「公正」といった価値判断の無視を招きます。こうした「聡明な人々」が現実の政治と結びついて影響力を行使するとき、取り返しのつかない災いが起きるというのです。竹中平蔵はその「取り返しのつかない災い」だったと著者は言いたいようです。

「戦争の世紀」の残務整理か「最終戦争」の準備か

 20世紀が戦争の世紀だったことは異論がないだろう。この世紀の前半には2回の世界大戦が戦われ、世界中の国々が大きな影響を受けた。その大戦も1945年には終了し、世界は恒久平和を願って国連を創設した。国連の発足後に、局地戦ながら従来型の戦争が行われたのは朝鮮戦争が最後だった。これも1953年には停戦協定が成立して現在に至っている。
 20世紀後半の最大の不安定要素は、アメリカを中心とする「自由世界」と、ソ連を中心とする「共産圏」との対立だった。これは互いに核兵器を用意して威嚇し合う危険な関係が続いたのだが、やがてソ連が崩壊し共産主義を放棄することで一応の解消を見た。世界はこれでようやく戦争の恐怖から解放された筈だった。その後の武力行使は、おもにアメリカによる「ならずもの」懲罰のための非対称な戦争に限られてきた。
 世界の歴史を大きな流れとして見ると、こういう筋書きになる。言うまでもなく戦争は殺人と破壊を組織化する野蛮な行為で、現代の世界では「採算のとれる戦争はない」というのが常識になっている。それでも各国が軍備を捨てない理由はただ一つ「自衛のため」に限られている。軍備が弱ければ国益を守れないと考えるから、いつまでも新兵器の整備をやめることができない。
 その中でアメリカでは、グローバル市場支配を目指す資本と、世界最大の軍需産業との強固な癒着が起きてしまった。軍事力を背景に市場経済を拡大して行けば共通の利益になる。適度の紛争があって兵器の需要と消費があれば、なお好都合である。そしてアメリカでは、軍・財と政界とは、非常に近い関係にある。紛争を起こすのが目的でなくても、結果が好都合なら紛争への抑止力は働かない。
 この文脈でアメリカから世界を見ると、ロシア、中国、イスラム圏という三つの大きな不安要素がある。いずれも歴史的にも思想的にもアメリカとは肌合いが違っている。これをロシアから順番にアメリカ経済圏に組み入れられれば理想的で、一時はそうなりそうな時期もあった。しかしプーチンには「大ロシア」を守りたい意地がある。ウクライナに政変を起こしてロシアから離反させようとする工作に抵抗した。
 だから今はウクライナから目が離せない。報道によると東部のデバリツェボという町からウクライナ政府軍が撤退を始めたということで、ここを親ロシア派が占領すると東部は事実上のロシア圏に残るようだ。これは停戦協定の違反にはなるが、常識的には「落とし所」のように思われる。問題は、これをEU・アメリカ側が容認するか、それともロシア側に耐えがたいほどの制裁を加えて戦争の危機にまで高めるかだ。
 EUとしたら、アメリカに追随してあえてロシアと戦争を構えることは避けたいだろう。アメリカとの間に亀裂ができても東ヨーロッパの紛争を拡大しない選択ができるかどうかが、近日中の山場になるような気がする。プーチンが強硬に見えるとしても、かつてのソ連のように共産主義を世界に広めようとしているのではない。これ以上は入ってくるなと言っているのだ。
 アメリカも一枚岩で世界の「最終戦争」に備えているわけではない。世界はアメリカ一極で支配しなければならないほど小さくはない。多様性を認めた共存もありえると考える人は、アメリカにもいる筈である。

