志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

2015年04月

小説・昭和からの遺言(9)二・二六事件

 満洲国が成立し日本が国際連盟から脱退しても、国際情勢に目立った変化はなかった。むしろ満洲国を正式に承認する国は、着実に増えていた。中国の本土も、満洲国と接する北京周辺や上海では、相変わらず排外・排日運動が盛んで散発的な紛争が起きてはいたが、大規模な軍事行動のない数年間の安定が訪れていた。
 その中で昭和十一年(1936)の二・二六事件が起きた。一部の青年将校に指揮された約千五百名の陸軍部隊が、反乱を起こして政府要人を殺害した上、陸軍省はじめ政府の中枢が集まる官庁街を制圧した前代未聞の大事件である。首謀者は「皇道派」と呼ばれた極右グループで、「尊皇討奸」による「昭和維新の断行」を唱えていた。
 動機としては、農村の疲弊は政治の腐敗が原因であるとして、側近政治や政党、財閥への不信があり、緊縮予算による軍事費削減への不満もあった。しかし側近を滅ぼして天皇の親政を導き出せば、明治のような維新が再現するという、幼稚な思い込みでもあった。政権奪取をはかるクーデターではあっても、自分たちが権力を握りたいのではなく、あくまでも天皇の覚醒を求める行動だったところに、日本的な特異性があった。
 一時は首相も生死不明で混乱を極めたが、反乱軍は皇居には手を出さなかったため、事態の収拾には期せずして天皇の意思が大きな影響力を及ぼすことになった。重臣を殺された天皇の怒りは激しかった。軍の上層部には青年将校たちの「憂国の真情」に理解を示す者もいたが、天皇は「なぜ早く鎮圧できないのか。朕が近衛師団を率いて討伐する」とまで発言して督促した。これで反乱軍の運命は決まった。
 軍人に対して天皇の命令は絶対である。反乱軍は、包囲する鎮圧部隊と戦火を交えることなく帰順した。事件後の軍法会議により、実力行使した指揮官クラスを中心に十五名が銃殺刑に処せられた。こうして失敗に終った反乱計画だったが、これで軍部が温和になったのではなく結果は逆になった。統制を強化する名目で陸海軍大臣の現役制が導入され、軍部は大臣を出さないことで内閣を倒す手段を手に入れたのである。
 この事件によって、天皇は自分の地位と権限について改めて考えざるをえなかった。天皇が「君臨すれども統治せず」を旨とすべきことは、皇太子時代から受けた教育によって行動原理に刻み込まれている。輔弼者が衆智を集めて決めた政策は、みだりに左右してはならない。それは神聖にして侵すべからずと定められた君臣の分を守ることであり、明治の大帝もそのようにして偉大な業績を残されたと教えられてきた。
 しかし、輔弼すべき政府が存亡の危機に陥ったときはどうするのか。そんなことは誰からも聞いたことがない。日本の国は、これからどうなるのか。

「昭和天皇の終戦史」を読む

 「昭和天皇の終戦史」(吉田裕・岩波新書・1992年)を読みました。昭和天皇の没後に公開されて話題になった「天皇独白録」なども素材として、天皇の戦争責任と東京裁判対策を論じたものです。「天皇独白録」は、敗戦翌年(1946年)春に、東京裁判対策として側近が天皇から聞き取る形で記録されました。そのまま翻訳して占領軍に提出したのではなく、質問への回答などで必要な部分を、その都度提供したようです。
 当時はマッカーサーの方針として、天皇の権威を日本の占領統治に利用することは決まっていました。それでも天皇の完全免責は、危ういバランスの上にありました。天皇の平和志向と終戦の決断についての功績を評価すれば、必然的に「それならばなぜ開戦を止められなかったのか」という疑問が生まれるからです。
 東京裁判では、何が強調されて何が強調されなかったか、率直に言えば隠されたかを明らかにすることで、著者は「帝国陸海軍の大元帥」としての天皇の実像に光を当てようとします。そこに立ち現われるのは、臣下の「輔弼」を裁可するだけの「立憲君主制の下にある天皇」という建前とは違った、指導者としての責任感も才覚もあり、人物への好悪の感情も激しい、生臭いとでも言いたくなるような昭和天皇の個性です。
 明治憲法を読んだ私の感想とも一致しますが、旧憲法は議会の立法権を明示してもおらず、立憲君主制としても不完全なのです。そして軍に対する統帥権に至っては、臣下の輔弼によるという規定もなく、まさに直結の最高指揮官なのです。軍はそれを利用して政治を乱したと言われますが、それを正すのは天皇の責任でした。臣下の決めたことは拒否しないのが慣例だというのも、一つの虚構です。
 「内奏」や「ご下問」の形での意思表示は何度も行われました。サイパン島を失ってからの必敗の戦況下でも、「何とか一撃を加えて有利な和平ができないか」と、無理な作戦を誘導しています。戦争の全般について、無責任な傍観者でいたなどは、ありえないことなのです。
 日米戦争に重点を置いた東京裁判では、中国への侵略行為の責任は、あまり強く究明されませんでした。そして戦争責任の大半を陸軍に負わせて、天皇の地位を安泰にするという目的は、みごとに達成されました。戦後の新憲法が施行された後までも、昭和天皇は、影響力の大きい政治家であり続けました。その影は、今の沖縄にも残っています。
 昭和天皇が、敗戦の責任を痛感し、誠心誠意をもって新憲法の理念を受け入れ、その定める役割に適応しようとしたことは事実でしょう。その姿勢は、長い皇太子の期間に見習っていた現天皇にも伝えられたようです。幼時からの帝王学は、成功する例が多いと言われます。天皇家は、なかなか優秀な家系なのです。
(追記・帝国憲法は「天皇は議会の協賛をもって立法権を行う」としていますが、必要により法律に代わる「勅令」を発することもできました。)

4月27日この日を境にして(池田幸一メール)

