この年の十月、日本は分水嶺を越えた。近衛首相が対米交渉の継続を志向しながらも、陸軍を説得できずに内閣を投げ出したのである。後任を拝命したのが陸軍大臣の東条英機だった。主戦論者であった東条に責任を負わせることで、慎重な態度を引き出せるかもしれないと期待したとも言われるが、要は楽な道を選んだだけのことだった。
 じつはここに大きな選択肢があった。陸軍大将だった東久邇宮稔彦王を起用する皇族内閣の構想があり、近衛も東条も同意して当初は最有力候補だった。稔彦王は天皇の意を体して主戦論には批判的だった。しかも現役の大将であり皇族であれば、陸軍を抑えられる可能性があったのである。しかしこの案には内大臣の木戸幸一が強硬に反対した。失政があった場合には、責任が皇室に及ぶというのである。
 歴史にやり直しはきかないのだが、天皇はここで決断をすべきだった。国を亡ぼすかもしれない決定にも関与しないのでは、統治者としての責任を放棄したことになる。まして軍を動かすかどうかの決定については、憲法の上からも統帥権は天皇に属していたのである。閣議の決定は承認するのが慣例であったとしても、天皇の強い意思が示された場合、当時の日本でそれを全く無視することが可能だっただろうか。
 戦後の回想で、天皇は「自分だけが開戦に反対しても、政変が起きただろう」と語ったとされている。二・二六事件などが念頭にあったのだろうが、陸軍といえども天皇を弑逆や廃位してまで開戦に突き進んだとは考えられない。立憲君主制の制約を意識するとともに、天皇の気持の中にも「死中に活を求める」奇跡的な勝利への期待が、少しはあったのではなかろうか。天皇もまた楽な道を選んだ。
 しかしこの年の冬に向かって、ヨーロッパでは深刻な事態が進行していた。東部戦線のドイツ軍は、破竹の勢いでソ連領内に占領地域を拡大し、モスクワの陥落も時間の問題と思われていたのだが、その進撃がモスクワの手前でも、北部のスターリングラード(レニングラードの当時の名称)でも、停止したのである。ドイツは間もなくソ連に完勝して、ドイツのヨーロッパにおける覇権が長期にわたって安定するという前提が崩れるきざしだった。ドイツがヨーロッパで勝ち切れない以上は、三国同盟は崩壊する。
 日米の開戦があと一ヶ月、いやあと二週間遅れていれば、天運は日本を救ったかもしれない。日本がアメリカと戦わず、ドイツの戦争をドイツに任せた場合の日本の利益は、はかり知れないほど大きい。アメリカはいずれは理由をつけてドイツとの戦争に参加しただろう。日本はアメリカに「戦わない」という恩恵を与えるだけで、かなりの妥協を引き出せる可能性があった。そして日本海軍は無傷のままで太平洋を支配していられたのだ。