「フリーターズフリー・第3号」を読む

 「働けと言わないワーキングマガジン」と自称している「フリーターズフリー」の第3号(1400円)を読みました。2007年と2008年に第1・2号を出したあと、苦難の歴史を経てこれが最終号ということです。新宿西口仲間の遥矢当(はやと)さんが「介護事業所編」として「未払い賃金を取り戻せ・ケアそして不安定労働」を担当しています。介護士として介護事業にかかわり、一時は事業法人の役員に就任させられながら、出資者などの思惑に振り回されて自身の生活を不安定にさせられ、それでも要介護の人たちを放置できない中で苦闘をつづけた顛末を、克明に記録しています。
 マガジンの内容は不安定雇用に翻弄されるフリーターたちの現場報告が主になっていますが、その中には高学歴のワーキングプアという問題もありました。大学院の乱立で、博士号を持つワーキングプアが増えているというのです。学術の世界は狭いですから、安定した研究生活を送れる人数は限られています。その結果として過当競争になり、時間講師のかけもちという不安定雇用にならざるをえません。教育行政の不備が高学歴のフリーターを作り出しているようです。
 しかし総じて、反貧困の運動に取り組んでいる現場にはフリーターが多いという、貧困の二重構造が感じられます。自立支援には行政からの支援も各種のNPO法人もあるわけですが、それらは「自立支援をする組織への支援」であって、本当に必要とする人たちへ直接には届かないという現実があります。自律的な生活の再建には、上から目線でない現場からの発想が有効なようで、先日読んだ坂口恭平の「独立国家のつくりかた」にも通じるところがあると思いました。
 とにかく内容が充実して、数冊分の情報を小さめの字でぎっしり詰め込んだマガジンですが、共同保育による「家庭」の再建例や、大阪の「あいりん小中学校」による教育と福祉の融合など、貴重なレポートを読むことができました。学校へ行かない子を発見し、戸籍のない子に戸籍を作るところから始める、飢えている子には学校で朝食と昼食を食べさせるなどは、学校教育の範疇を超えています。それらを非正規の人たちが支えたというところに、日本の政治が透けて見えてきます。
 巻末に置かれた生田武志の「反貧困運動と自立支援〜それは何からの自立なのか?」という長文の論文は、かなり難解でした。しかし日本の貧困問題が、「年越し派遣村」などで社会の注目を集めたころと比べてさらに悪くなっており、構造化されているという流れは理解できます。そして反貧困は「血族による扶養義務を小さくして家族以外の支え合いを強める」方向であるべきというのは正論だと思います。血族による扶養は格差を拡大する一方になるでしょう。
 それにしても、このマガジン第3号が、会の解散を経て絶望的な遅延をも乗り越えて、生田武志と栗田隆子お二人の努力で世に出たことに心からの敬意を表したいと思います。マガジン「フリーターズフリー」の歴史は、日本における「すべてのフリーターの結集」が、いかに難しいかを映し出しているのかも知れません。それでも人の働き方に「強いられたフリーという名の非正規の貧困」があっていいものでしょうか。これは「私たちはどんな世の中に住みたいか」という問題と直結するのです。

さよなら今は〜蛍の光〜Auld Lang Syne

 日本では「蛍の光」として知られるスコットランド民謡です。学校唱歌の定番で卒業式に歌われてきましたが、原詩に沿った訳詩をつけて「さよなら今は」としました。これを、所沢で音楽教室(カルチャーセンター・メヌエット)を主宰する間庭小枝さんが歌って Youtube にアップして下さったので紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=TSO2duJxmkU
 なお、Youtubeには maniwa menuet 提供として「日本語で歌う世界の歌」シリーズをはじめ、多くの歌が登録されています。「さよなら今は」の歌詞および原詩は、以下の通りです。別れの多くなる年度末をひかえて、こんな歌でのお別れはいかがですか。

    さよなら今は(蛍の光)

  スコットランド民謡
  作詞 志村建世

1 さよなら今は別れの時 大事な思い出いつまでも
  楽しく過ごしたよき日のため 今こそ歌おう別れの歌

2 小川で泳いだ幼なじみ 野原で日暮れた遊び仲間
  心に忘れぬふるさとよ 今こそ歌おう別れの歌

3 こもごも語れば時を忘れ 杯交わせば夜も更ける
  互いのあしたに幸あれと 今こそ歌おう別れの歌

  Auld Lang Syne

Should auld acquaintance be forgot, And never brought to mind?
Should auld acquaintance be forgot, And days of auld lang syne.
(各節後半は同文くりかえし)
 For auld lang syne, my dear, For auld lang syne,
 We'll tak'a cup o' kindness now, For auld lang syne.