 皆様。 池田幸一です。
 ほぼ予想されていた事とは申せ、このように露骨に決められてしまいますと怒り心頭で、それと同時にこの国が哀れで情けなくなりました。2+2の「日米防衛協力のためのガイドライン」の変更ですが、4月27日は後々の国民を苦しめる屈辱の日になることでしょう。何が屈辱か?、このような愚かな政府を選んだ口惜しさと、この恥ずべき取り決めに大半の国民が怒り、立ち上がろうとしなかった鈍感さです。
 これが鳴り物入りで訪米した安倍総理の手土産か、不戦反戦の憲法を看板に平和国家を宣言し、一時はノーベル平和賞の候補にも擬せられた我が国が、この日を境に世界の裏側まで行って戦争が出来る国に転落し、事実上アメリカの属州に甘んじる国になったのです。条約でもないこのガイドラインが今日からは形骸化した憲法に代わって事実上の宝典になるのです。
 読売、産経の二紙は例によってこれを支持し賛成していますが、他の殆どは反対で、相変わらず世論は別れて「二本国」ですが、果たしてこれで一人前の独立国と云えるのでしょうか。右寄りの人、左と目される人を問わず、この国に生を受けた日本人が、よくも黙って見ておられるものだと泣きたくなります。国を愛する心は何処へ行ってしまったのか、更に今後の首脳会談や上下院での演説がどのように演じられるのか、おそらくは平身低頭の無条件降伏で、その代わりに“どうかお見捨てなく中国から守って頂きたい”のひと言、アメリカへの忠誠を誓う儀式になるのでしょう。
 何故このようになってしまったのか?憲法の通りに平和路線一筋道でやっておれば何の心配もなかったものを、逆らったばっかりに近隣諸国との間に摩擦を生じ、特に中国を仮想敵国として一触即発の危機を招くに至りました。その戦争を恐れてのアメリカ頼み、これらの遠因を考えると、全てが自らが播いた種によるものだと判ります。中国を挑発して更にピンチを呼び込むのを「積極的平和主義」と云うのでしょうか?虎の威を借る狐のような虚勢が、果たして平和といえるのか。
 どうして中国や韓国と仲良く付き合う方法を考えないのでしょうか?武力の行使による手段は永久にこれを放棄すると憲法9条は明示し、更に戦力は所持せず、国の交戦権は認めないとしています。国を守る方法としては敵を作らない工夫と努力であって、また何事も話し合いで解決せよと命じています。特に隣近所に敵を作るなどは下の下であり、そもそも中国や韓国など、お隣さんとの争いなどはあってはならない事であります。
 このような戦後の日本にありながら、戦前のように軍隊を持ちたい、戦争も厭わない考えの人々が作ったのが自衛隊であり自衛権ですが、「砂川判決」の中から拾い出し、これに柄のない所に柄をすげ替えて捻り出したのが知恵者を誇る町村信孝副総裁でした。その延長が今回の「集団的自衛権」の行使容認に繋がり、今回のガイドライン変更にも効き目を挙げたように思います。
 沖縄県民の民意も一蓮托生、本土と共にガイドラインの支配するところとなり、第2の占領が始まります。安倍内閣はさしずめアメリカの代官でしょうが、昔から代官は庶民の味方ではなく殆どが悪代官でした。いったいこの逆境をどのようにひっくり返せば良いのか、野党は弱くメディアや学問のある人たちは無言、そのどん底から、憲法を守り原発の再稼働を認めない良識が何時立ち上がるのか?長い廻り道ではあれ、これこそが本物の日本民主主義だと思います。
(追記・不覚でした。新緑を眺めている場合ではありませんでした。首脳会談も国会審議も、ガイドラインに合わせた「つじつま合わせ」のセレモニーになるでしょう。この国では、ものごとの決め方が倒立しているのです。)

新緑の季節

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人間がいなくなっても、地球は大丈夫です。たぶん……
コンクリートで征服したつもりでも、それは一時のことです。

古木涼子の「歌とお話」を碑文谷サレジオ教会で聞く

 昨日の日曜日、「まだ見えなくてもあなたの道は必ずある」の著者、古木涼子シスターの「歌とお話」を碑文谷のサレジオ教会で聞いてきました。教会の地元協力会の主催で、かなり広い司祭館2階の会場は、補助椅子も出る盛況でした。ピアノの弾き歌いと、それぞれの歌にまつわるお話を、一人で語り通した90分でした。
 この人のお話は、ユーモアを忘れず飾らない語り口が魅力です。そして、よく通って歌詞も聞き取れる清らかな歌声は絶品です。「いのちの歌」の誕生を中心とする、歌で伝えたかったいのちの大切さというテーマは、古木シスターの生涯を貫く宗教人とての使命そのものに違いありません。知っている話なのに、聞くたびに新しい発見があります。
 今回は、話を聞きながら、私は彼女の思想の深掘りをしていました。たとえば「誰でも必ず誰かから深く愛され必要とされている」といった歌詞があると、少し抵抗を感じるというのです。親から虐待される子供もいます。実の親から引き離すことで救われる子供がいることは、児童相談所の職員はよく知っているでしょう。それらを含めてすべての人を包む神の愛があると信じるとしても、そこでは祈るしかないのです。
 また、こんな例も話していました。おそらくネット上でしょうが、キリスト教は信じないという頑固な青年との交流があるそうです。「まだ見えなくても……」の本が出たときに本を送ってあげたけれど、読んでもやはり考えは変らないという感想文を送ってきたとのことです。そういう人でも、真剣に向き合っている私のことは信じてくれていると思うと話していました。切り捨て、あきらめるのではなく、自分の精進の糧としているのです。並の信念でできることではありません。
 古木涼子さんは、カトリックの世界で幹部になって行く人だと私は思っています。神に従順な精神にゆるぎはなく、それでいて「私だって、どうなるかわかりません」と公言する謙虚さを持っています。人類の未来を託すことのできる指導者の一人になってくれないでしょうか。「すべての人を包む神の愛」と、「人はすべて人として尊重される」日本国憲法の理想とは、調和するのではありませんか。
 久しぶりに会って開会前の雑談の時、私のカバンについている「No.9 NO WAR」の札に目を止めた古木さん、即座に「憲法9条ですね」と理解してくれました。
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ブログ連歌(402)

