(池田幸一さんの2015年3月22日のメールです。)
皆様。池田幸一です。
 よく世間では岡目八目と云いますが、碁打ちよりも傍で見ている人の方が良く見透せる、つまり客観性の大事さを言うのでしょうが、過日のメルケル首相発言などが地平軸でいう所の傍観者であって、老人や子供は時間軸の岡目八目と申せましょう。従って中間の働き盛りが碁打ちと云う事になり、現在その代表が安倍総理であります。その安倍政権が20日、自公による「安全保障法制」の基本方針を正式に合意致しました。
 自衛隊、海外活動を拡大、などの大きな活字が新聞のトップに躍っていますが、政府は再び国民に銃を担えというのでしょうか、戦争をご存知ない安倍総理が国民を何処へ導こうとしているのか?戦争の辛さを骨の髄まで味わった老人と、今から最も多く血を流すであろう若者の意見をどうして聞こうとしないのか。この度の自公合意は如何にも尚早、昨年7月の「集団的自衛権の行使容認」共々、早急に撤廃されて然るべきだと考えます。
 記念すべき戦後70周年に、何故このような白を黒とする政策転換が必要なのか? 一連の安倍路線は憲法を形骸化し、平和国家の日本をアメリカの尖兵としていつでも戦争が出来る国に変えたいという、実に驚くべき転換で、この日は戦争への一里塚として歴史に残ることでしょう。それを株高とベアで誤魔化され、事の重大性が判らない国民の無関心、野党は力を失いメディアは分断され、学者知識層は無言、この状態は戦前よりも酷いのではないでしょうか。
 戦争の辛さを知っている老人は今やごく僅かになりましたが、身近な誰にでも聞いて下さい。誰もが戦争はしてはいけないと反対することでしょう。310万の命を失い国土を焦土と化した戦争で少しは利口になった筈の日本人とは、やはりこの程度の民族であったのか。もう一度痛い目に会わないと目が覚めない。若者よ、他人ごとではありません、戦場へ狩り出されるのは君たちなのだ。また今からの戦争に前線も銃後もないのです。
 この危機に際して、御用新聞は別として普通の新聞はさすがに危機感にあふれ、国民に緊張を呼び掛けています。しかし警鐘の乱打が足らない、私は毎日新聞の“どんな国にしたいのか”が最も核心に触れた社説ではないかと思います。“これだけの大きな政策転換をするのであれば、大前提として日本が国際社会の中でどんな国として生きて行くかという骨太の議論がなされるべきで、それは日本のグランドデザインを描く事である”
 戦後日本はいろいろな経緯を経て自衛隊と呼ばれる軍隊を持つようになりましたが、国際的には概ね戦争をしない平和志向の国としてそれなりに評価されて70年、試行錯誤はあれこれはご立派、先人たちの見挙げた業績でありました。その描くところのグランドデザインは“武力の行使は国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する“とした憲法9条の理念でした。
 この理念による政策が現状に会わず、随所にほころびが生じたのであればともかく、かなり味を薄めた形での平和路線でさえ立派に通用しています。その何処が悪くて変えねばならないのか?なるほど東アジアの波高く、急激な情勢の悪化は無視出来ないところですが、しかしそのピンチを招いたのは果たして何処の誰であったか? 暴走老人の妄想に端を発した尖閣問題は日中40年の蜜月を一挙に粉砕し、それを更に深刻化したのは他ならぬ安倍総理の偏ったナショナリズムでした。
 度重なる失政から中国を怒らせ、一触即発の脅威に慄く安倍政権が、アメリカの助太刀を頼む余りの属米従米がどれだけの危機を我が国に齎したか。中東紛争に巻き込まれてISから戦争を吹っ掛けられたのも、なりふり構わぬアメリカべったりが遠因です。それに加えて歴史認識の狂いに基づく韓国との不和、安倍総理の描くデザインは、憲法の理念をかなぐり捨てた戦争志向ではありませんか。
 我々国民はこのデザインのどちらかを選ばねばなりません。即ちアメリカに付くのか、東アジアを重視するかの二者択一ですが、それよりも急がれるのは全てのくびきを脱して自立し、厳正中立を第一に考えるべきではないでしょうか。一方に組しては酷い目に遭う、この事は先々の見通しの大局を誤った日独伊の三国同盟が教えてくれます。これがために米英を敵に回し、国を亡ぼしました。
 自公における二人三脚の与党協議はいろいろな事を教えて呉れました。平和を表看板に、“生命・生活・生存を最大に尊重する人間主義を貫き、人間・人類の幸福追求を目的とする、開かれた国民政党”を自負し、政権のハト派を標榜する公明党が、自民党切っての策士高村正彦副総裁に物の見事に籠絡されました。歯止めは掛けたと云いますが、ブレーキのつもりがアクセスになっている、これまた渦中の人には見えない盲点です。
 そもそもこれは、砂川事件最高裁判決からの牽強付会によるもので、「限定的であ
るなら個別的、集団的を問わず自衛権の行使は容認される」とした法的根拠のあいまいな「高村仮説」です。これはアメリカの圧力に屈服し、無罪の伊達判決をひっ繰り返して全員有罪を命じた最高裁田中耕太郎裁判長の判例によるもので、これまた司法史上悪名高い判断からの引用です。策士の土俵で相撲を取らされては手込めに遭うのも当然です。