We twa hae paidelt in the burn, Frae morning sun till dine;
But seas between us braid hae roar'd, Sin' auld lang syne.

We twa hae run about the braes, An' pu'd the gowans fine;
we've wander'd mony a weary foot, Sin' auld lang syne.

And here's a hand my trusty fere, And gi'es a hand o' thine;
We'll tak'a richt gude wille waught, For auld lang syne.

 And surely ye'll be your pintstoup, And surely I'll be mine,
 We'll tak' a cup o'kindness yet, For auld lang syne.

坂口恭平の「独立国家のつくりかた」を読む

 ネットで話題になっていた坂口恭平の「独立国家のつくりかた」(講談社現代新書)を読んでみました。著者は建築家・作家・絵描き・踊り手・歌い手でもあると自己紹介していますが、写真集も出しているのですから写真家でもあるのでしょう。2012年5月に出した本で「現在34歳、妻と三歳の娘がいて熊本在住、年収約1000万円で貯金300万円」と書いています。 
 著者の原点は、卒業論文で路上生活者の「家」を調査したことでした。すべて0円で建てられており、人が生きるために必要な要素を満たしているのでした。ここで「人は金がないと生きられない」というのは誤った固定観念であることを悟ります。路上生活者たちは生活保護も受けず、町の中での「採取」活動で日々の暮らしを成り立たせています。これこそ人間の本来自然の生活ではないかと気づくのです。
 とはいっても著者は貨幣経済を否定するわけではなく、無政府主義者でもありません。この本の大半は、著者の才覚による「世渡り出世成功物語り」に近いのですが、その方法が、就職し期待される仕事をすることで高い報酬を受け生活の基盤を築いて行くという、常識的な世渡りとは無縁なところがユニークで魅力的なのです。著者の理想とは、おそらく「何もしなくても食うに困らない」生活でしょう。それは自然界からの採取で暮らしていた「農業以前の人たちの暮らし」と近いもののように思われます。
 ただしそれは文明の否定ではありません。現代社会の切り口を少し変えるだけで、「みんながもっと楽にしていても暮らせる世の中」が作れそうだと発想するのです。その願望が「独立国家」であり、著者はその初代総理大臣に就任したと称しているのです。
 新政府の発足は、東日本大震災と原発事故に伴う避難計画に触発されました。国の動きがあまりにも遅いので、2011年5月10日に新政府の設立を宣言しました。具体的には熊本市内の借家を「ゼロセンター」名づけ、東日本からの避難者を宿泊費ゼロで受け入れたのです。ゼロでもやって行けると考える根拠は「交易」の思想にあります。誰でも他人のためにできることがある。これを交換し合うことで、顔の見える範囲での「国家」を作ればいいと考えるのです。
 これは夢想家の発想と思われそうですが、熊本県知事直属の政策参与の目に止まり、福島の子供たち50人を無料で3週間熊本に招待する「0円サマーキャンプ計画」などに発展しました。しかしそれは公金を支出する事業ではなく、宿泊、食事、遊びの提供者を募集し、150万円の旅費もフォロワーからの「投資」でまかないました。著者はこれを「態度の贈与によって発生する経済」と呼んでいます。
 著者はいま「新政府の領土拡大」に取り組んでいます。使われていない土地や空き家、耕作放棄地などの提供を受けて、0円特区(zero-public)を作る事業です。そこでは移動可能な「モバイルハウス」が住居となり、果樹が栽培されます。なるべく労働が少なくて収穫のある暮らしが理想です。日本には、使われない土地も捨てられる食糧も大量に余っています。独立国家の未来は大きいのです。

群れるという習性の不安(池田幸一メールより)