8019 あの顔で 支持率上がる 世の不思議 (建世)
8020  やっとでてきた まともな司法 (獣医さん)
8021 日本国 滅亡させぬ 人智なり (みどり)
8022  命あっての 経済と知れ (建世)
8023 粛々と 戦への道 拓いてる (うたのすけ)
8024  ある日発令 進軍ラッパ (建世)
8025 沖縄の 新基地拒否す 知事の言 (みどり)
8025B 新基地を 代替え案と ごまかして
8026  日本が作る 米軍の基地 (獣医さん)
8027 かえりみて 悔い多かりき 昭和史は (建世)
8028  米軍支配 巧みに続く (みどり)
8029 区議選は 選べる人が 多すぎて (建世)
8030  右も左も みな顔なじみ (うたのすけ)
8031 シンゾウが 右にあるのは おかしいゼ (獣医さん)
8032  前にのめって 脇目もふらず (建世)
8033 天皇の 平和志向も 見ないふり (みどり)
8034  鎮魂だけじゃ 足りないらしい (建世)
8035 好戦家 平和のことば 取り違え (みどり)
8036  煙を立てて 火種の用意 (建世)
8037 汚染土を 乗せてドローン 宅配す (建世)
8038  気がかりなるは 警備の強化 (みどり)
8039 できるなら 安倍アメリカへ 片道で (建世) 
8040  見たくない人 支持ある苦痛 (みどり)

汚染土でドローンだって

(熊さん)首相官邸の屋上にドローンだって、妙な騒ぎですね。
(ご隠居)それも発見するまで10日以上もたってたんだから、間の抜けた話だ。
(熊)犯人探しが難航かと思ったら、案外簡単に自首だってね。
(隠)うん、きょうの朝日新聞に容疑者のブログのことなんかが出ていたよ。それを見たら反原発運動に焦りを感じてたみたいだな。元航空自衛隊員ってのは、ちょっと意外だった。反戦自衛官はけっこう多いんじゃないだろか。
(熊)それはいいけど、こういうゲリラ戦法が出てくると、警備がますます厳しくなりませんかね。抑え込まないと危険だという口実でさ。
(隠)そうなんだ、地道に反対運動している人たちにしたら、弾圧に口実を与える裏切り行為にも見えるかもしれないね。こういう跳ね上がり行動は、権力側の工作で、でっち上げされることさえあるんだよ。テロ対策なんてことで、ドローンの法的規制をさっそく始めるらしい。
(熊)それは必要ですよ。簡単に空から他人の家に入ってくるなんて気持ち悪いや。故障して落っこちてきたら危ねえだろって思いますよ。
(隠)それはそうだけど、この事件のキモは、「デモで反対を叫んだって原発は止められない、もっと過激な行動でショックを与えなくちゃ」と思い込んだことなんだな。これは反原発でも反基地でも、運動の最前線にいる人たちが、何度も経験する誘惑だと思うよ。でもそこで破滅的になったら負けなんだ。飛び出して自滅するのと、人たちの先頭で英雄的に行動するのとでは、力の出し方が違うんだよ。
(熊)どこが違うんですかね。
(隠)それがわかれば苦労はしないよ。ただ、これだけは言える。ものごとを本当に動かすには、近くの人たちから広がっていく共感が必要なんだよ。あきらめずにこつこつやっている姿に同感して人が集まってくる、それが本物の運動だってことだよ。そして、短気ではだめだ。「勝つ方法は、あきらめないこと」と言うが、その通りなんだな。
(熊)あきらめないったって、ただ「原発反対」だけ言ってればいいんですか。
(隠)それだって立派なことさ。そして、チャンスは小さなことでも見逃さない。きょうは地方選挙の投票日だよ。地方選挙にだって政治的主張を反映できるんだ。
(熊)ああそうでした。投票率が低そうだけど。
(隠)棄権なんてもったいない。自公の候補者を一人でも多く落選させるように考えて投票してくるよ。

小説・昭和からの遺言(8)万里の長城

 万里の長城は、渤海の遼東湾に面する山海関から発して北京の北方を守り、西は西域にまで達する城壁である。総延長は一万キロにもおよぶ世界最大の建造物で、月から見える唯一の人工物とも言われる。初めは秦の始皇帝が紀元前二百年代に築いたが、歴代の王朝による放棄や改修を繰り返しながら遺跡として今に残っている。
 この長城が満州国の西南の国境線と定められたのは、ある意味で自然な流れだった。清国は満州族による征服王朝だったのだから、それが滅びて南部の南京を首都とする中華民国が成立した以上は、父祖の地である満洲に帰ればよかったのである。しかし直前まで首都であった北京周辺には、清国の影響はまだ強く残っていた。満洲国の国境警備を考えるとき、この「長城線」を越えていいかどうかが問題だった。
 満洲国の建国宣言後も、熱河地方は治安の回復が遅れていた。アヘンで莫大な利益を生む地域であり、軍閥の支配関係も複雑であった。さらに北から共産軍、南から国民政府軍が迫っていて、反日、反満の暴動事件も頻発していた。また、山海関では日本軍と国民政府軍が直接に対峙して、一触即発の状況だった。
 ここで発動された熱河作戦は、言わば満洲国確立のための仕上げの戦闘だった。国民政府は熱河を拠点として「中国の一部としての東北」を奪還するのが理想だったが、共産軍との抗争がより緊急の課題になると、むしろ抗日戦を避けて、軍閥と共産軍の掃討を日本軍に任せる姿勢に転じた。こうした複雑な力関係の中で作戦は進んだ。
 このとき日本軍は長城線に到達すると、一時的には越境して飛行場を設けるなどはしても、自主的に国境線まで撤退している。軍の一部には根強い南進論もあったが、それを憂慮したのは政府・外交官僚と天皇であった。天皇は侍従武官長を通して、長城を越えて南に進攻しないよう直接に関東軍に伝達した。
 国際連盟から脱退したばかりの日本としては、国際世論を刺激して経済制裁を受けるような事態は避けたかったのである。こうして昭和八年(1933)の五月に停戦協定が成立した。満州事変から始まった一連の戦闘は、満洲国の成立を前提として、ここに終了した。ただし国境に砲弾が届かない距離まで中国軍は後退するという、長城の建設目的を逆転したような、中国には屈辱的な協定だった。
 世界の四大文明の一つに直結する、三千年の文明史を持つ国土が、いまや日本兵の軍靴の下に踏まれていた。万里の長城で警戒任務に立つ日本兵は、何を考えながら銃剣を構えていたのだろう。成人して健康な男子ならば兵役につくのは国民の義務だった。思い出すのは故郷の家族のことばかりだったろうか。