(no more war MLに池田幸一さんが投稿した2015年2月14日のメールです)
 皆様。 池田幸一です。
 人質事件における様々な意見の中で、2月11日朝日新聞のオピニオン欄「集団化と暴走、押しとどめよ」を寄せられた森 達也に心から敬意を表します。この人は、“お前は「イスラム国」を擁護するのか”とボロクソに叩かれることでしょう。このように目には見えない集団の圧力に屈して黙ってしまう、これはまさしくかっての大日本帝国の姿だ、メディアも営業だから市場原理にあらがうことは困難で、部数も視聴率も減るだろう。しかし敢えて火中の栗を拾い、メディアは罵倒されながらも声を挙げるべきで、そうでないと太平洋戦争に進んだ時の状態を繰り返すことになる。と云うのです。
 猗槊瑤澄▲謄蹐論簑个傍せない”が枕詞のように叫ばれ、やがては正義と邪悪の二分化が進んで集団化するというのです。集団、つまり群れ、人々はその多数派に身を置かないことには安心できなくなり、群れを更に加速させ、暴走が始まっても気が付かない。爛謄蹐剖するな”が硬直して冷静に考える力を消し去り、何が何だか判からなくなる。全員が同じ方向に進まず、テロとは何か、政府は方策を誤り二人を見殺しにしたのではなかったか?そんな疑問を各人はどしどしぶっつけるべきだというのです。フアッショのような世の中では思い切った意見だと思います。
 私もテロは憎むべきであり許せないと思う一人です。しかし中東事情やその争いの複雑さは勉強不足、日本人にはよく判らないのであれば、巻き込まれないように埒外に立つべきで、それであるのに敵にされてテロの恐怖にさらされるとは、政府の対応は最低ではなかったか。いつの間に物騒な有志連合とやらに組み込まれてしまったのか?どうして「イスラム国」に宣戦布告を突き付けられたのか、一神教に殆ど関わりのない日本人がなぜ選りによってテロの相手にされたのか。
 アメリカとの同盟から必然的に有志連合か、それならアメリカとの同盟をこの際問うべきではなかったか。ましてやこんなに簡単に宣戦布告をした総理を国民は認めているのでしようか?今からでは取り返しが利かない、仕方がないではないか、テロに屈するとは卑怯千番と謗られるでしょうが、卑怯未練も時により英断です。カイロで行われる近代5種かなんかに派遣される予定の選手が、万一を慮って急遽見送られたようですが、そんなことが心配では今から何処へも行けません。
 テロの不安は徐々に深まり、深刻な打撃を蒙る可能性が国民を悩ますことになるでしょう。イワシや鴨のように同じ方向を行く集団の中では、これらが見えなくなるのです。これは前便で述べた伊丹万作氏の卓見とも底流する群れの欠点で、これを離れて各自が自分の考えに立たない限り、私は再び迎えるであろう亡国の運命を恐れるのです。
(追記・池田幸一さんの日常の発言は、以下のブログで閲覧できます。)
http://blog.livedoor.jp/kamakiriikeda/

泥憲和の「安倍首相から『日本』を取り戻せ!!」を読む(4)