戦争法案発言「修正要求許さない」長妻昭の記者会見

 今朝の朝日新聞に、長妻昭・民主党会長代行の定例記者会見での発言が囲み記事になっていた。国会質問で社民党の福島瑞穂氏が自民党の安全保障関連法案を「戦争法案」と呼んだところ、自民党の議員が修正を要求した「言葉狩り」を受けたものだった。
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 自衛隊を海外でも戦えるようにする法案を直截的に「戦争法案」と表現したのが気に入らないのだろう。「平和法案」と呼ばせたいのだろうか。政党が違えば法案への見方が違うのは当然である。「戦争法案」が不適当だと思うなら、その理由を説いて議論を深めるのが国会議員の仕事ではないか。多数をたのんで少数意見を封じるのなら国会の中に議場は要らない。投票マシンだけ置けばいい。
 こんな当然すぎるようなことが話題になるところに、今の政治の危うさがある。長妻会長代行は、その危機感を話題にした。蓮舫氏と交代で毎週木曜日に行っている定例記者会見だが、昨日4月23日のもの(約27分)は、このユーチューブで聞ける。
https://www.youtube.com/watch?v=nNTgGVAg7zM
 ここで引用されている斎藤隆夫の「反軍演説」は、太平洋戦争直前の昭和15年(1940)に行われた。長引く「支那事変」の見通しのなさや「東亜新秩序」スローガンのあいまいさを突き、国民の自由な発言が封じられる風潮を憂いている。これが皇軍の名誉を傷つけるなどの理由で、議長により議事録から大幅に削除され、斎藤議員の除名処分にまで発展した。
 しかもこれは、軍部からの圧力によるものではなかった。議会側内部からの自主規制でこうなったのだった。除名処分の採決では、多くの欠席者があったが、出席して反対票を投じた議員は、わずか7名だった。これが言論の府としての議会の終焉になった。この後、各政党は先を争うように解散して「大政翼賛会」の傘の下に入って行く。
 この「反軍演説」の原本が、衆議院の記録としては今も一部削除のままになっているというのにも驚いた。全面開示の手続きが途中で止まっているらしい。民主党の手で早急に全文を回復してほしいものである。現在全文が読めるのは、削除が間に合わなかった地方紙のおかげだそうだ。
 余談だが、斎藤隆夫は戦時中の「翼賛選挙」で、兵庫5区の但馬で「非推薦候補」ながら最高点で復活当選している。しかし、それではもう遅いのだ。斎藤隆夫の演説の一部(約3分)は以下のユーチユーブで聞ける。
https://www.youtube.com/watch?v=oD1470HX95E

小説・昭和からの遺言(7)ヒトラーの登場

 このころ、遠く離れたヨーロッパのドイツでは政変が起きていた。ナチス党を率いるヒトラーが、ドイツの復権と反共を唱えて大統領選挙に出馬し、大統領選では長老のヒンデンブルグに及ばなかったものの、党を第一党に導くまでになったのである。
 政権が不安定で短期間の解散・総選挙を繰り返す政治的混乱の中で、ヒトラーはついにヒンデンブルグ大統領の裁定により内閣を組織することとなった。昭和八年(1933)一月のことである。首相に就任してからのヒトラーの行動は機敏だった。直ちに次の総選挙を公示したのだが、その選挙期間中に国会議事堂放火事件が起き内部がほぼ全焼した。これを共産主義者の策動と断定したヒトラーは、大統領に迫って憲法の基本的人権条項を停止する緊急命令を発令させ、共産党員などの逮捕に乗り出した。
 この事件には謎が多い。直後に捜索に入った警察は、中にいたオランダ人の共産党員を発見して逮捕したが、資本主義に抗議するため放火したと自供する単独犯だった。しかしナチス党政府は共産主義者の組織的な蜂起だとする見解を撤回せず、共産党および社会民主党への弾圧を強める中で投票日を迎えた。選挙の結果はナチス党が議席を伸ばしたが、過半数には及ばなかった。
 選挙後の国会はオペラハウスを臨時の会場として開かれた。共産党は弾圧の中でも八一名の当選者を出していたが、全員が逮捕または逃亡中で欠席だった。社民党議員の多くも同様だった。この議会を場として「民族および国家の危難を除去するための法律」(略称・授権法)が制定された。ナチス政府に立法権を委譲することを、ワイマール憲法の改正手続きに沿って決定したのだった。オペラハウスの周囲は、ナチスの突撃隊員によって厳重に警備されていた。
 放火事件の犯人として五名が起訴されたが、実行犯の一人以外は裁判で無罪となった。実行犯は翌年に死刑を執行された。死刑にはならない放火罪の規定を、無理に変更した上での執行だったが、もはやどうでもいい過去の出来事だった。この事件の真相がどうであったのかは、ナチス崩壊後の今も解明されていない。
 ヒトラーが独裁体制を確立してからほぼ一年後にヒンデンブルグ大統領が死去すると、ヒトラーは大統領の権限をも合わせた最高指導者の地位につくこととし、この制度変更の可否を国民投票にかけた。この投票において国民は九十%の支持率をもってヒトラーを信任した。これ以降は日本でもヒトラーを「総統」と呼ぶようになった。
 前の大戦で敗戦国だったドイツが、風雲児として立ち上がる姿は驚異だった。その動向はアジアで孤立しつつあった日本に、大きな影響を与え始める。

小説・昭和からの遺言(6)国際連盟からの脱退

 国際連盟の本部はスイスのジュネーブに置かれていた。日本全権として乗り込んだ外務大臣・松岡洋右の心中は複雑だった。満洲国の存在を否定されたら妥協はできない。さりとて戦争に次ぐ戦争のリスクを乗り越え、ようやくにして獲得した一等国としての地位と信用を、失いたくないのはもちろんである。満洲の利権に未練のあるアメリカが、加盟国でもないのに裏で圧力をかけていることもわかっていた。
 特別総会の採決では、日本に厳しい結果が出ることは予想されていた。問題は、その後の日本を国際連盟がどのように扱うかということである。規定では除名処分もあるが、連盟としてはアジアの有力加盟国を失いたくはないはずである。それでも勧告に従わなければ、一定の経済制裁を発動されるおそれがあった。これは資源小国である日本にとっては深刻な打撃になる。
 面従腹背の老かいな外交術を使いこなす国だったら、勧告は受け入れておいて素知らぬ顔で満洲の開発を進めてしまう方法もあっただろうが、日本の国も外交官も、まだ若かった。そして何よりも、満洲国に皇帝溥儀を復活させる構想をよしとした天皇の期待を裏切るのは、恐れ多くて絶対にできないことだった。
 そこで死中に活を求めるように浮上したのが、国際連盟からの脱退だった。自ら脱退してしまった国に対しては、連盟はいかなる制裁を科すこともできない。公然と国際社会に背を向けることにはなるが、それこそが日本らしい独自の道に見えてきたのである。東京からジュネーブへ「国際連盟からの脱退も止むなし」の訓電が送られた。
 採決の結果は、賛成四二、棄権一、不参加一で、反対票は日本の一のみだった。松岡大臣は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と最後の演説をして、そのまま日本代表団を引き連れて会場を後にした。
 総会から日本へ帰国したとき、松岡は外交の失敗を非難されることを覚悟していた。しかし案に相違して、松岡を迎えたのは凱旋将軍を迎えるような大衆の大歓迎だった。新聞報道などは、「連盟よさらば! 我が代表堂々退場す」といった論調だったのである。国民はすでに連戦連勝の空気に酔って止めどなかった。
 日本の国際的孤立を憂慮したのは、むしろ天皇であった。直後の昭和八年(1933)三月に「国際連盟脱退の詔書」を発している。
「……今や連盟と手を分ち、帝国の所信に従うといえども、もとより東亜に偏して友邦の誼(よしみ)を疎(おろそ)かにするものにあらず。いよいよ信を国際に厚くし、大義を宇内(うだい)に顕揚(けんよう)するは、夙夜(しゅくや)朕が念とする所なり……」

「沖縄の怒り・日米への抵抗」を読む

 ガバン・マコーマックと乗松聡子の共著で、法律文化社・刊(2013年)の「沖縄の怒(いかり)」を読みました。原著はマコーマック氏によって英語で書かれ海外向けに刊行されたものを、乗松氏の訳と大幅な加筆によって日本語版にしたとのことです。
 マコーマック氏はオーストラリアの現代史の教授、乗松氏はカナダ在住の平和活動家で、この本からは「冷静に書かれた熱い本」という、不思議な印象を受けました。内容の精密さは第一級ですが、その中から、沖縄の怒りと抵抗に込められた世界史的な「使命」とも言うべき高揚感が立ち上がってくるのです。その特徴を体現しているのが第9章に置かれている「歴史を動かす人々」でしょう。
 紹介されているのは、次の8人です。与那嶺路代(琉球新報記者)、安次嶺雪音(高江の住民)、宮城康博(元名護市議)、知念ウシ(著述家)、金城実(彫刻家)、吉田健正(ジャーナリスト)、大田昌秀(元沖縄県知事)、浦島悦子(市民運動家) これらの人たちが、この本の主役だと言うのです。
 この本の「序章」から順を追って説明されるのは、もっとも戦争を好まない人々が暮らしていた島が、琉球処分によって日本の支配を受けるようになり、さらにその本土防衛の最前線として、もっとも苛烈な戦争の犠牲に供された皮肉な歴史です。その悲劇は日本の敗戦とその後の平和憲法によっても、少しも救われることはありませんでした。
 アメリカによる軍事支配は永続し、本土復帰が実現しても、アメリカの戦略と癒着した日本政府の支配が継続するだけでした。沖縄を差別する現実は、日米同盟の強化とともに、緩和ではなく強化の方向に向かっています。基地を拒否する住民の意思が何度示されても、アメリカも日本も、沖縄に民主主義を適用するつもりはないのです。
 そんな絶望的な状況ですが、著者たちは沖縄人の抵抗力の中に、日本政府をも超える大きな力を見ているようです。終章の「展望」の中に、こんな言葉がありました。
 「(沖縄人の反戦思想における国際的な視野、覇権に反対する平等共生の理念)は、沖縄という特定の場所と歴史と政治的な状況が生み出したものであるとしても、周辺地域や世界に示唆する普遍性を持つのではないだろうか。」
 近隣諸国と自由な交易を行ってきた琉球にとっては、国境とか領土といった概念が持つ意味は、もともと薄かったのです。日本も日本人も、良心があるなら、沖縄に恥じるべきなのです。