 第3章では、おもに従軍慰安婦問題を検証しながら安倍首相の歴史認識を論じています。ここでも著者の検証は、証拠となる文書の写真を添えるなどして徹底しています。そこで導かれる結論は、戦時下の従軍慰安婦は、人身売買を禁止した明治政府よりも後退した「性奴隷制度」そのものだったという事実です。江戸時代から続いていた遊郭への人身売買は明治政府によって禁止され、以後に公認された売春制度は、廃業の自由を前提としていました。現実には前借り金などの縛りはあったでしょうが、廃業は届け出制だったのです。
 しかし従軍慰安婦の身分は軍属に準じることとされ、文字通りに軍命令による「従軍」を義務付けられていました。そして廃業の自由はなく、従軍からの離脱には軍の「許可」が必要でした。募集・採用にはさまざまな形態があったようですが、「女子挺身隊」などの名目で自治体や警察の誘導により集められ、気がついたときは軍の管理下に入っていたというのが実態に近かったでしょう。軍の主導で大規模な「戦時慰安婦制度」を作り、その担い手に植民地支配していた女性たちを利用したところに問題があるのです。
 この従軍慰安婦問題については、「自由意思で参加した」「金になるいい商売だった」などのデマも流れているそうですが実態はどうだったのか、一例として裕福だったとされる朝鮮の文玉珠さんについての著者の検証を紹介してみます。この女性については、軍人郵便貯金として2万7045円の貯えがあった原簿が日本に残っていました。これは当時としては高級軍人も及ばない貯金です。そこで従軍慰安婦は高給取りだったという宣伝が行われました。
 しかし著者は当時の慰安料金の相場である一回30分1円〜1円50銭から計算し、さらに契約書からわかる女性の取り分や労働時間などから見て、報酬の実額が一般の労賃としても安いものであったことを立証します。では高額の貯金はどうして可能だったのか。じつは文玉珠さんがいたのはビルマでした。ここでは日本軍の軍票が発行され、1円が1ルピーとされました。ところが敗戦近くなってインフレとなり、軍票の価値は紙屑に近いまでに下落したのです。彼女が集めたのは、兵隊が持っていた使い道のない軍票でした。この貯金が日本で使える現金になった可能性はありません。せめてもの生きがいに貯金を積んだ女性の心情が哀れです。
 この慰安婦問題を含めて、韓国への国としての補償は完了しているというのが政府の立場です。しかし泥氏は、絶対額がそもそも十分でなかったこと、個別の民事の請求権は残っていると日本の国会答弁でも認めていることを指摘します。グレーゾーンを放置したまま正対せず、「政府としては解決済み」の硬直した態度から一歩も出ないので、何度でも同じ問題をむし返してしまうのです。
 最後に著者は「番外編」で安倍首相の愛国心の中身を検証し、手がかりとして自民党の「憲法改正草案」に盛られた思想を検討します。その骨子は「天賦人権思想の否定」でした。国民の人権を根底に据え、それを守り発展させるために国家があるとする現憲法の思想は日本の伝統にそぐわない、国家を支える「良民」の心得を規定するものが憲法だという思想です。独善的「東亜新秩序」を唱え、武力行使に走って破綻した「大日本帝国」の再現そのままなのです。

ブログ連歌(396)

7899 少しずつ 迷宮の果て 解けて来て
7900  死者に鞭打つ それ蛮勇 (うたのすけ)
7901 イスラムも 人道支援も 虐殺も
7902  日常消えた ホームの姉 (うたのすけ)
7903 血を洗う 清流のあれ 人の世に (建世)
7904  よわい九十  微笑みの姉 (うたのすけ)
7905 生存の 脅かさるる 今日に
7906  めでたき長寿 戦争くぐり (みどり)
7907 アネモネに 姉上の笑み 重なりぬ (くるみ)
7908  在家の涅槃 童女にも似て (建世)
7909 なぜか無力感だけが残る 処刑劇 (獣医さん)
7909B 監督の八百長疑惑 政治家も見習え潔癖性 (獣医さん)
7909C CGかと思いきや 空から飛行機が降り (獣医さん)
7910  運は一瞬 生死を分けぬ (建世) 
7911 イスラムの 狂気が伝播 「日本国」 (うたのすけ)
7912  不倶戴天と 総理は叫ぶ (建世)
7913 人命を 重んじ渡航 許されず (みどり)
7914  守るは人か 国の権威か (建世)
7915 大いなる 野望に飢える アベ語録 (うたのすけ)
7916  褒めてくれなきゃ 自分で褒める (建世) 
7917 真実を ねじ曲げ他国 悪ものに (みどり) 
7918  戦意高揚 国策となる (建世)
7919 此れ程の 原発反対 またも無視 (みどり)
7920  こうと決めたら 聞く耳持たず (建世)   

泥憲和の「安倍首相から『日本』を取り戻せ!!」を読む(3)