小説・昭和からの遺言(5)リットン調査団

 中華民国の提訴を受けた国際連盟は、イギリスのリットン卿を団長とする調査団を満洲に派遣した。この調査団にはフランス、ドイツ、イタリアそしてアメリカの軍事専門家も参加し、オブザーバーとして日本と中華民国の外交官も同行した。
 調査団は三ヶ月にわたって調査したが、満洲に直行したのではなく、まず日本と中国で事情聴取を行った。中国では蒋介石、汪兆銘、張学良と個別に面談している。それぞれ独立派、親日派、軍閥の立場を代表する人物である。現地では良い印象を与えるべく、競うように調査団を歓迎した。国際紛争での調査としては異例とも言える、関係者のすべてから期待された調査であった。満洲では皇帝に即位する前の「執政」の立場だった溥儀からも話を聞いている。
 やがてまとめられた報告書の骨子は、次のようなものだった。まず、鉄道爆破の被害があったとしても、その後の日本軍の武力行使が自衛のためだったとは認められない、とした。そして満州国の建国も、地元住民による独立運動の結果と認めることはできず、その存在自体を支えているのは日本軍であると指摘した。しかしながら満洲の混乱を招いた原因が、中華民国の無関心と無策にあったとして、満洲の今日の発展は日本の努力による旨を述べて高く評価していた。
 その上で、この紛争の解決に向けて次のように提案した。満洲には自治政府を樹立して中国の主権下に置くこととする。この自治政府は国際連盟が派遣する外国人顧問の下に充分な自治権を与えられる。満洲は非武装地帯として、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持に当る、などだった。
 これらは一見、中華民国側の立場を尊重したようでいて、よく読めば日本の既得権に配慮したものだった。国際連盟における当時の日本の影響力からすれば、国際連盟の公認の下に、日本が満洲で事実上の統治を続けられる「名を捨てて実を取る」道を示唆していたからである。日本政府にも、各国からさまざまな助言が寄せられた。
 この報告書は、翌昭和八年(1933)初頭の国際連盟で採択されることが予想されていた。採択に反対すれば日本は国際的に孤立することになる。これにどう対処するかが、当面の大きな課題になってきた。
 日本とすれば満洲の正当な王朝を復活させたという大義名分がある。建国宣言の直後に国家として承認し、国交を樹立したという面子の問題もある。満洲国そのものの存在を否定するような提案は受け入れられないというのが、軍部ばかりでなく政府全体の空気だった。首相から奏上を受けた天皇も、それについては「同意である」と答えた。

NHKとテレ朝の不甲斐なさと職責の放棄

 一昨17日の金曜日に、NHKとテレビ朝日は自民党の情報戦略審査会の呼び出しに応じて幹部が出向き、NHKは「クローズアップ現代」のやらせ問題、テレ朝は「報道ステーション」の古賀発言問題について説明したということだ。いずれもテレビ局として検証を進め、その過程は公表されて話題になっている。
 このタイミングで、監督官庁でもない一政党の内部機関がテレビ局の責任者を呼び出して説明を求めるとは、どういう感覚なのか。前例はないそうだが、政権党の傲慢をむき出しにしただけではないのか。それよりも不甲斐ないのはNHKとテレ朝の対応である。なぜ呼び出しは断って「調べたいことがあれば報道の自由に抵触しない範囲でお答えしますから、おいで下さい。それが面倒なら文書で質問願います」と言わなかったのか。
 これが自民党側を怒らせたとしても、問題が表面化すればするほど自民党側に勝ち目はなかったろう。法的な問題にもなりようがない。NHKとテレ朝は、事前に連絡をとり合って対応を検討しなかったのだろうか。もし談合して自民党には逆らわないことに決めたとしたら、もはや論外である。
 自民党は、放送法による電波の許認可権にも言及したということだが、放送局側こそ放送法を自民党に説明してやるべきだった。放送法の第一条には、この法律の目的として、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。」と明記してある。
 上から下ろしてくる情報を下へ伝えるだけなら自立した報道機関は要らない。日の当たらない問題、隠されている事実、不正の横行など、政府の広報だけではわからない問題をも含めて、世の中の動きを伝えるところに報道機関の存在する意味がある。
 自民党の横車を容認して唯々諾々と従うだけの放送局なら、電波の使用認可を返上して出直すがいい。

小説・昭和からの遺言(4)満洲国の建国

 満洲国の版図は中国の東北部を占める。伝統的に漢族とは風俗習慣をやや異にする女真族(満州族)の居住する地域だが、古くは金王朝、そして近代では清国として中国を支配していた。しかし近代化に遅れ、日清戦争での敗戦も打撃となって崩壊し、孫文ら漢族の独立運動による中華民国の成立とともに滅亡した。
 満州事変の当時、現地はロシアから鉄道などの利権を獲得した日本と、失地回復をはかる共産化したソ連と、地元に根を張っている軍閥と、南から進攻してくる国民政府軍とが入り乱れる極度の混乱の中にあった。その中で、もっとも統制が取れて実力的にも優位だったのが、民業保護を名目として駐留していた日本軍だった。
 絶好の機会と見た軍部の作戦は的中した。半年もかけずに満洲の全土を制圧して満州国建国の条件を整えたのである。満州を中国から切り離して日本の影響下に置く構想は、以前から政府に存在していた。公式には紛争不拡大を唱えながらも、現地軍の行動を追認することで政府は目的を達したのだった。
 清国の最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)を元首として、満洲国は昭和七年(1932)に建国を宣言した。国旗は黄色を基調とし、左上の四分の一には上から赤青白黒の四色が配された。それぞれ日本、漢族、朝鮮、蒙古、そして黄色は満洲人を表し「五族協和」の「王道楽土」を象徴するとされた。
 満洲国皇帝となった愛新覚羅溥儀は、わずか二歳のときに清国の皇帝に即位し、六歳で廃帝となった波乱の育ち方をしている。満州国皇帝への即位式をあげた時点で二十八歳の青年だった。日本の天皇の五歳年下に当る。日本の親密な同盟国となった満州国の皇帝に対して、天皇は誠意のこもった接遇を心がけた。
 皇帝が日本を訪問した際にはお召し艦として戦艦「比叡」を提供し、天皇自らが東京駅まで出迎えるという異例の歓迎で礼を尽くした。皇居内でも皇族を交えて家族のような親しさであったと伝えられている。天皇は「五族協和」の忠実な体現者であった。
 しかし現実の満州国は、皇帝が統治する国家とはほど遠い状態だった。建前としては立憲君主制だったが、立法院は開設さえされずに放置され、選挙は一度も行われなかった。行政では満洲人の首相は置かれたものの、官吏の大半は日本人で占められており、重要な案件は、日本の特命全権大使を兼ねる関東軍司令官の同意がなければ何ごとも決定することができなかった。
 中華民国政府は、満洲国建国宣言のその年に、国際連盟に対して日本の武力行使の不当性を提訴した。日本もこれに応じて調査団を受け入れることとした。

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(満洲国国旗)

小説・昭和からの遺言(3)満洲国の前史

 満洲国を語るためには、第一次世界大戦の説明をしなければならない。明治時代の日清戦争によって台湾を獲得し、日露戦争によって朝鮮併合を実現していた日本は、第一次世界大戦では日英同盟に従い同盟国側として参戦した。これが大正三年から七年(1914〜1918)に当る。
 この戦争の主戦場はヨーロッパであったから、日本国内への影響は大きくはなかった。しかしアジアにおけるドイツの領土や権益を奪い取ることは日本に任されたので、漁夫の利を得る結果になった。ドイツの拠点だった山東半島の青島(チンタオ)を攻略し、南洋諸島の赤道以北の島々にも海軍を派遣して占領した。
 これらの諸島は大戦後に創立された国際連盟によって、日本の委任統治領とされた。昭和初期の日本の小学生が使った世界地図には、太平洋の中央に、オーストラリアとほぼ同じ大きさの、赤い点線で囲まれた広い海域があり、そこに「南洋群島」と書かれていたものである。そこには南洋庁が置かれ多くの日本人が進出していた。
 国際連盟は、第一次世界大戦を終結させる条件として、アメリカ大統領ウィルソンによって発想された。世界初の国際平和機構であって、日本はその有力な常任理事国であり、事務局次長には新渡戸稲造を送っていた。ただしアメリカでは、国家の上に立つ権力を警戒する議会が同意せず、加盟が見送られたという弱点も含んでいた。
 それでも敗戦国だったドイツもやや遅れて加盟を認められ、社会主義革命を経たソ連も参加して、最大時には世界の六十ヶ国を集めた。大戦後のヨーロッパにおける紛争などでは、日本は中立公正な立場で調停者の役割を果たすことができたと言われる。ただし中華民国にとっては、国際連盟は日本の過剰な進出を世界に訴える場であった。 
 満洲国の建国に直結する満州事変は、昭和六年(1931)に日本軍による自作自演の鉄道爆破事件をきっかけとして始まったのだが、それと酷似した張作霖爆殺事件がその三年前に起きている。奉天の軍閥の指導者で独立を志向していた張作霖が邪魔になると判断した日本軍が、中国本土の国民党軍ゲリラ(当時は便衣隊と呼ばれた)の仕業に見せかけて、乗っている列車を立体交差の橋脚に仕掛けた爆薬で破壊したのである。 
 この犯行は軍の総意ではなく、一部の強硬論者の独走だった。軍は実行責任者を特定して実情は首相を通して天皇にも伝えられ、関係者の処分が予告された。しかし実際には警備の不行き届きのみが問題とされて軽い処分で済まされたため、若い天皇は「話が違うではないか」と首相を厳しく叱責した。天皇の信任を失った首相は、辞任せざるをえなかった。これは文仁天皇が、自分の権力に目覚めた最初の機会となった。

小説・昭和からの遺言(2)皇太子の誕生

 昭和八年(1933)十二月二十三日の朝、まだ薄暗い東京の町にサイレンの音が響き渡った。その音はポーと一つ、すぐ続いてまた一つ、二回連続を繰り返して吹鳴された。待ちかねていた市民はたちまち活気づき、窓に明かりがついて「バンザーイ」の声さえ聞こえてきた。皇太子が誕生したのだった。
 天皇家には、それまで皇女の誕生が四人つづいていた。待たれていたのは皇位を継承する皇太子の誕生だった。皇后の出産予定は知らされていたから、生まれた皇子が女子ならサイレンは一つ、男子ならサイレンは二回連続で鳴らすことが決まっていた。サイレンがどのように鳴るかは、全国民的な関心事だったのだ。
 皇太子の父は、没後は昭和天皇と呼ばれるのだが、生前は単に「天皇陛下」と呼ばれるのが慣例だった。文仁(ふみひと)親王という固有名で呼ばれることは滅多になく、あえて正式名称を使えば今上天皇だが、ふつうは天皇といえば、大日本帝国の最高統治者を意味する固有名詞として使われていた。
 文仁天皇の父は大正天皇である。そのまた父は明治天皇だが、明治天皇と皇后との間には嫡出の子がなく、大正天皇の生母は明治天皇に仕える典侍の柳原愛子であった。大正天皇は幼少のころから病弱であり、皇太子としての教育を受ける過程でも、周囲を心配させたと伝えられている。しかしその一面で良き家庭人であり、側室を置くことなく昭和天皇以下四人の男子を残した。知的には決して暗愚ではなく、文才があって漢詩も和歌もたしなみ、権威張ることのない気さくな人がらだったと言われる。
 文仁親王は、大正天皇の病状が進んで公務に支障を来たしたため、大正十一年(1922)から二十歳で摂政に就任して実務を代行するようになった。その直前には軍艦「香取」を用いてヨーロッパ諸国を歴訪している。父の血を引いてやや軟弱だった文仁親王も、摂政になって公務を果たすようにようになってからは、目に見えて自覚的になったと言われる。政府の元老たちは、国運の発展を次の天皇の治世に期待したのだった。
 大正十五年末に大正天皇が崩御すると、年号は昭和と改元され、文仁親王は即位して天皇となった。ここから日本の歴史上、神話時代を除いてもっとも長い治世の昭和時代が始まったのである。明治時代の日清戦争、日露戦争を経て世界の強国の一つとなった日本は、大正時代の短い安定期を経て、ふたたびアジアの一角で動き出していた。
 中国大陸の東北部では、日本軍部の主導によって満州事変が引き起こされ、短期間で軍事的な支配権を確立した日本は、満洲国の建国を宣言していた。その翌年に誕生した皇太子は、天皇によって建仁(たけひと)と名づけられた。