 第2章「九条が最強の武器である」では、著者は日本の憲法第9条があるからこそ、日本は世界の平和に貢献してきたという実績を強調しています。日本が世界平和に貢献したとは、イラクの非戦闘地帯に自衛隊が駐留して道路建設工事を担当したことなどを言っているのではありません。それはそれとして地元民の信頼を集め、他国の軍隊がパトロールで水平に銃を構えるのに、日本の自衛隊だけは常に銃口を下に向けて住民と戦う意思のないことを示したということです。それでも、道路工事なら専門の業者を派遣すべきだった、所詮は自衛隊をイラクに出したという実績づくりだけが目的だったと述べています。
 著者が高く評価しているのが、1991年に日本がホスト国として実現した「国連軍備登録制度」です。これが日本の主導で実現したかげには、日本の「武器輸出三原則」がありました。紛争国への武器輸出に利害関係を持たない日本だからこそ、各国を説得できたのです。この制度の威力は画期的で、いくつもの紛争拡大を未然に防いでいるということです。しかし私も知らなかったし、日本国内で知っている人はほとんどいないでしょう。こうした事実を日本の政府は積極的に広報しません。
 戦争状態を完全に終らせるためには、まず双方の兵力を引き離し、次に武装解除して、兵士を社会復帰させなければなりません。これをDDRというそうですが、これまでに39ヶ国で試みられ、成功例はわずか3例しかないということです。ところがこの3例、シエラレオネ、アフガニスタン、ネパールは、いずれも日本がかかわって成功させました。そのほかフィリピンのミンダナオ島でも、長く続いた民族紛争を終結させています。それらの事例に共通しているのは、丸腰の日本人が行って話し合いを成り立たせていることです。その交渉力の根底に「戦争をしない憲法を持つ日本国」への信頼があることは言うまでもありません。
 この章の後半では、著者は国の交戦権と自衛隊との関係について、明確な基準を示しているので紹介しておきます。それを結論から先に要約すると「憲法は国際紛争を解決するための交戦は否定しているが、自衛のための交戦は否定していない」ということです。自衛のための交戦まで否定するのでは、そもそも自衛隊を維持する意味がありません。また、自衛目的以外では交戦しないのですから、集団的自衛権という名の軍事同盟もありえません。つまり非武装中立にも日米同盟にも与しないのです。
 その見地から、著者は自衛隊の法的地位について重要な指摘をしています。それは「日本の自衛隊は、一般行政機関の一部であって、軍隊ではない」ということです。なぜ軍隊ではないかというと、一般的な日本の法秩序の下にあり、独自の「軍法」を持たないからです。一般に世界の軍隊が「軍法」を持つのは、それがないとビザのない外国では、つまり国際紛争では戦えないからです。言うまでもなく自衛隊が法的に軍隊でないのは、憲法9条があるからです。「国際紛争では戦えない実力組織である自衛隊」を、世界に対して誇りと思うかどうか、ここに大きな選択肢があるのです。

泥憲和の「安倍首相から『日本』を取り戻せ!!」を読む(2)