滝野川国民学校沼津会と「静浦疎開学園ものがたり」

 「滝野川国民学校沼津会」に出席してきました。「沼津会」とは、昭和19年(1944年)の7月から翌年の前半まで、沼津市獅子浜の本能寺で東京の学童疎開児のために開設されていた「静浦疎開学園」で生活を共にした仲間の集まりです。当時の5年生と4年生が参加して、最大時で80名ほどの男女共学でした。
 この疎開学園については、昭和60年に発行された「静浦疎開学園ものがたり」という、すぐれた記録文集があります。編集委員の中心には、推理作家の内田康夫氏がいました。当時の4年生で、私の1年下になります。その文集に寄せられた原稿の多くは、空腹や望郷などの悲しさはあるものの、総じては少年期の貴重な体験を懐かしむ記憶を綴ったものでした。内田氏はそれらを「社会的財産として未来に残す」と述べています。
 戦争による「強いられた親離れ」は、少年少女に忍耐を教え成長を促した一面はあったでしょう。共同生活への適応を学びながらも、家族の有難さを痛感させられる場でもありました。しかしそれは、決して繰り返してはならない歴史なのです。
 じつは私はこの集団疎開に最初の1ヵ月しか参加していません。体中に吹き出物ができるなどのトラブルがあって、親が治療を理由として帰宅させたのです。母親に連れられて寺の門を出るときの、うらやむ友人たちの刺すような視線を覚えています。その以後私が集団疎開に参加することはありませんでした。その結果として東京の空襲を、最初から最後まで経験することになったわけです。
 「静浦疎開学園ものがたり」の編集のとき、私は原稿の募集に応じませんでした。「沼津会」への参加も、比較的近年になるまで敬遠を続けていました。中途で逃亡したような後ろめたさがあったのだと思います。しかし近年はそんなこだわりも消え、今年は女子の幹事に電話で「いっしょに寝た仲でしょ」と言われました。たしかに本堂の大広間で、夜は枕を並べて寝たのでした。
 その沼津会ですが、今年は最後まで残った先生が車椅子での出席でした。参加者のうちの一人は会場に現れず、自宅と連絡した上でホテル内を探したところ、別な階のロビーで1時間以上も遅れて発見したハプニングがありました。内田康夫氏も今年は体調が万全でないようで、寄せられた手紙が披露されました。
 全員がすでに80代になっています。「最後の二人になるまで」を合言葉にはしていますが、今後は気候のよい春の季節に、会いたくなったら声をかけ合う、もっとゆるい形で続けようということで散会しました。配布資料は、全員の自宅電話番号表でした。

小説・昭和からの遺言(1)もう一つの地球

 ビッグバンで宇宙が生成されたとき、私たちの知っている物質とよく似ているが、構成する原子核と電子の電荷だけが反対の「反物質」も、同じ量だけ出来たと言われている。物質と反物質とが出会うと直ちに両方とも消滅するのだが、このときに消え残った物質があって今の宇宙が出来たというのが定説に近いようだ。
 ところがこの説には弱点があって、ビッグバン以前から存在した大量の物質の素材は何に由来するかがわからない。そしてもちろん、ビッグバンを引き起こした巨大エネルギーの由来もわからないという、二つの大きな謎が残ってしまうのだ。さらに最新の研究によっても、宇宙を構成する全質量の中で、説明可能な部分は4%に過ぎず、あとの大半は不明なダークマターだという説明を読んで唖然とした。
 それならば宇宙の反対側に、相似形で電荷だけが反対の「反宇宙」が出来ていると考えたらどうなのだろう。厳密に同量が同じタイミングで生成されたのだから、反宇宙の側でも同じ時間経過で変化が進んでいるはずである。反宇宙の中にも銀河系が出来て、その一隅に太陽系があり、その第三惑星が「地球」と呼ばれていることも、大いにあり得るのではないだろうか。
 まことに人間は、海岸にたたずんで海を眺めている小児よりも頼りない存在である。海の中のことも、その向こうにある別な大陸のことも、何も知らない。それでいて、拾った一つの貝殻からだけでも、一生かかって語るような夢物語をつむぎ出したくなることがある。もし人類が天文学を発展させなかったら、そもそも宇宙というものは存在したのだろうか。少なくとも人類は「ほかの星」とは無縁であったに違いない。
 だから宇宙の秘密の一端を知ったからには、反宇宙の地球にも日本という国があって、こちらの日本と酷似した歴史を歩んでいたとしても、そこには何の不思議もないのだ。とはいっても厳密には反宇宙の中でのことだから、正確には「反日本」という国があって、そこには「反日本人」が住んでいると言わなければならない。しかしそこはあまり堅苦しく考えなくてもいいのではなかろうか。
 この(ではなかった、あちらの)日本にも、混沌の中から国土が生まれたという神話がある。ビッグバンを説明するような部分は残念ながらないのだが、所詮は人間が言葉を持つようになってからの神話だから、記憶に残っていないのだろう。神話の最高神はアマテラスと呼ばれる太陽神である。そして地上を統治するために「天孫」を日本の地に降臨させた。その子孫が天皇になったと伝えられている。
 これから始まるのは、そんな「もう一つの地球」の物語である。

ブログ連歌(401)

7999 この星に かつて戦争 ありきとて
8000  歴史で学ぶ 人々のあれ (建世)
8001 核兵器 三原則と 廃絶で
8002  ノーベル平和賞 受賞した人もあり (獣医さん)
8003 食い逃げを 叱られもせぬ オバマかな (建世)
8003B 言うだけは 誰にも出来る まつりごと (みどり)
8004  力及ばず 任期(人気)もチェンジ (建世)
8005 話し合い 平行線だけ 確認し (建世)
8006  国民主権は 譲れぬ地軸 (みどり)
8007 辺野古では 投票日まで 粛々か (建世)
8008  原発も改憲も 「粛々」か (獣医さん)
8009 アメリカを 気にしてバスに 乗り遅れ
8010  ついて行きます 夜道の闇も (建世)
8011 日韓の 友好くずす 無能ぶり (みどり)
8012  世界の孤児に ひたすら走り (うたのすけ)
8013 粛々は 近ごろ嫌いな 二文字なり (うたのすけ) 
8014  平たく言えば 「黙れ下郎め」 (建世)
8015 粛々が おつむの中で 発酵し
8016  聞く耳持たぬ お人となるか (うたのすけ)
8017 地方選 どこ吹く風か 花散りぬ (みどり)
8018  底なし沼に よどむ花びら (建世)
8019 あの顔で 支持率上がる 世の不思議 (建世)
8020  やっとでてきた まともな司法 (獣医さん) 
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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