 この本の構成は、第1章「安倍さん、あなたの軍事論は間違っている」、第2章「九条が最強の武器である」、第3章「安倍さん、あなたの歴史認識は間違っている」、そして番外の「あなたの愛国心は間違っている」で結んでいます。
 まず第1章で著者が強調しているのは「兵は凶器」ということです。ちなみに著者は自衛隊の存在は日本国憲法に反しないという立場です。自衛権は国にもあるので、今の国際情勢で完全非武装は非現実的ということです。しかし自衛力は国際紛争を招かないためにあるので、実際に侵攻を受けて武力行使するのは外交の失敗による最悪のケースと考えます。
 著者は「自衛隊こそ最大の反戦団体である」とも言っています。戦争になったら自分たちが最初に血を流すのですから、それは当然の感覚でしょう。著者が自衛隊員であったとき、もっとも感銘を受けたのは、「国内には自衛隊の存在を認めないという人たちもいる。しかしそういう人たちも含めた自由な国民を守るために自分たちは精励するのだ。」という上官の訓示だったということです。
 そういう立場から見れば、安倍首相の軍事理論は矛盾を招くことばかりです。集団的自衛権とは、要するにアメリカ軍との共同作戦に参加しやすくすることですが、閣議決定のときに安倍首相が説明した適用例がいかに非現実的であるかを、本来の軍事理論で次々に論破して行きます。戦時には後方支援の弱い部隊が最初に狙われる。軍事同盟とは、常に強国が弱国を利用するために発動するもので、強国が弱国を助けるために善意で参戦した例は戦史にない、などです。
 これらの議論を軍事専門家として進めて行くのですが、この人の本は信用できると思った例を一つだけ紹介しておきましょう。少し前に、中国の艦艇が海上自衛隊の艦艇に射撃照準レーダーを当てたという事件がありました。これは中国海軍の挑発行為としてだけ報道されましたが、その前に、日本側からの強気な慣習の変更があったというのです。
 公海での監視行動での相手との距離は、以前は15浬(かいり)であったものを、安倍政権になって1浬に縮めたというのです。この距離では機関砲の攻撃を回避できない危険な位置関係になるので、中国側は「これ以上近づくな」の警告としてレーダーを当てたというのですから、この説明だと日本側が先に挑発したことになります。事前の説明もなく慣習を変更するのは慎重であるべきでしょう。
 幸いにしてその後は同じような事件はなく、日中の間で緊急時のコミニュケーションの方法を話し合うという小さな記事を見た記憶がありますから、海上自衛隊としても、不測の紛争を起こしたくないという良識のブレーキが働いているのでしょう。1カイリへの接近は、自粛しているのではないでしょうか。しかし問題は、国内の一般には、「中国海軍は海上への覇権を求めて強気で出てきている」という印象だけが残っており、そのように情報が操作されていることなのです。

泥憲和の「安倍首相から『日本』を取り戻せ!!」を読む(1)

 話題の新刊「安倍首相から『日本』を取り戻せ!!」(泥憲和・かもがわ出版・1800円)を読みました。泥という姓は珍しいですが、本名だそうです。「護憲派・泥の軍事政治戦略」という副題がついています。元自衛隊員が護憲の活動家になり、「ちょっとマイク貸して」と初めて人前でしゃべった街頭演説が評判になって、一躍注目を集めたということです。
 この本の冒頭にその演説が採録されていますが、次のように始まります。(以下引用)

突然飛び入りでマイクを貸してもらいました。
集団的自衛権に反対なので、その話をします。
私は元自衛官で、防空ミサイル部隊に所属していました。
日本に攻めてくる戦闘機を叩き落とすのが任務でした。

いま、尖閣の問題とか、北朝鮮のミサイル問題とか、不安じゃないですか。
でも、そういったものには、自衛隊がしっかりと対処します。
自衛官は命をかけて国民をしっかり守ります。
そこは、安心してください。

いま私が反対している集団的自衛権とは、そういうものではありません。
日本を守る話ではないんです。
売られたケンカに、正当防衛で対抗するというものではないんです。
売られてもいない他人のケンカに、こっちから飛び込んでいこうというんです。
それが集団的自衛権なんです。……(引用終り)

 場所は神戸の三宮駅前、2014年6月30日の夕刻、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を翌日に控えていました。これが泥憲和氏の運命的なインターネット・デビューとなりました。
 おそらく録画から書き起こされたこの処女演説は、理路整然として力強く、とても素人が思いつきでしゃべったようなものではありません。泥氏の日ごろの研究と思索と行動が結晶した信念であったのでしょう。インターネットを通じてこの演説が拡散し、やがて支援者が集まって、一冊の本にまとめ上げるプロジェクトとなりました。初版発行は2014年11月20日となっています。
 私は不明にして最近までこのことを知らなかったのですが、内容は理論的にもしっかり筋の通ったレベルの高い戦略提言です。とくに個々の事例や資料の考証が徹底していて、有無を言わせない説得力があります。現下の国民必読の書として推薦しますが、以下数回に分けて要点を紹介しましょう。

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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
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